おろしゃ会会報 第15号その4

2008年4月30日

 

 

修士論文特集

 

第二次大戦後における日本兵シベリア抑留問題

―収容所における「民主化政策」をめぐって

 

戸松 建二(愛知県立大学大学院国際文化研究科博士課程前期修了)

 


はじめに.... 1

問題の設定.... 1

第二章 「シベリア抑留」の経過と実態.... 7

第三章 抑留者の帰還.... 19

第四章 その後の諸問題.... 21

おわりに.... 22

今後の展望.... 22

<シベリア抑留関連年表>.... 23

<シベリア抑留関連地図>.... 23

文献目録.... 25

はじめに 

問題の設定

1989年のマルタ会談で冷戦の終結が宣言され、1991年のソ連崩壊によって、世界は完全にポスト冷戦時代に入った。しかし、東北アジアに目を向けて見ると、冷戦の痕跡は、消えていない。南北朝鮮の分断、中台対立などとならんで、日本とソ連の戦争状態を正式に終わらせる平和条約も締結されていない。

第二次大戦終結から60年余り過ぎたが、なぜ日本とロシアは未だ平和条約を結んでいないのであろうか。その障害となっている問題として、まず「北方領土問題」がすぐに浮かんでくる。日本人にとって「北方領土問題」を全く知らない人は少ないはずであるが、それと同時にもう一つネックになっているものが第二次大戦後のソ連による「シベリア抑留」であると私は考える。この問題は「北方領土問題」に比べるとあまり知られていない。私自身、2004年の夏に、クラスノヤルスク市、イルクーツク市の日本人墓地を訪問するまでこの問題を意識したことがなかった。[]

現在抑留者のほとんどは、高齢者となっており、このままでは徐々に抑留体験者が減っていき、歴史から忘れ去られていってしまうかもしれない。しかもこの問題は、学校教育の場で取り上げられる事は極めてまれである。また語られる場合は被害者意識に偏している場合が多い。[]戦争というものは被害者意識と加害者意識に二分して語られる問題ではない。シベリアにおける抑留者[]の問題を考察してみると抑留者内部における矛盾が明らかになる。それは日本の軍隊の抱えていた矛盾と通じている。副題に掲げた「民主化政策」はかつての皇民化政策のパターンを踏襲したものではなかったろうか。またマクロ的な視点から見ると、シベリア抑留問題は、日本とソ連の関係だけでは見えてこない部分が多くある。その点に注意しつつ、国際情勢の中で広い視野に立ってこの問題を考察したいと考える。


第一章 「シベリア抑留」発生の背景

第一節   「シベリア抑留」の遠因

 

 まず「シベリア抑留」とは、第二次世界大戦で対日参戦したソ連が、投降した日本軍兵士をシベリアに送り、強制労働に従事させたという史上他に例を見ない大規模な抑留である。概して「シベリア」抑留と呼ばれてはいるものの、実際にはシベリアだけでなく、モンゴル人民共和国、カザフスタン・ウズベキスタン・トルクメニスタン・キルギスの中央アジア諸国、ウラル地方、タタルスタン、グルジア、ウクライナ、ロシアのヨーロッパ地域や北朝鮮など、広範囲に及ぶ地域で抑留され、その地域の復興や発展のために利用された。よって地域的な面からすれば「ユーラシア抑留」と呼んでも差し支えないかもしれない。

 抑留者達は「ラーゲリ」と呼ばれる強制収容所において厳しい条件のもとで生活をし、労働に従事した。抑留者は最低でも60万人をこえた。劣悪な環境におかれ、経験したこともない気候のもとで労働に従事させられた事により、非常に多くの死傷者を出したが、1950年までに大部分が帰国したとされている。しかし、先年亡くなった瀬島龍三、浅原正基のように11年間も抑留されていた人もいて問題はそう簡単なものではない。国際情勢からみた大きな流れというマクロの視点とラーゲリ内部におけるミクロな視点で考えなければならない。      

 まず、なぜ日本の関東軍が満州にいたのかを大きな流れとして整理しておく必要がある。日本と中国は1894年の日清戦争で朝鮮をめぐってぶつかり、日本が勝利し、台湾を獲得して欧米とならぶ植民地帝国としての第一歩を印した。この時、日本は遼東半島も手に入れたが、ロシア・フランス・ドイツの三国干渉によって返還する事となった。ロシアも朝鮮や満州に勢力を伸ばしたいと考えていたのである。[]1903年に、日露外交交渉の結果、朝鮮における日本の優位と満州におけるロシアの優位を相互に認める、いわゆる満韓交換の妥協案が成立した。しかし、その後ロシア政府はこれを無視するだけでなく、逆に日本に対して朝鮮内での軍事行動の禁止や北緯39度線以北の地域を中立化するように提案してきた。

 これに対して、日本は翌1904年にロシアとの国交断絶・開戦を決定し、ただちに軍事行動に移る事となった。日露戦争は苦戦の末日本が勝利し、翌年95日にポーツマス条約が締結された。ポーツマス条約で、韓国の監督権、関東州の租借権や南樺太を得た。これ以降日本は列強の仲間入りを果たし、韓国の内政、外交権を掌握した末、1910年には韓国を併合した。日露戦争後、第一次世界大戦に至るまでは、日露関係において異例の蜜月状態が続いた。皇室間の往来も盛んであった。しかし、ロシアで革命が起こると、事態は一変した。日ソ間でしばしば軍事衝突を繰り返すことになる。

 第一次世界大戦のさなか、1917117日、ロシアに革命が起こり、ボリシェヴィキによりソヴィエト政権が樹立された。革命後も内戦状態が続いたが、そうしたなかで連合国軍は、ロシアに抑留されていたチェコ軍捕虜約5万人の救出を口実としてこの内戦に干渉することとなる。これが、いわゆる「シベリア出兵」である。それは、革命政府を支持するパルチザンの妨害もあり、苦戦を強いられたが、最大の兵員を派遣した日本は、チェコ軍を救出した後も出兵を続け、ロシア革命の混乱に乗じて勢力範囲を北満・シベリア東部にまで拡大し、革命勢力の東進を阻止しようとした。この事件を契機に、日本は樺太北部を保障占領し、軍政を敷き、石炭・石油・森林資源などを獲得しようとした。しかし、1924年にソ連が成立し、世界が国際協調の潮流の中でソ連を承認し始めると、日本も徐々にシベリアから撤退し、1925年に日ソ基本条約を締結し、外交関係を確立した。だが、国際協調は、長く続かなかった。

 1929年、ニューヨークの株価が暴落した事で世界恐慌が始まった。これを契機に、列強は自国の植民地との間で閉鎖的なブロックを形成し、自国の経済を維持しようとした。「持たざる国」、つまり植民地を持たない国もこれに倣い、自国を中心としたブロック経済圏の確立を急ぎ、国家権力の強化と、海外進出によって何とか現状を打開しようとの動きが急速に現れ始めた。日本では満州を支配する事に活路を見出した軍部、つまり関東軍の主張が勢いづく事となった。

 1931年、関東軍は奉天北部の柳条湖での満州鉄道線路を爆破し、中国軍の仕業と嘘をついて攻め込んだ。日本政府は不拡大方針を打ち出していたが、関東軍はそれを無視して次々と満州地域の主要都市を攻めて行き、1932年に溥儀を執政として満州国という傀儡国家を作り上げた。日本は間接統治という名目ではあったが実際には主導権を握っていた。4000万以上の異民族を支配するためのイデオロギーとして、「民族協和」を採用し、「五族協和」による「王道楽土」の建設として利用したが、これらのスローガンは大陸進出と満蒙領有を目的としていた関東軍の欺瞞であった。[]

 

1937年に日中で盧溝橋事件が起きた時は局地解決を望んでいた両国だが、これと一連の衝突がきっかけとなり日中戦争へと突入してしまった。満州国が成立してからは、その国境がソ連・外蒙古と複雑に接する事になり、満軍・関東軍は国境線をめぐってしばしばソ連・外蒙古の国境警備隊と小競り合いを繰り返すこととなった。その中でも1938年の張鼓峰事件、1939年のノモンハン事件は危うく戦争に突入するところであった。交渉の結果、両方とも停戦協定が成立し事なきを得た。とはいっても、局地的な戦闘にとどまっていた事、また宣戦布告がされなかったなどの理由で「事件」となっているが、実際にはほとんど戦争と同じであった。ソ連軍は1928年からの第一次五ヶ年計画を達成し、著しく軍備が増強されており日本軍はこれらの大規模な衝突によって今まで未知数であったソ連の軍事力・物資力を思い知らされる事となった。[]

 これらの事を視野に入れると、関東軍は、戦争に勝ち、本来は中国領土である満州に軍事的覇権を確立し、その後も勢力を拡大していこうとの考えに基づいて編成された侵略的性格を持つ「植民地軍」といっていいだろう。この日本による植民地軍は、日本の大陸侵略政策において中心的な役割を担い、占領する際に虐殺をし、また満州統治の際には「武断政治」をしいて勝手に振舞ってきた。他にも、大量虐殺の例はいくつかある。南京虐殺もそうであるし、シベリア出兵の時に、アムール州イヴァノフカ村に日本兵とコサック兵が共同で火を放ち多くの犠牲者を出した事件もある。「部隊は家屋に侵入して、長持ちの中を物色し、隅々を引っかき回し、すべて金目のものや貨幣を奪い、ある者は、現場に残った女性たちを強姦した。部隊は夕刻までに焦土となった村を引き揚げた」[]とイヴァノフカ村の村民E・バスマノフの手記は物語っている。

 関東軍の存在は、日本の大陸侵略の象徴であった。抑留問題を考える際、ソ連の犯罪行為には、弁明の余地がない。しかし、この問題の本質を世界史的な立場で論じようとするなら、日本の近代史の歩みを振り返ると共に、当時の国際関係を視野に入れて総合的に論ずる事が必要である。

 

第二節   ソ連による対日参戦     

 

 第二次世界大戦が終盤を迎えていた1945年、ソ連は88日に対日参戦の意を日本側に伝えた。実際に侵攻を開始したのは翌89日とはいっても時差があるので、モスクワで通告している間に極東地域のソ連軍はソ日の境界線を越えて侵入を開始していたこととなる。日本側としては、予期していたともいえるし、全くもって予想していなかった行動だったともいえる。このソ連による対日参戦は、1941413日に締結された「日本国及ソヴィエト連邦間中立条約及び声明書」、一般的に言われる日ソ中立条約を2国が締結していたことによって避けては通れない問題を提起することとなる。以下にあるのが条文とその声明書である。[]

 

日本国及ソヴィエト連邦間中立条約及び声明書

   

大日本帝国及ソヴィエト連邦ハ両国間ノ平和及友好ノ関係ヲ鞏固ナラシムルノ希望ニ促サレ中立条約ヲ締結スルコトニ決シ左ノ如ク協定セリ

第一条       両締約国ハ両国間ニ平和乃友好ノ関係ヲ維持シ相互に他方締約国ノ領土ノ保全乃不可侵ヲ尊重スヘキコトヲ約ス

第二条       締約国ノ一方カ一又ハ二以上ノ第三国ヨリ軍事行動ノ対象ト為ル場合ニハ他方締約国ハ該紛争ノ全期間中中立ヲ守ルヘシ

第三条       本条約ハ両締約国ニ於テ其ノ批准ヲ了シタル日ヨリ実施セラルヘク且五年ノ期間効力ヲ有スヘシ両締約国ノ何レノ一方モ右期間満了ノ一年前ニ本条約ノ廃棄ヲ通告セサルトキハ本条約ハ次ノ五年間自動的ニ延長セラレタルモノト認メラレルヘシ

第四条       本条約ハ成ルへク速ニ批准セラルヘシ批准書ノ交換ハ東京ニ於テ成ルへク速ニ行ハルヘシ

 右証拠トシテ各全権委員ハ日本語乃露西亜語ヲ以ッテセル本条約ニ署名調印セリ

         昭和十六年四月十三日即チ千九百四十一年四月十三日「モスコー」ニ於テ之ヲ作成ス

    声明書

大日本帝国政府乃「ソヴィエト」社会主義共和国連邦政府ハ千九百四十一年四月十三日大日本帝国乃「ソヴィエト」社会主義共和国連邦間ニ締結セラレタル中立条約ノ精神ニ基キ両国間ノ平和乃友好ノ関係ヲ保障スル為大日本帝国カ蒙古人民共和国ノ領土ノ保全乃不可侵ヲ尊重スルコトヲ約スル旨厳粛ニ声明ス

      大日本帝国政府ノ為

松岡洋右

建川美次

      「ソヴィエト」社会主義共和国連邦政府ノ委任ニ依リ

ヴェー・モロトフ

 

 

条約文によると、2国間における相互不可侵、そして、一方が第3国の軍事行動の対象になった場合、他方は中立を保つことなどが定められている。これらの事は誰しも知っているであろうが、対日参戦を考察する際に重要な部分となるのは第三条である。この部分に、条約の有効期間が5年と記されており、またその満了1年前までにどちらかの国が廃棄を通告しない限りは、さらにその次の5年間、同じ内容で条約が自動的に延長される旨が記されている。

日本側は1940年に日独伊三国同盟を結んだ後、中立条約を結ぶ事でソ連を味方に付けようとの意図があり、この条約をソ連に提案した。ソ連側は最初その申し入れを無視していたが、対独戦を視野に入れた際、日本と中立条約を結び極東地域に配備していた軍を西部戦線に移動できれば有利になるであろうと考え、提案を受け入れることとなった。そして実際にソ連は極東地域の軍隊を西側へと移動し、ドイツとの戦いに投入することとなった。それはさておき、問題となるのはソ連が中立条約に違反して侵攻を開始したことである。先ほど述べたとおり、中立条約には有効期間というものがきちんと存在している。ソ連側が194545日に中立条約の破棄を通告したが、締結されてからの5年間、つまり19464月11日まではこれを遵守しなければならないはずだった。日本側としては、破棄を通告されてもその有効期間内は攻めてこないと考えていたかもしれない。

 しばしば、日ソ中立条約を破ったという事実だけに焦点をあててソ連を非難するだけで終わってしまう事があるがそれは間違っていると考える。中立条約を無視してソ連が日本に侵攻したのは事実であるし、明らかに不当な行為であることは否定できないし許し難い事であると考える。しかし、戦争によって領土を拡大しよう、また少しでも自国に有利になるようにと各国が知恵を絞り合っていた当時においては、もしソ連がドイツに負けていたならその時点で日本は中立条約を破ってソ連に侵攻していたのではないだろうか。歴史を振り返る上で、もしという仮定の表現を用いて論じていく事は非常に意味のないことであり、またやってはいけないことであるかもしれない。しかし、日本の大本営がドイツ戦で弱体したソ連に攻め込むか、ソ連とは中立を保ったままで南方方面に侵攻していくかで悩んでいたことは事実である。戦争という状況の中では皮肉なことに、騙し合い、いかに自国に有利になるかに手を尽くしていく。ソ連が中立条約に違反したことを肯定しているのではない。しかし、日本側にも好機がきたら中立条約を破る覚悟はできていたとみるのが適当であろう。[]

 

第三節   北方領土占領  北海道北部占領計画断念

 

スターリンは、戦後の世界における覇権争いのために、北方領土と北海道の北半分を自国領土として取り入れようとする構想を抱いていた。北海道の北半分でも自国の領土に取り入れることが出来るならば、今後有利になると踏んだからである。北海道占領計画についてスターリンは書簡によってトルーマン米国大統領に伝えたが、トルーマン大統領にこの案は拒否されてしまう。当時、戦後日本の統治を巡ってJWPC385/1SWNCC70/5という文書があった。[10]前者は日本を5つの地域に分割して統治する予定のものだったが、トルーマンは戦後の日本において、戦後ドイツの場合と異なる単独統治を目指しており、またその点は妥協できない部分だったので後者のSWNCC70/5822日署名をしたのである。北方領土については、1945年の米英ソによるヤルタ会談においてソ連が対独戦争終了後2ヶ月から3ヶ月以内に対日参戦する事の条件としてソ連に引き渡すことに合意していたのでスターリンが予期していたよりもすんなり事は進んだが、北海道の件については諦めざるをえなかったのである。

その代償として、日本人を労働力として利用することに決めたのではという主張が存在している。しかし、この意見は少々違うのではないかと考える。スターリンがトルーマン米国大統領に北海道北部の占領計画を伝えたのが816日で、その返事としてこれを拒否されたのが818日である。スターリンは、日本軍人を捕虜として用いないといった内容の命令を816日にベリヤ宛に出していたが、一転して同月23日に、極東地域に対して「日本軍捕虜将兵50万人をシベリアに移送せよ」との内容の命令を伝えている。

 

 国家防衛委員会決議9898cc

  日本軍捕虜500000名の受入、収容、労働利用に関する決議

1.ソビエト社会主義共和国連邦内務人民委員部、ベリヤ同士(ママ)[11]、クリベンコ同士に対して、日本人捕虜を500000人迄、受け入れて、捕虜収容所に送るよう命令する。

2.方面軍事会議〔第一極東方面軍(メレツコフ同士、シュティコフ同士)、第二極東方面軍(プルカエフ同士、レオノフ同士)、ザバイカル軍(マリノフスキー同士、チェフチェンコフ同士)〕に対して、ソ連内務人民委員部・軍事抑留者総局・第一極東方面軍代表であるパブロフ同士、同局第二極東方面軍代表であるラトゥシュヌイ同士、ザバイカル方面軍代表であるクリベンコ同士、並びにヴォロノフ同士と共同して、以下の措置を講じるように命令する: (・・・省略)

3.ソ連内務人民委員部・捕虜・抑留者対策総局は、以下に示す拠点の労働に従事させる目的で、500000名の日本人捕虜を派遣する: (・・・省略)

4.3項に基づいて労働のためにやって来る捕虜の受入、収容、労働利用の実施を行うよう、次の人民委員に命ずる: (・・・省略)

到着した捕虜の受入場所となる部屋は、本年915日までに50%、本年101日までに残りの50%を準備しておかなければならない。

捕虜収容所に部屋、暖房、照明を備える任務を人民委員部に委任する。

5.日本人捕虜の警備を行うために、内務人民委員部部隊より動員して、35000名分の護送隊員を増員することを、ソ連内務人民委員部に許可する。

6.国防人民委員部(ブルガーニン同士)に次の命令を下す: (・・・省略)

7.極東担当ソ連内務人民委員部に、捕虜収容所用に貨物用自動車を1200台、護送隊用に900台を分配するよう、対外貿易人民委員部(ミコヤン同士)に命令する。

8.本年8月から10月の期間に、内務人民委員部と方面軍の申請に従い、梯団が鉄道輸送と河川輸送により、500000名の日本人捕虜を護送できるよう、赤軍・軍事交通中央局(ドミートリエフ同士)、輸送手段人民委員部(コワレフ同士)、海軍人民委員部(シルショフ同士)、河川輸送人民委員部(シャシコフ同士)に命令する。

9.日本軍の食料供給基準に従った、日本人捕虜に適用する食料基準量を算定して、導入するよう、フルリョフ同士(国防人民委員部)、チェルヌィシォフ同士(内務人民委員部)に委任する。

10.国防人民委員部(フルリョフ同士)に次の命令を下す: (・・・省略)

11.ソ連内務人民委員部の日本人捕虜収容所に、戦利品と極東部隊の資産から4000頭の馬を引き渡すよう、国防人民委員部(ブジョンヌィ同士)に命令する。

12.日本人捕虜の治療用として、最小限必要な数の病院用寝床を準備して、分配するよう、ソ連保健人民委員部(ミテレフ同士)、国防人民委員部軍事衛生総局(スミルノフ同士)に命令する。

13.極東の日本人捕虜収容所として、ソ連内務人民委員部に八百トンの有刺鉄線を引き渡すよう、国防人民委員部(ヴォロビヨフ同士)に命令する。

14.本決議の遂行を監視する任務を、ベリヤ同士に委任する。

    国家防衛委員会議長 I・スターリン  自署[12]

 

 上に引用したものが、その決議9898の内容である。細かいところは省略して引用したが、この決議では、かなり詳細な部分にまで言及している。例えば、決議9898号の3項目では、日本人抑留者のうち何人を、どこの地域に派遣し、どのような仕事に就かせるか、また誰がそれぞれの部署において責任者となるか、という部分にまでしっかりと指示が出されている。

この決議9898号にもとづいてスターリンが命令を下したのが823日である。トルーマンに北海道計画を拒否されてからわずか5日間である。当初は日本人捕虜を労働に使用しないと言っていた者が一転し、1週間もしない内にこれだけの内容を作り上げる事ができるであろうか。たとえ、ソ連が50万人という日本人を移動させるという大規模な計画をたった5日で練り上げ、実際に行動に移そうとしていたと考えるならば、明らかに杜撰なものになってしまうだろうし、別の言い方をすれば、全くもって捕虜に対する心遣いがない事を示しているだろう。

 

「その精密周到な手配ぶりから判断すると、少なくとも事務レベルで一ヶ月以上の立案準備が必要だったかと思われる」とした上で、「ソ連の対日参戦が88日、日本の降伏が814日だから、日本兵捕虜のシベリア移送は、対日参戦にかかわる全体構造に組み込んであった公算が高い」と、秦郁彦は指摘している。[13]

 

上述のように、事務的な面からみてもスターリンがアメリカ側に拒否され、手に入れる事ができなかった物の代償として日本人を利用することに決めたのではなく、最初から選択肢の一つとして強制労働に利用しようとの意図は少なからずあったと考えるほうが納得できる。この事は、次のように考えられる。スターリンにとって最高の筋書きとは、戦争が終わるまでに満州に侵攻して、千島列島と南サハリンの獲得、北海道北半分の獲得を達成すると同時に、許されるならば日本人を連行して自国復興のために働かせるという物だったのではないだろうか。そしてこれらを対日参戦することによって得られる主な見返りとして、準備は秘密裏に行われていたという事である。

 

第四節   日本の国体護持                  

 

<和平交渉の要綱>

 シベリア抑留発生の要因を考える際、ソ連側だけではなく、日本側についても考察する必要がある事は述べたが、ここでは日本側の指導者の行動について考えていく。

 終戦が近づいてきた頃、近衛文麿達には、ソ連に英米に対する仲介役になってもらおうとして動き、訪ソする考えまであったが、ソ連側にこれらは拒否されてしまう。ソ連としてはポツダム会談で対日参戦を約束していたので、何が何でも自分達が対日参戦するまでは戦争を継続させておきたかったのである。よって、この提案は深く審議されるまでも無く、またスターリンに詳しい内容が届く事もなく拒絶されたといわれている。その内容とは以下のようなものである。

 「海外にある軍隊は現地に於て復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、止むを得ざれば、当分その若干を現地に残留せしむることに同意す」

 「若干を現地に残留とは、老年次兵は帰還せしめ、若年次兵は一時労務に服せしめること、等をふくむものとす」

「賠償として、一部の労力を提供する事には同意す」[14]

 

ポツダム宣言によって無条件降伏を受諾したはずだが「国体の護持は絶対にして、一歩も譲らざること」との条件をどうしても日本は守り通したかった。よって、それらを守るために考案された、いわゆる棄兵棄民政策とでも言うべきこれらの日本側からの提案が、スターリンが9898号指令を出す前に伝わってしまったので、スターリンは日本兵を抑留したのではないかとの意見もあるが、阿部軍治は、自身が調べた限り、その可能性は低いと指摘している。[15]

 この提案がソ連側に伝わった可能性は低いとされているが、棄兵棄民の政策を日本政府がとったという可能性は否定できない。なぜなら、敗戦直後に大本営から派遣された軍使、朝枝繁春中佐によってこれに類似した内容の文書が満州の関東軍にもたらされ、労力提供の申し入れがソ連側に行われたとされているからである。上に挙げた内容に加え、朝枝自身が作成した文書も加えられ、そこには「戦後、将来の帝国の復興再建を考慮し、関東軍総司令部は、成るべく多く日本人を大陸の一角に残置することを図るべし。これが為、残置する軍、民間の日本人の国籍は、如何様に変更するも可なり」[16]と、日本人の国籍変更までも許容していたのである。

 これらは、「ワシレフスキー元帥に対する報告」、「関東軍方面停戦状況に関する実視報告」などと共にソ連側に渡されたとされる。関東軍総司令部の「ワシレフスキー元帥に対する報告」でも棄兵棄民政策が以下のように貫かれている。

  「居留民は目下の処、総計135万人と推定いたして居ります。之等の大部は元来満州に居住し一定の生業を営みあるものにて、其の希望者はなるべく駐満の上、貴軍の経営に協力せしめ、其他は内地に帰還せしめられ度いと存じます」

  「次は軍人の処置であります。之につきましても、当然貴軍に於て御計画あることと存じますが、元々満州に生業を有し、家庭を有するもの並に希望者は満州に止って貴軍の経営に協力せしめ、其他は逐次内地に帰還せしめられ度いと存じます。右帰還迄の間に於きましては、極力貴軍の経営に協力する如く御使い願い度いと思います。・・・其の他、例へば撫順等の炭鉱に於て石炭発掘に当り、若くは満鉄、電々、製鉄会社等に働かせて戴き、貴軍隊を始め満州全般の為、本冬季の最大難問題たる石炭の取得、其の他に当り度いと思います」[17]

 日本兵士達は、戦争終結と共に「1日でも早く内地に帰りたい」と思っていたに違いないが、日本軍首脳部はこのような申し出をしていたのである。これは、国民に対する裏切りとしか言いようがない。また、同様に棄兵棄民の例として、ソ連軍が満州に侵攻してきた時、軍首脳と軍のお偉方の家族がいち早く避難したため、開拓団をはじめ一般の居留民を置き去りにしたという事実がある。ここでも、残された場所で生き残ろうとした人々は非常に厳しい経験をしたのである。「居留民の保護」を大義名分にしていた日本軍の海外侵攻であったが、いざという時には我が身の事で精一杯という何とも身勝手なものである。

 

阿部軍治によれば近衛のルートでも関東軍からのルートであっても、ソ連側に伝わったのは、スターリンが9898号指令を出した823日より遅い828日、早くても26日との事である。[18]この提案が遅かれ早かれ伝わったことによって、ソ連側に抑留を正当化するための材料を与えてしまった事は否定できない。しかし、これらの提案をした上層部の人々の中でも、文書の中で「現地」あるいは「大陸の一角」となっている部分をソ連領内とまで考えていた人はいないだろう。多くの者は、この部分を満州地域や朝鮮に残ってと解釈していただろうが、ソ連側にしてみればどうにでも解釈の仕様がある格好の材料が与えられたと言わざるを得ない。

 実際にそれが瀬島龍三によって労働力として提供しようとの意図のもとで行われたのかどうかについて、疑惑は一通り払拭されたという意見はある[19]が、今現在では事実であるとまで断定できる状態ではない。しかし、いずれにせよ、そう捉えられても仕方ない内容であったことは否定できない。

また、国体護持に直接関連している訳ではないが、軍国主義的教育によって、日本人兵士達は自分達の身分がどのようなものであるかという事も知らないままだったので、帰還時に賃金を貰わなかったり、また正当な扱いを要求しないままでいるという事も多くあった。

日本の軍隊には「軍隊手牒」が存在し、正式な身分証明書、もしくは軍人たるもののライセンスといった意味を持っており、無くさないように所属する隊の事務室に一括して預けてあった。その手帳の中に戦陣訓というものがある。

序文には、「・・・戦陣の環境たる、兎もすれば眼前の事象に捉はれて大本を逸し、時に其の行動、軍人の本分に戻るが如きことなしとせず。深く慎まざるべけんや。及ち既往の経験に鑑み、常に戦陣に於て勅諭を仰ぎて之が服行完璧を期せむが為、具体的行動の憑拠を示し、以て皇軍道義の昂揚を図らんとす。是戦陣訓の本旨とする所なり」や、「夫れ戦陣は、大命に基づき、皇軍の真髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威(みいつ)の尊厳を感銘せしむる処なり」[20]とある。              これを見れば、軍隊という集団は、少々普通の感覚とずれていると感じる事ができる。

また、戦陣訓には次のような項が存在する。

 

8項「名を惜しむ」

  「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」[21]

 

戦後、この項のために日本人内に捕虜という概念が存在しなかったので、軍部は兵に対し、「敵軍の勢力下に入りたる帝国軍人軍属を俘虜と認めず」との通達を出した。つまり捕虜ではないから投降しろと命令をした。この事によって、抑留者達は捕虜になる事は「恥」であり、また自分達は捕虜ではないとの考え方をしていたので、捕虜としての国際法上の権利を失ったのではとの主張もある。[22] いずれにせよ、「お国のために」、「天皇陛下のために」と教育し、働かせた日本人兵士を、いとも簡単に、また国の体裁を守るためだけに相手国に引き渡す事を良しとした日本上層部の行動は許されるべきではない。

 

 

 


第二章 「シベリア抑留」の経過と実態 

第一節   ソ連領内への連行プロセス   

 

ソ連によって抑留生活を余儀なくされた人々には共通する点が幾つかある。何よりもまず、ソ連兵による略奪など不当な扱いを受け、非常に苦しい労働生活を送ったことはほぼ全ての人に共通する。回想録によって我々はその酷さが如何なる物だったのかを実感させられるが、実際に経験した者にしか分からない、より一層辛いものであった事も間違いない。同時に大抵の回想録において、連行される際にもある程度の共通点が見られる。日本人は自分たちが捉えられた場所、あるいはそこから一箇所に集められてソ連兵によって武装解除をされる。この点についてはほとんどの回想録において共通している部分なので信頼できるが、その期間についてはまちまちである。抑留経験者の高杉一郎の場合[23]、「823日に海林で武装解除された後、出発するまでにその場で約2ヶ月間を過ごした。そして、海林を出発して11月初頭に収容所に着いた時までずっと夏服のままだった」と証言している。

 抑留された者達のほとんどが、ソ連領へ連行される際に、「東京ダモイ」という言葉を耳にしている。「東京ダモイ」とは「東京へ帰国」といった意味合いである。ソ連兵にこの言葉を聞かされ、列車に乗せられた人々は日本へ帰れると期待に胸を膨らませるが、実際には逆方向へと列車は進み、最終的にソ連領内へと辿り着くのであった。加藤静夫は「全員が乗った汽車はまた走り出した。一体全体どうなっているのか。片言まじりとジェスチャーでソ連兵に尋ねた。どこの港かと聞くと、次の駅までと言う。絶対帰国できるから安心しておれば良いと言うが、安心できない。」とその時を振り返るが、彼はそのままイルクーツク州タイシェット地区ニューベルスカヤに収容された。[24]何の説明もないままだったので、列車にゆられていく途中、広大なバイカル湖を見て日本海だと思い込む日本人がいてもおかしくない。しかし、実際そうではなく違う方向に進んでいる事を説明された時のやるせなさといったら計り知れないだろう。高杉一郎は、「右手にバイカル湖が見えてきたが、ひとりの兵隊が、海だぁ、と狂喜の声をあげた。待ちに待った日本海にようやくたどりついたものと思い込んだらしい。そうではないことを説明されると、彼はすっかりふさぎこんでしまった」[25]と振り返る。

川越史郎は、いくら武装解除したといっても、シベリアへ連れて行くとわかれば何か起きるだろうと予測したソ連側が「ダモイ」という噂を流して騙しつつ連行したのだろうと考察している。[26]

 

第二節   抑留の実態  

 

<全体数、日本人の割合、(外人捕虜数)>

 独ソ戦が開始されてから、日本が降伏するまで(19416月〜19459月)に、ソ連国内に抑留され、強制労働に従事した捕虜は、24カ国、総数417万人にのぼったとの調査がある。その内訳はドイツ2389560人、日本639635人、ハンガリー513767人を筆頭にルーマニア・オーストリア・チェコスロバキア・ポーランド・イタリア・フランス・ユーゴスラビア・モルダビア・中国・ユダヤ・朝鮮・オランダ・モンゴル・フィンランド・ベルギー・ルクセンブルグ・オランダダッチ・スペイン・ジプシー・ノルウェー・スウェーデンの兵士が抑留されていた。この資料から考えると、外国人捕虜総数に対しての日本人の割合は約15%を占めていたこととなる[27]。この数字を多いとみるか、少ないとみるかは人それぞれだが、それは後々分かってきた事であり、当時、シベリアで非常に多くの者が希望もない労働に駆りたてられていたことに違いない。

  関東軍がソ連に連行される際、推定3500人の朝鮮人が日本人捕虜としてシベリアに送られ、同様に強制労働に従事させられた事も忘れてはいけない。なぜそのような事が起きたかというと、1910年の韓国併合によって日本が朝鮮を植民地支配した結果、「創氏改名」を余儀なくされ、朝鮮人も「皇軍兵士」として戦争に駆り出されたのである。強制的に徴兵されて関東軍に配属された朝鮮人は、当時の国籍は日本であり、また日本人の名前をつけられていたのでそのまま日本人捕虜として収容所へ送られてしまった。一年ほどすると朝鮮人であることが判明し、日本人とは別に独立した作業隊がつくられ作業にあたるがその厳しさは日本人と変わらないものであった。戦後の朝鮮半島は南北に分断されていただけでなく、冷戦のあおりで政治的に厳しい対立状態にあったので、彼らは帰還後も苦難に満ちており、抑留されていたことをようやく口に出来るようになったのは1990年にソ連と韓国に国交が樹立された後であった。[28]

 

<スターリンの捕虜観>

まず、国際的に「捕虜」と定義されるものはどのようなものかを知る必要がある。その際には、陸戦の法規慣例に関するハーグ条約と、1929年の捕虜の待遇に関するジュネーヴ条約が存在している。「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」とは、1907年の第二回ハーグ平和会議によって、1899年の第一回ハーグ平和会議での条約を修正してできたものである。その中の第二章「俘虜」の項目と、ジュネーヴ条約が現代の人道法の基礎となっている部分である。ハーグ条約の第二章は第四条から第二十条までで構成されているが、その中で捕虜の取り扱いに関しての第四条を取り挙げる。[29]

 

  陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則

 

 第一款 交戦者

第二章       俘虜

 第四条【取扱】 

俘虜ハ、敵ノ政府ノ権内ニ属シ、之ヲ捕ヘタル個人又ハ部隊ノ権内ニ属スルコトナシ。

  俘虜ハ人道ヲ以ッテ取扱ハルヘシ。

  俘虜ノ一身ニ属スルモノハ、兵器、馬匹及軍用書類ヲ除クノ外、依然其ノ所有タルへシ。

 

 次に、ジュネーブ条約を引用する。

 

  俘虜ノ待遇ニ関スル寿府条約 (ジュネーヴ条約)[30]

 

第一條 本條約ハ第七編ノ規定ヲ害スルコトナク左ノ者ニ適用セラルベシ

(一)   陸戦ノ法規慣例ニ関スル千九百七年十月十八日ノ「ヘーグ」條約附属規則第一條、第二條及第三條ニ掲グル一切ノ者ニシテ敵ニ捕ヘラレタル者

第二條 俘虜ハ敵国ノ権内ニ属シ之ヲ捕ヘタル個人又ハ部隊ノ権内ニ属スルコトナシ     

    俘虜ハ常ニ博愛ノ心ヲ以ッテ取扱ハルベク且暴行、侮辱及公衆ノ好奇心ニ対シテ特ニ保護セラルベシ

    俘虜ニ対スル報復手段ハ禁止ス

 

ソ連は、1929年のジュネーヴ協定には加わっていなかったので、そのかわりに1931年に「軍事捕虜についての規定」(人民委員会議中央執行委員会決議)を取り決めていた。

その中では、「軍事捕虜は残酷な扱いや侮辱や脅しを蒙ってはならない」、「情報を手に入れる目的で強制手段を用い」てはならないとし、「軍事捕虜はその同意を得て作業に参加させることはできる」などが規定されている。[31]

 

 この規定に基づいたより具体的な軍事捕虜規定が、1941年に登場する。

 

 軍事捕虜規定[32]

 

    T.総則

1.以下の者を軍事捕虜と認める。

(a)ソ連邦と戦争状態にある諸国家の軍隊に属し、軍事行動の際に捕らえられた者、また同様に、ソ連邦領内に抑留されているこれらの国の民間人。

(b)敵国の軍隊には属していないが、公然と武器を携帯している武装集団に入っているもの。

(c)然るべき許可を得て敵軍の陸・海軍に随行している、たとえば、通信員、納入業者その他の者で、軍事行動の際に捕らえられた民間人。

2.以下の事は禁止される。

(a)捕虜を侮辱し、虐待すること。

(b)捕虜のうちにおける軍事その他の情勢に関する情報を得る目的で、捕虜に対して強制や脅迫手段を用いること。

(c)捕虜が所有する軍装品、下着、靴、その他の個人用品、同様に個人的な書類および勲功章を没収すること。

   高価な物品と金銭は、権限を有している者の公式預り証と引き換えに、保管の目的で捕虜から徴収することができる。

 3.本規定を拡充させてソ連邦内務人民委員部が発令する指令書と規約は全ての捕虜が読む事のできる場所に掲示される。これらの指令書と規約、同様の捕虜に関する命令と指示書は、ロシア語および捕虜達に分かる言語で公表される。

 

もう一つ押さえておくべきものはポツダム宣言(1945726日)である。13条から構成される同宣言の中には、捕虜の取り扱いに関連した記述が一つ存在している。その部分を引用する。[33]

 

ポツダム宣言

 

 九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ

 

 これら捕虜に関する規定の内、守られたものはほとんどないと言ってよい。次のようなエピソードがある。イギリス首相チャーチルが自国の炭坑労働者不足を嘆いた際、スターリンは平然と「ドイツの捕虜を使えばよい、わが国ではそうしている」と言ったようである。[34]捕虜の権利がどうこうという事ではない。スターリンにとっては、日本人抑留者だけでなく、全ての捕虜を人としてではなく、単に安い、あるいは無償の労働力としか見ていなかったのであろう。

 

<ソ連における収容所>

 ソ連における収容所の起源は15世紀のイヴァン3世の時代にまで遡る事となる。15世紀からこの国には「流刑制度」が存在しており、国の東方進出に伴いその主要な所在地がシベリアへと移っていく。初期の頃は犯罪人をシベリアへ送り、新たな土地の開拓などの労働に就かせていた。19世紀に入ってからは犯罪人だけでなく、国家に反逆する政治犯も送られるようになる。[35]

 第二次世界大戦時に、多数の外国人兵士を収容所で強制労働に就かせていた事は上述した通りである。寺山恭輔は、『第二次世界大戦時のソ連における捕虜問題に関する最近の研究』[36]という論文の中で、ドイツ兵捕虜を主な対象とした研究を幾つか概略し,また日本人抑留者の場合との相違点にも言及した上で、「西部地方でソ連は捕虜に対応した経験を積んでおり、それが東部地域で生かされた可能性はある」けれども、日本人受入の際にも「相当の混乱が生み出されたのでは」と指摘している。

 

<日本人抑留者数と死亡者数>

 どれだけの日本人将兵がソ連に抑留され、その地で無くなってしまったのかを正確に把握するのは不可能に近いのが現状である。その理由としては、ソ連側の管理が行き届いていなかったので記録として残っていない部分があった事、ソ連側将校の中に教育されておらず、きちんと数を数えられなかった者がいた事などが挙げられる。

白井久也は、抑留された日本人将兵の数は64万人、死亡者数は62千人としており、[37]和田春樹はソ連の収容所にいた抑留者数はおよそ60万人であるとしている。[38]ソ連側の研究者では、ヴィクトル・カルポフは576千人、ガリツキーは609400[39]が抑留されたとし、『シベリア抑留死亡者名簿』を作成したキリチェンコは、594千人としている。[40]その他の研究者も、ほぼ同様の数字を挙げている。若干のばらつきはあるが、これらの数が現段階では真相に近いものであると考えられている。

 死亡した者の内、多くは1945年から1946年という抑留されてから比較的早い時期に亡くなった。精神的に弱っていた事に加え、まったく経験した事の無いシベリアでの冬に耐え切れなかった者が次々に事切れていったのである。[41]クラスノヤルスクの第33ラーゲリと第34ラーゲリでの死亡者と死亡した期間は次のようである。[42]

 

1945年                1946

4四半期   第1四半期  第2四半期  第3四半期  第4四半期 合計

33    83            509            69             9             9      679

34   196            544           145            27             9      921

合計   279       1054(ママ)[43]        214            36            18    1600

 

 第33ラーゲリには支部が7つで6500人ほど、第34ラーゲリには支部が11ヶ所存在し、15000人ほどの日本人が収容されていた。表によると、1946年までに亡くなった抑留者の内、8割以上が、収容されてすぐの19459月から、初めての冬を迎えた19463月までに集中している。やはり、冬の厳しさに耐えきれなかったという事である。

 

<仕事内容> 

 19475月から同年12月までに引き揚げて来た人々から調査した資料を根拠に推計したものは次のようである。

 

       労働種別に見た収容所統計(収容所1021箇所)[44]

作業種類別     収容所数   同上比率   小計    比率

建設                     396  38.8%

   建築      189  18.6%

   鉄道       98   9.6%

   道路       83   8.1%

   土木       26   2.5%

 林業                     307  30.1%

   伐採・流木   235  23.1%

   製材       72   7.0%

 農業         54   5.3%    54   5.3%

 鉱業                      69   6.9%(ママ)[45]

   炭鉱       46   4.5%

   鉱山       15   1.5%

   採石・採油     8   0.8%

 工業                      31   3.0%

   機械・食品・煉瓦 25   2.4%

   発電所・造船    6   0.6%

 運輸                     127  12.4%

   積卸       80   7.8%

   運搬       47   4.6%

 雑役         37   3.6%    37   3.6%

   総計     1021 100.0%  1021 100.0%

(註)一収容所で数種の作業に従事している場合は数個の収容所として計上している。

 

 上の表を見る限り、建設や森林伐採等の体力を必要とする肉体労働を抑留者に課している収容所は多かった。しかし、仕事内容は多種多様で、採石、貨車やトラックの運転、石炭・セメント・木材の積み卸し、薪切り、建築材木伐採、住宅・バラック建設、木材運搬、農作業、工場清掃、桟橋構築、運転手、通訳、死体埋葬の穴掘り、鉄道路線補修、造船所・炭坑作業、草刈り、鉄道レール敷き、道路建設、発電所建設、アパート建築、煉瓦工場、煉瓦積みなどがあり、抑留者達はほとんど何でもこなしていた。

 

<労働時間>

 抑留者の労働時間は、原則としては週6労働日8時間制であったが、ノルマを遂行することが最低限の条件なので、該当労働時間内にノルマ未遂行の場合は作業の種類によっては更に数時間の残業を強要されたこともまれではない。8時間制が当たり前のように無視される事は少なくなかった。[46]

1947年度(475月から同年12月まで)の引揚者の資料に基づく当時の490か所の収容所の労働時間は次のとおりであって、8時間労働を厳守していた収容所は全体の半数に達せず、半数以上が8時間以上であって、それらの内8時間ないし10時間が全体の3分の1を占め、10時間以上の労働を強行していた収容所は16%に及んだとされる。

 

  労働時間   収容所数   比率   備考

  8時間     234   47.8%

  8時間以下    18    2.6%

  8時間以上   243   49.6% 8−10時間 165(10時間以上 78)

    計     495  100.0%[47]

 

 8時間という労働時間がきちんと守られていた場合でも、抑留者たちが生活していた収容所から仕事場までの往復に必要な時間、仕事に必要な準備や後片付けの時間は含まれていない。よって、その分は休憩あるいは食事の時間が削られる事となった。

 クラスノヤルスクにあった第34ラーゲリ第3支部の日課を例として以下に引用する。[48]

 

        1. Подъём – 6.00.

        2. Перекличка – 6.30.

        3. Завтрак – 7.00.

        4. Вывод на работу – 7.30.

        5. Обеденный перерыв – 14.00 - 15.00.

        6. Окончание работы и ужин – 19.00 - 20.00.

        7. Вечерняя поверка – 21.00.

        8. Отбой ко сну – 22.00.

 

6時に起床して点呼が6時半、7時に朝食を取って30分後には仕事へ向かう。そこから2時までの6時間ほど働いて2時になると昼休みが1時間。仕事を終え、夕食を取るのが19時から20時で21時には再び点呼をされ22時に就寝というのが日課となっていたようである。日課を見る限り、この収容所では八時間以上の労働を毎日行っていた事が分かる。睡眠時間はおよそ八時間となっているが、実際にはもう少し短い時間であっただろう。

 こちらの日課は、見て分かる通り、抑留者達に規則正しい生活をさせようと目指したものである。しかし、実際にはこの通りにいかなかったのである。

 

まず、一つ目の理由として、労働におけるノルマ制度を挙げる事が出来る。それぞれの収容所に着いた時に、そこでまずやる事といえば、自分たちの入る収容所を作るという状況が多くあった。自分たちの収容所を作るのだが、まだ抑留初期の段階で、到着したばかりの抑留者たちには体力もある程度残っていたし、多少の食料にもありつけていた。ソ連兵の命令のとおりに収容所を作り始めるのだが、皮肉な事に、日本人のてきぱきと仕事をこなす生真面目な性格が災いして、逆に抑留者自らを苦しめる事となる。

 ソ連に連行されてから着手した初めての仕事のスピードや完成度によって、その後続く苦しい抑留生活における日々のノルマが割り当てられてしまう事となった。徐々に体が衰えてきてからも、最初の仕事を基準としていたので、そのノルマを達成する事は非常に厳しいものとなった。

 どんなに環境が悪くてもノルマを達成させなければならないので、必然的に労働時間が延長してしまった。労働時間の延長が抑留者達のやる気が減少に繋がるのではと懸念したソ連側は、邦人抑留者に対して「ノルマ給食」という制度を導入した。これはその日その日の作業成績に応じて給食量を増減するという非人道的な方法であった。

 

1級食 ノルマ遂行率 126%以上    パン450g カーシャ(粥)飯盒1杯(山盛)

2級食 ノルマ遂行率 101%〜125% パン350g カーシャ(粥)飯盒8分目

3級食 ノルマ遂行率 81%〜100%  パン300g カーシャ(粥)飯盒6分目

4級食 ノルマ遂行率 80%以下     パン250g カーシャ(粥)飯盒4分目[49]

 

 この制度が、抑留者がノルマを達成しようとの動機付けになった事は確かであり、作業成績は急激に上昇した。働いて基準値を超えればその分多くの食事にありつけるのであるから当然の結果とも言える。しかし、欠点として、食糧配給量の絶対数は上がらなかったことである。この制度が取り入れられてからも規定の量の食糧しか収容所には配給されなかったので、まずは成績の悪い者に対しての食糧を優秀者にまわすこととなり、それでも足りないくらい優秀者が出た場合、先ほどの成績優秀者に対して規定されていた量が減っていくのである。この制度によって、抑留者の労働意欲を駆り立てることに一時的には成功したが、頑張り過ぎたのに、規定量もらえない日本人達の内、体調を崩す者が多く出て、逆に効率が下がる事もあった。収容所内における厳しい生活によって、それぞれの抑留者の肉体的・精神的な衰えはますます顕著になっていくばかりである。

 

8時間労働が守られなかったもう一つの理由は、ロシア人指揮官の多くは字を書けず、計算もろくにできなかった事である。点呼やノルマの計算に必要以上に時間がかかってしまうので、きちんと時間通りに物事が進んでいくという訳にはいかなかったのである。収容所では1日に最低でも朝と夜の2回点呼があり、何か問題が起こった時には、緊急の召集・点呼が繰り返されていた。仕事から帰ってきた時などは、人数確認が終わるまで極寒の中で長時間立ちっぱなしという事もあった。ただでさえ疲れきった状態であるのに、点呼によって無駄な時間をとられてしまう。無駄な時間が増えると言うことは、抑留者達の睡眠時間や休憩が減っていき、体力が徐々に奪われ、また時間内でのノルマ達成を難しくしていく事を意味する。けれども、悪循環の原因であるソ連側が口にするのはやはりノルマだけという酷いものであった。

これらの理由から見れば、やはり最初から8時間労働を守る気はなかったと結論づけざるを得ない。

しかし、これらの内、計算や点呼の際に生ずる問題については、日本人が点呼の手助けをする事で何とかしたようである。スベルドロフスク収容所にいた関清人は「ソ連の警戒兵は・・・なかなか隊列の人員の把握が出来ず・・・このために人員の把握はすべて日本人が代わりにやってのけた」[50]と、多少仕事は増えたが凍えるよりはましだったと語っている。

抑留者の中には、逆にソ連兵が計算できない事をうまく利用し、伐採作業で数を数える際に「俺が計算してやろう・・・121618・・・」といった具合にノルマを誤魔化す者もいたようである。[51]こういった例は、今でこそ笑い話になるかもしれない。しかし、実際は、生きるか死ぬかという極限状態における、ささやかな抵抗だったに違いない。

 

<収容所での待遇> 

やはり食糧不足がどこの収容所においても一番ネックとなっていた。1940年〜1946年、ソ連は非常に深刻な食糧不足に悩まされており、自国の国民でさえ十分に食べる事ができない状況であったので抑留者達への食糧も最低限に限られた。

 

 クラスノヤルスク第34ラーゲリ第6支部で炭鉱労働をしていた吉田ゆきおは以下のように回想している。

194512月から19463月は本当に陰気な年だった。激しい吹雪の中での森林伐採や耐えがたい炭鉱労働には、常に絶望がつきまとっていた。さらに悪いのは、慢性的な食糧不足と水不足である。狭いバラックでの生活は健康を保つためには良くなかった。それに加えて、ロシア人指揮官はつらい労働を強制し、我々に非人間的に接してくる。日本人の健康な体は衰弱していった。」[52]

 こういった例はクラスノヤルスクだけでなく、どの地域でも見られた。イルクーツク州タイシェットのように、ソ連兵が明らかに嘘と分かるような事を日本人に演説した例もある。

 「お前達が日本軍隊に居た時は、1日8001000カロリーしか食べていなかった・・・我がソ同盟からお前達に支給されている食糧は、14500カロリーもある。」と言い、それに対して野次が飛ぶと最終的には「食糧が少ないから働けないとか、ノルマが厳しいとか言って、当たり前のように騒いでいるが、そうではない・・・やる気の無いものに対し食糧を減らすのは当たり前の事だ。」[53]という始末である。

 本当に4500カロリーを与えられていたとしたら納得できるし、働こうとの意欲も湧くであろう。しかし、この時点で抑留者達は、雑草でも何でも食べられそうなものは口に運んでいる状態だったので、誰一人としてソ連兵の嘘に耳を傾けるものはいなかった。

食糧不足についての体験記は非常に多く、どれを見ても明らかに最低限の規定量でさえ貰っていない事がわかる。「わずかに生えてくる草も小さな木の芽もみな食い尽くしてしまった。そこで馬糞を拾って丹念に水に流し、中に未消化のまま残っている麦を根気よく集め、それをソ連兵が捨てた缶詰の空き缶で炊いて食った」とか、「便所の片隅の方でなにやら動くものがあるので、よく見るとそれが人間であった。なんとその男は便壷の中から大豆をつまみ出して口に入れていた」[54]といった例もあった。

 

第三節   抑留の経過−民主化政策

 

 シベリア抑留という問題を捉える際、「民主化運動」とは、主にソ連が日本人抑留者達を共産主義化しようとした事を示している。とはいってもこの呼び方はソ連や親ソ的立場の日本人が考案し、使用した特殊用語であって、現在でも様々な呼び方がされている。クズネツォフは「思想改造(идеологическая обработка)」、「再教育(перевоспитание)」、「思想的準備教育(идеологическая подготовка)」などの言葉を使用し、バザーロフは「思想教育(идеологическое воспитание)」、「軍事捕虜のあいだの思想工作(идеологическая работа среди военнопленных)」、「日本人軍事捕虜の思想的鍛えなおし(идеологическая перековка японских военнопленных)」との表現をこれに当てている。[55]一般のロシア人が、「民主運動(демократическое движение)」という用語から、シベリア抑留日本人に対して実施された特殊な思想工作などと想像するような事は到底あり得ないものである。

 

収容所内では、抑留者をソ連にとって役に立つ人物にしていくために政治教育を行った。名目上は「民主化運動」とされていたが、まったく民主的なものではなくむしろ洗脳教育に近いものであった。瀧澤一郎は、「抑留者の体力・精神力を極限にまで弱らせておき、しかる後に待遇改善や早期帰国というアメを与える。あるいは、反ソ扇動罪での投獄や帰国延期、さらには、食餌・睡眠の削減というムチで脅迫し、相手をねじ伏せる。こういう手法は特定の価値観・思想を、抵抗力を失った相手の脳に注入するという意味では、まさに洗脳行為と呼ぶのがふさわしい」と述べている。[56] ウィリアム・F・ニンモも「史上最も念入りな教育計画の陰謀」としてこれら民主化政策を捉え、またこれを「集中的な洗脳」であると断じている。[57]

 

この政治教育の過程をニンモは著書の中で次の4つの段階に分けて考えた。第一段階で人間性を奪い、天皇への信仰をやめさせ、階級差をなくそうとし、第二段階(19471月頃から)では新しい思想、つまり共産主義思想の教育を施し、第三段階で連合国による占領政策に対し不信感を抱かせ、最後の第四段階は、19478月頃から2年間にも渡るソ連の積極的支持者と民主活動家による洗脳教育の時期だった。[58]

 

では「民主化政策」とは具体的にどのようなものだったのだろうか。まず、ソ連の目的としては以下のようなものである。

 

1.日本人抑留者に共産主義の考え方を叩き込むこと

2.前職者[59]の告発を促す

3.労働に駆り立て、能率を上げる

4.ファシズムあるいは反動分子の徹底的排除

5.軍国主義に対し不満を植え付ける

6.天皇制打倒

7.帰国後、日本で共産主義運動をしていける人物を育成する

 

これらを達成するために夕食後に勉強会が開かれることも多くあった。収容所毎に影響力のある者がソ連から指導者として選ばれるが、収容所内の日本人隊長が協力的ではない場合、すぐに別の人物と交替させられた。[60]

 

 日本人抑留者の収容所には、政治教育の一環として1945年秋から日本新聞が配布されることとなった。コワレンコ中佐が大場三平とのペンネームで編集長をやっていたこの新聞は、初期は月に2回発行の2ページ程度のものだったが、19466月頃からは週3回のペースでページ数も4枚に増大されていた。ハバロフスクに編集部は存在し、高杉一郎によるとその発行回数は全部で662回となっており[61]、伊藤努によると通算650回とされている。[62]地域によっては配られなかった事もあったので多少のばらつきはあるが、正確な数は1945915日の創刊号から19491230日発行の第662号で終刊となっている。[63]

日本新聞は、ソ連側の人間だけでなく、日本の抑留者の中からも編集に携わる者がいた。ソ連としては、日本人を共産主義に仕立て上げていく際、同じ日本人を介してやったほうが、色々と効率的に事が運ぶだろうとの考えであった。前日本人編集責任者、宗像創に代わって浅原正基が1946年から19498月までの間、日本新聞の日本側責任者をしており、抑留者の間では「シベリアの天皇」と呼ばれ恐れられた。[64]「シベリアの虎」と呼ばれ同じく抑留者間で恐れられていた袴田睦奥男は、別の地方にいたので日本新聞には関係していない。編集部には、相川春喜という経済学者がおり、経済記事を担当していた。他にも小針延ニ郎、高野忠興などもいたが、彼らがそこで何をやっていたのかは明らかにされていない。[65]

これら日本人は、ソ連側から編集部に迎え入れられる事となる。選ばれる対象になる一つの基準は共産主義に徹底的に傾倒しているもの、天皇制打倒を掲げる者、反軍国主義者などであり、簡単に言ってしまえばソ連の都合のいいように動いてくれる人物である。

浅原正基は正真正銘の共産主義者だったので、ソ連に迎え入れられるが意見の対立などが頻繁にあり、後にスパイとして逮捕されてしまう。浅原によると、一連の民主化運動は、日本人内で自発的に議論し、提案し、実行に移した活動との事である。しかし周りの抑留者達から見れば、単に仲間を裏切ってソ連に近寄った人物として捉えられても仕方がない。

 

 日本新聞はどの程度、ソ連が言う民主化運動に役立ったのだろうか。1946年当時の日本新聞をどう思っていたかを「ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会」がアンケート調査をした結果、元抑留者達から次のような回答が寄せられている。[66]

     デマ新聞だから信用するなの声が多かった。(横倉昌博)

     日本の活字と情報に飢えていたので反感はなかった。(神谷恭平)

     ソ連の共産主義宣伝、思想教育のための新聞だと思っていました。従って内容についてはいつも疑惑を抱いていました。(奥田多美雄)

     待ち望んでいた。恵の雨の様に。活字に飢えていた時代だったので、たとえ偏った情報でも、不正確な情報でも、心の慰めにと大分役立ったと思う。(河野明)

     何も読むものが無かったので読んでいたが、今まで聞いた事がないようなことばかりでとまどいがあった。(中山静)

     1食に馬鈴薯2個という給食状態で死者が続出していたその頃、私は、捕虜として、近いうちに銃殺されるだろうという不安があったので、無関心だった。(室橋正一)

 

 このように、新聞に対する反応はまちまちであった。初期の段階では、軍国主義的風潮が抜けきっていない事もあり、「ソ連の悪質なデマと策略にのるな」と周りや自分自身に言い聞かせていた面もあっただろう。しかし、そういった状況下で民主運動推進派の編集部は「日本新聞友の会に集まれ!!」との内容を1946525日に載せて、読者をより多く獲得したいと動いていた。[67]

賛否両論があるにしても、日本新聞を通じての情報は唯一のものだったので、徐々に読まれていくことになる。そして、1946128日号からは「戦犯追及は我等の手で/けふこの日を期し戦犯追求総攻撃だ」[68]との連載が始まり、これが軍国主義者や、ソ連の言う「偽り」の民主主義へ従わない者たちに対する吊るし上げへと繋がっていく。この「戦犯狩り」宣言は反軍・民主化運動の闘争の構図を明確に描き出している。1946123日に新聞に掲載されたものは以下のようである。

1.       われわれは過去の帝国主義日本のやって来た侵略的犯罪的戦争の本質――天皇制ブルジョア地主共が内外人民の犠牲の上に、自分のフトコロを肥やすためにやった――を徹底的にバクロしなければならない。

2.       そして未だに相変わらずのデマをとばし、悪煽動をしている頑冥な反動分子を容赦なくタタキつぶさねばならぬ。

3.       彼ら反動分子のバラまく排外思想、軍国主義的デマの本質を完膚なきまでにヤッツケルと共に、そのデマにタブラかされた一部将兵の蒙を啓かねばならぬ。

4.       人権蹂躙犯人即ち、最大戦犯人天皇の名に於いてわれわれ兵士大衆を奴隷の如くコキ使い、私兵の如く私物のように追いまわし、階級を笠に私的制裁をホシイママにした将校下士官、しかもいまだに改悛せず、現在に至るもノサバッテいる輩は断固処断しなければならぬ。

5.       斯うして軍国主義者の残党、戦犯人のカタワレ人権ジウリン犯人の一味をわれわれの生活からタタキ出し、ヒネリ潰さない限りわれわれの所内の明朗化、生活の民主化は絶対に期しえられぬ。

6.       しかして戦争虐政犯罪の最高の元兇こそは天皇であり、巨魁連は天皇制軍閥、財閥、官僚であること勿論だが、単にこれのみではない。われわれの周囲にあるすべての軍国主義者、反動分子が悉くそうだ。兵隊のものをクスネてゼイタクをしているもの、私的制裁をやるもの、反動的デマをとばすもの、悉く犯罪人の一味である。 

(・・・中略)

“戦争犯罪人は我らの手で”!! 

内地の兄弟と呼応してわれわれも戦犯追及カンパ[69]を先ずわれわれの周囲から始めよう!![70]

 

 このような内容が指針となって、各収容所の戦犯追及カンパは展開されていくが、この戦犯追及運動は集団帰国が終わる1949年夏以降まで続けられた。これらの運動が影響力を持つようになり、後で述べるように帰還の際に問題となる。

 

 関清人は「記事はすべて一方的で、ただソ連を称え・・・日本内地のニュースといえば、天皇は人間になり、飢餓に苦しむ同胞はいえなく彷徨する難民、頻発するストライキなど」[71]しか書かれていなかったと語る。高杉一郎は同様の事を、「『復刻日本新聞』の巻末に索引があって、復刻全三巻を通じて誰が何度登場したかを数えている・・・多い方から順に10数名をだけ挙げると・・・スターリン(66)、本名の浅原正基とペンネームの諸戸文夫をあわせて(46)、徳田球一(35)、志賀義雄(31)、相川春喜(31)、野坂参三(30)、モロトフ(30)、小林多喜二(23)、高山秀夫(21)、マッカーサー(19)、伊藤律(18)、毛沢東(16)、宮本顕治(16)・・・この「日本新聞」の編集はどんなに好意的に見ても、偏りすぎているのではあるまいか」[72]と非難している。

 

 日本新聞編集部は、スターリンへ感謝文を送る事を提案し実行に移した。1949526日の日本新聞に、浅原正基の次のような演説が載っている。[73]

 

 「われわれがいま、かくも勇気に燃え、確信と誇りにみちみちているのも、ソ同盟人民とその偉大な指導者スターリン大元帥の配慮によるものである・・・ソ同盟とスターリン大元帥へのわれわれのあふるる感謝と感激のほとばしりは、わが民主運動のそれぞれの歴史的時期に全同志諸君の心におさえがたく脈々と脈うってきた・・・全在ソ同志に一大感謝文を送るべき事を訴えるのは、わが民衆運動、在ソ生活4ヵ年の必然的帰結である。」

 

 収容所生活のどこをどう見て、「勇気にあふれ確信に満ちている」と感じたのだろうか。「われわれのあふるる感謝と感激のほとばしり」とあるが、「われわれ」とは一体誰なのであろうか。日本新聞編集部で働いていたごく少数の人々は「われわれ」に含めても差し支えないだろう。彼らは他の抑留者達に比べ、ソ連と親密な関係を結んでいたし、比較的食料なども多く与えられていた。毎日、奴隷のように働かされ、生きるか死ぬかの瀬戸際であった人々にとって、このような嘘偽りは非常に許しがたいものであった。浅原正基は、現実とまったくかけ離れた事を平然と言い放っただけでなく、それどころか、抑留者を強制労働に従事させているまさにその張本人であるスターリンに、抑留者の署名を集めた感謝文を送るとは一体何を考えていたのだろうか。

 彼は自分の周辺だけを見て、それを全体の基準にするほど単純な男ではなかった。では何故、現実と全く異なる事を言ってまで、スターリンへの感謝を示そうとしたのだろうか。「嘘でもいいから抑留者達を共産主義化させて、早く帰還のチャンスが巡ってくるようにしたかった」と捉える事も出来るが、彼の抑留記[74]を読む限り、そのような意図はまったくなかったと言わざるを得ない。むしろ、彼がそのように行動してきた理由は、まさしく真の共産主義者であった事、そして少しでも多くの共産主義者を抑留者の中から生み出したかったからである。しかし、毎日重労働に駆り立てられていた多くの抑留者にとって、共産主義とは、厳しいノルマ労働と少量の食事、仲間の死という目の前の現実でしかなかった。それゆえ、浅原がどれだけ共産主義を宣伝しても、他の者との溝は深まるだけであった。

 

以下にスターリン感謝文を一部引用する。

 

敬愛するイオシフ・ヴィッサリオーノヴィッチ!

 旧日本軍捕虜である私たちは、人類最大の天才、全世界勤労者の導きの星であるあなたに、そしてあなたを通じてソヴェート政府ならびにソヴェート人民に、偉大なるソヴェートの国が私たちにあたえられた光と歓びに対し、私たちの心からの感謝と感激をこめてこの手紙を送ります・・・ソヴェートの地におくった4ヵ年の生活こそ、私たちにとって偉大なる民主主義の学校となったのでありました・・・並々ならぬ寛大と人道主義をもって迎えられ、何よりもまず第一に正常な生活条件をととのえ厳正な8時間労働制をあたえられました。(・・・以下省略)[75]

 

 感謝文には、実際とは全く異なる収容所での生活条件が、スターリンへの美辞麗句と共に書き並べられた。「厳正な8時間労働制」に始まって、「あたたかき寝具と衣服」、「立派な宿舎」や「食膳を賑わせた日本料理」など、他にも多くの事が賞賛されているが、全くの嘘である。このスターリンへの感謝文は、ソ連側と一部の抑留者との関係強化に少なからず役立ったかもしれないが、大抵の者にとっては単なる裏切り行為であった。仲間の現状を無視して、ソ連に擦り寄っていく者たちとの溝はますます深まるばかりであった。

 

 これらの民主化政策が、ソ連側によると、日本人抑留者達の中から自然に発生してきた啓蒙運動だと主張されている。浅原正基など、抑留者の中で民主化の先頭に立って動いていた者達も、ソ連にやらされていたのではなく自分達から進んで活動していたと述べている。しかし、実際のところそうではなく、ソ連当局によるきちんとした計画の下で行われた政治的教育であった。ソ連はうまく立ち回り、直接手を出さず、また直接介入せずに日本人をうまく誘導し、あたかも自主的な運動のように見せかけたのである。

 

<徳田要請問題>

 195028日、ナホトカから高砂丸で還った373名の「日の丸組み」[76]は、214日、次のような懇請書を国会に提出した。

 

カラガンダ第9分所に在りしとき、所長代理中尉シャヘ―フ、政治部将校ヒラトフ少尉(通訳日本人管某)は、全員集会の席上、俘虜の帰還質問にたいし、左の如く言明せり。――「日本共産党書記長徳田球一氏より、その党の名において思想教育を徹底し、共産主義に非ざれば帰国せしめざる如く要請あり。よって反動思想を有する者は絶対に帰国せしめぬであろう」

 世界平和および民族の自由独立を標榜せる日本共産党のかかる態度は、人道を無視し、国民の総意にもとり、在ソ同胞の犠牲の上に党勢拡大を企図し、あまつさえソ連に阿諛せんとするものなり。はたしてこれが事実なりとせば、日本政府、進駐軍の努力、および国民の総意に反するものにして、引揚促進に多大なる障碍を及ぼすは言うを俟たず、よって右事実の真否を究明し、善処あらんことを切望す。ここに29日帰還せる日の丸梯団全員の名において懇請するものなり。[77]

 

 これは、共産党の徳田球一が「よき民主主義者になった後に帰国」するようにカラガンダ第9分所に要請したので、そこに収容されていた自分達の帰国が遅くなったと政府に訴えた問題である。ここで、管と書いてあるのはカラガンダ第9分所でその内容を通訳した管季治の事である。「よき民主主義者」とは、この場合、反ファシストや共産主義者の事であり、それ以外は帰ってくるなとカラガンダの抑留者達には聞こえた。管は、ただソ連将校の言った事を訳しただけで、特にそのような要請は無かったと主張した。

この徳田要請問題は、米ソの東西対立が深刻化する中で、日本における共産主義の拡大を排除しようとしていたアメリカにとって、好都合な出来事であった。アメリカは日本政府にこの真相について調査するように指示したが、徳田球一から要請があったという前提で、かつ必ずそのような結果が出るように手を尽くしていた。

国会に召集され証人喚問を受けた管は、徳田球一からの発言を「要請する」ではなく「期待する」と自分は訳したと主張する。その後、彼は手記に、ソ連将校が抑留者からの「いつ帰れるのか?」という質問に対して、流れの中で何となく共産党の名前を出してしまっただけだろうと書いた。管は、共産党の味方でもないし、占領軍の味方でもなく、ただ単に正直に生きようとしていただけであった。しかし、手記の内容をいいように解釈され、共産党をかばっているという話にまで膨れ上がってしまう。最終的に、彼は右派と左派の両方から追い詰められ、自殺をしてしまう。

 現在でも、共産党からカラガンダ第9分所にそのような要請があったかどうかは不明である。共産党は、そのような事実は全くないとしている。しかし、ソ連の抑留者に対して、「良き共産主義者になって帰国して欲しい」といった同様の旨を伝えていた例は他にも幾つかあった。

高杉一郎は、収容所に届いた一枚の葉書について「差出人が日本共産党書記長徳田球一で、一般大隊の反ファシスト民主委員の一人が出した葉書に対する返事らしい。よき民主主義者となって帰られる日をお待ちしているという旨の簡単な文面である。」[78]と書いている。また、御田重宝は、「徳田氏がソ連当局に書簡を送り、立派な民主主義者として帰国させて欲しいといった内容の要請をしたことが日本新聞で取り上げられ、シベリア民主運動が激化する要因の一つとなったことは事実である」[79]と明記している。

両方とも、時と場合によっては徳田要請のように取り上げられて問題になっていてもおかしくない内容である。共産党員を目指しているものに対して、励ましの言葉をかけていたと見るならば、反ファシスト民主委員への返事は特に問題にならないかもしれない。しかし、御田が指摘する「ソ連当局に要請はあった」という事実からすれば、カラガンダ第9分所の場合も、やはり日本共産党から何らかの形で要請があったとみて問題ないだろう。

 

<旧軍隊制度の解体>  

暁に祈る事件というものがある。ウランバートルの収容所で池田重善が、同じ収容所内の日本人を「私的制裁」によって死亡させた事件である。池田は自身を「吉田」と名乗り、他の者達は彼の事を「吉田隊長」と呼んでいた。ソ連人との間に立って隊員に過酷な労働を強制し、ノルマを達成し得ない隊員を絶食の私刑に処した。・・・体力の低下した隊員は・・・樹木に半裸でしばりつけられ、夜間の厳しい寒気のため凍死・・・夜が明けてみると、立木に縛られたままうなだれて絶命している姿が「暁に祈」っているように見えたのでそのように呼ばれた。この事件は昭和24年、同じ収容所の生き残りの笠原金三郎と吉川慶作から告訴され、その年の714日、池田は逮捕され裁判の結果、懲役3年の実刑判決が言い渡された。[80]

 このような私的制裁は、日本軍隊における階級制度がソ連に連行された後にも継続していたことによって引き起こされた。ソ連の軍隊にも上下関係はあり、上からの命令は絶対的なものであるが日本の軍隊とは少々違い、下の者でも何か不満があれば上の者にきちんと反抗ないしは抵抗をする。高杉一郎の抑留記では、少佐による所持品検査で私物を奪われた時に、それを見ていた警備兵は、時間外なのでと、少佐の言う事に耳を傾けなかったという。後に、「あれは抵抗するべきだった、収容所長に時計や万年筆を取る権利は無い」と高杉に助言をし、またパンが支給されない時にもきちんと上司に抗議して手に入れてくれた事もあり、「日本の軍隊よりも、ソ連の軍隊のほうがやや民主的であったのでは」[81]と述べている。次のような例もある。衛兵と中尉が言い争っている場面で、「中尉が捕虜を引率して外出する許可証を持っていなかった・・・衛兵は外出を拒絶した。ネリジャー(ダメだ)と自動小銃を中尉に突きつけた」[82]という日本では考えられない行動を取ったので、普段はやる気のなさそうなソ連兵に対する認識が変わったと小坂井は自身の抑留記で語っている。

 

ソ連側は、旧階級制度を収容所内にそのまま残す事で日本人の管理を簡単にできると考えていた。日本の軍隊での上下関係は絶対であるので、上の者に命令をしておけば下の者へもしっかりと伝わった。しかし、絶対的な上下関係であるがゆえに上述のような事件が起きてしまったのである。教育中の初年兵で少しでもミスをすると、上級の兵や下士官にどなりつけられたり、時には殴られたりする事があった。浅原正基は、知り合いが受けた私的制裁について、「高梨二等兵が・・・兵長によって、編上靴(へんじょうか:兵隊用の編上げ靴で、靴裏には一面に金鋲が打ちつけてある)の裏側で、顔の左半面に一撃を加えられ・・・跡を残してみるみる腫れあがった。制裁の理由は分からなかったが・・・隊長も将校もどの下士官も、彼の顔をみてどんな異様も認めなかった。」と回想している。[83]また彼は、「初年兵教育とは、まず人間が人間であることをやめさせることである。軍国主義者たちはそれを公然と宣告することを少しも憚らない。天皇の名によるすさまじい人間冒涜と人格汚辱が、連日連夜、どの部隊、どの内務班(分隊)でも鉄則として初年兵を襲ったのはそのため」[84]であるとし、日本の軍国主義を批判している。

「軍隊が絶対的な“階級社会”である限り、その<集団的閉鎖性>が副作用となり、時として一方的な暴力劇の部隊に変貌する宿命は免れ得ない・・・そのパニックは個人にも、集団にも見られる」[85]と三國一郎は軍隊内で起こりうる暴力的行動の危険性について指摘している。

ソ連の収容所内でも、日本軍階級制度が残っていたので小さな苛立ちが、自分より階級が下の無抵抗の相手を前にして、次第に大きな怒りにエスカレートしていくこととなり、その犠牲となるものは多くあった。こういった例は、一部に限られていたのではなくほとんどの収容所に見られた。クラスノヤルスクの収容所にいた片山衛真は、「曹長がおとなしい初年兵の青年に対して、収容所内で食い物を探したという理由で制裁を加えた。上半身裸にされ、両手を上に上げさせられ、帯革で打たれて気を失った。しばらくして目を覚ましたが、また曹長が殴りだし、彼は再び気を失い、二度と息を吹き返す事は無かった」[86]と、当時頻繁に起きていた酷いいじめについて思い返している。バム収容所管轄のモロドイ分所では、将校グループが特権を利用して、500人に支給された食糧や衣類等を掠め取り、兵隊はやせ細り栄養失調者が続出し、一週間で270人の死者を出すという痛ましい悲劇が起こった。[87]タイシェット地区に抑留されていた真弓一郎も同様の事を経験し、「宿舎ごとに収容所本部から翌日分の黒パンを受領してくると、それはまず将校室に運び込まれ、大分削り取られて、それから兵隊たちのもとに持ってこられた。規定より少なくなったそれを兵隊達は切り分ける・・・将校たちは兵隊のパンをピンハネして、自分達だけは十分食って痩せもせず傲然とし、兵隊達は痩せ細り、将校と兵隊の間に大きな溝ができ、後者の前者への敵視が始まった」[88]と述べている。旧軍隊制度が残っていた事により、何よりも大切な食糧の供給量を減らされてしまった。上にいる者がきちんとした人物ではないと、作業に反比例して、食事の配分は上に厚く、下に薄くといった具合で配られる事となった。一般兵士は、中隊長の3分の1、小隊長の半分、分隊長の3分の2という暗黙の配分ルールができていた所や、上官から順に分配されていき、一般兵士のところに回されるのはマッチ箱ぐらいの一口で終わるような分量で、それすらも、古年次兵たちに取り上げられるという収容所もあった。[89]

 

考えてみれば分かる事であるが、日本人抑留者がソ連に連行された時、既に戦争は終結していたのでソ連収容所内で抑留者が旧軍隊の階級制度を守る必要はなかったのである。抑留初期にはほとんどの収容所で階級制度が守られていたが、次第に疑問を抱く者が出てくる事となり、解体していくこととなる。なぜ階級制度が無くなり始めたのかというと、上官からのリンチ・食糧横領に不満を抱いていた人々が団結し始めたのと同時に、ソ連側からの民主化政策が後押ししたからであろう。しかし、なんと言っても、シベリアで長い間強制労働に従事している間に、そのような階級制度が収容所内では役に立たないと感じる人が多くなったからである。小坂井盛雄は強制収容所内での生活について「軍隊の階級の上下関係や元々何々をやっていたなどという職業や社会での地位は勿論の事、年齢の等差も、全く物をいうような事がない。皆動物的でありながらその中で何が良いのか誰が偉いのか?又信頼出来るのかという事等をちゃんとわきまえていたようだった・・・肩書もない本当の人間として真の価値が大切にされたような気がする」[90]と自身の抑留記の中で回想している。

 ソ連側は、日本人抑留者内から生じてきた、階級制度廃止を望む動きをうまく利用し、宣伝する事によって、反軍国主義的思想を植え付けることに成功した。上述したように上官から下士官へのいじめなどに腹を立てていた日本人抑留者内から、階級制を廃止しようとする民主的な行動が起きても不思議ではない。しかし、それがエスカレートし、何かにつけて「反動分子」や「軍国主義者」と決め付け、吊るし上げるまでに至ってしまう。この時点で、「民主運動」は本当に民主的な運動ではなく、ソ連側にとって都合のいい、つまり共産主義的な考えにもとづいた「民主運動」に変質していたと考えてよいだろう。

 第三章 抑留者の帰還    

第一節   外国在留邦人の帰還

 

日本政府は終戦から6日後の1945821日、在外一般邦人の引揚げ計画立案を内閣調査室と内務省管理局が担当することを決定し、830日には「外地(樺太を含む)及び外国在留邦人引揚応急援護措置要綱」を定めた。

660万人という外国在留日本人の輸送、受入の準備に着手し、引揚げ業務を主管した厚生省は、「人類が経験した最も広範な集団人口移動」と振り返ったようであるが、まさしくその通りである。順調に引揚げは行われていったが、まだ引揚げが完了していない例外も存在した。

 

各地の引揚げは遅くとも終戦の年の暮れまでには開始され、翌46年中にはほぼ終了したが、その例外は、英国軍の管轄する東南アジア地域とソ連軍管理地区だった。東南アジア地域については、英軍当局が戦災地の復興作業、現地における労働力不足の補充といった理由でマレー、ビルマ、タイなどにおいて日本軍捕虜を残留させ労働に従事させていた。[91]とはいえ、英国に留まっていた日本人抑留者のうち最後まで残っていた作業隊も47年末までには帰国した。

 

第二節   ソ連地域からの引揚げ

 

これに対し、ソ連は武装解除した日本の軍人をソ連領内に送り込み、その消息について1年ほど伏せ続け、連合国総司令部を介しての日本政府からの引揚げ要請や消息に関する情報提供を無視した。日本に要請されるたびに、総司令部は反応が無いだろうとは思いつつもソ連に日本の要請を伝えはした。ソ連が全く返事をしてこなかった事は、日本国内にソ連に対する嫌なイメージを植え付け、同時に、その「悪」に対抗するアメリカのイメージを向上させる事に繋がるので、総司令部にとっては、まんざらでもなかった面もある。しかし実際には、満州・北朝鮮はソ連の占領地区だったので強引に介入できるはずもなかった。日本側は、スウェーデンやインドなど様々な外交ルートから、何とかソ連がこの問題に取り組んでくれるようにアプローチをしたが、それでも反応はなかった。

 

捕虜の帰還について、「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」では以下のように規定されている。

 

 第二十条【帰還】 平和克復ノ後ハ、成ルへク速ニ俘虜ヲ其ノ本国ニ帰還セシムへシ。[92]

 

 「平和が回復したら、捕虜はなるべく早くその本国に帰還させる」との内容だが、平和の回復がどの程度の状態を示すのか、また、なるべく早くとは一体どのくらいの期間を示しているかについては、国によって捕え方が多少異なる場合もある。しかし、ソ連の取った1年ほど音沙汰無しという行動は、基本的にそれ以前の問題である。

ソ連は自国の復興のために捕虜を利用した。戦争には勝ったけれども、国全体が疲弊しきった状態だった。よって手に入れた貴重な労働力を簡単に手放す訳にはいかなかったので、日本側からの要請に対してなるべく答えないようにしていた。何とも身勝手な振る舞いである。

抑留が長期化するにつれて、送還を求める要求が高まるとソ連は徐々に対応し始めるが次のようなものである。

 

「日本人捕虜は送還されても、失業問題に直面し、かつ住居にも困るだろう。ソ連は日本の捕虜を養うために巨額の出費をしている。」

「引揚げが遅れている原因は日ソ間の政治的問題ではなく、日本の輸送能力が主要な原因である」[93]  

 

 いかにももっともらしい理由に基づいているような説明ぶりだが、そもそも長期間抑留している事自体がおかしい事なのである。上述のような引揚の延期に対する説明は単なるでっちあげである。自分たちの都合のいいように何でも解釈し、それが唯一正当な事であるかのように主張している。当時、帰還した人々が日本で差別の対象となり、就職の際に不利だった事は事実であるが、それはそれで別の問題である。抑留者のためを思って、日本に帰らせていないのだと、むしろ自分たちが良い事をしてやっているとの呆れた考えであった。

 

 邦人抑留者がソ連領から帰還する際は、必ずナホトカ港経由であった。ナホトカ港から船に乗船し、出発してからも一緒に乗っているソ連の警備兵が戻っていくまでまったく気の抜けない状態だったと抑留者は語る。抑留者がしっかりとした共産主義者となっているかをソ連だけでなく日本の活動分子からも見られており、少しでも変な行動を起こすと残念ながら帰国が遠のく場合もあった。加藤静夫は「共産主義の特訓教育を受けてきたアクチーヴという若い連中が、夕食後毎晩学習といって各バラックを巡回して来た。ある晩には歌唱練習だといってアカハタやインターナショナルの歌などを指導された」[94]と、帰還する事が決定され、ナホトカに送られてからの状況を回想している。

 

抑留者達はナホトカ港に到着してから、より一層、嘘でもいいから共産主義者の振りをし、労働歌を歌い上げることとなった。

 数多くいたであろう、帰国するためだけに共産主義になろうとした抑留者の一人、西徳一は以下のように回想する。

 

さぁ、今度は本当にダモイ(帰国)だ。途中の給食停車駅で、「このままではナホトカで止められる。せめて赤旗の歌を覚えるように」と所長に言われ、初めて車外で歌を習った。・・・ナホトカでは日本共産党が権力を振るっているように見えた。腕に赤い腕章をしてこの辺を支配しているように見えた。翌日の面接に備えて、『ソビエト共産党小史』を徹夜で読んだ。ここで共産党に睨まれると、その部隊は残されてしまう。[95]

 

 西徳一の場合、帰還にあたっての面接は思っていたものよりも簡単なものだったと後で述べているが、帰るためには嘘でもいいので共産主義者として振舞わなければという考えが抑留者達の中にあったことが伺える。

 

 ナホトカでの持ち物検査と面接の後、日本へ帰国ということになるが、その船上でも気は抜けなかった。船の中では、政治教育により、しっかりと洗脳された親ソ派と、そうではない者たちの間でいざこざが起こる事もあった。日本に帰還した人々の行動が帰還した年代によって異なる事は民主化政策の成果である。[96]

 

1946年と翌47年初期ごろまでに帰還した人々は、ソ連による政治教育の影響も少なかったため特に問題は無かった。1948年に入ると、ソ連によって政治教育された抑留者の帰還が目立つようになるが、帰還船の中での多数は民主主義者の振りをしていた人々であった。親ソ派となり、ソ連で幅を利かせていた者達の後ろ盾が無くなった途端、復讐の的となってしまう事件も起きた。[97]49年にもなると、政治教育によってしっかりと洗脳された者達が反動派よりも増えた。この時期、反動派と親ソ派の対立はある程度少なくなったが、帰還の際、本土への上陸拒否や、シベリアにおける収容所名記載を拒否したり、政治運動を開始する親ソ派が増え、日本に対して非協力的な者が見られた事は事実である。[98]精神的にも肉体的にも衰えていた日本人に対して行われたソ連の民主化政策は、ある程度成功したと言えるだろう。

 

 

第三節   抑留者の帰還順位

 

 ソ連領域で抑留されていた人々の間には、帰国に際しての帰還順位なるものがあった。まず、最初に返されたのは病弱者、もしくは衰弱してしまった者達である。理由は簡単なもので、ソ連側からしてみれば使い物にならないというだけである。安価な労働力として日本人を強制労働に従事させていたのだから、病弱者たちはソ連にとって、単なる厄介者以外の何者でもなかったのである。伊藤努の見解では、「労働に役立たない者は抑留しても意味はないという極めて単純な理由から病弱者が優先順位の第一に挙げられた」[99]との事である。

 その次に日本へ早く帰れるのは、ソ連の政治教育によって親ソ派になったとみなされた抑留者達であった。多くの収容所内で、よく働いて「優秀作業者」となれば早く帰国できるとの噂も流れたが、あくまでも噂であり実際には親ソ派で日本に帰ってから役に立ちそうな者から帰還名簿に載った。労働力が足りないので自国の復興のために日本人を抑留したソ連が、優秀作業者を手放すわけがないことは考えてみればすぐに理解できるだろう。この噂は、日本人にやる気を起こさせて、ノルマを達成させるための口実だった。逆に優秀な作業者であればあるほど、ソ連側からしてみれば手元においておきたかったのである。

 ここでいう「親ソ派」とはどのようなものだろうか。ソ連に従順な人物かつ、帰国後に日本で共産主義運動を推進していく第一歩となれる者、日本でソ連についての素晴らしさを語りそうな人物とでもいっておこう。前章で述べたように、ソ連による民主化運動とはどれだけソ連に忠実であるかというもので、到底民主的なものではない。親ソ派とみなされるための基準は明らかになってはいないが、その内の一つとしていかにソ連にとって役に立つかが基準になっていた事は確かである。ここで一つ注意しておきたいのは、抑留後半になってくると帰還する人物を選ぶ際、親ソ派や、ソ連によって政治教育を受け洗脳された者、つまり、「民主運動の活動家(アクチーヴ)たちが帰国者の人選に大きな影響力を持つようになった」[100]ことである。彼ら日本人の密告によって、「思想の定まらない反動分子」を摘発し、帰国を遅らせるケースも多かった。[101]抑留者たちの中には、嘘でも見せ掛けでもいいから共産主義者になりすまして何とか帰国にたどり着いたというケースが多い。

 ヴィクトル・カルポフは、次のような人々は1950年までの帰還者リストから除かれたとし、収容所からの帰還の延期が、まさに「人民の敵」の探索が始まったことによって引き起こされたのは明らかだと述べている。[102]

 

A.       日本の諜報、防諜、懲罰機関員。

B.       スパイ破壊工作学校の指導教官と生徒。

C.       「防疫部隊七三一」とその支隊の指揮官と専門家。

D.       将官・将校のうち、取調べ資料によってソ連に対する軍事攻撃の準備を摘発された戦犯、または「張鼓峰事件とノモンハン事件」の仕掛け人。

E.       ソ連でファシスト的とみなされていた団体「協和会」の指導者。

F.        内務省収容所で敵対的行動をし、帰国するまで民主的組織と闘う任務を自らに課した反動的組織やグループの指導者と活動家。

G.       満州国の政府機構・機関の指導者、または大日本帝国の政府機関員。

 

 帰還リストから除かれるという事は、その延期された分だけ、ソ連による政治教育に接する機会が長くなるという事である。上に挙げたA~Gの人々は戦犯、あるいは戦犯に近い者たちであり、ソ連側にとって、要注意人物であった。それゆえ、簡単に日本に帰してしまっては納得がいかなかったのだろう。しかし長い時間をかけて、これらの扱いにくい者達に教育を施していき、うまく親ソ派的な人物に仕立て上げる事が出来れば、ソ連にとって非常に頼りになり、スパイなどとしても利用価値のある人物になるだろう。

単に、働かせるだけなら、いわくつきの人物よりも、命令に逆らえないような人物を残していけばいいのである。よって、帰還を延期するという事には、奴隷のように働いてもらう事を意図していたと同時に、ソ連側に寝返ってくれる事を抑留者に期待していたと思われる。

第四章 その後の諸問題  

<補償問題>

 国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金は、帰国時に労働証明書を持ち帰れば、その捕虜の所属国が支払う事になっている。東南アジア方面(南方)で抑留された人達は労働証明書を貰った。しかし、ソ連は日本人抑留者に対して証明書を発行していない。日本人抑留者たちは、戦陣訓による教育のため、自分たちが捕虜としての待遇を受けられる事を知らなかった。よって、帰還の際に働いた分の賃金を日本政府が払う義務がある事を証明する労働証明書を貰うという概念も無かった。全国抑留者補償協議会の故斎藤六郎前会長の尽力によって何とか証明書の発行にまで漕ぎ着けたが、未だに日本政府は未払い賃金を払っていない。

 日本国内で不当なシベリア抑留に関する補償要求運動が起こったのは、1974年である。終戦になってから29年、最終引揚船の到着から考えてみても、18年が経過している。この時期になるまで補償要求運動は起きなかったのである。[103]補償要求は本来、日ソ中立条約を破って日本に侵攻し、実質1週間ほどで莫大な戦利品を獲得した上に、日本人を抑留したソ連に対して行われるべきである。しかし日本は、1956年の日ソ共同宣言において賠償請求権を放棄していたので、抑留者たちは日本政府に対して請求するしかなかった。この際、日本政府は「日ソ共同宣言で放棄したのは、国の請求権であって、個人の請求権までは放棄していない」と言い放ち、支払いを拒否している。抑留者の中には国を相手取って裁判を起こす者もいたが、これといった成果は得られていない。

全国抑留者補償協議会の故斉藤六郎前会長ら元日本人抑留者たちは1981年に国を提訴した。しかし16年という長い裁判闘争の末、19977月に最高裁が国側勝訴の一審と二審判決を支持して、原告の上訴を棄却したため敗訴が確定してしまった。[104]

 

政府は、最終的に10万円の慰労金と慰労金品を抑留者に支給する事で、シベリア抑留に関するすべての戦後処理問題は終わったとした。政府がこのような対応しか取らないので、納得のいかない人々によって現在でもなお賠償請求問題は続いている。[105]200610月から、全抑協は日本政府相手に再び争い始めた。シベリア抑留体験者らで作る「棄兵棄民による国家賠償を勝ち取る会」は20071226日、シベリア抑留の真の責任は日本政府にあるとして国家賠償補償を京都地裁に提訴した。

民主党は200469日に「戦後強制抑留者に対する特別給付金の支給に関する法律案」を衆議院に提出した。シベリアなど酷寒の地で強制労働に従事させられたのに、その対価が支払われていない事情に配慮して、元強制抑留者に慰労のための特別給付金を国が支払えというものである。この法案では、抑留者に支払われるべき金額を帰国時期の区分に応じて、3年以内に償還すべき記名国債をもって交付することになっていた。[106]

   帰国の時期                     特別給付金の額

1948(昭和23)年1231日まで                  30万円

1949(昭和24)年11日から1950(昭和25)年1231日まで   50万円

1951(昭和26)年11日から1952(昭和27)年1231日まで   100万円

1953(昭和28)年11日から1954(昭和29)年1231日まで   150万円

1955(昭和30)年11日以降                   200万円

 

 この法案が通過し、実現する事になれば、満足とまではいかないかもしれないが、抑留者たちも少しは政府の対応に納得できるだろう。2004年のこの法案は、提出の時期が遅れて国会の会期末と重なったため、審議される事無く惜しくも廃案になってしまった。しかし、民主党は200611月に、同じ内容の法案を参議院に再再提出した。一刻も早くこの法案が実現され、抑留者達に給付金が払われる事を願いたい。

 

 

おわりに 

今後の展望

 

 1991年にペレストロイカ・グラスノスチを推進していたゴルバチョフ大統領が訪日を果たした。訪日の実現より遡ること5年前、19865月に安倍晋太郎外務大臣が領土問題を提起した際に、ゴルバチョフは「戦後の現実を変える必要は全くない」、「あなたは提起してはならない問題を提起している。この問題は第二次世界大戦の結果として規定され正当化された国境の不可侵性に直接関係している。日本がこのような理不尽な要求をしてくる限り、この問題に関する解決は不可能である」[107]と明言した。この時点では、日本の戦後問題に対する取り組みについて、積極的ではないように思われたゴルバチョフだったが、訪日の際には3万7千8百人の死亡者リストを持参し、ソ連の不当な行為によって犠牲となった抑留者やその家族に対して同情・哀悼の意を示した。そして、「捕虜収容所に収容されていた者に関するソ日協定」を相互に調印することができた。

ソ連邦の法的継承国である、ロシア連邦初代大統領、エリツィンは1993年に公式に日本訪問をし、シベリア抑留について「ロシア連邦の代表として、またロシア政府を代表して、この全体主義が犯した罪に対し、謝罪の意を表します」という明確な謝罪をした。[108]ゴルバチョフの時には「哀悼の意」であったが、エリツィンはきちんと「謝罪」をした。当たり前の事のように思えるが、これは大きな進展だったと考える。

 本論文では、ソ連によるシベリア抑留が違法行為である事を指摘すると同時に、日本側の問題点、矛盾についても考察している。シベリア抑留が発生した理由は、ソ連の不法行為によることは明らかであり、この事実が覆る事はない。しかし、日本側に目を向けてみると政府の補償問題への対応、終戦時に棄兵棄民をした事など、非難すべき点がソ連だけにある訳ではない事に気づく。全体としてシベリア抑留を捉えると、どちらが悪いと決め付けたところで何の解決にもならないのではないだろうか。誰が加害者で、誰が被害者という問題ではなく、戦争あるいは戦争によって引き起こされた悲惨な状況の中では、誰しもが加害者にも、被害者にもなりうる犠牲者であったと考える。抑留された人々、またはその家族にとって、一番重要なのは人道に関わる問題である。国のためにと自分に言い聞かせ、朝鮮・満州方面に赴いた人々は、戦争が終了すると同時に、自分が尽くしてきた国に裏切られ、抑留生活を余儀なくされる事となった。収容所では、厳しい労働などと共に、日本での「皇民化政策」に似た、ソ連による「民主化政策」という悲劇を体験することとなった。自分のみを守るためだけに他を犠牲にするという親ソ派が行ってきた行為は、関東軍が我が身可愛さに逃げ出し、棄兵棄民した思想と似ている。帰還した後も、占領軍から取調べを受け、シベリア帰りというだけで差別の対象となり、幾度と無く人権を踏みにじられたことだろう。そうした苦難に耐え抜いても、国からは何の補償もないし、率先して問題解決に取り組もうとする態度も無い。ロシアが謝罪をし、死亡者名簿を引き渡した事で、少しは報われたかもしれないが、自国に対する猜疑心は消えないままである。

 1956年の国交正常化の結果として、総ての抑留者が帰国したとされ、また、政府間の請求権の相互放棄によって日本政府としての対ソ請求権は消滅した。[109]日本には補償問題にきちんと取り組み、ロシアから情報を引き出し、亡くなった人々がどこに埋葬されているか等の不明な部分を明らかにしていく義務がある。遺骨の収集、墓参や墓地の整備なども必要である。ブラーツクにあった日本人墓地は、ダムが建設されたため、現在は湖の底に沈んでいる。このような事態はなるべく避けなければならない。現在では、こういった取り組みのほとんどが抑留経験者によって行われている。きちんとシベリア抑留という問題と向き合うために、またそれを乗り越えて日露間に今後平和条約を結ぶためにも、日本政府は積極的に動く必要がある。


<シベリア抑留関連年表>

 

1941(昭和16)年   413日 日ソ中立条約 モスクワで調印

622日 独ソ戦開始

7 9日 関東軍特種演習(関特演)発動

1208日 日本、真珠湾攻撃 対米・英戦争開始

1944(昭和19)年  1020日 スターリン、ハリマン米大使に対日参戦を約束

1945(昭和20)年  24日 ヤルタ会談始まる

          45日 ソ連、日ソ中立条約不延長を通告

          57日 独軍、無条件降伏

          717日 ポツダム会談始まる

          718日 ソ連、日本の和平斡旋依頼を拒否(和平交渉の要綱)

          726日 対日ポツダム宣言発表

          86日 広島に原爆投下

          89日 ソ連、対日参戦(満州侵攻) 長崎に原爆投下

          814日 日本、ポツダム宣言受諾

          815日 終戦の詔書発表、戦争終結

          816日 スターリン、北海道北部占領計画をトルーマンに伝える

          818日 トルーマン、ソ連の要求を拒否

          819日 秦彦三郎とワシレフスキーの停戦会議

          820日 ソ連軍、奉天・ハルビン・長春・吉林を占領

          823日 日ソ、現地停戦協定締結 スターリンによる移送命令

          826日 日本側、「関東軍方面停戦ニ関スル実視報告」と、

                   「ワシレフスキー元帥二対スル報告」を提出

          8月未明〜 ソ連領への元日本兵の移送開始

          92日 ミズーリ艦上で連合国降伏文書に調印。

          915日 ハバロフスクで『日本新聞』創刊

1946(昭和21)年 128日 引揚げ第1船「大久丸」が舞鶴へ。(〜帰還開始)[110]

 

<シベリア抑留関連地図>

 

 

いずれの地図も出典は次の文献の巻末である。

阿部軍治 『シベリア強制抑留の実態 日ソ両国資料からの検証』 彩流社 2005

 


文献目録

 

<一次資料>

 

白井久也監修 『シベリア抑留 歴史の流れの中で』 株式会社ヒューマン社 1997

竹中祐一編 『戦時日ソ交渉史(第1分冊) 自昭和16年至昭和20年』         外務省欧亜局東欧課 1966

日本対外文化協会日ロ歴史を記録する会編 『日露オーラルヒストリー はざまで生きた証言』 彩流社 2006

村山常雄編著 『シベリアに逝きし人々を刻す』 プロスパー企画 2007

A.Aキリチェンコ編集 『シベリア抑留死亡者名簿』 東北アジア研究センター叢書 第12号 東北大学東北アジア研究センター 2003

Спиридонов М. Н., Японские Военнопленные в Красноярском Крае (1945 - 1948гг.) : Проблемы Размещения и Трудового Использования  Красноярск 2003 год

 

<回想録>

 

浅原正基 『私のシベリア抑留記断章 苦悩のなかをゆく』 朝日新聞社 1991

香月泰男 『私のシベリヤ 香月泰男文集』 筑摩書房 1984

加藤静夫 『偽りのダモイ〜極限のシベリア抑留三年〜』中日新聞出版開発局 2004

川越史郎 『ロシア国籍日本人の記録−シベリア抑留からソ連邦崩壊後まで』      中央公論社 1994

小坂井盛雄 『シベリア零下40度』 六法出版社 1993

関 清人 『追憶の日々 私のシベリア抑留記』文芸者 2001

高杉一郎 『極光のかげに−シベリア俘虜記』 岩波文庫 1991

高杉一郎 『征きて還りし兵の記憶』 岩波現代文庫 2002

西 徳一 『抑留記 凍てつく星の下に』 新風舎 2007

早川 収 『ソ連参戦とシベリア抑留』 風媒社 1985

山下静夫 『シベリア抑留1450日―記憶のフィルムを再現する』 デジプロ 2007

 

<その他参考文献>

 

相田重夫 『シベリア流刑史』 中央公論社 1966

阿部軍治 『シベリア強制抑留の実態 日ソ両国資料からの検証』 彩流社 2005

岩上安見・古田光秋・片岡みい子・正垣親一他 『ソ連と呼ばれた国に生きて』JICC出版局 1992

ウィリアム・F・ニンモ/加藤隆訳 『検証−シベリア抑留』 時事通信社 1991

エレ−ナ・L・カタソノワ/橋本ゆう子訳 『シベリアに架ける橋―斎藤六郎全抑協会長とともに―』 恒文社 1997

エレ−ナ・L・カタソノワ/白井久也監訳 『関東軍兵士はなぜシベリアに抑留されたのか−米ソ超大国のパワーゲームによる悲劇』 社会評論社 2004

大西敦子 『ソ連軍が満州に侵入した日−日本軍女子職員が見たソ連兵士たち』

PHP研究所 1990

大森実 『人物現代史3 スターリン−鋼鉄の巨人』 講談社 1978

加藤陽子 『戦争の論理 日露戦争から太平洋戦争まで』 剄草書房 2005

亀山郁夫 『大審問官スターリン』 小学館 2006

鴨下信一 『誰も「戦後」を覚えていない』 文藝春秋 2005

カルポフ・V/長勢了治訳 『スターリンの捕虜たち シベリア抑留』 北海道新聞社  2001

グレイム・ギル/内田健二訳 『スターリニズム』 岩波書店 2004

厚生省援護局編 『引揚げと援護三十年の歩み』 1978

小林英夫 『日本のアジア侵略』 山川出版社 1998

坂本龍彦 『シベリア虜囚半世紀−民間人 蜂谷弥三郎の記録』 恒文社 1998

澤地久枝 『私のシベリア物語』 新潮社 1991

塩川伸明 『富田武著「スターリニズムの統治構造」を読む』 スラヴ研究センター   1998

清水昭三 『シベリア・グルジア抑留記考−「捕虜」として、「抑留者」として』 彩流社 2005

下斗米伸夫 『ソ連=党が所有した国家』 講談社 2002

セルゲイ・I・クズネツォフ/岡田安彦訳 『シベリアの日本人捕虜たち―ロシア側から見たラーゲリの虚と実―』 集英社 1999

戦後強制抑留史編纂委員会編 『戦後強制抑留史』(第一巻〜第八巻) 平和祈念事業特別基金 2005

ソルジェニーツィン/木村浩役 『収容所群島』 新潮社 1974

ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会編著『捕虜体験記[ 民主運動篇』1992

田中利幸 『戦争犯罪の構造 日本軍はなぜ民間人を殺したのか』 大月書店 2007

渓内 譲 『上からの革命』 岩波書店 2004

茶園義男編 『十五年戦争極秘資料集 第十一集 俘虜ニ関スル諸法規類聚』 不二出版 1989

茶園義男編著 『巣鴨プリズン シベリア日本新聞』 不二出版 1986

寺山恭輔 『第二次世界大戦時のソ連における捕虜問題に関する最近の研究』 「北海道大学スラヴ研究センター報告シリーズ(81 pp.38-55」 2002

東郷和彦 『北方領土交渉秘録 失われた五度の機会』 新潮社 2007

富田武 『スターリニズムの統治構造』 岩波書店 1996

長谷川毅 『暗闘−スターリン、トルーマンと日本降伏』 中央公論新社 2006

秦郁彦 『日本人捕虜 白村江からシベリア抑留まで』(上・下) 原書房 1998

半谷史郎 『国交回復前後の日ソ文化交流―1954-61年、ボリショイ・バレエと歌舞伎―』 「思想」 987 岩波書店 2006

堀江則雄 『シベリア抑留−いま問われるもの』 「ユーラシアブックレット 25」   東洋書店 2003

三國一朗 『戦中用語集』 岩波書店 1985

御田重宝 『シベリア抑留』 講談社 1986

森本良男 『ソビエトとロシア』 講談社 1989

ロイ・メドヴェージェフ/海野幸男訳 『スターリンと日本』 現代思潮新社 2007

ロシア史研究会編著 『日露200年−隣国ロシアとの交流史』 彩流社 1993

若槻泰雄 『シベリア捕虜収容所』 サイマル出版会 1979年 

Елпатьевский А. В., Военнопленные и интернированные испанцы в СССР Международный исторический жулнал 17, 2002 год

Троцкий Л.  Иосиф Сталин Опыт характеристики - Осмыслить культ Сталина (стр. 624-647)  Москва Прогресс 1989 год

 

 

 



[]  200557日、終戦60年企画としてドキュメンタリードラマ「望郷」がNHKで放送された。またシベリア抑留経験を持つ画家香月泰男が再評価され、立花隆によって『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』(文芸春秋社 2006年)が出版された。

[]  扶桑社版『新しい歴史教科書』はコラム「戦争と人間を考える」で、「…第二次世界大戦末期、ソ連は満州に侵略し、日本の一般市民の殺害や略奪、暴行を繰り返したうえ、捕虜を含む約60万人の日本人をシベリアへ連れて行き過酷な労働に従事させ、およそ一割を死亡させた」と記している(pp.288~289)。その他、帝国書院、教育出版、東京書籍、日本文京出版などの中学校歴史教科書がシベリア抑留について触れているがいずれも一、二行にとどまる。

[] 全国抑留者補償協議会の見解では、抑留者とは、戦時の捕虜と違い、戦闘行為が終わってから不法に拘禁されたものである。

[] 小林英夫 『日本のアジア侵略』 山川出版社 1998年 pp.1~11

[] 白井久也監修 『シベリア抑留 歴史の流れの中で』 株式会社ヒューマン社 1997 p.17

[] 同上 p.25,29

[] 田中利幸 『戦争犯罪の構造 日本軍はなぜ民間人を殺したのか』 大月書店 2007年 p.98

[] 戦後強制抑留史編纂委員会編 『戦後強制抑留史 第七巻』 平和祈念事業特別基金 2005年 pp.26~27

[] エレ−ナ・L・カタソノワ/白井久也監訳 『関東軍兵士はなぜシベリアに抑留されたのか−米ソ超大国のパワーゲームによる悲劇』 社会評論社 2004年 p.28

[10] 同上 p.36

[11] 本来は同志と書くべきであるが、史料原文のままとした。

[12] 前掲書 『戦後強制抑留史 第七巻』 pp.206~213

[13] 戦後強制抑留史編纂委員会編 『戦後強制抑留史 第四巻』 平和祈念事業特別基金 2005年 p.97

[14] 堀江則雄 『シベリア抑留−いま問われるもの』 「ユーラシアブックレット 25」   東洋書店 2003年 pp.22~23

[15] 阿部軍治 『シベリア強制抑留の実態 日ソ両国資料からの検証』 彩流社 2005年 pp.43~46

[16] 前掲書 『シベリア抑留−いま問われるもの』 p.26

[17] 同上 pp.26~27

[18] 前掲書 『シベリア強制抑留の実態 日ソ両国資料からの検証』 p. 44

[19] 戦後強制抑留史編纂委員会編 『戦後強制抑留史 第六巻』 平和祈念事業特別基金 2005年 pp.126~129

[20] 三國一朗 『戦中用語集』 岩波新書 1985年 p.171, 173

[21] 同上 p.172

[22] 前掲書 『シベリア抑留−いま問われるもの』 p.28~29

[23] 高杉一郎 『往きて還りし兵の記憶』岩波現代文庫 2002年 p.15, 22

[24] 加藤静夫 『偽りのダモイ〜極限のシベリア抑留三年〜』中日新聞出版開発局 2004年 p.69

[25] 前掲書 『征きて還りし兵の記憶』 p.22

[26] 岩上安見・古田光秋・片岡みい子・正垣親一他 『ソ連と呼ばれた国に生きて』JICC出版局 1992年 p.280

[27] 前掲書 『シベリア抑留−いま問われるもの』 p.12

[28] 前掲書 『関東軍兵士はなぜシベリアに抑留されたのか−米ソ超大国のパワーゲームによる悲劇』 pp.364~366

[29] 茶園義男編 『十五年戦争極秘資料集 第十一集 俘虜ニ関スル諸法規類聚』不二出版 1989年 p120 

[30] 前掲書 『戦後強制抑留史 第七巻』 pp.174~179

[31] 戦後強制抑留史編纂委員会編 『戦後強制抑留史 第三巻』 平和祈念事業特別基金 2005年 pp.21~22 

[32] 前掲書 『戦後強制抑留史 第七巻』 pp.450~456

[33] 同上 p.32

[34] 前掲書 『シベリア抑留−いま問われるもの』 p.12

[35] 前掲書 『シベリア強制抑留の実態 日ソ両国資料からの検証』 pp.22~35

[36] 寺山恭輔 『第二次世界大戦時のソ連における捕虜問題に関する最近の研究』 「北海道大学スラヴ研究センター報告シリーズ(81 pp.38-55」 2002年 p.55

[37] 前掲書 『関東軍兵士はなぜシベリアに抑留されたのか−米ソ超大国のパワーゲームによる悲劇』 p.352

[38] 同上 p.50

[39] Спиридонов М. Н., Японские Военнопленные в Красноярском Крае (1945 - 1948гг.) : Проблемы Размещения и Трудового Использования  Красноярск 2003 год  стр.24

[40] A.Aキリチェンコ編集 『シベリア抑留死亡者名簿』 東北アジア研究センター叢書 第12号 東北大学東北アジア研究センター 2003年 p.3

[41] 前掲書 『戦後強制抑留史 第四巻』 p.38

[42] Спиридонов М. Н., Указ. соч.,стр.129

[43] 本来は1053となるべきだが、史料原文のままにした。

[44] 前掲書 『戦後強制抑留史 第三巻』 pp.166~167

[45] 本来は6.8%となるべきだが、史料原文のままとした。

[46] 同上 p.163

[47] 同上 p.163

[48] Спиридонов М. Н., Указ. соч.,стр.43

[49] 前掲書 『戦後強制抑留史 第三巻』 p.185

[50] 関清人 『追憶の日々 私のシベリア抑留記』文芸者 2001年 pp.38~39

[51] 小坂井盛雄『シベリア零下40度』六法出版社 1993年 p.91

[52] Спиридонов М. Н., Указ. соч.,стр.127

[53] 前掲書 『偽りのダモイ〜極限のシベリア抑留三年〜』 pp.105~106

[54] 前掲書 『シベリア強制抑留の実態 日ソ両国資料からの検証』 p.391, 392

[55] 前掲書 『戦後強制抑留史 第三巻』 p.227

[56] 同上 pp.225~226

[57] ウィリアム・F・ニンモ/加藤隆訳 『検証−シベリア抑留』 時事通信社 1991年 p.117

[58] 同上 pp.117~119

[59] 「前職者」とは、収容所内での用語で、法務官、憲兵、警官、特務機関員などソ連当局、すなわち民主運動指導部が目の敵にして迫害した人々のこと。(前掲書 『戦後強制抑留史 第三巻』 p.238

[60] 前掲書 『偽りのダモイ〜極限のシベリア抑留三年〜』 p.107

[61] 前掲書 『征きて還りし兵の記憶』 p.93 

[62] 前掲書 『戦後強制抑留史 第四巻』 p.119

[63] ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会編著『捕虜体験記[ 民主運動篇』1992年 p.4

[64] 前掲書 『ソ連と呼ばれた国に生きて』 p.284

[65] 前掲書 『捕虜体験記[ 民主運動篇』 p.12

[66] 同上 pp.10~11

[67] 同上 p.11

[68] 同上 p.16

[69] 「カンパ」とは、ロシア語の“Кампания(運動、キャンペーン)”から出た言葉で、収容所内では「吊るし上げ」を意味した。アクチーヴと呼ばれる親ソ派が、ファシストや軍国主義者をソ連当局に密告したり、時には他の者への見せしめとして集団で暴行を加える事を「吊るし上げ」という。(前掲書 『戦後強制抑留史 第三巻』 p.240

[70] 前掲書 『捕虜体験記[ 民主運動篇』 pp.17~18

[71] 前掲書 『追憶の日々 私のシベリア抑留記』 p.76

[72] 前掲書 『征きて還りし兵の記憶』 pp.98~99

[73] 同上 p.100

[74] 浅原正基 『私のシベリア抑留記断章 苦悩のなかをゆく』 朝日新聞社 1991年 pp.163~260

[75] 前掲書 『征きて還りし兵の記憶』 pp.102~105

[76] 「日の丸組み」とは、ソ連で収容されていた間は共産主義者の振りをして生活していたが、実際はそうではなかった抑留者の事である。「日の丸組み」に対して、ソ連によりきちんと教育(洗脳)され、天皇制打倒を掲げた抑留者達は「アカハタ組み」と呼ばれた。

[77] 前掲書 『征きて還りし兵の記憶』 pp.127~128

[78] 高杉一郎 『極光のかげに−シベリア俘虜記』 岩波文庫 1991年 p.241

[79] 御田重宝 『シベリア抑留』 講談社 1986年 p.302

[80] 前掲書 『戦中用語集』 pp.130~131

[81] 前掲書 『極光のかげに−シベリア俘虜記』 pp.181~192

[82] 前掲書 『シベリア零下40度』 p.107 

[83] 前掲書 『私のシベリア抑留記断章 苦悩のなかをゆく』 pp.170~171

[84] 同上 pp.168~169

[85] 前掲書 『戦中用語集』 p.183

[86] 前掲書 『シベリア強制抑留の実態 日ソ両国資料からの検証』 pp.212~213

[87] 同上 p.213

[88] 同上 p.384

[89] 同上p.385

[90] 前掲書 『シベリア零下40度』 p.100

[91] 前掲書 『戦後強制抑留史 第四巻』 p.94 

[92] 前掲書 『十五年戦争極秘資料集 第十一集 俘虜ニ関スル諸法規類聚』 p.123 

[93] 前掲書 『戦後強制抑留史 第四巻』 p.245

[94] 前掲書 『偽りのダモイ〜極限のシベリア抑留三年〜』 p.245

[95] 西徳一 『抑留記 凍てつく星の下に』新風舎 2007年 p.140

[96] 前掲書 『戦後強制抑留史 第四巻』 pp.135~140

[97] 同上 p.136

[98] 同上 p.137~138

[99] 同上 p.108

[100] 同上 p.114

[101] 同上 p.114

[102] カルポフ・V/長勢了治訳 『スターリンの捕虜たち−シベリア抑留』北海道新聞社 2001年 pp.292~294

[103] 戦後強制抑留史編纂委員会編 『戦後強制抑留史 第五巻』 平和祈念事業特別基金 2005年 p.332

[104] 前掲書 『関東軍兵士はなぜシベリアに抑留されたのか−米ソ超大国のパワーゲームによる悲劇』 pp.375~376

[105] 前掲書 『戦後強制抑留史 第五巻』 pp.333~335

[106] 前掲書 『関東軍兵士はなぜシベリアに抑留されたのか−米ソ超大国のパワーゲームによる悲劇』 pp.376~377

[107] 東郷和彦 『北方領土交渉秘録 失われた五度の機会』新潮社 2007年 p.113

[108] 同上 p.178

[109] 同上 p.136

[110] ロシア史研究会編著 『日露200年−隣国ロシアとの交流史』彩流社 1993年 巻末年表