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『語学漫歩』について

『語学漫歩』総目録        表紙の言葉


この小雑誌の概要と第1号の表紙画像については「古書」のコーナー(→こちら)を参照されたい。ここでは竹越孝氏のエッセー「『語学漫歩』のこと」(『TONGXUE』32号、2006年秋)より一部分を引用して、解説に代えることにする。

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 かつて、東京都立大学の中文研究室で『語学漫歩』という小さな雑誌が刊行されていた。B4のコピーを二つに折りホッチキスで留めただけのもので、定価は100円。創刊は1987年の 10月で、編集発行は研究室内の「語学懇談会」となっているが、実質的には当時院生だった中村雅之・吉池孝一両氏の手で発刊されたものである。第1号の「発刊の辞」には次のように記されている。

   この雑文集は中国語学にたずさわる人のための「考えるヒント」となることを
   意図したものである。したがってその収むるところは単に小論文にとどまらず、
   種々のテキスト、翻訳、文献紹介、他人の話の受け売りなど如何なる制限も
   ない。執筆に際しては一人B5一枚(原稿用紙約三枚)以内を基本とするが、
   本人のつよい希望があれば二枚以上のものも拒否しない。毎月一回の発行
   予定。諸兄の投稿を乞う。

 右の言葉通り、最初の1年ほどはほぼ月刊のペースで出ているが、その後は季刊になったり年刊になったり突刊(突然出るから)になったりした。手元にあるものによれば、2003年8月の第34号まで続いたようである。内容は研究ノートやエッセイに類するものが主だが、本格的な論文や長期にわたる連載も少なくない。初期には、教員だった慶谷壽信先生や讃井唯允先生も執筆者に名を連ねている。

 中村・吉池両氏が就職されたのを機に、編集長の役割は工藤早恵・中川裕三の二人に受け継がれ、この両氏が学籍を抜く時期になると、次は牧野美奈子に託されたが、ほどなくして彼女が海外に行くことになったので、同期の僕がそれを引き継いだ。僕が関わったのは94年 10月の第19号から96年11月の第28号までで、ちょうど博士課程の在学期間に重なる。

 もともと文学専攻で、元曲で修論を書いた僕が『語学漫歩』に関わるようになったのはほとんど偶然のようなものだが、引き受けてからは自分でも意外なほどこの小雑誌に入れ込み、月刊とはいかないまでも結構なハイペースで刊行を続けたように思う。考えてみると、その頃僕はこのまま文学を続けていくべきかどうかで悩んでいた。それには必ずしも積極的な理由があったからではなく、修士の二年間、当時慶応大学におられた金文京先生の授業に出ていて、自分が金先生のような論文を書くのは一生かかっても無理だと悟ったからである。だから、博士に入って以降は、文学から逃れたい、語学の側に活路を見出したいという思いが常に頭を離れなかった。文学の先生達から「お前の本業はどうした」と揶揄されながらも、半ば意地になって『語学漫歩』を出し続けていたような気がする。

 編集長といってもその役割は実に簡単なもので、執筆者を見つけて原稿の催促をすることと、表紙に引く古人の言葉を捜してくることだけである。僕は当時あまり知られていなかった白話文献を紹介する連載を持っていたから、いつでも原稿のストックはあったし、また駒込の東洋文庫で図書整理のアルバイトをしていたから、表紙に使えそうな言葉を見つけるのもさほど難しくはなかった。誰かの本からの孫引きだったと思うが、明・張潮『幽夢影』の「経伝宜独坐読、史鑑宜与友共読」を載せた時には、学生室の机に積んでおいた残部の表紙に誰かが「誠哉斯言!」と書き込んでいて、してやったりの気分だった。

 いつの頃だったか、酒の席で『語学漫歩』にキャッチフレーズを付けようと提案したことがあり、その時に口をついて出たのが「目指せ『開篇』!」というものだった。冗談めかしてはいたが、大学院の先輩でもある古屋昭弘先生が主宰しておられた『開篇』は、僕にとって憧れの雑誌だった。

 その古屋先生に不愉快な思いをさせてしまったことが一度ある。僕が『語学漫歩』に書いた小稿を発展させる形で論文をまとめ、古屋先生にお見せした際、参考文献に『語学漫歩』が抜けていたと言われたので、あれはただの同人誌だからはずしたんですと答えたら、いつも温厚な先生にしては珍しく強い口調で、雑誌は雑誌でしょう、プライオリティがあるでしょうと仰った。『語学漫歩』と同じく同人雑誌から始めた『開篇』を、世界的な研究誌にまで育て上げた古屋先生ならではの言葉だったと思っている。

 博士の三年になった頃、ある後輩に『語学漫歩』の執筆を促すと、もっとちゃんとした雑誌に書きたいから、という理由で断られてしまった。その頃から研究室も従来のような学問を楽しむ雰囲気ではなくなり、何となくギスギスした業績主義に変わってきた気がする。もちろん僕だって他人のことは言えない。

 その翌年、僕は鹿児島に就職して東京を離れ、連載にケリをつけるために一度原稿を送っただけで、それきり『語学漫歩』とも都立大とも疎遠になってしまった。34号までは送ってもらったが、その後どうなったのかは知らない。『語学漫歩』が都立大中文の名称とともに姿を消すことになるのは、やはり寂しい。
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現在「古代文字資料館」から発行されている小雑誌『KOTONOHA』のアナログ版(つまり輪転機による簡易印刷バージョン)を見たことのある人は、その表紙がかつての『語学漫歩』とそっくり同じであることに気付くかも知れない。執筆者にとっては頭の整理、備忘録、苦悩の末の習作であり、読者にとっては暇つぶし、発見、そして刺激となることを目指す、その精神が『語学漫歩』から『KOTONOHA』に受け継がれたということである。