満洲文字を知る
(1)満洲文字とは何か?

(2)満洲文字の構造

(3)満洲語について

(4)満洲語の文献

(5)無圏点満洲文字

(6)文字表

(7)基本参考文献

(8)モンゴル語を記した満洲文字

(9)漢語を記した満洲文字---1.文献



(5)無圏点満洲文字

 ダハイ(達海)によって正書法が整理される前の満洲文字は「無圏点満洲文字」あるいは「無圏点満文」 と呼ばれています。 無圏点満洲文字では、「k」から「g」や「h」を区別するための点や丸も、「a」から「e」を 区別するための点も付いていません。
 まずは雰囲気を確認するために実例を見てみましょう。次の写真は『満文老档』 という資料の無圏点満洲文字ヴァージョン(左)と有圏点ヴァージョン(右)です。 (今西春秋「満文老档乾隆付注訳解」の図版、『東方学紀要』1、天理大学おやさと研究所、1959年より)

  


 次に、もう少し具体的に確認するために、ヌルハチとホンタイジが発行した貨幣の銘文を見て みましょう。

  


 左は清の太祖ヌルハチが天命年間(1616-1626)に発行した貨幣です。左に「abkai(天の)」、 右に「fulingga(命をもつ)」、上に「han(王)」、下に「jiha(銭)」と記されています。「天命汗銭」 または「天命皇宝」と呼ばれている貨幣です。
 右は清の太宗ホンタイジが天聡年間(1627-1635)に発行した貨幣です。左「sūre(聡明なる)」、 上「han(王)」、下「ni(の)」、右「jiha(銭)」とあります。この貨幣の通称は「天聡汗銭」あるいは 「天聡通宝」です。

 まず「天命汗銭」(左の画像)の銘文を見ると、左端に記された「abkai」の部分は有圏点満文であっても 点や丸を付ける必要はありませんから、表記は同じになります。右端に記された「fulingga」の場合には、 有圏点満文のつもりで読むと「folingka」となってしまいますから、有圏点では「fo」と「ka」の右側に点を 付します。上部の「han」も有圏点の表記法ならば、丸を加えます(そうしないと「kan」と読まれま す)。下部の「jiha」における「ha」も同様です。

 次に、「天聡汗銭」(右の画像)の銘文も確認しておきましょう。こちらの資料の表記には問題点が二つ あります。

「sūre」について
 まず左端「sūre」ですが、この転写は実は無圏点と有圏点の折衷的な表記で、忠実に翻字すれば {SOIRA}となります。この語は有圏点の満洲文字では「sure」と表記されます。最後の母音に 点を付して「ra→re」と読ませることには特に問題はありません。ところが、第一音節は無圏点と有圏点で 表記が異なるのです。無圏点では{SOI}ですが、有圏点では{SO}の右に点を付した「su」になります。 沈原・趙志強「満語元音簡論」(『満語研究』1995年第1期、36-44頁)によると、 無圏点満文では{O}と{OI}の間に音価の違いはなく、双方ともに/o/もしくは/u/を表します。 同一語内に男性母音/a/があれば{O}と綴り、女性母音/e/があれば{OI}と綴るのです。{SOIRA}の 場合には第二音節の母音が/e/なので、{SORA}ではなく、{SOIRA}と綴られたことになります。一方、 有圏点では発音通りに「sure」と綴られます。

「ni」について
 第二の問題は 下部の「ni」です。この表記を「ni」と読むことは無圏点であろうが、有圏点であろうが変わりません。しかし、 有圏点の満洲語文語では、「n」で終わる名詞の後の属格助詞は「ni」でなく「i」と綴る規則になっています。 したがって、ここでの表記「ni」はそのような正書法が定められる前の表記ということになります。この貨幣の 「ni」という表記の特殊性については、吉池孝一「天聰汗錢の満文属格語尾について」(『KOTONOHA』第68号、2008年7月→PDFはこちら)で紹介されています。
 「han」の属格語尾をここで「ni」と表記したことは、実際の発音が[hanni](あるいは[hani])で あったことを物語るでしょう。それが文語の正書法で「i」と表記するように定められたのはなぜでしょうか。 一つの可能性として、(モンゴル文字による)モンゴル語の正書法の影響が考えられます。モンゴル語では、 「n」で終わる名詞の後に母音で始まる助詞が付く場合、「u」や「i」と綴る規則になっていて、「nu」「ni」 とは綴りません。実際の発音が[nu][ni]のようであったことは、漢字音訳や満洲文字による表記によって 明らかですから、これは純粋に正書法の問題です。モンゴル語の読み書きに慣れていた満洲人の役人たちにとって、 そのような正書法を満洲語にも取り入れることは自然なことであったかも知れません。

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