おろしゃ会会報 第18号その2

2012年6月1日

 

名古屋ハリストス正教会のマリア・松島純子様から前号に引き続いて、御寄稿を頂きました。おろしゃ会第一号の扉を飾っている聖セルギイ大修道院を実際に訪問され、さらに同修道院にお勤めの修道士から写真の提供を受けた本稿は、非常に得難いものだと思います。文中に見慣れない言葉が出てきます。たとえば「至聖三者」とは、カトリックで言う「聖三位一体」のことです。また「生神女」とは「聖母マリア」のことです。私たちは、いわゆる旧教についても西側からしか見ていなかったのだと思います。東方のキリスト教世界の姿を垣間見る機会を与えてくださったマリア・松島純子様に改めて感謝いたします。(加藤史朗)

 

    ロシア教会音楽の歴史

    −至聖三者聖セルギイ大修道院に二つの伝統を見る−

 

 

正教会聖歌研究者、名古屋ハリストス正教会聖歌担当

 

マリア松島純子

 

 

ロシアを旅行する人の多くが至聖三者聖セルギイ大修道院Свято-Троицкая Сергиева Лавраを訪れますが、礼拝に参加する方はごくわずかでしょう。しかし時間が許せば泊まりがけで行って早朝の礼拝に出られることをお勧めします。大修道院の敷地内外にはいくつも聖堂があって、伝統のロシア聖歌が歌われていますが、その中から至聖三者聖堂とウスペンスキー聖堂で歌われている二つの伝統とその歴史をご紹介します。

                   

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           至聖三者聖セルギイ大修道院  

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至聖三者聖堂を背景に、名古屋教会からの巡礼団2008

                                              

至聖三者聖セルギイ大修道院は地元の人々からはラウラと呼んで親しまれています。(ラウラとは大修道院の意味で、ペテルブルグならアレクサンドル・ネフスキー修道院、キエフならペチェルスク修道院がラウラと呼ばれ人々の信仰のふるさととなっています。)ここはロシアで最も尊敬されている聖人ラドネジのセルギイが13世紀に創設した修道院で、当時は街から遠く離れた深い森の中でしたが、やがてセルギイの徳を慕う人々が集まり、セルギエフ・ポサードすなわち「セルギイの街」と呼ばれる門前町ができました(共産主義時代はザゴルスクと呼ばれていました。)今ではモスクワから近郊電車で1時間ほどです。巡礼者のためのホテルがいくつもあり、修道院の宿坊もあります。                                 

 

 朝一番の祈りは、最も古い聖堂、至聖三者聖堂(Троицкий собор)で始まります。まだ外は真っ暗な5時半、黒服の修道士がどこからともなく集まり、早朝にもかかわらず巡礼者や通勤前に祈りを捧げる人々でいっぱいです。聖セルギイに献げる祈祷が行われ、修道士に続いて信徒も列を作って聖セルギイの不朽体(ご遺体)に接吻します。夜半課、時課に続いて聖体礼儀(聖餐式、ミサにあたる)が行われる頃には、東の高窓からうっすらと朝日が差し込んできます。

石造りの聖堂にズナメニイと呼ばれる骨太の単旋律聖歌が響きます。16世紀ごろまで広く歌われていた中世ロシアの伝統聖歌です。複雑な旋律の動きをイソンと呼ばれるバスの通奏低音が支えます。歌い手は修道士と神学生です。前へ前へと歩みを促されるような力強さがあります。

 修道院の敷地内で一番大きな聖堂、ウスペンスキー(生神女就寝)大聖堂(Собор Успения Божией Матери)では少し遅い朝8時頃から合唱聖歌で聖体礼儀が行われます。日曜日や祭日には「祭日聖歌隊」と呼ばれるよく訓練された聖歌隊が豪華な混声の合唱聖歌で歌います。きらびやかな祭服をまとった聖職者が行き交い、イコノスタスの左右両脇に分かれた聖歌隊が競うように歌います。ロシア近代合唱聖歌の伝統です。

 さてロシア聖歌というと日本では合唱聖歌がよく知られていますが、合唱音楽が発達するのは西洋音楽の影響を受けた16世紀以降のことで、それ以前の500年あまりはもっぱらユニゾン(斉唱)またはソロの聖歌者によるズナメニイが歌われていました。ロシア聖歌の歴史を眺めてみましょう。

 千年前、キエフ・ルーシが国の宗教として正教を選んだのはその礼拝の美しさに魅了されたからでした。『原初年代記』Повѣсть времяньныхъ лѣтъには、ウラディミル大公はどの宗教がロシアにふさわしいかを調べるためにイスラム教、カトリック、正教に使節を派遣したと書かれています。ビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルのアギア・ソフィア大聖堂に参祷した使者たちは「天にあるのか地にあるのかわからなかった。このような美しい礼拝はほかにない」と報告しました。

 ビザンティン帝国(東ローマ帝国)はギリシア・ローマの優れた教養を継承し、首都コンスタンティノープルはシルクロードの要所として東西の文明が行き交う文化の中心地でした。地上30メートルの大ドームを戴くアギア・ソフィア大聖堂が建設され、神との交わりの場である礼拝には贅をつくした最高の芸術が捧げられました。ロシアの使節がその美に圧倒されたのも不思議ではありません。ウラディミル大公は使節の報告を聞くと、直ちに異教の神を捨て、国民とともに洗礼を受けました(988)。  

 

聖セルギイの不朽体が収められた棺(ラーカ)   

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スラブ語のテキストの上に鉤のようなストルプ記号で歌い方が書かれている。旧儀式派で用いられてきた聖歌本056.gif

 

 

正教会はラテン語のローマ典礼に統一したカトリック教会と異なり、伝道先のことばや文化を尊重します。最初のスラブ伝道は9世紀のキリル(キリロス)とメフォディ(メソディオス)のモラヴィア(スロヴァキアあたり)派遣ですが、文字を持たなかったスラブ人のためにギリシア文字からキリル文字を考案し祈祷書や聖書をスラブ語に翻訳しました。

ロシアでもスラブ語の礼拝が進められました。聖歌も最初はビザンティンからギリシア人の聖歌手が招かれてギリシア語で歌いましたが、聖書や祈祷書のスラブ語翻訳が進むにつれて自国の聖歌手が育ってゆきました。ギリシア語とスラブ語ではことばの音節数もアクセントも文法も異なるので、スラブ語で歌われるうちにビザンティンの音楽は次第にスラブ化し、ロシア人の音楽性も反映してロシア独自の聖歌が生まれました。それがズナメニイЗнаменный роспевと総称される古聖歌群になります。ズナメニイ聖歌はさらにロシア各地に広がり、地方によって少しずつ異なるヴァリアント(変種)ができました。南ロシアでは半音階的な優しいメロディが好まれ、北ロシアでは全音階的な男性的なメロディが好まれたと言われます。

古い聖歌はどれもそうですが、今の五線譜のように誰が見ても同じ音楽が再現できる楽譜はありませんでした。祈祷文の上に記された記号(ストルプまたはクリュキー)の聖歌本がありましたが、あくまで補助的なもので師から弟子への聞き伝えが基本でした。また正教会は音楽や言語を統一しようとしないのでどんどん変化し、今となっては元の形はわかりません。記号も17世紀以前の古いタイプは解読されていません。

はっきりしているのは、私たちが馴染んでいる西洋音楽とは全く異なる思想を持ち、歌詞のことばの意味や言語の抑揚に密着した音楽で、むしろ日本の声明(しょうみょう)や御詠歌に近いものだったかもしれません。

 ロシア聖歌に劇的な変化が起こるのは16世紀です。ポーランド・リトアニア王国がウクライナ地方まで勢力を伸ばし、また反宗教改革の一端としてカトリック教会が東方への伝道に力を入れ、西洋音楽の影響が強まりました。すでにルネサンスを経験したヨーロッパでは教会音楽も大きく変化し単旋律から多声合唱が発展していました。

西側に近いウクライナ地方では新しい音楽に惹かれる人が多くなり、正教会の礼拝にも西洋風の合唱音楽が取り入れられました。ウクライナに入った西洋音楽はさらに北方へ広まり、1652年にモスクワ総主教の座に着き礼拝改革を行ったニーコンは、音楽の面でも新しい西洋風の音楽導入を推進しました。古いしきたりや音楽にこだわった人たちは旧儀式派として迫害され、昔からのズナメニイ聖歌は旧儀式派や辺境の修道院に細々と残るだけになりました。教会分裂をもたらしてしまった「ニーコンの改革」です。