おろしゃ会会報 第18号その4

2013年18

 

北方四島交流後継者訪問事業に参加して

訪問先:択捉島

訪問期間:平成2482427

 

愛知県立大学 外国語学部 国際関係学科3年 伊藤 亜衣

 

 

 

 6月末の早朝、国際関係学科の加藤史朗先生から「北方領土に行かないか」と電話があった。突然で驚いたが、締め切りが過ぎているので即決するように言われ、詳細は分からぬまま返事をした。ロシア学科でもなければ、日露関係について学んだこともない私で大丈夫なのか…と不安で、事前に何冊か文献を読もうと図書館で本を借りた。しかし、「あまり事前に知識を持って行かない方がいい」という加藤先生の言葉を鵜呑みにした私は、途中読みで本を図書館に返却してしまった。

北方四島交流訪問事業とは、1991年に当時のゴルバチョフ大統領によって提案されたもので、通称「ビザなし交流」と言われるとおり、旅券や査証なしで北方四島の島民と日本国民が交流をする事業である。

貴重な経験を多くの方とシェアしたいと思い、ここで報告させて頂く。「百聞は一見に如かず」、私の下手な文章よりも写真をご覧になってもらいたいと思いたくさん載せた。途中、毒(暴言?)を吐くこともあるが、一学生の意見として読んで頂ければと思う。

 

 

823日:結団式・事前研修会(北海道立北方四島交流センター:ニ・ホ・ロ)

前日に根室入りし、初日は朝から訪問団で納沙布岬へ。北方領土に関する展示品や資料が置かれている「北方館」を見学し、返還運動関係者から簡単な歴史や経緯を聞いた。歯舞諸島はうっすらと見えたもののこの日は雲が多く、国後島を眺めることが出来なかった。

根室市内には至る所に「島を返せ」の文字が

 

 
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その後、交流センターで顔合わせと研修会を行った。日本とロシアを繋ぐ北海道の交流拠点施設という意味で「ニ・ホ・ロ」と名前が付けられたそうだ。センスの有無は置いておくとして、施設は総工費27億円をかけ200027日の北方領土の日に開館した(北海道観光情報HPより)。近代的なおしゃれな建物で館内にはホールや展示室があり、まるで美術館のようだった。ここまでする必要があるのかと少し首を傾げた。

訪問団は、5名の通訳を合わせて50人。私を含む14名の学生に2名の国会議員、報道関係者が2名参加していた。各都道府県から偏りが生じないように団員を構成するという話だったが、参加者の出身が某県に集中していたのはなぜ…。

 団員の自己紹介、DVD(「北方四島交流事業から見えたこと」)鑑賞、昼食を挟んで、北方領土の語り部、鈴木咲子さんからお話を伺った。貴重なお話だと思うので、少し紹介する。鈴木さんは昭和13年に択捉島蘂取(しべとろ)村で生まれ、小学校4年生までそこで暮らしていたが、終戦から13日目にソ連軍が上陸した。若い女性が連れ去られるという噂がたち、女性たちは男性の恰好をしたり、坊主にしたりと毎日が不安な日々だったという。ソ連人は火葬場の釜でパンを焼き、食糧不足のため鈴木さんらはそれを食べざるをえなかった。昭和2310月、島から出ていくように言われ、樺太の収容所に入れられたが、収容所には人が入りきらず、テント生活をするものもいたという。その後、函館へ送られることになった。その際、文字の入ったもの、アルバムや住所録などはすべて処分されたが、蘂取村長はお骨箱に村民の戸籍謄本を入れて持っていった。また、死人は連れていけなかったため、死んだ赤ん坊を生きているかのようにして背負って行く母親もいた。「そんなに長くはソ連人も島にいないだろう」と誰もが考えていたようだ。鈴木さんは、現在でも「島が返ってくるかもしれない」という想いで生き続けていると話を締めくくった。

そして、訪問団員でもある九州大学大学院の柳原正治教授から「幕末期・明治初期の領域確定」のレクチャーがあった。休憩を挟み、通訳より簡単なロシア語講座があり、事前に配布されたロシア語会話集をもとにペアになり、練習をした。果たしてこの成果を発揮できるのか。さらに、住民交流会の打ち合わせや役割分担を各グループで行い、最後に政府関係者から訪問時の注意事項を聞き、1日目は終わった。

 

824日:出発

根室港でえとぴりかに乗船し、関係者に見送られて出港。えとぴりかは、平成245月から四島交流事業で使用されている新船で、「エトピリカ」という鳥の名前から船名が付けられた。清潔感溢れる船内で、大浴場やコインランドリーもある。一通り船内を見て回り、部屋で大人しく到着を待つことに。船には私たち団員の他に、火山やクマ・コウモリの専門家も乗船していた。

 

船のシンボル・えとぴりか

 
 


えとぴりか

 
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途中、入域手続のため国後島の古釜布湾へ。ロシア側の職員や絶滅危惧種の調査団、島民が乗り込んできた。団員から双眼鏡を借りてムネオハウスを探していると、船内放送が流れた。食堂で入域手続を行うという。団員は番号順に並び、ロシアの職員が顔と書類をチェックしていく。1人ものの数秒で終わった。そして、職員らは国後島へ帰っていった。

国後島から来たはしけ

 
 

 


船から見た国後島

 
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船から眺めた夕日

 
 

 

 


再び択捉島に向け出航し、到着したのは深夜であった。

 

 

825日:択捉島1日目

 船から朝日が見たかった私は、誰よりも早く起きてカメラを持ってデッキへ向かった。

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「おはようございまーす。朝食の準備が出来ましたー」と船内放送があり、朝食をとっていざ島へ上陸。ちなみに、船で出される食事はすべて日本食で、どれもとても美味しく私が常に楽しみにしていた時間であった。

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ある日の夕食

 

ある日の昼食

 
 

 

 


大型船は港につけることができないため、4つのグループに分かれて順にはしけで択捉島へ向かった。下の写真にように、十数人乗ってもはしけにはまだスペースがある。何度か訪問事業に参加している人曰く、「ロシア側の嫌がらせ」ということであった。はしけは船と島を4度往復し、かなりの時間がかかってしまった。事実、これ以降の船と島との往来は2回に減った(だったら、始めからそうすればよかったのに…と誰もが思った)。

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択捉島に上陸すると、港に車が並んでいた。私たちは23人に分かれて車に乗り込んだ。ドライバーは皆、訪問事業のためにこちらが雇った島民。島内には未舗装の道路が多く、車が走ると窓を開けることが出来ないほど砂埃が舞う。島で軽自動車やきれいに洗車された車を目にすることはなかった。車に揺られながら走って数分、コンクリートの道路が登場したかと思いきや、再びすぐに脱コンクリート。現在、道路の舗装は急ピッチで進められているそうだ。

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私たちが訪れたのは、択捉島の中心地である紗那。まず向かったのは島の小さな博物館。5000点以上の展示品の内、一部が展示されている。お寺の鐘や刀など日本時代の名残も見られた。また、島にある児童芸術学校の生徒の作品なども展示されていた。

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ここから、二手に分かれてそれぞれ視察に向かった。博物館から未舗装の道路を歩いてすぐ、今にも崩れそうな建物があった。これは、1930年に建てられた島に唯一現存する日本家屋で、終戦前までは郵便局として使用されていた。56年前までは使われており、共産党の事務所だったこともある。しかし、老朽化が進み、近く取り壊されるという。

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日本家屋

 

日本家屋のある道路

 
 

 

 


「赤い灯台」という島の新聞社へ。プレハブの事務所は、元々は日本からの人道援助物資の倉庫であった。ソ連時代は共産党の方針に沿った記事ばかりであったが、今ではより客観的に書いているという。新聞には主に、島の話題やビジネス、火山の噴火に関することが多い。私は記者に「赤と聞くと共産主義というイメージが強いのですが…」と聞いたところロシア語で「赤い」というのは「きれい」を意味するということであった。

 

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案内してくれた記者ウラルスキーさん

 

ウラルスキーさんの仕事部屋

 
 

 

 


紗奈に4か所ある図書館の1つへ。とてもインパクトのある一度見たら忘れられないシドレンコ館長がお話をしてくれた。この図書館には26000点が所蔵されていて、年間3000人以上の読者がいるという。日本の書物も所蔵されていて、村上春樹が最も読まれているそう。案内されたのは、談話室のような部屋のみで、館内を見学することは出来ず残念だった。

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図書館の入口

 

シドレンコ館長

 
 

 

 


111年生、約240人の生徒が学ぶ学校へ。校舎は1997年にカナダの建設会社が建てたという。私たちを案内してくれたのは、理科を教えているというシュルプ先生。大柄で厳つい先生は、私たちを案内する際、常に指し棒を持っていた。学校には10台のパソコンが設置されており、今後さらに増える予定だという。また、校内には資料室があり、日露の歴史が紹介されていたり、私たちが訪れた時はちょうどプーチン特集をしていたようで、机一面にプーチン大統領のプロマイドが置いてあった。

 

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資料室

 
 

 


200911月に開業した新しい病院へ。現在、医師18名と43名のスタッフがいるが、医者不足のため本土から好条件で若い医師を呼ぶこともあるという。日本からの人道援助によって提供されたレントゲン機器をはじめ最新医療機器は備わっている。1階が外来と事務所、2階はすべて入院用の部屋。また、別棟が2つあり、1つは伝染病患者用、もう1つが霊安室で、救急車は4台ある。ちなみに、案内してくれたツィルクノフ医院長代理は、小太りで白いスーツ、おまけに金歯で、良い生活をしているのだなと思っていたのだが、彼の家を訪れた団員によると、家は外見とは違って質素だったという。

 

入院室

 
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治療室

 
 

 

 


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病院の外観

 

別棟

 
 

 

 


病院を後にし、もう片方のグループと合流。ちなみに、片方のグループは、紗那から少し離れた別飛で、幼稚園や島で最大の水産加工会社ギドロストロイ社の水産加工場、孵化場を見学したそうだ。

私たちは11の家庭に分かれてお宅を訪問することになっていた。各グループ4-5人だったが、なぜか私は男性団員の池田さんと2人だけで行くことに。それぞれのホームビジット先のホストファミリーが、迎えにきていた。三つ編みに大きな黒縁の眼鏡をした背の高い女の子が私たちを家まで案内してくれた。(ホームビジットでは食事とお喋りに夢中になり、あまり写真が取れなった…)

 家では、銀行の経理を担当しているお母さんのインナさんが料理の準備をして私たちの到着を待ってくれていた。テーブルには、食べきれないほどの料理が並んでいた。事前研修会で「ウォッカが必ず出てくると思いますが、くれぐれも飲み過ぎには注意してください」と言われていたが、インナさんはあまりウォッカを飲まないようで、代わりにシャンパンやワインで乾杯した。テーブルにはイクラがあった。普段目にするイクラより小粒なもので、パンに載せて食べる。私たちが少しずつパンに載せて食べていると、インナさんが「そんなんじゃだめよ、アーニャ見本を見せてあげなさい」とアーニャはパンからこぼれ落ちそうなほどイクラを載せてみせてくれた。こちらではイクラはそれほど高価なものではなさそうだ。ちなみにお土産にイクラを頂いたのだが、船内の冷蔵庫に置いてきてしまったことを今でも悔やんでいる。

 

池田さん・インナさん・アーニャ・私

 
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談笑()する池田さんとアーニャ

 
 

 

 


3時間ほどの滞在中5名の通訳は11の家庭を回るため、私たちは通訳のいる間に自己紹介をし、互いに質問を止めなかった。元々、インナさんの両親が樺太から択捉島にやってきて定住した、14歳の娘アーニャは医者になりたい、アーニャのお姉さんは、現在ソチの大学に通っていて卒業しても島へ戻るつもりはないという…など。あっという間に通訳が家を後にしてしまった。インナさんもアーニャも英語が話せなかったため、私たちは初めこそロシア語会話集を手に奮闘してみたものの、途中からロシア語と日本語で会話していた。ボディーランゲージや表情で意思疎通は出来るもの。一緒に訪問した池田さんは、団で一番元気で陽気な方で、彼のユーモアで場がとても明るくなった。アーニャのパソコンにはたくさんの韓国歌手の歌や写真が入っていた。恐るべし韓流。最後にはインナさん手作りのケーキも頂き、インナさんとアーニャは翌日の交流会にも来てくれるということだったので、暫しのお別れをし、集合場所へと戻った。

 

出発前に換金したお金を持って島の商店へ。13000円までという決まりがあり、それは島にあまりお金を落とさないように配慮したためだという(こういう中途半端なところが私には理解できない)。一番熱心に買い物をしていたのが、返還運動関係者だったという皮肉…。

 

商店。店の半分をお酒が占める

 
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はしけに乗って、船に戻った。この日は、皆ホームビジット先でお腹一杯食べてきたため夕食では箸が進まなかった。

夜中に1人で船のデッキにいると、えとぴりかの船長が声をかけてきた。私をブリッジへ案内してくれ、大きな地図を広げて色々と説明をしてくれた。そして、船長室へ行くと数々の武勇伝を語ってくれた。元々、貨物船の船員をしていた船長は、海賊と闘ったことがあるという。ナイフを持った海賊が船に乗り込んできた際、仲間の乗組員は腰を抜かしてしまった。そこで船長は素手で海賊に立ち向かい、無事追い払ったらしい。親切にその時できた傷まで見せてくれた。

とても親切で陽気な船長だが、あまり訪問事業をよく思っていないようで、私とはウマが合うと言っていた。船長が趣味というコーヒーを2人で飲みながらここには書けないような話(主に訪問事業について)を夜通ししたこともまたいい思い出である。

 

825日:択捉島2日目

朝から、小高い丘の上にある日本人の島民が眠るお墓へ。草は生え放題、周りにはロシア人のお墓がたくさんあった。

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墓地を後にした私たちは、紗那から少し離れた有萌へ行った。島民らが、イワン・クパーラ祭という夏至の祭りを再現してくれたのだ。そこで、学校の教員をしているという女性2人と新聞記者をしている男性に声をかけられた。彼らは通訳を捉まえて私に終始質問した。彼らが聞いてきたのは、日本のことやビザなし交流のことではなく、私個人に関すること(例えば、大学生活や趣味のこと、将来の夢…)であった。私はとても嬉しく、これこそが交流なのかなと思った。

 

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海岸温泉で昼食をとった。水着持参で入浴していた団員もいた。外には足湯ができるスペースもあり、島民の憩いの場となっている。

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午後からは、住民交流会でバレーボールとグラウンドゴルフをすることになっていた。私は男性に交じって、バレーボール。相手はロシアの若い軍人で、予想通り呆気なく負けた。当初、バレーボールは体育館で行う予定だったが、急遽屋外になってしまい、おかげで日除け対策をあまりしていなかった私は鼻の皮がめくれるほど日焼けをし、名古屋に帰ると家族から「本当に北に行ってきたのか」と言われる始末であった。何はともあれ、とても楽しい時間を過ごした。

 

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そのまま、芝生の上で住民との意見交換会を行った。テーマは「環境の変化と住民の生活」。事前に船の中で質問を考え、決められた人が質問をするという茶番劇。私は、島の外国人労働者のことを聞きたいと言った。テーマにある「環境の変化」にも関係すると思ったが、「それを聞いてどうなる。関係ないことだ」とあっさり却下されてしまった。また、以前は領土問題の話が出ていたようだが、互いに喧嘩腰になってしまい、雰囲気が悪くなるため取り上げるのをやめたそう。

島民に「島で不便なことはあるか」と聞いたところ、島側の誰ひとりとして不便なことを口にせず、これ以上の要望はないと話していたことが印象的であった。彼らは皆、今の生活に満足しているようであった。

 

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最後に、島の行政府の関係者やホームビジットで訪れた家族と夕食を楽しんだ。舞台上では、島民が歌や踊りを披露し、大いに盛り上がった。楽しい時間はあっという間に過ぎ、私たちは島を後にした。

 

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国後島の古釜布へ向け出港。「団員の皆さん、各自お酒を持参し食堂に集まってください」と船内放送があった。親しくなった船員の方が、私にロシアのお酒と野菜ジュースをくれた。私はそれを持って酒場に繰り出した。食堂では、緊張が解れたかのように、皆どんちゃん騒ぎ。お疲れ様でした。共にビザなし交流に参加した方々とまた会う約束をし、根室を発った。

 

おわりに

島を訪問するまで、私は「日本は四島すべてを返還してもらうべきだ」と考えていた。今でも四島が日本の領土であることに疑問を持っていない。しかし、実際に島に足を踏み入れ、島民と接し、彼らがそこで生活を営んでいる様子を見て、私はとても彼らに「島を返せ」とは言えなかった。ソ連による千島占領から70年近く経ち、島で生まれ、島で一生を終える人が大勢出てくる。彼らにとって、島は紛れもなく故郷である。他方でそれは、日本人の元島民も同様であるが。訪問事業に参加し、考えが変わったことは、主催者にとって見当違いのことだったかもしれない。

また、この訪問事業には見直す点が多々あるように思う。事前に配布された手引きには、発言する際にはロシア側とは言わず四島側と言うように…など細かく注意事項が書かれており、私は「つくられた交流」という違和感を覚えた。自然に振る舞えばいいものの、必死になっている自分たちがなぜか惨めにさえ感じたことも事実であった。

しかし、私は訪問事業に参加できて本当によかったと思う。タイムリーな領土問題ときちんと向き合う機会を頂き、視野が広がった。出発前、読まずに返した本をもう一度借りた。とある授業で「北方領土問題」についての報告とレクチャーをするよう頼まれた。貴重な経験をさせて頂いたものとしての使命を果たすべく、学生に問題と向き合ってもらおうと思っている。今後も要望があれば、出来るだけお応えし、団員としての役目を果たしたい。

最後になるが、訪問事業に私を推薦してくれた加藤史朗先生や本事業でお世話になった関係各所の皆様に感謝の意を表し、報告を閉めたい。

 

ソ連極東地方における朝鮮民族問題をめぐって

――1932年頃に書かれた文書(断簡)――

 

1. 前書き

2. 訳文

3. 本文書入手の経緯と私の視点(愛知学院大学教授 菊池一隆)

4. 手稿の解読原文(おろしゃ会会員 市崎謙作)

 

1. 前書き

(1-1) 独特の視点から中国現代史の研究をされておられる愛知学院大学菊池一隆教授は、ウラジオストク華僑研究に関連してソ連民族政策の研究を行なうため、1930年初めころのソ連における朝鮮民族処遇問題に関するいくつかのロシア語文書(コピー)をウラジオストクのロシア連邦極東公文書館(Российский государственный исторический архив Дальнего Востока (РГИАДВ)において蒐集された。そのうちの手書き部分について、かねて愛知県立大学加藤史朗教授に翻訳要請があったが、加藤教授ご多忙のため、代わって市崎が解読と翻訳を行なったものがこれである。なお、他にカーボン・タイプされた文書もあるが、これはアジア歴史資料センター研究員の大野大幹氏が訳され、近々いずれかの学会誌に発表する予定である。

(1-2) ソ連の民族政策が差別的なものであったことは、現在では、多くの研究者によって明らかにされている。朝鮮民族の処遇は特に過酷なものであり、ソ連の差別的民族政策を象徴するものであった。日韓併合(1910)後、多くの朝鮮人が日本帝国主義の支配を逃れて国境沿いの間島地域など現在の中国領に多くの朝鮮民族が移住した。朝鮮民族の脱出(移住)は、規模は大きくはないがソ連領(特に極東地方)へも行われていた。朝鮮人たちの多くは農業技術に長け、勤勉でもあったから、きわめて有能な民族として歓迎さるべきであったのだが、日本帝国主義者たちが中国東北部(滿洲)侵略の野望を抱くに及んで(滿洲事変1931)、中国や朝鮮に国境を接するソ連領内在住朝鮮民族の処遇問題は複雑な様相を呈するようになる。たとえば、朝鮮人に紛れて日本人スパイが潜入することが大いに危惧された。1930年ころから朝鮮人の強制移住策が試験的に実施されていたが、戦争の気配がただよい始めた1937年には、スターリンの命令により、他地域の多くの少数民族を含め極東地方の朝鮮民族も遠隔の地へと全員強制移住させられた。

(1-3) この文書は、こうした時代背景において、強制移住が行なわれる前の1932年に、ソ連の朝鮮系共産党員のキム・トンウと思われる人物が書いたものが中心となっている(この推定については、4. 解読原文の前書きを参照)

 原稿[(1)(2)]は、キムが所属する組織に報告または提案をするため、極東地域における朝鮮民族の処遇について問題点を分析しいくつかの解決策を検討したもののようである。また、原稿[3]は、キムまたはキムに関係する誰かが報告したことを第三者がメモしたものと思われる。いずれも、満洲事変が起こり滿洲国が樹立された直後の1932年暮れ頃に、やがて過酷な強制移住をさせられ、策に批判的な者は後に「粛清」されることになる朝鮮系党員のひとりが、自らが属する朝鮮民族処遇策を検討し提案しようとした点に史料としての意義がある。

(1-4) 残念ながら、いずれの文書も完全な文書の一部でしかないが、発掘された菊池一隆教授によれば、完全な史料に出会うことは必ずしも多くないそうである。歴史研究とは点をつないで線にする作業であるとも言えかも知れないが、歴史資料に基づく史実の構成もまた、多くの断片的な第一次文書に基づく地道な作業がなければならないのであろう。このことを、歴史研究者でもない訳者は教えられたように思う。

(1-5) 193211月現在、ソ連の行政区画でいう「極東地方」とは、現在の沿海地方とハバロフスク地方やアムール州・サハリン州・カムチャツカ州・マガダン州などを含む非常に広域のものであった()。行政区画としては、「地方(Край)」の下または対等のものとして「(Область)」があり、それらの下に「地区(район)」がある。なお、特定の行政区画ではなく漠然と場所を示す語(местностьなど)は、「地域」または「」と訳した。   (訳者:市崎謙作)

 () アナトーリー・T・クージン著・岡奈津子訳『沿海州・サハリン 近い昔の話(翻弄された朝鮮人の歴史)』(凱風社、1998)における訳者岡奈津子氏の解説「行政区画の変遷 その1―沿海州」(p.10-11)

2. 訳文

 

(2-1) 或る報告書の後半部 ―― 一連の手稿3, 4, 2, 13

 

[「第1案」の、以下に先立つ部分は欠けているが、強制移住策を検討したものであったことは明白]

 

 もし我々が朝鮮人たちを他の諸地方へ移住させるようなことをするならば、[日本]帝国主義者たちは、自分たちが圧力をかけているからソ連側が弱い態度をとるようになっているのだと我々の行為を見るであろう。外交的な紛争とは、つまるところは、大砲のことばによって[=つまり、軍事的圧力を背景にして]解決されるものなのである。それ故、たとい朝鮮人たちをめぐる紛争が和らぐことがあるとしても、我々が弱ければ、帝国主義者たちは何らかの口実を設けて、[たとえば]中村将軍(1)なりに口実を見つけて、我々を打ち負かそうとするであろう。しかし、次のことは議論の余地がない ―― 極東地方には「日本人[とみなされている朝鮮人系日本人]系の」ソ連人[ソ連市民権取得者]が存在しており、(1910年の日本による朝鮮併合後にソ連に移住してきた朝鮮系日本人たちは、[それ以前にロシア・ソ連に移住し、日本人に分類されている朝鮮人である]「彼ら」をソ連市民と見なしているのであるが)、そういう日本人系ソ連人がいるということで、ある程度は、紛争は緩和されるであろう。しかし、そのことが我々との紛争の唯一の原因というわけではないのである[訳者注:この部分、やや論旨不明確]

(1):この「中村将軍」とは、1938年〜1941年に朝鮮軍司令官を務めことになる中村孝太郎のことであろうか。この報告書が書かれた1932年には、中村孝太郎はまだ司令官にはなっていない。しかし、このころすでに中村は朝鮮軍に配属されており、また、将官の地位に就いていて、当時頻発していた国境紛争の話合いに出かけていたのか知れない。

 

 次に、第二案について述べよう。

 第二案にも、第一案同様、肯定的側面もあれば否定的側面もある。

1) 極東地方では、我々と日本人たちとの間に紛争があったし、今もあるし、また恐らくこれからもあるであろう。このため、朝鮮人たちが現在居住している場所に居残りつづけることは、もちろん、外交上の難問を我々に課すことになる。言うまでもなく、この点では、[朝鮮人たちが]居住しつづけることは、我々にとって否定的である。2) 最近になってソ連へ移住してきた朝鮮人たちもいるが、このことは、朝鮮本土にいる朝鮮人たちとの密接な個人的親戚関係を有するということである。このため、[日本]帝国主義者たちの影響がきわめて我々に及びやすくなっているし、国境の守りをしっかりしていないと、朝鮮人たちの親戚関係を通じて[日本の]スパイたちが、朝鮮人勤労者の間に経済的およびイデオロギー的にわるい働きかけをすることになるであろう。

 

 だが、朝鮮人たちが住み慣れた所に居住しつづけることには肯定的側面もある。それは、次のようなものである。

1) 朝鮮人勤労者の間には、ソヴェト権力は自分たちを信じていないのではないかというような不満があると言われているが、(それにまた、こうした不満を、共産党員の朝鮮人たちは全く持っていないとは信じられないけれど)、そうした不満を払拭することができる。2) 最小限の資金支出があれば、米作地帯を分与することにより朝鮮人たちの土地問題を即座に解決することができる。3) 現在いる朝鮮人勤労者たちをうまく組織できれば、中央から地方へ特に移住させたりしないで、余っている土地を開墾して農地にすることができる。4) 沿海地方に朝鮮人たちを残存させておいても、朝鮮人たちの特技を最大限に活用することができれば、沿海地方の海岸地帯において膨大な量の魚その他、海産資源(魚・昆布・輸出向きの貝殻[カキのことか?]・ナマコなど)が獲得できるであろう。沿海地方の海岸地帯においては、五つの地区(オリガ・スーチャン[現パルティザンスク]・シコトーヴォ・ウラジオストーク・ポスヴェト)で、漁労コルホーズ30のうち、朝鮮人のコルホーズは22、つまり、73.3%を占め、漁労コルホーズの生産単位5513のうち朝鮮人のものは4629、つまり、83.96%を占めている。どちらの場合をみても、朝鮮人たちがいれば、他の米作地帯のことは差しおいて、きわめて広大なハンカ[湖畔]低地を米作地帯として開発する大きな可能性を我々が得られるのは明らかである。1931年にソ連農業人民委員部[農業省に当たる]の調査隊によるハンカ湖周辺のハンカ[湖畔]低地の不十分な調査によってでさえ、次のような米作[可能]地帯のあることが明らかになった ―― a) ハンカ地区:54,743ヘクタール、b) スパッスク地区:10,328ヘクタール、c) イマン地区:19,360ヘクタール、d) シマコフカ地区:49,557ヘクタール、以上のハンカ湖畔の四つの地区で、合計133,988ヘクタールの米作[可能]地帯が見いだされたのである。さらにまた、ここには、我々の推定では10401050ヘクタールをくだらないと思われるチェルニゴフカ地区の広大な米作[可能]地帯は算入されていなかったのである。

 ここで指摘された133,988ヘクタールの米作[可能]地帯だけを開拓するためにも、よく機械化された米栽培をするとして、(3ヘクタールにつきそれぞれ一人の米作従事者が必要であると計算して)最小限44,662人の労働可能な米作従事者が必要となる(なお、現在の米栽培技術では、[ひとりで]3ヘクタールの田を耕すというノルマは高すぎて、どこにおいても、誰も達成することができないものである)。つまり、133,988ヘクタールの米作[可能]地帯を開拓するためには、(米作従事者一人当たりにつき二人の扶養家族がいると計算して)最小限133,982人を入居させなければならなくなるであろう。

 もし133,988ヘクタールの農地を開拓できるとするならば、そこから、毎年、最小限16,748,500プード[=約274千トン]の米が収穫できるであろう(1ヘクタールにつき、平均で125プード[2トン]収穫できると計算した。ところで、米の収穫量として、この数値は、恥ずかしくなるほど最低のものである)

 このように、米作[可能]地帯を完璧に利用することにより、ハンカ台地だけでわれわれの地方の食糧を賄うことができるようになるのである。

 しかし、これら米作[可能]地帯を開拓する際には、このハンカ[湖畔]低地を日本帝国主義者たちも虎視眈々と狙っているという国際情勢をしっかりと頭に入れておかねばならない。この低地についての彼らの評価は、サハリンの石油やスーチャンの石炭以上であるとは言えないまでも、それにも劣らないものである。ハンカ[湖畔]低地について、日本には、学問的な帝国主義的文献がたくさん存在する。たとえば、或る日本帝国主義者が日本語で書いた『シベリア開発計画』という表題の大部な本があるが、これは日本の干渉の時期[シベリア出兵の時期]に刊行されたものである、等々。

 朝鮮人問題の解決は、これら二つ[(訳注) この報告の前半に書かれていたと思われる、極東諸地域の朝鮮人たちを他の地域に移住させる案と、この節で書かれているような、極東地域に残存させながら地域の生産活動や農地開発に労働力を活用するという案との二つ]のうち、いずれの道をとることが適切であろうか?

 我々の考えは、第二の道、すなわち、彼らが今住んでいる場所つまり沿海地区に朝鮮人たちを残す道のほうが適切であるというものである。なぜなら、我々には十二分に[軍事]力が備わっていて、日本帝国主義者が襲撃してきても、それに大きな打撃を与えることができるからである。敵による我々についての評価は、我々が自己評価しているよりも高い。このことを証言しているのは、日本の内閣総理大臣斎藤実が最近行った演説である。彼は、我々と不可侵条約を締結することを支持すると発言したのである。帝国主義者たちは、自分と敵対する者が弱いと思えば、このような条約を結びはしないものである。朝鮮人勤労者たちはソヴェト権力を支持している。このことは、[1929年の]東清鉄道事件のときの朝鮮人勤労者たちの行動や、我が国の作戦任務を彼らなりに誠実に実行したことが立証している。

 

ハバロフスクにおいて

1932113日             (署名)

                      ローゼ

                      キム・トンウ

 

(2-2) 断簡

(2-2-1) 断簡(1)――手稿(12)上部に3と書かれてあるもの

 これらの地区に今日まで残っていた朝鮮人移住者たちの状況は、きわめて過酷なものである。耕作の適地はほとんどない。移住がもっとも盛んだったころ、移住者たちのために特別に組織された機械トラクター・ステーションが500ヘクタールも木株を掘り取った。しかし、木株掘り取りの状況はきわめて劣悪なものだった。また、木株掘り取りが行なわれた所は、移住者たちが定住できるような適地ではなく、ただ手あたり次第に、開拓適地であるかどうかとか土地の質などは度外視して掘り取りを行なっていたにすぎない。その500ヘクタールのうち約80ヘクタールがゴルビ地域に投げ与えられたが、そこは、これまで、どこにも井戸も道も家などもなかったような所だった。ヤブゲネフカ村のような地域もある。そこは、夏季になると、村へ行くことも村から帰ることもできなくなるような、外界から全く孤立した場所である。クダール地区やシンダ地区も、今のところ、朝鮮人たちには全く役に立たない所である。なぜなら、これらの地区では、米は栽培できず、アジア的な技術で育てる農作物(大豆などのマメ科植物、××(読み取り不能)、ゴマ、トウモロコシ、コーリャン、××)の栽培もできず、養蚕にも漁労にも従事できないからである。米が育たないのは、開拓されていない地区同様、気候が寒冷に過ぎるからである。たとえば、1932年に、集団農場「リッセレニェッツ」は、30ヘクタール播種したが、そのうち22ヘクタールは枯れてしまい、残ったのは8ヘクタールで、結局は全くの不作だった。技術を要する他の農作物も育たない。あまりにも低い土地だからである。[他方、]これらの地区には魚がいるのだが、朝鮮人たちは漁労をすることができない。海での漁獲経験は豊富に持っているのだが、川での漁獲には不慣れだからである。

 要するに、これら移住[朝鮮系]コルホーズ員たちは、毎年、国家に扶養されなければならないことになる。彼らは、今まで、自らの手で扶養の資を得たことはない。住民の死亡率はきわめて高い。これらの地域の朝鮮人たちの気分は最悪である[=政府への不信感を持っている]と言ってよいと私は思う。これらの地域に移住してきた、土地のない朝鮮人農民たちが不運に陥った理由は、いったい、どのようなものであろうか。その理由は、私には....(ここで文は中断している)

 

(2-2-2) 断簡(2)――手稿(1)上部に10と書かれてあるもの

[a)] 政治的には、ハンカ(湖畔)低地が我らに生活の資を与えることができるようなものになれば、われわれはきわめて大きな満足が得られるであろう。b) [しかし、そのためには]入植者の輸送、未開拓地の開墾、つまり、新たな土地の開拓に、最小限でも資金支出[をすることが必要である]c) 朝鮮人たちにとって米[]は得意技である。d) 米の栽培を公正に指導することにより、極東地方だけでなく我が連邦は、米食による生活の資を与えられることになるであろう。e) 米問題の解決に伴い、朝鮮人農民の土地問題も解決されるであろう。f) このことによって、朝鮮人勤労者たちの文化的生活状況も、経済的に改善されるであろう。

 あらゆる問題が、土地問題[の解決]を待っているのである。なぜなら、土地利用問題があいまいなまままでは、朝鮮人たちが安心して確信を持って土地耕作を行なうことはできないし、経済面や社会面、住居面や文化面での建設作業を行なうこともできないからである。

II) 朝鮮人勤労者たちには、はやくソ連市民権の取得手続きをするよう促す必要がある。なぜなら、ソ連市民権を取得していないことが、あらゆる点で我々の障害になるからである。1) 日本帝国主義者たちは朝鮮人問題に大きな「関心を抱いている」。たとえば、ハバロフスクの日本総領事館は、極東州における朝鮮人の数についての情報供与をローゼ同志(NID?の出先機関)から拒絶されると、DKIK?の少数民族部局の朝鮮人課に直接問い合わせるようなこともした。もちろん、日本総領事館が得た返答は、ローゼ同志のものと同じであったが、さらに、次のようにも返答した――すなわち、DKIKの朝鮮人課は日本総領事館とは全く関係ない、必要ならローゼ同志が朝鮮人課に代わって応対するであろう、と。そして、日本総領事館には、以後、このようにしてほしいと忠告したのである。2) このように[朝鮮人勤労者がソ連市民権を取得するかどうか]はっきりしていないために、多くの混乱が生まれ、未経験な労働者たちが政治的な誤りを犯すようなことになった。たとえば、党のハンカ地区委員会は、ソ連市民権の取得手続きをまだしていないという理由で、何人かの朝鮮人突撃作業農民の入党を拒絶したのである。こうした事例は多くある。

 我々の考えでは、コルホーズの構築や生産活動に積極的に参加した朝鮮人たちについては、躊躇せずに入党を許可してよいと思う。これらの朝鮮人たちは、[1929年の]東清鉄道事件のとき、ソビエト権力への献身を十分に示したのである。沿海地域方面軍に所属していた[朝鮮人系]同志たちの行為も、きわめて献身的であることを全面的に立証している。朝鮮人の多くは、ソビエト化された時期に、ソ連市民権付与申請書を何度も提出していたのである。

 

(2-3) 或る報告の要点メモの一部 ―― 手稿1011

 

 [わが]地方では、レーニンの国家政策を正しく実行しているお蔭で、東洋系ソ連在住(восточный)()勤労者たちは、いくつもの領域できわめて大きな労働達成率を示している。このことにより、たとえば、集団化に基づく物的および文化生活上の水準が向上している。また、いろいろな現れ方をするすべての大国主義的排他主義および地方民族主義との戦いにおいても大きく前進している。また、東洋系ソ連在住者たち(восточники)()は自覚しているが、今後は、国家政策における反党的偏向は反革命的本質を持つのであり、また、わが地方において国家政策を正しく実行することに大衆がいっそう注意を向けるようになることが必要である。わが地方の社会主義的建設を急速に展開することを基礎として、東洋系ソ連在住者たちは、さまざまな産業に、たとえば、金・石炭・木材加工・漁業のような重要な経済部門に、広く参加している。生産部門においては、東洋系ソ連在住者たちは、社会主義競争や突撃作業運動などにおいてトップに立ち、社会主義的労働の最良の模範を示している。社会主義的建設に従事することをとおして、階級的連帯感や兄弟的共同の意識が強固なものになっている。プロレタリア独裁を強化したり、わが地方の社会主義的建設や防衛力計画を課されたテンポで遂行するための戦いにおいても[東洋系ソ連在住者たちは]政治的にますます積極的に行動している。

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 東洋系ロシア人勤労者のソヴェトは強固なものになりつつある。また、Nioda(?)最後の[第一次]五か年計画完成年度[1932-1933]における極東地方(?)の党および政府が提起した課題に添って、ソヴェトを再編成している。

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 プロレタリアート国家の積極的な援助を受けて、貧農・中農の農民層は社会主義の側に転じていった......

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 集団○○(?)に基づく東洋系ロシア人勤労者の物的・文化生活的水準の向上......(文章はここで中断している)

 

(訳注) 普通の意味では、восточныйは「東の(eastern)」という形容詞であり、また、восточникивосточник=「東洋学研究者(orientalist)」の複数形である。ところが、この文章においては、文脈から考えて、「(中国人・朝鮮人などの)東洋系の人で、ソ連市民権を取得した者あるいはソ連在住者」というような意味を持っていると思われる。そこで、辞書にはない訳語であるが、これら二語を「東洋系ソ連在住者」を意味するものであると訳した。

 特に、ソ連に移住した朝鮮人たちが、第一次五か年計画実行中に大きな活躍をしたことはよく知られている。しかしながら、そうした朝鮮人のすべてがソ連市民権を取得していたわけではない。そこで、「東洋系ソ連人」という訳語では必ずしも事態を正しく表わしているとは言えないと思い、やや長いが「東洋系ソ連在住者」と訳すことにしたのである。

 

 

3. 本文書入手の経緯と私の観点―

                               愛知学院大学教授 菊池一隆

 

 私は中国近現代政治経済史を専門に研究しているが、最近は個人(科研)の主要テーマとして、「第二次世界大戦期における世界規模での華僑の動態と構造研究」を継続している。そのため、中国、台湾、韓国はもちろん、東南アジア各国、インド、欧州(英・独・仏)、南北アメリカ(米・コスタリカ・パナマ)での史料調査・収集を実施した。その際、ロシア(旧ソ連)華僑は除外できないと考えた。したがって、この解明のためウラジオストク、及びサハリン(樺太)のユジノサハリンスクに焦点を絞り、2008811日から29日までの間、両地を訪れた。ウラジオストクの科学アカデミー極東支部と極東公文書館に行き、史料調査、収集した。その後、ユジノサハリンスクのサハリン州国立公文書館に向かい、そこでは、戦後、日本が放逐される際、残さざるを得なかった、いわゆる「戦利文書」(日本語)を調査収集した。こうして、樺太南部華僑の動態については、拙著『戦争と華僑』(汲古書院、2011年、7287頁)ですでに明らかにし、関連させた形で北海道華僑(同上、87104頁)の実態に論及した。

 しかし、もう一つの目標であったウラジオストク華僑に関しては、科学アカデミー極東支部の助理(専門はソ中関係史で、中国語で会話できた)が支援してくれたにもかかわらず、遺憾ながら関連文書を見つけることができなかった。そこで、同時期のソ連民族政策という形に網を広げ、朝鮮人問題に着眼した。こうして入手したのが本文書である。

 

 本文書に対する私見は以下の通り。

 @まず、朝鮮人が日本の侵略の道具に使われるのではないかとの危惧は、当時の中国の危惧と共通性がある。また、スターリン体制下での「異民族」・朝鮮人管理の問題であり、コルホーズに組み込み、組織化し、管理しながら生産力と結びつける発想がある。いわば、これを世界的な協同組合史の中でどのように位置づけられるのか(拙著『中国初期協同組合史論』日本経済評論社、2008年、同『中国工業合作運動史の研究』汲古書院、2002年を出版しているが、これとの関連で気にかかるところである)。

 A1931年は万宝山事件に連動した朝鮮事件(朝鮮半島での朝鮮民衆による華僑虐殺暴動。こうして、朝鮮半島から駆逐された華僑がウラジオストクなどにも流れ込んだと考えられる)、次いで満洲事件が起こる。このように極めて重要な時期である。これを北東アジア全体から見るとどうなるのか。日本の動向のみならず、ソ連に入った朝鮮人、中国人などの移動とその影響、実態解明が必要なことはいうまでもない。

 B現在、北東アジアという視点は重視され始めた。しかしながら、我々中国近現代史研究者は中国からの視点、日本史研究者は日本からの視点、ソ連史研究者はソ連側からの視点、ばらばらに論じている。まだ、これらを融合的、かつマクロ的に見た場合、研究は緒に就いたばかりであり、またミクロ的にも解明は不十分といえる。

 C本文書は局部的な内容で「不完全」な面もある。とはいえ、私は世界各地で文書を集めているが、完全な形のものはほとんどない。だからこそ興味深く、各種文書と文書を結びつけながら、徐々に本質にせまっていく。したがって、今回の文書は重要な時期の、重要な地域の、民族問題も絡んだ研究領域に1つの石を投げ込んだものと考える。

 

 

4. 手稿の解読原文

手稿の整理

 菊池教授から渡された手稿の文書(コピー)は、(a) 右肩に「14」と番号をふってある四枚と、(b) 1014」と番号がふってある五枚の合計九枚であるが、そのうち「3」と「14」とは全く同じものなので、「14」は除外して「14」と「1013」の合計8枚について問題にする。

 手書きのもののコピーであるため不鮮明な箇所が多くあり、翻訳に先立って原文解読と内容整理を行った。解読困難な箇所については、名大留学生Anna Shurkinaさんの協力を得た。

 結果的には、渡された手稿番号と内容にはズレがあるため、内容から考えて、次の三つのグループに整理して解読原文を確定した。

 

(1) 或る報告書の後半部 ―― 手稿番号:34213

 14」の手稿のうち、手稿「1」と「2, 3, 4」とは明らかに別物である。手稿「1」は文が中断し、他の手稿とつながりを持たない。手稿「2, 3, 4」は内容的にひとまとまりをなしている。ただし、順序は、「2」を後ろへ回して「342」の順に読まないとつながらない。

 「342」の手稿には右肩に番号がふってあり、「2」には9、「3」には7、「4」には8とあるので、この番号順でも342」となり、この並べ方が正しいことを証明している。

 他方、手稿「13」の右肩には10と番号をふってあり、内容および字体や書き癖などから考えても、これが上の手稿に続くものであることは明らかだった。したがって「34213」の順序でつながって一連の文書になることは疑いがない。

 「34213」の手稿の冒頭部は唐突な始まり方をしており、内容的にもその前に文章があったことは明白である。文書「13」は、最終的には署名をして終える形になっている。したがって、「34213」の文書は、もっと長い文の「後半部」をなすものであると推測できる。

 「34213」の手稿は、署名付き報告書を清書する前の下書き原稿のようである。なぜなら、二人の共同署名欄のところの名は、筆跡は別々のものではなく同じ筆跡で書かれており、ここに署名をするのだということを単に示しているにすぎないと思われるからである。恐らくは、ふたりが自筆署名した正式の報告書をタイプで打ち出すための最終原稿だったのであり、タイプで清書したものに署名するつもりだったのであろう。

 この文書を書いたのは誰かということであるが、恐らくは、上段に署名してある「ローゼ」ではなく、下段に署名してある「キム・トンウ」であったと思われる。なぜなら、本文に三人称で「同志ローゼ」が何をしたという文言が出てくるからである。(さらに、ネイティブ・スピーカーが書いたとは思われないような語法や文法的誤りも散見された。このことも、「朝鮮人」共産党員キム・トンウが、同志ローゼとの共同報告という形で発表するつもりで書いたものであろうと推測させる。)

 

(2) 断簡 ―― 手稿1」「12は、一連の別原稿の一部:

 手稿「1」には上欄中央に「10」と番号が書かれているが、内容は他の手稿とすぐにはつながらない。また、手稿12」は上欄中央に「−3−」と書かれているものだが、同様である。

 恐らくは、上欄中央に通し番号をふった一連の原稿のうちの二枚なのであろう。内容的には、上の報告同様、朝鮮人問題をめぐる考察である。「断簡(1)」、「断簡(2)」として整理した。

 なお、この断簡を書いたのは誰かということであるが、筆跡などからみて、上と同じ「キム・トンウ」が書いたものと推察される。

 

(3) 或る報告の要点メモの一部 ―― 手稿1011

 手稿「10」と「11」の二枚はひと続きをなしている。ただし、二枚目で文が中断しており、完全な文書にはなっていない。

 この手稿は他の手稿とは筆跡が違うし、文章も整っている。これから推測するに、これを書いたのは「キム・トンウ」ではなく、ローゼやキムを交えた報告や討論の要点をロシア人秘書あたりが整理したメモなのではないであろうか。

 

 以下に解読した原文を載せるが、解読原文で「赤字」になっている部分は、(原稿不鮮明なため)前後関係からみてこう読むのであろうと推測した箇所、または、(文法上の誤りなどがあるために)訂正や補足をした箇所である。Anna Shurkinaさんに協力してもらっても解読できなかった箇所は、語の後ろには(?)を置いた。なお、Annaさんから、ロシア語としてはこう書いたほうがいいと指摘された箇所もあったが、文意が通る限り原文の表現を尊重して、できるだけそのままにしてある。

 

 これを公表する「おろしあ会」サイトの管理者でもある愛知県立大学の加藤史朗教授から、解読が正しいかどうか確認できるように手稿の写真版を載せてはどうかという提案があり、訳者も賛成したが、手稿発見の当事者である菊池一隆教授から「元原稿そのものが不鮮明なコピーであるので、その必要はないであろう」とのご連絡を受けたので、菊池教授のご意向に則り、載せないことにした。(☆ しかし、菊池教授または訳者の市崎にご連絡いただければ、元のコピー文書をお見せいたします。               (市崎謙作)

 

(1) 或る報告書の後半部 ―― 一連の手稿3+4+2+13

 

[手稿3]                                                   右肩に(7

г) Если мы переселим корейцев, даже в другие края, то империалисты [原文には«на»が挿入されているが、不要につき削除] этот акт нашего действия будут оценивать [смотретьのほうが適切], как нашу слабость отстоять натиск империалистов, ибо дипломатический спор в конечном счете разрешается языком пушек. Поэтому, допустим, спор о корейцах будет смягчён, то всё равно империалисты найдут какой-либо повод, в роде генерала «Накамуры», для того, чтобы побить нас, если мы слабы будем. Без спорно, присутствие «Японских» подданных (Японцы тех корейцев, которые переселились к нам после 1910 (год аннексии) года, считают «их» гражданами) на ДВК Японцам в некоторый степени облегчает с нами спорить, но оно не есть единственная причина спорить с нами.

[手稿4]                                                       (8

  Теперь на счёт второго варианта.

  Во втором варианте так же имеются и положительные [原文のположитительныетиを削除], и отрицательные моменты, как и в первом:

  1) Поскольку на ДВК был, идет и, по-видимому, будет идти спор между нами и Японцами из-за корейцев, то оставление же корейцев на месте, где они сейчас живут, в дипломатическом отношении, конечно, нас затрудняет. В этом отношении, безусловно, оно (оставление) является отрицательным для нас.  2) Присутствие же тех корейцев, которые переселились к нам в поздний период, имеет теснейщую личную родственную связь с теми корейцами, которые находятся в[重複しているので削除] в Корее. Поэтому, очень легко к нам проникать империалистическому влиянию и, даже шпики через родственную связь корейцев, если мы плохо будем охранять нашу границу, - будут вести плохую экономическо-идеалогическую работу среди трудящихся корейцев.

  Положительными моментами оставления корейцев на старом месте, где они живут, являются.

  1) Мы рассеем то недовольство, мол, якобы советская власть не доверяет трудящимся корейцецам, которое существует среди трудяшихся корейцев (даже не можем заверять о том, что такого недовольства совершенно нет среди коммунистов–корейцев).  2) При минимальной затрате средств, путём наделения рисовыми массивами, великолепно можем на месте урегулировать земельный вопрос [корейцев.と次ページに続く]

[手稿2]                                                       (9

корейцев.  3) При умелой организации наличными трудящимися корейцами, можем освоить [原文освобоитьは誤記。освободитьかも知れないが、文意から言ってосвоитьのほうが適切] лишные земельные площади без особого переселения из центра в край.  4) Оставление же корейцев в приморских районах, если мы сумеем максимально использовать специальность корейцев, даст нам огромное количество рыбных и других морских богатств (рыба, морская капуста, экспортные ракушки, трепанги и т.д.) в Приморских побережиях, где в 5 районах (Ольгинском, Сучанском, Шкотовском, Владивостокском, Посветском) из 30 рыбацких [原文рыбакцкихкを削除] колхозов, корейские – 22 или 73.3%; из 5513 хозяйств рыбколхозников, корейских – 4629 или 83.96%, это, во Iх, и во IIх, оно даст нам большую возможность освоить величайшую Ханкайскую низменность – рисовый массив, уже не говоря об остальных рисовых массивах. Например, даже при недостаточном изучении, экспедиция Нарком-Зема в 1931 году в Ханкайской Низменности, вокруг озера Ханки, выявила: а) в Ханкайском районе – 54.743 га; б) в Спасском – 10.328 га; в) в Иманском – 19.360 га; г) Шмаковском – 49.557 га; итого в 4-х районах, около озера Ханки – 133.988 га рисовых массивов. Кроме того, сюда ещё не вошёл огромный рисовой массив Черниговского района, который, по нашему предположению – не менее гектаро[重複しているので削除] тысяч 40-50 га.

  На освоение одних этих указанных 133.988 га рисовых массивов, при хорошей машинизации рисосеяния, минимум потребуется 44.662 работоспособных рисоробов (с расчета на одного каждого рисороба по 3 га. Между прочим, при теперешней рисотехнике никто и нигде не может обработывать такую высокую норму – 3 га риса), т.е. для того, чтобы освоить 133.988 га рисового массива, придётся вселить туда минимум 133.982 едоков (с расчета по 2 иждивенца на каждого одного рисороба).

  Если мы сумеем освоить эту площадь, то из 133.988 га получим минимум по 16.748.500 пудов риса (с расчета в среднем по 125 пудов с одного га. Между прочим, эта самая позорно низкая цифра урожайности риса) в год.

  Таким образом, при полном использовании этих массивов мы можем одним ханкайским платом обеспечить наш край.

[手稿13]                                                       (10

  Но, при полном освоении этих рисовых массивов мы должны твёрдо помнить то международное положение, что на эту Приханкайскую низменность вечно точат зубы Японские имрериалисты. Они оценивают эту низменность не менее, чем нашу Сахалинскую нефть, Сучанский уголь, морскую рыбу, если не больше. Об этой низменности в Японии существуют целые тома научной и империалистической литературы, например, большая книга одного японского империалиста под названием «План освоения Сибири», изданная во время Японской интервенции на японском языке, и другие.

  Какой путь разрешения корейского вопроса целесообразен будет из этих двух?

  По нашему, более целесообразен будет второй путь, путь оставления корейцев там, где они сейчас живут, т.е. в Приморских районах. Ибо мы достаточно сильны для того, чтобы дать крепкий удар нападению японского империализма. Враги лучше оценивают нас, чем мы себя самых. Об этом свидетельствует последняя речь японского премьер-министра – Сайто, который говорил в пользу заключения с нами пакта о ненападении. Империалисты не заключают такие договоры с своими слабыми противниками. Настроение трудящихся корейских по отношению к советской власти - хорошее. Об этом доказывают действия трудящихся корейцев во время событий на КВЖД() и добросовестные выполнения ими наших заданий.

 

Хабаровск    3/октября-1932 г.     Розе

                                  Ким Тону

 

() КВЖД、すなわちКитайско-Восточная Железная Дорого (日本でいう東清鉄道または東支鉄道)のことであろう。1929年、利権の回収を求める中国とソ連との間で戦争が行なわれた。

 

(2) 断簡

(2-1) 断簡(1)

[手稿12]上部に3と書かれてあるもの

  Положение оставшихся корейских переселенцев в этих районах до сего времени чрезвычайно тяжёлое. Пахотспособной земли почти нет. Во время разгара переселенческого дела МТС [= Машинно-Тракторная Станцияであろう], организованная специально для переселенцев, корчевала 500 га. Причём качество раскорчевки чревычайнно плохо. Раскорчёвку произвели не там, где удобно водворить переселенцев, а просто подряд корчевали, т.е. без учёта пригодности освоения, качества земли и т.д. Отсюда и выбросили около 80 га в местности Голубичном. Нигде до сего времени нет ни колодца, ни дороги, ни жилища и т.д. Есть такие местности, как деревня Явгеневка, в летное время совершенно нет никакой вожможности добраться до неё и выбраться из этих деревень, т.е. совершенно изолируются от внешнего мира. Курдарчинский и Синдинский районы совершенно, пока что не пригодны для корейцев, т.к. в этих районах нельзя заниматься рисосеянием, развитием азиатских технических культур (бобы, суза(?), кунжут, кукурузы, гаолян, рахес(?)), шёлководством и т.д., и рыболовством и т.д. Рис не родится потому, что климат слишком холоден, как в не освоенных районах. Например, в 1932, корколхоз «рисселенец» посеял 30 га риса: из них пропало 22 га, а осталось 8 га, и-то не совсем хорошо. Остальные технические культуры не родятся: очень низка местность. В этих районах рыба есть, но корейцы не могут её [原文には«их»とあるが、«её»の間違いであろう] ловить, т.к. они не привыкли к речной ловле, несмотря на то, что они имеют багатый опыт по морской ловле.

  Все это привело к тому, что эти переселенцы-колхозники [原文には«в»が挿入されているが不要] каждый год находятся на иждивении государства; они до сего дня никогда себя не обеспечивали [原文は«-ют»とだが«-ли»とすべきである] своим хлебом. Чрезвычайно [原文の«-чайнно»«н»を一字削除] большой процент смертности населения. Настроение корейцев в этих районах, я бы сказал, самое плохое. Какова же причина неудачи переселения корейских безземельных кристьян в эти раионы ?. Причны мене ...... (ここで文は中断)

 

(2-2) 断簡(2)

[手稿1]上部に10と書かれてあるもの

 

[I)] Если обеспечил бы нас Ханкайская низменность политической стороной, то целиком и полностью она бы нас удовлетворила: б) Самая минимальная затрата [原文は«Самый минимальный затрат»となっているが訂正] средств на перевозку переселенцев, на поднятие целины [原文«цилины»を訂正], -т.е. на полное освоение новых земель; в) корейцам рис по их специальности; г) при честном руководстве рисосеянием накормили бы рисом нетолько ДВК, но и наш союз; д) в свази с разрешением рисовой проблемы, разрешили бы земельный вопрос корейских крестьян; е) Тем самым улучшили бы материально, культурно-бытовое [原文は«курьно и бытовое»とあるが、文意を考えて訂正] положение трудящихся корейцев.

  Все вопросы ожидают вопрос о земле, ибо неопределённость землепользования корейцев не даёт им уверенности улучшить обработку земли, вести хозяйственное, общественное, жилищное, культурное строительство и т.д.

 

 

 

II) Необходимо форсировать оформление советского гражданства трудящихся корейцев, ибо такая неоформленность гражданства нам препятствует во всех отношениях: 1) Японские империалисты очень «интересуются» корейским вопросом, например, Японское генконсульство в Хабаровске, получая отказ в даче сведения о количестве корейцев на ДВК от тов.(= товарищ) Розе /агентство НИД(?)/, непосредственно обратилось даже в корейский сектор отдела нацмена ДКИК(?). Конечно, оно получило такой же ответ, какой дал тов. Розе с добавленнем: корсектор [= «корейский сектор»のことであろう] ДКИК не имеет какое-либо дело с Японским консульством, но когда нужно будет, за него будет работать тов. Розе. Дал совет, чтобы Яп-консульство так же в дальнейшем делало.  2) Такая неопределённость вызывает много путаницы и даже ведет неопытных работников в политические ошибки, например, Ханкайский райком партии отказывал в приеме в партию несколько карейских ударников-общественников [нを一字補足], мотивируя тем, что они ещё не оформили себе советское гражданство. Такие казусных примеров - масса.

  По-нашему, смело можно оформить тех корейцев, которые принимают активное участие в колхозном строительстве и в (原文には«на»とあるが«в»に訂正) производстве. Они дастаточно показали свою преданность советской власти во время события на КВЖД. Этом этом докажут все те товарищи, которые были на Приморских фронтах. Многие из корейцев со времени советизации [原文には«по»が挿入されているが不要] несколько раз подавали заявления о приёме в совгражданство [= «советское гражданство»と理解]. (ここで文は中断)

 

(3) 或る報告の要点メモの一部 ―― 手稿10+11

 

[手稿10]                                                              (10

Тезисы доклада

о работе среди китайских и корейских труящихся ДВКрая

 

  Брагодаря правильному осуществлению Ленинской национальной политики в крае, имеется целый ряд крупнейших достижений в работе среди восточных трудящихся. Так, например, материальный и культурно-бытовой уровень на основе коллективизации повышается; имеется резкий сдвиг в борьбе со всякого рода проявлениями великодержавного шовинизма и местного национализма, восточниками осознанны контрревольюционная сущность антипартийных уклонов в национальной политике и усиление внимания масс на правильное проведение национальной политики в крае в дальнейшем; на основе быстрых темпов развёртывания соцстроительства в крае восточники широко вовлекаются в промьшленность, в такие решающие отрасли хозяйства, как золото, уголь, лесозаготовка, рыбная промьшленность, в производстве восточники получают первенство по соцсоревнованию, ударничеству и прочее и показывают лучшие образцы сочиалистического труда; укрепляются чувства классовой солидарности и братского сотрудничества в деле соцстроительства; поднимается политическая (次の手稿11につながる)

[手稿11]                                                                (11

активность в борьбе за укрепление диктатуры пролетариата, за выполнение наложенных темпов и планов соцстроительства края и обороноспособности.

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  Советы восточников-трудящихся укрепляются и перестраиваются они в соответствии с задачами, выдвинутыми партией и правительством в ДВЧасти(?), в году последнем и завершающем пятилетку в Ниода(?).

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  При активной помощи пролетарского государства, корейское и китайское бедняцко-средняцкое крестьянство резко повернулось к сторону социализма - - - -

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  Повышение материального и культурно-бытового уровня восточыных трудящихся на основе коллек(???) (文章はここで中断)

 

 

 

おろしゃへの遠き道(第3版[1]

 

加藤史朗(愛知県立大学外国語学部・国際関係学科)

 

ロシアは相変わらず近くて遠い国だ。ソ連崩壊以来の混沌状態を経て、世紀の変わり目に登場したプーチンの下でロシアは大国の存在感を取り戻した。それは隣国から見れば、威圧感の復活でもある。最近の尖閣諸島や竹島をめぐる日中韓の緊張状態の中で、ロシアの脅威は相対的に低下しているようにも思われる。だからと言って、日露接近という雰囲気ではない。こうした澱んだままに見える日露関係ではあるが、水面下で着実に変化が生じている。これまで慎重であったトヨタなど日本の大企業も続々とロシアに進出している。大企業ばかりではない。モスクワでお好み焼き屋を開店した青年の話が注目されたのも最近のことだ。出版界では、「カラキョー」(『カラマーゾフの兄弟』のこと)がミリオンセラーとなり、訳者の亀山郁夫先生が県大に講演に来られてからも既に久しい。今ではドストエフスキー以外のロシア作家も次々と新訳が出版されている。しかしその一方で大学におけるロシア関連講座の閉鎖や縮小といった話が聞こえてくる。ロシア語やロシア関連講座は「不採算科目」なのだそうだ。これはマズイ事ではないか。なぜなら、1917年のロシア革命と1991年のソ連崩壊の持つ世界史的意味は余りにも大きく、グローバル・ヒストリーを考えるとき、避けることのできないテーマだからである。とりわけ、20世紀後半に自己形成を行ってきた「私」にとって、ロシアは、わが半生=反省の課題である。

 

フンのロシア

sekaisi img022フンと言ってもアッチラ率いるフン族のことではない。カーカ(ロシアの幼児語、うんち)のこと。幼時の記憶の中でロシアはそれと結びついていた。三番目の兄(7歳年長)の友達が我が家に遊びに来ては、幼児の私を次のようにからかった。「シロウ、ロシヤ、野蛮国!」と。日露戦争後の「スズメ、メジロ、ロシヤ、ヤバンコク、クロパトキン、キンタマ、マカロフ、フンドシ…」というロシアを揶揄する尻取り歌の残滓が第二次大戦後の昭和20年代末まで生き残っていたのである。ある時ついに堪忍袋の緒を切らした私は、家の外まで兄の友達を追いかけた。すると彼は、あろうことか、道端の馬糞を新聞紙に丸めて、私に投げつけたのだ。私の首筋に半乾きの馬糞が命中。私は悔しく泣き崩れ、その日は晩飯も喉を通らなかったほどであった。「シロウ、ロシヤ」という屈辱感に満ちた響きは生暖かい馬糞の感触とともに、私の心にトラウマとして刻み込まれた。後年早稲田の畏友井桁貞義氏や伊東一郎氏の口から「バフチン[2]」という名前を聞くたびに、何か言い知れない嫌な感じを受けたが、バフンのトラウマのためかもしれない。

←フンを投げつけられた頃の私と弟(左)

「ロシア、野蛮国」という言葉の意味が「実感」をもつようになったのは、昭和311956)年、私が小学校4年の時に公開された嵐寛寿郎主演「明治天皇と日露大戦争」によっている。この映画は空前の大ヒットとなり、私も小学校の課外授業で町の映画館まで見に行った。日本が勝つ戦争なのだ。興奮の大拍手の中で映画を見た記憶がある。力道山の活躍を見るのと同じ雰囲気であった。

 

社会主義の輝き

しかし、その一方で当時の社会主義国ソ連は、私のトラウマとは裏腹に燦燦たる輝きを放っていた。1953(昭和28)年、私が小学校1年の時、スターリン死去。部屋にスターリンの肖像画を掲げていた次兄は本当に落ち込んでいた。1956(昭和31)年のスターリン批判は、記憶にない。しかしこの年、日ソ共同宣言により、両国間の国交が回復した。翌1957(昭和32)年のソ連砕氷船オビ号による日本の南極観測船「宗谷」の救出、人類初の人工衛星スプートニクの打ち上げ成功、1961(昭和36)年、ソ連からの小児麻痺ワクチン援助、ガガーリンによる初の宇宙飛行など、ソ連あるいは社会主義の輝きを印象づけるニュースが続いた。大学におけるロシア語履修者は急増し、『理科系のロシア語』と題する本も出た。中華人民共和国の大躍進政策や朝鮮民主主義人民共和国の千里馬運動なども喧伝され、社会主義の優位は揺るがないと思われた。そんな雰囲気のなか、次兄が購読していた雑誌「人民中国」の読書カードに自分の感想を書いて投函したことがある。すると、北京から天安門と五星紅旗をあしらった大型の記念切手を貼った封書が届いた。初めて海外からもらった手紙である。興奮して何度も読んだ。今も手紙の一文が頭の片隅に残っている。

「今、北京はソ連の人工衛星打ち上げの成功を祝う行事で沸き返っています。これはまさに社会主義の輝かしい勝利を示すものです!…北京市阜成門外百万庄 人民中国編集長 康達訓」

当時のアメリカに対する憧憬と反発が私を社会主義に近づけたのかも知れない。進駐軍とは、真鍮の輝き。ギャバジンの、あるいはジーンズの格好良さ。リグレーのチュウーインガムやハーシーのチョコレートの美味しさ。パーカーの万年筆、さらにジャズや映画など。当時の若者は、圧倒的なアメリカ文化の洪水の中にいた。こうした中でへそ曲がりの私は、反米愛国的な気分を感じながらも、ソ連の臭いイメージにも馴染めないでいた。

1960(昭和35)年の日米安保条約改定問題は国論を二分した。中学校でも先生たちを保守と革新に分け、話題にした。だが英語をならった星川運八郎先生は、その分類には当てはまらない気がした。シベリア抑留を経験された方で、授業の合間に収容所の悲惨な生活を語り聞かせてくれた。とつとつとした話し振りだったが、実体験の重さは、中学生にも感じられた。特に印象に残っているのが、鍾乳石のように、凍って盛り上がる大便の始末の話し。ここでもロシアはフンと結びついていた。歌声運動の盛り上がりは、高校時代にも続いていた。生徒会執行部の一員であった私は、学園祭やサークル合宿で使うための歌集を作り、多くのロシア民謡をそこに収録した。国際学連の歌やワルシャワ労働歌も入っている。しかしそのようなソ連と社会主義優位のトレンドの中にあっても、ロシア=ソ連に対する異臭感を拭うことは出来なかったのである。

 

どん底

1963年、高校2年生の時、早稲田の露文科出身の宮崎宏一先生が現代国語の先生として赴任してこられた。この先生が授業で最初に語ったのがゴーリキーの『どん底』であった。授業中に「明けても暮れても牢屋は暗い。いつでも鬼めが、エー窓から覗く…」と劇中歌まで披露するほどであった。当時私は生徒会執行部で会計を務めていたが、会長・副会長・書記長はみな民主青年同盟に加入していた。先生は彼らのヒーローであった。1963年夏、部分核実験禁止条約が締結され、日本共産党はこれに反対した。生徒会内部でも大議論となった。この条約を支持した私は、執行委員会で完全に孤立した。果てしない議論を終えて夜遅く家路についた時、道すがら憔悴している私に書記長が慰めるように声をかけてくれた。「シロちゃんよお、中央は俺達より高い見地で判断を下しているんだから俺は中央を信頼するな…でもシロちゃんとは思想が違うことはわかったよ。一致できる点で一致していこうな…」と。私は釈然としないまま力なく肯くしかなかった。この問題を契機にモスクワのルムンバ民族友好大学への進学を希望していた会長は、進路を東大へと変更した。ところで私は生徒会の他に、社会科学研究会・文芸部・ESS(英会話の会)に籍をおいていた。アメリカに対する私の憧憬と反発という捻じれがもろに出たサークル選択であった。文芸部では新崎智(現評論家の呉智英)が部長を務め、一緒にカミュやサルトルを読んだが、ピンと来なかった。しかし彼との交友の中でドストエフスキーを知った。当時小沼文彦訳の全集が刊行され始めたばかりであり、彼は自慢そうにそれを見せてくれた。新崎は「マウンティング」[3]の名手であった。そこまで文学青年ではなかった私は、米川訳の岩波文庫で『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』などを読んだ。当時の「知識人」の間では世界が社会主義化するのは必至と思われていた。「これから立身出世するにはマルクス主義者にならなければならない」と率直に言う先生もいた。またマルクス・エンゲルス全集が金満家の応接室を飾る家財道具として売れるという嘘のような話しさえ聞こえてきた。社会主義になったときの「保険」としてである。だがドストエフスキーの作品は、人間て奴はそんなに単純にはいかないぞと教えてくれた。さらにソ連の外皮の奥にロシアのナロードと大地があるという漠然としたイメージも与えてくれた。

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50年後の師弟(宮崎宏一先生と新崎智=呉智英) 2012年県大祭

 

社会主義や共産主義の魅力と違和感の相克は私を仏教へと誘った。私が通っていた名古屋の私立東海学園は、もともと浄土宗立の学園であった。私が高校2年の時まで高校校長を務めておられたのが、林霊法先生である。戦前、妹尾義郎の「新興仏教青年同盟」で書記長を務め、治安維持法に触れ入獄体験もあった人物である。民青の諸君や新崎智から頗る馬鹿にされたが、林先生の「東海高校生に与う」というパンフレットや著述[4]からは多大な影響を受けた。高校3年に進級する時に、先生は、東海学園女子高と女子短大の経営に専念するために、東海高校を辞められた。先生の辞任に抗議し、かつ「思想的煩悶」について先生に手紙を認めたところ、丁寧なご返事を頂いた。政治運動をする前に、もっと勉強しなさいと諭す内容であった。すっかり林霊法先生に心酔した私は、中日ビルで行われた毎月定例の日曜宗教講座に通い、先生の発行されていた月刊誌『大地』の熱心な読者となった。先生との出会いを通して私には「仏教社会主義」という展望が開けたように思えたのである。 Engaged Buddhism (社会参加仏教)という言葉がヴェトナムの僧侶ティク・ナトハンによって用いられたころ[5]のことである。

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林霊法先生の手紙(昭和39515日付)[6]      永平寺の参禅会後のある一日

 

反スターリン主義と内ゲバ

1965(昭和40)年に早稲田大学政経学部政治学科に入学した。その入試面接の時、面接担当の北河先生(英語)に「早稲田で何をやりたいか」と聞かれ、迷わず「仏教社会主義思想の研究です」と答え、「階級闘争のマルクス主義や一神教のキリスト教では真の平和共存は不可能です。自他共栄の仏教でこそ初めて社会主義は実現できるのです」と林先生の言葉を借用した。北河先生は「それは面白い。しっかりやりたまえ」と答えて下さった。入学後、迷わず仏教青年会に入り、ロシア語を第二外国語に選んだ。中国語選択者と合同の1年T組であった。中国語、ロシア語ともに20人ほどであった。中国語の新島淳良先生がクラス担任で、ロシア語担当は佐藤勇先生(現在売れっ子デザイナーの佐藤可士和氏[7]は、先生の孫で、幼児期の姿を良く覚えている)であった。

折りから政治の季節は春から夏に移ろうとしていた。クラスタイムには、革マル、中核、解放派など三派の活動家が入れ替わり立ち代わりしてオルグにやってきた。一番説得力のあったのが、革マルの蓮見清一氏(現宝島社社長)だと思われた。しばらく彼の主宰する学習会に参加した。レーニンの『国家と革命』がテキストであった。「階級対立の非和解性の産物」としての国家、それが共産主義革命により、やがて死滅するのだというテーゼは、非常に魅力的であり、ソ連はおろか日本や中国の共産党を批判する共産主義者がいるということそのものが晩生の私には新鮮であった。ハンガリー動乱のことは、母校の社研では話題にもならなかった。民衆の反乱は共産主義者の専売特許ではなかったのだ。何々は「基底体制還元主義だ」と他党派を批判する彼の言葉が、人間はそんなに単純じゃないぞというドストエフスキーの読書体験と絡み、自己否定を通して革命的主体を形成するという彼の主張が、仏道修行を目指そうとする意識と奇妙に一致し、しばらくはこれだと思った。クラスに山西英一氏の息子がいて、共にトロツキーの自伝やドイッチャーのトロツキー伝を読み、夢中で話し合った。しかし1965年後半から1966年初めにかけての学費学館闘争において、「仏教社会主義の幻想」は完全に破綻してしまった。内ゲバが始まったのだ。当時の蓮見氏は行動隊長として有名であった。私は学友会代議員という名の一兵卒。体育会系学生の本部封鎖解除を阻止するために動員され、「かかれー」という彼の号令一下、格闘の最前線に押し出された。結果はあっという間の失神だった(先方には当時短距離のスターであった飯島選手がいたことは覚えている)。またある時は、教育学部の民青との小競り合いでやはり最前線に押し出され、民青から殴られ、ワアッと逃げ帰ったら民青と間違えられ革マルからも殴られた。実に惨めな体験であった。「共産主義者」は本当に嫌だと思った。トルストイの『コサック』の中に「人間は精神的に高揚している時ほどエゴイスティックになることはない」という一句を見出し、文字どおり痛く共感した。その後の全共闘運動の高揚をシニカルに見るようになったのはこの言葉の体験によるのだと思う。

 

3年時に井伊玄太郎先生のゼミ「共産主義の理論と実践の批判的研究」を選び、ゼミ長に任命された。この先生には、一般教養の「社会文化人類学」ですでに接していた。最初の授業の時、先生は、黒板に大きく「マルクス坊や」と書いて、「こんなのは駄目ですよ」と言ったかと思うと、大きな×印でその言葉を消し去った。当時左翼学生は彼を「イイカゲンタロウ」と揶揄していた。先生の口癖は、本ばかり読んでいては駄目だ。フィールドが大事だというものであった。先生の言葉に半ば共感しつつ、漠とした「思想の体系性」に憧れていた私は、ここでもちぐはぐな感じを抱いたままであった。今から思えばトクヴィルを先生と一緒にもっと勉強すべきであったと思う。シモーヌ・ヴェーユについてもそうである。「人間は恋と革命のために生まれてきたのです」という太宰の言葉になぞらえれば、当時その双方において駄目だった私は意気消沈していて、「君は指導力がないねえ」と先生に面罵されることもしばしばであった。しかし、1968(昭和43)年夏、4年時のゼミ旅行の企画は、我ながらよくやったと思っている。私の故郷多治見でのフィールドワークの後、南木曽に勝野金政氏を訪ねたのだ。加藤哲郎氏や藤井一行氏の最近の研究でよく知られているように、かつて片山潜の秘書として入露した勝野氏は収容所群島の生き証人であった。氏の長男春喜君と政経学部の同期であったのが縁で、南木曽のお宅を訪問し、勝野氏の支払いで妻籠の宿で一泊したのであった。氏の夫人は、早稲田の政治哲学教授であった五来欣造先生のお嬢さんであった。全く偶然のことであるが、井伊先生が学生時代に幼女であった奥さんに会ったことがあり、半世紀以上を経ての再会に興奮されていた。旧家の佇まいを見せる勝野家の囲炉裏を囲んだ語らいの場には、春喜君の姉上(早稲田露文卒)も控えておられた。後年、早稲田で勝野金政に関するシンポジウムが開かれたが、その時の懇親会で司会を務めることになり、春喜君などと再会する事が出来た。 井伊先生は研究室を学生に開放してくれ、そこで、一年後輩の久野孝保君(現大府市長)と一緒にレーニンの『国家と革命』をロシア語で読んだ。

この旅行の最中にソ連軍の戦車がチェコに侵入、「プラハの春」の芽吹きは開花前に摘み取られてしまった。井伊先生は「ドプチェクはだめだねえ」と何度もつぶやいておられた。

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ロシア語クラスの岡村真理さんと佐藤先生の家を訪ねて 私の膝にいるのが佐藤可士和さん(1968年冬)

 

ナロード憧憬

ソ連の現実が徐々に見えてくると、社会主義国のイメージは急速に色あせていった。その反動としてロシア革命以前の社会主義に対する関心が高まった。東大の和田春樹、北大の外川継男、一橋の金子幸彦やその門下の今井義男や長縄光男など諸先生や諸先輩の研究は、マルクス主義以前の社会主義、ナロードニキ社会主義の復権をもたらした。私もナロードニキについて関心もつようになり、「共産主義の理論と実践の批判的研究」というゼミでの私の研究テーマとなった。それは「人間の顔をした社会主義」[8]だと思われたからである。ロシア語の佐藤先生は、私の興味に沿ってコロレンコの「不思議な女」やトゥガン=バラノフスキーの『過去と現在におけるロシアの工場』をテキストに使って下さった。それだけではない。ナロードニキ主義の創始者、アレクサンドル・ゲルツェンの魅力を示唆してくださり、この人物をもっと研究したいという私の決心を固める手助けをしてくださった。研究を続けるには、二つの選択肢があった。一つは大学院への進学である。しかし、もっと基礎を勉強したいという私に、当時モスクワ大学に留学中の山本俊朗先生の例を挙げ、学士入学という方法を教えてくださった。山本先生は政経学部から文学部に学士入学をされた経験をもっておられたのである。こうして文学部の史学科に学士入学をした私は、モスクワ大学での研究を終えて帰国されたばかりの山本俊朗先生から、歴史学の基礎や最新のソヴィエト事情を教えていただく機会に恵まれた。西洋史の演習では、ポーランド史の井内敏夫氏や現在ユング派のサイコセラピスト村里忠之氏らと出会うことが出来た。卒業論文はゲルツェンがロンドンに創設した自由ロシア印刷所の歴史をテーマとしたものであった。佐藤先生は、その資料として、レムケ版の『ゲルツェン全集』を貸して下さった。

大学1年の時に父を喪った。私の勉学を助けてくれたのは、三人の兄である。しかしいつまでも甘えてはおられない。家庭教師、洋書のセールス、銀行やサウナの夜警などで自活の道を求めながら、大学院に進むことにした。またもや佐藤先生が助け船を出して下さった。当時、学園紛争は、高校段階にまで広がっていた。東京都港区の麻布学園では、紛争を力で抑えるために登場した理事長代行の山内一郎氏が左翼系の社会科教員を解雇し、その代替教員を求めていた。山内氏は日ソ交流協会の理事長でもあり、副理事長を務めておられた佐藤勇先生と昵懇で、誰かいませんかという話になったという。大学院に籍をおいたままこの学園に初めは講師として、4年後には専任として都合27年半もお世話になった。就職した当初、日ソ交流協会からソ連留学に派遣してくれるかもしれないという甘い打算があったことを告白しておかねばならない。しかし、学園紛争はそれどころではない方向へと展開して行った。東大紛争をなぞるかのような学園紛争の進展と東大全共闘と同じ振舞いをする当事者たちに対し、私はシニカルに接していた。だがあろうことか、途中で理事長代行山内氏による学園財産2億円余の横領事件が発覚し、紛争は思想云々ではない段階となった。混乱する学園から逃亡するようにして、冬休み前後の休暇をとって1ヶ月半におよぶヨーロッパ旅行に出かけた。生徒たちの間では加藤は亡命したらしいと噂が立ったという話を後から聞いた。パリを拠点に、南フランスを旅行した後、鉄道でハノーヴァーにいる従姉を訪ね、ミュンヘン、ザルツブルクを経て、ウィーン留学中の稲野強氏の新婚家庭にお邪魔した。モスクワ留学中の安井亮平先生からソ連にも足を伸ばすよう誘われたが、不遜にも、短期間の滞在ではソ連という外皮の下に隠されたナロードのロシアを見ることは出来ないと思って断念した。相変わらず観念肥大化の病は癒えていなかったのだと今では後悔している。

代行の縁故で就職した麻布で、4年後に専任となった。代行派と見られても仕方がない私ではあったが、生徒も同僚も実に暖かく、学園は徐々に居心地の良い場所となった。週一日の研究日を確保してくれ、院生を続けることが出来た。山本先生のゼミは定例の職員会議と重なってほとんど出席できなかったが、先生はそれを大目に見てくださった。一橋大学から出講されていた金子幸彦先生の講義は、小人数で極めて恵まれたものであった。ロシア文学の井桁貞義、伊東一郎、堀江新二、浦雅春などによる「ヴォトカの会」という研究会にも時々参加した。こうしたゆったりとした雰囲気の中で結局12年間も大学院に在籍していたことになる。この間、ロシア史研究会にも参加するようになった。この研究会に参加するつもりだと山本先生に話した時のことは、忘れがたい。先生は、「僕もね、昔は出ていたのですが、何か明日にでも日本に革命が起こるような話しばかりしているので、今は出ていないのです」と言われた。出てみると多少そういう傾向はあったが、気になるほどでもなく、いつも庄野新、荒田洋、今井義夫、田中陽児、倉持俊一、和田春樹、和田あき子など錚々たる先生たちの暖かい眼差しに出会えた。

 

ペレストロイカ

パック旅行でもよい、ソ連に行ってみたいと思うようになったのは、ゴルバチョフの登場により、ペレストロイカが始まってからである。19878月初めてソ連の土を踏んだ。ナホトカ、ハバロフスク、モスクワ、レニングラード、キエフをめぐる二週間の旅であった。あちこちで幼時のイメージを追体験した。ナホトカの水洗トイレは「カーカ」が溢れていた。シェレメチェヴォ空港で最初に感じたのは何とも言えない異臭であった。チェルノブイリの翌年のキエフは、埃の中に沈んでいた。しかし、なんという生き生きとした国だろうと思った。混沌とした現状が、自分の内面の混沌と見事にマッチしていて、ロシアに病みつきになってしまった。翌年、またもや佐藤先生のお世話で、モスクワ大学で毎年行なわれていた「ロシア語教師のための夏季セミナー」に参加した。勤務先の高校に二か月の夏期休暇をもらい19887月早々にモスクワに出かけた。ペレストロイカに沸き立つモスクワで過ごしたこの二か月間ほど自分の人生で高揚感を味わったことはなかった。体重二キロを失い、貴重な友人二人を得た。一人は行きのアエロフロート機の中で隣に座っていたコースチャ(科学アカデミーの物理学者)、もう一人はスラーヴァ(当時、モスクワ大学の地質学研究の院生・学生寮の世話人)である。この二人とはその後、モスクワに行くたびに会った。あるいはむしろ彼らに会うためにモスクワに行った。[9]

 

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モスクワ雀が丘にてコースチャと             モスクワ大学の学生寮にてスラーヴァと

 

ロシア語教師のためのセミナーという以上、ロシア語を教える必要があると思い、その年の春から麻布学園で放課後にロシア語を教えることにした。募集してみたら30人以上の生徒が集まった。当時ソ連はまさにトレンディーな国なのであった。大学院で同期であった山内重美さんのコンサート、50人以上の高校生を連れてのソ連大使館訪問、その時知り合ったレオニード・シェフチューク一等書記官の三度にわたる学園での講演会、図書館での「ロシア=ソ連特集」と銘打ったブックフェアー、その一環としての和田春樹先生の来校などいずれも若い世代の熱気に支えられて実現できた企画ばかりである。1989年から1991年にかけて、茨城大学の早坂真理さん(現東工大)に依頼され、茨城大学教養学部でロシア語の非常勤講師を務めたが、何と、一クラスの受講者は50名近くもいた。

しかし1991(平成3)年のソ連崩壊を境に潮目が変わり、ロシアへの関心は急速に冷えていった。シェフチューク氏[10]の来校は1990年、1991年、1992年の三度であったが、最初の講演会への参加者は400人、次が200人、ソ連崩壊直後に行なわれた三度目が100人である[11]。ソ連崩壊の翌年、1992年は、アダム・ラクスマンが大黒屋太夫らを連れ根室に来航してから200周年に当たる年であった。ロシア史研究会は、前年の「ソ連崩壊とわれわれ」(上智大学)に続き、「日露交渉200年」を記念して開き、外川継男、中村喜和、和田春樹の三人の先生の講演会を開いた。この講演を基に編んだのが『日露200年−隣国ロシアとの交流史』(彩流社、1993年)である。和田春樹先生と一緒に編集作業を担当した。団地の知り合いに青森テレビに務めている人が居て、みちのく銀行の頭取・大道寺小三郎氏が日露関係に強い関心をもっていると言われ、献本したところ、この夏の青森ミッション(ハバロフスク・ユジノサハリンスク訪問)に加わるように誘われ、サハリンの地をはじめて訪問することが出来た。その後も麻布の同僚とサハリンを訪問し、大道寺ハウスで歓待を受けた[12]

 

わたくし心を公に

ソ連崩壊後も毎年短期間ロシアを訪れたが、職場における私のエネルギーは、学園百年史の編纂に向かった。この仕事は1995年に完了した。その後またロシアに対する関心を学園に吹き込もうと思い始めたのは、ロシアの歌手エカテリーナ・コロボヴァ(カーチャ)さんとの出会いによる。露文科の友人、山内重美さんが1996(平成8)年、モスクワ放送に勤務することになり、6月に新宿で行なわれた歓送会で彼女と出会った。彼女は飛び入りで、ピアノを弾きながら「モスクワ郊外の夕べ」を歌った。これまでの印象では「モスクワ郊外の夕べ」は情緒的でセンチメンタルなものであったが、彼女の歌の調子は、もっと激しく切ないものであった。「おうこれがロシアだ」と思った。その後、彼女が歌っている銀座の「マヤ・ローザ」に行った。経営者は兵頭ニーナさんで、かのアラ・プガチョーワの友達である。加藤登紀子が「百万本のバラ」を持ち歌とするようになったのは、彼女の仲介の労によるという。そこで聴いたカーチャの歌の音域の広さと情感の豊かさにすっかり惚れ込んでしまった。彼女の一人息子セルゲイともども家族付き合いが始まり、色々と彼女の歌を聴く機会に恵まれた。

1997(平成9)年の秋、カーチャのコンサートを麻布で開くことにした。とは言っても、学校の正式行事ではないからどこにも予算はない。後に麻布の校長となる氷上信廣は「わたくし心の公(おおやけ)化だな」[13]と揶揄しながら、熱心に準備を手伝ってくれた。同僚一人一人にカンパを募っただけではない。ロシア語講座の生徒、卒業生、父兄も協力してくれた。コンサートは大成功であった。観客400人余、カンパ約25万円が集まった。このコンサートを契機に彼女の息子セルゲイの「ロシア語会話教室」とカーチャの「歌の教室」が定期的に麻布学園で開かれるようになった。それは私が麻布を辞めた後もしばらく続いた。

 

愛知県立大学とおろしゃ会

199810月に愛知県立大学に赴任し、ロシア語を履修している学生と「おろしゃ会」を作った。次のサイトにホームページがあり、創刊号から最新の第18号に至るまでの会報が掲載されているので、是非見て欲しい[14]。ロシアに対する関心を教壇からいくら喚起しても空しいというのが、この会を発足させた動機である。私のロシアとの関わりを恥ずかしげもなく長々と綴って来たのは、「滅私奉公」の時代は確実に終わったのだと言いたいがためである。「滅私奉公」の時代は第二次大戦とともに終わったのではない。自分自身を振り返って分かるのだが、社会主義の理念が戦後も長い間「滅私奉公」を支えてきたのだ。我々の世代までは、大義や理念や体系性を、換言するならば、Grand Theory を追い求めてきたのである。しかし、ペレストロイカの失敗とソ連崩壊は「滅私奉公」に完全に終止符を打った。「わたくし」にこだわり、「いやし」を求めるイヤシイ時代となった。こういう時代に旧来の「ロシア」が魅力をもつことはありえない。ロシア語を選択したとしても、「ロシア」に憧れたりするわけではない。教壇から語られる「ロシア」は、学生たちにとって教員のセンスのない「様々なる衣装(ママ)」の一つに過ぎないのである。厄介ではあるが彼らの「わたくし心」と触れ合わないと授業は出来ない。ロシアに対する関心が低迷し、ロシア語やロシア関係講座の学生数が少ない今こそ逆にチャンスである。学生一人一人と接する余裕に恵まれたと解釈すべきであろう。ネイティヴの先生の授業についてゆけず、ロシア語を放棄しようとした男子学生がいた。教室から携帯電話をかけ、「なぜ出てこない」と言う。「なぜと言われましても…」と口篭もる。とにかく一度会うことにした。「何をやったらよいのか分からない、気力が起きない」のだそうだ。唐突だが、彼にリハチョーフの話しをした。『善と美に関する手紙』の一つをコピーして彼に渡した。予習をやったら来いと言って。一週間後に彼は現れた。単語を調べて真っ黒になったコピーを持って。折悪く教授会の始まる直前だった。30分だけやろうということになった。相手は必死になって調べてきてある、何が分からないかはっきりしている。こういう学生を相手だったら30分でも実に充実した授業が出来るということが分かった。しかしそれが本人の実になったかどうかは常に心もとない。だが、やる気がない学生を前にした場合は、いかに長時間しごこうが、それは、ハラスメントになるばかりである。 自己評価・自己点検あるいは、学生の授業評価を繰り返す中から、一体どんな「学問」を創造できるのだろうか。

愛知県立大学の学長特別研修の制度に応募し、2002年秋から2003年夏にかけてモスクワとサンクト・ペテルブルクに滞在した。前半をモスクワで、後半は建都300年祭のサンクト・ペテルブルクで過ごした。研修を受け入れてくれたのは、科学アカデミー・ロシア史研究所である。ホスト教授はモスクワが19世紀ロシア革命運動史のグロスール先生、サンクト・ペテルブルクがロシア思想史・文学史のエゴーロフ先生である。エゴーロフ先生とは、安井亮平先生の紹介で知り合った。さらにモスクワでは、レーニン図書館附属の書籍博物館のグーセワさん、ナロードニキ研究の泰斗イテンベルク先生、サンクト・ペテルブルクでは、ナショナル・ライブラリー手稿部のザグレーヴィンさん[15]などとも交流出来た。

この滞在期間に追求したテーマは、二つあった。一つは、18世紀エカチェリーナ2世時代における歴史家ミハイル・シチェルバートフについて、もう一つは、19世紀ニコライ1世の時代に西欧に亡命し、1848年の二月革命を体験し、1861年のアレクサンドル2世に対して農奴解放などの諸改革を促したアレクサンドル・ゲルツェンである。この二人は、ピョートル改革により成立した帝政ロシアの保守と革新からの批判者であった。前半をモスクワで過ごし、建都300年祭を祝うサンクト・ペテルブルクで後半を過ごそうと決めた思惑は、自分なりに両首都の差異を体感することであった。モスクワの宿舎は、よく通ったINION(科学アカデミー社会関係諸科学学術情報研究所)図書館の近くにあり、典型的なフルシチョフ時代のアパートであった。これに対して、サンクト・ペテルブルクの住まいは、佐々木照央氏と木村崇氏が共同で購入し、世話になった大家さんシャマートリナさん[16]に譲った天井の高い、立派な部屋であった。建物は、1828年の建設というからデカブリスト反乱の数年後である。ちなみに住所もデカブリスト通りである。ペテルブルクは沼地に作られた町であるので、多くの建物が沈下している。この建物も一階が半分ほど沈下し、半地下状態になっていた。モスクワとサンクト・ペテルブルクで過ごした一年間は、語りつくせない。帰国後、公開講座で「ロシア二都物語」と題して話をしたが、収拾がつかず、頭の中は真っ白になってしまった。今も残された課題である。

 

青年即未来

私が愛知県立大学に赴任して数カ月を経て、新崎智も名古屋の住人になった。親の介護のためである。「おろしゃ会」で最初の講演[17]をしてくれたし、「比較文化」という科目を集中講義で担当することになった。東京に居た時よりも、話す機会が多い。よく話題となるのは、「最近の若者は、俺達に比べると大人に遊んでもらっていないな」ということだ。前任校麻布学園の創立者・江原素六は「青年の友たるは余の素志である」と言っては、名士連の会合をキャンセルし若者と付き合ったという。青年は即ち未来だからである。

 

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おろしゃ会の模擬店 ポリーナと幅さん(2009年県大祭)

 

私も「おろしゃ会」を通して「青年の友」でありたいと思っていた。だが、江原先生のようなわけには行かなかった。生来の「多情多恨」というべき我が性格から、様々な行き違いもあり、何人もの学生諸君に迷惑をかけた。しばしば舌禍(ハラスメント)に及ぶこともあった。しかし若者から「気にしていませんよ、先生の愛情表現だと思っていますから」と言われて、どれほど救われたことか!どちらか大人だか分からない。このような私に若い世代に何か遺す言葉があるだろうか。甚だ心もとないが、もしあるとすれば、それは「蒼蠅驥尾に付して千里を致す」という『史記』の言葉。蒼蠅(そうよう)とは、青バエのようにつまらない存在、一方、驥尾(きび)とは、駿馬(しゅんめ)の尻尾のことである。すなわち「つまらない存在でも優れたものにつき従えば、意義あることに与ることができる」という意味になる。私の場合は、「驥尾に付して」も千里に至る前に、振り落とされることが通例ではあったが、「おろしゃ」への道を歩む中で本当にたくさんの優れた人々と出会うことが出来た。出会いは、生身の人々とだけではない。ゲルツェンなど、「歴史」の中での出会いも多い。知の世界では、過去は現在よりはるかに豊饒である。「歴史」に学ぶ意味は、その辺にあるのではなかろうか。

 

「勉強して、勉強して、さらにまた勉強して!」−これは、千鳥足で「おろしゃへの遠き道」を歩んできた際、いつも耳鳴りのように響いていたレーニンの言葉である。

 

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平岩君(時事通信モスクワ支局長)とマリーナさん(シベリア連邦大学日本文化センター長)

20124月モスクワで

追伸

この原稿は122日火曜日3限にS201教室で国際関係学科の同僚の皆さまが設けて下さった最終講義のために編んだものである。今年度末で放送大学からの割愛でご退職になる稲村哲也先生の文化人類学の授業の一コマに私も便乗させていただき、二人揃って目出度く最終講義となった。講義のあとは、生協食堂で懇親会まで用意して下さり、数々の温かいお言葉を頂いた。さらに驚いたのは折々の写真とともに、国際関係学科の学生諸君や教職員の方々一人一人のメッセージカードを貼り付けたアルバムまで贈って頂いたことだ。文字通り我が余生の宝物である。改めてお礼を申し上げたい。

事実上の最終講義はその翌週となった。火曜の演習は大曽根にある「マーライオン」というシンガポール料理屋で行った。県立大学における最後の授業は131日木曜7限(午後7時半から午後9時)の夜間主の国際関係演習であった。トリを飾った学生は、この演習を何年も取り続けてくれた鈴木りえさん。発表テーマは、「国歌と国家」に関するものであった。この最後のゼミには、平岡鮎子さん、野田実紀さん、古園恭子さんらの卒業生も参加し、授業の後、花束とマトリョーシカに入ったチョコレートをもらった。さらに全員でリニモ「はなみずき駅」近くのラーメン屋に集い、おしゃべりを続けた。楽しく心に沁みる「最後の晩餐」であった。

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最後の演習の後で花束とチョコレートを頂く

後列左より野田美紀さん、サマリタ・レイカさん、鈴木りえさん、古園恭子さん、平岡鮎子さん

前列左より戸川裕子さん、私、松原信雄さん、木下景太さん

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現役ゼミ生5人と

 

最終講義の付録資料(加藤史朗) 2013122

 

国際関係学科ゼミの学生たち 2012年       シベリア連邦大学の歴史の先生たちと20129

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東海高校歌集 1963年            日露200年 1993

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Nさんからの手紙

 

学生や同僚の皆さんから抱えきれないほどの花束をいただいた。さらに加えて一冊の部厚いアルバムももらった。そこには、大きな花びらのようなカードが何枚も何枚も貼ってあり、その一枚一枚に一人一人の温かい言葉が書かれている。まさに「言葉の花束」である。熱い喜びを感じた。さらに後日、Nさんから以下のような手紙(メールではない!)ももらった。余りに嬉しくて、Nさんの了解を得てここに恥ずかしげもなく掲載させていただく。最終講義は一種の「生前葬」であると思う。だとすれば、これは私にとって過分の「弔辞」と言うべきかも知れない。Nさん本当にありがとう。

 

 

加藤史朗先生

 

この度のご退職、誠におめでとうございます。

長年の教師生活、お疲れさまでした。

 

加藤先生からは、この大学生活の三年間、多くのことを学ばせていただきました。数えあげればきりがありませんが、一つ一つが私の知識を支える脚となっています。

覚えていらっしゃるかはわかりませんが、一年生のときの課外学習の際にお声をかけてくださったのが、私の最初の先生との関わりでした。大学生活の初期で、大学での振る舞いもよくわかっていなかった私がどれほど先生の親しみのあるお声に支えられたか、計り知れません。私だけでなく、先生に関わりのある全員がそのように感じていると思います。大学とは、とても温かい人間関係の構築の場であると、そう先生と接している中で思うようになりました。感謝の気持ちでいっぱいです。

 

ゼミにおいても、ロシア語の授業においても、先生はとても幅広く知識を授けてくださいました。私がロシア研究をするにあたって、最初に先生が紹介してくださった廣瀬陽子氏の本は、今でも私の研究の基礎の一つとなっています。その本は私の興味にぴったりと合うものでした。

大学入学時、私はまったく世界史の素人だったので、あまりそれには深く関わらない研究をしようと思っていました。そんな私が、不思議とロシア語に触れ、やがてロシアに魅了され、最後に先生のもとでロシアを学ぶことができたこと、これは今考えてみても、自分の意思を超えた、なにか運命的なもののように思えます。「なぜロシアを勉強しようと思ったの?」と友人によく尋ねられるのですが、自分でもあまりよくわかってはいません。もしかしたら先生が最終講義で話されていたように、西側への反発によるものからなのかもしれませんが、それ以上に何かロシアには多少の暗い部分はあっても、惹かれる部分が私には多いような気がしています。それはまた、加藤先生をはじめ、私が触れあったロシア研究者の方々の温かい人柄に居心地の良さを感じたからかもしれません。ロシア語を含め、ロシアのあらゆることを、これからの私の一生の勉学としていきたいと思っています。

私の勉学姿勢は、あらゆる物事に興味を持つ先生の姿勢によるところが大きいと思っています。先生がお持ちになっている知識の量にはまだまだ到底たどりつくことはできませんが、人生を通し、生活の一部分に勉学を備え続け、一人の知識人として育つよう努力したいと思っています。

 

先生の授業をこれから大学で受けることができないと思うと悲しい気持ちになりますが、先生から教わったことを十分に生かし、卒業論文に向けて大学での学びを進め、ロシアへも一度は足を踏み入れてみたいと強く感じています。

 

お世話になりました。ありがとうございました。

 

2013129

国際関係学科 N

 

 

 

 

 



[1] 初版は成文社ホームページに(http://www.seibunsha.net/essay/essay26.html 1999年)、第二版は《共生の文化研究》第一号(愛知県立大学多文化共生研究所)2008年に掲載。それぞれ内容に重複と異同がある。

[2] いわずと知れた現代文学理論のパイオニア。

[3] マウンティングとは哺乳類が交尾の時に馬乗りになる仕草をさすが、チンパンジーや猿がボスであることを誇示する時もこうした行動をとる。「そんなことも知らないのか!」「カミュもサルトルも読んでいないの?」などと言って「ドウダ!」とばかりに威張ることを呉智英は一種のマウンティングだと言っている。呉智英『吉本隆明という「共同幻想」』(筑摩書房、2012年)参照。彼のマウンティングのお陰で、背伸びして多くの本を読むことが出来た。

[4] 新中國紀行―若き中国のモラル』(東海学園出版部、昭和32年)、『危機と信仰』(百華苑、昭和33年)『現代思想と仏教の立場』(百華苑、昭和37年)、『わが復活の曙光』(百華苑、昭和38年)などを立て続けに読んだ。

[5] 末木文美士編『現代と仏教』、佼成出版、2006年、11頁参照。

[6] 内容は「おろしゃ会」会報第17号(2012年)参照。

[7] ドコモの携帯やユニクロのデザインで知られる。身近なところでは、ツタヤのカードも彼の作品。

[8] 1968年にチェコスロヴァキア共産党第一書記ドプチェクが掲げたスローガン。「プラハの春」と呼ばれる改革の気運をもたらした。

[9] 残念ながらコースチャは既にこの世にいない。いつか年賀状に「夢でコースチャに会ったよ」と書いたら、「夢より現実で会った方が良いと思うよ」と返事が来た。虫の知らせとでもいうのか。20012月に急逝。いくつものロシアのサイトに彼の追悼ページがある。おろしゃ会でも追悼記を掲載した。http://www.gpi.ru/memory/memory8.phphttp://www.for.aichi-pu.ac.jp/~kshiro/orosia6-3.html

 

[10] 彼は20015月愛知県立大学での学術講演に来てくれた。その当時は参事官であった。その後、札幌総領事を経て、モスクワの本庁勤務。

[11] 詳しくは『日露200年』所収の「若い世代の意識」の中で触れたのでここでは繰り返さない。因みにこの文章の一部が2013年度の神戸市立外国語大学ロシア学科の推薦入試問題に出題された。別紙参照。

[12] 当時、みちのく銀行ユジノサハリンスク事務所長山内泰彦氏にお世話になり、後年、モスクワで半年を過ごした際も、モスクワ支店長として赴任されていた氏のお世話で、この銀行に口座をもった。

[13]「滅私奉公」でもなく、「滅公奉私」でもなく、「活私開公」を説く「公共哲学」の立場(山脇直司)につながる発言。

[14] http://www.for.aichi-pu.ac.jp/~kshiro/orosia.html

[15] 私が彼と別れて一年余の200410月、心筋梗塞で亡くなられた。氏を紹介して下さった中村喜和先生に「おろしゃ会会報」に追悼文を寄せていただいた。http://www.for.aichi-pu.ac.jp/~kshiro/orosia12-1.html#_Toc150414519

[16] 彼女は近くのマリンスキー劇場の舞台監督。名古屋にもワガノワ・バレエ学校の生徒を引率して来たこともあったが、2011年に亡くなった。2012年春、お悔やみにご自宅を訪問。息子は作曲家、孫娘はバレリーナになっていた。

[17] 講演の題目は「テキストとしてのロシア」であった。昨年秋恩師の宮崎宏一先生とともに二度目の講演(「思考の基軸としてのロシア文学」)をしてくれた。