おろしゃ会会報 第13号その5

2006年

 

修 士 論 文 特 集

 

 

早稲田大学大学院の前川陽祐さんは、数年前からの知人です。このたび、オットー・ヘッチュについて興味深い修士論文を書かれ、私も拝読する機会を得ました。広く皆さんにも知って欲しいと思い、オットー・ヘッチュについて何か書いて下さいと依頼したところ、さっそく以下のエッセーを寄稿してくださいました。(加藤史朗)

                                                       

ドイツにおける「ロシア専門家」オットー・ヘッチュ(1876-1946

の対ロシア政策論について

早稲田大学大学院文学研究科史学(西洋史)専攻

博士後期課程1年 前川陽祐

 

 「スラヴ世界もまたわれわれの時代の普遍文化の一部なのである。・・・アジアの境界へと押しもどすべき、本質的にアジア的な国家として、あるいは粘土足の巨人として[ロシアを]語ることによっては、独露の闘争について何らかの判断を下すことはできない」([ ]は前川による。以下同)[8. S.36]。

  第一次世界大戦が勃発し、ドイツ軍とロシア軍の間で激しい戦闘が続いていた1914年末、「専制ロシア打倒」・「スラヴ・ロシア殲滅」の大合唱がくりひろげられていたドイツにおいて、公然と上述のように喝破する人物がいた。

  そもそもロシアにとって、ドイツとは、歴史的に最も因縁の深い国のひとつである。ロシア語で「ドイツ人」を意味する「ネーメツ」が、「口の聞けない者」を語源とし、古くは「(スラヴ語を解さない)外国人」一般をもさしていたことは、ロシア人がドイツ人を太古よりいかなる存在としてイメージしていたのかを物語っている。近世に入り、ロシアが急速に西欧化を進めるとともに、西欧人がロシアを訪れ、またそこに住むようになったが、その中心はドイツ人であった。著名な歴史家であるウォルター・ラカーによれば、「ペテルブルグやモスクワに居留していた外国人はほとんどドイツ人であり、また地理的にも接近していたことからもドイツがロシア研究の中心となった」[13. 44頁以下]。18世紀のピョートル3世・エカチェリーナ2世夫妻がそろってドイツ生まれであったことは周知のとおりであるが、「ペテルブルグ」というドイツ語風の名称の都をもったロシア帝国は、とりわけ19世紀に入ってドイツと並々ならぬ関係をもつようになった。すなわちそれは、一方で対ナポレオン戦争におけるプロイセンとの共闘、神聖同盟などに象徴的な支配層間での強固な結びつきであり、他方でツァーリズム・ロシアを「ヨーロッパの憲兵」・「反動の牙城」とみなすドイツのナショナリストや革命家たちの激しい憎悪であった。また同時代のロシア思想界がドイツ哲学を摂取し、スラヴ派の思想形成に大きく貢献したこととならんで、ドイツは革命やプロテスタンティズムの温床としてロシアの国粋的な人々の忌み嫌うところであったことも指摘しておかねばなるまい。

  このように、独露ともに互いに好悪入り混じった感情を抱いていたのであったが、19世紀も後半を過ぎると、かつては親ロシア的傾向が顕著であったドイツの保守層はナショナリズムの受容や農業保護関税問題などにより次第に反ロシア的色彩を強めていった。さらにドイツの保守派は、人種主義や全ドイツ主義(いわゆるパンゲルマン主義)の洗礼をうけた新右翼とも結びついて、そのロシアに対する嫌悪と侮蔑を ますますあらわにした。左派の「反ツァーリズム」のスローガンも強まりこそすれ、衰えることはなかった。こうしたドイツ側の情勢に呼応するかのようにロシア側でもドイツに対する反感が増していく。すなわち、ドイツ系が多かったバルト地方におけるロシア化政策の強行、パンスラヴ主義の勃興などである。そして1890年代、いわゆる「露仏同盟」が結ばれる一方で、新帝ヴィルヘルム2世(在位 1888-1918年)のもと世界政策が推進されると、独露は明白に敵国同士となり、バルカンやオリエントなどで対立を深めていった。そして第一次世界大戦が勃発するや両国はついに全面的に衝突するまでに至ったのであった。世界大戦の勃発に対してドイツにおける反ロシア感情は爆発した。右派は同大戦を「生物学的・人類学的次元の」独露間の対決、「“スラヴ民族”と“ゲルマン民族”の永遠の闘争の頂点」[11. S.321]とみなした。また左派は、ツァーリズム・ロシアからの西欧民主主義の防衛を主要な戦争目的として掲げた。このように、左右いずれの陣営においても、反ロシア観が先鋭化し、ロシアの打倒が叫ばれたヴィルヘルム期のドイツにおいて、保守右翼陣営に属しながらも、明白かつ公然とそして一貫してロシアとの提携・和解を唱えたのが、冒頭に掲げた文句の主であるオットー・ヘッチュ(Otto Hoetzsch)である。

  一般に、わが国で、ドイツ近現代史を専攻する者にとってもヘッチュという存在は、ほとんど未知に近いものであろう。ましてその他の分野を研究する者や一般の人々はその名前すら聞いたこともない、というのが実情に違いあるまい。研究の蓄積量にかんがみると、ドイツにおいても彼の知名度は高いとは言いがたい。本稿は、概して知られていないオットー・ヘッチュという、ある意味ではきわめて同時代的で、ある意味ではきわめて異端的な存在を紹介しようとするささやかな試みである。

  まずはヴィルヘルム期におけるヘッチュの略歴を概観したい。ヘッチュは、ビスマルクがドイツ帝国を創設して間もない1876年、ライプツィヒにブリキ工の親方の息子として生をうけた。オットーの名は老宰相にちなむという。長じて、彼は同地のライプツィヒ大学でランプレヒト(Karl Lamprecht, 1856-1915)らから歴史学を学び、同時に国粋的な学生団体「キフホイザー連盟」において活発に活動し、ライプツィヒ支部長にまでのぼりつめた。大学を卒業したのち、ヘッチュはキフホイザー連盟の機関誌『アカデーミッシェ・ブレッター』の編集を委託され、1900年、帝都ベルリンへと居を移した。同誌上でヘッチュは内外の政治に関する論稿を多数発表し、気鋭の政論家として名をはせるようになる。それとともに、ロシア研究がドイツにとって政治的にも学問的にも喫緊の課題であることを認識したヘッチュは、ベルリン大学においてドイツで初めてのロシア・東欧史ゼミナール(1892年設置)を担当していたシーマン(Theodor Schiemann, 1847-1921)に師事し、ロシア・東欧研究に精力的に携わることとなった。こうした成果が認められ、1906年、ヘッチュは、ポーゼン王立アカデミー教授に任命された。同アカデミーは、1903年、高等教育機関として東部ドイツ(いわゆるオストマルク)の主要都市であるポーゼン(現ポーランド領ポズナン)に設置されたもので、現在はアダム=ミツキェヴィチ大学(ポズナン大学)となっている。当時のドイツ帝国が多数のポーランド人をかかえ、大衆化の進展とともに、ポーランド問題が一層切迫していたことは周知のとおりである。ヘッチュは、王立アカデミー教授就任と前後して全ドイツ連盟やドイツ・オストマルク協会など、明確に反スラヴを標榜する右翼団体に加入し、その幹部としてポーランド問題の最前線で同問題にとりくむことになるのであった。彼は、東部ドイツへのドイツ人農民やドイツ人労働者の植民によって東部のドイツ的要素を強化することを主張した。1913年末、ヘッチュはベルリン大学助教授に任命され、再び帝都に居住することとなった。ヘッチュのポーゼン時代はこれにより事実上終了するが、同期間は彼にとり、東方に身をもって接し、オストマルク政策に実質的に関わるとともに、「東欧史家としてのヘッチュ」の形成期という意味できわめて重要な意義をもつといえよう。その東欧史家ヘッチュ、なかんずく「ロシア専門家(Rußlandexperte)」としてのヘッチュの名声を確立したのがベルリン帰還直後に刊行された大著『ロシア――1904年から1912年の歴史にもとづく入門』[6]であった。この間、彼はドイツ保守党に入党し、ポーゼン支部の幹部会員となっている。また1913年にはドイツ政府にロシア研究のための機関をつくるよう覚書を提出し、それによって「ドイツ・ロシア研究協会(Deutsche Gesellschaft zum Studium Rußlands)」が設立された。同協会はドイツの諸東欧研究機関を統括する上部組織としてほぼ一貫してヘッチュによって指導・整備され、名称を変更(ドイツ東欧学協会Deutsche Gesellschaft für Osteuropakunde)して今日に至っている。第一次世界大戦勃発直後、親英路線を唱えて編集部と対立したシーマンの後任として、ヘッチュは、事実上保守党の機関紙ともいえる『クロイツツァイトゥング(Neue Preußische Kreuz-Zeitung)』の毎週一回の外交論説を担当することとなった。ここにおいてヘッチュは断固としてロシアとの和解、対英強硬路線を主張し、同盟国側によるポーランド独立工作や大規模な東部併合要求を批判したが、このことは彼もかつて属した全ドイツ連盟系の人々やバルト系ドイツ人などから猛反発をうけることとなった。

  ヘッチュは、ビスマルク帝国が世界強国へ発展することの支持者として、まさしくヴィルヘルム期ドイツの忠実なる申し子であった。「ビスマルクに学べ、何度も何度もビスマルクに!」と豪語するほど帝国創建の父を尊崇していたヘッチュであったが、同時に彼にとっては、ビスマルクはあくまで「模範的な祖国愛と政治家としての洞察」を示す存在にすぎず[2. S.294]、ヘッチュは自らが、「ビスマルク侯の政治体制が支配した時代とは根本的に異なった」[2. S.270]時代に生きていることを当初から強く認識していた。そうしたヴィルヘルム期の保守的ナショナリストであったヘッチュの政論の主題は、大衆化および帝国主義の時代にあって、国内的には、伝統的支配層下に大衆を統合し、大衆化してゆくポーランドナショナリズムを抑えることによってドイツ国民国家を成就することであり、国外的には、反英親露路線による世界政策の推進によって、ドイツが世界強国となり、「主人と下僕しかいない」[3. S.18]国際秩序のなかで存続してゆくことであった。

他方でヘッチュは、徹底した親ロシア路線の唱道者として、反ロシア気風が強烈であったヴィルヘルム期ドイツの異端児でもあった。ヘッチュの親ロシア路線を規定したのは、「世界のあらゆる陸海でドイツのライヴァル」とみなされたイギリスへの対抗という外交的理由、そして「ビスマルクの伝統と結びついてロシアとの良好な関係を保つことを必至」たらしめる「200マイルにおよぶ無防備なドイツ東部国境」を有する陸続きの隣国という地政学的理由であった[1. S.119]。また、ポーランド問題もヘッチュの親ロシア路線を強く動機づけた。一般に、ポーランド問題とはドイツないしプロイセン一国にかぎった案件ではなかった。旧ポーランド王国をプロイセンとともに分割併合したロシアとオーストリアもまた同問題にとりくまねばならなかった。このような意味でポーランド問題とはすぐれて国際問題でもあったのである。既述のように、1906年からポーゼン王立アカデミーで教鞭をとりはじめたヘッチュはポーランド問題の国際性を徐々に認識してゆく。1912年の論説で彼は次のように述べている。「われわれは・・・長年、気にかけてこなかったが、わが国のポーランド人とその帝国外の民族同胞との関連は活発であったし、今もなお活発である。・・・わが帝国外のポーランド人の発展は、ポーランド語を話すプロイセン臣民にも全く当然のことながら影響を与えるに違いないのである」[4 S.117f.]。こうした認識をもとにして到達したのがポーランド問題における独露の利害共同体性という思考である。世界大戦の暗雲垂れ込める19143月、「ドイツとロシア」と題した論文で彼は以下のように主張している。「ポーランド問題における利害共同体(Interessengemeinchaft)――今や公然と言われることはまれではあるが、それは隠然となおも強固に存在する――によって独露は密接に引きつけられる。両国はポーランド国家再生への希望の不倶戴天の敵であり、またそうあらねばならないのである」[5. S.459f.]。このようにして、国際問題としてポーランド問題を考察することで、親ロシア路線が導き出されたのである。

  こうした反英親露路線は第一次世界大戦が勃発したのちも変わることはなかった。ヘッチュは、

「確かに導火線に火をつけ、地雷を爆発させたのはロシアであったが、その地雷自体は長期にわたる活動においてイギリスによって敷設されたのである」[8. S.33]としてイギリスに戦争勃発の責任があるとみなし、また「イギリスの反独政策の目的については議論の余地はない」[7. 8.12.1916, V,S.96]としてイギリスとの和解不可能性を説いた。これに対して、同盟国側とロシアの生存利害は一致可能とみなした。すなわち、ヘッチュにとって、ドイツの主敵(Hauptfeind)とは、戦前から彼が世界政策上ライヴァル視していたイギリスに他ならず、「今次大戦とそれを準備した主要事とは独英の関係と対立」[7 24.2.1915, T,S.102]であり、「戦争はたとえロシアとオーストリアの戦争として勃発したのであっても、本質においては独英戦争」[7. 3.1.1917, V,S.174]なのであった。

これに対して、ヘッチュにとって、当時、左右両派の主流により、ドイツの主敵とみなされていたロシアとは「われわれの敵のひとり」[7. 23.12.1914, T, S.33]に過ぎなかった。彼の戦時中のロシア論の根底にあったのが、左右両派が唱えた反ロシア論に対する疑念である。ヘッチュは、とりわけ左派が唱えた「ツァーリズム打倒のスローガン」を念頭において、「この[主敵]論争と内政的観点の混同」を非難する。彼にとって主敵論は「あらゆる党派的理論から独立して考察すべき」なのであり、「他国の国制形態(Verfassungsform)」は大戦にとって重要ではないのであった[7. 21.4.1915, T,S.168]。また、「ゲルマン性とスラヴ性の闘争」たる「人種対立(Rassengegensatz)」[8. S.36]、「生物学的・人類学的次元での」独露間の対決、「“スラヴ民族”と“ゲルマン民族”の永遠の闘争の頂点」といった人種主義的・急進右翼的な大戦観にも彼は異議を唱える。ヘッチュにとっては、今次大戦は人種闘争などではなく、「政治の平和的手段によってはもはや遂行不可能となった、権力衝突(Machtgegensätze)をめぐる闘争」であり、「それぞれの生存利害における諸大国の衝突」に他ならなかった[8. S.37]。ロシア・東欧研究を行い、冒頭のように「スラヴ世界もまたわれわれの時代の普遍文化の一部なのである」とさえ言明するヘッチュにとって、大戦を人種的・文化的次元、すなわち非政治的次元に還元することは論外であったのである。また、「他国の国制形態はわれわれにとって重要ではなく、ともかくもわれわれにとって世界大戦の代価たりえず」[7. 21.4.1915, T,S.168]、「戦争がロシアにいかなる国制形態をもたらすかはわれわれの考慮する問題ではない」とするヘッチュは、ロシア二月革命も「独露関係に新しい契機をもちこむものではない」とみなした[7. 4.4.1917, V,S.303]。さらに十月革命後も彼は、「戦争と戦後の時代は、独英の対立によって特徴づけられる」ことが「わが民族の絶対多数の合意」であるとして、イギリス主敵論に固執したのであった[7. 14.11.1917, V, S.617]。

  イギリス主敵論・ロシア和解論とも関連して、定式化されたヘッチュの戦争目的(Kriegsziel)とは「戦争の政治的目的は西に対しては攻撃的である一方、ロシアに対してはドイツのために防御的たるのみ」[10. S.142]というものであった。しかし、「攻撃的」とはいってもそれはあくまで「政治的目的」についてであり、実際の領土獲得については具体的にはほとんど触れることはなかった。ヘッチュの主眼は東部における保全を重視した戦争目的にあった。ここにおいて強調されたのが、「保全(Sicherung)」の観点であり、具体的には、「われわれの東部国境の保全、われわれの同盟国オーストリア=ハンガリーのヨーロッパの大国としての保全、われわれと同盟を結んでいるトルコの保全」[7. 23. 12. 1914, T, S.33]が主張された。ヘッチュの政論に特徴的であるのは、こうした保全の観点が、ロシアに対しても向けられたことである。すなわち、当時、右派を中心に、ロシアを解体し、東部の広大な地域を併合し、ドイツ側に従属する諸衛星国家・緩衝国家を創設するという計画が盛んに主張されていたが、こうした主張への断固とした反対がヘッチュによるロシア保全論であった。その根拠としてヘッチュが述べているのが、「巨大な権力機構」[8. S.56]を擁するロシアの軍事的強大性であり、「[ロシア国家が]6世紀にわたり自覚的に継続させてきた歴史的過程」[9. S.619]を重視するという歴史的観点によるロシア国家保全論である。こうしたロシア保全論は、同盟国側が旧ロシア領において一連のポーランド独立工作を行ったことへの断固たる反対や、ロシアからの分離を宣言したウクライナ人民共和国との講和条約(19182月)への留保的態度、ソヴィエト・ロシアからの厖大な領土割譲にもとづいたブレスト=リトフスク講和条約(19183月)への留保的発言となって表れた。

  以上のように、保守右翼陣営に身をおきながら、ヘッチュは第一次世界大戦前から戦中をとおして、一貫して親ロシア路線を唱え続けた。しかしながら注意を要するのは、彼の親ロシア論とは、少なくともその初期においては多分に現実政治的な観点によるところが大きかったことである。1900年の彼の初のロシア論稿では、上にも引用したように、地政学的観点からロシアとの関係重視を説いているが、同時に「[親ロシア路線は]永遠の同盟などではない。会社経営(Compagniegeschäft)とは生存共同体(Lebensgemeinschaft)ではないのである」とも断言している[1. S.120]。ヘッチュにとって独露関係はあくまで利害共同体であり、「生存共同体」などでは断じてないのであった。また同じくこの論文ではロシア文化やロシア人への激しい侮蔑・嫌悪が表されている。それは、現実政治的な親露観と際立った対照をなす。すなわち「フランスの高い文化とスラヴ的=タタール的=モンゴル的野蛮から成長した・・・人種、言語、道徳、制度、文化は無知と無分別によって、ドイツ的感覚からはきわめて異質なのである」、「西欧では半世紀も前から克服されている経済的社会的状態にある、画一的な大衆」といった罵倒である[1. S.79f.]。無論このようなロシア蔑視は同時代のドイツにおいてはとりたてて珍しいものではなく、近代ドイツの否定的ロシア観の系譜を忠実にひくものであることは明らかである。しかしながら、本格的にロシア研究を始め、幾度となくロシアの大地に足を運び、現地の人々と交歓を重ねてからのヘッチュには上のような露骨なののしりはもはやみられない。むしろ「ロシア民族のあらゆる発展可能性を認めようとしない高慢な西欧人の判断」や「ロシアを反動の牙城視する特定の内政観」を批判し[8. S.496]、「小生をロシアにおいてロシアの国家理念とロシア民族の魂を知らしめてくれた全ての人々」への感謝が述べられるまでになる[6. S.W]。冒頭の「スラヴ世界もまたわれわれの時代の普遍文化の一部なのである」ということばもこのような文脈でとらえられよう。以上のような言説からは、初期の現実政治的親ロシア観とともに、文化的親ロシア観をも醸成してゆくロシア研究者の姿がうかがえる。しかしヘッチュがどれほど文化的・学術的観点からロシアの事物に関心を寄せ、好感を抱こうと、彼が純粋に独露の友好・和解を自己の活動における至上の目的としていたとはいえない。保守的ナショナリストであったヘッチュにとって、独露友好とはあくまでドイツ国家・ドイツ民族の利益のためのものであり、そのための一種の方便であったといっても過言ではなかろう。冒頭に挙げた例のパンフレットでは「もはや和解は考えられない。・・・しからば剣をとってロシアに立ち向かい、この大戦争を戦いぬかねばならない」[8. S.32]とも叫ばれており、現実政治家ヘッチュの面目躍如たるものがある。そうした徹底したリアリストでもあったヘッチュが第一次世界大戦敗北後、反ヴェルサイユ体制・反ポーランド国家の観点から、独ソ提携(いわゆるラパロ政策)の熱心な支持者となったのも道理であるといえよう。

  ヒトラーが『わが闘争』で明言しているように、ナチスが「ロシアとそれに従属する周辺国家」[12369頁]の征服をめざし、独ソ戦という形でそれを実践したことはいうまでもない。1960年代以降の研究では、ヴィルヘルム期の保守右翼陣営を中心としたドイツの広汎な層がこのようなナチスの東方政策ときわめて相似した構想をもっていたとしてナチズムとの連続性が強調されがちな傾向にある。しかし明白に保守右翼陣営に属した保守的ナショナリストでありながら、一貫して親ロシア路線・親ソ路線を唱えたヘッチュという事例は、同時代ドイツのロシア観・東方観の多様性やある種の可能性、あるいは限界性を示唆するものとして一定の研究意義を有すると考えられる。

 

 

【文献表(引用したもののみを挙げた)】

1. Hoetzsch : Rußland. Ein Versuch, in : Ak.Bll., 15, 1900/01, S.79-83, 95-98, 118-120.

2. ―― : Das Zeitalter Wilhelms U., in : Ak.Bll., 17, 1902/03, S.269-275, 289-294.

3. ―― : Der deutsche Weltmachtsgedanke, in : Ak.Bll., 18, 1903/04, S.17-19.

4. ―― : Polenfrage in Rußland und Österreich, in : Ostland. Jahrbuch für ostdeutsche

Interessen, 1, 1912, S.117-136.

5. ―― : Deutschland und Rußland, in : Der Greif, 1, 1913/14, S.457-471.

6. ―― : Rußland. Eine Einführung auf Grund seiner Geschichte von 1904 bis 1912, Berlin 1913.

7. ―― : Neue Preußische Kreuz-Zeitung. 同紙におけるヘッチュの外交論説は、のちに論説と同タイトルで3巻本として刊行された。Der Krieg und die große Politik, Bde.1-3, Leipzig 1917-18. 

8. ―― : Rußland als Gegner, Leipzig 1914.

9. ―― : Gedanken über den Krieg mit Rußland, in : Süddeutsche Monatshefte, 12, 1914/15, S.615-622.

10. Liszkowski, Uwe : Osteuropaforschung und Politik. Ein Beitrag zum historisch-politischen Denken und Wirken von Otto Hoetzsch, BerlinWest1988.

11. Paddock, Troy : Historiker als Politiker, in : Russen und Rußland aus deutscher Sicht. 19./20. Jahrhundert : Von der Bismarckzeit bis zum Ersten Weltkrieg  München 2000, S.298-348.

12. アドルフ・ヒトラー著、平野一朗・将積茂訳『わが闘争(下)』角川書店、2002年(第33版、初版1972年 : 原著1927年)。

13. ウォルター・ラカー著、中沢精次郎訳『革命の運命――ロシア革命史論』未来社、1973年(原著1967年)。