おろしゃ会会報 第16その6

2009年1120

 

 

大学祭の二日目、第二回加藤晋先生基金記念シンポジウムが行われた。今回のゲストは、元愛知県立大学教授の原 暉之先生である。当日は学生、ロシア人留学生、かつての同僚や教え子、一般市民など多彩な聴衆があつまった。主催者として驚いたのは、この中に静岡県立大学の西山克典氏、大阪大学の竹中 浩氏、神戸市立外語大学の高橋一彦氏、愛知県立大学の半谷史郎氏などロシア史研究の第一線で活躍する人々の顔が見えたことである。これらの人々を加え、原先生の講演をもとに実質的なシンポジウムができたと自負している。以下に参加者から寄せられた感想を順次掲載する。(加藤史朗)

   加藤晋先生基金記念シンポジウム

「日本とロシア−若い世代へ−歴史学の立場から」

講演

原 暉之氏(北海道大学名誉教授・北海道情報大学教授)

地域連携を通して見た日露関係

日時 20091031日(土)午後3時から5

場所 学術文化交流センター小ホール

 

暉之(はら てるゆき)先生略歴

1966 東京大学文学部西洋史学科卒業

19711987年、愛知県立大学外国語学部で教鞭をとる

19872006、北海道大学スラブ研究センター教授 、同センター長、同大学付属図書館長などを歴任。現在 北海道情報大学教授。

著書

『シベリア出兵――革命と干渉 1917-1922』(筑摩書房1989年)

インディギルカ号の悲劇――1930年代のロシア極東』(筑摩書房、1993年)

『ウラジオストク物語――ロシアとアジアが交わる街』(三省堂1998年、1999年度アジア・太平洋賞特別賞を受賞)など多数

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200810月愛知県立大学で行われたロシア史研究会大会にて。県立大の歴代ロシア語教員が集まる。前列左から高橋清治先生、原暉之先生、加納格先生、加藤史朗。後列は大会を手伝ってくれた「おろしゃ会」会員。

 

おろしゃ会・愛知県立大学共催

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講演中の原先生

 

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会場の様子

 

シンポジウム参加記 雑感

 

西山 克典(静岡県立大学 国際関係学部)

 

 

秋の行楽日和の1031日(土)に、大学祭で活気づく愛知県立大学において加藤晋先生基金記念シンポ「日本とロシア-若い世代へ-歴史学の立場から」と題して、原暉之氏の講演がなされた。新幹線で名古屋に着くと、そこから会場である学術文化交流センターまでたどり着くのに一時間半を要し、開演の直前に息を切らせて慌ただしく入場することができた。しかし、この「僻地」の会場となった小ホールは予想を越える多くの人々が集い、主催者の地域連携センターの加藤史朗さんやおろしゃ会の人々の意図する「知の拠点」たる意気込みが漲る会であった。

 

さて原先生−ロシア史の研究仲間では“先生”は禁句で使わないのが暗黙の了解です、が、優れた先学に向けてこの言葉を用いざるをえません‐の当日の報告は、もう少し限定して「地域関係から見た日露交流史」と題して、歴史家としての視点と研究状況を若い(そして嘗て若かりし)世代と後続の我々に提示し、励ますものであった。

 

先生の立脚点は地球大の視野から自分の立脚する地域を見据え、同時にそこから世界を捉えるというもので、“glocal”という造語を紹介されつつこの立場が述べられたと思える。ここで北海道と極東ロシアの関係を、そしてより具体的には江別という地点から榎本武揚、黒田清隆、永山武四郎らを取り上げていく視点となっている。報告は、国と国との関係としての「国際交流」から、それを超えあるいは解きほぐし、さらに深い次元での地域―北海道と極東ロシアのレヴェルの物流と人々の交錯=交流を解いていくというという点で、やはり新しい視点であった。これらの地域は、共に19世紀の後半に帝政ロシアの拡張と明治日本が帝国へ変容していく過程でそれぞれの国家領域に編入された地域であるが、これを「北門の鎖鑰(さやく)」という視点から扱ってきた従来の研究の克服を目指したものとして、講演は意義を持っているように思えた。これは、先生が1973年頃から、シベリア・極東ロシアに関心を持つようになったと述べられたことから推定すれば、歴史学の「地域と民衆」という1970年代のテーマや方向を反映しているのでもあろう。榎本、黒田、永山という明治国家の「顕官」が、ここでは地域の視点から読み解かれていく。

さて、この講演は地域間の物流という分野での研究の具体的な進展とその成果を窺わせるものでもあった。明治初期の再版「お試し交易」から露領海運時代の経済関係を掘り下げてみる必要があるのではないかとの先生の提起が基調となっていたように思える。とくに1880年代から20世紀初頭までのインド洋を通じる露領黒海沿岸のオデッサから露領極東を結ぶ海洋ルートの重要性を指摘されたことは、我々がシベリア鉄道に眼を奪われ狭窄されがちであることへの頂門の一針であろう。〆粕、鹹魚、林檎などの交易品と並んで、石炭が北海道ではなく九州の高島炭が長崎から搬出されたこと、長崎との結びつきも指摘された。この地域間の物流には、ペストやコレラなど疫病の流行を含めて新しい歴史の分野への関心を、そして東アジアの地域間の連関性を開示しているように思われた。

 

個々の論点での歴史研究者としての原先生の堅い実証性と語りの彩りは、これは色川大吉の叙述に心動かされたと吐露されたのだが、その基本線に、この地域間の交流が断裂され閉塞する局面へと移行するという歴史認識が据えられていた。それは、ヴィッテの下で大蔵次官ロマーノフが三池を訪れ九州炭の確保に努め、野菜や玉葱、林檎が北海道から極東ロシアに送られ、日露戦争のなかでも沿海州のスチャーン鉱山の労働に朝鮮人と中国人が積極的に投入された相互依存の関係から、この地域を依存から「自国」化していくことへの大きな転換である。これは、1901年のウラジオストクの自由港制の廃止から日露戦争後のゴンダッチ総督の施政に窺われ、1937年の朝鮮人と中国人の極東ロシアからの排除で完了する。ここでは、ロシアの「入亜と脱亜」というキーワードでこの大きな時代の枠組みが構想されているように思えた。勿論、1991年のソ連崩壊以降は、この極東ロシアと北海道をはじめ日本海に面する諸地域は新しい関係に入り、極東ロシアは新しい「入亜」を模索しているようにも思われる。

 

この講演を聴きながら、私にはいくつかのことが頭をめぐり、先学としての先生に窺いたい想いに駆られた。一つは、江別、そこのツイシカリ(対雁)という地名にまつわる榎本、黒田と先住民アイヌとの関係である。ちなみに、私の曽祖父駒吉は母と妻と子供たちをつれて、明治243月に北海道の室蘭に上陸し、白老で一年を過ごし越冬した翌年、この江別に、しかし対雁ではなく下の月に入植している。瀬戸内海の半農半漁の両生類から北への逃避脱出であった。この対雁は、日露の国境の再編画定(樺太と千島の交換)によりこの地に移住を強いられた樺太アイヌ841名に対し、明治国家によって最初の学校が開かれ、また疫病によって悲劇的な結果を招いた彼らへの慰霊の地でもある。明治国家の北方開拓の指導者への「顕彰」像がしめす「明」とともに、先住民アイヌの「暗」も忘れてはならないし、この「明」と「暗」の有機的構造連関が求められているように感じた。また、極東ロシア領と北海道はじめ日本の各地域との物流がたどられ紹介されたが、ここには「北のからゆきさん」の問題もあった。北海道からではなく主に長崎から極東ロシアに渡った女性たちであり、やがて「醜業婦」とも蔑まれる人々であるが、彼女らの問題をどう設定するかが問われているように思える。朝鮮人や中国人の国境を越えての移動と就労と並んで重要な問題と思えた。

これらのことを考えながら、北海道の自由民権運動を扱う際に挙げられる久松義典の「北門の店舗」論について、彼が「北門の鎖鑰」とどう向かい合い、当時の人々に「外地」と意識されてきた地域において先住民アイヌを「自由民権」のなかにどう位置づけていたのかが、気懸かりになった。「北門の鎖鑰」という視点を、極東露領と北海道をはじめとする「地域」を移動する物と人の流れから検討し相対化することには、全く同感なのであるが、この「鎖鑰」論は、アイヌ、ウィルタ、ニヴフなど少数民族にとっては「分断」と「同化」に帰したのではないだろうか。久松の「店舗」論は、幕末以来の北方への脅威論と交易論のかなでる二重奏のなかに、その枠内の変奏ではないかという想いがある。

 

講演は、個々の事実への堅いアプローチとその基底にある構想=枠組みに裏打ちされ、「地域」を「世界」のなかで構造的な連関を問うという意味で、深く刺激的であった。この「地域」から、日露の近代史もそして両者のとりなす関係をも問う視点が後学に向けて語られたと思える。「地域」を好事家の趣味のようにみなす偏見と驕り、そして卑下をも越え、小さきもの、弱きもの、少なきものと忘れ去られしものが問い直される歴史研究の方向も、講演を通じて感じられた。私には、カリブ海域のある研究者が、自著の「序言」を次のように結んでいたことと、なぜか響きあっていた。

「世界史の発展においては、己を高うするものするは卑うせられ、己を卑うするものは高うせられる[マタイ福音書 III-12 ]のである。」(E.ウィリアムズ『帝国主義と知識人』岩波書店、1979年)

 

 

原暉之先生の講演を聴いて

 

竹中 浩(たけなかゆたか 大阪大学法学部)

 

 

 10月10日に法政大学で行われたロシア史研究会の懇親会で、半谷史郎さんから原暉之先生の講演会のちらしをいただいたとき、テーマが面白そうだったこともあり、私はすぐ行く気になった。岐阜県の羽島市に住んでいるので、愛知県立大学までは東名を使えば車で1時間足らずの距離である。来てみてはじめて、この講演会が大学祭に合わせて企画されたものであることを知った。大学祭のさなかに歴史の講演会をやってはたしてどれほどの参加者がいるだろうかと思われたが、会場に入ってみるとその心配は杞憂だった。後から聞いたところでは、60名を超える人が出席したとのこと。日露関係をテーマとした講演会にこれだけの人を集めるというのはたいへんなことである。講師である原先生の魅力はもちろんだが、加藤史朗先生の日頃のご努力の賜物であるに違いない。まずそのことに敬服した。

 講演会そのものについては、既に西山克典さんが詳しく書かれている。日頃原先生のお仕事から多くを学ばせていただいている私にとっても、講演の内容は教えられるところの多い、示唆に富むものだった。地域連携という観点から日露関係を眺めるというのは今日的意義のある分析視角だが、そのためにはまず、それぞれの地域住民の日々の暮らしに注目し、次にそのような具体的な相において捉えられた二つの地域を、広い視野の中に置いて関係づけなければならない。原先生はそれができる数少ない歴史家のひとりである。

先生は、お仕事の場としての北海道とロシア極東の地域連携について語られた。いうまでもなく北海道ではロシアは身近な存在である。領土問題の比重も大きく、ロシア学が発展するのに相応しい地の利がある。北海道ほどではないにしても、日本海側の新潟や富山もまたロシアを身近に感じる土地であり、そこでこの国を論じることには必然性が認められる。では東海地方はどうだろうか。この地方でロシアについて学び、研究することに、はたして特別の意味があるだろうか。議論のあるところかもしれない。実際、東海地方では、ロシアに対する一般の関心が格別高いとはいえないし、ロシア研究者の数がとくに多いわけでもない。それでも、もともと岐阜の出身であり、関西の大学に勤務しながら、現在も岐阜県に居住している私としては、この地でロシアに関心をもち続けることの知的な意味を信じたい。北海道には北海道のロシア学が、東京には東京のロシア学があるように、名古屋には名古屋のロシア研究がなければならないし、また、ありうると思う。ロシアとは縁が薄いように見えるこの地で、地域の刻印を帯びたものとしてのロシア学を育てること。それもまた、地域連携のひとつの形だろう。

原先生は16年にわたる愛知県立大学在職ののち、札幌に移られた。名古屋にとどまっておられたら、その学問はずいぶんと性格の違ったものになっていただろう。しかし、北海道で生み出されたものとは違うにしても、やはり歴史家として卓越した業績を上げられたに違いない。それはどのようなものだっただろうか。そのような仮定の問いに思いをめぐらすことができたのも、この講演会に参加して得られた収穫のひとつだった。

 

 

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藤が丘における懇親会 左より 半谷、竹中、原、西山、福沢、加藤、高橋、今野(敬称略)

 

 

当日は、シンポジウムと並行して恒例のロシア屋ボルシチの店も営業した。昨年に比べ具が多く、味が濃いと好評であった。

 

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名古屋大学に留学中のポリーナさんもお店を手伝ってくれた。

 

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四月になれば、あるいはロシア研究の立ち位置

                      

高橋 一彦(神戸市外国語大学、近代法史)

 

 

 

               April Come She will

April Come She will

When streams are ripe and swelled with rain;

May, she will stay,

Resting in my arms again.

 

               四月になれば彼女は  (乃木敏平 訳)

四月になれば 彼女はきっとくるだろう

雨で小川の水かさが増す頃には

五月になれば 彼女はここに落着くだろう

ぼくのうでの中で再び眠りながら

 

 最近、桜の時期ともなると、妙にS&Gのこの曲が気に掛かってくる。と言って、移りゆく季節に恋の後先を重ね合わせて歌い上げた1分40秒のドラマに事寄せ、忘却の彼方の我を手繰り寄せようというのではない。四月になれば……、―― 新入生が入ってくる。キャンパスは俄かに元気に、しかし教師といえば、数ヶ月振りの教壇の上で「どうも勝手が行かぬ」とばかり、不完全燃焼の90分に言いようのない徒労感を覚えるというのが卯月である。だがこれならば例年のこと、近年はそこに疲労にも増して当惑を感じることが多くなった。フレッシュマンを対象にロシアに対する入門的な知識を与え、この地域への関心を掻き立てることを目的とする一年間(半期ずつ二コマ)の講義において、一体何を教授するのか。四月になれば……、―― 実は毎年これに悩んでいる。相手はロシアを専攻する学生である。

 講義のイントロダクションの段階で、私は学生に対して簡単なアンケートを取ることを常としている。最初にロシアについてのイメージを問えば、これは判で押したように「怖い」「暗い」「極度に寒い」の3K像が返ってくる。次に基礎的知識を確認するため、いくつかの重要事項についてその説明を求めてみると、回答用紙は空欄か誤答ばかりで正解に出会った経験は先ずない。例えば「ロシア革命」とは、「社会主義を打倒して資本主義を復活させた」ものだと言う。講義に何を望むかと訊けば、「ナルシスティックで自虐的でとにかく長いロシア文学だけは読みたくない」との回答が、毎年のように寄せられる。もっとも、トリノで冬季の五輪があった四年前には「ロシアというと王子様です」と、こちらの側の意表を突いた微笑ましくなる答えもあった。フィギュア・スケートに限らず、総じて若い世代のバレエや音楽、オペラに対する関心は文学よりも高いかに見える。詰まりは、ロシアに対する興味や知識が聴く側に欠けているわけではないのである。

 私が、覚えず知らず、立ち眩みにも似た感覚に講義の中で囚われるのは、決まってこういう時である。歴史も文学も、日本のロシア研究ではもっとも層が厚かった分野であり、事情は恐らく今日でも大きく変わってはいないだろう。教師と学生の間に横たわる、ロシアに対する向き合い方や問題関心の隔たりはひどく大きい。

 私が四月になってアンケートから毎年のように感じるのは、こういった三半器官の麻痺とも言うべき方向感覚の喪失である。

 

         *         *         *

 

 ディスコミュニケーションのもどかしさは、S&Gの曲に限らず、ありふれた日常の一齣である。私が感じる戸惑いにしても、この種の溝や喰い違いは今に始まったことではないと叱正する向きもあるだろう。戦後久しくこの国では、ソ連を語る専門家とソ連を眺める国民とは互いに逆を向いたまま、その眼差しが交わることはなかったから。あるいはまた、こういう落差は教える側と学ぶ側との単なる世代の差異に過ぎないと、指摘を受けるのかも知れない。しかも不幸にして今日では、30代で教える側に立つことはまずなく、歳々年々、教員は老朽化する一方である。教わる側との年齢の差は開くばかりだ。しかしそれでも、かつて20年前に加藤史朗先生が「トレンディーなソ連」と呼んだ時代があったことを考えると[1]、やはり借問したくなる。そもそも、花はどこへ行ったか。

 壁の崩壊の節目の年という歴たる事実は措くとしても、過去20年に生じたことの精神史的な意味について、正面から問うべき時代が来ていることは確かである。ロシア研究、あるいはロシア史研究について言えば、この20年を経て(正確にはここ約10年のうちに)、時間の流れだけでなく空間の広がり(あるいは収縮)も、研究の重要な対象であることが自覚をされるようになった。ソ連からロシアへの時の流れは「社会主義を打倒して資本主義を復活させた」という以上に、かつては自明と思われていた語りの舞台が液状化し、融解していく過程であったかに見える。極東、中央アジア、カフカースといった具合に現在は地域史・地域論の時代であって、目下「ロシア」は専門研究者の間ではフェード・アウトの途上にある。歴史学とは、時間以上に空間を相手にしていく学問のことだ。―― 古い時代の学問に馴れ親しんだ者からすれば、こういう真理を今さらながらに確認するのはやはり辛く、それは譬えて言うならば、その脇を疾駆し通り過ぎた二輪車が残した砂塵の中に一人佇む旅人が感じる思いに近いであろう。

 だが問題は、認識の客体よりも認識をする主体の側にあるのかも知れない。ここ20年と言えば、「日本」が「JAPAN」となって世界に出て行った時代であり、国外の見知らぬ他人が自分のごくごく近くにいるという、世界が日本に入ってきた時代である。リーマン・ショックの直前まで日本海側でよく見られた、極東ロシアに日本の中古車を輸出するパキスタン人ディーラーのことを思えばよい。日本企業の越境は疾うに日常の光景であり、駐在員とその家族とを中心に「在留邦人」はすでに100万人を越えている。修学旅行でオーストラリアやカナダに出掛ける中高生も決して珍しいことではなく、今や老若男女を問わず海外旅行はライフ・サイクルの一部に過ぎない。「文化移民」と呼ばれるように、トーキョーに出る感覚でロンドンやニューヨークに渡るデザイナーやアーチストもまた、この国のごくありふれた景色となった。バブルの最中に生まれ、今では下請け企業まで海外に生産拠点を置くというグローバル時代に物心ついた若者たちが、現在、大学に入ってきている。

 後生、畏るべし。ゼロ年代の想像力や感性は、日本における外国研究、とりわけロシア研究には、やはり大きな挑戦である。思うに、彼/彼女らと旧世代とは、世界の見え方、色づき方がかなり違う。年配の人ほどそうであろうが、かつて専門研究者の間では、「ロシア」は「世界」とほとんど同義であった[2]。私の個人的な経験でも、20年前、ペレストロイカの頃までは、「ロシア」について語ることが何か大きなテーマに繋がる、日本や世界の知的状況に向け発信ができるといった気概や気負い、あるいは暗黙の前提が、周囲にまだまだ強かった。しかし「ナルシスティックなロシア文学」が大嫌いなゼロ年代には、こういう感覚が理解できない。そこで直ちに怪訝な顔が返ってくる。「どうしてロシアをそんなに特別視するの」「何故ロシアでなくてはならないの」と。すでにローティーンの頃から「様々な外国」や「複数の海外」を経験している身にしてみれば、こういった素朴な違和感が口を()くのは当然だろう。相手の懐に入ることと相手を突き放して眺めることの双方が、外国研究に必要な基本の資質であると考えれば、ゼロ年代は期せずしてかなり有利な立場にあると言えるかも知れない。

 戦後日本の精神史では、良くも悪しくもロシアやソ連はオルタナティヴを求める者の先生として、あるいは反面教師として存在していた[3]。政治がそこで常に大きな位置を占めていたのは、このためである。しかも冷戦時代に相応しく、そこに含意をされた「政治」とは体制選択というトピックも孕んだ大文字の政治、対決の政治に他ならなかった。年初の「年越し派遣村」で象徴される生活の政治が焦点になる現代とは、「政治」と言っても意味するところが相当に異なる。しかしゼロ年代が自分の身近に感じるのは、どうも後者の政治であるらしい。私が指導したゼミ生も、スターリン主義やプーチン論には凡そ関心を示さなかったが、モスクワに留学していた一年間をもっぱら高齢者用福祉施設のボランティアとして過ごしており、帰国後、帝政時代の福祉事情で卒論を書いて、今はトビリシで働いている。残念ながら、今のロシア研究には、「福祉」も含めて、ポスト大文字時代の政治や社会を論じるためのボキャブラリーは余り多いとは言えないのだが[4]

 

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 ポスト大文字時代を語る語彙とは何だろうか。ゼロ年代が寄せる答えはこうである。市場、金融、IT技術、情報化、競争、資源、国際化、自由化、民営化、規制緩和、盗賊国家、企業統治、第三者評価、説明責任、透明性、雇用問題、格差社会、福祉、年金、高齢化、少子化、地球環境、移民、エスニシティー、ジェンダー、帝国とマルチチュード……。経済に関わるタームが多いが、これは現代がグローバリゼーションの時代であることと関わっている。

 今の世界を転がしている、こうした言霊と遭遇するたび、私はほろ苦い気持ちになる。伝統的にロシア研究、特に日本のロシア(史)研究は、カネの流れ、モノの動き、人の移動といった観点から即物的(ザッハリッヒ)に世界を読み解く分析視角が相対的には弱かったから、身も蓋もない言い方をすれば、フランクフルトの証券市場のロシア関連株の値動きの中からあの国の動きを読み取るスキルを積んではこなかったから、こういう一連の主題に対しロシアを研究する者として如何に応答していくのかと問い詰められると、大抵の場合、分が悪い。しかも、例えば温暖化など地球規模での公共圏の設計に関わる問いであって、ここまで来るとさらに大きく、地域研究 ―― ロシア研究もその一つだ ―― に可能なことと不可能なこと、地域研究の限界もしくは守備範囲といった問題までも考えざるを得なくなる。無論、グローカリゼーションという言葉も今では市民権を得てきており、グローバル化は国際的な規格化や平準化を促す一方で差異化や地域化も促進するから、ロシア研究も何処かでこれらのトピックと繋がっていく筈なのだが、一般論は別として、この点を実作を以て示せとなると戸惑ってしまう。

 大道は多岐を以て羊を(にが)す。ロシア(史)研究が危機を言われて、すでに久しい。身を引いた老人の後を若いフレッシュな血が襲うことができないという、それこそ即物的な意味においては、現状はまさに危機である。とはいえ、人々のロシアに対する関心自体が衰えているとは思えない。本当の危機は専門家のレパートリーが固定化し、この業界の外に向かってアピールするもの、提供できるものが限られてくるとき、時代との対話を踏まえた問題群の設定や分析ツールの開拓ができず、交わす議論が外から飽きられてしまった時に訪れると思う。

 

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 S&Gは続けている。

 

June, she'll change her tune,

In restless walks she'll prowl the night;

July, she will fly

And give no warning to her flight.

 

六月になれば 彼女は気分をかえ

落着かない素振りで夜をさまようだろう

七月になれば 彼女は飛んで行ってしまう

行ってしまうなんて一言も告げずに

 

 相手に迎合することなく、しかし相手が心変わりし彷徨い飛んで行ったりしないよう、演目を如何に豊かにし、語りの技を磨いていくか、―― 四月になると私はこういう課題を思い出す。

 

 



[1] 加藤史朗「若い世代の意識」ロシア史研究会編『日露200 ―― 隣国ロシアとの交渉史』彩流社、1993年。

[2] 金銭的にも、1985年のプラザ合意でドル高が是正されるまで、海外渡航の壁は決して低くはなかったから、専門の研究者が国外に出る場合に、自己の専攻地域が目的地として最初に選択されるのはきわめて自然なことであった。他の地域に出掛ける場合も、学会出席あるいは史料収集といったようにロシア絡みのことが多く、実際の行動範囲という意味でも、ロシア(ソ連)は世界とほぼ等しかったのである。この点でも、在学中に、例えばワーキング・ホリデーといった制度を利用し、一年程度は遊学するのがごくごく普通の今の若い世代とは、世界に対する間合いの取り方が異なっている。以前とは対照的に、今ではロシアを学ぶ学生にとっても、この国は自分が歩いた様々な地域の中の一つでしかない。

[3] 若い世代でオルタナティヴ志向を持つ者にとって、かつてのロシアやソ連に当たるものは恐らくはイスラムであろう。在学中にイラクに繰り返し出掛け、卒業後にジャーナリストになったロシア学科の学生を、数年前、私も教えたことがある。

[4] 無論、大文字の政治が現代世界から消えたわけでも、意味を持たなくなったわけでもない。東アジアに冷戦構造が未だ残っていることを考えても、これは当然である。しかし時々、今のロシア研究は大文字の政治を語る場からも素通りされているのではないかと思うことがある。数年前、小泉政権末期〜安部政権時代に、「戦争体制へと頽落していく日本社会の動きに抗し、思想的・文化的抵抗の新たな拠点を築く」とうたって、『前夜』という季刊誌が出されたことがあった20042007。表紙のレイアウトが奮っており、日本語と並んでアラビア語、スペイン語、ハングル、英語、フランス語で、「前夜」という単語が表記されている。編集者の見るところ、現在これが抵抗の思想を紡いでいる言語ということなのだろう。ある時代まではそこにロシア語も入っていた筈で、雑誌の内容以上に、私にはこの「リスト洩れ」が印象的だった。