おろしゃ会会報 第13号その2

2006年

 

卒 業 論 文 特 集

 

 

M.M.バフチンにおける対話論とカーニバル論

S.M.エイゼンシュテイン『メキシコ万歳!』を中心とする

映画理論への応用

                         

幅 亮子

0.はじめに

 

M.M.バフチン(1895−1975)とはいったい何者なのか。これは今なお議論されるテーマである。ロシア・フォルマリズムの影響を受けたフォルマリストであろうか、文学評論家であろうか、またはロトマンに代表されるモスクワ・タルトゥ学派の記号学の先駆者であろうか。しかし彼自身は自らを哲学者と呼んでいた。

 また1920年後半から30年にかけて、バフチンは他人名義で著作を公刊している。バフチン・サークルの仲間であり弟子でもあるヴォロシノフとメドヴェジェフ名で出された著作のうち、どこまでがバフチンの著作なのかは明らかになっていない。

 しかしこのバフチンとは何者かという問いは、それこそ自己矛盾に陥ってしまう問いである。彼は常に境界線上、未完という概念を思い抱いていた人物だった。彼がいう哲学者とは、あらゆる身分、境遇、職業、性別、国籍、すべての社会制度などを超えたところから思索をはじめ、そしてそれは他のどんな思想にも肩書きにも縛られない、という意味での自由さをもった哲学者であったように思われる。またバフチンはよき対話を愛した人物であった。バフチンの対話論については1−2で述べるが、彼は未決定的な人物同士の対等な対話を重視し、人が生きることそのものが対話によって成立しているとした。したがってバフチンによれば、テクストですら少なくとも二つの意識の対話的働きの所産であり、分有されるものである。バフチンの著作が特定しきれないのは、創作に匿名性を見出すバフチンの考え方そのものに起因しているように思われる。また現実的な問題として、当時彼が本を出版することは社会的・政治的に不可能であった。

バフチンの思想様式はその特質からしてどんなジャンルへも応用できるかのように感じられる。だからこそさまざまな学問分野において、いわばバフチンの取り合いがなされてきた。バフチンとは何者かという問いに対し、未だ決着がつかないのはそのためである。それゆえにバフチンについて、多数の誤った拡大解釈がなされることとなった。このさまざまな誤った拡大解釈については多くの研究者の指摘するところである。

 それにもかかわらず本論文ではバフチンの理論と映画理論との関係性について考察したい。その足がかりとしてとりあげるのはソ連の映画監督S.M.エイゼンシュテイン(1898―1948)である。エイゼンシュテインとバフチンの理論の類似性はロトマンやイヴァノフによって指摘されている[1]が、バフチンと結びつけるのは間違いだとする議論もある[2]。しかし実際にエイゼンシュテインの本棚の中にはバフチンの著作があり[3]、また彼の理論とバフチンの理論の類似性を考えると、エイゼンシュテインがバフチンから刺激を受けたことは、一概に否定できない。しかし本論文においては、実際にエイゼンシュテインがバフチンから影響を受けたかどうかという点は問題としない。それは今となっては知るべくもないことである。

本論文ではバフチンの中心理論である対話論とカーニバル論について考察し、エイゼンシュテインのモンタージュ論を中心とする映画理論とその実践といえる映画作品『メキシコ万歳!』について論じる。しかし4−2で述べるように『メキシコ万歳!』は彼自身の手によって完成されたものではないことから、論じる際に用いるのはラッシュフィルム、シナリオ、書簡、回想記、その他多くのエッセイなどである。そのなかで我々はバフチンとエイゼンシュテインの理論の類似性に気が付くだろう。この類似性だけをみると、バフチン理論を映画理論に「応用」することが可能であるように思われる。実際、R.スタムはJ‐L.ゴダールの映画『気狂いピエロ』(Pierrot le Fou,1965年)を理解するためにバフチン理論を導入し、映画を説明している[4]。しかしスタムらが行っているように、実際の映画作品を挙げ、その作品にバフチン理論を当てはめて理解を深めるというバフチン理解では、なにものにも縛られない自由さをもったバフチンの理論を、逆に映画という枠組みに縛り付けることになってしまうのではないか。

バフチンとエイゼンシュテインの理論は本質的に別個のものである。したがってバフチンによる理論とエイゼンシュテインによる理論が完全に一致することはない。しかしバフチン理論を理解した後に、エイゼンシュテインの映画『メキシコ万歳!』を観ると、難解な物語のなかにある種の理解が生まれることも事実である。

本論文ではバフチンとエイゼンシュテインの理論の類似性ではなく、相違性により重点をおいて考察したい。バフチンによる理論の自由な特質ゆえに、エイゼンシュテインとバフチンの理論の類似性を見つけることは、相違性を見つけるよりもより容易だからである。つまりバフチンとエイゼンシュテインの理論の相違性は、多くの類似性のかげに隠れて見えにくくなっているのである。この相違性を考察することが、本論文における第一の目的である。

そしてこの相違性はバフチンによる理論において何を意味するのか。しばしばなされているような、バフチンによる理論の、映画理論への「応用」は可能なのか。バフチンとエイゼンシュテインの理論の関係性が、我々に与えるものについてを考察することが本論文における最終的な目的である。

 

 

1.小説における物語性

 

1−1.ポリフォニー(полифония

 

バフチンはドストエフスキーについて、「芸術形式の領域における最大の革新家の一人」でありポリフォニーと呼ばれる「まったく新しいタイプの芸術思想を打ち立てた」[5]人物だという。ポリフォニーとは音楽用語で、多声音楽・複旋律音楽と訳され、J.S.バッハに代表される音楽形式を指す。複数の声部がそれぞれ独立して混ざり合いひとつの曲を形成する技法であり、それゆえどれが主旋律でどれが伴奏かといった区別をもたない。

バフチンは既存のヨーロッパ的な小説は「本質的にモノローグ的(単旋律的)な小説」[6]であり、ドストエフスキーのみがそれを破壊しようとしたという。ドストエフスキーの小説のなかで登場人物はそれぞれの意思を持って行動し、作者(登場人物を創造した者)と対等な位置に立ち、作者の「言うことを聞かないどころか、彼に反旗を翻す能力を持つような、自由な人間たち」[7]として存在する。したがってドストエフスキーの作品世界においては、通常の人間の心理状態や社会秩序等によって規定される因果関係、あるいは物語の筋をプラグマティックに運ぶ因果関係のみが存在するだけでは十分ではない。これらの因果関係は作者の構想において物象化された登場人物たちを、モノローグ的に把握・理解された世界のなかで結び合わせるためのものであり、それぞれの世界を持った複数の対等意識同士を結びつけるものではないからである[8]。したがってドストエフスキーが小説のなかで描く事件は、月並みな筋書き上の因果関係の解明によっては理解し得ないものである。このことからドストエフスキーの描く世界はカオスと映り、互いに性格を異にしたバラバラな題材と、相互に相容れない複数の構成原理とをやみくもに寄せ合わせたものにみえる[9]

またバフチンはシェイクスピア、ラブレー、セルバンテス、グリンメルスハウゼン、バルザックの名を挙げ、彼らの作品中にはポリフォニー的要素が見られるものの、ただ要素として留まっているという[10]。そして既存の「モノローグ」的な作家としてトルストイの名を挙げ、「トルストイの世界は、一枚岩のモノローグ的世界だ」「(彼の)作品では、主人公の自意識と言葉は、テーマ上きわめて重要な意味を持っているにもかかわらず、主人公の造形における主調音となることがない」[11]という。

バフチンはポリフォニーとモノフォニーとの対立として、ドストエフスキーとトルストイの作品の対比を何度もとりあげる。この対比について桑野氏は、バフチンのドストエフスキーに与した人間観、人生観がトルストイのそれと異なっていたことが大きく関係し、また当時のモノローグ化されつつある時代背景、すなわち思想・発言が厳しく統制されていたという時代背景を鑑みて、ドストエフスキーのポリフォニーのもつ意味のほうがバフチンにとっていっそう重要であったと指摘している[12]

しかしここで矛盾がうまれる。ポリフォニーがその実践において直面すると予想される矛盾である。一般に名作とよばれるトルストイらの作品を非常に軽視する一方で、ドストエフスキーの作品をバフチンは「カオスと映」るとしながらも高く評価している。あくまでポリフォニーというのは単なるイメージとしての類推であり、比喩にすぎない[13]としながらも、通常の因果関係がなく、登場人物がそれぞれに意志をもって行動するドストエフスキーの作品は、どのようにして成立していると説明されるのか。われわれは、たとえば『罪と罰』Преступление и наказание,1866年)を読んで、ラスコーリニコフの告白にいたる物語の流れのようなものを小説の中に発見する。むしろそのようなものが存在しない作品は物語として成立しないように感じる。しかし登場人物たちが作者の手を離れて自由気ままに行動するポリフォニー小説のなかに、物語を導くその流れのようなものが存在しているということは矛盾にならないだろうか。その疑問を解き明かす鍵となるのがバフチンの対話論である。

 

1−2.対話(диалог

 

 1−1でみたように、ドストエフスキーの「ポリフォニー」に対立する概念として、バフチンはトルストイらの「モノローグ」を挙げている。そしてさらに「モノローグ」の対義語として、「デイアローグ、対話」を挙げ、「ドストエフスキーの小説は対話的である」[14]とバフチンはいう。

対話的な小説とは何を意味するのか。対話的小説の作家の典型としてバフチンが挙げるドストエフスキーは、みずからのリアリズムを次のように説明している。「完全なるリアリズムにおいては、人間の内なる人間を見出すことが目標である・・・私は心理学者と呼ばれるが、それは誤りだ。私はただ最高度の意味でのリアリストにすぎない。つまり私は人間の心の深層の全貌を描こうとしているのだ」[15]。バフチンはこのドストエフスキーの文章から3点を指摘し、ドストエフスキーの作品の新しさを強調する[16]

 

@.ドストエフスキーはみずからを「最高度の意味でのリアリスト」であると自覚し、「人間の心の深層の全貌を描」くという新しい課題を完全なるリアリズムをもって解こうとしている。すなわち、自分の外部つまり他者の心のうちに「人間の心の深層」を見出そうとしている。

A.この「新しい課題」を解くのに必要なのは「最高度の意味での」リアリズムであって、通常の(従来の)意味でのリアリズム(バフチンはこれをモノローグ的リアリズムと呼ぶ)では不十分である。

B.ドストエフスキーはみずからが心理学者であることを否定している。ドストエフスキーは当時の心理学に対し、否定的態度をとっていた。当時の心理学は人間の心の自由さ、非完結性、独特な不確定性・未決定性を認めていなかった。しかしドストエフスキーが描こうとしたのはまさにこれらの点であった。

 

バフチンによれば、ドストエフスキーは「新しい課題」を解くために従来とは異なる新しいリアリズム、すなわちポリフォニー的リアリズムをもって他者の心のうちに着目し、人間の心の自由さ、非完結性、独特な不確定性・未決定性を描こうとしたのである。ドストエフスキーが描こうとしたこの「新しい課題」は、小説内においてどのように実現されるのだろうか。この問いに対してバフチンは対話という概念を導入する。たとえば『罪と罰』に登場する腕利きの予審判事ポルフィーリイ・ペトローヴィチとラスコーリニコフとの対話を、バフチンは「本物の見事なポリフォニー的対話」であり、その「対話的洞察」によってラスコーリニコフの未完結で未決定な心を見抜くことができるという[17]

また対話の概念を用いることによって、作者と登場人物たちとの関係が説明される。

 

ドストエフスキーのポリフォニー小説における主人公に対する作者の新しい芸術的立場とは、ひたむきに実践され、とことん推し進められた対話的立場であり、それが主人公の独立性、内的な自由、未完結性と未決定性を保証しているのである。作者にとっての主人公とは《彼》でも《我》でもなく、一人の自立した《汝》つまり(《汝あり》という言葉で語られる)もう一人の完全な権利を持つ他者の《汝》なのである。[18]

 

小説においてポリフォニックに対峙する人物たち(そこにはもちろん登場人物同士の対峙や主人公に対峙する作者も含まれる)は、ポリフォニックであるがゆえに、相手が何を求めているのか、何を考えているのか、を知ることができない。ドストエフスキーが求める「主人公の独立性、内的な自由、未完結性と未決定性」を保証するためには、ポリフォニー的立場が不可欠であるといえる。そしてポリフォニックに対峙する人物同士が相手とのコミュニケーションをはかろうとして、対話が始まる。

 

主人公はきわめて真剣な、本当の対話的呼びかけの主体であって、修辞的に演じられる、あるいは文学的な約束事としての対話的呼びかけの主体ではない。そしてこの対話―小説の《大きな対話》の全体―は、過去に起こったことではなく、いま、すなわち創作過程の現在において起こっていることなのである。それはけっしてすでに終了した対話の速記録でもないし、すでにその場から抜け出した作者が、一段高い決定権を持つ位置にいて、上からそれを見下ろしているわけでもない。もしそうだとしたら未完結であるべき本当の対話がいっぺんに、あらゆるモノローグ的な小説に共通した、客体的で完結した対話のモデルと化してしまっただろう。[19]

 

バフチンのいう対話とは具体的にどのようなものなのか。既述のように「本物の見事なポリフォニー的対話」としてバフチンが挙げたポルフィーリイ・ペトローヴィチとラスコーリニコフとの対話を引用する。これは彼らの第1の対決の場面である。

 

「あなたは警察に届けを出すべきでしょうな」とポリフィーリイはいかにもそっけなく事務的な態度で言った。「これこれの事件、つまりこの殺人事件を知って、ですな、あなたとしては、これこれの品はあなたのものであるから、それを買いもどしたい希望を、事件担当の予審判事に申し出た云々というようなことですな・・・あるいはまた・・・だがこれは警察で適当に書いてくれますよ」

「それなんですよ、ぼくは、いまのところ」ラスコーリニコフはできるだけ困惑したように見せかけようとつとめた。「ぜんぜん金がないものですから・・・こんなこまかいものも請け出せないしまつで・・・それで、いまはただ、その品がぼくのものであることを、届けるだけにして、金のくめんがついたら・・・」

「それはどちらでもかまいません」と財務状態の説明を冷ややかに受け流しながら、ポルフィーリイ・ペトローヴィチは答えた。「もっとも、なんでしたら、わたしに直接書類を出していただいても結構です。これこれの事件を知り、これこれが自分の品であることを申告するとともに、つきましては・・・というような意味のですね・・・」

「それは普通の紙でいいんですか?」とラスコーリニコフはまた問題の金銭的な面を気にしながら、慌ててさえぎった.

「なに、どんな紙でも結構ですよ!」そう言うとポリフィーリイ・ペトローヴィチは、どういうつもりかいかにも愚弄するように彼を見つめて、片目をほそめ、目配せしたようだった。しかし、それはラスコーリニコフにそう思われただけかもしれぬ、なぜなら、それはほんの一瞬のことだったからだ。しかし少なくともそう感じさせるものは何かあった。ラスコーリニコフは、何のためかは知らないが彼が目配せしたことを、はっきりと断言することができたはずである。[20]

 

この時点で、ラスコーリニコフが罪を告白するつもりがあるのかどうか、ポルフィーリイはラスコーリニコフが犯した罪をどこまで知っているのか、どんな証拠を握っているのか、どのように彼を追い詰めるつもりか、は小説内で描かれることはない。この対決の場面のほとんどがラスコーリニコフとポルフィーリイとの対話で成り立っており、ところどころで作者の視点から語られる言葉が存在するが、それはたとえば「ポルフィーリイはラスコーリニコフの罪を確信していた」というような、登場人物を意のままに動かす作者としての言葉ではなく、登場人物と同等の位置に立った、客観的な視点を持った作者としての視点である。つまりここではラスコーリニコフとポリフィーリイと作者、3者のポリフォニー的対話が成立している。さらにそれは「過去に起こったことではなく、いま、すなわち創作過程の現在において起こっていることなのであ」り、作者が創作するその瞬間においてなされる対話である。

またバフチンのいう対話には話し合いといった穏やかなものから、議論や罵倒のような激しい対立も含まれている。先に引用した対話は、一見冷静になされているが、その裏では互いが互いの真意を探ろうとしているし、この引用のすぐあとにはラスコーリニコフがポルフィーリイに対し、声を荒げる場面がでてくる。対話というと穏健なイメージだが、バフチンのいう対話はむしろ人格の衝突であり、葛藤である。ドストエフスキーの小説は、この衝突・葛藤の積み重ねから成り立っているといえる。

物語を構成する個々の出来事が「対話」によって生じる、という考えはバフチンのアナロジーからも導きだすことができる。バフチンは「人間存在(бытие)という出来事(событие)」[21]という表現をする。出来事(событие)をсо-(「共に、一緒に」を意味する接頭辞)とбытие(人間存在)から成り立っていると考えれば、この表現から、人間存在(бытие)が共にあることによって出来事(со-бытие)が生じるという彼のアナロジーを理解することができる。ではここでいう人間存在(бытие)とはどのようなものか。1−1でみたように、ポリフォニーとは「他者の《我》を客体としてではなく、もう一つの主体として承認すること」[22]であり、対照的に「モノローグ性は、自己の外に同じ権利を持ち平等に応答する意識の、同じ権利をもつ別の私(汝)の存在を認めない」[23]。そのうえ「生はその本質においても対話的」で「生きるとは即ち対話に参加すること」[24]である。すなわち、人間存在とはこのようにポリフォニックに存在するものであり、本質的に対話を志向するものである。このような人間存在が共にあるところでは、必然的に対話が発生し、そこから出来事が生ずるということができる。

 

1−2−1.内的対話(内言論)

 

1−2でバフチンのいう対話を人格の衝突であり、葛藤であると指摘した。この人格とは、必ずしも複数の人格ではない。バフチンは独白すらも内部に入り込んだ対話だとする。「言葉〔発話〕も、まず生体〔個人〕相互の間に交わされる社会的なコミュニケーションの過程で生まれ、成熟し、しかる後に生体の内部に移入されて、そこで内的発話となりうるはずのもの」[25]であり、その例として『罪と罰』の冒頭部、ラスコーリニコフの言葉を引用する。

 

《・・・(略)・・・この芝居では、ほかならぬロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフが登場し、しかも主役であることも、はっきりしている。なにいいさ、彼(注・ラスコーリニコフ)の幸福が築き上げられるのだ。彼を大学に学ばせ、事務所で主人の片腕にしてやり、彼の生涯を保証してやることができる。もしかしたら、彼はのちに金持ちになり、人に尊敬されるようなりっぱな人になり、しかも名誉ある人間として生涯をとじるかもしれぬ!だが母は?でもいまはロージャが第一だ。かけがえのない長男のロージャさえよくなってくれたら!この大切な長男のためならば、こんなかわいい娘でもどうして犠牲にせずにいられよう!おお、なんというやさしい、しかしまちがった心だろう!なんということだ、これではわれわれはソーネチカの運命も否定できないではないか!ソーネチカ、ソーネチカ・マルメラードワ、世界あるかぎり、永遠のソーネチカ!犠牲というものを、犠牲というものをあんた方二人はよくよくはかってみましたか?どうです?堪えられますか?とくになりますか?分別にかないますか?ドゥーネチカ、おまえは、ソーネチカの運命がルージン氏といっしょになるおまえの運命にくらべて、すこしもいやしいものではないことを、知っているのかね?・・・(略)・・・》[26]

 

ここでは妹ドゥーニャに対し求婚しているルージン、ドゥーニャとスヴィドリガイロフとの出来事、ソーニャについてマルメラードフから聞き知ったことなどを踏まえて、主要な登場人物となる人物たちと、互いがそれぞれの主体を持った人物として、ラスコーリニコフは対話している。ドゥーニャの「彼の幸福が築き上げられるのだ。彼を大学に学ばせ、事務所で主人の片腕にしてやり、彼の生涯を保証してやることができる」という声や、母の「でもいまはロージャが第一だ。かけがえのない長男のロージャさえよくなってくれたら!この大切な長男のためならば、こんなかわいい娘でもどうして犠牲にせずにいられよう!」という声には、ドゥーニャや母の愛情のこもったイントネーションと、ラスコーリニコフの皮肉な、苛立った、警告を発するようなイントネーションの両方が含まれているとバフチンは指摘している。ここではすべての言葉がふたつの声を持ち、その声たちが論争している。「つまり一つ一つの言葉の内部を対話が貫き、そこで声たちの闘争と格闘が引き起こされている」[27]。このような対話をバフチンはミクロの対話と呼ぶ。この引用での語る主体はラスコーリニコフであるが、彼の内面での葛藤もまた、対話である。バフチンは「内言もまた潜在的な聞き手を前提としており、その者に向けられている。内言もまた、外言とおなじように社会的交通の所産であり表現である」[28]とし、内言と外言とを本質的に区別していない。

 

1−3.ポリフォニー小説における物語性(1章のまとめ)

 

通常の因果関係が存在しないポリフォニー小説においてなぜ物語が成立するのか、という矛盾を解く鍵は対話論にあると1−1で述べた。バフチンのいう対話とは、ポリフォニックに存在する人びとの衝突・葛藤であり、そこには自己の内面での衝突・葛藤も含まれる。ポリフォニー、対話の概念を用いて説明される小説の物語性は以下にまとめられる。

 

 @.前提としてバフチンは小説におけるポリフォニー性を指摘する。ポリフォニー小説において、登場人物は作者の手を離れて行動するため、作者の思い通りに物語を進めることは不可能である。

 A.しかし実際のところ小説は成立している。すなわち実際我々が小説を読むとき、小説はとりとめのない出来事のたんなる羅列ではなく、ある出来事が他の出来事の伏線となるように、出来事と出来事とがある関係性をもっているように感じられる。登場人物たちがポリフォニックに行動しているにもかかわらず、なぜこのような関係性が感じられるのか。

 B.バフチンの対話論を導入し小説の物語性を説明する。すなわちポリフォニックに存在する人物たちが対話することで出来事が生じ、出来事と出来事との衝突、すなわち対話が生じることで物語が形成されるということができる。出来事と出来事との関係性は対話によって生じている。

 

ポリフォニー小説において通常の因果関係は存在しない。しかしバフチンは出来事と出来事との対話により生じる関係性が、通常の小説における因果関係と同様の働きをするとした。したがってポリフォニー小説において物語性が存在することは矛盾にはならない。

 

 

2.映画における物語性

 

2−1.映画における物語性のロトマン的解釈

 

一方、映画における物語性はどのように説明されるのだろうか。

Ю.М.ロトマン(1922―1993)は写真と映画に共通する、現実の再現としての信憑性、記録性を評価しながらも、「静止した表現を用いた動く物語」という映画の形式そのものが矛盾を孕んでいると指摘する[29]

 フィルムの制作者は、表現しようとするものを撮影する。映画の世界は、我々の眼にみえる生活の外貌によく似ている。しかし制作者がカメラをのぞいて撮影した映画の世界は、現実全体をあらわしたものではない。フレーム、スクリーンの大きさにあわせて切り取られた現実世界の断片にすぎない。「生活においてみえる世界は離散的ではない(連続的である)」[30]が、映画の世界は離散的すなわち「諸断片に分割されていて、各断片が一定の自律を保っているために、現実世界ではかなわない多様な組合せの可能性が生じ」[31]るのである。そこではスクリーン内とスクリーン外の世界がうまれる。ロトマンはスクリーン外の世界は映画にとって本質的なものだとする。彼はクロード・シャブロールの映画『不貞の女』(La femme infile,1968年)を例に挙げ、容疑者に対峙する取調官の視線に注目する。このシーンにおいてまだ容疑者は暴かれていない。その容疑者は観客に背中を向け、一方取調官は観客のほうを向いて、つまり容疑者と向き合って立っている。そしてその場にはもう一人の取調官が同席しているのだが、彼の姿はスクリーンの枠で切り取られ、一部しかうつっていない。しかしその取調官の視線はまっすぐに容疑者に向かっている。「この注意深く犯人にむけられた《顔なき目(視線)》は(現実の生活においては不合理な)、犯罪が明らかになるという結論が前提になっている」[32]。すなわち観客は罪を犯した犯人が誰なのかを知らない。しかしこの視線によって犯人が誰なのかを自然と理解することになるというのである。

 この観客の理解は無意識になされる。なぜこのようなことが起こるのか。その理由をロトマンは「post hoc, ergo propter hoc(after this, therefore because of this)という古典的・論理的誤りは、映画においては真実となるからである」[33]と指摘する。すなわち観客は時間的流れを因果的な流れとして理解するからである。たとえば男性が手紙を書いているショットがスクリーンに映しだされる。そしてその次に女性の顔が映ったならば、手紙のあて先はこの女性だということを観客は想像する。「これは監督が論理的に無関係な、さらには不合理ですらある総合不可能な断片を結合させるときにもっとも際立っている。監督はたんに無関係な部分をつなぎあわせているために、観客にとっては壊された論理の世界が生じる。しかし観客はあらかじめ予想している。観客に示された映像の連鎖は、ただ時間的なものではなく、そこには論理的順序も存在しているに違いない、と」[34]。そしてこの「予想」は観客の意識の外でなされている。

 

眼にみえ、移り動く生活のイメージを再現するにあたり、映画はそれを諸断片に分割する。この分割は多様である。フィルムを制作する者にとって、それは個々のショットへの分割を意味し、個々のショットはフィルムを上映するとき、詩を読むとき詩脚が単語と区別がつかなくなるように(詩脚、詩の韻律単位もまた、ふつうの読者にとっては意識された単位としてあるわけではない)、一つになってしまう。[35]

 

 観客にとってショットとショットの境界は意識されない。しかし制作者にとってどのようなショットにするのか、ショットとショットをいかにつなげるか、という問題は非常に重要なものとなる。それは観客が無意識のうちに時間的経過を因果的経過へと置き換えてしまうからであり、ショットとショットをどうつなげるかによって、観客によって理解される物語の因果関係が変化してしまうからである。ロトマンはこの観客によってつくられる因果関係が映画の本質であるとし、だからこそこの矛盾―時間的経過が因果的経過へと置き換えられること―は解決不可能であると指摘する。

ロトマンは映画において物語性をうみだすものは時間的経過の因果的経過への置き換えだと指摘し、エイゼンシュテインのモンタージュ論もまさに同様の点を指摘しているとした。エイゼンシュテインのモンタージュ論については2−2−1で触れるが、しかしロトマンはショットとショットの境界をモンタージュによる接合のみにみるのは過大評価だとしている[36]

 

生活の出来事は連続的な流れとなって継起するが、スクリーン上ではモンタージュが不在の場合でさえ、出来事が凝塊のようなものを形成し、その塊同士のあいだには行為=結び糸で満たされた空間があらわれるだろう。すでにこのレヴェルで、映画の生活は現実の生活とは異なって、<系列をなす断片>(エイゼンシュテイン)の連鎖となっている。しかし、これが分割の終わりではない。われわれのみているものには、認識の網がかけられている。自分が眼にしているものが芸術的語り、つまり記号の連鎖だということが分ると、必ずわれわれは眼にみえる印象の流れを、意味をもつ諸要素に分割する。[37] 

 

 ロトマンの解釈では、ショットとショットとの間にモンタージュが不在の場合、すなわちフィルムの制作者が関係のないショットとショットとを単純につなげただけの場合ですら、観客の認識の中では「系列をなす断片の連鎖」となり、そこに意味をもつ何らかの因果関係を観客は見出すというのである。ロトマンは観客の側から映画の物語性を解き明かす。すなわちフィルムの制作者によって提示された離散的な出来事の諸断片から物語性を導き出すのはあくまで観客であるとする。

一方エイゼンシュテインはフィルムの制作者の立場から、映画における離散的な出来事の諸断片同士を、モンタージュという技法を用いることで因果的に説明しようとする。

 

2−2.エイゼンシュテイン

 

2−2−1.モンタージュ論

 

 エイゼンシュテインは「映画技法とは―何よりもモンタージュである」[38]と断言する。モンタージュ理論の先駆けはレフ・クレショフのモスクワ映画学校・映画実験工房(いわゆるクレショフ工房)での実験(1922〜23)であった。その実験とは、まずイワン・モジューヒンという俳優のクローズアップ・ショットを3枚用意する。そして1つめのショットの次には暖かいスープの入った皿のショットをつなげる。2つめには横たわる男の死体のショットをつなげる。3つめにはセミヌードで横たわる女性のショットをつなげる。すると3つのショットを見た観客は、1つめのショットには空腹の男性を、2つめには男性の苦悩・戦慄を、3つめには男性の欲情をイメージする。同じ男性のショットにもかかわらず、前後のショットによってそれらは異なった意味を獲得する。ショットとショットをどうつなげるのかによって、それらのショットが観客に与える印象が異なるという発見をエイゼンシュテインはモンタージュとして理論化した。彼の理論は映画制作者たちにショットという概念を明確にさせ、どんな映画作品にも隠然と存在していたものを明らかにした。

エイゼンシュテインはショットを有機的に解釈していた。すなわち「ワン・ショットの画面は決してモンタージュの要素ではない。ワン・ショットの画面はモンタージュの細胞である」[39]という。そしてこのショット同士をつなげるものは衝突・葛藤であり、連結ではないとエイゼンシュテインは指摘する。一方、エイゼンシュテインと同時代の映画監督であるプドフキンはモンタージュを諸断片の連鎖として理解し、エイゼンシュテインと激しく対立した。プドフキンの考えるショットは「列に並んで思想を叙述する」ものだが、エイゼンシュテインは「2つの与えられたものの衝突から思想が発生する」ことがモンタージュであるという考えをもっていた[40]。エイゼンシュテインはプドフキンのいう連鎖としてのモンタージュを部分的な場合に関していえば存在しうると認める[41]一方で、衝突としてのモンタージュのほうが、プドフキンのいうモンタージュよりも大きな意義をもつとした。すなわち「モンタージュにおける2つの断片の対置はその2つの和ではなく、積により等しい」[42]と考えた。

映画において、このショット同士の葛藤は多様な形で存在しうる。エイゼンシュテインの例を挙げれば[43]、線画的方向(線)の葛藤、遠近の視点(相互)の葛藤、容量・大きさの葛藤、マッス(さまざまな光の強度にあふれた容量)の葛藤、対象とその空間性との葛藤、事件とその時間性との葛藤などである。これらの葛藤を、フィルムの制作者はクロース・アップとロング・ショットへの分割、異なった線画的方向をもつ諸断片への分割、立体的に処理された諸断片と平面的に処理された諸断片とへの分割、暗い断片と明るい断片への分割、対物レンズによる光学的歪曲、ツァイトルーペ(高速度撮影法)による撮影など[44]、さまざまな映画技法を用いて表現しようと試みる。エイゼンシュテインのモンタージュ論は「映画技法の全要素にわたって映画技法的な表現の諸手法を統一するシステムを探求」[45]する目的をもって論じられた。

 

2−2−2.文学におけるモンタージュ的構造

 

エイゼンシュテインは文学における対位法に関心を抱いていた。彼は18世紀コデルロス・ド・ラクロの小説の書簡体的対位法をとりあげる。エイゼンシュテインによれば、ラクロの小説は書簡による無味乾燥な伝統的対話形式だが、この形式に秘められたダイナミックな潜在的エネルギーを明らかにし、それは19世紀に至ってスタンダール、プーシキン、ドストエフスキーへと(彼らの作品において、そのエネルギーは書簡体的対位法のような感知しやすいかたちではなく、複雑な文学的織物のなかに織り込まれているが)道を開いたという[46]。またトルストイの小説における対位法については、「《戦争》及び《平和》の主題の二部合唱及び複雑な対位法」が「合理的根拠」をもち「それ以外にはほとんど考えられない事件の必然的な叙述として知覚され」[47]ているとした。

そしてまさにポリフォニー(エイゼンシュテインの言い方では「多声曲(ポリフォニー)または多音合成的物語」)の原理にしたがっているとエイゼンシュテインが指摘したのが、ウィルキー・コリンズの小説『白衣の女』(The Woman in White,1860年)における諸事件の叙述であった。「この物語は、犯罪状況が複数の証人の陳述によって語られるのと全く同じように、複数の文体によって陳述されるであろう。どちらの場合にも、目的は同じである。それは、出来事に最も直接的に関与している人物の口から、直接目に見えるように、その真相を語らせることである」[48]。『白衣の女』において注目すべきは、多声曲及び対位法の原理がその物語構造全体において貫かれていることである、とエイゼンシュテインは指摘している。

なぜエイゼンシュテインは文学における対位法について、かくも多くの文学作品を挙げて言及しているのか。それについてはエイゼンシュテイン自身が以下のように述べている。

 

文学の場合にも、多数の筋立て及び出来事の文学的「断片」に、「多視点的」―「さまざまな視点からの」―と同様の叙述の原理―つまり、後に、映画芸術において(対象の事物、背景、演技及び劇の場面全体などの)モンタージュ的撮影の基本的方法の1つとなった原理―が見られるからである。文学にも、個々の場面の内部においてさえ、モンタージュ映画的な、叙述の視点交替の素晴らしい模範が多数存在している。[49]

 

 エイゼンシュテインは文学においても、映画におけるモンタージュ的要素が存在していると指摘している。彼はこの共通点に注目し、それゆえに文学におけるポリフォニーと対位法に関心を抱いていた。

 

2−2−3.エイゼンシュテインによるモンタージュ的ポリフォニー

 

 エイゼンシュテインが元来音楽用語であるはずのポリフォニーを文学や映画の分野に導入した(エイゼンシュテインによる造語「多音合成的物語」はまさにその産物である)のはなぜか。エイゼンシュテインは「生涯を通じて対位法及びバッハの魅力に熱狂的にとりつかれた」[50]と回想している。

エイゼンシュテインの関心を音楽に向かわせた要素の一つとして、トーキーの誕生が挙げられるだろう。エイゼンシュテインの生きた時代は、トーキーが誕生しサイレントからトーキーへの移行がはじまった時代と重なっている[51]。したがって視聴覚的な映画的方法(キネマトグラフィア)の誕生によって、映画はどう発展するのかがエイゼンシュテインの関心事となった。サイレント時代において音楽がどのように表現されたのかについて、エイゼンシュテインはサイレント映画自体が独自の音楽、すなわち造形の音楽を表現したと述べている[52]。すなわち情緒的・感情的風景が、映像の中では音楽的成分として働いているという。サイレント時代には、「モンタージュ断片によって、場面の情景的過程だけではなく、場面の音楽もまた組み立てられた」[53]。しかし技術が進歩し、トーキー映画が誕生すると新しい可能性がうまれた。

 

新しい段階の視聴覚的モンタージュは、モンタージュ的多声曲(ポリフォニー)の一層増大する融合性及び和声(ハーモニー)の旗印の下に登場する。(エイゼンシュテインによる注―おそらく、ここには、多声曲的作曲法に代わって和声曲作曲法が登場した時に音楽史に起こったのと同じ、進化的変化が生じたのではなかろうか?)その新しい「和声的」対位法―矛盾及び過剰のない対位法―は、集団内部における各個人の活動の姿を最も完全に反映しているように思われる。[54]

 

すなわちトーキー時代におけるモンタージュは、新しい「和声的」対位法へと姿を変える。この「和声的」モンタージュとは、エイゼンシュテインによれば、たとえば各個人が共通の課題を解決するためにそれぞれ独自の道を認識し、そして彼らそれぞれの道が交錯し絡み合い結合し、最終的に全員が一致して共通の目標の実現に向かって前進する。そのような状態において、集団における各個人の姿が最も完全に生き生きと感じられるのが「和声的」モンタージュであるという。すなわち「二大勢力の闘争というよりはむしろ、単一の主題の内部に生ずる矛盾対立の活発な葛藤である」[55]

以上を踏まえると、エイゼンシュテインはポリフォニーという概念をモンタージュに持ち込み、「和声的」モンタージュという概念を作り出した。すなわちエイゼンシュテインの「和声的」モンタージュにおいては、ポリフォニックな個々の要素は単一の主題の内に含まれつつも、その内部においては活発な葛藤を繰り返している。

 

 

3.小説における物語性と映画における物語性(1章、2章のまとめ)

 

 1−3でバフチンのポリフォニー小説において物語が進行するのは、ポリフォニックに存在する登場人物同士の対話によると指摘した。また一方で、映画における物語性を理解するために2−1ではロトマンによる映画の物語性の解釈をとりあげた。ロトマンによれば、映画において個々のショット、シーンは個別的に存在している。この個々のショット、シーンとをつなげ、そこに因果的関係性を見出すのは観客自身の手による。すなわち映画における物語性は観客と作品の相互関係性によって生じるのだということができる。バフチンのポリフォニー小説についても同様に、作品と読者との間に対話的関係が生じ、それが小説の物語の因果的関係性を構築していくということができる。

 そして映画においてショットとショットとをつなげ、そこに生まれる因果的関係性を理論化したものとしてロトマンはエイゼンシュテインのモンタージュ論を挙げた。ロトマンにしたがえば、バフチンのポリフォニー論、対話論とエイゼンシュテインのモンタージュ論は非常に類似しているといえる。

 エイゼンシュテインはまた映画のみならず、文学作品におけるモンタージュ的構造にも注目していた(2−2−2)。すなわち文学作品におけるバフチンのポリフォニー的要素に対し、エイゼンシュテインはそれをモンタージュ的であるとした。エイゼンシュテインがこのポリフォニー的要素に注目したのは、バッハの音楽における、本来の意味での多声楽(ポリフォニー)への熱狂からである。バフチンが音楽用語であるポリフォニーを文学へ導入したのと同様に、エイゼンシュテインもまた音楽的ポリフォニーを映画へと導入したのであり、このことはバフチンとエイゼンシュテインの理論の影響関係を説明するものではない。2−2−2で触れたように、エイゼンシュテインはトルストイの小説の中に「主題の二部合唱及び複雑な対位法」という、バフチンのいうポリフォニックな要素を見出しているが、バフチンはトルストイの小説を完全なモノフォニーであるとした(1−1)。またエイゼンシュテインの「和声的」モンタージュは、単一の主題の内に含まれつつも個別的に活動する要素が存在するという、バフチンの完全なるポリフォニーと反するエイゼンシュテイン独自の概念である(2−2−3)。バフチンのポリフォニー論、対話論とエイゼンシュテインのモンタージュ論は非常に類似していると先に述べたが、これらは本質的には全く別個の理論であるがゆえに、以上のような相違点も存在している。

 バフチンとエイゼンシュテインの理論の関係性をより深く考察するために、第4章ではモンタージュ論にのっとって実際に制作された、エイゼンシュテインの映画作品をとりあげる。

 

 

4.映画『メキシコ万歳!』におけるカーニバル的要素

 

4−1.内的独白への関心から『メキシコ万歳!』に至るまで

 

1925年の映画『戦艦ポチョムキン』(Броненосец«Потёмкин»)によってエイゼンシュテインは世界に衝撃を与えた。当時のエイゼンシュテインはJ.ジョイスの『ユリシーズ』(Ulysses,1922年)から大きな刺激を受けていた。登場人物の内的独白というこの小説の革新的な構成に興味をもった彼は、ジョイスに映画化の話を打診するため、自らジョイスのもとを訪れる。結局映画化には至らなかったものの、内的独白に対する関心が薄れることはなかった。

1926年にアメリカ初公開となる『戦艦ポチョムキン』の上映がニューヨークで行われた後、彼の名はアメリカの映画産業に知れわたることとなった。そしてハリウッドではいくつかのスタジオがエイゼンシュテインを呼び寄せようと考え始める。エイゼンシュテインにとっても、ソ連にはない技術設備を持ち、すでにトーキー映画を可能としている映画産業の世界的中心地からのオファーは願ってもないチャンスだった。1930年にエイゼンシュテインは映画製作の要請を受ける。彼に課せられたのはT.ドライザーの小説『アメリカの悲劇』(An American Tragedy,1948年)の映画化だった。エイゼンシュテインはこの小説の映画化に際し、内的独白をその中心構成にするシナリオを書き上げた。主人公クライドは金持ちの令嬢シンドラを手に入れるため、妻ロバータの殺害を決意する。しかし妻を殺そうとした瞬間、クライドに2つの声が聞こえ出す。一つはシンドラと上流社会での生活を手に入れたいという願望が発す「殺せ!殺せ!」という声であり、もう一つは恐怖心や妻への同情が発す「殺すな!殺すな!」という声である。この2つの声がもたらす内面的葛藤がこのシナリオの中心的テーマであった。

しかし、クライドが起こした殺人そのものは悲劇には違いないが、本当の悲劇は彼を殺人に導いた社会的構造そのものにあるとするエイゼンシュテインの脚本は、資本主義社会を攻撃するものとしてパラマウント側から却下された。エイゼンシュテインは共産主義のプロパガンダ映画をつくろうとしているという疑惑が表面化し、スタジオには抗議の電話が殺到した。エイゼンシュテインは多くの脅迫に直面し、結局パラマウント社との契約は破棄され、彼は帰国を余儀なくされる。しかしエイゼンシュテインは何も撮らないで帰国することを自らに許さなかった。そこで彼は以前から興味をもっていた国メキシコを舞台に映画を撮ることを希望し、社会主義者のシンクレア夫妻が金銭面での支援をすることが決定した。

 

4−2.映画『メキシコ万歳!』

 

 こうして映画の製作が決定し、エイゼンシュテインはシナリオを完成させ、撮影も順調に進んでいた。しかし製作途中で製作資金と製作日数がシンクレアとの契約条件を超過してしまう。シンクレアは不信感をつのらせ、1932年には製作が打ち切られ、ラッシュフィルムはすべてハリウッドのシンクレアのもとに残された。エイゼンシュテインは帰国後ラッシュフィルムをモスクワに送るよう依頼したがそれは叶わなかった。フィルムがモスクワに返還されたのは1972年のことである。むろんすでにエイゼンシュテインは亡くなっていた。当時助監督を務めたG.アレクサンドロフは、ソ連に帰国した後エイゼンシュテインによって書かれたシナリオの第二稿をもとに、そのラッシュフィルムを編集した。撮影から47年、エイゼンシュテイン没後30年が経過していた。それがこんにち我々が見ることのできる映画『メキシコ万歳!』(Да здравствует Мексика!)である。

 しかしすでに故人となっているエイゼンシュテインの感情や思想を、第三者が忠実に表現することは不可能である。ましてやエイゼンシュテインはモンタージュに重点をおいた人物であった。また、そもそもエイゼンシュテインによって書かれたシナリオはシンクレアとメキシコ政府の検閲を考慮して書かれたものであり[56]、アレクサンドロフの編集はそのシナリオにそって、たんにカットをつなぎ合わせたものにすぎない。しかし我々はエイゼンシュテインが残したラッシュフィルム、シナリオ、書簡、回想記、その他多くのエッセイから、彼が撮ろうとした映画のおおまかな全景を知ることができる。

 『メキシコ万歳!』ではプロローグとエピローグ、そして4つの物語がオムニバス方式で展開される。第1の物語「サンドゥンガ」、第2の物語「マゲイ」、第3の物語「フィエスタ」[57]、第4の物語「ソルダデーラ」(未撮影)である。

 

4−2−1.エピローグのあらすじ

 

 もっとも注目したいのはエピローグの部分である。ここでは毎年11月1日、2日に行われ、今日なお続けられている死者の日の祭りを映し出す。エイゼンシュテインがメキシコで映画を撮ろうと決意したのは、そこに独自な死者の日の祭りが存在したからであった[58]。したがって死者の日のカーニバルを中心に『メキシコ万歳!』を読み解くことは、エイゼンシュテインの意図を読み解く上で有効だろう。

エイゼンシュテインの脚本など[59]から、エピローグに何らかのストーリー性を見出すことは困難である。フィルムに写っているのはどくろの仮面をつけた人びとが陽気に踊っている姿である。そこではあらゆるものがどくろで覆われている。さまざまなどくろが描かれたポスター・新聞、どくろ型の酒宴のグラス、どくろで飾られた観覧車・空中ブランコ、チョコレートの棺に入ったどくろ、どくろ型をした砂糖菓子、子供が手にしているおもちゃまでもがどくろの形をしている。その中で、すべての人びとが笑顔のうえにどくろの仮面をつけて踊る。その踊りの輪の中には、「マゲイ」のエピソードに登場した屋敷の主、恋人を殺された娘、「フィエスタ」のマタドールなど、第1から第4までのエピソードで登場した人物と同じ衣装をつけた人物たちがいる。彼らをエイゼンシュテインは「映画のなかで生の原理を確認している・・・<肯定的な主人公たち>」[60]と呼んでいる。彼らは理想を実現するために闘い、非業の死をとげた人物たちである。彼らのまわりにはスペインの祝祭日の場面で登場したような司教の冠をかぶった者、金色の三角帽子をかぶった将軍、光るシルクハットをかぶった大統領と、彼を警備する警官が笑ったどくろの仮面をつけている。カーニバルは絶頂に達し、仮面が飛び散る。仮面は「爆笑の嵐によって吹きはらわれ」[61]、陽気に笑った主人公たちの顔が現れる。そして貴婦人も司教も将軍も、陽気な身振りで仮面をはずす。しかしそこに現れるのは本物のどくろであり、飾りのついたフロックコートのすきまからは肋骨が見える。さらにもうひとつの仮面がはずされる。どくろの砂糖菓子にかぶりついていた少年が、笑顔でカメラを見る。

 

4−2−2.死者の日に対するエイゼンシュテインの関心

 

 死者の日は、死んだ人びとが現世へ戻ってくる日だとされている。メキシコでは毎年死者の日が近づくと、街じゅうがどくろであふれかえる。どくろをモチーフにしたポスターや、どくろの模型や、そして死者の日にかかせない伝統的なものはどくろをかたどった砂糖菓子だという。人びとは死者たちをもてなし、祭壇にはさまざまなものが捧げられる。そして祭りが終わると、死者たちは彼らの世界に帰っていく。

 エイゼンシュテインが死者の日に惹かれた理由は何か。それは生と死のたわむれが死者の日には存在するからであった。『メキシコ万歳!』のプロローグにでてくるマヤ族の葬式とエピローグの死者の日は対比的に描かれている。エイゼンシュテインはシナリオに、葬式に参列している人びとの顔は、周りに立っている石像の顔に似ていると書いている。そして実際に撮影されたフィルムでは、その石像と人間の顔がオーバーラップする。石像のように血の気のない人びとの顔。このシーンは人びとが「死―つまり人間の生物的、肉体的な終焉―の思想に完全に盲従するイメージ」[62]によって描かれている。それに対し、エピローグではみながどくろの仮面をつけ、陽気に踊る。民衆は死を笑っている。エピローグにおいて唯一あらわれる死のイメージは、貴婦人や司教や将軍の、すなわち「社会的に死んだ支配階級の死骸」[63]である。そしてどくろのお菓子を食べている少年は、第4のエピソードで母の手に抱かれていた子であり[64]、彼の周りには第1から第4までのエピソードにおいて登場した人物がいる。エピローグにおいてエイゼンシュテインは生の連続性を描いている。

 メキシコの死者の日においてエイゼンシュテインは死を笑う民衆、生の連続性、社会的ヒエラルヒーの転倒を描いている。これは『メキシコ万歳!』全体を貫いて存在する要素である。

 

4−3.バフチンによるカーニバル論

 

本節ではバフチンのカーニバル論についての考察を行う。『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』(Творчество Франсуа Рабле и народная культура средневековья и ренессанса1965年)においてその概念が詳細に考察されたカーニバル(карнавал)はバフチンを理解する上で欠かせない概念であり、映画『メキシコ万歳!』において表現されている思想と類似した点をもっている。

カーニバルとはその言葉の通り、四旬節の前に行われる謝肉祭であり、バフチンの定義によれば「カーニバルタイプの様々な祝祭、儀式、様式」[65]の総称である。カーニバルにおいては「自由で無遠慮な人間同士の接触」「常軌の逸脱」「ちぐはぐな組み合わせ」「卑俗化」という独特な4つのカテゴリーが存在し[66]、人びとは陽気などんちゃん騒ぎをする。    

第1のカテゴリー「自由で無遠慮な人間同士の接触」では、人びとの通常の生活、すなわちカーニバル外での生活を規定していた秩序や法、社会的身分などが取り払われる。したがって社会のヒエラルヒー構造が破壊され、それに付随する恭順、畏敬、尊敬の念や不平等なども取り払われることになる。これがカーニバルにおける非常に重要な要素である。

2のカテゴリー「常軌の逸脱」では、第1のカテゴリーでなされた社会のヒエラルヒ−構造の破壊により、カーニバル外の世界ではありえない人間同士の新しい相関関係が生じる。これはカーニバル外の生活からみればまさに常軌を逸脱した関係だということができる。

第3のカテゴリー「ちぐはぐな組み合わせ」では、ヒエラルヒ−構造のもとでそれまで表現ができなかった思想や価値観などが、ヒエラルヒ−の破壊により表現が可能となる。その結果、様様な思想や価値観が入り乱れ、そこでは当然対極的な思想が同時に存在することとなるが、「自由で無遠慮な人間同士の接触」のなかでそれは許容される。むしろそれは積極的に容認され、カーニバルでは神聖なものと冒瀆的なもの、高貴なものと低俗なもの、賢いものと愚かなものなど、あらゆる対極的価値観が接近し、結び付けられる。

第4のカテゴリー「卑俗化」では、カーニバル流の転倒が行われる。神聖なものを冒瀆し、高貴なものを低俗化する。

バフチンがこれらのカテゴリーにおいて強調するのは、カーニバルとは抽象的な思想ではなく、具体的・経験的な思想であるという点である。カーニバルとはそもそも、フットライトも劇場も観客と登場人物との区別も存在しない見せ物であり、そこではすべての人が主人公である。しかしその主人公はカーニバルにおいて演じるのではなく、観賞するのでもなく、カーニバル的生を生きる、というのがバフチンのカーニバルに対する基本的なスタンスである。カーニバルとはただ論じられるものではなく、生きられるものでなくてはならない。

バフチンは実際のカーニバルの典型として、古代ローマの農神祭(サトゥルナリア)、ヨーロッパのカーニバル、中世の愚者の祭りを挙げる。愚者の祭りにおいて行われることは、カーニバルの王の戴冠(したがってその王には愚者や道化などが選ばれる)とそれに続く奪冠(カーニバルが終われば彼らは王の座を追われる)である。この戴冠と奪冠の儀式は、カーニバル的世界観による転倒の儀式である。「カーニバルとは万物を破壊しまた再生させる時間に捧げられた祭りである―とその根本思想を表現することができる」[67]、すなわち死と再生がカーニバルの根本思想となっている。

 

4−4.死に対するカーニバル的民衆の笑い

 

4−4−1.民衆と広場

 

 すべての人びとがカーニバルの主人公であるとバフチンがいうとき、彼の視線の先にいたのはヒエラルヒーの頂点に立つ人びとではなく、むしろ民衆であった。それというのもそもそもカーニバル劇の舞台は広場であり、フットライトも劇場も必要としないものであるため、空間的な制限を受けることがない。その広場で行われるカーニバルは「全民衆のための普遍的な催し」[68]であるとバフチンは断言する。そうして広場には全民衆性という象徴的意味が付加される。バフチンはカーニバル化された文学[69]における広場をプロットの展開される空間と定め、現実の広場にカーニバルの全民衆性が現れるのと同様に、カーニバル化された文学における広場(すなわちプロットの展開される空間)にも二層構造をした両義的な空間が現れるとした。この両義性の観念は、バフチンによる理論の根幹をなすもののように感じられる。バフチンのグロテスク・リアリズムという概念もまた身体の両面価値性に注目する。

 

4−4−2.グロテスク・リアリズム(гротескный реализм

 

バフチンのグロテスク・リアリズムという概念はラブレー論を中心にして述べられている。「ラブレーはわが国において知られること最も少なく、研究も最も少なければ、理解も評価も最も低い」[70]が、「最も民衆的である」[71]とバフチンはいう。ラブレーの非文学性は時代によって内容こそ変わるものの、普遍的な文学性の規律や規範から逸脱しているところにある。確かにラブレーの『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』(Gargantua et  Pantagruel,1532-1564)を紐解けば、そこに出てくるのは不気味な臓物料理やスカトロジーである。「昔も今も、ラブレーに嫌悪を感じる人は多い」[72]が、バフチンの指摘によれば、民衆の笑いという観点を持ち出すことによって、それまで研究が遅れていた文学の分野における笑いの文化を解明する鍵になる。その笑いの文化のイメージ・システムとして、バフチンの挙げるのがグロテスク・リアリズムである。

バフチンはまず、生活の物質的・肉体的イメージの近代的解釈を否定する。「ここ何世紀かの(特に19世紀)世界観の中で、《物質性》、《肉体》、《肉の生活》(飲み食い、排泄など)が持っている狭められ修正された意味が、物質的・肉体的イメージに附与されている」[73]。しかしグロテスク・リアリズムにおいては物質的・肉体的な力がきわめて肯定的な力になり、全民衆的な力となる。すなわち身体性を再評価することであり、身体の両面価値性を認めることである。

そして「グロテスク・リアリズムの主要な特質は、格下げ(снижение)であって、高位のもの、精神的、理想的、抽象的なものをすべて物質的・肉体的次元へと移行させることである。この大地と肉の次元は切り離し難い一つの統一体となっている」[74]とバフチンはいい、その例として、聖書や福音書などの聖典から適当な部分を抜き出し、それを物質的・肉体的におとしめ、地上的なものに改作した中世のラテン語のパロディや、セルバンテスの『ドン・キホーテ』(Don Quixote de la Mancha,1605年)における、騎士道的イデオロギーと儀礼をおとしめ、地上的なものにする場面などを挙げる。すなわち、高位のもの、精神的、理想的、抽象的なものの、生身の身体、大地の次元への格下げである。

この格下げという概念において注意せねばならないのは、グロテスク・リアリズムにおいてこの概念は相対的な性質を持ってはいないということである。すなわちこの概念には《上》とは天であり、《下》とは大地であるという絶対的で厳密な地形学(トポグラフィー)的な意味が働いている。

 

大地そのものは吸いこんでしまう原理(墓、胎内)であり、生み出し、再生させる 理(母の懐)である。宇宙的面から見れば、上と下はこのようなトポグラフィカルな意味を持っている。本来の内的側面においては、宇宙的側面とはっきりと区別されるところはないのであるが、上は顔(頭)であり、下とは生殖器官、腹、尻である。上と下が有するこの絶対的なトポグラフィカルな意味合いを、中世のパロディも含めたグロテスク・リアリズムが活用しているのである。格下げとはこの際地上的なものに向かうこと、一切を飲みこみ、それと同時に生み出す原理としての大地と一体化させることを意味する。つまり格下げ・下落しつつ、埋葬し、同時に播種し、殺すのであるが、それは新たにより良く大きな形で生むためなのである。下落とは同じく肉体の下層の部分の生活、腹の生活、生殖器官の生活に関与することであって、それ故に交接、受胎、妊娠、出産というような行為に関与することである。下落は新たな誕生のために肉の墓を掘るのである。それ故、破壊的、否定的な意味だけではなく、積極的、再生的意味を持っている。下落・格下げは両面価値的であって否定すると同時に肯定する。投げ落とすのは、単に下方の無・絶対的な破壊にむかって落とすのではない、生殖力のある下層へと、受胎し新たに誕生し、豊かに成育する下層へと、投げ下ろすことに他ならぬ。これ以外の下層をグロテスク・リアリズムは知らない。この下層部分は生み出す大地であり、胎内である。下層は常に孕むものである。[75]

 

鮮やかで豪華な食事も人間が食べれば排泄物に変わるが、しかしこの下落なしで人間は生きられない。格下げによって、物質性や人間の肉体、飲み食いや排泄などの肉の生活、生殖行為が肯定的な意味を帯びてくる。これらは《下》に位置するものであり、新たな生命が誕生する基盤となるものである。《下》へ投げ下ろすことは、生殖力のある下層へと、受胎し新たに誕生し、豊かに成育する下層へと、投げ下ろすことである、すなわち死は生のはじまりでもあるということができる。グロテスク・リアリズムをバフチンは「生に対する独特な美的概念」[76]と呼んだが、死すらも肯定するこの概念の特質をよくあらわしているように感じられる。

 

4−4−3.民衆の笑いとグロテスク・リアリズム

 

 バフチンはラブレーの作品を、笑いの文化を理解するためにとりあげた。バフチンにとって笑いの要素は非常に大きなものである。ではカーニバルにおいて笑いはどのようにあらわれるのか。

 

カーニバルの笑いはまず第1に全民衆的である。(この全民衆性は既述したごとく、カーニバルの本性そのものの一部である。)すべての人が笑うのだ―・・・(中略)・・・第2に、この笑いは普遍的である。万物、万人が対象となる。(カーニバルの参加者もやはり対象となる。)全世界がおかしな姿になり、その滑稽な様相において、その陽気な相対性において全世界が感得され理解されるのである。第3に、そして最後に、この笑いは両面的価値を持つ。陽気で心躍るものであるが、同時に嘲笑し笑殺する。否定し確認し、埋葬し再生させる。これがカーニバルの笑いである。[77]

 

バフチンは笑いの文化のイメージ・システムとしてグロテスク・リアリズムを挙げた。グロテスク・リアリズムの主体となるのは全民衆である。したがって民衆はグロテスクな肉体を笑う。しかしその笑いは両面的価値を持つ。否定しながらも肯定する。すなわち一見すると否定しているように見える笑いが、肯定につながっている。

 

4−5.『メキシコ万歳!』とバフチンによるカーニバル論(4章のまとめ)

 

 バフチンもエイゼンシュテインも、内的独白すなわち人間の内部における葛藤に対し関心を抱いていた。バフチンはこの内的独白を人間の内部における対話(内言)であるとし、内言は外言(自分以外の何者かとの対話)と本質的には違わないとした(1−2−1)。一方エイゼンシュテインは、実現はしなかったものの、内的独白を映画という媒介を用いて表現しようという、革新的な試みを行った(4−1)。

 また『メキシコ万歳!』において表現されている死を笑う民衆、生の連続性、社会的ヒエラルヒーの転倒は、バフチンのカーニバル論と重なっている。バフチンもエイゼンシュテインも、死を笑いによって肯定しようとした。しかしバフチンは実際に行われているカーニバルとラブレーの作品からカーニバル論を展開し、一方エイゼンシュテインはメキシコで行われる独特な死者の日の祭りからヒントを得て『メキシコ万歳!』を構想したという点では相違点がある。

 

 

5.結論

 

バフチンとエイゼンシュテインの理論の間には多くの類似点が見られる。登場人物同士の葛藤(対話)によって成立するバフチンのポリフォニーと、有機的なショット同士の葛藤・衝突によって成立するエイゼンシュテインのモンタージュ。内的独白に対する関心。バフチンのカーニバル論と、エイゼンシュテインの映画『メキシコ万歳!』におけるカーニバル的要素。しかしこれらの類似点はバフチンとエイゼンシュテインとの思想の影響関係を説明するものではない。ポリフォニーとモンタージュの関していえば、両者とも音楽的ポリフォニーへの関心から出発して、一方は小説論へ、また他方は映画論へと発展したのであり、またカ−ニバルについていえば、両者とも実際に行われているカーニバルを出発点にして、一方はラブレー論とともに独自のカーニバル論をつくりあげ、他方は独特な死者の日の祭りに刺激を受け、それを映画において表現しようと試みた。エイゼンシュテインは中国の叙情詩とオウィディウスの物語とを比較し、「両者とも、同一の出発点から生まれている。そして、両者とも、類似の志向を具現化している。しかし、両者の構造、性格及び方法は、どちらもそれぞれに素晴らしいとはいえ、非常に深い相違がある。その理由は、まず第一に、両者とも同じように、それぞれの民族の民族性及び文化的独自性から生まれ育ってきているからである」[78]と指摘しているが、この指摘は彼自身とバフチンの理論との関係性についても言い当てている。

我々はバフチンとエイゼンシュテインの理論の類似性を指摘したが、彼らの類似性の由来するものは何であろうか。それは映画における古典を破壊しようとするエイゼンシュテインと、人びとを縛り付けている既存のあらゆる構造をカーニバル論によって転覆・破壊しようとするバフチンに共通する革新性である。それにもかかわらず、本質として彼らの理論は全く別個のものである。バフチンはあくまで哲学者であり、解釈者であった。他方エイゼンシュテインは創造者であり、芸術家であった。しかし異質の人物であるがゆえに成立する対話の重要性を、我々は指摘することができる。

異質ではあるが類似性をもった二人の人間の対話は新しい世界をうみだす。現代社会を読み解く際に明らかにされる、バフチン理論の射程の広さ、切り口の鋭さは特筆に値する。しかしバフチンによる理論を映画理論へ「応用」するという、応用する側と応用される側、すなわち被動・能動の関係性が必然的に生ずる場所へバフチンを引き込むことは誤りである。バフチンは対等な人物同士による対話を重視し、人びとを対等な立場から遠ざける既存の社会的制度・秩序などの破壊・転覆をカーニバル論によって理論化した。なにものにも縛られないバフチン理論の自由さは、彼の理論を映画理論へと持ち込むことを可能にする。しかしバフチン理論はその自由さゆえに、映画という枠組みにはとらえきれない。

バフチン理論にとって重要なのは、類似性ではなくむしろ相違性である。バフチン理論の特質である射程の広さゆえに、バフチンがまったく関係しない分野にすらバフチン理論との類似性を見出すことは可能である。しかし類似性のうちにバフチン的対話は存在しない。エイゼンシュテインによる映画『メキシコ万歳!』を中心とする彼の映画理論と、バフチンによるポリフォニー論、カーニバル論との間には類似点と同様に、多くの相違点が存在する。だからこそバフチンのいう異質なもの同士の対等な対話が成立する。「応用」の関係ではなく、「対話」の関係に至ってはじめてバフチンとエイゼンシュテインの理論の関係性は大きな意味を帯びる。後世に生きる我々はそこから映像の意味をさらに広げ、知的世界をより豊かにする。

 

 

 

<参考文献>

 

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<参考webサイト>

 

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[1] 桑野隆『バフチン新版―〈対話〉そして〈解放の笑い〉』岩波書店、2002年、224226頁または岩本憲児編『エイゼンシュテイン解読』フィルムアート社、1986年、317頁参照。

[2] 西周成「物語映画における意味形成的構造としてのポリフォニー性」参照。http://www.asahi-net.or.jp/~wy7s-ns/polyphony2.htm (20058月取得)

[3] V.イヴァノフ「文化の記号論とバフチン(上)」『現代思想』北岡誠司訳、青土社、19792月号、134頁。

[4] R.スタム『転倒させる快楽―バフチン、文化批評、映画』浅野敏夫訳、法政大学出版局、2002年 参照。

[5] М.М.Бахтин,Проблемы поэтики Достоевского,Изд.3-ье,Москва,1972,с.3[M.バフチン『ドストエフスキーの詩学』望月哲男・鈴木淳一訳、筑摩書房、1995年、9

[6] там же,c.9-10.[同上18

[7] там же,c.7.[同上15

[8] там же,c.8.[同上1617

[9] там же,c.10.[同上18

[10] там же,c.57-60.[同上6769

[11] М.М.Бахтин,Проблемы поэтики Достоевского,Изд.3-ье,Москва,1972,с.95.[M.バフチン『ドストエフスキーの詩学』望月哲男・鈴木淳一訳、筑摩書房、1995年、117

[12] 桑野隆『バフチン新版〈対話〉そして〈解放の笑い〉』岩波書店、2002年、124頁。

[13] М.М.Бахтин,Проблемы поэтики Достоевского,Изд.3-ье,Москва,1972,с.3637[M.バフチン『ドストエフスキーの詩学』望月哲男・鈴木淳一訳、筑摩書房、1995年、4546

[14] там же,c.29.[同上37

[15]『ドストエフスキー全集』第27巻、65M.バフチン『ドストエフスキーの詩学』望月哲男・鈴木淳一訳、筑摩書房、1995年、125頁より再引用)

[16] М.М.Бахтин,Проблемы поэтики Достоевского,Изд.3-ье,Москва,1972,c.102-107[M.バフチン『ドストエフスキーの詩学』望月哲男・鈴木淳一訳、筑摩書房、1995年、125129頁]

[17] там же,c.104.同上127-128頁]

[18] М.М.Бахтин,Проблемы поэтики Достоевского,Изд.3-ье,Москва,1972,с.107[M.バフチン『ドストエフスキーの詩学』望月哲男・鈴木淳一訳、筑摩書房、1995年、129-130頁]

[19] там же,c.107-108.[同上130

[20] .ドストエフスキー『罪と罰』上巻、工藤精一郎訳、新潮社、1998年、437439頁。

[21] М.М.Бахтин,Из записей 1970-1971 годов,Эстетика словесного творчества,Изд.2-ое,Москва,Искусство,1986,с. 361.[M.バフチン「19701971年の覚書」『ことば 対話 テキスト』新谷敬三郎他訳、ミハイル・バフチン著作集8巻、新時代社、1988年、290

[22] М.М.Бахтин,Проблемы поэтики Достоевского,Изд.3-ье,Москва,1972,с.16[M.バフチン『ドストエフスキーの詩学』望月哲男・鈴木淳一訳、筑摩書房、1995年、24

[23] М.М.Бахтин,План доработки книги «проблемы поэтики Достоевского» ,Контекст-1976,Москва,Наука,1977,с.306.M.バフチン「ドストエフスキー論の改稿によせて」『ことば 対話 テキスト』新谷敬三郎他訳、ミハイル・バフチン著作集8巻、新時代社、1988年、261

[24] там же,c.307.[同上262

[25] M.バフチン『言語と文化の記号論―マルクス主義と言語の哲学』北岡誠司訳、ミハイル・バフチン著作集4巻、新時代社、1980年、83頁。

[26] .ドストエフスキー『罪と罰』上巻、工藤精一郎訳、新潮社、1998年、7879頁。

[27] М.М.Бахтин,Проблемы поэтики Достоевского,Изд.3-ье,Москва,1972,с.128[M.バフチン『ドストエフスキーの詩学』望月哲男・鈴木淳一訳、筑摩書房、1995年、153頁]

[28] .メドヴェージェフ、V. ヴォローシノフ「フロイト主義」『フロイト主義、文芸学の形式的方法 他』磯谷孝・佐々木寛訳、ミハイル・バフチン全著作第2巻、水声社、2005年、119頁。

[29] Ю.М.Лотман (2000)Природа киноповествования,”Семиотикал кино и проблемы киноэстетики, http://vivovoco.nns.ru/VV/PAPERS/LOTMAN/CINEMA.HTM2005年8月取得)

[30] Yu.ロトマン「映画の記号論と映画美学の諸問題」『映画の記号論』大石雅彦訳、テオリア叢書、平凡社、1987年、50頁。

[31] 同上50頁。

[32] Ю.М.Лотман (2000)Природа киноповествования,”Семиотикал кино и проблемы киноэстетики, http://vivovoco.nns.ru/VV/PAPERS/LOTMAN/CINEMA.HTM2005月取得

[33] 同上。

[34] Ю.М.Лотман (2000)Природа киноповествования,”Семиотикал кино и проблемы киноэстетики, http://vivovoco.nns.ru/VV/PAPERS/LOTMAN/CINEMA.HTM2005年8月取得)

[35] Yu.ロトマン「映画の記号論と映画美学の諸問題」『映画の記号論』大石雅彦訳、平凡社、1987年、50頁。

[36] 同上51頁。

[37] Yu.ロトマン「映画の記号論と映画美学の諸問題」『映画の記号論』大石雅彦訳、平凡社、1987年、52頁。

[38] S.エイゼンシュテイン「ワン・ショットの画面の外で」『星のかなたに』エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳、エイゼンシュテイン全集6、キネマ旬報社、1980年、63頁。

[39] S.エイゼンシュテイン「ワン・ショットの画面の外で」『星のかなたに』エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳、エイゼンシュテイン全集6、キネマ旬報社、1980年、68頁。

[40] 同上70頁。

[41] 同上70頁。

[42] S.エイゼンシュテイン「モンタージュ1938年」『モンタージュ』エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳、エイゼンシュテイン全集7、キネマ旬報社、1981年、257頁。

[43] S.エイゼンシュテイン「ワン・ショットの画面の外で」『星のかなたに』エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳、エイゼンシュテイン全集6、キネマ旬報社、1980年、7071頁。

[44] 同上7071頁。

[45] 同上71頁。

[46] S.エイゼンシュテイン「無関心な自然でなく」『無関心な自然でなく/方法』エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳、エイゼンシュテイン全集9、キネマ旬報社、1993年、52頁。

[47] 同上54頁。

[48]S.エイゼンシュテイン「無関心な自然でなく」『無関心な自然でなく/方法』エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳、エイゼンシュテイン全集9、キネマ旬報社、1993年、54頁。

[49] 同上55頁。

[50] S.エイゼンシュテイン「無関心な自然でなく」『無関心な自然でなく/方法』エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳、エイゼンシュテイン全集9、キネマ旬報社、1993年、76頁。

[51] 世界初のトーキー長編映画『ジャズ・シンガー(The Jazz Singer』が公開されたのは1927年である。

[52] S.エイゼンシュテイン「無関心な自然でなく」『無関心な自然でなく/方法』エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳、エイゼンシュテイン全集9、キネマ旬報社、1993年、9頁。

[53] 同上10頁。

[54] 同上76頁。

[55] S.エイゼンシュテイン「無関心な自然でなく」『無関心な自然でなく/方法』エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳、エイゼンシュテイン全集9、キネマ旬報社、1993年、77頁。

[56] 19311月から同11月にかけて親しい知人であるレフ・イサアコヴィチに対し書かれた書簡のなかでエイゼンシュテインは「<詳細なシナリオ>は・・・決して書きあげられないでしょう。・・・それは頭のなかだけにあって、記憶しているだけです」と述べている。 S.エイゼンシュテイン『メキシコ万歳!−未完の映画シンフォニー』中本信幸訳、インディアス群書第10巻、現代企画社、1986年、70頁 参照。

[57] アレクサンドロフによる編集では「マゲイ」と「フィエスタ」の順序が入れ替わっている。

[58] S.エイゼンシュテイン『メキシコ万歳!−未完の映画シンフォニー』中本信幸訳、インディアス群書第10巻、現代企画社、1986年、151頁 参照。

[59] S.エイゼンシュテイン「『メキシコ万歳!』第1稿 1931」「『メキシコ万歳!』第2稿 1932」「シナリオ『メキシコ万歳!』へのあとがき」「メキシコとの出会い」『メキシコ万歳!−未完の映画シンフォニー』中本信幸訳、インディアス群書第10巻、現代企画社、1986年 参照。

[60] S.エイゼンシュテイン「メキシコの死者の日」『メキシコ万歳!−未完の映画シンフォニー』中本信幸訳、インディアス群書第10巻、現代企画社、1986年、157頁。

[61] S.エイゼンシュテイン「メキシコの死者の日」『メキシコ万歳!−未完の映画シンフォニー』中本信幸訳、インディアス群書第10巻、現代企画社、1986年、156頁。

[62] S.エイゼンシュテイン「無関心な自然でなく」『無関心な自然でなく/方法』エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳、エイゼンシュテイン全集9、キネマ旬報社、1993年、52頁。

[63]S.エイゼンシュテイン「シナリオ『メキシコ万歳!』へのあとがき」『メキシコ万歳!−未完の映画シンフォニー』中本信幸訳、インディアス群書第10巻、現代企画社、1986年、132頁。

[64] 同上133頁。

[65] М.М.Бахтин,Проблемы поэтики Достоевского,Изд.3-ье,Москва,1972,с.206.[M.バフチン『ドストエフスキーの詩学』望月哲男・鈴木淳一訳、筑摩書房、1995年、247頁]

[66] там же,c.208209.同上248250頁]

[67] М.М.Бахтин,Проблемы поэтики Достоевского,Изд.3-ье,Москва,1972,с.210.[M.バフチン『ドストエフスキーの詩学』望月哲男・鈴木淳一訳、筑摩書房、1995年、251頁]

[68] там же,c.217.[同上259,с.217.

[69] バフチンはカーニバル言語を文学言語へと移しかえることを文学のカーニバル化とした。バフチンによれば、カーニバル言語とは大規模で複雑な大衆劇から個々のカーニバル的身振りに至るまでを含めた、あらゆる形のカーニバルを貫いているカーニバル的世界感覚を、あらゆる言語と同様に弁別的・分節的に表現するものである。М.М.Бахтин,Проблемы поэтики Достоевского,Изд.3-ье,Москва,1972,с.207.[M.バフチン『ドストエフスキーの詩学』望月哲男・鈴木淳一訳、筑摩書房、1995年、248頁]参照。

[70] М.М.Бахтин,Творчество Франсуа Рабле и народная культура средневековья и ренессанса,Художественная литература,Москва,1965,с.3.[M.バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』川端香男里訳、せりか書房、1980年、9

[71] там же,c.4.同上9頁]

[72] там же,c.5.同上10頁]

[73] там же,c.23.同上24頁]

[74] там же,c.25.同上24頁]

[75] М.М.Бахтин,Творчество Франсуа Рабле и народная культура средневековья и ренессанса,Художественная литература,Москва,1965,с.26.[M.バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』川端香男里訳、せりか書房、1980年、26

[76] М.М.Бахтин,Творчество Франсуа Рабле и народная культура средневековья и ренессанса,Художественная литература,Москва,1965,с.23.[M.バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』川端香男里訳、せりか書房、1980年、24

[77] там же,c.15.[同上18

[78] S.エイゼンシュテイン「無関心な自然でなく」『無関心な自然でなく方法』エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳、エイゼンシュテイン全集9、キネマ旬報社、1993年、50頁。