おろしゃ会会報 第17その3

2011年2月3日

 

名古屋正教会とロシア

――日露戦争から21世紀まで――

 

マリヤ・松島純子

 

 

正教会はロシアから修道司祭ニコライ(カサートキン)によって日本に伝えられた。だからロシア教会との関係が深いのは当然だが、今回はニコライ関連以外の「名古屋正教会とロシア」のかかわりを、長期にわたって名古屋の管轄司祭であったペトル柴山準行神父の活動を中心に紹介しよう

 

1.日露戦争

 

 200712月、オムスクから一通のEメールが届いた。「自分の祖父モイセイは准尉として日露戦争に参戦し、捕虜となり名古屋に収監された。名古屋正教会の司祭ペトル柴山神父にお世話になり、神父と家族の写真を終生大切にしていた。当時の様子を教えて欲しい。」添えられていたセピア色の写真にはペトル柴山準行と妻ワルワラをさめ、二女マリヤ秀子が写っていた。私は早速返事を書いた。名古屋には7箇所の収容所があり、数千の捕虜がいたこと、名古屋の教会信徒と親しい交流があったこと、滞在中に病死した15人の捕虜の眠る平和公園墓地で毎年パニヒダ(追善供養)を行っていることなどを知らせ、名古屋教会信徒とともに撮った集合写真など当時の写真数枚を添付した。数日後、「おじいさんを見つけた」と赤丸をつけた集合写真が送り返されてきた。モイセイは帰国後1920年にオムスクで没したそうだ。

 

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写真1:日露戦争捕虜、富士塚町の会堂で日本人信徒とともに。丸印がモイセイ准尉。ロシア人捕虜に抱かれている子供たちもいて、親しい交流がうかがわれる。柴山神父の左隣の少年は、「捕虜によく小遣いをもらった」と述懐していた。

 

 日露戦争時名古屋に収容されていた捕虜については県立大学の文学部、平岩貴比古君の2002年の卒業論文「日露戦争期におけるロシア兵捕虜」に詳しい。平岩君は教会へも何度も足を運び古い写真を閲覧した。明治時代、名古屋正教会には写真業を営む信徒が多く、中でも柴山神父と姻戚関係にある水谷家は大須で大きな写真館を営んでいたため、当時の写真がたくさん残されていた。平岩君は写真を見ながら、名古屋には将官クラスが多かったこと、当時の捕虜にはかなりの自由が与えられており大須など歓楽街にも出かけていたこと、旅順降伏にあたって戦争継続派と降伏派の間で対立があり名古屋の捕虜収容所も二箇所に分けられたこと、また写真の天井の様子から千種にあったバラックの収容所内の聖堂であることなどを解説してくれた。

 柴山家の現当主、正雄氏によって昨年私家版として出版された『俘虜慰安日誌』には、捕虜の人数、毎日の訪問、諸経費、礼拝の記録のみならず、個人的な頂き物、食事の内容までが事細かに記録されている。礼拝以外にも、祈祷に必要な物品の調達、捕虜からの注文の取り次ぎ、葬式の手配、日本側との調整など仕事は多岐にわたっていた。当初捕虜のための祈祷は、キエフへの留学経験のあるシメオン三井神父が月に二回京都から出張し、スラブ語で祈祷し柴山神父は補佐の予定であったが、次第に捕虜の数が増し三井神父も各地の収容所を兼任するようになり、名古屋の捕虜慰安は柴山神父に任されることが多くなった。名古屋の収容所は東本願寺、西本願寺、長栄寺、天寧寺、大竜寺、徳源寺、萬松寺の7箇所(後に千種の収容所)であった。月曜日から金曜日までは各収容所を巡回し、土曜日は教会でスラブ語の聖体礼儀を行った。柴山神父はスラブ語の祈祷を暗記し、片言のロシア語で熱心に慰問した。捕虜たちは土曜日のスラブ語祈祷のみならず、日曜日の日本語の聖体礼儀にも教会を訪れ日本人信徒とともに祈った。オムスクに送った写真も、日本人とともに教会で祈祷したときの記念写真の一枚だろう。

 柴山神父は、しばしば妻ワルワラをさめと二女マリヤ秀子を収容所に同行した。当時15歳の秀子は闊達で美しく、捕虜たちの憧れの的となった。柴山家には捕虜が記念に残したたくさんのポートレートがあるが、「マリア・ペトローブナ、私を忘れないでください」と裏書きされたものもある。フォーク中将の献納による東別院内収容所のイコノスタス成聖時の記念写真には、三井神父、柴山神父、ロシア人将官、日本陸軍東常久中佐とともにワルワラをさめ、マリヤ秀子、ウエラ水谷信が写っている。マリヤ秀子はロシアの軍帽を斜めにかぶりうちとけた様子である。

 

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写真2:1905年、東別院収容所内聖堂イコノスタス成聖時の記念写真、帽子の女性がマリヤ柴山秀子

 

 柴山神父の几帳面な記録は日記だけでなく、西本願寺内収容所にベールイ中将の依頼で設置されたイコノスタスのデザイン画、捕虜帰国後に陸軍墓地に建てられた記念碑の図面も美濃紙に墨で描かれたものが残っている。

捕虜といっても将官クラスともなれば大貴族出身で、当時の日本人とは比べものにならないほど裕福であった。彼らが名古屋教会、柴山家に送ったさまざまな金品も捕虜慰安日誌に記帳されている。記録によれば、捕虜一同から名古屋教会新聖堂建設資金の名目で33863銭が献金されている。明治30年代の1円=現在の2万円で換算すると、約700万円の寄進となる。土地半分を売却した資金を併せ、総工費4000円で1913(大正2)年に二階建ての立派な聖堂が完成した。

 マリヤ秀子は1905年夏、捕虜たちに別れを惜しまれながら東京の神学校に進学した。さらに1908年にニコライ大主教が後藤新平に推挙し満鉄からの派遣留学生としてペテルブルグで美術を学んだ。日本学者として有名な大富豪エリセーエフの実家でも家族同様にもてなされ、上流階級の寵児となり、元名古屋の捕虜ニコリスキー中尉にも再会した。彼女の描いたイコンは名古屋の新聖堂の上段を飾ったが、名古屋大空襲で聖堂とともに焼失した。杉並にある山手正教会に彼女の手による聖イサクのイコンがある。

 

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写真3:ニコライ二世から下賜された金十字架         写真4:そのケース

 

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写真5:金十字架をつけたペトル柴山神父              写真6:西本願寺のイコノスタスのデザイン画

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写真7:捕虜聖歌隊

 

2.極東、シマコフカの修道院と蜜蝋作り

 

 大正時代の名古屋正教会の収入源の一つに蜜蝋のロウソクがあった。これは1917年、柴山神父が極東のシマコフカ村にある至聖三者聖ニコライ修道院で製法を学んできたものである。シマコフカは現在ゴルニェ・クリューチ村、ウラディオストクから400キロほど北、ハンカ湖の東に位置する。この修道院は1895年アトス出身のアレクセイ修道士によって設立され、後継者としてワラーム修道院出身の修道司祭セルギイが院長をつとめていた。柴山神父が訪問したのは設立から20年ごろにあたり、すでに300人近い修道士と見習いを擁していた。また1915年からは知多半島内海出身のアンブロシイ(後に修道名アントニー)日比七平が修道見習として滞在していた。

 柴山神父は千葉忠朔神父とともに1917821日に敦賀を発ち、25日から918日までシマコフカの修道院に滞在し、ロウソク作りを学んだ。その時の様子は「滞露日誌」として『正教時報』第619号(大正6105日発行)から三回にわたって連載されている。修道院の祈祷に参加するかたわら、本院から2キロほど離れたところにあるロウソク工場で現場主任のイリヤ修道士から50ほどある工程を順に習得した。滞在中はアンブロシイ日比が通訳の労をとった。

帰路、200キロほど南に位置するニコリスク(現ウスリースク)郊外の生神女誕生女子修道院に立ち寄った。アンブロシイ日比とともにシマコフカのポルフィーリ修道士が途中まで同道した。ポルフィーリは修道院で作ったロウソクを売りに行く仕事をしていたようだ。日本からの神父との別れに際して手渡したと思われる写真には、アンブロシイ日比から習い書き写したのだろう、つたない日本語で挨拶のことばが書かれており、ほほえましい。柴山家には生神女誕生修道院の修道院長セルゲイヤのサイン入り写真もあった。メッセージとともに自分の写真を贈るのは当時の習慣であった。

 両修道院とも革命後閉鎖された。修道誓願をして修道士アントニーと名前を変えた日比七平も1924年志半ばにして帰国を余儀なくされた。彼は帰国後司祭に叙聖され、父親の住む豊橋で神学を教えたが、労咳をわずらい19361月保養先の蒲郡で永眠した。修道院の復興はペレストロイカを待たねばならなかった。

 柴山神父は名古屋教会内にロウソク工房を作り、全国に販売した。その製法は「製蝋自家研究」としてまとめられ、大正から昭和にかけて出版された名古屋発の文学神学雑誌『ぱんだね』にも「蜜蝋1(フント)2圓」(1フントは約4キロ)という広告が載っている。柴山秀子と姉妹のようにして育ったウエラ水谷信の長女イリナ依名子は、「神父はよくタスキ掛けでロウソクを作っていた。ロウでたたみがツルツルになっていた。」と当時の様子を話してくれた。

 

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写真8:シマコフカの修道士ポルフィーリのポートレート            写真9:ポルフィーリのメッセージ

 

 

3.21世紀 ロシア教会を母教会として

 

 20101月、ロシア中世の教会を模した「名古屋(しん)(げん)聖堂」が鶴舞の地に完成した。成聖式(オープニング)の様子は国営テレビのニュース番組として報道され、ロシア風の建物はロシアでも評判となり、ロシアからわざわざ見学に訪れる人もある。ただ、報道時、アナウンサーが「ロシアとウクライナとベラルーシの資金で建てられた」と紹介し、実際には資金の大半は日本人信徒の献金によるものだったので、いささか心外であった。ちょうどウクライナ大統領選挙の時期だったので3国の協力関係を強調したい意向が働いたのかもしれないが、ロシアにおける政治と宗教の関係の難しさを改めて感じることとなった。

 この教会を建てるにあたって、ロシアを始めとして世界中の正教会の兄弟姉妹の物心両面の協力を頂いた。聖堂内に飾られているイコンも以前の教会から引き継いだものに加え、至聖三者聖セルギイ修道院(モスクワ)、ワラーム修道院(カレリヤ)、レウーシンスキー修道院分院(ペテルブルグ)、変容修道院(オーストラリアのロシア系教会)などから贈呈された。私の専門である聖歌の面でも、インターネットを通じて多くの方にご教示いただいた。

 教皇を頂点とするピラミッド型のヒエラルキーを持つローマカトリック教会と異なり、正教会は伝統的に各国の首座主教は対等な立場を持ち、各国の言語で祈り、各地の文化を反映する。ビザンティンからロシアに伝わった正教は、スラブ語で祈られ、ロシア風の建築スタイルが生まれ、ロシアの民族性音楽性にマッチしたロシア聖歌が歌われ、ロシア正教となった。セルビアにはセルビア正教会が、ブルガリアにはブルガリア正教会がある。日本正教会は180年前、ロシア人修道司祭ニコライによって伝道され、私たちはロシアを母教会として多くを学びつつ、育てられた。ニコライは常々「私はロシア正教を伝えに来たのではない。正教を日本の地に伝えるのだ」と語っていた。名古屋の聖堂の概観はロシア風であるが、内装は木を多用した日本人にとって居心地のよい空間となり、そこで行われる祈りも日本語である。

かつて日露戦争という不幸なできごとによって名古屋に滞在した数千の捕虜たちが、名古屋の信徒とともに祈ったように、今も日本に滞在するロシア人たちは私たちとともに祈る。柴山神父が片言ながらスラブ語で祈ったように、復活祭には各国のことばで聖歌を歌い、旅人を歓迎し、信仰を分かち合う。

 

あとがき

 

若い頃、ロシアとは決して関わるまいと思っていた。父がロシア史の研究家で、家にうんざりするほどロシアがあふれていたからである。10代の私にとってロシアは田舎くさい冴えない国であった。やがて結婚し、正教徒の血筋を受けた夫とともに家族で洗礼を受け、夫が聖職者となり、私もロシア正教と聖歌に深く関わるようになり、ロシア人信徒の世話をするうちに、とうとうロシア語まで学ぶ羽目になってしまった。学び始めれば、ロシア語はこの上なく美しく、奥深い。もっと若いうちに学んでおけばよかったと思っても後の祭りであった。

とはいえ不思議なもので、正教会との出会いも40年前、父がモスクワ大学留学時代に友人のおばあさんから頂いて持ち帰った一枚のイコンだったし、ロシア聖歌を初めて聞いたのも父のレコードのコレクションだった。すべては始めから仕組まれていたようで、神さまには逆らえないと思うのである。

「歴史家たるものは一次史料にあたれ」「金脈より人脈を大切にせよ」は父の口癖だった。柴山家でニコライ二世から下賜された金十字架やおびただしい写真を見ながら、一次史料の持つ迫力に心が躍った。また、教会を通じて世界中の様々な人と係わりながら活動している。父が生きていたら「オレの言ったとおりだろ」とニヤニヤするにちがいない。さてロシア嫌いだった私が「おろしゃ会」に寄稿するのを見たら、どんな顔をしただろうと想像すると面白い。

 

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写真10.現在の名古屋ハリストス正教会、神現聖堂

 

ペトル柴山準行1857-1939)尾張藩士準琴の次男として生まれる。1881年正教の洗礼を受ける。1890年伝教師として名古屋に赴任。1889年司祭に叙聖。1923年、関東大震災で壊れた東京復活大聖堂(ニコライ堂)の復興委員長に指名され、離名上京。茶道、不言庵の家元でもあった。

『俘虜慰安日誌』柴山正雄、オフィス・アンドゥ、2010

ロシア正教会では祈祷は教会スラブ語という古い言語で行う。教会スラブ語はロシア語の古語であるが、かなり異なる。

『大井包高』正木良一、楯岡通雄共著、大井包高伝出版会発行、1960

『豊橋ハリストス正教会100周年記念誌』、『日本正教会公会議事録』19251926

故保田孝一。岡山大学名誉教授。ロシア革命前の農村共同体ミール、経済改革の研究。後年日本とロシアの交流史を研究。主著『ニコライ二世の日記』(朝日選書、昨年講談社学術文庫で再版)

 

名古屋ハリストス正教会を訪ねる

 

おろしゃ会では、26日の日曜日、名古屋正教会の聖体礼儀(ミサ)に参加し、その後、松島神父から正教会について特別講義をしていただいた。32名の学生と社会人が出席した。

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聖体礼儀(市崎謙作氏撮影)

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聖体礼儀の後、おろしゃ会の学生たちに講義をしてくださる松島神父(市崎謙作氏撮影)

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同上

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教会を出た所で 半谷先生他一部の学生はまだ教会の中(金本祐季さん撮影)

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ロゴスキーで昼食(加藤史朗撮影)市崎先生、幅さん、 さん

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ロゴスキーで締めの挨拶をする会長の岸原君(市崎謙作氏撮影)