おろしゃ会会報 第16その7

2009年1210

 

 

クラスノヤルスクの榎本武揚

―ダツィーシェン博士の論文とその発見資料に基づいてー

 

市 崎 謙 作

 

 

 

はじめに:榎本武揚「シベリア日記」の空白

T. В.Г.ダツィーシェン博士の2論文

(1)「クラスノヤルスクの榎本武揚」

(2)「シベリアの日本人たち」(抜粋)

U. ダツィーシェン博士が発掘した諸資料と関連資料

 (1)榎本公使に関するクリンゲンベルク警察署長の報告書

 (2)週刊新聞「シベリア」第35号、1878924日 地方雑報の記事

 (3) カシヤーノフ司祭の記録

(4)「ディヴノゴルスクの文化」誌の記事

V. クラスノヤルスクの榎本武揚(まとめ)

W. ゴールド・ラッシュの時代:榎本武揚が生きた時代背景

結びと追記:

(1)結び

(2)追記:「シベリア日記」を書いた本来の意図との関わり

付属資料:T(1)を除く、T(2)、U(1)(2)(3)(4)のロシア語原文

 

はじめに:榎本武揚「シベリア日記」の空白

 榎本武揚の「シベリア日記」は、クラスノヤルスク滞在中の820日〜22日の三日間の記事が空白になっている。ところで、「おろしゃ会 会報」(第15号)に、ロシア連邦大学教授のウラジーミル・グリゴーリェヴィッチ・ダツィーシェン(Владимир Григорьевич Дацышен)博士が“Эномото Таэаки в Красноярскеクラスノヤルスクの榎本武揚(1)という論文を寄稿しておられるが、この論文は「シベリア日記」の空白の三日間に関わる興味深いものである。

 本稿は、ダツィ−シェン博士の上記論文を日本語訳して改めて紹介するとともに、博士の関連論文および博士が発掘されたロシア側の原資料なども紹介し、併せて、「シベリア日記」空白の三日間における榎本武揚の行動をいささか再現して日記の空白を埋めようとするものである。

 

 榎本武揚のユニークな生涯については、加茂儀一『榎本武揚』(1960年)(2)や井黒弥太郎『榎本武揚伝』(1968年)(3)を始めとして伝記や論集、小説などが多く書かれ、また、芝居にもなって巷間にはよく知られている。だが、一般的読者が榎本武揚について直接的に知りたいと思っても、利用できる資料は意外に少ない。加茂儀一氏の著書は、榎本武揚の手記や書簡などからの引用も豊富であり、特に、1988年に文庫版(4)として出版されてからは、一般的読者が榎本武揚のことを知るための貴重な情報源になっている(井黒弥太郎『榎本武揚伝』のほうは稀覯本になっている)。榎本武揚自身の手になるものとしては、昭和10年代に刊行された榎本武揚『西伯利亜日記』(「渡蘭日記」を含め)があるが、滅多に目にすることができないものであり、やや利用しやすい資料としては、ながらく、加茂儀一編『資料 榎本武揚』(5)くらいしかなかったと言える。2003年刊行の榎本隆充編『榎本武揚未公開書簡集』(6)は利用しやすい資料の範囲を広げるものであるが、昨2008年、榎本武揚没後百年を記念して、榎本の「シベリヤ日記」と「渡蘭日記」および若干の書簡を合わせた『榎本武揚 シベリア日記』(7)が刊行されて、ありがたいことに、或る時期の榎本武揚に一般的読者も直接的に触れることができるようになった。

「シベリア日記」(元はシベリヤと書かれているが、文庫版の表記に従いシベリアと書く)は、それまで四年余に及ぶ駐ロ特命全権公使としての職を終えてシベリア経由で帰国した際に記された日本人初のシベリア横断旅行のドキュメントであるという意義を有しているが、それだけでなく、当時のロシア・シベリア地方の観察記録としても貴重なものである。(榎本武揚が「シベリア日記」を書いた理由については、本稿の最後のところで少し考えてみる。)

榎本のシベリア横断旅行は、1878年(明治11年)726日にサンクト・ペテルブルグを出発、同年929日ウラジオストクに到着するという足かけ66日間の旅行であった。汽車や汽船も利用したが、83日から911日までの(ペルミからスレチェンスク(8)に至る)足かけ40日間は馬車による旅である。この旅はかなりの強行軍で、しばしば夜を徹して馬車を走らせている。強行軍にもめげず、榎本は、この旅の間、ほぼ毎日、見聞したさまざまなことを細かく記録していた。几帳面で筆まめな榎本は、休息や就寝の時間も惜しみ、せっかくの観劇も辞退したりして記録を書いているのである。

ところが、活字になった「シベリア日記」には、どういうわけか、クラスノヤルスク滞在中の820日〜22日の三日間の記事が欠けている。また、ウラジオストクに着く前日(928日)の短い記述を最後として終わっており、日本に近くて重要なウラジオストクについての記述もない。

後者の、928日からウラジオストクに着く929日まで、および、それから102日にウラジオストクから船で帰国することになるまでの足かけ五日間における榎本武揚の行動については、榎本武揚のご子息榎本春之助氏が推定して補足しておられるが、三日間も滞在していたウラジオストクにおける観察・見聞の記事がないのは不思議である。榎本武揚は、徳川幕府時代には海軍副総裁を経験し、当時は海軍中将に任命されてロシアに赴いていたのであり、海軍には深い縁があった。ウラジオストクは、軍事的にはロシア海軍の極東の重要な拠点になりつつあったのだから、榎本も当然大きな関心を持っていたと思われるのであるが、ウラジオストクについて記録した日記は残していない。(政府や友人には、何らかの報告をしていたであろうと思うが.....。)

前者のクラスノヤルスク滞在中の82022日の日記が欠けているという点についてであるが、この三日間に榎本が何をしていたかということは、819日の日記から推測できる。クラスノヤルスク近辺の奥地にある「洗金場」(砂金採取場)の視察に出かけていたのである。その砂金採取場は、エニセイ河を遡ったかなり奥地のほうにあり、往復と視察に数日かかることが予想されていた。しかし、具体的にどこへ行ったのか、どうして行く気になったのか、また、何を観てきたのかなどのことは、記事が欠けているから全く分からないのである。

榎本武揚が科学技術だけでなく鉱工業にも深い造詣と関心を持っており、ロシア赴任直前に黒田清隆のもとで北海道開拓使として働いていた時、炭坑や金鉱などの探索も精力的に行なっていたことはよく知られている。だが、しばしば寝る間も惜しみ夜を徹して馬車を走らせるという急ぎ旅のシベリア旅行をしているのに、数日かけてもクラスノヤルスク奥地における砂金の採取の様子を視察したいと思うようになった動機は何であったのであろうか。また、具体的にどこを視察し、何を観てどう感じたのであろうか。

貴重な時間を割いてわざわざ奥地へ視察しに行ったというのに、筆まめな榎本が全く何も記録を書き残さなかったということは考えられない。もしかしたら、このとき、榎本は、「シベリア日記」の基となっている大小二つの手帖のいずれでもない別紙に日記を書いていたのだが、それが紛失してしまったのであろうか。それとも、やはり、何らかの事情で何も書かなかったのであろうか。ともあれ、わざわざ時間と労力を費やして山岳地帯の奥地まで視察に行ったというのに、クラスノヤルスクでの三日間の日記が空白になっているのは全く残念なことである。(本稿発表の前に、榎本武揚のことも研究されておられる中村喜和先生に草稿をみていただくことができたが、中村先生からの情報に依れば、「8202122日の空白は、多分、別の帳面に記入したためと思われますが、それが出てこない」し、「榎本家の方々とときどきお目にかかっていますが、日記関係は震災後に発見された大小のノート以外に、無い由です」とのことであった(9)。やはり、記事を認めた紙片が紛失したようである。)

そんなことを思っていたときに、ダツィーシェン博士の「クラスノヤルスクの榎本武揚」というロシア語の論文を読む機会があった。読んでみると、榎本武揚「シベリア日記」のクラスノヤルスクにおける空白の三日間に関係することが書かれているではないか(!!)。しかも、ロシア側に何らかの記録資料が残っており、それを基にして書かれていることも分かった。

そこで、ロシア語のままにしておいては勿体ないから、日本語に訳して改めて「会報」に載せていただこうと思って邦訳し始めた。訳すうちにいろいろとさらに知りたいことが出てきた。記述に多少の疑問もあったが、何よりもロシア側の資料がどういうものなのか知りたくなった。そこで、ある方のご紹介により筆者のダツィーシェン博士にいくつかの質問を送ったが、博士はていねいにお答えくださった。ロシア側にある原資料も是非読んでみたいとお願いしたところ、しばらくしてからであるが、論文の根拠となっている資料を含め三つの資料の写真も送ってくださり、手書き文書の二つについては、現代ロシア語に解読したものもお送りくださった。こうして、ダツィーシェン博士のお陰で、博士の論文および博士が見出した資料を基にすれば、記録に空白があるクラスノヤルスク滞在中の榎本武揚の様子が少しはうかがうことができるようになったのである。

本稿では、(T)先ず、ダツィーシェン博士が書かれた論文をご紹介し、(U)次に、論文の基となっている、ダツィーシェン博士がクラスノヤルスクで発掘した文書や新聞記事などの資料(および筆者がインターネットで見つけた関連資料)を紹介する。そして、(V)これらの論文と資料に基づき、クラスノヤルスクにおける空白の三日間における榎本武揚の行動をうかがい、(W)最後に、三日も費やして奥地の砂金採取場を視察しようと思い立った動機をはぐくみ育てた時代背景や榎本武揚の関心のあり方について少し考えてみたいと思う。

 

「はじめに」の注:

(1)Дацышен Владимир Григорьевич: Эномото Такэаки в Красноярске, 愛知県立大学「おろしゃ会」会報 第15号、20081010日発行、p.92-94。この会報は、インターネットで読むことができる:http://www.for.aichi-pu.ac.jp/~kshiro/orosia.html

(2)加茂儀一著『榎本武揚 明治日本の隠れたる礎石』昭和35年、中央公論社

(3)井黒弥太郎『榎本武揚伝』1968年、みやま書房

(4)加茂儀一著『榎本武揚』昭和63年、中公文庫

(5)加茂儀一編『資料 加茂儀一』昭和44年、新人物往来社

(6)榎本隆充編『榎本武揚未公開書簡集』2003年、新人物往来社

(7)講談社編『榎本武揚 シベリア日記』2008年、講談社学術文庫

(8)スレチェンスク(Срeтенск, Sretensk)は、ザバイカル地方に属し、アムール河支流のシルカ川右岸に位置する小都市(人口約8000人、1926年に「市」となった)であるが、かつてはストレチェンスク(Стрeтенск, Stretensk)とも呼ばれていた。榎本武揚の日記ではストレチェンスクともストレチンスクとも記されている。

(9)20091016日付けおよび1018日付けの、中村喜和先生から本稿執筆者へのe-メールによる。

 

T. В.Г.ダツィーシェン博士の2論文

 先ず、加藤史朗教授が編集された「おろしゃ会 会報」(第15号)に掲載されたВ.Г.ダツィーシェン博士の「クラスノヤルスクの榎本武揚」(1)という論文を邦訳してご紹介する。

冒頭に、博士について加藤教授が次のような紹介をされている(2)

 

ウラジーミル・グリゴリエヴィッチ・ダツィシェン博士は、シベリア連邦大学の教授で、世界史的視点から中国や日本など極東の歴史を研究しておられます。2005年、宮崎の日向で「日露戦争100周年国際シンポジウム」が開催された時には、パネリストを務められました。その帰途、愛知県立大学も訪問されました。掲載した論文は「クラスノヤルスクにおける榎本武揚」について述べたものです。(後略)                        

(加藤史朗)

 

さらに紹介を重ねれば、ダツィーシェン博士は、特に露中交流史についての専門家であり、2008年には、長年のご研究をまとめた『17-20世紀におけるシベリアの中国人たち:移住と順応の諸問題』(3)という題の大著を出されている。クラスノヤルスク在住の博士は、クラスノヤルスク地方行政文書保管所(АААКК)」その他の機関で露中交流に関する諸資料を博捜されておられる時に榎本武揚に関する行政文書なども発見され、それらを根拠にして榎本武揚に関することも書かれたわけである。なお博士は、榎本武揚との関わりだけでなく、ひろく、シベリアにおける日本人たちとロシアとの関係についても文書資料などをふまえて研究されておられる(4)

 榎本武揚を中心に据えた(1)「クラスノヤルスクの榎本武揚」(2008)以外にも、ダツィーシェン博士が榎本について触れられている論文が二つある。(2)「シベリアの日本人たち」(2001)(5)および(3)「18世紀から20世紀前半におけるシベリアの日本人たち――日ロ関係の歴史から」(2009)(6)である。(3)の論文における榎本武揚に関する記述は、(1)か(2)の論文に書かれていることと変わりないから、(3)を除外して(1)(2)の論文を邦訳して次に紹介する。

なお、日付(年月日)についてであるが、古い時代のロシア語資料ではユリウス暦に基づくものが用いられているが、そのまま記したのは不便であるから、本稿においては、日付(年月日)はすべて、一般に用いられているグレゴリオ歴の日付(年月日)に換暦して統一してある。

 

T() 「クラスノヤルスクの榎本武揚」

 初めに、ダツィーシェン博士が「おろしゃ会 会報」(第15号)に発表された「クラスノヤルスクの榎本武揚」という論文の邦訳を次に紹介する。

 

В.Г.ダツィーシェン「クラスノヤルスクにおける榎本武揚」(7)

 

「次のことを付言しておかねばならないと思います――榎本武揚海軍中将は、クラス

ノヤルスク管区およびクラスノヤルスク市滞在にきわめて満足され、このことを、再

三、通訳を通して本官に表明されたとのことです。」

(クラスノヤルスク管区警察署長のエニセイスク県知事への報告書より)

 

 1878(明治11),クラスノヤルスク市と市の郊外を駐ロ特命全権公使海軍中将榎本武揚訪れた。榎本は、後に「明治期最良の官僚」と評された人物である。

 19世紀の70年代初頭、日本は近代的な在外公館制度を創設したが、その頃から駐ロ公使を誰にするかという問題が生じた。日ロ両国間の関係には、多くの問題、特に領土問題が山積していた。対ロ関係は、多くの点で日本の将来の発展を左右するものであったのである。

 サンクトペテルブルク駐在初代全権公使のポストには、黒田清隆(後に、自身もクラスノヤルスクを訪れることになるが)の発議に基づき榎本武揚が任命され、当時の日本では最高位の海軍中将の位を授与された。これは尋常でない決定であった。というのも、ほんの数年前に榎本は反乱を起こし、「独立」北海道の総裁に選ばれていたからである。榎本軍を撃破したのは黒田が指揮する官軍であったのだが、「総裁」榎本は奇跡的に死刑を免れ、三年間獄に監禁されていた。だが、この「政治犯」はたいへん経験豊富なすぐれた学者であり政治家であったので、新生日本はその知識と経験をどうしても必要としたのである。

 〔駐ロ公使となった〕榎本は、1874明治75月、東京を出立し、途次、ヨーロッパ各地を巡り、以前数年間暮したことのあるオランダを訪れた。6月、サンクトペテルブルクに到着、アレクサンドル二世に謁見を許された。翌年1875(明治8)、榎本は、〔当時のロシア国外務大臣であった〕А.М.ゴルチャコフとともに、両国間の領土関係の問題を解消する国際協定〔=「樺太千島交換条約」〕に署名した。これは、ヨーロッパの国との日本初の平等条約であり、合意条件について日本の世論には賛否両論があったとはいえ、日本帝国政府が完全に承認した条約であった。

榎本は、サンクトペテルブルクに四年余留まっていたが、ロシアの知識層の間で大きな尊敬を受け、著名な学者や芸術家たちと親交を結んでいた。公使榎本は、確固たる信念を持った日ロ友好協力論者であって、積極的にこうした〔日ロ友好と相互協力〕の考えを世間に喧伝していた。そこで榎本は、ロシアが多くの日本人が考えているような脅威を日本に与えるものではないことを改めて確かめるため、自らシベリア全域を踏破して、北方の隣人たちについての自分の印象を祖国日本に広めようと決意した。

ロシア政府は、日本公使の要望に応じ、シベリアを通過して帰国することを認可した。榎本は必要な書類を与えられ、また地方行政当局は、「日本公使に全面的に協力し、その安全を保障し、その必要とするものを十分に供給せよ」との訓令を首都から受け取った。1878明治117月、榎本武揚は、大岡金太郎および寺見機一を伴って、サンクトペテルブルクを去り、シベリアを通っての帰国の途についた。

1878730、エニセイスク県の行政指導部は、極東シベリア総督から「日本公使が県域を通過する際には協力せよ」との訓令を受け取った。県行政当局は、この任務を郡警察署長に委任した。815、クラスノヤルスクでは、隣りの県から、榎本が翌日トムスクを出発するであろうという電報を受け取っていた。818、随行者とともに二台の乗用馬車に乗ってアチンスクを通過し、その日の夕刻、榎本は、イブリューリ宿駅で、クラスノヤルスク管区警察署長の出迎えを受けた。

警察署長との食事時の会話で、榎本は、クラスノヤルスクの近くに金採取場〔砂金採取場〕があることを知ると、直ちに採取場を訪問したいと言って許可を求めた。クラスノヤルスク管区警察署長は公使の要望に応えて、採取場へ行くための舟と必要品のすべてを準備する手配をした。そして署長自ら榎本に同伴して、819日夕刻、エニセイ河沿いに上流に向かった。

採取場までは約60ヴェルスター〔=60キロ強〕あったので、日本公使榎本はエニセイ河畔の丘陵にあるオフシャンカ村で一泊した。当時の人々の回想によれば、榎本武揚は、クラスノヤルスク郊外の美しさに強い感銘を受けたようであって、その様子をシベリアのある新聞は、「榎本は、山並み続くエニセイ河畔の景色にうっとりしていた」と書いている。〔820日〕朝、旅行者たちは、歓待してくれたオフシャンカ村に別れを告げ、河沿いに旅をつづけた。同日夕刻、日本人たちは、ビリュサー河上流地域にある商人ポルヤーノフ所有のトゥリョーフ・スビチーチェリ〔三聖人〕採取場に到着した。

 821日は、一日中、公使は金採掘の作業を仔細に視察し、機械の仕掛けを研究した。商人ポルヤーノフは、規則を破って賓客に自分が秘密にしていることを進んで説明し公開した。榎本は、許可を得て、採掘場とすべての設備の図面と略図を描いた。公使は、視察の労を割いた甲斐があったとすっかり満足され、機構は簡単だが実用性の高い、作業にふさわしいこうした技術は日本では使われていないと指摘した。822日朝、榎本武揚は帰路につき、馬車でクラスノヤルスクに帰還した。翌82312時に、日本公使はエニセイスク管区の中心都市〔であるクラスノヤルスク市〕を出立して、イルクーツクへ向かう街道を進んでいった。

1878明治1110月、榎本武揚は東京に戻った。榎本は、シベリア横断旅行の間ずっと日記をつけており、日記に体験したことについての感想を書き込んだ。榎本の「シベリア日記」は、今でもなおロシアではあまり知られていないが、シベリアの歴史やロ日関係史についての重要な資料である。

これ以後、榎本武揚は、日本初の憲法〔大日本帝国憲法〕の立案に参加し、日本政府内のきわめて重要なポストについている。文部大臣のポストに任ぜられ、その後、子爵〔となっていた〕榎本は、第一次立憲内閣で外務大臣の地位を占めている。当時、〔日ロ〕二国間の関係は安定した互恵的なものであった。榎本は、独特の慣例を残した。榎本以後、日本の外交官や官僚がヨーロッパから帰国する際、海路のほうが速くて便利なのに、しきりにシベリアを経由するようになったのである。

榎本の生涯における「クラスノヤルスクでのエピソード」が、〔榎本の心のうちに〕痕跡を残さなかったはずはない。実際、オフシャンカ村の百姓家のお陰で、サムライ榎本は、ロシアの農民の心を理解することができたのである。エニセイ河畔は美しく、シベリア人はあけっぴろげで誠実であったので、日本のきわめて偉大な政治家であり官僚であった榎本は、自分がロシアやロシア国民に好意を抱いていることは根拠のある正しいことだと確信し、この信念は生涯ゆらぐことはなかったのである。ひょっとすると、正にクラスノヤルスクからさほど遠くない農村で、つい最近〔1997年〕、日本の内閣総理大臣橋本龍太郎とロシアの初代大統領エリツィンとの会談が行われたのも偶然ではないのかも知れない。                 〔以上

 

解説上記の論文について若干の解説を次に記したい。(なお、原文には写真が二葉付されているが、これらについての解説は次ページ参照。)

シベリア日記」818日の記事からうかがえるように、榎本武揚は、「カラスノヤルスク府」の「ポリシメーステル〔オランダ語のpolitiemeester警察署長〕」と記されている「クラスノヤルスク管区警察署長」フォン・キリンゲンベルグ(少し後では「イスプラウォニカ役〔ロシア語のисправник郡警察署長」クリンゲンベルクとも記される人)の出迎えを受けたが、この署長と歓談するうちに榎本は、郊外の奥地にある或る砂金採掘場を視察してみたいと思うようになった。クラスノヤルスクにおいて榎本武揚の警護や接待を担当し、奥地の砂金採取場の視察の手配や準備をしたこの人物は、上記論文冒頭に引用された報告書を書いた「クラスノヤルスク管区警察署長」(フォン・)クリンゲンベルクであろう。この報告書を発掘されたダツィーシェン博士のお便りに依れば、この報告書の署名欄は「Клингенб...」と読めたそうであるから、まず間違いはない。

このクリンゲンベルク報告書に基づけば、榎本武揚が視察したのは、ポルヤーノフ(8)という人が経営する砂金採取場だった。ポルヤーノフは、榎本の日記(819日)覚書欄に「プルヤノフ氏は持ち金を費(つひ)で尽くし、遂に一人助け借すものありて今日の場所を開採するに至れり」(9)と記されているプルヤノフと同一人物であろう。榎本は、このポルヤーノフ所有のトゥリョーフ・スビチーチェリ〔三聖人〕採取場という砂金採取場へ、クリンゲンベルク署長が用意した舟でエニセイ河を遡行して視察しに行ったのである。

砂金採取場内の設備についてポルヤーノフは進んで「秘密」を明かしてくれたようであるが、榎本には「簡単だが実用性の高い」ものである思われたらしい。後(910日)に榎本がブーチンスクを通ったとき、「ネルチンスクの巨商ブーチン」が所有する砂金採取場を視察した後の帰り道に別の砂金採取場にも立ち寄っているが、そこの設備もまた「水もやや多きを以て水車にて働く」ものであり、「エニセイにて見たる仕掛けに均し。きわめてシンプルなり」(10)と榎本は日記に書いている。このことから推察するに、ポルヤーノフの砂金採取場の洗金設備もまた動力に水車を利用するものだったのであろうと思われる(この点については、後に改めて述べたい)。

 榎本が通過した各地の行政担当者らは、中央からの訓令に基づき、一行の安全の確保と旅行の便を図る任務を負っていたが、任務を果たした担当者は、皆、クリンゲンベルク警察署長が書いたような報告文書を上に提出していたであろう。そうであれば、恐らく、榎本らが通過したシベリア各地にも似たような報告書が残されているであろう。榎本武揚や、あるいはその後も榎本に倣ってシベリアを旅行した日本人たちについて、ロシア側がどう記録し、どう思っていたのか、調べてみるのもおもしろいかも知れない。

 さて、「おろしゃ会 会報」に掲載されたダツィーシェン論文の文末には、加藤教授は、二枚の写Вид на р真を添えておられる。

ovshanka3 一枚(左の写真)は、エニセイ河右岸から上流を望む写真である。奥の左側(つまりエニセイ河右岸のかなた)に家が密集して見える所が、現在のオフシャンカ村である。左に掲載したものは、会報の写真ではなく、全く同じ視角から撮った別のものであるが、より鮮明なので入れ替えた(11)。(手前から伸びている単線の鉄道は、オフシャンカ村の少し奥にあるクラスノヤルスク水力発電所ダムを建設するために敷設されたもの。)

 もう一枚は、右に掲載する平屋建ての住居の写真である。この写真について「おろしゃ会 会報」(第15号)には、「ダツィーシェン家のダーチャ、1878年に榎本武揚が宿泊していた」と説明されている。ダツィーシェン博士に問い合わせたところ、この「古い田舎家」は、榎本がオフシャンカ村を訪れたころからエニセイ河畔にあったもので、「榎本がまさしくこの家に泊まった公算は大きい」とのことである。また、この家は、現在、ダツィ−シェン博士のご両親がダーチャとして利用されておられる。(12)

 

さて、このダツィーシェン博士の論文は「エッセー風の論文」であって、記述の論拠となる出典が全く示されていない。しかし、論文冒頭の引用文から、本論文の記述がロシア側にある何らかの記録(=クリンゲンベルク署長の報告書)に基づくものであることは明らかである。この報告書がどのようなものであるかはよく分からないのでダツィーシェン博士に問い合わせたところ、博士が見つけられた古文書のうちの報告文書であることということであった。そして、しばらくして報告書の写真と解読した全文とを送ってくださった(この報告書については、次節で紹介する)。

博士のこの「エッセー風の」論文は、典拠が示されていないだけでなく、必ずしも正確とは言えない記述も含まれている。やや正確さに欠ける若干の記述は、博士が参考にされた文献のせいであって、博士の責任ではないと思われるので、ここで正しておきたいと思う。(博士は日本語を解されないし、『シベリア日記』のロシア語訳は出ていないから、「シベリア日記」本文は読まれていないであろうと思われる。したがって、本論文は、他のロシア人研究者などの論文を参照して書かれた部分があると推察できるが、その参照した論文に若干正確さに欠ける記述があったのだと思われる。)

たとえば、榎本武揚のシベリア旅行は、「大岡金太郎および寺見機一を伴って」三人でなされたかのように書かれているのであるが、実際には、さらに外務省の二等書記官市川文吉(通訳や翻訳担当か)も随行している。日記を読めば、このことは分かる。恐らくは、加茂儀一『榎本武揚』を基とする何らかのロシア語文献があるのであろうが、加茂儀一の著書にはちょっとした誤記があったのである。加茂儀一『榎本武揚』は、榎本がシベリア横断をするに当たって「彼のほかにはペテルブルグで銅板を研究していた大岡金太郎と留学生寺見機一の二人」を伴ったと書きだし、「道路はあったが、まだ整備されず凸凹はげしく、その中を一行三人はタランタス、すなわち、ロシア特有の半有蓋旅行馬車に乗り、はげしくゆられてシベリヤを横断し、夜行を重ねたこともしばしばであった」(13)とつづけておられる。だが、榎本武揚らが「一行三人」で旅していたかのように書いたのは、加茂儀一氏の小さな誤記であり、誤記であることは、加茂儀一氏自身、そのすぐ後で、さらに「市川文吉」が何をした云々という榎本の日記からの記事を多く引用されておられることからも推測できる。実は、一行は、市川を含む「四人」だったのである。こうした誤記を受け売りして書かれたロシア語論文に基づいて、ダツィーシェン博士も一行が三人であるかのように書き出してしまったと思われる。

また、榎本が大日本国憲法の立案に参加したかのように書かれているが、榎本は、実際には憲法制定には関わらず、むしろ条約改正などの外交実務に従事させられていた。さらに、榎本は帰国後、さまざまな大臣職を歴任して実務的な行政責任者として活躍したが、その経歴は実に多面にわたるものであって、博士がまとめられているほど単純なものではない。

しかしながら、エリツィン大統領と総理大臣橋本龍太郎との会談が、同じクラスノヤルスクの郊外でなされたというのは、ダツィーシェン博士が書かれているように、確かに、榎本武揚にも関わるよくできたエピソードである。

1997年(平成9年)111()2()、総理大臣橋本龍太郎はロシアを公式訪問し、ロシア大統領ボリス・エリツィンとクラスノヤルスクで会談した。111日、橋本は、クラスノヤルスク空港からクラスノヤルスク郊外のエニセイ河畔にある大統領宿舎に到着。すぐに、エニセイ河に浮かべた船上で両者は公式会談をした。その後、いっしょに昼食をしたり釣りをしたりして過ごした。翌日の朝、橋本とエリツィンは、ともに緑豊かな宿舎内を散歩。橋本は、朝食後、日本人墓地に墓参し、ロシア無名戦士の碑にも献花してから、昼過ぎにあわただしく帰国した(14)

橋本龍太郎が宿泊したのは、エニセイ河畔の別荘地ソスヌィにある大統領宿舎であったが、ソスヌィは、かつて榎本武揚が宿泊したオフシャンカ村(エニセイ河右岸)からあまり隔たってはいない対岸(左岸)に位置している。榎本武揚が立ち寄ったと日記に書いているウスペンスキー修道院はソスヌィにあった。橋本とエリツィンが公式会談を行なった船は、ソスヌィからオフシャンカのほうへ遡行していたらしいが、ソスヌィもオフシャンカも、かつては、同じくクラスノヤルスク市郊外のエニセイ河岸に位置していた寒村だったのであり、榎本の旅と関わりのある土地だったのである。

 

T()「シベリアの日本人たち」(抜粋)

ダツィーシェン博士は、榎本のことだけでなく、シベリアと日本人との関わりという広い視点から物を視ておられることは、先に紹介したとおりである。博士が2001年に発表された「シベリアの日本人たち」という論文にも榎本に触れる部分があるので、その部分を次に紹介する。

 

В.Г.ダツィーシェン「シベリアの日本人たち」(抜粋)(15)

(前略)

19世紀の半ば過ぎ〕日本人たちはシベリアを改めて「発見」し、シベリア人たちも日本人を新たに「発見」するのであるが、このことは、1870年代の初めに、サンクト・ペテルブルグ駐在初代全権公使に任命された海軍中将榎本武揚の名と結びついている。1875年、日本公使はゴルチャコフとともに条約〔樺太・千島交換条約〕に署名し、両国間の領土問題を解決した。この条約は、日本がヨーロッパの国と結んだ最初の平等条約であった。

榎本は、サンクト・ペテルブルグに四年余留まっていたが、ロシアの知識層の間で大きな尊敬を受け、著名な学者や芸術家たちと親交を結んでいた。公使榎本は、確固たる信念を持った日ロ友好協力論者であった。榎本は、ロシアが多くの日本人が考えているような脅威を日本に与えるものではないことを改めて確かめるため、自らシベリア全域を踏破して、北方の隣人たちについてさらに詳しく知るようにしようと決意した。ロシア政府は、日本公使の要望に応じ、シベリアを通過して帰国することを認可した。地方行政当局には、「日本人旅行者〔榎本武揚〕に全面的に協力し、その安全を保障し、その必要とするものを十分に供給せよ」との訓令が送られた

途次、榎本武揚はクラスノヤルスクに滞在された。丸一日かけて榎本中将は、仔細に金採掘業を視察し、機械の構造を研究された。榎本の旅行について報道していた新聞「シベリア」は次のような指摘をしている――伝えられるところに依れば、「洗金の仕方そのものは単純かつ簡単である()ことが非常に気に入られ、採金場を去る際に、技術的設備すべてのできるだけ詳細な見取り図を書いていただけないかと頼まれ、このようなきわめて単純な洗金方法を知っている者は、今まで、日本人の間には誰もいなかったのは残念なことであると申された」とのことである。187810月、榎本武揚は、全シベリアを踏破して東京に戻った。(後略)

 

後で送っていただいた資料を読んで分かったことだが、以上の論文は、クリンゲンベルク報告書をふまえた「クラスノヤルスクの榎本武揚」とは異なって、主に「シベリア」新聞の記事に基づいて書かれているようである。そこで、次節では、貴重なクリンゲンベルク報告書を紹介するとともに、「シベリア」新聞の記事も紹介する。また、榎本武揚のことに関連するロシア語資料が他にも少しあるので、それらも併せて次節で紹介する。

 

Tの注:

(1)Дацышен Владимир Григорьевич: Эномото Такэаки в Красноярске, 愛知県立大学「おろしゃ会」会報 第15号、20081010日発行、p.92-94

(2)上掲「おろしゃ会 会報」第15号、.92

(3)Дацышен Владимир Григорьевич: Китайцы в Сибири в XVII-XX вв.: проблемы миграции и адаптации. Монография. Сибирский федеральный университет, 2008.

(4)次の注(5)(6)を参照。

(5)Дацышен Владимир Григорьевич: Японцы в Сибири, «Япония сегодня» 2001 1, стр.2-3.

(6)Дацышен Владимир Григорьевич: Японцы в Сибири в X[-первой половине XX вв.: из истории русско-японских отношений. 2009.

(7)注(1)参照。

(8)ダツィーシェン博士の調査によれば、ポルヤーノフの詳しい姓名は、イワン・パーヴロヴィッチ・ポルヤーノフИван Павлович Полуянов であるということである。

(9)講談社編『榎本武揚 シベリア日記』(講談社学術文庫)2008年、p.85

(10)『榎本武揚 シベリア日記』p.133

(11)http://www.fishup.ru/files/87/65/14/lg_2153461_PIC_0500_1.jpg

(12)「おろしゃ会 会報」第15号、p.94参照。ダツィーシェン博士は、「榎本がまさしくこの家に泊まった公算は大きい」と書かれているが、にわかに信じがたいように思われる。なぜかと言うと、本文には引用しなかったが、博士は「なぜなら、そのような河畔の家に宿泊したと回想録(мемуары)に言われているからである」と書かれているのであるが、その「回想録」とは「シベリア日記」のことであろうと思わざるをえないが、このような記事は日記には全くないからである。そもそもオフシャンカへ行ったということも書かれていないのである。しかし、もしかしたら榎本らが泊まった可能性もないとは断言できないから、博士が言われたままに本文では書いておいた。

13)加茂儀一『榎本武揚』(中公文庫版)p.501-502

(14)橋本龍太郎のクラスノヤルスク訪問時の日程やエリツィンとの会談内容などの公式記録については、外務省の次の記録を参照。

http://www.mofa.go.jp/Mofaj/kaidan/kiroku/s_hashi/arc_97/russia97/index.html

(15)注(5)参照。

 

Uダツィーシェン博士が発掘した諸資料と関連資料

 

U(1) 榎本公使に関するクリンゲンベルク警察署長の報告書

ダツィーシェン博士の「クラスノヤルスクの榎本武揚」において注目すべきことは、榎本の警護と接待を担当し、砂金採取場の視察を案内したクリンゲンベルク警察署長の報告書に基づいて書かれているという点にあった。冒頭の引用文はその一部であったが、ダツィーシェン教授にお願いしたところ、解読した報告書全文とその写真を送っていただけたので、先ず、それを紹介する。

報告書は旧正字法で書かれており、ダツィーシェン博士の論文で引用されている部分も旧正字法で表記されていたが、訳者に送られてきたものは、読みやすさを配慮されて、現行の正字法に直されたものであった。報告書の写真も送られてきたが、残念ながら、半分くらいしか写っていない不完全なものであった。

 

クラスノヤルスク管区警察署長のエニセイスク県知事への1878825日付け報告:«日本公使の通過について» (1)

 

731日付の指令第9092号の執行について謹んでご報告申し上げます。

日本公使榎本武揚中将は、本月8月〕23日、本官所管の管区を恙無く通過されました。通過の際のことについては、次の事を謹んでご報告申し上げます。

イブリューリ宿駅に出迎えて夕食を共にしたとき、公使は、本官の管轄内に砂金採取場が在ることを知られ、視察したい旨申し出られました。そこで、818日、公使がクラスノヤルスクに到着されてすぐに、採取場へ乗って行くのに不可欠な舟の用意を手配し、翌819日夕刻、公使を随員の方たちといっしょにオフシャンカ村に案内しました。村に宿泊し、20日未明、舟にて遡行し、同日、ポルヤーノフ氏所有のトリョーフ・スビチーチェリ(三聖人)砂金採取場に到着しました。21日は朝より終日、公使は、金採掘作業及び金鉱石洗浄機械の機構をじっくりとご覧になられ(2)、翌22日朝クラスノヤルスク市に帰還されました。本官は、遺憾ながら、21日に洗金場にて風邪を引き病臥したため、23日〔クラスノヤルスク出立の際〕には公使の見送りにカンスク管区境界まで行くことができませんでしたので、副署長に委任して見送りを行わせました。

次のことを付言しておかねばならないと思います――榎本武揚海軍中将はクラスノヤルスク管区およびクラスノヤルスク市滞在にきわめて満足され、満足の意を、再三、通訳を通して本官に表明されたとのことです。

管区警察署長(署名)(3)

 

U(2):「シベリア」新聞の記事

 ダツィーシェン博士の「シベリアの日本人たち」(抜粋)においては、主に「シベリア」新聞の記事を踏まえて榎本武揚のことが書かれたようであった。その「シベリア」新聞の写真も送っていただけたので、次に、それを紹介する。新聞の日付は、1878106日(ユリウス暦では924日)となっているから、「新聞」ではなく「旧聞」に属するものみたいなものだが、こういう報道がなされたということが分かる点で興味深い。写真に基づく記事の解読は訳者(市崎)が行なった。

 

週刊新聞「シベリア」第35号、1878924日 地方雑報(4)

 

クラスノヤルスク。最近、日本公使が、祖国への帰還途次にクラスノヤルスクを訪れられた。町に着かれると、公使は、ロシアにおける貴金属採掘業のことを知りたいと言われ、そのため、いちばん近いが、町から60ヴェルスター〔=60キロ強〕ほど離れてエニセイ河左岸に所在するポルヤーノフ氏の採掘場に出かけられた。馬で行ける道がないので、往復とも、客人〔榎本〕は舟で行かれた。伝えられるところによれば、山並み続くエニセイ河畔の景観にうっとりとされておられたそうである。洗金の仕方そのものは単純かつ簡単である()ことが非常に気に入られ、採金場を去る際に、技術的設備すべてのできるだけ詳細な見取り図を書いていただけないかと頼まれ、このようなきわめて単純な洗金方法を知っている者は、今まで、日本人の間には誰もいなかったのは残念なことであると申されたそうである。客人は、ポルヤ―ノフ氏の採掘場に二日滞在されたが、手厚い応接にきわめて満足されておられた。なお、ポルヤーノフ氏の名誉のために次のことを言っておかなければならない――外部の見学者から見られないように、用心深く自分の採掘場を守る人もいるが、ポルヤーノフ氏はきわめて親切に、貴金属採掘業に関心を持つどんな人にも、現場の採掘法を身近に細部にわたって知る機会を与えてくれるであろう。外部のどんな見学者も、社会的地位の高くない人であっても、ポルヤーノフ氏の採掘場ではきわめて暖かく歓待され、好奇心が満たされるよう親切に配慮してもらえるであろう。言うまでもないことであるが、俗に言われるように、何も隠さずに物事を行なっていれば、外部の目を恐れる必要など全くないのである。

 

 榎本武揚がエニセイ河の景観に見とれていたとか、ポルヤーノフの砂金採取場を視察してどんな感想を述べたかということが書かれていて興味深い。ポルヤーノフは、採掘法は誰にでも公開しており、もやは「秘密」にはしていなかったようである。この記事は、直接取材したものではなく伝聞に基づく記事であるが、クラスノヤルスクにおいて榎本武揚のことが大きなニュースになっていたことが分かるものである。

 

U(3):カシヤーノフ司祭の記録

「シベリア日記」によれば、ポルヤーノフの砂金採取場視察に赴く際、エニセイ河畔にあるウスペンスキー修道院に立ち寄っている(この修道院は、橋本−エリツィン会談の際に両者が宿泊したロシア大統領宿舎の近くの同じソスヌィに在る)。榎本は、次のように記している。

 

「(819日の記事末尾にある覚書の最後に)

 八月十九日午后七時、カラスノヤルスコエのウスペンスキーのモナストリーにて僧の招きにより茶を飲む。居は小なりといへどもエニセー河に臨み、風景はなはだ佳。」(5)

 

 ダツィーシェン博士は、榎本武揚のこのウスペンスキー修道院訪問を裏づける資料も見つけられた。ワシリー・ドミトーリエヴィチ・カシヤーノフ司祭(6)が記した日記体の記録には、次のように書かれている。榎本がクラスノヤルスクを発った823日の翌日、824日の記事である。

 

(カシヤーノフ司祭の記録)(7)

 

8月〕24日、土曜日。朝、昼間、晴れ。...... 日本公使、二度修道院来訪。シベリアに来てよかったと言われ、クラスノヤルスク周辺の山の景観はすばらしいと述べられ、エコノム・ゾシマが供した壜一本分ほど〔約600cc〕のクワスをおいしそうに飲まれ、お代わりを催促された。この方は、公使で全権大臣でもある榎本武揚中将であり、秘書の市川も同道していた。727日にはモスクワに、819日にはクラスノヤルスクに来られた。

 

 

 ウスペンスキー修道院には二度寄っているというから、榎本は、砂金採取場へ行く前に寄っただけでなく、帰りにも修道院に立ち寄ったらしいことが分かる。また、榎本が供応された「茶」は、僧が作った自家製のクワスであったらしいことがうかがえて興味深い。砂金採取場へは、同行者三人のうち寺見と大岡の二人が榎本に同道し、市川文吉は行かなかった。このことには、『シベリア日記』に「市川子は病を以て辞す」と記されているとおりである(8)。しかし、市川文吉が市内に留まって療養していたのか、または、少なくとも修道院まではいっしょに行って見送っていたのか、あるいは、榎本らが帰還すると予定されていた日に榎本がまた修道院に寄ることが分かっていて、修道院で榎本の帰還を待って出迎えたのかは分からないが、ともかく、少なくとも一度は修道院を訪れており、そこでは榎本の「秘書(секретарь)」であると紹介されていたらしいことが、カシヤーノフ司祭の記録からうかがえる。

 

U(4):「ディヴノゴルスクの文化」誌の記事

 エニセイ河を遡行して砂金採取場へ赴く際に榎本らが宿泊したオフシャンカ村のやや上流には、現在、クラスノヤルスク水力発電所があり、大きなダムが造られている。ダム造成のために形成されたディヴノゴルスクという町が発行している文化広報誌(「ディヴノゴルスクの文化Культура Дивногорска)」)におもしろい記事が載っているのを見つけたので、関連資料として、次に紹介する。榎本武揚が三日も費やして砂金採取場を視察しようと決意した動機が何であったのかはよく分からないが、ひょっとしたらこれが動機だったのではないかと想像させることが書かれている。

 

 「ディヴノゴルスクの文化」誌:「黄金熱Золотая лихорадка(9)

 

十九世紀の中ごろ、エニセイスク地方には「黄金熱」が蔓延した。ディヴノ山脈でも金が発見されたのである。もっとも成功したのは、採金業者のポルヤ−ノフであった。

 オシノフスカヤ川とビリュサー川の砂金採取場では、年に16プード〔約260kg〕の金が洗取されていた。ポルヤーノフの三聖人砂金採取場では、装置として、オーストラリアから取り寄せた特別な機械が用いられていた。これは、シベリアでは滅多に見られない珍しいもので、初代の日本海軍中将であった榎本武揚が1878年にクラスノヤルスクを通る旅の途中で、わざわざポルヤーノフの砂金採取場に立ち寄って機械の働きを視察したほどのものである。しかし、19世紀の終わりには、金の埋蔵量も底をついた。しかし、まだ長い間、一匹狼の探金者たちは、ポルヤーノフの砂金採取場のように山奥の川岸にある場所に自らのエルドラード(黄金郷)を探し求めていた。

 

 

 この記事によると、ポルヤーノフの砂金採取場では、当時のシベリアでは滅多に見られない特別な機械をオーストラリアから取り寄せて用いており、そして、その機械のことを知りたくて、榎本はわざわざ奥地まで視察に赴いたということである。ダツィーシェン博士の論文には全く言及されていない情報である。この情報がどういう根拠に基づいているのか、発行元にメールで問い合わせたがまだ返事がない(10)ので、はっきりしたことは分からないが、ありそうなことだと思われる。

 想像するに、クラスノヤルスクに榎本を出迎えたクリンベンゲルク警察署長もこうした情報を耳にしていたので、歓談した際に榎本が砂金採取に関心があるのを知ると、早速、そのうわさを榎本に話したのではあるまいか。技術にも深い関心を持つ榎本は、そういうものなら是非自分の目でみておきたいと思うようになり、そこで榎本武揚は、クラスノヤルスクに留まり、その機械が使われているという山奥の砂金採取場を視察してみようと決心したのではあるまいか。こう考えれば、榎本武揚が、二、三日費やしてでもポルヤーノフの砂金採取場を視察しに行こうとした動機が説明できるように思われる。

 

Uの注:

(1)Архивное Агентство Администрации Красноярского края (АААКК). Фонд 595. Опись 1. Дело 5702.(クラスノヤルスク地方行政文書保管所、文書番号Фонд 595. Опись 1. Дело 5702.

(2)このあたりの原文は次のようになっている:«.... с утра посланник посвятил подробному осмотру золотопромышленных работ и устройству золотопромывательной машины,....»のうちの «устройству»となっている語の語尾は、誤記あるいは誤読であって、文脈から考えて、正しくは«устройства»となるべきであったと思われるので、そのように訂正して訳した。だが、むしろ、«... посвятил подробному осмотру золотопромышленных работ и изучению устройства золотопромывательной машины»(金採掘作業をじっくりとご覧になり、金鉱石洗浄機械の機構を調べられた)とでも書けばいっそう分かりやすかったと思われる。ダツィーシェン博士は、二つの論文でこの部分をパラフレーズされて引用されているが、ロシア語文に誤りがあったせいか、二つの論文では少し違う意味に理解されて引用されておられるようであるが、細かいことなので深入りしないでおく。

(3)すでにTでも触れたように、ダツィーシェン博士からのお知らせによれば、署名は薄れてよく読めないが、«Клингенб...»までは読めるとのことであった。

(4)Еженедельная Газета «Сибирь», 35. 24 Сентября 1878 года. «Иногородные»

(5)榎本武揚 シベリア日記』(講談社学術文庫版)p.85-86

(6)ダツィーシェン博士のご説明によると、ワシリー・ドミトーリエヴィチ・カシヤーノフ(Василий Дмитриевич Касьянов) (1815-1897) は、クラスノヤルスク主教座大聖堂(Красноярскийо кафедральный собор)の長司祭(Протоиерей)であり、30年間、エニセイスク・ロシア正教会主教区監督局長を務められた方である。帝室ロシア地理教会の会員としても活動した。19世紀シベリアにおける、影響力の大きい学者であり、啓蒙家であり、社会活動家であった。

(7)Красноярский краеведческий музей. Отдел фондов. 9132/ ПН (р) 493. Л.967

(8)榎本武揚 シベリア日記』(講談社学術文庫版)p.84

(9)http://www.divkylt.ru/divnogorsk/ancient。記事のタイトルは、Золотая лихорадка」である。英語のGold Rush」は、ロシア語では「Золотая лихорадка」と訳されているから、「ゴールド・ラッシュ」としてもよいであろうが、このロシア語は、むしろ、英語の「Gold Fever黄金熱)」に近いものである。「лихорадка(熱病)」という語が暗示する「熱病のような黄金への欲望にとりつかれている状態」を指すニュアンスも捨てがたいので、原義のままで「黄金熱」としておく。

10「ディヴノゴルスクの文化」の発行元の責任者に、この情報の出所を問い合わせたが、返事はまだいただいていない。しかし、記事の書き方から見て、何かしっかりした情報源があるように思われる。

 

V. クラスノヤルスクの榎本武揚(まとめ)

 博士の2論文、および、博士が利用された文書や関連資料などをT、Uで紹介した。これらを基づき、さらには榎本が書いた『シベリア日記』818日・19日および23日の記事を踏まえると、クラスノヤルスク滞在中の記事のない空白の三日間(20日〜22日)を含む1878819日〜823日の足かけ五日間のクラスノヤルスクの榎本武揚の行動は、次のようにまとめることができると思われる。クラスノヤルスクに入る前日の818日も関係があるので、この日からまとめてみる。この日に、榎本は、砂金採取場視察の決意をしたのである。

 

V() 818

 榎本武揚らがクラスノヤルスク市街地に到着したのは819日午前1時ころであるが、前日18日の夕刻には、クラスノヤルスク管区警察署長フォン・クリンゲンベルクが、クラスノヤルスク地区のはずれのイブリューリ宿駅で榎本らを出迎えている。榎本が「シベリア日記」に、「午后六時半頃ブリュリ〔正しくはイブリューリ〕と云ふ小駅にて晩食の備へありと云ふに任せ、休憩し牛肉および汁を食ふ。この処にカラスノヤルスク府よりポリシーメーステル、フォン・キリンゲンベルグと云ふ人来居たり。出迎へのためなり」(1)と記しているとおりである。

クリンゲンベルク署長は細かく気のつく人らしく、遠く離れた管轄区のはずれまで迎えに出かけているだけでなく、クラスノヤルスク到着がかなり遅くなることを見越して夕食の用意までしている。榎本は、続けて、「この人の話にカラスノヤルスク府より二日を費やせば好き洗金場ありと、ここにおいてカラスノヤルスク府に投宿せんことを決し、その旨を同人に依頼するに喜んでこれを承領せり。八時半頃食了りてただちに発車す」と書いている。

察するに、榎本は、(1)クラスノヤルスクに宿泊しようと予め決めていたわけではなかったらしい。だが、(2)クリンゲンベルクの話を聞いて、クラスノヤルスクに留まって、二日使っても(実際には三日も使うことになるが)砂金採取場(洗金場)を視察しておきたいと思ったらしい。

 榎本は、クラスノヤルスクまで来る途中でも、特に各地の金鉱採掘の様子には注意して聴き取りを行ない、細かく記録している。すでに86日のエカテリンブルグでの砂金採取場視察については、図解入りの詳細な記録を残している。ところが、クリンゲンベルクの話を聞いて榎本は、忙しい日程であるにもかかわらず、数日もつぶしてクラスノヤルスク郊外にある砂金採取場を視察したいと思うようになったのである。そのような決意をした動機が何であるか、日記に記載がないので分からないが、U(4)で紹介した「ディヴノゴルスクの文化」誌の記事に関連して書いたように、ポルヤーノフの砂金採取場では「シベリアでも珍しい新しい採金技術が使われている」という噂をクリンベンゲルク警察署長から聞き、そういうものならば是非見ておきたいと榎本は思うようになったと考えれば納得がいくように思うのであるが、どうであろうか。

 ともあれ、榎本は、クラスノヤルスクに留まり、翌日は奥地の砂金採取場を視察しに出かけようと決心し、その手配をクリンゲンベルク署長に頼んだ。

 

V() 819

 クリンゲンベルクが用意しておいた夕食を終えると、榎本武揚と二等書記官市川文吉、および、寺見機一(留学生)・大岡金太郎(銅板研究のためロシア留学)の一行四人は、月夜の夜道を4時間半ほどタランタス(ロシア独特の有蓋旅行馬車)二台に分乗して疾駆し、819日午前1時ごろにクラスノヤルスクに到着した。手回しのいいことに、すでに、宿舎として巨商アクーロフの家が用意されていた。簡単な歓迎の宴が開かれ、寝たのは午前3時半ころだった。

 かなり疲れていたであろうに、その日の朝11時には、先ず「ウォスクルセンスキー寺を訪れてレザノフの墓」に詣でている。1804年、対日使節団長として開港を迫って来日したニコライ・レザーノフは、病を得て1807年にクラスノヤルスクで客死した。そして、1831年、墓のあったその地のヴォスクレセンスキー寺院にレザーノフ顕彰の大きな墓碑が立てられていた。(ソ連時代、ヴォスクレセンスキー寺院やレザーノフの墓などは破壊され、跡地はボリショイ演奏会場にされた。2007年、劇場前広場に、改めて、レザーノフを顕彰する広場が造られ、立像が建てられた。)

レザーノフ墓参後、クラスノヤルスク地方の「奉行長官」を訪問するが出張で不在。その後、「下奉行〔副長官」や市の警察署長ガムレツキなどと会談した。ハバロフスク管区警察署長クリンゲンベルクの妻児とも会い、花園(植物園のことか?)を見たり養蜂場を見物したりしてから、宿にしていたアクーロフの邸宅にいったん戻って昼食を済ませ、その後、榎本らがしばらく休息している間にクリンゲンベルクは砂金採取場へ行く準備をし、夕刻に馬車を率いて榎本らを迎えに来た。その後にウスペンスキー修道院へ行くまでのことは、「シベリア日記」にも記事がある。

 

5時クリンゲンベルグ氏馬車および食物の仕度して洗金場案内に来る。ここにおいて寺岡、大岡二生を連れて発す。市川子は病を以て辞す。これより市外を出づれば兵隊のバラックあり。隔日勤めにて六年間役を奉ず。カザックまた然りと云う。須臾(しゅゆ)にして〔=暫くして〕エニセイ河畔に傍()ひて行く。路筋は同河の左岸にして七、八丈水よりも高し。しかしてなほ峩々(がが)たる〔=峨々たる、険しく聳えた、あるいはギザギザに尖った〕フルハルデケレイ山〔=凝固粘土からできた山〕、高さ十丈〔約30m〕以上のものあり。この山脊(さんせき)を火薬にて砕き、しかして

二間半ばかりの歩頭〔=歩ける場所、つまり道〕となしたり。この道筋は〔クラスノヤルスク〕府より五ウョルスト〔ヴェルスター=露里、1ヴェルスター=1km強だから、5km強〕相距たるモナストリー(修道院)に通ふため、寺僧の築きしものにてすこぶる見るべし。エニセイ河の幅は約我が二丁余〔その頃の明治期では200m強〕にして流れすこぶる急にして水清し。」(2)

ダツィーシェン博士の指摘によれば、榎本が200mと記しているあたりのエニセイ河の川幅は800mほどあるそうである。こうした大きな食い違いは何によるのであろうか。

日記にある「モナストリー」とは、榎本が立ち寄ったウスペンスキー修道院である。修道院は、クラスノヤルスク市街地と同じくエニセイ河の左岸にあるので、そこまでは、修道僧たちが開いた道をたどってクリンゲンベルクが用意した馬車で行ったのであろう。夕暮れのエニセイ河の景観は実に美しかった。しばし榎本は、美しい景観に魅了された。

地図2(上の地図は、google mapを基に市崎が作成)

 

819日午後8時か9時ころまで修道院にいて、その後、修道院の近くにある船着場からクリンゲンベルクが手配しておいた舟(複数)に乗って、榎本とクリンゲンベルクたちは、対岸やや上流にあるオフシャンカ村に渡り、819日も夜遅くなって到着。そこに宿泊して、次の日のエニセイ河遡行に備えた。

(下:ビリュサー河の1910年ころの景観。ビリュサー河が、険しい山並みをえぐって流れていたことがうかがえる。)(3) 

Красноярск 1910 год

V() 820

 この日、オフシャンカからエニセイ河を舟で遡行し、かなりの時間をかけて、夕方にポルヤーノフ所有のトリョーフ・スビチーチェリ(三聖人)砂金採取場に着いた。舟がどういうものであったのかは分からないが、恐らくは人力で漕ぐ舟だったのではなかろうか。河を遡行するのにはかなり時間がかかったと思う。

 ポルヤーノフの砂金採取場は、「シベリア」新聞に依れば、クラスノヤルスクから60kmほど離れた所にあるそうであるが、どこにあるかは正確には分からない。ダツィーシェン博士が書いているところでは、オフシャンカの上流にある支流、ビリュサー川かオシノフスカヤ川の流域のどこかであるようである。いずれの川も、エニセイ河の左岸に流れ込む支流である。ビリュサー川はオシノフスカヤ川よりもさらに険しい山間をえぐって流れる川で、切り立つ山また山の川岸がつづく川であったようである。次ページの写真は、1910年ころのビリュサー川の景観を写したものであるが、榎本らが行ってから30年は経っているというのに、相変わらず険しい山々の間をえぐって流れている様子がうかがえる。

 この日は、夕方までかけてポルヤーノフの砂金採取場に行き、夜は採取場内に宿泊したであろう。

 

V() 821

 この日は、終日、榎本はじっくりと当時の新型機械を利用した砂金採取の様子を視察した。

 洗金の設備が水力を利用した比較的簡単な構造のものだったらしいということは、すでに述べたように、ブーチンスクで砂金採取場を視察したときの日記からうかがうことができる。そこの設備は「水もやや多きを以て水車にて働く。エニセイにて見たる仕掛けに均し。きわめてシンプルなり」と記されているのである。

一文飛ばしてさらに引用を続けると、「水車はボーヘンスラフラットにしてボチカ(樽)一個を動かせり。」と書かれている。「ボーヘンスラフラット」とは、オランダ語のbovenslagradであろう。すなわち、上部に(boven)水を当てて回転させるslag)車(rad)であって、頂部に上から水流を当てて水車を回す上射式の垂直型水車であったことがうかがえる。垂直式の(オランダ語で言う)水車waterradは、水を当てる仕方の違いにより、bovenslagrad〔上射式・上掛け水車〕、 middenslagrad〔中射式・胸掛水車〕, onderslagrad〔下射式・下掛水車〕に分類される。これらのうちの

最初のbovenslagradに属する型の水車であったのであろう(右   (下図:上射式水車)Bestand:Wasserrad oberschlaechtig meyers.pngの略図は、現在のオランダの或るサイトに紹介されている、粉ひき場で用いられている上射式の水車(bovenslagmolen)の駆動部分を

示している(4)。)

 さて、その水車は「ボチカ一個を動かせり」と榎本は書いている。「ボチカ」とはロシア語の«бочка»つまり「樽」であろうが、これは何であったのでろうか。形状から察する、樽型をした回転篩あるいは円筒槽のことであろう。これは、英語やオランダ語では「トロンメル(trommel)」と呼ばれるもので、粗洗鉱の設備である。当時のロシアでは、その形が似ているのでトロンメルではなくボチカ(樽)と呼ばれており、ポルヤーノフが榎本に説明する際にも「ボチカ」と呼んだのではなかろうか。(Trommelは、元はドイツ語で太鼓つまりドラムでhttp://www.e-goldprospecting.com/assets/images/plant02.JPGある。回転篩の形状がドラムに似ているので回転篩もTrommelと呼ばれるようになり、それが英語やオランダ語に輸入された。ロシアでは「ボチカ(樽)」にも似ているのでボチカと呼ばれるようになったのではないかと思われるが、手持ちの辞書類では確認できていない。インターネットでも検索してみたが、それらしいものにはヒットしなかった。)

「ボチカ」が「トロンメル」だとしたら、それは、小型のコンクリート・ミキサーのような樽型あるいはドラム型の成形された篩であって、やや斜めに据えて回転させ、その中に砂金を含む砂礫層から採取した粗採鉱石を入れて大きな岩石や砂利を取り除くものである。回転するボチカ(トロンメル)の中には同時に水を注ぎこんで、岩石や砂利を取り除いた砂金混じりの細かい鉱石を長くつなげた樋(英語でいうsluice box流し樋)に流し込む。その際、水量をうまく調節すると、比重の重い金を樋の途中に沈殿させて、不要な土砂は捨てることができる。前ページの図(5)に、現代のやや複雑なgold wash plantの構造を示しているが、榎本が観たトロンメルは、回転する部分がもっと簡単な形状をしていたであろう。しかし、構造的には似たようなものであったのではないだろうか。

要するに、上射式の水車を利用してトロンメルで粗洗鉱し、砂金を含んだ細かい土砂を水で流し樋に流し、砂金を沈殿させて採鉱する設備だったのではないかと思う。榎本の観察では、水車やボチカを利用したポルヤーノフ砂金採取場における砂金採取設備は、構造は簡単なのに比較的能率よく作業できるものだったのであろう。そこで榎本は感心し、「日本ではこうした機械が用いられているのを見たことがない」と感想を述べたのであろうと思われる。

 「シベリア」新聞には、その機械や設備の見取り図を誰かに書かせたように書かれていたが、誰に頼んだのかは分からない書き方をしていた(ダツィーシェン博士の論文に自分で書いたかのように述べている部分があるが、新聞から読み取れるのは、誰かに書いてくれるよう頼んだということである)。その見取り図は榎本の手に入ったのであろうか。また、今でも、どこかに残っているのであろうか。また、クラスノヤルスクを去る823日の朝、榎本に砂金洗鉱機械の模型が贈られるが、その模型は、この日、三聖人砂金採取場で見たものと同じだったのであろうか。また、その模型はどこかに残っているのであろうか。分からないことは多いが、ともあれ、砂金採鉱に大きな関心を持つとともに、当時の科学技術に造詣の深かった榎本武揚にとって、ポルヤーノフの砂金採取場の見学ができたこの日は、楽しい一日だったに違いない。

榎本は、終日、三聖人砂金採取場を視察。そして、この日もそこに宿泊したであろう。

 

V() 822

 三聖人砂金採取場からの帰りは、流れを下るということもあり、比較的楽なもので、短時間でクラスノヤルスクに戻ることができたであろう。ソスヌィあたりの船着き場に戻った榎本は、再びウスペンスキー修道院に寄って交誼を温めた後、クラスノヤルスク市内に戻った。

 頑健な榎本もポルヤーノフの三聖人砂金採取場の視察ではかなり疲れたであろうが、筆まめな榎本のことであるから、この視察についても、見聞したことを細かく記録し、いろいろな感想を書いたであろうが、残念ながら、その記録は紛失してしまったらしい。

 榎本らを三聖人砂金採取場へ案内したクリンゲンベルク警察署長は、大働きをした。馬車や舟あるいは宿泊の手配、ポルヤーノフへの連絡など、さぞ忙しかったであろう。そのためか、疲れて体が弱り、採取場で風邪をひいてしまった。最悪の体調でクラスノヤルスクに戻ったクリンゲンベルクは、帰宅するとすぐに床に伏せ、翌日は榎本らを見送りに行くこともできなかった。クリンゲンベルクは見送りに来なかったが、その手際のよい細やかな応接ぶりには榎本武揚も感激し、通訳をとおして何遍もクリンゲンベルクに謝意を伝えてくれと頼んだと報告書に書かれているが、多分、それは事実であろう。

 クラスノヤルスクの三聖人砂金採取場視察で榎本が支払った費用は22ルーブルであったと費用計算書に記してある(6)。当時の22ルーブルがどのくらいのものか分からないが、サンクト・ペテルブルグからモスクワまでの一等汽車料金が一人分でちょうど22ルーブリであると書かれている。ネルチンスクからブーチン所有のブーチンスク砂金場へ視察に行った際には、往復馬四疋と馭者代金に同じく22ルーブルと7コペイカ支払っている。クリンゲンベルク署長が借りてきた馬車や御者への代金、舟の借用料や船頭の賃金、食事代や砂金場での宿泊のことなどを考えると、クラスノヤルスク側もかなりの費用を負担して榎本武揚らに応接したのであるが、榎本もそれなりの負担をしたのであろう。

 

V() 823

 この日、砂金採取場視察の疲れを十分に癒す間もなく、榎本は朝7時には起床し、あちこちに暇乞いの挨拶をした後、十時半には宿を発ち、市内で写真を買ったりしてから、エニセイ河を渡った地点で送別の儀を受けて、十一時半に街道をカンスクに向かってクラスノヤルスクを去った(7)

 

 以上が、少々想像をまじえながらロシア側の資料などに基づいてうかがえる、818日夕刻から823日にかけてのクラスノヤルスクにおける榎本武揚の行動である。

 なお、榎本のシベリア旅行から8年後の1886年から1887年にかけて、榎本武揚の恩人とも言うべき黒田清隆も、反対回りでシベリアを横断し、さらに欧米を旅行している。榎本の影響もあったせいか、黒田もまたシベリアの金鉱業には大きな関心を懐いて、産出状況や金鉱業開発の歴史などについていろいろ調べているが、榎本武揚のような技術的な関心はなかったようである。

黒田は、188697日から8日にかけてクラスノヤルスクに滞在したが、7日の記事に「エニセイ河其〔クラスノヤルスクの〕側ヲ繞リ水運ノ便アリ人口一万四千餘アリ此ニテ近傍ノ沙金場を巡察スル筈ナリシカ近来此地方沙金の業稍衰ヘ且行路不便ナリト聞キ其事ヲ止メ馬車ニ小修治ヲ為スヲ以テ明日中ハ滞在スルコトニ定メタリ」(8)とあるように、初めは砂金採取場を視察する予定であったが、榎本とは反対に、その視察を取りやめている。榎本のときと同じように、相変わらず交通が不便だっただけでなく、この時すでにクラスノヤルスク近辺の砂金産出量は激減していたのである。榎本武揚は、クラスノヤルスクにおける砂金採掘が衰退しようとしていた時期にポルヤーノフの採取場を訪れていたことになる。ともあれ、同じく北海道の開拓に従事していた黒田清隆や榎本武揚が、同じく砂金採取に大きな関心を懐いていたということは興味深い。

 

V.の注:

(1)榎本武揚 シベリア日記』(講談社学術文庫版)p.81。榎本が「ブリュリ」と書いている所は、クリンゲンベルク警察署長の報告書にあるように、正しくは「イブリューリИбрюль」である。イブリューリ村は、街道沿い、現在クラスノヤルスク飛行場があるエメリャノーボ地区にある小村。

(2)榎本武揚 シベリア日記』講談社学術文庫版p.84

(3)「クラスノヤルスク1910Красноярск 1910)」というタイトルの写真集がインターネットに公開されている。そのうち、ビリュサー川を撮ったといわれるものが、この写真である。

http://www.savok.name/322-krasnoyarsk.html

(4)オランダ語のWikipedia: Watermolen (door water aangedreven molen)に掲載されている図。

(http://nl.wikipedia.org/wiki/Watermolen_(door_water_aangedreven_molen)#Bovenslagmolen)

(5)参照:http://images.google.co.jp/imglanding?imgurl=http://www.e-goldprospecting.com/assets

/images/plant02.JPG&imgrefurl=http://www.e-goldprospecting.com/html/gold_screen_wash_plants.html&usg=__oLfz3t46pUsK6py_RfQIvKFhR-Q%3D&h=397&w=500&sz=49&hl=ja&um=1&itbs=1&tbnid=w6LXQFg4mQPU2M:&tbnh=103&tbnw=130&prev=/images%3Fq%3Dtrommel%2BGold%26ndsp%3D18%26hl%3Dja%26lr%3D%26sa%3DN%26start%3D144%26um%3D1&q=trommel+Gold&ndsp=18&lr=&sa=N&start=148&um=1

(6)榎本武揚 シベリア日記』(講談社学術文庫版)p.219

(7)榎本武揚 シベリア日記』(講談社学術文庫版)p.86

(8)黒田清隆『環游日記』、発行所不明、明治201887p.218

 

W.ゴールド・ラッシュの時代:榎本武揚が生きた時代背景

ダツィーシェン博士の論文によって、榎本武揚の『シベリア日記』のうちで空白になっている、クラスノヤルスクの奥地での砂金採取場視察のことを書いた資料がロシア側にあることが分かり、博士が発掘した原資料などによってその様子を少し知ることができた。榎本が、忙しい日程なのに数日も脇道をしてポルヤーノフの砂金採取場を視察した理由ははきりとは分からないが、恐らくは、シベリアでも珍しい新式の機械が輸入されて使われているという話を聞いて、その新技術を是非学んでおきたいと思ったのではなかろうか。以上が、ダツィーシェン博士の論文やその発見資料などからうかがえたことである。

だが、さらに、どうして榎本武揚(や黒田清隆)が金鉱採掘に深い関心を懐いていたかという理由について考えてみよう。

第一に考えられるのは、金鉱採掘によって逼迫していた政府財政に寄与できるという思いのではないかということである。後述するように、当時は佐渡金山の金産出量は激減していたから、新たな金鉱が発見されれば大いに財政に寄与するはずだったのである。しかし、第二に、こうした思いや夢は、ひょっとしたら新たな金鉱が開発できるかも知れないという夢が持てた時代だったからこそ持てたのではなかろうか。榎本らが生きていた時代は、ちょうど「ゴールド・ラッシュ」の夢が生きていた時代だったのである。しかし、第三に、榎本武揚は、夢を夢として終わらせない、夢を現実のものにすることができる能力も持っていた。榎本は、鉱山学や採掘技術にも造詣の深い人物であった。こうしたことが、当時の有力な金産出国であったロシアの金採掘業に榎本らが大きな関心を持った背景をなしているのではなかろうか。

江戸幕府時代、オランダに派遣されて操船や動力機関を学んだ榎本であるが、化学や鉱工業、果ては国際法についても深く学んだ。明治期に、鉱山学や科学技術の知識も深い榎本のような政治家はひとりもいない。榎本は、正に「一種の全能人」(加茂儀一)(1)と評されるにふさわしい人物であった。北海道開拓使時代、特に炭坑開発に力を尽したが、金鉱を含むさまざまの鉱石の採掘可能性についても幅広く調査した。こういう榎本であったからこそ、シベリアにおいても特に砂金採掘業について格別の関心を持ったのである。こういう関心は、榎本が活躍した19世紀後半が「ゴールド・ラッシュ」の時代であったことを背景に育っていたのである。

 

W() ゴールド・ラッシュの時代

 米国では、1829年に小規模なゴールド・ラッシュがジョージア州内南アパラチア山脈で起こっているが、19世紀後半に世界のあちこちで起こる大規模なゴールド・ラッシュのさきがけをなしたのは、1848年に始まるカリフォルニア・ゴールド・ラッシュである(2)。これは、数十万人の人口移動をともなう空前の規模のものであった。カリフォルニアは、同じ1848年、ゴールド・ラッシュが起こる直前に米国がスペインに戦争までしかけて無理やり、ニューメキシコも含めて1500万ドルで譲渡させたばかりの土地であった。1849年、フォーティナイナーズ(Forty-Niners)と呼ばれる大量の移住者が大挙して押し寄せ、猛烈な砂金採掘を始めた。大量の金が採掘されるカリフォルニアを買った米国は、かなり得な買い物をしたわけである。しかし、米国にとっては幸運なカリフォルニア・ゴールド・ラッシュも、はやくも1852年に金採掘量はピークを迎え、以後は減少、1860年代半ばには激減してラッシュも終焉を迎える(3)。ラッシュの時期は、意外に短い。

カリフォルニアのゴールド・ラッシュをきっかけに、それ以後、北米の各地で、大小さまざまなゴールド・ラッシュが起こる。北ネヴァダ(1850年〜)、コロラド(1859年〜)、アイダホ(1960年〜)、南ダコタやワイオミング(1863年〜)などで起こったゴールド・ラッシュは、その例である。その後は、1867年に米国がロシアから格安で購入したアラスカで、これまた北米にとっては幸運なことに、大規模なアラスカ・ゴールドラッシュ(1898年〜)が起こるのであるが、アラスカ・ゴールド・ラッシュは、榎本のシベリア旅行(1878年)以後に起こったことである。

カリフォルニア・ゴールド・ラッシュに刺激されて、世界の各地でも金鉱探しが活発に行われ、規模の大きいゴールド・ラッシュがあちこちで起こった。オーストラリアでのゴールド・ラッシュ(1851年〜)においては、歴史に残る大きな金塊も発見されている。カナダでもブリティッシュ・コロンビアでゴールド・ラッシュ(1850年〜)が起こるが、1860年代には、さらにブリティッシュ・コロンビアの各地で広く砂金が発見され、ラッシュが広がる。それ以後にも、カナダでは、ユーコン河流域のクロンダイク・ゴールド・ラッシュ(1896年〜)も起こっている。

南米では、はやくも1690年代にブラジルでゴールド・ラッシュが起こったが、19世紀にはペルーやアルゼンチンでも起こる。

19世紀最後に起こったゴールド・ラッシュは南アフリカ(1896年〜)においてであるが、南アフリカの埋蔵量は豊富で、南アフリカ連邦は、今でも、世界屈指の金産出国である。

こうしてみると、榎本が活躍した19世紀後半が、正に「ゴールド・ラッシュの時代」だったことが分かるであろう。こういう時代に榎本は、1862年〜1867年にオランダで、視野を世界に広げて科学技術を学んでいた。黒田清隆の力により助命された榎本は、明治政府に使え、1872年〜1873年には開拓使として、奇しくも、幕臣時代から開拓すべき土地であると考えていた北海道で働いた。北海道では、炭坑や金鉱開発の可能性を探る体験をした。こうした体験をして、榎本武揚は(そして、黒田清隆も)、砂金採掘業への強い関心を強めていったのであろう。

それにまた、必ずしも財政豊かであったとは言えない明治初期の政府も、新たな金鉱が開発されることを願っていたことは確かである。かつて、日本では、奈良時代以降は陸奥でさかんに金の採掘が行なわれ、黄金の国ジパングの名がマルコ・ポーロによって西欧に伝えられ、さらに江戸時代には、金産出地が佐渡に移って、盛んに金採掘が行われた。しかし幕末には、佐渡金山の金採掘量も峠を越えていた。幕末においても、明治期になっても、佐渡に代わる新しい金鉱の開発が求められていたのである。榎本が、新開拓地である北海道で金鉱開発の可能性を探ったのも、こういう時代の要請があったからである。

榎本は、北海道における金鉱開発の可能性を信じていたが、夢はその後しだいに実現して、多くの金鉱山が開発されるようになり、一時期、北海道は日本の主要な産金地になった。(現在は、鹿児島の菱刈金山が日本で採取できる金のほとんどを産出している(4)。)

榎本武揚がオランダで科学技術を学び、日本で働いた時代は、世界のあちこちで「ゴールド・ラッシュ」が起こっていた時代の後半期だった。こういう時代だったからこそ、科学技術を学んだ榎本は、北海道でも金鉱が開発できるのではないかという夢も持つようになったと思われるのである。榎本武揚が亡くなったのは1908年であるが、榎本の働き盛りは、「ゴールド・ラッシュ」の時代であった十九世紀後半である。榎本は、奇しくも、ゴールド・ラッシュの時代に生まれ育ち、ゴールド・ラッシュの終わりとともに生涯を終えたのである。

確かに、二十世紀になってもアラスカ、カナダ、ブラジル、ペルーの各地で、また21世紀初頭にはモンゴル(2001年〜)でも埋蔵量の多い金鉱が発見されているが、榎本が活躍した十九世紀におけるゴールド・ラッシュほどの人々への影響力はない。十九世紀に蔓延した「黄金熱」は、ひろく多くの人々が一攫千金の夢を懐いて金鉱開発の夢を追って開発可能性のある土地に大挙して押し寄せる「ゴールド・ラッシュ」を生み出したが、この熱気もしだいに冷め、二十世紀には平熱に戻っていく。榎本武揚や黒田清隆が生きていた時代は、「ゴールド・ラッシュ」を引き起こす「黄金熱」がまだ冷めていない時代だった。この「ゴールド・ラッシュ」の時代は、エル・ドラドを求めて多くの人がさ迷うロマンの時代でもあった。

二十世紀になって「黄金熱」が急激に冷めたのには理由がある。「黄金熱」は、比較的簡単な採掘法で金が得られるという幸運な時代にだけ蔓延する「熱病」である。簡単な方法で砂金が採取できるような地層は、大量に押しかけた人々(ラッシュ)によってたちまち掘り尽くされてしまうのである。

二十世紀に優位を占めるのは、資本と労力を集中した大企業組織による高度の技術を駆使する採掘である。有史以来の世界全体の金産出量の総量は、2007年度現在で、十五万五千トン(155,000t)であると推定されている(5)が、「今までに産出されたすべての金の75%は、1910年以後に採取された」(6)そうである。つまり、現実には、多くの人々をとらえた「黄金熱」が冷めてから以後の金採掘量のほうが遥かに多いことになる。一攫千金を夢見る「黄金熱」という主観的な病いに侵された人々に依って引き起こされた「ゴールド・ラッシュ」は、実は、簡単な技術で黄金が採取することができた開発時代初期の特殊な現象だったのである。ともあれ、榎本武揚は、十九世紀の黄金への夢にあふれた「ゴールド・ラッシュ」の時代を生きていたのである。

 

W() シベリア・ゴールド・ラッシュ

 ロシアでは、十八世紀にウラルで金の採掘が始まっており(7)、十九世紀になってもウラルで多くの金が産出されていることは岩倉使節団の耳にも入っていた(8)。十九世紀には、シベリア地方でも砂金が発見され、カリフォルニア・ゴールド・ラッシュに比すべくもないが、多くの人が「黄金熱」にとりつかれてシベリア各地で金鉱床の開発と採取を行なうようになった。こうした「シベリア・ゴールド・ラッシュ」のお陰で、ロシアは、1840年には、全世界の金産出量の47%を生み出した(9)1819年〜1861年にシベリア地方で採掘された金は583トンにも及んでいる(10)。当時のロシアは、世界一の金産出国だったのである。(カリフォルニア・ゴールド・ラッシュにおける1848年〜1864年の十五年間の金採掘総量約1141トンに比べれば半分ほどしか産出していないが、当時としては圧倒的な量の金がロシアで採取されていたのである。)

 シベリア・ゴールド・ラッシュは、米国ジョージア州で1829年に起こったジョージア・ゴールド・ラッシュと同じ時期に始まっている(11)

 1828年、シベリアのトムスク県内スホーイ・ベリークリ川で、エゴール・レスノイが、シベリアで最初に金を見つけた。レスノイは発見を秘密にして組織的に採掘しようとはしなかったが、それとは別に、同じころ、アンドレイ・ヤコヴリェービッチ・ポポフとその甥フェロート・イヴァーノビッチ・ポポフとがシベリアで砂金の探索を始めており、同年秋ころには当局の認可を受けてベリークリ川で採掘を始めた。そして、1829年には25kgの採掘に成功、その後、ポポフらは、クラスノヤルスクを含むトムスク県周辺の地域にある川の流域にも採掘場をひろげ、1832年には120か所以上の採掘場を開いていたと言われる。ポポフらの成功を聞きつけ、1829年にはリヤザーノフらが会社を立ち上げて金採掘を始め、これも成功。こうしてシベリア・ゴールド・ラッシュが始まった。シベリアにおける砂金採掘は、しだいに東のほうに移り、1843年には東ザバイカル地方で、1863年には東ザバイカル地方でも金の採掘がなされるようになる。

1819年〜1861年にシベリアで採掘された金は583トンに及ぶという数字はすでに紹介したが、シベリアにおける1861年単年度の金採取量は17.5トンである。このうち、旧エニセイスク県における1828年〜1889年の採金量は511トンであったと、ラトキン(12)は述べている。うちエニセイスク地区内の産出量は428トンにものぼっていた。ただし、クラスノヤルスク地区の金産出量は90プードつまり1.5トンほどにすぎなかったというから、榎本が視察した採取場の規模もそれほど大きいものではなかったのであろう。しかも、すでに述べたように、黒田清隆が、榎本から8年後にクラスノヤルスクを訪れた時には、産出量がさらに減退していたのである。

 砂金採掘に関係してシベリアへ移ってきた人の数は、1838年にはエニセイスク県で約十万人に及んだ。シベリアで最初に砂金採取が行なわれたベリークリ川流域にはマリインスクという都市ができた。マリインスクの砂金採取場に約六千人の労働者が雇われていたが、うち五千人は流刑で移り住むようになった人々であったという。また、1835年には、ハバロフスクへも約六千人が移ってきた。クラスノヤルスクの隣りのカンスクでは、ガブリーラ・マシャーロフが大成功、「タイガ全域の帝王」と刻んだメダルを作り、「タイガのナポレオン」とも呼ばれていた。

 初めのころは砂金も採取しやすかった。砂金採掘が当たって「あぶく銭」を手に入れて「にわか成金」になる者もおおぜいいた。「あぶく銭」をまき散らす人々のために物価はあがり、クラスノヤルスクでは、ばくち・飲酒・売春などが横行、風紀が乱れた。しかし、容易な砂金採取も初期のうちだけのことでながくは続かない。1850年代や1860年代に砂金採取量が減りだすと、浪費が祟って破産する者がおおぜい現われた。

 砂金を含む砂鉱床の質は低下してしまったが、蒸気動力を利用した合理的な採取法を採用する企業家が現れ、1860年代の初めころに「(ゴールド・ラッシュの)第二の波」が始まった。シベリアにおける金採掘は、その後もしばらく盛んに行なわれるが、徐々に採取量は減り、1920年代には激減。しかし、採掘や採取技術の進歩にも支えられて、ロシアの金産出量は、今でも世界各国の上位(2006年度、2007年度で第6位)を占めている(13)

 シベリアが豊かな金産出地であることは、榎本がシベリアを実地踏査する数年前に、岩倉使節団もサンクト・ペテルブルグで耳にし、「(ロシアは)鉱産モ亦富メリ、中ニ就テ細白里(シベリア)ノ金鉱ハ、米ノ加利福尼(カリホーニヤ)ト、英領豪斯多辣利(オースタリヤ)ト、世界三大鉱の一タリ、又烏拉(ウラル)山脈ノ両側ニモ、黄金ト白金(プラチナ)トヲ出ス」と記録している(14)

 榎本武揚がシベリア旅行をした1878年は、ピークは過ぎたとはいえ、シベリア・ゴールド・ラッシュの余熱がまだ残っている時代であったのである。シベリアにおける砂金採集の様子について特に熱心に視察している榎本の関心は、こうした時代背景のもとに生まれたのである。

(なお、シベリアにおけるゴールド・ラッシュに弊害もあったことを黒田清隆は記録している。すなわち、「新知識、新技術ヲ顕出スル」という良い点もあったが、「風俗ヲ壊ルニ至り且人力金力ハ特ニ沙金ノ一點ニ蝟集シ其他ノ殖産業ハ之ガ為ニ閉塞スルノ患ヲ免レサリキ」(15)ということも起こったと指摘しているのである。この指摘は、榎本武揚には見られない鋭い見解である。)

 

W() 榎本武揚のみた砂金採取法

クラスノヤルスクのポルヤーノフの砂金採取場で榎本武揚がみた採取技術は、上射式水車を利用したものらしいことは、すでに述べたが、動力に水車を使用する砂金採取場は、クラスノヤルスクやブーチンスクだけにあったわけではない。極東に近いスレチェンスク近傍のウスクラ村付近には皇帝領の砂金採取場が四か所あり、そこでも「機械は六個にして共に水車を用ゆ」と榎本は記録している。だが、続けて「然れども水ははなはだ少なきを以て往々休業するときあり」とも記している(16)ように、ある程度の水量が利用できないと砂金の採取は困難である。

動力に水力ではなく蒸気力を用いる採取場もあった。ブーチンスクで水力を用いる採取場を視察したという記事につづいて、その2キロほど先に蒸気機関を動力に用いる所もあると、榎本は書いている。そこも榎本が視察したらしく、そこの様子を、「機関十五馬力にして、ボチカ(樽)は一なり。他の運動力に用ゆること多ければなり」と書いている(17)。また、アムール河畔のジェレジンスクの近くにも砂金採取場があり、そこのことを聞いてでは「水極めて少なきを以て蒸気機関を用ゆ」(18)と書いている。察するところ、水量さえ豊富なら、水力を利用したほうが経済的だったであろうが、しかし、水量の少ない地域では一部蒸気力を動力に用いざるをえなかったのであろう。一部の動力に蒸気機関を使ったとしても、洗鉱には水が絶対に必要である。ジェレジンスクのように水に恵まれない採取場では、「然れども全く水涸れのときは、休業すべからざるを以て、このときはトルフを取り除くに従事せしむ云々」と記されている(19)ように、水がなくては仕事にならなかったのである。

カリフォルニア・ゴールド・ラッシュのときは、数年間ですさまじい技術の進歩が起こった(20)

初めのころは、(1)「選鉱鍋」などを用いるパンニング(揺り皿法)という原始的なものであったが、すぐに(2)「クレードル」とか「ロッカー」とか呼ばれる大型の揺り選鉱器具が工夫され、また、(3)樋を長く連ねて大量の水を流して選鉱する「流し樋」を用いるようになる。さらに、(4)圧力をかけた水を用いて砂金を含む砂礫層を掘ると同時に選鉱する水力選鉱法が用いられるようになるが、大量の土砂を河川に流す水力選鉱法は川だけでなく海にも及ぶ環境破壊をもたらし、後に法律で禁止される。その後、(5)浚渫法も用いられた。

「砂金」ではなく、南アフリカにおけるように「金鉱石」を掘り出して金を採取する場合もある。この場合、水銀を用いるアマルガム法や、さらにコストの安い、シアン化ナトリウムやシアン化カルシウムを用いるシアン化法が用いられる。19世紀のシベリアでは、主に「砂金」の採取が行なわれていたが、しかし、榎本が最初にエカテリンブルグで訪れた砂金採取場では、品質がよくないせいか、洗鉱した金鉱をさらにアマルガム法で精製して金を採るという採金法が用いられていたようである(21)

カリフォルニア・ゴールド・ラッシュのすぐ後に始まるオーストラリア・ゴールド・ラッシュ(1851年〜)でも、似たような砂金採取技術の進歩があったであろう。榎本が視察したポルヤーノフの採取場での施設はオーストラリア製であったということであったが(22)、オーストラリアでも似たような技術の革新があり、そうした新技術の一つをポルヤーノフが導入したのであろう。

「ゴールド・ラッシュ」時代に生きていた榎本武揚がシベリアを旅行していたときには、シベリア・ゴールド・ラッシュの第二の波が押し寄せていた。手工業的な段階は終わり、水力や蒸気力を利用する機械仕掛けの採金法が用いられるようになりつつある時代であった。技術革新が少しずつ進んでいたのである。榎本は、ロシアにおけるこうした技術革新の様子を熱心に見てまわったのである。

 

W() シベリアにおける砂金採掘権の問題

 しかし、榎本武揚が留意したのは、砂金採取の技術や採取状況だけではない。明治期最良の行政官僚と言われるだけあって、「採取権」はどうなっているかという問題にも注意を向けている。これは、榎本の行政官としてのすぐれた資質を示す特色である。

『シベリア日記』から、このことを示す記事を拾ってみよう。

 

81日、ボルガ河での船の上での聞き書き)

「…前文ゲネラルの話に、魯領一般の鉱山は私有すると官より借用すると二類ありて、いづれも許可を得べく、しかして人大抵は借用を好む。その期限は九十九年を以てこの期を了ればまたまた延ばすを得べし。

 金銀二鉱だけは無税なれど、その礦=鉱は官に売らざるべからず。

 官にて買ひ上げの定価は、金一ゾロトク(約4.2グラム)を金貨三ルーブル五十コペーキの割合なり(ただしその金礦は官家舎密〔セイミ〕局にて調ふるなり)。」(23)

 

816日、マリンスクにて)

「金を洗う者は免状を得てしかる後にその開採の高に応じて若干税を納むると云う。もっとも採りたる金は一粉たりとも政府に売らざるべからずと云ふ。」(24)

 

819日、クラスノヤルスクでの聞き書き)

「カラスノヤルスク〔=クラスノヤルスク〕県内のみにて洗金場百八十ケ所あり。

 一、人民自身にて沙金などを見出だせしなり。他国人民も洗金の免許を得るなり。

 ・・・・・

 一、金を洗ふは別に税を出ださすことなし。シベリヤ一般然り。罪人にあらざる以上は何人も開採するを得るなり。

 洗金場二百七十サーゼン〔約580m〕の幅にて五ウョルスト〔約5km〕の間〔つまり約3km2にて毎年三百五十ルーブリの税を納めざるべからず。

 今年払ひて明年払はざるときは、コンフュスケーレン〔オランダ語のconfisqueeren没収する〕せらる。何人にてもこの免許を得るに敷金を何も出すに及ばず。

 右の通り納金の上は、何プードにても採るを得べし。」(25)

 

829日、イルクーツクにて。この日は、砂金のことを含め実に多くのことを書いている)

「沙金場は毎人、長さ五ウョルスト〔=5ヴェルスター=約5km、幅一ウョルスト半〔=1.5ヴェルスター=約1.5kmを所有し得るなり。これより小なるも随意なり。

 税はサーゼン〔1平方サージェン=約4.5〕に付き、十五コペーキの割なり。ヤクーツク領は最も沙金多し。

 ・・・・・

 シーウェルスの妻父は、現に七十五ケ所の洗金場あれども、洗ひ居るものは二ケ所なり。他所は採らざれども納税す。」(26)

 

 以上、榎本が、ユニークにも、鉱区の借地権や開発権という問題に着目しているという点から、その聞き書きを列挙してみた。しかし、どういう場合に借地権料や採掘税を払うのか、また、いくら払うのか、いろいろ書いてあるので整合的にまとめることはできない。税法は、地域によって異なっていたのかも知れない。誰に払うのかもよく分からない。こういうわけで、残念なことに、せっかく榎本が着目したユニークな問題ではあるが、当時のロシアの借地権や採取権がどのように保証されていたか、実態はよく分からない。しかしながら、鉱区の借地権や採掘権がどうなっているかという行政上の問題に着目している榎本武揚の姿勢には、注目すべきものがあると思われる。

(黒田清隆は、シベリアにおける金鉱業開発の歴史を略述するときに、同時に「沙金税」の変遷についても記している(27)。恐らくは、榎本の報告を聞いた黒田が、重要だが十分には調査できなかった問題があることを知り、シベリア旅行の機会に、何らかの文献に基づいて調べたのであろう。)

 

Wの注:

(1)加茂儀一『榎本武揚』(中公文庫版)p.535

(2)Encyclopaedia Britannica、平凡社『大百科事典』、小学館『日本大百科全書』、Wikipedia“Gold Rush”, “California Gold Rush” etc., LearnCalifornia.org.; ”California Gold Rush, 1848-1864”、その他、インターネットで読める情報に基づく。

(3)カリフォルニア・ゴールド・ラッシュにおいては、1848年〜1859年までの十年間の金採掘量は約883トンであったが、1860年〜1864年の五年間は258tに減り、それ以後は急速に減少する。

そもそもゴールド「ラッシュ」は、そう長続きしないものである。大量の人が押し寄せて、手工業的に一攫千金を夢見ることができる時間は短い。コストのかからない採取しやすい良質の鉱床は、たちまち採掘しつくされてしまう。後は、含有量の少ない金鉱床で操業しなければならなくなる。探鉱がむずかしくなり、採金効率が低くなるにつれて、個人や小規模な集団による効率のわるい方法では金採掘採算がとれなくなる。資本や労力を集約した、規模の大きい高度の採掘技術を使う会社でなければ操業できなくなるのである。こうして、世界じゅうに蔓延していた「黄金熱」は平熱に収まり、限られた会社でなければ金の採掘がつづけられない時代へと変わっていくのである。現在は、金だけでなく、同時に、金鉱に含まれる銀・白金・銅などを分別採取している所がほとんどである。また、逆に、銀・銅などの採掘の副産物として金を得ている所もある。

(4)MSN エンカルタ百科事典 ダイジェストによれば、今までの日本における総産金量は約千六百トンだそうである(http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_761570498_3/content.html):「日本の産金量は、奈良時代から安土桃山時代にかけて255t、江戸期に100t、明治初期から1980年代末にかけて1250t、合計1605tと推定される。古代から世界で採掘された金の総量は約10tと推定され、日本は世界の1.6%の金を産出したことになる。

(5)U.S.Geological Survey Minerals Yearbook—2007. Gold (Advance Release), September 2009. ibid. p.31.2

(6)Wikipedia: Gold (http://en.wikipedia.org/wiki/Gold)

(7)ウラルにおける金採掘の歴史の概要については、次のもの参照«К ИСТОРИИ ОТКРЫТИЯ ЗОЛОТА НА УРАЛЕ.» (http://book.uraic.ru/elib/Authors/korepanov/Sait3/GOLD.htm)

(8)久米邦武編・田中彰校注『特命全権大使 米欧回覧実記(四)』(岩波文庫、1980年)p.25

(9)«Золотые прииски Сибири» (http://www.worldofgold.ru/nature/goldinrussia/siberia.htm)参照。この数字は、ロシアにおける金産出量が「1840年には世界全体の47%もあったが、カリフォルニア、オーストラリア、南アフリカなどで埋蔵量豊かな金鉱山が発見されてからは、20世紀初めには7%ほどになってしまった」という文脈の中で述べられているものである。また、19世紀を中心とする1752年〜1917年のロシアにおける金総産出量は2,800t以上であり、これは世界全体の12.5%を占めるとも記されている。

10 «Золотая лихорадка в Сибири»(Википедия)による。原文には「35587プード」と記しているので、1プード=16.38kgとして換算すると583トンになる。

11)以下の「シベリア・ゴールド・ラッシュ」の概要は、主に、注(8)«Золотая лихорадка в Сибири»(Википедия)に依る。注(6)«Золотые прииски Сибири»およびНиколай Васильевич Латкин (1833 - 1904)の署名のある«Енисейские золотые прииск»という論文 (http://gatchina3000.ru/brockhaus-and-efron-encyclopedic-dictionary/039/39236.htm)も参照。

12)上記«Енисейские золотые прииск»に依る。

13U.S.Geological Survey Minerals Yearbook—2007. Gold (Advance Release), September 2009.

に依ると、現在の世界における金産出状況は、次ページの表のとおりである同書p.31.15-p.31.16)。

ながらく南アフリカ連邦の金産出量は世界一であったが、徐々に減少しはじめ、2007年度には、トップの座を中国に譲っている。ロシアの金産出量は、2006年度(159t)も2007年度(157t)も世界第6位である。今なおロシアは、日本とは比べ物にならない世界屈指の金産出国でありつづけているのである。(日本の金産出量は、両年度とも、各9tほどにすぎない。

国別金産出量上位五か国(産出量の単位はt〔トン〕、小数点以下は四捨五入)

 

1

2位

3位

4位

5位

世界全体

2006年度

南ア272t

米国252t

オーストラリア247t

中国245t

ペルー203t

2,370t

2007年度

中国275t

南ア252t

オーストラリア246t

米国238t

ペルー170t

2,340t

14久米邦武編・田中彰校注『特命全権大使 米欧回覧実記岩波文庫、1980p.30

15黒田清隆『環游日記』(上)、p.182

16『榎本武揚 シベリア日記』p.141

17『榎本武揚 シベリア日記』p.133

18『榎本武揚 シベリア日記』p.148

19『榎本武揚 シベリア日記』p.148

20Wikipedia“California Gold Rush””Gold Mining”に依る。

21『榎本武揚 シベリア日記』p.4850

22)Wの注(2)(3)で触れたディヴノゴルスクの地方誌の記事を信ずれば、の話である。

23『榎本武揚 シベリア日記』p.37

24『榎本武揚 シベリア日記』p.79

25『榎本武揚 シベリア日記』p.85

26『榎本武揚 シベリア日記』p.102-103。「一サーゼン(約二・一メートル)」と注しているが、ここは面積を示すサージェン(2.13m×2.13m4.52)としておく。

27黒田清隆『環游日記』p.179--190

 

結びと追記:

(1)結び

以上、榎本武揚の「シベリア日記」のクラスノヤルスクにおける三日分の記事の空白を埋めながら、「クラスノヤルスクの榎本武揚」の様子を明らかにするというささやかな作業をした。こうした作業をするきっかけになったのは、「おろしゃ会 会報」(第15号)に掲載されたダツィーシェン博士のロシア語論文「シベリアにおける榎本武揚」であるが、さらには、博士が発掘されたロシア側の資料があったのでこうした作業ができたのである。

忙しい日程のうちで三日も費やしてクラスノヤルスク奥地の砂金採取場の視察に行こうと決意した動機は何だったのかという点については、今のところ、「ディヴノゴルスク」誌の記事に基づいて、シベリアでも珍しい新しい砂金採取設備が用いられている採取場があるという情報に強く好奇心をそそられて決意したのであろうと想像するしかないように思われる。

だが、こうした決意も、もともと榎本が金採掘業にも強い関心を持っていなければ起こり得なかったであろう。この関心は、榎本が「ゴールド・ラッシュの時代」に生きていたことからいわば自然に身についていたものであろうが、ロシア赴任直前まで北海道開拓使として炭坑や金鉱の開発可能性などを調査していた榎本は、佐渡に代わる新たな金鉱が開発できれば、必ずしも豊かではない政府の財政に大いに寄与するであろうし、国益に資することになるという思いを懐き、このために金採掘業への関心がますます強いものになっていたのではないかと想像する。こうして強く育った関心は、ロシアに赴任してからも忘れられることはなかった。クラスノヤルスクにおいて、苦労してでも新技術が使われている奥地の砂金採取場を視察しようと決意した心理的動機は、こうした関心を懐きつづけた榎本だから持ちえたものなのではなかろうか。国益を願い求める、すぐれた行政官としての榎本武揚は、金鉱区の借地権や採取権の問題にもしっかりと目を向けていた。

作業の結果は、ポルヤーノフの砂金採取場を視察したという事実を除けば、いずれも想像や推測にすぎないことばかりであるのは残念だが、榎本武揚自身の証言を読むことができない以上、仕方がないことである。

 

(2)追記:「シベリア日記」を書いた本来の意図との関わり

 以上のことは、榎本武揚が「シベリア日記」を記した本来の意図とどう関わるであろうか。

榎本がロシアからの帰途にシベリア旅行をしようとした動機については、妻たつ宛て書簡に書かれている文言、すなわち、(1)過度にロシアを恐れる「日本人の臆病を覚」すことにあるという言葉が引かれて説明されるのが普通である。しかし、その後には、(2)そのために「実地を経て一部の書をあらはし候心組」であるとも書いており、(3)「日本政府もひたすら此事を望み居り候。山県陸軍卿等に頗るここに注意いたし居り候は、尤もの事と存じられ候」と続けている(1)

つまり榎本は、ロシアは恐ろしい国なのではないかと臆病になっている日本人たちに、無闇にロシアを恐れることはないと諭す本を書く意図を持っており、こういう本を書くための「実地」の見聞をするためにシベリア旅行をしたのである。そして、実地に見聞したことを「シベリア日記」に詳しく記録したのである。つまり、「シベリア日記」は、ロシアに対して臆病になる必要はないと諭す著書を書くための材料集めだったのでもある。また、日本政府も、国防上からも、外交上からも、親ロシア派の榎本がどういう見解を示すか注目していたであろうが、しかし、残念なことに、こういう書は書かれなかった。書かれなくとも、榎本は政府に何らかの報告をしていたであろうが、どういう報告をしたかということは、さらに調べてみないと分からない。

加茂儀一氏に依れば、「樺太千島交換条約」締結交渉に当たった榎本への世論の風当たりが強かったためか、榎本は「帰朝してもロシヤにおける自分の行動に関しては遠慮して語らなかった」(2)とのことである。書く「心組み」であった書も出されなかったが、私的なメモである「シベリア日記」も公刊する意思も全くなかったようである(3)。したがって、ロシアを榎本武揚がどのようにとらえ、対ロシアの外交や国防についてどのように考えていたか、残念ながら、分からない。もしロシアに一定の理解を示していた榎本が著書を仕上げていたならば、ロシアに対して警戒の気持ちを強く持っていた山県有朋の対ロシア観にある程度の影響を与えることができ、山県の国防観も違ったものになったかも知れない。そうなれば、その後の日本の進む方向も変わったものになっていたかも知れないと思うと、実に惜しいことである。

榎本武揚がロシアで仕事をした数年前、岩倉使節団もロシアを視察している。使節団が視察したのはサンクト・ペテルブルグだけにすぎないし、僅かな期間に限られた視察をしたり、聞き書きをしたりしたにすぎないが、久米邦武は『米欧回覧実記』でロシアに関して明確な断定をしている。すなわち、米英以上にロシアを「畏憚(イフ)」するのは「妄想」であると言うのである(4)。いわゆる「虎狼心ヲ持テ露国を憚ルノ妄想」(5)は捨てるべきであるとしたのである。もっとも、久米の断定の理由は、「ロシアだけが特別恐いわけではない。イギリスもフランスも他国侵略や植民地化の野望を持っているのであるし、英仏と友好関係を結べるのなら、ロシアとだって友好を結べないはずはない」というような理屈のようである。すなわち、「若シ其親睦ヲ持テ相交レハ、欧州各国ミナ兄弟」になれるのであり、レザーノフ来訪のショック(や「フヴォストフ事件」)から受けた恐怖心が残っているからといって、他国侵略の野望を持つ英仏以上にロシアを恐れるいわれはないと考えていたのである(6)

 日本人には、ロシアに対して、(1)同じく人間として親しく対等の交わりができるはずだという、恐らくは大黒屋光太夫も懐いたであろう親しみの気持ちを持つ人と、(2)「フヴォストフ事件」以来の、ロシアは恐ろしい国だと思う気持ちとを持つ人がいる。いや、むしろ、そういうアンビヴァレントな気持ちを日本人たち誰でもが持ち続けているのかも知れない。榎本武揚は、どちらかというと、ダツィーシェン博士も書いていたように、親ロ友好の気持ちを強く持っており、日ロの友好関係を促進したいという願いを持っていたように思われるが、こういう気持ちを持つ日本人がおおぜいいたら、明治期の対ロシア関係は少し違うものになっていたかも知れない。

 「シベリア日記」を読む限りでは、確かに、ロシアは平和で、特に軍事的に日本に脅威を与えるような国には思えない。しかし、榎本の旅は、榎本に好意を持ったロシア皇帝や政府の温かい援助のある、実に恵まれたものだったのであり、南京虫の攻撃を除けば、当時の旅としては快適なものだったのである。中央政府からの通達もあって、榎本はどこでも歓待され、ていねいな応接を受け、身の安全は守られていた。こうして恵まれた状況のうちで旅行していたせいか、榎本は嫌な経験を全くしていない。しかし、逆に、「シベリア日記」を読んでも、「フヴォストフ事件」以来の日本人の「ロシア・コンプレックス」(7)を癒すだけの力を持つような経験をしているようにも思えない。久米邦武は彼なりの論拠で恐露心を捨てよと説いたが、榎本武揚が意図した「日本人のロシアへの臆病な心」を正そうとした「心組」の論拠となるものは、いったい何だったのであろうか。榎本武揚が、過度にロシアを恐れる「日本人の臆病を覚」す書を書き残してくれなかったのは、返すがえすも残念なことである。

ダツィーシェン博士のお陰で「クラスノヤルスクの榎本武揚」の行動をいささか明らかにすることができた。「シベリア日記」全体をとおして、榎本武揚にとってロシアは、学ぶことの多い国であると感じていたことがうかがえる。こうした気持ちは、ロシアを恐るべき国と思う心からは生まれないであろう。クラスノヤルスクの奥地にある砂金採取場を三日もかけて視察したのも、親しみあるロシアから学ぶべきものが多くあると思っている気持ちがあればこそであろうと思う。

だが、確かに、榎本が本来めざしていたはずの、ロシアへの臆病な恐れの気持ちを捨て去るよう日本人を説得するというねらいを実現する強力な論拠となりうるものは何であったのかという問題は、未だに残ったままである(8)

 

追記の注:

(1)『榎本武揚 シベリア日記』第三部における「妻たつ宛」書簡参照。同書p.295-296.

(2)加茂儀一『榎本武揚』(中公文庫)、p.533

(3) 私的な「シベリア日記」はながく秘せられていたが、榎本の死後16年を経た1924年(大正13年)、関東大震災で住居が倒壊した際に、偶然発見されたと言う。榎本の意志を推して、それからも長らく秘されていたが、1939年(昭和14年)になって、『シベリヤ日記』という表題で初めて非売品として小部数印刷され、また、1943年(昭和18年)になってやっと一般書として公刊された。そのときの表題は広瀬彦太編・榎本武揚記『西比利亜日記附渡蘭日記』であったが、戦時下ということもあり、あまり注目されなかった(加茂儀一『榎本武揚』中公文庫、p.533-534)。しかし、2008年に講談社学術文庫として刊行されて、やっと、一般に広く読むことができるようになったのである。

(4)久米邦武編・田中彰校注『特命全権大使 米欧回覧実記(四)』(岩波文庫、1980年)p.106-110参照。

(5)久米邦武編・田中彰校注『特命全権大使 米欧回覧実記(四)』(岩波文庫、1980年)p.109

(6)久米邦武編・田中彰校注『特命全権大使 米欧回覧実記(四)』(岩波文庫、1980年)p.110

(7)志水速雄『日本人のロシア・コンプレックス』中公新書、昭和59年。

(8)本稿脱稿後、2009127日付けの「中日新聞」(夕刊)によれば、日露戦争が回避できたかも知れない日ロ同盟案がロシア側から提起されていたのに、日本政府はそれを無視したという、和田春樹教授による新資料発見の報道がなされた。日露戦争前、ロシアは日本を追い詰めるような提案ばかりをしていたわけではないということが分かったのである。ロシアを恐れる気持ちが強くなければ、こういう提案も戦争回避の方途として考慮する余裕を日本は持てたであろうが、疑心暗鬼の日本は、戦争をしなければ事態は打開できないと思いつめてしまったのかも知れない。日本人の対ロ観に影響を与えたかも知れない著書を榎本が書き残さなかったのは、歴史的にも、実に残念なことである。

(以上、2009129日改稿)

 

付属資料:ダツィーシェン博士の論文と博士が発掘した資料など

1.T(2)В.Г.ダツィーシェン「シベリアの日本人たち」(ロシア語原文の抜粋)

2.U(1):クラスノヤルスク管区警察署長の報告書(ロシア語原文)

3.U(2):榎本のことを報じた新聞「シベリア」の記事(ロシア語原文)

4.U(3)カシヤーノフ司祭の記録(ロシア語原文)

5.U(4):「ディヴノゴルスクの文化」誌の記事:「シベリアのゴールド・ラッシュ」

 

1.T(2):В.Г.ダツィーシェン「シベリアの日本人たち」抜粋

 

Японцы в Сибири, «Япония сегодня» 2001 1, стр. 2-3

....................

  Новое «открытие» японцами Сибири, а сибиряками японцев связано с именем адмирала Эномото Такэаки, назначенного в начале 70-х гг. на пост первого Полномочного посланника в Санкт-Петербурге. В 1875 г. японский посланник подписал с А. М. Горчаковым трактат, снявший территориальные проблемы в отношениях между двумя странами. Это был первый равноправный договор Японии с европейской страной.

Эномото прожил в Санкт-Петербурге более 4 лет, он пользовался большим уважением среди российской интеллигенции, водил дружбу с известными учеными и деятелями искусств России. Посланник являлся убежденным сторонником японо-российской дружбы и сотрудничества. Для того чтобы еще раз убедиться в том, что Россия не угрожает Японии, как думали многие японцы, он решил сам проехать через всю Сибирь и подробнее познакомиться с северными соседями. Российское правительство пошло навстречу пожеланиям Эномото и разрешило ему вернуться домой через Сибирь. Местным властям было отправлено указание оказывать японскому путешественнику всяческое содействие, обеспечить его охраной и всем необходимым.

По пути Эномото Такэаки сделал остановку в Красноярске. Целый день адмирал подробно осматривал золотопромышленные работы, изучал устройство машин. Газета «Сибирь», освещавшая поездку Эномото, отмечала: «Самый же способ промывки золота до того, говорят, понравился ему своею простотою и незатейливостью (!), что при отъезде своем с приисков он велел снять подробнейший план всех технических приспособлений и выразил сожаление, что его соотечественники до сих пор еще не знакомы с простейшим средством, употребляемым для промывки золота». В октябре 1878 г. Эномото Такэаки, проехав всю Сибирь, аернулся в Токио.

..........................                              В. Дацышен, к. и. н., г. Красноярск

 

.U(1):クラスノヤルスク管区警察署長の報告書(原文)

Архивное Агентство Администрации Красноярского края (АААКК). Фонд 595. Опись 1. Дело 5702.     クラスノヤルスク地方行政文書保管所(АААКК).

文書番号Фонд 595. Опись 1. Дело 5702.) 現代の正字法に直してある

Донесение Красноярского окружного исправника Енисейскому гражданскому губернатору «О проезде Японского посланника» от 13 августа 1878 г.

 

«Во исполнение предписания от 19 июля за 9062 имею честь донести, что Японский посланник Вице-Адмирал Эномото Такиаки проследовал через вверенный мне округ благополучно 11 числа настоящего месяца. При этом имею честь доложить, что при самой встрече, обедая со мной на станции Ибрюльской посланник узнав, что в ведении моем имеются золотые прииски, высказал желание осмотреть их, почему по приезду посланника в Красноярск того же 6 числа сего Августа месяца, я немедленно распорядился приготовлением необходимых для проезда на прииск лодок и, под вечер 7-го Августа, проводил посланника с его свитой до деревни Овсянский, где имели ночлег, утром же 8-го числа отплыли далее и того же 8 числа прибыли на Трех-Святительский прииск г. Полуянова. Все девятое число, с утра посланник посвятил подробному осмотру золотопромышленных работ и устройству золотопромывательной машины и, 10 утром отправился обратно в г. Красноярск. К сожалению накануне я простудился на прииске, так слег в постель, и поэтому не мог проводить посланника до границы Канского округа, а потому и поручил исполнить это моему Помощнику.

Считаю долгом присовокупить, что Вице-Адмиралъ Эномото Такиаки, как пребыванием в Красноярском Округе, так и в г. Красноярске остался вполне доволен, что неоднократно выражал мне через переводчика».

Окружной исправник (подпись).

 

3.U(2)榎本のことを報じた新聞「シベリア」の記事原文

資料(2):Еженедельная Газета «Сибирь», выходит по воскресеньям

35. 24 Сентября 1878 года            現代の正字法に直してある

«Иногородныя»

Красноярск. На днях, проездом в свое отечество, посетил нас японский посланник. По приезде в город, он пожелал познакомиться с нашим приисковым делом, для чего отправился на ближайшие прииска г. Полуянова, находящиеся в 60-ти верстах от города, на левом берегу р. Енисея. Туда и обратно, по неимению коннаго пути, гость ехал в лодке; говорят, он был очарован видами гористых берегов Енисея. Самый же способ промывки золота до того, говорят, понравился ему своею простотою и незатейливостью(!), что, при отезде своем с приисков, он велел снять подробнейший план всех технических приспособлений и выразил сожаление, что его соотчественники до сих пор еще на знакомы с простейшими средствами, употребляемыми для промывки золота (*). Гость пробыл на приисках г. Полуянова двое суток и остался весьма доволен оказаным ему приёмом. Впрочем, к чести г. Полуянова надо сказать, что в то время, как другие ревниво оберегают свои прииска от глаз посторонних наблюдателей, он весьма любезно дает возможность всякому, интересующемуся приисковым делом, ближе и во всех подробностях познакомиться с разработкою его на самом месте. Всякий посторонний наблюдатель, даже и незысокопоставленный, встретит на приисках г. Полуянова самый радушный прием и самое обязательное внимание к своему любопытству. Понятное дело: где дело идет, как говорится, начистоту, там нечего и бояться постороннего глаза.

 

4.カシヤーノフ司祭の記録(抜粋)

Красноярский краеведческий музей. Отдел фондов. 9132/ ПН (р) 493. Л.967

12 Суббота. Утро и день хороший… Японский посланник - дважды был в монастыре, доволен Сибирью, видами гор около Красноярска и Квасом, коим подчивал  его Эконом Зосима, коего дал ему бутылку, и он еще попросил его. Этот посланник и полномочный министр Адмирал Энотото Токеаки и с ним секретарь Ицикава. 15 Июля были в Москве а 7 го Авг. в Красноярске.

 

5.「ディヴノゴルスクの文化」誌「シベリアのゴールド・ラッシュ」原文

(http://www.divkylt.ru/divnogorsk/ancient)

«Золотая лихорадка»

В середине ХIХ века Енисейский край охватила «золотая лихорадка». Нашли золото и у Дивных гор. Самым удачливым оказался золотопромышленник Полуянов.

На приисках речек Осиновой и Бирюсы он намывал до 16 пудов золота в год. На Трех-Святительском прииске Полуянов использовал технику, специальную машину, выписанную из Австралии. Это было так необычно для Сибири, что в 1878 году первый японский вице-адмирал Эномото Такэаки, проезжая через Красноярск, специально завернул на прииск Полуянова ознакомиться с работой машины. Но к концу века запасы золота исчерпались, хотя старатели-одиночки еще долго искали в этих местах по берегам горных рек свое Эльдорадо.