おろしゃ会会報 第18号その5

2013年3月8

 

おろしゃ会の最長老と言えば、文句なく市崎謙作先生である。この度、先生から勿体ないお言葉をいただいた。

先生は郁文館高校をご卒業後、東京大学の哲学科に進まれ、フッサールの現象学について研究された。同科をご卒業後、立川女子高校で8年間、社会や数学の教鞭をとられ、その後、名古屋市立短大・鈴鹿医療科学大学・愛知日赤短大などで哲学の教授を務められた。さらに1995年(64歳)には、日中技能者交流センターから黒龍江省の佳木斯(ジャムス)に派遣され、同大学で1年間日本語を教えて名誉教授の称号を得られた。1998年(67歳)からは、ロシアに渡りハバロフスク大学で2年間教壇に立たれ、学生時代に勉強したロシア語にも親しむ機会も得られた。さっそうとバイクで県大に来られる先生は、青年のように若々しい感性と驚嘆すべき向学心の持ち主である。先生とは文中にあるアファナーシエフの『危険なロシア』を読んだだけではなく、その後、今野 元先生も交え、ムシーヒン著『ドイツという鏡に映るロシア−両国保守主義の比較研究』を輪読した。この読書会では、ドイツ語に堪能な両先生に随分と助けられた。先生の向学心は留まるところを知らず、ミハイロワ先生とチェーホフも読まれたとうかがっている。

 先生には、2006年来、おろしゃ会会報に多くのエッセーを寄せていただいた。この会報における学術的な論稿はほとんどが先生のものである。本号にも愛知学院大学の菊池一隆先生が蒐集された手稿をもとに「ソ連極東地方における朝鮮民族問題をめぐって―1932年頃に書かれた文書(断簡)―」を寄稿してくださった。こうした先生から「感謝」のお言葉を賜るのはまことに面映ゆいが、「送別の辞」として掲載をお許し願う事にする。

 

 

 

加藤史朗先生への感謝

市崎謙作

 

 加藤史朗先生にお会いでき、ロシア語の文献を読む手ほどきをお受けする幸運に恵まれたのは2006年のことです。ロマエーヴァ・マリーナさんのご紹介を受けてのことでしたが、もう定年退職してから十年も経っていました。

 その時ご指導いただいたのは、ユーリー・アファナーシエフの『危険なロシア』の講読でした。歴史的なパースペクティブから2000年頃のロシアの社会・国家の危険な傾向性を分析しようとする労作で、それを読みながら、加藤先生からは、ロシア語の読み方はもちろん、分析の背後に潜む歴史的意味をていねいに解説していただき、歴史的に物を観ることの大切さを分からせていただきました。

 そのご指導に感謝する意味で、同書の序の部分を訳したところ、加藤先生はそれを『おろしゃ会 会報』に掲載くださいましたが、その後も折にふれて勉学を励ますお言葉をかけていただいてきました。加藤先生の励ましのお蔭で、もう存在価値もなくなった私でも多少の向学心を持ち続けることができるようになっています。このことには、いくら感謝しても感謝しきれない思いをしています。

 しかし、間もなく加藤先生が県大を去られて東京か北海道へ行ってしまわれると思うと、考えただけでも寂しい限りです。だが、「愛別離苦」は世の定め。受け入れるしかありません。加藤先生は日本にはおられるのですから、まだまだお会いできる機会は多くあると思います。どうか今後も折がありましたら、ご鞭撻・激励をいただきたく心からお願いするばかりです。

 学生時代に一時抱いた「ロシア(その頃はソ連)幻想」は幻滅に終わり、私は、それから四十年以上もロシア問題を避けてきました。いろいろな偶然が重なり、再びロシアに関心を持つようになったわけですが、ロシアはまだまだ謎だらけです。内閣府大臣官房政府広報室の「外交に関する世論調査」をみると、1978年以降2010年までの統計に依れば、外国に親近感を持つ日本人の割合は、アメリカに対して「親しみを感じる」のは80%前後(「親しみを感じない」のは20%前後)なのに、ロシア(旧ソ連を含め)「親しみを感じる」のはちょうどその逆で、ほとんどの年で20%以下(逆に「親しみを感じない」割合は80%前後)です。

 そういう世論調査の対象に自分が選ばれたらどう答えるだろうかと考えてみるのですが、今まで交流したことのあるロシア人のことを考えれば、むしろ「親しみを感じる」と答えるでしょう。しかし、マスコミなどの報道を通して知る限りでの「国家」としてのロシアには大きな違和感を覚えますから「親しみを感じない」と答えるかも知れません。回答者は、「人」(個々人)のレベルと「国家」(政府や政策)のレベルとで受ける印象が違っていますから、どちらのレベルに重点を置くかによって答え方が違ってくる可能性があるように思います。

 以上のことに関係あるのですが、さらに興味ある結果もあります。それは、中国に対する感じ方です。

 

 

 表に見られるように、中国に対して「親しみを感じる」割合は、多い時には70-80%もあったのに、2010年には僅か20%に低下しているのです。しかし、「親しみを感じるかどうか」は、個々人のレベルや国家のレベル(さらに団体や会社のレベル)によって異なるのでしょうから、尖閣問題が緊迫している現在では、覇権国家を連想させる中国の政策に違和感を覚え、国家レベルで「親しみを感じる」割合はさらに低下しているのではないでしょうか。(おもしろいことに、韓国について「親しみを感じる」割合は、中国とは逆の方向に変動しています。)

 今ここで内閣府の調査について調査を批判的に吟味することはできませんが、物事を歴史的(時系列的)に観ることによって何かが浮かび出てきているのは確かです。加藤先生に気づかせていただきました「歴史的パースペィティブ」の有効性はこんな所にも生きているわけです。

 私は生来のぼんやり者で、貧乏な生活ばかりしていたのに経済的な関心もなく、愚鈍故に世故に疎く、家族関係のせいもあり、立身出世しようというような気持ちを動機づけるものも全く持たないで生きてきました。せめて、「世のため」「人のため」を考えるような殊勝さがあればよかったのですが、そういう崇高な理想に献身する気力も持ち合わせませんでした。やはり、「生来のぼんやり者」としか言いようがありません。そんな私に歴史的な物の見方の大切さを気づかせていただいたのは、ひとえに加藤先生のお蔭です。さらには、当然、「たこつぼ」的な感性や観方を脱して関係的に物を観る必要性を悟らされました。具体的には、例えば、日本の国家や社会について、米国だけでなく中国・韓国・ロシアとの緊密な関係を無視していては事の本質を見抜けないし有効な対策も打ち出せないと思うようになりました。また、欧米・中国・ロシアだけでなく、ユーラシア的視点から観ることも、政治・経済・文化などのレベルでますます必要になってくるとも確信しています。

 心の温かい、包容力のある加藤史朗先生のような方と出会うことができ、愚かな私にも大切なことを気づかせていただきましたことに「運命の恵み」を感じます。遅まきながら気づかせていただいても、墓場も近い私がそれを生かして何ができるかは分かりません。しかし、関心のある限りは努力をして何らかの成果をあげるようにしたいと思っています。そういう努力をすることが、加藤先生への具体的な恩返しになると思っています。加藤史朗先生、ありがとうございました。これからもますますお元気にてご活躍ください。  

               (201333日)

 

 

 

あとがきに代えて

 

 おろしゃ会会報第3号の寄稿者大内望君が亡くなった。201194日のことである。彼との出会いは19748月、群馬にある桐生外語学院という予備校の「世界史」夏期講座においてであった。よく質問する涼しげな眼をした若者だという印象をもった。その後、彼は首尾よく早稲田大学政治経済学部に入学し私の後輩となった。大学のキャンパスで会い、居酒屋で酒を飲んだ経験があるが、特によく交際していたわけではない。しかし年賀状やら暑中見舞いなどこまめに書き送ってくれ、私もそれに応えていた。一昨年の暮れ近く、奥様より喪中の葉書が届いて彼の逝去を知り驚愕した。虚を突かれた感じであった。早稲田を卒業後、地元の銀行に就職し、2008年には、銀婚式を祝い、モーツアルトの生誕地ザルツブルクに夫婦で旅をしたとか、2010年には息子が結婚したとか、まさに幸せを絵に描いたような生活をしているなと思っていた。しかし喪中のお知らせ以後の奥様からの便りで、2001年に悪性腫瘍を発症、10年にわたる闘病生活を続けていたということを知った。その10年間も季節の便りで奥様との登山姿の写真などを送ってくれていたから、全くその気配を感ずることがなかった。

 奥様と手紙のやり取りを続けるうちに、大内君のお母様からも便りをいただくようになった。おろしゃ会に彼が寄せたメッセージは「母とロシア」と題するものであったからである。会報第3号(199912月)に彼は次のように書いている。

 

加藤先生こんにちは

〈中略〉 ロシアといえば、70歳を過ぎた母が良く言う東北弁の独り言に「カシロフジナさん、どしてるもんだか」というのがあって、それは子供の頃から、何度も聞いたものです。
 ロシア革命を逃れて日本に来た白系ロシア人が、母の通っていた女学校にいて、卒業後その人は消息不明になっているらしい。
 先日「今だったら、きっと友達になれたのに」という、新たな母の独り言を聞いて、今までの独り言の意味がようやく解りました。
 友達もなく、異国の学校をさびしく卒業したであろうその同級生のことが、ずっと気になっているのでしょう。
 母がその女学校、今の盛岡白百合学園を卒業したのはもう50年以上も前のことなのに。
 寂しいことに私の身の回りで、ロシアとの接点はこれきりです。

 

 望君のお母様大内貞子様から頂いたお手紙を、お許しを得て以下に掲載する。(原文縦書き)

 

 

私は、望の母(84)です。突然お便りして失礼とは思いましたが、ひと言御礼をとペンをとりました。

 望の若いころ、加藤史朗様のお名前は聴いておりましたので、望の気に入っている人なのだなあ…とこの歳になるまでお名前は忘れないでおりました。望が長い間お世話になり、ありがとうございました。過日は御心こもれる生花をお送り下さり大変恐縮しております。

 このたび戴いた「おろしゃ会」を読ませて頂きました。「プーシキンの悟り」「三匹の熊」「名古屋正教会とロシア」などなど。老婆の私にとって学ぶところが沢山ありました。

 ロシア正教会を母教会としてセルビア正教会、ブルガリア正教会はそれぞれ対等な立場を持っているということなども。

 私は、現盛岡白百合学園(フランス修道会のミッションスクールで、東京の白百合学園は姉妹校)を昭和十九年に卒業。同じクラスに白系ロシア人のカシロフ・ジナさんがいました。フランス人の尼さんも四人にて、校長はマリー・ボナン。尼さんたちは都会風。カシロフさんは顔がごつくて盛岡弁べらべらの田舎風。感受性の強かった十代の四年間で、カシロフさんは、私をロシア大好き人間にしてしまったようです。

 子供のころ、原敬のお屋敷の向いに、ブテックのような高級の洋服を売る小さなお店がありました。

 この店の主人はロシア人で奥さんが日本人。私の女学校の通学路でしたので、主人をよく見かけました。私の十代はまるまる戦争の時代でしたので、外人を見るのが珍しくて、あのロシアのおじさんいるかなあ…と通るだびにのぞいてました。

 ビール樽のようなお腹をかかえた彼の赤ら顔の奥の青い目と、丸い鼻のあたまの赤かったことは、今でもおぼえています。

 当時、大学生だった兄は、この店からレインコートを買ってきたのです。ラグラン袖のしゃれたコートでした。

 盛岡ハリストス正教会のことは、最近の小雑誌で知りました。幕末期、函館に蝦夷地警備のために派遣され、函館の正教会に於いて信仰を得、その後盛岡に戻った南部藩士たちの中に、平民で始めて首相になった原敬、新渡戸稲造、現在盛岡で一番大きい川徳デパートの創始者、川村徳助などがいたことを知りました。

 市内にある盛岡ハリストス正教会の写真も載っており、ヨーロッパの天を突く尖った塔とは違い、名古屋ハリストス正教会に似ている建物です。

 望の「母とロシア」というエッセイは、私から聴いたカシロフさんの話などから母はロシアに親しみを持っていることを知って書いたのかもしれません。本人は何も言っていませんでしたけど。

 望は、一昨年と昨年の二年間休職してました。一昨年のあの暑い夏は、健康体と同じ食事をし、それまで一歩も歩けなかったのが、リハビリの病院で必死に努力し退院して家のまわりを散歩するまでになりました。医師は一生歩けないと思っていたらしく「大内さんの体は医学では理解できない」と言っておられたとのこと。嫁も必死に看病してました。

 そんな望に「短歌作ってみたら」とすすめました。早速六首詠んできました。私は、六十歳すぎてから短歌結社に入り、歌詠んでましたので…。

 そのころ望はNHKのテキストを買ってラジオでドイツ語を学んでました。休職しながらでもこうなのですから、普通の人が退職してから楽しむことを現職のうちに仕事と両立させて行動した人でした。山登り、釣り、パソコン、音楽、読書などなど…。

 親戚の人は「望ちゃんは完璧に生きた」と言ってます。

 最後は視力も失いましたが、落ち込むことなく、私と自分の妻をはげましつづけました。「息子さんにはげまされてます」と主治医は言っておられました。おかげで家族も前向きに生きることができ、神様に感謝してます。望もクリスチャンの両親に感謝してくれました。

 加藤様は、愛知県立大学のロシア語の教授であられる由。生きがいのある働きをしておられるのですね。望は加藤教授をはじめ沢山の良き先輩、友人に恵まれていたことを亡くなって始めて知りました。皆様にかんしゃしてます。

 何卒、御健康が支えられて悔いのない人生でありますように…心からお祈り申し上げます。

 だらだら乱筆乱文を綴りましたことをおゆるし下さいませ。

                                      かしこ

 (2012年)二月十九日

加藤史朗様                                  大内貞子

 

 嫁は「おろしゃ会」二冊読みましたらお礼状差し上げるとのこと。よろしく申してます。

 

 望が散歩できるようになり、始めて作った短歌(2010年作)

 

・小春日に誘われいでし散歩道妻が添いきて犬を連れいく  望

・星凍る夜道を歩む親鳥の翼のごとき父のコート着て  望 通勤のうた

・改札の我呼ぶ声に覚えあり笑顔がゆれてここはふるさと  望

(2008年夫の墓参に行った際、望のイトコが青森駅に迎えに来てました。)

 

 恥ずかしいですけどカシロフさんを詠んだ私の歌一首。

・白系露人クラスにいたりき青き目のまなうらにありて行方は知らず

 1993年(平成5年)4月24日、毎日新聞歌壇全国版に載った歌。選者は先年癌で亡くなられた歌人の河野裕子さん。私は十年ほど楽しみで新聞に投稿してました。河野さんの結社に入り、今年で十八年になり楽しんでやってます。

 

 

 

 

 このお手紙を拝読し、子に先立たれる母の哀しみが「大悲」となって溢れ出ているような気がした。クリスチャンのお母様には失礼かも知れないが、「大悲」は大乗仏教の中心概念であり、悲母観音は生神女マリア(バガマチェリ)に似ている。ミケランジェロのピエタを思えば、得心がいくのではなかろうか。オノコはハハを母たらしめるために生き、ついには孤露のように消え去って逝く。大内望君はそういう人生を全うされたのだと思う。望君とは儚い縁ではあったが、「母とロシア」という大きなテーマで結びついていたことに気づき、人との出会いの不可思議に感じ入っている。君を失って、望のイメージが次々と湧き起こり、溢れだす。君の葬儀礼拝の冊子には、新約聖書の一節「望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい」(ローマ人への手紙12-12)が引いてあった。キリスト教の敢闘精神に敬意を表しながら詠める歌。

 

のぞむれど望なきよのさむしさよ蓮のうてなを夢にみつつも  史朗

 

 

 

 

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ありし日の大内 望君(2008年ザルツブルクにて)

 

 

 

 

 

 

 

「おろしゃ 会」会報 第18

2013320日発行)

 

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