おろしゃ会会報 第12号 その2

2005年7月29日

 

2004年11月県大祭でピロシキを売る/奥左から木村、井上、前左から加藤、亀山、西川

 

 

北方領土問題を考える

――北方四島交流・後継者(色丹島)訪問事業に参加して――

 

京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程

平岩貴比古

 

はじめに

 20047月下旬、私は北方四島(北方領土)のうちの一つ、色丹島を訪問する機会を得た。1992年より始まった、日露両国によるいわゆる「ビザなし交流」の一環としての渡航である。

 「ビザなし交流」とは、1991年のゴルバチョフ・ソ連邦大統領訪日時、海部俊樹首相との間で発表された日ソ共同声明の中で言及され、その後の折衝を経て枠組みがつくられた制度である。これにより、従来からの「北方領土に居住していた者」(元島民とその親族)による墓参に加え、「北方領土返還要求運動関係者」「報道関係者」の自由訪問も認められるようになった(後に「この訪問の目的に資する活動を行う専門家」も訪問資格の一つに加えられた)[1]

 今回、外務省ロシア課・課長補佐の川上恭一郎氏(愛知県立大学「おろしゃ会」会報第2号寄稿者)から、愛知県立大学の加藤史朗先生を通じて、訪問団参加へのお誘いがあった。実のところ、私は「日露交渉史」の専攻を自称しているにもかかわらず、北方領土問題への興味関心は薄かった。他人から「北方領土問題についてどう思う?」と質問されても、いつも当たり障りのない返答をするに止まっていた。つまり、本質的な問題意識を抱いていなかったのである。これは、「ロシアについて学んでいる者」にとして、本当に恥ずかしい限りであった。

 まずは、「百聞は一見に如かず」(「百聞」も私は重要だと思っているが)。修士課程最後の学年であり、北方領土へ渡航できるのも、もしかするとこれが最初で最後のチャンスかもしれないと思い、訪問団への参加を決意したのである。

 

事前準備

 今回の色丹島への訪問事業は、独立行政法人・北方領土問題対策協会(以下、北対協)と、北方四島交流北海道推進委員会の共催によるものである。「四島交流後継者訪問」と銘打ってあるように、平均年齢が高くなってきている「返還要求運動関係者」の後継者を育成することに、その目的があった。加藤先生も色丹島へ行きたいとおっしゃっていたのだが、「若い学生、社会人青年を連れて行く」のが主眼であるため、川上氏から無理と言われたらしく、残念そうなご様子であった。

 最初に参加希望についての照会があったのが5月。その後、訪問1ヶ月前の6月末になって、ようやく具体的な日程・行程のお知らせをいただき、必要書類をそろえて速やかに北対協の事務局に送付した。これと並行して、外務省の川上氏にはご多忙の中、訪問団参加への推薦状まで作成していただいた。川上氏からは「観光気分で行ってきてください」と言われていたので、本当に気軽な気分で出発の日を待ち望んでいた。が、そうは問屋が卸さない。事前に、北対協の事務局から二つ「お願い」をされてしまったのである。

 一つは、「夕食交流会」での楽器の演奏依頼。推薦状作成のためのプロフィールに「趣味・特技:楽器演奏」と記述していたのが、運悪く(?)事務局の目に留まってしまったのである。電話での問い合わせに対し、ギターかトランペットなら可能と答えておいた。結局はトランペット(正確にはフリューゲルホルン)を持ち込みで演奏することになり、そのため出発までの間、ロシアと日本の愛唱歌など数曲を、下宿近くの鴨川の河原で練習する日々が続いた。

 もう一つは、色丹島訪問時に予定されているロシア人住民と訪問団との「対話集会」での、基調発言の依頼である。参加者の中には、他にも北方領土問題に関心が深い学生がいただろうが、おそらく日露関係を専攻している学生は私一人であったため、このような大役を仰せ付かることになったのである。出発の2週間前、事務局長から直々に、分厚い資料と発言の要点のメモが郵送されてきた。「返還要求運動関係者」を拡大解釈した枠で参加するとはいえ、大学院生である私が携わっているのは「返還要求運動」ではなく、日露関係についての「調査・研究」である。報告文は、感情的に領土返還を訴えることに終始することなく、日本側・ロシア側の立場、外交交渉の経緯を冷静に見据えた、論理的なものでなければならない。結局5分程度の発言原稿を作成したのであるが、専門外(十分「専門内」だと叱責を受けそうだが)のことだと思い、直視することを避けてきた北方領土問題について勉強し直す、良い機会になった。この頃、ちょうど読んでいた朝日新聞記者の佐藤和雄・駒木明義による『検証・日露首脳交渉』(岩波書店、2003年)も、「領土交渉」問題の要点を整理するうえで大変役に立った。基調発言の内容については後述する。

 先に、「百聞は一見に如かず」と述べた。しかし、「一聞」もせずして「一見」したとしても、それは無意味なことだと思う。「一見」する前に、きちんと「百聞」しておくことも必要なことであろう。

 

北方領土「最前線」の街・根室へ

 事前準備も整い、いよいよ721日昼過ぎ、日本航空3131便で名古屋空港を飛び立った。2時間弱のフライトを終え、釧路空港に着いた時の感想は「寒い」の一言であった。実家の名古屋や下宿している京都と比べ、道東は昼夜とも10℃から15℃ほど気温が低く、さらにこの日は小雨が降っていたからだろう。

 空港バスで釧路駅へ移動した後、JR根室本線で終着駅・根室を目指した。このローカル線は牧場、山林、海岸など大自然の中を走り、鉄路のそばでシカが飛び跳ねる姿も見られた。途中の停車駅である厚岸(あっけし)は、あまり知られていないが、松前藩とロシア人商人の最初の接触があった場所でもある[2]

 根室に到着した時には、7月末とはいえ、もう薄暗くなっていた。午後8時までに根室グランドホテルで事務手続きを済ますことになっていたので、すぐに徒歩で向かう。電話で以前から連絡をとっていた北対協事務局の方々や、他の参加学生とも、ここで初めて顔を合わせた。夜には懇親会を兼ねて訪問団員で夕食に出かけた。

 

 一夜明けて、722日。この日は北対協による後継者訪問事業の第一日目で、根室市内で出発前の事前研修が行われた。朝、まずは納沙布岬から北方領土を視察すべく、訪問団一行はバスで移動した。主要道路など、市内の至るところに「返せ! 北方領土」というような看板が見受けられる。ここは、ロシアにより「不法占拠」された北方四島を目前に見る文字通りの「最前線」であると同時に、返還要求運動の「最前線」でもあった。

 この日は、幸いにも晴天に恵まれ、納沙布岬から肉眼で歯舞群島や国後島を認めることができた。歯舞漁協[3]の昆布漁船が群をなして沿岸を走る姿は爽快であったが、少し遠くに目を遣れば、岬から最も近い歯舞群島・貝殻(かいがら)島に錆びて傾いた灯台が見え、その付近にはロシアの国境警備艇が巡回している。納沙布岬にある「北方館」という資料館では、30名強の訪問団員が各々自己紹介した後、北対協事務局長・吉越氏と拓殖大学教授の下條正男先生から研修を受けた。同行された下條先生は「竹島(韓国名・独島)問題」の専門家であり、北方領土問題との比較の観点からご講演くださった。

 午後からは市街地へ戻り、根室グランドホテル西隣の「千島会館」で、色丹島・斜古丹(しゃこたん)の元島民である得能(とくのう)氏より、ソ連侵攻時の様子などについてお話を聞いた。その後、同行通訳からの簡単なロシア語講座、訪問時の役割分担決めなどを済ませ、第一日目の研修内容をすべて終えた。

 同日夜、根室グランドホテルにて、国後島まで途中同船する北海道推進委員会と合同で、結団式と交流会が催された。なお、北海道との共催による今回の後継者訪問は、前年に行われる予定だった第一回後継者訪問が悪天候により出航直前で中止となっていたため、事実上の「第一回」でもあった。

 

根室半島・納沙布岬に立つ筆者 2004.7.22

 

「コーラルホワイト」号出航

 723日、いよいよ出航の朝を迎えた。根室港の岸壁では、北対協と北海道推進委員会の訪問団員が集合して出発式が行われた。9時半、関係者の見送りを受けながら、小振りの客船「コーラルホワイト」号で出航。ここからは、北海道の団員が訪問する国後島を経由して色丹島へ向かう、4日間の船旅となる。

 前日に引き続いて天気に恵まれ、波も穏やかであったため、船は夏の暖かい北の海を滑るように進んだ。出発から1時間もすると、早くも海上の「中間点」(事実上の「国境線」)を通過し、見送りのためついてきた海上保安庁の巡視艇とはここで別れの合図(汽笛)を送り合った。日本政府は北方四島におけるロシア側の施政権を正式に認めていない。とはいえ、これらの地域に日本の国内法が及んでいる訳でもない。日本艦船の中で、唯一「中間点」を越えることができるのが、この「ビザなし渡航船」なのである。なお、「中間点」の向こうはロシア(サハリン)時間となるため、サマータイムの調整も入れて2時間早めなければならない(日本の正午は、北方四島では午後2時となる)。

 船旅の一日目と四日目は、国後島を訪問する北海道推進委員会のメンバーが同船していた。そのため船内は想像していたよりも狭く感じ、食事も交替でとることになった。ちなみに、私の参加した北対協の訪問団は、学生や社会人青年の参加者がほとんどであったが、北海道の訪問団員は高校生から元島民、国会・道会議員まで様々であった。ところで、この「コーラルホワイト」号。日本の客船であり、当然ながら船長以下、船員はみな日本人で、食堂で朝・昼・晩と出されるのも日本食。当初は別の目的で建造されたが、今はもっぱらビザなし渡航のために使用されているとのことである。

 夕刻、国後島・古釜布(ふるかまっぷ)湾に到着し、一時停泊。港の水深が浅いため、艀(はしけ)を使っての上陸となる。艀船とはいえ、貨物積み降ろし用の結構な大きさであった。この船は、日本政府が「人道支援物資」として四島側に贈ったものであり、「日の丸」をかたどった赤い円のマークの周りには、《В ЗНАК ДРУЖБЫОТ ЯПОНСКОГО НАРОДА》(友好の印に/日本国民から贈られた)と記されていた。同行の外務省職員と国後島の担当官の立会いの下、北海道推進委員会メンバーの「入域手続き」が行われ、一人ずつ艀に乗り換えていった。「入域」という言葉が何ともミソである。

 北海道組と別れてから、「コーラルホワイト」号は一路、色丹島を目指す。オレンジ色の夕焼け空の中、どこからともなくカモメがやってきて船に近づいてくる。夕食を終えた船内では、翌日の訪問時に予定されている「村長を囲む会」の打ち合わせや、「日露文化交流」(七夕、福笑など)の準備が着々と進められた。

 ロシア時間の午後10時(日本時間=午後8時)過ぎ、色丹島北西部の穴澗(あなま)(=クラボザボツク)湾に到着。辺りは薄暗いが、甲板からは、うっすらと港湾の地形と僅かな建物の明かりが見える。夜間の上陸はできないし、島には訪問団員全員が泊まれるようなホテルがないので、この日からは湾の中央に停泊しながらの船内泊(3泊)となる。客船内にはシャワー室やカード式公衆電話(衛星電話)もあり、生活するには概ね快適であったが、頭を打ちそうな二段ベッドには正直、閉口した。訪問団員も知り合うまでは「赤の他人」だったとはいえ、いったん船に乗ってしまえば運命共同体。談話室(喫煙)と食堂(禁煙)は、団員の憩いの場、交流の場となった。

 

色丹島訪問一日目――穴澗村

 724日午前7時(日本時間=午前5時)、「朝食の準備ができました!」という船内放送で否応なく起床させられる。時差さえ把握していれば、ロシア時間と日本時間のどちらで生活しても良いのだが(ちなみに船内では日本時間)、日本時間で行動していた私にとっては、普段の生活からは考えられない起床時間だった。朝食を済ませ甲板に出ると、薄曇の中で湾内の全景が見渡せる。「コーラルホワイト」号はゆっくりと穴澗村の桟橋に近づいていく。クラボザボツク(Крабозаводск)というロシア名が表しているように、ここは「カニ(краб)の工場(завод)」の村である。

 ここで、北方四島および色丹島の現況を説明しておくことにしよう。日本では「四島」というように、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島(一つの島ではない)が一括りに捉えられることが多いが、ロシア側の行政区分はこれとは異なる。「四島」は、ロシアに89ある「連邦構成主体」のうちの一つであるサハリン州に属し、その中の「行政区」として「クリル地区(Курильский район)」(シムシル島、ウルップ島、択捉島)と「南クリル地区(Южнокурильский район)」(国後島、色丹島、歯舞群島)の二つが存在している。その「南クリル地区」に13村があり、国後島には古釜布(=ユジノクリリスク町)と泊(とまり)(=ゴロブニノ村)が、色丹島には斜古丹(=マロクリリスク村)と穴澗(=クラボザボツク村)が所在している訳である。色丹島の人口は約2100人。国後島の約4300人と合わせると、「南クリル地区」の住民は約6400人である。「クリル地区」(択捉島)の約7800人と合計すれば、四島全体で約14200人のロシア人住民がいることが分かる[4]。かつては色丹島で1038人、北方四島には17291人の日本人島民が暮らしていた[5]

 現在、「クリル地区」のシムシル(新知)島とウルップ(得撫)島、「南クリル地区」の歯舞群島には住民はいないとされる。特に、納沙布岬の「目と鼻の先」にある歯舞群島(以前、日本人が住んでいた)には、ロシア国境警備隊が常駐しているのみである。しかし、200497日の共同通信の報道で、歯舞群島の勇留(ゆり)島で民間建造物が見つかったことが明らかになった[6]

 船はゆっくりと桟橋付近に着岸する。船上で事務局側とロシア当局の担当官と事務打ち合わせが終わると、訪問団員は一人ずつ点呼され、「入域手続き」が行われた。タラップを下り、午前9時半(日本時間=午前7時半)に色丹島上陸。これより後継者訪問の第一日目が始まった。

 上陸すると、20人ほどのロシア人村民の出迎えがあり、民族衣装を着た若い女性から「パンと塩」のもてなしを受けた。地元の子供にロシア語で話しかけてみても、恥ずかしそうではあるが、ちゃんと会話に答えてくれる。訪問団が上陸した穴澗(=クラボザボツク、すなわち「カニ工場」)には、港に隣接して水産加工工場がある。この工場は択捉島に拠点を置くギドロストロイ社の子会社の施設だそうで、実は、一行が上陸した桟橋も港も、この工場の敷地内にあった。ギドロストロイ社は、1991年に国営企業を買い取り民営化された会社で、元々は港湾・河川専門のゼネコンだったらしいが、ロシア経済混乱の中で様々な事業を展開しながら成長し、今では「クリル地区」および「南クリル地区」で最大の水産加工会社を傘下に持つようになった[7]。上陸すると、まずは穴澗工場責任者のパナセンコ氏の案内の下、水産工場内を視察した。製品の大半は輸出用とのことであり、工場内にはハングルの印刷された段ボール箱も積まれていた。

 その後、村の文化会館へ徒歩で移動し、午前10時より小さなホール内で「村長表敬訪問」と「村長を囲む会」が行われた。「囲む会」では、穴澗村のセディフ村長が、島の現状に関する私たちの質問に一つ一つ答えていった。

 午前11時ごろ、高台にある穴澗小学校へ車で移動。アスファルトの道路は水産工場敷地内にあっただけで、村の道路はすべて砂利道。舗装率はほぼ0%である。車が走ればすぐに砂埃が舞い上がるため、ファスナーを閉めたバッグの中にまで砂が入り込んでいた。小学校はプレハブ造りの一階建てで真新しく、話では1994年の北海道東方沖地震で倒壊したものを、日本からの人道援助で仮設したらしい。小学校では、まず日本語学習サークル「ロ・シ・ニ」クラブの子供たちから日本語の挨拶、そしてダネリア先生(女性)から「ロシア語講座」があった。続いて「日露文化交流」として、色丹島の子供たちに、日本の遊びと七夕飾り作りに挑戦してもらった。日本語では短冊は上から下への縦書きだが――子供たちは横書き(ロシア語)の慣れた手つきで、それぞれ願い事を書き込んでいく。一例を紹介しよう。

 

・日本語ができるようになりたい。/日本語の通訳になりたい。

・お金持ちになれますように。

・親しい人々が健康でありますように。

・すべての人々が幸せでありますように。

・プリンセスのような綺麗な洋服が欲しい。

・この島でもっと頻繁に私たちが会えますように。

・日本に行ってみたい。/日本の本州以南に行ってみたい。

 

 どこへ行っても、子供は同じようなことを考えるものである。ただ色丹島には毎年、四島交流や自由訪問で日本人がやってくるし、日本語がある程度学習されているためか、日本への好奇心が色濃く出た短冊も幾つか見られた。

 

対話集会におけるスピーチ

 穴澗小学校の教室では、「ロシア語講座」「日露文化交流」に引き続き、昼過ぎから色丹島住民との「対話集会」が開かれた。私が北対協事務局から依頼されていたのは、この集会での日本側からの基調発言である。

 原稿を事前に用意する際、事務局からの指摘もあり、次の三点は盛り込むよう留意していた。一つ目は「プーチン大統領の領土問題解決へ向けての意志」、二つ目は「東京宣言における日露政府間の合意内容」、三つ目は「平和条約締結後(領土問題解決後)の日露両国民の『共生』のあり方」[8]である。訪問団が「対話集会」で色丹島住民と意見交換をする前提として、これらの認識は是非とも共有しておきたいものであった。

 ただし、同時に、日本政府が近年の領土交渉で拠りどころにしている東京宣言の「限界」についても、日本側が十分に知っておく必要があると考えていた。同宣言のポイントは、第一に「北方四島の島名を列挙して、その帰属についての問題を解決して平和条約を締結し、両国関係を完全に正常化するという手順を明確にしたこと」、第二に「『歴史的・法的事実』『両国の間で合意の上作成された諸文書』『法と正義の原則』という三つの要素によって、領土問題を解決する方針が合意されたこと」にあるとされる[9]。ところが、同宣言のロシア文を参照してみるとどうか。そこでは、領土問題を解決して平和条約を締結するという「手順」(前後関係)が必ずしも明確にされているとは言えず[10]、また「法と正義の原則」についても日本との間に「温度差」さえ感じられるのである。ロシア文の中で「法と正義の原則」に該当するのは、《принципов законности и справедливости》である。ここでの「法(законность)」は「適法性/合法性」を意味するが、「正義(справедливость)」は「正当さ/公正さ/当然さ」まで含蓄している。また、「法」はある程度客観性があるにしても、「正義」は両国民の間で隔たりのある主観的なものであるかもしれない――。京都大学大学院の指導教官・木村崇先生からも常日頃指摘されていることだが、訳語は一対一で対応している訳ではなく、ニュアンスにはズレがある。「法と正義」をスローガンのように連呼しても、必ずしも北方領土返還に近づくとは限らないのである。

 ともあれ、訪問団側とロシア人住民側から司会者が1名ずつ出され、その進行で「対話集会」は始まった。冒頭は私からの基調報告であった。長文になるが、当日のスピーチ原稿を以下、全文掲載する。

 

 お集まりの皆さま、こんにちは。本日、日本からの若者たちと、色丹島在住ロシア人の皆さまとの間で、有益な話し合いができることを、大変喜ばしく思っております。日本側を代表いたしまして、まず私の方から幾つか問題提起をさせていただき、これらに沿って、双方の活発な意見交換につなげることができれば幸いです。

 ご存知の方も多いと思いますが、今年6月、米国で開催されたG8首脳会合(シーアイランド・サミット)に際して、プーチン大統領と小泉首相との間で日露首脳会談が行なわれました。ここで両国首脳は、来年2005年が「日魯通好条約」締結150周年に当たり、歴史的に重要な節目の年であるとして、日露両国で記念行事を開催することで合意しています。その上で大統領は、2005年初めに訪日したい、という意向を表明しました。

 また平和条約問題で、プーチン大統領は「領土問題を解決して平和条約を締結することが必要」であり、「自分はこの問題[11]の討議を避けるつもりはない」と言明しています。領土問題解決に対する大統領のこのような考えは、1993年にエリツィン大統領と細川首相によって発表された「東京宣言」に基づくものです。

 東京宣言には、日露両国が「択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の帰属に関する問題」を「歴史的・法的事実に立脚し、両国の間で合意の上作成された諸文書及び法と正義の原則を基礎として解決することにより平和条約を早期に締結するよう交渉を継続し、もって両国間の関係を完全に正常化すべき」だと明記されています。6月の首脳会談後に行なわれたラヴロフ=川口外相会談でも、「四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する」という方向性が確認されているように、「東京宣言」は両国政府の依拠すべき合意、共通方針であると言えます。

 さて、先ほど述べましたように、来年で日露修好150周年を迎えます。「ウルップ島と択捉島の間で国境を画定する」というニコライ一世訓令のもと、プチャーチン提督が来航、勘定奉行・川路(かわじ)聖謨(としあきら)との間で交渉がもたれ、18552月、「日魯通好条約」が調印されました。これによって、ロシアと日本は国交を結び、両国は平和的に領土問題の一つを解決したのです。その後、国境線は幾度か引き直されますが、日露両国の国境線が未画定な状態に置かれている現在、この「日魯通好条約」は、我々が再び立ち返るべき条約と言えるのではないでしょうか。

 この下田での条約交渉に際して、一つ興味深いエピソードがあります。交渉の最中、伊豆に停泊中だったプチャーチン一行のフリゲート艦「ディアナ号」が、安政の大地震(1854年)による津波で大破し、沈没してしまったのです。幸い、ロシア人水夫は日本の漁民により救助されました。その後、伊豆半島の戸田(へだ)村でロシア人の監督の下、日本人船大工が協力して、日本初の洋式帆船となるスクーナー艦「ヘダ号」が建造されます。プチャーチン提督は条約調印後、無事帰国の途につくことができました。この出来事は、日本の近代造船業発展の礎となった点で、また150年前にロシア人と日本人の協力事業が行なわれた点で、注目すべきものだと思います。

 下田での「日魯通好条約」締結交渉と、それと同時に起こった「ヘダ号」建造のエピソードは、私達にこれからの日露関係のあり方を示唆してくれています。国家間の関係改善と、民間の友好・協力は、決して別々のものではないのです。「日魯通好条約」調印から150年を迎えようとしている今、ロシアと日本は、プチャーチンと川路の政治決断、「ヘダ号」建造にともなう日露の民間協力という二つの歴史的な出来事を、是非とも見習おうではありませんか。

 領土問題の解決とともに平和条約が締結されれば、この北方四島は、日露両国民にとっての「意見不一致」の象徴から、「友好・協力」の象徴へと変化することでしょう。シンボルというだけでなく、友好・協力の実質的な拠点として、著しい発展を遂げる可能性があるのです。そのためにも、近い将来の両国民の「共生」のあり方について、私たちは十分に対話を重ねておかなければなりません。同時に、領土問題の解決は、ロシア人住民の利益が損なわれる形で行なわれるものではない、ということも確認しておく必要があるでしょう。

 この対話集会を良い機会として、先ほど触れました「東京宣言」の日露政府間の合意内容や、平和条約締結後の日露両国民の「共生」のあり方について、皆さまと話し合い、建設的な意見交換をできればと思っています。また日露修好150周年へ向けての、皆さまからの積極的な提言なども歓迎いたします。

 ご清聴ありがとうございました。

 

 訪問団随行の大島氏に逐次通訳をお願いし、10分ほどでスピーチは終わった。その後、色丹島側からも、ドゥダーエフ氏の基調報告があった。氏は、条約を含め、歴史的経緯を見ることが、日露両国民の視点として重要」と述べた。また「色丹島の一般住民は『政治家』ではない」としながらも、「両国民が言葉の障壁さえ克服すれば、解決できない問題はない」と強調した。

 「対話集会」の論点は、「共生」というキーワードに移っていった。訪問団員からの「領土問題解決とそれに伴う共生について、どういった問題があるか」との問いに対して、中高年の住民は「将来が不安」「領土問題解決は若者の意思に任す」「静かな老後が暮らしたい」と口を揃えた。あえて変化を求めたくない――消極的な考え方ではあるが、これが彼らの本音でもあった。

 「島で日本人と一緒に住めるか?」との質問には、出席したロシア人住民約20人のうち三分の一ほどが挙手したが、反対に日本側が「島でロシア人と一緒に住めるか?」と問われると、訪問団員の一人しか手を挙げなかった。もっとも、この「温度差」は仕方ないものだろう。第一に、訪問団の参加者には北方四島で生活する基盤などない(色丹島の元島民ならば、反露感情が強烈でない限り、その多く挙手するものと思われる)。第二に、彼らが単に「島で共生する」と言った場合、現状のままで(ロシアの施政下で)日本人と一緒に住むことを想像しているかもしれない訳だから、彼らには幾分か「ホスト意識」がある。隣に日本人が住むことくらい何でもない、ということだろうか。しかし、日本側が考えているのは、領土返還後に(本国への移住を「強制」しないことで)発生するであろうロシア系住民と、日本人との共生である。この点、話し合いの前提に食い違いがあった可能性は否めない。

 また、個人的には、「共生」という言葉のニュアンスにも多少問題があったと思う。日本語での共生は、「共存・共栄」に近い抽象的な意味で使われることが多い。しかし、この対話集会では、「共同生活」「雑居」といったニュアンスを持つсовместное проживаниеと訳されていた。文字通りに「実際に島で一緒に住めるかどうか」ということを問題の焦点とされたのかもしれないのである。「平和共存」と言う場合に使うсосуществование(共存)などを含め、訳語の選択をするべきではなかったか思う。

 ともあれ、この「対話集会」では色丹島住民の意識(「ビザなし交流」に関わっている一部島民の意識であり、「平均意識」とまでは言わない[12])を知ることができ、有益な話し合いの機会を持てたことは確かである。我々は「外交官」ではない。だから領土交渉をする必要はないし、むしろしてはいけないとも思う。後継者訪問団にできることは、「こちらの主張を話し、相手の主張を聞く」――そんな最小限のことだけで十分ではないか。なぜなら、「ビザなし渡航」の枠組みができあがる以前には、それすら不可能であったのだから。最後に、穴澗村のセディフ村長は「国民世論抜きにして、プーチン大統領はいかなる決断できないだろう」と述べていた。北方領土問題の解決を考えていく上で、決して無視できない事実であろう。

 

ホームビジット、夕食会での交流

 午後1時半に「対話集会」が終わったのち、訪問団は45名ずつの班に分かれて「ホームビジット」に出かけた。宿泊をともなう「ホームステイ」ではなく、昼食を村民の家庭でごちそうになるというもので、各班とも、ホストファミリーの車で移動した。

 私の班は、自分も含め学生4人と外務省ロシア課の並末氏の計5人からなり、住居やダーチャではなく、屋外での昼食会に招待された。私たちが林間にある空地に到着した時には、青空の下で、すでに食事の準備が整っていた。ホストファミリーはセルゲイ、オリガ・ポタペンコ夫妻と、長女カーチャ(12歳)、長男イリヤー(5歳)。この日は、子供の友人の誕生日ということで、他の家族や親族・友人など10人以上が集まっており、にぎやかな食事会となった。ただ、訪問団には4名しかプロの通訳がおらず、私の班には同行しなかったため、東京外国語大学の高橋さんと私とで何とかその代役を務めた。

 テーブルには、ウハー(魚スープ)やホタテの刺身のほか、魚介類を中心とした料理が所狭しと並んでいる。「乾杯」の後、料理に舌鼓を打ちながら、プレゼント交換や談話を楽しんだ。ホストの夫セルゲイさんは漁師で、根室、花咲、釧路に入港することも多いとか。妻のオリガさんは島の行政府職員として働いており、後で聞いた話では、昼食会にも来ていた彼女の母親は以前からこの島に住んでいるとのことであった。

 肉を焼いている火の隣で、ある男性が面白い料理の作り方を見せてくれた。イクラのピャーチ・ミヌートク(пять минуток=「5分」の意)という料理で、調理には5 分もかからない。まず、お湯に多量の食塩を溶かす。次に、そのお湯の中に筋子を入れ、手の平でよく揉みながらほぐしていく。これでピャーチ・ミヌートクの出来上がり。いわば塩味の即席のイクラで、調理してすぐに食べられることから好まれるらしい。早速フランスパンに乗せ、ウォッカとともに一口頬張った。Очень вкусно!(美味!)

 食事が済むと、班のメンバーはロシア人家族らとともに、バレーボールや小川での魚釣り(清流で、しかも「入れ食い」状態)に興じた。これも屋外での昼食会の醍醐味だろう。楽しい時間はすぐに過ぎ去ってしまうもので、3時間ほどの「ホームビジット」は本当にあっという間に終了してしまった。訪問二日間の中で、ロシア人島民と最も身近に、また最も和やかに交流ができたのもこの時だったと思う。

 「また明日会えるから」と彼らと別れを告げた後、今度は「夕食交流会」のため、色丹島北東部の村・斜古丹(=マロクリリスク)へ出発した。途中、穴澗村の商店に寄り、酒・タバコなどの土産物を求め、久々に「本場」のマロージナエ(アイスクリーム)を食べた。ここで行使したルーブルは、上陸前に「コーラルホワイト」号船内で、2000円を上限に両替してもらったものである。交換レートは1ルーブル=4.34円だろうか、460ルーブルが私の所持金だった。運転してくれたセルゲイさんの好意で、穴澗と斜古丹の中間に位置する海沿いの景勝地・マタコタンにも立ち寄ることができた。半分が土に埋まっている旧ソ連軍の錆びた廃戦車など珍しいものも見たが、険しいながらも草が茂り、丸みを帯びたマタコタンの海岸線は、知床半島とともに世界自然遺産に登録してほしいと思うほど美しいものであった。

 色丹島の人口が約2100人であることは上述したが、その内訳は穴澗村で1000人弱、斜古丹村で1100人強となっていて、これらの村によって島が東西に二分されるかたちになっている。午後6時過ぎ、斜古丹村中心部へ到着。国境警備隊が所在する斜古丹は、「寂れた村」という印象が拭えない穴澗に比べ、まだ街に活気があった。「夕食交流会」は、海沿いのメインストリートに面した色丹島随一のレストランで開かれた。

 夕食会は斜古丹村長代行・カラマイコ女史の挨拶で始まり、後継者訪問団長の丸田氏から答礼のスピーチがあった後、乾杯。ここで私の出番である。ケースから楽器を取り出し(わざわざ書いていないが、島内では楽器ケースを持ち歩いた状態で移動している)、準備が整うと、ロシア語で「これよりトランペットでロシアと日本の歌曲を演奏します。どうぞお聴きください」と述べ、楽器を吹き始めた。実は、昼に飲みすぎたウォッカが残っていたため、幸いにも全く緊張せず心地よく演奏できた(が、同時にどれだけ失敗したかもあまり覚えていない)。ともあれ、日本の「ふるさと」「浜辺の歌」や、「カチューシャ」「青いプラトーク(Синий платочек)」といった抒情的なロシア愛唱歌を選曲したのは大正解であった。アンコールの時間も頂戴し、予想以上の好評であったと思う。余談となるが、北対協事務局の方からは、私が上陸前に甲板で練習していたためか、「さすらいのトランペッター」とのあだ名をつけられてしまった。

 スケジュールの制約上、1時間という短い夕食会であった。車で再び穴澗の桟橋に戻り、午後8時(日本時間=午後6時)、カモメの大群に見送られるようにして「コーラルホワイト」号に乗船。穴澗湾内に停泊するため、出航した。

 一日目(23日)はこのように「移動」と「行事」が目まぐるしく連続したのだが、それには訳があった。二日目の724日は「ロシア海軍記念日」にあたるそうで、島の人々はその関連行事に出席せねばならず、日本の訪問団には構っていられない。そのため、レセプション行事などのほとんどが一日目に集中してしまったのである。逆に言うと、一日目さえ無事に終了すれば、二日目は「観光気分」でも良かった。

 

  

  ホームビジットでの一コマ 2004.7.24                 夕食会にて、ロシア愛唱歌を演奏する筆者 2004.7.24

色丹島訪問二日目――斜古丹村

 訪問二日目の725日、前日と同じく午前7時(日本時間=午前5時)に「朝食の船内放送」で起床。島内では単調なロシア式の食事ばかりであったので、船上での日本式の朝食(味噌汁、焼き海苔、納豆などが出てくる)は有り難かった。「コーラルホワイト」号は再び穴間村・水産工場の桟橋に近づいていく。そして、ロシア時間午前9時過ぎ、一日目と同じように「入域手続き」を経て再上陸した。

 早速一行は、数台の車に分乗し、斜古丹村に移動する。私を含め「後継者」に該当する若い男性訪問団員は、前日に引き続き、旧ソ連製の旅客トラックに詰め込まれた。このトラックは軍事用車両を彷彿させるボンネットを持ち、濃緑色の車体に、青とオレンジ色で塗られたワゴンが載っている姿が何ともミスマッチだったので、訪問団員からは「ネコバス」との愛称で呼ばれていた。

 午前10時、まずは斜古丹湾・東側の高台に近年新築されたロシア正教会の視察となった。高台からは、斜古丹湾の全景が見渡せ、ロシア国境警備隊の基地も見える。実は、私たちが色丹島第一の村・斜古丹の港を利用できず、わざわざ穴澗の水産加工会社所有の桟橋から上陸せざるを得なかった理由はこの点にある。海軍こそ常駐していないが、ここは「軍港」と同じ。国境警備隊基地をバックにしての写真撮影も戒められた。

 この日は日曜日で新たに洗礼者があったため、聖堂内の見学まで30分以上待たされただろうか。聖堂に入ると真新しいイコノスタス(聖障)の前で、ドミトリー神父より説明を受けた。この聖堂はアレクサンドル・ネフスキーの息子ダニール・モスコフスキー(モスクワのダニール)の名を冠しており、昨年8月に落成したばかりとのことである。帰り際、神父から書籍とカード型イコン(現代的!)を拝受した。車での移動中、訪問団に同行した島側の「ビザなし交流」担当者の一人・ドゥダーエフ氏に「あなたも正教を信じているのか?」と尋ねてみると、「私はムスリムだ」と答えた。北方四島には、戦後にウクライナやベラルーシ、コーカサスなどから移住してきた人が多い。色丹島の住民も「ロシア人」と一括りにできない面があるだろう。

 さて、この斜古丹村はロシア名でマロクリリスク(Малокурильск)と呼ばれている。日本語では「小クリル」を意味する。ロシアでは(北方四島を含めた)千島列島(クリル諸島)の分類方法は一つではなく、行政区分としての「クリル地区」「南クリル地区」、漠然と北方領土を指す場合の「南クリル」の他に、「大クリル」「小クリル」という区分も存在している。「大クリル」は、北はカムチャトカ半島南部のシュムシュ(占守)島から国後島までの列島で、オホーツク海と太平洋の境に位置する知床・根室両半島の間に突き刺さるような形をなしている。一方「小クリル」は、根室半島の尖端・納沙布岬の延長線上にある歯舞群島、色丹島を指している。この「小クリル」の第一の村(二つしかないが)であるため、マロクリリスクと命名されたのであろう。1956年、当時のソ連が日ソ共同宣言の中で合意した、平和条約締結後の歯舞群島と色丹島の引き渡しも、それを根拠にしたいわゆる「二島先行返還論」も、この「大・小」の地理的区分に基づいたものと考えられなくはない。

 話を戻そう。斜古丹の高台からふもとの村へ下りた訪問団一行は、今度は「日露親善サッカー大会」が行われるグラウンドに向かった。「グラウンド」とはいっても茶色いブチの牛がゆったりと歩いている――「ここは牧場?」と思いつつ足を踏み入れると、予想的中。牛の「爆弾」があちこちに落ちていた。親善試合のため学生と社会人によるにわか「日本代表」を結成するも、色丹島の強豪サッカーチームには敵うはずもなく、地元少年との対戦となった。訪問団も善戦したが、結果は25で色丹チームの勝利に終わった。グラウンドでは、その他「おにぎり作り」「バルーン・アート」などで、一般島民との楽しい交流の一時を過ごした。

 正午過ぎ、斜古丹湾岸に徒歩で移動し、「ロシア海軍の日」記念式典を見学する。普段は国境警備隊が置かれているだけの色丹島にも、この日は海軍艦艇が入港し、記念式典(内容は良く分からなかった)と訓練のデモンストレーションが行われた。式典が始まるまでの間、交通整理に当たっていたセーラー服の若い水兵と話す機会を得た。帽子に《морская охрана》(海上警備隊)と記されていたので、正確には国境警備隊員らしい。彼は名をアルベルトといい、オセチア出身の18歳。彼が他の訪問団員に渡した筆談のメモには「サラーム[ムスリムの挨拶]、友人たち!」と書かれていた。彼自身イスラム教徒なのだろう。在島1年になるといい、「オセチアの夏は50℃近くになるから、ここ[色丹島]の夏は『冬』みたいなものだ」と話してくれた。この約1ヵ月後に起こった北オセチア共和国・ベスランでの「学校立てこもり事件」(20049月)を、彼はどのように見ることになったのだろうか。

 式典が終わって、我々が車に乗り込むとき、ちょうど水兵が隊列を成して帰っていくところであった。偶然にもアルベルトを見つけると、向こうから手を振ってくれた。私はとっさに「Пака!(じゃあ!)」と告げた。ロシア語を学び始めて以来、親しい別れの言葉がこれほどにも自然に口から出たのは初めてのことであった。

 

島で出会った青年・アルベルト 2004.7.25

 

 

イネモシリ、斜古丹での墓参

 車で斜古丹を出発した一行は、先述のマタコタンの南方、色丹島のほぼ中央に位置する草地で昼食をとった。準備をしてくださった島民と一緒に食事したのだが、テーブルにはカニ、カニ、カニ。思わず山積みとなった花咲ガニと記念撮影したくなるほどであった。島内での他の食事会と比べると、団員同士の会話は格段に少なかったと記憶している。

 昼食後は、ここからさらに南下し、色丹島南岸の景勝地・イネモシリにある日本人墓地に行くことになっていた。ところが午後3時に出発した直後、一行の車列のうちの1台のワゴン車が、陥没した道に片輪をとられてしまう。団員の多くが「一度はあるだろう」と予想していたアクシデントであったが、10人がかりで車を押してもビクともしない。結局、「ネコバス」で牽引して復旧、事無きを得た。

 イネモシリに到着すると、線香を手に、傾斜地にある日本人墓地2基に墓参。戦前は墓石が多数存在していたが、ソ連軍侵攻後、ロシア人が住居を造るための礎石にしてしまったらしい。そこからは、「自然保護区」となっているイネモシリの海まで歩いて行き、海岸を散策した。海を囲んで草原と丘と霧しかないこの場所に、過去に日本人が住んでいたと聞いて、正直驚いた。しばし水遊びなどに興じた後、斜古丹村へ戻った。

 午後4時半に村に着くと、今度は民家の裏手に整備・管理されている「斜古丹墓地」および「クリル人墓地」に墓参した。「整然」とまでは言えないものの、金網で囲われた草地の中に日本人の墓石が多数点在している。正教に帰依したクリル人(アイヌ人)酋長の墓も見受けられた。その後、夕食会までの時間を利用して、各自、斜古丹村・中心部の散策や買い物をした。

 大通りを歩いていると、鉄骨で作られた緑色のモニュメントを発見した。隣にある碑文によれば、これが「航海者シパンベルグの色丹島到達250周年」を記念するものであることが分かる[13]。ロシアの航海者であるシパンベルグが最初に色丹島を発見した、よってソ連(ロシア)の領有は揺ぎないものである、と主張しているのであろう。しかしながら、「誰が最初に発見したか」ということは、領有権主張の根拠として不十分である。ジェノヴァ出身のスペインの航海者コロンブスが、アメリカ大陸を最初に「発見」したからといって、スペインがアメリカ領有を主張できるだろうか。あるいはコロンブスの生まれ育ったイタリアが領有を主張できるだろうか。いや、イタリアが主張するのなら、シパンベルグの出身地デンマークが色丹島領有に名乗りを上げることも可能であろう――。冗談はこれくらいにするとしても、「発見」(到達)の順番でもって領有権を主張するには無理があり、それは感情的な「正統性」を主張しているに過ぎないのである。仮に順番を問題としたところで、そもそも日本では、シパンベルグが色丹島を発見した1720年代よりも遥か前、すでに「正保御国絵図(しょうほうおくにえず)」(1644年)[14]の中で同島の存在が確認されている。

 このモニュメントの前で、中年のロシア人女性二人と出会った。話を聞くと、二人はハバロフスク州からの出稼ぎ労働者で、新年までギドロストロイ社の水産工場があるこの島に滞在するという。また、午前中に村の教会で洗礼を受けていたのは彼女たちであった。一緒に記念撮影した後、「写真を送るから」と住所を交換した。国境警備隊の青年ともそうだったが、色丹島訪問中、「ビザなし交流」として予めセットされた出会い以外に、こうした偶然の出会いがあったのはラッキーだったと思う。

 

ロシア人住民との別れ

 さて、午後6時前に始まった「夕食交流会」は、2日間の訪問を通して最後の公式行事となった。昨日と同じ斜古丹村のレントランにて、冒頭に穴澗村のセディフ村長と後継者訪問団の丸田団長の挨拶があった後、各班、ホストファミリーとともにテーブルを囲んで「最後の晩餐」を楽しんだ。ここで思いも寄らぬ「表彰式」が待っていた。前日の夕食会でトランペットを吹いた私と、手品を披露した早稲田大学の大守さんに、色丹島側の「ビザなし交流」担当者から色丹島のポストカード・セットがプレゼントされたのである。

 また、夕食会では、ホストファミリーのセルゲイ、オリガ・ポタペンコ夫妻から色々な話を聞くことができた。セルゲイさんがウラジオストクで軍務に就いていた時、当時工科学生であったオリガさんと出会ったこと。今から13年前、オリガさんの母を頼って、色丹島に二人でやってきたこと、など。またセルゲイさんがウクライナ出身と聞いて、この島の住民が「多民族」で構成されていることを改めて実感した。二日目ということで、同じ班の学生も、ロシア語を話せる・話せないに関わらず、積極的にポタペンコ夫妻に話しかけていたのが印象に残っている。

 午後7時、夕食会が終わると、斜古丹の海はオレンジ色に染まりつつあった。2日間の訪問の思い出を噛みしめながら、穴澗村の桟橋へ戻る。桟橋近くの岸壁には、すでに村長以下、「ビザなし交流」担当者やホストファミリーほか、色丹島住民が見送りにやって来ていた。村長らと談話し、オリガさんの母親からはチョコレートのお土産を頂戴した。訪問団が持参した花火で最後の交流の機会が持たれ、大人も子供も、ロシア人も日本人も、夕焼けの中で花火に興じながら別れを惜しんだ。

 午後8時(日本時間=午後6時)、「コーラルホワイト」号のタラップを上り、甲板から身を乗り出す。桟橋の上で手を振りながら、彼らは口々に「また来てください」と言っていた。私は以前、短期語学研修で滞在したモスクワから帰国する際には「二度と来るか」と思ったものだが、色丹島には本心から「また来たい」と思った。出港の準備が整うと、船は少しずつ桟橋を離れて動き出す。双方とも手を振り続け、彼らの姿、穴澗村の岸壁がどんどん小さくなっていった。そして色丹島住民は、決して誇張ではなく、船から彼らの姿が見えなくなるまでずっと手を振ってくれたのである。訪問団一同は、最後に甲板から色丹島へ向かって大きな声で叫んだ。До свидания!(また会う日まで!)

 

帰りの船の中で

 色丹島の島影も見えなくなった頃、まだ明るかった海上は白い靄に包まれた。船上では興奮冷めやらぬままに、団員同士で今回の訪問の成功を祝い、お互い感想を述べ合った。一番感動していたのは「熱い男」、拓殖大の下條先生であった。私にとっては初めての参加ではあったが、北対協事務局の方から以前の話を聞いて想像するに、この訪問は「100点以上」の点数を付けられるものであったと思う。

 ロシア時間で午前0時を回った頃、真っ暗闇の中、船は国後島の古釜布湾に到着・停泊した。明朝には北海道推進委員会の国後島訪問団と合流する。

 

 根室を出港して四日目の726日も、午前7時(日本時間=午前5時)起床は変わらない。朝食を済ませた後、北海道組が乗り込んでくる前に、色丹島訪問団のみで解団式を行った。30名以上の団員がそれぞれ、2日間の訪問の感想を述べていった。

 同行した下條正男先生は、何より「『共生』と『環境』が今回初めて北方領土返還運動のキーワードになった」ということを評価していた。訪問団長の丸田氏からは、出発前日の結団式での決意表明を振り返り、「(四島交流での)『来た、行った、見た、帰った』だけでなく、周囲の人々に今回の経験を『伝える』、そして訪問団員で再び『集う』ことが重要」との指摘があった。その他、後継者訪問団員からは、「有意義だった」「貴重な経験を共有できた」「船の上で、一生の友達ができた気がする」などの感想や、「島の現状を見て、問題解決の必要性を感じる」「今回の訪問はゴールなのではなく、(問題解決への)スタートである」「四島の住民と接するのはこれが最後なのではない。これからも彼らとは何度でも会えるはず、そのために何ができるかを考えたい」といった意見も聞かれた。

 午前10時過ぎ、国後島から艀船が到着。国後島当局の事務官が船に乗り込み、事務打ち合わせが行われた。しばらくして「出域手続き」が始まり、北海道推進委員会の訪問団員が次々と「コーラルホワイト」号に乗船してきた。30分もすると、賑やかになった客船は根室へ向けて出発した。

 国後島の訪問団員に話を聞くと、彼等は日本の人道支援で建設された「日本人とロシア人の友好の家」に2泊したとのこと。島内だけでなく宿泊施設でもロシア式の食事が出されるため、少し飽きてしまったそうだ。すでに述べた通り、色丹島には適当な宿泊施設がないため、我々は窮屈な船内泊となったのだが、船内で出される朝食が必ず日本食であり、この面では救われたのかもしれない。ロシア時間午後2時過ぎ、すなわち日本時間で正午過ぎ、「中間点」を通過する(以下、日本時間)。まもなく船上では、北対協と北海道推進委員会で合同解団式が行われた。

 海上の天気は穏やかで、甲板からは見渡す限りの水平線が広がっている。誰かの歓声を聞いて海に目を遣った。すると23頭のイルカが、船と競争でもするかのように、舷側近くを泳いでいくではないか。また、遠くでは時折、クジラがゆったりと海面に姿を浮かべている。ホエール・ウォッチングは「南洋」というイメージがあったので、北の海にこれほど海獣がいるのを目の当たりにして驚いた。

 海上でもう一つ珍しいものを見た。日本では北洋のみに生息する珍鳥・エトピリカ[15]である。海面を羽でバシャバシャと打ちつけながら飛んでいくのを見て、最初は、「ペンギンが溺れているのか?」と思ったほどである。一瞬の出来事であったので写真を撮ることはできなかったが、あとで調べてみると、あの1羽は間違いなくエトピリカであった。

 午後1時半、根室に無事入港。北方四島からの土産物でも、植物・種子類は防疫上の問題で自由に持ち込めず、酒・タバコも持ち込み量が制限されているため、下船前に通関士からチェックを受けなければならない。あらかじめ記入してあった申告書に基づいて、確認作業が行われた。下船準備が整うと、3日前に出港した時と同じ、根室の海上保安庁前岸壁に下り立った。「コーラルホワイト」号の前で集合写真を撮った後、バスに乗って根室グランドホテル西隣の「千島会館」に移動し、午後2時過ぎに解散。これで北方四島交流・後継者(色丹島)訪問事業の全プログラムが終了した。色丹島上陸2日間、船旅だと4日間、根室での事前研修も含めると5日間の行事であった。

 午後3時半からの代表者記者会見が済んでから、ホテルの客室でしばし休息をとる。夜からは、すっかり訪問団員の行き付けとなった市内の居酒屋「俺んち」で、今回の訪問事業の締めくくりとなる「祝杯」を交した。お疲れ様でした!

 

「コーラルホワイト」号前にて、団員一同 2004.7.26

 

北方領土問題について思うこと

 今回の後継者訪問への参加は、北方領土問題について、今までになく深く考えさせられるきっかけとなった。出発前の事前準備、「対話集会」のスピーチ原稿の作成、船上での訪問団員間の意見交換、そして実際の色丹島訪問――これらの他では得られない貴重な経験(すなわち「百聞」と「一見」)を通じて、自分の中に本質的な問題意識が芽生えたような気がする。

 さて、領土問題についての認識を深めていく中で、日本が北方領土返還要求においてどのような論拠を掲げているのかを知ることができたが、しかしそれは同時に、日本側の返還要求の根拠の一部がいかに杜撰で貧弱かを目の当たりにする結果にもなった。ソ連側の問題点もさることながら、日本側の問題点が浮かび上がってきたのである。

 領土問題は、条約解釈の問題であったり、時にそれを超えて決定がなされる政治問題であったりする。何人も返還要求運動に携わるのは自由である。しかし、私が今、誠実な態度で拠りどころにできるのは条約(およびそれに準ずる宣言文等)のみである。東京宣言に明記されているように、この領土問題は「法と正義の原則」を基礎として解決されなければならないが、その「法的な」論拠の一つ一つは、今一度吟味し直されて然るべきではないだろうか。

 以下、私が考える日本側の主張の問題点を整理したい。まずは日本政府の北方領土返還要求の論拠を大まかにおさらいしておこう。

 

@1855年の日魯通好条約締結以降、北方四島は一貫して日本の領土であった。

Aソ連は日ソ中立条約(1941年)を19454月に破棄したが、19464月の失効期限を待たずに(国際法に違反して)対日宣戦布告してきた(しかもポツダム宣言受諾後に)。

B「領土不拡大の原則」を謳った大西洋憲章(1941年)および「カイロ宣言」(1943年)にソ連も参加している。また、カイロ宣言で連合国により日本が駆逐されなければならないとした「暴力および貪欲により日本国が略取した地域」には、日本固有の領土である北方四島は含まれない。

C北方四島はサン・フランシスコ平和条約(1951年)で日本が放棄した千島列島には含まれない。

 

 これらの主張はもっともなものである。ただし、それは根拠がはっきりしていて、矛盾や誤りがないという前提条件があってのものだ。実は、私自身はBとCの論拠について疑念を抱いている。

 先に、Cの「北方四島はサン・フランシスコ平和条約で日本が放棄した千島列島に含まれない」ということについて。周知の通り、日本政府は千島列島(クリル諸島)の範囲を、カムチャトカ半島の南のシュムシュ島からウルップ島までの18島と定義している。「だから北方四島は放棄していない」ということだろうが、この定義の根拠に重大な「欠陥」があることを、比較言語学者の村山七郎はその論考の中で指摘している[16]

 日本政府がここで拠りどころにしているのは、日魯通好条約(1855年)第二条と樺太千島交換条約(1875年)第二款である(以下、下線筆者注)。

 

・「ヱトロプ」全島は日本に属し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す(日魯通好条約第二条)

「クリル」群島即チ第一「シュムシュ」島〈……〉第十八「ウルップ」島共計十八島ノ権理及ビ君主ニ属スル一切ノ権理ヲ大日本帝国陛下ニ譲リ而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ〈……〉(樺太千島交換条約第二款)

 

 日本文を見る限りでは、上記の二つの条文に一切問題はないように思える。しかし、村山によれば、日魯通好条約の「正文」はオランダ語、樺太千島交換条約の正文はフランス語で書かれており、そこから翻訳して日本文を作成するにあたって「誤訳」が生じているのだという。

 日魯通好条約の日本文は、下線部のように「『ウルップ』全島夫より北の方『クリル』諸島」(ウルップ全島および以北のクリル諸島)となっている。しかし、日本文作成のためオランダ語から最初に訳されたときには、正文に概ね忠実に「ウループ全島及其他の北に在るクリル諸島」(ウルップ全島およびその他の北方にあるクリル諸島)となっていた。それが転写される際、「其の北に在る」が「其の北に在る」と誤記されてしまい、誤訳のまま日本文が成立してしまったのである。

 また、樺太千島交換条約の日本文では、シュムシュ島からウルップ島までの18島が「『クリル』群島」および「『クリル』全島」と呼ばれているが、それに該当する言葉をフランス語の「正文」から訳せば「クリル群島のグループ」になるという。すなわち、ウルップ島以北の18島は、クリル諸島の中の「一グループ」に過ぎないのである。

 以上より、千島列島(クリル諸島)はウルップ島以北の18島に限定され得ない、とするのが村山の結論である。なお、ロシア文は、二つの条約とも、概ね「正文」(オランダ文、フランス文)に沿った内容になっているという。私は学術的な見地から村山の論考を支持している。

 「どうしても村山論文に納得できない」という方のために、念のため補足を加えておきたい。私が「北方四島は千島列島に含まれる」と考えるもう一つの根拠は、意外にも、日本側が「択捉島までは日本固有の領土」と主張する際によく引き合いに出す「ニコライ一世のプチャーチン提督宛訓令」(1853年)[17]の文面の中にある。該当する部分のロシア語原文とその和訳を、以下、引用してみよう。

 

 …… и вообще сей остров считается границею наших владений в Курильских островах.[18](一般にこの島[ウルップ島――筆者注]はクリル諸島における我々の領土の境とみなされている〈……〉)[19]

 

 この文書を精読した上で、「北方四島は千島列島に含まれない」と主張している方々に質問したい。ウルップ島からシュムシュ島までの18島を千島列島(クリル諸島)とするのなら、どうしてウルップ島が「クリル諸島における我々の[ロシアの]領土の境」となり得るのだろうか。クリル諸島の範囲が択捉島以南、すなわち北方四島にまで及んでいるからこそ、ロシア側のウルップ島(および日本側の択捉島)は「クリル諸島における」「領土の境」とみなされているのではないか。

 相手国の公文書の、自分にとって「都合の良い部分」だけを引き合いに出し、「都合の悪い部分」には目をつぶるのなら、そんな姿勢は「法と正義」からは程遠いと言わざるを得ない。「法と正義の原則」を尊重するからこそ、「北方四島は千島列島に含まれる」のである。仮に「小クリル」(歯舞群島、色丹島)を千島列島から除外できたとしても、国後・択捉両島は正真正銘の千島の一部であろう[20]

 次に、Bの主張とその論拠について。私はこの論拠には全くの正当性があると考えているのだが、ただ、同時に「論拠に対してその主張にブレがある」「論理的に一貫性していない」とも感じている。

 サン・フランシスコ平和条約で日本が千島列島および南樺太を放棄したといっても、「領土不拡大の原則」からソ連(ロシア)に同地域を占有する正当性はない。よって千島列島も南樺太も帰属未確定の「宙ぶらりん」の状態にある、というのが日本政府の立場である。日本の地図帳を開けば、今でも南北サハリン間の北緯50度線、カムチャトカ南端とシュムシュ島の間に潜在的な「国境線」が引かれている。また、カイロ宣言にある「暴力および貪欲により日本国が略取した地域」も、1914年の第一次世界大戦開始以後に限定されており、ポーツマス講和条約(1905年)第九条によって日本が獲得した南樺太は同地域に該当しない。日本が連合軍に駆逐される理由もなかったのである。

 ところが、日本は南樺太(南サハリン)のロシア領有を「追認」してしまった。1997年、日本政府は、サハリン州の州都ユジノサハリンスクに常駐の出張駐在官事務所を開設する決定をしたのである。外務省は「従来の立場に変わりはない」というが、ロシアの施政下における駐在官事務所であることは明らかだった[21]

 日本政府は、「暴力および貪欲により日本国が略取した地域」に北方四島は該当しないと主張している。だが、なぜ北方四島だけなのか。「カイロ宣言」を引き合いに出すのであれば、「全ての千島列島、すなわちカムチャトカ半島南のシュムシュ島まで領有できる」と主張しないと、論理に一貫性がないのではないか。すでに日本政府が駐在官事務所を置いた南サハリンはともかくとしても、ウルップ島以北の18島は、樺太千島交換条約によって平和裡に日本に編入されたものであり、「暴力および貪欲により日本国が略取した地域」に当たらない。なぜ「控えめに」、ウルップ島と択捉島の間に自ら「境界線」を引いてしまうのだろう。訪問団長の丸田氏にこのように説明したところ、氏は「ウルップ島の日本人元島民は泣き寝入りしているのかもしれない」と言った。北方領土返還が実現していないとはいえ、四島の元島民は「返還要求運動」という政府・国民からのバックアップを受けているのである。自分がウルップ島の元島民だったと仮定して考えていただきたい――ウルップ島と択捉島の境界線は一体何なのか? おそらく政府は、「北方四島は日本固有の領土だから」と繰り返し答えるに止まるだろう。

 

条約論からみた「千島列島=空白」

 上述のようなことから、私は北方四島だけでなく、それを含む千島列島の帰属が未確定、すなわち「空白」になっていると考えている。すでに述べたように、南サハリンのロシア占有は「暗に」日露両政府の認めるところとなったので、ここで問題となるのは根室半島沖の歯舞群島からカムチャトカ半島南端のシュムシュ島までの一連の島々(千島列島=クリル諸島)である。「空白」とは、千島列島に日本の領有権もロシアの領有権も及ばない、ということを意味している。これは、「日本が領有を主張できない理由」と「ロシアが領有を主張できない理由」の両方を挙げれば説明がつく。

 まず、「日本が領有を主張できない理由」を見てみよう。繰り返しになるが、日本は1951年のサン・フランシスコ平和条約で、千島列島および南樺太を放棄している。条約解釈からして、この「千島列島」に北方四島が含まれていることは先に述べた。「日本が(千島列島)領有を主張できない理由」は、残念ながらこれだけで十分である[22]

 次に、「ロシアが領有を主張できない理由」について。シュムシュ島以南の千島列島へのソ連の軍事侵攻は、そもそも国際法違反(日ソ中立条約失効前の対日参戦、しかも日本の降伏後)であった。さらに連合国の「領土不拡大の原則」によりソ連の自国領土への千島編入は無効であり、千島列島はカイロ宣言にある「暴力および貪欲により日本国が略取した地域」にも該当しない。

 以上より、ロシアはシュムシュ島以南の領有を主張できないし、日本もまた歯舞群島以北の領有を主張できない。よって千島列島は「空白地域」なのである。

 しかし、だからこそ、私はここで日魯通好条約に注目したい。「初心に帰る」という意味での、日魯通好条約への「見直し」である。結果的には北方四島までの潜在的主権の回復を要求するのだが、私が択捉島とウルップ島の間を境界とするのは、「北方四島はサン・フランシスコ平和条約で日本が放棄した千島列島に含まれない」という強弁によるのではなく、日魯通好条約での「最初の国境線」を尊重するからである。色丹島での「対話集会」において、私が「日露両国の国境線が未画定な状態に置かれている現在、日魯通好条約は、我々が再び立ち返るべき条約と言えるのではないか」とスピーチした理由はそこにある。

 今回、「ビザなし交流」事業に「返還要求運動関係者」の枠で参加したとはいえ、一個人としての私の見解は、日本政府や関係諸団体のそれとは必ずしも一致しないということをここでお断りしておく。私は、北方領土返還自体には概ね賛成なのだが、その返還要求の土台となるべき論拠が「玉石混交」の状態のままであることには断固反対である。自分の国がいい加減な主張をしていては、あまりに悲しいからだ。

 繰り返しになるが、北方領土問題は「法と正義の原則」を基礎として解決されなければならない。そのためにも、日露両国の「法的な」論拠の一つ一つを、今こそ立ち止まって再確認する必要があるように思う。足場が強固なものとならない限り、決して前進は望めないのである。

 

日魯通好条約締結の地、下田・長楽寺 2004.8.25

 

日魯通好条約150周年――むすびにかえて

 200527日、日魯通好条約締結から150周年の節目を迎える。

 それに先立つ200492日、小泉首相は海保の巡視艇に乗り、北方領土(国後島、歯舞群島)を視察した。おそらく首相と根室で懇談した元島民らは、「総理大臣が問題解決に意欲を見せている」として歓迎したのだろう。だが、その一方で、ロシア外務省は、「平和条約交渉を複雑化させるだけ」と早くから不快感を示した。国内では単なる「政治的アピール」ではないかとの見方もあった。果たして、この小泉首相の洋上視察に、綿密な外交戦略はあったのだろうか。

 ともあれ、2005年のプーチン大統領訪日へ向けて、準備が進められているようである。今、我々にできるのは、首脳会談の成果に過度に期待することなく、冷静に判断し、ロシア側の反応を見誤らないことではないだろうか。この一年は日魯通好条約だけでなく、樺太千島交換条約(1875年)130周年、ポーツマス講和条約(1905年)100周年、ソ連対日参戦(1945年)60周年という節目でもある。日露関係を改めて振り返る有益な年になること期待してやまない。

 今回の色丹島訪問は、私にとって、北方領土問題に対して初めて「真正面から向き合う」きっかけとなった。問題意識をもった同世代の訪問団員との出会いもあった。これらの貴重な経験を生かし、今後も自分のライフワークとして日露関係の過去・現在・未来を注視し、日露両国の正常な関係というものを模索していきたいと思う。

 最後になったが、北方四島交流・後継者訪問への参加に際し、惜しみない助力や助言をくださった各方面の皆様に、心よりお礼を申し上げたい。

200410月記)

 

[1]内閣府北方対策本部ウェブサイトhttp://www8.cao.go.jp/hoppo/shisaku/shisaku4.html参照。

[2]外川継男「日露・日ソ関係の特徴」(ロシア史研究会編『日露二〇〇年――隣国ロシアとの交流史』彩流社、1993年、1011頁)。アダム・ラクスマンが大黒屋光太夫を連れて根室に来航する14年前の1778年、イルクーツクの毛皮商人ドミトリー・シャバリン一行は、厚岸にて松前藩の役人と接触した。

[3]根室市歯舞に所在する(歯舞漁協ウェブサイトhttp://www.marimo.or.jp/~habomai/)。

[4]「北方四島のいま」北方領土問題対策協会、5頁。

[5]「元島民の状況」(『われらの北方領土・2003年度版』外務省国内広報課、資料編9頁)。昭和20815日時点での人数。

[6]「共同通信ニュース」(200497日付)。「歯舞諸島に民間の家屋 自由訪問団が初めて確認」「勇留島内の2カ所で、木造の人家と作業所とみられる建物計4棟」「エビ漁のための小屋と加工作業所の可能性がある」と報じられた。

[7]「北方四島のいま」北方領土問題対策協会、25頁。

[8]19993月、北方領土復帰問題研究会により「北方四島復帰に伴う諸問題――主として露系住民の処遇について」というレポートが作成されている。日本政府の基本方針も、このレポートの内容と概ね一致している。ここで私は「共生」というキーワードを用いた。

[9]佐藤和雄・駒木明義『検証・日露領土交渉――冷戦後の模索』岩波書店、2003年、40頁。

[10]「手順」を明確にしているとされる同宣言の「この問題を〈……〉解決することにより平和条約を早期に締結するよう交渉を継続し」という部分は、ロシア文ではпродолжать переговоры с целью скорейшего заключения мирного договора путем решения указанного вопроса(下線筆者注)となっている。путемпуть=道)という言葉で「方向性」は示されているものの、「手順」や前後関係までは明らかになっていない(『日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集・新版』日本国外務省・ロシア連邦外務省、2頁。Новое издание совместный сборник документов по истории территориального размежевания между Россией и Японией, МИД Российской Федерации, МИД Японии, стр.8.)。

[11]文脈から厳密に言えば「この問題」は、「領土問題」ではなく「平和条約問題」を指している。

[12]200012月中旬、北海道新聞ユジノサハリンスク支局が国後島、択捉島の新聞社と協力して実施した住民アンケート(色丹・国後・択捉三島より各100名を抽出)によれば、「日ソ共同宣言に基づく色丹、歯舞諸島の日本への引き渡し」について、色丹島では46%が賛成、37%が反対と答えている(藤盛一朗『日ロ平和条約への道――行動計画・サハリン開発を通じて』ユーラシア・ブックレット48/東洋書店、2003年)。

[13]碑文には、《В ПАМЯТЬ 250 ЛЕТИЯ ОТКРЫТИЯ ОСТРОВА ШИКОТАНА ЭКСПЕДИЦИЕЙ М. ШИПАНБЕРГА》(エム・シパンベルグ探検隊によるシコタン島発見250周年を記念して)とある。

[14]1644年、徳川幕府が松前藩から提出された領地図を基に作成した公式地図(『日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集』日本国外務省、ロシア連邦外務省、1992年、1頁)。

[15]「最後の楽園」(北海道放送ウェブサイト)http://www.hbc.jp/archive/paradise/参照。

[16]村山七郎「日露通好条約(一八五五年)と樺太千島交換条約(一八七五年)――クリル諸島(千島列島)の解し方」(ロシア史研究会編『日露二〇〇年――隣国ロシアとの交流史』彩流社、1993年、3752頁)。

[17]日魯通好条約締結へ向けての交渉に先立ち、全権代表プチャーチン提督宛に出された訓令。「クリル諸島の内、ロシアに属する最南端はウルップ島であり、同島をロシア領の南方における終点と述べて構わない。これにより(今日既に事実上そうであるように)我が方は同島の南端が日本との国境となり、日本側は択捉島の北端が国境となる」とあり、北方四島を「日本固有の領土」とする根拠の一つとなっている(『日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集』日本国外務省・ロシア連邦外務省、1992年、6頁)。

[18]Совместный сборник документов по истории территориального размежевания между Россией и Японией, МИД Российской Федерации, МИД Японии, 1992, стр.8.

[19] 『日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集』日本国外務省・ロシア連邦外務省、1992年、6頁。

[20]北海道企画制作のパンフレット「北方領土ガイド」(北方領土問題対策協会、2004年)には、「このパンフレットでは以下、国後島、択捉島及びウルップ島から北のパラムシル島、シュムシュ島までの島々を『千島』と呼びます」という注記や、「〈……〉95日までに千島の島々と歯舞諸島、色丹島はすべてソ連に占拠されました」との記述があり、「大クリル(=千島列島)」と「小クリル」を暗に区別している。

[21]佐藤和雄・駒木明義『検証・日露領土交渉――冷戦後の模索』岩波書店、2003年、6263頁。

[22]「ソ連はサン・フランシスコ平和条約に署名していないから、日本の千島列島・南樺太放棄は(ソ連に対しては)無効」と見る向きもあるが、少なくとも、それ以外の当事国に対して日本が同地域の放棄を宣言していることは確かである。

 


 

 

ЭКСПО-2005:

РОССИЙСКОЕ ВИДЕНИЕ МУДРОСТИ ПРИРОДЫ

Михайлова Светлана

 

45% - мировых запасов природного газа 13% - нефти

23% - угля  14% - урана

Особенность природно-ресурсного потенциала России

– его крупномасштабность и комплексность.

 

  Международные Выставки называют Олимпиадами торговли. Настоящая Выставка 2005 г. является в Японии четвертой по счету. Во всех предыдущих выставках всегда принимал участие Советский Союз, но теперь среди 120 стран, соберущихся под японский зонтик, будет представлена не только Россия, но и другие русскоязычные страны: Украина, Грузия, Армения. Азербайджан, Литва. Таджикистан, Узбекистан, Казахстан, Киргизия. Таким образом на первой международной Выставке ХХI в. будет представлено новое международное сообщество и его взгляд на понимание развития планеты.

   Русский Павильон на международной Выставке ЭКСПО-2005 расположен примерно в 15 минутах ходьбы от Западного входа, на окраине. Как и каждая другая страна участница Россия выдвинула свое видение общей темы - «Мудрость Природы» заявив его как – Гармония Ноосферы.

   Среди определений «ноосферы» есть и такое как «Ноосфера – новая информационно-энергетическая оболочка Земли». Ноосфера ("ноос" - по-гречески означает разум, дух.) - новое эмоциональное состояние биосферы, при котором разумная деятельность человека становится решающим фактором ее развития. Для ноосферы характерно взаимодействие человека и природы: связь законов природы с законами мышления и социально-экономическими законами.

Российкое видение окружающей среды аккумулирует в себе технократический опыт Запада и существенные открытия в области духа Востока. Разработка проблемы Ноосферы принадлежит русскому ученому В.И.Вернадскому (1863- 1945). В своих лекциях студентам Сорбонны в 1924-1932 гг он говорил о связи организма с окружающей средой биогенным током атомов и о явлении "всюдности" жизни.

Вернадский подчеркивал, что Ноосфера есть своего рода явление геологическое, так как научная мысль человечества работает только в биосфере и в ходе своего проявления в конце концов превращает ее в ноосферу, геологически охватывая ее разумом. Таким образом, в понимании Вернадского,человек становится крупнейшей геологической силой. Он может и должен перестраивать своим трудом и мыслью область своей жизни и ноосфера как  состояние наших дней есть последнее из многих состояний эволюции биосферы в геологической истории.

В русском языке слово «гармония» обладает наивысшей ценностью и для иностранцев даже больше известно в сочетании «русская гармония». Японское выражение «барансу ёку» хоть не в полной степени, но смысл передает. Самым главным в российской экспозиции является Сфера. Вокруг сферической поверхности имеется таинственное голубое свечение, которое и выражает первую часть этого понятия ноосферы – НОО. Первыми словами человека, побываашего в космосе, были о голубом цвете Земли. Это голубое свечение попытались воссоздать русские дизайнеры и каждый побывавший в Павильоне России сможет прикоснуться к ощущению Гагарина, впервые передавшему людям видение Земли из космоса. Воссоздание этого глобального сдвига в человеческом мироощущении в выставочном павильоне было самой сложной работой. Но благодаря использованию тончайших технологий японской науки и техники русским и японским строителям и дизайнерам кажется удалось воплотить видение Земли из космоса в этой Сфере. Автор проекта Юрий Шалаев пока не принимает радостных поздравлений и тихо говорит: «Подождите, еще рано».

«Сфера» почти готова. Ее голубое свечение наводит трепет. Но теперь предстоит «запустить» эту сферу, то есть оживить ее. Как это будет сделано? В этом можно будет удостовериться, попав в Русский Павильон и окунувшись в заросли русского леса с журчанием ручейков и опустившись на морские глубины. Наверное этое таинственное голубое свечение еще имеет и смысл того, как мало еще знает человек о своей планете и как много неведомого еще таит Земля. Перед этим необъятным миром посетители почувствуют свою малость и в тоже время ощутят свое значение, потому что каждый их шаг в этом мире оказывает влияние на общую структуру. Поэтому-то сфера имеет значение НОО-Сферы, то есть Сферы, находящейся во владении человеческого разума.

 

 

 

 

EXPO Japan-2005: RUSSIA

愛知県立大学ロシア語講師 ミハイロワ スベタラーナ

 

 

 愛知万博は日本で開催される4回目の万博です。今まで行われた全ての万博にソ連は参加してきました。ソ連が崩壊して、初めてロシアとしてパビリオンを出すのが、今回の万博なのです。旧ソ連の国々も、つまりウクライナ、リトアニア、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャン、カザフスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタンもそれぞれ出展します。合わせて120の国々が一つの大きな傘の下に集まります。

21世紀における初めての愛知万博のテーマは「自然の叡智」ということです。各国はこの大きなテーマについてそれぞれの理解と理念を訴えようとしています。

ロシアは「自然の叡智」という統一テーマを「社会と地球の調和」と解釈しました。つまり「自然の叡智」という場合、この自然には周りの環境だけでなく、宇宙も含まれています。叡智とは頭脳であり、自分の生活を考える能力だけでなく、地球のことや宇宙のことも含めて考える能力のことです。地球や宇宙なしに、人間の生命を考えることはできません。人間は宇宙と調和して生きているのです。これが、今回、ロシアが展開する最重要のテーマです。パビリオンの真中あたりで地球を表す半球が上に展示され、その周り青い光が差しています。

そこでは、新しい概念(ロシア語で“ГАРМОНИЯ НООСФЕРЫ”)が展開されます。20世紀の初め頃、注目を集めた物理学と化学の発展によって「生物圏」という理論が登場し、自然科学の世界に大きな影響を与えました。「ノオスフェラ」という考え方もこの流れの中から出てきます。

「ノオスフェラ」という言葉は二つの語句からなっています。「ノオ」とはギリシア語で知恵または精神の意味です。「スフェラ」は球体いう意味です。ロシアは人間の精神と叡智および環境とのハーモ二ーを重視して、現在と未来についての考え方を示します。このNoospheraという概念は、ロシアの学者ヴェルナツキー (V.Vernadskii 1863-1945)20世紀初めに展開したНООСФЕРА理論を基礎にしています。そして今回の万博では社会と環境の共生を示そうとしています。この大きなテーマがどのように社会と地球の調和を見せてくれるのか、とても興味深いものです。

今回このプロジェクトを担う設計士のシャラエフ氏は、設計過程において大変苦労をされ、完成までに時間がかなりかかったということです。日本とロシアの建築家やデザイナーたちは、日本の精密な科学技術の力によりこのプロジェクトを実現することができました。

次にこのプロジェクトの目玉のことなのですが、パビリオンの真ん中には半球が飾られています。この半球はガガーリンが初めて宇宙に旅した時、「地球は青かった」と有名な言葉を残しましたが、それをイメージし、パビリオンの半球の光もブルーで表されています。また、地球や宇宙だけではなく、ロシアの大地や豊かな自然も象徴的に表現されています。これも「ノオスフェラ」の概念を表すものとなっています。

 

写真1. ロシアパビリオン半球の下「Гармония ноосферы」の建設

 

写真2.シャラエフ設計士

 

 


 

愛・地球博のパビリオンから

 

 愛知県立大学外国語学部中国学科3年 塚田麻美

 

 私は現在、愛・地球博の中央アジア共同館で現地スタッフのお手伝いをしています。私は高校生の頃から愛・地球博に興味があり、世界中の人々が集まるこのイベントに関わってみたいと思っていました。幸い会場のすぐ隣にある愛知県立大学に入学することができ、昨年、2005年日本国際博覧会発展途上国支援対象陳列館におけるアテンダント業務の募集があると知り、すぐに応募しました。約80カ国の対象国の中から私に当たったのが、中央アジア共同館のタジキスタンです。それまでタジキスタンについては、知識がなく、名前だけを知っていたに過ぎません。しかし何か運命的なものを感じました。

 開幕の10日ほど前に、パビリオンに様子を見に行ったときには、館長のほか工事関係者がいらっしゃったのですが、全く英語が通じないし、ましてや中国語も役に立ちませんでした。幸いなことにたまたま名古屋大学に留学中のウズベキスタンの男性がいて、通訳を買って出てくれました。その結果、私たちはジャーナリストと間違えられていたことが分かりました。準備で多忙な館長はジャーナリストに時間を割く余裕がなかったということです。世界の中でイエス・ノーという簡単な英語が通じないところがあるとは思っていなかったのです。私はそもそも英語にも自信がなかったのですが、まったく言葉が通じないということに大きな不安ともどかしさを感じました。それは同僚のアテンダントにとっても同じだったらしく私たちは英語のできる現地スタッフが来るまで不安な日々をすごしました。一度だけロシア語のできる日本人スタッフの手を借りてヒヤリングをすることができましたが、開幕前の一週間は現地スタッフとコミュニケーションがほとんど取れない状態だったので、私たちは図書館やインターネットで資料を集めてタジキスタンについて知識を深めることにしました。その際に感じたのは、中央アジアに関する一般むけの本や情報が本当に少ないということです。旅行用のパンフレットも他の国々よりは薄く、私は中央アジアの情勢不安を感じたような気がしました。あまりの資料の少なさに再度不安を感じた私は、昨年後期に諸地域研究の講義でお世話になった加藤先生の研究室を訪れました。先生はおろしゃ会のホームページや民族分布に関する資料をすぐに紹介してくださって、本当に感謝しています。私は昨年加藤先生の講義を受けていたことにまた運命的なものを感じました。四苦八苦しながらも勉強するうちに、中央アジアの歴史や文化が他の国々にはない特質と面白さを持っていることがわかってきました。その頃から私には中央アジアのことを勉強して愛・地球博に遊びに来た方々に紹介したいという気持ちが生まれていたような気がします。専門の中国に関しても今までは海岸沿いの都市にしか興味がありませんでしたが、最近では内陸の省について知りたいと思うようになってきました。このように新しい分野に興味がもてたことを本当にうれしく思います。

 ところでそうしているうちに展示物も少しずつ搬入され、開幕前の内覧会が始まりました。現地アテンダントはまだ到着していませんでしたが、その頃には中央アジアの時間の感覚が日本人のそれとは少し違うということに気づき初め、いちいち細かいことに神経をすり減らすのは良くないことだと悟りました。開会式の頃には現地アテンダントが到着し、私は嬉しい気持ちで一杯でした。彼女たちは日本人とは異なるはっきりとした美しい顔立ちで、見たこともないような民族衣装を着ていました。また何ヶ国語も話すことができてとても聡明な方々です。タジキスタンは本国の事情からか愛・地球博に動員できるスタッフの人数が少ないようなのですが、それでも彼女たちは協力して働いています。見知らぬ国で働くこと、生活することは本当に大変だと思います。私は元来臆病なので外国で勉強してみようという考えはありませんでしたが、彼女たちを見て日本を出て他の国々の文化に触れてみるのも面白いのではないかと考えられるようになってきました。そのような考え方を身につけられたのも嬉しく思います。

 しかしながら現在でも私の英語の勉強不足から、コミュニケーションにおける不理解が生じます。今私は英語をあまり勉強しなかったことを後悔しています。しかしつらい思いをしないと語学は勉強する気にならないのかな?とも思うのでこれから少しずつ勉強していきたいと思います。

愛・地球博開幕からもうすぐ三ヶ月。現地スタッフのペースや考え方も少しずつわかってきて文章を書く余裕が出てきました。今回はタジキスタンや中央アジアのことについては紹介することができませんでしたが、次回はパビリオンの写真も添えて何か面白いエピソードを書きたいと思います。それから万博に来場の際にはロシア館に続いて中央アジア共同館にお越しください。心よりお待ちしています。

 


G. Kennan’s visions of “the Russian Future”

and Russia in the 21st century

(Reflections on G. Kennan’s collection of papers “American Diplomacy”)

 

Lomaeva Marina

research student of

Aichi Prefectural University

1

Fully aware that it does not fit the framework of ‘academic writing’, I cannot but start this short essay with a ‘lyrical’ preface. To a Russian girl born in the pre-Perestroika era, growing through the late 1980s and early 1990s – the years of sweeping social change and fervent belief in the liberal ‘bright future’ and ‘democratic institutions’  graduating from high school in the fateful year of 1998 (when the Russian government was forced to admit its failure to fulfill its financial obligations – the so-called ‘default’ catastrophe, which hit every one of us in the pocket and ruined our hopes of studying abroad at our parents’ expense), getting higher education in the cynical atmosphere of ‘vulture capitalism’, flagrant social injustice and penetrating corruption (the years of public disillusionment with the Yeltsin administration and the Russian ‘brand’ of democracy, the words ‘reforms’ and ‘liberals’ turning into terms of abuse, and the powerful class of ‘oligarchy’ emerging) – and finally escaping to Japan to proceed with my studies in a more academic milieu (which was only possible because is no Iron Curtain any more: no bars to international exchange, and no limits to brain drain as its negative consequence) – to a Russian girl, undergoing a painful transition from the adolescent fascination with Western culture and values and regarding the English language as a path to freedom to a bitter encounter with geopolitical realities, George Kennan’s incisive works were a revelation.

Half a century ago Mr. X published his much-talked-of article “The Sources of Soviet Conduct” in  “Foreign Affairs” – a classic paper that became an important milestone in the postwar US foreign policy, marking the outset of the Cold War. It gave a penetrating analysis of the Soviet diplomacy of the time, highlighting its characteristic features: “the secretiveness, the lack of frankness, the duplicity, the war suspiciousness and the basic unfriendliness of purpose” (p.115) combined with a hypertrophied ‘defensive reflex’ (induced by the alleged hostility of a ‘capitalist encirclement’), and introduced a controversial concept of containment, succinctly described by the author as a “long-term, patient but firm and vigilant” policy “designed to confront the Russians with unalterable counter-force at every point where they show signs of encroaching upon the interests of a peaceful and stable world” (pp. 119, 126). This concept promptly gained acceptance in the political circles, it was incorporated into the Truman Doctrine and the Marshall Plan, and later developed into a steady ‘anticommunist’ policy, its main ingredients being, as described in the Penguin Dictionary of International Relations, “the creation of military alliances (in Western Europe, Latin America, the Middle East and the Far East), economic aid and covert forms of political and economic warfare both within and without the Soviet sphere of influence ” (p. 96).

The concept of containment soon assumed an air of military confrontation, and was repeatedly invoked for justification of the Korean and Vietnamese War, although Kennan later argued that his original intention was to suggest the ‘political containment of a political threat’ and not the active containment of the Soviet Union by military means. Three decades later he lamented over the far-reaching consequences of such misinterpretation in his “Reflections of the Walgreen Lectures” and “American Diplomacy and the Military”: turning Japan into a US military outpost in Southeast Asia instead of permanently demilitarizing and neutralizing it, regarding the North Korean attack as “the first move in a Soviet program of worldwide military expansion, comparable to the Munich crisis of 1938” (p.163), “the belief that Ho Chi Minh and his followers were only puppets of the Russians, and that therefore a takeover by them in Vietnam would be equivalent t a Soviet conquest” (pp.163-164), and “embracing the nuclear weapon as the mainstay of our military posture” (p.171) setting a disturbing tendency to “overemphasize military factors at the expense of political ones” (p.174), which in its turn led to the creation of “an elaborate and most unhealthy bond <…> between those who manufacture and sell the armaments and those in Washington who buy them” (p.172) – ‘the military-industrial complex’.

The foregoing papers and the concerns expressed in them have become the subject of most exhaustive studies of the Cold War in the last quarter of the 20th century, and as a result of it, the revisionist line focusing on the failings of the post-war US foreign policy is firmly established now, so I see no point in going over that much discussed topic. In this essay I would like to turn to another incisive paper by Kennan, published in “Foreign Affairs” on the heels of “The Sources of Soviet Conduct”, which seems to have been long overlooked by both the scholars in the author’s homeland and their ideological adversaries overseas. “America and the Russian Future”, as its name suggests, offers a futurological sketch of “Russia we would like to see before us, as our partner in the world community” (p.131), addressed to the American public and policy makers rather than to Russian readers (who could not lay their eyes on it until Perestroika anyway).

Futurology as a social science is placed by popular belief somewhere between the more reliable ‘statistics’ (that is, sociological research) and wild guesses of science fiction writers and soothsayers (ranging from the renowned Nostradamus to street charlatans). During the Cold War the attention of the public on both sides of the Iron Curtain was drawn to works examining the potential consequences of a nuclear conflict with ‘precise’ methods of technological forecasting and mathematical modeling (e.g. Herman Kahn’s “On Thermonuclear War” (1960)). Kennan’s paper is nothing of the kind – it does not stir your imagination with apocalyptic visions of the future, being based on the author’s diplomatic experience and expertise it offers no magic formula (mathematical or other) for ‘accurate predictions’, its tone is rather cautious than assertive, and it abounds with warnings to US foreign policy makers, making its approach slightly moralistic, which might seem boring to an ordinary reader. And yet reading his astute message fifty years later, I find his insight awesome, the neglect with which his warnings confronted – regrettable, and the conclusions he arrives at – deserving undivided attention of officials of the Ministries of Foreign Affairs, in the former rival superpowers as well as in Eastern European countries undergoing transition in the political, economic, and social fields.

In contrast to the Soviet government, depicted by Kennan in his previous paper as secretive, duplicitous, suspicious on the verge of paranoia, and basically unfriendly to its ‘capitalist neighbours’, a future Russian government would be “tolerant, communicative and forthright in its relations with other states and people” (p. 137), “the Russia of the future” will “lift forever the Iron Curtain”, “recognize certain limitations to the internal authority of the government”, “abandon, as ruinous and unworthy, the ancient game of imperialist expansion and oppression” (p. 143). This marvellous change, however, would not take place unless certain conditions are satisfied on the part of the ‘Western well-wishers’, to whom the author addresses a series of warnings, showing deep concern over “our (that is, American – L. M.) inveterate tendency to judge others by the extent to which they contrive to be like ourselves” (p.135). The following arguments can be considered today as applicable to most of the US dealings with Russia as well as other members of the world community: “no members of future Russian governments will be aided by doctrinaire and impatient well-wishers in the West who look to them, just because they are seeking a decent alternative to what we know today as Bolshevism, to produce in short order a replica of the Western democratic dream” (p.135) – the failure to correspond to this ‘dream’ is exactly the charge which the successive Russian governments constantly face, as if there were a ‘democratic yardstick’ that international observers could apply universally, something like a fixed value or a limited range of values, the deviation from which could be automatically qualified as a ‘trend toward despotism’ or ‘gross violation of human rights’ …

Kennan urges the American foreign policy makers to recognize that “our institutions may not have relevance for people living in other climes and conditions” and that “there can be social structures and forms of government in no way resembling our own and yet not deserving of censure” (p.135) and stresses that “of one thing we may be sure: no great and enduring change in the spirit and practice of government in Russia will ever come about primarily through foreign aspiration or advice” (p.151). The last statement might seem as a matter of course, and yet it was the biggest stumbling block for the post-Soviet Russia to improving its relations with the West.

The first liberal administrations of the early 1990-s, who made a conscious attempt to follow the advice offered by its Western colleagues but failed to produce an immediate effect with their reforms, became the hostages of that well-meant advice: they were severely criticized by their successors for acting as ‘yes-men of the West’ (one of them, the foreign minister Andrei Kozyrev, was actually nicknamed Gospodin Da – ‘Mister Yes’). The same hackneyed Soviet allegations of ‘selling Russia to the West’ and ‘fifth column’ were brought up, resulting in the grotesque spy charges brought against Russian scientists and reporters, e.g. the trials of Pasko and Danilov – perhaps, not the not the first class journalists and researchers, but there is still no reason to send them to jail! The young liberal movement was attacked as pro-Western and unpatriotic (a trend accounting for the popular usage of the words ‘liberal’ and ‘reforms’ as terms of abuse), which allowed their political opponents to unleash a strong nationalistic (that is, anti-Western, and particularly anti-American) wave and consolidate under the leadership of Putin. President Putin never fails to meet their expectations and persistently refers to some unspecified ‘external enemies’ hatching sinister plots against our country, once – the “great and powerful” Soviet Union, today – the weakened new Russia, “defenceless on its both Western and Eastern borders” (see his Address of September 4, 2004, following the Beslan tragedy).

And yet it has apparently taught no lesson to the Western ‘well-wishers’: they do not realize that calling on Russia to abide by their instructions in democratizing domestic institutions (which is often interpreted as attempted interference in the internal affairs) and correcting its foreign policy line (which is usually presented by officials as part of ‘the world plot against Russia’, playing on the old fears of ‘capitalist encirclement’) leads only to further undermining the already weakened position of the liberal minority in Russia, who, whenever their appeals to the public coincide with those in the foreign editorials, get labeled as ‘Western sympathizers’ and are never credited with ability to think or act independently. Here, another Kennan’s warning seems to be worth paying heed to:

These Russian liberals (in the future Russia – L.M.) will have no easy road to walk. They will find in their country a young generation that has known nothing but Soviet power and has been trained to think subconsciously in the terms of that power even when it has resented and hated it. Many features of the Soviet system will stick, if only for the reason that everything has been destroyed which might seem to have constituted an alternative to them (p. 135).

The foregoing paragraph may provide a clue to the latest curious phenomenon in the cultural life of Russia – a sudden upsurge of nostalgia for the Soviet past, which the government officials attribute to ‘a natural human need to reconcile with one’s past’. It takes a wide variety of forms: the Soviet paraphernalia coming back into fashion (you can see the most sinister-looking posters of Stalin-era on the walls of the modern offices – I remember stumbling on them in my dean’s office! – and I reckon most observers regard them as just ‘nostalgic’, ‘naive’, or even ‘heart-warming’, as they remind older people of the days of their youth, overshadowing the tragedy of the millions that is hiding behind these slogans!), the conscious attempts of film directors, historians and educators to ‘reinterpret’ if not ‘repaint’ the most ‘unsightly’ episodes of the Soviet history – coercive collectivization, the conclusion of the non-aggression pact with Hitler, the post-war treatment of the repatriated Soviet prisoners of war as political offenders, the uprooting the whole ethnic groups (sometimes referred to as ‘Völkerwanderung’) – I still vividly remember my shock and indignation, reading in the new textbook on history of international relations about the ‘positive role’ of the non-aggression pact, the Second World War being brought about by… the ‘’treacherous policies’ of Chamberlain and Daladier, and the ‘amicable settlement’ with Czechoslovakia in 1968 (see ‘The History of International Relations and Russian Foreign Policy, 1648-2000’, authored by the professors of the Russian University of International Friendship)! And the recent monstrous campaign to erect a monument to Stalin in commemoration of the 60th anniversary of the victory in the Second World War, which raised quite a few indignant voices and was finally stifled, but is nevertheless a grim reminder of the vulnerable position of liberalism in the new Russia – the tradition of cultivating critical, independent thought instead of wandering in the dreamland of the ‘great past’ has yet to take root in our country. However, one should not overlook the popular feelings that all these strange phenomena spring from: a painful (if erroneous) impression of being constantly shunned and incessantly caviled at by the ‘democratic neighbours’ – a feeling which may account for such bizarre acts as demonstrations of support for Al-Qaeda after the tragic events of September, 11.

             

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So much for the problems the new Russia is facing in her relations with the Western democracies, which were largely foreseen and thoroughly analyzed by Kennan. Next, I would like to cite and briefly comment on a few paragraphs of his paper, which have direct relevance to the current situation in Russia’s neighbouring countries, and may cast some light on the gap between the post-war thinking of American policy makers and their present stance on Russia, reflecting her post-Soviet status in the international community:

We are all agreed, for example, that the Baltic countries should never again be forced against the innermost feelings of their peoples into any relationship whatsoever with a Russian state; but they would themselves be foolish to reject close and cooperative arrangements with a tolerant, nonimperialistic Russia, which genuinely wished to overcome the unhappy memories of the mast and to place her relations to the Baltic peoples on a basis of real respect and disinterestedness (p. 141).

The strained relations between Russia and the Baltic countries have shown no sign of improvement over the last decade, and the persistent attempts of local officials to build a monument to Nazi soldiers or linguistic discrimination of Russian minorities are only particular instances of the more general problem: the evaluation of the occupation of the Baltic states by Soviet troops, preceding the outbreak of the Second World War. Should the present Russian residents of the Baltic republics, making up a large proportion of the overall population in Estonia and Latvia, be considered as descendants of the ‘Soviet invaders’ and forced to leave or fully assimilate? Should the leaders of these republics agree to take part in the celebrations of the 60th anniversary of the Allies’ victory in the Second World War? Until that crucial question finds a definite answer, the idea of “close and cooperative arrangements” between Russia and its Baltic neighbours will remain as utopian as it was half a century ago.

The following paragraph directly pertains to the hotly disputed Ukranian issue:

The Ukraine, again, deserves full recognition for the peculiar genius and abilities of its people and for the requirements and possibilities of its development as a linguistic and cultural entity; but the Ukraine is economically as much a part of Russia as Pennsylvania is a part of the United States. Who can say what the final status of the Ukraine should be unless he knows the character of the Russia to which the adjustment will have to be made? (p. 141).

The author is very circumspect in considering the “the final status of the Ukraine”, warning the reader that the subject of “the relationships between the Great-Russian people and nearby peoples outside the confines of the old Tsarist Empire, as well as non-Russian national groups that were included within that empire” is an extremely delicate one (p.140). Kennan obviously differentiates between the two types of historical provinces constituting “the old Tsarist Empire”: the developed entities like Poland or Finland, which to a certain extent retained their institutional arrangements within the confines of the empire, and the more amorphous national groups, which were to a large extent integrated and assimilated into it, “intimately bound up” with the Great Russians by virtue of their close economic ties (p. 141). The Ukraine, showing a high degree of economic and political integration into Russia, was, in the author’s eyes, at the same time “a linguistic and cultural entity” developed enough to require an independent status, and yet he forbears from the final judgment. Today, when the independence and sovereignty of the Ukraine are firmly established, her relations with Russia are often viewed by Western observers as closely paralleling those between the Soviet Union and its Eastern European neighbours (the so-called Soviet ‘satellite states’) – a hasty conclusion based on the disregard of the historical background: the close affinity of the Eastern Ukraine with Russia, the prevalence of the Russian-speaking population there, the economic superiority of the more industrialized East over the Western part, which is more drawn towards the West and aspires for the EU membership.

With regard to Eastern European states, Kennan speaks in a more assertive tone about the rightfulness of their claims on the independent status, but at the same time expresses concern over the potential excesses of nationalistic waves (and the present shows that his concerns were not altogether groundless, the irrational fear of and resentment against Russia on the part of her Eastern neighbours having grave political consequences such as the expansion of the NATO eastwards):

As for satellite states: they must, and will, recover their full independence; but they will not assure themselves of a stable and promising future if they make the mistake of proceeding from feelings of revenge and hatred toward the Russian people who have shared their tragedy, and if they try to base that future on the exploitation of the initial difficulties of a well-intentioned Russian regime struggling to overcome the legacy of Bolshevism (p. 141).

Reiterating the importance of distinguishing between specific regimes, which can be short-lived or long-lasting, and a nation as a large body of people united by common descent, culture or language, and inhabiting a particular territory, Kennan expresses his admiration for the Russian people and “the struggle of the Russian spirit through the ages” (p. 146). Calling on American statesmen to show more foresight and deeper understanding in their foreign policy toward Russia, the author outlines his optimistic vision of the future coexistence and cooperation between the two great countries (in the age when the Soviet-American relations actually hit their bottom!) – a voice, which should not go unheard.

We will get nowhere with an attitude of emotional indignation directed toward an entire people. Let us rise above these easy and childish reactions and consent to view the tragedy of Russia as partly our tragedy, and the people of Russia as our comrades in the long hard battle for a happier system of man’s coexistence with himself and with nature on this troubled planet (p. 147).

 

 

Bibliography

 

George Kennan, “American Diplomacy”, expanded edition (The University of Chicago, 1984)

Graham Evans and Jeffrey Newnham, “The Penguin Dictionary of International Relations”, (Penguin Books, 1998)

 


 

※以下の文章は、『ユーラシア研究』31200411月)に「風前の灯、よく一隅を照らす」と題しておろしゃ会を紹介するために掲載したものです。翻訳者は、マリーナ・ロマエワです。

 

Неверное пламя свечи,

Дрожа на ветру, озарит 

Один уголок из Вселенной..

 

 

О кружке «Оросия»

 

 

 

Кружок «Оросия» был основан 8 февраля 1999 года, ему лишь пять с половиной лет. Но какие головокружительные перемены произошли в мире за это время! Не обошли они и микрокосм университета. Началась реформа системы образования, затронувшая ее устои – святая святых! – демонстрируя решительное наступление рыночной экономики на ниву просвещения. Дрогнув под натиском реформаторов, одни за другими исчезают курсы и кафедры русского языка... Реформаторы же обосновывают целесообразность этих шагов необходимостью рационализации системы образования на основе рыночного принципа, задавшись целью собрать разбросанных по всей стране исследователей-русистов в специальных НИИ вроде Университета Хоккайдо. Но, увлекшись прополкой сорняков, можно вырвать заодно и крохотные ростки могучих деревьев; так и нынешние реформаторы могут выплеснуть вместе с водой ребенка – всех интересующихся русским языком и Россией. Очевидно, что такая интерпретация рыночного принципа полностью игнорирует таинство и сакральность уз, которые могут связывать людей, являясь всего лишь модернизированной разновидностъю epoche – «воздержания от суждения» – о котором говорили еще древнегреческие философы, полагая, что только вероятное находится в пределах достижимого, чем и следует удовлетвориться. Такое внутреннее ограничение свободы представляет собой даже большую опасность, чем давление извне. Правда, все начиналось с давления извне. Оно породило внутреннее напряжение, передавшееся всем обитателям университетского микрокосма – и каждый был охвачен беспокойством: «А какая мне уготована участь с борьбе за существование? Окажусь ли я среди победителей?» – что в итоге привело университет в нервно-лихорадочное состояние.

 

Я начал преподавать в Университете префектуры Аити в октябре 1998. В апреле того года университет переехал из города Нагоя в пригород Нагакутэ, расположившись по соседству со строящимися павильонами выставки «Экспо-2005 Аити». Здание университета – самое современное, с широкими застекленными площадями, но, находясь в нем, порою чувствуешь себя как в больнице. Самым же серьезным недостатком университета я считаю его расположенность в труднодоступном месте, из-за чего студенты в нем не задерживаются. После того, как университет переехал в пригород, количество изучающих русский язык сократилось наполовину. Так, количество студентов начального уровня за тот год составило 4 человека, продолжающих – 3, продвинутого уроня – всего один человек. Ситуацию с занятиями по русскому языку можно было сравнить с неверным пламенем свечи. Требовались концептуальные изменения. Так, одним из преимуществ малочисленности групп русского языка – вызывающей зависть у преподавателей китайского языка – я считал возможность установления близких, доверительных отношений со студентами, в результате чего на уроках рождалась особая атмосфера соборности. Приняв за точку отсчета образовательного эксперимента момент окончания осеннего семестра, я пригласил студентов к себе домой, где мы расположились кружком за жаровней и стали готовить блюдо «скияки» (кусочки мяса, поджариваемые с овощами и приправами). Среди этого веселья и легкого опьянения родилось то, что получило название «кружок Оросия». Далее мне хотелось бы рассказать об основных задачах, которые ставились при его организации.

 

 

Что такое кружок «Оросия»?

 

Как я уже говорил, кружок «Оросия» был создан 8 февраля 1999 года студентами-энтузиастами Университета префектуры Аити. Название «Оросия» призвано отразить неопределенность и хаотичность образования, называемого Россией. Это название употребляли наши предки, впервые устанавливая контакты с этой страной. Так послышалось им слово «Россия». Впоследствии название этой страны претерпело несколько изменений как в написании, так и в фонетике. На закрепленное в настоящее время нормативное произношение этого слова – «Росия» – решающее влияние оказал английский топоним «Russia», что было отражено в директиве министерства иностранных дел. В  истории отношений наших стран постоянно фигурируют страны-посредники – Голландия, Англия, Америка... Все это время Россия и Япония, не встречаясь лицом к лицу, придерживались  внешнеполитического курса, развивавшегося по синусоиде – между чувствами страха и презрения. После Октябрьской революции и образования СССР маятник качнулся в сторону страха – традиционное «Оросия» стало чуть ли не «Осоросия» (от японского прилагательного «осоросий» – «ужасный, страшный»). В настоящее время этот слог выпал – страх исчез, а маятник отклонился в сторону презрения. Россия стала восприниматься как безинициативная, безликая страна.

              Выбрав в качестве названия кружка это непритязательное название, данное нашими предками, мы, в полной мере осознавая сложность и противоречивость отношений между нашими странами, ставим своей целью встретиться наконец с Россией лицом к лицу, узнать о ней побольше, продвигаясь самостоятельно. История обуславливает настоящее, но не задает однозначно будущее. Если понимать хаос как зарождение нового, то подлинная встреча с Россией, которая по сравнению с Японией все еще пребывает в хаотичном состоянии, имеет важное значение.

              Принимая как данность то, что в Японии до сих пор мало знают о России и мало ей интересуются (это было озвучено при создании «Оросия»), мы видим направление деятельности нашего кружка в формировании непредвзятого, собственного взгляда на Россию. Мое поколение много размышляло о России и Советском Союзе. Но наши представления – во многом утопичные – рассыпались в прах вместе с распадом Советского Союза. Извлекать уроки из истории не означает быть связанными ими по рукам и ногам. Определяя настоящее, история не определяет будущего. Однако учителю хочется поучать, наставлять, выступать в роли просветителя. И даже говоря о том, что студенты должны на своем опыте получить представление о России, самостоятельно выработать интерес к ней, проделав серьезную внутреннюю работу, на деле непросто преодолеть дидактическую сущность преподавателя и молча предоставить инициативу ученику. Например, рассказывая о кинематографе – советском наследии со времен Эйзенштейна – хочется углубиться в  историю и традиции советского кино. Однако нынешним студентам историзм уже набил оскомину. Осознав это, приходится запастись терпением и предоставить им возможность самостоятельно открыть для себя «Оросия». И тогда студенты раньше преподавателя совершают открытия в мире современного российского кинематографа – отправившись в Нагойскую фильмотеку, знакомятся с новейшими его веяниями: творениями Сокурова, Барабанова, Германа. Потом приходят и сами просвещают преподавателя, советуя ему, например, посмотреть фильм «Хрусталев, машину!». Таким образом, нам остается только наблюдать и терпеливо ждать того момента, когда студенты – каждый по отдельности и каждый своим особым путем – познакомятся с Россией. С другой стороны, пытаться выжать интерес к Росии, например, из интереса к терменвоксу – прадедушке всех электронных музыкальных инструментов – мне кажется чем-то неблаговидным и несправедливым, поскольку знакомство с ним является прежде всего знакомством с электронными инструментами как таковыми и имеет мало отношения к России. Встреча с чем-то новым важна сама по себе, и я считаю, что не стоит пытаться укладывать ее в историческое прокрустово ложе чего бы то ни было – например, России.

              Поскольку наш кружок ставит своей целью изучение России с «чистой доски», в него можно легко вступить и выйти. В кабинете, предоставленном университетом для деятельности «Оросия», есть обширная коллекция книг на русском языке, подаренная кружку меценатом Като Сусуму, созданы условия для самостоятельных занятий. Студенты могут общаться с преподавателем из России, российскими стажерами. Но при этом кружок не ставит непременной целью развитие российско-японской дружбы, поэтому в него могут вступить и те, кто не питает теплых чувств к России. Основную часть кружка составляют студенты, изучающие русский язык, но немало и тех, кто почувствовал интерес к России и занялся русским языком после вступления в кружок. Кстати, в этом году количество изучающих русский язык составило 23 человека в группе начальноого уровня, продолжающих – 9, продвинутого уровня – 4 человека. За шесть лет число студентов значительно возросло, но преподаватели русского языка по-прежнему должны поддерживать это неверное пламя свечи.

Деятельность нашего кружка включает в себя экскурсии по Исэсироко, Идзухэда-мура и прочим местам, имеющим связь с Россией; организацию открытых лекций, причем в качестве лекторов выступают как преподаватели университета, так и приглашенные докладчики; совместный просмотр российских фильмов. Во время университетского фестиваля студенты предлагают в ярмарочных палатках блины, пирожки, борщ. Два раза в год выпускается вестник «Оросия», все выпуски которого размещаются на домашней страничке. В целом деятельность нашего кружка не отличается от мероприятий других университетских кружков. Но иногда члены «Оросия» «выходят в свет», предпринимая самостоятельные шаги. Например, доклад об «Оросия» прозвучал на Открытой конференции, проходившей в Токийском университете иностранных языков 23-24 июня 2001 года. Хираива Такахико, который тогда возглавлял кружок (сейчас он аспирант Киотского университета), в своем выступлении подчеркивал, что ни культурный обмен или развитие дружеских отношений между Россией и Японией, ни поддержание существования кружка, его развитие сами по себе не являются целью деятельности «Оросия».

              Заявления о том, что «мы не ставим целью своей деятельности развитие российско-японской дружбы», или о том, что «поддержание существования кружка, его развитие сами по себе не являются нашей задачей», могут звучать несколько претенциозно. Но обе наши страны на протяжении своей истории постоянно приносили индивида в жертву организации, периодически выходя из-под контроля этих индивидов-граждан. То чувство неуверенности, те негативные эмоции, которые были привнесены в университет нынешними реформами высшего образования (я говорил о них в самом начале), могут неожиданно перерастать в чувство превосходства, как, например, в случае с COE (Center of Excellence) – так называются крупнейшие НИИ, где, как считается, сосредоточены лучшие умы – ведь не постеснялись организаторы называть их «Центрами превосходства»! А мы, живя в такую эпоху, хотим по-прежнему оставаться кружком «Оросия», о котором можно сказать в трех строках:

 

Неверное пламя свечи,

Дрожа на ветру, озарит

Один уголок из Вселенной...

 

Като Сиро (Университет префектуры Аити, специальность: история России)

 


 

 

卒業しました!

 

愛知県立大学中国学科卒 小笠原一枝

 

 

本日、無事卒業しました。5年ほど前、あることが切っ掛けで、家の近くの中国語の会話教室に通っていました。当時講師をなさっていた大連出身の若い中国人留学生が話したことを今でも忘れることが出来ません。彼女が日本に留学するということを聞いた祖母が怒ったそうです。「どうして鬼のような日本人のところへ留学なんかするのだ」と。彼女は、不安な気持ちのままで日本に来たと言います。ところが来日してみると、印象は逆でした。道に迷った時、目的地に着くまで心配して送ってくれたりする親切な人々に出会い、「日本人は決して鬼ではない」と思ったそうです。それで、私は愛知県立大学に入って日本語教師を目指すことにしました。将来、中国に行って「鬼のような日本人」というイメージを少しでも軽減できる仕事に関われたらと思ったのです。しかし、第一歩から躓きました。日本語教師を目指すのに必須の「言語研究入門」は、受講希望者が多すぎて、抽選にはずれてしまいました。そこでやむを得ず「政治研究入門」を選択しました。そこで出会ったのが「おろしゃ会」の加藤先生でした。講義ではホッブスとかロックとか、難しい政治理論に頭を悩まされたのですが、ファシズムの政治理論の講義を聞いたとき大変衝撃を受けました。今まで民主主義というものに何の疑問も抱いたことがありませんでしたが、先生は「民主主義がもたらした悲劇」としてファシズムの話しをなさったからです。そしてある映画の一場面を見せてくださいました。ライザ・ミネリ主演の「キャバレー」という映画ですが、主人公のアメリカ人がドイツのブルジョアを代表する友人とあるリゾート地のテラスでくつろいでいると、ヒトラー・ユーゲントの美少年が突如「明日は我らのもの」というナチスの歌を立ち上がって歌い始めます。すると、少女がそれに次いで歌い、歌の輪がだんだん広がり、やがてほとんど全員の大合唱となります。ブルジョアのドイツ人は「共産党に対抗する勢力として彼らは利用できる」とつぶやいていました。しかし、結果は知っての通りです。私はこのシーンを見てゾッとしました。そして今まで疑問も持たなかったことを「問い直す」ことが勉強の本質なのだと思うようになりました。2年時に高島忠義先生の「国際法」をとりました。9・11事件が起きた後、高島先生はこのまま行けば、国連での議論如何にかかわらず、アメリカは、国内の手続きを進め、来年の3月ごろには戦争を始める可能性が高いとおっしゃいました。結果は先生のおっしゃった通りでした。国連は、戦争の抑止力となりませんでした。国連を無条件で「よし」としていた自分の考えを見直さざるをえませんでした。そこで、中国学科に属しながら、高島先生のご指導の下で学部共通履修学生となりました。卒論のテーマは「開発援助と政治的コンディショナリティ」です。「政治的コンディショナリティ」とは、民主主義とか人権とか普遍的な価値と思われるものを物差しにして「開発援助」を行おうとするものです。こうした価値観は本当に普遍的であると果たして言えるでしょうか。多文化主義という観点から言えば、価値の押しつけという側面もあると思うのです。世界の動きを見るとグローバリゼーションの名の下に、欧米的な価値観の一元的支配が進行しているのではないでしょうか。卒論を書いた後、政治的な問題の背後に大きく経済的な問題が横たわっていると考えるようになりました。私は次の学びのステップとして経済学の勉強を考え始めました。実は卒業後、県立大学の大学院で堀先生について国際経済の勉強を志したのですが、残念ながら院の入試に失敗しました。一時は学ぶことを断念しようと考えましたが、堀先生は、「スローライフという観点から今やりたいことをもう一度考えたらいかがですか」と仰ってくださいました。初めは「スローライフ」という言葉を誤解して、悠々自適の趣味の世界で生きよということかと思っていましたが、堀先生は山登りにたとえ、学問の道の多様性を教えてくださいました。暗中模索の結果たどりついたのが、慶応大学の通信教育です。

今振り返ってみると、県立大学は27年ぶりの学校でした。あっという間に過ぎたこの4年間は、本当に夢のようでした。碧南から2時間をかけて毎日、このキャンパスに通いました。「大変でしたね」とよく言われますが、苦痛に思ったことは全くありません。通信教育となると「講義」は年一度のスクーリングでしか体験できません。毎日毎日、先生や友達と学問について語り合えたこの4年間が本当に得難く有り難い時間であったと感じています。若い学生さんたちは、当たり前と思っているかもしれませんが、愛知県立大学という時と空間は、なかなか出会うことの出来ないものであったと思います。

謝謝! (2005年3月20日)


研究室にて(加藤のケイタイで撮影)

 

 

ある日わたしは幸せを待っていました

 

愛知県立大学スペイン学科 ターニア・トーレス・バスケス

 

ある日わたしは幸せを待っていました。ときどき幸せが私を訪れました。でもそれは、一時の間でした。すぐに寂しさと一緒に恐れ、羨望、怒りが私を捕らえました。

 

一時の幸せや不幸せの間で心が揺れている時に、先生から二つの質問をされました。一つはなぜロシア語を勉強するのか、もう一つはどうしていつも嬉しそうにしているのかというものでした。ロシア語は、メキシコでも勉強していたのですが、父が若い頃からロシア文学に関心があったので、私もそれに関心をもっていたと自分で思いこんでいました。しかし、実際にロシア語をやっていると、父がロシアに関心をもっていたかどうかとは関係なく、私自身が喜んでいるのを知りました。でもその喜びは束の間のものでした。ロシア語だけではなく、その他の勉強は、必ずしも幸せを広げることにはつながりません。日本に来て勉強していても、喜びを感ずるととともに、寂しさを感ずる日々も多かったのです。でもいつもなぜニコニコしておられたのだろうか。

 

考えたのは、幸せを待っているだけではだめだということです。幸せは、実は、私の心の中にすでに存在していたのです。その幸せが心の中に閉じこめられ、発見されるのを待っているだけではだめだったのです。心の中に存在する幸せ自体が、自らを友人や先生や家族など他者や、自分を取り巻く自然など外の世界からの働きかけに応じて、他者や外につながっていくとき、幸せは広がり、普段の喜びにつながっていきます。自然に微笑みがわきます。こういう風に考えるようになってからは、寂しさはあまり私を訪れません。幸せは待っているだけではなく、自分からも幸せを探し、外へ出していかなければなりません。

 

港区の花火大会で韓国の友人と

 

公共の場とは???

 

服部鮎美(愛知県立大学英米学科卒・大韓航空スチュワーデス)

             

ご存知のように、日本国憲法には個人の人権を尊重することが定められている。しかし、これには、「公共の福祉に反しない限り」という但し書きがついている。憲法の12条、13条、そして、22条にまでも「公共の福祉」という言葉が用いられていることからも、日本人にはとても重要な言葉だということが伺える。

 日本に居ると、いかに公共の福祉が守られているかということに意識が働く。なぜなら、多くの人が公の場での度を越した個の流出を避けているからである。私は仕事柄海外に滞在することが多く、その際は必ずホテルに泊まる。ホテルには大体、「ラウンジ」と呼ばれる公共の場がある。ここでは、皆テレビを見たり、パソコンをしたり、簡単な料理をしたり、アイロンを掛けたり、お喋りをしたり、本を読んだり・・・と好きなことをして良い。いわゆるリビングルームのような存在だ。先日、私がパソコンをしていたとき、一人のインドネシア人がものすごい音量で音楽を聞き始めた。彼にとってはお気に入りの曲でも、他の人にとってそうだとは限らない。だから、私はお願いをした。「ここは公共の場です。部屋の中にいる他のメンバーに負担の掛からないよう行動してもらえないでしょうか。」と。私の中の「公共の福祉」とは、「他人に迷惑を掛けない」ことが前提である。きっと聞き入れてもらえるだろうと思っていた。だが、彼の中のそれは違った。「ラウンジが皆の場所であるなら、君にこの部屋でパソコンをする権利があるように、私にもある程度の音量で音楽を聴く権利がある。」というのだ。

 日本人の場合、人に迷惑を掛けないことが前提で、自分の自由を尊重するのだが、海外に行けばこの常識が通じることばかりではない。お願いしたにもかかわらず、彼は最後まで、彼の納得のいくボリュームで音楽を聴き続けたのだから。外国人の友人の多くは、「日本人はとても礼儀正しいし、マナーがなっている」と誉める。大半の日本人が正しいマナーを身に付けているのは、やはり「公共の福祉」を尊重しているからだと思われる。そんな中で、「公の場だから、各々が自分の好きなことをして良いのだ。」というインドネシア人の前提には、衝撃を受けた。これは、「自由」に対する捉え方の差異である。

 国が違えば憲法が違い、教育が違う。そんな違いは今までも知らなかった訳ではない。しかし、これは身をもってそれを感じた瞬間であった。当時は、理解し難かったこの体験も、今では新しい経験が出来たという気分でいる。何よりも、前向きな姿勢で外国人との違いを捉えることは、私にとって、とても大切なことだと認識している。


鮎美さんからの便り

服部鮎美さんは、大韓航空のスチュワーデスをつとめながら愛知県立大学に通い続け、この春、見事に外国語学部英米学科を卒業しました。世界の各地から彼女が送ってくれる便りを以下に掲載します。後輩の皆さんにぜひ読んでいただきたいと思い、「おろしゃ会」ホームページへの公開を快諾していただきました。


2005年7月21日

 

加藤先生、

こんばんは。ご無沙汰しております。今日は、ロンドンから帰って参りました。

ロンドンというと、7月7日に起きたテロの記憶が新しいと思います。日本で七夕のお祝いがなされていた頃に、悲劇が起こったと思うと、とてもやりきれない気持ちです。

私は、テロから10日以上経ってからロンドンへ行ったわけですが、現在のロンドンはテロ以前とは変わった気がしました。日本の媒体で、「イギリスは負けなかった」、「復活した」という記事(ニューズウィーク日本版)を読みましたが、人々がとても注意深くなっていることに気付きました。私が偶然小学校へ立ち寄った時、ちょうど終業時間でしたが、ほぼ全員の両親が子供さんを迎えに来ていました。学校がある日ということは、勿論平日で、ご両親も仕事があるはずなのに、あれだけ沢山の方がお子さんを迎えに来ているところを見ると、皆がとっても注意深くなっていることがわかりました。同時に事件でショックを受けた子供さんの心の傷を癒そうとされている気もしました。傷ついた時、家族が傍にいてあげられることが、きっと子供さんには一番の治療なのだと思いました。

「テロ事件がまた起こるかもしれない」、という話題が時々上りますが、子供の心に傷のつく事件が起きなければと切に願うばかりです。
それでは、またお便りします。服部 鮎美

 


2005年7月23日

 

加藤先生、

今回は、韓国人との関わりについて書きたいと思います。現在、「韓流ブーム」と言われるほど、韓国への俳優やドラマ、映画が話題になり、以前より韓国への旅行者もとても増え、長期に渡って滞在する人さえ多くなりました。ですが、その反面で竹島問題、過去の歴史認識の違い、靖国神社の参拝問題について議論されることも多々あります。少し前まで、日本のテレビ、新聞では、「韓国で反日デモがあった。」「日本の国旗が燃やされた。」「小泉首相を罵倒する言葉が掲げられた。」と、連日のように報道されていました。そして、雑誌からは、「歴史認識の違いから、韓国人と日本人のカップルがすれ違うようになってしまった(AERAより)。」という記事も読みました。
こういった記事を読む度、私は温度差を感じないではいられません。なぜなら、私は常に韓国人に囲まれて生活している中で、記事で読むような行為を受けたことが一度も無いからです。本当に無いのです。日本人だからといって差別をされたこと、過去の歴史について説明しろと言われたこと、過去に関して文句を言われたり、無視されたこと、などなど一切ありません。これは、私だけでなく、一緒に働いている他の日本人に対しても同様です。

初めてお会いする韓国人の方々には、私が日本人だと分かると、「日本人なの?」と声を掛け、知っている言葉を使って、わざわざ日本語で会話をしてくれる人が沢山います。

私は、韓国歴史博物館へも足を運んでみましたが、過剰な表現があったとは思いませんでした。(ただ、他の歴史資料館がどうなっているのかも確かめるべきだと思いますので、次の機会に行って見ようと思います。)

それから、気付いたことですが、私は韓国人の同僚から、「日本人は韓国人が嫌いなんでしょ?」と何度か聞かれたことがあります。
日本人も、メディアを通じ、韓国での反日デモを見ると、「韓国人は日本人を許していないのだ」、「嫌っているのだ」と思うかもしれません。これはもう、恋愛で言う両思いの逆で、双嫌いとでも言いましょうか。そんな状態だと思います。ですが、決してそうではないことを知ってほしいと思います。どんなに国と国が、批判し合っていても、現場で働いている私たちの中に差別はないということ。国と国の代名詞は「政治と政治」であって、「人と人」ではないということ。人は国を超えるのだということを、働きながら常に感じます。

物事を見る時、色眼鏡を掛けないで、自分の目で見ることを始めた時、相手に対する不信感は、実は自分の心が生んでいるということに気が付けるかも知れません。

それでは、気付いたことがありましたら、またお便り致しますね。連日暑い日が続きますが、どうぞご自愛ください。服部 鮎美

 

 

 

 

 

 

 

 


あとがき


 

 天気晴朗にして桜は満開。隣の万博会場は、予想外に静かです。だが五月蠅いのは、リニモの駅や会場近辺でスタッフやボランティアが出す、「管理の声」。まことにけたたましい。友人の呉智英は、西枇杷島に住み、東海豪雨以来、朝晩規則正しく流される「防災放送塔」からの音声を「騒音」として訴えたが(一審敗訴)、おそらくそれと同種の五月蠅さじゃないだろうか。もっと、お祭り騒ぎをすればよいのにね。今のところ、万博は、お役人の仕切るイヴェントの域を出ていないようです。

 昨年来、県立大学に留学しているマリーナ・ロマエワさんは、この4月から大学院博士課程に入学した。下の写真は、4月5日、入学式直後のスナップです。

 

左から マリーナ・ロマエワさん、佐藤六美さん、深田亜矢子さん

 

(追記)上記の大学院生三人は、7月9日(土)・10日(日)に行われた県立大学主催の国際学生シンポジウムで大活躍だった。佐藤さんは、現在休学し万博イタリア館のアテンダントをつとめているが、応募した論文「21世紀を創るわたしたちの課題」が最優秀論文に選ばれ、討論会パネラーとして壇上に上がった。マリーナは、二日目のシンポジウムで留学生代表パネリストとして発言した。まとめの発言で「異文化間のコミュニケーションをここで議論していても畳の上の水練です。戸外に出て、いろいろと実際にコミュニケーションをしましょう」と述べた。深田さんは、ボランティア学生として終始黙々と働いてくれた。9月からは小学校で教育実習だと言う。

 

新学期が始まったと思ったらもう夏休みだ。今は試験期間中である。ロシア語授業の登録者は、ここ数年、初級が20〜25名、中級は10名余、上級(応用)は5名前後である。内容的には相変わらず思うに任せない。指導力の限界を感じ、いろいろと不本意なことも多い。しかし、今、ロシア語の上級(応用)クラスには、面白い学生たちが参加している。おろしゃ会会員としてすでに何年かを過ごしている幅亮子さん、伊藤公子さんの他に、メキシコのラス・アメリカス大学から来ているターニア・トーレスとドイツのケルン大学からの留学生ダニエル・ホイヒャアの二人である。ターニアはお父さんがロシア文学の愛好者で、娘に『オネーギン』のヒロインの名前を付けた。昨年来ロシア語の授業に参加。今、ユーリー・ロトマンの「プーシキン論」を一緒に読んでいるが、残念ながら9月にメキシコに帰る。ダニエルは、恐るべき語学の達人だ。4月に初来日した時には、すでに正確に日本語を読み、話すことが出来た。マリーナの場合もそうであったが、外国における日本語教育のレベルに感嘆せざるを得ない。驚くべき事は日本語以外に多言語を修得していることである。フランス語、スペイン語、それにロシア語である。彼のロシア語の朗読力や読解力は並はずれていて、シュリーマンを想像させる。次の写真は、7月14日、前期最後のロシア語応用の授業風景である。普段は一般の教室でおこなうのだが、ターニアの送別会も兼ねて、研究室でお茶を飲みながらの授業となった。(加藤史朗)

 

 

右からターニアさん、伊藤公子さん、ダニエルさん、幅亮子さん、加藤

 

 

 

  

「おろしゃ 会」会報 12

2005年7月29日発行)

 

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