「おろしゃ会」会報第6号その2
 
 
2001年4月8日
愛知県立大学おろしゃ会


えひめ丸事故と北太平洋 樺太文化経済交流会

         渡辺俊一(愛知県立大国際文化研究科修士課程修了) 


 私が誕生日を迎えた翌日、大変なニュースが入った。なんと宇和島水産高校の実習船とアメリカ原潜が衝突したというのだ。9名の行方不明者をだし、不安は宇和島市内を暗くおおった。宇和島水産高校は、海に面した明るいキャンパスが特徴的だ。私が高校生の時は、学校がすぐ近くなので彼等のりりしい制服姿をよく見かけた。制服は濃紺で海軍士官のようで、父が海軍に在籍したせいもあって、私はうらやましくおもったものだった。行方不明者の中には、父の知人のお孫さんもいて他人事ではない不安な気持ちがよぎった。
 事故の原因は、招待客への過剰なサービスと艦長はじめ観測要員のたるみであった。私は、日本の海上自衛隊の潜水艦ならまずありえない事故だと直感した。第一に自衛艦では、緊急浮上訓練は危険を伴うため回数が少なく、実施する場合、太平洋のど真ん中のような船舶の往来の少ないところで行うこと。次に、ソナーと潜望鏡の確認は実施要領に基づき念には念を入れて行うこと。万が一の時に備え護衛艦など監視部隊を伴い連絡のもと実施すること。以上がわが潜水艦部隊の精鋭の訓練の模様である。
2年ほど前、『文明の衝突』という書物が話題になったが、今回の事故の対応にも日米の著しい認識ギャップが存在した。まず、「謝罪」である。日本人は加害者は無条件でまず「謝る」べきと考える。補償などは二の次なのである。それが人間らしい態度だと考える。一方アメリカ人は、謝罪するということは、みずから過失を認めたことになり、不利な条件で補償することを意味し、謝罪の前に弁護士と相談し法律的に有利な立場に置こうとする。これは、多人種多文化社会のアメリカで生まれた訴訟社会のせいである。法律しか信用できない社会とも言える。

 日米とも軍人には「勇敢さ」を求めてきたが、両者には明らかな差異があるように思えてしょうがない。端的に言えば、アメリカ人は陽気な勇気ともいえるものがある。多少の危険も感じながらもゲストにわくわくするスリルを与えることに艦長は満足感を覚えていたのだろう。太平洋戦争中、多くの日本兵はアメリカ人は軟弱で勇敢さで劣っていると教えられていた。しかし、戦ってみるとチュウインガムをかみながら日本兵に劣らず勇敢であることを知る。一方日本人は、勝っていると景気はいいが、負けてくると悲壮なまでに勇敢さを発揮する。多くの南の島で万歳突撃を繰り返し、最後には玉砕した。ただし、日本人が捕虜となるのを「不名誉」と感じ始めるのは、「上海事変」以後で日露戦争中は多くの日本兵捕虜がいたし、彼等は恥じることなく戦後は堂々と帰ってきた。勿論お咎めなしであった。この点では明治の人はアメリカ人に近かったとも言える。尚、カミカゼ攻撃は日本兵の専売特許ではなく、香港攻略戦の英国兵、ミッドウェイ海戦での日本巡洋艦「利根」へのアメリカ雷撃機の体当たりがある。

 第二次大戦で民間人に多くの犠牲者を出し、本土を無差別爆撃された日本人は、戦後人命第一主義の国を作った。それに比べ、アメリカは独立戦争以降、大きな敗戦はなく自国が空襲された経験はない。ある程度の人命が失われても「自由」と「正義」のためには勇敢に戦うべきだという世論がある。そのような国家のために犠牲をいとわない軍人、とりわけ優秀であったワドル艦長のような人物を軍法会議にかけ有罪にするには多くのアメリカ人は抵抗を感じる。冷戦の勝者、ソ連崩壊を促したアメリカ軍への信頼は強いのである。一般アメリカ人にとり、冷戦中経済発展に集中できた日本には貸しがあると思えるし、今なお真珠湾は忘れがたい出来事なのかもしれない。私は一方的にどちらの国が良いとは言えないと思う。アメリカ人には冷戦中そして今も体をはっているという自負があり、日本人には平和国家を自負してきた50年がある。アメリカに言いたいことは、冷戦中は一人で戦っていたのではなく、西欧や日本という自由で経済力のある同盟国の後ろ盾があったからこそ軍拡にソヴィエトがギヴアップしたのではないか。人間として素直にまず謝るべきではなかったのか。日本に言いたいのは、人命第一、平和主義というがその時の人命とは日本人に限っていたのではないか。「人命は地球より重い」といって高い身の代金を払ってテロリストを輸出したのではなかったか。時には、人命を犠牲にしても守るべき大義があるのではないか。
このように様々な文化的相違がある日米両国だが、「えひめ丸」事故という悲劇を乗り越えて同盟は一層強固に維持されなければならない。かつてアングロサクソンと対立し孤立化の道を進んだ反省に立てば、自由と民主主義という共通な価値観のもとでは、我国にとり最も重要な国の一つがアメリカである。
 歴史を顧みると、19世紀中葉、西太平洋で鯨の乱獲をしていたアメリカは日本に水、薪、食料の提供を求めるため、4隻の艦隊を組み強引に開国を迫った。ペリー提督は日本本土に来る前、琉球に立ち寄り大統領に琉球占領を提案し、帝国主義的態度をあらわにしていた。同じ頃、ロシア帝国もシベリア、アラスカを占有し食料供給問題を一挙に解決するため日本に通商を求めていた。ロシア全権のプチャーチンは礼節を以って日本と交渉したが、その後のロシアは対馬や樺太に軍隊を上陸させるなど帝国主義的野望を露骨に示し、その後長く続く対露不信感を日本人の心に植え付けた。

 日本はアメリカとの同盟関係を続けながら、東北アジアの隣人達とどう向かい合うべきか。私は東と西の狭間で揺れていた日本とロシアこそ、将来的に地球規模の諸問題解決の要となる国だと信じている。日本はユーラシア大陸の東端に位置する島国だが、アジアではユニークな歴史を有している。つまり、12世紀に鎌倉幕府が誕生し、1600年の関ヶ原の戦いまでの間は、封建社会が生まれ成熟し変遷する様が、アジア的というよりヨーロッパ的である。
 シェークスピアの作品に登場する人物は、日本の戦国時代にいくらでも見出すことができる。17世紀に最も多く小銃を保有していた軍事大国は日本であった。関ヶ原以後も19世紀中盤まで武士の時代は続くのである。一方ロシアは、15世紀にモスクワ大公がツアーリとなってピョートル大帝の出現まで、皇帝と貴族そして農奴しかいない停滞した時代であった。キプチャク汗国から独立するまで300年近くタタールの軛、つまりモンゴル人の支配下にあった。1917年の革命から1991年のソヴィエト崩壊までも、科学とりわけ軍事技術以外は見るべきものは少ない停滞した時代といっても過言ではない。まさに欧米学者の使うアジア的停滞の中にいたのである。

 日本と西欧は、歴史の中に封建時代を経ていることは著しい類似点であるが、これは偶然にすぎず、両者に直接的なつながりはない。そして、日本は、まぎれもない黄色人種の国である。ロシアは、アジア的停滞をその歴史に有しながらも、スラヴ系の白人主体の国である。将来「文明の衝突」が起こった際、これを上手く解決し得るに足る有力な国として私は日露両国に期待する。
「えひめ丸」事故に戻ると、アメリカには、日本語の「社会人」という言葉に匹敵する単語がない。歴史が浅く、「ノブレスオブリージュ」(高い身分に伴う義務)が欠如しているのだ。海軍中佐らしく、また艦長として堂々と非を認め、責務を果たすべきという考えを多くの日本人は持っている。日露戦争後、「昨日の敵は今日の友」として四国の人々は、母国を遠く離れたロシアの軍人に同情し暖かいもてなしをした。それは、四国88ヶ所巡りのお遍路さんにする接待とまったく変わらないものだった。
昨今、米露関係もおもわしくないが、戦後50年余のアングロサクソンとの同盟を維持した日本が仲介をする時がくるかもしれない。その資格は日本には十分あるのだ。多くの欧米の日本研究家は、Japan is in Asia, but not of Asia.という認識を持っている。また日系人排斥の歴史を持つアメリカと日本が永遠に友好関係を持てるという保証はない。人種問題という永遠のテーマにぶつかる時、あるいは、ロシアが仲介をになえるかもしれない。シベリアで長い国境線を接する13億の中国の膨張は、極東ロシアにとり脅威といえる。その時、中国と長い歴史的な付き合いのある日本はロシアにとり解決の手助けとなろう。ただし、顔が似て漢字を使う日本人と中国人は全く異なる文化を持っていることをお忘れなく。

「えひめ丸」事故と北太平洋を思い巡らすと、日本と極東ロシアとの関係がつくづく大切であると考える今日このごろである。
最後に9名の勇敢な海の男達のために黙祷します。


А.ゲルマン監督『フルスタリョフ、車を!』                
                        愛知県立大学文学部日本文化学科                      
                                      平岩 貴比古


≪Хрусталев,машину!≫――1953年3月、死を間近にしたスターリンは側近・ベリヤに最後の伝言を残した――。
先日、名古屋今池シネマテークにて、アレクセイ・ゲルマン監督『フルスタリョフ、車を!』(1998年/仏・露)の上映があった。ゲルマンは、レンフィルム(すなわちレニングラードの映画制作所)で30余年にわたって映画人生を歩んでいるが、今までに発表した作品は本作を含めたった5本である。ソ連時代から彼の作品はみな話題作(問題作?)とされ、『フルスタリョフ〜』もまた例外ではない。1998年のカンヌ国際映画祭では、途中退席する審査員までいたらしく、口々に「わからない」作品だと評された。しかし、公開された国々の観客には好意的に受けとめられ、カンヌでの評価が正当なものでなかったとして、フランスのマスコミは後に訂正記事を掲載している。
ともあれこの作品で、ストーリーを通じて内容を理解することがほとんど困難なのは本当である。沼野充義氏は<これを初めて見る人は、ストーリーの細部を決して「理解」しようとしてはいけない。必要なのは映画の圧倒的な流れに身を委ねること>だと、この作品について論評している。とにかく142分息付く暇もない、強烈なモノクロ映画だった。モノクロのため、字幕が見づらかったことだけは残念である。
あらすじを簡単に紹介しておこう。反ユダヤ・反シオニズムの色濃いスターリン時代末期、モスクワの脳外科医で赤軍の将軍でもあるユーリー・クレンスキーは、秘密警察によるユダヤ人医師迫害計画「医師団陰謀事件」に巻き込まれてしまう。「医師団陰謀事件」は1953年の冬、実際にあった出来事で、クレムリンのユダヤ人医師団が「共産党指導者の暗殺を目論んでいる」とデッチ上げられ次々に逮捕された。彼も身の危険を察し、逃亡しようとするものの、結局捕まって収容所へ連れて行かれる。ところが突然釈放され、ある要人を診るよう命じられる。すると、その「要人」とは迫害計画を指示したスターリン本人だった。こういう話である。
パンフレットのあらすじを読めば何とかストーリーはわかるのだが、逆にいうと読まなければ全く筋がつかめない、ともいえる。私自身正直いって、作品中ひっきりなしに飛び交う卑猥とも言える「スラング」に圧倒されてしまった。BGMが少ない映画だったので、これは一種の「効果音」の役割を果たしていたのかもしれない。そして、押し寄せる映像にただ受動的になるのみであった。派手なアクションシーンが全くないにもかかわらず、初めから終りまでずっと高血圧のままである。そして映画が終わってみて、頭が真っ白になった。細かい内容はほとんど覚えていない。まるで夢の中の出来事を記憶できないかのようである。このような映画が今までにあっただろうか。
覚えていないのも無理はない。『フルスタリョフ〜』は回想録の形式をとっており、当初主人公の息子の声(少年時代のゲルマンの視点)で全編にナレーションが入るはずだった。ところが、ゲルマン監督はそれらを排除してしまったのである。ゲルマンのとった手法は「現実生活にナレーションは存在しない」という意味で正しかった、と私は思っている。この映画は当時の「混沌」としながらも「平凡」なロシアの日常を描いた作品であるからだ。そして洪水のように押し寄せるストーリーに受動的なのは、まさにロシアと共に生きる「運命」を象徴しているではないか。
作品中にただ一ヶ所だけ、印象に残っている場面がある。主人公・クレンスキーが、病床で死に際の、今や汚い老人となった「諸国民の父」スターリンの腹を摩りながら<最後の屁だ>という場面である。ソ連という国家は、宗教を麻薬だとしておきながら、指導者の遺体をまるで生きているかのように保存、崇拝してきた。レーニン廟がまさにその象徴である。その文脈で読み取れば、「神聖なる存在」であるはずのスターリンを、ありのままの汚れた異臭の漂う肉体として描いているところに、この映画の本質が現れているのだと思う。ゲルマンはいう、<芸術家の仕事は死んだライオンにつばをかけることでも、糞をなげつけることでもなく、このライオンが誰であったかを知ることだ>と。これは単なるスターリン批判なのではない。もっと大きな問題を見つめている。ロシアの運命のもとで、登場人物はみな人間として「等身大」なのだ。通常、映画の中では脇役とされる人々も、この映画の中ではむしろ主人公よりも強烈な個性を持ち得たのである。そのため登場人物の中で、主人公は脳外科医・クレンスキーだが、「主役」は一体誰なのか全くわからない。そのことが、映画をより一層複雑にもしている。
 しかし、理解が困難である反面、脳裏に強い印象を残すのは確かだ。本当に厄介な映画である。この映画が数年後、数十年後に評価されているかどうかはわからないが、「記憶に残る映画」になっていることだけは確かである。もっとも記憶に残ること自体、映画に対する最高の評価なのかもしれないが。単純化された映画に慣れてしまったわれわれにとっては、ストーリーや内容にではなく、映画そのものの「存在感」について考えさせられる作品であった。
 「フルスタリョフ」とは、スターリンのSPをしていた実在の人物とのことである。運転手を兼ねていたのであろうか。作品の中では彼の姿は一度も見えない。スターリンの別荘において、同じグルジア出身の側近・ベリヤはタイトルの言葉を発し、一つの時代が終焉、権力継承をめぐっては新たなカオスが始まろうとしていた。(愛知県立大学「おろしゃ会」第3代会長)
 
 


ロシア語をやっていてよかったこと

太田 裕子

(愛知県立大学文学部卒・現在金城学院大学大学院)


1.バイト先(塾)でロシア語のテスト勉強をしていたら、ちょっぴり人気ものになった。(教科書のデザインやロゴがカッコイイらしい)
2.家族や友人の中で、私だけが人工衛星「ミール」の名前の意味を知っている。(「世界」とか「平和」でしたよね?)
3.その気になれば「ミール」をロシア語で書くことができる。(たぶん)

要するに結局私のできることがその程度ということですが、今日(3/26)も北方領土の問題が……。いろいろ難しいですね。だからといってロシアをキライになるのは変だと思いますので、これからも懲りずに、たまにはロシア語のテキストを開いてみようかなどと考えています。
それではダスビダーニャ。


ロシア語について

勝野 香(愛知県立大学外国語学部スペイン学科2年)


初めてロシア語に触れてから一年が経とうとしている。だが私は未だ、この言語になじめていない。日本語や英語に比べ、ロシア語は極めて変化に富み、慣れるまでに相当の時間がかかる。だからこそ、他のものに比べて生命力にあふれて美しいとも言える。もちろん、それは文章や単語のみに止まらず、それらを構成する一文字ずつに、力強さや余韻の透明な響きが見られる。
この四月で、二年目に入るが、果たしてこの言語にどこまでついていくことが出来るだろうか。まあここまで来てしまったので続けて頑張ろうと思う。


父なる県大

幅 亮子(前愛知県立大学、現名古屋大学文学部1年)


 わたしとおろしゃ会との関係は県大のロシア語初級前期テストで   Я хочу читать «Идиот» Ф.М.Достевского по-русски.と書いたことから始まったようです。気がつくとおろしゃ会名簿にわたしの名があり、現在これを書くに至っています。しかし、ここで1つ誤解があるようなので訂正して県大を去ろうと思います。
 わたしは決してドストエフスキーが好きなわけではありません。さらに日本語訳の「罪と罰」すら読んだことがないのです。それにもかかわらず、授業で Я изучаю руский язык, потому что я люблю ( ). という問題の( )内を「幅さん、ドストエフスキーを入れてみなさい」と加藤先生に指名された時には、それこそラスコーリニコフのように(?)罪悪感を感じました。

 「罪と罰」を読まない理由はひとことでいえば「今さら」です。有名すぎて内容を知っている、「〇〇文庫 夏の名作100」にはいっているような「名作」を今さら読まなくても…という思いが強いためですが、これはただ長編を読む時間も集中力も体力もない自分への言い訳です。しかし読もうと思えばいつでも読める状態にあって読まないというのも、かえって貴重な経験かな、と…これも言い訳です。もっとも、文字を追うことのみが読書ではないとは思いますが。
 ドストエフスキーが好きではないというのは彼に限らず横光利一も川端康成も、好きなものよりも嫌いなものから得ることのほうが大きいというわたしの勝手な信念からです。つまり、好きだけど素直にそう言えないだけですね。

 誤解は解けたでしょうか。これで心置きなく県大を去ることが…いや心残りはあります。県大を去ること自体が心残りです。さまざまな人に祝福されての出発ですが、わたし自身は複雑な気持ちです。マイナスの感情しかありません。何のために大学をかわるのかと聞かれると自分でもよくわかりませんが、哲学を勉強したいという漠然とした気持ちはあります。
 すべてなるようになるでしょう。とりあえず名大ではおろしゃ会会員の勧誘をがんばります。


露亜経済調査叢書シリーズに見られるアジアロシア

 高山市図書館 奥山智靖(愛知県立大学スペイン学科卒)


 前回に引き続き、満鉄こと南満洲鐵道株式会社の著作物の中から(アジア)ロシアに関するものを紹介したい。
 南満洲鐵道株式会社庶務部調査課編纂のものに露亜経済調査叢書シリーズというのがある。今回はその中から満鉄の優秀な翻訳陣によるロシア人原著の翻訳ものを選び出した。
 勅命黒龍踏査隊(あるいは勅命黒龍探検隊)という名前を聞いたことがおありだろうか。これは1909年ロシア皇帝ニコライ2世の勅命により時の沿黒龍地方総督ゴンダッチの計画主宰したものである。その農業植民調査班長だったエス・ペ・シリケーイッチによる勅命黒龍踏査隊報告書第5編「沿黒龍地方に於ける農業の植民的価値」1911年露都出版 が調査課嘱託・内山彼得の手によって全訳され『露領極東の農業と植民問題』として1926年に出版されている。
 また同隊畜産業調査班ア・ヤ・レムベルトの調査による同隊報告書第7編第1巻「黒龍州畜産業調査資料」、同じく同班の農業技師であったカー・イ・チウカ・エフ報告による同隊報告書第7編第2巻「黒龍州の畜産業及飼料」もそれぞれ全訳されて『露領黒龍州の畜産業』上巻(第1巻:山下義雄)、下巻(第2巻:内山彼得・市川倫)として残っている。
 尚、内山彼得はソ連極東地方労働統計局編纂出版「極東における職業組合の組成」 1923年 チタ市発行 も全訳し、それは『露領極東における職業組合の組成』として残っている。
 他方、リャブリンスキー調査隊という名前はご存じだろうか。こちらはロシア帝政末期において富豪エフ・ペ・リャブリンスキーが主宰しロシア帝国地学協会の後援した有名なもので、「気象班」
「植物班」「動物班」「地質班」等から成り、各第一流の専門学者を網羅して行われたものである。
 これらの中で植物班報告書第1編が1912年に、同じ第2編が1914年に、気象班報告書第1編が1916年に出版されているが、その後はロシア革命の影響で日の目を見ていない。これらは全て調査課員・佐藤通男の手により全訳され『勘家加調査書』として1927年に出版された。
 また時代を遡ること日露戦争の影響か、ソ連食糧人民委員部の極東水産漁獲業管理局編纂出版「極東の漁業及毛皮資源」が1923年嘱託・高橋克巳の手によって『露領極東の漁業及毛皮資源』として出版された。
 これまで見てきたように、ことロシア関係資料だけ取り上げても露領沿海地方の自然と経済、例えば黒龍州の気候・土壌・植物から貨幣史、はたまた地誌・人種問題を扱ったものから、ロシアにおけるボリシェビズム発達史、土地法の研究、革命後の行政経済事情を書いたものまで露亜経済調査叢書シリーズは多種多様にわたっている。(京大図書館はそのうち89冊を所蔵している。満鉄著作物の所蔵に関しては東亜同文書院の流れを汲む愛知大学の蔵書が圧倒的に多いと思われる。)
 尚、あらかじめお断わりしておくが、私は戦前の植民地統治下で日本が行ったことを肯定しているつもりはない。あくまで純粋学問の境地から、歴史的反省とは別に、日本国内における当該地域研究者、及び海外の研究者に少しでも役に立てばという所存である。
 くしくも中国東北部(大連出身)の中国人留学生が同じ職場で働いていた。彼女曰く、「認めたくはないけど、日本人やそのやったことへの感情は別として、日本人の残したものは立派なものばかり
だ」と。この4月から、私事ながら、職場が京都から"小京都"高山へ、大学図書館から公共図書館へとその環境が大きく変化したことをご報告申し上げ、今回の締め括りとさせて頂く。


司馬遼太郎著『ロシアについて 北方の原形』
(文春文庫)を読む
                           
早稲田大学教育学部 宮 智範


 本書のあとがきに「自国の歴史をみるとき、狡猾という要素を見るときほどいやなものはない」という著者の記述がある。少なくとも本書の中では、この「狡猾」であるか否かが、著者の善悪を決める基準のように思われた。その判断基準によって、善とされたのはモンゴル人であり、悪とされたのはロシア人や中国人、つまり、モンゴル人をある時期において虐げた人々である。本書のテーマはあくまでも、シベリアを媒介とする日露関係からロシア像をとり出すことにある。しかし、見えてくるのは日露よりもロシアとモンゴルの関係、ロシア像よりもモンゴル像であった。そのモンゴル像にしても、ロシアや清朝に圧迫される衰退期のものがほとんどで、チンギス汗とその子孫たちの大帝国時代にはあまり頁数がとられていない。そうした衰退期だけの不完全なモンゴル像からは、領土拡張や経済政策のためにロシアに侵略されながらも、「公侯は、わしらブリヤートは最初から服属する気などありませんよ、と言い、外套にかくしもっていた長剣をひっこぬいて、なみいるコザックども斬りたおした」とか「勧告に対する返事として、コザックよ、余は生きては汝の手に落ちざるべし。と、言い送った」というように、命を惜しまずに敢然と抵抗する、実直な姿ばかりがみえてきた。著者はそのようなモンゴル人の姿を賞賛するとともに、国家的、経済的な目的のために、他民族を征服しようとするロシア人の狡猾さを浮かび上げようとする。また、日露外交に登場するレザノフに対して、著者は、「レザノフは、いやな野望をもつ、いやな男だった」とか「レザノフは、どの国にもいる、愛国を金儲けにする男だった」というように、嫌悪感を露骨にする。著者のレザノフに対する嫌悪は、レザノフが私利私欲のために政財を癒着させ、貿易に携わる人々を酷使したことから生じるのだろう。著者に従えば、レザノフは金儲けのために、宮廷を動かして日本に開国を要求した。しかし、レザノフは、日本に外交儀礼に反する態度をとられ、開国を拒否されても、怒りにまかせて日本を砲撃するようなことはしなかった。カラフトなどの日本施設に対して焼き打ちや掠奪を行ったとはいえ、宮廷を動かして日本を征服しようとはしなかった。他民族の国家を破壊するという、チンギス汗とその子孫たちのようなマネはしなかったのである。
 富と名声のために、モンゴル人を圧迫したロシアも、日本に開国を求めたレザノフも、たしかに悪であるかもしれない。それならば、チンギス汗とその子孫たちもまた、悪だろう。しかし、著者は、「人間というのは、ある歴史段階である条件群をあたえれば、いつでもチンギス汗の軍隊たりうる」として、チンギス汗の出現、それによる他民族への侵略を自然現象のようにとらえる。ロシア・レザノフとチンギス汗に対する著者のとらえ方に大差があるのは、前者の目的が打算的、狡猾にみえ、後者の方は歴史における遊牧民族の宿命、本能的なものにみえるからではなかろうか。軍事力だけを頼りに、騎馬軍団でユーラシア大陸を席巻するモンゴル人の姿は、著者には実直なものに映り、遙か昔の英雄物語のようで好ましくみえるのだろうか。それだからモンゴル人がロシア人や清朝に圧迫される姿を、実直な人間が狡猾な人間に虐げられるように記述し、チンギス汗以来の古き良き文化を保つ人々が、文明化した世界と人々に征服されるという、悲劇のような描き方をしたのではないか。辛亥革命のとき、モンゴル人たちが中国語の「革命(クオミン)」を「兵による掠奪」の意味だと思ったという話を紹介したのは、モンゴル人よりも著者自身の、文明的、打算的、狡猾なものに対する反発のような気がした。
 ロシアとモンゴルの関係をみたとき、私はモンゴル人がロシアの諸都市を破壊し、住民を皆殺しにした事実を英雄物語のように受け取ることはできない。著者のように両国を善悪二元論的にとらえるなら、私はロシアよりもモンゴルに、狡猾よりも実直な、本能的な侵略に悪を感じる。著者と私の判断が逆になるのは、生きた(る)時代の違いからであろう。著者は軍国主義の日本を経験し、国家権力によって日常生活まで統制され、兵士としても満州に配置された。自身が国家の抑圧をうけ、また、より近代化した国家が近代化に立ち遅れた国家を侵略するのを目の当たりにした著者には、文明的なもの対するアレルギーがあるのかもしれない。それゆえ、私利私欲のために他民族を脅かしたロシアやレザノフと、軍国主義の日本を狡猾という点で重ね合わせた結果、ロシアやレザノフを悪とするような記述になったと思われる。
 外蒙古の人々は、性の快楽を求めるラマ教によって、清朝に堕落させられ、征服された。これに対して、著者が清朝の狡猾なやり方を批判するのとは逆に、私にはモンゴル人が自ら招いた堕落としか思えない。清朝の狡猾さよりも、モンゴル人の本能的な行為を批判したくなる。後先のことを考えずに、今が楽しければ良いと思っているから、そうなるんだ、と考えてしまう。それは私が戦争を全く知らない世代で、現在を生きているからである。戦中の国家権力による抑圧を知らない私にとって、悪といえば、現在のテレビや新聞、さらには日常生活の中でも目にし、耳にする本能的、衝動的な行為だからである。
本能的な人間が横行し、公共性の崩壊した現在を生きていると、国家権力が国民をもっと締めつければいいのではないか、国家がもっと狡猾になればいいのではないか、という気さえ起こる。私は現在の日本の風潮と、チンギス汗以来のモンゴル人を本能的、衝動的という点で重ね合わせてしまう。著者は狡猾な国家が国民を抑圧する時代を生きたから、狡猾なものに反発し、狡猾でないもの、本能的なものに好感をもったのかもしれない。私は、公共性の欠如した、本能的な人間が幅を利かせる現在を生きているから、たとえ狡猾であれ、本能的でないものに肩入れしたくなる。著者と私が生きた(る)時代の違いが、善悪の判断基準、ロシアとモンゴルの関係のとらえ方にも相違をもたらしのだろう。


イリヤ・ズバルスキー/サミュエル・ハッチンソン共著
『レーニンをミイラにした男』
(文春文庫)を読む
                     
早稲田大学教育学部 南 祐三


 ソ連に対するイメージというのは、それまでただただ陰鬱で寒い世界、色で例えるならば霞がかった灰色のイメージであった。『レーニンをミイラにした男』というこの書は、題名からしてもこのイメージに合致していたし、ロシア(ソ連)のもつ不気味さをよく醸し出していると思う。
 ところが全編を読み終えて先ずもった感想は、必ずしもそうした灰色一色ではなかった。もっとどす黒いものだった。この書に記されている物語が現実のものであり、そして改めて国家の力ということを考えたとき、僕は本気で人間の心の奥の暗い部分に恐怖を覚え、自分の、とても家族や友人に軽々しく話せないような心の奥の"陰"の部分を再認識せざるを得なかった。
 著者の父や著者自身、またソ連の誇る高い技術をもった科学者達は、国家の要請を受け、レーニンの死体をミイラとして保存する。人間を国家の思惑で、政治的プロパガンダとして祭り上げるというこの行為は、よく考えてみればみる程気持ちの悪い行為である。レーニンは死して、ミイラとして保存される。保存処理を施され管理されていく過程で、レーニンはもはやレーニンではなくなっている。それは国家権力の道具でもあり、著者をはじめ何人かの科学者が生きていく上での道具でもあり、その後多くの権力者達がレーニンと同じ姿になることを望んだように、一人の人間の最終的な姿としての先例でもあったわけだ。僕はレーニンの本意を当然知らないのでこれは言い過ぎかもしれないが、人間の強欲さや科学における行き過ぎた倫理観のずれに首を傾げてしまう僕は、あえてこう言いたい、僕はレーニンに同情する。この書の物語の主人公を指摘するとすれば、それは著者でも著者の父でもない、レーニンである。僕は現代の安楽死や尊厳死、または妊娠中絶の問題にも通ずる人間の尊厳と科学の進歩というテーマがこの書の本質ではないかと思う。
 戦争という空気が人の道徳心や倫理観、常識といったものを狂わせてしまうのは、僕にもよくわかっている。何故ならそこにはもっと大きな大義名分が掲げられており、国家が国民を巻き込み人間のもつ心を煙に巻いてしまう為である。戦争によって奮い立たされた人間の残酷さは世界平和という人類のテーマの天敵であるが、このレーニンの遺体保存に垣間見える陰鬱さもその天敵ではないだろうか。僕は必要以上にこの遺体保存という行為に批判的であるが、僕が批判的なのは、この行為が人間の、具体的にはレーニンの尊厳を無視した行為であるからである。この保存によって潤った人も勿論いるし、科学の発展のため、国家の一致団結のために大いに意義のある行為なのは理解できる。しかし、その反面、この行為はレーニンを人と扱わず、彼の意志を無視し人の尊厳を傷つけていることは否めない。レーニンは自分の意志とは関係なくミイラにされ、国の勝利や醜い意地に目の眩んだ生きた人間によっていいように扱われたのだと思う。これは恐怖ではないか。
 科学やその他色々な方面の技術が発展している今日、その技術で助けられる人の数は莫大なものだ。進歩の速度が早まるのも無理はない。しかし、その科学の力を用いる時、人間は、人間が人間である理由を忘れがちである。人間は意識ある生き物であり、その意志意向、気持ちといったものを踏みにじってはならないと僕は強く思う。レーニンの本心がどうであったかは知ることが出来ないが、この物語で国家や科学者達がやったことは、やはり許されることではないと思う。例えそれが戦争中の狂気の時代の行為であったとしても、当然批判されるべきであろう。
 そして、もっと恐怖なのが、この書を読んでいる最中に湧き起こっていた僕の中の残酷さである。僕は人の死という現象に興味がある。戦争は人の死をもって自分の行動に理由づけをしていく行為であるから、その人間の心理という点において大変興味がある。また自殺という行為もその死によって自分を価値づける行動であるから興味がある。そんな僕はこの死体処理に携わっている著者らの仕事意欲やその物語そのものがとても「面白い」と思ってしまったのだ。僕の中の残酷な一面が触発されたのだ。彼等への批判と死への興味、その間で僕は自分の尊厳をもった人間としてのプライドと所詮はある灰色の国の陰の物語として書を楽しんでいる自分の安易さをもって考えさせられた。
 僕がこの書に記された現実を「物語」と書きつづけたのは、そうした僕のどこか他人事として読み物を楽しんでいる無責任さからである。
 そして全編を読み終えた今、僕は反省しながらこの書の中にある人間への警告を痛感している。人間は尊厳ある生き物である。過去何人もの人の命や力が、他者の道具として取り扱われてきた。それが歴史である。確かにそれは歴史である。しかし、その人間の陰の心に科学の力が更なる可能性を示した時、人間は自らを抑制する力を強く自覚しながら持つべきであろう。そうしなければ人間は人間でなくなってしますから。
 ソ連の内実は、勿論ソ連だけではなかっただろうが、思った以上にどす黒いものだった。戦時中のこうした現実はこれからを生きていく人々にとって多くの教訓を授けてくれる。そうした意味でもこの書は、読むに値する素晴らしい書であると思う。
 


教養人の伝統  ―― 追悼ヴォリャーク氏 
    
呉 智英(評論家)



 
 
加藤史朗君より、コンスタンチン・ヴォリャーク氏の訃報を聞いた。一九四五年生まれで、誕生日前だから、まだ五十五歳であった。苛烈な気候のせいだろうか、ロシヤ人男性の平均寿命は六十歳に満たないと聞いたこともあるが、それにしても早い死である。
 ヴォリャーク氏とは、モスクワで一九九七年早春に会った。早春といっても、モスクワである。どこも雪に埋もれ、私もヴォリャーク氏も、また紹介者である加藤君も冬装束であった。
 私は、ロシヤは二度目であった。その三年前、ハバロフスクとコムソモーリスク・ナ・アムーレへ旅行したことはあったが、首都モスクワは初めてだった。加藤君が旧知のロシヤ人学者を訪ねるというので、私も誘われて旅立ったのである。
 ヴォリャーク氏はロシヤ人としてはほっそりした身体で、ものごしもやわらかく、いかにも知識人らしい風貌の持ち主であった。モスクワのいくつかの寺院や公園を案内してもらい、彼の家に招待されて夕食をごちそうになった。
 食卓を囲んでの会話では、ヴォリャーク氏の話題の豊かさ、ひいてはロシヤの知識人の教養の奥深さに感心させられた。ヴォリャーク氏は、専攻が海洋物理学である。港湾設備に対する潮流の関係などを研究しているらしい。しかし、食後の紅茶を飲みながらの会話に、そんな話題は出ない。私も加藤君も、工学系の話にはついてゆけぬからだ。ヴォリャーク氏はチェホフについて語った。自分とチェホフ、ロシヤ文化とチェホフ。
 私のロシヤ語の語学力は、せいぜい町で道を聞く程度。間に立った加藤君も細かく通訳などしてくれない。ヴォリャーク氏のチェホフ論の詳細は、残念ながらよくわからなかった。しかし、言葉の端々に、表情や口調に、彼がチェホフを読み込み、自分のものとしている自信がうかがえた。
 ヴォリャーク氏の家を辞し、彼が呼んでくれたタクシーでホテルへ戻る途中、私はヴォリャーク氏の温顔を思い出しながら、こんなことを考えていた。日本の工学者で、外国人を相手に、自分の好きな小説家について、またその作家と日本文化の関連について、熱を込めて語れる人がどれだけいるだろうか。いささか心許なくはないか。昨今、日本の科学技術力の低下が不安気に語られることが多いが、その背景には、教養全体、文化全体が厚みを失いかけていることがあるのかもしれない・・・。
 混乱が続くロシヤでヴォリャーク氏のようなまっとうな教養人に出会えたことは、私に清々しい思い出を残してくれた。できれば来日の折、その思い出をもう一度確認したかったのに、それもかなわぬこととなった。
 たった一度の出会いながら、教養について、文化について考えさせてくれたヴォリャーク氏の冥福をお祈りしたい。


露訳(スヴェトラーナ・ミハイロワ訳)

Светлой памяти Константина Воляка

Традиция  Интеллигента

            Курэ Томофуса (публицист)



   Мне сообщил о смерти Константина Воляка г.Като Сиро.
1945 года рождения, ему еще не исполнилось пятидесяти шести.  Говорят о влиянии снижения продолжительности жизни мужчин до 60 лет такого фактора как жесткие климатические условия, однако даже при этом эта кончина выглядит преждевременной.
   Я познакомился с ним в Москве ранней весной 1997 года. Ранняя весна у меня ассоциируется с Москвой. Запорошенные снегом улицы и мы с Като-саном и Воляком в зимних нарядах.
   Это был мой второй приезд в Россию. До этого я был четыре года назад в Хабаровске и Комсомольске-на-Амуре, и в Москве был впервые. Като-сан сказал, что собирается навестить своего русского знакомого и пригласил меня поехать вместе.
   Воляк оказался высоким худощавым человеком, мягким в обращении, интеллигентной наружности. Он показал нам московские Храмы, провел
по паркам и угостил ужином у себя дома.
   За ужином мы много говорили,  он очень интересно рассказывал и чем далйше, тем более ощущалась его образованность и глубина. Его специальностью была физика моря и, кажется, он изучал влияние глубоких вод на портовое оборудование, однако после ужина за чаем он этой темы не касался. Ни я, ни Като не смогли бы поддержать разговора на эту тему, и Воляк говорил о Чехове, о себе и о Чехове, о русской культуре и Чехове.
   Моих познаний в русском языке может хватить самое большее на пругулку по городу. Стоявший между нами Като не переводил все подробно, поэтому я, к сожалению, не мог понять рассуждения Воляка о Чехове. Но по отдельным словам, по его выражению и интонации я почуствовал, что Чехова он хорошо знает и понимает.
   Мы вышли из его дома, он посадил нас в такси до гостиницы. По дороге, вспомнив его  теплое выражение лица, мне подумалось тогда следующее. Интересно, сколько в Японии найдется людей инженерной специальности, которые станут рассказывать иностранцу о  своем любимом писателе и о связи этого писателя с японской культурой, да еще с таким жаром. Вряд ли сыщется!  Сейчас многие будут говорить о беспокойстве в связи со снижением японской научной технологии или может быть о падении уровня образования  и культуры в целом в период плохой экономической ситуации…
   В продолжающейся неразберихе российских будней Воляк оставил у меня самые светлые воспоминания как цельная натура. Мне хотелось как нибудь пригласить его в Японию и уточнить кое-что еще, да вот не привелось…
   Один раз только у меня была с ним встреча, но эта встреча  перевернула мои представления о культуре, образовании. Я молюсь за упокой души твоей, мой милый друг Константин Воляк.

  (Перевела С.Михайлова)


《ヴォリャーク氏を悼む》

田辺三千広(名古屋明徳短大)


 県立大学の加藤史朗先生とはよく旅先で出くわし、そのたびにいろいろな事件に巻き込まれる。悲惨な事件に巻き込まれることも多いが、大概はゆかいな笑い話で終わることが多いのが私にとっては救いである。ヴォリャーク氏に紹介されたのは加藤さんからであったが、その出会いは、いつものパターンとは違って、ごく自然であった。
 1993年1月、友人家族が『1週間モスクワフリー旅行』に誘ってくれて、このツアーに参加した。ソ連邦崩壊直後であったこと、料金が安かったことなどから、加藤さんといっしょに参加した。今回は旅先で会ったのではなく、最初からいっしょに旅したことが今までとは異なる。いつものように事件に巻き込まれた。ロシア人の知人グーセヴァさんと三人で雪道を歩いていたとき、私ひとりがジプシーの集団に襲われた。雪道に倒されて、上からのしかかられているときに、ふと目を移すと少し離れているところに加藤さんがいた。見学しているだけで、助けようともしないその姿勢には、腹が立ったが、こちらはそれどころではなかった。押さえつけられて、気絶寸前というときに、グーセヴァさんが体当たりをして、その悪魔集団を追っ払ってくれた(グーセヴァさんは40歳ぐらいの大柄の女性)。たいした被害もなく、日本に帰ってこられた。(注1)
 この旅ではすばらしいこともたくさんあった。そのひとつが加藤さんの以前からの友人ヴォリャーク氏に紹介されたことであった。仕事帰りにホテルに迎えにきてくれ、タクシーで自宅に連れて行ってくれた。ソ連邦時代は旅行者がロシア人の自宅を訪問するのは難しかったと聞く。ソ連邦崩壊によって、ロシアも変わったと強く実感した瞬間でもあった。私にとってははじめての個人住宅の訪問となったことから興奮した。そのせいかヴォリャーク氏とその奥さんの歓迎には感激した。あいにく二人のお子さんは不在であったが、パナソニックも出てきて歓迎してくれた。ヴォリャーク氏は大の日本びいきとそのとき感じた。なぜなら、愛猫に松下電器の海外ブランド名、パナソニックとつけているぐらいだから。とにかく、ご夫婦は、心の広い、温かい方々で、教養も感じられた。加藤さんにだけでなく、初対面の私にも親切に気を使っていただいた。ここではその詳細を省くが、とにかく愉快な晩餐であった。(注2)

1993年1月 ヴォリャーク氏の旧宅で

 ヴォリャーク氏は、物理学者だという。(注3)詳しい専門は知らないが、彼は、多くのロシア人と同じく、自分の専門以外の分野でも造詣の深い人物だった。私は、宗教については知識が乏しいので参加できなかったが、彼と加藤先生は、仏教を中心とした宗教論議を戦わせていたことを思い出す。とくに東洋の思想や文化について大変興味を示された。夕食の席で、料理のことが話題になった。日本料理と中華料理のどちらが世界一かで意見が2対2に割れた(氏と加藤さんは日本料理、夫人と私が中華料理)。両派一歩も譲らず論戦したことを思い出す。夫妻は、このように東洋の文化に興味と深い造詣をもっておられたことを思い出す。

 ヴォリャーク氏からロシアの歴史についてもアドバイスを受けたことを思い出す。二度目にお会いしたとき、われわれを貴族の旧邸宅に案内してくれた。広大な庭を散策しながら、私は、キエフの洞窟修道院に行ってみたいという話をした。氏は、キエフの洞窟修道院も素晴らしいが、チェルニーゴフの洞窟修道院も一見の価値があると勧めてくれた。チェルニーゴフにも古い洞窟修道院があることは知らず、ロシア旅行の楽しみがまたひとつ増えたことになる。
 私は、ロシアのことを勉強しているにもかかわらず、ロシア人の知人が少ない。ただでさえ少ない上に、ヴォリャーク氏のような心温かい知り合いをなくし、モスクワへの旅の魅力が半減した。次回のモスクワ訪問は、奥さんにお悔やみを伝えることと氏の墓にお参りすることが中心になるだろう。氏のご冥福をお祈りいたします。До свидания !

【編集者注】
注1 この記述には事実の歪曲があります。加藤の証言「取り囲んだのは子供たちです。田邊氏は、空手チョップでそれを振り払っていました。  なかなかの見ものでありました。」
注2 田邊氏は、ワインのビンを片手にマイクに見立て津軽海峡冬景色を歌いました。3人で聞きほれました。深夜、彼の自宅を辞し、地下鉄の駅までヴォリャーク氏に送ってもらいました。雪の降りしきる夜でした。白樺林の中を通って地下鉄の駅に向う途中も皆で高歌放吟しました。ドゥビーヌシカの世界に酔いしれ、加藤は地下鉄車内で「静かにしろ」と乗客に怒られました。
注3 科学アカデミーの主任研究員で海洋の波動力学が専門でした。海外研究者との共同研究も担当していました。奥さんも同じアカデミーの研究者で学術雑誌の責任編集者です。

                



コンスタンチン・ヴォリャークとの出会い

安東 守仁(麻布中学・高等学校)


 1996年の夏休み、同僚(麻布学園)の加藤さんと結局2人でロシアに行くことになった。というのも、極度に治安の悪くなったロシアへいざ行くとなると、同僚達は尻込みをしてしまい、私も女房にいや味を言われながらも、その魅力には抗し切れずに、死亡時1億円の保険をかけて、行くことになったのであった。
 中学・高校の頃(文学が輝いていた頃)、本屋の文庫本の棚には、ロシア文学が大きな面積を占めており、大人になるまでには、このうちの大部分は読まなければならないものだった。なかでも、ドストエフスキーは、私にとっては、理解出来なければ、人間としての資格を得られないような気分があった。そういう思い出が、この年になっても強烈に残っていて、ソ連ではなく、ロシアへ死ぬまでに一度は行ってみたいという気持ちがロシア行きを決意させたのだろう。それに、ツアーではなく、専門家の加藤さんの案内で、ソ連では許可がおりなかった所まで行けるとあっては、である。
 成田空港を出発する時、乗客はみな機上しているのに、なかなか離陸しない。機内は冷房を入れていないのか、暑くなりいらいらしていると、突然、車が乗りつけられて、(どうもロシアの高官が来るのを待っていたらしい)ようやく出発する。まさに、ロシア的な出発であった(らしい)。
 行けども行けども、眼下にはシベリアの森林が続いている。時々、直線がその森林に線を引いたように走り、それが道路らしい。その直線の所々に家らしいものが、4、5軒あることもあり、大きな川沿いに船らしきものが見えることもあるのが、人間の気配をわずかに感じさせるばかりであった。一体、この広大な大地をロシアは、どうするつもりなのだろう。東へ東へと、線を結んでようやく極東へたどり着いたロシア人の意志は、毎年毎年の冬将軍の訪れの中で、耐えていた人々にとっては、ごくあたり前の行動であったのかもしれないと、そんなことを機内で考えていた。飛行機は、モスクワの近くで、ようやく森林と別れを告げた。
 モスクワの空港は、人、人、人で、びっくりする程活気に満ちており、何も知らない私は、はぐれたら大変と、加藤さんの尻について、加藤さんの日本人の友人にようやく出会う。社会の変革期には、どうも人間は生き生きするのではないか。それにしても、ロシア人は、でっかい。オリンピックの体操選手しか見たことのない私にとって、新鮮な印象であった。ホテルに向かう車の中で、留学中の加藤さんの仲間は、次々に注意しなければならないことを言う。いや、大変な時に来たと思う一方、楽観的な私は、面白そうだとその時思ったのも事実であった。日本の廃車のようなタクシーは、何故だかモスクワなのにウクライナ・ホテル(ただ大きいだけが取り柄)に着く。プロレスラーみたいな警備員(どうも軍人くずれらしい)達と、あやしげな女性がたむろしている。部屋はシングルで、頑丈な扉があるものの、必ずチェーンロックしてくれと恐ろしいことを言うが、こわれているのか、ロックはなかなか出来ない。外に出て、ホテルをバックに写真を撮ろうとするが、ホテルが大きすぎてうまく人間と釣り合わない。ホテルのすぐ近くの橋のあたりを、かつての政変の時に、戦車が通過し、群集が密集していて、テレビにも写ったとのことだった。何日か後に、モスクワに住みついている研究者の一人が、このホテルのすぐ後ろあたりに、チェチェンのマフィアが根城にしている所があるなどと言う。
 その日は9時頃まで太陽が沈まなかった。
 翌日、ホテルのカフェ(?)で朝食。余りやる気のない女の子2人(17才位か?)が、ウエイトレスであったが、膚の白さといいスタイルといい、黒の服(どういうわけか、黒か赤が若い女の子の服の色の定番で、それが、大変似合っている)の着こなしといい、センスがいい。
 モスクワは、ある日突然春がくるという。くすんだ、ただ丈夫に建てただけの建物の間から、こんな所にも木があったのかと思うように葉を茂らせて、所々に残っていた林も葉を一斉に茂らせ、石畳の線路の間からも草が芽ぶく。そして、冬の訪れとともに、又、灰色の建物の中に、多分雪と寒さで、ほんの少し前まで葉が茂っていたことも忘れるのであろう。そういう自然の営みと同じように、若い女の子達も突然目一杯の美しさを開花させ、中年になると一様に太ったおばさんになるという感じだ。確か、アンナ・カレーニナもただの太ったおばさんに変貌したのではなかったか。一方、毎年の冬の寒さに耐えるには、太ったおばさんになることが必要であるのかとも、女の子達を見ながら思ったりもする。
 この日から、ロシアでのあわただしい日々が始まった。モスクワ郊外の主な見学先は、加藤さんの知り合いのロシアに長期滞在の学者達の案内や同行で、道々新鮮で、驚きの連続であり、途中パスポート不携帯で内務省に連行されるおまけまでがついた。
 加藤さんのロシア最大の友人、コンスタンチン・ヴォリャークに私が初めて会ったのは、8月3日(土)のことで、古都ウラジーミルからの帰りが大幅に遅れて連絡のとれないまま、約束の時間を過ぎてしまっていた。その日、ヴォリャーク宅で私達二人は夕食をごちそうになる予定であった。ホテルに着いて、ようやく連絡がつき、彼は車で私達をむかえに来るという。面白いことに、加藤さんは顔を洗い、ひげをそり始める。何で今頃(夜10時)と言うと、会うと抱擁してキスをするので、失礼にならないようにだと答える。噴き出したいのをこらえて、お土産を用意し、ホテルの前で待っていると赤っぽい中古車めいた車から、ジーンズに青い縞模様の身軽な格好でヴォリャークがあらわれた。
 ロシア人にしては、小柄な方で、銀髪ではあるが、額は相当はげ上がっており、目つきはちょっと鋭く、私と同様、鼻の下にひげをたくわえていた。体はがっしりとしていて、ロシア科学アカデミーの教授で、波動力学の権威として国際的に活躍している学者には、一見、見えなかった。加藤さんとヴォリャークは、予定通り少し控えめに抱擁しキスをし、私とヴォリャークはぎこちなく握手をして挨拶し、車に乗った。車の中は、荷物が乱雑に散らばり、日本人みたいにきれいに扱わないようだ。それにしても、暫く前まで餓死者が何万人も出るかもしれないと言われていたことを考えると、外国製の、中古にしても車(150万円)を持っているなんて、随分とめぐまれている(あるいは・・いた)のだなあと、その時思ったが、後になって、幼い時からこの混乱期に至るまで、彼なりに懸命に生きてきた結果なのだとわかる。
 車はすぐに彼の25階建てのマンションに到着した。あたりには、建ったばかりのような建物が、むき出しの土の上に幾つも建てられており、新興のマンション街らしかった。言わば、改革で何等かの利益を得た人々にしか手に入れられないような住居で、それが実直な科学者の家として不釣り合いのように感じられた。彼の家は、100平米以上はあり、値段は1500万円とのことだった。ちなみに、彼の月給は4万円である。
 路上の駐車場に車を止め、家へ向かう時、盗難を心配してハンドルに鎖をからみつけてカギをかけるようにしていたそれまでの車と違って、随分と暢気に感じたので、後で聞くと、ここは安全だという。何故ならKGBの高官がすぐ下のマンションにいて、警戒が厳重だからと、その高官の住んでいるあたりを指でさしてニヤリとした。車は、もう一台奥さん用のがあるとのこと。
 新築マンションにしては、例のごとくエレヴェーターはがたごとと揺れるが、高速で17階に着く。エレヴェーターを降りると、鍵のかかった扉があり、その中は、二軒のフロアーしかなく、各人の玄関の入り口には鉄製のガッチリした錠が三つ位ついた扉が更にあった。ホテルのテレビで、銃を持った強盗が、中の人を撃ち殺して血しぶきが飛び散った部屋と、何と殺された人を何件も撮し出していたのを見たばかりの私は、なるほどと納得する。
 ヴォリャークの家族は、やはり科学アカデミーの物理学者の奥さんターニャ(出身はソ連のゴンチャールつまり焼物師の家とのこと)と、今年モスクワ大学の文学部に首席で合格した長女ヴェーラと高校2年生位の長男ペーチャ(北アイルランドのカトリックに興味を持ち、この分野では専門家顔負けらしい)の四人で、その他にヴォリャークお気に入りの日本の電気メーカーの名(パナソニック)をとったペルシア猫が一匹である。
 私達は、こぎれいに整頓されたリビングで家族と対面し、加藤さんは、久しぶりに会った子供たちに大きくなったと目を細めたり、近況を聞いたりしていた。そして、すぐにお土産だと言って、女の子には扇子を、男の子には時計を、奥さんには有田焼のお皿を、ヴォリャークにはダンヒルのタバコを渡した。子供達は、恥ずかしそうに受け取り、加藤さんの質問に多少答える位で、ヴォリャークが彼等の近況を私達に付け加えていた。私達は早速、集合写真を何枚か撮り、子供達はそれぞれの部屋へ消えていった。
 リビングにはソニーのテレビやCDが、ソファーから見られる位置に置いてあり、ソファーの後ろの壁一面に、収納棚とかざり棚があり、かざり棚には、マイセン陶器のカップやロシアの古い焼き物、その隣のかざり棚には、写真集その他の大き目の本や人形がおかれていた。大きな額縁に入ったかわいらしい小さな子供の肖像画が立てかけてあった。幼くして亡くなった長男だとのことだった。壁には、友人の画家の作品に交じってミィシャの絵が飾られていた。
 私達は、ジャガイモとキノコを混ぜたシンプルなあっさりした味の料理やチョーザメの肉などのおかずを食べながらとりとめもない話を次から次へとした。エフトシェンコの大邸宅の話、お互いの専門のこと、本棚においてあった日本の禅に関する本の話、さらにヴォリャークの興味のある日本の和歌や俳句の話、新年にはeメールで英語による短歌を加藤氏に送るという話にまで発展していった。
 ヴォリャークの奥さんも話題に加われるように、二人で行ったヨーロッパ旅行の話や、そこで少しずつ買った奥さんの趣味の陶器のこと、最近奥さんの編集した科学史の本まで持ち出して来て、私達に見せてくれた。ノーベル賞をもらった人を監修者にしたのは、夫のアイデアだと奥さんは言った。
 最後にデミタスコーヒーが出て来て、レモンとミルクが付けられていた。試しにレモンを入れて飲んでみたが、飲めないことはない。こういう飲み方もあるのだ。
ヴォリャークは、自分はvery poorであったので、一生懸命勉強したと、しみじみとして言った瞬間があり、その結果が現在なのだと妙に実感された。
 私達は、12時半頃、ヴォリャークの家を辞し、ホテルまで彼の車で送ってもらった。車を降りると、加藤さんとヴォリャークは、今度は本格的な抱擁とキスをして、帰国の日に再会を約して別れる。
 ホテルの部屋で一人になってから、今日一日のことが、様々に去来した。結婚指輪を右手薬指にしていたので、どうしてかと質問するとギリシア正教では、左ではなく、右にすると答えて、妻が死んだら左へ移すと言ってニヤッとして奥さんの方を向いたこと、加藤さんのために、彼の研究分野には大変貴重な古書を手に入れて、プレゼントしたこと、奥さんが I knowed と言ったとたんに、I knewだと直したこと等々、細部が次から次へと浮かんでくる。そして最後に、ヴォリャークは、日本の古典文学専攻の私のために随分と気を使って、話題を選んでいたのであり、また、加藤さんの友人だということで、私事にわたる色々なことを質問する私に、気を許して正直に答えてくれたのだと改めて気づく。その晩、夢の中までヴォリャークの英語が飛びかっていた。
8月8日、サンクト・ペテルブルグよりモスクワ経由で帰国の日、ヴォリャークは空港までむかえに来てくれ、半日彼と行動をともにした。空港から彼の家へむかう途中、買物をして、手料理のごちそうをしてくれる。子供はクリミヤへ旅行中、奥さんは別荘(ダーチャ)へ出かけていて、家には彼とパナソニックだけだった。私達はとりとめのない話をしながら、最後にお互い英語で俳句を作りあった。どういうわけかヴォリャークの句が一番秀逸だった。時間が迫ってくると、最大の友人加藤さんと別れるせいか、ヴォリャークは寂しそうな表情を見せるようになる。加藤さんは努めて明るくふるまっていた。空港までの途中、雀が丘とノヴォデーヴィチ修道院に寄る。ヴォリャークはローソクを買い、火をともし十字を切っていた。
 空港で車をおりて、荷物をおろしたところで、お別れを言うとI don’t want to say good-bye here.と言うので、私達は車を置いて又、来るのかと思い、入り口で待っていたが一向に姿が見えない。「お別れを言いたくない」という気の利いたことを言って、感傷的な別れをしたくなかったのだという結論に達して、それでも入場しながら、後ろを何度も振り返った。
 それが、ヴォリャークの姿の見納めになろうとは夢にも思わなかった。飛行機の中で、私達は、彼が日本に来たら、有給休暇を何日か取って二人で案内しようと決めていたのに……。
 ヴォリャークの突然の訃報を聞いて、断片的なロシアでの場面場面が頭の中に浮かんでは消えていった。
 少年時代の「very poor」な環境から「一生懸命勉強して」モスクワ大学に入り、波動力学の権威として、モスクワ大学教授からロシア科学アカデミーの研究者として登りつめ、同じ研究者仲間の奥さんを見初め結婚し、ロシアの変動期には、国際的な研究プロジェクトに参加して得た給与を自宅に、子供を私立の学校へ通わす教育費に注ぎ込み、さらに家族を守るために治安にも最大限気を配る、まさに「闘う家長」としての一生であったのが、彼の生涯と言えるかもしれない。そして、偶然ロシア(ソ連)を訪れたロシア研究者の加藤さんと飛行機で隣に座り合わせたことが、長い緊張の生涯に訪れた安らかな時間であったのではなかったか。ヴォリャークにとって、ロシアが死ぬほど好きな同年輩の率直な人柄は、今までの競争社会・共産主義体制の中では、決して見出せないものであっただろうし、加藤さんにとっても、ヴォリャークは探し求めていた良質のロシアそのものだったのであろう。
 加藤さんの友人というだけで、あれほど色々とお世話になり率直な話を聞かせてもらった、そのお礼をすることも出来ずに終わってしまったことを残念に思いながらも、心の中に色々なことを残してくれたヴォリャークに、改めて感謝を表したい。どうか、安らかに眠って下さい。
 

ヴォリャークと雀が丘にて(1996年8月8日)


6回遠足 伊豆戸田に日露交渉の跡をたどる

高木利佳(愛知県立大学スペイン学科 おろしゃ会副会長)


 3月3日(土)朝早くから静岡県戸田村へ行ってきた。企画の段階では、三つの選択肢があった。一つはドラマ『菜の花の沖』にちなんで淡路島の五色町を訪ねるというもので、二つ目は舞鶴の赤レンガ博物館の見学、三つ目は、大津に行き、大津事件の跡をたどるというものだった。会員にアンケートをとったところ、淡路島が一番であった。しかし、平岩君とスケジュールを練ったところ、日帰りでは淡路島は無理だろうということになった。そこで浮上したのが、伊豆の戸田であった。戸田は、下田における日露交渉に深い関わりをもつ場所だし、ディアナ号が津波で遭難したとき、戸田の人々が援助の手を差し伸べたことで有名だ。
名古屋駅に7時に集まって、「青春18切符」を利用し在来線を乗り継いで、片道4時間かけて行ってきた。参加者は8人。加藤先生、田辺先生、木下先生(今年度から県大に来た国際政治の先生)、ミハイロワ先生、サーシャ(サハリン出身の通訳)、平岩君、涼香ちゃん、わたし。田辺先生は「面倒くさいから」と新幹線で沼津から合流した。JR沼津駅からタクシーで港まで行き、そこからフェリーに乗った。乗客は少なくほとんど貸し切り状態だった。30分後に戸田港に着いた。お腹が空いたので、昼食を取ることになった。エビフライや刺し身を食べた。おいしかった。その後今回の遠足の目的である造船資料館へ向かって20分くらい歩いた。歩道のない狭い道路や海岸を歩いた。波静かな入江で、天気さえ良ければ海の向うに富士山が見えたはずだ。涼香ちゃんと波打ち際を歩いた。
資料館は小さかったが、館内には、プチャーチンの死後、娘のオリガが戸田村にお礼に来たことが、写真や寄贈品とともに、説明されていて印象に残った。館の外に展示してあるディアナ号の錨を見たり併設の深海生物館を見たりできて楽しかった。その後再びフェリーで沼津港に向かった。予定ではそのまま帰るはずだったが、帰る時間を遅らせて「丸天」という居酒屋で懇親会をすることになった。港にあるお店なので魚介類が新鮮でとても美味しかった。かき揚げや刺し身の盛り合わせにマグロの兜煮など、すごく豪華だった。あんなに幸せそうなミハイロワ先生の顔はみたことがない。それからまた来た時と同じように在来線を乗り継いで帰った。田辺先生は千葉に帰るらしく駅で別れた。電車の中でも加藤先生と木下先生は日本酒を飲んでいた。疲れたけれど楽しかった。


Михайлова Светлана

Фрегат  ДИАНА - ХЭДА


    Мы отправлялись в историческое место начала дружеского сближения русских и японцев - д.Хэда, что на западном побережье п-ва Идзу.
    Из Нагоя надо было проехать на север в префектуру Сидзуока и ранним утром 3 марта 2001 года мы сели на поезд, выгадывая в цене за счет скорости.  Полагая, что большую часть денег лучше потратить не на комфорт,  а на еду,  наши студенты из Аичи Кэнрицу Дайгаку затаивали дыхание в предвкушении морских вкусностей, которых не отведать в Нагоя.  Итак, наш поезд тронулся, как старый паровоз с длинным свистком, и за окном поплыли каменные массивы под вывесками с окончанием на "я": такасимая, мацудзакая, на смену которым выплыл блочный пейзаж без названий. По своему однообразию он наверное не сильно отличался от череды деревьев, кустов и полей за окном сибирского экспресса,но по плотности они разнились примерно как сковородка и новейший ай-би-эм. Хотя, если за точку отсчета принять, скажем, колорит станций сибирских полустанков, заполненных бабушками с капустой, картошечкой, горяченькими пирожочками и всякими другими снадобьями, то конечно  станция Хамамацу, и зеленая чайная Сидзуока  будут потеснены.
  Наш японский "супер-экспресс" часа через два с половиной приблизился к Нумадзу, откуда нам предстоял морской войяж на фэри, который уже поджидал нас, плавно раскачиваясь на причале. Чайки летали молча,  ветра не было, силуэт Фудзи не просматривался. Природа никак не выражала своего отношения к нашему появлению в этих местах, хотя Нумадзу без ветра, срывающего все, что имеет непрочную основу, явление здесь нечастое. Лучшим истолкованием тихого спокойствия могло быть, пожалуй, мягкое приглашение к знакомству с теми событиями, которые развернули Японию и Россию после взаимного недоверия и непонимания друг к другу.
   Тогда в середине 19 века Россия заботилась о своих дальневосточных рубежах в связи с английским притязанием на  Китай и угрозой европейского и американского проникновения на Амур и Сахалин.  Известно, что в 1848 г. губернатор Восточной Сибири предупреждал Николая 1, что от владения устьем Амура зависит будущее Сибири. В связи с конфликтом с Османской империей и назревавшей Крымской войной Россия была подавлена осложнением отношений с Европой. Она искала понимания на дальних рубежах. После установления судоходности Амура и возможности захода в устье морских судов,  был заложен город Николаевск.  Тогда же экспедиция Невельского сделала открытие, что Сахалин является островом.
   Однако, в отношении Японии любые попытки ведения диалога, наталкивались на стену отчуждения. Прибытие в сентябре 1804 г. в Нагасаки посольства Н.Резанова о отказ вступить с ним в переговоры Япония мотивировала "древнейшим законом и отсутствием необходимости торговать с иностранцами". Даже, предположив, что русские имели представление, скажем, о структуре японского сада и догадывались о большой смысловой нагрузке его обязательного элемента камня, следующая русская миссия Путятина, тоже грозила окончится неуспехом. Тяжелое впечатление вынес от переговоров в Нагасаки 1853-54 гг. писатель И.Гончаров. Однако из истории известно, что 25 января 1855 г. напутствие русского министра К.Ниссельроде адмиралу Путятину все-таки было выполнено и первый русско-японский договор был подписан.
   Мы шли берегом бухты Хэда. Тихо. Полдень. Между двух катеров закинул удочку рыбак в окружении вежливо соблюдающих расстояние кошек. В тот день бухта Хэда напоминала идеал умиротворения и спокойствия. Зеркальная гладь моря приняла недвижимую форму блюда на котором плавно, без сутолоки разместилось большое количество всевозможных кораблей от крохотных миниатюрных катеров до длинных узконосых флотилий. Все они наслаждались покоем, как это можно делать зная, что такое бывает не часто. И только тот, кто имеет понятие о судоходстве, сразу может взять в толк,что бухта эта не простая,что раз она принимает такие корабли, то глубину имеет достаточную, и что ее кажущаяся невеликость и затишенность это только на первый взгляд, и что в ней сокрыта такая энергия, такая сила страсти, которая подстать всему океану, потому что враз она может перевернуть всю эту благодать и представить вам мир, лишенный всяких форм в его естестве. Повидавший виды во время кругосветного плавания И.Гончаров растолковывает русскому читателю, что ураган -  "это такой ветер, который большие военные суда, купеческие корабли, пароходы, лодки и все, что попадется на море, иногда и самое море кидает на берег, а крыши, стены домов, деревья, людей и все, что попадется на берегу, иногда и самый берег кидает в море"*.

   Не имевшая опыта "Диана" оказалась в смятении  и ей неоткуда было ждать помощи в эпицентре морской стихии…Да, но как случилось, что она попала сюда, ведь ее не было среди видавших виды четырех красавцев: "Востока", "Оливуца", "Князя Меньшикова" и королевы "Паллады", которые  в конце 1852 г. отправились из Петербургского Кронштадта к русским берегам Аляски.  Во главе с "морским волком" Е.Путятиным,  гордо шла "Паллада". Список желающих вкусить прелесть кругосветного плавания был насыщен знаменитостями. В составе делегации находились командир русского флота И.Унковский, первооткрыватель Антарктиды М.Лазарев, участник экспедиции Г.Невельского А.Халезов, академик К.Посьет, востоковед-китаист Д.Честной, а в качестве секретаря ? от которого требовалось по тогдашним правилам мастерское владение пером, никто иной, как автор Обыкновенной истории писатель Иван Гончаров, который, между прочим, во время всего плавания обдумывал свои знаменитый роман "Обломов" и писал дневник всего плавания. Так например, в предисловии к изданию "Фрегата Паллада" автор писал следующим образом:" история плавания самого корабля, этого маленького русского мира с четырьмястами обитателей, носившегося два года по океанам, своеобразная жизнь плавателей, черты морского быта ? все это само по себе способно удерживать симпатии читателей".
Как же мы теперь должны быть благодарны ему за его драгоценные сведения о деталях этого путешествия, особенно в части описания первых сношений с японцами в главах " Русские в Японии".

   Мы шли по берегу залива к месту, где после землетрясения, цунами и тайфуна с эпицентром в Симода 11 декабря 1854 г были спасены застигнутые в море русские.
Сюда в бухту Хэда из последних сил притащилась бедная едва уцелевшая
  "Диана", которая избрала эту тихую гавань своим последним нестом пребывания на этом свете.
Как появилась здесь Диана, ведь речь велась только о четырех кораблях и упоминания о ней не было. Проф. Вада Харуки,а также Кидзаки Рехэй сообщают, что "Дианой" заменили "Палладу". Пока эскадра курсировала то в Шанхай, то в Манилу, то в Нагасаки в поисках достоверной информации о событиях начавшейся Крымской войны против России Турции, Англии и Франции," Паллада" совсем обветшала и ее пришлось заменить в июне 1854 г. на "Диану". Но,увы, ее плавание оказалось не продолжительным
Однако, у нее оказалась более романтическая история,потому что она была взята за образец судостроения и здесь в Хэда произошло возрождение "Дианы". Она получила второе рождение именно здесьна японской земле и дали ей новую жизнь именно японцы, которые так сопротивлялись русскому "вторжению". Парадокс истории,имеющий глубокий смысл. Для этой естественний встречи людей двух стран
  не нужны были стулья, на отсутствие которых так сетовал Гончаров в Нагасаки, что даже не хотел сходить на берег. Но все-таки он был прав, когда говорил, что "бури, бешеные страсти не норма природы и жизни, а только переходный момент, беспорядок и зло, момент творчества, черная работа ? для выделки спокойствия и счастья в лаборатории природы" (с.129)
 

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* И.Гончаров.Фрегат Паллада,СС, 1972,т.2,с.311
* Там же , с.144-145
 


エクスクールシヤの感想 (ロシア語原文略)                     
      アレクサンドル・セヴェリューヒン                          
(平岩 貴比古訳)



 
 
先日、私は「おろしゃ会」会員のみなさんの親切なお誘いのおかげで、戸田村へ遠足に出かける機会を得ました。戸田は、静岡県にある戸田湾の、絵のように美しい海岸に面した場所にあります。
 私たちはまず、静岡県でたくさん栽培されている緑茶畑の素晴らしい景色を満喫しながら、列車で東海道本線を行きました。この日、私は初めてあの有名な富士山を車窓から目にしました。あいにくの曇り空のため、世界的に知られている富士山の裾野とぼんやりとした輪郭しか見えませんでしたが、そのスケールの大きさは十分に想像できました。
 二度の乗り換えの後、沼津市に到着、そこで沼津と私たちの目的地・戸田を定期便で結んでいるフェリーボートに乗船しました。むしろ遊覧船と呼んだほうが相応しく、甲板で過ごした30分間は、自分の心の中に本当に忘れられない思い出を残してくれました。風景は、フィルムを惜しまず、次々と写真を撮ってしまいたいほど美しいものでした。もし手元に24コマ撮りのカメラではなく、240コマくらいあったら、私はこの美しさを刻み込むために、少しもためらうことなくフィルムを使うことができたでしょう。
 戸田の入り江の絵画的な光景は、多大な印象を与えてくれました。私が海岸に立ち風景に見とれている間、次のような面白い感覚が頭から離れませんでした。数百人のロシア人が3年間過ごしたこの場所に、現在の私がいる。300年以上前、彼らも私と同じようにこの海岸線を歩き、もしかすると同じ場所で、今私が眺めているこの入り江を見ていたのかもしれない。海岸で波のうねりを見ながら遠い祖国を思い出していたであろう船員たちのロシア語が、今にも聞こえてくる気がしました。
 昼食を終えて私たちは、フリゲート船「ディアナ」号およびプチャーチン提督派遣団の歴史について展示がある「造船郷土資料博物館」へ向かいました。博物館を見学して、私の持っていた日露交渉史の知識はいっそう深まりました。なぜなら歴史の中に、私が以前には全く知らなかった側面があったからです。
 この記憶に残る一日を締めくくるのは、それほど大きくはないけれども大変感じのよい、伝統的なスタイルの日本料理店での、まさに「殿様の夕食」といった会食でした。ロシアの漁業における「首都」サハリンで育ち、普段から魚三昧で、自分では魚にうるさいつもりの私でさえ、この夕食にはものすごい印象を受けました。次から次へと、どんどん美味しい料理が信じられない速さで出てくるので、座を立って帰路につくチャンスなどありませんでした。
 この遠足には、一日の見学旅行に詰め込むことのできる、全ての要素が含まれていたといえます。一日にして、旅人の心が夢想し得る全てのもの――海、山、砂浜、息をのむような自然、気の合った身近な人との交流、たくさんの新しい発見など――があったのです。特に自然は、サハリンで生まれ育った私にとって大きな意味があります。しかし最も大切なことは、共通の熱意と関心を持つ新しい友人ができたことです。
 そのような意味で、この遠足は、私の人生におけるこの半年間(すなわち私の日本滞在期間)のうちの、最も思い出に残る出来事の一つになりました。
 最後に、見学旅行の企画の中で私を参加させてくださった方、また私を温かく迎えてくださった全ての参加者の方々に、感謝の意を表したいと思います。このような遠足が良い慣行となり、一度ならず再び私たちが一緒に、今回のような楽しい旅へ出かけることができることを期待してやみません。本当にありがとうございました。

遠足でのショット

 国の大きさほどには違わない

 

両手に花のサーシャ

 

デッキにて

 

ディアナ号の錨の前で

 

丸天で刺身に喜ぶサーシャ
 
 


トゥバにおける仏教(後編)
   井生 明(いおう あきら 早稲田大学卒業生)


4章 トゥバとチベット亡命政府

希望

1992年9月19日午前9時。小さなジェット機がトゥバの首都キジルの空港に降り立った。その飛行機から笑みをたたえて出て来たのはチベット亡命政府の長、ダライ=ラマ14世であった。彼はソ連邦の崩壊により宗教の自由を獲得し、共産主義政権の下で失われた自らの宗教・文化を取り戻そうとするトゥバ人民・政府の要望により、歴代のダライ=ラマの中では初めてトゥバの地を踏んだのであった。人々は彼を暖かく迎え、空港ではオールジャークトゥバ共和国大統領から歓迎の辞が述べられた。ダライ=ラマのトゥバでの滞在はわずか3日であった。しかし、たとえ短い期間であったとしても彼の訪問はトゥバの仏教徒にとって非常に大きな意義を持っていたと言える。何故ならば、共産主義の下での粛清があまりにも激しかったため、宗教の自由が許されたにも関わらず、もはやトゥバは自らの国の中では仏教に関する催事や祈祷・儀礼を行う僧を養成することができないぐらいになっていたからである。そんな折のチベット仏教の長ダライ=ラマ14世の来訪はトゥバの人々にチベットを始めとするチベット仏教圏の国々とのつながりを感じさせ、トゥバ人の祖先はチベット仏教を信仰していたという事を思い出させ、トゥバの人々から孤立感を取り払ったのである。私のトゥバ滞在期間で話をした人のほとんどは、トゥバ人にとってダライ=ラマの訪問は大きな意味を持っていた、トゥバ人に希望を与えたと言っていた。第1章に出てきたチャダンのマイドゥルでも、その入口の壁には張り紙がしてあり、「ダライ=ラマの写真はここで買えます。希望者は僧まで。7000ルーブル」と書かれていた。さらに、1995年には「トゥバでの3日間」というダライ=ラマのトゥバでの発言を集めたロシア語の小冊子と「ダライ=ラマのトゥバへの訪問」というトゥバ語、ロシア語、英語による本が発行されている。

トゥバでのダライ=ラマの活動

1992年9月19日。空港での歓迎を受けた後ダライ=ラマはキジルの中心部にある中央広場で、ダライ=ラマの姿を一目見ようと押し寄せたトゥバ人の前に姿を現した。広場の横にある国立劇場の階段を降りて玉座に座る途中でさえも、彼は近付いてくる子供や大人達に対して祝福をした。そこで再びオールジャーク大統領から歓迎の辞が述べられ、その後新たに制定されたばかりのトゥバの国旗に対しての祝福の儀礼を執り行った。その際にダライ=ラマは「・・・何十年にもわたってチベットとトゥバのつながりは断ち切られていましたが、あなたがたがの心の奥深くにおいてまでチベットの人々や文化と隔絶していたわけではありません。あなたがたが自由を獲得した今、私達はそのつながりを回復し強めることができるのです・・・」と述べている。その後ダライ=ラマはトゥバの民族舞踊とホーメイを鑑賞した後、ユルタを訪ね、そこでトゥバ茶のもてなしを受け夕食をとった。
 9月20日。ダライ=ラマはキジルの中央広場でチベット仏教に関するレクチャーを行い、希望者全員に灌頂(註)を与えた。
 9月21日。ダライ=ラマはヘリコプターにてキジルとチャダンのほぼ中間にあるシャゴナールという街近郊のハイラカンという村に寄り住民と会話を交わしマントラを誦んだ。その後、ごく普通の家の中に作られたドゥガンにて仏壇に祝福をした。その時に彼は並べてある経典に目を向け、ふとそれらの経典が共産主義時代にどのように保存されてきたのかということに興味を持ち、本を適当にめくってみた。彼は古いにも関わらず非常に保存状態の良い「金剛経」の写本を見つけ、喜びと驚きの入り混じった感嘆の声をあげた。彼はすぐにそれを雄弁かつリズミカルに誦み上げた。その後彼はチャダンの上級寺院跡を訪れ、そこでも人々に迎えられた。そこで彼はたまたま一人の男が「金剛経」のまた別の写本を携えているのを見たのであった。後に彼は仏教においては縁起というものはそんなに重要では無いが、2回も「金剛経」を見たということは、トゥバでの滞在において幸先の良いものであったと述べたという。
 9月22日。滞在最終日であるこの日は記者会見が開かれた。彼はそこで「トゥバへの初めての訪問は忘れ得ないものであり、至高の感情を呼び起こした。」と述べている。彼は再びトゥバを訪れたい旨を表し、トゥバの人々に並々ならぬ運命にあるチベット人のために祈ってくれるようにもお願いした。その後ダライ=ラマはエニセイ川右岸にある、建設中の寺院を訪れ、祝福をあげてその寺院の名前をつけた。その後上議院院長であるビチェルディが自らの家にダライ=ラマを招待し、そこでトゥバ政府とチベット亡命政府との間における協定に調印した。その協定は1993年から1995年の間にトゥバの地で後進の僧を育てるために、チベット語、チベット医学、チベット仏教を教える事ができる経験豊かな僧を3人トゥバに派遣するという事と15人のトゥバ人僧がインドのダライ=ラマの下で、チベット仏教を研究するという事であった。さらにダライ=ラマはトゥバでの新しい寺院建設のために1500ドルを寄付した。

チベット略歴

チベットで有名なダライ=ラマとパンチェン=ラマの二大転生活仏はいずれもツォンカパの弟子の生まれ代わりとされている。17世紀中頃、ダライ=ラマ法王をチベット全土の政治・宗教両面に渡る最高指導者とする体制が確立され、古代王国が崩壊してから久しく分裂状態にあったチベットは、宗教国家の装いも新たに再統一を果たしたのであった。それと前後して、チベット仏教は、モンゴル、満州、そして北京にまで広められ、アジア大陸随一の国際宗教に成長した。仏教を精神的な基盤に、広範な地域の間で文化交流が進み、チベットはその一大中心地として繁栄を極めた。
しかし、第2次世界大戦の後、チベットの状況はにわかに暗転した。隣の中国では、共産党の人民解放軍が内戦に勝利し、その余勢を駆って中国はチベットを侵略した。ダライ=ラマ14世法王は事態を平和的に解決しようと懸命の努力を重ねたものの、圧倒的な軍事力を背景とする中国側の強硬姿勢の前に、全ては空しい結果に終わった。そして1959年、流血の事態の拡大を防ぐために、ダライ=ラマ法王は国外亡命を余儀なくされ、ヒマラヤを越えてインドへ向かった。
その結果、チベットの正統な政府は崩壊し、チベット全土は中国によって不法に占領支配されてしまい、この状況は今日まで続いている。当初の侵略、及びその後の「文化大革命」などを通じて約120万人のチベット人が命を落とし、約6000カ所の寺院が破壊された。仏教は、共産主義に反するものとして徹底的な弾圧を受けた。
 「改革・開放」路線に転じた中国は、こうした弾圧を全て「文化大革命」や「四人組」の責任とし、現在のチベットでは信教の自由が認められているかの如く主張している。現在、チベット本土では、観光資源となる寺院が一部だけ修復され、細々と宗教活動を許されているにすぎない。僧侶や尼僧に対する思想的な締め付けは、最近になって再び極端に強化され、仏教の学修や修行をまともに行える状況ではない。ダライ=ラマ法王を支持したり、その肖像を拝むことは、公私の区別なく厳禁されている。チベットの独立や宗教活動の自由などを求めてデモを行えば必ず投獄され、生死に関わる残虐な拷問を受けなければならない。
中国当局は、大量の中国人(漢民族)をチベット本土へ流入させ、それによって人口の上でチベット人を凌駕し、中国に同化しないと生活してゆけない状況を作り出している。そうした逆境下でも、チベット人達は仏教を精神的な支柱として民族のアイデンティティーを守り抜き、中国の過酷な植民地支配を忍んでいる。最近は、国際社会もチベット問題に注目するようになり、チベット本土における人権状況の改善、宗教活動の自由、ダライ=ラマ法王との交渉を通じた平和的な問題解決などを、中国政府に強く求めている。

チベット亡命政府

1959年、ダライ=ラマ法王がインドへ亡命すると、約10万人のチベット人がその後に続いた。これは、仏教を始めとする純粋なチベット文化を自由の地で守り伝え、他日を期そうという悲願を込めた逃避行であるとも言える。法王はインド北部ヒマチャル・プラデシュ州のダラムサラに仮宮殿を置き、チベット亡命政権を樹立した。また、インド南部カルナタカ州の数箇所で大規模なチベット人難民入植地が開かれ、1970年代になってから、その中にガンデン寺、セラ寺、デプン寺というチベット仏教の3大僧院が再建された。こうして、チベット仏教の本流は、インドの亡命チベット人社会で受け継がれたのであった。
今やインドの亡命チベット人社会は、チベット仏教という人類の貴重な財産を守るため、最後の砦の役割を果たしている。今日、チベットの宗教や文化の本流は、中国が支配しているチベット本土よりも、むしろインドの亡命人社会にあるといっても過言ではない。
チベット政府は、近代的な民主主義の原理を採用し、亡命先の地に再興された。亡命政権は、亡命チベット人に関するあらゆる事務を管掌している。例えば、難民の定住促進と亡命社会の復興、チベット文化の保護と発展、難民子弟の教育などである。そして、祖国の自由を取り戻す運動を、その先頭に立って推進している。チベット人達はチベット本土に残っている人々も国外へ亡命した人々も全て、亡命政府こそ唯一の正当なチベットの政府であると考えている。
亡命チベット人社会に基盤をおく亡命政権には、内閣(カシャク)とチベット国民代議員大会があり、後者は民主的な手続きを経て選出された議会である。チベット亡命政府には、宗教・文化省、内務省、文部省、公安省、情報・国際関係省、財務省、厚生省の7省庁が置かれている。また内閣の下に、会計検査委員会、人事委員会、難民受入委員会、計画委員会事務局の4外局が置かれている。
チベット亡命政権は、インド政府をはじめ、様々な国際的支援団体の多大なる援助を得て、チベット人難民の定住促進と亡命社会の復興に成功した。インドやネパールに、14箇所の大農業センター、8箇所の農業センター、21箇所の農工業開拓地、10箇所の手工芸センターなどを設立し、亡命チベット人の生活基盤を確立した。
また、インド、ネパール、ブータンに83校のチベット人学校を創立した。現在これらのチベット人学校には、約23000人の児童・生徒が在籍している。
さらに117箇所以上の僧院を、亡命先の各地に再建した。チベット本土では、中国人移住者の際限なき流入と、古来のチベット文化に対する組織的な破壊が今なお続いており、チベットの遺産と文化は、まさに消滅の危機に瀕している。亡命先における寺院の再建は、そのようなチベットの文化を守り伝えるのに、大きな役割を果たしている。

亡命政府からの使節

 1992年のダライ=ラマのトゥバ訪問の際にチベット亡命政府とトゥバ上院議長ビチェルディとの間で協定が調印されたにも関わらず、1997年現在一人の僧もトゥバへ派遣されていない。1996年に5人のトゥバ人の僧がインドに派遣されているが、それは公式なもの、つまりこの協定にのっとったものでなく、民間からのスポンサーの出資によるものである。いかなる理由によるものかは私は知ることができなかったのだが、先の協定では亡命政府からのチベット人僧の派遣だけが実現しているのである。彼らは現在キジル、サマガルタイのフレーにて後進の僧を育てている。私がキジルにいた8月の半ばにはちょうどチベット亡命政府からの代表団がキジルを訪れていた。彼ら1992年の協定に沿っての留学生の受け入についての話し合いや、現在のトゥバでの仏教の復興状況等を視察に来ていたのだった。その事に関しては私は全く知らなかったのであるが、偶然キジルの仏具を売るキオスクで買い物をし、そこの売り子のおばさんと話をしたところ、今エニセイ川右岸のフレーにインドからの使節が来ているという事を聞かされた。その時はその使節が亡命政府からの使節だとは何故か気づかなかったのだが、とにかく面白そうだったのでタクシーをつかまえてそのフレーに向かったのであった。
 キジルの中心地から車で15分程の距離にあるその右岸のフレーに着いた頃にはもうすでに、トゥバ人の僧とチベット亡命政府との間で公開の意見交換が行われていた。トゥバ人の僧が5人、亡命政府は2人の僧を含む計7人がその席に臨んでいた。私は遅れて行ったため、話の全容を聞くことはできなかったが、その場にいたテンジン・ツルティムの話によると、先の協定による協力をいかに進めて行くか?という事に論点を絞った意見交換だったそうである。私がそこに行ってしばらくするとその意見交換は終わり、その後亡命政府の高僧がその場にいた人達に祝福を与えた。その祝福の列には参加したトゥバ人のほとんどが並んだ。私は終わってもその列には並ばずに内部の写真を撮っていたのだが亡命政府からの若い僧に促されて、私も祝福してもらい赤い糸を右手首に巻き付けてもらった。ほとんどの人が帰った後も、ある若いトゥバ人の僧が独り中央に据えられたダライ=ラマの写真に向かって五体当地の礼を行っていたのが印象的だった。

入植地

 亡命政府との協定ではなく、民間のスポンサーにより派遣されたトゥバ人の僧は南インドのカルナタカ州ムンゴットのチベット人植民地にあるデプン寺ゴマン学堂に派遣されている。中国の支配下にあるチベット本土から国外へ逃れた難民の数は2世や3世を含め、現在世界中でおよそ14万人ほどいる。その大半の13万人がインドをはじめとする南アジアに住み、その内の4割程度の人が南インド、西インド、東インドに開かれた大規模な入植地に居住している。その中でも特に、カルナタカ州には、数千人規模の大きな入植地が4つあり、合計で約3万5千人強の人口を擁している。南インドの入植地は気候風土や生活環境の面で、チベット本土とは似ても似つかぬ場所ではある。しかし、広大な土地に大勢の人が集まって暮らし、チベット人だけのコミュニティを形成できるという利点は大きい。これは祖国から遠く離れた難民達が民族のアイデンティティーや独自の文化を守り伝えてゆくためには、極めて重要なポイントである。これは先の「チベット亡命政府」の節でも述べたことであるが、南インドの入植地には、チベット仏教の3大僧院であるガンデン寺、デプン寺、セラ寺が再建され、合計約8000人の僧侶が学習と修行に励んでいるのである。今日のチベット仏教を語るとき、南インドの3大僧院は、絶対に欠かせない存在である。南インドの入植地は、亡命チベット人社会の中でダラムサラに次ぐ重要な地位を占め、特に宗教面では中枢的な役割を果たしているといってもよいのである。

デプン寺ゴマン学堂

 本来のデプン寺は、ツォンカパ大師の弟子ジャムヤン・チュージェによって、1416年に建立された。ラサ市の西郊に位置し、山裾の斜面に堂塔伽藍が広がっている。最盛期には7学堂が軒を競っていたという。僧侶の数は公称7千7百人だが、実数は一万人にも達しており、チベットで最大規模の僧院であった。それぞれの時代に、ゲルク派を代表する顔ぶれの学僧たちが輩出し、思想哲学の面でチベット仏教界をリードし続けてきた。
 亡命先のインドで南部のムンゴットの地に再建されたデプン寺には合計約2千2百人の僧侶が所属している。ロセルリンとゴマンの2学堂が再興され、前者は25学寮で約1800人、後者は16学寮で約千人である。モンゴル人やトゥバを含むブリヤート、カルムィク等のモンゴル系の留学生の多くはこのゴマン学堂で勉強、修行をしている。第2章で述べたアグヴァン・ドルジーエフが学修し、ダライ=ラマ14世が最初に仏教の勉強をしたのもこの学堂である。チベットとモンゴルとの結び付きはサキャ・パンディータやその甥のパクパに始まり、大変深いものがある。トゥバとブリヤートは歴史的にモンゴルとの結び付きが強く、その影響を強く受けてチベット仏教を受容している。カルムィクの地にはモンゴルがヨーロッパに遠征した時の、末裔が住んでおり、伝統的にもチベット仏教圏であった。
 しかし、今世紀に入ってこれらの地域はいずれも共産主義の影響下に置かれ、激しい粛清によりチベット仏教はほぼ壊滅状態に陥った。しかし、ソ連邦の崩壊とモンゴルの自由化によって、現在これらの国々ではチベット仏教復興の動きが目覚ましい。長い間抑圧されていた人々の信仰心は一気に燃え上がり、出家を志す若者も増えている。しかし、それら全ての国々に共通しているのは、共産主義時代にチベット仏教の正しい教えの流れが途絶えてしまっており、信者の教化や若い僧の教育もおぼつかない現状であるという。そのため各国はダライ=ラマ14世の自国訪問を機に、チベット亡命政府・亡命チベット人社会との間における文化交流を活発にし、自国のチベット仏教を復興させようと考えているのである。その結果、チベット亡命政府からそれらの国々への僧の派遣とインド南部の入植地での留学生の受け入れが始まったのであった。伝統的にモンゴルとの結び付きが強かったゴマン学堂が、その留学生引き受けの中心となっており1997年現在ではモンゴルから12人、ブリヤートから30人、カルムィクから10人、そしてトゥバから5人の僧侶が訪れ、チベット人に混じって学修に励んでいる。
 しかし、残念なことにこれらの国々の中でも、トゥバのチベット仏教復興のプロセスは一番遅れているようである。まず、南インドへの派遣する留学生の数、これはすなわち各国の官民問わずチベット仏教に対する興味の持ち方、信仰の度合いを表しているように思える。チャダンのマイドゥルにいるテンジン・ツルティムはトゥバにおけるチベット仏教の復興に関して、私とのインタビューにおいて、これに関する事を言っていた。彼はチベット仏教に対して、そしてダライ=ラマに対して、トゥバの人民が誇りや尊敬を持っていないと言い、その事に関して彼自身チベット仏教を信ずる者として、人間として残念に思うと述べていた。その理由としては、ダライ=ラマはやはり何と言っても一介の僧である。我々は彼の再訪を望んではいるが、仮に彼が再び来たとしても、彼を迎える場所がないじゃないか。僧である彼を迎えるためには、ダライ=ラマにふさわしい、いわば彼の仕事場であると言える僧院を整えるべきだというのが彼の主張である。彼がその様に思う理由はカルムィクでの復興状況の事があるようである。カルムィクをダライ=ラマが初めて訪れたのは、トゥバにダライ=ラマが初めて訪れた1992年より一年間早い1991年の7、8月である。ダライ=ラマは1992年にはカルムィク、トゥバ、ブリヤートと訪れているが初訪問なのはトゥバだけであった。モンゴルにいたっては1990年以降ダライ=ラマは3回訪れているのである。カルムィクはダライ=ラマの初訪問後早くも、ダライ=ラマのために新たに僧院を建設しているのである。それなのにトゥバではダライ=ラマの訪問後、僧院は建設されていない。その事が彼にとっては非常に残念なようである。
 実際、カルムィクと亡命政府との関わりはダライ=ラマの初訪問以降かなり親密になって来ている。チベット亡命政府が発行している「Tibetan Review」 誌には「モスクワ駐在のチベット亡命政府代表が、カルムィク共和国の大統領就任式に来賓として出席した。イリュムジノフ新大統領は選挙キャンペーン中、ローマ教皇のヴァチカン政庁に相当するような僧院の建設地をダライ=ラマ法王に提供する用意があると表明するなど、チベット支援の立場を鮮明に打ち出している。」と報道されている。先にテンジン・ツルティムが言っていたのはこの大統領が「(ダライ=ラマのために僧院を)提供する用意がある」と発言し、それを実行したということに、トゥバとは違う復興の順調な進展を感じているようである。さらには同じく「Tibetan Review」 誌よると「カルムィクの大統領ケルサン・イリュムジノフ大統領、同共和国国会議長らがチベット亡命政府のあるダラムサラを訪問し、ダライ=ラマ法王と会談をした。」ということも報道されている。
 これは私がキジルでお世話になった家の人達が言っていたことであるが、現在のトゥバのオールジャーク大統領はスポーツマンであるそうだ。彼は現在の上院院長のビチェルディと大統領選を戦い、勝ったのである。しかし、スポーツマンである彼は大統領就任後あまり文化的、宗教的なものには関心を示さない。だからその人達にとってはビチェルディに大統領になって欲しかったそうである。ちなみにその家のおばあちゃんはトゥバ随一の民族歌手であり、その娘さんも母親と同様民族歌手として活躍している。テンジン・ツルティムは私とのインタビューで「トゥバのチベット仏教の復興には何が必要か?」という質問に、国家からの強力な援助が必要だと言っていた。実際に大頭領個人がスポーツマンだからといって、その政策が大きく文化的・宗教的なものを遠ざけるとは思えないのだが・・・。実際はどうなのだろうか?

  灌頂 ─── 密教において高僧より法を受ける時の儀式。
 

5章 テンジン・ツルティム

ホスピタリティ

 私はテンジン・ツルティムをイタリア人観光グループと一緒に行ったチャダンのマイドゥルの祈祷の時に初めて見かけた。しかし、その時はまだ彼とは言葉を交わしていなかった。何日かそこに通ったある日、テンジン・ジュンバに「明日、チャダンから車で3時間程の所で儀礼がありますが見に行きますか?」との誘いを受けた。私は喜んでその誘いを受けて、翌日朝7時にマイドゥルを訪れた。私が木の扉をノックすると、眠そうな顔をしたテンジン・ジュンバが出て来た。彼は「まだ車が来ていないのです。それまで待ってて下さい。」と言って私を仏像のある部屋に通して自分は再び寝室で寝てしまった。どうやら徹夜で何かの作業をしていたらしい
 しばらくすると、このマイドゥルの見習い僧が起き出して来て朝の勤行を始めた。小さな香炉でお香を炊きそれを腰の周りそして自分の体全体にくゆらせる。溶かしたバターに火が灯され、お香の香りが礼拝所に満ちていくとその空間は一気に神聖なるものへと変わっていった。そしてチベット語のお経を唱えながらその見習い僧は五体当地を始めた。その後テンジン・ツルティムが現れた。彼も小さな香炉でお香を炊き、それを仏像、仏画、ダライ=ラマ14世の写真の前にくゆらせた。その後供物を供え器の水を取り替え、自分の仕事を終わらせると、私を台所に呼び寄せお茶でもてなしてくれた。何もする事がなく、暇を持て余していた私は、喜んで彼のもてなしを受けた。その時の彼の話は以下である。───「・・・トゥバ人は昔はもてなしの良い民族であった。お客が来ればトゥバ茶を出し、お客との会話を楽しむ。だが今はそういう習慣はない。皆忘れてしまったんだ。革命以降、トゥバ人はヨーロッパつまりロシアの文化を取り入れて自分達の文化を捨ててしまった。服装とかもそうである。ウォッカも飲むようになった。ディスコで遊ぶようにもなったし、新聞も読むようになった。しかし、そのようなもの、ロシア文化はトゥバ人には必要のないものである。トゥバ人は昔から自然と深く結び付いた生活をしていた。だが今はそうではなくなった・・・」──この彼の話は印象的だった。私はトゥバに来て初めてトゥバ人自身の口から「トゥバ人があまりにもロシア化してしまっている」という意見を聞いたのであった。彼ならば私が第1章で述べた「ロシアの地方都市と何一つ違わないじゃないか?」という疑問に対する解答とまではいかなくても、何かしらの視点を与えてくれると私は思ったのであった。その後話を伺う機会を逃していたのだが、キジルで偶然彼と会い忙しいなか時間を作ってもらい、インタビューをしたのであった。

忘却

 エニセイ川のほとりにあるアジアの中心地点を示すオベリスクの前で私達は待ち合わせをした。どこか静かな所で話をしようという彼の提案で、エニセイ川の支流のそばにある公園のベンチに座り、私達は話を始めた。
 彼はダライ=ラマの訪問には歴史的な意義があると述べた。その初めての訪問でダライ=ラマはまずトゥバの人々に仏教の基礎を再び与え、仏教がトゥバ人の生活様式であるという事を示したのである。彼の訪問は長きにわたる抑圧により自らの固有の文化を忘れていたトゥバ人に対して希望をも与えたのであった。しかし、様々な事情により未だにトゥバでのチベット仏教の復興は非常にゆっくりとしか進んでいない。ブリヤートやカルムィクと比べるとその復興の進み具合はまさに亀の歩みの様にしか進んでいないが、その国々同様国家からの援助が得られるのであれば、その復興は質実ともに上回るようになるだろうと彼は言っている。しかし、今のところその様な大幅な援助は見られない。依然として、政府の側と人々との間に復興に関しての統一が見られないと彼は強調する。彼によると仏教の復興とは当然寺院の建設やインド等に僧を派遣して僧を養成するという事である。しかし、それと同時にまずは僧が民衆に尽くす事、つまり彼らに自らの文化を知らしめる事、仏教とは何か?それを知らしめるという事が肝要であると言う。彼は前者は亡命政府との協定に関して、後者は学校教育に関してという具合に想定しているようであり、その両面において政府からもっと動いてくれるようにと強く欲しているのである。特に前者に関しては、全て書類の上だけで全く実行されていないという事を彼は強調している。それはまさに1992年の協定によるインドへの留学僧が未だに公式には一人も派遣されていないという事に象徴されている。
 彼は今トゥバ人はダライ=ラマが与えてくれた仏教の信仰を実行に移さなければならないとも言う。1992年の初訪問時に彼がトゥバ人に教えてくれた事を、次に彼が再訪する時には再び繰り返してはくれないのである。彼の次の訪問の際には彼を以前より高いレベルで受け入れるためにも、そして失われたトゥバ人固有の文化を取り戻すためにも政府と民衆が協力して仏教復興に取り組まなければならないと彼は主張する。具体的にはテンジン・ツルティムは未だに、幼稚園や小学校といった初等教育の場で仏教が全く教えられていないという事を言っていた。これは、もちろん初等教育の場で仏教哲学を教えろという意味ではない。昔も今も仏教哲学が教えられる場は寺院や僧院であって、近代的な意味での初等教育機関ではない。彼が主張するのは、自らのアイデンティティーを獲得する場において、トゥバ人が仏教徒であるという事実が未だに教えられていないという事なのである。かつてのトゥバでは、各家庭において皆が自分達は仏教徒であるという意識があり、その家庭に男子が数人いたのならば、少なくともその内の一人は僧院に預けて僧とするのが良い事とされていた。しかし共産主義時代の抑圧のため、その様な意識はなくなってしまった。トゥバ人は自分達が仏教徒であるという事を忘れてしまったのである。それは第1章のテンジン・ジュンバの言っていた「20歳の時まで、私は私が仏教徒であることを知らなかった」という言葉でもわかるだろう。時代が移り、家庭状況・社会状況が変わった今、かつては家庭で行われていた仏教徒であるという事を教えるという作業を初等教育の場で行うべきだというのが彼の意見なのである。

トゥバ人とは?

 しかし、仮にトゥバ人が自分達が仏教徒であるという事を思い出してもやはり問題が残る。現時点では民衆に仏教とは何か?という事を教える僧が質量ともに圧倒的に少なく、その僧を育成する僧院もなく後進の僧の育成もままならないという状況なのである。残念なことにトゥバ人だけではトゥバにおけるチベット仏教の復興ができないという状況なのである。復興の教義的な部分は当然、インドの亡命政府との関係を強化してやって行くしかないようである。チベットの亡命社会においても宗教面では中枢的な役割を果たしている南インドの入植地との結び付きがやっと得られたのであるから、それをもっと強化すべきである。 トゥバ人はソ連邦崩壊後に一応の文化的・宗教的自由を得たわけであるが、依然として彼ら自身もこれからどうしたら良いのかという事が見えてきていない状態である。この事に関してテンジン・ツルティムは政府と民衆が合同・統一して仏教の復興に取り組むべきだと何度も言っている。と同時に現在のトゥバ人の課題は「自分とはだれなのか?」、「トゥバ人とは何者なのか?」という事に対する解答を見つける事だともいう。それは共産主義の下で、完全に自らの文化を失った民族が自らの民族的アイデンティティーを取り戻す作業であると言える。
 私がチャダンのマイドゥルでお茶でのもてなしを受けながら聞いた話にもあるように、彼はトゥバにロシア的なものが入って来過ぎていると感じているのである。そのためある種の危機感を感じており、それが上のような疑問となって現れているように思える。これは、ソ連邦の少数民族地域においては、程度の差こそあれ共通して起こっている問題であるとも予想できる。しかし、彼はその疑問に対して自分自身の答えを既に用意している。その発言から判断すると「自分とはだれなのか?」、「トゥバ人とは何者なのか?」という彼自身が提示する疑問の解答は「我々は仏教徒であり、仏教を政府と人々が協力して復興させるべきである」となるのである。ここで私は少し疑問に思ってしまう。それは、仏教を復興させれば、それでトゥバ人のアイデンティティーも獲得されるのか?という事である。共産主義的なもの、ロシア的なものを現在のトゥバ人から除いてしまえば、純粋なトゥバ人が残るのか?と言われたら、決してそうでは無いように思える。仏教などの純粋なトゥバ的要素を強調していけば、それで全てがうまく行くとは思えない。70数年にわたる共産主義の支配、さらにロシアの影響を受け出した時期を考えると、もはや純粋なトゥバ的要素はもうわずかしか残っていないとも言える。
 例えば服装の事に関しても、独立国時代のトゥバに入ることができた民族学者・考古学者のメンヒェン・ヘルフェンはその著書「トゥバ紀行」で次のように述べている。───「・・・トゥバ人の仲間で、すでに何百年も前からロシアの臣民になっているハカス人の場合、その古い衣装のうち何が残っているかを見るだけで、先のことがわかろうというものである。男たちは古い服装を何一つ止めていないし、保守的な女たちにあってさえ、3、40年前、この民族がいかに装っていたかを知りたいと思えば、ミヌシンスクの博物館に行かなければならないほどに少なくなっている。トゥバも同じ道をたどるであろう・・・」。(「トゥバ紀行」、メンヒェン・ヘルフェン/田中克彦訳、1996年、116-117ページ)。この本はメンヒェン・ヘルフェンが1929年にトゥバに入った時の紀行書である。果たして今から70年前に彼が予想した事は当たっているのだろうか?私の短いトゥバでの滞在に限って言わせてもらえば、「まさに、その通り」なのである。一カ月に及ぶトゥバ滞在の間に私が民族衣装を見たのは、民族歌手のコンサート、ナーダム(トゥバの祭り)、そしてイタリア人の観光グループが帰る際の記念撮影でユルタのおばあちゃんが着た時の3回だけで、平常時には全く見なかった。
 消え去りつつあるトゥバ的なものはそれだけではないだろう。共産主義下の政策により、定住化がすすめられ、現在では夏も冬もユルタに住んでいる人はかなり少なくなって来ている。首都のキジルではロシアの至る都市にあるのと同じ無機質で狭いアパートにトゥバ人は住んでいる。ウォッカも非常によく流通しており、都市では完全にアラカ(トゥバの蒸留酒)よりよく飲まれているように感じた。思うにもはやトゥバ人にとってロシア的なものはもはや排除できないほどに浸透しているのである。トゥバの人口は30万を少し越えるくらいである。国としてももはや完全にロシアと縁を切るということは考えられないだろう。独自の通貨すらトゥバは持っていないのである。
 もはやトゥバはロシアやロシア的なもの抜きでは存在し得なくなっているのではないのだろうか?もし、そうであるならばトゥバ人とは何者なのか?といったアイデンティティーを探る作業においては、ロシアやロシア的なものの存在を前提としなければ、トゥバ人の未来は見えて来ないということになる。仏教や民族衣装などのトゥバ的と思われるものを復興すればトゥバ人のアイデンティティーも復活するといった単純なものではない様に思える。トゥバ人がこれから探るべき道はトゥバ的なものとロシア的なものとのバランスをうまく取りつつ新たなトゥバ人というアイデンティティを創造する事なのではなかろうか?

 テンジン・ツルティムはトゥバ人が直面しているこの課題を「全世界的に進行している精神的浄化」の一環としてみている。彼は現在世界中の民族が先祖伝来の文化を取り戻そうとしていると言い、私達日本人もそうじゃないのか?と聞いた。私には、全くその通りであるように思える。世界的に各民族がそれぞれ固有の文化を大切にしようとしている動きは日に日に大きくなっているようである。その理由はやはり、情報伝達手段・交通手段の発達、経済の相互依存性の増大等といった様々な要因と連動した近代化とそれに伴う生活様式・文化の均一化に対する反発といったものが大きいと思われる。その様な状況の中ではだれもが「私はだれなのか?」という事を模索しているのである。トゥバ人が「トゥバ人とは?」と模索しているのと同様、日本人も「日本人とは?」と模索している。そういった意味ではトゥバのこれからの動きは私達日本人にとっても他人事ではなく、学べる部分が非常に多いように思える。

参考文献
 「トゥバ紀行」 メンヒェン・ヘルフェン/田中克彦訳 1996年 岩波文庫
  「トゥワー民族」 鴨川和子 1990年 晩聲社
  「チベット密教の本] 1994年 学習研究社
  「チベット密教」 田中公明 春秋社
  「講座 仏教の受容と変容 3」 立川武蔵 編集 佼成出版社
  「仏教」  26 特集 チベット 法蔵館
  「ぼくのチベット・レッスン」 長田幸康 社会評論社
  「世界大百科辞典」 平凡社
  「ダライ=ラマ法王とチベット」 1995年 ダライ=ラマ法王日本代表部事務所
  「春秋」  382-389 特集記事 ダライ=ラマの聖地へ(インドの亡命チベット人社会)
  「The Buddhist Shrine Of Petrograd」 A.I.Andreev 1992年 Eco Art Agency
  「The Visit Of The Dalai Lama To Tuva」 1995年  “Новсть Тувы"
  「Ламаизм в Туве」 М.В.Монгуш 1992年
“Тувинсое Книжное Издательство"
  「Три Дня в Туве」 1995年 “ Корреспондент 《Радио》"
 「Tibetan Review」 チベット亡命政府 

トゥバでのショット
 フレーシュ(相撲)の入場風景


ユルタ(ゲル)の前にて


 
 
 
 
 

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◇本年度の県立大学学術講演会に、対日外交30年のベテラン外交官レオニード・シェフチューク氏(駐日ロシア連邦大使館参事官)が来校されます。おろしゃ会としても注目したいとおもいます。

講演主題  新世紀における日露関係について

講演内容  1.30年間にわたる対日外交の経験から見た日露関係の総括と展望。
        2.世界におけるロシアと日本の位置付けおよびその意義。
        3.平和条約交渉を含む日露関係発展の道筋をどう見出していくのか。
        4.その他。

日  時  5月17日(木)午後2時半から4時まで

場  所  愛知県立大学学術文化交流センター小ホール

講師略歴  

1970年       ウラジヴォストーク極東国立大学卒業
1970−1971年 同大学講師(日本語と日本史担当)
1971−1976年 駐日ソ連大使館員として日本に滞在
1980−1985年 ソ連大使館二等書記官(84年から一等書記官)として日本に滞在
1989年       駐日ソ連大使館一等書記官として日本に滞在
1991−1993年 ロシア連邦大使館一等書記官として日本に滞在
1997年〜      ロシア連邦大使館参事官として日本に滞在
 
 

あとがき

学生ホームページ
昨年の公認サークル昇格以来、部室への出入りも頻繁になり、学生の活動はいよいよ充実したものとなってまいりました。1月末にはおろしゃ会のiモード用ホームページを開設し、イベント等のお知らせをはじめ、会員の意見交換などに利用しています。もちろん一般のパソコンからもご覧になれます。
http://ip.tosp.co.jp/i.asp?i=orosiya

加藤晋先生文庫
2月21日と3月1日の両日、名古屋市内で外科医をされている加藤晋氏から大量のロシア関係図書を寄贈していただきました。山積みのダンボール箱を部室に運び、一週間ほどをかけて学生で集計・分類したところ、なんと三百点を優に越えることが判りました。これは会にとって大変喜ばしいことで、新年度からみなさんに貸し出しできるよう目下準備中です。図書リストは「おろしゃ会」ホームページからご覧いただけます。(平岩)

東大大学院の乗松亨平氏来訪
3月16日朝、東大大学院ロシア文学専攻博士課程の乗松氏が県大を訪れました。氏は、おろしゃ会会報第二号に寄稿したこともあります。昨年末に提出した修士論文「境界線上の「私」−−ツルゲーネフ『猟人日記』と同時代の言説」を携えて私に会いに来てくれたのです。たまたま大学に来ていたスベトラーナ・ミハイロワ先生、幅さん、平岩君などと楽しいひと時を過ごし、学生ホームページの掲示板にメッセージを遺して京都へと旅立ちました。(加藤)

研究室にて


 左より 幅亮子 乗松亨平  平岩貴比古

    
部室にて
 

左から ミハイロワ 幅 乗松 加藤




おろしゃ会会報第6号
2001年4月8日発行



発行
愛知県立大学おろしゃ会
代表 平岩 貴比古
(愛知県立大学文学部日本文化学科3年)
〒480−1198 愛知郡長久手町熊張茨ケ廻間1552−3
学生会館D-202

発行責任者
〒480−1198 愛知郡長久手町熊張茨ケ廻間1552−3
     愛知県立大学外国語学部 加藤史朗
電話0564−64−1111 ファクス0564−61−1107
e-mail: orosia1999@yahoo.co.jp
http://www.for.aichi-pu.ac.jp/~kshiro/orosia.html


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