おろしゃ会会報 第17その2

2011年2月2日

 

【県大の授業から】

 

ロシア語中級

トルストイ「三匹の熊」を訳す

 

半谷史郎

 

 ロシアの作家レフ・トルストイは、2010年が没後百年の記念の年でした。ドストエフスキーとならぶ文豪として名前は知っているでしょうが、実際に読んだ人はどれくらいいるでしょうか。

 かたやドストエフスキーは、亀山新訳がきっかけで時ならぬベストセラーになり、社会現象としても大きく取り上げられました(亀山先生の2008年の本学講演会も大盛況でした)。一方トルストイはというと、同じく21世紀に入って新訳もたくさん出ているのですが、さほど注目されることなく、没後百年も地味な扱いにとどまった印象があります。

 このように同じロシアの文豪でも今では少し存在感の薄いトルストイですが、歴史的に見ると、明治後半から大正時代にかけては、現代のドストエフスキー・ブームも色褪せる、圧倒的な影響力を持つ作家でした。

 「トルストイの一言一句、一挙手一投足が日本で話題の種となった」(平凡社世界大百科事典)と言います。トルストイの暮すロシアの片田舎ヤースナヤ・ポリャーナまで、数カ月の旅路をものともせず、わざわざ足を運んだ崇拝者もいれば(『不如帰』の徳冨蘆花や、小西増太郎)、トルストイの唱えた理想の生き方(隣人愛、素朴な農村生活、暴力否定の無抵抗主義)に共鳴し、実生活をこれで律しようとしたトルストイ主義者も現れました。白樺派の作家の武者小路実篤が宮崎県の辺境につくった「新しき村」や、日露戦争の際の非戦論のように、日本の近代史に大きな痕跡を残した例もあります。

 

 2010年度後期のロシア語中級の授業は、こういう口上ではじまりました。

 初級の壁が高いロシア語ですが、一年半も勉強を続ければ文法も一通り終わり、辞書を引きつつ長い読み物に挑戦する段階になってきます。教える側からすると、それまでの制約が取れて選択の自由が広まる分、何を読むか悩ましくもあるのですが、2010年度はすんなり決まりました。没後百年のトルストイ、日本人にも親しまれてきたこのロシアの大作家に敬意を表して、トルストイを読む。子供向けの読み物で、広く知られた作品なら「三匹の熊」だろう、というわけです。

 

 授業では、結局7回かけて「三匹の熊」を読みました。後期の時間枠の半分強をこの作品に充てたことになります。もっと早くすますこともできたとは思いますが、文法事項を復習したり(具体的な文脈の中で文法事項を整理しなおすのは中級の大事な課題です)、文章が醸し出すイメージを考えたり、はたまた顔ぶれが揃うのを待つ間(授業は木曜1限なので冬は覿面に遅刻欠席が増える)それまで読んだところの再訳や要約をやらせたりと、あちこち寄り道しながらの講読でした。

 結果として一つの作品をじっくり丁寧に読み込むことになりました。これだけじっくり文章と向き合うのは、学生にはおそらく初めての経験だったと思います。倦み疲れて嫌になる一方で、普段気づかない発見もあったはずです。

 昔お金がなくて時間があった頃、東京へ行くのに、新幹線ではなく高速バスをよく使っていました。その時、車窓の風景が新幹線よりくっきり印象に残るので驚いた覚えがあります。これに倣って言うなら、今回の「三匹の熊」の講読は、東京まで歩いて行ったようなもので、快適とは対極の旅だったでしょうが、ロシア語や文章そのものについて深く考えるきっかけになったと思っています。

 

 このように深くつきあった作品なので、はじめは予定になかったのですが、訳読のもう一つ上を行く試みとして、翻訳に挑戦してもらいました。

 ここで言う翻訳とは、単語を一つずつ日本語に置き換え、何となく意味が取れる文章にしてお茶を濁すことではありません。そうした曖昧な文章ではなく、読むだけで著者の言わんとすることが気分や感情まで鮮明に伝わってくる日本語の文章を綴ることです。徹底的に文章を読み込まないと出来ないことですが、それだけの下準備は授業で整っていると判断しました。

 

 翻訳実習は、こういう手順で進めました。

(1)あと一回で講読が終わりという時に、訳文の提出を指示。

(2)作品を読み終わったあと、朱入れして直した訳文を返却し、翻訳の注意点を説明(出版されている邦訳4点を比べて、訳者の工夫の跡に気づかせる)。

(3)この朱入れと説明をもとに訳文を最後まで完成させる。

(4)提出された訳文を小冊子に印刷。「三匹の熊」のロシア語絵本から拝借したラチョフの挿絵も加えて簡易絵本をつくり、学生に返却。

 

 以下に、特に優れた翻訳をつくってくれた三人の作品を紹介します。どの訳文も、「三匹の熊」のお話の世界に読み手を引き込んでいく素晴らしい出来栄えです。

日本文化学部 歴史文化学科2年

長島未来訳


三匹(さんびき)のくま

 ある(おんな)()(いえ)をでて(もり)へいきました。(もり)(おんな)()(みち)にまよい、かえり(みち)をさがしはじめましたが()つからず、(もり)のなかで(ちい)さな(いえ)にたどりつきました。

 (いえ)のとびらは()けっぱなしになっていて、(おんな)()はそのとびらをじっと()ていましたが、(いえ)にだれもいないようなので、なかに(はい)りました。この(いえ)には三匹(さんびき)のくまが()んでいました。一匹目(いっぴきめ)のくまはお(とう)さんぐまで、なまえはミハイル・イワノヴィチといいます。(おお)きくて毛深(けぶか)いくまでした。もう一匹(いっぴき)はお(かあ)さんぐまでした。お(かあ)さんぐまはお(とう)さんぐまよりもう(すこ)(ちい)さく、なまえはナスターシャ・ペトローブナといいます。三匹目(さんびきめ)(ちい)さいこぐまで、なまえはミシュートカといいます。くまたちは(いえ)にいませんでした。なぜならくまたちは(もり)のなかを(さん)()にいっていたからです。

 (いえ)には(ふた)つの部屋(へや)がありました。(ひと)つはごはんを()べるための部屋(へや)で、もう(ひと)つは()るための部屋(へや)でした。(おんな)()はごはんを()べるための部屋(へや)(はい)り、そこには穀物(こくもつ)のスープの(はい)った(みっ)つのお(さら)がありました。(ひと)()のお(さら)はとても(おお)きく、ミハイル・イワノヴィチのものでした。また、(ふた)()のお(さら)(ひと)()のお(さら)よりもう(すこ)(ちい)さく、ナスターシャ・ペトローブナのものでした。さらに(みっ)()のお(さら)(あお)いお(さら)で、ミシュートカのものでした。それぞれのお(さら)(ちか)くにスプーンが()いてありました。(おお)きいスプーン、(ちゅう)くらいのスプーン、(ちい)さいスプーンがありました。

 (おんな)()一番(いちばん)(おお)きなスプーンを()()り、一番(いちばん)(おお)きなお(さら)からスープを()んでみました。それから(ちゅう)くらいのスプーンを()()り、(ちゅう)くらいのお(さら)からスープを()んでみました。それから(ちい)さいスプーンを()()り、(あお)いお(さら)からスープを()んでみました。(おんな)()にはミシュートカのスープが一番(いちばん)おいしいように(おも)えました。

 (おんな)()(すわ)りたくなり、(あた)りを()てみると、(つくえ)のそばに(みっ)つの椅子(いす)がありました(ひと)()(おお)きな椅子(いす)はミハイル・イワノヴィチのもので、もう(すこ)(ちい)さい(ふた)()椅子(いす)は、ナスターシャ・ペトローブナのもので、(みっ)()の小さな、(あお)いクッションが()いてある椅子(いす)はミシュートカのものでした。(おんな)()(おお)きい椅子(いす)によじ(のぼ)りはじめましたが、()ちてしまいました。つぎに(ちゅう)くらいの椅子(いす)(すわ)ってみましたが、(すわ)りごこちが()くありませんでした。さいごに、(おんな)()(ちい)さい椅子(いす)(すわ)り、(わら)いだしました。なぜならその椅子(いす)一番(いちばん)気持(きも)()かったからです。(おんな)()(あお)いお(さら)()に取ってひざの(うえ)()くと、()べはじめました。穀物(こくもつ)のスープをすべて()み、椅子(いす)(すわ)りながらぶらぶらと()れはじめました。

 すると椅子(いす)がこわれて(おんな)()(ゆか)()ちてしまいました。(おんな)()()ちあがって椅子(いす)()こし、もうひとつの部屋(へや)へいきました。そこには(みっ)つのベッドがありました。(ひと)()のベッドは(おお)きく、ミハイル・イワノヴィチのもので、もうひとつの(ちゅう)くらいのベッドはナスターシャ・ペトローブナのもので、(みっ)()(ちい)さいベッドはミシュートカのものでした。(おんな)()(おお)きいベッドに(よこ)になりましたが、(おんな)()には(おお)きすぎました。また、(ちゅう)くらいのベッドに(よこ)になりましたが(たか)すぎました。さいごに(ちい)さいベッドに(よこ)になると、ベッドは(おんな)()のために(つく)ったみたいにぴったりでした。(おんな)()(ねむ)りにつきました。

 そのころくまがお(なか)をすかせて(いえ)へかえってきて、お(ひる)ごはんを()べようとしました。

 (おお)きいくまはお(さら)()り、お(さら)()ると(おそ)ろしい(こえ)でほえはじめました。

「だれがおれの(さら)()べたんだ?」

 ナスターシャ・ペトローブナはお(さら)()て、(おお)きいくまほど(おお)きな(こえ)でなくうなりはじめました。

「だれが(わたし)のお(さら)から()べたの?」

ミシュートカは自分(じぶん)(から)のお(さら)()て、か(ぼそ)(こえ)でうなりました。

「だれが(ぼく)のお(さら)()をつけて、ぜんぶ()んじゃったの?」

 ミハイル・イワノヴィチは自分(じぶん)椅子(いす)()て、(おそ)ろしい(こえ)でうなりはじめました。

「だれがおれの椅子(いす)(すわ)り、もとあった場所(ばしょ)から移動(いどう)したんだ?」

 ナスターシャ・ペトローブナは自分(じぶん)椅子(いす)をちらりと()て、それほど(おお)きくない(こえ)でうなりはじめました。

「だれが(わたし)椅子(いす)(すわ)り、もとあった場所(ばしょ)から移動(いどう)したの?」

 ミシュートカは(こわ)れた椅子(いす)()て、よわよわしい(こえ)でうなりました。

「だれが(ぼく)椅子(いす)(すわ)って、(こわ)してしまったの?」

 くまたちはもう一つの部屋(へや)へいきました。

「だれがおれのふとんに(よこ)になり、しわくちゃにしたんだ?」

 ミハイル・イワノヴィチは(おそ)ろしい(こえ)でほえはじめました。

「だれが(わたし)のふとんに(よこ)になり、しわくちゃにしたの?」

 ナスターシャ・ペトローブナはそれほど(おお)きくない(こえ)でうなりはじめました。

 ミシュートカはベッドのそばに(こし)かけをおき、ベッドによじ(のぼ)り、か(ぼそ)(こえ)でうなりはじめました。

「だれがベッドに()たの?」

 そして、ミシュートカは(おも)いもかけず(おんな)()()て、あたかもさすような甲高い(こえ)()いはじめました。

「この()だ!つかまえて、つかまえて!この()だ!まったくもう!つかまえて!」

 ミシュートカは(おんな)()にかみつこうとしました。

 (おんな)()()()け、くまたちを()て、一目散(いちもくさん)(まど)にむかいました。(まど)()いていて、(おんな)()(まど)から()びだし、にげだしました。そしてくまたちは(おんな)()()いつけませんでした。

 

3匹のくま

教育福祉学部社会福祉学科2

加藤歩訳

 

 ある女の子が家から出て森に向かいました。森で女の子は迷ってしまいました。家に帰る道を探し始めますが、やっぱり見つけられません。しかし女の子はその代わりに、森でかわいらしい小屋にたどり着きました。

 ドアが開いていたので、女の子はドアの中を覗いてみました。どうやら小屋には誰もいないようだったので女の子は家に入ってみました。さて、この小屋には3匹のくまが住んでいました。1匹目のくまはお父さんで、ミハイル・イワノヴィッチという名前でした。大きく毛むくじゃらです。2匹目のくまはメスのくまで、ナスターシャ・ペトローブナ。3匹目のくまは小さなくまで、ミシュートカという名前です。くまたちはこの時小屋にいませんでした。彼らは森に散歩に行っていたのです。

 この小屋には2つの部屋がありました。1つはご飯を食べる部屋で、もう1つは寝る部屋です。女の子はご飯を食べる部屋に入り、机の上にあるスープの入った3枚のお皿を見つけました。1枚目のお皿はとても大きく、ミハイル・イワノヴィッチのもの。2枚目のお皿はもう少し小さく、ナスターシャ・ペトローブナのもので、3枚目の青くて小さなお皿、これはミシュートカのものでした。それぞれのお皿のそばには、大きなスプーンと、中くらいのスプーンと、小さなスプーンが置いてありました。

 女の子は1番大きなスプーンを持って1番大きなお皿からスープを少し飲んでみました。次に中くらいのスプーンを持って中くらいのお皿からスープを少し飲んでみて、そのあとに小さなスプーンを持って青い小さなお皿からスープを少し飲んでみました。女の子にはミシュートカのスープがその中で1番おいしいように感じました。

 女の子は座りたくなりました。すると机の近くにある椅子が目に入りました。1つ目の大きな椅子はミハイル・イワノヴィッチのもの。2つ目の中くらいの椅子はナスターシャ・ペトローブナのもので、3つ目の小さく青いクッションがある椅子はミシュートカのものでした。女の子は大きな椅子によじ登ろうとして落っこちました。次に中くらいの椅子に座ってみましたが座り心地がよくありません。そのあとに女の子は小さな椅子に座ってみました。そして笑い出しました。小さな椅子はとても座り心地がよかったのです。女の子は青い小さなお皿を手に取って膝に置き、スープを飲み始めました。そしてスープを飲み終わると、女の子は椅子に座ってゆらゆらして遊び始めました。

 そのうち椅子は壊れてしまい、女の子は床に倒れました。女の子は立ち上がって椅子を起こし、もう1つの部屋へ行きました。そこには3つのベッドがありました。1つ目の大きなベッドはミハイル・イワノヴィッチノもの。2つ目の中くらいのベッドはナスターシャ・ペトローブナのもので、3つ目の小さなベッドはミシュートカのものでした。女の子は大きなベッドに寝転がってみましたが、広すぎました。次に中くらいのベッドに寝転がってみましたが、こんどは高すぎました。そのあとに女の子は小さいベッドに寝転がってみました。このベッドは女の子のために作られたようにぴったりだったので、女の子はそのまま眠ってしまいました。

 さて、くまたちが家に帰ってきました。おなかがすいて、ごはんを食べたいと思っていました。

 大きいくまはお皿を持ちじっと見て、恐ろしい大きな声でうなりました。

「誰がおれの皿からスープを飲んだんだ?」

 ナスターシャ・ペトローブナは自分のお皿をしげしげと見て、それほど大きくない声でうなりました。

「誰が私のお皿からスープを飲んだのかしら?」

 そしてミシュートカは空になった小さなお皿を見て、ぴーぴー言いました。

「誰がぼくのお皿からスープを飲んで、全部飲んじゃったの?」

 ミハイル・イワノヴィッチは自分の椅子をじっと見て、恐ろしい声でうなりました。

「誰がおれの椅子に座って場所を動かしたんだ?」

 ナスターシャ・ペトローブナは自分の椅子をじっと見て、それほど大きくない声でうなりました。

「誰が私の椅子に座って場所を動かしたのかしら?」

 そしてミシュートカは自分の壊れた小さな椅子をじっと見て、ぴーぴー言いました。

「誰がぼくの椅子に座って、壊しちゃったの?」

 くまたちはもう1つの部屋へ行きました。

 「誰がおれのベッドに寝転んでしわくちゃにしたんだ?」

ミハイル・イワノヴィッチは恐ろしい声でうなりました。

 「誰が私のベッドで寝転んでしわくちゃにしたのかしら?」

ナスターシャ・ペトローブナはそれほど大きくない声でうなりました。

 そしてミシュートカはというと、下にベンチを置いてよじ登り、ベッドを見てぴーぴー言いました。

「誰がぼくのベッドで寝転んだの?」

 そしてベッドを見たミシュートカは思いがけず女の子を見つけ、火がついたように騒ぎ始めました。

「ほら、見て!捕まえて、捕まえてよ!ほら、ここだよ!やーこわい!捕まえて!」

 ミシュートカは女の子にかみつこうとしました。

 女の子は目を開き、くまたちを見ました。そして窓のほうに全力で走りました。窓が開いていたので窓に向かって走り、女の子はそのまま逃げてしまいました。くまたちは追いつくことができませんでしたとさ。おしまい。

 

三匹のくま

   レフ・トルストイ作

 

日本文化学部 国語国文学科2年

塚本七布訳

 

 

 ある女の子が家から森へ出かけました。森の中で女の子は道に迷ってしまい家へ帰る道を探そうとしましたが、見つけることはできませんでした。そのかわりに森の中で小さな家を見つけました。

 家のドアは開いたままになっていました。女の子はじっとドアを見てみると、どうやら中には誰もいないようなので、家の中へ入ることにしました。この小さい家には三匹のくまが住んでいました。一匹目は大きくて毛がふさふさとした父さんぐまのミハイロ・イワーノヴィチ。二匹目は少し小さい母さんぐまのナスターシヤ・ペトローヴナ。三匹目はちっちゃい小ぐまのミシュートカです。くまたちは家にいないで、森を散歩しに出かけていました。

 家の中には二つの部屋があって、一つは食堂、もう一つは寝室でした。女の子は食堂に入ってみると、机の上にスープの入った三つの茶碗を見つけました。一つ目はミハイロ・イワーノヴィチのとても大きな茶碗。二つ目はナスターシヤ・ペトローヴナの少し小さな茶碗。三つ目はミシュートカの青い色の茶碗です。三つの茶碗のそばにはそれぞれ大きいスプーン、中くらいのスプーン、小さいスプーンが置いてありました。

 女の子は一番大きなスプーンをつかんで、一番大きな茶碗から少し飲みました。それから中くらいのスプーンをつかんで、中くらいの茶碗から少し飲みました。最後にちっちゃなスプーンをつかんで、青い色の茶碗から少し飲みました。女の子はミシュートカのスープがこの中で一番おいしいと思いました。

 腰を下ろそうと思った女の子は、机の近くに三つの椅子を見つけました。一つ目はミハイロ・イワーノヴィチの大きな椅子。二つ目はナスターシヤ・ペトローヴナの少し小さな椅子。三つ目はミシュートカの青い色のクッションがついた椅子です。女の子は大きな椅子によじ登ろうしましたが、途中で落ちてしまいました。それから中くらいの椅子に座ってみましたが、なんだか座り心地が良くありませんでした。最後にちっちゃな椅子に座ってみると、女の子は笑い出しました。ふかふかと気持ち良かったのです。女の子は青い色の茶碗を手に取ると、両膝に置いて飲み始めました。スープをすべて飲んでしまうと椅子にもたれて、ぎいこぎいこと揺すりました。

 椅子が壊れて、女の子は床の上に落ちてしまいました。女の子は立ちあがると椅子を起こして、もう一つの部屋へ向かいました。そこには三つのベッドがありました。一つ目はミハイロ・イワーノヴィチの大きなベッド。二つ目はナスターシヤ・ペトローヴナの中くらいのベッド。三つ目はミシュートカの小さなベッドです。女の子は大きなベッドに横になってみましたが、大きすぎるようでした。それから中くらいのベッドに横になってみましたが、背が高すぎるようでした。最後にちっちゃなベッドに横になってみると、女の子のために作ってもらったようにぴったりと合っていて、そのまま寝てしまいました。

 一方、お腹をすかせたくまたちは、お昼を食べようと家に帰ってきました。

 大きなくまは茶碗をつかんで眼をやると、恐ろしい声で吠え出しました。

「おれの茶碗に手をつけたやつはだれだ」

ナスターシヤ・ペトローヴナは自分の茶碗をまじまじと見て、少し小さい声で唸り出しました。

「わたしの茶碗に手をつけたのはだれ」

ミシュートカは自分の空になった茶碗をながめて、か細い鳴き声をあげました。

「ぼくの茶碗に手をつけて、全部食べてしまったのはだれなの」

ミハイロ・イワーノヴィチは自分の椅子を見て、恐ろしい声で吠えました。

「おれの椅子に座って、いつもある所から動かしたやつはだれだ」

ナスターシヤ・ペトローヴナは自分の椅子を見て、少し小さい声で唸りました。

「わたしの椅子に座って、いつもある所から動かしたのはだれ」

ミシュートカは自分の壊れた椅子を見て、か細い鳴き声をあげました。

「ぼくの椅子に座って、壊してしまったのはだれなの」

くまたちはもう一つの部屋に入りました。

「おれの布団に横になってしわくちゃにしたやつはだれだ」

 ミハイロ・イワーノヴィチは恐ろしい声で吠えました。

「わたしの布団に横になってしわくちゃにしたのはだれ」

 ナスターシヤ・ペトローヴナは少し小さい声で唸りました。

 ミシュートカは腰かけをそばへ寄せてベッドによじ登ると、か細い鳴き声をあげました。

「ぼくの布団に横になったのはだれなの」

と、そのときミシュートカが女の子を見つけて、斬り付けられたかのような鋭い金切り声で叫びました。

「この子がやったんだ!捕まえて、捕まえて!ほら、この子だよ!ああもう、とにかく捕まえるんだ!」

 ミシュートカは女の子を噛みついてやりたいと思いました。

 騒ぎに目を覚ますと、女の子はくまたちを見つけ、窓のほうへ駆け出しました。窓は開いたままになっていたので、女の子は窓を飛び出て、走って逃げていきました。くまたちは女の子に追いつくことはできませんでした。

おしまい

ロシア研究(1) 

―学生のレポート紹介―

半谷史郎

 

 2010年度に、外国語学部3〜4年生向けに通年で「ロシア研究1」の講義をしました。ロシアの近現代史を、ピョートル大帝の18世紀初めからプーチン&メドヴェージェフの21世紀初めまで、一年かけて話す授業です。

 講義は、悪戦苦闘の連続でした。ロシア史の通年の講義が初めてなら、ロシア専科でない人に講義をするのも初めて。おまけに何の間違いか学生が殺到し(登録者は前期が72人、後期が76人)、4月の初回の授業は、慌てて変更した大教室でも人いきれでむせ返っている始末(出席者はだんだん減って、年度末は十数人でしたが)。講義に入ってからも、当然の常識を実はうまく説明できないのに気づいて勉強しなおしたり、頭の中の読書の貯金を取り崩したりの自転車操業。完走と同時にゴールにへたりこむマラソンランナーよろしく、自分自身の未熟さを痛感させられました。

 多人数の講義だと一方的に話すだけになりがちなので、出欠確認の代わりに、いつも最後に短い感想文を書いてもらいましたが、これが授業にある種のリズムを与えてくれました。教える側には理解の確認に、教わる側には疑問の解消に役立ちます。講義とは直接関係なくても、ロシアについての素朴な質問は、授業の話題を広げる刺激になりました。突拍子も無い質問も飛び出して、こちらも楽しかったです(一番の傑作は「どうやったらスパイになれますか」)。

 この講義は学生が「近くて遠い隣人」ロシアに興味関心を持ってもらうきっかけと位置づけていたので、知識や理解を問う試験はせず、前後期ともに、自分の関心でロシアに関する本を読み、その内容を要約するレポートを課しました。

 以下に、後期のレポートの中から、特に優秀だった七点を紹介します。拙さや荒削りな面があっても、自分なりに本と対話して考えを深める様子が伝わってくるものを高く評価しました。これまで縁遠かったロシアを視野に入れることで新たに見えてきた世界の広がりや面白さが、十分に伝わってくる力作ぞろいだと思っています。

 

 

加藤あゆ美

(外国語学部ドイツ学科3年)

 

『幻のロシア絵本1920-30年代』(淡交社、2004年)

 

 

 私は、納屋嘉人さんの『幻のロシア絵本1920-30年代』(淡交社、2004年)という本を読んだ。1910年代1930年代初頭までのロシア帝国・ソヴィエト連邦において、絵本は重要な役割を持っていたようだということを授業の中で感じた。一見政治とは無関係のように思える絵本が、時代背景とどう折り重なってどのような役割を持っていたのか知りたいと思ったため、この本を選んだ。

 1917年ロシア革命にいたる前の1910~17年のロシアは混迷を極めていたが、芸術においては未曽有の爛熟期で、アヴァンギャルドの芸術家達がその名を馳せていた。一貫した美術様式を作り出そうという「世界芸術」派の考え方があらゆる文化に及び、その画家たちはロシアの民話や世界諸民族のフォークロア、ロマンティックなおとぎ話を手掛け、その様相はきわめて入念な意匠を施した豪華なものであった。

 ロシア革命後、社会の大変動の影響は絵本にも及んだ。芸術世界派の贅沢な絵本作りとは対照的に、限られた資材を用いて、ほとんど手作りに近い手法で絵本制作に臨む芸術家が登場した。この「絵本革命」の先頭を切ったのが、ロシア通信社(ロスタ)で政治宣伝のポスターを手掛けていたウラジーミル・レーべジェフやコナシェービチといった人物であった。歴史上はじめての社会主義国家の誕生は、労働者を社会の主役として位置づけた。もっとも、これはあくまでも表向きのスローガンにすぎず、スターリン登場後のソ連は全体主義への道を歩みだすことになるが、少なくとも1920−30年代の絵本作家たちは国家が掲げる理念をひたすら素朴に信じ、働く人々を主人公に据えながら、労働が輝かしい未来をもたらすことを真摯に子どもたちに訴えた。彼らは絵本において、家庭や学校など身近なところから世の中の基本的な仕組みや社会生活のルールを教えた。当時、コルホーズ(農業集団)やソフホーズ(国営農場)の設立、品種改良の努力、大規模な自然改革による農地拡大など国家主導による様々な解決策が図られ、これらも絵本でとりあげられている。また、言語も風俗習慣も異なるさまざまな民衆の暮らしに子どもの目を向けさせた。後年の孤立し自閉したイメージとは異なり、1930年前後のソ連にはまだ国際主義的な気風が色濃く残り、とりわけアジア・アフリカの植民地に対しては同情と共感を示す作品が数多くある。軍事大国ソ連として、子ども達に戦争の技術を教えるのにも熱心であった。「擬装」という絵本では、戦争でのカムフラージュ技術を題材としている。絵本は、子どもの生活や世界を扱うと同時に、ロシアの歴史の悲劇を映し出す鏡ともなった。こうしたソヴィエト絵本は、大戦間10年のヨーロッパの、そして世界芸術の中でも瞠目すべきものになった。

 しかし、20年代後半には、粛清によって「大人の」文学・芸術にイデオロギー的秩序を確立することに汲々としていたソヴィエト政権はやがて絵本にも手を伸ばして来た。1936年に児童図書に関する協議が行われ、これらの絵本は容赦のない批判にさらされることとなる。本だけでなく、著者達も処分されていった。前述のレーベジェフはこの混乱期を乗り越えたが、スターリン政権以前の大胆なグラフィズムや想像力は影を潜めてしまった。20世紀最大の絵本革命は、アヴァンギャルドの芸術運動同様に人びとの記憶から消え去ってしまった。1920-30年代の絵本は、世界美術史において「ロシア・アヴァンギャルド」と呼ばれる力強い芸術運動の最後のきらめきだったのである。

 

鈴木友紀乃

(外国語学部英米学科3年)

小森宏美『エストニアの政治と歴史認識』(三元社、2009年)

 

 ある出来事に対する認識はたとえ同じ時、場所で同じことを経験している人同士でも異なることは日常でも良くある。これがそれぞれに都合のいいように解釈、記述され、伝えられる。このような認識の差異が、世界で歴史をめぐる解釈において各国間で起こっている。それは、第二次世界大戦の独ソ戦への認識である。

 この授業を受ける前、私の独ソ戦についての解釈は、「イギリスやアメリカから援助されることなくソ連が一国で多くの犠牲を払いながらナチス・ドイツに立ち向かった戦い」でした。この戦いのソ連の犠牲の大きさ、またアメリカのヨーロッパ戦線構築をめぐるソ連に対する態度から、戦後にソ連はアメリカとの対立を深めたと考えていました。しかし、この授業で独ソ戦に関する異なる認識を知りました。ロシア自身は独ソ戦を「大祖国戦争」と呼び、ヨーロッパ文明をナチスから守ったのはソ連だと称している。また、ソ連の国民は、当時の非人間的な支配と比べて戦争を「何か雰囲気を一新する嵐」や、「さわやかな嵐」と感じていた。では、独ソ戦でナチス・ドイツ軍に占領され犠牲となった国はこの戦いをどう認識しているのか。ヨーロッパ防衛のために戦ったと自負するロシアを称賛しているのか。この疑問を解決すべく私はエストニアを例にしている『エストニアの政治と歴史認識』(小森宏美著 三元社 2009年出版)を読んでみることにした。

 エストニアの「占領」時代は1940年〜41年のソ連邦時代、1941年〜44年のドイツ占領期、1944年以降91年の独立回復までに分けられる。この区分に沿った研究・調査は行われているが、けっして一致した評価が社会の中で共有されているわけではない。歴史解釈をめぐるエストニアとロシアという国家間の対立は、まだ解消されていない。

 1939823日、英・仏・ソ連の間で対独協力の可能性が探られる中、独ソ不可侵条約が締結され、ソ連がナチスと手を結ぶ。この条約の秘密議定書は、東欧における両国の勢力範囲に合意したもので、エストニアはソ連の勢力圏に入れられた。

 オーゼル号事件(917日、ポーランドの潜水艦オーゼル号がタリン港を秘かに出発したことを口実に、ソ連は事実上、エストニアの領海統制権を得る)を理由に、ソ連はエストニアに924日、相互援助条約を要求する。これはエストニアの海軍、空軍基地のソ連軍への提供について規定していた。エストニアはこれを引き受け25千人規模のソ連軍がエストニアに駐留することになる。

 エストニアは、わずか人口100万人の国であったが、およそ10万人規模のソ連軍が駐留した。ソ連軍による実質的占領下におかれた中で、政権交代が行われ左派内閣が発足する。エストニア労働人民党(共産党)はソ連邦加入を決定し、19408月上旬に実現した。1940年夏から1年間、エストニアではソヴィエト化が起き、企業の国営化、農業の集団化、エリートの交代、政治家や軍人の強制連行が行われた。エストニアからは約1万人がシベリアへ強制連行された。

 こした状況で、独ソ戦はエストニア人にとってチャンスに思えた。ソ連軍に代わりエストニアに侵攻してきたナチス・ドイツ軍は1年にわたる過酷なソ連支配を受けたエストニア人にとって解放者だった。しかし、ドイツ占領軍にもエストニアの独立を回復させる意図はなかった。独ソ戦終盤、エストニア人はドイツ軍側とソ連軍側の両方に動員され、エストニアの地で、エストニア人同士が戦った。

 このとき、ドイツ側で戦った人々は、ソ連邦時代にドイツへの協力者として迫害の対象となった。「ヨーロッパの歴史」文脈では、彼らはあくまでナチス・ドイツの協力者とみなされたため、独立回復後のエストニアでも「名誉回復」されることはなかった。

 19449月、ドイツ軍撤退後、ソ連軍による占領が始まる。これに絶望したエストニア人が命の危険も省みず海を渡り西側へ亡命した。戦争の被害や強制連行とあわせ、この時期、エストニアは9万人の人々を失った。これは1939年の人口の8%に上った。

 このようなエストニアとロシアの間の対立する歴史解釈がときに社会の不安定化につながるので、194091年の歴史研究を目的とする国際委員会「人道に対する犯罪委員会」が1998年に設置された。これは史料に基づく「客観的」判断と、ロシアの政治的プロパガンダ(エストニアの対独協力から、エストニアをファシズムとして批判することなど)に対抗するためであった。また、国際社会にも配慮し、ドイツ占領期において、ナチスのユダヤ人迫害にエストニア人が、加担していた事実に目を向ける必要もあった。しかし、国際委員会の報告書の結論は、エストニアは占領下におかれていた、というもので新解釈は加えられなかった。

 独ソ戦に関して、犠牲の多さから単純にソ連が被害者だったという自分の認識が大きく変化した。第二次世界大戦を学ぶとき、ソ連を大きく括り、ソ連とドイツ、アメリカ、イギリス、日本など大国間関係のみをとらえがちである。しかし、その大きなソ連に併合され、ソ連を構成していた小国に注目して第二次世界大戦をとらえなおすことが必要だと感じた。

 

 

中嶋奈都季

(外国語学部フランス語学科3年)

塩川伸明『冷戦終焉20年』(勁草書房、2010年)

 

 「冷戦」という言葉は中学生のころから知っており、歴史の授業でも扱われている。冷戦が終わったのは歴史的に最近のことであるため、教科書ではほぼ最後のページに載っている。そのためか、中学・高校ともに最後まで教科書を進められず冷戦についても少し触れる程度であった。そこで冷戦の終焉を知るために塩川伸明『冷戦終焉20年 何が、どのようにして終わったのか』(勁草書房、2010年)を参考にすることにした。

 私は冷戦が終結した理由をそもそも勘違いしており、ソ連が解体したから終わったのだと思い込んでいた。この本によると、少なからず私と同じように勘違いをしている人はいるようだった。実際のところは調べれば分かる通り、198911月にベルリンの壁が倒れ、翌月のマルタ会談でアメリカのブッシュとソ連のゴルバチョフによって冷戦終結が宣言された。ソ連が解体したのは1991年のことであるから、もちろん冷戦終結時にはソ連は存在していた。このようにソ連がなくなって冷戦が終わったと考えられがちなのは、「冷戦の二通りの終わり方」という問題が関係しているのではないか、とこの本では仮説として取り上げられている。

 「第一の終わり方」は、1989年末まで進行しつつあったものだ。これはゴルバチョフと欧米首脳の対話によって進行し、冷戦期の対立の解体、当事者の相互理解としての冷戦終焉を指している。「第二の終わり方」は、1990年以降に進行したものでこれはアメリカ政権によって主導され、和解ではなく、一方側の全面勝利/敗北としての冷戦終焉を指している。

 結果としてこの冷戦は「第二の終わり方」という形で幕を閉じた。これは歴史認識の点においても影響を及ぼした。それは「第一の終わり方」が平和共存の推進の上に展望されていたのに対し、「第二の終わり方」はアメリカ外交がソ連との平和共存ではなく徹底した強硬論をとるのが正しかったという冷戦史把握を正当化するように見えたからだ。1988年にレーガンがソ連を訪れたとき、かつてソ連のことを「悪の帝国」と決めつけていたのに、「今はそうは思わない、別の時代のことだ」と発言、そのことが冷戦の終焉を迎えるかにみえたが、1990年以降になるとやはりソ連は「悪の帝国」だという考えが優越するようになった。

 冷戦は本来「第一の終わり方」が実現するはずだったのに何かの間違いで「第二の終わり方」になってしまったという訳ではない。現実政治の力関係を見ると、米ソは二つの超大国だが、ソ連は軍事・経済でアメリカより劣っていた。そのため双方の当事者の相互理解で冷戦を終わらせようというゴルバチョフ流の考え方は現実味がなかったのだと考えられる。

 筆者自身も冷戦終焉については改めて掘り下げる必要があると述べているので、まだこの謎についてはさらなる調査の余地があることがわかった。さまざまな冷戦についての本と読み比べて、自分なりの答えを見つける必要があったと今更ながら後悔をしている。

 

中西枝里子

(外国語学部英米学科4年)

イスラエルのソ連系移民について

 

 昨年9月の「イスラエルの旧ソ連系移民の妨害が、中東和平交渉の障害となっている」というクリントン元米大統領の発言を取り上げた新聞記事で、初めてイスラエル連立政権与党の極右政党「イスラエル我が家」が旧ソ連系だと知った。「極右政党=移民排斥主義」という構図が当然と思っていた私は、それと全く反対の構図をとても興味深いと思った。ところが、ある問題専門家によると、日本にはこの分野専門の研究者がおらず、日本語の資料はほとんどないと言う。世界の最重要課題のひとつなのになぜ、と疑問に思い、ますます知りたい気持ちがふくらんだ。断片的な資料を総合してみると、次の三点が見えてきた。

 一点目は、旧ソ連におけるユダヤ人の状況である。旧ソ連圏のユダヤ人人口はアメリカ、イスラエルに次いで三位で、全世界のユダヤ人の10%以上を占めている。ソ連は世界史上、イスラエル以外でユダヤ人が合法的に民族と認められた唯一の国家である。とはいえ、ユダヤ人はスターリンの粛正や第二次世界大戦中のナチス侵攻によって、多大な犠牲を払わされてきた。また、民族の地位は、無神論国家ソ連の枠内でのみ認められたものであり、宗教を中心とするユダヤ社会にとっては、放棄させられたものが大きかったといえる。非公式な差別によって被る社会的不利益もあり、異民族間結婚や世俗化によって、徐々にユダヤ・アイデンティティの喪失が進んでいった。

 二点目は、ユダヤ人が旧ソ連から移民として流出するようになった経緯である。イスラエル建国、第三次中東戦争でのイスラエルの圧勝、ペレストロイカ期のユダヤ文化再建運動などで、ユダヤ人の民族意識が覚醒すると、アメリカのユダヤ社会を中心に、ソ連のユダヤ人を脱出・解放させる運動が起こった。アメリカ政府は、人権を抑圧している国家に対しては、貿易上の最恵国待遇の見直しができるとした「ジャクソン・ヴァニク修正条項」をソ連の移民制限政策にも適用することで圧力をかけた。こうして、ソ連から大量にユダヤ人が流出し始めたが、民族意識よりむしろ、差別による社会的不利益への不満から脱出を決めた者も多く、中継地点のウィーンで目的地をアメリカなどに変更するケースが相次いだ。ソ連内では、高学歴、専門職の多いユダヤ人人材が西側に流出することへの危機感がみられたが、流れを止めることはできなかった。

 三点目は、移住先イスラエルにおける状況である。ユダヤ人口の増加は、そのままアラブ人を押し出す力になるため、イスラエルは移民の吸収を最重要戦略としている。新移民には、ウルパンという集中課程でヘブライ語を教え、学校では宗教教育を徹底する同化政策を行っている。また、移民は都市部に集中しやすいため、地方への移住も促進していた。ところが、無神論国家ソ連の大都市で文化的な生活を享受してきた裕福な旧ソ連圏移民は、イスラエル社会に同化することを望まない者が多かった。また、教育レベル向上を目指して、ソ連系の経営者や教師による世俗的な学校の設立が始められた。こうしてイスラエルの旧ソ連系コミュニティは発展し、政治運動が起こった。イスラエルでは長らく中道右派リクードと、中道左派労働党の実質的な二大政党制が続いていたが、1992年のクネセト(国会)選挙では、この旧ソ連系移民の票によって政権交代が実現し、労働党が勝利したと言われた。当初の旧ソ連系有権者は和平問題よりも移民政策や教育に関心が集中していたようである。1999年に結成された、アヴィグドル・リーベルマン(現外相)率いる極右政党「イスラエル我が家」が支持を集めるようになった経緯は、入手できた資料からはわからなかった。ただし、現在の旧ソ連系移民にタカ派が多い理由は、民族自治区域内では多数派の民族が圧倒的優先権をもつというソ連の政策の考え方が、そのままイスラエルに持ち込まれたという説がある。

 正直に言うと、今回の調査でイスラエルに住む旧ソ連系移民について深い理解が得られたとは言いがたい。1992年選挙で彼らの票が中道左派の労働党に集中したことを知って、むしろ謎が深まったとすら言える。この点に関しては、もっと時間をかけて英語の資料を読んで理解を深めてから、いつか自分でイスラエルに行って人々と話をすることで確かめてみたい。

 

《参考文献》

·       Lis, Jonathan and Natasha Mozgovaya. “Bill Clinton’s ‘Russian immigrants are obstacle to peace’ Comment Draws Fire in Israel,” in Haaretz.com. September 22, 2010.

·       Horowitz, Tamar. “The Integration of Immigrants from the Former Soviet Union,” in Israeli Affairs. Vol.11, No.1. January 2005. pp.117-136.

·       臼杵陽「イスラエルにみる旧ソ連系ユダヤ人移民」、『外交フォーラム』第83p.34-411995.8

·       高坂誠「旧ソ連系ユダヤ人の現在−冷戦の終結とソ連邦解体のなかで−」、『現代思想:ユダヤ人』。通巻22-08号(199407月)

·       鶴見太郎 「イスラエルの旧ソ連系移民、なぜタカ派が多い?」、『Asahi中東マガジン』。2010.9.15.

·        

 

広地明日香

(外国語学部ドイツ学科3年)

菅野沙織『ジョークで読むロシア』(日本経済新聞社、2011年)

 

 前期末の試験ではロシア正教と芸術の関連をテーマにしたので、今回は向きを変え、アクチュアルな話題を扱ってみたいと考えていた。そんな時、本屋の新刊コーナーで本書を見つけられたのは、中々の僥倖だった。

 本書は全6章から成り、章中の各節冒頭で「ロシアのジョーク」=アネクドート、小話が紹介される。これを足掛かりに、現代ロシアの状況が、専門家である筆者自身の体験も交えて解説される。新書サイズで、文章も平易なので私のような初心者にも読みやすい。各章を読み終えると、冒頭に掲げられたジョークの意味が一層よく分かるつくりになっているのが、また面白い。

 この本の話題はロシアの政治、食文化、住宅事情など多岐に渡るが、今回は特にリーマン・ショック以降のロシア経済についてをテーマとする。当時ロシアはどのような状況にあったか、いかにして危機を乗り越えたか、これからどうなるのか等の点に注目し、述べていく。

 まず驚くのは、サブプライム問題が浮上したとき、ロシア経済は大して打撃を受けないという見方が、ロシア国内の大勢を占めていたということだ。ロシアは外貨に左右されやすいオイルマネーに頼りきっていると思っていたので、何か危機を回避する秘策でもあったのかと考えてしまった。

 もちろん、実際は違った。リーマン・ショックでロシアは他国よりも遥かに深刻な影響を受けた。危機を回避できるという余裕は、近年上昇し続けた経済、つまりはオイルマネーの利潤から積み立てられた安定基金に由来するものだったのだ。そしてロシアは、この危機の中、そのセーフティネットの大部分を財政立て直しに充てた。そうすることで、辛うじて最悪の事態を免れたというわけだ。

 もしオイルマネーによる「貯金」が無ければ、ロシアは一体どうなっていたか。貯金は一時期3兆ルーブルを越えたというが、それでも救済しきれない規模の経済危機にぞっとする。

 かくして危機を乗り越えたロシアだが、今回のことでエネルギー経済依存というロシアの弱点が露呈した。これをどうするのか。原油以外に交易手段を持たないというロシア経済の欠陥を目の当たりにして、その後国内産業の振興が注目され始めたが、果たして上手く行くかどうか疑問だ。

 本書によると、ロシア人は自国の技術力、安全性に懐疑的だという。彼らは国産車よりも外車、しかも国外で製造された外車を好む。国内産業の確立が問題となっている中、これは笑い話では済まされない。

 希望となりうるのは、筆者も書いているが、ロシアは基礎科学、理論物理学など、いわゆる「理系学問」に強いという点だろう。知的人材が求められる昨今、これは大いなる長所だ。惜しむべくは、ロシアに優秀な研究者を引き止められるだけの環境がないことである。だが最先端技術センター設立計画が立ち上がりつつあるなど、ある程度前途を期待できる状況にはなっている。

 こうした分野が重要産業となるには、長い時間を要する。しかしロシアはこの時間を耐えなければならないだろう。もし新しい産業を確立できなければ、次の経済危機を乗り越えられるかどうか、その保証はどこにもない。オイルマネーに頼らない経済を創出できるか、これこそ今回の経済危機がロシアに与えた課題であり、ロシア経済最大の分水嶺なのだ。

 

 

清水沙那美

(外国語学部スペイン学科3年)

塩川伸明『多民族国家ソ連の興亡V ロシアの連邦制と民族問題』(岩波書店、2007年)

 

 ロシア帝国からソ連へと移行し、ロシア連邦となった現在、チェチェン紛争をはじめとする民族・エスニシティ問題が現代ロシアの深刻な問題の一つになっている。今後、現代ロシアの民族問題はどうなっていくのか。なぜ、チェチェンのみが、ロシア連邦と激しく対立したのか。チェチェン紛争は避けられなかったのか。ロシア連邦の民族構成を分析すると共に、塩川伸明著の『ロシアの連邦制と民族問題』(2007年、岩波書店)を読み解く。

 ヨーロッパとアジアにまたがって広がる、いわゆる「ユーラシア世界」は、ロシア帝国からソ連に引き継がれ、今ではロシア連邦を始めとする15の独立国に分かれている。そこは、西欧諸国と接する地域、東スラヴの正教圏、中東・イスラーム圏と接する地域、日本を含む東アジアと接する地域が含まれ、極めて多面的で複合的世界だ。ここに、現在のロシア連邦が多民族国家であることの理由がある。

 ロシア連邦センサスによると、2002年現在、142の民族と、そのサブカテゴリーとして、40のエスニックグループが確認されている。民族別の人口割合をみると、ロシア人が約80%と圧倒的に多く、次いで、タタール人が約4%、ウクライナ人が約2%、バシキール人とチュヴァシ人が約1%と、以下1%未満の民族が続く。

 本書では、民族事例として、平和裡に推移しているタタルスタン共和国を中心とするヴォルガ=ウラル地域と、ゲリラ戦争と暴力対立の続くチェチェン共和国を中心とする北カフカースについて論じている。

 タタルスタンは、ロシア政権との間に「馴れ合い」的闘争も続けつつも、基本的に平和的関係を維持してきた。タタルスタンは、人口面でタタール人とロシア人がほぼ同数であり、タタール人のロシア化度も高く、急進的民族主義による独立国家には成りえなかった。地理的にも、ロシアに囲まれてあり、タタルスタンだけで自足的な国家として成立することは不可能であったといえる。こうした条件により、独立分離の思考は少なかった。また、ヴォルガ地域へのロシアの進出は早く、ロシア人とタタール人は、競合と紛争をはらみながらも長期に渡る平和的共存も経験してきた。

 一方、泥沼的軍事紛争に至ったチェチェンは、現地民族の割合が非常に高く、ロシア化の度合いが相対的に低かった。また、地政的には、今は外国となったグルジアと接しており、分離独立論が強まりやすい地域であったと言える。歴史的にみても、北カフカースのロシア編入が時期的に遅く、19世紀のカフカース戦以来、何度となく衝突を繰り返してきた。

 こうした経緯が関係して、タタール人はほぼ一貫してソ連共産党中央委員を出していたのに対し、チェチェン人からは1人も出ておらず、党員比率も両者の間には大きな差があった。このように、政治的に見ても、タタール人はロシア人と共生してきたといえるが、チェチェン人は、衝突を繰り返しながら、独立分離の道を歩んできたといえる。

 この2つの事例から、チェチェン的状況が例外であると考えられる。本格的な独立闘争を行ったのは、諸民族地域の中でもチェチェンだけであり、分離独立運動のドミノ現象は、北カフカースでさえ生じなかった。とはいえ、ソ連解体直後に、チェチェン型の独立論が他地域に広がるのではないかと、政府を不安にさせたことは確かである。これは、民族問題が国家形成の不確定性と大きく関係しており、国家体制が巨大な変動を起こす時期に表面化しやすいということだ。1991年のソ連解体とチェチェン独立宣言、1994年のチェチェンへの本格的な軍事侵攻は、まさにそれであった。この軍事侵攻は、エリツィン政権及び軍部の人気回復の狙いやパイプライン確保の問題、チェチェン・モスクワ双方における内部対立などの諸要因が複合的に重なっていたが、先に述べたような歴史的、地政的背景が大きく関係していたことは間違いない。ロシアの民族問題が安定するには、長期にわたる試行錯誤が必要であるのだ。そして、政治的解決はもちろん、アイデンティティーなどお互いを理解し、認め合うことが必要である。

 

 

川瀬 歩

(外国語学部英米学科4年)

 

 私が選んだ本は、『民族と言語――多民族国家ソ連の興亡T』である。はじめに、私がこの本を選んだきっかけだが、授業でソ連の言語政策について触れた折、英語と日本語に置き換えて考えることが可能ではないかという話が印象的であったため、そうしたアプローチからソ連の言語政策をくわしく見てみたいと思ったからである。実は、そうしてこの本を手に取った次の授業でたまたま参考文献にも挙がったため、文章内容に一部重複が見られるかもしれないが、ご容赦を願いたい。また、本の構成として、前置き的に民族・エスニシティーの問題についても多くのページがさかれているのだが、今回は先に述べたように言語に関して見ることが目的のため、その辺りの内容については必要最低限の言及にとどめるものとする。

 ソ連期の言語政策のおおまかな流れについては授業内容とも重複するため省略させていただくが、この本の中で、筆者はそうした政策をふまえた上で、各民族語の状況を大きく3つに分類しようと試みている。もちろん例外は多く存在するが、大まかに分類すると以下の3つに分けられるのではないかというのが筆者の提案である。第一に、バルト三国などのように、文章語の伝統が以前から確立しており、高等教育も民族語で行われるグループ。第二に、第一グループなどと比較して相対的に文章語の伝統が弱く、高等教育はロシア語で行われるグループ。第三に、東スラブ系で比較的にロシア語に近い言語であるため近接性が大きいウクライナやベラルーシなどのグループである。今回はこの分類を引用させてもらい、日本語と英語という視点で考えてみたい。

 まず、これらの中で英語をロシア語と置き換えて考えた場合に日本語が相当する立ち位置であるが、日本語は文章語としての伝統や歴史を長く持っている言語であり、英語とは記述・文法ともに大きく異なる言語であるため、第一グループにあてはまると言えるだろう。続いて、その第一グループの状況をもう少しくわしく見てゆくと、ロシア人の人口比率が高い共和国では、少ない共和国よりも必然的にロシア語の公用語化が進む傾向が見られる。現在の日本では、外国人の類は年々増えつつあるが、その中でも日本語のできない外国人となるとその数は人口比率ではかなり少なくなる。今後状況の変化がないとは言えないが、さしあたって日本国内においては日本語さえできれば困ることはないと言えるだろう。こうした状況は例えばバルトの中でも比較的ロシア人人口の比率が低かったリトアニアと置き換えることが可能であると言えるかもしれないが、一概にそう言い切るには検討に値する違いも多い。

 そうした違いで最も分かりやすい例として挙げられるのは、グローバル化という問題である。近年では、インターネットにより情報が瞬時に世界で共有され、物や人の行き来も盛んに行われており、そうした過程で母語以外の言語に触れる機会が多くなったという状況がある。確かにエリートになるために必要であるから勉強しようという発想や、教育に関わる変化などはソ連期の問題と比較的共通している点も多い。しかし一方で、日本にいる間は日本語だけでも困らないと言う状況があるにも関わらず、環境の変化に対応する形で自然に英語や他言語に触れる機会が増えているとも言えるのである。このことがソ連期との決定的な違い、国内で外国人の比率が低くても共通語が必要になるという状況をもたらしており、また以前よりも母語以外の言語を学ぶことへの(良い意味での)ハードルの低下が生じているように感じられる。そう考えると、やはり一番大きな違いは時代であると言えるのかもしれない。

 今後の日本語の地位がどうなるのかまで断言できる比較とはならなかったが、私個人の意見を最後に述べさせていただくと、日本語が英語に取って代わられると言うようなことはないように思う。というのも、日本語がすでに確立した伝統や歴史を持つ言語であるというだけでなく、これからは自ら言語を選択する時代となるように感じているからである。今、アメリカの経済的な没落がうかがえる中、中国語を新たに学ぶ人が増え始めている。その一方、依然として英語は苦手で日本語だけ出来ればよいという日本人は多いし、自分の興味のある文化や言語を学ぼうという人も少数ではあるが存在する。私たちをとりまく状況の変化は、多くの言語・文化に触れる機会を増やし、学習に際しての選択の幅を広げてくれている。バイリンガルにせよモノリンガルにせよ、英語に限らず好きな言語を選んで学ぶ機会をグローバル化はもたらしているのではないだろうか。もちろん、汎用性という意味において、英語がこれまでに確立してきた優位性は持続してゆくかもしれないが、我々が国際化の波に対して異文化交流という意識を強めつつあることが、ひいては自文化をも意識する動きをもたらしていると言うことは、捨ておけない意識の変化であると言えるだろう。

 

参考文献

塩川伸明『民族と言語――多民族国家ソ連の興亡T』(岩波書店、2004年)

 

 

ソ連時代の娯楽映画

講義「ロシア研究(1)」余話

 

半谷史郎

 

 「ロシア研究(1)」の講義では、意識して映像をたくさん見せました。日頃ロシアと接点の少ない学生に、少しでもロシアを身近に具体的に感じてもらいたいと考えてのことです。

 観光名所を映した紀行番組はもちろんですが、NHKが衛星放送で流しているロシアのニュース番組からバイコヌール宇宙基地の映像を拝借したり、メドヴェージェフ大統領が北方領土に行って大騒ぎになった時は、ロシアの報道ぶりを見せて、日本の様子が相手にどう映っているのか考えたりもしました。

 口頭の解説は最小限に抑え、映像中心で授業をした日もあります。1920年代のソ連で出版された絵本をロシア語の朗読音声とともに映し出してロシア・アバンギャルド芸術の一端を味わったら、続いて「チェブラーシカ」のシリーズ第四作(1983年製作)を見せてソ連末期の「停滞の時代」の世相を体感させる。この授業は学生の反応が極めて良く、映像の力を再確認しました。

 また、一年間に映画も三本見ています。映画となると、90分の授業時間に収まらないので、場所を講堂地下の多目的ホールに移し、「おろしゃ会」映画会との共催行事として行いました。

 最初が201063日で「おろしや国酔夢譚」(1992年)、二回目が1119日でニキータ・ミハルコフ監督の「太陽に灼かれて」(1994年、露仏合作)、そして最後になった1223日(祝)の映画会で見たのが、「モスクワは涙を信じない」です。この時の上映前に解説として話したことを以下に再録しておきます。

 

*        *        *

 

 「モスクワは涙を信じない」は、ウラジーミル・メニショフ監督の1979年のソ連映画です。あらすじはごく単純で、地方からモスクワに出てきた三人の女性が、恋や仕事に思い悩みながら、それぞれの人生を切り開いていく様子を描いています。ソ連国内で大ヒットしたほか、1980年の米アカデミー賞の外国映画賞も獲得するなど、国外でも高い評価を受けました。

 映画そのものは後で楽しんでもらうとして、ここでは少し別の話をしたいと思います。

 注目してほしいのは、この映画のソ連国内の観客動員数です。作品公開から五ヶ月で6900万人、公開初年度の最終実績は8470万人という数字が残っています。あまりに多いので世界中で見た人かと疑いたくなりますが、どうやら事実のようです。1979年のソ連の人口が約26千万人なので、国民の実に三分の一がこの映画を見た計算になります。

 それでは、「モスクワは涙を信じない」が突出した大ヒットだったのかというと、そうではありません。この年は観客動員数ではさらに上を行く作品があって、「二十世紀の海賊」というアクション映画が8760万人を動員しています。この映画がソ連時代の観客動員の歴代一位ですが、それまで11年間トップを守り続けたガイダイ監督の喜劇映画「ダイヤモンドの腕」(1969年)は7670万人が見たといいます。

 大当たりのバロメーターに興行収入が出てこないところが社会主義の国ソ連らしいですが、それはともかく、大ヒット作なら国民の三分の一が見てもおかしくないことは分かってもらえたと思います。つまり、ソ連では、映画が娯楽の王様だったのです。このことを別の数字で確認してみましょう。

 

【表】「映画に関する統計の日ソ比較」

 

ソ 連

日 本

映画製作本数

(長編映画)

270

332

映画館数

151,753

2,267

総人口/映画館

1,780

53000

総観客数

(1年あたり延べ)

40億人

15500万人

国民一人あたり映画館に行く回数(年間)

(総観客数/総人口)

14.5

1.3

(注)この表は、ソ連の『映画百科事典』(モスクワ、1986年)のさまざまな項目に挙げられている数字をもとに作成。日本に関する統計およびソ連の映画館数は、1982年現在のもの、それ以外のソ連に関する統計は、1980年代の平均的数字である。

 

 この表は、「映画に関する統計の日ソ比較」という資料です(沼野充義「映画の大国」、袴田茂樹(編)『もっと知りたいソ連』、弘文堂、1988年、309頁より)。一目瞭然ですが、「モスクワは涙を信じない」が公開された頃のソ連の人たちは、日本人とはまさに桁違いに映画館に足を運んで映画を見ていました。

 ちなみに日本人も、これに近い映画好きだった時期があります。日本の映画人口のピークは1958年(昭和33年)です。この時の総観客数は、112700万人を数えました。平均すると、一人あたり月一本弱は見ている勘定です。これが急落した元凶は、テレビです。日本のテレビ放送開始は1953年ですが、1959年の皇太子の成婚パレードで普及に拍車がかかり、1964年の東京オリンピックで普及率が90%に達したといいます。これに反比例するように映画人口は激減し、1965年は33730万人と、ピーク時の三割にまで縮小。その後も漸減に歯止めがかからず、映画館へ行くのは年一回まで落ち込んだというわけです。

 日本で映画が斜陽化したのとは対照的に、ソ連では映画が娯楽の王様であり続けました。日本の映画産業を衰退させたテレビが、なかなか普及しなかったことも影響しているでしょう。軍需優先で民生を後回しにしがちな体制でしたから、テレビの普及率(100世帯あたりの台数)は1960年=81970年=511980年=851986年=99と推移していて、日本より二十年近く遅れています。

 このようにテレビ普及の遅れが映画人口を温存した側面はあるとはいえ、ソ連の人が足繁く映画館に通っていたのは厳然たる事実です。もう少し古い数字で比較してみると、1965年には一年に平均19本見ていたといいます。この年の日本は、先述の数字から割り出せば、3本たらず。このほかアメリカが12本、イギリスやフランスが8本だそうですから、やはりソ連の数字がずば抜けています。しかもこの19本は、あくまで平均値です。映画をよく見る若い世代では、20代の若者が週1回の年50本、10代の子供が週2回の年100本に跳ね上がると言います。気に入った映画は、何度も通って繰り返し見るのが普通だったそうです(Намедни. Наша эра 1961-1970. С.156.

 では、それだけ頻繁に映画館に行って何を見ていたのでしょう。

 日本で知られているソ連映画というと、文芸大作がまず思い浮かびます。ロシア文学の古典名作を映画化したものや、映像作家の監督が独自の美的世界をつくりあげた芸術作品です。こうした映画の価値を貶めるつもりはありませんが、「暗くて長くて重い」と敬遠する人も少なくありません。ソ連の人はあんな映画を嬉々として見ていたのかと訝る向きもあるでしょう。

 しかし、ソ連で熱心に見られていたのは、「暗くて長くて重い」映画ではありません。こうした国外で有名な文芸大作とは別に、国内では娯楽映画が大量に製作されていました。このソ連製のメロドラマやコメディーこそ、人びとが映画館に足を運んで日常的に楽しんでいた映画なのです。

 ソ連の娯楽映画は、日本ではほとんど知られていません。言葉の壁もさることながら、冷戦の壁もあったと思います。優れた芸術作品ならともかく、娯楽作品は、同等以上のものを自分たちで供給できるし、アメリカから大量に入ってくるのだから、ソ連のものなど必要はない、というわけです。

 その結果、どうなったか。少し大風呂敷かもしれませんが、日本人の多くがロシアに親しみを持てない理由の一つが、ここにある。政治的な問題も多々あるとはいえ、ロシアと疎遠なのは、娯楽映画に代表される日常的な楽しみを共有していないからではないか。ちょうどアメリカとは、巷にあふれる映画やテレビ・ドラマを通じて知らず知らず感性や見方を共有し、親近感を覚えているのと逆の状況なのではないかと思うのです。

 たかが娯楽映画ですが、その国の価値観、好悪や善悪の基準が無意識のうちに作品に投影されています。言ってみれば、感性の源なのです。ロシア人を知るには、実はドストエフスキーや芸術映画より重要かもしれません。

 先にソ連の娯楽映画は日本ではほとんど知られていないと言いましたが、「モスクワは涙を信じない」は例外です。米アカデミー賞作品の権威もあってか、日本でも1982年に公開されて評判になりました。ソ連映画の芸術性を買っている批評家から、ハリウッドの二番煎じと揶揄されたようですが、娯楽映画にそうした目くじらは野暮というものでしょう。

 娯楽映画の常として、展開は普遍的(悪く言えば陳腐)で、夢のおとぎ話と言ってしまえば、それまでです。それでもロシア人の感性はそこかしこに横溢しています。また製作から30年たった今、ソ連という最早存在しない国を知るための記録として見ることもできるでしょう。映画を楽しみつつ、そうしたことにも目を向けてくれたらと思います。

 さて、話を少し変えます。

 この「モスクワは涙を信じない」の日本版DVDには、驚いたことに、吹き替えが二つ(英語とフランス語)、字幕が13もついています。列挙しますと、日本語、ロシア語、英語、フランス語、ドイツ語、オランダ語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、ヘブライ語、スウェーデン語、アラビア語、中国語の13言語です。

 映画の音声や字幕を手軽に変えられるのはビデオにないDVDの特徴とはいえ、ここまで多言語に徹しているのも珍しい。初めは、そう思っていました。ところが、ことソ連の映画については、そうではなさそうなのです。

 このところ先述したような理由で娯楽映画に興味を抱き、ソ連映画のDVDを物色しているのですが、同じような多言語対応のDVDにちょくちょくお目にかかりました。いずれもRuscico(ロシア映画評議会)が21世紀初めに出したDVD(つまり映画のDVD化の走り)ですが、特徴的なのは、字幕が必ずといっていいほど先の13言語なのです。もちろん字幕が英独仏どまりなのもありますし、吹き替えにスペイン語やアラビア語が加わっていたりと、多少の異同はあります。ただ超多言語の字幕が用意されている場合は、先の13言語で顔ぶれがきっちり固定しているのです。

 ロシアのメーカが、ソ連時代の映画のDVD化にあたって、新たに多言語環境を用意した可能性もないわけではありません。しかし、こうした決まった型の規格の大量生産は、ソ連の計画経済にこそ相応しい発想です。超多言語対応のDVD映画が大量にあるのは、ソ連時代につくった字幕や吹き替えを転用したと考えるのが自然でしょう。ソ連は、国外に紹介すると決めた映画に、13の言語で字幕を用意していた。つまり、映画の輸出戦略として多言語方式を採っていたことになります。

 これはあくまで推測です。研究課題にもなりそうな面白い問題ですが、きちんと調べてみないと、本当のところは分かりません。

 ただ、映画のことはともかく、ソ連が対外的に多言語発信を旨とする国だったのは間違いないようです。米原万里『ガセネッタ&シモネッタ』(文藝春秋、2000年/文春文庫、2003年)で知ったことですが、世界で初めて同時通訳を実用化したのがソ連でした。コミンテルンという多言語な常設の国際機関を動かす必要性から、1928年から人材の育成と経験の蓄積がはじまりました。戦後のソ連共産党大会では、最大29の言語の同時通訳がなされたといいます。モスクワ放送の海外発信は、最盛期には85の言語だったそうです。どこへ行っても英語で通すアメリカや、外国語といえば英語一辺倒の日本とは歴然とした違いだ、と米原さんは書いています。

 話をソ連の娯楽映画に戻すと、今日見る「モスクワは涙を信じない」のほかに一体どんな映画があるのか気になる人もいるかと思います。そういう人は、まず黒田龍之介『ロシア語の余白』(現代書館、2010年)を読んでみてください。

 黒田さんは、「フリーランスの語学教師」を自称するロシア語の先生。2009年に県大で講演されたこともあります。ロシア語の間口が文学か社会主義に限られていた時代に、ロシア語やソ連は好きだがドストエフスキーにもレーニンにも関心がないと豪語していた変り種です。

 この黒田さんが12月に出した新刊の語学エッセイで、好きなソ連映画10本を紹介しています。これを読んだ時、知っているのが「モスクワは涙を信じない」だけで我ながら恥ずかしかったのですが、どうやら黒田さんのこの選択はロシア人の平均的な好みを的確に反映しているようです。春休みは、このリストを頼りに、ソ連の娯楽映画の山脈に挑んでみたいと思っています。

 

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【付記】

 その後、映画はぼちぼちと見ています。

 どんな映画があるのか目星をつけるのが一苦労でしたが、次の二つの文献がとても役立ちました。

 一番の助っ人は、『ロシア言語文化大辞典』(Россия: Большая лингвострановедческий словарь. М.: АСТ-Пресс Книга, 2007. 736 с.)です。

 これは、上記の黒田さんの本でも紹介されていますが、ロシア語話者の常識を解説した辞書(というより百科事典)です。ロシアの自然・衣食住・歴史・文化などの森羅万象について、およそ母語話者なら知っているはずの事柄が詳しく説明されています。日本語に訳す価値があると黒田さんが高く評価していましたが、同感です。

 映画については、二十本ほどが独立項目として挙がっています。どれも映画のセリフや登場人物がロシア人の日常会話に登場するくらい有名らしいです。つまり、ここに取り上げられた作品は、日本でいえば、「それを言っちゃあ、おしまいよ」というセリフを生んだ寅さん映画や、「あの子、ジャイアンみたい」で誰でも性格が思い浮かぶほど登場人物が浸透定着した「ドラえもん」並みの存在なのでしょう。

 もう一つは、Намедниという写真アルバムです。

 こちらは、1961年以降のソ連時代を、一年ごとに写真と解説で回顧したものです。日本でもしばらく前に20世紀や昭和の年どしの世相をふりかえる週刊写真雑誌がありましたが、そのソ連版と思えば間違いありません(『ロシア史研究』第86号に書評を書いたので、詳しくはそちらを参照下さい)。

 この本は、その年を代表する映画を必ず何本か取り上げています。合計すると、百本は優に超えるはずです。先の『ロシア言語文化大辞典』が長くロシア人の記憶に残る名作の厳選だとすれば、こちらは一時の流行作にまで目配りした拡大版と言えるでしょう。

 この二つを道案内にソ連の娯楽映画を見ていますが、確かに「暗くて長くて重い」という日本の常識を覆す作品がいくつもありました。

 これまでのところ一番のお気に入りは、「カーニバルの夜」という1956年の音楽コメディー映画です。

 大晦日の夜、ある工場の文化サークルが新年を楽しく迎えるコンサートを企画したところ、石頭の幹部が反対して生産性向上の官僚的な集会をやろうとする。しかし若者たちは、この妨害にめげずコンサートを成功させるという物語です(ネットのリンクを張っておきます)。

 

http://video.google.com/videoplay?docid=-4787742345276761142#

 

 コンサートの模様は3830秒すぎから始まりますが、その冒頭で歌われる「五分の歌」は、当時大変な人気だったと先の『ロシア言語文化大辞典』にあります。

 多少ソ連的な臭みはありますが、「明るく楽しく軽快な」この映画は、ソ連の人も同じ人間だなと身近に思わせる魅力があふれています。ソ連の映画なんて面白いのかと懐疑的な人に、ぜひ見て欲しいと思います。