おろしゃ会会報 第18号その1

2013年2月6日

 

201286日(月)おろしゃ会会長職の引き継ぎを行った。3年の上坂勇喜君(ドイツ語専攻)がライプツィ

ヒ大学留学に出発するためである。後を継いだのが、2年の猪狩春樹君(国際関係学科)である。上坂君は、8

下旬に日本を発ち、ウスリースクの知人の家を訪ね、その後、シベリア鉄道でモスクワに立ち寄った。そこでお

ろしゃ会の元会長・平岩貴比古氏(現時事通信モスクワ支局長)の歓待を受け、さらに列車の旅を続け、ライプ

チヒに到着したという。2年の猪狩君も2013年の秋からシベリア連邦大学に留学予定である。

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 左が前会長の上坂君 右が新会長の猪狩君

 

新会長の挨拶

 

猪狩春樹

(外国語学部国際関係学科2年)

 

こんにちは、国際関係学科2年の猪狩春樹です。ロシアは私にとってとても縁のある国です。第二外国語で選んだロシア語、きっかけはドストエフスキーでした。ソ連時代の社会主義体制に興味があった時期もありました。自分の曽祖父はロシア正教の神父だったことが最近分かり、学部2年生になると自主的なロシア語の学習に力をいれ始めて、自分のアイデンティティはロシア一色になったかのようです。大学入学前まではロシアはただのひとつの国であったのに、今から思うと大学へ入学してロシアとは本当に深く関わってきました。大学に入ってから2度ロシアに行き、ヨーロッパやアジアとはまた異なる文化圏に触れることができて貴重な経験をしました。私自身、ロシアを通じて学んだことはとても多く、大きな影響を受けたように思います。

さて、おろしゃ会にとって今年はとても重要な出来事がありました。愛知県立大学がシベリア連邦大学と協定を結び、交換留学が可能になったことです。私はこの機会を生かしてロシアへ留学することを決意しました。第二外国語として2年間学んできたロシア語ですが、このようなチャンスに恵まれるとは考えたことがなく、留学ということを意識したロシア語の勉強により一層力が入っています。留学に対しては期待と不安でいっぱいですが、何でもよいのでロシアの土地から学ぶことを目標にして日々の学習に励んでいきたいです。おろしゃ会がロシアへの関心のきっかけとなり、広くロシアの文化に触れることができるように、これからもロシアからたくさんのものを吸収し、学び続けていきたいと思います。

 

おろしゃ会が日露交流の架け橋にならんことを!

Желаю вам счастья и успехов в учёбе!

 

本学で非常勤講師を務めておられる半谷史郎先生は、何よりも学生を大事にする教育熱心な先生です。しかも勇気があります。先生からこの春休みに8人の学生を連れてロシアを旅行するというプランを聞いた時、正直、怖いなあと思いました。何かあったらどうしようという自己防衛本能が働いたのでした。私も2004年夏に県立大・星城大・早大の学生8人と大人7人ほどを連れ、シベリア旅行をしたことがあります。しかし、大変疲れました。以来、どうも億劫でしり込みをしていました。しかし、ここに愛情と勇気に満ちた半谷先生が現われて、この上ない体験を学生たちに与えてくださいました。感謝と敬意の気持ちを込めて、半谷先生の旅行記を掲載いたします。(加藤史朗)

 

ロシア旅行

 

愛知県立大学講師 半谷史郎

 

 

 二〇一二年の春休み、学生八人とロシア旅行に行ってきました。二月二十七日(月)にフィンランド航空で中部国際空港を飛び立ち、ヘルシンキ経由でモスクワ入り。三月一日の夜に寝台列車でペテルブルグに移動して五日まで滞在し、六日(火)に帰国するという八泊九日の旅です。移動日をのぞくと、モスクワとペテルブルグを三日ずつ観光する日程でした。

 

(一)企画と準備

 旅行を思い立ったそもそものきっかけは一年前。二〇一一年二月六日に「おろしゃ会」が催した名古屋ハリストス正教会の見学会にさかのぼります。奉神礼(礼拝)の参観と松島神父の講演が終わると、場所を名古屋駅前のロシア料理屋「ロゴスキー」に移して、少し遅めの昼食会となったのですが、席上、田辺先生から「これだけロシア語をやっている学生がいるなら、ロシアに連れて行ってあげたら」と言われたのが発端です。ただその時は、旅行費用がバカにならないし、学生もその気はないだろうと、さらりと受け流して終わりました。

 とはいえ多少気にはなったので、新学期に入ってから感触を探ってみると、色めきたって目を輝かす学生の何と多いことか。これには、こちらが逆にびっくりでした。数ある外国語の授業から敢えてロシア語を選んだ学生なので、ロシアに関心はあるものの、自分で行くとなると、言葉は不安だし怖い国だという噂も気になって、腰が引けてしまう。でも先生と一緒なら是非にということでしょう。こうした「ロシアの壁」の高さは、ずっとロシア語畑を歩んできたせいか、盲点でした。

 七月には、別の形で、このことを改めて痛感させられました。ある学生が、夏休みにロシア語夏期講習の短期留学を計画していたのに、ロシア側との連絡がうまくゆかず、やむなく断念したのです。相談をうけて色々と助け舟を出してはきましたが、無防備にロシアの荒波に放り出したせいで、漂流のあげく座礁です。せっかく意気込んでいたのに、夢を実現させてあげられなかったと悔いが残る一件でした。

 「フグは食いたし命は惜しし」と言います。学生にとってロシアがそういう存在なら、先達となって連れて行ってやる。ロシア屋の端くれとして、次第にこう腹を固めました。

 夏休みに入ると、さっそく準備開始です。旅行社のJICに問い合わせをして、八月四日には最初の見積書をもらっています。その後一週間ほど担当の百瀬さんにあれやこれやと要望を出しては調整を繰り返し、二月二十六日(日)出国の三月五日(月)帰国という日程が決まりました。

 心当たりの学生にはこの八月上旬の段階で旅行の概要を知らせましたが、十月になって新学期がはじまると、ロシア語を履修している学生全員に大学のUNIPA経由で旅行の計画を知らせ、十月六日の昼休みに「おろしゃ会」部室で旅行の説明会をしました。このとき顔を出したのは、十一人。その後、就職活動との両立に自信がない、旅行代金(二十二万円)の工面がつかないといった理由で断念する人が出たりして、参加者は最終的に八人となりました。

 旅行のあれこれは旅行社に一任してあり、出発まで特に苦労らしい苦労はなかったのですが、一度だけ、十一月中旬に予想外のことがおきて慌てました。

 旅行社には、参加者の顔ぶれが固まった十一月初めの時点で、飛行機の座席を押さえてもらいました。ただ前金が払い込まれて企画旅行の成約が確定するまで、正式な予約はできません。そこで十一月二十五日の申込締切日まで、飛行機の切符は「仮押さえ→入金なしは三日後に自動キャンセル→再度の仮押さえ」を繰り返してもらっていました。ところが十一月十八日ごろ、搭乗予定の便にとつぜん大口の予約が入って満席となってしまったのです。このままの日程だと飛行機代をさらに十五万円上乗せしないといけない、どうしましょうと困惑する百瀬さんのメールを読んで、こちらも頭が真っ白になりました。

 もしやキャンセルが出るかもと数日待ってみましたが、事態は一向に変わりません。結局、出発日を一日遅らさざるを得ませんでした。このあおりで、ヘルシンキ空港で一時間前後のスムーズな乗り継ぎだったのが、行きも帰りも待ち時間が四時間前後に。またペテルブルグ最終日が、当初は昼すぎまで観光可能だったのが、朝十時ホテル出発に変更と、不経済な時間の使い方を強いられる日程になってしまいました。

 実は、飛行機の満席が分かった直後、百瀬さんから代案として、出発日を前後の木曜日(二月二十二日)か日曜日(三月四日)にずらせば、ヘルシンキ空港でムダな足止めはないと言われていました。充実した観光旅行という点では、これが一番だったでしょう。しかし、なんとも間が悪いことに、ペテルブルグのマリインスキー劇場で三月二日に「白鳥の湖」をみる切符をネットで購入した直後で、それもできません。

 結果的に不便な日程になってしまい、恐縮しきりの百瀬さんは、ペテルブルグの観光ツアー(郊外のエカテリーナ宮殿と市内のバス観光)をサービスしてくれました。日本語ガイドの案内があったこの日は、おかげで楽をさせてもらえました。また全くの偶然ですが、日程が一日ずれたおかげで、三月四日のロシア大統領選挙の投票日を現地で目撃することもできました。これも貴重な経験です。余儀ない日程変更でしたが、悪いことばかりでもなかったと思っています。

 

(二)旅行日誌

◎二月二十七日(月曜日)

 九時五十五分に中部国際空港三階の国際線出発ロビーに集合だが、四十分ほど早く行って、ドル両替とレンタル国際携帯の受取。人ごみのせいで集まる場所が二手に分かれてしまい、合流するのに少々手間取る。ロシアの寒さ対策で厚着をしてきた子が、暑くてつらそう。マフラーや帽子をスーツケースに入れている子には、モスクワ到着後すぐ取り出せるよう、手荷物に入れ替えよう言う。

 荷物を預け、出国審査を終えると、搭乗時間まで、ロビーでガイドブックを広げて観光日程の相談。二日目の自由時間をどうすごすかが問題。買い物、文学の名所めぐり、宇宙の博物館、美術館、セルギエフ・ポサードの大修道院に小旅行など、各人各様。相談にのって、だいたいの見通しをたてる。

 十一時五十五分に離陸。十時間強のフライト。座席は、見事にバラバラ。団体旅行という雰囲気は、さらさらない。時々様子を見に行ったり、席を移って話したりもしたが、基本的に一人で寝ている。国際線の長時間の飛行機は、やはり苦手。頭にじんとしびれる痛みが走ったりして、まともなことは何も考えられない。

 十五時十五分にヘルシンキ着(現地時間)。手荷物検査を終えて、先ゆく人の後について、よく分からないままカウンターに並び、係官に「モスクワへ行く」と告げると、「それはあっちだ」と別方向を指示される。その場を離れようとしたが、猪狩くんだけカウンターを突破して向こう側に出ているのに気づき、おろおろしていると、空港の日本人職員が来て助けてくれる。出た先は、国内線のショッピング・モールだった。元気に動き回る学生もいたが、大半はへばっている。日本時間はもう夜中なので、まあ当然。

 十八時三十分にモスクワへ飛び立つ。共同運航便で、本体はアエロフロート。おなじみのロシアらしい機体と乗務員に、なぜだか落ち着く。飛行時間は二時間ほど。上がったらすぐ降りるのに、食事が出る。疲れ果てて寝入ってしまい、それどころではない子も、ちらほら。

 モスクワ時間二十二時十分にシェレメチェヴォ空港に到着。空港施設が大改装して面目一新と噂にきいていたが、その変化に驚く元気もなし。送迎バスでホテルに移動。車窓からモスクワをみながら(夜なので電飾の看板が主だが)「花屋が多い」「アシャンだ」「ショコラードニッツァだ」と歓声があがる一方で、車中ずっと舟をこぐ子も。

 ホテル到着は十二時前。部屋割りをすませて解散。全員八階に割り当てられた。

 

◎二月二十八日(火曜日)

 九時に私の部屋に集合。全員そろって朝食に行く。カードキーで出入りをチェックする、バイキング形式の食事。学生にはもの珍しいロシアの食べ物も多く、あれこれ試しては論評しあっている。

 十時半すぎにホテルを出て、モスクワ観光に出発。今日のメインはクレムリンだが、その前に少し回り道をして地下鉄見学。ホテル最寄駅のパルチザンスカヤではやくも銅像林立に面食らったようだが、その後、乗り換え駅のクルスカヤ、途中下車して見て回ったコムソモリスカヤ、ステンドグラスが見事なノヴォスロボツカヤと、想像を絶する重厚な飾りつけの駅の連続に、学生は圧倒された様子。昔はゴテゴテして誇大趣味と思ったが、照明と清掃が格段に良くなったおかげか、今回は私も素直にすごいなと思う。一九三〇年代に寺院巡礼に代わって、地下鉄巡礼がはやったというのも、分かる気がする。

 地下鉄見学を終えて、トヴェルスカヤ通りのプーシキン広場に出る。この時点でもう十二時。内装の豪華なエリセーエフ商店を一回りした後、両替所を探す。これだけの人数だと、手間取ることおびただしい。塚本さんが、ホテルのロビーに続いて、銀行でもキャッシュカードでお金を引き出せず(暗証番号の入力ミスを三回以上したためらしい)。それじゃあと私のカードで試みたが、現金引き出しをブロックしてあったらしく、これまたダメ。困ったことになったなと一瞬動揺するが、念のため円の現金を多めに持ってきたことを思い出し、これを融通することで事なきを得る。

 両替所を探してカメルゲル横丁に入るが、スターバックスや本屋に目移りして、亀の歩み。ともかく全員が両替を終えたら、ボリショイ劇場とマールイ劇場に行って明日の夜の観劇の切符を確保。ナツィオナリ・ホテルを横目にみながら劇場広場をぐるっと回って、クレムリンへ。二時の衛兵交代を見た後、まず武器庫へ行く。入場料は、学生だと三分の一。こういう破格の割引があるので、日本で国際学生証を作っておくよう言っておいたのに、持ってきたのは三人だけ。学生への周知徹底の難しさを痛感する。

 武器庫の豪華な展示品の数々に驚き入っているうちに、気づいたらもう四時。クレムリンの見学が五時までだったので、予定していたダイヤモンド庫はあきらめてクレムリン内部へと急ぐ。折から雪が降りだして、あっという間に銀世界。クレムリンの寺院の黄金色が、白くかすんだ雪景色に浮かび上がり、ロシアらしい幻想的な美しさを醸し出していた。

 クレムリンを出たら、赤の広場へと歩く。歴史博物館わきの坂道からワシーリー寺院が見えると、一同感嘆しきり。赤の広場は、おのぼりさんの集積地。タシケントから来たという男の人が、酒臭い息で「兄弟!」と話しかけてきて、一緒に写真をとった。赤の広場に特設のスケート場があって目を引く。ワシーリー寺院を一回りした後、グムを突っ切って地下鉄の「革命広場」駅まで行き、トレチャコフ美術館へ移動。

 絵の好みが違うというので、永田さんと鴇さんは中に入らずミュージアム・ショップですごす。ほかの人は、七時半の閉館まで二時間弱、少し駆け足で見て回る。

 美術館を出て、地下鉄の駅前で夕食。この時に大事件。目当ての「ムムー」について、さあ入ろうと後ろを振り返ると、いるはずの人がいない。後ろの方を歩いていた林くん、小西さん、田口さん、塚本さんの四人。学生を店の前に残して、小走りに来た道を戻り、さらに地下鉄の入り口まで降りていって探すが、見当たらない。大変だと大慌て。はぐれたと思しき場所まで全員で引き返し、どうしようと相談していたところで、林くんを発見。なんでも四人は地下鉄の改札を抜けてホームまで行ってから迷子になったことに気づき、手分けして本隊を探していたのだとか。地下鉄に残っている人を呼びに行って、ようやく全員が揃った。この間、十五分ほど。生きた心地がしなかった。

 食事は、目の前に並んでいる料理から選ぶカウンター方式。これなら言葉が不自由でも何とかなるだろうと思ったが、大間違い。何にするか、何は必要かといった店員との会話が不可欠で、サラダ・コーナーに始まってドリンク・デザートのコーナーまで、数ヶ所で同時発生的に通訳の必要が生じて右往左往。もたもた手間取ったせいで、入った時はガラガラだったカウンターが、全員の支払いがすんだ時には、ロシア人の長蛇の列になっていた。

 夕食後、林くんと猪狩くんは先に帰るが、元気な女性陣はまだ見て回りたいというので、ミャスニツカヤの本屋「ビブリオ・グローブス」に連れて行き、閉店の十時までしばらく店内をうろつく。最後に旧KGB本部のアンドロポフの記念プレートを見て、ホテルに戻ると十一時を回っていた。

 

◎二月二十九日(水曜日)

 今日は自由行動の日。朝食も各自バラバラ。私が九時に食べに行った時には、鈴木さんは、英国留学中に知り合ったモスクワ大学の友人と会うため、すでに朝食をすませて出発した後だった。それぞれの予定を聞いてみると、永田さんと鴇さんは買い物ツアー。猪狩くんは文学博物館まわり。林くんはアルバート通り。私は一日、塚本さんと一緒に行動する。午前中は田口さんと小西さんを同道して、トレチャコフの新館へ。鑑賞後「ショコラードニッツァ」で休憩して別れた。二人は、トレチャコフの本館にもう一度行って、昨日見残した作品を堪能してくるという。

 私と塚本さんは、この後、音楽めぐり。都心まで出て、まずカメルゲル横丁の「プロコフィエフの家」博物館。こじんまりしているが、プロコフィエフの創作と生活が追体験できる興味深い場所だった。特にプロコフィエフのカリカチュア(ククルィニークスィの風刺画や陶器人形)と趣味のチェス(自前の駒や、オイストラフ相手の公開試合のちらし)が、ほほえましい。つづいてモスクワ音楽院をみた後、近所の本屋で買い物をして、夕食。食べながら、塚本さんの明日の観光の相談にのる。そしてボリショイ劇場へ。

 ボリショイ劇場は、噂にたがわぬ豪華さ。地元のロシア人ですら、おのぼりさんよろしく館内のあちこちで記念撮影をしていて、おかしかった。

 田口さん小西さんとはボリショイの入り口で、永田さん鴇さんとは館内で合流。一番安い席だったので、前の人の陰になって舞台の様子がまったく見えない。立ち見をするか、音だけで我慢するか、つらい選択。日中の疲れも出て、小西さん、永田さん、鴇さんの三人が沈没。ただし一幕ごとに聴衆が減り、舞台は次第に見えるようになる。田口さんと塚本さんは最後まで熱心に見入っていた。

 ボリショイの終演は十一時。ホテル着は十一時四十五分。

 後日聞いたところでは、林くんはアルバート通りで似顔絵描きに大金をふっかけられ、大変だったらしい。猪狩くんは、行く先々の博物館が月末休館日で、まったく予定外の散策になったようだ。

 

◎三月一日(木曜日)

 九時半にホテルをチェックアウト。荷物はホテルに預けて、一日の行動開始。

 地下鉄に乗って(ちなみに三日間とも、都心に出る時は、ものすごい混みようで、電車をやりすごすことも多々あった)、モスクワ大学へ。長縄光男先生が集中講義で出講中なのを幸いに、大学の中を見せてもらおうという計画である。

 地下鉄の出口で先生の出迎えを受ける。近いようで実は遠い建物までの道のりを歩ききって、ようやく居住棟の入り口にたどりつくと、警備員から、入館証がない人間はダメと突っぱねられ、正門の入館証発行窓口へ。しかしここでも九人のお客は多すぎる、一人が招待するお客は二人が限度だと断られる。押し問答しても埒あかず。官僚制度の前に、あえなく敗退となった。

 中に入れなかった代わりに、大学の周囲を長縄先生と散策。建物正面を背景に記念撮影して、雀が丘までご一緒して別れる。この途中から雪が激しく降り出し、モスクワが一望できるという雀が丘の展望は、さっぱりダメだった。土産物の物色で小休止のあと、雪のつもった坂道を時々しりもちをつきながら下って、地下鉄「雀が丘」駅まで出る。

 ここで鈴木さん塚本さんの二人と別れる。鈴木さんは宇宙博物館へ、塚本さんは音楽博物館へと別行動。本隊は一駅先で降りて、ノボデビチ修道院を見学する。肝心の大聖堂が修復中で入れないし、墓地散策は寒くて体が冷えてしまい、ちょっと大変だった。

 この後バスでアルバート通りに出ると、土産物店に入って暖を取ったりしながらアルバートの先っぽまで歩き、ウズベク料理のお店に入って食事。プロフ、ラグマン、レピョーシカ、チェブレクなど、ロシア料理とは違う、どこか東洋の雰囲気を漂わせる食べ物を満喫する。

 お腹が一杯になったところで解散、自由行動に。私はドム・クニーギに行く。映画のDVDや絵本を買って、ようやく自分のことができた。店内では、ルシコフ前モスクワ市長が自著発売記念のトークショーをしていた。WTOに加盟するとロシア農業は壊滅すると言っているのが耳に入り、日本のTPP反対も外国人の目にはこう映るんだろうかと思ったりした。

 店内で、永田さんが料理の本を品定めしているところに遭遇。それぞれが自分の興味と関心にあったロシア語の本を買うのは、今回の旅行で是非ともして欲しいと思っていたこと。喜んで本の内容を説明して助言する。永田さんの話を総合すると、品定めに夢中になっていて、トークショーが終わったルシコフの退場を妨げたらしい。知らないとは、げに恐ろしい。

 永田さんを残して、一足先にホテルに戻る。九時すぎにホテルに着くと、ロビーの一角で一年生の四人が談笑しているのが目に入る。林くんが誘拐もどきの冒険から生還した話で盛り上がっていた。九時半すぎには永田さんと鴇さんも帰ってくる。ドム・クニーギを出たあと、地下鉄の駅を探すのに苦労したらしい。一番心配していた塚本さんは、たぶん一緒だろうと思っていた鈴木さんと一緒に、十時十分前に戻る(夕方ボリショイ劇場の前で落ち合ってビール・バーに行き、帰りの地下鉄を一駅乗りすごして遅くなったという)。ホテルの出発時刻が十時だったので、最悪のことを考えて、JICのモスクワ事務所に善後策を相談しようとポケットの中の携帯電話を握りしめていたところだった。

 この携帯を持ってハラハラしている間には、田口さんが部屋の金庫に財布を置き忘れてきたと言いだす事件もあった。幸い、ホテルの人に部屋を確認してもらうと、無事に出てきた。そんなこんなで、はらはらさせられどおしだが、最後はすべて上手くいって旅行前半のモスクワが終了。初日の送迎と同じ人が運転するミニバスでレニングラード駅に移動。小一時間ほど待合室で時間をつぶし、十一時五十九分の夜行列車でペテルブルグに向かう。

 (ペテルブルグに着いてから、モスクワのホテルにシャツ一枚とシャンプー瓶を忘れてきたことに気づいた。学生のことで手一杯で、自分のことに気を配る余裕が欠けていたようだ。)

 夜行列車は、学生八人で二部屋。あまった私はロシア人と相部屋。システムが新しくなって、ネット予約と電子チケットが導入されている。乗車の際、車掌がパスポートを確認して乗客名簿と照合するだけ。シーツ代の徴収もない。発車後に検札に来た車掌が、「抽選で現金があたるキャンペーンを実施中です」と言う。乗客と車掌と、しばしこの話題で盛り上がる。

 

◎三月二日(金曜日)

 八時に到着。外がまだ暗いのは、モスクワより緯度が北なのでしかたないが、なんと雨が降っている。思いもよらぬこと。まいった。傘なんか持ってこなかったし、なにより雪より寒く感じる。

 駅のホームで、ガイドのアナスタシヤさんが出迎え。ホテルにチェックインできるという。ホテルは駅のすぐ隣だが、車でごったがえす道路を渡らないといけないので、ミニバスに荷物を詰め込んで移動。チェックインして荷物を置くと、すぐバスに取って返して九時十分に出発。ツァールスコエ・セローのエカテリーナ宮殿に向かう。車中、アナスタシヤさんの説明をききながら、夜行列車で出た朝食弁当を食べる。

 エカテリーナ宮殿に、開場と同時に入場。何度も来ているが、今回はじめて日本語で説明を聞いた。やはり母語の情報量は違う。なるほどと納得することしきり。どこが創建以来の本物で、どこが複製品かなんて、目の前で説明を受けないと分からない。

 「琥珀の間」の修復が、二〇〇三年のペテルブルグ建都三百年にあわせるように完成したのは知っていたが、その後も作業は来る度に少しずつ進んでいる。独ソ戦で廃墟となった後、コツコツ直してきた。見学コースの半ばすぎからは、まだ無機質な壁と床で、修復の順番を待っている部屋が続く。

 アナスタシヤさんが「この部屋は××年までに修復予定です」と説明するので、「建物全体の修復工事が終わるのはいつですか」と聞いたら、「修復の順番を待っている場所はまだたくさんあるし、修復のおわった所も維持修繕に手間がかかるので、いつ終わるか分からない」とのこと。気の遠くなるような話だ。

 旅行前、必要があって日本人の半世紀前のソ連紀行を読んでいたが、あちこちに戦争の傷跡が生々しく残り、庶民が窮乏生活をつづける中でエカテリーナ宮殿の修復に大金を注ぎ込むソ連政府の姿勢を、ある者は賛嘆して、ある者は外向けの偽善として、書き記していた。ただ、それから半世紀以上、社会の浮き沈みをよそに修復が続いてきたわけで、少なくとも文化財を守る意思は本物だろう。

 宮殿内で日本人の団体客(阪急旅行社のロシア・ツアー)とかちあうが、その通訳がなんと友人のロシア人。旅行前に連絡がつかず、今回は会えないかもしれないと思っていたのに、なんとも奇遇。明日会う約束をする。

 宮殿の後は、バスの車窓から市内観光。予想どおりペテルブルグに戻る道中は居眠りが続出。ペテルブルグの旧市街についたあたりで揺り起こす。しかし観光には生憎の雨。どんより曇った空の下では、街の景色も暗く陰鬱。イサーク寺院、ワシリエフスキー島のスフィンクスと灯台、「血の上の教会」を遠望するマルスの丘と、要所要所でバスを降りて写真を撮るが、寒くて風邪を引きそうで、観光の証拠写真づくりの意味しかない。

 十四時にホテル帰着。とにかく腹ごしらえだとネフスキー大通りに繰り出すと、雨を突いてしばらく歩き、ヨールキ・パールキで全員そろって昼夜兼用の食事。お腹がいい按配になった頃、外の雨が雪に変わったのに気づく。これなら外歩きができると、十六時半に店を出て、近くの「ドストエフスキーの家」博物館へ。小一時間ほど見学したら、マリインスキー劇場に移動。地下鉄一駅のあと、グリボエードフ運河ぞいにひたすら歩く。歩道の根雪に雨がしみこみ、つるつるぐしょぐしょの難行軍。

 十八時半にマリインスキー劇場につく。演目は、バレエの「白鳥の湖」。この劇場を代表する名花ロパートキナが、オデット/オディールを踊る。存在感の大きさ、本当に鳥に見えてしまう体の動きの美しさ。バレエはド素人ながら、見とれてしまう。すごいものを見ているという興奮が、劇場全体を包んでいた。最後のカーテンコールは、なんと八回。圧巻の一言。

 十一時半にホテルに戻る。

 

◎三月三日(土曜日)

 九時半すぎにホテルを出発。ネフスキー大通りを歩きながら、これは何あれは何と説明しつつ、エルミタージュへ。開業時刻の十時半についたが、すでに入り口は長蛇の列。一般四百ルーブルだが、学生証があるとタダ。この料金設定には、恐れ入る。教育目的なのだろう。ただ、あまりに気軽すぎて、芸術そっちのけで、時間つぶしに来る輩もちらほらいるようだが……。

 今日はエルミタージュに入った時点で自由行動。学生に好きなように回らせ、昼食時に通訳で注文の手助けをするくらい。旅行も終わりに近づき、ロシアにも慣れてきた。初めはおっかなびっくりだった学生も、自分の行きたいところへ、勝手気ままにずんずん行動する。これで良い。

 こちらは一足早く一時半すぎに退散。昨日とうって変わった晴天で、街の表情も一変している。昨日の雨が歩道の雪を取り去ってくれたので、歩くのも快適快調。

 少々みやげものを物色して、三時に友人宅を訪問。昨日のエカテリーナ宮殿での奇遇にはじまって、二時間ほど四方山話に花を咲かす。大学生の息子さんが、話の種にどうぞと、明日の大統領選挙の投票券をくれる。選挙に意味を感じないから棄権するのだという。この話題がきっかで、明日は何がおこるか分からないから観光には十分注意するよう言い含められる。

 五時すぎに失礼して、帰り道に郵便局へ。絵葉書の切手を買うために、三十分も行列に並ぶ。ソ連時代を思い出した。

 都心に戻って、明日のオーケストラの演奏会の切符を買った後、サーカスへ。学生全員に前もって切符を渡してあり(日本からネットで購入し、昨日ホテルに配送してもらった)、現地集合。それなりに楽しめたが、客の入りは半分ほどで、斜陽の匂い。人気回復策として、物語性をもたせたり(船に乗って宝探し)、音楽の刺激を強めたり(大音響のロック音楽)、ショーの要素を多々取り入れてはいるが、肝心のサーカスの芸(動物、アクロバット、ピエロ)とのつながりが悪いように思う。十年前にモスクワでみたサーカスほどの感激は、味わえなかった。

 サーカス終演後、すぐ近くのウクライナ料理屋で遅い夕食(ロシア人の友人に探して予約してもらった)。注文して料理が出てくるまで時間がかかり、ホテルに戻ったら十一時半。さあ寝ようと思ったら、学生が全員で部屋にやって来て、一日遅れの誕生日のお祝いをしてくれた(昨日は、準備する余裕がなかったからだとか)。机がある学生の部屋に場所を移し、シャンパンにケーキやお菓子で祝宴。ありがたくて胸いっぱいだが、ウクライナ料理でお腹もいっぱいだし、夜も遅いしで、大変だった。ともあれ全員で談笑するいい機会になった。深夜二時すぎに散会。

 

◎三月四日(日曜日)

 昨日の今日で、さすがに朝がつらい。永田さんと鴇さんは買い物で別行動。残る学生を引き連れて、十時にホテルを出る。朝の出足の遅れを挽回するため、今日はトロリーバスをフル活用する。

 まずカザン寺院で日曜礼拝の見学。神父の読経の独特の節回し。儀式の進行をつかさどる合唱隊が、天井近くのバルコニーに配置され、三方向から響きわたって寺院全体を包み込む。ロシア正教の儀式の美しさを存分に味わえた。

 朝方の雪も止み、晴れ間ものぞいてきたので、イサーク寺院の展望台へ向かう。途中いくつも大統領選挙の投票所があった。入り口付近に必ず警官がいるのが印象的。

 ペテルブルグ初日とちがって、今日のイサーク寺院は、太陽に輝いて明るく美しい。展望台はまさに絶景だった。ただし強風でとても寒く、このあと半日ほど鼻水が止まらなかった。

 昼食はドム・クニーギの中の高級カフェ。食事後、鈴木さん、小西さん、田口さんと別れて、ロシア美術館へ。入ったところで団体行動はおしまい。私は早足で好きな絵だけ見て回って三時すぎに外へ出ると、あとはドム・クニーギであれこれ本を物色する。

 荷物が重くなったので一旦ホテルに戻り、七時少し前にフィルハーモニーの大ホールへ。入る際に一騒動。昨日買った切符なのに、なぜか日付が三月二日になっていて、もぎりのおばちゃんに通してもらえず。事務局の人と交渉して、特別券を出してもらう。連番の切符の片われを渡してあった塚本さんは、やはり三月二日の切符だったが、何事もなく先に中に入っていた。こんなトラブルは初めて。

 演奏会がおわってから遅い夕食を塚本さんと二人で食べ、帰る道のトロリーの車窓から見つけた食料品店でお土産のお菓子を買って、十一時半ごろにホテルに戻る。

 荷物をつめて、風呂に入り、ほっと一息ついたところでテレビをつけると、大統領選挙の開票特番をやっていた。プーチン当選らしい。モスクワでの支援集会が映る。不正批判でゆれた昨年末の下院選挙の逆風をおさえこみ、文句あるかと居丈高になっているように感じた。体制につらなる人を大動員したこの当選は、ロシアの分裂や人々の無関心を高める結果になるのではないか。

 

◎三月五日(月曜日)

 朝起きると、外は雪。九時十五分にホテルを出て、地下鉄で一駅むこうのアレクサンドル・ネフスキー大修道院に向かう。ドストエフスキーの墓をみるつもりだったが、時間切れでたどり着けず。雪にけぶる黄金タマネギを見ただけ。しかも大変なことに、猪狩くんの靴の底がぬけて、歩くのもままならなくなる。しかたないので帰路は私と二人でタクシーに乗るが、道路が大渋滞で、ホテルの出発時刻の十時半に間に合わないのではとハラハラした。朝から姿をみかけなかった田口さんと小西さんは、買い物に出かけていたそうで、十時半ぎりぎりに帰ってくる。

 

 ともあれ慌てて迎えのミニバスに荷物を詰め込み、十時半すぎにホテルを後にする。あとは至極順調。空港で搭乗手続きの開始を待つ間、学生が名残惜しそうに「また来たいね」と言っているのを聞いて、連れてきた甲斐があったと心ひそかに思う。

 ペテルブルグのプルコヴォ空港を十二時二十分に飛び立ってロシアを出国。ヘルシンキ経由で名古屋に向かう。

 

 

初めての海外旅行

社会福祉学科 一年 林 佑亮

 

2012227日〜36日、モスクワとサンクトペテルブルグへ89日の旅行をした。ロシア語を教えていただいている半谷先生と愛知県立大学の学生7人と一緒に行った。天気は晴れの日もあり、雨の日もあり、雪の日もあった。

ヘルシンキからモスクワへの飛行機から見るモスクワの街の明かりがきれいだった。中部国際空港からフィンランドのヘルシンキを経由してモスクワまで行った。とても長い飛行時間で疲れ、時差により時間が戻され一日を長く過ごしたので変な感じがした。空港からホテルまでバスで送迎してもらった。この時期のモスクワは雪が降ることが多く、地面はいつもぬれている状態だった。そのためどの車も汚れていた。バスの窓も汚れていた。しかし、その窓から見える冷たく暗い中の橙色の街灯の光やぼんやり見える建物の中の光がとてもきれいだった。印象に残る光景だった。

トレチャコフ美術館、エルミタージュ美術館、ロシア美術館という有名な美術館を訪れた。とても多くの作品があり、見てまわるのは大変だった。圧倒させられる作品が数多くあり、風景画は絵の中に吸い込まれ、その風景の中に自分が立っているようだった。美術館では子どもからお年寄りまで多くの人々が真剣に作品を見ていた。僕はこの旅行で他にも劇場で演劇やバレエなどを見た。それらはロシア人にとって楽しむものであり、大切なものであった。ロシアは芸術を愛する国だと感じた。

モスクワやペテルブルグといった都市では地下鉄が広がり発達していた。移動手段としてとても便利だった。また、地下深く掘られており、エスカレーターは日本の何倍もの長さがあった。他にも移動手段としてバスやタクシー、路面電車のように上から電線で電気をもらって走る路面バスが走っていた。

外務省やモスクワ大学などのスターリン建築と呼ばれる建物を見た。シンメトリーでとても存在感があり、高くそびえたっており格好よかった。モスクワ大学は東西南北どの方向から見ても同じに見えるようにつくられており驚いた。

僕にとって初めての海外旅行であったので、やはり言語が通じないということが不安だった。自由行動で一人になった時、地下鉄の駅で怪しい男にからまれたり、アルバート通りで僕の似顔絵を描かれ高額のお金を払わされたりした。楽しい思い出ばかりではなかった。また円とルーブルで、日本とロシアではお金の種類が違うことにも慣れるまでとまどった。初めのうちはちょっとした買い物をするのにも緊張した。しかし、外国語で会話することができるようになりたい、外国の人と仲良くなりたいという場合、言語が通じなくてもおそれずに何とか伝えよう、分かろうとすることが大切だと思った。そして、相手に伝わった時、自分が分かった時は嬉しかった。

最後にロシア旅行へ連れていってくださり、案内し助けていただいた半谷先生、一緒に行った7人の学生の皆さん、ロシア旅行は楽しかったです。ありがとうございました。

 

 

 

 

私が見たロシア人

 

                          鈴木友紀乃(英米学科4年)  

 

私が半谷先生からこのロシア旅行の話を聞いたのは、去年の八月でした。その頃、私は県大で3年生を終えて休学し、イギリスの大学に留学をしていました。この話をいただいた時は、ずっと興味のあったロシアをこの目で見られると思い飛びつきました。

しかし、私の中で、この旅行を実現させるのに、二つの問題がありました。一つ目は、旅行費用の問題です。イギリスでの留学は非常にお金がかかりました。留学前に貯めたお金は年末の帰国までには底が突くし、イギリスから帰国してすぐにロシアに行くなんて贅沢な話だと思いました。

二つ目は就職活動の問題です。私は年末に帰国して翌年の四月から県大での最後の一年を過ごす予定なので、この旅行が予定されていた春は私にとって就職活動の大切な時期でした。日本で十二月から就職活動を始めている人たちと比べて、一月から始める私はもともと遅れをとっていました。また、この時期は企業研究や会社説明会には欠かせない時で、場合によっては選考が始まっている企業もあるのに、ロシア旅行に行っていいものかと非常に迷いました。そこで、就職活動を経験した友達に相談したところ、その友達は私の海外旅行好きをよく知っていたせいか、「ゆきのなら就職活動と両立出来るよ。」と何の迷いもなく背中を押してくれました。

そして、私自身、この旅行は半谷先生とロシアに行くことに意味があると感じました。就職活動が終わって、お金も貯まったらロシアに行けばいいと思いましたが、それでは意味がありません。自分でロシアを体感するだけでなく、半谷先生のフィルターを通したロシアも聞いてみたいと思いました。私は半谷先生にイギリスからメールでロシア旅行に参加させて頂きたい旨を伝えました。それから、イギリスで昼はお弁当、夜は自炊の節約生活が始まりました…。

このような経緯で決めたロシア旅行は、今まで生きてきたなかで最も印象に残る海外旅行でした。まず、あんなにたくさんの雪を見て、あまりの寒さで、私の鞄に降った雪の結晶の形がはっきり見られた時は感動しました。あれほどはっきりと、雪の結晶を見たのは初めてでした。地下鉄は豪華で、また日本のようにべたべたと至るところに案内はなく、美術館のようでした。(案内がわかりにくく、観光客にはとても不便な時もありましたが。ロシアの地下鉄表示に慣れるまでは大変でした。)街中のダイナミックな銅像や精巧なスターリン建築、圧倒的な展示数を誇る美術館など、ロシアにはあらゆる点で驚かされました。

その中でもこの旅行で、私にとって最も印象に残っているのは、街中や地下鉄で見かけたロシア人たちの顔つきや表情です。長い地下鉄のエスカレーターでは、すれ違う人たちの顔を一人、一人見入ってしまいました。その表情は、勇ましく凛としており、何事にも左右されず自国のやり方を貫いてきたロシアらしさを表しているように思えました。

以前、半谷先生からロシアにおけるサマータイムの話を聞きました。ロシアでは、一九七〇年代に欧米に倣って、サマータイムを導入しました。しかし、二〇一〇年にロシアのニュースでサマータイムの中止の是非を問うキャンペーンが行われ、年に二回ある夏時間と冬時間の移行の際に生じる問題が議論され、廃止に至りました。ロシアは欧米の思想を受け入れて試してみるものの、合わないので止めて自国の思想に戻ったのです。自国の考え方で物事を進めていけるロシアは素晴らしい国であると感じました。私は、そんな国風を国民の顔つきから感じ取ることが出来ました。

また、この国民の表情に私は資本主義と社会主義についても考えさせられました。これまで、資本主義が善、社会主義が悪とみなされてきました。しかし、この旅行で本当は社会主義の方が国民は幸せな生活を送られるのではないかと感じました。政治史博物館では、社会主義崩壊に反対しデモをする若者の姿の写真や、社会主義体制下、独自の文化を発展させるなかで制作された、魅力的なミュージカル映画を見ました。そして今、資本主義を掲げてきたアメリカでは反資本主義デモが起きています。資本主義の欠点が浮き彫りになる中、この旅行では社会主義の新たな魅力を発見することが出来ました。

このロシア旅行で行けなかった会社説明会や選考会がありました。しかし、この旅行に行けたことを私は心の底から幸せに思います。就職活動をしている中で、面接においてロシアの話をすると、面接官の方たちはとても興味深そうに私の話を聞いてくれます。この旅行で経験したことや見たことは必ずこれからの自分につながっていくと私は信じています。

最後になりましたが、半谷先生、私にロシア旅行のきっかけを与えてくださりありがとうございました。そして、塚本さん、永田さん、鴇さん、小西さん、田口さん、猪狩くん、林くん、いろんなことがありましたが、一緒にロシアを旅行できてすごく楽しかったです。ありがとうございました。

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地下鉄の駅メンデレエフスカヤにて

 

卒業しました!

20120320卒業式

生協学生委員の三人(左から三山さん、高橋さん、神田さん:三山さんはロシア語履修者)

20123月の卒業式

 

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加藤史朗の卒業式  2013320日 元会長の岸原正憲君から花束をもらう