おろしゃ会会報 第16その8

2010年3月29日

 

特別寄稿

坂 の 下 の 泥

 

偽ピョートル3世

 

 

「おろしや会」のみなさま、はじめまして。

 私は、加藤先生がかつて教鞭をとられていた中学・高校で、先生に地理・歴史の教えを受けた者です。その縁で、今回、つまらぬ駄文を(皆様のお目汚しかとおそれつつ)寄稿させていただくことになりました。あまり「ロシア」とは関係のないことを書きますが、何卒ご宥恕賜りますよう、あらかじめお願いいたします。

 

私が歴史というものに関心を持つようになって、かれこれ三十五年ほど経ちます(その間、中学・高校時代の日本史・世界史の先生方にはたいへんお世話になったと思います。)

その関心は、しかし、馬齢を重ねるにつれ、その意味内容がかなり違ってきたように思います。

子供の頃は、単純に歴史上の人物名や事件名を覚え、知識を増やすことが楽しみであり、他の人が知らないことを俺は知っているぜ、という(今から思えば甚だ幼稚な)自慢めいた気持ちがありました。そして、その結果として、試験でいい成績をとるという「実益」もありました。

しかし、大人になってからは、新しい知識を得ることもさることながら――まだまだ自分の知らないことはあまりにも多く、己の持っている知識の浅薄さに、時として絶望的な気持ちになることもしばしばですが――どちらかというと、今まで知っていた(と思っていた)ことについて、見方・考え方を変えることで、歴史上の人物の評価や事件の意義がまったく違って見えてくるということに、知的な喜びを感じるようになってきました。

まあ、そのようになったことについては、今の私の仕事上、歴史上の人物とやらに関する知識がほとんど役に立たないという「現実的」な背景もありますが。早い話が、アッシリア国王エサルハドンなんて名前を知っていても、給料があがるわけではないということです。(「松永安左エ門」「平岩外四」に関する伝記的(電気的?)事実に詳しければ、少しは仕事で使えるかもしれませんし、最近なら、「秋山兄弟」「龍馬」について語れればちょっとした話題づくりにはなりましょう・・・)

具体的な例はいくつかありますが、身近なところでは、個人的に面識のある、東大の小島毅氏の一連の著作など、既存の東洋史や日本史に関する理解がいかに固定観念もしくは無意識の前提にとらわれているものであったかを考えるきっかけになっています。たとえば、宋代儒学史は朱子によって大成された、というような言説は、朱子学を正統とする立場から後付けで語られたものであって、歴史的事実とは違うということも、同氏にご教示いただいたことです。

固定観念、あるいは無意識の前提として特に私が自戒をこめて取り上げたいことの一つは、発展や進歩(と考えられる事象)が基本的に是とされ、それを推進する者には高い価値が与えられ、そうでない人々は「守旧派」「反動」、あるいは「抵抗勢力」などと捉えられることが多いけれども、そのような評価は一面的なものでしかないのではないか、ということです。

この文章の読み手の皆さんはどうお考えかわかりませんが、私は、たとえば、日本について、細かいところはさておき、巨視的に見れば、江戸時代よりは明治憲法時代のほうが、明治よりは現代のほうが、いろいろな意味で「よい時代」になっているのだと考えており、ロシア(やっと出てきた)についても帝政時代やソヴィエト時代よりは現代のほうが暮らしやすくなっているのではないか、と漠然と理解しております。大雑把にいえば、歴史の過程の中で、政治や社会のしくみ、科学技術等々が発展・進歩してきたことにより人々の生活が向上してきたと考えています。したがって、そのような過程を促進した結果をもたらした人々に高い評価を与えがちです。勝手ながら、おそらくは他の多くの人もこの感覚はお持ちなのではないかと思います。

 しかし、現代の我々が発展とか進歩として認識している出来事は、そもそも、最初からそうなるべくしてなったものなのでしょうか。実は(よく言われることではありますが)、歴史は勝者によって綴られ、その結果が発展・進歩として称揚されたのではないかと疑ってかかるべきではないでしょうか。

 あたかも、勝者は勝つべくして勝ち、敗者は敗れるべくして敗れたかのように語られ、時には、道義的な善悪の色までつけられて、敗れ去った者は悪、勝者は正義を体現するかのように述べられることもありますが、そこには後付けの理屈が潜んでいるかもしれないと警戒しなくてはならないということです。

このことは、言い換えれば、安易に物事を図式化したり、「善玉vs悪玉」史観に陥ったりしないようにしたいということです。

 中学生や高校生が学ぶ歴史の中では、物事を大づかみに理解する(あるいは「理解させる」)ために、二項(場合によっては三項)対立的な図解がよく行われていると思います。”ジロンド派vs山岳派”、“ボルシェヴィキvsメンシェヴィキ”、等々、枚挙に暇がなく、私も大学受験の時に作ったノートにそのような図解を山のように書き込んでおりました。

 そういう図表は、たしかに、複雑に入り組んだ歴史の流れや人々の動きをあえて捨象することによって、概略を把握するときには有効だと思います。しかし、現実の人の行動はそれほど綺麗に図式的に割り切れるものではなく、かえって現実の理解をゆがめることもあるのではないでしょうか。特に、そのような簡略化されたイメージが、善悪とか進歩/後退、正統派(嫡流)/異端派(傍流)というような、特定の価値観に結びついて、ある人(あるいは、国・党派)は善玉、それと対立する人(国・党派)は悪玉、とするのは、的確な歴史認識からはほど遠いフィクションを作り上げるだけに終わってしまうことになると私は考えています。

もちろん、歴史を書いたり読んだりするという作業は、単なる事実の羅列・集積ではなく、書き手・読み手の価値観から完全には無縁でありえないので、ある程度まではバイアスが生じるおそれはあるでしょう。私自身のことを申せば、1945年以降に日本で生まれ育った(たぶん多数派の)日本人の一人として、日本国憲法の掲げる人権尊重主義や平和主義、民主主義などといったものを大切にしていきたいという気持ちがあり、また、人権尊重のコロラリーとして、人種・民族・身分や階級の差から生じる不平等や差別、あるいは植民地支配には反対したいと考えており、そういう視点で歴史を眺め、人物や党派を評価してしまう傾向にあります。たとえば、ヒトラーについては悪人と言ってさしつかえないのではないかという気持ちはありますし、(「おろしや」に関連する人物としては)スターリンについても、かなりネガティヴなイメージしか持っておりません。しかし、そのような事例も否定できませんが、人は善にも悪にもなりうる存在であり、一個人においてそうであれば、国とか党派・勢力ということであればなおさらだと思います。

私はけして共産主義者ではありませんが、19世紀から20世紀にかけてのロシアにおける革命運動は、ツァーリズム専制国家への反抗として肯定的に考えています。しかし、その革命が成就した後にできた、労働者・農民の解放を目指していたはずの党が支配した国家は、大テロルとか、ハンガリーやチェコスロヴァキアの改革を押しつぶしたことなどを考慮するならば、到底共感することはできません。(中国についても同様です)

あるいは、すべての人は平等に創造されたと宣言した国は、20世紀には日本に「進駐」してデモクラシーを教えたけれども、かの国でも人種差別、先住民迫害があったことなどをどう考えるか、ということです。

 こういうことを述べたからといって、私は、「共産主義者のやつら」や「シナ人」「白人たち」を悪し様に批判し、(それらに比べて)「大日本帝国は悪くなかったのだ」というような言説に与するものではありません。歴史を知り、語るという行為は、安直に過去の人々に(善玉・悪玉というような)評価を下すことはではなく、人間の持つ多面性に思いを致し、「地獄への道」と「善意」の逆説的な関係を直視し解明する、言ってみれば面倒な作業ということになりましょう。しかし、それこそが、「歴史上の人物」名を記憶することなどより、はるかに知的に意義深いことなのだと思います。

 日本の近現代史に関する「ウヨク」「サヨク」の対立について言えば、私は、広い意味の「サヨク」であり、戦前の日本国、あるいは日本軍の行為の多くについては、基本的には、植民地支配、あるいは侵略戦争として批判的にとらえるべきものと認識しておりますが、どうも問題が善悪の観点だけから議論されすぎており、しかも、オール・オア・ナシング的な議論に陥っていて、「ウヨク」の人々はもちろん、「サヨク」のみなさんも、冷静に歴史を見つめることができていないような気がしております。

(ちょっと偉そうかな?)

 「不惑」はとうに過ぎたにもかかわらず、自分自身の未熟さ・不完全さを思うと、神のごとく――最近は「上から目線」というようですが――過去の出来事に評価をくだすようなゴーマンは厳に戒めたいという気持ちを抱いています。特に、「人」を語るのは難しいとの思いを強くしております。

 ピョートル3世といえば、ロシア史上まれに見る愚帝で、嫁さんに国を奪われた情けない奴というのが通り相場でしょう。特に、プロイセン王フリードリヒ2世を追い詰めていた七年戦争から手を引いて、勝ち戦をみすみす逃したというのが史上の評価を落としているようです。

(徳川家定、唐の高宗、この文章の筆者と並んで“世界四大「さえない亭主」”と言われているそうです。)

が、このピョートル3世という人は北ドイツのホルシュタイン出身らしく、子供のいないエリザヴェータ女帝の跡継ぎにさせられたようで、ロシアの皇帝というよりドイツの領主という自意識のほうが強かったのではないか、そういう人が、プロイセンに親近感を覚えて戦いを止めたというのがそれほど非難に値するものなのか、そもそも、戦に勝って国の領土を広げればよい君主で、負ければ駄目なのか、というようなことをつらつら考えてみたのです。あるいは、本当に言われるほど暗愚だったのか、という疑問もあります。(家定だって、『篤姫』のお話の中では、実は・・・という設定だったし)

会社でも家でもうだつのあがらない中年オヤジとしては、華々しい栄光に満ち溢れた名君・名将、大政治家を讃えるだけでなく、凡人とか愚者と言われている人々にも目を向けていきたいと考えているところです。 

天上の雲を見上げて前進する英雄的な人々の姿だけではなく、その足下のぬかるみにも注意していくことも「歴史」を考えるうえで大切なのではないか、などと思う今日この頃です。

 

 

卒業しました!

 

ドイツ学科の東さん(中央)と日置先生(左:先生もこの春、定年でご退職です。)

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スペイン学科の池さん(右)とお友達

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ドイツ・ウクライナの旅

 

 

愛知県立大学外国語学部ドイツ学科 東あすか

 

 卒業論文の提出と口頭試問が無事終わり、学生生活最後の旅行先に私は迷わずドイツへ、と決めていました。これでドイツに滞在するのは3回目となります。ドイツは、私にとって大好きな国の一つです。お世話になった知人の住まいがある数か所の都市を巡りました。その途中で、語学留学時期に出会ったウクライナ出身の友達と都合があったので、その友達を目指して、ウクライナに入国しました。その話をすると、大抵の人は、なんでウクライナに?と決まって私に聞いてきました。確かにその通りかもしれません。しかし、私にとってはごく自然な選択であったと思います。語学留学時期に親しくなった友人には、ロシア語を母語とする人が多く、私は帰国後に授業でロシア語を受講していましたし、これを機会に一つでも多くの国に足を運ぶことができるのだから、とても嬉しく思っていました。

 実際にウクライナに入国してみると、まだまだ寒く雪も積もっていました。車はそのため泥雪の汚れだらけでした。天候もそれほど良くなく、辺り一面、灰色の印象です。しかし、キリル文字で飾られた看板や、すれ違うウクライナの女性、常に聞こえてくるロシア語によって、どんどんウクライナの世界に入り込んで行きました。彼女も家族とそれ以外と、いろいろな場面、状況でロシア語と母語であるウクライナ語を使い分けているようでした。私にはその感覚がとても不思議で、また大変興味深いことでした。

 大学のロシア語授業では、正直に言いますと、覚えるのが大変ですごく難しい言語だという印象ばかりでしたが、現地で文字が読めたり、あいさつ程度ですがロシア語を話している自分がいたりと、たった数日間でしたが、いろいろ吸収できたと思います。

 私の世話をしてくれたウクライナの友達は、ドイツ語もできますが、イタリア語の方が得意で、イタリアの家具をウクライナで売る会社の通訳業をしています。なぜ、イタリア語が得意なのかは、チェルノブイリのあの原発事故が関係しているようでした。事故発生の数年後に生まれた彼女は、子どもたちの健康回復を目的とするプログラムで、幼少期の毎年夏、イタリアの家族のもとでホームステイしていたそうです。イタリア語を本格的に学びだしたのはその後で、毎年繰り返しイタリアに滞在することで自然に言語が身についていったそうです。

 私が泊めてもらった部屋というのも、ホテルのような豪華な家具がそろった高層マンションの一室でした。その部屋は、かつて彼女の父親が戦争に従事していたため、若くして結婚する時に政府から無償で与えられたものだそうです。今は、その部屋を貸し出し、収入の一部にしているとのことでした。たまたま今は空き部屋で、私の滞在中はそこへ、とご家族の方が協力してくださいました。

 観光としては戦争博物館へ行ったり、とても貴重な体験をしました。しかしながら、残念なことにウクライナの歴史というものにほとんど無知だった私は、彼女に対する感謝の気持ちが溢れると共に、もう一度その歴史をぜひ調べ直したいと思いました。

 4月からは地元の会社で働きます。今まで大学生活で学んできた物事を決して失いたくはありません。これからも、一生青春・一生勉強という気持ちで、心機一転頑張りたいと思います。そのためにも、最後にこのように良い旅ができたことを幸せに思いますし、上手く気持ちを切り替えるための思い出にできたと思います。

 おろしゃ会の活動を通して、おいしい本格的なロシア料理をいただいたり、またボルシチの販売をお手伝いできたり、多くは参加することができませんでしたが、鮮明な思い出がたくさんできました。ロシア語の授業でお世話になりました加藤先生、半谷先生、そしてスベトラーナ先生、おろしゃ会メンバーのみなさん、本当にありがとうございました。私なりに、ドイツ・ロシア・そしてウクライナへのアンテナをこれからも、いつまでも張り続け、勉強を続けていきます。

 

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