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ギリシア旅行(その2)
 今回はアテネを離れ、古代ギリシアの宗教の中心地として栄えたデルフィの遺跡と奇岩で有名なメテオラを訪れる1泊2日のオプショナルツアーに参加した時の写真をお楽しみ下さい。また、旅行中に食べたおいしいギリシア料理もご紹介します。


カランバカ(メテオラのふもとの町)

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[2007.5.5 寺澤知美]

ギリシア旅行(その1)
 2007年3月、憧れのギリシアに行ってきました。旅行の写真を2回に分けてお届けします。3月のギリシアはオフシーズンで、天候が安定しない日が多いのですが、そのぶん観光客が少なく、遺跡をゆっくりみてまわるにはぴったりです。今回は、アテネ市内の観光地を中心に、遺跡と文字に関する写真をご紹介したいと思います。


アテネ市内

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[2007.4.7 寺澤知美]

ペルシャ文明展
 愛知県美術館でペルシャの秘宝の数々が展示されている。期間は10月13日から12月10日まで。 文字資料としてはアケメネス朝ペルシャ時代の楔形文字資料がある。ダレイオス1世の銀製定礎 碑文は見ものである。その他、ササン朝ペルシャ時代の銀貨の銘文(パフレビ文字)がある。何れ も、残念ながら文字部分の解説がない。もっとも、後者の展示法に工夫が凝らされていた。銀貨の 一枚一枚をガラス板(或はアクリル板)で挟み込み、触書のように押し立ててある。両面が良く見え るようにとの工夫であろう。感心したのは、巨大な写真を併置してあるところである。
 その他紀元前5千年から前4千年の土器がすばらしい。その文様はアンダーソン土器の文様を 彷彿とさせる。





[2006.11.17吉池孝一]

ラオス (その2)
 今回はラオスで食べたおいしい物のご紹介をします。「ラオス料理」は野菜と肉のバランスがよい料理が多く、麺料理にも野菜がたっぷり入っています。


(ビエンチャンのレストラン)

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[2006.9.19 山本恭子]

対音対訳資料研究会のこと
 対音対訳資料研究会は、塞外言語と漢語の接触によって生じた資料の研究を目指すものであった。第1回(1994年2月22-23日、富山)より第19回(2003年3月8-9日、金沢)まで足掛け10年に渡り行なわれた。開催場所は雪降る富山の小さな民家に始まり、金沢の私塾で幕を閉じた。小さな、しかし志溢れる研究会であった。発表題目は以下のとおり。題目の欠けているものや不正確なものについては漸次補訂するつもりである。
 なお、その後この研究会の志は研究小冊子『KOTONOHA』の発行となって受け継がれ今に至っている。

第1回 1994年2月22-23日 富山の民家にて
 吉池孝一 (1)『蒙古字韻』収録字の配列について
       (2)パスパ字百家姓四伝本の比較
 中村雅之 満洲文字の漢字音表記(母音io/ioiなど)について
 二日目は『清文啓蒙』の講読。

第2回 1994年9月16日 東京都立大学 
 中村雅之 清書千字文の漢字音
 吉池孝一 (1)小沢重男『元朝秘史』(岩波新書)の書評(特にパスパ字原典説について)
       (2)訪英の報告(蒙古字韻の未知の義注および大英図書館蔵満洲語文献について)
 竹越孝  子弟書の押韻について
 竹越孝/更科慎一 都立大所蔵満蒙文献目録

第3回 1995年3月20-21日 富山大学
 竹越孝  漢児言語資料における特殊語彙項目一覧
 更科慎一 河州話研究
 吉池孝一 (1)元朝秘史に於ける山名「不児罕」の分布
       (2)華夷訳語(甲種本)音訳漢字中の或種の避諱について
 中村雅之 (1)monγol(モンゴル)の漢字転写「忙(中)豁(勒)」をめぐって
       (2)パスパ字小考
 資料の配布のみ:孝経直解などのコピー(竹越)。モスタールト『華夷訳語』に付されたラケヴィルツ氏序文の訳(中村)。レジュメ「中期蒙古語の漢字音訳と蒙古字韻総括変化之図」と「書史会要の畏吾児字」(吉池)。
 二日目は元朝秘史の講読。

第4回 1995年9月17日 東京都立大学
 吉池孝一 (1)中期蒙古語の漢字音訳と蒙古字韻総括変化之図
       (2)書史会要のウイグル文字・パスパ文字の対応表について
 発表後、ウイグル文字資料の勉強会、判読の練習。

第5回 1995年12月23-24日 拓殖大学
 吉池孝一 蒙古字韻中の宝字のパスパ字表記について
 二日目はパスパ文字モンゴル語碑文(ブヤントゥ・ハーン)の講読。

第6回 1996年3月7-8日 富山大学
 中村雅之 (1)アルタン・トプチ覚え書き
       (2)ラケヴィルツの漢蒙対訳孝経研究の序文の日本語訳
       (3)先古典期蒙古文語に見える漢語語彙の表記
 吉池孝一 漢蒙対訳孝経ウイグル字字形表
 更科慎一 金周原<満洲語母音体系の変遷について>の日本語訳
 竹越孝  (1)蒙文直訳体・漢児言語の特殊語彙総表ならびに用例集
       (2)孝経直解・御注孝経・蒙文孝経対照テキスト(本文篇)
 二日目は漢蒙対訳孝経の講読。

第7回 1996年9月22-23日 東京都立大学
 一日目:中止【嵐のため解錠者来られず】
 二日目:
 竹越孝  (1)御注孝経・孝経直解対照テキスト 〔付〕『孝経直解』と『御注孝経』
       (2)『寧古塔紀略』簡論
       (3)資料配布:直説大学要略の影印および翻字テキスト
 吉池孝一 ホロンバイルのオイラト系蒙古語方言について【「オイラト」は後に「オイロト」に修正】

第8回 1996年12月25-26日 拓殖大学
 吉池孝一 ホロンバイルのオイロト系蒙古語方言の音韻(暫定)
 竹越孝  東洋文庫所蔵拓本目録(元代)
 遠藤光暁 波漢対音資料再論
 中村雅之 (1)「麼道(という)」の語源について
       (2)直訳体命令文の定型化
 二日目:  吉池孝一 蒙文・満文『孝経』の依拠資料

第9回 1997年3月7-8日 富山大学
 更科慎一 東郷語音形論初探
 竹越孝  元朝秘史傍訳における<有>の対応蒙古語(資料)
 中村雅之 満洲文字音写「三国志演義」について
 吉池孝一 「『孝経』の蒙古語訳に関する若干の問題(ジョーナスト)」について
 二日目は関係論文の訳文を作り紹介した。
 吉池孝一 中華人民共和国に於ける『蒙古秘史』の研究(デー・トゥムルトゴー、エル・マンラヂャブ)
 竹越孝  『元朝秘史』のba-ta-c^i-qanという名前の来源(ジェー・トモルツェレン)
 中村雅之 Harvard-Yenching-Institute出版アルタン・トプチの序文(モスタールト)

第10回 1997年9月20-21日 拓殖大学
 更科慎一 Tuglukzhan Talipov 『ウイグル語音声学(歴史発展の概説)』(1987年、露文)について
 中村雅之 Gabain『古代チュルク語文法』(1950年、独文)について
 長山博之 現代ハルハ方言の"г"と明代蒙古語
 福盛貴弘 現代トルコ語の母音分析―個人語レベルでの異音の析出―
 竹越孝  寧古塔紀略語彙対照表・増補版
 吉池孝一 満漢対音の一仏典資料(東洋文庫所蔵写本)について
 レジュメのみ配布:竹越氏「四書字解紹介」。
 二日目はウイグル文書の講読。

第11回 1997年12月22-23日 鹿児島大学
 中村雅之 『新刻清書全集』所収「満漢切要雑言」について
 吉池孝一 欽定金国語解の音訳漢字
 竹越孝  『四書字解』翻字
 二日目は満洲語関連の論文紹介と批評:
 中村雅之 『満語研究』の1995年1期の清格爾泰「満文読音和転写法」と1995年2期の李勤璞「遼陽≪大金喇嘛法師宝記≫碑文研究」を紹介
 竹越孝  『満語研究』の1990年1期の趙志忠「清代満族曲芸子弟書的語言特点」と1992年1期の烏日根「満語借用漢語的方式和方法」を紹介
 吉池孝一 津曲敏郎「中国・ロシアのツングース諸語」(『言語研究』110、1996年)を紹介

第12回 1998年9月13-14日 愛知県立大学
 竹越孝  高麗史所載の太宗白話聖旨について
 吉池孝一 拓殖大学図書館蔵満洲語及び朝鮮語古文献の紹介
 福盛貴弘 捷解新語について
 鵜殿倫次 華語類抄について
 中村雅之 漢児言語とハングル表記琉球語の対訳語彙集--『海東諸国記』附載「語音翻訳」(1501年)
 更科慎一 華音撮要について
 二日目:
 中村雅之 四声通解に引く蒙古韻略
 更科慎一 モンゴル語の弱化音節に於ける声の有無について
 福盛貴弘 トルコ語のアクセントに関する実験音声学研究
 竹越孝  『今文孝経直解』考
 吉池孝一 『書史会要』のウイグル文字表について

第13回 1999年3月21-22日 富山大学
 中村雅之 ウイグル文字文献概説
 吉池孝一 華夷訳語(乙種)蒙古語の語頭のh-について
 福盛貴弘 トルコ語における/k,q,g,γ/に対する仮説
 竹越孝  ウイグル契約文書に見られる漢文について
 更科慎一 「回回館訳語」及び「畏兀児館訳語」の音訳漢字の声調
 二日目:
 吉池孝一 ウイグル文書中のパスパ字漢語の印章
 竹越孝  パスパ字漢語資料『訳語』について
 中村雅之 契丹人の漢語
 福盛貴弘 弁別素性の脳内認知

第14回 1999年9月18-19日 東京都立大学
 更科慎一 契丹文字の資料
 竹越孝  東洋文庫所蔵の契丹文字拓について
 中村雅之 長田夏樹氏の契丹小字翻字法(特に母音表記)について
 吉池孝一 同音異形の契丹小字について
 二日目:
 吉池孝一 パスパ文字の翻字について
 福盛貴弘 モーラとリズムに関する一考察
 中村雅之 ウイグル文字漢語の転写について
 竹越孝  『訳語』のパスパ字漢語について
 更科慎一 『高昌館訳語』音訳漢字における声調選択の傾向

第15回 2000年3月18-19日 東京都立大学
 更科慎一 乙種本女真館訳語音訳漢字の研究方法
 竹越孝  子弟書『尋夫曲』における満洲語句をめぐって
 中村雅之 ツングース諸語の基礎語彙対照表
 長山博之 トワ語(東部チュルク語)の音韻体系について
 福盛貴弘 アルタイ言語学における電子情報検索(1)-女真文字おける調査報告-
 吉池孝一 金代と明代の女真文字資料--音節末の鼻音子音
 二日目:
 吉池孝一 契丹小字正書法の変遷
 長山博之 現代モンゴルにおけるラマ教チベット語教典読誦音について
 中村雅之 モンゴル語のq/γについて
 竹越孝  蒙漢対訳文献における<有>の対応蒙古語
 更科慎一 高昌館訳語音訳漢字における平、去、入声

第16回 2000年9月15-16日 富山大学
 吉池孝一 ウイグル文書のパスパ文字チュルク語印について
 中村雅之 蒙古語[-l]の音訳漢字
 福盛貴弘 トルコ語における呼気流量計測による生理音声学的考察(1)
 竹越孝  『旧本老乞大』における“了”と“也”をめぐって
 二日目:
 吉池孝一 契丹小字正書法の変遷-漢語を表す文字について-
 中村雅之 漢語専用のパスパ字について
 福盛貴弘 実験音声学の方法(1)
 竹越孝  元明漢語における“有”の機能

第17回 2001年3月24-25日 東京都立大学
 吉池孝一 貨幣文字考-西夏文字-
 竹越孝  ウイグル文契約文書に見られる漢文の語彙と語法
 中村雅之 アラビア文字トルコ語2種【うち1種は後にアラビア語であることが判明】
 福盛貴弘 ウイグル文書における印章の解読案-ブラーフミー文字による推定-
 更科慎一 「華夷訳語」音訳漢字の分布図
 二日目はオスマントルコ語講読訓練および:
 吉池孝一 儒学免税役聖旨碑と蒙古字韻
 竹越孝  『元朝秘史』傍訳における“有”の分布

第18回 2002年3月24日 富山大学
 福盛貴弘 文字の分類案-一般文字学の構築を目指して-
 中村雅之 音声表記としての文字
 吉池孝一 パスパ字私印について

第19回 2003年3月8-9日 金沢「ことのは塾」
 中村雅之 14世紀漢字音訳資料に関する覚書
 福盛貴弘 アルタイ言語学における電子情報検索(2)-マニ文字における結果から-
 吉池孝一 法華経序品第1折より第3折までの音訳西夏文字
 二日目:
 中村雅之 栗林均(2002)の調査結果より-華夷訳語の成立過程など-
 吉池孝一 パスパ文字チベット語資料
 福盛貴弘 文字の分類案の適用

[2006.9.19 吉池孝一/中村雅之]

ラオス (その1)
 2006年3月、ラオスに行ってきました。お隣のベトナム、タイなどは訪れた方も多いと思いますが、ラオスは日本からの観光客はまだ少ないようでした。ほんの一週間ほどの滞在でしたが、暑さはさておき、たいへん心なごむ国でした。
 今回は、ラオスとラオスで見かけた文字のいくつかをご紹介したいと思います。


(ルアンパバーン「ワット・シェントーン」)

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[2006.7.10 山本恭子]

多少のこと
 高校生の昔、漢文の授業で「多少のことは論ずる勿れ」と教わった記憶がある。これは別に人生訓ではない。訓読の際、返って読むべき(つまり返り点が付く)もの、ということである。「論」は動詞の代表ということだったかと思う。「勿」は否定辞の代表ということであろう。そして注意を要するのが「多」と「少」であった。「人生多苦難(人生、苦難多し)」のように、返って読むことを忘れないように、という注意として、漢文の先生は「多少のことは論ずる勿れ」と口癖のように繰り返していた。どうやら「多」と「少」は「大・小」や「高・低」のような他の形容詞とは違う性質をもっているらしいと感じたものだった。

 それから数年経って、現代中国語を習うことになった。そこでも「多」と「少」は他の形容詞とは違います、と説明された。一般の形容詞が名詞を修飾する際、例えば「古い家」ならば「旧房子」か「很旧的房子」となるわけだが、「たくさんの家」は「很多房子」であって、「多房子」とは言えないし、「很多的房子」も(誤りではないとしても)イマイチな表現だという。

 思うに、現代中国語の「很多」は「很+形容詞」なのではなくて、「たくさんの」という意味の単独の語なのであろう。英語の「quantifier」にあたるものである。「quantifier」は英和辞書では「数量詞」と訳されたりするが、中国語で「数量詞」は別の意味になり具合が悪いので、ここでは仮に「不定量詞」と訳しておく。英語の不定量詞には「many/some」などがある。中国語の場合も「很多」「不少」「許多」「一点儿」「一些」などを不定量詞としてよいのではないか。このような概念を導入すると、初級の文法でも少しは説明が楽になるように思う。厳密にはこれらの語はそれぞれ文法的な振る舞いに若干の差異はあるが、名詞の前で「的」を必要とせず、動詞の後に補語として使えるなど共通点が多い。

 「很長」には、「很+形容詞」としての用法と、不定量詞の用法があるようだ。「長い道」は「很長的路」だが、「長い時間」は「很長時間」である。後者が不定量詞ということになる。「很久」になると、「很久時間/很久的時間」の両方ともよくお目にかかるから、「很+形容詞」と不定量詞のどちらの解釈も可能ということになる。「不久時間/不久的時間」も両方可能であるが、「不久的時間」の方が頻度は高い。「不短時間/不短的時間」も同様で「不短的時間」の方がやや優勢。時間に関する表現に不定量詞がしばしば用いられるのは、当然のことながら、「時間」が量的にしか認識できないからである。道路には長さ、広さ、歩きやすさなど、種々の属性があるが、時間は認識できる属性に乏しく、量的に捉えるのが自然である。

 「人生多苦難(人生、苦難多し)」は、現代語だと「人生有很多困難」ということになろうか。文言文法では「多」はどのように解釈するのだろう。 [2006.7.1 中村雅之]

『金と銀のさいころ』
 服部四郎の単行本や論文は可能な限り集めてきたが,なかなか入手できないものもあって,もうこの十年くらいは新しいコレクションは増えていなかった。ところが,ふとしたことで世界昔ばなし文庫[アルタイ系諸族]の『金と銀のさいころ』を入手し,それが今日届いた。

 見てみると,これが一見してたいへん愛着の湧く作りの本である。子供の頃,家にあった戦前の昔話の本を愛読していたが,その紙質といい活字の具合といい,そうした本と同じ古朴な雰囲気をかもし出している。子供むけの訳書なので,平明な文体を使っているが,アルタイ言語学への手ほどきなども書いてあるのは服部四郎ならではである。また,昔話のプロットの類型についての言及もある。

 たいへん保存状態がいい本で,市販されたものではないように見える。1980年に『服部四郎著作論文目録』が出たときに,著者の手元にあった美本の『元朝秘史の蒙古語を表はす漢字の研究』『蒙古字入門』『蒙古文鈔』をそれと共に分けるという知らせが月刊『言語』に出て,たしか北村甫先生に手紙を書いて,いただいたことがあったが,この本もそれと同じ口のものかとも想像される。(『元朝秘史の蒙古語を表はす漢字の研究』は私が修士課程のときに最も愛読した本の一つで,それが入手できるというのもうれしかったが,後に中国のお客さんを案内して東京言語研究所に服部先生のところにお伺いしたときにサインしてもらったこともある。)

 むかし北京に留学していた頃,中国の書物の断定的な物言い・思考方法に辟易し,大学図書館にあった戦前の日本の書物のうち服部四郎の『蒙古とその言語』を読み,その精密な表現に癒される思いをしたことがあった。そこに,当地の人が鮮やかに手鼻をかむので,それが出来るようになるよう練習をした,というくだりがあり,そこまでその民族の言語・生活に肉薄しようとする著者の気概に大いに感銘を受けたものである。

 服部四郎の旧蔵書が島根大学に入ったという話は聞いていたが,いまインターネットで検索してみると,「服部四郎ウラ ル・アルタイ文庫」という形でデータベースも公開されていることが分かった。しかも,生前の排架の原型をできるだけ崩さないように心がけているというではないか。松江は以前家族で遊びに行ったことがあり,よい思い出になっているが,また機会があったら今度は旧蔵書を見に行きたくなった。

 『金と銀のさいころ』に収められているお話は自分で採録したものも他の本から訳出したものもあると書いてある。ちょっと見たらなかなか面白そうなので,ここしばらくは夜寝る前の読み物として楽しめそうだ。 [2006.4.26 遠藤光暁]

北京故宮博物院
本年3月、中国旅行にいき北京故宮博物院を参観した。 満洲文字にかかわる卒業論文を書いたためか、この文字が 記された文物に目がとまった。そのうち三種を写真で紹介する。

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[2006.4.11 日比野 高宏]

土器などの思い出(物と学)
故郷長野県のあちらこちらに古代の遺跡があった。たしか、小学校の四年生か五年生のとき、地元の安源寺という所から弥生時代の土器が発見された。安源寺は私の家から歩いて1時間ほどのところにあった。

友人と連れだって、園芸用の小さなスコップをもち、イモでも掘るようなつもりで出かけた。正式な調査は済んでいたけれど、今から思えば、あるいは盗掘ということになるのかもしれない。小さな盗掘者たちは意気盛んであった。しかし半日掘ってもカケラばかり。さらに数時間の作業ののち、ほぼ完全な姿の壺を土の中に見つけた。言葉にできない衝撃というものは確かにあるようで、今でもそのときの光景が鮮やかに蘇える。

それから十数年の後、中国に留学した。そのおり、前漢の「五銖銭」という貨幣を手にとって見た。「Ⅹ」(実際の字形はいささか異なる)という古代の文字が青さびの塊の向こうに鋳込まれていた。二千年ほど前、漢の武帝時代のものであろうか。「Ⅹ」が漢字の「五」に当たることは書物をとおして知っていた。手のひらに載せ、触れてみて、それで始めて、「Ⅹ」と「五」は確かにわたしの中でつながった。[2006.3.1 吉池孝一]

絵を描くこと
 自分がこれまで受けた講義の中で印象に残っているものはいくつかあるが、中でもとりわけ忘れがたいのは、2000年8月に行われた言語学夏期講座(日本言語学会主催)の際に聴いた窪薗晴夫先生の「音韻論」である。僕は当時すでに就職していたが、もともと文学を専攻していたこともあって、言語学そのものに対する知識が全く欠けていた。専門の授業を行うたびにそのことが痛感されたので、この際その世界を覗いてみようと思い立ったわけである。言語学・各国語学を専攻する学部生や院生が対象とのことだったが、最初の日妻とともに受付に行ってみると、当時都立大の助手をしていた下地早智子さんや遠藤光暁先生も参加されていたので驚いた。

 音韻論の講義は、窪薗先生の書かれた概説(岩波講座『言語の科学』第二巻『音声』の第2章「音韻論」)を主なテキストとして行われ、一般化、有標と無標、最小対、相補分布といった言語学の基礎的概念から、音声素性、音節、モーラ、フットといった音韻論の理論的概念、さらには制約理論、最適性理論といった当時最新の音韻理論までが平易な語り口で解説された。これらの概念はそれまで名称を知っているだけで、全く実感を伴っていなかったから、馴染み深い日本語と英語を素材にして解説されるととてもよく理解でき、頭の中に入った。正直言って、言葉を腹の底から不思議だと感じ、言語学を腹の底から面白いと思ったのはこの時が初めてである。毎日の講義の後で、妻や下地さんを相手に「本日の成果」を熱っぽく語っていたことが思い出される。

 とりわけ心に残ったのは先生が講義の合間に語られた教訓風の雑談である。もともと授業の中で学生に向かって人生訓を垂れる教師など大嫌いだったのだが、先生の朴訥な話しぶりや内容の深みに魅了されて、三日目あたりからこうした事柄もせっせとメモを取るようになっていた。いま、当時のメモを読み返してみると、その中には「画商になるな、絵描きになれ」という走り書きがある。これはおおよそ次のような話だった:

 言語学者の仕事は、絵画に例えれば、絵を描くことであろう。美術評論家のように他人が描いた絵を批評したり、画商のように絵を売買したりすることは絵描きの仕事ではない。絵描きが自分の美的欲求に従ってひたすら絵を描くように、言語学者は言葉に対する知的欲求を満たすために、ひたすら言語の構造や機能を研究する。最終的な目的・目標は分野ごとに異なっていても、その知的欲求(好奇心)にまかせて言葉の問題に取り組めばよい。そしてその中から何か発見したときは、知的本能に従って衝動的に論文を書けばよい。(窪薗晴夫「音声研究の課題と展望」、特別シンポジウム「英語学・言語学の今後の課題―21世紀への展望」予稿、日本英語学会 Conference Handbook 18, 2000)

 この話を聞いた時には本当に胸が熱くなる思いで、走り書きのように、決して画商になるまい、絵描きになろうと誓ったものである。尻馬に乗って一言付け加えれば、描いた絵が上手いか下手か、売れるか否かは大した問題ではない。描こうとする情熱を持ち続けることが重要なのだと思う。幸いなことに、今の僕の周りには自分の頭で考え、自分の絵を描こうとしている師友が沢山いる。頭を使わない単純作業が得意で、自分で考えることが苦手な僕にとって、この環境は何よりも貴重なものである。いつか自分の絵を描くことができるようになりたいと、心から思う。[竹越孝 2006.1.9]

写真展―シルクロードの貨幣と文字
11月3,4,5日の三日間、県大学園祭があり、写真の展示をおこなった。 紀元前2世紀から後14世紀まで、シルクロードの貨幣の拡大写真を年代順にならべてみた。 参観者の方から「貨幣が発行され地名が書いてあるけれども、場所がドコにあるのかよく分かりません」とのご指摘を頂いた。 この手の展示には、地図が必要と痛感した次第です。



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[2005.11.21 シルクロード研究会]

同音字表を作る~青海滞在紀③~
 今回の青海行は共和県の方言調査をすることが主目的で、通常の方言調査は漢字音とともに語彙と文法の調査がセットになっている。もともと参加を希望したのは「生きた漢児言語」とでも言うべき西北方言の文法に関心があったからなのだが、方言調査自体初めてで時間も少ないのに語彙や文法の調査なんて無謀だ、という妻の意見に従って、今回は字音調査に専念させてもらうことにした。

 字音調査の主な仕事はインフォーマントに『方言調査字表』の漢字3700字ほどを方言音で読んでもらい、それをIPAで記述するとともに、同音字表を作ることである。『字表』の最初にある声・韻・調の予備調査を終えると、それを基に縦軸に声母、横軸に声調を配した同音字表のフォームを作り、それを予想される韻母の数だけコピーする。そして、調査と同音字表の作成を同時進行で行いつつ、最後に表をインフォーマントに確認してもらって終了、ということになる。

 同音字表を作るのはとても大変だった。午前3時間、午後3時間の調査で緊張を強いられている上に、終わったら終わったで夕食にはビールなども出るのでつい飲んでしまう。普段は酒を飲んだ後で勉強することなど考えられないので、働かない頭をかかえつつ連日夜遅くまで表に漢字を書き込んでいくのは本当に疲れる。昔から体力だけには自信があったのだが、本を読んだりパソコンに向かったりするのとは全く異なる体力と集中力が必要とされることを痛感した。

 同音字表を作る際に注意しなければならないことは二つある。一つは先行研究に引きずられないことで、そこに近い地点の方言に関する記述があると(今回の場合は『西寧話音档』[上海教育出版社、1997年]でテープもついているので、出発前にだいぶ聞いた)、それが先入観となって生の観察に影響を及ぼしてしまうことがよくある。もう一つはあやふやな場合はなるべく一つにまとめておくことで、遠藤先生によると、本来同音でない字を一つの表にまとめてしまった時には、確認の際に違うと指摘されれば表を分けることができるが、本来同音の字が複数の表に分散していると、確認の際に見過ごすことが多いので、この方が罪が重いのだそうだ。

 調査の最終日になってやっとインフォーマントに同音字表を確認してもらえる段階になったが、これとこれは同音じゃない、この字の声調はここだ等々、当然ながら続々と誤りを指摘される。お昼までに予定の三分の一も終わらなかったので、果たして帰れるんだろうかと不安になり、食事も喉を通らないような有様だった。ただ、午後になってぐんと確認のスピードが上がったので、何とか所期の目的は果たすことができ、目の前の霧が晴れたような気分だった。夕食の時に同行の皆さんから、昼までと表情が全然違うと言われて嬉しいやら情けないやら。

 さて、まがりなりにも方言調査をやった以上はその報告をまとめなければならない。遠藤先生の話では、調査報告は鮮度が命で、他の分野のように寝かせておいた分考えが熟成されるということはありえないので、調査から1年以上経ったら論文にはならないものと考えたほうがいいとのこと。全くその通りだ。

 帰ってきてからの仕事は中古音との対応をまとめることが主となるが、この方面も僕は素人なので勉強会と称して中村さんに指南役をお願いした(我ながらなんと恵まれた環境だろう!)。中村さんによると、『字表』から記述した音形だけを抜き出したカードを作ると対応関係がわかりやすくなるとのことで、確かに自分で80枚ほどのカードを作ってみると飛躍的に能率が上がった。ただ、まとめの段階に入ると調査を終えた時の爽快感と安堵感は跡形もなく消え去り、残るのは悩みと後悔ばかりである。というのも、ある程度対応が見えてくると、例外の存在が気になり出すからで、この字は本当にこう読んだのだろうか、インフォーマントの誤解、あるいは自分の記述ミスではないか、書き換えるわけにはいかないし、もう一度確認したいけど後の祭り…といった葛藤は、今もって続いている。

 方言調査は精神的にも肉体的にもタフでなければできない、というのが今回の調査を終えた初心者の感想である。ただ、無限に存在する音声の中から確かな規則性を見出し、自らの力で音韻体系を組み立てることには、調査のつらさを補って余りある充実感と喜びがある。
[竹越孝 2005.11.12]

「息を吸いながら出す音」に寄せて

 竹越さんの「青海滞在記」①②を楽しく読みました。

 「息を吸いながら出す音」については服部四郎『音声学』2.2.1.に日本語・モンゴル語・英語・ドイツ語・フランス語などの実例が出ています(岩波全書版,20-21頁,1951年;カセットテープ付版,16頁,1984年)。

 私はこの難解な本を1984年の留学中に杭州で方言調査をしながら読み進んでいったのですが,実地の体験をしながら基本的文献を読むというクセはこのときつきました。余談ながら最近では,バンコクでタイ語を習いながらLi Fang-kuei, A Handbook of Comparative Taiを読んだり,ヤンゴンでビルマ語を習いながらBenedict, Sino-Tibetan: A Conspectusのチベットビルマ語の部分を読んだりしていますが,今度はそのカレン語の部分を読むために再度ミャンマーに行ってカレン語を習いたいと思ったりもしています。

 いま見てみると,同書の記述のところで「日本人が丁寧にお辞儀をしたあとに吸気で[s:]と発音する」という部分にクエスチョンマークがついており,その頃はまだ二十代半ばだったのでそういう実例を経験したことがなかったのですが,就職した後,事務の人や同僚の偉い先生がすれちがいざまに挨拶のようにして吸気で「スーーーー」と発音しうやうやしさを表すのに接して,ようやく合点がいったものでした。

 その後,パリに滞在していた頃,あいずちとしてouiというのを吸気で発音するのを耳にして奇異に感じました。

 どの言語でも吸気はあいずちを打つのによく使われているような傾向があるように思われますが,普通の呼気で大きな声であいずちを打つと,相手の話の腰を折ったり,ぶしつけな感じになるからでしょうか。ただし,共和のアムドチベット語の場合,吸気で発音することが一番多いのはやはりあいずちのようでしたが,それ以外のやや長い発話でも吸気で言ってもいいようでした。フランス人にしろアムドチベット人にしろ,吸気で言うとどんなニュアンスを帯びるのか訊ねればその人その人の感覚を語ってくれるはずなので,もっと訊いてみるべきでした。

 調査というのは後になってから「これを確認しておけばよかった…」とほぞをかむものですね。もっともそれが又訪れてみようという原動力になるのでしょうけれども。
[遠藤光暁 2005.10.8]

研究序説?
研究書のタイトルとして「○○学序説」とか「○○研究序説」というのをしばしば目にする。この場合の「序説」はおそらく、本格的な論述ではなく、第1段階の研究であるというような謙遜の意を含むものかと思われる。序論のような論説というほどの意味合いであろうか。しかし、個人的には、このような表現にはいささか違和感を感じる。あたかも「輿論」の代用字であった「世論」を堂々と「セロン」と読むかのごとき居心地の悪さがある。

デカルトに「Discours de la Methode」という著作がある。「方法叙説」と訳される。方法を叙述説明する、ということであるから適切な訳である。ライプニッツに「Discours de Metaphysique 」という著作がある。「形而上学叙説」と訳される。これまた誤りはない。ところが、戦後になってから、難しい漢字を排除して簡単な漢字に書き換える流行が起こり、多くの出版物でこれらの「叙説」を「序説」とすることになった。「叙」と「序」は時に通じて用いられるから、この書き換え自体が全くの失敗とは言えないのであるが、結果として原題を考慮しない者は「序説」を「序論」あるいは「入門的な文章」と誤解するようになった。

「○○研究序説」という書物が出版されるたびに、さてこの場合の「序説」はどちらの意味だろうかと考えてしまう。「叙説」の意味でない場合には、「緒論」や「導論」とすれば誤解を生じない。もっとも、「○○研究序説」と称する本は、ほとんどの場合本格的な研究であるから、本来「○○研究」だけで十分なのである。[2005.10.8 中村雅之]

息を吸いながら出す音~青海滞在記②~
 青海省の省都・西寧から三時間かけてチャプチャに到着した晩、今回の調査を主導された遠藤光暁先生と東大院生の海老原志穂さんがチベット族のインフォーマントを呼んでアムドチベット語の調査をされるというので同席させてもらった。僕にとって本格的な方言調査は初めての経験なので、まず調査の雰囲気に慣れておこうと思ったわけである。もちろん、僕は全くチベット語の心得がないので、本当にただ座って聞いているだけだった。

 調査はインフォーマントにチベット語の語彙項目を一つずつ発音してもらい、それを音声記号で記述するというものだったが、遠藤先生と海老原さんが発音を真似すると、時折その人がスッとかハッとか、息を吸うような音を出している。最初のうち、何か息を呑むような恐ろしいことでもあるのかと思っていたのだが、後で海老原さんに聞いてみたらチベット語で「Yes」の意味を表す時にはこのように息を吸うのだとのこと。

 それで思い出したのが、以前モンゴル語を習っていたとき、現代語で「はい」を表す[ti:m]は息を吸いながら発音される場合があると言われたことだった。その時は、そんな変なことあるもんかねえ、とあまり本気にしていなかったのだが、チベット語でもこのような調音法があるというのは知らなかった。

 次の日から漢語の調査が始まったのだが、もっと驚いたのは現地の漢語でもこのような調音があるということだった。漢族のインフォーマントに『方言調査字表』の漢字を端から発音してもらい、こちらがそれを書き取りつつ真似すると、時々息を吸いながら「対」(dui)を発音している。漢語でこういう現象があるというのは聞いたことがないから、おそらくチベット語が影響したものであろう。どうやら息を吸って「Yes」を表すのはこの地域全体の習慣であるらしい。

 音声学の基礎知識と実践能力に欠ける僕がこの音を多く採取できなかったのは残念だが(なにせ肺臓気流で「没対」と言われることの方が圧倒的に多かったので)、こういう現象はやはり現実の言語に触れないとわからないものだ。それにしても「息を吸いながら出す音」というのは音声記号でどう記述するのだろうか。

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[竹越孝 2005.9.13]

男もすなるブログ?
最近ブログというものを始めた。「Lingua-Lingua」という。ブログって何だ、と思いながら書き始めたが、なかなか便利な雑記帳というのが感想だ。一般のホームページとの一番の違いは作成と更新が簡単なことだろう。ほんの数分もあれば無料で開くことが可能で、その後は、クリックひとつで過去の記事を編集したり、新たな記事を追加したりできる。私の場合は単に自分自身のためのメモとして利用しているが、それでも検索エンジンが勝手にキーワードを拾うようで、知らないうちにアクセス数が増えていたりする。

以前はホームページで公開していた内容をブログに移す人も増えているようだ。新着の研究文献案内や学界動向の情報などはブログに最も向いていると言える。それぞれの記事には自動的に投稿した日時が記され、記事がいつの時点での情報か明白であるからだ。

ほかにも連載もの、あるいは長い文章を切れ切れに綴っていくこともできる。「Lingua-Lingua」では「漢語音韻史入門--近世音篇」という不定期連載を載せている。読む人には迷惑だろうが、書く方からすると、区切りのよいところまで書いたらしばらく休めるので、非常に取り組みやすい。果たしてこのブログがいつまで続くか判らないが、自分の頭の整理と、絶対に紛失しないメモ帳として、しばらくは書き綴ってみようかと思っている。[2005.9.13 中村雅之]

生きているパスパ文字~青海滞在記①~
  8月6日から20日までの約二週間、青海省海南チベット族自治州の共和県(チャプチャ)というところで中国語西北方言の調査をした。日頃は文献の言語ばかり扱っていて、生の方言を記述するのは初めての体験だったので、正直とても大変な二週間だったが、その苦楽についてはおいおい紹介するとして、とりあえずものすごく驚いたことを一つ報告しておきたい。

 調査開始からほぼ一週間が過ぎた8月13日(土)の午後、近隣の仏教寺院を訪ねてみようということになり、同行の4人でタクシーをチャーターしてゲルク派の新寺と千卜禄(チャムル)寺、そしてボン教のカサル寺に行った。いずれも街からかなり離れたところにあって、絵に描いたような大草原の中に屹立するきらびやかな寺院群は実に美しかった。そして、そこで生きているパスパ文字を眼にすることができた。

 周知のように、パスパ文字は元の世祖フビライの命を受けたパスパ(八思巴、1235-1280)がチベット文字を規範として作成した表音文字である。至元6年(1269)に公布され、元一代にわたって国字として使用されたが、その後モンゴル帝国の衰亡とともに一般には伝承されなくなったとされている。以前『KOTONOHA』第21号(→PDF)に吉池氏が紹介された20世紀のパスパ文字チベット語紙幣を見て、この文字が近現代まで継承されていたことを知り大いに驚いたものだが、今回訪れた新寺と千卜禄寺ではまさに現役だった。

 文字はいずれも本殿の扉の両側に縦書きされている。内容は不明ながら(読解は吉池さんにお任せします)、パスパ文字チベット語であることは間違いない。チベット文字は構造上縦書きに向かないので、チベット語を縦に表記する際の字体としてパスパ文字が採用されているということであろう。

 13世紀から14世紀にかけて当時知られていた世界のほとんどを駆け巡り、その後大帝国の消滅とともに忽然と姿を消したかに見えたパスパ文字は、チベット文化圏の一地域で21世紀まで細々と伝承されていたわけである。真青な空のもと、しばし方言調査のつらさを忘れて、胸が震えるような感慨を味わった。

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[竹越孝 2005.9.3]

再版本の図版
 羽田亨著『西域文明史概論』の初版(昭和六年)本を大学図書館より借り出し、研究室の書架に収め、パラパラとめくり、鮮明な資料写真を眺めて数年が経った。先日ひょんなことから、昭和九年第四版をポケットマネーで購入し、パラパラとめくってみた。なんと、写真の鮮明度がまるで違う。まるで、などと言うと大袈裟なようであるが、とにかく違う。

 この本の写真には、良質の紙を使った別立ての図版と、本文中に挟まれた白黒の写真の二種がある。前者の別立ての図版は全部で十三枚あり昭和六年の初版本は昭和九年の第四版本に比べて鮮明である。とくに、第八図版「漢代の文書書籍及び于闐・高昌の貨幣」には、高昌吉利銭とシノカローシュティー銭(このコインの良い図版は少ない)があり、初版本はなかなかのものであるけれども、第四版本は不鮮明で細部の確認が困難である。もっとも、本文中の白黒写真は概して第四版本のほうが初版本よりも鮮明であるから、必ずしも初版本が良いということではない。写真図版の鮮明度は使用した紙質などに大きく左右されるのであろう。

 十数年前に、似たような経験をしたことがある。ある大学の図書館で、『八思巴字與元代漢語〔資料彙編〕』(中国で出版されたもので1959年とある)という本を開いたときである。この本は豊富な図版を掲載しており、図版こそ命というような本である。パラパラとめくると、なんと私蔵の同版本の図版よりも鮮明なのである。古い本の場合、あるいは同版本であっても、印刷のコンディションなどの変化により異なりがあるのかもしれないし、同版のようであっても時と条件を異にした刷り本であったということなのかもしれない。[2005.8.29 吉池孝一]

スリランカ遺跡紹介
 スリランカは、2004年12月インド洋大津波で大きな被害を受けました。沿海部ではまだまだ復興のための活動がおこなわれているところです。このインド洋にうかぶ島国は、1972年の英連邦自治領からの完全独立後、国名をセイロンからスリランカ共和国に、1978年にスリランカ民主社会主義共和国へと変えました。スリランカとは「光輝く島」という意味で、緑の多い美しいところです。2002年、初めて訪ねたスリランカは、またすぐに行きたくなるほど、魅力あふれる国でした。内戦も小康状態となり、観光にも力を入れようとしていて、日本人にたくさん来てほしいという声も聞きました。スリランカのことを少しご紹介したいと思います。

ポロンナルワの仏教遺跡


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[山本恭子 2005.07.29]

音節末Rの聴覚印象
 5月30日放送のNHK「英語でしゃべらナイト」にゲスト出演したソニンが次のようなことを 言っていた。「日本人はRとLの発音で苦労するようですけど、韓国語にはRのような音があるんですよ。」 これを聞いて私は一瞬のけぞった。朝鮮語においてRとLの対立がないのは周知のことであるし、 その点では日本語も朝鮮語も同様であるからだ。 しかしその後の話を聞いて、俄然興味をおぼえた。彼女は朝鮮語にRとLの区別があると言っているのではなかった。 英語のRに似た音が、ある環境においては朝鮮語にも現れることを指摘していたのだ。すなわち終声(パッチム) のRがそれである。

 朝鮮語の音節末のRは、音声学の立場からは通常Lの音であると説明される。おそらく 多くの参考書にもそう書いてあるはずである。実際、調音法から見れば、側音(lateral)であることは間違いないから、 音声学上はLの一種とせざるを得ない。しかし一方、調音法を無視して、舌の位置だけを見れば、英語の Rと朝鮮語音節末のRとは確かによく似ている。朝鮮語の音節末のRは非常に特殊な音で、後部歯茎のあたりに舌先部がかなり 広く密着する。人によっては硬口蓋にまで深く舌先を反らせるため、結果として英語のRによく似た形になる。 違いは舌先が接触するか否かにある。(ソニン嬢は在日韓国人3世で、高校時代には英語のスピーチコンテストで 賞をとったこともあるという。)

 竹越氏の「乙字考」(このページの前項)にもあるように、19世紀末の朝鮮資料においては、 朝鮮漢字音で音節末にRをもつ「乙」が 漢語のR化音を表すのに用いられる。これは漢語の音節末のRが、朝鮮語の話者によって朝鮮語の音節末Rと 対応させるにふさわしいと判断された結果であると言える。もっとも前述のように、朝鮮語ではRとLの対立がないので、 かりに音節末のRがフランス語やドイツ語のような素直なLであったとしても、やはり「乙」は漢語のR化音の表記として 選ばれた可能性は高い。しかし音素の対応からその可能性が高いということと、実際に近い音に聞こえたために採用された ということは同じではない。このことは文字と音声の関係を考える上で留意すべき点の一つである。

 満洲語を漢字音訳する時、音節末の「-R」「-L」双方に対して「児」や「爾」が用いられるが、 逆に満洲文字で漢字音を表記する場合には「児」「爾」に対しては「-L」のみが用いられる。 これを単純な音素の対応だけで説明するのは難しいであろう。二つの言語のそれぞれの話者が相手の言語音声を どのように聞いたかということが問題になるのである。

 また、明代のローマ字表記では漢語の音節末Rは「-L」で表記されるが、清末のウェイド式のローマ字表記では 「-RH」が用いられている。これは明代の資料がポルトガル語やイタリア語の発音に基づいたローマ字表記であるのに対して、 ウェイドのそれが英語の発音に基づいていることによる。ふるえ音のRをもつ南欧語話者にとっては漢語の音節末RはRよりもLに近く聞こえ、 英語話者にとってはLよりもRに近く聞こえたのである。 このような観点に立てば、現在の中国式ローマ字(ピンイン)で、「児」を「el」ではなく「er」と表記しているのは、 このローマ字の体系が英語の表記とその発音を意識して作られたからだとみなすことができる。 普段意識することは少ないが、他言語の文字を借りて新たな表記が作られる時には必ずや、借用元の言語と自らの言語との 間の音声のすりあわせが行われている訳である。
[中村雅之 2005.6.20]

乙字考
 大学院生の頃授業で清朝考証学の文献を読んでいたとき、校勘の部分になると 「乙正」とか「乙改」などの術語がやたらと出てくるので何だろうと思っていたのだが、 この「乙」は上下の順序が逆であることを表すもので、校正のときに使う顛倒のマークが この字に由来しているという説を聞いてへえーっと思ったものだった。考えてみると、 漢字文化圏にあって「乙」ほど意味が意識されない漢字というのもめずらしいのでは ないかと思う。

 朝鮮の口訣(吏読)資料では「乙」が対格(~を)を示すマークとして使われる。 これは、「乙」の漢字音(現代語ではyr)が朝鮮語の対格語尾の音 (中期語では-r/-Ar/-yr/-rAr/-ryrなど)と類似していることによるものであろう。

 さらに面白いのは李朝末期に編纂された漢語会話教科書で、『華音撮要』、 『你呢貴姓』、『学清』、『中華正音』といった19世紀末から20世紀初に かけての諸文献では、「乙」が中国語の「児化」を示すマークとして使われる。例えば 「今児箇」(=今天)の場合、「今児」の部分をハングル注音で「gir/jir」のように 記すと同時に、漢字の方も上に「今」、下に「乙」を配した文字で記す例が見られる。 これは「今児」の部分が一音節であるため、漢字表記にも一字一音の原則を適用した ものと思われる。

 そして、なぜ「乙」が選ばれているかといえば、その漢字音が中国語の-r音を表すもの としてふさわしいこととともに、「乙」の字形がハングルのリウルに似ているので、 読み手がその音を想起しやすいということがあるのだろう。形だけならばリウルにより 似ている「己」では前者の資格を欠くことになるわけであるから、実に巧妙かつ傑作な 表記法ではあるまいか。

 漢字文化圏の中心と周縁の双方において「乙」が意味よりも形として意識され用いられて いるというのは実に興味深いことである。そういえば、昔お世話になった漢方薬に 「乙字湯」というのがあったが(何の薬かは言えない)、これもひょっとしたら字形に 関係があるのだろうか。[竹越孝 2005.6.11]

ソウル滞在記
 3月25日(金)と26日(土)の両日、ソウルの漢陽大学校で開催された「第一届韓日中国語言学国際学術討論会」(主催:韓国中国言語学会・中国語東アジア諸語研究会)に参加してきた。会議の模様と、翌日の27日(日)に訪れたソウル大学校・仁寺洞の様子を写真で紹介する。

 下は学会の行われた漢陽大学校のHIT(漢陽綜合技術研究院)棟、HITはおそらくHanyang Institute of Technologyの略、MITにあやかりたいのは韓国でも同じらしい。入口には立派な横断幕があり、思ったより大掛かりな会議になっていたので緊張した。



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[2005.5.21 竹越孝]

屈子祠と屈原墓
 「子どもの日」、5月5日は古くは端午の節句。鯉幟を立て、粽を食べ、 男の子の成長を祝う…その起源は中国の戦国時代(前450頃~前221)、 楚の国の政治家であり、「離騒」、「天問」、「九章」などの詩で知ら れる屈原の故事によるといわれています。この高い政治理念を持ちなが ら懐王、頃襄王から追放され、放浪の中で激しい憂いと憤懣を詩に表し た憂国の詩人、屈原を祀る「屈子祠」は湖南省汨羅市、玉笥山の麓にあ り、そこから東北約5キロのところに屈原墓が点在しています。点在?

屈子祠正面


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「屈子祠」と「屈原墓」の写真

[山本恭子 2005.04.29。撮影は2000.11]

遺跡紹介写真(2) ―トルコ東部ヴァン市にて―
 これから紹介する写真は、昨年9月、トルコ東部のアルメニアとの国境近くのまち、ヴァン市で撮ったものです。 今回は、ヴァン湖に浮かぶ島。そこにあるアルメニア正教の教会(紀元10世紀ごろ)を紹介します。

アクタマール島へ渡る


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「古アルメニア語のレリーフ」と「教会内部のフレスコ画」の写真

[加藤紀子 2005.04.25]

NHK語学講座2005
 春は外国語の季節である.この季節になると,なぜか外国語への意欲が再燃する.私はNHKの語学講座をこよなく愛する者で,新年度の放送内容をチェックするのがこの時期の楽しみである.

 今年はテレビでインドネシア語が新たに登場する.「アジア語楽紀行」というタイトルでくくられているから,タイ語やベトナム語なども予定しているのかも知れない.ただし毎回5分間だけの放送である(火水木の夜11:55から).

 もう一つ今年の目玉(?)は,ラジオの英語講座がガラリと再編されたことだ.これまでの基礎英語1~3,リスニング入門,レッツスピーク,ビジネス英会話という6講座から,基礎英語1~2,英会話入門,英会話中級,英会話上級,レッツスピーク,ビジネス英会話,シニアのためのものしり英語塾,の8講座編成になった.気に入っていた「リスニング入門」がわずか3年で終わったのは残念だが,かなり難度の高い内容であるにもかかわらず,「入門」と称するのは無理があったかも知れない.NHKはこの手のダマシが得意で,現在も続く「ビジネス英会話」は英語講座中もっとも高度な内容であるが,2001年までのタイトルは「やさしいビジネス英語」であった.個人的には遠山顕氏担当「英会話入門」の4年ぶりの復活を喜びたい.1994~2001年に人気を博した同講座よりはややレベルアップした内容になりそうである.

 少し変わっているのは,ラジオドイツ語応用編である.金曜日は文学作品を読む正統的な内容であるが,土曜日は英独バイリンガルのドイツ人によって英語で講義が行われる.素材となるドイツ語の会話は平易な内容なので,ドイツ語よりはむしろ英語の勉強に適していると言える.特に発音や文法を英語で説明することに興味のある人(例えば外国人に日本語を教えるなど)は参考になるかも.

 このほか,徹底して「料理」をテーマにしたラジオイタリア語入門編も面白そうだ.テキストを見る限り,文法説明もしっかりしている.また,金裕鴻氏が漢字語を講義するラジオハングル講座応用編も気になる.4月は忙しくなりそうだ.[2005.3.23 中村雅之]

遺跡紹介写真(1) ―トルコ東部ヴァン市にて―
 これから紹介する写真は、昨年9月、トルコ東部のアルメニアとの国境近くのまち、ヴァン市で撮ったものです。今回は、ヴァン博物館に保存されているウラルトゥ王国時代(紀元前9世紀ごろ)の石棺を紹介します。

これは遺跡発掘時の写真です


「石棺の蓋」と「石棺の楔形文字」の写真

 次回はヴァン湖に浮かぶ島。そこにあるアルメニア正教の教会(紀元10世紀ごろ)を紹介します。 おたのしみに。[加藤紀子 2005.03.04]

機能負担量
 今から2年半ほど前に本学で開催された国際中国語言学学会第11回年次大会(IACL-11)で、「語彙交替と制約」(詞彙興替与限制)というタイトルの発表をした。僕にとっては初めての国際学会で、また初めての中国語による発表だったのでだいぶ緊張し、中国語の「想定問答集」まで準備して臨んだにもかかわらず、前の発表が延びて時間が押していたため、質問もそこそこに切り上げられてしまい、ほっとするやら情けないやら、なんとも珍妙なデビュー戦だった。

 この発表は『老乞大』の四つの版本に反映した“也”と“了”の通時的語彙交替を扱ったもので、概ね次のような内容だった:“也”は『旧本』の段階では類同を表す副詞、状態変化を表す語気助詞という二種の用法を持っているが、『翻訳』『新釈』『重刊』と時代が降るにつれ、語気助詞の用法は“了”に取って代わられ、副詞の用法のみが現代まで生き残っている。一方、“了”は『旧本』の段階で完了を表す動詞接尾辞、完結を表す動相補語という二種の用法を持っているが、『翻訳』の段階で語気助詞の用法を新たに獲得するかわりに、動相補語としては『新釈』『重刊』の時期に登場した“完”に取って代わられている。この玉突きのような語彙交替が生じたのは、一つの語彙の中に互いに関連しない複数の意味が存在してはならないという制約が働いているためである。

 当時は「最適性理論」(Optimality Theory)にだいぶハマっていて、窪薗晴夫氏の本などもかなり読んでいたから、「音節量制約」(Syllable Weight Constraint)に引っ掛けて「意味量制約」(Meaning Weight Constraint)などという新概念(?)を構想して悦に入ったりしていた。考えてみると、国際学会で発表するからにはいかにも言語学っぽい内容でなければ、という気負いがあったようで、今となってはとても恥ずかしい。

 さて、発表が終わってから、まともな質疑応答もなかったのでいささか意気消沈していると、かわいそうに思ったのか、昼休みの時にラマール先生が声をかけて下さった。確か梅祖麟が“function load”という概念を使って同じようなことを言っていたと思うけど…というような話だった。

 帰ってから『梅祖麟語言学論文集』(商務印書館、2000年)を見てみると確かにそうだった。「漢語方言里虚詞“著”字三種用法的来源」(原載『中国語言学報』第3期、1988年)がそれで、かなり引用率の高い有名な論文だから、これも読まずに発表していたというのもまた恥ずかしいことだった。

 その所説を要約すると次のようになる:虚詞の“著”(着)が表す機能は、通時的に①位置を表す前置詞、②完成を表す動詞接尾辞、③持続を表す動詞接尾辞の順で発展したが、各機能の共時的分布はいくつかのタイプに分かれる。最も少ないのは北京方言で、③の機能しか持たない。逆に最も多いのは浙江省の青田方言で、①②③いずれの機能をも持つ。青田方言のようなタイプがまれにしか見られないのは、“著”が三種の機能を持った場合、その「功能負担」(function load)があまりに重くなるためである。そして、梅氏はこの用語を次のように説明している:同じ一つの虚詞がもし幾つかの異なった文法機能を担うと、語義の混交を招きやすい、そのため幾つかの機能は他の虚詞に取って代わられる。(「同一個虚詞、如果担任幾種不同的語法功用、容易引起語義的混淆、於是某些功能就被其他的虚詞替代。」『論文集』p.177)

 これを読んでなるほどと納得するとともに、期せずして梅氏の見解と一致したことを大いに喜んだものである。ところが、その後『言語学大辞典』第6巻・術語編(三省堂、1996年)を見るに及んで、梅氏の定義が一般言語学におけるそれと異なることに気づいた。同辞典では「機能負担量」(functional load)について次のように述べている:

 音素の対立が語の意味区別に資する程度。その対立によるミニマルペア(最小対)の数によって測りうる。/機能負担量は、マテジウス(V. Mathesius)が、音韻体系の共時的研究のために提唱した概念であるが、通時論でも、音素の対立が失われる要因の一つとしてあげられる場合がある。すなわち、その対立の機能負担量が少ない場合は、対立を維持する効果が少なく、経済的でないため、対立が解消されるというわけである。(p. 275)

 同辞典によれば、日本語の上代特殊仮名遣における甲乙音の対立や、中世の「四つ仮名」(ジ-ヂ・ズ-ヅ)の対立は、機能負担量が低かったために失われた例であるとされている。ただし、機能負担量を通時的音韻変化の要因とするには多くの問題があり、マルティネ(A. Martinet)によって、機能負担量の正確な計測が行ないにくい、語彙的に最小対の数が少なくても頻用語彙を含む場合がある、日常語彙と特殊語彙を同列に扱ってよいか疑問である、過去の言語の場合すべての語彙の目録が入手できる保証がない、などといった問題点が指摘されているという。

 つまり、一般言語学でいうところの機能負担量とは、音素の対立が持つ意味の弁別機能について言ったものであるが、梅氏はそれを一つの音節が持つ意味機能のこととして拡大解釈していることになる。中国言語学界の重鎮である梅氏が用いた「功能負担」という語とその概念は中国の学界でもそのまま踏襲されているようで、例えば曹広順『近代漢語助詞』(語文出版社、1995年)などでもこの説が紹介されている。

 個別の言語の分析から得られた考察を一般言語学的に説明するというのは誰しもが望むことであろうが、個別の言語研究の領域で一般言語学と似て非なる概念が流通していると、その用語の使いたい者としては大変困る。個別言語の世界でのみ通用する概念を用いれば一般言語学の側から誤解を指摘されるし、一般言語学で流通している概念を用いれば個別言語の世界で誤解されるからである。だからというわけではないが、その時に発表した内容は未だに論文にする気になれないでいる。もっとも、そもそも公表に値するほどの内容なのかと言われると黙るしかないのだけれど。[竹越孝 2005.03.01]

実用会話の魅力
 我が家では年に一度、夏休みの時期に青森の実家に帰省することにしているのだが、昨年の夏は忙しくてその暇がなかったので、この年末年始に三日ほど行ってきた。僕の実家は日本海沿岸の小さな漁師町にある。

 ついてみると連日の猛吹雪で、子供は始めて見る積雪に大喜びだったが、こちらとしては別に物珍しくもない、というか単にうっとおしいだけである。結局どこにも出かけずごろごろしていたわけだが、暇にまかせて実家の中をあれこれ物色していると、仏間に古ぼけた小冊子がころがっているのを見つけた。『実用漁業ロシヤ語会話』(沢田隆著、北海道漁船海難防止センター刊、1979年)なる本がそれ。なぜこの本が実家にあるのか不思議だが、僕の父は古稀を迎えた今も現役の漁師で、若い頃は北海道のオホーツク海沿岸まで出稼ぎに行っていたというから、父が何かの拍子に手に入れたものだろう。

 ロシア語は何年か前に1年ほど授業に出ただけで、ほとんどすべて忘れてしまったのだが、興味本位でパラパラめくっているうち、あまりの面白さにうなってしまった。冒頭の「この会話書の使い方」には次のような記載がある。

 2.この会話書では漁業者の要望によって、ソ連漁業監視船による取り調べを想定し、実用的な会話を多く載せるよう配慮いたしました。
 3.発音は片カナで明記してありますが、太文字(ゴシック)の部分は、特に強く長く発音してください。
 4.みなさんのいいたいことが、ロシヤ語で通じない場合は、この会話書のそれに対応するロシヤ語を相手に指さし、また相手からも知りたいことを指さしてもらえば、役に立つものと思います。

 そしてこの下には、ロシア語で「もしあなたが質問したい時には、この会話書の該当部分を指で示して下さい」と記されている。通じない時には相手にまずこの部分を見せればよいというわけだ。本書が徹底した実用目的の会話書であるとともに、当節流行の「指差し会話」の役割をも担っていることがわかるだろう。

 本文は日常生活に必要な単語と会話はもとより、種々の漁業・船舶用語や漁業用北方地図まで載っている至れり尽くせりの内容であるが、何といっても圧巻は「19.臨検時の会話」で、以下のような会話がある。

 「おーい、日本の漁船!」「おーい、船を停めなさい。」「分りました。」「何かご用ですか。」…「あなたたちは何処から来ましたか。」「私達は根室から来ました。」「私達は魚をとりに来ました。」「いか釣りにきました。」…「あなたは、何故すぐ船を停めなかったのですか。」「私は信号を見ませんでした。」「私は知りませんでした。」「私は監視船が来たので、びっくりしました。」「あなたは密漁していたのでしょう。」「それは違います、私達は密漁していませんでした。」…「記載が不正確のため罰金を科します。」「すぐに罰金1万ルーブルを支払いなさい。」「罰金とはひどすぎます。」「これは余りにも高すぎます。」「このような不当な罰金は支払うことができません。」「あいにく、充分なお金を持ち合わせておりません。」…

 これを面白いと言うのは不謹慎というものだが、ともかくこうした実用会話の持つリアリティと迫力には圧倒される。この部分を読んで真先に想起したのは『老乞大』のことで、「どこから来た」「高麗の都から来た」に始まるこの書が、微にいり細にわたり道中の会話を描写し、また馬の種類や諸々の交易品をこれでもかと列挙しているのは、何よりもそれが実用の書であるためだということに改めて気づいたわけである。『老乞大』が我々を惹きつけてやまないのは、その言語もさることながら、まずもって内容面の魅力にあるのは言うまでもない。

 さて、名古屋に帰ってきて新年一回目の授業のために教科書を開いてみると、…やはり内容の味気なさにがっかりしてしまう。僕も語学教師のハシクレだから、文法事項を体系的に配置したいという編者の意図はよくわかるのだが、そのために内容を犠牲にしている教科書の何と多いことか。科学性への志向のために失われるものは存外大きいのかも知れない。[2005.01.17 竹越孝]

橋本萬太郎先生の一言
 言語学者の橋本萬太郎先生は1987年に亡くなられた。その直前、1985年~1986年の二年にわたり 東京都立大学の旧目黒校舎で先生の講義を受けた。85年の講義については中村雅之氏の「十年の 後---橋本萬太郎講義」(『トンシュエ』同学社、1995年。『トンシュエ綜輯号』2001年、pp.223-225 所収)にくわしい。それで先日、なにげなく86年の講義ノートを書棚の奥から引っぱり出した。 ノートを開きあれこれと考えているうちに先生の一言が蘇ってきた。「最近、若い人たちはカール グレンを読まなくなりましたね。中国語の音韻研究を志す人は、漢訳の『中国音韻学研究』でも いいしコンペンディウムでもいいから、徹底してカールグレンを読むべきでしょう」といった主旨の 一言である。漢訳本の関係箇所をパラパラとめくる程度であった私は深く恥じ入った。けっきょく、 恥じ入っただけで、その後カールグレンを「徹底」して読むことはなかった。橋本講義から18年も たった先日、先生の一言を思い出しつつ『中国音韻学研究』を開いてみた。中扉に著者の横顔と自筆 サインがある、「序」では趙元任・羅常培・李方桂といった錚々たる訳者名と共に翻訳の経緯が 述べられる、「著者贈序」「訳者序」「訳者提綱」・・・「原序」「緒論」。なぜであろうか、 新鮮な感動がよみがえってくる。[2004.12.20 吉池孝一]

清代の満洲語文法書
 昨年の夏から、当館発行の『KOTONOHA』誌上に清代の満洲語文法書の翻字と翻訳を連載している。これまで『清文啓蒙』(1730)の「清文助語虚字」、『滿漢類書』(1700)の「字尾類」が終わり、現在は『清書指南』(1682)の「飜清虚字講約」の途中、後には『清語易言』(1766)、『三合便覽』(1780)、『清文接字』(1866)、『字法舉一歌』(1885)、『清文虚字指南編』(1894)といった各書が控えている。ちなみに、この連載が完結した折には『清代満洲語文法書集成』として一挙出版する、というようなオファーは全くない(そりゃそうでしょう)。

 こうした文献紹介の連載は、かつて都立大学の中文研究室で『語学漫歩』を細々と発行していた時にも使った手で、僕を知っている人はこいつまたかと呆れていることだろう。確かに、毎号N・Y両氏による珠玉のような論考に挟まれて、おそらく誰も読んでいない連載をだらだら続けているのは虚しいし、何よりお二人が毎月末の締切に苦慮されているのに、自分だけ翻字・翻訳でお茶を濁しているのは心苦しい。ただ、こちらとしてもそれなりに興味深い研究対象だと思うからこそ続けているわけで、誌面汚しの言い訳がてらにここで少し書いておきたい。

 中国文化圏における言語の記述には、以下の三通りがありうる:
  (1)中国語による中国語の記述
  (2)他言語による中国語の記述
  (3)中国語による他言語の記述
 (1)はいわゆる「小学」で、文字・訓詁・音韻という三部門にわたり漢代以来の長い伝統と圧倒的な量の文献が存在する。(2)は近年研究が盛んな分野で、明代以降の宣教師資料、朝鮮資料、唐話資料などが挙げられる。(3)は悉曇学関係を除外すれば、元代の『至元譯語』や明代の『華夷譯語』といった一連の『譯語』類が代表的な資料と言えるだろう。

 このうち、(3)の『譯語』類は概ね以下のような内容を持っている:
  (a)『至元譯語』:雑字(漢字音写+中国語訳)
  (b)甲種本『華夷譯語』:雑字(漢字音写+中国語訳);来文(漢字音写+中国語傍訳+中国語総訳)
  (c)乙種本『華夷譯語』:雑字(文字+漢字音写+中国語訳);来文(文字+中国語総訳)
  (d)丙種本『華夷譯語』:雑字(漢字音写+中国語訳)
 これらの資料がなしている記述は、文字・音韻(漢字音写)、語彙(雑字)、及び例文(来文)にとどまる。すなわち、「文法」に関する記述は存在しない。

 近代以前の中国人は他の言語の文法をどのように捉え、どのように表現してきたのか。また、その知識は中国語文法に対する見方にどのような影響を及ぼしたのか。このような問題意識を持ったとき、他言語の文法を体系的に記述した資料群として注目されるのは、清代を通じて刊行され続けた中国語による満洲語文法書であろう。

 以上のような考えから、少なくとも10種は現存している満洲語文法書を集め、少しずつ読み始めているのだが、これがめっぽう面白い。現代でいえば統語論に相当する見方はまだ素朴なものでしかないが、形態論に関する記述は極めて体系的で、特に動詞の活用については「未然」「已然」「将然」といったタームを用いて実質的にテンス・アスペクトを解説している。これらは、中国語を対象とする伝統的な訓詁学書ではまずありえない記述であろうし、何よりも『馬氏文通』(1898)の200年以上も前に、文法を体系的に捉えるという態度が芽生えていたというのは新鮮な驚きである。これは紹介するしかない、ぜひこの豊穣な世界を伝えたい、という意図から始めたのがこの連載である。

 とはいえ、昔から「材木屋」を自称する(木=気が多い、ですね)僕がする作業であるから、他をすべて後回しにしてこれに集中するだけの踏ん切りがつかないし、加えて大学院時代のノートも使い果たした今ではもはや息が切れかけている。全くもって恥ずかしい限りであるが、とりあえずは尊敬する二人の先輩の温容に甘えてなんとか毎月の締切を守り、牛のような歩みを続けている次第である。(Takekoshi)[2004.11.26]

「一刻」
 中国語で「15分」を意味する語に「一刻」がある。なぜ「一刻」が 「15分」なのか。よく見かける説明は、英語の「quater」の音訳である というものだ。いかにも胡散臭い。私が気に入っている説明は、 「刻」はもともと100分の1日を表す単位であったというものである。

 昔は、正確な時を知るのに水時計を用いており、その水時計の 目盛りが「刻」であった。中国は10進法の国なので、大きい目盛りが 10分の1日、そして小さい目盛りが100分の1日を表した。 したがって、「一刻」は100分の1日(=14分24秒)ということになる。 それが、近代になって「4分の1時間」すなわち「15分」を表す単位として 衣替えしたというわけである。

 しかしその後、共通語の「一刻」を広東語では「一骨」と言うらしい ことを知った。「骨」はどう考えても水時計には使えそうにない。 現在ではとりあえず、広東語の「骨」は英語の「quater」の音訳、しかし 共通語の「一刻」は水時計の目盛り……ということにして無理矢理自分を 納得させているが、釈然としない。

 そんなことは書物を調べればわかるのではないかと言われそうであるが、 こと語源に関しては、書物の記述はあまり当てにはならない。 みんな勝手なことを書くからである。以前「後の祭り」という言葉が 気になったことがあった。試みに『広辞苑』を引いてみた。「(1)祭りのすんだ翌日。 (2)(祭りのすんだ後の山車の意から)時機におくれてどうにも仕様のないこと。」とあった。 仕様のないのはこの解釈の方である。こんなデタラメな記述で納得する者がいたら お目にかかりたいほどだ。 しばらくしてたまたま他の解釈を目にした。「後の祭り」とは死んだ後で祀ることだという。 思わず膝を打った。「孝行のしたい時分に親はなし」というアレだ。これこそ「後の祭り」 の語感に叶うものではないか。

 話を「一刻」にもどすと、「刻」を「quater」の音訳だとして納得するのはちょうど 「後の祭り」を『広辞苑』の説明で納得するのと同じくらい居心地が悪い。広東語では 本当に「一骨」というのか、またそれはいつ頃から使われた表現なのか、知っている 人がいたらぜひ教えて頂きたいものです。(Nakamura)[2004.11.22]

飲食動詞
 今、なぜかわが家で大ブームとなっているのが中国語の飲食動詞、 つまり“吃”や“喝”のような「食べる」「飲む」に当たる動詞のことである。 これは、今年の春に刊行されたある科研の報告書に、僕と妻の共通の先輩である Nさん(当サイトの管理人とは別人です)が飲食動詞についての詳細な方言地図を 発表されたことに端を発するのだが、その論文では単なる語彙の分布にとどまらない 様々な問題が提起されていて、その面白さに眼を見張ることとなった。 中国語では、「食べる」と「飲む」を全く区別しない方言や、「酒」については 「食べる」を用い「お茶」については「飲む」を用いる方言、あるいはその逆など、 飲食動詞の対象や意味領域にかなりの違いが見られるようなのだ。

 その後、わが家では飲食動詞のことが幾度となく話題にのぼるようになり、 折しも妻がこの夏方言調査に出かけることになったので、それでは僕が歴史文法の立場から、 妻が方言文法の立場から飲食動詞を調べてみようではないかということになった。 妻の帰国後に本学で集中講義をしてもらった時には、Nさんをゲストとして呼び、 さらに僕も参加して学生そっちのけで盛り上がり、久々に学生時代の雰囲気がよみがえった。 そして、夫婦で飲食動詞の研究ですか、それはそれは仲のいいことで…などと半ば呆れ気味に 言われながらも、この秋から双方の成果を発表し始めている。

 そもそも、言語の研究にあっては文献調査が主体となる通時的研究と、方言調査が 主体となる共時的研究は互いに補い合うことが理想であろう。文献資料が少ない他の言語に 比べて、約3300年にわたる豊富な文献資料を有する中国語はこの点で圧倒的に有利な条件を 備えているが、音韻の問題に比べて語彙・文法の問題はこの両者がめったにシンクロする ことがない。これには二つの原因があると思う。

 一つは頻度の問題で、いくら方言地図で興味深い分布をなしていても、文献 (特に白話文献)の中でめったに出てこない語彙であれば、両者を同じ土俵で論じる ことはあまり意味がない。もう一つは音声の問題で、特に虚詞などを扱う場合、文献では 一旦表記が定着すると後代でもそのまま用いられ続けるが、方言では音韻変化(特に弱化) が甚だしいため、まずその「本字」が何かというところから始めざるを得ない。橋本萬太郎、 梅祖麟、C・ラマールといった先学の優れた業績を読んでいて大いに啓発されながらも、 常に引っかかるのはこうした問題であった。

 その点、「食べる」「飲む」に相当する動詞は、文献では虚詞と比べても遜色ないほどの 高頻度で出てくるし(今回『金瓶梅詞話』を調べてみたら“吃”の用例数は2500を越えていた)、 かつ実詞である以上方言でも弱化が見られない、というわけで、文献における通時的分布と 方言における共時的分布を共通の俎上に乗せて論じるには、またとない恰好の素材であると いうことになる。

 こういった作業を通じて感じるのはそれぞれの分野の可能性と限界である。例えば文献を 対象とした場合、あらゆる先入観を排して分類し記述することが可能である反面、文献に 現れない形式を考察することは(内的再建などを除いて)実質的に不可能である。一方、 方言調査では考えられる限りの形式を質問し記述することが可能である反面、インフォーマントに おける揺れの問題や世代差の問題など、クリアーしなければならない課題も多い。この両者が まさに補い合うべき存在であることが改めて実感された。

 文献研究と方言研究が補い合うことを示した記念碑的著作である河野六郎『朝鮮方言学試攷』 を読んだ時の感動は忘れられないが、故河野博士の足元にも及ばないのは百も承知ながら、 この機会に中国語の飲食動詞に関する方言地理学・歴史言語学・方言調査のコラボレーションが 実現すれば、かなり面白く、何よりもロマンのある研究ができるのではないかと期待している。(Takekoshi)[2004.11.16]

than I --- than me
 中学や高校の頃、比較文においては“She is taller than I.”が正しく、 “She is taller than me.”は誤りと教えられた。いまでも、受験参考書 などでは、前者が正しく、後者は口語において用いられることもあるという 記述が多い。しかし、英語話者の間ではすでに“than me”が堂々たる 市民権を得ているようである。多くの英語参考書を執筆しているイギリス人 ティモシー・ミントン氏は、“than me”がごく普通に多用される表現で あることを力説している。

 私の印象では、イギリスとアメリカではこの表現に対して感じている ニュアンスはやや異なっているように思う。イギリスでは“than me”が 口語のみならず、文章においても用いられるが、アメリカでは文章においては “than I”を用いるのが正しいと考えられているフシがある。

 これについては辞書の記述が参考になる。
まず、Oxford Advanced Learner's Dictionary of Current English では、
 With an intransitive verb the pronoun after “than” is often in the objective form, in both colloquial and written English.
と記され、同じくイギリスの Oxford Advanced Learner's Dictionary では、
 The use of “me”…is correct in modern standard English. “I”…would be considered much too formal for almost all contexts, especially in British English.
とある。要するに、すべて“than me”で構わないということである。これに対して、 アメリカ英語の辞書である Longman Advanced American Dicitionary では、
 In spoken and informal English, many people use objective pronouns such as “me”“him”etc. …Many teachers think this is incorrect. …In written or formal English, it is better to use subject pronouns such as “I”“she” “he”etc.
イギリス英語の記述とは大分ニュアンスが異なっていて、文章などフォーマルな場合には “than I”を用いるべきだという。

 今年の初めに、旺文社から『詳説レクシスプラネットボード』という面白い本が出た。 副題に「103人のネイティブスピーカーに聞く生きた英文法・語法」とあるように、 英語話者へのアンケートをもとに、文法を考えようというものである。その中に、 “than I”と“than me”の問題もあり、“than I”の使用率はアメリカ人51%に対して、 イギリス人39%という結果であった。使用率が意外と高いのは、インフォーマントが 大学卒業者か大学生であって、硬い文章に慣れているからであろう。

 そこにはさらに興味深いエピソードが引用されていた。朝日新聞の「天声人語」からの 引用であるが、エリザベス女王の“The young can sometimes be wiser than us.”という 発言をめぐっての反応である。英紙オブザーバーに掲載されたアメリカ人の分析によれば、女王でさえクイーンズ・イングリッシュがおぼつかなくなっており、「もったぶった言い方を避けようと努めているのは理解するが、“than us”はやりすぎ」という。英国 クイーンズ・イングリッシュ協会の長老も同調したという。私の見るところ、 ここでのポイントはアメリカ人とイギリスの長老とが“than us”を批判したことである。 裏を返せば、通常のイギリス人は“than us”を全く問題にしていないということだろう。 上に述べたティモシー・ミントン氏もイギリス人であるからこそ、“than me”の 正当性を強調したと考えられるのである。(Nakamura)[2004.11.9]

泉屋博古館の乳虎卣
 京都の泉屋博古館に乳虎卣という青銅器がある。これを初めて目にしたのは白川静著『中国の神話』(中公文庫。昭和五十五年発行)に引用された写真であった。全体が虎の形をしており、人間の男を抱きかかえている。その解説によると、酒を入れる器で、楚の国の古い伝説を背景としているらしい。殷代のものという。

 さて、館内に足を踏み入れると、古代中国の器物が数千年の時を越えてならんでいる。そのなかでも乳虎卣は異彩を放つ。足が止まり釘づけとなる。人間の男は写実的であり怪物に抱かれて大きな眼を見開いている。男の左右の耳が実におもしろい。左耳は頭部のあるべき位置にある。ところが虎の胸に隠れて見えないはずの右耳までも見えている。像の一部としてではなく、まるで解説でも付すかのように顔の横に書き添えられている。からだの表と裏を同一面に描いた近代の抽象絵を見たことがあるけれどもそれを思い起こさせる。しかも両耳は他の部分に比べてだいぶ抽象化されており、記号に近い印象をあたえる。絵から文字にいたる過程の一つを垣間見たような不思議な感覚にとらえられた。

 これと瓜二つの青銅器がフランスのチェルニュスキ博物館にあるという。林巳奈夫著『中国古代の神がみ』(吉川弘文館。2002年、11頁)に写真(部分)が紹介されている。両者くらべてみるとチェルニュスキ博物館の方は作りがつたないという印象をあたえる。例の男の耳であるが、耳たぶのようなものが描き出されており、泉屋博古館のものよりもやや複雑な造形となっている。

 チェルニュスキ博物館の「乳虎卣」の全体は以下のサイトで見ることができる。
   http://www.paris.fr/EN/ASP/SITES/SITE.ASP?SITE=02006
(Yoshiike)[2004.11.3]

水文字で村おこし
 昨年末、中国・天津の南開大学でカム・タイ諸語に関する集中講座があり、知り合いの研究者や大学院生らとともに出席して来た。最後の二日間は日中双方の出席者による研究討論会に当てられ、僕自身の発表は芳しいものではなかったが、実り多い一週間だったと思う。

 討論会では多くの発表が行われたが、その中に南開大学の大学院生である孫易さんの「水語水文字新論」と題する発表があった。孫さんはその年の夏に貴州で行われた言語調査の折に僕の妻と知り合ったそうで、滞在中の僕にも何かと親切にしてくれた人である。

 孫さんの発表は中国西南の少数民族である水族に伝わる「水文字」に関するもので、その夏に発見された新資料の紹介をも含む力作だった。結論は、水文字は既存の漢字を改変して作った人工の文字であり、その起源は早くても明末までしかさかのぼれない、というもので、おそらく研究者ならば誰もが首肯できる妥当な結論であろう。

 しかし孫さんは発表の最後に、水族の人々の間では水文字は漢字以前の発明にかかる正真正銘の古代文字であると信じられており、このような結論を公けにしてしまうと自分は今後水族の人たちに顔向けできない、と付け加えていた。聞くところでは、水族に限らず西南の少数民族は観光以外に頼る収入源がないため生活レベルが極めて低く、素性を隠して広東などに出稼ぎに行く若者も多いという。水族にとっては水文字も貴重な観光資源の一つというわけで、むやみに真っ当な説を広められては困るという気持ちもわからないではない。

 そういえば、大学院生の時にK先生から聞いた話で、『三国演義』の作者とされる羅貫中の本貫をめぐっては複数の候補地が名乗りを上げて論争を繰り広げており、さながら皆が羅貫中で村おこしを目論んでいるようだ、というものがあった。もちろん、日本でも同様のことが日々行われているのだから笑ってはいられない。むしろ、村おこしの手段としてその土地に伝わる文字があることをうらやむべきであろうか。(Takekoshi)[2004.11.1]

「食わず」と「忍ばず」
 あるTV番組のコーナーに「食わず嫌い王決定戦」というのがある。二人のゲストが 4品ずつを食べ、1品だけ混じっている実は大嫌いな食べ物を互いに当てあうものである。 この場合の「食わず嫌い」は単に「食べるのが嫌い」という意味で用いられている。 一般に「食わず嫌い」と言えば、「食べたこともなく、味も知らずに嫌いだと思い 定めること。」(広辞苑)と解釈するのが普通であろう。しかし実際には「食わず嫌い王決定戦」の ゲストたちは、その物を食べたことがあり、理由もあって嫌いなのだ。したがって、 この番組での「食わず嫌い」の用法は一般のものとは異なっている。では、 これが単なる誤用なのかというと、そうとも言い切れない。 私の個人的な見解としては、「食わず嫌い」は もともと「食べるのが嫌い」という意味であって、広辞苑のような解釈はかなり後の (あるいは最近の)ものなのではないかと思う。

 「負けず嫌い」という言葉がある。「食わず嫌い」と同様の語構成である。 「負けず嫌い」の意味は「負けるのが嫌い」ということであって、決して「負けた ことがないのに嫌いだと思う」ことではなかろう。とすれば、「 食わず嫌い」の方も「食べるのが嫌い」と解釈するのが自然である。

 では何故、「食わず嫌い」の解釈が変ってきたかというと、否定の「ず」が 含まれているからである。理屈から言えば、食うのが嫌いなら「食い嫌い」や「食べ嫌い」 でよいはずだし、「負けず嫌い」は「負け嫌い」でよい。実際、広辞苑で 「負けず嫌い」を引くと「負け嫌い」を見よとある。思うに、「嫌う」という言葉それ 自体に否定的なニュアンスがあるため、否定辞「ず」がついつい入り込んだのであろう。 このようなことはそれほど珍しくはない。例えば、「富士の高嶺に降る雪も 、京都先斗町に降る雪も、雪に変わりはないじゃなし、溶けて流れりゃみな同じ」という 歌がある。理屈を振りかざせば、「雪に変わりがあるじゃなし」でなければおかしいのだが、 あまり気にしないで聞いてしまう。この場合も、「~じゃなし」という否定表現が ついついもう一つの否定辞「なし」を誘発してしまったわけである。ほかに「疑う」と いう動詞なども否定的なニュアンスがあるので、「~ではないかと疑う」のように「ない」を 要求してしまう。

 フランス語などにも同様の現象がある。Elle a peur qu'on ne la voie.(彼女は 人に見られるのを恐れている。)における「ne」がそれで、フランス語文法では 「虚辞のne」と称する。「見られやしないかと恐れる」というニュアンスだ。 この呼び方に倣えば、「食わず嫌い」の場合は、さしずめ「虚辞の“ず”」 ということになる。

 話は変わるが、上野に「不忍池」という池がある。「しのばずのいけ」と読む。 愛知環状鉄道の電車に揺られながら、「しのばず」とは何かを考えた。 この電車は車内がきれいなのと人があまり乗っていないので思索にはすこぶる 向いている。 本気で調べるなら、文献を あされば早くカタがつきそうだが、本の中に必ずしも真実があるとは限らないし、 なにより語源の探索は頭の中で考える方がずっと楽しい。 「不忍」は、本来は「偲ぶ」の尊敬語「偲ばす」だったのではないかというのが 私の妄想的結論である。本来は「恋しい人をお偲びになる池」ということではなかったか。 この池は蓮の名所でもあるから、あるいはその「はす」ともかけているかも知れない。 それがいつしか尊敬の「す」から否定の「ず」へと再解釈されて、 「不忍池」と漢字をあてられたのではないか。 それにしても「もう堪忍ならない池」というのは「池」に対してあまりと言えばあまりな 名前ではないか。(Nakamura)[2004.10.27]

形態素主義と表音主義
 最近『翻訳老乞大』の朝鮮語部分をT氏と一緒に週に1回ゆっくりと読んでいる。 2人とも全くの素人である上、読んでいるのが 500年ほど前の朝鮮語ということで、かなり手強いが、初めのうち 苦労したのは語彙や文法の古さよりはむしろ表記法であった。 現代朝鮮語は概ね形態素主義の表記法を取っている。 そのため、一つの形態素はいかなる環境に現れても(つまり発音が 変っても)表記はほぼ一定である。文章を読む立場からすれば、 これは非常にありがたいことで、習いたての外国人にもたやすく 辞書が引ける仕組みである。 しかし『翻訳老乞大』の朝鮮語はそうではない。多くの場合、発音を 忠実に表記しようとしているため、形態素の切れ目が簡単に分からないように なっている。現代語に比べれば、驚くほどの表音主義と言える。

 そもそも、朝鮮語ほど異音の豊富な言語は珍しいだろう。 3つ以上の異音を持つ形態素が無数に存在する。したがって、表音主義を 採用すれば、当然表記のバリエーションが増えることになる。したがって、 そのような『翻訳老乞大』の朝鮮語を理解するための最初の作業は 文章を声に出して読むことである。一見しただけでは何の単語か分からなくても 声に出して読むと、なんだこれか、ということがしばしばある。 母音が多少変ってはいても、声に出して読むことにより、 対応する現代語を想起しやすくなる。

 いくつかの語では、同じ環境にある場合でも表記法が異なることがある。 つまり綴りが統一されていないわけだが、それこそが実際の発音によりつつ表記した 証とも言える。 どの言語においても、実際の発音を忠実に文字にするのは容易ではなく、 生きた言語を表記しようとすれば、表記のゆれは避けがたい。異音の多い 朝鮮語においては尚更である。

 『翻訳老乞大』にはまだまだ手こずりそうだが、 忘却の彼方に沈んだ現代朝鮮語の再学習も兼ねて のんびり読み続けるとしよう。(Nakamura)[2004.10.25]

サイト紹介:古代ソグディアナの貨幣
 COINS OF CENTRAL ASIA http://www.sogdcoins.narod.ru/english/index1.html イスラム化以前のソグディアナ地方の様々な貨幣を画像とともに紹介する。その中で もChach(タシケント)のソグド語銘文貨幣の箇所は圧巻。ただし、写真が重いためか、 サイトの動きはすこぶる鈍い。(Yoshiike)[2004.10.13]

擬古的発音
 古典の文章をどのように読む(発音する)かは、なかなか難しい。 中国における漢字のように文字それ自体に音声の情報が明瞭に表れない ものの場合はあまり問題にならない。漢字を現代音で読めばよいだけの ことである。しかし、アルファベットや日本の仮名のように文字が なんらかの音声情報を持っている場合には対処は簡単ではない。 日本の古典作品の朗読には不思議な習慣があって、 「ゆきかふ」を「yukikoo」と読んだりする。NHKの朗読や受験用の古典朗読で この読みが採用され、高校の先生もしばしばそう読む。 思うに、この読みは江戸時代の関西の(ないしはそれを踏襲した江戸の学者の?) 伝統を引くものであろう。 現代人(とりわけ私のような東の人間)が古い日本語を近世の関西風に 発音することには、積極的な意義はないと思うのだが……。 (Nakamura)[2004.10.13]

サイト紹介(ONS)
 Oriental Numismatic Society(ONS) http://www.onsnumis.org/ ONSはインド、中東、中央アジアなどの地域に渡る古今の貨幣の研究機関。 定期的に発行されるNewsletterにより、この方面の最新情報を入手できる。 (Yoshiike)[2004.10.2]

大原美術館の甲骨文字資料
 倉敷駅前の大通りを20分ほど歩き左手に入ると大原美術館がある。門をくぐり右手を見ると土蔵のような東洋館があり、その二階に甲骨文字資料がある。十数片という小規模の展示であるが、ウイークデーは人影もまばらで資料に顔を近づけ心ゆくまで見ることができる。骨片は光沢を発し、文字もくっきりとしている。三千年以上の時を経ているとは思えないほどである。 骨片の横には伊藤道治氏による字解がふされている。(Yoshiike)[2004.10.2]