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おろしゃ会会報 第13号その４ ２００６年 |
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修 士 論 文 特 集 |
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日露戦争期・国内収容所におけるロシア兵捕虜への識字教育問題 京都大学大学院人間・環境学研究科 共生文明学専攻 平岩貴比古 平成16（2004）年度 修士論文 要旨
今から百年前の日露戦争（1904―1905年）では、多くのロシア将兵が日本側の捕虜となった。国内29地方に収容されただけでもその数は72,418名に上る。 当時のロシア帝国軍は「多民族」で構成された軍隊であった。陸軍省の統計によれば、捕虜総数に占める「非正教徒・異教徒」および「地方出身者」の割合は、ともに四分の一に達した。またロシア陸軍新兵検査のデータから試算すると、ロシア陸海軍全体での文盲率は実に50―60％だったことが判明する。 日露戦争期、日本ハリストス正教会は「俘虜信仰慰安会」を結成し、日本人神父を各収容所に派遣して捕虜への支援事業を行う。ニコライ主教は、捕虜からの求めに応じて東京からロシア語教科書を発送した。当初、彼はヴォリペル編「文字教本」を注文していたが、ロシア本国からの義援金をもとに『初等読本』を印刷するようになる。現在も大阪正教会には、このニコライ版『初等読本』とともに、実際に捕虜へ送られた『小祈祷書』や『福音書』などが保存されている。 兵士への識字教育の開始に際しては、収容所側が一定の便宜を図っている。各地で「教師」を務めたのは主に志願兵や下士官であったが、一部では将校が自ら兵士に読み書きを教えるという事例も見られた。教育の成果としては、文字を書けなかった捕虜が故郷に手紙を出し、家族・友人に驚かれたというエピソードが残っている。これらの識字教育は捕虜将兵、ニコライ主教、収容所当局の主導により成立した。 この頃の 目次 はじめに
明治37（1904）年、満洲および朝鮮の権益をめぐって勃発した日露戦争（1904―1905年）では、多くのロシア将兵が日本軍の捕虜となった。国際法に照らし合わせて「捕虜」と認定された総数は、実に79,454名に上る。そのほとんどは戦地から内地へ移送されることとなり、結果、日本国内29地方に72,418名が収容された[1]。近代史における日露戦争の重要性はさておき、これほど多くの「ヨーロッパ人」が国内にやってきたのは、日本人にとって歴史上初めての経験であったことだろう。 「ロシア将兵が日本の捕虜収容所にいた」という史実は、才神時雄の著書『松山収容所』（1969年）をはじめ、先学諸氏の研究によって広く認知されている。最近では、日本で最初に収容所が開設された松山の地で、ロシア兵捕虜収容所開設100周年を記念するシンポジウム[2]が開催され、その成果は研究書にもまとめられた[3]。しかしながら、日本国内の収容所で、ロシア陸海軍の中で大きな割合を占めた文盲の兵士のために、識字教育が行われていたことは、史料などから断片的に目にすることはあっても、その全体像はほとんど明らかになっていない。 本稿では、「捕虜への識字教育」をキーワードに、その全容を解明しつつ、当時のロシアの教育水準や、日露戦争期のロシア軍将兵の「実態」に迫ることが目的である。同時に、当事国である日本とロシアの「教育」が、日露戦争自体にどのような影響を及ぼし得たかについても考察することにしたい。 第一章 ロシア帝国軍の「実態」
①「多民族」のロシア軍捕虜
ロシア軍兵士の教育レヴェルについて論じる前に、あらかじめ当時の捕虜将兵の「全体像」を概観しておきたい。 最初に指摘しておきたいのは、「ロシア人捕虜」という名称についてである。日本では近年、日露戦争時の捕虜の実態についての研究も多くなってきているが、それでも無自覚な「ロシア人捕虜」という言い回しを時々耳にする。しかし、当時のロシア陸海軍は、民族学的に言う「ロシア人」の将兵のみで構成されていた訳ではない。当然、「ロシア人」以外も捕虜として日本国内に収容されている。ロシア帝国は多民族国家であったが、軍隊もまた、その影響を免れ得なかったのである。例えば、四国・松山の「ロシア人墓地」についても同じで、「通称」として定着している分にはいっこうに問題ないが、非ロシア民族の兵士も葬られている事実は、決して無視してはならないだろう。 この時代、ロシア帝国の版図の大きさを見ても分かるように、徴兵の対象は「ロシア人」（ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人）のみならず、ポーランド人、タタール人、ユダヤ人、フィンランド人などにも及んだ。ロシア帝国軍の実態は、まさに「多民族軍」だったのである。 日露戦争時に日本の捕虜と認定されたロシア陸海軍の将兵は79,454名で、日本国内29ヶ所に収容された捕虜の人数だけでも72,418名に上る[4]。そのうち、ポーツマス講和条約締結・発効（1905年）にともないロシア側に引き渡された71,802名（陸軍56,857名、海軍14,945名）については、『日露戦争統計集15』に、宗教別、出身地別、職業別、身分別の構成がまとめられている。 同書に、日本に収容されたロシア将兵全体の「民族別」のデータは見当たらないが、「宗教別」のそれが、その代わりとなろう。例外はもちろんあるにせよ、大まかに正教徒をロシア人（ウクライナ人、ベラルーシ人を含む）、カトリックをポーランド人とウクライナ人の一部、イスラム教徒をタタール人、ユダヤ教徒をユダヤ人と見なすことはできる。陸海軍合わせた71,802名の内訳は以下のようになっている（単位：名）[5] 正教 52,856 カトリック 4,777 新教 52 イスラム教 1,623 ユダヤ教 1,373 ルーテル教 919 アルメニア教 3 ラマ教 34 その他 10,165 71,802名のうち、正教徒は52,856名（73.6％）で、非正教徒と「異教徒」[6]（カトリック、新教、イスラム教、ユダヤ教、ルーテル教、アルメニア教、ラマ教）は合わせて8,781名（12.2％）となっている。「その他」も10,165名（14.2％）存在しているが、上記の項目に該当しない者のほか、未回答の者、また「無宗教」の者が多数含まれていると考えられる。なお、陸海軍それぞれの特徴としては、海軍では新教徒、ルーテル教徒の存在が顕著であり、その他の非正教徒（カトリック）と「異教徒」については、そのほとんどが陸軍将兵であった。 民族構成の参考になる出身地別で言っても、欧露出身の捕虜将兵は53,524名（74.5％）であり、それ以外はポーランド、北カフカス、ザカフカス、フィンランド、シベリア、中央アジアなどの出身であった。陸海軍合わせた内訳は次の通りである（単位：名）[7]。 欧露 53,524 ポーランド 4,658 北カフカス 180 ザカフカス 312 フィンランド 6 シベリア 12,955 中央アジア 101 その他 66 上記の数字も陸海軍を合計した数字であり、詳細はここで挙げていないが、やはりヨーロッパ部以外の地方出身者は、大半が陸軍に配属される傾向にあった。非正教徒（カトリック）や「異教徒」、また地方出身者が、特に陸軍に多く含まれていたということも、これらの宗教別、出身地別の統計から知ることができるのである。 このようにロシア帝国軍の中に「非ロシア民族」が含まれていたことは、日露戦争の遂行に国民の支持を維持できず、ロシア軍が効率的な軍事作戦を展開できなかった原因の一つとして、指摘されている。 例えば、土屋好古は『日露戦争スタディーズ』（2004年）の中で、「ロシア政府が戦争に対する国民の支持を維持できなかった」理由の一つとして、「帝国としてのロシアの特質」を指摘している。「多民族国家であったロシアにおいて、すべての民族を『国民』として統合し、それを戦争努力に駆り立てるには多大な困難があった」のである。当時のオデッサでは、看護婦速習課程や赤十字の看護労働からユダヤ人が締め出された。あるいは前線のポーランド人兵士は、カトリック聖職者が従軍しなかったことや、ロシア人将兵の差別的待遇に不満を持っていた[8]。 また、稲葉千晴の『マツヤマの記憶』（2004年）所収論文によれば、次のようなことも分かる。前線のポーランド人兵士への工作のため、日本側の協力で来日していたポーランド国民同盟の指導者ロマン・ドモフスキは、1904年6月、松山収容所のポーランド人捕虜のもとを訪れた。外務省から通訳として川上俊彦も同行した。ドモフスキが前線の様子について質問すると、彼らは次のように答えたという。旅順に駐留する軍隊にはポーランド人の割合が多く、ハルビンに駐屯していた師団の中にもポーランド人が多数含まれており、「ロシア人を敵視しているために、師団の士気は振るわず、軍隊からの逃走を企てる者も少なくない」[9]。 異民族がロシア帝国への忠誠心を欠いたというより、むしろ民族間の「相互不信」や「反目」がマイナスに作用したのであろう。土屋の言葉を借りれば、「前線においても、銃後においても、こうした異質な要素を統合しきれていないところに、ロシア帝国の一つの弱点があった」のである[10]。 さて、続いて『日露戦争統計集15』より、日本に収容されたロシア将兵の職業別、身分別の統計を見ていきたい。 職業別で言うと、ロシア陸海軍合わせた将兵71,802名は、第一次産業44,182名、第二次産業7,414名、第三次産業2,351名、公務員・自由業475名、その他17,380名に分類される[11]。特に、第一次産業従事者が全体に占める割合は61.5％であり、その99％以上は農民（農業・牧畜業従事者）である。つまり、ロシア帝国軍は「6割が農民の軍隊」だったという訳である。 一方、職業とも密接に関連してくる出身階級ではどうだったか。身分別の統計では、71,802名中の69,162名が「平民」階級であり[12]、実に全体の96.3％を占めている。その他は、「公爵、男爵、世襲士族、終身士族、世襲名誉市民、終身名誉市民」を合計しても、2.2％（1,582名）にしかならない。また、身分が「不明」とされた者も1.5％（1,058名）あった。 ここまで、ロシア軍捕虜の実態について多角的に検討してきたが、最後に、軍隊での所属・階級ごとの分布を確認しておきたい。将校（准士官、将校待遇の文官を含む）は、陸軍885名（1.2％）、海軍546名（0.8％）の計1,431名（2.0％）である。他方、下士官・兵卒は、陸軍55,972名（78.0％）、海軍14,399名（20.0％）の計70,371名（98.0％）となっている[13]。これらの数字からは、二つの重要なことが分かる。一つ目は、日本に収容された捕虜全体の79.2％、すなわち五分の四が陸軍将兵だったということである。ロシア陸軍で「非ロシア民族」（非正教徒・「異教徒」）や「地方出身者」の割合が顕著だったことは、先述した通りである。そして二つ目は、下士以下の階級は、日本に収容された捕虜全体の98.0％に相当した、ということである。詳しくは後述するが、下士官・兵卒では識字率がかなり低かった。それはつまり、ロシア軍捕虜全体の識字率が低かったと、そのまま言い換えられることにもなるのである。 これらの日本側（陸軍省）が作成した統計は、あくまでも日本国内に収容し、平和回復後にロシア側に引き渡した捕虜についてのデータである。彼らはもちろん本国も含めた将兵全体の一部に過ぎない。とはいえ、日本に収容された7万人以上の捕虜は、当時のロシア帝国軍の全体像を投影する一種のサンプル（抽出された標本）であるとも言えよう。「実態」をはかる上での貴重な資料であることは間違いない。 ②ロシア軍兵士の文盲率――陸軍新兵の統計をもとに
このように多民族で構成されていたロシア帝国軍の、日露戦争期における識字情況はどのようなものだったか。軍の中に、読み書きのできない文盲の兵士はどれくらい含まれていたのだろうか。「読み書き能力」が軍事教練や指揮系統において重要なものであるとすれば、軍隊の能力を左右する一要因として、「識字率」は決して無視できないだろう。また、革命前のロシア軍兵士の教育レヴェルを把握しておくことは、ロシア（ソヴィエト）における普通教育の歴史を理解する上でも重要である。 ここでは、ロシア陸軍の新兵検査のデータをもとに、捕虜となった陸海軍将兵全体の識字率（文盲率）を試算する。近代以降、各国の軍隊では、徴兵検査の際に教育調査も合わせて実施しており、国勢調査や、結婚証明書への新郎・新婦の自署能力の統計と並んで、比較的信頼できるデータを提供している。 試算の前に、まずは「文盲（неграмотный）」の定義・範囲を整理しておきたい。日本語においては、「識字」をひとことで言い表せば「読み書き能力があること」になり、一方で「文盲（非識字）」は「読み書き能力がないこと」になろう。しかし「読み」と「書き」という二つの条件が重なっているため、事はそう簡単ではない。例えば英英辞典では、識字（literate）は《able to read and
write.》、文盲（illiterate）は《unable to read
or write.》との区別がなされている[14]。 『読み書きの社会史』（原題：Literacy and Development in the West）を著した経済史家カルロ・Ｍ・チポラは、その著書の中で、「『文盲』という言葉は、ごく控え目な意味では、印刷であれ手書きであれ、字句を読めないという意味に用いられる」と説明している。「まったくの文盲と文字のわかる人との間には、半文盲という中間の一群が存在する」からである。彼の言う「半文盲」とは、「読めるが書けない人びと」をその典型例として、「読み書きの両方ができるのに、何を読んでいるのかほとんど理解できなかったり、自分の署名のほかは何ひとつ書けない人びと」も含めている。もっとも、近代において「半文盲」の割合は、1％から10％の間に位置しており、決して多くはない[15]。 このチポラの定義をもとに、「読み」「書き」を分離して考えると、以下のような類別が可能である。 文盲 ……「読み」×「書き」× 半文盲 ……「読み」○「書き」× 識字 ……「読み」○「書き」○ ここで問題となるのは、「半文盲」を、識字と非識字（文盲）のどちらに含めるかによって、識字率の数値が僅かながら変化してくることである。『ロシア・ソヴィエト教育史Ⅰ』は、1897年の国勢調査のデータを挙げ、ロシア全土で9歳までの子供を除くと[16]、国民の27％が「読み書き能力」があり、一方73％が文盲だとしている[17]。しかし、この記述からは、「半文盲」が前者・後者のどちらに含まれるのか判然としない。 ただ、新兵検査に関して言えば、前出のチポラは著書の中で「書くことのできなかった新兵」を文盲としている[18]。すなわち「文盲」と「半文盲」を合わせた数値と受け取れる。したがって、ここでの「識字者」は、英語辞書にあったように「読む」だけでなく「書く」こともできる者に限定される、と言って差し支えないだろう。以上、文盲（あるいは識字）の定義にこだわったのは、第四章で日本側の徴兵時の教育調査と比較する際に問題となるからである。 次に、日露戦争前のロシア帝国全土の識字情況もあらかじめ概観しておきたい。ロシア軍が「多民族軍」であったことを考えると、各地方における教育水準を把握しておくことも必要であろう。前出の『ロシア・ソヴィエト教育史Ⅰ』によれば、まだ就学していない可能性がある子供を除くと、ロシア全国平均、および地方別の読み書き能力は以下の通りであった。[19] ロシア全土： 27％（男39％、女17％） ポーランド： 41％（男46％、女36％） ヨーロッパ・ロシア： 30％（男43％、女％18） シベリア： 16％（男25％、女7％） カフカス： 17％（男26％、女8％） 中央アジア： 6％（男10％、女3％） 各地の識字情況にこのような格差がみられたのは当然であろう。何より都市・農村間には、教育機会の不平等があったと考えられるからである。中央アジアのように識字率のかなり低い地域もあれば、一方では、モスクワ市のように61％（男72％、女46％）の者が読み書きできる地域も存在した。なお、このロシアの国勢調査（1897年）では、「半文盲」は文盲者に含まれなかったようである[20]。 ちなみに、当時のロシア帝国臣民の73％が文盲であったことは先にも触れたが、チポラの著書では、文盲の割合は72％となっている。細かい話になるが、1897年センサスでの帝国内の10歳以上の人口比[21]を考慮すれば、後者のほうがより正確であろう。 では、在日ロシア軍捕虜全体では、識字率はどれくらいあったのだろうか。戦地で捕虜となり、日本国内に収容されたロシア将兵を、ロシア軍全体からのサンプル抽出だとすれば、そこから全体の教育レヴェルを推し測ることも可能である。まずはこの試算の根拠の一つである、ロシア陸軍・入隊新兵のデータから見ていこう。 1874年から1913年までの陸軍新兵の文盲率の推移は文末のグラフ（図①）に示した通りである[22]。この40年間に、文盲者の割合が79％から32％まで、著しく低下しているのが窺える。言い換えれば、19世紀後半から帝政末期は、ロシアにおいて識字率が向上していく時期でもあった。とはいえ、陸軍新兵の文盲率が50％を下回ったのは、ようやく日露戦争前夜の1901年になってからである。 このデータに、『日露戦争統計集15』にあるロシア陸海軍の捕虜将兵の年齢別構成の統計[23]を重ね合わせてみる。同統計は、講和条約発効後にロシア側に引き渡された71,802名の捕虜のもので、年齢不詳者517名を除いた71,285名分の年齢が記載されている。統計表には、いつの時点での年齢なのか特に断り書きはないが、おそらく1904―1905年に捕虜となり、日本軍の取り調べを受けた際の申告年齢だと考えられる。 例外はさておき、多くの兵士が20歳前後で新兵検査を受けているとすれば、大半のロシア将兵が捕虜となった1905年を起点として、例えば25歳の兵士は5年前の1900年ごろに、30歳の兵士は10年前の1895年ごろに受検していることになる。つまり25歳の文盲兵士の割合は51％程度で、30歳では61％程度と推測される。新兵検査後、兵士の「読み書き能力」の獲得・向上があったことは十分に考えられるが、便宜的にその能力が新兵検査時のまま変わっていないと仮定しておく。そして、年齢別の陸海軍将兵の人員数にそれぞれの文盲率を乗じれば、各文盲者数および全体の文盲者数の概算値が導き出せ、ロシア軍捕虜全体での文盲率の算出できる。 以上から試算すれば、日本にいたロシア軍将兵の約57％が読み書きできなかったことになる。 ただし、ここでは全捕虜中2割を占めた海軍構成員にも陸軍新兵のデータをそのまま適用しているため、全体の文盲率はこの数値より若干低下することも考えられよう。海軍では、機関士といった技術者が必要とされるなど、一般的に言って、陸軍より幾らか教育水準が高い傾向にあるし[24]、また、教育を受ける機会が少なかったとみられる「地方出身者」の割合も、そもそも陸軍に比して低かったのである。 一方では、別の方法でロシア将兵捕虜の文盲率に近づくことも可能である。ロシア陸海軍の構成員の中心となったのは20代・30代の成年男子であった。『日露戦争統計集15』にある前出の年齢別構成データを基に算出すると、20―29歳の者は70.4％、30―39歳は27.2％であり、両者を合わせると97.6％に達する。取り調べ時期にばらつきがあるため、厳密な計算は不可能であるが、国内収容の捕虜将兵の平均年齢は28歳となる。 ここに、1890年のロシア国内において、11―20歳の「男性55％／女性78％」が文盲であり、21―30歳の「男性55％／女性81％」が文盲であったというデータがある[25]。日露戦争時（1905年）に陸海将兵の平均年齢が28歳なので、1890年当時であれば彼らの平均年齢は13歳。陸海軍の構成員は男性であるので、したがって「11―20歳」「男性」の区分に該当し、文盲率はおよそ55％となる。 以上、ロシア軍捕虜の文盲率について二種類の計算方法をとったが、陸軍新兵のデータからは57％、ロシア国内の年齢別統計（1890年）からは55％という推定値をそれぞれの試算から得ることができた。これら二つの数値は、かけ離れているものではなく、むしろ似通ってさえいる。とはいえ、いずれもロシア海軍や、教育水準の比較的高い将校（全体の2％いた）の存在などを考慮すれば、文盲率がこれより数パーセント低下することは十分に考えられる。さらに上記の二種類の試算はともに単純計算の域を超えないため、ロシア将兵全体での識字率は、5―6割と幅をもって捉えたほうが良さそうである。 ③在日ロシア軍捕虜の識字情況
今度は全体の推定値ではなく、文献にある記述から、ロシア軍捕虜の教育レヴェルおよび識字情況を観察していくことにしよう。おそらくサンプルの規模が小さくなればなるほど、文盲率には地域・時期による差が目立つようになると考えられるが、捕虜の「読み書き能力」については『日露戦争統計集15』にも言及されていないため、これらの具体な事例は注目に値する。 福知山収容所の捕虜に関しては複数の証言がある。日本ハリストス正教会の信徒が結成した「俘虜信仰慰安会」についは後述するが、同会の派遣司祭シメオン三井道郎は、1904年11月下旬に福知山を訪問した時の様子を『正教新報』に報告している。代筆によるこの報告文には、当地においては「伝聞するに俘虜中文字を知らざるもの殆んど其の三分の一に達する」と記されている[26]。 ところが『正教新報』の次号には、以前よりも正確な数字が得られためか、この情報とは異なる記事が掲載されている。 福知山収容所に於ける目下の状況を聴くに収容中の俘虜総数は三百二十五名に達したり〈……〉又俘虜の学識統計は普通以上の労力［ママ］を有するもの曹長一、軍曹〇、伍長三、上等兵二、兵卒五、普通学識ある者曹長一、軍曹一八、伍長一四、上等兵三、兵卒一〇七、姓名丈を書き得るもの伍長二、上等兵六、兵卒五五、一丁字なきもの上等兵三、兵卒八七なりと云ふ[27] この「俘虜の学識統計」に挙がっているのは下士官・兵卒のみで、合計しても307名である。引用文にある収容総数の325名には届かない。ともあれ、これらの数字を整理すると、「普通以上の学力を有する者」11名（3.6％）、「普通学識ある者」143名（46.6％）、「姓名丈を書き得る者」63名（20.5％）、「一丁字なき者」90名（29.3％）であったことが分かる。「姓名丈を書き得る者」は半文盲、「一丁字なき者」は全くの文盲と見ることができるので、合わせて文盲者の割合は49.8％である。すなわち、識字率は50.2％だった。 また、ロシア兵捕虜について研究がある檜山真一は、論文の中で、「福知山俘虜収容所の俘虜1,100名のうち約800名は字が読めなかった」という証言を紹介している[28]。もしこれが事実であれば、7割強が文盲であったということになろう。 以上は、福知山についての記述だが、このように同じ収容所であっても時期、証言（および情報源）によって識字情況は様々である。さらに地域によって、将校の割合が多い収容所、下士兵卒ばかりが集められた収容所など、様々な特徴がある。 日本で最初に開設された松山収容所についてはどうだったか。収容所当局が終戦直後にまとめた『松山収容露国俘虜』には、「下士以下ニアリテハ僅カニ自己ノ姓名ヲ記シ得ル者十中ノ四ヲ出デズ」とある。つまり、松山に収容された下士官および兵卒の6割以上が自署すらできなかったとしている[29]。辛うじて自分の姓名を書き得た者が「半文盲」と見なされるのであれば、文盲者の割合はさらに膨れ上がることになろう。 さらに同書には、以下の通り、将校と下士以下の間に存在する准士官の中にでさえ、文盲が多くいたことを窺わせる記述がある。 准士官ニ在リテハ多ク文盲トイフモ失当ニアラス自己ノ階級姓名ヲ記ス能ハサル者モアリ況ンヤ文ヲ作リ章ヲ綴ルカ如キハ殆ント彼等ニ望ム可カラス〈……〉元来准士官ハ兵卒ヨリ昇進スル者ニシテ日本ナラハ軍隊内ニ於ケル学科ニヨリテ相当ニ文筆ノ力モ付クヘキナレトモ彼国ノ軍隊ハ学科ニ重キヲ置カサルニヤ准士官ト成リテモ兵卒ト撰フ所ナシ[30] この日本側の報告者が、「彼国ノ軍隊ハ学科ニ重キヲ置カサルニヤ」などと、ロシア軍の教育問題に言及している点は興味深い。 以上、国内収容所にいた捕虜の識字情況についての記述を見てきた。個々の事例と、全体の統計からの概算値を比較しても仕方がない。とはいえ、文献に見えるこれらの記述を参考にするならば、先述の「下士兵卒が98％を占めた在日ロシア軍捕虜の文盲率は5―6割程度であった」という説明も、あながち無根拠なものではないと理解できよう。 第二章 ニコライの教科書
①俘虜信仰慰安会とニコライ主教
日露開戦以降、戦地から捕虜となったロシア将兵が国内に移送されてくるようになると、日本ハリストス正教会では、1904年5月、日本人教役者が中心となって「俘虜信仰慰安会」を発足させる。開戦直後、すでに彼らは、恤兵金の募集や傷病兵の慰問を行うべく「正教信徒戦時奉公会」を結成していたのだが、一方で、この「俘虜信仰慰安会」は捕虜となったロシア将兵への精神的・宗教的支援を目的としていた。 第一章で紹介した統計からも分かるように、ロシア軍捕虜の四分の三は正教徒である。同会の事業内容は、司祭や輔祭を全国の収容所に派遣し、日々の正教式祈祷などの宗教的慰安活動のほか、ロシア語書籍や義援金などの分配を行うというものであった。とはいえ当初、東京・駿河台にいたニコライ主教（写真①）は、日本人信徒が表立った活動をすることによって、彼らが「露探」（ロシアのスパイ）との嫌疑をかけられるのを恐れ、俘虜信仰慰安会結成への動きには慎重な姿勢もみせている。 しかしながら、現実問題として、捕虜として日本に収容されるロシア将兵の数は増加の一途をたどっていたのである。また、1904年4月6日には、ニコライは、パリのロシア公使から彼宛てに次のような電報が届いたことを、取り次いだ駐日フランス公使アルマンからの手紙によって知らされている。 「正教主教ニコライ殿。パリ、3月［4月？］5日。皇帝陛下は貴下に対して、貴下がわが国の負傷した、また捕虜となった海軍兵士に、イコンや書物等、彼らの宗教的希求を満たすに必要なあらゆるものを送り届けるよう、望んでおられる。」[31] これにより、ニコライは自ら捕虜将兵への援助に乗り出そうとするものの、身辺保護の観点から、彼自身の収容所訪問は許可されなかった。そのため、結果的に彼は俘虜信仰慰安会での日本人正教徒の活動を是認したのだろう。この支援事業の必要性を認識し、彼自身は東京に留まって、その中心的役割を担うことになったのである。 日露戦争期において、戦時国際法[32]に則って捕虜を厚遇することは、日本の「国是」であり、外交戦略でもあった[33]。このような支援活動は、「俘虜取扱規則」第5条に「俘虜ハ軍紀風紀ニ反セサル限リ信教ノ自由ヲ有シ且其ノ宗門ノ礼拝式ニ参与スルコトヲ得」[34]とあるように、捕虜を厚遇しようとする当局の意向とも一致していたといえる。言ってみれば、収容所側と俘虜信仰慰安会は、一種の「協力関係」にあったのである。 ただし、それと同時に、各収容所および中央の俘虜情報局を統括する陸軍省が、必ずしも日本正教会の司祭・輔祭を全面的に信頼していた訳でもなかった。防衛庁防衛研究所が所蔵する「俘虜収容所を訪問し教務施行する内外交宗教家取調の件」という文書からは、1905年5月、陸軍省副官東郷房太郎が各俘虜収容所長に対し、慰問目的で収容所に出入りする宗教家についての調査・報告を命じていたことが判明する。調査内容は「出入許可ヲ受ケタル年月日」「一ヶ月ニ出入スル回数」「宗教別」「国籍」「本人ノ性行」の5項目にわたり、正教会はもちろん、カトリックの神父もその対象となった。もっとも、この調査命令には、収容所側にとって「不審」な外国人宣教師の出入りを把握しておきたいという当局の意図が絡んでいたのかもしれない。 各地からの「通報」は迅速であった。例えば、明治38（1905）年5月14日には、東海、京滋、北陸地方を精力的に巡回した俘虜信仰慰安会派遣のシメオン三井道郎司祭の「性行」について、名古屋俘虜収容所長東常久より陸軍省副官へ、「品行方正猾智ナキガ如シ東京ニコライヨリ毎月四拾円ヲ受ケ露語ヲ能クス」[35]と事細かに報告されている。ともあれ、一定の協力関係の中で、日本ハリストス正教会による「俘虜信仰慰安事業」が円滑に進められたことは事実であった。 話を戻そう。ニコライは各地で捕虜のサポートを行う俘虜信仰慰安会の日本人神父の、いわば「司令塔」の役割を果す。その結果、東京の正教宣教団に届けられたロシア本国からの義援金は、宗教書や十字架などに形を変え、全国のべ29地方に置かれた収容所へ発送された。中でも、本稿のテーマである「ロシア兵捕虜への識字教育」と関連して注目すべき点は、文盲の兵士のために『初等読本（Российская Азбука）』が宣教団で印刷され、彼らのもとに送り届けられたことである。 終戦から百年後の現在も、大阪ハリストス正教会には、実際に各地の捕虜将兵へ発送された『小祈祷書』や『福音書』などと一緒に、このニコライ版の『初等読本』が大切に保管されている。 ②収容所へのロシア語教科書の発送⑴
日露戦争時のニコライ主教の日記には、彼が日本人神父やロシア将兵らと、手紙を頻繁にやりとりしていたことが記録されている。また当時の『正教新報』には、各収容所へ派遣された日本人神父からの膨大な量の通信記事が毎号掲載されており、彼らがニコライや俘虜信仰慰安会の役員らと連絡をとりあっていた様子が窺える。ニコライ自身は東京を離れることが出来なかったため、各地の捕虜に対して的確に援助物資を送り届けられるよう、このように情報交換をしていたのである。 収容所にいる文盲の捕虜が読み書き学習のためのロシア語教科書を必要としていることを、ニコライは日本人神父からの連絡によってはじめて知る。それは、松山収容所に派遣されていた司祭セルギイ鈴木九八からのものだった。 1904年9月9日、鈴木神父は、「祈祷後俘虜の中にて露語以呂波書を求め候もの在之候得共、手許に持合せ無之候間御送り被下度候」[36]と東京に発信している。松山は日本で最初に収容所が設置された場所であり、この日ようやく4番目の福知山収容所が開設されたばかりで、日本国内における捕虜の数もまだ多くはなかった。つまり一部の捕虜は、比較的早い時期から読み書き教育に関心を示していたことになる。 同年10月には、姫路・福知山両収容所に出入りしていたパウェル森田亮神父から、捕虜のためにロシア語教科書を送付するよう、ニコライ主教に要望があった。この時、ニコライは捕虜の求めに応じて教科書を発送している。おそらくまとまった部数が確保できたからであろう。10月6日の彼の日記を引用してみる。 パウェル森田神父からの知らせによれば、姫路の捕虜たちの中には読み書きを習いたいという者がたくさんいるという。森田神父はその者たちのために、初等ロシア語教科書［Азбука］を三〇冊送って欲しいと言ってきた。三十冊以上を送った。そして、姫路の捕虜の重立った人たち、すなわち曹長ストロジェンコと甲板長ペトロフに、学習希望者には教えてやって欲しいという手紙を書いた。もし必要なら筆記練習のための文房具を送ると約束した。〈……〉[37] このあと10月9・10日には、再度松山の鈴木九八神父から「露語伊呂波、初学読本類」を送付するよう要請がある[38]。ニコライはこの時、松山の捕虜たちの求めにも応じることができたらしい。翌月13日の日記に、「松山の捕虜へ、当地の文盲者の読み書き教育のためのロシア語初等教科書50部と、習字手本、文法書が発送された」[39]と書き残している。また、これに並行して松山の「習学俘虜」へは、正教神学校の生徒から「西洋紙六十五帖とペン先一袋」が寄贈されている[40]。 さらに、森田神父は同月18日にも、福知山から、「俘虜中の無学なる輩に姫路に於けるが如く此際文字を学ばしめ度きに付きアズブカ［アルファベット教本］と其他書籍の送付を得度〈……〉」[41]と、東京に連絡してきている。 これらの要求に対し、ニコライはどのようなロシア語教科書を捕虜のもとへ発送していたのだろうか。正教会附属の神学校ではロシア語が必修科目であり、最初のうちは宣教団所有の教科書を送っていた可能性もあるが、仮にそうだったとしても部数には限りがある。しかも戦時中で、当事国のロシアから早急に教科書を直接取り寄せることも困難である。この時点でニコライがとり得た方法は、国内でリプリントを入手することであった。10月27日の日記にそのことが書かれている。 丸亀と福知山へ、捕虜の中の文盲者に読み書きを教えるための文字教本、読み物、筆記練習のための筆記用具を発送した。文字教本は国内で、日本人が印刷したものを買わなければならないが、価格は一冊あたり27―30銭とかなり高い。各地への送った分は百部をはるかに超えたが、まだ送らねばならない。〈……〉[42] この時代、日本国内で購入できたロシア語教科書は、М・ヴォリペル編『ルースカヤ・レーチ（Русская речь）』（「ロシアの話し言葉」の意）のリプリントである。同書は、サンクト・ペテルブルクで出版された三分冊の教科書で、日本では績文舎が翻刻印刷し、邦題『露語読本』として松邑三松堂が発行していた。確かに、ニコライは各収容所に発送していた教科書について、日記に「『ルースカヤ・レーチ』（文字教本）」[43]または「ヴォリペルの文字教本」[44]と書き記している。その第一分冊「文字教本（Букварь）」（第42版、1903年）の翻刻版（第10版、1908年）は、現在、同志社大学総合情報センターや大阪外国語大学附属図書館が所蔵しているが[45]、おそらく内容は同じものであろう。 ちなみに、同書は日露開戦前、義和団事件やロシアの満洲進出を背景に内田良平が開設した「黒龍語学校」（1901―1904年）で使用されており[46]、陸軍幼年学校でも大正6（1917）年まで、第一・二学年で第1―3巻が教科書として採用されていた[47]。副題に「入学時にロシア語を話せない児童のためのロシア語教育用教科書」とあるように、そもそもは非母語話者用の教材であったようである。 話を戻そう。上記のニコライの日記（10月27日）からは、姫路、松山、丸亀、福知山の各収容所へ送った「文字教本」は、その日の時点で「百部をはるかに超えた」ことが分かる。そして、「まだ送らねばならない」とニコライが案ずる中、12月11日にも名古屋収容所にいるシメオン三井道郎神父から、「文盲を教育するための初等読本などを求めている」と連絡があった[48]。 翌年の3月31日には、名古屋の捕虜たちが30円の募金を東京の宣教団に送り、『ルースカヤ・レーチ』を250部求めてきたが、その時すでに、ニコライの手元にはそれほどの部数の余裕はなかった。前年の秋以降、同書は「各地で合わせて130部しか見つからず、それはもう発送してしまった」からである[49]。後述するが、このヴォリペルの「文字教本」は一冊28銭もした。これまでに送った130部の支払い分だけでも、36円40銭を要した計算である。 ③収容所へのロシア語教科書の発送⑵
ちょうどこの頃、1905年3月28日に、『キエフ人（Киевлянин）』紙の編集部から日本の正教宣教団のもとへ、「旅順要塞の捕虜とその家族のための義援金」として2,706円12銭が送られてきていた[50]。米価で換算すると、当時の「1円」が現在の約5,000円に相当するので、かなりの大金である。ニコライ主教は直接「当事者」の意見を聞く必要があると考えたのだろう。同月30日、彼は名古屋の西別院収容所にいた旅順要塞総司令官К・Н・スミルノフ陸軍中将（写真②：前列中央）に、この義援金を「旅順の捕虜とその家族」にどのように分配すべきかについて、手紙にて助言を求めている[51]。これに対してスミルノフは、「半分は不具者となった旅順の将兵の家族に分配するためロシアに戻し、もう半分は文盲の教育や読書のための本代として使ってはどうか」と返答したという[52]。義援金は半分でも1,353円余りである。ニコライは彼の助言にしたがい、読み書き学習用の『初等読本』を宣教団で印刷することにした。 ただ、印刷するには部数を確定させる必要がある。4月11日、ニコライは陸軍省に照会し、現時点で日本国内に63,844名の捕虜が収容されているという情報を得ていた[53]。しかしながら、それだけでは『初等読本』を必要とする文盲者の数まで分からない。そこで彼は、実際に収容所にいるロシア将兵の中で信頼できる人物に、現地の識字情況（文盲率）を聞き、部数を算出しようとした。4月16日の日記に、その詳細が記されている。 〈……〉К・Н・スミルノフ将軍からの手紙によると、日本にいるロシア人捕虜のうち、どうやら20％が文盲らしい。一方、習志野のアレクセイ・サランキン曹長――手紙からして、賢くて教養ある人物――は、当地では3000人の捕虜の25％が文盲であると知らせてきた。すなわち、6万3844人の全捕虜のうち、後者の計算では文盲は1万5961人に達する。将軍の計算をとるならば、1万2768人が文盲ということになり、彼らの初等読本は――将軍が考えているように二人で一冊を使うなら――6384冊が必要である。彼は5700冊と見込んでいるが、それはまだ旅順にいる5085人の捕虜を除いた5万8759人だけを対象としているからである。このくらいの量の本が日本で印刷できないか、調べてみよう。ロシアから送ってくるのを待つのは、あまりに長くなるだろうから。[54] ニコライは、名古屋のスミルノフの「20％が文盲」という情報から、12,768名が読み書きできないと判断、二人に一冊使うとして、最低でも6,384部が必要であると考えた。だが、スミルノフ将軍やサランキン曹長による「見積もり」は、かなり低めの数値ではなかったか。第一章で紹介した文盲者数についての証言などと比較してみても、実情とは大きく食い違っていることが分かる。ここで名古屋と習志野の文盲率に差があるのは、証言者が異なっていることが何よりの原因と考えられるが、将校の数が比較的多い名古屋に対して[55]、習志野ではもっぱら下士以下を収容していたことも影響したのかもしれない。 続いて、ニコライの翌4月17日の日記である。この一日で業者に調べたのか、ここでは印刷費用について具体的に書かれている。 印刷が終わり、今日書店［松邑三松堂か？］から届いたヴォリペルの文字教本を、習志野へ300部発送した。700部がまだ印刷中で、これも受け取る予定。今後は、成人に不要な挿絵を一切省いた、小さな文字教本を自分たちで印刷することにしよう。そうすれば一冊あたり二銭で済む。今のものでは一冊につき28銭も支払わなければならないから。〈……〉[56] この時までに、ヴォリペルの『ルースカヤ・レーチ』（文字教本）は、3月末までの130部と合わせると、少なくとも計1,130部が注文・購入されている。一冊が28銭なので、支払い総額は単純計算でも316円40銭に上った。しかし、「幸い」にも書店への注文はこれが最後となる。今後はその代わりに捕虜向けに編集した教科書を、一冊あたりこれまでの十分の一の価格で印刷できることになったのである。 結局、このニコライ版の『初等読本』は、彼がスミルノフ将軍の「助言」をもとに出版を計画してから2ヶ月後の6月16日までに15,000部が印刷された[57]。当初の見込み部数の二倍以上になった理由は、文盲者が予想以上に多いことを知ったか、あるいは文盲は全体の20％（12,768名）と見込んだけれども、印刷費用に余裕があり「一人一冊」分として刷ったかのいずれかであろう。 とにかく、一冊あたりの印刷代金が2銭であるので、かかった経費は約300円であったと見てよい。つまり『キエフ人』紙からの義援金（2,706円12銭）の半分以下、わずか九分の一で済んだことになる。ニコライ主教は、ヴォリペルの「文字教本」計1,130部の注文に費やした計316円40銭よりも安い金額で、その10倍以上の部数を印刷することができたのである。 なお、1905年4月から6月にかけて、ニコライが『初等読本』の印刷に取り組むまで、正教信徒による俘虜信仰慰安会では、実は捕虜向けのロシア語雑誌を刊行することが計画されていた。3月にはすでに陸軍省に許可を申請しており、その誌上では「宗教文学に関する事項」をはじめ「取締上の利益に俘虜に要する法律命令等」の露訳を掲載し、「俘虜の消息に付き本国より照会の人名を紹介する」予定だった[58]。 ところが『初等読本』が出版されることによって、そのロシア語雑誌刊行の計画は中止となる。7月1日発行の『正教新報』第590号に、次のような記事が出てくる。 「俘虜用露語書類の出版」 嘗て本誌にも記載せる事ある如く二三有志者の発起にて俘虜の為に露文雑誌を刊行するの計画ありしが主教閣下は俘虜の為に特別寄附金を以て俘虜用の読書を続々刊行せらるゝ由にて雑誌の刊行を見合はする事となり先以て俘虜教育に要する露語読本を出版せられ次で小祈祷本並に福音書の印刷中なる由[59] 日本の宣教団での発刊が難しくなったロシア語雑誌は、代わりに神戸デイリーニュース社から『日本とロシア（Япония и Россия）』という題名で、第1号が1905年7月8日に発行された。同月18日には「発行兼編集人」である同社の辻岩雄が、陸軍省に「他ノ新聞同様閲読御許可ノ内ニ御追加被成下度〈……〉」と申請書を出している[60]。同誌は、当初は「俘虜慰安を主とし戦後は日露両国の国際及貿易上に資する」[61]ことを目的として刊行されたものの、後に革命家ニコライ・ラッセルが編集権を握り、政治色を帯びるようになることで知られている[62]。 さて、引用の記事中にある「特別寄付金」とは、先述した『キエフ人』新聞・編集部からの義援金などを指していると思われる。『初等読本』に続き、『小祈祷書』は早くも6月28日までに65,000部刷り上っている。代金として884円が支払われ、一冊あたりの価格は1銭3厘6毛であった[63]。ただ、陸軍省から「63,844名」という情報を得ていた4月から、捕虜収容数が若干増えていることが分かったため、『小祈祷書』は7月以降、さらに追加で2,000部印刷されたようである[64]。 ニコライは捕虜となったロシア将兵の中に、非正教徒はもちろんのこと、「異教徒」が数多く含まれていたことを知っていたはずだが、不思議なことに『小祈祷書』については、捕虜全員分を印刷している。もっとも、彼を文字通り「宣教師ニコライ」と見なせば、その行動はむしろ自然なものと言えるかもしれない。遡って同年春の復活大祭（パスハ）に際しても、パンフレットを将兵全員に行き渡るように印刷・発送していたことが、彼の4月24日の日記から分かる。 〈……〉捕虜のいる各地への小冊子の発送に丸一日を費やした。「日本正教会からロシアの兄弟への復活大祭の祝辞」は7万部印刷された。文字が読める者にも、読めない者にも、全員が一冊ずつ受け取れるように送った。〈……〉[65] キリスト教以外を信ずる「異教徒」まで対象としていたのはもちろんのこと、捕虜の中の識字者だけでなく、文盲者にも送付していることは重要な点である。 ニコライによる、捕虜への書籍・パンフレット類の送付と、文盲者への識字教育の支援という二種類の行動の間には、密接なつながりがあったと考えられる。ニコライは、たとえ彼らが「囚われの身」ではなかったとしても、宗教的・精神的充足のためには「識字」というものが不可欠であると認識していたのではなかっただろうか。 ④教科書比較――ニコライ版『初等読本』の特徴
ニコライは、日本人神父を通じて捕虜からの申し出を受けると、既存のヴォリペル編『ルースカヤ・レーチ』を注文し、各収容所へ発送していたのだが、費用・部数の面を考慮して、言わばニコライ版の『初等読本』を東京で印刷するようになった。 現在、大阪ハリストス正教会に所蔵されている冊子の表紙には、《Российская азбука – содержащая в себе: молитвы,
заповеди, нравоучительные басни и таблицу умножения, Токио, 1905.》［『ロシースカヤ・アーズブカ（初等読本）――祈祷文、戒律、教訓的寓話、九九表収録』東京、1905年］とある（写真③）。一般的に言って、ロシア語初等教科書のタイトルには、「ルースカヤ・アーズブカ（Русская Азбука）」のように「ルーシの（русская）」という形容が付くことが多いが、ニコライ版のそれには「ルーシの」ではなく、「ロシアの（российская）」という形容がなされている。これは推測の域を出ないが、日本で教科書を編集するにあたって、ロシア民族である「ルーシ人（русский）」に限定せず、非ロシア民族を含めた「ロシア帝国臣民（российский）」を対象とすることから、あえてこの題名を採用したのかもしれない。 全56頁の目次を示せば、以下の通りである。 1―6頁：Прописи［習字手本］ 7―12頁：РУССКАЯ АЗБУКА［ロシア語初等読本］ 13―19頁：МОЛИТВЫ［祈祷文］ 19―21頁：ДЕСЯТЬ ЗАПОВЕДЕЙ［十戒］など 22―50頁：БАСНИ［寓話］ 51―54頁：ЦЕРКОВНО-СЛАВЯНСКОЕ ЧТЕНИЕ［教会スラヴ語の読み方］ 55頁：［アラビア／スラヴ／ローマ数字対照表］ 56頁：ТАБЛИЦА УМНОЖЕНИЯ［九九表］ 内容は「習字手本」に始まり、アルファベット表を含む「ロシア語初等読本」へと続くが、13頁からは「祈祷文」「十戒」などが登場する。また21篇の「寓話」[66]に続いて、51―54頁では「教会スラヴ語の読み方」が説かれている。そして、冊子は「アラビア／スラヴ／ローマ数字対照表」と「九九表」で終わっている。 ニコライの「宗教家」としての立場を考えれば当然であろうが、これらの内容から、同教科書は宗教色のかなり強いものとなっていることが理解できよう。もっとも、帝政ロシアにおける宗務院管下の教区学校の存在、あるいはゼムストヴォ立学校での司祭による教育に鑑みれば[67]、この時代より「一昔前」においては、概ね平均的な初等教科書であったもと言える。旧来、文字を読むということは、もっぱら「宗教書を読む」ことを意味した。「宣教師」としてのニコライが『初等読本』を印刷した目的は、「文字を勉強したい」という文盲の兵士の要望に純粋に応えることに加えて、彼らが祈祷書や福音書を読めるようにすることにもあったと考えられる。 さて、ニコライ版『初等読本』には他にどのような特徴があるのか。また、当初、東京の宣教団より各収容所に発送されていたヴォリペル編『ルースカヤ・レーチ』と比較すると、一体どのような違いがみられるのか。 ヴォリペルの「文字教本」の扉（写真④）には、《М. Вольпер, Русская
речь: учебное руководство, примененное к обучению русскому языку в тех школах,
в которых дети при поступлении не умеют говорить по-русски. В трех выпусках с
600 рисунками в тексте. Выпуск первый. Букварь, издание Д. Д. Полубояринова,
С.-Петербург, 1903.》［М・ヴォリペル編『ルースカヤ・レーチ（ロシアの話し言葉）――入学児童がロシア語母語話者でない学校のためのロシア語教育用教科書／三分冊、600の挿絵付き／第一冊・文字教本』（第42版）サンクト・ペテルブルク、1903年］とある。 この第一分冊「文字教本」は、全64頁で、第1―27課（5―53頁）では、挿絵を交えながら、発音と綴字を並行して学習できるようになっている。続いて第28―37課（54―59頁）では、力点（アクセント）の有無による母音の音変化や、子音の無声化、軟音記号による口蓋化などの発音上の規則について、細かく説明がある。アルファベット表は、巻末近くの60頁になってやっと掲載されているに過ぎない。 つまり、ニコライの『初等読本』が読み書き教育自体にはあまり重点を置かず、もっぱら宗教的・道徳的な「読み物」として性質が強い一方で、ヴォリペルの「文字教本」は書くことを中心とした純粋な学習書となっているのである。もっとも、ニコライ版の教科書は《азбука》［アルファベット教本］で、ヴォリペルの第一分冊は《букварь》［文字教本］であるという、外面的な違いがあることも忘れてはならないだろう。 さらに、両者における根本的な違いは、そのロシア語教授法にもある。帝政ロシア時代においては、19世紀前半から初等教科書に変化が見られるようになり、特に1860年代になると、中世以来の「綴字法（буквослагательный метод）」から、「音声分析・総合法（звуковой
аналитико-синтетический метод）」へと教授法が移行していく。「綴字法」では、例えばアルファベットA／Б／Вの［аз／буки／веди］あるいは［а／бе／ве］といった読み（条件的名称）を認め、その読みから音節を、音節から単語を形成するのだが、「音声法」では、母音・子音を個々の「音」として認識するため、条件的名称は不要となる[68]。 ニコライの『初等読本』では、アルファベットを新・旧二種類の条件的名称（「教会スラヴ式の発音（по славянскому
произношению）」と「新方式の発音（произношение по новой методе）」[69]）とともに学んだ後、文字から音節をつくるプロセスを経ずして、音節ごとの発音に移行している。この特徴からすれば、同教科書は、ロシアで1820年代から出版されるようになる、「綴字法」を改良した「音節原理」による教授法に基づいたものと言える。それに対して、ヴォリペルの「文字教本」は、文字の条件的名称や「音節表」を使用しない、新しい「音声法」に則った教科書となっている[70]。 前述のようにニコライは、一冊28銭もするヴォリペルの「文字教本」から新たに捕虜向けに印刷した『初等読本』に切り替えるのだが、この転換はアルファベット教授法の変遷からみれば、むしろ「逆行」を意味したのである。ただ、彼が当時このような点まで意識していたかどうかは疑問で、単に「一冊2銭で印刷できる廉価な教科書に転換し、内容も宣教団なりに改善した」とみたほうが良さそうである。 ところで、ニコライは先に引用した1905年4月17日の日記で、「成人に不要な挿絵を一切省いた、小さな文字教本を自分たちで印刷する」と言っていた。なるほど、ニコライ版『初等読本』を見ると、学習内容と関連するような挿絵は一つもなく、「祈祷文」と「十戒」の部分に1ヶ所ずつ、余白を埋めるようにしてカットが入っているだけである。一方で、ヴォリペルの『ルースカヤ・レーチ』は全三分冊では計600点の挿絵が付いており、第一分冊だけでも298点もの挿絵が入っている。ニコライ版では「不要な挿絵を一切省いた」とはいえ、それでも文字ばかりで全56頁の分量となっているのである。挿絵が多く、全64頁の分量があるヴォリペルの「文字教本」と比較しても、決して「小さな文字教本」にはなっていない。 先述の通り、ニコライが独自に教科書を印刷することを計画したのが1905年4月、完成したのが6月である。この印刷を含めた二ヶ月間に、日本国内で、実際に誰がどのようにして教科書の編集を行ったかは定かではない[71]。それは当時、日本宣教団で唯一のロシア人であったニコライ自身かもしれないし、彼の翻訳協力者である中井木菟麿かもしれない。あるいは正教神学校校長で、捕虜向けに『露文日語独習書』を著した瀬沼恪三郎の可能性もある。内容からすれば、「ロシア語初等読本」（7―12頁）の一部および「祈祷文」「十戒」「寓話」（13―50頁）の使用活字が同一であるが、他の部分の活字とは異なっているため、既存のロシアの教科書の翻刻というより、日本である程度テキストを作成したという印象も受ける。アルファベット表、教会スラヴ語テキスト、数字対照表、九九表などについては既存の印刷物から転用であろう。 単なる翻刻（復刻）であれば、ヴォリペルの「文字教本」のように日本の業者でも印刷・発行することができる。しかし、正教神学校出版部が『露文日語独習書』を出版しているように、当時の宣教団には独自に露文で編纂する能力はあった。そのことから言っても、また、先述のような宗教的・道徳的「読み物」という性質からしても、ニコライの『初等読本』は単なる既製品の翻刻版ではないと考えられる。 ⑤『小祈祷書』に残された兵士の筆跡
『初等読本』の完成からほどなく、1905年6月下旬から7月にかけて、『小祈祷書』が65,000部以上（推定67,000部）印刷されたことは、先に述べた。冊子が刷り上り、収容所への発送が始まる6月28日、ニコライは添え状として以下のような手紙を認め、若干部を印刷して収容所の捕虜のもとに送っている。 敬愛すべき同胞諸君！ あなた方の多くから受け取った手紙で、何よりも頻繁に祈祷書と福音書を送付するよう求める声に出会いました。敬虔な信仰心の表れであるこのような要望を、私はいつも嬉しく思っています。しかし、残念なことに、私には遠方にいる皆の要求を充たすことはできません――宣教団の図書館ではお望みの書籍は底をつき、ロシアから入手できるものも不十分なのです。信仰心からの希望・要求に応えぬままであってはいけないと、私は日本で小祈祷書と福音書を印刷することにしました。祈祷書は完成し、現在発送中です。将校と下士卒の諸君、後者については読み書きできる者もまだそうでない者も、信仰的・精神的な用に供するため、一部ずつ受け取るよう願います。 東京にて、1905年6月15日（新暦28日）、主教ニコライ。[72] 受け取りを拒否した「異教徒」などを除けば、冊子は基本的に識字・非識字を問わず、一般兵卒にまで隈なく配付されたのである。 この『小祈祷書』は、現在、大阪ハリストス正教会が同じものを4冊所蔵している。冊子の表紙には《Краткий молитвослов, Токио, 1905.》［『小祈祷書』東京、1905年］とある（写真⑤）。また、裏表紙に目を移すと、《Перепечатано с русского, благословенного Святейшим Синодом, издания. Начальник Русской Духовной
Миссии в Японии, Епископ Николай.》［宗務院によって祝福されたロシアの出版物からのリプリント。在日本ロシア宣教団長・主教ニコライ］と印刷されている。同教会管轄司祭のダヴィド水口優明神父の説明によれば、同書は内容・性質からして、「家庭、個人で読むための祈祷書」とのことである。 2004年10月、筆者が資料閲覧のため大阪正教会を訪れた際、興味深いことに、そのうちの1冊から下級兵士と思われる捕虜の自筆の書き込みが見つかった。 この冊子の表紙裏には、《сей молитъвенкъ
Принадлежитъ Григория мойсеевича вустяна выданъ дъля чтения священо Писанйя –
sic.》［この祈祷書はグリゴリー・モイセヴィチ・ヴスチャンの所有物で、神聖なる記述を読むために配布された］という、インク文字の筆跡が残されている（写真⑥）。解読する分には特に問題はないものの、一見すれば文法が無茶苦茶であることが分かる。なお「ヴスチャン」という姓からして、アルメニア系の兵士であったとも推測される。 誤記について言えば、第一には、本来なら格変化のため、動詞の要求により《Григорию Мойсеевичу
Вустяну》と「与格」になるべきところが、誤って《Григория мойсеевича вустяна – sic.》と「生格」で書かれている。第二には、大文字が文頭や固有名詞の語頭に正しく使用されていない。これについては、文法規則を知らなかったというより、単に大文字・小文字の区別、書き分けができなかったものと思われる。そして第三には、硬音記号（ъ）の使用が不規則で、子音の語尾だけでなく、語中の子音の直後にも付けられている。つまり、「音節」という概念が、あまり理解できていなかったのだろう。 この書き込みは、日露戦争時の捕虜（非ロシア人兵士？）が実際に残していった形跡として、貴重な史料であると言える。「ヴスチャン」という兵士が、ロシア本国である程度の教育を受けていた者なのか、あるいは日本に来て初めて『初等読本』で文字を学んだ者なのかは判然としない。しかしながら、いずれにせよ、ロシアで教育を受けていた場合には筆記能力はこの程度の水準であり、日本で初めて読み書きを学習していた場合にはここまで書けるようになったという、一つのケースとして見ることはできる。 さらに、大阪正教会が所蔵している『小祈祷書』の残る3冊のうち2冊にも、捕虜の記名のみが確認できた。一方の冊子には、裏表紙裏に《Борисычевъ》「明治三十八年十月廿四日 大津［原文縦書き］」とあり、もう一方には、同じ裏表紙裏に上下逆さまで《Иванъ Игнатьевичъ
Перминовъ》「明治三十八年十月廿四日［同上］」とある。筆記具は漢字も含め、いずれも鉛筆である。最初に挙げた書き込みもそうであるが、『小祈祷書』は一般兵卒まで全員分配布されていたので、この3冊の例以外にも、多くの「所有者」が自分の名前を記入していたことが想像されよう。 縦書きの「日付」は、筆跡から同一人物（日本人）によるものであることが容易に分かる。おそらく、帰国するロシア将兵から冊子を引き受けた時に、記録として書き込んだのであろう。筆記具が同じであることから、もちろんロシア語の「署名」自体、その際に求めたものである可能性も捨てきれない。この「日付」を残した人物は、正教会関係者と考えてほぼ間違いない。少なくとも片方を「大津」で譲り受けているということは、俘虜信仰慰安会から大津収容所に派遣されていた二名の司祭――シメオン三井道郎とアキラ広田欣太郎、あるいは各地を巡回した同会幹事のワシリイ山田蔵太郎のうちの、いずれかの可能性が高い。 このように今日、『小祈祷書』が4冊まとまって大阪ハリストス正教会の資料室に保管され、それらと一緒にニコライ版『初等読本』や、後述する『福音書』「紀念写真帖」も一部ずつ所蔵されている。日露戦争時のニコライ主教と俘虜信仰慰安会の活動を物語る貴重な資料がここまで揃っているのは、非常に珍しいことである。この理由について、大阪正教会の水口優明神父は、「『日本正教史』（1978年）を著した故・牛丸康夫神父は過去に大阪に在任していたことがあり、これらの印刷物も同神父が蒐集したものではないか」と説明する。また、松山収容所派遣司祭・鈴木九八の伝記を著した金石仲華も、同書の中で、平成元（1989）年に大阪教会を訪問した際、当時の松平康博神父から「これらの［祈祷書などの］資料を集めた三谷武馬、有原次良、牛丸康夫の各神父の努力と熱意」を聞かされた、と証言している[73]。 ⑥銀製十字架と『福音書』の配付
『小祈祷書』の各収容所への配布が終わると、今度は東京の宣教団で捕虜将兵全員を対象に、銀製十字架を製造し、さらに『福音書』を印刷して寄贈することになった。その頃の『正教新報』には、これら二件の寄贈について、「日本教会に対する紀念の為とて主教閣下の配慮に依れるものなり」と記述がある[74]。 後者の『福音書』については、大阪ハリストス正教会で「現物」を見たところ、本の扉に《Господа нашего Иисуса
Христа святое евангелие от Матфея, Марка, Луки и Иоанна, Синодальная типография, Санктпетербург, 1878.》［『我々の主イイスス・ハリストスの聖福音書――マトフェイ伝、マルコ伝、ルカ伝、イオアン伝』宗務院印刷所／サンクトペテルブルグ、1878年］とあった。日露戦争時に国内で印刷・製本したということは、これは既存の1878年版の同書からの翻刻版ということになろう。1905年7月20日には、ニコライ主教がこの校正作業をしている[75]。 上記の銀製十字架の発送は同年8月30日に始まっている[76]。この作業に並行して、9月1日には『福音書』の一部が完成し、宣教団に納入された。この日のニコライの日記には、「製本屋のフリサンフのもとより福音書が一万四〇〇〇部運ばれてきた。全部で六万八〇〇〇部となる。〈……〉十字架の発送を終えたら、福音書を送ろう」とある[77]。フリサンフという製本工について詳しいことは分からない[78]。ただ、印刷・製本を請け負った業者は一つではなく、複数あったようである。ニコライの9月26日の日記に、計68,000部もの『福音書』を調達するまでの経緯が書かれている。 捕虜への福音書の発送が完了した。 大変な仕事であった。装丁ひとつとっても我々の仕事は68,000部に及んだ！ 70日間、80人が装丁に尽力し、女性150人が全紙を折りたたんだ。6つの印刷工場が協力して稼動した。福音書一冊の印刷・製本には15銭かかった。将校用の金メッキを施したものは幾らか高い。[79] 先に宣教団で印刷した『初等読本』や『小祈祷書』と異なり、この『福音書』はハード・カバーの装丁が施されている点に特徴がある。大きさはポケットに入るほどの小型版である。大阪正教会に残っている一冊には、赤色の表紙にさらに金文字で《ЕВАНГЕЛІЕ》と押してある（写真⑦）。これが文中にある「将校用」のものであろうか。 『福音書』の完成後、発送前に山積みとなっている写真が、『正教新報』第596号に掲載されている（写真⑧）。キャプションには、「主教閣下より俘虜に寄贈の福音書六万八千部の一部分」とある[80]。また、同じ号には、「俘虜に贈与せる聖書荷造り此箱数約五百箇」という写真も掲載されており[81]、目を凝らすと写真右下（右手前、上から二段目）の木箱に、縦書き（横向き）で「松山」の二文字が確認できる（写真⑨）。 ちなみに、これらの『福音書』に先行して各収容所では十字架が配布されたのであるが、受け取りを望まない捕虜（非正教徒、「異教徒」など）には、銀製十字架とその絹紐の代金として15銭が支給された[82]。この点では、「多民族」で構成されていたロシア帝国軍の正教徒以外の将兵にも、一定の「配慮」がなされていたことが窺える。これについて『正教新報』には、「聖書と十字架は各収容所俘虜に洩なくニコライ主教より寄贈され他教派に属する者には之に相当せる金員を寄贈されたり」[83]と説明がある。この記述が正しければ、「聖書」（『福音書』のこと）の受け取りを拒んだ捕虜にも、それ相応の代金が渡されているはずである。つまり、「異教徒」らには十字架代15銭に加え、『福音書』一冊の印刷・製本にかかった15銭が支給されていたのではないだろうか。 ⑦「紀念写真帖」と正教青年会への寄贈図書
1905年10月にポーツマス講和条約が発効すると、各地の収容所にいるロシア将兵は「捕虜」の身分ではなくなり、ロシア側の代表ダニーロフ中将に引き渡され、順次帰国の途に着いた。その頃、俘虜信仰慰安会では、《На добрую память –
Остябрь 1905г., Токио, 1905.》［「良き思い出に――1905年10月」東京、1905年］と題された小判・多色刷りの「紀念写真帖」（写真⑩）を印刷し、将校や下士官に配布している。同会役員や派遣神父、東京復活大聖堂（いわゆる「ニコライ堂」）、それにニコライ主教の写真などを集めたもので、冒頭にロシア語で将兵らへの送辞が記されている。また、この小冊子の裏表紙には、《Японское Православное
Общество духовного утешения военнопленных》［正教信徒俘虜信仰慰安会］の文字とともに、同会のシンボル・マークである「鳩」の絵が印刷されている。 ここではその送辞を、『正教新報』に掲載された和訳で紹介する。 ハリストスに於ける至愛なる兄弟よ 我等の送辞を受けよ、誠の愛と熱切なる祈祷を以て我等は諸君を送る、神の使は諸君と共に旅し、神は全く且平安に諸君を諸君の愛する本国に帰らしめ給ふ、其途や遠し而も終に到達せむ、善は諸君全体が預言者ダビドの如く各自其心霊を以て祈祷するや論なきを以てなり、 諸君は其帰国に於て大なる喜びを各自の親戚と朋友に携へて行けよ、神は諸君の総ての者に健康と平和とを与へ給はむ、我等は此処に在りて我等の祈祷に於て諸君を記憶せむ、諸君亦我等の為に祈り給へ、請ふ祈れよ、神は誠の聖なる福音の光にて我等の全国土を輝すことの速かならんことを、ドーブルイ、プーチ、ドーブルイ、プーチ（御機嫌能うの意）[84] この「紀念写真帖」は好評を博したようである。豊橋では、将兵が「永遠の紀念なり」と言ってポケットに入れて持って行き、中には「尚二三冊戴きたし」と言う者もいたと、派遣された内田輔祭が報告している[85]。 さて、この頃、小冊子配布に並行して、俘虜信仰慰安会では興味深い動きがあった。これから日本を離れるロシア将兵に対し、ロシア語の書籍・雑誌を「正教青年会」（代表：山田蔵太郎）に寄贈するよう求めたのである。それによって同会は図書室を設立することを計画していた。当時、ロシア語図書が貴重だったことは想像に難くない。将兵個人および収容所内図書室の蔵書には、戦地より所持品と一緒に日本に持ち込んだ本や、慈善団体などから収容所に送られた本などがあった。寄贈とはいえ、後者のうち俘虜信仰慰安会の母体である宣教団（およびニコライ主教）が送った宗教書などであれば、事実上の「返却」を意味する[86]。 正教青年会の山田蔵太郎が、1905年11月27日、横浜港に帰国将兵の見送りに行った際に兵士から書籍を贈られた、というエピソードを『正教新報』に寄せている。 〈……〉近来に到りて青年会に連関して小名の聊か彼等間に知られしより一兵卒の如きは飛び立つ如き歓喜の情を披瀝しポケツトより一巻の書籍を攫み出し青年会の用に供し呉れよとて余の手に渡せり想ふに船中の無聊を慰むる惟一の友なるべきに之をも犠牲に供して惜まざる其天真の心情は露人の特性として屡々実験する所なるが何時も其流露たるには感に打たれざるを得ざるなり船中の無聊を言ひて辞したれども中々承知せざる者から止むなく之を収めて感謝の意を深く彼に表しぬ。[87] この記事を見る限りでは、書籍の寄贈は先方からの自発的なものであり、「美談」じみた印象を受けるが、寄贈書の収集は実際には正教青年会による計画的なものであった。同紙の善通寺からの通信記事には、「同［10月］六日 正教青年会より来状あり同会は他日図書館設立するの計画なれば俘虜等の所有に係る書籍雑誌を彼等帰国の時寄附する事の勧誘を依頼し来れり」[88]とある。これ以上の説明は要らないだろう。同じような勧誘は各地でなされたものと推測される。 寄贈図書の分量はどのくらいであったか。例えば、浜寺では12月、捕虜より寄贈された書籍が「ビール箱九個」「内聖書は二箱半」に達し、その多さのため、停車場（駅）前の運送店から東京ではなく、一旦大阪教会に発送された[89]。また、福岡の日明収容所では、三ヶ尻という通訳もロシア語図書の寄贈を求めたため、正教青年会とで折半したというケースもあった[90]。 なお、この正教青年会に寄贈された書籍の一部は、不思議なことに、現在、東京外国語大学附属図書館に所蔵されるに至っている。その経緯を遡るとこうだ。 これらは、「露西亜学会」という団体からの寄贈書の中に含まれている。同図書館の東京外国語学校時代の受け入れ記録の原簿を見ると、文学関係から自然科学系まで、大正13（1924）年5月26日に61タイトル／68冊、昭和14（1939）年2月1日に306タイトル／404冊の、計472冊が寄贈されている。ただ、「露西亜学会」について詳しいことは分かっておらず、これらの書籍の中に、幕末遣露留学生で後の旧東京外国語学校教授・市川文吉の署名（ロシア語）や蔵書印があるものが混じっていることから、彼と何らかの関係があった団体と推測される程度である[91]。また、なぜ二度にわたり同学校に書籍が寄贈されたのか、今後、明らかにすべき点であろう。 それはさておき、この「露西亜学会」に、日本ハリストス正教会の旧蔵書が渡っているのである。実際、同会から東京外国語学校への寄贈図書の中には、《ЦЕРКОВНАЯ ПЕЧ.
РОССІЙСК. ДУХ. МИССІИ ВЪ ЯПОНІИ》［在日本ロシア宣教団教会印］という丸型の蔵書印が押されたものが多数含まれている[92]。つまり、東京復活大聖堂（ニコライ堂）付設の図書館にあった青年会への寄贈図書の一部が、何かのきっかけで「露西亜学会」なる団体に移管され、それが最終的に同学校の図書館に寄贈されたという訳である。 これらの図書中、『トルストイ伯作品集』第10巻・「アンナ・カレーニナ」（1893年）[93]の見返しには、同書が正教青年会に贈られたことを確認できる、一下士官の手による書き込みが存在する。 Преподношу эту книгу, кружку православныхъ
юношей въ Токiо. 7 октября 1905 года. Русско-военно-плѣнный Портъ-Артурскаго
гарнизона, 10 роты 5 Восточно-Сиб. стр. полка, унт. офицеръ, Иванъ Колмаковъ.［東京の正教青年会にこの本を寄贈する。1905年10月7日。東シベリア第5歩兵連隊・第10中隊、旅順港守備隊のロシア軍捕虜、下士官イワン・コルマコフ］ 他にも、日露戦争期の極東のロシア軍部隊の蔵書と思われる本が見受けられ、目に付いただけでも《БИБЛІОТЕКА Квантунск. Крѣпостной. Артиллеріи》［関東要塞砲兵隊蔵書］[94]や、《БИБЛІОТЕКА ПОЛКА 22
Восточ. Сибирск. Стр лк. – sic.》［東シベリア第22歩兵連隊蔵書］[95]といった蔵書印のあるものが確認できる。これらは、下士官コルマコフが残していった「アンナ・カレーニナ」と同じく、正教青年会に寄贈されたものと考えるのが自然である。しかし、福岡収容所のように日本人通訳官がロシア語図書を求めた例もあることから、そのルートから日本正教会あるいは「露西亜学会」の蔵書に入った可能性も排除できない。それにしても、「私物」ではない部隊所有（共有）の図書類を、躊躇なくこのように日本人に手渡していったのには驚きである。 第三章 国内収容所における識字教育
①ロシア将兵の「収容所学校」
そもそも、収容所外への「自由散歩」を認められた将校に比べ、護衛（監視）付きの外出の回数も限られていた下士官・兵卒の「捕虜生活」は退屈なものであった[96]。国際法によって保護された「捕虜」の身分としては、基本的に必要以外のことは「何もしなくてよい」のであるが、それは裏返せば「何もすることがない」ということを意味した。言ってみれば、娯楽や「暇つぶし」をいくら考案しても埋め尽くせない時間が、収容所内には存在したのである。そのような状況で、将校はもちろん、下士以下の捕虜にとっても「活字」は数少ない貴重な娯楽の一つと言えた。 将校をはじめ文字を解する者であれば、収容所内で援助物資にある書籍や、閲読を許可された新聞を読むことができる。しかし、文盲の兵士にはそうはいかない。彼らは仮に本を読もうにも、まず文字を学ばなければならなかった。しかも、「読書」という娯楽への道も閉ざされていたため、当然ながら暇で身を持て余していた。読み書きのできない無学の者は、この二つの点を動機として、識字学習に取り組んだと考えられる。このような背景から、自らロシア語の学習を希望した者や、彼らへの教授を進んで引き受けた者は、東京のニコライ主教に初等教科書の配布を求めたのである。 一方では、教育のある将校の中には、「読書」のみならず「勉学」に勤しむ者が数多くいたことも、ここで指摘しておかなければならないだろう。例えば、松山収容所を慰問した日本ハリストス正教会の司祭の報告によれば、当地の仮設病院の捕虜はみな無聊に苦しんでいて、程度の軽い者は「外国語乃ち英仏独並に日本語等を研究」していたという[97]。また、東京にいたニコライ主教は、そのような捕虜が英語の書籍を送付するよう求めてきたと、日記（1904年7月31日）に書き記している。 松山にいる捕虜の一人、ミハイル・ドミートリチ・ソローキンという少尉から手紙が来た。英語を学びたいので本を送って欲しいという。すぐに、ロベルトソンの本を二冊、レイフの辞書、そして英語で書かれた世界史を送った。手紙で親切に助言も書いて、先生としてミス・パーミリー［在松山の婦人宣教師］を教えてやった。〈……〉[98] 収容所の捕虜将兵が日本語を含め外国語を学習していた例は、他にも当時の日本の新聞などに数え切れないほど掲載されている。しかし、どうも表面的な報道ばかりで、そこから学習風景の具体像をつかむことは難しい。そこで、参考のため、ロシア側の捕虜自身の証言を紹介してみることにしよう。 日本海海戦についての記録小説『ツシマ』の著者ノヴィコフ＝プリボイの戦友でもある機械技師のウラジーミル・コスチェンコは、京都の本圀寺に収容されていた。彼は回想記の中で、自身も参加した捕虜の「自由大学」について次のように説明している。 本圀寺の収容所には、様々な船からやって来た五十人の将校と十五人の水兵が暮らしている。〈……〉 私たちの寮［収容所］には提督やその幕僚たちが一人もいないために、すぐに、すべての住人の間に四角ばらない同志的な雰囲気が生まれた。少尉や中尉などの若い者が圧倒的に多い。〈……〉暇な時間を一層効果的に過ごすために、「自由大学」を作り、そこでめいめいがそれぞれ得意なものを教え、誰でも希望者が聴講できるようにした。私は英語を勉強するグループに入った。このグループの先生はロシチャコフスキー中尉である。〈……〉私たちは英文のコナン・ドイルの短篇集を買ってきて、授業でそれを読んでいる。 さらに、私は、造船技術の専門家として、戦艦と巡洋戦艦との戦闘という戦術的問題を解決するための軍事遊戯を考え出した将校たちのグループに入った。〈……〉 〈……〉この遊びは皆の関心を集めて、ロジェストヴェンスキーの幕僚の数人の将校もこれに参加した。[99] この「自由大学」は、どうやら識字者のみでつくられたようである。そして本稿のテーマである文盲兵士への識字教育とは、一見関係ないようにも思える。しかしながら、「自らの経験や知識を仲間に広め、かつ集団で学習する」という点においては、将校の学習グループの動機も、文盲兵士への教師役を務めた将兵の動機も、同根のものではなかっただろうか。収容所内での学習は、何も文盲者に限定されたことではなく、捕虜の中で意欲のある者すべてにみられた現象だったのである。 ②識字教育の開始、収容所の関与
第二章で述べたように、松山の捕虜が識字教育に興味を示し、俘虜信仰慰安会の鈴木九八神父に最初にロシア語教科書を求めてきたのが、1904年9月のことであった。鈴木は翌10月、教科書を再度ニコライ主教に要求する際、「今回松山俘虜収容所に於て無学文盲なる俘虜に習学の途を啓かれ候」[100]と報告している。この記述は、教師を務める捕虜が決まったことだけでなく、収容所側が識字教育の実施を正式に認め、かつ何らかの積極的な関与をしていたことを示唆するものである。 同年夏から1905年2月にかけての約半年間、松山での収容生活を送った軍事通信員クプチンスキー[101]は、手記『日本人に囚われて』（邦題『松山捕虜収容所日記』）の中で、当地での識字教育の様子について、次のように述べている。「兵士の収容棟には神学生のペトローフと志願兵のマイオーロフがいて、彼らの指導で教育が始まった。兵士たちは自ら進んで学び、急速に成果をあげた。授業はいつも通訳官立会いのもとで行われた」。同書には、この引用文に対応する写真⑪が掲載されており、日本人通訳は「写真では、座っている者のうち中央」に位置し、「彼の右手にマイオーロフ、左手にペトローフがいる」と説明されている[102]。 このような授業によって、兵士たちの「うんざりする一日の数時間は、有益にかつ楽しく費やされた」という。しかし、「残念なことに」それも長くは続かなかった。当地にいた志願兵がほどなくして名古屋へ転送され、「教師はペトローフただ一人となってしまった」からである。転送の理由として、クプチンスキーは、日本人から聞いた話として、「兵士たちと頻繁に接触している志願兵が、彼らに（日本人の考える）有害な影響を及ぼすのではないかと［日本側が］危惧した」ことを挙げている[103]。 しかしながら、松山を離れた志願兵4名は、そもそも200名の健康な兵士と一緒に転送されたのであった。背景に収容所側から志願兵への「不信感」があったというのも頷けるが、同時に、単なる事務的な捕虜の配置換えだった可能性も否定できない。同書には、「兵士たちも彼ら［識字教育に携わった志願兵］を信頼し、一定の敬意をもって接していた」という記述があるものの[104]、そもそも彼らがどのような思想の持ち主であったかを知るには、いささか史料不足である。 その後は、「多くの都市の収容所に、日本人自身の手によって、ロシア兵のために読み書き学校がつくられた」「可笑しなことに、日本人が教師に任じられた」「初等読本はロシア人捕虜のため、特別に日本国内で出版された」[105]とクプチンスキーは書いている。最後はもちろんニコライ版『初等読本』のことである。 ここには収容所側の新たな態度が見受けられる。当初より収容所内に識字教育を行う場所を提供するなど日本側の協力・関与はもちろんあったのだが、日本側の意図の有無はともかく「教師」役の志願兵が転送され、これまで「立会人」に過ぎなかった日本人（通訳官）が彼らに取って代わったことで、識字教育が収容所側の主導によるものに近づいたのである。つまり「ロシア人による教育」が、「日本人による教育」に変化したことを意味している[106]。もっとも、クプチンスキーは、志願兵の転送を決定した日本人自身が、一方で「我が兵士たちの教育に熱心に協力し、幾つかの収容所へ日本で印刷された初等教科書や本を分配していた」と、皮肉混じりに指摘している[107]。 さて、このように松山収容所において識字教育に日本側が関与したことには、それなりの動機があった。 第一に、捕虜将兵を管理する側としては、彼らの多くが文字はおろか自身の姓名すら書けないことを痛感していたのである。全国各地の収容所における捕虜収容の実態をまとめた労作、鈴木敏夫著『日露戦争裏面史』（2003年）には、次のような記述が見られる。 松山では、到着した俘虜が一先ず落着くと、ロシア語に翻訳した『俘虜心得』を読み聞かせてこれを遵守するよう誓わせ、各人に署名させていた。ところが自分の名前を書けない者が多くいたので、やむなくその者たちについては仲間の代筆で名を書かせた上で“×”印を自署させることで済ませるよりほかなかった。[108] 戦後に収容所側がまとめた『松山収容露国俘虜』（1906年）にも、「彼等ノ中ニ文字ヲ書キ能ハサル者アルハ驚クニ堪ヘタルコトニシテ彼等ノ手簡中文法ニ違ヒ綴字ヲ誤ルモノサヘ数々発見セラルヽナリ」[109]とあり、ここでも兵士らの読み書き能力の低さが十分認識されていたことが見てとれる。 第二には、これらの認識を踏まえ、収容所側「公認」の識字教育の根拠となる『俘虜教育趣意書』が出されていたということがある。趣意書では、「俘虜下士卒の状態を見るとまことに無為に日を過ごす者が多く、ひるがえってその教育の程度はと言えば一千有余名の兵卒の中で自分の名前すらも書くことのできない者が過半数はいる」とした上で、「いま、この日時を利用して彼らの知能を啓発」することが意図されている[110]。 しかしながら、同時に文盲兵士への識字教育が、日本人すなわち収容所側の完全なる主導によるものではなかったことも、また事実である。 その理由の一つとして、ロシア語教育に必要な教科書が日本の収容所当局ではなく、もっぱら東京・駿河台のニコライによって供給されていた、ということが指摘できる。先のクプチンスキーの証言の中にもあるように、収容所が便宜を図ったのは、「日本で印刷された初等教科書や本」の「分配」に過ぎない。 仙台を例にとっても、1905年6月、俘虜信仰慰安会の片倉源十郎神父が収容所所長に、識字教育の計画の有無を質問した際、所長は、「其れは先頃当方にても企て居ること」「唯困まり居りしは其教科書なりき」と返答している[111]。つまり、収容所当局では教科書が用意できていなかったのである。もし日本側が関与を深めたいと考えていたならば、国内復刻版（ヴォリペル編『ルースカヤ・レーチ』）の注文も、ニコライが進めた教科書の出版も、自ら計画的に行っていてもおかしくはなかっただろう。 実際、日本側のロシア軍捕虜への「厚遇」ぶりを記録した『俘虜取扱顛末』にも、前出の『松山収容露国俘虜』にも、これらの識字教育についての記述は一切みられない。このことから言っても、収容所側からの識字教育への協力は、あくまで「協力」に止まるものであったと考えられる。 また、日本人の通訳官が一部で文盲兵士への教師役を担ったのは事実であるが、各地で主として教授を担当したのは、やはり母語話者である捕虜将兵自身であった。日本国内の収容所を訪問し、捕虜への革命工作活動を行ったニコライ・ラッセルは、その回想の中で、「大阪、浜寺、その他多くの収容所には――すべての収容所にではないとしても――文盲の兵士のための学校ができていた。教師になったのは下士官、衛生兵、彼らの足らないところでは、日本人の通訳たちであった。」[112]と書いている。つまり通訳官は、識字教育においては補助的な役割を担っていたに過ぎないのである。 ③各地で「教師」となった捕虜将兵
ここで、国内収容所において読み書き教育の「教師」となった捕虜将兵に光を当てながら、各地の授業風景を観察していくことにしたい。 まずは松山収容所についてである。先にクプチンスキーの証言を紹介したが、当地の「収容所学校」についての様子は、『正教新報』掲載の鈴木九八「松山通信」でも触れられている。例えば、1904年10月10日の発信記事には、「本日は妙清寺収容所に於て祈祷執行致候、同所取締曹長グリゴリイ・スクリャチェンコはいよいよ同所無学俘虜の教鞭を取る事となり〈……〉」などとある[113]。その一ヶ月ほど後の記事で、松山および丸亀での様子について、さらに詳しい描写がなされているので引用しよう。 各収容所の学業は漸次進歩を呈し、就中法龍寺収容所にては殊に良好の由、降誕祭又は新年には書状位書き得るに至るべしと俘虜教員語り居り候、丸亀も中々進歩致し居り、降誕祭には祝賀演説を為す意気込みに御座候、勧善社の奥座敷に静居して日々筆硯に親み居る軍事通信員タゲーエフ氏は過日二百四十余名の同所学習者を三等に区別して試験せしに中々成績の見るべきものありし由に御座候。[114] クプチンスキーと同じ軍事通信員であるタゲーエフが教師を務めていたことは注目に値する。これ以外にも、翌年7月27日発信の「松山通信」から、山越収容所（計8寺院の総称[115]。そのいずれを指しているかは不明）や雲祥寺収容所でも読み書きの教授・学習が行われていたことが分かる[116]。 『正教新報』の記事によれば、福知山でも毎日午前中に文盲者に対してロシア語の教授が行われている。教師には下士官、その監督者（教頭）には曹長が充てられたのだが、「性質怜悧」との理由からポーランド人曹長のアダム・ユジュケースが後者の任にあったという[117]。また、檜山真一が紹介している福知山収容所の下士官の手記には、「中学校生徒」が文盲兵士に教育を施していたことが記されている[118]。 また、姫路収容所の坂田町支所においては、「当所に於て発行する俘虜新聞の主幹」であった「志願兵伍長アレキサンドル、オウエルベルグ」が「同輩中文盲者の教務に熱心し」ていた[119]。 一方、名古屋においては、他の収容所とは異なる傾向があった。全国各地で文盲者（主に兵卒）に文字を教えていたのは下士官・兵卒の階級の者であったが、当地で教師の主体となったのは何と尉官の将校だったのである。『正教新報』『新愛知』などから判明するだけでも、6名の大尉・中尉・少尉が識字教育に取り組んでいる。なぜ、名古屋でだけそのような現象が起きたのか、はっきりしたことは分からない。ただ考えられる理由としては、日本で二番目に将校の収容数が多かったこと[120]、東別院のように将校と兵卒が同じ収容施設に入る場合があり、両者が比較的近い位置にあったことなどが挙げられよう。 例えば、名古屋で教鞭を執る将校の一人にロマン・グリボフスキー中尉という人物がいた。彼はムスリムのメフマンダロフ陸軍少将の副官であり[121]、将軍と同じ東別院に収容されていた。グリボフスキーは、同収容所の「俘虜学校」で少なくとも1905年4月から6月にかけて、別の尉官らともに文盲者に教育を施している。彼の授業風景を見学した正教会の柴山準行神父の報告文がある。 東本願寺にて俘虜学校（二ヶ月程前より設立）日々開かれ居申候所追々進歩の様子に御座候教師は同寺の副官ロマン、ギリボフスキー中尉徳源寺のワシリー、ニコリスキー少尉（司祭の男）大龍寺のミハイル、ツトールミン少尉にて皆々熱心に教授致し居られ申候一昨日小生も参観仕候其節教場（祈祷室の西隣即十七号）にてツトルミン、ギリボフスキー両氏と露語にて対話罷在候処ギリボフスキー氏曰く師［柴山神父］は近来頗る露語を知れり云々と云ふ否々迚も々々露語は小生等の為めには非常に学び難き者なり予も少々閑を得ば此学校に来り学ばん事を望むも奈何せん日々祈祷の為寸暇なしと傍聴の教師生徒大に笑へり。[122] このように将校が教授すること自体、全国的に見て珍しいことであった。 実はこのグリボフスキー中尉は、これに先立つ同年2月9日に、他の副官大尉とともに名古屋市立第三高等小学校を視察し、「唱歌、体操、地理、算術、裁縫、理科」の授業を参観している。彼の視察は、東別院のフォーク中将への随行という形式をとっていたが（同中将は病気のため不参加）、彼自身も教育には少なからず関心があったようである[123]。確証はないものの、この経験が、後に彼らが行った読み書き教育に一定の影響を及ぼしていても何ら不思議ではない。 また、同じく名古屋で識字教育に携わったベールイ中尉は、西別院に収容されていた実父であるベールイ陸軍少将の副官であった。ちなみに写真②では、後列左から四番目（中央）に写っているのがベールイ中尉、前列左端がベールイ少将である。 彼は、同じく副官のガンメール中尉とともに、西別院から、 千種収容所の無教育俘虜の教育は毎日午前二時間位宛教授して居るが小学校生徒の授業と同じ様で退場の時などは二列になつてブツクや石盤を小脇に抱へてソロソロ遣て行く然し昨今では余程学力が出来て自分の姓名等は鐡釘流に書き得るやうに至つた／此教育には西別院のベイルイ中尉やガンメル大尉［ママ］が非常に熱心でベ中尉の如きは毎日 同紙ではたびたび将校の遊廓登楼が伝えられているが[125]、その一方でベールイ中尉のように、兵士を教育するため毎日のように別の収容施設に足を運んだ将校がいたことは特筆に値する。クプチンスキーの手記やニコライ・ラッセルの回想などでは、全体的にこの時代の将校と兵士の間の「断絶」が強調されている。それは一面では事実であろうが、この教育風景を見ると、必ずしも全容を映し出したものでないことが分かる。 神戸で捕虜向けにロシア語で印刷され、後にラッセルが編集権を握ることになる『日本とロシア（Япония и Россия）』誌の第1号にも、ベールイ将軍についての記事と一緒に、「彼の息子・ベールイ中尉は仲間のガンメールとともに、文盲のロシア兵に読書を教え、歴史、算数、地理の科目を教授している」とも記されている[126]。 名古屋では他にも、徳源寺収容所のウシャーコフ大尉が千種収容所に出張して兵士らを教育していた。柴山準行神父とともに7月31日に同収容所を訪問した森田亮は、その授業の光景を見て、以下のように生き生きと描写している。 〈……〉ウシヤーコフ大尉一同に令し単語の綴りをなせと謂ふ少時にして各石板を携へ少子に示す種々思ひ想ひ［一字不詳］認めて到る中には立派に書けるもあり誤まれるもありよく出来たる者には「アツリーチノ」と賞し遣ればさも喜ばしげに笑ひ去りて席に服し誤まれるには惜哉此所に誤ありと謂へば頭を掻き稍々失意の状を為して去りしば共に無邪気なり有髯男子の子供らしく見へて一興なり〈……〉[127] さて、別の収容所に目を移そう。北陸の敦賀収容所では、文盲兵士への教授を担当したある下士官にまつわるエピソードが残っている。永建寺収容所にいたピョートル・サプローノフ曹長である。彼は同所を代表する人物であり、ここでの識字教育も彼のイニシアチブで始められたらしい[128]。彼の収容所における評判については、俘虜信仰慰安会のシメオン三井道郎神父が『正教新報』に報告している。 〈……〉該曹長ソプラノフ［ママ］は極めて敬虔謹直にして品行方正なると凡て善業に勉励なるとに於ては衆の模範たり又無学の同朋を教ゆるに極めて熱心なりとて伊東所長殿も賞讃せられたり〈……〉[129] この曹長は、後に大阪の浜寺収容所に転送された。そこで彼は東京のニコライ主教に手紙を書き、敦賀収容所において識字教育に協力者した二名の捕虜に、何か贈ってもらえないかと依頼している。サプローノフの求めに応じたニコライは、1906年1月22日、浜寺収容所に出入りするイオアン小野帰一神父に以下のような内容の手紙を出した。 〈……〉浜寺に敦賀の永建寺僧房から来たピョートル・アレクセーヴィチ・サプローノフという曹長がいます。／彼は、敦賀で文盲者に教えていたときに、彼を手助けしてくれた上級下士官のアレクセイ・フィールソフと兵長のピョートル・プロートニコフのために何かやれないものかと頼んできました。／彼らに贈るために小聖像画と本を1冊ずつ、彼に送ったのですが、この荷物が、どういうわけか、サプローノフなる人物が見付からないということで、浜寺から私のもとに送り返されて来てしまいました。／しかし、サプローノフは今浜寺にいます。今私は1月17日に書かれた彼の手紙を受け取ったのです。／今度は貴方宛にフィールソフとプロートニコフのための本1冊ずつと小聖像画を送ります。この小さな荷物を受け取ったら、第1区にサプローノフ氏を見付けて、彼にこれを渡して下さい。そして、これが2度目に送られて来たものであることを説明し下さい。また彼にも祝福と挨拶とを伝えて下さい。彼は大変良い人です。〈……〉[130] このエピソードは、識字教育には直接関係ないのだが、教師を務めた捕虜がお互いに信頼し合い、協力して兵士へのロシア語教育を進めていた「証拠」であるとも言え、大変興味深い。 最後に、九州・福岡収容所についてである。ここは最終的に4,049名（1905年10月10日時点）[131]を数える中規模の収容所であり、中洲、上の橋、箱崎の3ヶ所だけでも、学習希望者は合わせて940名ほどに上った[132]。 当地の中洲収容所では、1905年7月21日から読み書き教育が開始された。アンドレイ目時金吾神父の「福岡通信」によれば、授業は収容所所員・宇多中尉の監督の下で行われ、「曹長コトラト、ザイツヱフ一等軍曹アントン、プーチコフ同一等軍曹ミハイル、クズミン同一等軍曹アウラアム、ゴリヤィエフ及二等軍曹ルカ、ザリーツキイの五名」が教鞭を執っていたという。授業内容についてはさらに詳しい説明がある。「学課は読書算術習字手紙認め方及び教理の五科目」であり、授業時間は「月曜日の祈祷日を除く外毎日午前八時半より十一時半まで三時間」と決められた。そして、目時神父はこの記事を、「共々奮励し居れば必ず相当の効果を見るを得べし」との感想で結んでいる[133]。 なお「福岡通信」には、ロシア語教科書に関連して重要な記述があるので、ここで紹介しておこう。当地では、識字教育について収容所側と捕虜側で協議した結果、教師となった者にニコライから送られた教科書類を管理させ、それらを「各自交換して使用せしむる事」に決定している[134]。先述の通り、教科書の印刷をニコライに助言した名古屋のスミルノフ将軍は、初め「二人で一冊を使う」ことを想定していた。つまり、そのような「交換使用」のケースが実際に見られたという訳である。 結果的にはニコライ版『初等読本』だけで15,000部発送されたため、収容所によっては一人一冊使用できた場所、あるいは余りが発生した場所があったかもしれないが、福岡のように教科書が複数の学習者で共有された事例は他にも存在したと推測される。 ④捕虜のロシア語授業風景――「姫路通信」をもとに
以上、収容所当局の識字教育への関与や、「教師」となった捕虜将兵の活躍について述べてきた。では、具体的に授業自体、どのように進展していったのだろうか。 捕虜への教科書を用意した日本ハリストス正教会からの視点として『正教新報』やニコライ主教の日記が参考になるが、これらの記述からは、少なくとも松山、丸亀、姫路、福知山、名古屋、浜寺、福岡、習志野、仙台、高崎の10ヶ所で読み書き学習が行われていたことが確認できる。しかし、史料には断片的なものが多く、国内収容所における識字教育の「通史」のようなものは形成しづらい。 このうち、辛うじて姫路収容所については比較的史料が多く残っている。そこで、俘虜信仰慰安会のパウエル森田亮神父が『正教新報』に送っていた「姫路通信」をもとに、当地の捕虜の授業風景を概観してみることにしたい。姫路は松山と並んで早くからロシア語学習が盛んに行われた場所であるが、その記録の細かさ、さらには識字教育の実施自体も、同収容所に派遣されていた森田神父に負うところが大きい。 まず、姫路の特徴としては、早い時期から「書籍縦覧室」（閲覧室）が設置されていることがあった。これは「一の大広間に長方形の台十数脚と腰掛とを備」えたもので、「俘虜下士二名を挙げて之が係員」となり、実に「毎日平均百五十名内外の縦覧者」があったという。捕虜たちの「多くは平易なる雑誌、或は物語もの、古聖の伝記等を読」んでいたが、その一方で、この閲覧室においてロシア語の読み書きを学ぶ者が出てきた[135]。これが当地における識字教育の興りである。 その後、ニコライ主教から教科書が送られてくるようになると、文盲兵士へのロシア語教育が「正式」に開始される。ところが当初、授業の進行はそれほど順調ではなかったらしい。森田神父が1904年12月12日に『正教新報』に発信した「姫路通信」に、「学事状況」と題して、彼が授業風景を見学した時の様子が記されている。 ［12月7日］午後更に収容所に到り学事の景況を見る、習学者を三組に別ち、一丁字なき者を一組として一年志願兵の軍曹之が教授に任じ、其の人員四十余人なりと云ふ、然るに教場に入りて見るは僅々四五名あるのみ、是に於て軍曹を促がし、三度び衆を急き立てゝ漸く二十数名出席し、他は終に来らず、教授終るや一同を整列せしめ大に其怠慢を責めしに、今後は必ず勉強すべきを表白せしが、中に一人ありて曰く、自分は既に齢三十八、郷里には妻と数人の児女あり、彼等が如何に暮らし居るか、案ぜられ寸時も忘るゝこと能はず、且生来記憶に乏しければ自分丈けは此事より免かるゝを得せしめられたしと。懐郷の情無理ならぬ事なれど、遺族に付ては各々保護の法あるべければ余りに思煩ふことなきを説き且六十の手習てふ我が諺を引きて懇々奨励せしに漸く之に服せり〈……〉[136] 後半の38歳の兵士の「言い訳」はともかく、これを読む限り、この時点での文盲者の学習意欲は決して高くなかったことが分かる。教師である軍曹が「三度び衆を急き立てゝ」も授業に参加しようとしなかった残りの半数ほどの者たちは、各居室で読書をするか、あるいはカード・ゲームに興じていたらしい。 姫路におけるこのような状況について、ロシア語教科書を捕虜に送っていた当のニコライは改めて森田神父から報告を受けたのだろう。以下の日記（1905年1月11日）にあるように、丸亀の捕虜との落差に愕然としている。 〈……〉今日、丸亀のわがロシアの捕虜より15通の手紙が届いた。みな当地で読み書きを学んでおり、彼ら自身とても喜んでいるようだ。私も本当に嬉しい。その一方、パウェル森田神父は今日言うには、姫路では捕虜900名のうち三分の一が文盲者だが、彼らの中の3―4人しか読み書きの習得を希望しない――その他の全員は怠けているのだという。また、全般的に当地の捕虜は退屈しておらず、自らの有閑な生活を満喫し、それに満足しているらしい。一体、このようなことが信じられようか？〈……〉[137] 収容所間で学習意欲は同じでないのは当然としても、一方ではこのように著しく「地域差」が出ることもあったのである。 もっとも、上記の12月12日の通信文にあるような森田神父の「奨励」が功を奏したのだろうか、その後の兵士の読み書き学習は、以前よりも順調に進展したようである。翌年4月10日発信の「姫路通信」で、森田は、「各所とも静寂にして事なく学事も追々進み学事の進むに連れて一層静寧なる状は実に俘虜中にても自ら認むる程」[138]であったと報告している。 この姫路収容所における学習風景については、写真が一種類残っている。 ロシア語雑誌『日本とロシア（Япония и Россия）』を発行していた神戸デイリーニュース社から1905年10月に刊行された写真集『俘虜・ろすきー』[139]には、「俘虜の語学」と題して一枚の写真が掲載されている（写真⑫）。兵士たちが整然と座って学習に励む様子が窺え、奥には「教師」らしき3名が立っているのが分かる。だが、この「俘虜の語学」という説明だけでは、写真がどこの収容所で撮影されたものか判明しない。しかも、《The Captured Russians studying the
Japanese.》と英文のキャプションも付いており、一見、外国語として日本語を学んでいるロシア兵かと思ってしまう。 結論から言うと、この英文の説明は誤りである。これと同じ写真のオリジナルは また、同一の写真は『日本とロシア』第1号（1905年7月8日発行）にも掲載されており、《Обучение грамоте в приюте военнопленных в гор. Химези.》［姫路における捕虜への収容所内識字教育］と説明されている[140]。なお、同誌の発行日から、この写真が撮影されたのは同年7月以前だということも推定できよう。 ⑤それぞれの感想・評価・成果
以上、国内収容所における識字教育の「実態」について具体的に見てきた。これらの読み書き教育に対して、日露両国の当事者や観察者は、一体どのような感想・評価を持ち得たのであろうか。 まず、ロシア側からの視点である。収容所内での識字教育に対する評価として、前出の軍事通信員クプチンスキーは、「この教育の成果は著しかった。退屈や無為に苦しんでいた者たちは、この学習の中で本当に忘却していたものを見出し、習得もかなり早かった」と手記に書いている。その上で、彼は「ロシア軍の首脳部が兵士へ読み書き教育を必要と考えていなかったのに、これを日本人がやってのけた！」と述べ、「本当にロシア人は自分の敵たちに、心からの謝意を表することができる」とまで言っている[141]。 一方、亡命革命家のニコライ・ラッセルも、その回想の中で、「ロシアの兵士がロシアの文字を学ぶためには、地の果ての満州の奥地にまで追いやられて、捕虜になり、日本人の生徒にならなければならなかったとは信じがたいことである」と感想を述べている[142]。特にラッセルは、兵士らが「日本人の生徒にならなければならなかった」こと、すなわち戦争での敵国民であり外国人である日本人通訳から文字を教わらなければならなかったことに対し、驚きを隠せずにいる。 ここで明らかなのは、クプチンスキーもラッセルも、お互い異なった立場にありながら、偶然にも同じようなことを考えていることである。もっとも、自国民がこのような状況下でしか文字を学べなかったという歪な「現実」を目の当たりにすれば、両者の意見が一致したのはむしろ当然のことだったのかもしれない。ジャーナリストであれ、革命家であれ、彼らは同時代人として、帝政ロシアの「弱点」について問題意識を自ずと共有していたのである。 次に、捕虜将兵を管理していた日本側の反応である。収容所当局は、文盲兵士への識字教育に、『俘虜教育趣意書』に沿って積極的に協力しているように見える。それは、当時の日本が戦時国際法に則ってロシア軍捕虜を人道的に取り扱い、その「厚遇」を国際社会にアピールする上も、極めて有効なことであっただろう。それどころか、捕虜に純粋に教育を施すことなど、「厚遇」で想定される以上のものであったに違いない。先に挙げた姫路における学習風景の写真など、もしかすると「文明国・日本」を海外に喧伝する目的で撮影されたものかもしれないほどである。 しかしながら、松山収容所がまとめた『松山収容露国俘虜』にも、収容所および俘虜情報局を統括していた陸軍省の『俘虜取扱顛末』にも、ロシア兵の教育レヴェルの低さについて記述があるだけで、自らが関与したはずの識字教育の件には触れていない。識字教育への関与をアピールできるはずなのに、それをアピールしないのには、やはり理由がありそうである。 前出の鈴木敏夫『日露戦争裏面史』によれば、明治38（1905）年5月15日に発せられた「各衛戍司令官ニ対スル陸軍大臣訓令」には、次のような文言があったという[143]。 俘虜ノ学力程度ヲ調査シ学堂ヲ設ケ強制的ニ之ヲ教育シ〈……〉全ク我軍隊ニ要求スルガ如キコトヲ以テスルモノアリ 是レ所謂程度ヲ誤ルモノ〈……〉ニシテ其結果遂ニ紛議ニ終ルノ失態ヲ演ズベシ 要スルニ〈……〉我官憲ニ於テ進ンデ之ヲ啓発誘掖スルノ責務ナキコトヲ忘ルベカラズ 言わずとも、「学力程度ヲ調査シ」「強制的ニ之ヲ教育シ」などの言葉が目を引く。これらの記述から、最初のうちは収容所当局が率先して教育に取り組んでいた様子が見えてくる。クプチンスキーの手記をもとに先述した、志願兵が転送された後の松山における捕虜の授業風景もそれに近いと言える。しかし、収容所側はその取り組みの「程度ヲ誤」った、つまり「やりすぎた」のである。同年5月は、未だニコライ版『初等読本』は完成していないものの、すでに各地で多くの捕虜が読み書きを学び、その数がさらに増大しようとしていた時期に当たる。今後は、「啓発誘掖スル」責務がないことを念頭に置かねばならないと、この訓令は言っているのである。 その後、講和条約が発効してロシア将兵の帰国が始まるまで半年もないが、収容所側はあくまで最小限の「協力者」の立場に徹したと考えられる。結果的に、松山収容所や陸軍省がまとめた前掲書に識字教育についての記述が見られないことからしても、その協力は日本側にとって、少なくとも「成功」と呼べるものではなかった。 最後に、図らずも日本で読み書きを学ぶことになった当の文盲兵士たちの感想について見ていくことにしたい。 当然のことであるが、彼らは以前まで読み書きできなかったのであるから、当時、日記を書き残している可能性はきわめて低い。また、学習期間は長くても半年から一年であり、日記・手記を残すほど上達していたとは考えられない。帰国後、仮にさらに読み書きを学び、自らの捕虜体験についての回想を著していたとしても、そのような史料を筆者は未見である。したがって、別の角度、すなわち観察者の視点から彼らの反応を探るしかないだろう。問題は兵士たちが読み書きを学ぶことをどう思っていたかであるが、これについて興味深い事例がある。 ロシア兵たちは日本で文字を学ぶと、何をしていたのか。実は、彼らは手紙を故国の家族や友人に手紙を書いていたのである。 彼らは戦地で捕虜となり、日本に収容されている。相応の身分の者であれば、家族が俘虜情報局に照会したり、捕虜自身が家族に手紙を書いたりすることによって、その消息を知らせることができる。しかし、それが不可能であれば、家族には身内の兵士が戦死しているのか、捕虜として日本で生存しているのか分からない。文字が書けなければ代筆を頼めばよいのだが、多くの兵士が文盲であったことを考えると、それも簡単にはいかなかっただろう。 福知山収容所で識字教育が開始されたばかりの1904年11月25日、当地を訪れた三井道郎神父は次のように証言している。 〈……〉彼等の内には俘虜となり来りしがため反て文字を知り書を読むを得るに至りしもの多くありて、此等のものは何れも非常に喜びあり速に手紙を認め故国に送り家族親友等を驚しやらんなど談しあるものを見受けたり、此等を称して不幸化して幸いとなるものと云ふならん〈……〉[144] 文字を学ぶことは兵士たちにとって嬉しいことで、早く故郷に手紙を送って知らせてやろうと彼らが話している様子を、三井神父は見聞きしたのである。この三井も、前出の森田亮神父も、ロシア語には堪能であった。引用の通り、彼らが便りを出したのは、文字が書けるようになったことを家族・知人に伝えるのを意図していたけれども、そこには家族に自分の安否を知らせるという目的もあった。 また、姫路収容所には面白いエピソードがある。自署さえままならなかった捕虜が読み書きを学び、故国へ手紙を出したところ、「お前が文字を書けるようになったのに村のみんなが驚き、感心している」との返事が来た。このことが評判となり、ある支所では兵卒全員が教えを乞うほどまで受講希望者が増えたという[145]。 捕虜の手紙の件については、これら姫路・福知山の両収容所に出入りしていた森田神父も、1906年2月18日、俘虜信仰慰安会閉会式でのスピーチで言及している。 概して此学業は無学者の勉励によりて早くも相応の進歩を表呈して、彼等自身一生中の福利を来たし、又嘗て其無筆なりしことを熟知しながら、後ち俘虜の身となりて以来其が自筆の信書等によりて此に初めて文字あるに至れる事を識り得たる親族知人等の大い驚嘆するに到りたり。〈……〉[146] もちろん読み書き教育に参加しなかった者、また参加しても時間的な制約から成果を上げることのできなかった者もいただろう。先に述べた通り、姫路収容所での教育におけるサボタージュの例もある。 しかしながら、文字を学んだ兵士が、日本に収容されているうちから以上のように読み書き能力を発揮できたのは、紛れもない成果の一つであると言える。他に史料がないので何とも言えないが、文字を得たことがその後の人生で少しでも役立ったのであれば、彼らにとってその意味は大きかっただろう。 ⑥識字教育のイニシアチブをとったのは誰か？
それでは、捕虜へのロシア語教育のイニシアチブをとったのは一体誰だったのか。それを知るためには、各人の、「識字」というものに対する立場や、日本で行われた識字教育の中での役割を観察していくことが有効であろう。 まず、ロシア語初等教科書の供給に尽力したニコライ主教にとっては、自身が宗教家であったことから、正教徒の捕虜に祈祷書や福音書を読ませることに大きな意味があったはずである。とはいえ、彼は各地の捕虜将兵からの求めに応じて、他のロシア語（あるいは他国語）の書籍や冊子と同じように、ロシア語教科書を送ったのである。日本国内で、ヴォリペルの「文字教本」（『ルースカヤ・レーチ』第一分冊）翻刻版を1,000部以上注文したことも、『初等読本』を15,000部印刷したことも、一見、その延長線上の行為と考えられなくはない。 しかし、実際にはそれだけで説明はつかない。なぜなら、ニコライは教科書の配布と並行して、各収容所の捕虜のもとに読み書き教育の「勧誘書」を送ったり、それを俘虜信仰慰安会から派遣された日本人神父らに読み上げさせたりしているからである。『初等読本』が完成する前の1905年5月19日、彼は収容所にいるロシア将兵に、「読み書きを学び、一方で、識字者は教えるように」との訓戒を手紙に書いている[147]。同様の「勧誘書」は日本人神父の手にも渡った。『正教新報』によれば、同月25日の大阪の高石村第1区バラックでの聖体礼儀執行後、司祭イオアン小野帰一が、「主教閣下より無学者に文学を教ゆべき勧誘書を遣はされた」ので「之を朗読して彼等の注意を引」いたところ、「何れも互に同意を表し」たという[148]。さらに前述の通り、ニコライおよび東京・駿河台の宣教団は、各収容所への筆記用具の送付も行っている。 つまり、ニコライは、一方では読み書き教育に対して教材面でかなりの援助をし、もう一方では「勧誘書」を送って教育を各地に波及させようとしていたのである[149]。このことから、彼は捕虜が始めた識字教育の最大限の「協力者」であり、同時にそれを全国規模に広めた「仕掛け人」であったと言える。 ニコライについて以上のような評価をするなら、俘虜信仰慰安会のパウエル森田亮神父の動きも見逃せない。彼は1904年10月に、ニコライにロシア語教科書を求めるにあたって、「［福知山の］俘虜中の無学なる輩に姫路に於けるが如く此際文字を学ばしめ度きに付き」とその理由を述べている[150]。捕虜自身の希望はもちろんあっただろうが、同時に、読み書きを学ぶよう彼から働きかけがあったことも示唆する文章である。事実、森田は1906年2月の俘虜信仰慰安会閉会式に際し、「余先づ自から姫路に於て幸に吾官憲に計り得て俘虜中の無学者に露語学の教習を初めしめたりしが、後此事は他各市町の各収容所にも行はるゝことゝはなりぬ」[151]と発言している。ニコライ主教（および正教宣教団）の支援活動と重なる部分はあるが、彼の働きかけがなければ、姫路と福知山の識字教育がここまで進むこともなかっただろう。 次に、捕虜のうち実際に収容所で学んだ文盲者と、一方で彼らに文字を教えた識字者についてである。もちろん後者（志願兵、下士官、将校など）の果した役割が大きかったと言えるが、順番としては、前者が文字を学ぼうとしたのが先か、あるいは後者が文字を教えようとしたのが先か、どちらかは分からない。いずれにせよ、両者が収容所所員や俘虜信仰慰安会の派遣神父に働きかけた結果、読み書き学習の諸条件が整い、それが各地に広がっていったことは確かである。 多くの捕虜将兵が収容所での生活で暇を持て余していたことは、すでに述べた通りである。娯楽の少ない生活において、文字を読める者が宗教書から革命パンフレットまで読みあさった[152]のと同様に、文盲の兵士たちは読み書きを学んでいった。もっとも、これは文字を教える側も同じだろう。前出のクプチンスキーの手記引用にあるように、「退屈や無為に苦しんでいた者たち」、すなわち文盲の兵士たちが、学習を通じて「本当に忘却していたものを見出し」たのだとすれば、一方で教師となった識字者も、長引く収容生活の中で自己の有益な役割を見出していったはずである。 興味深いのは、教師役の捕虜将兵の「階級」である。各地の事例を見渡すと、文盲者に教育を施していたのは、主に読み書きのできる下士官や志願兵などであった。史料に乏しいので何とも言えないが、ただ彼らの思想や「教育観」は多種多様なものであっても不思議ではない。しかしその一方で、名古屋収容所では、もっぱら将校（尉官）が教鞭を執っていた。一般的に考えて、将校は「体制側」にいる人間である。また、彼らは副官であり、将官らとも関係が深かった。 つまり、収容所における識字教育は、下位の軍人や特定の思想の持ち主が主導したものではなく、様々な階級の捕虜将兵が関与したものと見ることができるのである。第一章で挙げたロシア陸軍新兵の文盲率の変化を見ても分かるように、1861年の農奴解放後に生れたゼムストヴォ（地方自治体）立学校の登場や、第二章で触れた1860年代のロシア語教授法改革など、20世紀初頭にかけてのロシア国内においては、識字教育向上の大きな流れがあった。収容所での学習の始まりと、各地への波及、そして識字者による教育は、この流れの中で捉えるべきものではないだろうか。 また、これに関連して注目すべきは、名古屋収容所にいた旅順要塞総司令官コンスタンチン・ニコラエヴィチ・スミルノフ将軍の「判断」である。第二章で述べたように、彼がニコライ主教への手紙で、本国からの巨額の義援金の半分を「文盲の教育や読書のための本代として使ってはどうか」と提案して初めて、全国規模での兵士への読み書き教育が実現したのである。 スミルノフの教育観については興味深いところだが、彼の名前はソ連時代の百科事典にも見当たらず[153]、その後の消息等も不明である。ただ幸いにも、彼が収容されていた名古屋の地方紙に、彼の略歴が掲載されている。 〈……〉一千八百五十四年を以て生れ初め軍事教育を莫斯科兵学校に受け夫よりコンスタンチン砲兵学校、ミハイル陸軍大学校に入れり一千八百七十三年少尉に任ぜられて第三十八砲兵旅団附となる一千八百八十年代には第十四歩兵旅団参謀部の副官より土耳機斯坦軍管区、芬蘭軍管区の副官に転任し一千八百九十年代に到り第六騎兵旅団参謀長に任ぜられ次でオデツサ歩兵学校長の職を奉じ後ポドル歩兵大隊長に転ず一千八百九十九年第二狙撃旅団長に補せられしが昨年日露戦争の開始するや陸軍中将に陛りて旅順口要塞司令官に任ぜられたり[154] スミルノフの思想的背景は今のところ判明しないが、ここにある経歴から推測するに、彼は以前にオデッサ歩兵学校の校長を務めるなど、兵士への教育に対しては一定の理解があったと考えられる。 また、彼は日本軍に劣勢となり、ステッセルによる降伏を許してしまった旅順要塞の総司令官として、敗北の遠因とも言える兵士の教育問題にも責任を感じていたのかもしれないし、あるいは収容所における識字教育の様子を見聞きし、その重要性を認識していたのかもしれない。同じ名古屋で、下士官ではなく将校（副官）自ら教師となっているのは、単なる偶然であろうか。副官は将官と収容施設も同じで、何より直接のつながりがある。自分たちの副官で、兵卒らに識字教育を施している者がいることを、将官らは当然知っているはずである。 ともあれ、クプチンスキーは手記の中で、ロシア軍の首脳部が「兵士へ読み書き教育を必要と考えていなかった」ことを問題視していたが、スミルノフはそのような首脳部とは一線を画していたと言えるだろう。 最後に、日本の収容所側が識字教育に関し、どの程度のイニシアチブを発揮したかについても言及しておきたい。前述の通り、収容所当局者は『俘虜教育趣意書』に基づき、当初は識字教育において積極的な役割を果そうとしていた。ところが、陸軍大臣の訓令にあったように、その協力は一部で過剰なものとなってしまった。つまり、イニシアチブをとろうとしたが、「失敗」もしているのである。 しかしながら、収容所所員の図った便宜がある程度功を奏したことは確かであろう。日本側の主な協力としては、①収容所の一室を「教室」して使うことを許可した、②ニコライ主教から送られてきた教科書を配布した、③日本人通訳を一部で「教師」に充てた、という三点が指摘できる。そして、それ以外にも、日本側が一定の主導権を持ち得たというケースは幾つか散見される。 福岡収容所では、文盲者への教育を開始するにあたって、収容所所員がその設立に貢献している。1905年7月に『正教新報』に目時金吾神父が送った記事によれば、当地での教育には、「看護長ウラデミルワインヒティイン」が教師として「熱心に奔走し」ており、所員の久保田少尉も「之が設立上に付少からず尽力を与へ」ていたのだという。なお同記事には、箱崎収容所（支所）における「不学者百七十五名小学者百名」もの就学希望者への教師の選定を、目時神父が収容所所員に依頼したことも書かれている[155]。 また、仙台での識字教育に関して、正教会の神父が収容所所長に質問したことは先に触れたが、その時、所長は「其教科書を寄附せらるゝと言はれば実に幸の事故取調べて人員を聞かさん」とも返答している[156]。各収容所における文盲者（および半文盲者）の人数は、これまで主に『正教新報』の記事をもとに紹介してきたものの、考えてみれば、それらの数字は、そもそも日本人神父が調べられるものではなかったはずである。つまり、収容所当局の調査の結果であったに違いない。このような点にも、収容所側の率先した行動があったのである。 以上、ニコライ（および正教宣教団）と日本人神父、識字教育に携わったロシア将兵、そして日本の収容所当局の、それぞれの立場や役割について述べた。「誰がイニシアチブをとったのか」という問いの答えにはならないかもしれないが、こうしてみると、ある一部分の人間の行動ではなく、これら三者の働きかけの総和が、捕虜の「収容所学校」を成立させていたということが分かる。裏返せば、どれか一つでも欠けていたら、このような「不思議な現象」は起こり得なかったのである。そういった意味でも、日露戦争期の収容所におけるロシア兵捕虜への識字教育は、ロシア教育史や日露交渉史において、特筆すべき出来事であったと言うことができるだろう。 ⑦日本語を学習するロシア将兵
ここまで、収容所における兵士への識字（ロシア語）教育について考察してきた。捕虜将兵が外国語として英語、フランス語、ドイツ語、そして日本語を学習していたことは最初に触れたが、さらに日本語学習について若干補足を加えておきたい。 個々の事例を列挙することが目的ではない。第二章との関連で言うなら、ここで問題となるのは「どのような日本語教科書が使われたか」ということである。 日本語学習は、捕虜将兵の中の希望者によって、日常会話程度までなされていた。その学習法は、主に「授業」という形態をとった識字教育とは異なり、自習やグループ学習、一部の将校では日本人露語通訳との「交換教授」によったらしい[157]。教材については、収容所側が何かしら供与していたとすれば、種類を把握しきれないが、捕虜が実際に使用した代表的なものの一つに、瀬沼恪三郎編『露文日語独習書』があった。 同書は瀬沼が校長を務めていた東京・駿河台の正教神学校の出版部から発行され、日本橋の丸善書店が販売していた。分量は全194頁で、一冊の価格は65銭。ただし「教役者に限り割引代価」として50銭であった。『正教新報』第597号に掲載された広告文では、以下のように記されている[158]。 本書は我邦会話語を研究せんとする露国人の為に編述せしものにして本編を三十九の課程に分ち其問に練習に適切なる実例を挿み、序を追て独習するに便ならしむ、且別に附録として巻末に露和簡短会話軌範及び露和実用単語集を加へて活用の一助となせり。若夫れ本書の価値は既に之に拠て邦語を研究しつゝある露国人より讃辞と謝状との続々著者の許に寄送せらるゝによりて推知するに足る。本書は固より露人の為に編述せしものなりと雖、露語を研究する邦人も亦自国語に比較して一層深く露語を領解するに於て本書より得る利益蓋少からざるべし 文中にもあるように、この『露文日語独習書』は捕虜の間で好評となる。同誌の前号によれば、同書は「既に出版部数の過半を売り」、そして「著者たる瀬沼氏に或は正教神学校に宛て感謝の書状を送れる者」も少なくなかったのである。例えば、名古屋のある捕虜から手紙には、「実に好著の一」「語句流暢にして読み易し」「好個の著述」との賛辞が並んでいる。また、京都・伏見収容所のネボガートフ提督に至っては、「在来日本語の独習書やうのもの数種あり予もそを大抵一読したるが何れも見るに足る者なし然るに今瀬沼神学校々長の著作に接して予は感嘆禁ずる能はず」と評していたという[159]。 正教神学校では以前にも日露開戦に際し、瀬沼恪三郎を中心に『日露軍用会話』執筆・出版して8千部を陸軍に献納したが[160]、今度は『露文日語独習書』によって、予想以上にロシア将兵に日本語を広めることになったのは興味深い。 さて、同書は俘虜信仰慰安会の日本人神父を通じても注文されたようである。記録にあるだけでも、松山にいた鈴木九八神父は1905年6月25日に大林寺収容所で43冊[161]、7月26日に山越収容所で6冊の注文を受けている[162]。この場合、定価65銭で売られたのか、あるいは教役者の割引価格50銭で売られたのか、どちらかは分からない。 一方、前出の鈴木敏夫『日露戦争裏面史』には、伏見収容所では「〈……〉日本語を覚えようとする者が出てきて、酒保で販売を始めた日露会話書を購入する者がふえ」たとの記述がある[163]。この本が瀬沼の『露文日語独習書』を指しているかどうかは不明だが、丸善書店からの販売ルートを通ったとすれば、同書が酒保で売られた可能性も十分考えられるだろう。 最後に、実際にこの独習書を使用したであろうことが窺える、捕虜自身による記述が存在するので、紹介しておきたい。 1905年4月に奉天で捕虜となり、日本国内へ移送後、6月から12月まで福岡で収容生活を送ったФ・И・シクツという兵士は、同年9月の日記（『日露戦争の兵士の日記』2003年）の中で、次のような文章を記している。 8月24日［新暦1905年9月6日］――今日は聖体礼儀の後、司祭［アンドレイ目時金吾］が日本語の独習書［самоучители японского языка］を頒布し、私はようやく一部を買い求めた。日本語を学習したかったのである。もっとも、この言語は私に長期間の利益をもたらさないだろう。我々はやがてロシアへ出発し、そこでは全く何の役にも立たないのだから。しかし、退屈なので学習に取り組むのも悪くはあるまい、点呼が終わると、私はずっとこの独習書を読んでいた。〈……〉[164] シクツと同じような動機から日本語の学習に取り組んだ者は数多くいたに違いない。記録小説『ツシマ』の著者А・С・ノヴィコフ＝プリボイも、同書の中で、日本語は「独習書で覚えた」という書き方をしている[165]。既述の捕虜からの反響の手紙からも分かるように、日本で収容生活を送るロシア将兵の日本語学習に、この『露文日語独習書』が一役買ったことは確かであろう。 第四章 日露戦争と「識字」
①日本とロシアの識字率比較
日本軍もロシア軍も、構成員の大多数を占めたのは20・30代の若い兵士であった。ロシア陸海軍捕虜の識字水準、およびロシア陸軍新兵の文盲率の推移については、第一章に見てきた通りである。それでは、日本の兵士の教育水準はどうだったのか。 ロシア側の陸軍新兵への教育調査に相当するのが、日本で徴兵時に身体検査（身長・体重）と合わせて実施されていた「壮丁教育調査」である。この調査報告は過去に一部刊行されており、明治期については あらかじめ断っておきたいのだが、残念ながらこの比較は厳密なものとはなり得ない。その理由は三つ存在する。 まず一つ目として、日露間において諸条件を同じすることができないことが挙げられる。日本では「読書算」と一括りにされているように、何より二つの教育調査での項目・評価水準の不一致があるし、さらには日本語とロシア語という言語面での根本的な違いなども存在している。二つ目には、双方の母集団のズレがある。文盲率と言っても、ロシア側は実際に兵役についた新兵中の割合と考えられる一方、日本側では徴兵検査に不合格となった者を含む全受検者中の割合となってしまう。そして三つ目には、当然ながら「ロシア陸軍」と「 以上らの三種類の障害を完全に取り除くのは不可能に近い。しかしながら、これから試行する読み書き能力についての比較検討は、本稿でテーマとする教育問題の「背景」を理解するためには有効なことであろう。 数値の算出する前に、まず日本の「壮丁教育調査」がどのようなものであったかについて、若干の説明をしておきたい。日露戦争に前後する明治後期の同調査では、受検者は教育水準に応じて、次の八項目に分類された[166]。⑧の読み書きができない者は、さらに「自己ノ氏名ヲ書シ得ル者」「自己ノ氏名ヲ書シ得ザル者」に二分されている。 ①中学卒業ノ者 ②中学卒業ト同等ノ学力ヲ有スル者 ③高等小学卒業ノ者 ④高等小学卒業ト同等ノ学力ヲ有スル者 ⑤尋常小学卒業ノ者 ⑥尋常小学卒業ト同等ノ学力ヲ有スル者 ⑦稍読書算術ヲ為シ得ル者 ⑧読書、算術、ヲ知ラザル者（自己ノ氏名ヲ書シ得ル者／自己ノ氏名ヲ書シ得ザル者） ここで、どこをもって識字者・非識字者（文盲）の境界とするか、という問題が生じてくる。第一章で言及したように、ロシア陸軍新兵への調査では、「書けない者＝文盲」とされている。日本側も同様に、「書けない者」――読み書き両方ともできない「文盲」と、読めるが書けない「半文盲」――を総じて文盲とすれば、ロシア側の条件と一致する。つまり、上記の八項目においては、⑧の中には半文盲も含まれているが、（自署を除いて）書けないことには変わりないので、便宜的に⑦から上段の合計を「識字」、⑧だけを「非識字（文盲）」と見なして、特に問題はないと考えられる。 それでは、この基準にしたがい、日露開戦前後の ところが、日露戦争に前後する明治34―38（1901―1905）年度の「 このように 1900年（明治33年） 23.4％ 1901年（明治34年） 24.2％（24.3％） 1902年（明治35年） 24.8％（25.1％） 1903年（明治36年） 25.1％（25.6％） 1904年（明治37年） 22.9％（23.6％） 1905年（明治38年） 17.9％（18.6％） 1906年（明治39年） 13.9％ 1907年（明治40年） 9.3％ 1908年（明治41年） 12.1％ 1909年（明治42年） 8.8％ 1910年（明治43年） 8.3％ 日露両国新兵の文盲率について、この修正後の このグラフを見ると、1901年から1905年にかけての両者の数字の間には、いずれも概ね2割強の隔たりがあったことが分かる。 このことに関連し、前出の『松山収容露国俘虜』には、日本兵の識字状況について次のようなエピソードが記されている。 〈……〉曾テ某大佐我命令文ヲ見支那文字ノ複雑ナルニ驚キ日本ハ斯ル文字ヲ使用シ果シテ兵卒等ノ了解ヲ得ルヤ否ヤトノ問ヲ発セシ者アリタレハ日本兵卒ハ皆之ヲ解ス自己ノ氏名ヲ書キ能ハサル者ノ如キハ一人モアルコトナシト云ヒタルニ日本ノ教育普及一ニ茲ニ到ルカト驚嘆シタル話アリ[172] この話が正しければ、日本の「壮丁教育調査」で⑧に分類され、さらに「自己ノ氏名ヲ書シ得ザル者」と認められた場合、兵役に就くことはなかったということだろう。とにかく、当時のロシア将校にとっては、「兵士全員が自分の氏名が書けること」さえ、驚くに値することであったらしい。 ②日露戦争期の証言――「教育」の勝利
新兵（徴兵）検査を例にとってみても分かるように、この時代、日本兵とロシア兵の間には、教育水準において顕著な格差が存在した。そして日露戦争は、言い換えれば、あらゆる意味で両者が否応なく「接触」するという契機でもあった。以上のような統計数字を挙げずとも、当時の日露両国の人間は、自ずとこのような教育の差を認識していたようである。 日露戦争期とその戦後にかけて、様々な立場の人間が、戦争と教育の関連性に言及している。中でも、当のロシア側の人間が本国の教育問題を論じている例に出会うと、日本人の目には意外かつ新鮮に映ることだろう。 亡命革命家ニコライ・ラッセルは、日本の収容所にいるロシア軍捕虜への政治宣伝工作を行うべく横浜へと出港する前に、ホノルルで『ロシア軍将校に訴える』と題した配布用のパンフレットを執筆する。彼のこの行動は、斉藤幹・在ホノルル領事の承諾を得たものであった。ラッセルはパンフレット原稿を書き終えると、印刷のため「ロシア自由の会」の拠点があったニューヨークに送付し、日本への出発前に刷り上った大量のパンフレットを受け取っている[173]。 ラッセルはこの文書の中で、ロシアの教育水準の立ち遅れと、それが戦争に及ぼす影響について、示唆に富んだ見解を述べている。彼はまず、ロシアの現体制は「ロシア人民の十分の九をなす農業的・農民的ロシアが民間人の利用しているすべての土地の七分の一しか所有していないという状態」であり、「人口の七〇％が、初歩的、一般人的知識や生活にもっとも必要な農業知識・技術知識はもとより、字すらも習っていないという状態」であると指摘する。この二つの状態が保たれていることは、「自国民に対する政府の公然たる裏切り行為」であると彼は断じている。「字も読めない暗愚な兵士は、そのすばらしい資質にもかかわらず、教育があり、自助に慣れている兵士にはかなわない」と考えたからである。その上で、ラッセルはパンフレットに以下のように続けている[174]。 日本との戦争で、われわれを打ち負かしているのは日本の教育者である。軍事面でも過去半世紀の間のわれわれの立ちおくれは、あまりにも明白である。この期間のすべての戦勝は中央アジアと中国のさらに後進的な、半ば野蛮な民族を相手とする戦争でえられたものである。文明的な隣国との衝突ではわれわれはいつも打ち破られた。セヴァストーポリ戦役ではイギリスとフランスに打ち負かされ、今回は日本に打ち負かされている。〈……〉 このパンフレットを拒絶せず一読した将校がいたとすると、一体どのような印象を持ち得たであろうか。想像力を逞しくすれば、これを読んで兵士への識字教育に協力した者がいたのではと考えたくもなるが、それは憶測の域を出ない。ともあれ、ラッセルの「われわれを打ち負かしているのは日本の教育者である」という発言は、問題の所在を端的に指摘した、非常に印象的かつ象徴的な言葉でもある。 ラッセルが『ロシア軍将校に訴える』を執筆したのは、日本で捕虜の実情を目の当たりにする前のことであり、また彼はそもそも外部からの観察者であった。では、実際に戦地に赴き、その結果、捕虜となって日本国内に収容されたロシア将兵自身の反応はどのようなものだったのだろうか。 自身も日本海海戦に参加したソ連の作家А・С・ノヴィコフ＝プリボイは、記録小説『ツシマ』の中で、戦友「ワシーリエフ」に以下のように語らせている。なお、この「ワシーリエフ」のモデルは、ノヴィコフ＝プリボイと同じ戦艦に乗り込み、回想記『ツシマのオリョール号にて』を著した前出の機械技師ウラジーミル・コスチェンコである[175]。 〈……〉専制政治の病毒が深くくいこみ、封建制度で固まったロシアは、戦場における試験に落第したのだ。試験に堪えるにはあまり老衰しすぎていたのだ。明治維新によって復興した資本主義日本は、わが国の提督や将軍連の自慢の鼻をへし折ったのだ。われわれの敗北は誰の責任だろうか？ それは国家組織全体の責任なのだ。果してツシマは朝鮮海峡だけに存在するものであろうか？ いや、陸の戦場でもかなりの程度に経験してきているのだ。それほど明瞭ではなかろうが、ツシマは鉄道にも工場にも造船所にも教育界にも、すべての圧迫された無智の生活の中にあるのだ。〈……〉[176] ロシアの敗北の象徴である「ツシマ」は、ロシアの体制のありとあらゆるものの中に存在し、「教育」もまた例外ではない。「われわれを打ち負かしているのは日本の教育者である」と指摘するラッセルほど直接的ではないが、教育、戦争を含め、「圧迫された無智の生活の中にある」すべての問題が根底でつながっていることを示唆している。『ツシマ』の中で語られるこの見解は、記録小説という性質上、「ワシーリエフ」のモデルであるコスチェンコのものというより、著者であるノヴィコフ＝プリボイの「創作」なのかもしれない。いずれにせよ、ノヴィコフ＝プリボイもコスチェンコも、ともに意見を共有し得る、革命的気分を持ち合わせた青年たちであった[177]。帝政ロシア体制の歪みの一つである「普通教育の不備」を指摘したことは、彼らにとっても、またラッセルのような亡命革命家にとっても当然の帰結であったと言える。 ここで一つの疑問が浮かぶ。ロシアの教育に関する問題意識は、以上のような革命思想を持つ者たちに特有のものだったのだろうか。 結論から言うと、それは正しくはない。前章でも少し触れたが、1905年2月9日、名古屋の東別院収容所にいたフォーク中将の副官であるプラビコフ大尉と、グリボフスキー中尉は、市内にある第三高等小学校を視察した。その際、二人は校長と収容所委員に対して、教育についての所見を述べているのである。 『新愛知』紙によれば、二名の将校は「頻りに日本学生の規律の正しきこと及び学校の設備の完全せること等を賞揚し」、日本とロシアの教育制度の違いについて質問していたという。そして最後に、「日本の学生は斯く勉強せらるゝを以て今回の戦争にも勝利を占むるは当然なり」などと「お世辞」を振りまいて、収容所へと戻って行った。翌10日には、前日病気のため同行できなかったフォーク中将とともに、市立の尋常小学校を視察したらしい[178]。 グリボフスキー中尉は、東別院収容所につくられた読み書き学校で、後に「教師」を務めることになる将校のうちの一人である。これら一連の学校視察に、彼らは将軍の副官という立場で随行したのであるが、上記の質問内容からしても、教育問題に一定の関心があったものと思われる。両将校の発言を、「お世辞」と受け取ったのは新聞記者であるが、文盲兵士への教育に直接的に関与していくグリボフスキーの発言となると、軽々しいものとして無視する訳にもいかないだろう。そこには幾分かの重みが感じられる。 このように、教育水準の差を日露戦争の結果と結び付けて考えていたのは、何もロシアの現体制に厳しい目を向けていた革命家だけではなかったのである。学校を視察したプラビコフ大尉、グリボフスキー中尉をはじめとする副官は、将官に最も近い将校であり、一般的に考えれば「体制側」にいる人間である。それが、思想・立場の違いを越えて、偶然にも同じような印象を抱いていたのだから興味深い。 一方では、当時の日本人も教育の成果について、同様の認識を持っていた。もっとも、戦中・戦後にかけては多くの者が普通教育の問題を論じたと考えられるが、それら分類して検討するのは本稿の意図するところではない。したがって、ここでは一例を示すに止めておく。以下は、戦勝国となる日本の陸海軍大臣の反応である。 明治38（1905）年夏に開会された第5回全国連合教育会では、日本陸海軍の奏功に対して、それぞれに感謝状を送った。すると、陸軍大臣・寺内正毅から、教育会会長の辻新次宛に答書が届いたという。文面には次のような文言が含まれていた[179]。 〈……〉開戦以来順境を以て作戦の進歩を得たるは陛下の御稜威に依ること勿論なりと雖忠勇なる我将卒の功績は国民教育の効果与て力ありと信ず〈……〉 また同時期に、辻新次会長のもとには、海軍大臣・山本権兵衛からも返書があった。内容はほとんど同じであるが、より具体的であるので一部引用する。 〈……〉惟ふに連戦連勝の功を奏せしは我叡聖文武なる大元帥陛下の御稜威に由るは勿論なりと雖も国民教育の普及亦之れが因たるを確信し教育者に向て深く之を慶し尚ほ進んで其発達を恒久に競望する所なり〈……〉 教育関係者への返書ということもあり、社交辞令の文面となっている点は否めないが、同時に、全くのお世辞から「忠勇なる我将卒の功績は国民教育の効果与て力あり」（陸軍大臣）、「国民教育の普及亦之れが因たる」（海軍大臣）と記すこともないだろう。 戦争において、戦略を立案するのは少数の将校であるが、最前線でそれを遂行するのは大多数の下士官や兵卒である。国民皆兵制度と普通教育制度が密接に関わりあっていることに鑑みても、陸海軍省のそれぞれのトップは、兵士の基礎的な能力を育成するものとして「教育」を重要視していたと考えられる。 これらの証言を総合すると、この戦争での日本の勝利は、文字通り「教育の勝利」だったということになろう。もちろん戦局の行方には軍事力、外交力、国内情勢、地政学的条件など様々な要因が絡み合ってくる。「教育」はその中の一部、すなわち軍事力のソフト面（兵力）における一要素に過ぎない。しかしながら、何より重要なのは、当時の人々（特にロシア人）がこのように考えていたということである。 以上は、識字率および教育水準の格差を背景とした、日露戦争を様々な側面から目撃した「当事者」たちの証言である。では、このようなロシアの普通教育の遅れは、戦争を契機として、その後のロシア国内ではどのように映ったのであろうか。 帝政ロシアでは、「血の日曜日」事件（1905年1月）などを伴った第1次革命（1905年革命）の中で「十月詔書」が出され、国会（ドゥーマ）が開設される。そして日露戦争終結から二年後には、第三国会（1907年11月1日―1912年6月9日）が始まり、開会直後に教育省によって、ゼムストヴォ立学校の構想をその骨格とした「ロシア帝国普通初等教育導入基本法」案が提出される。右派のオクチャブリスト（十月党員）は、第三国会で教育委員会、予算委員会の二つの基幹委員会の主導権を握るなど中心勢力であった。この法案は、さっそく翌年1月、同党員がそれぞれ議長席を占める国会国民教育委員会の初等教育小委員会に送られている。実は、教育改革に取り組んだオクチャブリストたちは、日露戦争の敗因がロシア兵の低い教育水準にあったと認識していたという[180]。 Ｂ＝Ｃ・ピンチュクの著書『第三ドゥーマ期（1907―1912）におけるオクチャブリスト』（1974年）には、次のような記述がある。 〈……〉日露戦争での敗北はよりダイナミックな効果をもち、多くの保守的なオクチャブリストたちに変化や改革を促した。彼らは、この屈辱の原因は軍隊に限定されるものでなく、不十分な教育制度、堕落した司令部、粗末な通信手段や産業にあると理解していたのである。〈……〉[181] オクチャブリストらが敗戦の原因の一つとして教育を挙げたのも、根拠のないことではなかった。現実問題として、「高性能な兵器システムの発達は使用者により一層の学習を要求した」し、また「教育は［兵士となり得る］農民階級を向上させるのに必要であった」からである[182]。 最終的に国会側の法案は、国家評議会が教区立学校の維持・強化の態度を崩さず、1912年6月に否決される。オクチャブリスト法案は日の目を見なかったのである。しかしながら、普通教育実施へ向けた動きは、その後も引き続き進行していった[183]。そして、それはソヴィエト政権樹立後、ようやく結実することになる。 第一章で見てきた通り、1874年から1913年にかけての40年間は、ロシア陸軍新兵の識字率が2割から7割弱まで上昇していく時代でもあった。のちのソヴィエト政権が、普通教育実施と識字率向上を実現させたのは事実である[184]。しかし、ロシア（ソヴィエト）における教育向上の流れは、すでに19世紀後半から始まっていた。その流れの中で起こり、それをさらに加速させる契機となったのが、この日露戦争だったのである。 おわりに
ここまで全四章にわたって、日露戦争期のロシアの教育水準やロシア軍将兵の「実態」に迫り、また統計資料や日本ハリストス正教会の史料を参照しながら、国内の捕虜収容所で行われた文盲兵士への識字教育について論じてきた。本論により、既存の研究は以下のような「再評価」を求められると考えられる。 第一に、ロシア将兵の収容生活についてである。例えば、姫路や名古屋などで娯楽のため、捕虜有志によって演劇が催されたことは知られているが、兵士の半数以上が文盲となれば、それは本を読めない彼らにとっての唯一の「文学的な娯楽」であったと意味づけられることにもなる。また、将校が直接兵士たちに文字を教えたという事実は、将校と下士官・兵卒の間に、階級差による確執が絶対的に存在したという「思い込み」を覆すものと言えるだろう。 第二には、今日、ロシア将兵の様々な手記・日記などが研究対象とされているが、それらはあくまでも「識字者の証言」に過ぎないということが指摘される。それが将校のものであれ、「ナロード」（民衆）の声を反映させたものであれ、大多数の文盲の兵士たちが沈黙したままであることには変わりない。歴史の「証言者」が一部の「識字者」に限られていたことは忘れてはならない。 そして第三は、日露戦争研究そのものについてである。特に、今回紹介したロシア側からの「教育の勝利」という見解は重要である。当時の日露両国の兵士の識字率を比較しながら、これらの証言を吟味するならば、軍隊の能力を左右する一要因として「識字」というものを改めて認識させられる。兵士の多くが読み書きもままならない――それが、日露戦争時のロシア帝国軍の「実態」だったのである。 「捕虜への識字教育」という問題は、日露戦争を見る「新しい視点」をわれわれに提示してくれている。ロシア教育史、日露交渉史における評価・位置づけをより強固なものとするには、今後もさらなる研究を進める必要があるだろう。 資料
図①
図②
参考文献
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Россия №1, Kobe Daily News, Кобэ, 8 юля
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