おろしゃ会会報 第17その4

2011年3月1日

 

おろしゃ会会員の幅さんは、昨年(2010年)の夏、ビザなし渡航で国後島を訪問する機会を得た。昨年11月メドヴェージェフ大統領が国後島を訪問して以来、日露関係は悪化の一途を辿っている。こうした時だけに、幅さんの訪問記をぜひお読みいただきたい。最後に虹を背景に写した幅さんの写真が印象的です。(加藤史朗)

 

ビザなし交流に参加して

幅 亮子

 

 

917日から20日までの4日間、北方四島交流後継者訪問事業(ビザなし訪問)として国後島へ訪問させていただきました。今回は本年度日本側の最後となる第10陣で、本年度の交流は10月に四島側の訪問団が2回訪問して終了となります。

少し自己紹介させていただくと、私は200610月から1年間、ロシアのクラスノヤルスク市にあるクラスノヤルスク国立大学(現・シベリア連邦大学)で日本語教師をしていました。今でもそこで出会った友人たちとは連絡を取り合っています。クラスノヤルスク市というのは北方領土問題と縁深い土地で、1997年に当時の橋本龍太郎首相とエリツイン大統領が会談を行い、1993年の東京宣言に基づいて2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くすことが確認された場所でもあります。元々ロシアに興味があったことからビザなし交流のことは知っていましたが、私が参加した訪問団が本年度第10陣ということで毎年こんなに多くの訪問団が渡っていることにまず驚きました。北方領土問題を知識では知っていながらも意識としてはとても低い状態で、「百聞は一見に如かず」と気楽に参加したのですが、この4日間の訪問で北方領土問題に対する意識が大きく変化しました。

 

CIMG2377

▲船上からみた古釜布

 

クラスノヤルスクのほかにもモスクワをはじめとしてロシアの様々な町へ行きましたが、国後島を訪れた私の第一印象は「ロシアへ来た」という懐かしさでした。以前日本人が住んでいた形跡は私には感じられず、人はもちろん商店やら家やら庭の感じまで、いたるところに「ロシア」を感じました。私ですらそのように感じたのですから、この島で生まれ育った子供たちにとってこの土地は「祖国ロシア」でしかないのだろうと思います。何十年も領土問題が棚上げされた状態のまま日露双方で世代交代が進んでいる現状を目の当たりにした気がしました。

 

CIMG2384

▲島のほとんどの道路が未舗装。右の赤い屋根の建物が滞在した「友好の家」。

 

 島の子供たちの将来の夢はエコノミスト、プログラマー、医者、ジャーナリスト、消防士、法律家、軍人など。多かったのが日本語通訳でした。島へは北方四島交流事業として日本語教師の派遣も行われています。クラスノヤルスクでは些細なことから人種的な差別を受け悲しい思いをした経験がありますが、国後島では通りがかりの子供たちが「こんにちは」と日本語で声を掛けてきて温かい雰囲気がありました。住民との交流会では書道、折り紙、バルーンアート、羽子板、竹馬などを紹介し、どのコーナーも多くの参加者で大盛況でした。また意見交換会では日本では産休・育休制度はどうなっているのか、子沢山家族に対する支援はあるのか、休日に家族はどのようなことをして過ごすのかといった質問があり、島の住民が一般的な日本の生活に関心を持っていることがわかりました。楽しみにしていた恒例のサッカー対決では連敗続きの日本チームの勝利の女神となるべく私も参戦しましたが敗北。大した戦力にはなれませんでしたが、久々に全力疾走して和気あいあいと楽しい試合になりました。

 

 

CIMG2853

▲書道の紹介コーナー

CIMG2628

▲サッカー対決。紅一点で参加。

 

 島ではたくさんの新しい施設が建設中でした。待機児童問題解消が期待されている定員120人の保育幼稚園、大型船も接岸できる港、国後島とユジノサハリンスク間の定期航路を持つメンデレーエフ空港、下水処理場。その説明の中で毎回出てくるのが政府主導の「クリル社会経済発展計画」。島のインフラ整備が進むことは住民にとっては嬉しいことに違いありませんが、ロシア政府が四島を重要視しているというアピールとも受け取れます。ホームビジット先では「近々プーチン首相とメドベージェフ大統領が島を訪問する」という噂が住民の間に広まっていると耳にしました。ロシア政府の四島実効支配が強化されてきているこのタイミングで、今回訪問団に参加させていただいたことは大変意義のあることだと感じています。

 国後島の住民たちは皆、我々訪問団を温かく歓迎してくれました。ホームビジットでお世話になった家族は翌日も私たちに会いに友好の家にまで来てくれました。彼らのおかげで本当に楽しく有意義な4日間を過ごすことができました。それだからこそ北方領土という大きな問題が日露間に横たわり、平和条約締結の妨げとなっていることを本当に悲しく思います。クラスノヤルスクに滞在していた時、ロシア人の親友と北方領土問題について少し話したことがあります。彼女は日露間に領土問題は存在しないとはっきりと答えました。彼女の他にも、授業で使う辞書に載っている日本地図を見、四島が日本の領土になっているのはおかしいという学生はたくさんいました。その時私はただこのような問題があるということを説明しただけで、学生たちと議論をする勇気はありませんでした。それは問題に対する知識があまりに少なかったから、仲のいい友達や学生と議論になるのが嫌だったからです。今回訪問団に参加したことで領土問題がとても身近な問題として捉えられるようになりました。またロシアが好きだからこそ、この問題から目を背けてはいけないという思いが強くなりました。領土問題解決と平和条約締結に至るまで一会社員である自分に何ができるだろうかと思うと、あまりの問題の大きさに自分の無力さを痛感します。しかし逆に、自分は「できることしかできない」のだからそれだけはやっていきたい。それは国後島を訪問して私が見たこと聞いたこと感じたことをいろんな人に話すこと、北方領土問題について多くの人に知ってもらうことだと思っています。それに自分自身ももっと北方領土問題について勉強していかなくてはならないと思っています。この訪問は私にとって大きなきっかけとなりました。

CIMG2427

▲蝋燭岩(悪魔の指)にかかる虹

 

江頭摩耶さんは、愛知県立芸術大学の学生時代からヴァイオリンをロシア人のヴァイマン先生に師事、県立大学のロシア語の授業にも参加した。ロシア語を学ぶ目的意識がはっきりしており、相当なスピードでロシア語をマスターしていった。長くフィンランドで研修を積まれ、昨年秋、一時帰国になり、母校のホールで帰国記念のコンサートを開かれた。彼女の後輩で、今もロシア語を履修している鳥山頼子さんからの連絡で、家内と一緒に出かけ、力強いヴァイオリンの演奏と見事なロシア語力に圧倒された。ロシア語で語りかけられ、たじろいだ私は日本語で話しましょうと白旗を揚げてしまった。この6月からは、ポルトガルのオーケストラでコンサートマスターを務められるという。誠にお見事である!ブラーボと喝采を送りたい。(加藤史朗)

エジプトのロシア

江頭摩耶

 

 私はかつて愛知県立大学で加藤先生にロシア語を教えていただいた者で、現在はフィンランドのヘルシンキでヴァイオリンを弾いています。

 今回は昨年末、クリスマス休暇を利用して友人と出かけたエジプトの見聞録を寄稿させていただきたいと思います。

 

 北国に住む者にとって太陽はあこがれ、特に長く厳しい冬に一時でも南へ脱出するのは何よりの息抜きです。

 一年を通じてフィンランドからは、バカンス用に航空券とホテルの宿泊がセットになったパッケージツアーがたくさん出ています。徹底的に何も考えなくていいように、南のリゾート地までの直行便が用意され(大手の旅行会社はフィンエアーの子会社なのです)、空港からホテルまでも旅行会社による送迎が手配されています。このようなバカンス便は、特にクリスマスのシーズンには、つかの間の太陽を楽しもうという人たちで満席です。

 

 

 

 私たちが今回向かったのはHurghadaというエジプトのリゾート地で、ここ10年ほどで急速に開発された、紅海のほとりの町です。もともと小さな漁師町だったHurghadaは、一年を通じて温暖で、冬でも泳げる気候と美しい珊瑚礁の海と砂浜を売り物に、Sharm El SheikEl Gouna などと共に、 エジプトを代表する紅海リゾート地へと変貌を遂げました。海岸沿いにはヨーロッパやアメリカ系の大型リゾートホテルが立ち並び、建設途中のホテルも数多く見られます。

 

 そんなHurghadaはリゾートだけの町で、特にホテルが立ち並ぶエリアには一般のエジプト人が生活するような場所は無いのですが、驚いたことに、この町はロシアの飛び地と化していました。

 

 あまりにもロシア人の観光客が多いため、すでに空港からすべての案内表示が英語とロシア語の並記です。

 

 

 ホテルエリアでもたいがいの看板はロシア語でも書かれており、そこで働くエジプト人たちも流暢なロシア語を話します。

 ロシア語は英語の次の共通語としての地位を完全に確かなものにしていました。

 

 ぜいたくにお金を使う反面、外国に来てもロシア語しか話さず、自分たちのやり方で押し通すロシア人観光客に対する地元の人たちの感情は複雑なものがあるようでした。

 

 ロシア人が世界中に旅行、または移住するようになったことで、ロシア以外の地域でもロシア語を耳にすることが多くなっています。エジプト人と日本人の共通語がロシア語であるということもあり得るわけで、このような共通語としてのロシア語の使われる場面がこれからますます増えていくのではないでしょうか。

 余談ですが、紅海は水も透明で珊瑚礁も美しく、最高のリゾート地でした。乱文になりましたが、この辺で今回のレポートを終わりにしたいと思います。観光だけが産業であるHurghadaのような町は今頃どうなっているのでしょうか。エジプト情勢の好転を願うばかりです。

 

ウラジオストック滞在記

 

愛知県立大学外国語学部国際関係学科一年 猪狩春樹

 

 

大学生になったらやりたいこと、 海外旅行、ボランティア活動、サイクリング、etc….

受験生時代にメモしていたリストの一番上にあった項目、海外旅行。別に留学とか語学研修に行きたい訳ではなかったが、それはとりあえず外国に行き、そこで生活してその国に「空気」に触れてみたいという願望だった。というわけで長期休暇を利用して、海外へ行きたいと親に相談、そしたら父親が知り合いのウラジオストックに住むロシア人と連絡をとってくれて、夏にその家庭にホームステイするということが漠然とした形で決まった。これが5月某日。最初から海外旅行先をロシアにするつもりはなかった。一応第二外国語でロシア語を選択したけど、ほかにも興味のある国はいくつもある。第二外国語選択期にたまたまドストエフスキーを読んでいて、たまたま父親の仕事上、ロシアに知人がいたそれだけのことだった。きっかけなんてものはそんなものだと思う。

ウラジオストックと東京はそれほど離れていない、飛行機で2時間ほどの距離。しかし、ロシアに入国するための手続きはとても時間がかかった。かなりの時間をかけてビザを申請した。計画を立て始めたのが5月じゃなかったら間に合わなかったかもしれない。近いのに遠い国、それがロシアにたいして持っている自分のイメージとなった。ロシアに行くと友人に話すとまず驚かれる。ロシアと聞いてモスクワのほうのヨーロッパに比較的近い地域を想起するからだろうか。日本では遠くてマイナーという感じが強い。しかし、ウラジオストックに行ってみて強く感じたことは日本との深い関わりの歴史がこの町にあるということだった。ウラジオストックの中心街にある日本センターの前には、姉妹都市である鳥取から贈られた大仏や、与謝野晶子の詩が彫られていた。ロシアの大学でも日本は人気のようで中国や韓国と同じぐらいの学科の設備が充実していた。ロシアでこんなに日本が注目されているとはまったく思ってもいなかった。実際、町のあらゆるところで、日本語の書かれた車や看板などをよく見かけた。とくに日本車の数は多くて、日本の自動車産業が世界で展開していることを実地で知れた感じだった。

 さて、ウラジオストックに着いてまず感じたのは道路があまり整備されてないことだった。たくさんの車が走る大通りはきちんとしているが、ちょっと裏通りに行くと道がガタガタだったり崩れたりしていた。またあちこちで工事をしていて、どこに行ってもドリル音が聞こえた。来年、ウラジオストックではAPECが開かれるために、建設ラッシュのようだ。橋の建設もやっていてとても活気付いていた。1年後は様変わりしていることだろう。

自分がウラジオストックで行ったところは、観光スポットとして定番の鷹巣展望台、町の中心街、博物館、海、港、教会、近い将来開かれてしまう山の中などベタからマイナーまでいろいろなところに行った。ウラジオストックができた経緯や日露戦争の状況、ソ連時代の足跡、まだまだ残っている豊かな自然や伝統文化など自分の目で見て、貴重な経験をすることができた。

 自分が知識として知っていたロシアついてのことがいかに希薄であったがよくわかった。実際に行ってみなければわからないことがたくさんあった。自分がお世話になったホストファミリーはペレストロイカ前後を生きてきた人たちで、体制の変化によって生じた生活の変化や困難を話してくれました。ソ連時代は昔のことではないということを感じた。

 当然のことだが、ロシアではロシア語が使われている。頭ではよく分かっていても感覚として実感できるまでは少しだけ時間がかかってしまった。ロシア語を聞くたびにもっと勉強しとくだったと感じる。そうすればもっと行動領域が広がりもっとできることがたくさんあったと思う。言葉が通じないという認識を持ってしまうと積極的に活動することが難しくなる。また、疎外感も感じる。自分のロシア語は実用レベルには程遠いのでホームステイ先のコミュニケーションは英語でしたのだが、英語も完璧に話せるわけではない。自分のしたいこと、意志を伝えることに支障はなくても、ちょっとした雑談をするのに必要な英会話能力がなかった。自分がいかにつたわりにくくしゃべっているかよくわかった。また自分の気持ちをうまく伝えられないもどかしさはやはり辛い。自分は感謝の気持ちでいっぱいなのに、спасибо(ありがとう)しか言えない。しかし自分がロシアで使ったロシア語ナンバーワンは間違いなくспасибо(ありがとう)だと思う。本当に感謝してもしきれないくらいだったものだから。普通のお店でも英語は通じず、ホストファミリーにロシア語に通訳してもらわなければ買い物もできなかった。英語が国際共通語だと思ってた自分が甘かったのだと思う。自分がなんとなく持っていた英語の万能性は音を立てて崩れた。持っていったロシア語の単語帳を使って、意味を読もうとしたり積極的にロシア語の意味を聞いてみたりして過ごしたので、帰るころになるとロシア語が少しだけ身近になったような気がした。海外に行っても外国語は上達するとは限らないとはよく聞いてきた定型句だったけれども、少なくともその国に行くことは外国語上達の大きなメリットになるのではないかと思った。特に自分の母国語が通じない環境に自分を置いてみると、自然と外国語に触れる機会が多くなるので、話せるようになるのではないかと感じた。またネイティブの人が使うロシア語に耳を傾けてみて、それをまねて覚えてしまうこともその国に行ってしまえば、チャンスがいくらでもある。少なくとも実際に現地で過ごしてみることは外国語の勉強になる最高の環境に身を置くことになることだけは確実に言える。

 今回の約一週間のウラジオストックの滞在を通して、いろいろ経験になったことが多い。国が違えば、違うものはとてもたくさんある。ロシアの食物、ロシアの町、ロシアの建物、ロシアの家庭、ロシアの生活、今まで日本でしか暮らしてなくて当たり前にしてきたことが、海外では通用しない。このことはいかに自分が狭い世界に生きていたかを実感させた。また海外で生活することによって日本をより客観的に見られるようになったように感じた。成田空港に帰ってきて日本はサービスの行き届いた国だったのだと改めて感じたし、自販機やコンビニがそこかしこにあるのも日本の特徴的なところではないかと思った。国によってこれだけいろいろなものが違うのだから、外国に行って異文化を体験することで広がる自分の視野や知識はとてつもなく大きなものになると思う。実際にロシアに行ってみて、テレビや新聞が報道しているロシアとは違うロシアを体感でき、より深くロシアを知ることができたと思う。そしてさらにロシアに興味がわいてきたのでこれからもっとロシア語の学習には励んでいきたいと思っている。もちろん英語も。

 最後に今回の旅行でお世話になったり、協力してくださった方々、おろしゃ会会報に書いてみないかとおっしゃってくださった加藤史朗先生、ロシアに行くために情報提供や相談にのってくれたおろしゃ会の皆様に感謝を申し上げます。ありがとうございました。

117_9359

日本センターの近くにある鳥取から贈られた大仏

117_9284

APECに向けて現在建設中の橋