おろしゃ会会報 第17号その6

2011年10月6日

 

明治大学文学部教授の豊川浩一先生は、わが国のプガチョーフ反乱研究の第一人者です。最近は、ロシアの奥深い地方にもこまめに出かけ、プガチョーフ反乱の周辺にも光を当て、研究の裾野を広げておられます。現地のアルヒーフ(文書館)を訪ねて史料を渉猟する傍ら、現地の研究者や関係者と交流したりして文字通り「研究者冥利」を味わっておられるようです。前号に引き続き、調査旅行の貴重な記録を寄せていただきましたので、写真とともに掲載いたします。若い学徒の刺激になれば幸いです。(加藤史朗)

 

3次「現代版プガチョーフ叛乱」遠征

―キンジヤ・アルスラーノフの足跡を訪ねて―

 

豊川浩一(明治大学)

 

 

筆者は、昨年8月から9月にかけて(2010823日〜911オレンブルクとモスクワへ出張をした。今回の研究テーマは「18世紀科学アカデミーの学術遠征とオレンブルク遠征隊」であったが、年来のテーマである「プガチョーフ叛乱研究」を深めようとする旅でもあった。プガチョーフ叛乱の跡を訪ねながらも、随分とウラルの「奥地」にまで来たという想いを抱きつつ、叛乱の一翼を担った当時のバシキール人たちが生き、そして今も生きている大地を体感することができた。それゆえ、すでに1年も前の話であるが、ここに記しておくことも満更無駄ではあるまいと考えて記すことにしよう。オレンブルクには19939月と20093月に続き3度目である(『おろしゃ会』16号を見て欲しい。本文中に登場する人物の略称についても同号を参照されたい)、今回は夏季の少し長めの調査であり以前の調査とは趣が異なっていた。なお、いつものように日記風の体裁をとり後に旅する人の参考になればと思う。ただし、飲み物に使いすぎた感があり、こちらの方はあまり参考にはならないかもしれない。

 

823日(月曜日)東京、成田、モスクワ。

成田12時発、モスクワ515分着、モスクワ、晴れ、21度蒸し暑い。本日は強行軍。6時起床、食事、出発。バスで。82分の新宿発成田エクスプレスで。定刻の飛行機。順調。飛行機内の食事は良い。缶ビール1100ルーブリ也。満席。隣の日本人女性2人組はスペインに行くとのこと。到着したモスクワ・シュレメチエヴォ空港の変わり様に驚く。明るくなり、パスポート・コントロールもスムーズだ。アエロ・エクスプレスのホームが建物の3階にあり、かつ出口から遠いのが難点。18時発のベロルースカヤ駅行きアエロ・エクスプレスに乗る。300ルーブリ(1ルーブリ=4円)。35分で到着。地下鉄に乗る。10回分の切符を購入240ルーブリ。1回分は26ルーブリ。パルティザンスカヤ駅(駅名が変更になってしばらく経つ)にあるイズマイロヴォのホテル「アルファ」泊。荷物を置いてすぐ両替所・食料品店へ。ビール2本、水1本、パン1個。275ルーブリ。オレンブルク農業大学ロシア史講座主任(「主任教授氏」と略称。以下の略称の由来については『おろしゃ会』16号を見て欲しい)に電話。明日着くと伝える。日本から連絡していたので車で迎えに行くから安心するようにとのこと。安心できません!電話代31ルーブリ(1分!)。合計846ルーブリ。(両替200ドル=5800ルーブリ)。

 

824日(火曜日)モスクワ(曇り20度)、オレンブルク(晴れ、曇り、雨、25度)。

5時起床。出発の準備。昨日のコニャック小瓶代金130ルーブリ。645分に出発。725分、パヴェレツカヤ駅に到着。730分発アエロ・エクスプレス(300ルーブリ)にてドモジェーヴォ空港へ。817分着。飛行場が大きく綺麗になり、壁面がガラス張りになったのに驚く。空港のなかも素晴らしい。チェックインを済ませて検査場へ。初めてのレントゲン検査を体験。ロビーにて朝食。大きなサンドイッチ(355ルーブリ)。満腹。飛行機は出発30分前の1010分に搭乗できた。機内食あり。定刻1440分オレンブルク着。オレンブルク農業大学の「主任教授氏」とキンジヤ・アルスラーノフの「末裔氏」の両人が迎えに来る。荷物を受け取り大学の寮へ。途中、携帯電話のシムカードを購入。ビーライン200ルーブリ。大学の寮を見学。主任教授氏によると、「自分が準備したものは何でも素晴らしいとのこと(!?)」。1階のカフェにてお茶。その後、部屋にて記念写真。そこで主任教授氏と別れ、末裔氏とともにアルヒーフに向けて散歩。途中雨交じりの強風。テレビでは「ウロガン」と言っていた。「主任教授氏」から「末裔氏」の携帯へ寮の移動を提案する電話あり。当該の寮の見学をした後、「末裔氏」の意見に従って移ることにする。まずはバスにて帰寮。バス代10ルーブリ。キオスクでビール「ババリア」1本、水1リットル、合わせて67ルーブリ。夕食を先ほどお茶を飲んだ寮の下のカフェでとる。コーヒー、サラダ、サリャンカ、鶏肉の料理、パン4枚半、370ルーブリ。本日の支出1432ルーブリ也。

オレンブルク農業大学の寮.JPG

オレンブルク農業大学の寮

 

オレンブルクにあるルィチコーフの住んでいた家.JPG

オレンブルクにあるルィチコーフの住んでいた家

 

 

825日(水曜日)オレンブルク(晴れ、曇り、雨、27度〜30度)。

7時起床。電気がつかない。暗がりの中で荷物の整理。その後、この階の係に来てもらい電気の修理。8時半に朝食。パン、コーヒー、サラダ、目玉焼き、合計170ルーブリ。朝食後、末裔氏来る。お土産の日本茶、「写真はがき」(富士山、日光東照宮、松村松園による女性絵)を渡す。新しい寮への引っ越し。コメンダント(寮の管理者)にレギストラーツィアを依頼して、「末裔氏」に古文書館近くまで送ってもらう。前年知り合いになった「主任教授氏」指導の大学院生で館員でもある女性に連絡(「助手氏」と略称)。彼女に絵ハガキ3枚のプレゼント。12時過ぎ、教育大学の教員で前年出迎えてくれた人(「出迎え氏」)の従妹から電話。昼食を一緒にとのこと。近くの安い食堂を教えてもらう。彼女は水を飲むのみ。要は、私が食事に困っているかもしれないから助けてやろうとのこと。170ルーブリ(スープ、ペリメニ、パン2枚)。古文書館に戻ると、今度は「助手氏」がいろいろと気を使ってくれて、茶と菓子の準備あり。17時まで勉強。アイスクリーム(20ルーブリ)を食べながらウラル川の岸辺に立つチカーロフの像まで散歩。帰りに同地の新聞『南ウラル新聞』(9ルーブリ)、水を購入(19ルーブリ)。一度寮に帰り、再び外出。19時から38日通りにあるカトリック教会のミサに与る。帰りに食料品を購入(パン、ジュース、コニャク、ワイン、ビール、チーズ650ルーブリ)。本日の支出1029ルーブリ也。

 

826日(木曜日)オレンブルク、晴れ(30度、閲覧室にあるクーラーが稼働!)

6時起床。照明が点灯するまで随分と時間がかかる。朝食後、「シベリア抑留問題」について少々勉強(今回、オレンブルク農業大学主催シンポジウム「戦勝65周年」でこのテーマでの報告を依頼されていた)。10時少し前にコメンダントのところへ出向く。彼個人の家に宿泊しいていることにして、レギストラーツィアが済んでいるとしてレギストラーツィア用紙を受け取る。この用紙はオレンブルクを出発する前に彼に渡す必要ありとのこと。手数料212ルーブリ也。5時まで古文書館にて勉強。途中1時過ぎに昨日の食堂で昼食。冷製スープ、魚、マカロニ、コンポート、115ルーブリ。「末裔氏」から携帯に電話あり。8時に「尺八氏」とともに来るという。帰りに食料品を購入。パン11ルーブリ、ビール・バルティカ7番(これが1番旨い!)37ルーブリ、水22ルーブリ、ヨーグルト224ルーブリ、合計84ルーブリ。21時前に「尺八氏」が来る。3人で再会を祝す。蜂蜜、牛乳で作った特別飲料クマ、ウォッカ、ビール、水、きゅうりの酢漬け、トマト、パン。よく飲む。本日の支出411ルーブリ也。

 

827日(金曜日)晴れ(日中は3234度)オレンブルク、カルガリ。

6時半に起床。朝食後、古文書館へ。4時まで勉強。途中、120分にいつもの食堂で昼食(黒パン2枚、ミカンジュース、ボルシチ、カツレツとご飯、155ルーブリ)。勉強後、紅茶(58ルーブリ)、ビール(いつものバルティカ7番、なぜか40ルーブリ、店によって値段が異なる)を購入し帰宅。7時、「主任教授氏」の手配でオレンブルク近郊のタタール人村カルガリへのエクスカーション。運転手はタタール人。カルガリではメチェーチ(1748年建立)を訪ね、そこの住職イマームでハジを表敬訪問。カルガリのイスラム教徒の情況を聞いた後、彼の案内で別のメチェーチ(別名「白いメチェーチ」、そこの堂守の少年はタジキスタンから勉強のために来たとのこと)、お墓や近郊の古い建物を見て回る。今はラマザン月。日が落ちてから食事とのこと。この地域の人々が集まる集会所に行く。ただしそこは女人禁制の男だけの世界。まずはお祈りから始まる。カザンの放送局のインタビューを受ける。カメラを回していたのは何とこの町の創設者セイト・ハヤーリンの子孫という。この地方を歩いていてよくあることだが、まさに「生きている歴史」を実感することができる。同じ場所で食事をとる。テーブルの上にはさまざまな食べ物、スイカ、瓜、ブドウ、モモ、肉、プローフ、ジュース、水、などが並んでいた。イマームが招待してくれたおかげでいろいろな人に会うことができた。食事の後、その中の一人タタール人医師にして実業家氏の家(屋敷)に行く。豪邸。ロシア風(いわゆるサウナ)風呂とプール、さらに筋トレ施設が屋内(!)にある。ご尊父との共著『オレンブルクのタタール人たち』(カザン、2009年)を贈呈される。コニャクを飲み、手作りのラグーザ、サラミとチーズをいただく。2330分に退散。「主任教授氏」といると大旅行となる。本日の支出253ルーブリ也。

 

カルガリのメチェーチ.JPG

カルガリのメチェーチ

 

カルガリにある最古の建造物(18世紀の倉庫).JPG

カルガリにある最古の建造物(18世紀の倉庫)

 

カルガリでセイト・ハヤーリンの末裔氏からインタビューを受けている様子.JPG

カルガリでセイト・ハヤーリンの末裔氏からインタビューを受けている様子

 

カルガリの屋並み.JPG

カルガリの屋並み

カルガリの集会所におけるラマザーンの祈りの風景.JPG

カルガリの集会所におけるラマザンの祈りの風景

 

828日(土)オレンブルク、バシキーリア各地、晴れ、24度。

末裔氏の案内で彼の故郷を訪ねる旅となる。素晴らしいエクスカーションであった。目的はプガチョーフ叛乱の初期にバシキール人を参加させる上で大きな役割を果たしたバシキール人指導者キンジヤ・アルスラーノフの足跡を訪ねる旅である。出発はこの叛乱指導者の正真正銘の「末裔氏」、「主任教授氏」、「尺八氏」の友人のバシキール人、私の以上4名である。朝7時半に寮を出発。行程は以下の通り。オレンブルク→カルガリ→(サクマラ、オクチャーブリスキーは通過しただけ)→エルモラーエヴォ村(セロー)→シャバギン村(ジェレーヴニャ)→クメルタウ→マヤーチニー→オレンブルク。@まずは2時間30分以上かけてバシコルトスタンのクユルガジンスキー地区エルモラーエヴォ村(同地方の行政の中心地)到着。行政庁舎内で地方長官を表敬訪問。お茶を飲みながらバシキーリアを訪れた理由など話す。テレビ、ラジオ、新聞のインタビュアーが来ている。外国人がここへ来るという「歴史的な出来事」なのでそうしたメディアには出なければならないとのこと。キンジヤ・アルスラーノフの記念碑が最近建てられたとのことでここを訪れることにする。至る所で写真撮影。この村のメチェーチと正教教会を訪ね、それぞれの住職の話を聞く。ここのメチェーチの住職はハジではない。また1971年生まれの正教教会の住職はごく最近この教会に着任したとのこと。イコンを贈呈される。近くのレストランで昼食。トマトの上にチーズを載せた1品、イワシの燻製、ナスの上にチーズを載せて焼いた料理、マス焼き、ジャガイモときのこを混ぜた料理(料理名不明)、果物、ブイヨンのスープ、バシキール風ピロシキ、牛肉、ウォッカ、水、ジュース。A次いで、同地区シャバギン村の「プーシキン博物館」を訪問。館長の案内を受ける。といっても大きめの一部屋にプーシキン関係の本を集めたもの。日本のプーシキン人気を知っていた。何か日本におけるプーシキン関係の資料を送ると安請け合いする(後日、岩波文庫版『エヴゲーニー・オネーギン』の翻訳本を主任教授氏を通じて贈る)。Bさらに、同地区キリヤ=アブィズ村(ジェレーヴニャ)の「キンジヤ・アルスラーノフ博物館」を訪れる。ここは2階建ての博物館で、バシキール人の歴史・人類学的な側面から生活に関連する資料を集めた博物館。「プガチョーフ叛乱」のコーナーでは、当時の槍や鉄砲をもって写真撮影(これで私もプガチョーフ叛乱軍兵士!?)。お茶。そこの館員も含めて移動。キンジヤ・アルスラーノフ関連の場所を訪ねる。彼が隠れたとされる洞窟、彼が死んで葬られたと伝えられる墓(事実は不明)、などを訪ねる。何といっても素晴らしかったウラルのステップの広大さだ。まさに自由を感じさせる「プラストール」そのものだ。バシキール人はこうしたステップが好きなのだ。キンジヤ・アルスラーノフのマニフェストに出てくる「ステップの野獣のように生きよ」という言葉は本当なのだと感じる。遅れて「尺八氏」が合流。広大なステップの片隅にあるせせらぎのそばにシートを敷き休息し飲む(!)。C最後に、末裔氏の生まれ故郷を訪ねた。昔の日本の田舎を思わせる木造の家屋と風景。トイレも外の板張り小屋。道にはアヒルと牛たちが群れをなして行進。そのあとを子供たちが自転車と三輪車で追いかける。まだ明るいが、夜9時近くに帰途につく。帰りは尺八氏の車で。2330分過ぎに寮に到着。昨日同様に寮の衛視氏を起こしてドアを開けてもらう。本日支出0ルーブリ也。

 

バシコルトスタン・エルモラーエヴォ村キンジヤ・アルスラーノフの銅像の前で.JPG

バシコルトスタン・エルモラーエヴォ村キンジヤ・アルスラーノフの銅像の前で

 

キンジヤ・アルスラーノフの墓@.JPG

キンジヤ・アルスラーノフの墓@

キンジヤ・アルスラーノフの墓A.JPG

キンジヤ・アルスラーノフの墓A

バシコルトスタン「末裔氏」故郷の村の風景.JPG

バシコルトスタン「末裔氏」故郷の村の風景

 

バシコルトスタンの標識の前で.JPG

バシコルトスタンの標識の前で

 

829日(日)オレンブルク、晴れ、18度。

8時過ぎに起床。少々勉強。11時からのカトリックのミサに与る。その後、1時半まで食料品購入を兼ねた散歩(コニャック305ルーブリ、フランス・ワイン235ルーブリ、パン9ルーブリ50カペイカ、韓国製即席麺「ダシロック」218ルーブリ、ジュース30ルーブリ)。本日、「オレンブルクの日(день города)」。街中を歩くラクダを見る!おそらく少し前まではオレンブルクでそうした光景はよく見られたのであろう。帰宅してから寝たり本を読んだり。本日の支出598ルーブリ也。

 

830日(月)オレンブルク、サラクタシュ、晴れ3234度(日中)。

本日、前半はおとなしく古文書館で勉強。助手氏のお茶に預かる。昼食はいつもの食堂。黒パン、カンポート、ボルシチ、ピーマン肉詰め、不明な料理(?)、125ルーブリ。18世紀を勉強している年配女性と会うもあまり会話にならず。ただルィチコーフに関する本を書いたとのこと。後で著名な歴史学者だと知る。勉強の後、本を探しにトゥルケスタンスカヤ27番地の中央書店へ行く。期待はずれ。結局、古文書館近くの本屋(レーニンスキー通りの教科書中心に販売している書店)で本を購入。739ルーブリ(日本在住のロシア人M氏の手になる日露戦争後の日露交渉、オレンブルク史の教科書2巻本、ルィチコーフに関する歴史小説)。19時半にカザフ人研究者の家へご招待。夫婦ともオレンブルク農業大学の経済と農学の教師。夫人は博士で教授。夫は博士候補で助教授。楽しいひと時であった。コニャックを随分いただく。帰宅は23時半。例の如く、主任教授氏がガラスを叩き、ドアを開けてもらう。23時の門限に厳しい衛視氏の一言。「宜しいですが、もう2度と開けません!」なお、午後から携帯電話による日本へのメールは送信不能となる。本日の支出864ルーブリ也

 

オレンブルク州文書館.JPG

オレンブルク州文書館

 

831日(火)オレンブルク、晴れ、曇り、雨、晴れ。1日の天気が激しく変化する。

7時過ぎに起床するも、さすがに昨日の疲れがたまっていて体が動かず。それでも915分には出発。本日も9時半から1620分まで古文書館。明日91日は、「古文書館のドアが開く日」という古文書館の特別展準備のために早めに退室させられる。本来、明日は休館だが、私だけ滞在期間が短いので明日来ることを許可される。10時に来るようにとのこと。昼食は、ジュース、スープ、グーヤーシュとご飯、パン2枚、170ルーブリ。食事中汗が出る。これも昨日飲み過ぎたせいか。古文書館で勉強の後、レーニンスキー通りを散歩。食料品店で買い物。水、ジュース、ビール(バティルカ8番「小麦」)、ヨーグルト、9770ルーブリ。夕方、末裔氏、報告原稿の新しいバージョンを持って来訪。立派なロシア語に添削されていた。感謝。支出26770ルーブリ也。

 

91日(水曜日)オレンブルク、晴れ、23度。

7時起床。朝食後、読書。10時に古文書館へ。特別許可による入館。閲覧室ではなく閲覧室担当女性館員の控え室で勉強。館員とも世間話。館員が1時に昼食に一旦帰宅するというので私も外に出て食事。パン3枚、スープ、マカロニと魚、サラダ、140ルーブリ。昼食の帰りに主任教授氏に会う。本日から授業とかで忙しそう。両替所へ。17時近くまで勉強。その後、末裔氏に電話してパソコン用モデムを買う手伝いをお願いする。ビーラインUSBモデム1040ルーブリ。接続に失敗。それでも、お祝い用にシャンパン、水、チーズ、パン、韓国製即席麺「ダシロック」を購入。31260ルーブリ。末裔氏と寮でお祝い(!?)。本日の支出149260ルーブリ。(両替200ドル=6120ルーブリ)。

 

 

92日(木曜日)オレンブルク、朝の気温は15度、日中は25度前後。

早朝からインターネットに接続しようとするも失敗。発表原稿を少し読む。本日の報告時間を15分に抑えたいが厳しい。9時半から古文書館で勉強。14時から報告と聞いていたので昼食もとらずに勉強(実は15時半からであった)。空腹を抱えたまま末裔氏と助手氏に伴われて大学へ向かう。「外国人」の私は「人寄せパンダ」の役回り。講堂は立錐の余地のないほど多くの人で溢れかえっていた。終了後にウォッカ付きのお茶会。報告では冷や汗をかき、お茶会ではお酒のために大汗をかく。別室で地元放送局のインタビューを受ける。古文書館へ戻ってから、先日(830日)、知り合いになった老研究者(П.И.ルィチコーフの研究者故マトヴィエーフスキーのお嬢さん)とルィチコーフ研究について話を聞く。明日、本を持ってきてくれるとのこと。15時に古文書館を出てカルバン・サライ(帝政時代に隊商の宿泊所を兼ねたイスラム寺院)へ行く。1993年に初めて訪れた時とは随分と趣きが変わっていた(その時の様子については拙稿「「現代版プガチョーフ叛乱」遠征―オレンブルク、ウファ、カザン」『窓』89号、1994年を見て欲しい)。200ルーブリのお布施。寮近くの店でパン、水、ビール、ジュース、チョコレートを購入。18720ルーブリ。帰宅後、インターネット、開通!あな、うれしや!夜8時に主任教授氏、その娘、末裔氏が迎えに来る。「民族村」のアルメニア館へ。伝統料理に舌鼓をうちながらコニャクを飲む。1130分に帰宅。本日の衛視氏門限にうるさくない人でよかった。支出38720ルーブリ也。

 

 

93日(金曜日)オレンブルク、ソリ・イレツク、晴れ、23度から32度。

本日でオレンブルク州古文書館での仕事は終わり。朝、館員にチョコレートをプレゼント。14時に老ルィチコーフ研究者が来て本3冊を贈呈される(マトヴィエーフスキーの手になる『ルィチコーフの生涯』12巻と『1819世紀におけるオレンブルク地方の歴史概観』)。素晴らしい。『ルィチコーフの生涯』第3巻はすでに出版社に提出済みで本年刊行とのこと(2011年に刊行された)。第4巻も刊行が予定されている。住所などを教えてもらう。向かいの教育大学の食堂で昼食。パン1枚、スープ、ご飯、グーヤーシュ、75ルーブリ。やはり学生食堂の方が安い。本日、古文書館の利用は16時までとのこと。17時過ぎ、「尺八氏」の車で1時間半ほどかけて有名なソリ・イレツク湖へ。歴史的に塩採取湖として有名なこの湖もこの辺りでは行楽地として通っている。到着後、まず「尺八氏」は浜辺の家でビールと水を購入。ビールは私。しばらく話し込んだ後、浜辺に毛布を引き、パンツ(海水パンツではない!?)一つで湖に入る。寒い。イスラエルにある「死海」と同じく塩分濃度が高いそうだ(本家の「死海」の方は知らない)。体が浮くのに驚く。湖の岸辺には塩の固まりができている。塩を運ぶ列車も走り、塩を掘るシャフトも見える。エカチェリンブルクから来たという熟女二人組に「尺八氏」がしきりに話しかける。チリの落盤事故が話題となる。夜20時近くまで明るい。暗くなりかけた21時帰途へ。途中、隣近所に配るとかで路上販売のスイカを41個(!)購入。1個私にくれる。2315分寮に到着。いつものように窓を叩いてドアを開けてもらう。支出75ルーブリ也。

 

94日(土)オレンブルク、モスクワ。オレンブルクは晴れで日中は暑い、モスクワ15度。

午前中はゆっくり休息。1110分ごろに「末裔氏」から電話。1210分前に迎えに来るという。本日、「民族村」で朝鮮人村開村記念のフェスティバルがあるとのこと。そこに行こうというのだ。迎えに来たのは、「末裔氏」とバシキーリアへ旅行した時に同行してくれたバシキール人。バスで会場へ。12時過ぎに到着。フェスティバルでいろいろな人に会う。北大スラ研N氏をよく知る人、朝鮮人協会会長、オレンブルク国立大学歴史学博士候補の女性教師とその息子、など。またフェスティバルでは「尺八氏」がクライ(葦で出来た日本の尺八に似た民族楽器)の演奏を披露した。会の終了後には招待されて朝鮮人協会の宴席に。料理が日本食とまったく同じなのでびっくり。日本の料理は朝鮮半島由来か?白菜ときゅうりのキムチは別にして、イカリング、エビフライ、ゼンマイの煮物、のり巻きなど。コニャック、ウォッカ、水、ジュースあり。前日行ったアルメニア館館長とも会う。宴会を催したカザフ人ディレクトルの招待でカザフ博物館(ユルタの形をしている)を見学。そこで知り会った朝鮮人(とお嬢さん)の車で寮まで送ってもらう。途中、中央郵便局へ行き本を日本へ送る。航空郵便送料1893ルーブリ(実は、20111月、宛て名不明のためにオレンブルクに戻ったとのこと。私が宛て名を違えたのか?)。その後17時に「主任授氏」と「末裔氏」と共に大学の車で飛行場へ。車のなかで、プーシキン関連の本を買ってくれるように依頼を受け、800ルーブリをあらかじめもらう(ちなみにこちらは帰国後、翻訳2冊送付済み)。飛行場で水とお茶を飲む。80ルーブリ。定刻の出発。1930分モスクワ着。飛行機の中は赤ちゃんが多くまるで保育園。モスクワ到着後、90年代に経験したように、外国人の荷物が別の小屋から出てくる事もなく、荷物を無事に受け取る。アエロ・エクスプレスでパヴェレツカヤへ。300ルーブリ。地下鉄を乗り換え8月に泊まった同じホテルへ。すぐビールと水などを買いに出かける。148ルーブリ。ホテルではコニャクも買う。130ルーブリ。本日の支出2551ルーブリ也。

 

95日、モスクワ、6時の気温13度。

7時に朝食をとった後、買い物へ。モスクワでの携帯電話用ビーライン・シムカードを購入、350ルーブリ。近くの「商業センター」ではモスクワでのインターネット用シムカードを購入、450ルーブリ。その後、紅茶と水を買う、80ルーブリ。14時までホテル。トヴェリスカヤ通り中央電話局内販売店にて携帯電話購入、850ルーブリ。ボリショイ・ニキーツカヤでの音楽フェスティバルを見学。今日は「モスクワの日」。良い音楽が聞けた。チャイコフスキー音楽院前の野外音楽会、通りでの民族音楽会など。無料で彼らの音楽を聴けたのは良かった。その後、630分のカトリックのミサに参列するためいつものルビヤンカ広場旧KGB本部裏手にある聖ルイ教会へ。友人とその娘が来る。3人で教会前の庭で話し散歩し分かれる。今年はパスポートを取得していない末の男子を除いてトルコのアンカラに行ったとのこと。トルコではロシア語だけで生活できたとのこと。友人は技術大学でロシア史とロシア語を教えているとか。お嬢さんモスクワ大学の5年生。夜間なので6年かかるとか。夜は勉強し、昼は大学の図書館で働いている。息子は大学を卒業しているにもかかわらず、兵役を引き延ばしているためパスポートを取得できず、また好き嫌いが激しく現在は働いていないとか。ロシアの現実と今風青年のあり方を垣間見る。別れた後、「ムームー」で夕食。煮込んだキャベツ料理、鶏肉、トマトサラダ、16950ルーブリ。帰宅。ビール1本60ルーブリ。モスクワ人とオレンブルク人とでは人間が違うようだ。オレンブルクの若者の顔が整っていたように感じられたのは彼らの生活がせかせかしていないせいだろう。それに比べてモスクワの人たちは余りに「歪んで」いる。日本人と同じようだ。本日の支出197950ルーブリ!

 

96日(月曜日)モスクワ、615分に起床、1315度、雨・曇り。

7時の朝食の後、出発(出発前に電話代金3533ルーブリ)。モスクワ国際関係大学MGIMOへ。ユーゴ・ザーパドでマルシュルートカに乗る(25ルーブリ×往復)。旧知の日本語講座主任女性に会う。11時の予定で行く。授業中で私も参加させられる。国際ジャーナリスト学部の7名、4年生のクラス。ご主人は今、購入したブルガリアの別荘にいるとのこと。交流の問題も話す。まずは学生の語学研修から始めるのがよいのではないかとのこと。1215分に終了。フルンゼンスカヤ駅へ。古文書館での友人たちと再会。出版局で本2冊購入(610ルーブリ)。また自分が1996年に書いた本4冊もらう。3時までいて古文書史料の注文。その後、レーニン図書館へ。まずは登録し、新しいカードを作る(100ルーブリ)。図書館ではまず食事。パンとピロシキ、きのこスープ、肉、175ルーブリ。ドブロスムィスロフの『史料』第2巻を注文し帰る。メトロの切符、10回分、240ルーブリ。コニャック、ビール2本、640ルーブリ。本日も大散財。本日の支出166033ルーブリ!(両替100ドル=2900ルーブリ、500ドル)。

 

97日(火曜日)モスクワ、曇り、13℃。

615分起床。朝食後、少し休んで出発。まずはレーニン図書館へ。ドブルスムィスロフの『史料』が出ていたので即コピー。135ルーブリと高い。まずは1705ルーブリ分のみ。その後、歴史図書館へ。入館書の作成(60ルーブリ)。ここは多くの棚が閉鎖中。1冊注文。115分に古文書館に到着。許可証部門が昼食に入ろうとしていたが、うまく証明書がもらえた。5時半まで勉強。若い館員と話す。カザークについて勉強している彼の友人が私と話したいというが実現せず。途中、昼食。ジュース、炒めご飯、グーヤーシュ、175ルーブリ。高い。随分変わったものだ。終了後、友人たちとトレチャコフ美術館近くのカフェへ。283ルーブリ。その後、分かれる。本日の支出2318ルーブリ。

 

98日(水曜日)モスクワ、曇り、15度。6時起床。

1時に寝たせいか、さすがに疲れて、すぐには起きられず。朝食後、8時過ぎに歴史図書館へ移動。開館の9時をかなり前に着いたので、近くの教会・修道院の外観を見ながらその周辺を散歩。9時に入館。ウスチュゴーフのバシキール叛乱を少し読み、古文書館で読むべきところの下調べ。11時過ぎに出発、近くの銀行で両替(200ドル=6100ルーブリ)。「古法文書館」には12時過ぎに到着。3つの古文書史料が出ている。歴史図書館でノートにとった個所を7時まで確認。2003年あるいは2005年にすでに見ていた個所だと気づく。東京の自宅にノートがあるといいのだが。昼は、パン2枚、いもとグリーンピースのスープ、野菜のラグー、紅茶、75ルーブリ。これで十分。喫煙室を兼ねたトイレで旧知の館員が時間つぶしをしている。今日は15時にすでに酔っ払っている。自分の部屋に来いという。要は飲みたいのだ。彼の話を聞いて一杯コニャクをひっかけて失礼する。彼は北方4島で軍務に着いたことがあり、日本との共同開発がよいという。どうもアルコールに負けているようだ。外見は随分発展してはいるが、これがロシアの現実だろうか。さらに友人たちは皆何ごともなく食事をして飲んでいる。数年前までは余りに貧しく、お金の話をするさえ憚られたのが嘘のようだ。19時に勉強を終えて、レーニン図書館に行くも21時までとのこと。帰宅。ビール2本と「ダシュラック」、140ルーブリ。高い。ピロシキ260ルーブリ。本日の支出237ルーブリ。(両替200ドル=6100ルーブリ、700ドル)。

 

99日(木曜日)モスクワ、晴れ、曇り、15

6時起床。朝食後、レーニン図書館へ、コピー。1枚の値段が違っていたのでありがたし。それでも革命前の本だったので1800ルーブリほど。その足で「古法文書館」へ。6点の古文書史料が出てきており、急いで読む。どこまで読めるか不明。面白い点もあった。また片手間に調べている「シンビルスクの魔法使い」もあった。読むべし。昼食は友人と、スープ・ハルチョー(旨い)、ガルブツィ(キャベツのロール巻き、旨い)、パン2枚、ピロシキ、紅茶、160ルーブリ。今日、ソコーリニキの駅近くの友人宅に行くことにする。駅前は開けたようだが、友人に言わせると、悪くなったとのこと。彼の奥さんが5月に窓から落ちて亡くなった話を聞く。辛いようだ。お嬢さんは医科大学4年生でもう1年勉強があるのだが、恋人ができたため別なところに住んでいるという。住所は知らないという。そういう行動には反対のようだ。ウォッカを飲み、サラダ、パン、同じ階に住むお母さんが作ったというレバーを食べながら大いに語る。そうしたかったのだろう。スイカがうまかった。90ルーブリという。1年住んだというアフリカの写真・楽器・その他を見せてくれ、2枚写真を土産にもらった。あまり会話能力のない私に一生懸命に話してくれたのが嬉しかった。同じ階に住むご両親の所にスイカを持っていき、私を紹介してくれた。いつまでもお元気で!駅まで見送ってくれた。本日の支出2000ルーブリ。

 

910日(金曜日)モスクワ、晴れ・曇り、19度。

6時起床。今日も朝食後、9時に出発。古文書館には1番乗り。2つのジェーラを読む。本日は最後の日なので必死になって読む。疲れた。18世紀の研究家を紹介される。12時過ぎに昼食。パン2枚、野菜スープ、鶏肉100ルーブリ。3時までに終了する。特に「シンビルスクの魔法使いヤーロフの一件」は面白い。3時に終了しレーニン図書館へ。コピー、500ルーブリ。ドム・クニーギで本2冊とCDロム、770ルーブリ。自分の本2冊をオレンブルクに送る。7465ルーブリ。図書館で夕食。スープ、鶏肉、パン一枚、150ルーブリ。歴史図書館へ。2015分前に出ようとすると、アルメニア史の専門家Y氏と会う。ビールなどを飲む。1010ルーブリ。明日も歴史図書館に行くかどうか決めかねる。本日の支出245465ルーブリ。

 

911日(土曜日)モスクワ、晴れ。

6時起床。朝食後テレビをつけるもつかず。2時まで点検中とのこと。午前中はゆっくりすべし。昨日したコピー(キーエフ・聖職者アカデミーの紀要)1枚抜けているのに気づいて愕然。それも人生か!?12時少し前にチェックアウトし、荷物を預ける(200ルーブリ)。トレチャコフ美術館へ行く(300ルーブリ)。ヴァシーリー・マクシーモフの「農民の婚礼にやってきた呪術師」を見る。たしかに面白い。友人と一緒に飛行場へ(アエロ・エクスプレス300×2人=600ルーブリ)。飛行場でのチェックインが簡単にできる。素晴らしい。食事をし(680ルーブリ)、免税店へ。チョコレートとブランディーを購入。104ユーロ。飛行機に乗ろうとすると、同僚とばったり。また飛行機の中では知り合いを数名見かける。1020分成田着。

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いつもながら、多くの人に助けられながらの調査旅行であった。ただし今回は本来のテーマとは別に、私の年来の「プガチョーフ叛乱」研究を深められたという想いが強い。叛乱の主たる原動力となったバシキール人の生きた世界を、不十分とはいえ、その自然の中を歩くことによって体験することが出来た。彼らの自然に対する想いの幾分かなりとも知り得たのは収穫であった。現代に生きるバシキール人も同じように自然を愛する民である。それは「末裔氏」のウラルのステップにある自らの故郷を懐かしむ姿にそれがよく表れていた。このことを知ったのもやはり収穫であった。これらは以後の研究に十分生かされるであろう。