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『有坂秀世研究−人と学問−』

「収録著作」        「編集後記」




 古代文字資料館では二〇〇七年から二〇〇八年にかけて、「KOTONOHA単刊」として三冊の出版物を世に送り出してきた。 昨年末、次の単刊として何を出版するかについて館員たちで相談した際、我々の恩師である慶谷壽信先生の論集を出すことは できないだろうかという話になった。折しも二〇〇八年は慶谷先生が長年にわたって調査研究の対象とした言語学者・有坂秀世 の生誕一〇〇年であった。まずは慶谷先生の手になるもののうち、有坂関連の文章をまとめて一冊にしようと企画し、 『有坂秀世研究─人と学問─』という仮題を付けて、先生にお伺いを立てることにした。先生からは書名について多少の疑義が 出されたものの、幸い出版については快くご承諾を頂いた。そこで我々は有坂秀世の誕生日である九月五日までに形にする ことを目指して作業を進めることになった。

 言語学者としての有坂秀世の評価についてはここに改めて記すまでもなかろう。金田一春彦氏の次の言葉を引用するに とどめておく。「家父・金田一京助は、生前、有坂秀世博士を評して、あれは百年にひとり生まれる言語学者だと推称していた。 橋本進吉博士は、自分の後任東大国語学主任教授として、有坂博士に白羽の矢を立てたが、病弱の故をもって辞退され、 口惜しがっていたと聞く。有坂博士は健康に恵まれず、生涯の半ばを病床で送られ、四十三歳の若さで他界されたことは、 いくら惜しんでも惜しみたりない」(『有坂秀世言語学国語学著述拾遺』《有坂愛彦・慶谷壽信編、三省堂、一九八九年。 以下、『著述拾遺』と略す》への序文)。

 慶谷先生が有坂秀世の生涯について追跡調査を精力的に開始したのは、「有坂秀世博士のこと」(本書二九二頁)に よれば、「前史―石恬エ麿から有坂秀世まで―」(本書三九五頁、以下「前史」と略す)を執筆した一九八一年以降のこと であるらしい。しかし、それ以前の一九七七年、『中国語』誌上に「私のこの一冊」として有坂秀世著『国語音韻史の研究 (増補新版)』を取り上げており(本書三〇一頁)、その中ですでに「前史」以降長年にわたる先生の「有坂学」へと発展する 骨子というべきものが語られている。

 私が東京都立大学人文学部中国文学専攻に学士入学したのは、「前史」が書かれた翌年、一九八二年のことである。 その面接試験の際、中国語音韻史を勉強したいと表明した私に、慶谷先生は有坂秀世を読んだかと問うた。その時に私は 初めて「有坂秀世」という名を聞いた。有坂秀世の名も知らずに中国語音韻史をやりたいと口にした私は、明らかに一個の 「もぐり」であった。入学後、有坂論文を読んだ。何度も読んだ。それでもまだ、人としての有坂秀世に大きな興味を抱いた 訳ではなかった。

 大学院に進むと、慶谷先生による「有坂学」の通年の講義が二回行われた。当時一緒に受講していた吉池孝一氏筆録の 講義ノートによれば、一九八六年度と一九八八年度のことである。当時の都立大の授業は─あるいは他の大学も同様であった かも知れないが─四月は顔合わせ程度で、実質的には五月から始まるのが常であった。一九八六年度においては五月二日が 実質的に初回の講義だったようである。最初のテーマは有坂秀世の出生地についてであった。それまで「広島県呉市三番町」 としか知られていなかった出生地の正確な番地を確定しようとする試みである。正直に言えば、私は当初困惑した。あたかも、 これからマラソンレースをするのに、ミリ単位の正確さでスタートラインを引こうとしているような印象を抱いたのだ。 しかし、これが慶谷先生のやり方だった。「exhaustiveであれ」は先生がしばしば学生を鼓舞する言葉であったが、先生の 研究態度がそれに他ならなかった。秀世の出生地については「有坂秀世博士の出生の地とその父[金+召]藏博士のこと」(本書七三頁) として文章にもなっているが、講義の方がずっと詳しかった。文章では、どのような資料によって正確な出生地を確定した かが述べられたが、講義においては、ドコソコに行ってみたが、そこには有用な資料が「なかった」、ドコソコにも 「なかった」、ドコソコにも…と調査過程の全般が語られた。ようやくいくつかの資料が見つかり、それらから正確な所番地を 確定してゆく様子は、ある意味で比較言語学における共通祖語の再構にも似ていた。五月三〇日の講義に至って、やっと番地が 確定した。スタートラインが引かれたのである。

 六月からいよいよマラソンレースの本番が始まるかと思ったが、そう甘くはなかった。話題はその後、秀世の父・[金+召]藏のこと、 さらに母・敏子のことへと移ってゆく。東京帝国大学の教授を務め学士院賞受賞者でもあった父と、秀世に英語の手ほどきを した母とが、秀世の学問に一定の影響を与えたことは当然とも言えるのだが、当時の私はその意義を十分に理解できなかった。愚かにも、レースの前にこんなにも入念すぎる準備運動が必要なのかと、頭の上に大きな「?」を浮かべていた。

 一九八八年度の講義では、やっと有坂秀世の研究内容に焦点が移った。中心となったのは没後に出版された『語勢沿革研究』 である。これは旧制一高時代に書かれた研究ノートであるが、後のいくつかの論文に結実する骨格がすでに見えている。 授業では、このノートの内容と、後の論文への発展過程などが詳細に説明された。『語勢沿革研究』は十代の若者が書いた ノートではあるが、今なお学術的な鑑賞に十分堪えうる。この書を読んで、私自身も、有坂秀世がどのような生涯を送ったのか、 どのような状況下で研究を続けたのかという点に改めて興味を抱くようになった。

 さらに同じ一九八八年には、当時我々の同人誌であった『語学漫歩』に、慶谷先生にお願いして「有坂秀世『劣敗者の 人生觀』について」(本書三〇〇頁)を執筆して頂いた。そこには有坂秀世の大正大学講師時代のエッセー「劣敗者の人生觀」 の本文も掲載したのであるが、その際、私は初めて有坂秀世の自筆原稿のコピーを目にした。決して上手な字ではないが、 一点一画に注意を払った書きぶりが印象的であった。

 翌一九八九年には『著述拾遺』が刊行され、慶谷先生の積年の調査と資料収集が実を結ぶことになる。この書は有坂秀世の 書簡や大正大学講師時代の講義ノート(宇井浩道氏筆録)など未発表の資料を多く含んでおり、有坂研究に大いに資する ことになった。とりわけその講義ノートは、一九八三年の「大正大学の有坂秀世講師」(本書一頁)において初めて存在が 明らかにされたものであり、公刊が待たれていた。想像するに、精力的な調査活動の初期において大正大学講師時代の諸資料を 発見したことが、慶谷先生にとって、その後の活動の弾みになったのではあるまいか。それらの資料を収めた『著述拾遺』は 慶谷先生の「有坂学」における一つの記念碑と言えるものである。

 『著述拾遺』を記念碑とするなら、本書は、慶谷先生のこれまでの有坂研究の総括ということになろう。ここにはこれまでの 著述のうち、有坂秀世の人と学問に関する論文、評伝などがほぼ全て収められている。本書と『著述拾遺』とによって、 有坂秀世という言語学者の生涯と研究生活とがかなりの程度まで知りうるのである。有坂秀世を敬慕する人々にとって干天の 慈雨となるばかりでなく、その学説に接したばかりの若い学徒にとっても良き道しるべとなるに違いない。

 三〇年近くも昔の面接試験の日に、有坂秀世を読んだか、と問うた慶谷先生の厳かな口調を今も懐かしく思い出す。 その時は、慶谷先生が有坂秀世という言語学者に深い関心を寄せていることをまだ知らなかったが、実際には、すでに精力的な 調査が始まっていたのだった。中国語学、とりわけ音韻史を学ぼうとする者にとって、有坂秀世の著作が必読のものであり、 有坂秀世を読んだかという慶谷先生の問いかけも一義的にはそのために発せられたものであろう。しかしまた、その問いは、 有坂秀世という言語学者がどのように生きたかを知っているか、その研究態度が我々の範とすべきものであることを知っているか、 という問いかけであったようにも思う。

 不肖の弟子であり不孝の弟子でもある私が、恩師の論集に序文を記すなどまさに厚顔の至りであるが、長年の無沙汰に 対する詫状として、この任を引き受けた次第である。その大いなる学恩に感謝しつつ、全国に散らばる先生の門弟たち とともに、今般の上梓を言祝ぎたい。
二〇〇九年二月十八日
中村 雅之