おろしゃ会会報 第13号その3

2006年

 

卒 業 論 文 特 集

 

 

 

 

エミール・ゾラ

『ボヌール・デ・ダム百貨店』に描かれた

フランス社会と女性

 

フランス学科2002年度入学

二井 沙知子

 

 

 

◆目次

 

◆序論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3

 

 

◆第一章 エミール・ゾラと19世紀フランス

 ◇第一節 産業革命期のフランスと市民社会の成立・・・・・・・・・・・・・・・4

 

 ◇第二節 ゾラが小説に描くフランス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6

 

 

◆第二章 百貨店の誕生と発展

 ◇第一節 消費社会の起源:百貨店・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11

 

 ◇第二節 『ボヌール・デ・ダム百貨店』に描かれた百貨店の商法・・・・・・・・16

 

 

◆第三章 百貨店と女性

 ◇第一節 百貨店で働く女性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21

 

 ◇第二節 消費者としての女性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27

 

 

◆結論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33

 

 

◆資料・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34

 

 

◆参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・38

 

◆序論

 

 19世紀後半という激動の時代を生きたエミール・ゾラÉmile Zola(1840-1902)にとって、この当時のフランスはどのように見えていたのだろうか。小説家であると同時にジャーナリストでもあったゾラは、この時代に何を見て、何を感じたのか。そして、その小説を通して、どのような思いを社会に伝えようとしたのだろうか。

準備、取材、資料調査をしてから小説を書くという執筆スタイルをとっていた、彼の作品には、ジャーナリストとしてのゾラの才能が活かされている。よって、彼の作品は逆に、社会を理解するための資料として利用できるのではないだろうか。本論文では、彼の代表作である『ルーゴン・マッカール叢書』Les Rougon-Macquart (1870-1893, 全20巻)の、第11巻目にあたる『ボヌール・デ・ダム百貨店』Au Bonheur des dames (1883)という一作品に焦点を当て、当時の女性の生き方について、また、百貨店の発展が社会にもたらしたものについて、分析していきたい。そして、自転車や写真など、当時目新しかったものに興味を示し、印象派絵画にいち早く理解を示していたゾラは、新しい感覚の持ち主だったと考えられる。そんなゾラの考える「新しい女性像」というものについても、同時に追求していきたい。

 第一章第一節では、当時のフランスで起こった出来事を、ゾラの諸作品と照らし合わせながら見つめ、第二節では、彼の作品を代表する女性たちを中心に、その登場人物について分析する。第二章第一節では、現実の最初の百貨店といわれる、ボン・マルシェの発展の様子を探り、第二節では、『ボヌール・デ・ダム百貨店』という作品中で、どのように取材の成果が活かされているのか検討する。第三章では、従業員と顧客という二つの立場から、百貨店を取り巻く女性たちの様子を、作品中のエピソードに沿って取り上げる。そして、これらの章を通して明らかになっていく、ゾラの百貨店に対する思い、そして、彼が小説内で描こうとした女性について、結論で述べたい。

 

◆第一章 エミール・ゾラと19世紀フランス

 

◇第一節 産業革命期のフランスと市民社会の成立

 

 19世紀というのは、フランス社会が大きく変化した時期である。わずか100年の間に、第一帝政、王政復古、第二共和政、第二帝政、第三共和政と、めまぐるしく政治体制が変化した。このような時代の変化に伴って、物質的にも精神的にも近代化が進んでいった。鉄道網の発達に、ナポレオン三世の命による、セーヌ県知事ジョルジュ・オスマンのパリ大改造、普仏戦争での敗戦など、19世紀フランスは、まさに激動の時代にあった。文化面では、フェリー法の導入による初等教育改革がなされ、政教分離という新たな考えが登場した。そして、1848年には普通選挙制が導入される。普通選挙といっても、6ヶ月以上同一市町村に居住する、21歳以上の男性に投票権が与えられただけで、女性に参政権が認められるのは第二次世界大戦後である。しかし、民衆が公的な制度を通じて政治に参加できるようになったことは、この時代の大きな功績である。社会の実権は、大銀行家を中心とする上層ブルジョワジーによって握られるようになり、市民社会が成立する。また、自由や平等といった考えが広まり、市民蜂起やストライキもしばしば起こった。

ゾラは、このような社会の変化に敏感に反応し、それらを小説の題材として取り上げた。『ジェルミナール』Germinal1885)では炭鉱やストライキの様子が、『獣人』La Bête humaine(1890)では鉄道が描かれている。また、『獲物の分け前』La Curée(1871)の主人公アリスティッド・ルーゴンのモデルは、ジョルジュ・オスマンである。そして、第二章・第三章で詳しく分析していく『ボヌール・デ・ダム百貨店』は、その日本語訳のタイトルが示すように、百貨店を取り上げた作品なのだ。

百貨店が登場した時期が、第二帝政期(1852-1870)と重なっているのには理由がある。百貨店が開店した場所は、例外なく歩道を備えた広い通りである。また、広い通りには乗合馬車[1]が通っていた。こういった広い通りは、オスマン知事のパリ大改造の一環として、この時期に多数作られた。オスマンが、当時のフランス社会を悩ませていたコレラと、下層階級によるバリケードという病巣を取り除くために設計した、広い通りは、百貨店にとっては、乗合馬車に乗って遠方からやって来る客も呼び寄せることができる道具として、大いに役立ったのである。また、ガス灯の普及によって、営業時間の延長も可能になった。そして、産業革命による、綿・絹工業を中心とする繊維産業の発展も、百貨店の繁栄に一役買った。

産業革命を経て、十分な国力や技術を得たヨーロッパ諸国では、その国の威信を示すための、また各国の経済を刺激するための一大イヴェントとして、万国博覧会を開催するようになった。1851年にロンドンで、第一回が開催された万国博覧会は、第二帝政下のフランスでも、1855年と1867年に二度、パリで開催された。実は、この万国博覧会も、百貨店と関わりがあるのだ。第二章第一節で紹介する、ボン・マルシェの店主ブシコーは、テーマのある大売出しのことを「エクスポジシオン」[2]と呼んでいたし、1874年に新装開店したボン・マルシェには、1889年のパリ万博の際に、革命100周年を記念して建てられることになるエッフェル塔の設計者、ギュスターブ・エッフェルによって作られた、クリスタル・ホールが存在した。このクリスタル・ホールは、エッフェル塔と同じく、19世紀を象徴する「鉄」と「ガラス」で作られている。また、1900年に開催されたパリ万博では、「ボン・マルシェ館」という独自のパヴィリオンを建設し、フランス国内外にその名を誇示した[3]

こうした時代を象徴するものとして、百貨店が誕生し、発達していったと言っても過言ではない。百貨店の主な客層はブルジョワ夫人であったし、同一の商品には誰もが同じ値段を支払う「定価」には、平等精神が込められているといえよう。

では次に、ゾラが小説内に描いた、第二帝政下のフランス社会を見てみたい。

 

◇第二節 ゾラが小説に描くフランス

 

ゾラが小説の題材として取り上げたもの、それは19世紀の民衆の生活そのものである。『居酒屋』の「序」で、ゾラ本人が、「この作品は嘘をつかない。民衆のにおいがしみついている。民衆についての真実の書、民衆についてのはじめての小説である」[4]と述べている。すなわち、ゾラは、現実社会をありのままに描くことを目的とし、さらに、『ルーゴン・マッカール叢書』[5]の副題、「第二帝政下における一家族の自然的、社会的歴史」[6]が示しているように、時代と環境と遺伝によって、ある人物がどのような人生を送ることになるのかを述べることを目的としていたのである。この『ルーゴン・マッカール叢書』は、バルザックBalzac(1799-1850)の『人間喜劇』La Comédie humaineに着想を得ており、遺伝学を取り入れ、科学的実証方法で、第二帝政下のフランス社会を描きつくすことを目的としていた。

 主に労働者や農民など、社会の底辺にいる人々を主題としたため、ゾラの小説の登場人物の生活は、決して豊かなものではなく、また幸福とは言い難い。そして、彼の小説の主人公は、不幸な結末を迎えることがほとんどである。例えば、日本でよく読まれている『居酒屋』L’Assommoir1877)、『ナナ』Nana(1880)のヒロインは、共に死という結末を迎える。しかし、『ボヌール・デ・ダム百貨店』は例外で、ヒロインの結婚を匂わせる幸福な結末を迎える[7]。ここでは、ゾラの女性観について考えるため、『居酒屋』のヒロインであるジェルヴェーズ、『ナナ』のヒロインであるナナと、『ボヌール・デ・ダム百貨店』のヒロイン、ドゥニーズを比較する。

 まず、『居酒屋』のジェルヴェーズについて見てみたい。彼女は美しく優しい女性であるだけでなく、健気な女性でもある。それがよくわかる文をいくつか取り上げる。

 

  ジェルヴェーズは夜中の二時までランチエを待った[8]

  「だれかほかの女の人を見つけてちょうだい。ねえ、クーポーさん、私よりもきれいで、二人も子どもを連れていない女の人を。」[9]

 

  男[=クーポー]は、彼女[=ジェルヴェーズ]が身を粉にして働き、子どもの世話をし、夜は、あらゆる布をかきあつめて繕いをするのを見て、ずいぶん健気な女だと思った[10]

 

  界隈の人々は、ジェルヴェーズをとても親切な女だと思っていた[11]

 

このように、彼女は、いつ帰ってくるのかわからない男を真夜中まで待ち続け、自分に好意を示している男性には、彼のことを思って、自分のことを忘れさせようとする。また、周囲の人々の目にも、彼女は、「健気な女」として映っているのである。

 次に、ナナについて分析したい。彼女は、サロメやマノン・レスコーらと共に、「ファム・ファタル」femme fataleの一人であると見なされている。確かに彼女は、その美しさで、多くの男性を破滅へと導くが、それは娼婦という仕事のせいであり、恋をしているときのナナからは、ファム・ファタルの匂いはしない。さらに、彼女は、子ども思いである。また、ナナは、先程述べたジェルヴェーズの娘でもある。そのせいか、彼女もジェルヴェーズと同様、結婚すると相手に振り回されて、幸せな生活を長く続けることができないのだ。

 

ナナの一番の悩みは子どものルイゼであった。ルイゼは、ナナが16歳のときに産んだ子でランブイユの近くのある村に里子に出してあった。ルイゼを引き取るなら300フランよこせと里親が言ってきていた。この前ルイゼに会って以来、ナナは激しい母性愛のとりことなり、里親にお金を払って、いつでも好きなときに会いに行けるバティニョルにいる伯母のルラに子どもを預けようという計画が頭にこびりついてしまったのだが、それが実現できないので、ナナは失望していたのである[12]

彼女[=ナナ]は伯母にルイゼを連れてすぐに来て下さいと頼んだ。そこは坊やにとってもいいところに違いない。坊やと一緒に木陰でたくさん遊ぼう。パリからオルレアンに至る車中、急に母性愛の発作におそわれて、花と鳥との中で子どもと暮らすことばかり考え、目を潤ませながら、そんなことばかりを口走っていた[13]

 

一番困るのは、近頃フォンタンは一日中家を空けて、夜中にならないと帰ってこないことだった。[中略] ナナは、もしフォンタンを非難しようものなら二度と彼が帰って来ないのではないかと、そればかりを心配し、びくびくしながら機嫌をとり、すべてを大目に見ていた[14]

 

ナナは、事ある毎に、息子のことを思い浮かべ、母親としての側面を読者に見せる。また、ジェルヴェーズ同様、ナナも、夫が自分の元から離れていくことを恐れて、夫がなにをしていても大目に見てしまうのである。

 最後に、「ルーゴン・マッカール」家の血を引く者ではないが、『ボヌール・デ・ダム百貨店』のヒロイン、ドゥニーズについて紹介したい。彼女は人目を引くほどの美しさを持ってはいないが、店主ムーレを虜にしてしまう魅力を持った女性である。

 

  ムーレは女性に対する繊細な感覚から、この若い娘[=ドゥニーズ]には隠れた魅力、本人も気づいていない優美と慈愛に満ちた力が潜んでいるのを感じていた[15]

  いつも彼[=ムーレ]が思い出すのは、初めてボヌール・デ・ダム百貨店に来たときの彼女[=ドゥニーズ]であった。大きすぎる短靴に、粗末な黒い服といった、いでたちで、人見知りする表情をしていた。彼女は口ごもりながら話し、みんなが彼女をばかにし、彼自身も初めは醜い娘だと思った。[中略] 少女は次第に大きな比重を占めるようになり、無視できない存在となっていた。多分初めて会ったその瞬間から、哀れんでいるだけだと思っている頃さえ、彼女のことを愛していたのだ[16]

 

  彼女[=ドゥニーズ]は上の弟に貯金の半分の4,000フランを与え、彼が所帯を構えられるようにしてやった。下の弟は寄宿学校に高い金がかかり、以前と同様、稼ぎは全部弟たちのために使っていた。弟たちこそドゥニーズの唯一の生きがいであった。なぜなら、彼女は決して結婚しないと改めて誓っていたからだ[17]

 

以上の引用からわかるように、ドゥニーズは、ムーレに愛されていながらも、彼女にとっての最大の関心事は弟たちであり、結婚しようとはしていないのである。

 この節で紹介した3人の女性たちには、一見なんの共通点もないように見えるが、彼女たちは皆、「母親的な優しさ」を備えている。これは、幼い頃に父親を亡くし、母子家庭だったゾラ[18]の、母性に対する強い思い入れに由来しているのではないだろうか。ジェルヴェーズとナナに関しては、夫を甘やかしてしまうという一面があるし、ドゥニーズに関しては、二人の弟の母親代わりをしているがために、自分が結婚するということなど考えもしないのだ。

 しかし、この節で注目したいのは、これら3人の女性たちの共通点ではなく、相違点である。ジェルヴェーズとナナに関しては、母子ということもあり、とてもよく似ている。二人に代表されるような、愛する男性に依存し、彼の言うことには逆らわない女性というのは、男尊女卑的な考えが強かった時代の典型といえよう。だが、ドゥニーズは、たとえ男性から愛されているからといって、それに甘んじることなく、また、自分が相手に愛情を抱いているからといって、甘やかしたりしない、自分自身の強い意志を持った女性である。こういった女性こそが、19世紀後半以降に登場する、「新しい女性」の理想といえるのではないだろうか。そして、ゾラの考えでは、こういった「自立した女性」が、幸せになる資格を持った女性であるのだ。余談にはなるが、ゾラは自分の娘に「ドゥニーズ」と名付けている。このことからも、ドゥニーズが、ゾラから「幸せになる女性」という特権を与えられていたことがわかる。

 

 

 

◆第二章 百貨店の誕生と発展

 

◇第一節 消費社会の起源:百貨店[19]

 

 今日、日本でもすっかり馴染みのものとなり、ある新聞の調査で、暑さからの避難場所、そして働く人のストレス解消法の第一位に挙げられるほど、一般的となった百貨店が、世界で初めて登場したのは、それほど昔のことではない。それは、アリスティッド・ブシコーAristide Boucicaut(1810-1877)という人物によって、19世紀中頃に発明された。「マガザン・ド・ヌヴォテ」magasin de nouveautés[20]のひとつ、プチ・サントマPetit Saint-Thomas(創業1810年)の店員だったブシコーは、1852年に、ジュスタン・ヴィドーJustin Videauという男から、後に最初の百貨店[21]と言われることになるボン・マルシェAu Bon Marchéの、共同経営の話を持ちかけられる。当時、ボン・マルシェは、従業員が12名、売場が4つ、年間売上高が45万2,000フランという、比較的小さなマガザン・ド・ヌヴォテであった。しかし、1863年に、ブシコーがボン・マルシェの唯一の経営者となる頃には、年間売上額が700万フランに達するほどに発展する。そして、第二帝政が終わる頃には、従業員が673名、年間売上額が2,200万フランに、『ボヌール・デ・ダム百貨店』の出版年、1883年には、従業員が2,370名、年間売上額が1億フランに達していた[22]

 ブシコーが、これほどまでに百貨店経営において成功したのは、彼一人の力のためだけではない。それには、彼の妻であるマルグリットMarguerite(1816-1887)の助力が欠かせなかった。彼女は、ブシコーと結婚する前には、チーズ屋の経営をまかされるほどの才覚の持ち主であり、また結婚後は、夫を思いやる優しい妻であったといわれている。そんな彼女を称えるかのように、ボン・マルシェについて書かれた本には、ブシコーの名前だけでなく、彼女の名前も記載されている。その一例を取り上げたい。

 

  それこそが、おそらくアリスティッドの、そして多分マルグリット・ブシコーの新しい考えである。すなわち、売上に応じた従業員への利益分配である。確かに、固定の給与は非常に低いだろうが、利益に対する小さな利率、とりわけ品物に応じて3から30パーセントでその価値が変動する歩合が、固定の給与に加わるのだ[23]

 

 次に、ブシコーの生み出した様々な戦略について見ていきたいが、その前に、百貨店の前身であるマガザン・ド・ヌヴォテの時代に始まった、販売形式について述べておきたい。初めに、百貨店とマガザン・ド・ヌヴォテの関係を見ておきたい。

 

  パリの百貨店の特徴のひとつは、顧客の関心をひきつける新しい製品、すなわち「流行品」への絶え間ない追求である。ここから、百貨店の元々の名前「マガザン・ド・ヌヴォテ」が生まれたのだ。[24]

 

この一文が示すように、マガザン・ド・ヌヴォテが、いつを境に百貨店になったのかを厳密に述べることはできない。要するに、マガザン・ド・ヌヴォテが始めた販売形式は、百貨店の商法であるといえる。その主要なものとして、「定価の登場」がある。従来の商店では、定価は存在せず、店員と顧客との間で、値段の交渉が行われていた。その頃、良い店員として評価されていたのは、客の値切り交渉に負けず、高い値段で商品を売りつけるような店員であった。また、「入店自由」というのも、公の市場ではすでに取り入れられていたものの、マガザン・ド・ヌヴォテが徹底したやり方であり、これは、顧客にとっては、買い物が楽しくなる原因のひとつであり、店にとっては、購買を誘発するものであった[25]

 

そして、ボン・マルシェが、その誠実さをアピールするのに役立てた「返品」の受付も、一部のマガザン・ド・ヌヴォテで、すでに導入されていたことである。さらに、鹿島茂氏は、以下の商法を紹介している。

 

  ブシコーが心にとめたマガザン・ド・ヌヴォテの商法の第一は、何はともあれ、店を目立たせるということにあった。

   現在でもある程度はそうだが、客の注目をひきつけるには、まず人の意表をつくネーミングが必要である。マガザン・ド・ヌヴォテはこの点では、あきらかに近代商業の先駆をなすものだった。すなわち<メアリ・スチュアート><テンプル騎士団>といった歴史小説風のものから、<あわれな悪魔><芸術家の屋根裏部屋><さまよえるユダヤ人><魔法のランプ>といった新聞小説やオペレッタのタイトルを借用したものまで、とにかく目立ちさえすればいいというネーミングが多かった[26]

 

これらマガザン・ド・ヌヴォテの新商法のなかで、ブシコーが特に注目した八つの項目が、「ブシコーの八戒」[27]として確立された。

 

  1)入店自由

  2)売場の多様化

  3)定価

  4)売上げの総額に反比例する利鞘の関係[=薄利多売方式]

  5)返品

  6)自宅への配達サービスの組織

  7)自分の売場での売買と、そこでの経営に責任のある売場主任

  8)歩合(つまり、売場や商品等によって異なるもので、従業員によって受け取られる、行われた販売に対する利率)[28]

 

本論文では詳しく取り上げないが、この「八戒」以外に、ブシコーが考え出した商法や、従業員に対する制度を、『デパートを発明した夫婦』に従って、簡単にまとめておく[29]

ボン・マルシェは、印刷物を巧みに利用した。「アジャンダ」と呼ばれる、年間予定表付き手帳を顧客に無料配布し、毎週パリとその周辺に新聞の折り込みとして広告ビラを配り、さらに、店にやってくる子どもたちには絵葉書を手渡した。アジャンダには、パリおよび近郊からボン・マルシェに来るときの乗り合い馬車の路線番号や郵便物の料金など、生活に役立つ知識、さらにボン・マルシェの年間売り出し予定表が掲載され、またピンク色のページの用紙は、インクの吸取紙としても使うことができる。子ども向けの絵葉書は、12枚でひとつのシリーズになっており、毎月ボン・マルシェに通わなければ、完璧なコレクションを作ることができない。そして、遠方の顧客の心を掴むため、一部のマガザン・ド・ヌヴォテで行われていた、カタログによる通信販売を徹底させた。カタログには、全商品がイラスト入りで紹介され、布地の見本までつけられていた。また、入店自由という考えを前面に押し出し、買い物する気が全くない人さえも、そこに足を運ぶよう仕向けた。その代表例が、待合室を兼ねた読書室の設置である。

ブシコー夫妻は、従業員を大切にしていたようである。1876年、ブシコーは、店員全員を前にして、退職金制度を設立すると発表した。それは、天引きではなく、店の純益から基金を拠出するもので、5年以上継続して勤務した店員に対して、男子は60歳、女子は55歳の定年退職時に支払われた。さらに、ブシコー夫人は、夫の死後、この年金制度に加えて、養老年金制度を設立させた。これは、勤続20年以上で、50歳以上の男子店員、45歳以上の女子店員に対して、毎年一定の年金を与えるというものであった。

このようにして、百貨店が、ブシコー夫妻の手で作り上げられていく様子を、ゾラはどのように捉えていたのだろうか。次節で、小説中のボヌール・デ・ダム百貨店の商法を分析しつつ、この疑問を解明していきたい。

 

 

 

◇第二節 『ボヌール・デ・ダム百貨店』に描かれた百貨店の商法

 

 『ボヌール・デ・ダム百貨店』は、全20巻にわたる『ルーゴン・マッカール叢書』の第11巻目の作品である。その日本語訳のタイトルが示すように、舞台は百貨店である。まず、この小説のあらすじを簡単に説明しておく。

この作品は、ドゥニーズが、二人の弟を連れて、ノルマンディー地方の西端、コタンタン半島にある小さな町ヴァローニュから、パリに到着した場面から始まる。彼女は、ヴァローニュのマガザン・ド・ヌヴォテで既製服売場を担当していたのだったが、父親の死後、自分と二人の弟の生活が苦しくなり、ラシャ商をしている叔父を頼って、パリに出てきた。ドゥニーズは、叔父に、絹地専門店を紹介されるが、雇ってもらえなかった。しかし、そこで、ボヌール・デ・ダム百貨店の絹地担当者ロビノーと出会い、百貨店で働くことを勧められる。ドゥニーズは、叔父をはじめ、界隈の商店から快く思われていない百貨店で働くことに、迷いがあった。しかし、パリに着いて初めて目にした百貨店の豪華なたたずまいに実は魅了されていたのであり、やがて、そこで働くことを決意するのだ。彼女は、既製服売場に配属され、懸命に働くが、一度解雇される。その後、店主ムーレのおかげで再度働くこととなり、主任の地位まで上り詰めるのである。この作品には、彼女が、百貨店で自分の地位を確立していく様子と共に、界隈の商店が次々と不況に追い込まれていく様子も描かれている。また、彼女と店主ムーレの結婚を匂わせて終わるこの小説には、シンデレラストーリー的な恋愛要素も含まれている。

恋愛要素は別として、この作品には、ジャーナリストとしてのゾラの観察力が、十分に活かされているように思われる。彼は、『ボヌール・デ・ダム百貨店』を執筆する際に、特にボン・マルシェとルーヴル百貨店Les Grands Magasins du Louvreを念入りに取材した。彼の取材ノートから、三人の百貨店関係者と話をしていたことがわかっている[30]。そして、経営方針についてはボン・マルシェのものを、運営方針[31]についてはルーヴルのものを、それぞれ作品中に取り入れたといわれている[32]。取材ノートを作り、現実に忠実な世界を描こうとしたことは、ゾラの作品が、社会を読み解く資料として利用できるということの根拠となるのではないだろうか。

では、ゾラは、どのくらい取材を参考にして、『ボヌール・デ・ダム百貨店』を書いたのか。まず、百貨店の経営が夫婦で行なわれていたということ。ボン・マルシェのブシコー夫妻の場合は、夫であるアリスティッドの死後、妻であるマルグリットがその遺志を継いだのに対して、『ボヌール・デ・ダム百貨店』では、店のかつての持ち主エドワン夫人の死後、夫ムーレが店主となり、百貨店を拡大していくという違いはあるが、これはやはり、前節で詳しく述べた、ブシコー夫妻を意識していると考えられる。また、かつてボヌール・デ・ダム百貨店で売場主任をしていた、ブトゥモンという男が、後にカトル・セゾンという百貨店を創設するというエピソードは、ブシコーの下で、ボン・マルシェの売場主任をしていたジャリュゾが、独立してプランタンPrintemps(1866)を創設したという事実に基づいている。カトル・セゾンは、皮肉にも開店3週間後に火災に遭うのだが、その背景には、やはり、ゾラがこの小説の執筆準備を始めた1881年3月に、プランタンが全焼したという事実がある。そして、大売出しの際に、目玉商品を掲げるという点も、ボン・マルシェの商法に着想を得ている。ボヌール・デ・ダム百貨店の目玉商品は、「パリ・ボヌール」という上質の絹織物で、仕入れ値とほとんど変わらない5フラン60サンチームで販売される。他の店ならば7フランで売るであろう、この絹織物を餌に、女性を引きつけ、他の特に割安でもない商品まで買わせてしまおうというのが、店主ムーレの目的である。あまりにも低い利益で、この絹織物を売ろうとすることに不安になった、取締役のブルドンクルに、ムーレは、以下のように説明する。

 

 「確かにこの商品に関するかぎり、何サンチームかの損をするかもしれないが、そこが狙い目だ。要するに損失を考える必要はないのだ。もし女性という女性をひきつけ、我々の思うように操ることができれば、女性たちは商品の山を見て魅了され、夢中になり、出し惜しみすることなく財布を空にするはずだ。大切なのは女性たちを焚きつけることなのだ。そのためには女心をくすぐる画期的な商品が是非とも必要だ。そうすることで、他の商品を他の店と同じ値段で売ることができる。しかもこの店は他より安いと思って金を払ってくれる。例えば、我々のキュイール・ドール、このタフタは7フラン50サンチームであり、いたるところでこの値段で売っているが、これもまた大安売りであるとみなされるだろう。そして、十分パリ・ボヌールの損を埋め合わせてくれるだろう。…そのうちわかるよ。」[33]

 

このムーレの台詞は、まるでブシコーがその口を借りて言っているようである。鹿島氏はしばしば、『デパートを発明した夫婦』の中で、『ボヌール・デ・ダム百貨店』を引き合いに出し、ムーレはブシコーそのものであると述べている。

次に、ボヌール・デ・ダム百貨店の運営方針を見てみよう。商品の仕入れに直接出向くのは売場主任であるが、仕入れに関して、彼らは店主の許可を得なくてはならなった。また、売り値に関しても、勝手に決めることはできなかった。例外的に完全に自由裁量を認められていた、絹地売場の主任ブトゥモンでさえも、売り値を決定する際には、ムーレに伺いを立てている。そのときの会話は以下のようである。

 

  「ところで、売り値は5フラン60サンチームにするつもりです。…ご存知のように、仕入れ値とほとんど同じですが。」と彼[=ブトゥモン]は言葉を継いだ。

  「いいだろう、5フラン60サンチームにしよう。もし、私ひとりなら、私は損をしてでもそれを売るよ。」とムーレは熱っぽく言った[34]

 

また、店主の承諾を得ず、勝手に値下げをしようとしたという理由で、厳しい叱責を受ける店員もいた。

 

  「聞きなさい、ユタン君。私は今までこのような勝手な試みをゆるしたことはない。…我々のみが値段を決めるのだ。」とムーレは叫んだ[35]

 

ゾラの『調査ノート』には、「<ルーヴル>では、売り場主任は、<ボン・マルシェ>におけるような自由を持ってはいない。仕入れに関しては、経営者にうかがいをたてなければならない。[36]」と書かれている。つまり、店主が絶大な権力を持ち、その権力下で全ての従業員が仕事をしているという、このような運営方針は、ボン・マルシェではなく、ルーヴル百貨店を参考にしたものなのだ[37]

また、ボヌール・デ・ダム百貨店が位置する場所は、1869年に創業したラ・ペMagasin de la Paixがあった場所[38]で、第一章第一節で述べたような、広い通りに囲まれ、営業に適した場所である[39]。そして、あたかもボヌール・デ・ダム百貨店が、現実社会でボン・マルシェやルーヴル百貨店と肩を並べているかのように、この2店の名前が、作品の端々に登場する。

さらに、ボヌール・デ・ダム百貨店は、ブシコーが注目していた商法、「店を目立たせること」にも成功している。その名前に関しては、ドゥニーズの弟ジャンが、初めてそれを目にしたときの様子を見れば十分であろう。

 

 「ボヌール・デ・ダム」と、すでにヴァローニュで恋愛を経験していたジャンは、美しい青年の優しい微笑みで声に出して読み上げた。「ねえ、きれいな名前だよ。これなら、みんなを駆けつけさせるに違いない。そう思わないかい。」[40]

 

 以上のように、『ボヌール・デ・ダム百貨店』では、百貨店の発展について、現実社会に忠実に描かれているといえよう。ムーレの戦略は、ブシコーの商法そのものであるし、ルーヴル百貨店式の運営方針が、ボヌール・デ・ダム百貨店にとって店主ムーレがどれほど大きな存在であるかを物語っている。続く第三章では、百貨店を取り巻く女性たちを、「売場店員」、「顧客」という二つの立場から見つめながら、この作品を読み深めていく。

 

 

 

◆第三章 百貨店と女性

 

◇第一節 百貨店で働く女性

 

 百貨店で働く女性は、どのような条件を満たしていなければならなかったのだろうか。まず経験者であること、そして接客態度が良いことであった。『ボヌール・デ・ダム百貨店』のヒロインであるドゥニーズを例に挙げて、店員の様子を詳しく見てみたい。彼女は、百貨店店主ムーレに好意を抱かれていたこともあって、既製服売場の一従業員から副主任へ、そして、ついには彼女のために新しい売場[41]が設置され、そこの主任にまでのぼりつめるのである。

 田舎から出てきたばかりにもかかわらず、ドゥニーズが百貨店で働くことができたのは、「経験者」という条件を満たしており、そして、百貨店が最も人手を必要とする、大売出しの時期と重なったためであった。本来ならば、ボヌール・デ・ダム百貨店は、パリの店で見習いをした売り子しか採用しない[42]のだが、ムーレに気に入られたこともあって、彼女は採用されたのだ。しかし、田舎から出てきたばかりの娘に対して、周囲は冷たく、接客もろくにさせなかった。その後、売出しが終わり、人手が必要でなくなると、彼女は解雇される。小説の世界だけでなく、実際の百貨店でも同じようなことが行われていた。百貨店には監視員がおり、客の案内や監視だけでなく、従業員の勤務態度のチェックもしていた。そして、遅刻などが多く、勤務態度の悪い従業員は、二月や八月といった売上が落ち込む時期になると、解雇されるのであった[43]。ドゥニーズが解雇されたのは、監視員のジュヴに、勤務中に弟のジャンと無断で会っているところを見られたからであった[44]。実は、この解雇には、様々な事情が重なっていた。取締役のブルドンクルは最初から彼女を毛嫌いしていたし[45]、他の売り子や監視員は、彼女がこっそり会っていた男性をまさか弟だとは思っていなかったのだ。さらに運の悪いことには、この解雇はムーレに黙って行われたのだ。しかし、彼女が解雇された一番の理由は、人手が必要でない夏枯れの時期だったことにある。彼女は、解雇後、ある絹地専門店で売り子をし、再びボヌール・デ・ダム百貨店に戻ってくる。それは、不当に解雇されたドゥニーズに対して哀れみを持っていた、店主ムーレの強い希望があったからである[46]。確かに、復職後の彼女の昇進ぶりには、小説らしい非現実性を否定できない。だが、彼女の商売に関するセンスは、誰の目から見ても、ムーレのそれに引けをとらない。彼女は、絹地専門店で働いていたときに、次のように商業の現状について説明した。

 

  工場の代理店、外交員、仲介業者といった中間業者がなくなったことで、随分安く売れるようになった。それに織物業者はもはや百貨店なしではやっていけなかった。実際に、ある織物業者が百貨店という顧客を失うと、すぐにその業者は破産してしまった。つまり、そこには商業の自然な発展があるのだから、物事が進展すべきように進展することを食い止めることはできないだろうし、望むかどうかにかかわらず、世の中もそれに向けて共に進んでいるのであった[47]

 

 次に、復職後の彼女が主任に上り詰めるまでの様子を、作品中から引用しながら分析したい。

 

  ドゥニーズが声を荒げることなく、権力を行使するとき、女性店員は誰一人として逆らえなかった。彼女はその優しさそのものによって、絶対的な権威を獲得していた[48]

 

彼女[=ドゥニーズ]は知性と美貌を兼ね備えており、その知性は彼女の存在の最良の部分に由来していた。店の他の売り子たちは一通りの教育しか受けておらず、それは学校を出ればすぐに剥がれ落ちてしまう上っ面なものだった。ところが、彼女は、まがい物の上品ぶった態度はなく、彼女の優雅さ、彼女の出自の味わいを持っていた。商業に関するきわめて大局的な考え方は、小さな頭に秘めた経験に根ざしていた[49]

 

ドゥニーズは平和的で魅力的な勝利を手に入れた。彼女は周囲から認められていることに感激し、そこに、仕事を始めた頃の自分の惨めさや、長きに渡る熱意の結果の成功に対する共感を見ようとしていた。だから、少しでも親愛の情を見せる人は嬉々として迎え入れた。そのおかげで、ある人たちからは心から愛されることになった。それほど彼女は柔和で愛想がよく、いつでも親身になる心の準備ができていた[50]

 

  誰もが彼女[=ドゥニーズ]に負っている優しさを無視できないし、彼女の意志の強さを称賛した[51]

 

このように、ドゥニーズは、持って生まれた性質のみを活かして、主任の地位まで上り詰めていったのだ。そして、売場で権力を持つようになってからは、かつての自分のような思いをする売り子がいなくなるように、細部にまで気を遣う。そして、ムーレにも、全従業員を代表して、様々な助言を与えるのである。その中の一つに、彼女の友人ポリーヌに関する事柄がある。ポリーヌは下着売場の売り子で、売場が異なるにもかかわらず、ドゥニーズに親切にし、とりわけ、彼女が入店したての頃には、大きな支えとなった。彼女に関する事柄で注目したいのは、以下のことである。

 

  彼女[=ポリーヌ]は妊娠して不安におびえていた。というのも、二週間のうちに、二人の女性店員が妊娠七ヶ月で店をやめさせられたからだった。経営陣はこうした不慮の事態を許容せず、母親になることは厄介で不謹慎なものとして排除されていた。結婚はどうにか許可していたが、子どもを作ることは禁じていた[52]

 

次節で取り上げる、ムーレによる「万引き」の犯人の分類で三番目に挙げられているのが、「妊婦」であることもあり[53]、百貨店は、妊婦に対して冷たかった。また、現代でもまだ残っている考えだが、妊娠して出産のために仕事を休むことを、経営陣は快く思わないのである。しかし、このポリーヌの危機も、ドゥニーズが回避する。

 

  ドゥニーズには、介入する時間があり、彼[=ムーレ]は店の利益そのものを大義名分にブルドンクルの口を封じてしまった。我々は母親たちの反感を買い、客である若い産婦を傷つけることになるのではないか。仰々しく、次のような決定がなされた。すなわち既婚の売り子は、妊娠したら、売場へ出ることで体調がおかしくなればすぐに、例外なく専門の産婆のところへ送られなければならないと[54]

 

友人や、これからも現れるだろう不当な解雇に怯える従業員のために、ドゥニーズがムーレに助言するこの場面には、従業員を大切にしていたブシコー夫妻の精神が感じられる。

この節の締めくくりとして、百貨店の女性店員の社会的身分について考えたい。作品中にも述べられているように、彼女たちの位置づけというのは、非常に曖昧である。

 

  一番の難点は彼女たちの位置づけが曖昧で、店員か上流の夫人か簡単に決められないことだった。このように贅沢の中に投げ込まれ、売り子によってはしばしば初等教育も受けていなかったので、彼女たちは独特の、どう名付けていいのかわからない階級をつくりあげていた[55]

 

  今では女性店員の部屋は、新館六階のモンシニー通り沿いにあった。部屋は60で、廊下を挟んで両側に並んでおり、前よりずっと快適だったが、家具は相変わらず、鉄製のベッドと大きな衣装箪笥と小さなクルミ材の化粧台だけだった。女性店員たちの私生活は、ここではずっと清潔に、また上品になり、高い石鹸や高級な下着への気取りも生まれ、待遇が改善されるにつれ、ブルジョワ階級への自然な上昇が見られた[56]

 

これら二つの引用からわかるように、百貨店の女性店員は、庶民にもブルジョワ夫人にも属さない、新しい階級を生み出したのである。ブルジョワ的価値観が支配的となっていたこの当時、女性が外に出て働くことは、あまり望ましいとは見なされていなかった。女性は本来、家庭を維持することが仕事であり、女性も働かなければいけないということは、その家庭が貧しいということの象徴であった。ところが、百貨店に勤める女性たちには、そのことを名誉であると思っている様子さえ感じられる。この小説では、今後、女性が社会に出て活躍することになるということを匂わせているのだ。

確かに、小説『ボヌール・デ・ダム百貨店』には、アナクロニズムが存在する。現実のボン・マルシェが、第二帝政期から第三共和制にかけて、約30年もの時間を費やした発展を、ボヌール・デ・ダム百貨店は、わずか5年で成し遂げる。これは、『ルーゴン・マッカール叢書』を、「第二帝政期を描くもの」であると定義したために生じたことであると考えられる。すなわち、ここで描かれている百貨店や店員の様子は、むしろ19世紀末のものであると考えた方が自然である。そして、実際には、30年はかかるであろう百貨店の発展を、5年間に凝縮することで、百貨店の発展の凄まじさやその影響力の強さを、より顕著に描き出しているといえる。また、百貨店の発展によって、次々と閉店に追い込まれていく界隈の商店は、マガザン・ド・ヌヴォテ以前の店の雰囲気を醸し出している。このアナクロニズムによって生み出される効果は、残酷な時代の変化に取り残された者の存在が、より強調されることである。界隈の商店に同情しつつも、新商法を理解し、百貨店という場所に自分の生きる道を見つけるドゥニーズは、まさに、今後活躍することになる「新しい女性」の象徴なのだ。

 

◇第二節 消費者としての女性

 

 百貨店がターゲットにしたのは、女性客である。百貨店は、いかに女性客を惹きつけ、魅了し、購買意欲を高めるかを念頭に置き、次々と新しい戦略を生み出していく。『ボヌール・デ・ダム百貨店』の中にも、百貨店店主ムーレの戦略として、次の文がある。

 

   彼は女性が店では女王であることを願い、そこで女性を意のままに操るためにこの殿堂を建てた。女性を愛想のいい気配りで陶酔させ、その欲望につけ込み、狂熱を煽る、これがムーレの戦略のすべてだった[57]

 

また、ムーレは、クレディ・イモビリエ(不動産銀行)総裁アルトマン伯爵から、百貨店拡大に必要な土地を譲ってもらうため、近代商業の仕組みを説明する際にも、女性をいかに扱うかということを述べている。

 

  商店が競争して奪い合うのも女性である。ショーウィンドーを前にして陶然とさせ、それから次々と掘り出し物という罠をしかけて、店が捕らえようとしているのも女性である。店が女性の内部に新しい欲望を目覚めさせれば、店はとてつもない魅惑の場となり、女性は必然的にその誘惑に抵抗しきれない。〔中略〕

「だから女性をつかめば、世界を売ることだってできるのです」とムーレは、大胆に笑いながら、男爵にこっそり囁いた[58]

 

 次にゾラが、「女性客の典型」として、作品中に詳しく描写した数人の女性の中から、4人を、それぞれを特徴づけるエピソードと共に紹介する[59]

一人目は、ブルドレ夫人である。彼女は、大蔵省の書記官夫人で、由緒あるブルジョワ家庭の出身である。そして、割安な商品しか買わない堅実な主婦として、百貨店を巧みに利用する。しかし、子どもに甘く、子ども服に関しては、金額も構わずに購入してしまう。

 

  「くやしくてたまらないの。」とブルドレ夫人は叫んだ。「私、腹を立てているの…百貨店は、今度はこんな幼い子をだしにお金を取るのよ…ご存知でしょ、私は自分のためだったら、ばかげた買い物をしないわ。でも、なんでも欲しがる赤ん坊に逆らえるとお思いになって。あの子たちを散策させようと思ってきたのに、散々買わされてしまったわ。」[60]

 

百貨店が、女性の次にターゲットにしたのは、「子ども」であった。つまり、このブルドレ夫人のエピソードは、百貨店の策略に引っかかってしまう女性の典型を示すと同時に、この百貨店の商法が、時流に乗った効果的なものであったことも示している。さらに、この「子ども服売場」というのは、子どもが19世紀後半になって初めて注目されるようになったことの表れであるとも言えるだろう。ちなみに、現実のボン・マルシェでは1872年の新館開店の際に、子ども服売場が増設されている[61]

二人目は、ギバル夫人である。彼女の夫は、裁判所では名高い弁護士である。彼女は自分の目を楽しませるためだけに、百貨店を訪れ、たとえ商品を買っても、すぐに返品をしてしまう。

 

  まさしく彼女[=ギバル夫人]はカーペット売場へ、五日も前に買い求めた東洋のドアカーテンを全部返品しようと持ってきたのだ。[中略] 彼[=売り子]も何かしらいかがわしい策略を察しながら、客に[返品を]思いとどまらせようとした。その客は、おそらくボヌール・デ・ダム百貨店で買ったドアカーテンをかけてダンスパーティをして、そのあと返品に及び、室内装飾業者から借りずに済ませたのだろう。[中略] 夫人は他の商品を見ようともしなかったので、彼も従うしかなかった。なぜなら、売り子たちは、たとえ商品が使用されていたことに気付いても、返品を受け取るように命じられていたからである[62]

 

返品には、どういった条件がつけられていたのか。例えば、現代の日本の衣料品店では、多くの場合、「未着用・未洗濯」で「購入後1ヶ月以内」、あるいは「欠陥品」という条件を満たす商品しか返品を受け付けていない。ところが、ボヌール・デ・ダム百貨店では、無条件で返品を受け付けている。さらに驚くべきことには、現実のボン・マルシェでも、同じように、返品に関する条件は定めていたものの、ほぼ無条件で返品の受付を行っていたのだ[63]

 

三人目は、マルティ夫人である。彼女はしがない商店の娘として生まれ、現在は、高等中学校の教授である夫と、14歳になる娘、ヴァランティヌと暮らしていた。彼女は娘と共に頻繁に百貨店を訪れ、あらゆる商品に誘惑され、必要のないものでも買ってしまう浪費家である。

 

 彼女[=マルティ夫人]は娘のヴァランティヌを連れて二時間も前から、買い物衝動にとりつかれて店内[64]をまわっていた。彼女はその衝動から疲れ果て、混乱して抜け出てきた。[中略] 彼女が開店祝いに駆けつけない売場はひとつもなかった。まず、駆けつけ、とにかく何か買ってしまった[65]

 

そして最後に、ド・ボーヴ夫人を紹介したい。彼女は、種馬飼育所の監視官の妻で、万引きをしてしまう。

 

  12メートルあたり1,000フランのアランソンレースの裾飾りが、袖の中に隠されていたほか、胸元から、ハンカチ1枚、扇1本、襟飾り1枚が、平らになり、生温かい状態で出てきた。合計1万4,000フランほどのレースであった。1年前から、ド・ボーヴ夫人はこのように激しく抗いがたい欲望に正気を失い、万引きを重ねていた[66]

 

万引きの被害全般については、作品中に以下のように紹介されている。

 

  彼[=ムーレ]は、尽きることのない犯罪の詳細を挙げ、実状を語り、それを分類してみせた。まず窃盗を仕事とする女性がいるが、実害は一番少なかった。というのは、警察官がほとんど全員の顔を知っていたからだ。次に窃盗狂がきた。これは異常な欲望で、ある精神科医が、百貨店に入ると極度に緊張する結果おこることを立証し、新しい精神病と分類した。最後は妊婦だった。妊婦はある商品を特定して狙う傾向があった[67]

 

ここでは、万引きは一種の精神病であると定義されている。鹿島茂氏は、この新しい精神病も百貨店が生み出したものであり、万引きを誘発できるほど、百貨店は女性を誘惑する戦術に長けていたのではないかと推測している[68]。また、1868年から1881年にかけてパリ警視庁留置所で行った調査によって、当時の医師が、万引き行為の「半病理学的ケース」として、月経期のヒステリーなど、女性に特有のものを列挙している[69]。こういった、いかにも科学的な分析に基づき、万引きする女性を分類したということにも、19世紀後半の精神性が感じられると言えるのではなかろうか。『ルーゴン・マッカール叢書』の副題に、「科学的」という言葉が含まれているように、この言葉は、19世紀後半を象徴するキーワードの一つなのだ。この時代の、自然科学のめざましい発達に基づいた、科学的実証主義に立脚し、現実社会を客観的に見つめることこそ、ゾラが『ルーゴン・マッカール叢書』を執筆した大義名分なのである。この作品にも、例にもれず、科学的要素が含まれているのだ。しかし、この科学崇拝にも限界があるのではないか。そして、そのことをよく理解していたのはゾラ本人ではないだろうか。というのは、この作品中に、「妊婦が万引きをする」という定説にとらわれた監視員が、妊婦の横で万引きをしていたその女友達を見落としてしまう場面があるからだ[70]

これら4人の女性客は、少しも似ていないが、百貨店を利用し、百貨店によって利用されているという点では、みな同じである。返品を繰り返し、ほとんど購入しないギバル夫人でさえも、ムーレ(百貨店)にとっては大切な客なのであり、想定された客なのである。そして、これら4人の全く違ったタイプの女性たちを百貨店に呼び寄せ、多かれ少なかれ満足を与えて、何度もそこへ来させるということを可能にしたことこそ、ムーレの戦略が時流に乗っていて、さらに、女心を掴んでいたということの証拠であるといえよう。また、このような百貨店の発展の裏には、彼女たちのようなブルジョワ夫人の存在が欠かせない。もう一世紀前ならば、おそらく女中か何かをして生活費を稼がなければならなかったであろう彼女たちが、フランス革命を経て、この時代に力を持ち始めるブルジョワジーに属し、百貨店で買い物をしながらゆっくりとした時間を過ごすようになったことも、19世紀後半の大きな特徴なのだ。要するに、「百貨店で働く女性」も「消費者としての女性」も、19世紀のブルジョワ社会が生み出した新しい存在であり、彼女たちがいたからこそ、百貨店が発展したのだ。もし、どちらか一方が欠けていたならば、今日見られるような百貨店は存在しなかったかもしれないのである。

 

 

◆結論

 

 本論文では、ゾラの『ボヌール・デ・ダム百貨店』という一作品を出発点として、百貨店が誕生した時代背景、百貨店の商法、百貨店を取り巻く女性という三つの視点から、百貨店の発展と19世紀の女性について分析してきた。その結果を一言で表すなら、「近代化への第一歩」、あるいは「新しさ」という言葉がふさわしいのではないだろうか。普通選挙や万国博覧会というものが現れたのもこの時代であるし、また、子どもが注目されるべき対象となったのもこの時代である。そして、第二章で紹介した様々な百貨店の商法は、現代のそれと比べて大きな違いはない。さらに、女性の社会進出にも、百貨店という場所は最適であったといえる。そこでは、住居や賄いによって生活が保障され、昇進の機会もあった。その上、一定期間以上勤務すれば、年金を受け取る権利さえあったのだ。もちろん、このような百貨店の発展を支えたブルジョワ夫人というのも、19世紀を象徴する存在である。

ゾラが書いたこの百貨店物語は、同時代の証言として十分に利用できる。多少のアナクロニズムは存在するが、百貨店が発展していく様子が順序よく再現されている。また、ボヌール・デ・ダム百貨店の商法は、実在のボン・マルシェの商法といっても過言ではない。そして、百貨店を訪れる女性客がいかにして百貨店に魅了されるのかということも、典型的な女性客を詳しく描写することで示されている。

 では、この時代を生きたエミール・ゾラは、19世紀という時代と百貨店を、どのようにとらえていたのだろうか。百貨店に関しては、かなり好意的にその発展を見守っていたと考えられる。『ボヌール・デ・ダム百貨店』のヒロインであり、この論文の主役とも言えるドゥニーズは、ゾラの代弁者であり、彼の理想の女性像でもある。彼女は、時代の急激な変化に取り残された界隈の商店の人々に同情しつつも、新商法をきちんと理解し、百貨店という場所で成功を勝ち取った。そして、彼女の誠実さは、ボン・マルシェのブシコー夫妻がそれをモットーとしていたように、百貨店に必要な要素のひとつであるといえる。新しい時代に幸せな女性となるためには、男性を愛し、男性から愛されるだけでなく、自らの力で幸せを掴み取らなければいけないという、ゾラからのメッセージが、この作品には込められているのではないだろうか。つまり、ゾラがこの作品で描きたかった「新しい女性」とは、「自立した女性」なのだ。

 

◆資料

資料1

 

 

É. Zola, Les Rougon-Macquart, t.U.

 

資料2

 

 

 

 

C. Becker et J. Gaillard, Au Bonheur des dames : Zola : analyse critique, p.14.

 

資料3

 

 

 

エミール・ゾラ、吉田典子訳、『ボヌール・デ・ダム百貨店』、pp.4-5

 

資料4

 

 

北山晴一、『おしゃれの社会史』、p.270から再引。

 

参考文献

 

Émile Zola, Les Rougon-Macquart, histoire naturelle et sociale dune famille sous le Second Empire, 5vol., 1960-1967, Gallimard, «Bibliothèque de la Pléiade» («Chronologie dÉmile Zola», t.I, pp.LIX-LXX ; LAssommoir, t.U, pp.371-796 ; Nana, t.U, pp.1093-1485 ; Au Bonheur des dame, t.V, pp.387-803 ; Le Docteur Pascal, t.X, pp.913 -1220).

 

・エミール・ゾラ, 古賀照一訳, 『居酒屋』, 新潮文庫, 1970年.

 

・エミール・ゾラ, 川口篤・古賀照一訳, 『ナナ』(上・下), 新潮文庫, 1956, 1959年.

 

・エミール・ゾラ, 伊藤桂子訳, 『ボヌール・デ・ダム百貨店』, 論創社, 2002年.

 

・エミール・ゾラ, 吉田典子訳, 『ボヌール・デ・ダム百貨店』, 藤原書店, 2004年, «ゾラ・セレクション».

 

 

Colette Becker et Jeanne Gaillard, Au Bonheur des dames : Zola : analyse critique, Hatier, 1982, «Profil d’une œuvre».

 

Marc Bernard, Zola par lui-même, Seuil, 1956, «Écrivains de toujours».

 

Anna Krakowski, La Condition de la femme dans l’œuvre d’Émile Zola, A. -G. Nizet, 1974.

 

Bernard Marrey, Les Grands magasins : des origines à 1939, Librairie Picard, 1979.

 

Michèle Sacquin et Viviane Cabannes, Zola et autour d’une œuvre : Au Bonheur des dames, Bibliothèque national de France/Fayard, 2002, «Le Cahier ».

・海野弘, 『百貨店の博物史』, アーツアンドクラフツ, 2003年.

 

・小倉孝誠・菅野賢治編訳, 『時代を読む 1870-1900』, 藤原書店, 2002年, «ゾラ・セレクション».

 

・鹿島茂, 『デパートを発明した夫婦』, 講談社, 1991年.

 

・北山晴一, 『おしゃれの社会史』, 朝日新聞社, 1991年, «朝日選書».

 

・福井憲彦, 『世紀末とベル・エポックの文化』, 山川出版社, 1999年, «世界史リブレット».

 

・福井憲彦編, 『フランス史』, 山川出版社, 2001年, «新版世界各国史».

 

・宮下志朗・小倉孝誠編, 『いま、なぜゾラか』, 藤原書店, 2002年.

 

 

 



[1] 17世紀に哲学者パスカルの発案によって初めてお目見えしたパリ市内乗合馬車(オムニビュス)は、その後、経営難から姿を消していたが、1828年に150年ぶりに復活して、パリ市民の重要な足となった。料金25サンチーム(250円)は、タクシーやハイヤーにあたる辻馬車の料金(一乗り1フラン50サンチーム)と比べて割安だったので、下層の中産階級もこれを利用することが可能になった。」(鹿島茂、『デパートを発明した夫婦』、p.21)。

[2]万国博覧会のことを、フランス語では、«exposition universelle»という。

[3] この段落については、鹿島茂、『デパートを発明した夫婦』、「第2章 欲望喚起装置としてのデパート」、pp.61-98を参考にした。

[4] «C’est une œuvre de vérité, le premier roman sur le peuple, qui ne mente pas et qui ait l’odeur du peuple.» (Émile Zola, L’Assommoir, pp.373-374).

[5] 「ルーゴン・マッカール家」の系図は、本論文p.34、資料1を参照。

[6] «Histoire naturelle et sociale d’une famille sous le Second Empire».

[7] 『ルーゴン・マッカール叢書』の最終巻『パスカル博士』によると、彼女は後に百貨店店主ムーレと結婚し、二人の子どもを出産する(Cf. É. Zola, Le Docteur Pascal, p.1016).

[8] «Gervaise avait attendu Lantier jusqu’à deux heures du matin.» (É. Zola, L’Assommoir, p.375).

[9] « [] Vous en trouverez une autre, allez! monsieur Coupeau, plus jolie que moi, et qui n’aura pas deux marmots à traîner.» (É. Zola, L’Assommoir, p.406).

[10] «Il[=Coupeau] la[=Gervaise] trouvait joliment courageuse, quand il la voyait se tuer au travail, soigner les enfants, trouver encore le moyen de coudre le soir à toutes sortes de chiffons.» (É. Zola, L’Assommoir, pp.416-417).

[11] «Le quartier trouvait Gervaise bien gentille.» (É. Zola, L’Assommoir, p.501).

[12] «[] le gros chagrin de Nana était son petit Louis, un enfant qu’elle avait eu à seize ans et qu’elle laissait chez sa nourrice, dans un village, aux environs de Rambouillet.  Cette femme réclamait trois cents francs pour rendre Louiset.  Prise d’une crise d’amour maternel, depuis sa dernière visite à l’enfant, Nana se désespérait de ne pouvoir réaliser un projet passé à l’idée fixe, payer la nourrice et mettre le petit chez sa tante, madame Lerat, aux Batignolles, où elle irait le voir tant qu’elle voudrait.» (É. Zola, Nana, p.1124).

[13] «[] elle[=Nana] suppliait sa tante d’amener immédiatement le petit Louis.  Ça ferait tant de bien à bébé! et comme on s’amuserait ensemble sous les arbres!  De Paris à Orléans, en wagon, elle ne parla que de ça, les yeux humides, mêlant les fleurs, les oiseaux et son enfant dans une soudaine crise de maternité.» (É. Zola, Nana, p.1232).

[14] «Le pis était que, maintenant, Fontan disparaissait toute la journée et ne rentrait jamais avant minuit ; [].  Nana tolérait tout, tremblante, caressante, avec la seule peur de ne plus le voir revenir, si elle lui adressait un reproche.» (É. Zola, Nana, p.1295).

[15] « [] avec son sens délicat de la femme, il sentait chez cette jeune fille[=Denise] un charme caché, une force de grâce et de tendresse, ignorée d’elle-même.» (É. Zola, Au Bonheur des dames, p.440).

[16] «Toujours il[=Mouret] la[=Denise] revoyait arrivant au Bonheur, avec ses gros souliers, sa mince robe noire, son air sauvage.  Elle bégayait, tous se moquaient d’elle, lui-même l’avait trouvée laide d’abord.  []. Elle, peu à peu, grandissait, devenait redoutable.  Peut-être l’aimait-il depuis la première minute, même à l’époque où il ne croyait avoir que de la pitié.» (É. Zola, Au Bonheur des dames, p.705).

[17] «Elle[=Denise] avait donné à l’aîné quatre mille francs, la moitié de ses économies, pour qu’il pût installer son ménage.  Le cadet lui coûtait gros au collège, tout son argent allait à eux, comme autrefois.  Ils étaient sa seule raison de vivre et de travailler, puisque, de noueveau, elle jurait de ne se marier jamais.» (É. Zola, Au Bonheur des dames, pp.776-777).

[18] ゾラの生い立ちについては次のとおりである。ゾラは1840年に、フランソワとエミリーの長男として、パリで誕生する。その後、一家は南仏のエクスに移住するが、彼が7歳のときに、父が死亡し、一家は困窮状態に陥る。1852年に、ブルボン中等学校に寄宿生として入学し、1858年、再びパリに戻ってくる。それから、書店に就職し、作家との交流が始まる。1870年、アレクサンドリーヌと結婚。この頃から、『ルーゴン・マッカール叢書』の執筆を始める。1889年、女中ジャンヌとの間に、長女が誕生。ドゥニーズと名付ける。1902年に、一酸化中毒で死亡。暗殺の疑いもあるが、原因は未だ不明である(Cf. Émile Zola, Les Rougon-Macquart, t.I, «Chronologie d’Émile Zola», pp.LIX-LXX).

[19]「百貨店」は、フランス語では、「大きな店」という意味の«grands magasins»と呼ばれる。

[20]「マガザン・ド・ヌヴォテ」とは、百貨店の元祖であり、女物の布地などの流行品を販売する衣料品店のことである。なお、マガザン・ド・ヌヴォテを、流行品店と訳す場合もある。

[21] 最初の百貨店を、1784年にパリで創業したタピ・ルージュAu Tapis-Rougeあるいは、1793年にパリで創業したピグマリオンLe Pygmalionとする説もある。また、フランスより以前に、イギリスやアメリカに百貨店が出現していたという説もある。しかし、現代の百貨店でも使用されている様々な制度を確立させたという点で、ボン・マルシェを最初の百貨店とみなすのが、妥当であると考える。

[22] Cf. Colette Becker et Jeanne Gaillard, Au Bonheur des dames : Zola : analyse critique, p.15.

[23] «C’est peut-être là d’ailleurs l’idée neuve d’Aristide et sans doute de Marguerite Boucicaut : l’intéressement du personnel à la vente.  Le salaire fixe sera en effet très faible, mais s’y adjoint un petit pourcentage sur les bénéfices, et surtout la guelte dont la valeur varie de 3 à 30 % selon les articles.» (Bernard Marrey, Les Grands magasins : des origines à 1939, p.69).

[24]  «Une des caractéristiques du grand magasin parisien est la recherche incessante de nouveaux produits susceptibles d’intéresser la clientèle, de “nouveautés”, d’où son nom initial de “magasin de nouveautés” ». ( Michèle Sacquin et Viviane Cabannes, Zola et autour d’une œuvre : Au Bonheur des dames, p.60).

[25] Cf. «Enfin, le principe de l’entrée libre, quoiqu’il ait déjà été en pratique sur les marchés publics, constitue une puissante incitation à l’achat, [] » (M. Sacquin et V. Cabannes, Zola et autour d’une œuvre : Au Bonheur des dames, p.60).

[26] 鹿島茂、『デパートを発明した夫婦』、pp.27-28.

[27] «Les huit commandements d’Aristide Boucicaut» また、これら八つの項目のうち、「入店自由」、「定価」、「返品」に関しては、すでにヴィル・ド・パリA La Ville de Paris、トロワ・カルティエ(1829Aux Trois Quartiers、タピ・ルージュ(1784Au Tapis-Rouge、コワンド・リュ(1830頃)Au Coin de Rueで始められていた(北山晴一、『おしゃれの社会史』、p.224参照)。

[28] 1L’entrée libre.  2La multiplication des rayons.  3Le prix fixe.  4Le rapport inversement proportionnel de la marge bénéficiaire à la masse des ventes [].  5Le rendu.  6L’organisation d’un service de livraison à domicile.  7Le chef de rayon responsable des achats et de la marche de son rayon.  8La guelte (c’est-à-dire un poursentage sur les ventes faites, variable selon les rayons, les marchandises, etc., et touché par l’employé). (D’Aristide Boucicaut au supermaché [sic], brochure hors commerce du Bon Marché, 1962, cité dans C. Becker et J. Gaillard, Au Bonheur des dames : Zola : analyse critique, pp.16-17).

[29] 鹿島茂、『デパートを発明した夫婦』、「第三章 教育装置としてのデパート」、pp.99-157、「第五章 利益循環システムとしての福利厚生」、pp.213-231を参考にした。

[30] Cf. «Par ses notes de travail, on sait que se voulant l’observateur “scientifique”  de la vie sociale, Émile Zola s’est longuement entretenu avec M. Beauchamp, ancien chef de comptoir aux Grands Magasins du Louvre, M. Carbonnaux, chef de rayon au Bon Marché, et Mlle Dulit, employée au Saint-Joseph. » (B. Marrey, Les Grands magasins : des origines à 1939, p.53).

[31] 本論文では、「経営」は「事業の遂行」、つまり「百貨店をどのように発展させていったのか」ということを、「運営」は「組織を働かせること」、つまり「従業員をどのように働かせていたのか」ということを意味することとする。

[32] エミール・ゾラ、伊藤桂子訳、『ボヌール・デ・ダム百貨店』、「訳者あとがき」、pp.561-569を参照。

[33] « ― Nous perdrons quelques centimes sur l’article, je le veux bien.  Après? le beau malheur, si nous attirons toutes les femmes et si nous les tenons à notre merci, séduites, affolées devant l’entassement de nos marchandises, vidant leur porte-monnaie sans compter!  Le tout, mon cher, est de les allumer, et il faut pour cela un article qui flatte, qui fasse époque.  Ensuite, vous pouvez vendre les autres articles aussi cher qu’ailleurs, elles croiront les payer chez vous meilleur marché.  Par exemple, notre Cuir-d’Or, ce taffetas à sept francs cinquante, qui se vend partout ce prix, va passer également pour une occasion extraordinaire, et suffira à combler la perte du Paris-Bonheur…  Vous verrez, vous verrez!» (É. Zola, Au Bonheur des dames, p.425).

[34] « Alors, c’est désidé, reprit-il [= Bouthemont], nous la marquons cinq francs soixante... Vous savez que c’est à peine le prix d’achat.

Oui! oui, cinq francs soixante, dit vivement Mouret, et si j’étais seul, je la donnerais à perte.» (É. Zola, Au Bonheur des dames, p.424).

[35] « Entendez-vous! monsieur Hutin, criait Mouret, je n’ai jamais toléré ces tentatives d’indépendance… Nous seuls décidons de la marque.» (É. Zola, Au Bonheur des dames, p.715 ).

[36]鹿島茂、『デパートを発明した夫婦』、p.161から再引。

[37] 当時の人々は、ボン・マルシェのことを「ボン・マルシェ共和国」と呼び、ルーヴル百貨店のことを「ルーヴル王国」と呼んでいた(北山晴一、『おしゃれの社会史』、p.231参照)。このことからも、従業員思いのボン・マルシェと経営者が絶大な権力を持っていたルーヴル百貨店との違いがよくわかる。

[38] Cf. «Le Bonheur des Dames est situé dans le quartier de l’Opéra, à l’emplacement exact où s’étaient ouverts en 1869 les Magasins de la Paix, fermés en 1881-1882 pour laisser la place à une banque.» (C. Becker et J. Gaillard, Au Bonheur des dames : Zola : analyse critique, p.13).

[39]ボヌール・デ・ダム百貨店の所在地については本論文p.35、資料2を参照。

[40] « Au Bonheur des Dames, lut Jean avec son rire tendre de bel adolescent, qui avait eu déjà une histoire de femme à Valognes.  Hein? c’est gentil, c’est ça qui doit faire courir le monde!» (É. Zola, Au Bonheur des dames, p.390).

[41] 彼女のために設置された売場は「子ども服売場」である (Cf. É. Zola, Au Bonheur des dames, p.725). これは、19世紀後半になって初めて注目されるようになった「子ども」のために、特別に用意された売場で、第二章第一節で紹介したブシコーの商法にも含まれる。

[42] Cf. É. Zola, Au Bonheur des dames, p.440.

[43] 鹿島茂、『デパートを発明した夫婦』、p.176を参照。

[44] Cf. É. Zola, Au Bonheur des dames, p.557.

[45] Cf. É. Zola, Au Bonheur des dames, p.703.

[46] Cf. É. Zola, Au Bonheur des dames, p.583.

[47] « [] les intermédiaires disparaissaient, agents de fabrique, représentants, commissionaires, ce qui entrait pour beaucoup dans le bon marché ; du reste, les fabricants ne pouvaient même plus vivre sans les grands magasins, car dès qu’un d’entre eux perdait leur clientèle, la faillite devenait fatale ; enfin, il y avait là une évolution naturelle du commerce, on n’empêcherait pas les choses d’aller comme elles devaient aller, quand tout le monde y travaillait, bon gré, mal gré.» (É. Zola, Au Bonheur des dames, p.574).

[48] «Lorsque Denise faisait acte de force, sans élever le ton, pas une ne résistait.  Elle avait conquis une autorité absolue, par sa douceur même.» (É. Zola, Au Bonheur des dames, p.702).

[49] « [] elle[=Denise] était intelligente comme elle était belle, son intelligence venait du meilleur de son être.  Lorsque les autres vendeuses, chez lui, n’avaient qu’une éducation de frottement, le vernis qui s’écaille des filles déclassées, elle, sans élégances fausses, gardait sa grâce, la saveur de son origine.  Les idées commerciales les plus larges naissaient de la pratique, sous ce front étroit, []» (É. Zola, Au Bonheur des dames, p.706).

[50] « [] Denise avait le triomphe paisible et charmant.  Elle était touchée de ces marques de considération, elle voulait y voir une sympathie pour la misère de ses débuts et le succès final de son long courage.  Aussi accueillait-elle avec une joie rieuse les moindres témoignages d’amitié, ce qui la fit réellement aimer de quelques-uns, tellement elle était douce et accueillante, toujours prête à donner son cœur.» (É. Zola, Au Bonheur des dames, p.726).

[51] « On n’ignorait pas les douceurs qu’on lui[=Denise] devait, on l’admirait pour la force de sa volonté.» (É. Zola, Au Bonheur des dames, p.729).

[52] «Celle-ci[=Pauline] était enceinte, et elle tremblait, car deux vendeuses, en quinze jours, avaient dû partir au septième mois de leur grossesse.  La direction ne tolérait pas ces accidents-là, la maternité était supprimée comme encombrante et indécente ; à la rigueur, on permettait le marriage, mais on défendait les enfants.» (É. Zola, Au Bonheur des dames, p.730).

[53] 本論文、p.30を参照。

[54] « [] Denise avait eu le temps d’intervenir, et il [=Mouret] ferma la bouche de Bourdoncle, au nom des intérêts mêmes de la maison.  On voulait donc ameuter les mères, froisser les jeunes accouchées de la clientèle?  Pompeusement, il fut décidé que toute vendeuse mariée, qui deviendrait enceinte, serait mise chez une sage-femme spéciale, dès que sa présence au comptoir blesserait les bonnes mœurs.» (É. Zola, Au Bonheur des dames, pp.730-731).

[55] «Le pis était leur situation neutre, mal déterminée, entre la boutiquière et la dame. Ainsi jetées dans le luxe, souvent sans instruction première, elles formaient une classe à part, innomée.» (É. Zola, Au Bonheur des dames, p.686).

[56] «Maintenant, les chambres des demoiselles occupaient le cinquième étage des bâtiments neufs, le long de la rue Monsigny ; elles étaient au nombre de soixante, aux deux côtés d’un corridor, et plus confortables, toujours meublées pourtant du lit de fer, de la grande armoire et de la petite toilette de noyer.  La vie intime des vendeuses y prenait des propretés et des élégances, une pose pour les savons chers et les linges fins, toute une montée naturelle vers la bourgeoisie, à mesure que leur sort s’améliorait; []» (É. Zola, Au Bonheur des dames, pp.646-647).

[57] «Il [=Mouret] la[=la femme] voulait reine dans sa maison, il lui avait bâti ce temple, pour l’y tenir à sa merci.  C’était toute sa tactique, la griser d’attentions galantes et trafiquer de ses désirs, exploiter sa fièvre.» (É. Zola, Au Bonheur des dames, p.612).

[58] «C’était la femme que les magasins se disputaient par la concurrence, la femme qu’ils prenaient au continuel piège de leur occasions, après l’avoir étourdie devant leurs étalages.  Ils avaient éveillé dans sa chair de nouveaux désirs, ils étaient une tentation immense, où elle succombait fatalement, []

Ayez donc les femmes, dit-il tout bas au baron, en riant d’un rire hardi, vous vendrez le monde!» (É. Zola, Au Bonheur des dames, p.461).

[59] Cf. «De la foule qui emplit le magasin les jours de grande vente, Zola ne distingue que quelques femmes qui représentent, chacune, un type d’acheteuse.» (C. Becker et J. Gaillard, Au Bonheur des dames : Zola : analyse critique, p.42).

[60] « ― Ne m’en parle pas! s’écria Mme Bourdelais.  Je suis furieuse...  Ils vous prennent par ces petits êtres maintenant!  Tu sais si je fais des folies pour moi !  Mais comment veux-tu résister à des bébés qui ont envie de tout?  J’étais venue les promener, et voilà que je dévalise les magasins!» (É. Zola, Au Bonheur des dames, p.639).

[61] 鹿島茂、『デパートを発明した夫婦』、p.103を参照。

[62] «C’était au rayon des tapis, celle-ci[=Mme Guibal] venait enfin de monter rendre tout un achat de portières d’Orient, fait par elle depuis cinq jours! [] Aussi tâchait-il[=vendeur] d’embarrasser la cliente, flairant quelque aventure louche, sans doute un bal donné avec les portières, prises au Bonheur, puis renvoyées, afin d’éviter une location chez un tapissier [] Elle refusa d’en voir d’autres, et il dut s’incliner, car les vendeurs avaient ordre de reprendre les marchandises, même s’ils s’apercevaient qu’on s’en fût servi.» (É. Zola, Au Bonheur des dames, p.638).

[63] ブシコーは、客の買った商品が、未着用で期間を置いていない場合は、欠陥品でなくとも、他の商品との交換、あるいは現金の返却に応ずることをはっきりと宣言した。」「もちろん、客の中には、この誠意を悪用して、一晩パーティーに着ていったコートを次の日に返しにくるような人間もいたが、それも計算のうちに入っていた。」(鹿島茂、『デパートを発明した夫婦』、p.59p.60)。

[64] ボヌール・デ・ダム百貨店の店内配置については、本論文p.36、資料3を参照。

[65] «Cette dernière[=Mme Marty], suivie de sa fille Valentine, était depuis deux heures emportée à travers les magasins, par une de ces crises de dépense, dont elle sortait brisée et confuse. [] on ne pouvait ouvrir un rayon sans qu’elle l’inaugurât ; elle s’y précipitait, achetait quand même.» (É. Zola, Au Bonheur des dames, pp.786-787).

[66] «Outre les volants de point d’Alençon, douze métres à mille francs, cachés au fond d’une manche, elles[= vendeuses] trouvèrent, dans la gorge, aplatis et chauds, un mouchoir, un éventail, une cravate, en tout pour quatorze mille francs de dentelles environ.  Depuis un an, Mme de Boves volait ainsi, ravagée d’un besoin furieux, irrésistible.» (É. Zola, Au Bonheur des dames, p.793).

[67] « [] il[=Mouret] donnait des détails intarissables, racontait des faits, en tirait un classment.  D’abord, il citait les voleuses de profession, celles qui faisaient le moins de mal, car la police les connaissait presque toutes.  Puis, venaient les voleuses par manie, une perversion du désir, une névrose nouvelle qu’un aliéniste avait classée, en y constatant le résultat aigu de la tention exercée par les grands magasins.  Enfin, il y avait les femmes enceintes, dont les vols se spécialisaient : []» (É. Zola, Au Bonheur des dames, p.632).

[68] 鹿島茂、『デパートを発明した夫婦』、p.98を参照。

[69] 万引き行為の病理学的統計については、本論文p.37資料4を参照。

[70] Cf. É. Zola, Au Bonheur des dames, p.641.