おろしゃ会会報 第12号

2005年7月29日

日本の秋2004年 多治見市虎渓山永保寺 加藤千知(かづとも)氏撮影

 

まえがき... 2

追 悼... 2

ヴャチェスラフ・M・ザグレービン氏... 2

手紙の縁−「まことの友」を偲んで... 4

ソロヴェイの鳴き声に誘われて... 8

デルスー・ウザラーを探して... 11

ハカシア共和国「ユキヒョウ」キャンプ 場... 15

ツングースカ川のエヴェンキ... 24

シベリアの古都トムスク市... 33

ベロモルスク=バルト海運河の旅をして考えたこと... 40

ロシアの正月... 45

プロコフィエフの祖国、憧れのロシアを訪れて... 48

ロシア旅行が与えてくれたもの... 55

マーシャのこと... 57

10月19・ 30日・31日に開催された県大祭で... 58

おろしゃ会模擬 店大繁盛・NHKでも放映... 58

12月19日・ 日曜 第9回エクスクルシア... 59

映画『パパってなに?』(BOP)を観て... 61

 

まえがき

 

愛知県立大学 文学部 英文学科4年  加藤彩美

 

 私はこの4月で4年生になった。大学生活が3年終わり、残すところあと1年になった。大学で学んだことや得たものは、とても大きく、多い。英文学科という枠を越えて、多言語・他文化に興味を持つことができたのも、そのひとつだ。話す人がいて、言語がある。暮らす人がいて、文化がある。そんな単純なことをあらためて感じたのは、昨年のロシア旅行であったように思う。ロシアで知り合い、友達になったマーシャは、私の持つすばらしい宝物のひとつ(ひとり)だ。互いの言語や文化に興味を持ち、学びあうことがこんなに楽しいとは、たとえば高校生のころの私だったら感じもしなかった。高校生のころの私がしていたのは、そこで暮らす人のことになど思いを馳せず、ただ文法や発音だけにとらわれていた学びであった。

 私は将来、教育に携わりたいと考えている。そこで私が伝えたいのは、人と人の関わりだ。時代が移っても、人と人の関わりの重要性は変わらない。そして、その関わりかたは友好的であるのが一番だ。身近な人との関わりから、少しずつ世界を広げていくこと。それを体感できることはとても幸せなことだと思う。知識だけが先走りしてしまうのではなく、手にとって感じられる喜びを感じることが理想ではないだろうか。

 私はまたロシアへ行く計画を立てている。あるテレビ番組でイルクーツクが取り上げられていたときは、まるでそこが自分の故郷であるかのように、見入ってしまった。季節は冬。その寒さを想像するだけで凍えてしまいそうだし、それはテレビ画面からもじゅうぶんに伝わってくるのだが、私はそこで暮らす人々のあたたかさを知っている。

 

 

 

 

 

追 悼

ヴャチェスラフ・M・ザグレービン氏

 

ロシア連邦ナショナル・ライブラリー(旧シチェドリン記念公共図書館)手稿部の古文書学者ザグレービン氏が他界された。私が氏の訃報に接したのは、昨年の11月末頃、三浦清美さん(電気通信大)からのメールにおいてであった。別件でやりとりしていた三浦さんのメールの中に「そういえば、ペテルブルグで故ザグレービンさんのところで加藤さんのことが何回か話題に上っていました。日本人のカタシロを知っているかといわれて、片代、形城などといろいろな漢字の組み合わせを思い出しながら、知らないと答えたら、加藤さんのことでした。ザグレービンさん、亡くなったの、ご存知ですよね。突然のことで、私も本当にびっくりしました。」と書いてある。俄には信じられなかった。なぜなら、数ヶ月前に、中村喜和先生を介して氏からのプレゼント(美しいティーカップ)をもらったばかりだったからである。わずかの隙に幽明境を異に するのは人の世の習いとは言え、あまりにも切なく、寂しい。年末に、ロシアの友人たちに電子メールで新年の挨拶を送ったが、氏のアドレスもそのまま入れて おいた。するとすぐに奥様のジャンナさんから返事が来た。思いがけないメールには、「スラーヴァ(ヴャチェスラフの愛称)は残念ながらもうこの世にはいま せん。2004年10月9日心筋梗塞のため他界し、今はスモレンスク墓地で眠っています。皆さんが彼に頼んでいた仕事を、もしよかったら私にやらせてください。自分も手稿部で働いていますから、喜んで、出来るだけのことはいたします」とあった。氏の他界を改めて確認することとなった。

ロシア研究者で、何らかの形でザグレービン氏の世話になった方も少なくないだろう。その中でも私をザグレービン氏に紹介して下さった中村喜和先生は、まさに「まことの友」として、共同で研究を進めておられる真最中であった。先生にザグレービ ン氏の追悼文をお願いしたところ、早速、以下の文章を寄せてくださった。(加藤史朗)

 

2003年5月23 日夕刻 ペテルブルク郊外レヴァショーヴォにて(加藤史朗写)

 

 

手紙の縁−「まことの友」を偲んで

 中村 喜和  (一橋大学 名誉教授)

 

 

 A. ロシア人から白樺の皮に書かれた手紙をもらった人は 少ないだろう。いや、これはちょっと遠慮した言い方で、本当は、私のほかにあるまいと言いたいのである。しか も、それはグラゴル文字で書かれていた。
 2000年の秋に、私はサンクト・ペテルブルグを訪ねた。ドミートリー・リハチョフ博士の一周忌の記念 に、国際学会が開かれたのだ。9月30日が祥月命日にあたっていた。会議の参加者一同、 フィンランド寄りの郊外のコマロヴォ墓地へ出かけ、先生のお墓に花をささげた。まだ墓石はなく、小ぶりな木の十字架が立てられているだけだった。
 その翌日が日曜日で、古都ノヴゴロドへのエクスカーションが組まれ ていた。2台のバスに分乗してどちらにも空席がなかったから、 かなりの人数が見物に加わったことになる。私がヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ、すなわちザグレービンさんから一片の白樺の表皮を手わたされたのは、ノヴゴロドのクレムリンの中 を団体でゾロゾロ歩いているときだった。
 言うまでもなく、白樺文 書はノヴゴロドの名物である。第二次大戦後になって発掘がはじまり、この町の古い地層の中から今までに千点近い白樺の手紙が出土している。おかげで、中世 のノヴゴロド市民の生活の実態が明らかになった。(くわしくは、V.ヤーニン著、松木栄三・三浦清美訳『白樺の手紙を送りました--ロシア中世都市の歴史と日常生活』2001年、山川出版社を参照されたい。)
 ザグレービンさんの手紙 はタテ3センチ、ヨコ6センチほどの大きさだった。文字は現在のロシア語で 使われるキリール文字ではなく、それより一段と古いとされるグラゴル文字で書かれていた。9世紀に成立したと考えられ、主として丸や三角を組み あわせたような字体のアルファベットである。私は即座にこの手紙を読み下すことができなかったので、日本へ戻ったら返事を書くことを約束した。結局、この約 束は果たすことができず、2年後にペテルブルグでザグレービンさんと再会したと き、部分的に彼の助けをかりて読み解くことができた。日本語に訳すと以下のような手紙だった。
 《本状は7508年[西暦2000年のこと--中村]10月1日、ユーリエフ修道院のわきより出土せしもの。無断 で持ち去る者は鼻欠けに至らん。ハッ、ハッ、ハッ。ザグレーバ[彼は ふざけて自分の名前を短くしている]、本状を記す。片目つぶって祝福たまわれ。お辞儀は無用。アーメン》
 念のため、キリール文字 に直して彼が書いてくれた文章を、ローマ字に移して示そう。(私のパソコンは無学でキリール文字を発信できないのです。)《Sie gramotitsa naidena vozle Yurieva monastyrja leta ... Kto vozmet ee besprosu, tot ostanetsa bez nosu.
Ha, ha, tju, tyu. Zagreba psal da che krivo blagoslovite, a ne kljanite. Amin》
 この手紙を見ただけで、 ザグレービンさんがどれほどユーモアに富んだ人物か想像できるだろう。彼はバス遠足の前日、 ロシア国立図書館手稿部に在籍する古文書学者らしく、白樺文書とグラゴル文字をタネに極東からきたロシア文化研究者を揶揄しようとしたのである。私たちは それ以前からの知合いだったが、この小旅行を期にいっそう交わりを深めた。
 惜しいことに、その白樺 の手紙はおととし引越しのときに失ってしまった。

 B. 2002年の晩秋にペテル ブルグをたずねたのは、モスクワでひと月ほどかけて用事をすませて、リトアニアでの旧教徒会議へおもむく 旅のついでという意味合いもあったが、ちょうどそのころ『大黒屋光太夫史料集』(山下恒夫編、全4巻、日本評論社刊)の校正が最終段階に達していたので、何か光 太夫関係の史料を探しだせるのではないか、という期待か らだった。事前にいろいろ手紙でやりとりをしておき、ペテルブルグに着くとさっそくザグレービンさんの勤める図書館へ出向いた。よく知られているように、 ロシアでは文書館や図書館の手稿部を利用するには実に煩雑な手続きが必要である。しかしこのときはザグレービンさんが、ネフ スキー大通りからわきにちょっと入ったところにある図書館の入口に待っていて、そこから終始付き添ってくれたおかげで、難なく入館証を手に入れる ことができた。
 ロシアでは図書館の閲覧室ほど心が安らぐ場所はない。町の雑沓もここまでは ひびいてこない。座席は適度に埋まっていて、だれもかれも熱心にページをめくっている。外は日がな一日陰うつな曇天や雪空でも、暖房がはたらき、机には電灯がついている。私は一週間ほど通って、至福の時を過ごした。
 ここで私は目指す光太夫関係の未刊文書を見つけることはできなかったけれど、思わぬ 収穫があった。日本人が1813年に書いたロシア語の手紙に出会ったのだ。ザグレービンさんが見つけてきたのである。手紙の差出人は村上貞助という人物--ゴロヴニンをはじめ7人のロシア海軍の将兵が蝦夷地の松前に捕らわれていたときに通訳をつとめた人物である。その数年前にロシア船がサハリンやクリール列島中のエトロフ島を荒らすという事件があり、ゴロヴニンらはそのとばっちりを受けた格好だったが、僚友のリコルドや有名な豪商高田屋嘉兵衛の周旋などが効を奏して無事に 帰国する。(くわしくはゴロヴニン著『日本幽囚記』岩波文庫/『日本俘虜実記』講談社学術文庫、を参照されたし。)別れにさいして貞助がロシアの士官たちに与えたロシア語の送別の手紙が、ペテルブルグの国立図 書館の手稿部に眠っていたのである。
 ゴロヴニンの息子のアレ クサンドルは父親の跡を追うように海軍士官の道を選んだ。途中から 政治の世界に転進して、農奴解放後の大改革の時期に文部大臣を勤める。貞助の手紙は息子によって相続され、その息子の死後に他の文書類といっしょにペテル ブルグの図書館に収められたのではあるまいか、というのがザグレービンさんの推理だった。
 貞助の手紙の表には明らかに貞助の手とは異なる筆跡で次のような鉛筆書きがあった。「ゴロヴニン中佐の記録の中でしばしば言及される賢明で親切な日本人ムラカミ・テイスケがロシア語で書いた自筆の手紙」
 ザグレービンさんと私の 共同執筆でこの手紙を紹介する文章がナウカ書店の『窓』誌の124号(2003年4月)に掲載された。貞助の手紙のロシア語は文法的にいって完璧なものではないが、意味は立派に通ずる。日本語に訳せば、以下のようなものである。
 《ワシーリイ・ミハイロ ヴィチ[ゴロヴニン]殿/*ピョートル・イワーノヴィチ[リコルド]殿/フョードル・フョードロヴィチ[ムール]殿/*ニカンドル・イワーノヴィチ[フィラートフ]殿/アンドレイ・イリイチ[フレーヴニコフ]殿/ならびに、その他の諸氏へ  
 さらば、まことの友よ/私の心を汲み取ってください/その他のことは語ることができません/別れが残念でならないのです。  村上貞助 10月8日》
 文章もさることながら、 ロシアの習慣に則って、宛名が姓ではなくて名前と父称で書かれていること、捕らわれていた3人、迎えに来た2人の将校(*印つき)が階級的にきちんと正しい序列で並べられて いることなども、感服に値する。
 日付はロシア暦であり、ゴロヴニンが迎えに来たディアナ号に乗り込んだ日の翌日にあたり、その2日後の10月10日にディアナ号は箱館を出帆した。

 

      
村 上貞助の手紙「さらば、まことの友よ」『窓』第124 号(2003年4月ナウカ刊)より


 
C. リーコルドが村上貞助らに 宛てた手紙のことでザグレービンから知らせがあったのは、私が帰国してまもなくだった。これはリコルドの伝記の中に引用されていたのである。ゴロヴニンが1831年に亡くなったのに比べれば、同年(1776年)生まれながらリコルドは1855年まで長寿を保ち、最後は海軍大将に昇進した。他界 した翌年に、故人の部下の手になる伝記が出版された。その 中で彼が村上貞助、高田屋嘉兵衛と上原熊次郎(もう一人の通訳)の名前をあげて、幕府が外国船に対して「無二念打払令」を緩めて「薪水供 給令」を発したことを称賛しているのである。手紙の日付は1844年で、同じ年にオランダの軍艦が幕府に開国をすすめる国王ウィルレム二世の親書を長崎に もたらしているから、国際情勢と平仄は合う。むろん、1840-42年のアヘン戦争で中国が手ひどい打撃を受けたことと 無関係ではない。リコルドの手紙はエトロフ島での日露間の折衝の機微にまで触れていて、単なる一般論ではない。
 リコルドの手紙にはこう ある。《Kavaios Asalgaro [たしかに小林朝五郎という役人が松前藩にいた]がロシア船にやってきて、隊長からの命令として水と薪と食料の提供を申し出て、今後ロシア船はクナシリ、松前、本州へ来て食料の補給を受けることができるし、日本人とロシア人の友好的な交際ができると告げた由。これを聞いて私がいかばかり喜んだかお察しください......》
 しかも彼はこの手紙への 返礼として絹のキモノを受け取り、そのキモノをまとった半身像を描かせていた。伝記の記述によれば、繻子のようにツヤ のある青い寛衣をまとって、リコルドは訪ねてくる客たちに向かい得意げに和服の便利さを説いていたという。ザグレービンさんからは、カラー写真で撮影したその肖像画まで送られてきた。表地は青で、広い襟と袖口は朱色いう派手な衣服である。全体に厚手そうに見えるので、綿入れであるらしい。描いたのは画家として名のあるドミートリイ・マリャーヴィンで、この絵は現在ペテルブルグの海軍中央博物館が所蔵しているのである。
 ザグレービンさんは私の頼みもあって初期の日露関係に関心をいだくようになり、ペテルブルグじゅうの博物館をまわってはゴロヴニンやリコルドなどに関係する資料を熱心に追い求めていたのだった。
 リコルドの手紙が極東に 届いたと思われる1845年に、村上貞助はたしかに江戸で存命していた。端役ながら幕臣に取り立てられ、北辺の専門家として仕えていたのである。高田屋嘉兵衛 はすでに没し、熊次郎もこの世の人ではなかったようである。リコルドの手紙が江戸に着いたこと、まして貞助がそれを読んだ上、絹の式服をロシアの旧友に贈ったなどということは、実に信じがたいことだったが、私たちは「存疑」の符牒をつけたまま、この件についても、『窓』の125号(2003年7月)に二人の名前で小文を発表した。

 私たちは上に述べたB と C の手紙については、 両者で検討を深めて、いつかロシア語でも発表の機会があるはずだ、と話し合っていた。そのことは2003年の秋に、リハチョフ先生の二度目の追悼研究集会が ペテルブルグで開かれたときにも、あらためて話題にした。このときのエクスカーションの行き先はプーシキン市(ツァールスコエ・セロ)と改装成ったばかり のコンスタンチン宮殿で、ザグレービンさんも元気に参加したのだった。少年のようにいつも目をかがやかせていた彼が今はこの世にないことが納得できない。

 

『窓』第125号(2003年7月ナウカ刊)より

 

 

ソロヴェイの鳴き声に誘われて

加藤史朗

 

 

 

ソロヴェイの鳴き 声に聞き入るザグレービン兄弟(筆者写)

 

親しい人々が次々と世を去ってゆく。年をとると誰もが経験しなければならない悲しみである。今日(3月27日)は故郷の長兄から電話があり、近所の同級生がくも膜下出血で亡くなったという。故郷で幼き日を共に過ごした人々のうちすでに三人が鬼籍に入っている。幼馴染みの死は、他人事ではない。自分の中の若さを支えてきた何かがザックリと喪われ、諦念が滲み出てくる。だが、この年になって新たに出会い、再会を楽しみにしていた人の死は、諦念とは結びつかない。それは、中村喜和先生がお書きになっているように「納得できない」無念さというほかない。ザグレービン氏の逝去はまさにそうしたものだった。

私は半年間のモスクワ滞在を終え、2003年4月からさらに半年の予定でペテルブルクに滞在することになった。最初にしなければならないと思ったのは、国立図書館手稿部にザグレービン氏を訪ねることであった。モスクワ滞在中に中村喜和先生から氏のことを聞かされていたからである。私が病身の妻とともにへたり込むようにしてペテルブルクに到着したのは、4月10日であった。しかし、妻の病が癒え雪解けの始まった街に出た途端にスリの集団にやられた。スリを古くは巾着切りと言ったが、ロシアのそれはそんな技術のかけらも持ち合わせぬ強盗であった。被害届を出しに行った警察署がこれまた暗くて恐ろしい場所で、サンクト・ペテルブルクは、魔都だと怖じ気づいてしまっていた。こうした中での氏との出会いは、救いであった。

初めて会ったときの情景は、今も鮮明に記憶に蘇ってくる。4月30日の朝、前日の電話で手稿部に氏を訪ねる約束をした。ところが手稿部の場所が分からず、古代文字のレリーフが飾ってある階段踊り場付近でまごついていると、セーターを着た初老の人が「カタシロ?」と声をかけてくれた。ザグレービン氏であった。なんだか旧友のように懐かしい人だった。彼は微笑みとともに早速、地下の食堂に私を伴い、お茶をご馳走してくれた。私の研究テーマを聞くとそれをメモして、稀覯本閲覧室やレファレンス室の司書たちと引き合わせてくれた。彼のお陰で、図書館での生活は充実したものとなった。モスクワ滞在中から禁煙していたのだが、彼と話をするために、図書館の喫煙室によく出向き、しばしばもらいタバコをした。時には仕事の後の一杯を付き合う仲ともなった。そんな雑談の折りに、かねてから中村先生がペテルブルクに行ったら、何はともあれ、ソロヴェイの鳴き声を聴いてごらんなさいと仰っていたと話した。するとロシア人にしては、珍しいクイック・レスポンス。数日を経て、アパートに電話がかかってきた。ソロヴェイの声を聴きに郊外に行こうというのである。

 

5月25日の日曜日、夜8時半に地下鉄のウデェリナヤ駅で待ち合わせ、そこから電車で15分ぐらいのレヴァショーヴォという所に行った。そこに彼の弟さんの家がある。トイレが外にある典型的な田舎の一戸建てであった。奥さんやお嬢さんとともに、夕食をいただいた。話をしている内に奇遇だと思った。当日の昼間、宮殿広場で建都300年記念パレードがあったので、それを見に行った。中でも美しい制服を着た楽団に感心して写真を撮ったのだが、その中にドラマーの弟さんが写っていた。夜10時近くまでコニャックなどを飲み、ほろ酔い気分で表に出た。戸外はまだ薄明かりである。テープレコーダをもって、近くの林の中に入る。一時間あまりもたたずんでいたろうか。チッチッと意外に鋭い鳴き声である。一羽が鳴き始めるとそれに呼応して木々の間から、降るように鳴き声が聞こえる。高い鳴き声の合奏はまるでモーツァルトの「魔笛」の一場面を聴いているような感じであった。これまで全く無縁の清々しい経験であった。

氏の訃報を聞いてから何ヶ月かが過ぎたころ、たまたまインターネットで「ロシアの復活」というサイトに行き着いた。そこでエヴゲニヤ・スモリャニノワの歌う「極楽鳥」(Райская птичка)という不思議な歌を知った。歌詞の大意は、次のようなものである。

 

若い修道士が修道院の草庵で祈りの日々を送っていた。神の前では、千年も一日のごとしと聖書に書いてある。だがほんとうだろうかと疑問を抱いていた。

 

ある時、美しい鳥が草庵に入ってきた。魅せられた若者は鳥の後を追い、丘向こうにある林に入っていった。そこで鳥の鳴き声に聞き惚れ、夢か幻のような一時を過ごす。小一時間も経ったであろうか。そろそろ帰らねばと思った刹那、鳥は矢のごとくさっと天高く飛び去り姿を消した。若い隠者はため息をつき、食事の時間に遅れないようにと急いで修道院に帰った。

 

ところが、戻ってみるとなんだか修道院の様子が変だ。門番も見知らぬ人で、門を開けてくれない。院長先生を呼んでくれと頼む。出てきた修道院長の顔は覚えがない。院長は、若者の名前を聞いた。若い修道士はアントニーと名乗り、自分の院長の名はイリヤだと応えた。それを聞いて、一同は吃驚した。イリヤとは三百年前の院長の名前であったからである。修道院長は、三百年前の復活祭の日にアントニーという名の若者が行方不明になったという記録があると告げた。

 

修道院長や修道士たちの前で、アントニーはたちまちにして老人の姿と化した。三百年は一時の内に過ぎたのである。彼は地に跪き二日間祈り続けた後に息絶えた。

 

 

 まさに浦島太郎の世界である。エヴゲニヤは、日本の数え歌のような調子で、透明感のある声でたんたんと物語るように歌う。何度も何度も聞いていると、ソロヴェイの鳴き声に魅せられていたザグレービン氏の姿が若き修道士のイメージとなって浮かび上がってくる。次のサイトを訪れ、「極楽鳥 Райская птичка」という歌をぜひ聞いてみて欲しい。

 

Евгения Смольянинова

 

http://pesni.voskres.ru/music/esmol.htm

 

デルスー・ウザラーを探して

 

朝日新聞(名古屋)記者 前川和彦

 


 岡本武司著「おれ にんげんたち−デルスー・ウザラーはどこに」という本が2004年夏、出版された。
 かつて新聞社の社会部(いま報道センター)で机を並べた岡本 武司記者の遺作である。
 浪速友あれ、朝日新聞の2004年8月26日付名古屋市内版 に、「人柄ほれ生涯追った−ロシア沿海州・先住民の猟師デルスー」という見出しの記事を書いたので、まずそれをご覧いただきたい。


(記事ここから)
 ロシアの沿海州で約100年前、ロシアの探検隊を案内した先 住民の猟師デルスー・ウザラー。その人柄にほれ込んで、猟師が生活した土地に住み、生涯の背景を探った本「おれ にんげんたち−デルスー・ウザラーはどこ に」が出た。筆者は2年前に亡くなった岡本武司・元朝日新聞記者。現地でまとめた原稿を持って帰国したが、1カ月半後にがんのため67歳で死亡。遺志を継いだ妻一子さん(60)=常滑市=が記者時代の友人らの協力で本にした。

 デルスーについては、探検隊長アルセニエフの著書を訳した東 洋文庫「デルスウ・ウザーラ」で一部に知られていたが、黒沢明監督が撮った1975年公開の映画「デルス・ウザーラ」で一般に親しまれるようになった。

 クマやシカなどの動物はもちろん、火や水まで人間と同じよう に声を掛け、アルセニエフを感動させた。また、遭難しかけたアルセニエフは、デルスーに命を救われたこともある。

 一子さんによると、岡本さんはロシア文学にひかれ、30代で ロシア語を学び始めた。デルスーには、語学教材だった映画で強く興味を持ったらしい。尾鷲支局(三重県)や半田支局に勤務中もロシアを訪れたが、退職後は 2000年からハバロフスクやウラジオストクに住み、日本語教師を務めながら大学でロシア語に磨きをかけた。

 先住民の研究も続け、デルスーが住んだタイガ(針葉樹林)に 出かけて関係者にインタビューを繰り返した。アルセニエフ自身が書いた記録も調べた。彼の著書にはフィクションが含まれていることを指摘し、ロシア革命の 混乱に巻き込まれたアルセニエフとその一家の歴史まで書き込んだ。

 変わった本の題は、たどたどしいロシア語を話すデルスーが森 林の闇の中から登場する場面で、自らを表現した言葉による。岡本さんは書いている。「世界がいかに混迷しても、私たち一人ひとりがにんげんたちなのだ」

 一子さんは「ダイビングや乗馬など、一度のめり込んだら徹底 して取り組む人でした。ウラジオストクからかかってきた電話の『興味深い資料が見つかった。本が書けそうだ』というはずんだ声が、まだ耳に残っています」 と話している。ナカニシヤ出版(京都市)刊、1,890円。
                                    (記事はここまで)

 「デルス・ウザーラ」が有名になったのは、黒沢明である。
 だが、私には晩年の黒沢映画は面白くないので「デルス・ウザーラ」は見ていない。
 「本を読む前にとにかくデルスについての知識を即席にでも蓄 えないと」と、まず映画が封切られたころに映画を当て込んで作ったらしい角川文庫「デルス・ウザーラ」を読んでみた。

 「デルス・ウザーラ」というまとまった本があるかのように思 うが、この辺りは複雑で、アレクセーエフがデルス・ウザーラについて書いた本には「ウスリー地方探検記」(インターネットで原書全文が読める)と「デル ス・ウザーラ」など複数あるようで、それらにまたがって、デルス・ウザーラとの出会いから死別までが書かれている。
 東洋文庫の「デルス・ウザーラ」は文字通り原書「デルス・ウザーラ」の翻訳で、いわばデルス・ウザーラとの付き合いの後半部分だから、出会いの場面はない。
 角川文庫版はいい意味での角川商法で、上記二冊からデルス・ ウザーラについて書かれた部分だけを抜き出して翻訳してある。
 角川版はなかなか面白かった。黒沢明も岡本氏も引き込まれる 理由が十分わかった。

 そこで黒沢映画を見た。
 主人公はどこで探したかしらないが写真の残っている本人によく似ている。
 ロシア語のたどたどしさも人柄をよく出している。
 しかし、映画の悲しさでエピソードを絞らなくてはならなかったため、虎を恐れるところだけが強調されて、動物全体について人と同じように付き合っているというデルス・ウザーラの優しさが伝わってこなかった。

 というような仕込みをして岡本氏の本を読んだ。 それにしても短期日でよく纒めたものだと感心する。 机を並べていたころ、お互い本立てにロシア語の辞書があった。 こちらはロシア語を囓り掛けたが「ほとんどの動 詞には不完了体と完了体があり、それぞれが想像を絶する活用をする」ということが解り掛けた段階で腰が引けて、それ以上続ける情熱が醒めていたのである が、岡本氏は定年直前というのに、ロシア語の単語帳にチェックを入れながら一語一語覚えていた。
 ロシア語に関していえば、デルスのロシア語は、なかなか勉強 が進まないロシア語学徒にとって福音である。なにしろたどたどしくてもちゃんと通じるのだから。本書の中にもデルスのロシア語に関する著述が出てくる。ど うやら、デルスは不完了体しか使っていないようなのだ。そして、変化で一番短い(?)命令形で済ませているみたいなのだ。
 おお、ロシア語よ。汝がそんなに簡単であれば、悩みなど一切 無く、たちまちのうちに上達してしまうであったろうものを!と思わずツルゲーネフ風にロシア語讃歌を口ずさんでしまいそうだ。

 話は岡本氏の戻るが、定年後すぐにロシアに移り住み、こんな 研究をしようとは予想できなかった。亡くなる間際にロシア正教に改宗したのも、ロシアへの情熱がいかに大きかったかを示している。
 ちなみに、黒沢の「デルス・ウザーラ」はいま市井のレンタ ル・ビデオ屋でほとんど見かけない。やっと見つけて見たビデオは、かなりの回数貸し出されたと見えて、画面が安定せず、画質もかなり粗くなっていた。
 DVDになっていると聞いた。なんと国内では6,000円な どという価格が付いている。ところが半額の英語版を見つけた。早速購入して、見てみたらなんと画質は、くたびれたレンタルビデオとほとんど変わらないでは ないか。くたびれたビデオをそのままDVDにしたらしい。ちゃんと原盤から再製してほしいものである。
 
 なお、一子さんは「夫が世話になった人たちに夫の感謝の気持 ちをしっかり伝えよう」と昨年11月末から1週間、ウラジオストクへ出掛けた。帰ってきて「次から次へ会いたい人に会え、喜び合って、抱き合い、泣き、夫 がいかに大切にされていたかを実感し続けました」とメールで報告があった。
 上記の記事だが、「ほかの新聞社に抜かれる心配は無し」と ゆっくり取材して、のんびり書いていた。そして某日、社内報が配られたので眺めていたら、「朝日人の著書」という欄に、なんとこの本が紹介されているでは ないか!長い記者生活で身内に抜かれたのは初めてである。
 デルス・ウザーラ、沿海州、ウラジオストク、それにロシア 語。こんな単語に出会うたびにこれからも岡本氏を思い出すだろう。こういう思い出しかたをされる人は幸せだと思う。(終わり)

ロシアにおける岡本氏

 

ハカシア共和国「ユキヒョウ」キャンプ 場

2004年3月25日から3月30日

金倉孝子 (クラスノヤルスク国立総合大学講師

 

 ハカシアのステップにある古代人の古墳の石(撮影:金倉孝子)

 

 ロシア生活もあと数ヶ月となり、月1回くらいの割で近場へ小旅行しています。日本から、ここまで旅するのは大変ですが、ここに住んでいれば旅行会社に電話をかけたり直接出かけていって、よさそうなところを探すのも簡単です。
 さて、私が住んでいるクラスノヤルスク地方は南北に長く、北 は北極海から、南はサヤン山脈まで、面積は日本の6倍もあります。サヤン山脈はモンゴル高原の北への延長のようなものです。そのサヤン山脈のふもと近くまで行くとハカシア共和国で、サヤン山脈を超えるとトゥヴァ共和国(ロシアの一自治体)です。ハカシア共和国はソ連時代、クラスノヤルスク地方の一部でした が、今は別の自治体になっています。
 クラスノヤルスク市から、ハカシア共和国の首都アバカン市まで、自動車道で行くと400キロほどです。そのアバカン市から、南東に向かう道と、南西に向かう道に分かれます。南東の方が国道で、標高1068メートル のノレフカ峠を越えてトゥヴァ共和国の首都クィズィール市へ向かいます。南西の道も鉄鉱石の産地アバザ市を通り、2214メートルのサヤンスキー峠を越え て、トゥヴァ共和国の良質石綿の産地アク・ドヴラーク市に向かいます。
 その、サヤンスキー峠まで20キロほどのところにある「ユキ ヒョウ」キャンプ小屋に今回3日間滞在しました。

 クラスノヤルスク市からアバカ ン市までは南へ400キロ、アバカン市からアバザ市までは南西へ200キロ、そこからさらに100キロほど行ったところが「ユキヒョウ」キャンプ小屋で、 合計700キロですから、車で行くのにちょうどよい距離です。でも、私の車は古くて故障ばかりするようになったので、去年の夏売ってしまいました (2700ドル)。それで、バスか、列車で行くほかありません。
 クラスノヤルスクからアバカンまでは、1日に数本長距離バス が出ています。8時間はかかります。日本のように高速道路を走り、パーキングエリアでトイレ休憩をしたり、お茶を飲んだりという快適さは期待できません。 昼間のバスに乗ると到着は夕方になってしまいます。夕方アバカンに到着して、そこから300キロの山道をキャンプ小屋まで行くと、到着は夜中です。それで は途中の景色が暗くて見えません。しかし、朝早い時間にアバカンに着くにはクラスノヤルスク発夜行バスに乗らなくてはなりません。これは、体力が持ちませ んから、バスはあきらめて列車にしました。

寝台車に乗れば、夜ゆっくり寝ているうちに目的地につきます。ただ、アバカン市はシベリ ア幹線鉄道からは離れているので、ウヤル市経由の田舎の支線に乗らなくてはなりません。遠回りする上ゆっくり走るので15時間もかかります。急行ですともう少し早いかもしれません。急ぐ旅でもないので各駅停車でのろのろ走るのもいいものです。春分も過ぎて、昼間の明るい時間が延びましたから、窓からの景色 を楽しむこともできます。
 鉄道はアバカンで終わり、後はバス(それでもアバザ市までし か行かない)か車で行きます。私は車にしました。ちょっと車代は高いですが(往復で1万2千円)、去年売った車代の2700ドルもまだ少し残っていること ですし。

 クラスノヤルスク駅を夕方出発 して、翌日11時にアバカン駅に着くと手配しておいた車の運転手がプラットホームまで迎えに来ていました。ハカシアは北半分が草原、南半分がサヤン山脈と 言ってもいいくらいです。それで、北よりにあるアバカン市から、南の端の目的地まで行くうちに5つの気候帯の移り変わりが見られることになります。草原 (ステップ)帯、森林草原帯、亜針葉樹林帯、針葉樹林(タイガ)帯、山岳針葉樹林帯です。 

まず、アバカン駅を出発すると、どこまでも続く草原の中、遠くに木の生えてない低い丘を 見ながら車を走らせます。車の運転手は目の青いハカシア人でした。ハカシア人はチュルク語系なので、顔つきはアジア人なのですが、時々、目だけが北欧人の ように青色の人を見かけます。彼の話によると、両親も祖父母も生粋のハカシア人だそうです。ちなみに配偶者もハカシア人で子供が2人いるそうです。ハカシ ア人は数が減っているから、本当は子沢山の方がいいのに、などと話しながら、ドライブしていきました。まだ枯れ草しかない草原に牛や羊が放牧されているが 見えました。時々、止まってもらって、日本にはない草原の風景を撮りました。これが、路線バスと違っていい点です。「ユキヒョウ」キャンプ小屋までの道のりを楽しむことも、今回の小旅行の目的でした。

たいていのロシア人は「草原は何もなくて面白くない、山があったり森があったりした方が 面白い」と言います。草原が好きだと言うのは私だけです。草原地帯は降水量が少ないので雪もほとんど積もっていません。茫々とした冬の草原も私には異国的 です。

ハカシアは国全体が青空博物館と言われているくらい古代遺跡が多く残っています。アバカ ン市から南東のこのあたりも、古墳や、古代人の遺跡が多く見られます。草原の中、あちこちに高さ、1メートル2メートルの石が立っています。見晴らしがい いので遠くからもよく見えます。道のすぐ近くにも墳墓群があります。車を止めて近くへ行き、触ってみました。模様のあるのもあります。ハカシアは何度も旅行して廻ったことがありますが、一度にこんなに多くの遺跡を見たのは、はじめてです。

いちばん有名なのは女性の形をした「カメンナヤ・ババ」と言う石碑のようなもので、高さ 2メートル半もあり、おばあさんの巫女のような顔をしているようにも見え、手らしい部分もあります。この像をアバカン市の郷土博物館に持っていき展示して あったのですが、住民の反対で、また、元の場所に戻したそうです。神聖な巫女の像は、古代人が置いた場所にあるべきです。貴重な遺物なので、今度は、野ざらしではなく、木の小屋を作り、案内板も立て、周りを柵で囲いました。そして、一応管理人もいました。柵内には動物の絵がある石などあって、アバカン博物 館野外分館のような感じでした。旅行案内書によると、この地方は25000年程前のシベリア・スキタイ人の遺跡も多いそうです。

アバザ市に近くなると、草原も終わり、山林地帯になります。アバザ市は、もと、シベリア に渡ってきたコザック人たちが住んでいた小さな村でしたが、近くに鉄鉱山が発見され、19世紀に大発展しました。ハカシアの鉄鉱石産地として有名で、今、 町の回りにはぼた山がいくつもあります。鉄鉱石のぼた山を見たのは、私は生まれてはじめてです。私が「ぼた山、ぼた山」と言うので、運転手が、「いや、このぼたの中にも、まだ多少は鉄が含まれているはずだ」と言ったくらいです。

道路はアバザ市でアバカン川を渡り先に続いていますが、この先はほとんど町も村もありま せんから、私たちはここで一休みしました。アバザ市には「ユキヒョウ」キャンプ場経営の旅行会社もあるので、そのオフィスで車代を払い、お茶も飲みまし た。そして、今度は待機していたキャンプ小屋専属のガイド兼レクレーション係のエジックも同乗させて、今度は3人で出発しました。冬場のキャンプ場は客足 が少なく、週末にたまに来るくらいなので、エジックは普通はアバザ市にいます。今回お客の私が来たので、私のお相手のために私の車に便乗して小屋へ行くわ けです。この週末の客は、一人ぼっちの旅行者の私の他、クラスノヤルスクから、自分の車で2家族が来ることになっていました。

本当のユキヒョウはサヤン山脈の山奥深く、トゥヴァ共和国側に住んでいて、数が減っているので保護動物に指定されています。めったに人の前には姿を見せません。ユキヒョウの生息範囲は標高2000メートル以上で、ちょうどこのキャンプ場が下 限に当たります。古いシベリアマツと低木カバノキがうっそうと茂る中、キャンプ場の1階建てバンガローが6軒、2階建て4軒と、食堂やホール、蒸し風呂小 屋、従業員の住む家、事務所、家畜小屋などがあります。1階建てのバンガローにはペチカがあり、2階建ての方は暖炉があります。室内は、アカシカの角や、 熊の皮のインテリアがあります。本当はない方がいいです。

まだ雪は深く、寒いので、ペチカにはどんどんまきをくべなければなりません。それは従業 員がやってくれます。夜、寒くないように12時ごろたっぷりとまきを入れておくと、ペチカの中の火はほとんど消えても、煙突などの暖かさが残っていて、朝 方まで室内は暖かいです、朝早く、まだ私が寝ている頃、従業員がペチカの火をおこしにやってきます。そして室内が十分暖かくなった頃私も起きだして、9時 には朝ごはんです。

食事つき観光つきで1泊3500円です。少し高めなのはなぜかと言うと、ロシアの他の キャンプ場ではトイレ小屋が外の離れたところにあるのに、ここでは各バンガローに一個ポータブルトイレがあるからです。夜中に襟巻きをしてオーバーを着て 帽子をかぶってブーツを履いて外に出なくてもいいです。また、専用のコックさんがいて、私の好みを聞いて食事を作ってくれるのでした。エジックがキャンプ 場周囲の自然の中を案内して、動植物について説明してくれます。

夏なら、ここを基地に、日帰りの登山コース、ストックティシュ湖散策コース、1泊のマラ ンクリ湖キャンプコース、オナ川をボートやいかだで下るコースなど、サヤン山脈の自然を味わえるので、客も多いのですが、今は雪がまだ深くてどこへもいけ ないそうです。

私よりちょっと遅れて到着した家族連れはスキーをしに来たのでした。といってもここには リフトのあるスキー場がありません。この家族は、本当の山岳スキーの愛好家なので、リフトのあるような初心者用スキー場には行きません。キャンプ場の近く のサヤンスキー峠から峠のふもとまで長い斜面があって、そこを滑走するために来たそうです。

私はスキーはできませんが、海抜2214メートルのサヤンスキー峠に行ってみたかったの で、彼らの車に便乗させてもらいました。ハカシア共和国とトゥヴァ共和国の国境にあたるその峠はふぶいていて車の外に出ると震え上がるのでした。私たち は、いったん峠を通り過ぎて斜面をぐるりとらせん状に回る道を通ってふもとに行き、到着点になるトゥヴァ側にあるふもとの場所を確認して、また、出発点の 峠に戻り、そこでスキーヤーたちは車を降りて滑り始めました。その間に車は、またふもとに行き、スキーヤーが滑り降りてくるのを待ちます。リフトに乗って上がる代わりに車で上がり、その車が下で待っていると言うことです。私も、車の中で、スキーヤーが滑り降りるのを見守っていました。白く雪の積もった遠 くの頂上から、黒い豆粒が3個ジグザグに下っています。雪のたまり具合や斜面の角度を見定めながら、慎重に進路を決めているらしく、いつまでも豆粒のまま です。ガイドのエジックは豆粒から目をはなしません。私はそのうち車の中で眠ってしまいました。

スキーヤーは、クラスノヤルスクで最も大きなスポーツ用品チェーン店の経営者一家でし た。

冬場の「ユキヒョウ」キャンプ場は、都会の喧騒から逃れ、シベリアマツ林の澄んだ空気の 中で、ペチカにまきをくべながら一休みするにはいいところですが、退屈でもあります。そうだろう思って3日間だけの滞在にしたのですが、それでも退屈でし た。それで、レクレーション係りのエジックの顔を見るたびに「今から何をするの」「午後からは何をするの」「明日は何をするの」と聞いていました。

キャンプ場近くに洞窟があるそうです。西シベリアはどこへ行っても大小の沼、東シベリア はどこへ行っても大小の洞窟があります。私は洞窟探検用の炭鉱夫のような上着を着せてもらい、洞窟内は水が流れているのでゴム長靴を貸してもらい、例に よってランプつきのヘルメットをかぶって、エジックや昨日のスキーの家族と、胸まである雪を掻き分けて、洞窟の入り口まで来ました。着膨れした上、胸ポ ケットにカメラや電池を入れていた私は、狭い洞窟の曲がりくねった隙間をするすると通り抜けていくエジックの後についていけません。こんな狭い隙間を無理 して通り抜け、戻る時に通れなくなったら、たいへんです。エジックに「ほら、私の胸がつかえて通れないわ」と言うと、「ちょっと背伸びをするか、しゃがむ かすると通れるよ」と言われましたが、やはり、先に進むのは止めて引き返しました。

一緒に来ていたスキーヤーの家族の少年と父親が、入っていきました。母親と私は外で待っていました。

キャンプ場に戻ると、また私の「今から何をするの」が始まったので、エジックはキャンプ 場で買っている馬に乗ったらどうかと言ってくれました。ここには普通の馬が1頭と、背が低く働き者のトゥヴァ馬が2頭います。馬は1キロほど離れたストクティシュ 川の下流からキャンプ場へ飲料水と生活用水を運ぶため飼われています。もともとキャンプ場の近くを流れていたストクティシュ川が数年前に流れを変えたの で、冬場の凍らない水が近くの洞窟の中に流れ込み、そこから地下水となり、少し下流になったところでまた川になって流れるのです。それで冬場は、そこまで 水を汲みにいかなくてはならず、それを車ではなく、何と馬がやってくれるのです。その馬の世話係の従業員もいます。馬は、午前中は水桶を積んだそりを運ばなくてはならず、午後は私を乗せて散歩しなければならないので大変です。馬の手綱を持って引いてくれる従業員と一緒に、森の道を行くと、昨夜降った雪の上 にさまざまな獣の足跡があるのでした。その従業員は、現地の人のようで、足跡からどんな獣なのかわかるそうです。たいていの足跡はウサギでした。でも、ク ロテンもいました。馬も疲れているでしょうし、それに、馬上は高く寒いので、早めに乗馬は切り上げました。

ペチカにはシベリアマツの薪をくべます。各バンガローの前にも、食堂前にもホール前に も、至る所薪の山がありました。貴重な木材なのに薪にして燃やしてしまうとはもったいない話です。でも、シベリアは昔からこうしてきました。暇な時はその 木片、つまり木地で木のさじや茶碗や皿などを作り、それが昔のシベリアの食器でした。「次は何をするの」といつも聞く私に、エジックは、このさじ作りを勧 めました。手ごろな薪を選び、ざくざくと斧で大体の形を整え、鉛筆でさじの形を書き、どの方向にどこまで彫ったらいいか教えて、鑿(のみ)を貸してくれました。これは仕上げるまでに時間がかかります。鑿で彫ってから、研磨紙で磨いてすべすべにしなくてはなりません。いったんはじめた仕事なので、食堂でもビ デオを見ながら、しこしこと擦っていました。そのうちいやになってテーブルに置きっぱなしにしておくと、エジックが仕上げてくれ、最後の塗料を塗るところ は私にやらせてくれました。お客とはいえ、私のお世話も大変です。

滞在中に3月最後の週末があり、その時、夏時間に移行しました。アバザの本社と無線通信があるだけ でテレビもラジオもないキャンプ場は、夏時間になると時刻を1時間繰り下げるのか繰り上げるのかわからなくて、結局1時間余計に寝坊のできる繰り下げる方にしました。朝、薪をくべに来た従業員が「通常の時刻では今9時だが、今日からのサマータイムではまだ8時だから、朝食は1時間後ですよ」と言っていきました。サマータイムでは昼間の時間を有効に使うため通常の時刻を切り上げるはずです。ですから、昨日までは夕方7時過ぎには薄暗くなっていたの に、今日からは8時過ぎまで明るいはずです。みんな勘違いしています。食堂へ行ってコックさんに「今は8時ではなくて、サマータイムで は時刻が早まってもう10時のはずです」と説明をはじめました。納得してくれて、「まあ、今日は朝ゆっくりできる と喜んでいたの。10分間待ってね。今、急いでピロシキを焼くから」と言われました。私としては、朝食の時間 より、正確な時刻を知らないと、帰りの列車に乗り遅れるから、確認しただけのことでした。

キャンプ場を去る日の前日の夕方にはもう迎えの車が来ていました。朝9時に出発する私を迎えにキャン プ場に着くためには、アバザ市を7時前に出なければならず、それよりキャンプ場に前泊した方がいいと、あのハカシア人の運 転手は思ったようです。

エジックに送られて出発しました。その日も空には雲ひとつありません。この地方は降水量 が少ないのです。途中の道にガソリンを積んだタンク・トラックが横転していました。アバザ市からトゥヴァへ運ぶ途中の事故だったようです。横転したためタ ンクからガソリンが流れています。シベリアをドライブしていると、このような、もったいなくて、危険で、環境に悪い光景を時々見かけます。一番近い村から も何十キロも離れていますし、道端に公衆電話もありませんし、こんな辺鄙な所は携帯も通じませんから、事故を報告して、すぐ事故処理車に来てもらう訳にも いかないのです。事故車の運転手は、私たちの車を止め、アバザ市に行くのだったら、そこのガソリン会社に報告してほしいと頼みました。そして、流れ出ているガソリンをブリキ缶に受けて無料でくれました。

少しでも環境を汚染しないために通り過ぎる車みんなに分けているようです。ただ、辺鄙な ところなので、交通量はとても少ないですが。

 アバザ市に着くと、また、「ユ キヒョウ」キャンプ場の本社でお茶を飲んで一休みしました。今度はキャンプ場のオーナーから、日本人として感想はどうか、従業員のサービスはどうか、どん な点を改善したらいいかなどと訪ねられました。こんな質問は、ロシアでは珍しいことです。「ユキヒョウ」キャンプ場を利用して、ハカシアやトゥヴァをまわる、数日の「サヤン・ゴールデン・リング」と言うコースがあって、日本人観光客を勧誘したいが、という相談も受けました。そして観光用パンフレットなどを どっさりくれました。でも、私は旅行業に関係はないですし、将来その業界に入るとも思えないのですが。

 アバザ市からアバカンまでの 200キロは、また、遺跡の写真を撮ったり、草原を撮ったり、目の青いハカシア人の運転手のサーシャとここでの生活の苦しさなどについて話したりしている と、すぐ過ぎてしまいました。彼の子供2人は年子で、ほとんど同時に大学に入ったため教育費が高くて大変なのだそうです。ソ連時代はよかったと、長々と話 していました。田舎に住む人たちはみんなそういいます。

サーシャはハカシア語についても教えてくれ、この辺の地名の多くがハカシア語なので、ロ シア語に訳してくれました。トゥヴァ人や、キルギス人とお互いに現地語で話してもある程度通じるそうです。そのトゥヴァ共和国へ草原が一面花畑になったころ行く予定です。今のこの茫々たる枯れ草の草原がどう変化するのでしょう。

 

ハカシアのステップにある古代人の古墳の石

カシアのステップ、まだ花も咲かない3月

アバザ市への途中で転倒したガソリン運搬車、もれているガソリンは無料で

 

ツングースカ川のエヴェンキ

2004年4月9日から4月13日

金倉孝子 (クラスノヤルスク国立総合大学講師

 

 

クラスノヤルスク地方の北に、エヴェンキ自治管区という地方自治体があります。ロシア連 邦のちょうど真ん中に位置します。エヴェンキ自治管区の面積は日本の約2倍ですが、人口はたったの一万七千七百人です。ソ連時代エヴェンキ自治管区は、ハ カシア自治州やタイミール自治管区と同様、クラスノヤルスク地方(というひとつの自治体)の中に、含まれていました。今は、ハカシア共和国、エヴェンキ自 治管区、タイミール自治管区と、それぞれ独立した自治体になっています。ちなみに、クラスノヤルスク人は、今でも両自治管区はクラスノヤルスク地方に含まれると思っています。私もクラスノヤルスクに住んでいるので、なんとなく、エヴェンキもタイミールもクラスノヤルスクの一部だと思っていました。それで、 いつも近場を旅行している私は、次の目的地をエヴェンキにしたのです。

でも、その方面は、夏の旅行シーズンでもない限り、旅行会社は扱っていませんから、個人 的に手配するほかありません。エヴェンキ自治管区の管区庁(県庁)所在地はトゥラ町(人口6200人)なので、ガイドブックで調べて、そこのホテルに電話 してみました。電話に出た受付の人の話によると、各部屋にトイレもシャワーもないような寂れた宿のようです。もっと状態のいいホテルはないかと尋ねると、 管区庁の知事室受付に電話がまわされました。小さな自治体なので、管区庁の渉外部が旅行者も含め来客の受け入れをやっているのでしょう。

クラスノヤルスク市ですら、仕事で来たりスポーツ大会や国際会議参加などの用事で訪れた りする人はいても、観光客となると夏場の短い観光シーズンにちらほらと見かけるだけです。ましてや、クラスノヤルスクから小型飛行機で3時間以上も北の トゥラ町へ仕事でもないのに、ただ観光で訪れる人など、まず、いないのでしょう。ですから、トゥラ町の知事室受付の電話の相手も「日本人だが、トゥラ町と その周辺の観光を予約したい」と言われて、返事に困っているようでした。ホテルは予約できるが、これと言った観光はないということでした。そうかもしれま せん。

そこへちょうど、私の旅行好きを知っているある知り合いが、タチヤナというヴァナヴァラ 村から来ている女性を紹介してくれました。エヴェンキ自治管区は3つの区に分かれていて、ヴァナヴァラ村はそのうちのひとつ、ツングース・チュンスキー区 の中心で、人口三千三百人です。つまり、エヴェンキ内では管区庁所在地のトゥラ町が一番大きく、その次がバイキット区の中心バイキット村、それに次いでツ ングース・チュンスキー区の中心ヴァナヴァラ村は人口の多い村です。この村から60キロほどのところに1908年有名な謎のツングース大隕石が落ちまし た。今でも、夏の観光シーズンに、落下地点跡を見がてらハンティングやフィッシングに外国人観光客が訪れることがあって、タチヤナはそういう外国人の受け 入れをしているそうです。

タチヤナと会って話したところでは、隕石落下地点へはヘリコプターでないと行けない、今 行ってもまだ雪に埋もれていて何も見えない。村から1時間ほど車で行き、さらに数キロ、スノーモビールで行ったところにハンター小屋がある、そこに泊まってハンティングやフィッシングをするというのはどうか、ということでした。ヴァナヴァラ村滞在中は、田舎の不便なホテルではなく彼女の家にホームスティし たらいいと言うことで、料金(六百ドルとかなり高額)と日程を決めました。

クラスノヤルスク地方には、南はモンゴルから北は北極海へと、南北にほぼまっすぐ、長さ 4000キロのエニセイ川が流れています。その一番大きな支流は右岸のニジナヤ・ツングースカ川で、長さ2989キロあり、エヴェンキ自治管区の中ほどを 西から東に流れてエニセイ川に合流します。中流にトゥラ町があります。ニジナヤ・ツングースカ川より少し南に、やはり西から東に流れてきてエニセイに合流 する長さ1865キロのパドカーメンナヤ・ツングースカ川があり、その上流にヴァナヴァラ村があります。

クラスノヤルスク市からヴァナヴァラ村への交通手段は飛行機だけです。飛行時間は2時間 で片道の料金は約1万円です。ヴァナヴァラ村の住民なら、飛行機代は25%引きです。村民の足だからでしょう。景気のよかったソ連時代は毎日飛んでいまし たが、今は週2回だけです。きっと小さくて、古くて、ゆれゆれに揺れて、時間通りに発着しない田舎便だろうと、チケットを買ったときに思いました。一応定 期便ですから、そう簡単には落ちないでしょうが。

クラスノヤルスクからヴァナヴァラ村へ飛ぶのはAN24と言う飛行機で、乗ってみると、 意外と大きくて、52座席もあるのでした。ほぼ満席で、乗客は皆ヴァナヴァラ出身者らしく、何せ人口3千人の村ですからお互い知り合いのようでした。飛行 機も、この1台だけが飛んでいてスチュワーデスも乗務員もみんな顔見知りのようでした。飛行機が古いことにはもう驚きません。座席が多少傾いていても、背 もたれが倒れたままになっていても、エンジンさえ正常に動けばいいのです。機内には、手洗い用の水は出ませんでしたがトイレすらありました。窓からはプロ ペラと着陸用滑走車輪がよく見えます。

予想に反し、AN24機はダイヤ通り正確に離陸しました。予想に反し、揺れもしません。 下を見ると針葉樹林(タイガ)と低い山、その間を無数の川が蛇行して流れ、河跡湖を残しています。シベリアの典型的な空からの眺めです。何度見てもその雄 大さには見飽きることがありません。そのうち雲が出て下の景色は見えなくなりました。

1時間半も飛び、後30分で目的地と言う所まできて、ヴァナヴァラ村の飛行場が吹雪で着 陸できないから、出発点のクラスノヤルスクに戻ると言うアナウンスがあり、飛行機はユーターンしました。せっかくこんなに遠くまで、ブルンブルンとプロペ ラを回しながらがんばって飛んできたのに、また元のところへ戻るとは、と思いました。後で知ったことですが、以前は、こういう時は近くの空を旋回して吹雪 のおさまるのを待つか、最寄りの飛行場へいったん降りていたそうです。しかし、数年前、そうして旋回しているうちに燃料切れで墜落して以来、悪天候の時は 直ちに引き返すことになったそうです。また、最寄りの飛行場と言っても、この人口希薄な地方のくさはら空港は、今の不景気で閉鎖されたり、臨時の給油がで きかねたりで、結局、クラスノヤルスクに舞い戻った方が一番便利で安全と言うことなのです。

そういうわけで、元のクラスノヤルスク空港の待合室でさらに2時間半、天候の回復を待 ち、それから、再度手荷物検査をして、またもとの飛行機に乗り込みました。今度は順調で2時間後にヴァナヴァラ空港に無事着陸しました。つまり、2時間の 飛行機代で5時間飛行できたわけです。

飛行機のタラップのところには、ちゃんとタチヤナが車で迎えに来ていました。運転手はタ チヤナ夫婦の親友で、ヴァナヴァラ村村長のウラジミルと言うグルジア人でした。車も、村長専用ロシア製ジープです。彼女の家に着くと、すぐに、夕食のテー ブルにウォツカです。そして、電話をかけてサーシャと言う人を招待しました。サーシャはヴァナヴァラ村の警察署長です。外国人の私がきたので外国人滞在登 録手続きをしなければなりません。サーシャはウォッカを振舞われ、「うん、4日間、タチヤナのところにお客に来たわけだね」と言って、署に電話し、「4日 間なら手続きの必要はなさそうだ」と言って、帰っていきました。

次の日、タチヤナの夫の元地質調査員兼元村会議員のアナトーリもいれて4人で、ウラジミ ルの車で出発しました。少し融けかかって大きな水溜りがあちこちにできているパドカーメンナヤ・ツングースカ川を通り抜け、川にほぼ平行の林道を上流の方 向へと進みました。かなり厳しい道で雪にはまると出られなくなりそうです。この道を無事最後まで行くとイルクーツク州のウスチ・イリムスクに行き着けるそうです。そこからはブラーツクを通りクラスノヤルスクへ行けます。つまり、奥地ヴァナヴァラへ通じる唯一の陸路で、通行できるのは冬季の4ヶ月だけだそう です。それも、屈強なトラックでないとだめです。

また、5月末の増水期には、クラスノヤルスクからエニセイ川を下り、水量が増して通行可 能になったパドカーメンナヤ・ツングースカ川をさかのぼって、ヴァナヴァラ村へ行くことができます。パドカーメンナヤ・ツングースカと言うのは「石の多い ツングースカ」と言う意味で、川底にも大きな石があって浅瀬が多く、増水期の2週間ばかりしか河川運行ができないそうです。飛行機なら年中運行しています が、貨物を運ぶには高すぎます。それで、年1回、増水期の5月末、クラスノヤルスクから食料品や日常品などを満載した船がキャラバンのように隊を組んで、 ヴァナヴァラ村に来るそうです。ちなみに、村役場の物置には「歓迎2003年キャラバン、ようこそヴァナヴァラへ」と言う垂れ幕が保管してあります。今年 は2004年に直せばいいです。

それ以外の物資の輸送は、このイルクーツク州へ迂回する困難な冬季陸路があるだけです。 それで、ヴァナヴァラ村の物価は高いのです。また、クラスノヤルスク市などでは冬でも売っている新鮮な野菜や果物も、ここでは、全く手に入らないそうで す。空路では、値段が高く過ぎますし、陸路では、運ぶうちに腐ってしまうからだそうです。温室栽培は、零下に下がることもある夏場だけで、マイナス40度 が普通の冬ではそれも不経済です。

と、話しているうちに、目的地の小屋につきました。小屋はパドカーメンナヤ・ツングース カ川のほとりの高台にあります。ウラジミルといっしょにすぐ道具を持って魚釣りに川へ降りていきました。まず、私のために氷に一個穴をあけ、えさのついた 釣り糸をくれました。ここは、南のアンガラ丘陵から流れてくるカータンガ川と北から流れてくるテテレ川が合流してパドカーメンナヤ・ツングースカ川が生まれる地点ですから、魚が多い場所のはずですが、私の釣り糸には一匹も食いついてはくれませんでした。

じっと魚を待っているのも寒いので、釣糸はウラジミルに戻し、小屋に戻ってペチカで暖 まっていました。小屋には、私たちグループの他にも、エヴェンキ自治管区ツングース・チュンスキー区担当副知事のスズダレフ氏とその友人、ヴァナヴァラ村 村会議員の他、酔っ払いのジーマもいました。ジーマは私が日本人と知ると、何だかわからないことを言って絡んできたり、触りに来たりするのでした。タチヤ ナが追っ払ってはくれましたが、落ち着きません。スズダレフ氏が、ここからさらに、パドカーメンナヤ・ツングースカ川をスノーモビールで7キロほどのところにある小屋に行くので、そこへ来たらいいといってくれました。

ツングース・チュンスキー区担当副知事は先に行き、スノーモビールは折り返して、私たち を迎えに来てくれました。パドカーメンナヤ・ツングースカ川にスノーモビールごと落ち込まないように、氷の薄いところは避けて通らなければなりません。氷 の上の雪の積もり方が悪いのか、あまりに老朽スノーモビールなのか、運転が下手なのか、何度も横転しました。その度に、雪の中に倒れましたが、エスキモー のように厚着をしていたので、起き上がるのが大変でした。

2番目の小屋は先のより広く快適で、ベッドも3つあり、水差しやランプ、ちょっとは清潔そうなテーブルもありました。ここで、私たち4人と、スズダレフ氏たち2人と、スノーモビールと小屋の持ち主のイヴァンの7人が魚釣りをしたり、テーブル を囲んだり、川の上を散歩したりして楽しく過ごすわけです。テーブルを囲むと、ヴァナヴァラでは、必ずウォツカでした。もう、私たちが来る前から、先着の スズダレフやその友人はすっかり酔っていて、イヴァンがまた私に絡んでくるのでした。よほど、日本人が珍しかったのでしょうか。また、スズダレフ氏の友人 は、択捉島に3年間いたと言う話を10回も繰り返すのでした。スズダレフ氏にいたっては抱きついたり、キスをしたりと、全く、こんなところまで来て、酔っ 払いのお相手とは、いやになりました。

 そこでタチヤナに、今晩この小 屋に泊まりたくない、ヴァナヴァラ村に帰りたい、と言ったのです。すると、イヴァンを除いて皆が正気になりました。そして、今、酔っ払いのイヴァンを寝か せ、もう迷惑をかけないから、というのです。それならと、私はいつも旅行中は持っている睡眠剤をタチヤナに渡しました。そして、皆で「イヴァン、お願いだ から一眠りしてくれ」と言って、寝かしつけたのです。

 ここでの魚釣りは、穴をあけて 釣り糸を下げるほか、氷の下に網を張って、通行中の魚を一網打尽にするやり方や、入ったら出られなくなるかごを仕掛けたりと、いろいろありました。その網 は日本製だそうです。私が作ったわけではありませんが、品質がいいとほめられました。

 アナトーリはカービン銃が趣味 で、自然の中へ行く時はいつも持ち歩いているようです。先住のエヴェンキ人は狩猟が生業ですから、森林の中に行く時はいつも猟銃を携えます。アナトーリは 未踏エヴェンキで地下資源が見つかりそうな地質を調べて歩く元地質調査員だったので、やはり持っています。未踏の森の中では食料を確保したり、身を守らな ければならなかったからです。今回も、持って来ました。的になるものには事欠きません。ウォツカの空瓶ならたくさんあります。それをポケットに入れて、私 と、パドカーメンナヤ・ツングースカ川の氷上を、周りのうっとりとする冬景色を見ながら30分ほど歩いていき、この辺でというところで空瓶を立てます。自 分用には少し遠めに、私用は少し近めに立て、交代に撃ちます。10メートルくらいの距離ですと照準を正しく合わせれば必ず当たるのです。空き瓶がなくなる と、斧でもみの木の樹皮を一部削ぎ落としました。薄茶色の内皮が現れて、今度はそれが的になるのです。何ということをするのでしょう。空瓶ならともかく、 もみの木がかわいそうではありませんか。日本では考えられません。アナトーリもタチヤナも、木はそれくらいでは決して枯れないといいます。斧で削ぎ落とし たところからは透明な松脂が吹き出ているのでした。その新鮮な松脂を食べてみると、ガムのような味がしておいしいのです。アナトーリの撃った弾は幹の中に 残りましたが、私のは突き抜けていきました。突き抜けたほうが木のためにはいいかもしれません。

 ハンター小屋は1泊だけで十分 です。また、ヴァナヴァラ村に戻ってきました。エヴェンキ人の家族を訪問することにしました。

 エヴェンキに関する本は、クラ スノヤルスクにもほとんど売っていません。ヴァナヴァラ村には、ウォツカを売る店はあっても本屋が1軒もありません。エヴェンキ自治管区ツングース・チュ ンスキー区役所へしらふのスズダレフ氏を訪問した時、そこの棚にあるエヴェンキに関する本を一通りプレゼントしてもらいました。
 そのうちの2冊は、ハバロフスク地方出身のエヴェンキ人で経 済学者、現エヴェンキ自治管区議会議長のアモーソフと言う人が著者で、「エヴェンキ自治管区の北方少数民族について」と「天から印を付けられた地」と言う 題です。これは1908年6月30日、有名なツングース大隕石がこの地に落下したからです。実は、天が付けたかもしれない印であるクレーターは見つかって いません。「40キロにわたって動植物は死滅し、2千平方キロ以上にわたって樹木が倒壊焼失した。これは広島に投下された原爆の2千倍のエネルギーである と学者たちが述べている」と、その本に書いてあります。
 さらに、その本には「エヴェンキ人(旧称ツングース人)は今 ロシアに3万人ほどいて、オビ川の東からオホーツク海までシベリアに広く分散している。エヴェンキ自治管区に住んでいるのは3千人程度で、大部分はイル クーツク州や、サハ(ヤクート)共和国などに住んでいる。サハに住んでいるエヴェンキ人が比較的多い。中国の文献には4000年前からエヴェンキ人につい て記載があり、もともと、バイカル湖やアムール川ほとりに住んでいたが、より強力な騎馬民族の圧迫で、シベリア極寒の地に分散していった。現在、中国やモ ンゴルに数万人いる。ロシア革命後の1923年、ヤクートのエヴェンキ人は、帝政時代以上に税の取立てが厳しくなったソビエト・ヤクート自治共和国に反対 して、独立ツングース共和国を打ち立てようとしたが、失敗した。(1923年7月14日から8月25日まで存続)。その後、1930年、現クラスノヤルス ク地方の前身の「東シベリア地方」に、両ツングース川の流域を含めてエヴェンキ民族管区ができた。」とあります。

 シベリア、中国、モンゴルの広 範囲にわたって分散するわずかなエヴェンキ人が、エヴェンキ自治管区に、さらに、ほんのわずかしか住んでいません。16世紀、17世紀に毛皮を求めてやってきたロシア人が、毛皮と交換にウォツカを与えたため人口が減ったことは有名です。これは、生業が狩猟、漁労、採集のエヴェンキ人がほとんど穀物や野菜を 食べなかったので、アルコールに対する抵抗力が弱かったためだそうです。

 ヴァナヴァラ村にはエヴェンキ 人はたった200人ほどで、タチヤナによると皆貧しく、アルコール中毒になっていて、きちんとした生活をしているのはさらに数家族にしか過ぎないそうで す。そのうちの1家族を訪問しました。80歳の元気なおばあさんはエヴェンキ語の名前をエダリク(息子が生まれるのを期待していたのに娘が生まれた、という意味)と言います。若い頃はチュムと言う円錐形移動組み立て型住居(モンゴルのパオのような住居)に住み、トナカイの放牧をしていたそうです。エヴェン キ人にとってトナカイは最も重要な家畜で、交通手段にもなり、他に食べ物がない時は食料にもなります。財産はトナカイの頭数で表しました。姪は、ヂュルプ タコン(2度食べる)、息子はシンゲレク(ネズミと言う意味)、亡くなった夫はモントン(美しい額)と言うのでした。もちろん、ソ連時代に入るとロシア風 の名前に変えたそうです。そうでなくとも、エヴェンキ人は、生涯に何回か名前を変えたそうです。子供が病気にならないように怖そうな動物の名前を付けまし た。

エヴェンキ人は射撃の名手で、帝政時代から森の動物を撃って、その毛皮で税を払ってきました。そのなかでもクロテンの毛皮が一番上等で、今でも年間何匹か撃っているそうです。内臓を出して、まだあまりなめしてない新鮮なクロテンを見せてくれ ました。1匹七千円くらいで売ってもいいと言われましたが、日本の冬は毛皮が必要ありません。クロテンの目に弾丸の跡がありました。背中に穴があいていた ら、毛皮の値打ちが下がるからです。よほど射撃の腕がいいのでしょう。

 エヴェンキ語も教えてくれまし た。エヴェンキ語で書かれた初等読本とロシア・エヴェンキ語辞典もくれました。先年、中国から中国系エヴェンキ人がトゥラ町に来た時、テレビで放送されました。中国系エヴェンキ人の話す言葉は、中国訛りがありましたが、ここのおばあさんたちにもだいたいわかったそうです。

その日、夕方、ウラジミル宅の蒸し風呂に入り、あがると、今朝パドカーメンナヤ・ツン グースカ川で釣ってきたサケ・ニジマス類の魚で、ウォツカです。ウォトカを飲まない私にはグルジア・ワインが出されました。これら酒宴の費用は私の六百ド ルから出ているわけですから、自分たちだけ飲むのは悪いと思ったのでしょう。

 次の日は、ヴァナヴァラ村の社 会見学をすることになりました。孤児院、幼稚園、初等芸術学校、身体障害者用施設、老人ホームなどを訪れました。老人ホーム以外どこも、新しい家具、新しい設備などが入っていました。すべてここ1,2年で、このように整備されたそうです。

孤児院は去年できたばかりです。それまでは自治管区庁所在地のトゥラ町に満員の孤児院が あっただけでした。そこから新ヴァナヴァラ村孤児院が60人の孤児を引き取りました。孤児の大半はエヴェンキ人です。両親がアルコール中毒になって子供を 育てられなくなるそうです。身体障害者施設は治療の技術水準はわかりませんが、家具などは日本の施設より上等そうに見えました。これらはすべて、一昨年の キャラバンで、クラスノヤルスクから届いたそうです。

エヴェンキ自治管区は管区予算の80から85%は国家予算からの補助金でまかなわれていて、ロシア連邦内でも最も生活程度が低い地方自治体のひとつでした。しかし、エヴェンキの地下資源の豊富さは、早くから知られ、地質調査がされてきまし た。チュメニ油田など西シベリアの石油ガスはいち早く開発されましたが、エヴェンキの東シベリアは、今開発中です。バイキット区のユルブチェン・タホモ地 域の石油ガスは、東シベリア最大の規模であるばかりではなく、約12億年前の古い地層に埋蔵さているそうです。前述の本にも書いてあり、アナトーリも繰り 返し、エヴェンキ自治管区のホームページにも書いてありましたが、埋蔵石油ガスだけの価値でも、人口一万七千七百人のエヴェンキ自治管区の全住民一人当た り、千三百万ドルにもなるそうです。「でも、採掘や運搬に巨額な費用がかかるでしょう」、とアナトーリに言ったところ「いや、その費用は、他の鉱物(偏向 プリズムの原料になる透明方解石や金やダイヤを含めて)の売上でまかなう」のだそうです。

すでに、数年前から石油会社「ユーコス」が巨富を築いています。その社長が有名なホドル コフスキーでした。ロシア内でも通信施設が最も整っていなかったエヴェンキに、数年前、自動交換電話機が入り、この2、3年で、衛星通信設備ができ、区役 場や村役場のコンピュータ化が進み、テレビのチャンネルも増えました。幼稚園、学校、孤児院などの社会施設も整い、村内無料バスも運行しているのは、この ホドルコフスキーのおかげであると、ヴァナヴァラ村民は思っています。去年、そのホドルコフスキーが逮捕されたのですが、タチヤナによると、チュコト民族 自治管区知事のアブラモーヴィッチのほうを逮捕すればよかったそうです。

 エヴェンキ自治管区知事はザラ タリョフと言います。元、ユーコスのトップクラス経営陣の一人です。ユーコスは社長が変わっても、当自治管区の予算を支え、社会事業のスポンサーであるこ とには代わりはないと、知事は広報用パンフレットやホームページに書いています。

 お年寄り用施設の方は、諸施 設、内装用調度品、家具などが去年のキャラバンで届いたばかりで、まだ、設置されていないのでした。タチヤナがそこはいやなにおいがするから行きたくない と言いましたが、日本では最近お年よりは快適なホームに住むことが多く、私も、将来その可能性が大きいので、とても関心があるのだ、と説得して、見学しま した。村会議員を兼ねるハカシア人の所長が案内してくれましたが、タチヤナが急かしたので、質問する時間はありませんでした。「寝たきりのお年よりは、ど のように介護されているのでしょうか」と、尋ねたかったのですが、遠慮しました。その施設にはお年寄りの他、若年の痴呆者も住んでいました。

 最後の日の夕食も、村長のウラ ジミルの家でバーベキューにウォツカでした。いくら飲んでもあまり酔ったようには見えないロシア人が多いです。(もっともウラジミルはグルジア人です が。)かなり飲んだあと、皆でジープに乗って村役場へ行きました。夜なので、そこは、ガードマンの他は誰もいません。村長室で、私たちはまた飲みなおしま した。帰りの運転もウラジミルで、もちろん飲んでいます。田舎ですし、おまけに永久凍土のためアスファルト舗装もしてありません。今は冬で雪に埋もれてい ますから、スピードも出ません。交通量がとても少ないので車同士が衝突するのも難しいです。ハンドルを誤っても雪の山に突っ込むくらいでしょう。ウラジミ ル村長は、いつも、まず車を運転する前に、ハンドルさばきがうまくいくよう一杯飲むようです。飲まないでほしいと頼んでもだめでした。そのうち、慣れまし た。

 ヴァナヴァラ村は、もともと、 エヴェンキ人のトナカイ放牧拠点のひとつでした。2つの川の合流地点近くで魚も豊富で、ちかくの森の中には獲物も多く、定住部落ができました。革命後、ロ シア人も移住してきてコルホーズができ、学校や病院が建ち、60年程前には村らしくなりました。ソ連時代住民は最高六千人もいて、その半数が埋蔵資源の調 査をする地学関係者でした。ソ連崩壊後、地質調査員は職を失って村から去ったので、人口は半分の3千人になったわけです。残った3千人は何に従事している かと言うと、役所関係、学校、病院、商業関係などです。農業などは、零細で、地域の需要もまかなえません。ソ連時代に盛んだった林業は、今の自由経済では 運送費を入れるとマイナスになってしまいます。さらに、住民のために、クラスノヤルスクなどの大都市から高い費用をかけて生活物資を運ばなくてはなりませ ん。

村には、都市集中暖房はもちろんありません。小さな木造の家がそれぞれ自分のところのペチカを炊きます。燃料は薪で、どの家の前庭にも薪が山と積んであります。ということは、毎年多くの木が伐採され、森林が減っていると言うことでしょう。事 実、森林が減ってツンドラが増えているそうです。3千人の住民がそっくり、クラスノヤルスクの南部に移住したらどうでしょう。森林も助かりますし、寒がり のロシア人も喜びます。南部に空いている場所がないわけではありません。ヴァナヴァラ村のような寒いところは、人間が無理をして住居設備を作って住むとこ ろではなく、自然のままに、動植物に任せておけばいいです。それでも、ヴァナヴァラ村が温存されているのは、将来、石油ガスの基地町になるからでしょう か。

ここ1,2年、国内旅行をよくするようになりましたが、どの旅行も特徴があって興味深い ものでした。パドカーメンナヤ・ツングースカ川の上流にあるヴァナヴァラ村での4日間もそうでした。氷のツングースカ川で魚を釣って食べ、融けかかっても まだまだ安全なパドカーメンナヤ・ツングースカ川の氷の上を歩き、ヴァナヴァラ村の住民と知り合い、今まで何も知らなかったエヴェンキ自治管区について少 しは知ることができたりのですから。

タチヤナからは、日本からの旅行者を受け入れるから連絡してほしいと言われています。6 人ほど集まれば、ヘリコプターをチャーターしてツングース大隕石落下地点へ行けるそうです。ドイツからもグループが毎年来ている、日本人グループも来たことがある、日本人は、蚊に刺されるのも厭わないで、隕石落下点を裸足で歩き廻っていた、そうです。

 ちなみに、エヴェンキ自治管区のシンボルは伝説の「ホッキョク・シロアビ」ですが、ヴァナヴァラ村は「ツングース隕石」です。

 

  

パドカーメンナヤ・ツングースカ川で網を仕掛け る  

エヴェンキの家庭

 

  

ヴァナヴァラ村                                 空からのエヴェンキ

 

 

シベリアの古都トムスク市

2004年4月24日から4月28日

金倉孝子 (クラスノヤルスク国立総合大学講師

 

 トムスク市へ4月25日から 27日まで、若い友人のナースチャとアリョーナ(27歳ぐらい)の3人で言って来ました。実は3回目ですが、行く度に新しい発見があります。
 トムスク市は、シベリアでは最も古い町のひとつで、大河オビ 川の支流トミ川のほとりに、1604年ロシア人がシベリア進出のための要塞を作ったのが、始まりです。ロシア人の進出前は、ウラル語グループのサモエド系 のセリクープ人が住んでいました。ところが、やはり、このあたりに住んでいたシベリア・タタール人の族長が、ほかの部族から自分たちを守ってもらうために モスクワの皇帝ボリス・ゴドゥノフに要塞を作るよう依頼し、トミ川の下流(つまりオビ川との合流点近く)にできたのがトムスクだそうです。クラスノヤルス クとよく似た経過と目的で、ただ、26年だけ早くできました。

トムスクはロシアのシベリアへの前線基地として、その後は、シベリア経営と中国貿易の拠 点として栄え、1804年には中央シベリア全体をふくむトムスク県の中心になりました。クラスノヤルスク県の前身エニセイ県などは、後にトムスクから分かれてできたのです。
 モスクワから太平洋岸のオホーツクやウラジオストックへ行く 『シベリア街道』は、ウラル山脈を越えてトムスクを通り、クラスノヤルスクを通り、イルクーツクへ、さらに東へと通じていたのです。『トムスクの歴史』と いう本によると1639年、初めて中国から茶がトムスクへ輸入されたそうです(正しくは、モンゴルの部族からの貢物の一つでした)。1640年には始めて モスクワに送られ、その後、ロシア中に普及しました。シベリア幹線鉄道ができる19世紀末までの200年もの間、中国茶を積んだキャラバン隊が、トムスク を通じて陸路または河川路を(トミ川からオビ川、さらにイルティシュ川を通じて)西に向かっていったわけです。

しかし、19世紀末開通のシベリア幹線鉄道は、トムスクを通らずに、少し南のノヴォシビ リスクを通ったため、トムスクは寂れました。これは、トムスクへ向かって沼地の多いところに鉄道を敷設する技術的困難さと、トムスクの商人がモスクワとの 競争を避けたためだと言われています。
 それでシベリアの中心は、ノヴォシビルスクになってしまいま したが、取り残されたトムスクは昔の伝統が残る町になったのです。

幹線鉄道はトムスクを通りませんが、支線は幹線が開通してまもなく敷設されました。分岐 駅タイガからトムスクまでは80キロもありません。しかし、この80キロ、1時間半のために、クラスノヤルスクからトムスクへ行く列車はタイガ駅で4時間 も待たなければなりません。というのは、タイガ駅までは、モスクワ方面へ行く列車の後ろに連結されて引っ張って行ってもらい、タイガ駅に着くと、トムスク 行きの車両は切り離され、引込み線に入り、目的地トムスクへ連結して引っ張っていってくれるような列車が来るまで待つのです。

クラスノヤルスクからトムスクへの車両は隔日に2,3両しかありません。その車両も4人 用個室のコンパートメント(2等車)ではなく、寝棚が縦や横にぎっしり並んでいる大部屋のプラツカルタ(3等車)です。これが不便なのは上段が狭いこと、 縦の寝台は、通る人みんなに寝顔を見られること、トイレにすぐ順番ができることなどです。でも、クラスノヤルスクからトムスクへ行くにはこれしかありませ ん。料金がコンパートメントの半分で往復2400円と言う安さなのですが、それでも、同行のナースチャやアリョーナは薄給なので、きついそうです。

まして、ホテルに泊まると1泊1千円とかするので、アリョーナの友達の家に泊めてもらう ことにしました。その友達のターニャも大学関係で薄給です。ターニャの夫のアレクセイも同様です。彼ら夫婦のアパートは市の中心の古い9階建ての建物の9 階にあり、エレベーターは暗く小さく壁板には隙間なく落書きされ、犬猫の尿のにおいがするのでした。でも、数秒間の我慢です。アパートは小さな一部屋に狭い台所と小さなバストイレが付いた慎ましいもので、そこで私たち5人が3日間住みました。10人で住んだこともあるそうですから、5人なんて平気です。主 人夫婦は台所の床に布団を敷き、ナースチャとアリョーナはベッドに、私は座布団を組み合わせて部屋の床に寝ました。9階にあるせいか、時々断水になるので した。なぜか、お湯だけは出ます。熱いのを我慢してお皿を洗ったりしました。私たちは、毎晩、アレクセイのお父さんが作った自家製のぶどう酒を飲み、5人 で仲良く過ごしたのでした。ちなみに彼ら夫婦は1週間前に結婚式を挙げたので、お祝いの立派な食器セットがありました。私たちは新品の食器でターニャがゆ でたジャガイモや、塩漬けニシンを食べました。こんなことが、前回の2度のトムスク訪問と大きく違ったところです。(前回はホテルに泊まりました。)

 

クラスノヤルスクを4月24日の午後4時に出発した列車は、次の日の朝5時にトムスクに つきました。

トムスクに到着したその日に、私たちは市内見物マイクロバスに乗り、観光コースをざっと 一回りしました。シベリアの古都トムスクはサンクト・ペテルブルグをまねて作ったといわれる古い町並みが、名所となっています。大商人の木造の屋敷もよく 保存されて残っていました。ひさしや窓枠、バルコニーには透かし彫り装飾があり、その模様が『火の鳥』などロシア民話がテーマなのだそうです。

 その他、トムスクにはシベリア で一番古いと言うものがたくさんあって、中でも有名なのが、1878年創立のトムスク帝国大学です(東京大学は77年創立)。また、トムスク工科大学も 1896年と言う古い時期(京都大学は1897年)に創立されました。つまり、トムスクは何と言っても学問の町で人口の20%以上が学生、大学や研究所関 係者です。
 それで、もちろん、大学見学もしました。1885年にできた 大学本部の建物は古く壮大で、もちろんクラスノヤルスク大学の比ではありません。大学内には、シベリアで一番古い植物園の他、立派な博物館が幾つもありま す。普通、博物館は博物館として独立してあるものですが、トムスクの場合は、大学の建物内の1室(または続きの数室)が博物館で、これは、町の中の歴史博 物館や郷土博物館より広く、立派なのでした。
 「考古学およびシベリアの民族博物館」だけは外来者は有料 で、入場料が20円でした。「古生物学博物館」はその日は閉館日でしたが、そこで学生たちが古生物学の授業をしていたため、ドアが開いていました。私たち はそっと入って授業の邪魔にならないように見学しました。「鉱物学博物館」には、石がどっさり並んでいるのでした。大学の高い天井の廊下を歩くと、「鉱物 学研究室」とか「鉱物学講座」とか書いたプレートがドアに打ち付けてあり、その横が「鉱物学博物館」なのです。伝統ある大学ですから、「大学史博物館」も 欠かせません。

普通、町の博物館ですと、職員が来館者をにらんでいるものです。来館者が展示物に触った り、持ち去ろうとしたりしないようにでしょう。でも、ここは、職員も研究者の一人らしく、来館者には無関心に自分の机に向かって仕事をしているのでした。

工科大学も見物しました。これは、ロシアでも最も権威ある大学で、ここを基礎に分校としてシベリアの各地にできた研究機関が、後に、その州の大学となったそうです。ここにも、もちろん「大学史博物館」があります。でも、ふと、ドアを開けて 入ったところが、また「鉱物学博物館」でした。今度の職員は暇だったと見えて、展示物の説明をしてあげると言ってくれたのでした。「この石を、誰が、どこ で、どんな状況で見つけたか」と始めました。私が日本人でクラスノヤルスクから来たと知ると、展示物の説明をしながら日本食の料理の仕方を聞くのでした。

 

私たちは、出発前、インターネットでトムスク市の見どころを調べてきました。トムスクに は実に26もの博物館があると載っていました。市内にもあるほか、郊外に「森林博物館」と言うのがあります。私たちは3人ともエコロジーに関心があるの で、そこも見学することにしました。トムスク市から30分もバスに乗っていったところに、チミリャーゼフ村があり、そこに、その博物館があるとインター ネットに載っていました。ロシアは、町はともかく村はどこもインフラが整っていません。まず、道は泥沼です。でも、そんなことにもめげず、私たち3人はバ スから降りて、親切そうな村の人に道を聞きながら、村はずれの松林の中にある「森林博物館」を見つけました。立派な建物です。でも、玄関にはかぎがかかっていて、『図書館は12時に開きます』と言う小さなメモが張ってありました。「森林博物館」内には村立の図書館もあるようです。時計を見ると10時半で す。ロシアでは予約なしに博物館へ行くと閉まっていることがあるのです。訪問者が少ないのでシーズンオフには勝手に休館になっているのでしょう。せっかく ここまで来たのですから、何とか見学したいものです。それで、村役場を探し当て、そこで文化担当の人を見つけ、「私たちは、はるばるクラスノヤルスクから 来たのですが、見学出来ないでしょうか」と言ってみました。担当者は、博物館長に電話をしてくれ、私たちは、入館できることになりました。

博物館内は停電でしたが、年配の男性の館長が案内してくれました。展示物は古そうでした が、森林に関するものは、なんでも展示され、詳細な説明文がついていました。館長と話しているうちに、4年前、日本の早稲田から年配の女性4人が見学に訪れたことがあり、そのときの写真もあるから、見せてあげよう、事務室へいってお茶を飲もうと言うことになりました。館長は、戸棚の中を長い間探して、日本 からの手紙を見つけました。その日本人は、ロシア文学者で、マルコフと言うソ連時代の作者の研究をしているため、トムスクを訪れたそうですが、そのとき時 間が余って、誰かの推薦でこの「森林博物館」を訪れた、とか言う話でした。後に、写真を送ってきたと言う封筒には、差出人の住所や名前が書いてあり、日本 語の名刺も同封してあります。遠い日本から、広いシベリアの同じ所に来るとは、何か縁があるかもしれないと思い、住所と名前をメモしてきました。一緒にお 茶を飲んでいた図書館員の女性が、マルコフの「シベリア」という分厚い本をくれました。図書館の蔵書だけれど、登録されていないので、プレゼントできるそ うです。私は、クラスノヤルスクに帰ってから、丁寧なお礼の手紙と、そのとき写した写真と、日本の森の絵葉書を郵便で送りました。ですから、将来その博物 館を訪れる日本人は、私の手紙も見ることになるでしょう。

 

帰りの列車は行きと同様、満員でした。トムスクからクラスノヤルスクへ移動する兵士が ぎっしり乗っていたからです。一般旅行者が半分ほどで残りの寝棚はそれら兵士用でしたが、寝棚の数より兵士の数の方が多いようで、彼らは交代に寝ていまし た。私の横の寝棚も、二人の兵士が占めていました。歳を聞くと17歳、かわいい顔立ちでした。まだ、1年目だそうです。ですから2年目の兵士に如何にいじめられるかと言う話をしていました。近くの寝棚にいたナースチャとアリョーナも来て、私たち3人はその恐ろしい話を半信半疑で聞いていたのです。耐えられ ないような軍事訓練を強制され、何とか免れるために病気になるか、怪我をしようとし、それが原因で死ぬこともあると言うことです。一人はオムスクから、も う一人はヤクート出身で、トムスクの北のセーベルスク市(ソ連時代、軍事用ウラン精製工場があったため秘密都市で、暗号名は『トムスク7』だった)で兵役 についていて、今度はクラスノヤルスクのどこへ行くかは知らないそうです。クラスノヤルスクに近くなると、ごつい革の長靴の中に、ねずみ色の巻きキャハン を器用に巻いて足を入れるのでした。ソ連時代の戦争映画では時々見かけますから、何だか時代劇をこの目で見ているようでした。

 

今回、3日間でしたが、19世紀末まではシベリアの首都だったトムスクを若い友人のナースチャとアリョーナのおかげで違った角度で見ることができました。いつもは一人旅が多いのですが、友達の友達夫婦の一部屋アパートに5人で寝るような旅も いいものです。その夫婦(妻は研究助手、夫はレーザー光線研究者で講師)は、日本人が泊まってくれたのは初めてだと、喜んでくれました。

 

トミ川にて

トムスク市、昔のコサックのとりでのあった丘から市街を見る

    

 

古文書館の 「いろいろ」
豊川 浩一 

(明治 大学文学部教授・在モスクワ)

 

 私が利用している古文書館は主にモスクワにある「ロシア古法文書館(RGADA)」 です。この文書館については、かつて「ロシア史研究会」のニューズレターで紹介した事があります。10年近く前に初めてそこを利用したとき の印象と現在のそれとではどのように違うのかというと、実はそれほど違わないのです。94年から利用し始めてほぼ毎夏そこで古 文書を読みます(というより「眺めて」います)が、閲覧室の机と卓上ライトが新しくなったことを除けば、膨大な史料の山を目の当たりにすると「たじろぐば かり」というのがいつも変わらぬ印象です。ついでに言えば、係りの人も若い人を除けば変わりません。10年来、「フォンド248(元老 院)」という文書群を中心にして1619世紀バシキーリアの植民過程を調べています。そのうち、18世紀のオ レンブルク市が建設される様子とそれに反対するバシキール人の異議申し立てや蜂起、さらには厳しい政府側の鎮圧(歴史家としても有名なタティーシチェフは その急先鋒でした)の過程などを中心にして古文書の幾つかは1936年から『バシキール自治共和国史史料』というシリーズで6巻刊行され ました。第5巻(モスクワ、1960年刊行)と第6巻(ウファー、2002年刊行、この史料集について、私の紹介記事が最近の『ロシア史研究』に掲載されていま す)の刊行された年代が40年も開いています。その間に何があったのか想像するだけで「ブルッ」ときます。題名も5巻までは 『バシキール自治共和国史史料』でしたが、第6巻は『バシコルトスタン史史料』となっています(刊行場所も違う点に注目!)。さらに興 味深いことに、第1部(巻ではなく)の後に刊行されたのが、第2巻ではなく 第3巻(1949年)でした。第2巻はありません。1週間前に第5巻と第6巻の編集に 携わったナターリア・フョードロヴナ・デミードヴァ博士に会ってお話をうかがうことが出来ました。80歳を越える女史のお話は良く聞き取れ ない部分はあるのですが、紛れもなくソ連史とロシア史の狭間に生きてきた人の証言です。特に、197080年代とい う「時代の厳しさ」を語ってくれました。第2巻が何故刊行されなかったのか、第6巻の刊行が第5巻から何故40年以上も 経ったのか、などこちらの質問に女史は一言「行政」とだけ答えました。30年かけて博士論文を書いたという女史は、現在では病気がちという話ですが、その日も古文 書館の一番前の席で勉強していました。古文書館は古い「事実」を探り出すための場所ということ以外に、別の機能を果たしています。図書館と同じように、イ ンテリの集まる人間交流の場なのです。人々が長時間にわたり立ち話をしている姿を見かけますし、掲示板には何時何処で研究集会があるから参加希望者は資料 を送るようにとか、月例のセミナーが館長室で行われるとか、掲げられています。64日にはウファーで「サラヴァト・ユラーエフ生誕250年」を 記念する研究集会が開かれました(残念ながら私は出席できませんでした)し、63日には館長室でハンガリー(?)のマグドリナ・アゴシュトン女史が「イヴァン三世の1497年の 印章」というテーマで報告しました。資料が豊富でかつ丁寧な報告であり、質疑応答も活発でした。「史料に沈潜するのは悪くない」というところでしょうか。 こうした勉強会のほかに、古文書館では様々な展示がされています。現在は「全ソ共産党(ボ)第17回大会――銃殺刑に 処せられた勝利者たち」(56日〜71)という展示会が開催されています。見覚えのある党員たちが様々な理由で処刑されていく史 料(主にGARF所蔵史料を)の展示が中心ですが、映像史料もあります。この前後には、「ユーリ・ガガー リン――伝説と人間」(131日〜314日)、「カザン1000年」(325日〜423日)、「友よ、われわれは遥かなる地へと向かう(処女地開拓50周年に寄 せて)」(714日〜822日)、「第1次世界大戦、19141916年(開戦90周年に寄せて)」(93日〜1010日)、 「エカチェリーナの煌く時代(エカチェリーナ二世生誕275年に寄せて)」(1021日〜1128日)、 「パーヴェル一世の家族(生誕250年に寄せて)」(1215日〜2005328日)と いった展示会があります。いずれも視覚に訴えながら、しかも文献史料と非文献史料の両方を駆使して展示する方法は良い勉強になりますし、ロシアの歴史の流 れが複合的にわかるというものです。でもやはり私の楽しみは、閲覧室で勉強しているロシア人や外国人(私もですが)と話をすることです。彼らの話す内容が100パーセ ントは判らなくても、一体彼らが何を考えているのが想像するのは面白いものです。ここで勉強している人の多くは現在のロシアの生活水準からして決して豊か な人ではありません。それでもやはり、何か「事実」をもとめにやってきているのです。年来の友人には「系譜(学)」をやっている人が多いのですが、その中 の一人は自分の亡くなった祖母を記念してその生まれ育ったトゥーラ県にある都市に関する史料を調べ上げました。その本が間もなく上梓されるといいます。そ ういう生き方もここにはあるのです。(200469日記)

 

 

ベロモルスク=バルト海運河の旅をして考えたこと

豊川  浩一 

(明治 大学文学部教授・在モスクワ)

 

 何のために歴史を勉強し、また 歴史を勉強するとどのような役にたつことがあるのかという疑問は、フランスの歴史家マルク・ブロック(『歴史のための弁明』)の例を出すまでもなく、多く の人が抱き、歴史家が答えに窮するものである。4月に始まった私の1年間に及ぶであろう在外研修はこうした疑問に対する答えの一つを探す旅であるのかも知れ ない(と思った程である)。そして、答えの一端なりともベロモルスク=バルト海運河(通称BBK)を経てソロヴェツキー島(ソロフキ)への船旅は教えてくれたとも言える。

 白海への出口ベロモルスク、そ の先、北緯645度から648度の間にあるソロヴェツキー島(ソロフキ)、そしてBBKとは何か。多くの日本人は 知らない。ロシアを専門とする者でもロシア史の凝縮とも言えるその由来を詳しく語ることができる者はそう多くはない。以下は、私が11日間の船旅を通して得た知見 と実際に訪れたベロモルスクとソロヴェツキー修道院に関する「印象」の記録である。なお停泊した場所を中心にその旅程をあらかじめ記しておくと次のように なる。ペテルブルク マンドローギ ペテロザヴォーツク ベロモルスクおよびソロヴェツキー島(ソロフキ)― ベロモルスク―キジー島 ヴァルラアム ペテルブルク。ロシアではこうした船旅は流行していて、数ヶ月前に予約しなければ良い客 室はとれない。上記の旅以外にキジー島、ヴァルラアム、ペテロザヴォーツク、それぞれに行く船旅があり、さらにはモスクワからペテルブルクへの「運河の 旅」、ウーグリチやヤロスラーヴリなど「黄金の環」を巡ってニージニ・ノヴゴロドへ至るクルーズ、さらにはアストラハン、カザン、ペルミ、などに行く船旅 もある。極めつけはエニセイ川の船下りである。植物と地層の変化がはっきり判るという。働く者の夏休みが1か月から2か月にも及ぶ長い休暇の過ごし 方に由来している。いずれにせよ、船の旅は古代ルーシが「ヴァリャーグからグレキへの道」と称する連絡路を有していたことを証明し、その後の運河の開鑿が さらにそれを発達させたといえる。

 この旅行は半年間の在外研修で 来ている中世ロシア文化の専門家M氏から「どこか遠くへ行きましょう」という「甘い誘い」に乗ったものであるが、ロシアの 歴史や文化の本質に関わるものに触れることができればという私個人の願いも込められた旅行であった。実をいうと、最大の眼目は、「爪に火をともす」ように して過ごした15年前の留学時に果たせなかったキジー島訪問であったが、その念願がかなったこと以上にこ の船旅は大きな意味を持った。

船は628日にペテルブルクを発ち、ネヴァ川 ラドガ湖 オネガ湖 白海 オネガ湖 ラドガ湖 ネヴァ川と河川と湖を最大限に利用して航行していく。ネヴァ川を遡り、オレーシェク要塞 (19世 紀には政治犯を投獄したシュリッセリブルク監獄として有名であった。日本人研究者は旧来オレショークと言い習わしてきたがこれは誤りである)を過ぎ、ラド ガ湖に入り、マンドローギといういわばテーマ・パークを見学。ペテルブルクと同じ1703年に建設されたペトロザヴォーツクに着いたのはペテルブルクを発って3日過ぎた630日の朝である。バスによるエ クスカーションでキーヴァチという「カレリア」白樺が林立し、滝が流れる名勝の地を見る。かのジェルジャーヴィンがこの地方の知事であった頃、同地を訪れ てその様子をスケッチした複製(?)が博物館に飾られている。同日から「スターリン名称ベロモルスク=バルト海運河(BBK)」に入った。運河はオネガ湖から白海に至る全長227キロ、19の水門と49の堰を有する。第1水門の監視塔の壁面には建設さ れた年を記念して「19332003」の文字が記されているのが印象的である。

 多くの水門は今では修理されコ ンクリートで補強されているが、ただ第13水門と14水門だけはまだ木造の枠組みが残っている。しかも、第13水門のそれはかなり傷みが激 しく、「風前のともし火」状態である。これを見るだけでも30年代、スターリンの命令でこの地に運河を造るように命令された「囚人たち」の厳しい労働 の様子が偲ばれる。水門を写真撮影することは禁じられているが、船客の多くはその歴史を知ってかこれらの水門に差し掛かったとき身体を乗り出して写真を 撮った。31年から33年までの21ヶ月で建設されたこの運河には約8万人が「賃金を払わなくてもすむ労働力」として送り込まれたが、十分な食事も休息もなく 厳しい労働を強要され、夏には蚊(ソロフキの観光案内書には「当地のもっとも獰猛な生き物は蚊である」と記されている)、冬には極寒にさいなまれ、およそ 半数に当たる4万人が死んだ。その多くは名前もわからないまま運河沿いに幾つか建てられた共同墓地に葬 られている。ロシア人に限らず様々な民族の墓碑もある。なかには日本人のもあるという。帰途、第5水門で自著(『ベロモルスク=バルト海水路。計画から具体化まで』ペテロザヴォーツク、2003年。なお、水門ではこの ような物売りが多く、船が通るたびに燻製にした魚やきのこ、野苺などを売っている)を売っていたユーリー・アンドレイヴィチ・ドミトリエフによると日本人 女性(名前はユキ、姓はチュリパン)の墓もあるという。

 72日(旅行5日目)にベロモロスクに着く。 朝の8時 にバスと快速船コメット号を乗り継いでソロヴェツキー修道院のあるソロフキへ。修道院の歴史を中心に懇切丁寧な3時間にわたるエクスカーション に身も心も疲れ果て、同地特産のおいしいパンを頬張りビールを飲みながらカフェで一服。なにせ要塞としての役割を持つ修道院のなかを歩くだけでも相当疲れ るのに、創設以来の紆余曲折を経た歴史、特に17世紀中葉のニコンの改革に反対して抵抗し厳しく弾圧を受けたこと、さらに何よりも20世紀30年代の強制収容所として機能 していたことなど、を詳しく聞きなが修道院内を回ると一層疲労感が募る。

 75日(8日目)の朝に立ち寄ったパヴェ ネツ市から10キロ離れた森林地区サンドロモフに最近建てられたという犠牲者の一部を悼む共同墓地と小 教会がある。その入り口の墓碑には「19341027日〜114日の間に1111名が銃殺された」と記されている。一角にある名ばかりの教会には「過去帳」があり、それ にはどのような罪状で銃殺されたかが書かれている。なかには「逃亡」という「罪状」もあり愕然とする。サンドロモフの共同墓地は鬱蒼たる松林に囲まれ自然 が謳歌しているだけに、かえって強制労働と非業の死という現実がわれわれに訴えかける。船で一緒になったあるロシア人老紳士は「ロシアは革命で多くの亡命 者を出し、戦争で多くを失い、強制収容所でも無数の人命をなくした」といい、30年代の強制労働とその死を指して、「日本に帰ったら、是非この事実を学生たちに伝えて欲 しい」と語り、この事実を記憶し記念しなければいけないとし、われわれを部屋に誘いれて酒を飲み、涙を流すのを見た(後日、この出来事に関する別の記録映 画を船で見て、彼は「ジュガーノフをソロフキに送り、共産党が一体何をしたのかを見るべきだ」と言ったが、当のジュガーノフは共産党の党首ではなくなって しまった)。ロシア人として「過去の事実」から目をそらしてはいけないという強い意志の表れを感じ、また一方でわれわれ日本人はそれに対してどのように対 処してきたのだろうか思いが重なる。

 翌日76日(9日目)は、昨日とは打って変 わって「天国」に来たような気分であった。朝、目を覚ますと船はキジー島に停泊している。写真や映像で見たことのある玉葱(ロシア人案内人の説明によると 大蒜形という)屋根が20個付いたプレオブラジェンスキー教会、いたるところにある木造建築、緑で覆い尽くされた 島、そのどれもが素晴らしい。「蛇の島」というだけあって日光の湿原ように板張りの上を歩くが、これは蛇から身を守るためのものでもあり自然を保護するた めでもある。でもなぜ20の「大蒜屋根」か。謎であった。通常、1つの屋根はキリストを、4つは福音書家を、12は使徒たちを表す。案内の女 性によると、19の集落がこの島にあったが、それにこの教会を造った大工が自らを記念して20にしたというのである。本当 だろうか?

 77日(10日目)、ヴァルラアムに。こ こでも自然の素晴らしさと修道士たちの集住生活の様子を見学。驚いたことに修道院裏手の墓地にスウェーデン王マグヌス2世が葬られている。彼について はロシアへの攻撃を控えるようにというその「遺言」が有名であり、またスウェーデンで死んだことになっているのだが、ここに墓があるとはどういうことだろ うか。中世文化専門家のM氏と共に一瞬とまどい「固まってしまった」のである。

 78日(11日目)朝、ペテルブルクに帰 還。11日 間の船旅であったが実にいろいろなことに出会えた。ロシアの自然の雄大さもさることながら、ロシアの歴史や文化のもつ複雑さ、船に乗り合わせた人々(これ は「すべてのロシア人」と置き換えても良い)の過去の出来事に対する考えである。それを早計に理論化することは避けなければならないが、やはりロシアは世 界史の「最先端」を行き、人類が辿るであろうことを全て経験していると言える。その意味でやはり私たちのとっての先生であるのである。

モスクワに帰って、いつものように文書館と図書館で一日の大半を送る生活に戻り、レーニ ン図書館に行くと、「ロシア史における弾圧」という展示が行われていたことに改めて気付いた。ここにロシア人の過去に対する記憶という強い意思を見てとる ことができる。

 

13水門の木造の枠組み

 

 

 

サンドロマフの墓碑銘の一つ

            

「陰気な地方、霧の地方」 

坂本  博(法政大学経済学部講師)

 

 去年の8月、ラドガ湖のヴァラアーム島 に2日 間滞在した。そして、船が次の目的地キジ島に向かってニーコン湾の埠頭からいよいよ出航するときだった。私は島の最後の印象を心に留めようと甲板に出た。 とも綱が解かれ、船は滑るように岸を離れる。その時である。まるで見計らったかのように、船のラウドスピーカーが音楽を流し始めた。オーケストラが演奏す る民謡風の何か懐かしい曲だ。バイオリンが哀愁を帯びた旋律を繰り返す。そのうちに曲調が高まって、曲はますますリズミカルに展開する。これが遠ざかって いくヴァラアーム島の風景と見事に調和した。岸はごつごつした岩場で、そこからすぐ崖が切り立っている。崖には松などの針葉樹がしがみつくように生えてい る。見上げると崖の上の梢の間に復活修道院別院の赤レンガの鐘楼が見え隠れする。夕日を受けて鐘楼の頂の小さな丸屋根が金色に輝いている。その向うはク リームを混ぜたような薄い青空だ。ラウドスピーカーではオーボエに替ってホルンが高々と主旋律を奏でる。ロシアは偉大だ、と思った。自然も偉大だし、その 自然と見事に調和する音楽を持っているロシアはまた偉大だ、と思った。

 この時以来、私はこの曲の正体 を突き止めたいという思いに駆られるようになった。これがチャイコフスキーの作曲であることは、ラウドスピーカーの説明で分かっていた。最初、聞き覚えの ある『偉大な芸術家の思い出』かと思った。しかし、そうでないことは明らかであった。旋律に似たところはあるが、これはピアノ三重奏曲であり、オーケスト ラ曲ではないからだ。そこで交響曲を調べることにした。だが、有名な4番、5番、6番でないことは確かだ。国立駅 前の中古CD販売店でチャイコフスキーの交響曲を探していると、たまたま1番があったので、さっそく購入して家で聞いた。曲が第2楽章にさしかかったと き、私は跳び上がった。これだ。これをヴァラアーム島で聞いたのである。

 交響曲第1番には「冬の幻想」という標題がついている。そして、第2楽章にもさらに標題がついていて、「陰気な土地、霧の土地」と CDのラベルには書いてあった。この標題が私の注意を引いた。私は初めて朝霧の中から見え始めたヴァラアーム島の光景を思い出したのだ。それは岩と針葉樹 だけの、荒涼とした、しかし清らかな光景であった。でも、これは私の「幻想」に過ぎないと思った。そして、「陰気な土地、霧の土地」とはどこなのか、痛切 に知りたくなった。CDの解説書は標題については何も書いていなかったのである。

 まず原語で標題がどうなのかを 音楽辞典で確かめた。CDのラベルで「土地」と訳されていた言葉は「クラーイ」で、「地方」とか「辺地」と訳すべ き言葉だ。ますますヴァラアーム島のイメージと重なってくる。次にチャイコフスキーの解説書に何か書いていないかと思って手元にあったエリスマンの『チャ イコフスキー』を開いてみると、チャイコフスキーが交響曲第1番を作曲していた1866年に、「ラドガ湖の岸からほど遠くないところ」で休暇をとったとあ る。チャイコフスキーによる最初の交響曲の作曲は難渋を極め、彼は神経症にかかり、医者から休暇をとることを勧められたのである。ラドガ湖という地名が出 てきたことにもはっとしたが、それにしても「ラドガ湖の岸からほど遠くないところ」とはどこだろう。実に持って回った言い方だ。だが、それがヴァラアーム 島である可能性は十分あると思った。他の人にはどうでもいいことかもしれないが、私としては何としてもその確証が欲しい。

そこで国立音楽大学の図書館まで足を伸ばして調べることにした。ここには1940年に刊行されたチャイコフスキーの年譜があった。その1866年夏の項に「A.H.アプーフチンとともにヴァラアー ム島[ラドガ湖]へ旅行。それはチャイコフスキーに『拭い去り難い印象』を与えた」と書かれていた。ちなみにアプーフチンはペテルブルグの法律学校時代か らのチャイコフスキーの友人で詩人であり、後にチャイコフスキーは彼の詩によるロマンスを作曲している。やはりチャイコフスキーはヴァラアーム島を訪れて いた。そして、その印象をもとに交響曲第1番第2楽章「陰気な地方、霧の地方」を作曲したのだ。

私はヴァラアーム島でこの曲を聞いたときに感じた、あの音楽と風景が溶け合ったような感 覚を思い出した。だが、よく考えてみると、チャイコフスキーも同じ風景を見、作曲したのだから、音楽と風景がマッチしても当たり前の話なのだ。それに船の ラウドスピーカーはヴァラアーム島出航の際に土地ゆかりの曲をかけたに過ぎないのだ。何だかここまで一喜一憂してきた自分が滑稽に見えてきた。ちょうど手 品の種明かしをされたような気分だ。しかし、それでも私の好奇心は十分に満たされたのである。

                   (2004 年11月11日)

 

ロシアの正月

大矢 温(札幌大学教授・在モスクワ)

 

まずは暦のお勉強から(暇な人は電卓片手に読んでください)。天文学の世界では、地 球の公転周期は約365.2422日、ということになっているらしい。だから一年を365日にしてしまうと、毎年0.2422日ずつ誤差が出てしまう。 0.2422×4=0.9688だから、4年で約一日の誤差、ということになる。では、というので4年に一度、366日の閏年をもうけてこの誤差を解消し ようとしたのが、かの有名なジュリアス・シーザー。で、この暦法を彼の名前にちなんで「ユリウス暦」という(が、すったもんだあって、実際に実施されたの は紀元8年から)。ところが、このユリウス暦、1000年間を一区切りとして平均を取ると、その間に250回の閏年が来るから、一年の平均は(365× 1000+250)÷1000=356.25日となる。つまり一年間に365.25−365.2422=0.0078日ずつ、大まかに言って100年に1 日、誤差を生じることになる。この誤差が積もり積もって、16世紀には約半月の誤差になったとさ。ぢゃ、といって1

00年間に一回、閏年 をしない年を設けて、さらに400年に一回、閏年を復活させよう、というのが現在我々が使っている「グレゴリウス暦」。これだと(365×1000+ 250−10+2)÷1000=356.242、どうです?かなり正確でしょ。しかもこのグレゴリウスさん、暦を制定した1582年に、今までのツケを解 消しようと、暦を一気に10日間、進めたのでした。

というわけで、グレゴ リウス暦は16世紀にユリウス暦と10日間の差で始まって、17世紀には10日間(西暦1600年は400で割り切れるので差が広がらない)、18世紀に は11日間、19世紀には12日間、20世紀は13日間、とユリウス暦との差を広げつつ進んで、(西暦2000年はまたしても400で割り切れるので) 21世紀の現在、ユリウス暦を13日間リードしている、というわけ。

「だからどうした」と いわれると困るのだが、実はこれがロシアのムズカシイところ。ロシアでグレゴリウス暦が導入されたのは1918年のこと。だからロシア史をやっている人は 大抵、このユリウス暦(旧露暦)とグレゴリウス暦のハザマで悩まされることになる。しかも、いまでもロシア正教の宗教行事はユリウス暦に基づいて行われて いる。というわけで、ロシアでは1月7日がクリスマス。

一方、ソ連時代に宗教 に対抗しよう、ということで、12月25日に「ヨールカ祭」が行われてきた。クリスマス・ツリーの代わりに「ヨールカ」を立てて(見た目は全く同じ)、サ ンタクロースの代わりに「ヂェット・マローズ(厳寒爺さん)」(これも外見は同じ)が「スネグールチカ(雪娘)」を引き連れてプレゼントを配る、という子 供向けのイベント。長年の習慣だからソ連が無くなっても続いている。

その結果どういうこと になるか、というと、新暦のクリスマス・イヴにあたる12月24日から連日、クレムリンの大宮殿から寒村の文化会館に至るまで、ロシア中で「ヨールカ祭」 が繰り広げられ、街頭もお祭りムード一色となる。そのまま大晦日・新年へとなだれ込んで、ロシア的に徹底的に祝って(要するに大量に飲酒して)、三が日が 終わったらそこで仕事始め、というのが日本の感覚。ロシアは違う。なんといっても、旧暦のクリスマスと正月が控えている。新暦の正月は折り返し地点に過ぎ ない。まだまだ祭日が続くのだ。で、1月7日が旧暦のクリスマス。ヘロヘロになりながら宴会が続く。テレビも局員が休みだから古い映画ばかりでちっとも面 白くない。外は寒いし、店も休みが多い。宴会ぐらいしかやることがないのだ。聖なるロシアがアルコールで清められ、いや、アルコールの腐海に沈んでいく・・・結果、昼となく夜となく続く宴会地獄からようやく解放されるのは、旧暦の正月にあたる1月13日になってから、というわけ。

クリスマスから正月、 ロシア人にとって一年の最初と最後を飾る一大イベントだ。子供は「ヨールカ祭」へ、大人は徹底的に飲み続ける。新暦と旧暦、二つの暦の間隙にぽっかりとあ いた時間のハザマの中でロシア人は一年で最大の祝日を祝うのだ。

 

 

(写真はパクロンナヤ・ガラーの戦勝公園の「ヨールカ」。ちょっとした縁日になって いる)

 

プロコフィエフの祖国、憧れのロシアを訪れて

 

鳥山頼子(愛知県立芸術大学大学院1年)

 

 ロシアの大地を生まれて初めて踏みしめたときの感動は言葉では言い表せないほどのもので した。私にとってロシアは、近くて遠いまさに憧れの地だったのですから!

 現在、私は愛知県立芸術大学の 大学院で音楽学を勉強しています。研究テーマはロシア音楽史で、特に20世紀のロシアの作曲家プロコフィエフを専門に研究しています。そのため、私にとってロシ アへ行くことはかねてからの大きな夢でした。そして、去年の夏ようやくその夢が実現したのです!!せっせとアルバイトをして貯めたお金で、私は9月にJICの主催する3週間ほどのロ シア語研修旅行に参加しました。その内容は、サンクト・ペテルブルク大学での2週間の語学研修とモスクワの観光がセットになったものでした。出発の9月5 日の直前には、ロシアで学校占拠事件や地下鉄の爆破テロなどが相次ぎ、とても不安でしたが、15名の参加者とともになんとか無事に滞在を楽しむことができました。

 日本から最初の滞在地サンク ト・ペテルブルクへの道のりは相当に長いものでした…。愛知に住む私は早朝に関西空港へ向かい、大韓航空の飛行機でまず韓国に降り立ちました。トランジッ トをしてようやくモスクワへ飛行機が出発、9時間かけてロシアに入りました。その後、空港から鉄道の駅へ車で移動し、夜中の12時近くにペテルブルク行きの 夜行列車に乗り込みました。8時間の鉄道の旅が始まった頃には、すでに体がへとへとでしたが、憧れのロシアにいると思うと興奮して眠れませんでした。そし てようやく、翌日の朝早くサンクト・ペテルブルクの街を拝めることができました。日本の自宅を出発して実に24時間以上を移動に費やしてい たことになります!!本当に疲れました。

 ペテルブルクの街の第一印象 は、「都会」でした。モスクワ駅の前には、美しい店が軒を連ね、たくさんの若者の活気で満ちあふれていました。それは、私がイメージしていた古臭くて薄暗 いロシアのイメージとはずいぶん違うものでした。しかし、郊外に行くと雰囲気が少し変わりました。灰色が中心の古い高層マンションが並び、舗装されていな い道路も見当たります。私がペテルブルクで宿泊していた学生寮も、ペテルブルクの中心街から少し離れたそんな場所にありました。10階以上ある寮の建物は、一部 がホテルで、私たちが宿泊していた部屋ももともとホテルの一室だったため、清潔で広々としていました。一部屋が5人用で、3つの寝室とダイニング・キッチ ン、トイレと浴室があります。私は、研修旅行の参加者と同室になり、皆で朝ご飯を食べたり、夜にはごちそうを作って宴会をしたりして毎日楽しく過ごしまし た。

 さて、ロシアで過ごす際にやは り不安なのが治安です。私たち研修参加者は、ペテルブルクに着くとさっそくJICの現地連絡員の方から治安に関するお話を伺い、スリの防止法や緊急事態の処置法などのア ドヴァイスを受けました。そして、実際にマルシュルートカや地下鉄に乗る練習などをして、街の雰囲気を肌で感じ取りました。やはり、治安はいいとはいえな いと思います。地下鉄の車内や駅の構内の雰囲気はどこか殺伐としていて、人ごみの多い街中では数人がグルになってスリをしている光景を目の当たりにするこ ともありました。実際に、私は3週間で3回もスリに狙われ、研修参加者の中には実際に盗まれた人も何人かいました。とにかく、外に出るときはまったく油断 ができず、日本の治安のよさを改めて実感しました。

 私の通ったサンクト・ペテルブ ルク大学は、寮からバスで20分程度の場所にありました。外国人専用の語学センターで、各国の留学生が大勢勉強をして いました。登校初日にクラス分けのペーパー・テストを受け、私は今回の研修参加者9名で構成される初級のクラスに入ることになりました。授業は、会話、文 法などを中心に1日2コマずつあり、午前中で学校が終わる日もあれば、午後までかかる日もありました。いずれの日も、朝早くに寮から大学の送迎バスで学校 へ向かい、授業が終わるとマルシュルートカやバスで寮まで帰りました。私は、日本でロシア語を2年半学んでいましたが、やはりロシア語のみで行われる授業 はレベルがとても高く、最初は先生の言っていることがほとんど分からない状態でした。しかし、そんな自分の力不足が情けなくて、私は毎日夜遅くまでそして 朝早くからできるだけ予復習をして授業に備えるようにしました。おかげで、研修の最終日にはなんとか先生の話すことがゆっくりと理解できるようになりまし た。やはり、どんなときでも自発的に勉強をする姿勢が重要だということを実感するとともに、もっとロシア語力を磨かなくてはと研修を通じて痛感しました。

 

 

さて、ロシアでの大学生活を満喫しながら、ペテルブルク観光も楽しみました。土日は学校 がないので、研修参加者の皆でロシア人のガイドさんとともに有名な観光地(スパス・ナ・クラーヴィ聖堂、夏の庭園、ペトロパヴロフスク要塞、エルミター ジュ美術館など)に行きました。こうして皆で訪れた中で一番印象的だったのが、ペテルブルク郊外にあるペテルゴフです。ここには、ピョートル大帝が作った 宮殿と大きな公園がありました。特に、大小無数の噴水がある公園は大変な美しさでした。また、学校のある日も、私は時間を見つけては友達を誘ってペテルブ ルクの市内観光に繰り出しました。ネフスキー大通りはもちろんのこと、イサク聖堂やロシア美術館、人類学・民俗学博物館などをめぐったり、運河クルーズを 楽しんだりしました。また、アレクサンドル・ネフスキー大修道院の敷地内にある墓地を訪れ、チャイコフスキーやグリンカ、ムソルグスキーそしてドストエフ スキーのお墓を実際に見ることもできました。中心街から少し離れた場所にあるこの墓地は、緑が多くひっそりとしていて、芸術家たちがたくさん眠っていまし た。私は、お墓の前に立って、かつて彼らが空気を吸っていた街に来たのだなぁとしみじみと感慨にふけました。

 ペテルブルクは、約100年前にプロコフィエフが音 楽の勉強をした街です。そして、19世紀にはグリンカや5人組が力強いロシア音楽を生み出した街です。21世紀になった現在でも、ペテ ルブルクはやはり芸術の都の姿をとどめていました。私は、ペテルブルクの2週間の滞在でさまざまな芸術に触れることができました。エルミタージュ美術館は 1日で回りきれず、もう1日足を運びましたがすべての作品を見ることはできませんでした。しかし、ピカソやマチス、ルノワールといった20世紀の絵画には深く胸を打た れ、その迫力を十分に味わうことができました。また、ムソルグスキー劇場でムソルグスキーの《ボリス・ゴドゥノフ》を鑑賞したり、プロコフィエフも学んだ 音楽院のコンサート・ホールでチャイコフスキーのバレエ《白鳥の湖》を聴いたりしました。やはり生の音楽は最高です。今回はロシアの作曲家の作品を鑑賞す ることができて本当に感動しました。さらに、ペテルブルクではサーカスにも行きました。象や馬、熊、猿といったかわいい動物たちのパフォーマンスや、本場 のピエロのユーモアなどをロシア人の聴衆ともに楽しみました。それにしても、ロシア人は本当に芸術やエンターテインメントが好きなのですね。どこに行って も目を輝かせながら芸術を楽しむロシア人の姿がありました。おそらくこうしたロシア人の気質が、あの素晴らしい音楽作品の数々を生み出したのでしょう。今 回の旅でそれを強く実感しました。

 さて、充実した2週間のペテル ブルク滞在を終え、私たちはモスクワへ移動しました。やはりペテルブルクからは夜行列車を利用して、9月19日の早朝にモスクワに到着し ました。モスクワの印象は「洗練された都会」でした。水の多いペテルブルクと比べると、モスクワは緑が多く、町並みも整然としていて美しく感じられまし た。しかし、モスクワの人たちは、どこかせわしなくて冷たい印象があり、街は世知辛い雰囲気に包まれていました。モスクワでは、やや郊外にあるイズマイロ ヴォ・アルファという美しいホテルに泊まり、4日間の観光を楽しみました。

1日目は、赤の広場、クレムリン、アルバート通りなどをガイドさんの案内で回りました。 モスクワは、ペテルブルクとは違って伝統のある都市なので、ロシアらしい建築物が点在し、やや田舎っぽさが残っていて、歩いていると不思議と心が和む感じ がしました。2日目は、少し足をのばして皆でセルギエフ・ポサドを訪れました。ここは、ロシア正教の聖地ともいえる場所で、町の中心にあるトロイツェ・セ ルギエフ大修道院は非常に厳かな雰囲気に包まれていて、格式ある教会の内部は壮麗な装飾で彩られていました。私は仏教徒ですが、教会のミサを実際に見て心 が洗われるような気持ちになりました。また、教会内での楽器の使用が禁じられているロシア正教はミサの中心がアカペラの独唱や合唱で、教会内に響き渡る美 しい歌声にも深く感動しました。3日目はフリータイムだったので、友達と2人で市内観光に出かけました。いくつか訪れた中で、グリンカ中央音楽博物館はと ても印象的でした。たくさんの楽器コレクションの他に、グリンカを始めとするロシア人作曲家の自筆譜や曲のスケッチ、手紙など、私にとってはまさにお宝の 数々がところせましと展示してありました。そして…その中に、私の研究テーマであり私が最も敬愛しているプロコフィエフの自筆譜や所有物も何点か見つける ことができました!!私は、しばらくそのコーナーから動けなくなるほど感動しました。プロコフィエフの 生の声が聞こえてくるような気がして、私は研究意欲をさらに強く掻きたてられました。

ロシア最終日の4日目も、夜の出発までフリータイムで観光をする予定でした。しかし、私 は前日の夜に行われた研修参加者の送別会でウォッカを飲みすぎてしまい、二日酔いでホテルから出られず、長時間の飛行機に備えて眠って過ごしました…。そ して、その夜なんとかホテルを出発し、モスクワから飛行機で帰国して旅行は終わりました。

さて、こうして振り返ってみるとロシアで過ごした18日間は本当にあっという間で したが、大変充実させることができました。憧れの地ロシアは素晴らしい国でした!確かに危険な目にもあいましたが、やはり総合すると楽しい思い出ばかりに なりました。最初は冷たく感じたロシアの人々に対する印象も、日を重ねて彼らの新しい顔を見つけるにつれて、物事に対してまっすぐで「熱い」という印象に 変わっていきました。そして、今回の旅行では、何よりもロシアが芸術的な要素であふれていることを肌で感じることができました。あのプロコフィエフの傑作 の数々を生み出すことができたのは、この国の根源にあるこうした芸術性のおかげだったのではないのでしょうか。私は、今回のロシア旅行をきっかけに研究に 対する情熱を大いに掻きたてられました。そして、いつかまた必ずこの地を訪れて勉強をしたいと思いました。そのために、お金を貯めて語学力をさらに磨い て…と現在夢に向かって胸をふくらませています。近い将来、必ずまたロシアを訪れてプロコフィエフの研究をすること、それが私の目下の大きな目標です!

 

 

 

 

2004年をふりかえる
 

 

 

 


Михайлова   Оксана

ミ ハイロワ オクサーナ

 

 

こ のサイトをご覧になられている皆様、あけましておめでとうございます✯

皆 様にとって2004年 はどんな年でしたでしょうか。私は去年一年を振り返りますといろいろなことがありました。先ずは大学の卒論で合格をいただき、大学を無事に卒業できたこと が一番大きな成功だったと言えます。

 

し かし今年は更に大きな一年になることと思われます。それはなぜかと言いますと、特に愛知県市民やここで働いている方々にとって、大きな世界の舞台と言え る、愛知万博が訪れるからです。名古屋市はこの博覧会を通じて世界への大きな一歩を踏み出そうとしています。

私 は去年は会場の下見に行く機会もあり、こうした舞台で働けるチャンスを待ち望んでいます。万博へのプーチン大統領の来日訪問も期待されているなか、私もこ の一年を大変楽しみにしております。

そ して去年は更に、在日ロシアのルシュコフ大使が名古屋を訪れ、講演で愛知万博が今後の日露関係の発展にとっても非常に大きな幕開けになると話しておられま した。私はそんなルシュコフ大使の講演通訳を務める機会も与えられ、大変貴重な経験をしました。    

大 使の演説には、日露関係はこの10年 で最も望ましい変化を遂げることができた。これまでの歴史にないほど良い関係にあり、対ロ投資も明らかに増大している。そして東シベリアから大西洋までの 石油パイプライン建設プロジェクトで、サハリンのガス・石油開発に基づき、近い将来、サハリンから日本へ天然ガスが供給される。昔と比べて、日本側のロシ アに対する共同ビジネスへの関心が高まっている。しかしこうしたことがよりスムーズに更に進むには、両国の北方領土問題が懸案となっている、と多くの新聞 では取り上げられている。

 

こ れに対しルシュコフ大使は、相互発展のために何かの前提条件を出し、しかも領土問題の解決と結びつけることは間違いであるという考えを表し、第一に両国の よりいっそうの相互理解を深めることで領土問題にも次第に解決の糸口が見えてくるはずと語った。

私 も日ロ関係の発展を期待しながら、今年しかできない万博での自分の飛躍に頑張りをかけたいと思います。 

 

名古屋のリンナイ、ノリタケ両本社を訪問されたル シュコフ大使

 

 

                        

ロシア旅行が与えてくれたもの

早稲田大学教育学部社会 科地理歴史専修2年 打田仁美

 

 私は去年の夏に第4次クラスノヤルスク訪露団・シベリアの自然と文化に親しむ旅に参加し ロシアへ行きました。イルクーツク、クラスノヤルスク、ウラジオストクの三都市を回る全8日間の旅でした。

 私はずっとこれといったきっか けは無いのですがロシアが大好きでした。私はロシアに衝撃を与えられるばかりでした。はじめて受けた衝撃は今でも覚えています。小学校の給食に出てきたボ ルシチです。赤い色と奇妙な名前が衝撃だったのです。それからというものフィギュアスケートのイリア・クリク選手に一目ぼれ、高校生のときは「映像の世界 史」でスターリンの映像を見て心奪われました。ロシアの歴史を学ぶだけでは飽き足らず今は大学でロシア語を学んでいます。(ロシアが大好きなのですがロシ ア語の出席率はあまり良くありません…。)そしてロシアについての本を暇さえあれば読み、たくさんの衝撃を受けています。

 そんな私なもので、ロシアへの 旅行が楽しみで仕方ありませんでした。関西空港から出発し何時間もかからずにウラジオストクに到着したので、始めは実感がありませんでしたが段々と「ロシ アへ来たんだ!」という感動に変わっていきました。その日はすぐにウラジオストクからイルクーツクに移動しました。イルクーツクではバイカル湖クルーズを 楽しみましたがあいにくの悪天候で残念でした。三泊した後クラスノヤルスクへ行きました。ここでは空港からVIP待遇だったため驚きました。次の日にはク ラスノヤルスク大学へ訪問し、向こうの学生達と討論会をした後に一緒に出かけました。向こうの学生達は日本語がある程度話せ、会話は主に日本語と英語で行 われました。自分は大学でロシア語を勉強しているのに情けないなと落ち込みました。それでもくよくよしていても仕方ないのでサッカーの話や恋愛の話などを して交流に励みました。クラスノヤルスク滞在の最後の夜はお別れパーティが行われ最後までもてなしてもらい嬉しかったです。クラスノヤルスクの次はウラジ オストクにまた戻り一泊して帰国しました。

 帰国してからは「あー楽しかっ たなぁ」と思うだけでしたが、時間が経つにつれこの旅行が与えてくれたものは多かったと実感し始めました。一緒に旅行を共にした愛知県立大学と星城大学の みんなやクラスノヤルスク大学の学生などかけがえのない友達ができました。たくさんの出会いや色々な所を観光したこと、頑張って買い物をしたこと、VIP 待遇など本当に良い経験をすることができました。さらに、今までの考えががらりと変わりました。私は今まで飛行機が嫌いなため海外へ行きたいという気持ち はありませんでした。しかしこの旅行により考えが変わり、海外旅行が好きになり12月にはトルコへ行きました。前の私なら考えられなかったことです。そして私は海外旅行への意欲と共に語学の喜びに目覚めました。ロシアで悔しい思いをしたため多少トルコ語を覚えトルコへ行ったのですが、言葉が通じたときの感 動といったら言葉に表せない程でした。(ただその後のロシア語の出席率はよくならなかったことは反省ですが…。)この語学の喜びが大きかったあまりに私は 4月から日本語教師の資格を取る勉強を始めることに決めました。もちろんロシア語も頑張るつもりです。

 このように8日間のロシア旅行 はただ単なる「良い思い出」に留まらず私に多大な影響を与えてくれました。本当に素晴らしい旅行だったと思います。

 

アンガラ川で 左から佐藤、打田(早稲田大)、加藤、石原(県大)、田川(星城大)

 

 

マーシャのこと

 

愛知県立大学文学部英文 学科3年 加藤彩美(おろしゃ会会長)

 

 昨年の夏、私はロシアへ行った。ロシア語を学んで1年半、ロシアへの憧れが高じてとうと うロシアへ行く決心をした。加藤先生をはじめとしたたくさんの人と旅行ができたのは安心で、とても楽しいものだった。

 クラスノヤルスクでは現地の学 生との交流があった。短い時間の中で、一緒に町を見て、歩いた。その中のひとりがマーシャだった。

彼女はまだ16歳ながら、日本への興味は人一倍である。私はじゅうぶんにロシア語を話せ ないし、マーシャもじゅうぶんにロシア語を話せない。しかし、マーシャは英語がとても堪能で、私も英語ならばなんとか意思疎通ができる。そのため、手紙もEメールも英語だ。

しかし、日本からも、ロシアからも、手紙が届くのは大変遅い。12月はじめにマーシャが 送った手紙は、2月の半ばに届いた。そのため、連絡はEメールが主である。Eメールは便利で、毎日の「文通」も可 能だ。その内容は、ロシアの気候についてだったり、好きな文学作品であったり、ロシアと日本の行事についてだったり。すべてのメールが勉強になっている。

二人とも本が好きだということで、クリスマスには本を贈りあった。私からは日本語と英語 が併記された絵本『桃太郎』、『金太郎』。マーシャからはロシアの民話の本が数冊。時間をかけても、少しずつ読んでいこうと思っている。そんな二人の目標 は、マーシャは日本語で日本の本を、私はロシア語でロシアの本を読むことだ。それはいつ実現するのかわからない。しかし、私は不可能ではないと思ってい る。

マーシャは日本に来たいと思っている。私はその日を楽しみに待っている。日本には、私も 大好きな場所がたくさんある。熊本、金沢、浅草、鎌倉、大阪・・・日本はロシアに比べたら小さな小さな国だが、ロシアにも負けないくらい魅力的だ。そし て、私はもう一度ロシアに行きたいと思っている。ロシアほど大きな国だと、私のような外国人には、おそらく一生かかっても知り尽くせないだろう。それもま た、ロシアの魅力であると思う。

私は2005年度も、ロシア語を学ぶつもりだ。ロシア語は思ったよりも難しい。アメリカ の人から、日本語とロシア語は世界で一番難しい言語だと言われたことがある。その意味が、今ではとてもわかる。それでも、私はロシア語を学ぶ。マーシャと ロシア語で話したいという新しい目標もできたからだ。

 

 

マーシャとクラスノヤルスクの街角で 2004年8月31日夕刻

 


10月19・ 30日・31日に開催された県大祭で

おろしゃ会模擬 店大繁盛・NHKでも放映


 

左より 部長の加藤彩美、部員の亀山、西川

 

左より部員の木村、井上、加藤

 


12月19日・ 日曜 第9回エクスクルシア

アリョーシャの 来日を記念して伊賀上野に行く


 

俳聖殿の前で(伊賀上野は松尾芭蕉の生地です)

 

  

 

「近畿鉄道で行く伊賀の旅 2004年 12月19日(日)晴れ 

愛知県立大学文学部英文 学科2年 亀山昂志

 

この度、おろしや会の遠足ということで、忍者を探しに三重県は伊賀市まで、14名の参加 者で行ってきました。伊賀市といえば、かつては伊賀忍者の里があったことで有名です。はてさて忍者は今もいるのでしょうか。

この遠足は、アリョーシャさんが忍者にとても興味があったこと、が経緯で企画されまし た。ロシアで忍者が人気なのかは気になるところですが、日本ブームというものはここ最近よく聞く話です。アリョーシャさんはスウェーデンの大学で数学を学 んでいるようで、スウェーデンではロシア語がなかなか通じるらしい(昔、スウェーデンでは徴兵時に軍隊でロシア語を学んでいたらしい)ので、スウェーデン 語をあまり話せなくてもやっていけるそうです。

集合時間(朝8時40分)に、アリョーシャさんとマリーナさんが遅れてきたので、ア リョーシャさんが加藤先生に謝ると、先生は「ニチェヴォ」と言いました。これはつまりよくある表現の一つで、遅れてきた人が謝って、他の人達が ニチェ ヴォ(大丈夫だよ。気にしないで) と言うのだそうです。

近鉄で2回乗り換えて、約2時間ほどして漸く着いた伊賀市は、古びた町並み(廃パチンコ 屋など)が漂っていて、とても閑散としていましたが、忍者屋敷や上野城がある上野公園に行くと、ある程度の観光客達で賑わっていました。私は、お昼は「伊 賀牛うどん大盛り」を食べました。「三重のうどんのダシの味は、関東とも関西ともつかない味だ(つまり中部の味)。」とおっしゃっておられた関東出身の方 がいました。

忍者屋敷は上野公園一の見所で、仕掛けがいくつか施された忍者の屋敷が見学できます。壁 が裏返ったりする仕掛けや、床板がはずれて中に武器が隠してある仕掛けなどのようなベタなものが多かったですが、中には「こりゃ一本取られた!」みたいな ものもありました。また、忍者博物館もありました。

アリョーシャさんとマリーナさんがなかなか忍者博物館から出てこなかったことから察する に、よほど熱心に見学されていたのでしょう。

その後、上野城を見て、公園を後にし、松尾芭蕉の生家を見学しました。昔の家といった感 じでしたが、松尾芭蕉の「芭蕉」は植物の名前から取ったペンネームであることを初めて知りました。しかもその「芭蕉」ですが、南の島に生えてそうな、トロ ピカルな植物だったので、松尾芭蕉っぽくないな、と思いました。

夕御飯は、名古屋駅付近にある、「ロゴスキー」というロシア料理屋でとりました。偶然に もアリョーシャさんのおじいさんの苗字が「ロゴスキー」だったそうで、縁のありそうなレストランでした。「ザ バス!(あなたのために。乾杯。)」という アリョーシャさんの音頭で楽しいディナーを始めました。

とても楽しい一日でした。参加して良かったです。

追記です。三重県は愛知県の隣にありますが、方言は少し異なります。私は、近鉄に乗りな がら、周りに座っている人達が三重弁を話すのを、とても興味深く聞いていました。「〜ちゃうわ」とか「〜やん」や「〜やな」など語尾が少し大阪弁っぽいと 私は思いました。三重弁は、私には大阪弁に聞こえますが、三重県民に言わせると、大阪弁とは全く違うみたいです。ちなみに兵庫県の人も、ほとんど大阪弁っ ぽいですが、兵庫弁だそうです。つまり大阪弁は大阪のみにおいて話されている方言なのでしょうか。

 

                                             

映画『パパってなに?』(BOP)を観て

 

 愛知県立大学外国語学 部英米学科4年 田中麻里子

 

 映画『パパってなに?』(原題はロシア語でBOPヴォル、泥棒)は、 1997年にフランスとの合作で製作されたロシア映画である。ロシア映画としては、世界的に評価の高かった作品だ。物語の舞台は第二次世界大戦後のロシ ア、1952年を起点に物語が展開してゆく。主人公は6歳の少年サーニャ。彼は、生まれる前に先の戦争で軍人であった父を亡くし、父親を知らずに育つ。そ んなサーニャにとって父親へのあこがれは強く、時折一人でいるとき、見知らぬ父の幻影を追いかけることもあった。

 1952 年、サーニャと母親のカーチャが当てもなく鉄道で旅をしていたとき、軍服を着た男らしく魅力的なトーリャと出会う。カーチャとトーリャはすぐに恋に落ち、 3人はある町で下車し、家族として部屋を借りて住むようになる。カーチャは彼を軍人であると信じていたが、実は軍服を隠れ蓑にした、とんでもない泥棒だっ た。同じ建物の住人を気前よくサーカスやコンサートに招待しては、その留守中に家捜しし、住人が帰ってくるころには鉄道で他の町へ移動するといった手口を 繰り返しているのだ。その事実を知っても、カーチャはトーリャから離れられず、町から町への旅を共にする。

 一方サーニャは、想像してきた父親像と違う、 人を萎縮させるようなトーリャの存在に戸惑いを覚え、家族であることを怪しまれないように、彼を「パパ」と呼ぶようにという大人二人の命令を素直に聞けず にいた。しかし、荒っぽいながらも、けんかの仕方や、強い男になる秘訣を教えてくれるトーリャに、サーニャは次第に心を開いていく。そんな矢先、トーリャ は警察への暴行で逮捕され、7年の刑を受けることになる。そして収容所へと護送されるトーリャを追いかけながら、 サーニャは始めて、彼のことを「ぼくのパパ!」と呼ぶ。

 そのすぐあと母カーチャは、中絶によって腹膜 炎を起こして亡くなり、サーニャは施設で暮らすことになる。サーニャは、トーリャを「パパ」と呼んで以来、それまでの父親の幻影は見えなくなり、トーリャ を唯一の身近な人間と意識するようになる。そして、彼がいつの日か迎えに来てくれることを期待して待つが、数年後、偶然再会した2人を待ち受けていたのは悲劇だった。何年もトーリャとの再会を夢見ていたサーニャに対して、彼の発した言葉は、サーニャと 母カーチャにとって、あまりにも屈辱的であり、結果サーニャは、トーリャから昔譲り受けた銃で彼を殺してしまう。

 ここまでが物語のあらすじだが、作品全体を通 して、薄暗く冷たい、ロシアという国のイメージがよく表れていた。私自身、ロシア映画を見たのは初めてだが、時々ちりばめられたシベリア鉄道の様子や一面 雪で覆われた風景などは、「ロシアらしさ」を十分反映しているように思われた。トーリャとの出会いは三等寝台車で、その後の逃避旅行は二等寝台車で、と いった感じに、ロシアならではの移動手段が、一つ一つのエピソードをつなげているようだった。最後のクライマックスで撃たれたトーリャも、貨物車に横たわ る形でサーニャから離れていった。まるで、シベリア鉄道間で繰り返される、いろいろな出会いと別れの物語の一つとして描かれているようにも感じられる。

 さらに、ロシア(ソ連)ならではのエピソードと感じたのが、トーリャがサーニャに、二人だけの秘密として「俺はスターリンの息子だ」と、 もっともらしい嘘をついたシーンである。サーニャは素直にこの嘘を信じ、このことも、彼がトーリャに心を開き、一種の憧れを抱くようになる原因の一つと なった。

 また、トーリャにだまされていたことに気づい たカーチャが、それでも彼から離れられなかったことも興味深い点である。頼るところがなく幼い息子を抱えたカーチャにとって、初めのうちトーリャは理想の 男性だった。女性が一人で子供を育て、生きていくのが困難な中、偽者であれ「軍人」という身分証を持ったトーリャとの出会いは、久々に訪れた幸運だったに 違いないだろう。彼の実像を知ったとき、彼女は彼についていくか別れるかで揺れたが、結局彼が逮捕され収容されるそのときまで、彼と本当の家族になれるこ とを夢見ることになった。一方トーリャは、カーチャをそれなりに愛し、サーニャをそれなりに面倒見るものの、結局彼にとって二人は盗みを容易にするための 存在だったように思われる。このすれ違いが、最後の悲しいクライマックスを作り上げている。

 日本で見られるロシア映画はまだまだ少ない が、今回の作品から、独特の社会背景を垣間見ることができた。ロシアの象徴ともいえるシベリア鉄道の存在は、ロシア映画にとってもっともドラマ性のある題 材に感じた。きっとこれからさらに注目を浴びる作品がロシアから出てくると思うので、楽しみにしたい。

 

  

 

「おろしゃ 会」会報 第12号

2005年2月14日発行)

 

発行

愛知県立大学「おろしゃ会」

480-1198 愛知県愛知郡長久手町熊張茨ヶ廻間1552-3

学生会館D-202(代表・加藤彩美)

  http://www.tosp.co.jp/i.asp?i=orosiya

 

発行責任者

加藤史朗(愛知県立大学外国語学部)

480-1198 愛知県愛知郡長久手町熊張茨ヶ廻間1552-3

   orosia1999@yahoo.co.jp

  http://www.for.aichi-pu.ac.jp/~kshiro/orosia.html