おろしゃ会会報 第10号

2003年 6月8日発行)

 

白夜のサンクト・ペテルブルク 2003年6月 夜9時頃

 

 

目次

 

はじめに/田辺三千広... 2

 

特 集「私の見つけた小さなロシア」

きっかけはニジンスキー/横山弥生... 3

ロシア語との出会い/木村美幸... 3

ズワイガニと苗字/加藤彩美... 4

一年間を振り返って/服部陽介... 5

一年生とともにプーシキンを読む/スヴェトラーナ・ミハイロワ... 7

モスクワ便り/加藤史朗... 8

 

特別寄稿

大学院と大学院生活/柿沼秀樹... 15

クラスノヤルスク市から南へ、エニセイ川上流へ、2002年秋/金倉孝子... 17

県大祭のこと... 22

あとがき... 23

 

編集/平岩貴比古

Кружок «Оросия», 2003

はじめに

田辺 三千広 

(星城大学)

 

 前号で予告しましたように今回からテーマを決めて会員の皆さんに書いてもらうことにしました。テーマは《私が見つけた小さなロシア》です。ごらんのように何本か面白い記事が集まりました。

 言い出しっぺの私はこのテーマについては何も書けません。お許しください。お詫びに日ごろ考えていることを書かせていただきます。

 

 私が大学に入学した頃、学生運動が燃え上がりました。各大学によって運動の対象は少しずつ違ってはいましたが、共通していたのは、大学のあり方に対する批判であったような気がします。大学の自治、学問の自由を守り、産学協同に反対するというものであったのではないかと思います。この学生運動がやがて下火になり、大学のあり方は改善されるどころか、ますますひどいものになってしまいました。今そのようなスローガンを口にしようものなら、大学から追放されんばかりです。教員はお上の指図に従い、社会貢献の名の下に企業からどれだけ多くの研究費を頂戴できるのかのみが評価されます。当然今すぐ直接的に社会に役立たない人文系の研究は疎んじられる傾向にあります。

 教育の点でも悲惨です。学生の注目を引く授業が要求され、自分の専門外の科目も担当させられます。それができないと良い教師とはいえないのでしょう。しかし、学生の立場から見て、教師が一夜漬けの付け焼刃で得た知識を振りかざすだけの授業で、静かに聞けといわれても無理なことではないでしょうか。私は、大学の授業とはどんな科目であれ教員が長い年月必死で追求してきたことを学生にぶつけるものであるべきだと信じてきましたし、今でもそう思っています。それによってのみ受け手の学生も教員の得た学問的知識を得るだけでなく学問研究の方法を知ることができるのだと思います。

 

 国立大学法人化の問題をめぐって多くの意見が戦わされています。200361日朝日新聞に発表された長谷川真理子氏の意見に共感を覚えました。「経営上の利益につながらないが、人類の知的レベルを向上させることに貢献する活動を支援するには、社会にゆとりが必要である。そのゆとりを持つためには、そのような知的活動に対する尊敬がなければならない……」。

 日本の大学の将来は暗いような気がしてなりません。

 

 

特集「私の見つけた小さなロシア」

 

 

きっかけはニジンスキー  

 

横山 弥生

(愛知県立大学外国語学部中国学科4年)

 

最近、テレビで現代バレエの特集番組を見ました。2002年の12月に行われた<モナコ・ダンス・フォーラム>主催の授賞式の模様も放送され、ニジンスキー賞の男性舞踊手にウラジーミル・マラーホフが選ばれていました。マラーホフはABT、ウィーン国立歌劇場バレ エ、シュツットガルト・バレエ、ベルリン国立歌劇場バレエのゲスト・プリンシパルであり、ベルリン国立歌劇場の芸術監督でもある有名なロシア人バレエダンサーです。

私はバレエが好きですが、きっかけとなったのは彼、が受賞した賞の名前の人物、ニジンスキーです。1952年に出版されたニジンスキー自身の手記と妻ロモラ・ニジンスキーが書いた『その後のニジンスキー』をもとにした映画『ニジンスキー』が1979年イギリスで作られましたが、私はこの映画をきっかけにニジンスキーの存在を知りました。20世 紀初頭、天才と謳われながら数年の栄光の後に発狂し、そのまま生涯を終えた悲劇の舞踊家ニジンスキー(ちなみに彼はポーランド系ロシア人です)。1912年、ロモラがブダペスト で初めてニジンスキーの舞台を観てから、翌年ニジンスキーがバレエ・リュスを解雇されるまでのほぼ1年間を追った伝記映画です。

まだ観たことがない方はぜひ観てください。きっと私のようにバレエにも興味を持たれると思います……。

 

 

 

ロシア語との出会い

木村 美幸 

(愛知県立大学文学部英文学科2年)

 

Миюки・Кимура…で合っていたでしょうかね、私の名前は。日本語も他の国の人泣かせな言語だと思うけれどこれもまた難しい…。『Здравствуйте』『До свидания 』『Спасибо』そして『Хорошо』。私が知っているロシア語となるとこの4つしかありません。こんな奴が何故ここへ筆を取ることになっているのかはさっぱり自分にも分からないんですが、出来る限りお役に立ちたいもので…ページ増量の貢献になれば宜しいかと。

そもそも私がこのロシアワールドに巻き込まれたのは偶然「愛知県立大学学生サークルおろしゃ会」の扉を叩いたからでした。その時点では全くロシア、また、その言語については知らなかったので部屋に張られたロシアの地図や電車の全線図の文字は怪しい記号が並んでいるようにしか見えなかったという…。これは私の住む世界ではないかもしれない…と思ったのに対して、隣にいた友達(加藤彩美さん)が何故か妙にやる気になってしまい、これで良いのか首をひねりつつ入会。その後日本語五十音をロシア語表記するとどうなるかを覚えたのですが…なんだか間違えそうな表記で困惑しました。専攻が英語なのでそれが染み付いているんですよね。「あ、これアルファベットにある」と思っても全然違う読みだからややこしいことこの上ない。何故「Х」がHで「Н」がNなのか…「Ж」や「Ф」などはどこから沸いてきたのか……謎が多い、ロシア語。でも「В」が何故Vなのか… は間に「β」を入れて考えると加藤教授が仰っていたのを聞いてなんとなく納得。そういえば、マリーナが来た時に「今日の天気はどうですか?」や、「私は学生です」なども習ったのですが綴りを忘れてしまいました。(発音は覚えてます)もう難しすぎて…漢字でもローマ字でもない外国語となると私はロシアとハングルしか思いつきません。頭の固い私がロシア語をペラペラしゃべる日は来ないと思います。読めると格好よさそうなのですがね。折角ロシア語を学べる環境にいるので少しくらいは努力してみようかと思うのですが。あの壁に張られたポスターが解読出来るようになれたら私にしては上出来でしょう。これからロシア語を習おうと思う人はアルファベットと文字の区別をつけてからの方が賢明だと思います。

そういえば…最近意外な所でロシア文字見るようになった気がします。顔文字を作るときにひっそりと愛用される(^З^)(>Д<)…ZとDだったでしょうか?私はあまり使用しないのですがなかなか可愛い出来の顔文字かと。意外に気づかれていない感じがしますね、これは。

…なんだかよくわからない方向に話が向いてきたのでそろそろ消えることにします。単に自分の馬鹿さ加減を露呈しただけのような気がかなりするのですが笑って許してやってください。こんな短い文章に目を向けた皆様に謝罪と感謝を。平岩名誉会長がこれで満足するかは私にはわかりませんが。

 

P.S.現会長達と、学祭でボルシチ作ります。11月の頭なのでお暇な方は是非。

 

 

 

 

           ズワイガニと苗字

加藤 彩美 

愛知県立大学文学部英文学科2年)

 

私の見つけた小さなロシア。これが今回のテーマだが、大きなロシアにしろ、小さなロシアにしろ、ロシアを見つけるのはなかなか難しいものである。ロシアに対してのイメージというと多くの人が「寒い」の一言で終わらせてしまう。私の友人は「バナナで釘が打てるイメージくらいしかない。」と言っていた。確かに、私も少し前までは同じことを思っていた。雪。氷。寒空。しかし、ロシアは深い。文学や音楽、料理など、非常に文化のある国なのだ。私は、ロシア語の響きの美しさに勝る言語はないとまで思う。それでも、ロシア語を話せず、ロシアの音楽を熱心に聴いたことがない私が、それらを小さなロシアとして書くのは非常に気が引ける。そこで、私はズワイガニと、苗字について取り上げることにした。

まず、ズワイガニについてである。これは、スーパーでアルバイトをする中で、パックに貼られた産地のラベルに目をやる習慣がついた結果だ。少し古いが、2000年の農林水産省の資料によると、国内のズワイガニの水揚げ量は年間6,000トンで、輸入では年間60,000トンである。輸入の 約60% がロシア産、つまり36,000トン。そのうち25,000トンが活けズワイガニだ。また、輸入タラバガニ40,000トンのうち90%はロシア産とのことである。日本の冬の風物詩「鍋」は、ロシアに支えられているのだ。

次に、苗字について。ロシアの人の苗字といえば、すぐに挙げられるのが「〜スキー」である。チャイコフスキー、ドストエフスキー、彼らはその代表格であると思う。「〜スキー」と聞いただけで、ロシアの人だと予想できる。なんと、ロシアでは姓が男女で変化するのである。「〜スキー」は男性で、「〜スカヤ」は女性なのだ。変化することによって、夫婦または家族で異なった苗字のように聞こえるので、慣れるまでは大変かも知れない。また、「〜SKY」はロシア系で、「〜SKI」はポーランド系なのだ。断定するような形になってしまったが、これについては未確認である。今春、アメリカに滞在した際のホストペアレンツの苗字が「DURINSKI」であった。当然ロシア系だと信じて行き、ロシア系の響きに思うのですが、と質問してみたら、「ロシア人はSKYだろう。ポーランド人はSKIなのだ。」と返ってきた。ポーランドはドイツの東に位置する国である。ロシアには隣接していない。―ロシアは、あの広大な本土の他に、リトアニアとポーランドに挟まれた飛地を持っている。この飛地がどのように定義されているかわからない。そのため、ポーランドとロシアは隣接していないと言うのは正確ではないが―ポーランド語はロシア語と同じスラブ語派に属するので両者は似ているのだそうだが、ロシア語はキリル文字で、ポーランド語はラテン語で表記される。その影響で「Y」や「I」といった違いが出てくるのかもしれない。私の苗字があまりにありふれたものだからか、苗字には強い憧れと興味がある。これから苗字について詳しく調べてみたいところだ。

 

 

 

 

一年間を振り返って

服部 陽介 

愛知県立大学文学部社会福祉学科2年)

 

おろしゃ会の大半の皆様、始めまして。私は社会福祉学科昼間主に所属する人間で、おろしゃ会とは殆ど関わりが無いのですが、今年度一年間、ロシア語初級を履修した事やその他の縁などから原稿を頼まれてしまいました。よろしくお願いします。

 

この一年間を「ロシア語」と言うキーワードでもって振り返ると、まずはロシア語初級の履修に始まり、一年間授業についていけない苦しみを味わうという事になってしまうなんとも惨憺たる一年だったのです。その辺はおろしゃ会会報に我々がテストで書いた授業に関する論述が載せられたと聞いておりますのでそちらをご覧下さい。私はもう自分の書いた事が恥ずかしくて直視する事ができないでおります。

ここだけの話ですが、何でロシア語を履修したかと問われると、実は「Я」の読み方が知りたかったと言う何ともはや、という理由なのですが。やはりそんな安易な理由で語学は学ぶべきではないですね。反省しています。

 

では「ロシア」と言うキーワードで振り返ると、これが結構面白かったのです。まず思い出されるのがロシア民謡団を迎え、106日に名古屋市公会堂で行われた「日舞とロシア民謡の協演」にスタッフ参加させて頂けました。(確か最初は「見に行きませんか?」という話だったと思うのですが…)

途中から観客になっていましたが、なかなか生演奏は聴けるものではないので、貴重な時間をすごせたと思っています。公演終了後の交歓会で危うく出演者の人達にウォッカを飲まされそうになったのはいい思い出です。

次に11月の大学祭。おろしゃ会の皆さんはピロシキを販売されましたね。完売されたそうで、おめでとうございます。美味しかったです。普段味わうことの無い不思議な味でした。

さらに10月の半ば頃から、木曜2限の授業後にミハイロワ先生から昼食に誘われる様になってしまいました。その時ミハイロワ先生が「ご飯+味噌汁+秋刀魚の塩焼き」という実に和風情緒満載な食事をされていた上に、席に着くやいきなり「あなたのお宅は浄土真宗か」などと質問され、「はい」と答えると「そう、私は禅宗ですよ。」と返され、「私は今誰と食事をしているのだろう」と思ったり、何故か最終的には私の方から食事に誘ったりしておりました。

 

さて、そんな一年を過ごした私の「私の見つけた小さなロシア」とは・・・。

 

チェブラーシュカ!!!

 

これで全てが説明つくと思うのです。何だかよくわからない。だから付き合っていくのもそんなに簡単じゃあない。でも、うまく付き合っていけば面白い相手。それがロシアなんじゃないかな。そんな気がします。

 

しかし、まさか「イクラ」がロシア語だったなんて………カルチャーショック………。

 

 

 

県大祭での手作りピロシキ販売の様子(2002年)

 

 

 

一年生とともにプーシキンを読む

 

スヴェトラーナ・ミハイロワ 

愛知県立大学外国語学部)

 

私はロシア語の授業にロシア文学を少し取り入れてみようと考えて、様々な作家の生涯および作品を紹介することにした。でも実は全くロシア語が分からない一年生がこの授業に対応できるかどうか心配でした。まずはプーシキンを紹介する事にしました。授業ではプーシキンがロシアの教科書においてどのぐらい場所を取っているかを見せて、プーシキンの生涯、つまり彼の故郷や貴族学校のリツェイの頃、そして結婚と決闘についてヴィデオを見せた。

アルファベットをわりと早く覚えておいた学生が、興味深くプーシキンの詩“Я вас любил”(私はあなたを愛していた)を合唱で歌った時は、少し感動しました。ロシア語の響きおよび詩のリズムを何となく感じるためにはよかったと思った。ついでにロシア人がプーシキンを読みながらプーシキンと共に生きることを理解してもらいたかった。我々は子供の頃から詩で書いてあるおとぎばなしの「漁師と金魚」「ルスランとリュドミーラ」を耳に馴染んで、初恋の青年の頃にはまた、プーシキンの作品「エヴゲーニイ・オネーギン」、「スペードの女」を読み、大人になって、同じプーシキン著作のドラマやオペラを楽しむ、まるでプーシキンにも育てられているように人生を送っていることを知ってもらいたかった。時代は変わってもプーシキンは決して古くならないと自らに思った。しかし全く違う環境で育てられた日本人の若者はどう思うのか?ロシア語を習おうとしている学生たちは、果たしてプーシキンに興味を持つか持たないか。そこでプーシキンの何かの作品を読んで感想文を書いてもらうことにした。ここでは学生のプーシキンについての感想分を紹介しよう。

 

@わたしはプーシキンの作品を読むのはこれが初めてでした。先生の授業でプーシキンの詩を少し読んで、とてもきれいな詩を作る人だと思い、とても表現が豊かな人だと思いました。

A「オネーギン」を選んで、言葉の壁、文化の壁、と思想の壁とにぶつかった。その理由を自分で指摘すれば、まず自分の知識不足が挙げられる。しかし文学作品というものは一度だけ読んで、読み捨ててよいものではないと考えて、この「オネーギン」をまたいつか読み、プーシキンの意図していたことや文体の特色など理解出来る日が来るように努力したいと思う。

B“Арап Петра Великого”を読んでプーシキンのような異人は生活していくことは大変だったと思う。プーシキンは、アフリカ人なんだろうかと思った。自分はアフリカ人の血が入っているどこかで感じていただろうか。様々なことを味わって、作品を書いただろう。

C現代史を考えて、それにかかわる文学作品に作家なり詩人なりが、例えば戦争をどう考え、どんな表現をしているかを見てみたいと思った。プーシキンの「戦争」という詩を見つけてその詩のプーシキンはその戦争の中にいるというよりも、戦争の様子を偙観している様子が思い浮かべられました。ロシアの詩に奥行きがあると思いました。戦争を考える機会となった。これからもその機会を作ってください。

Dプーシキンは心の清らかな人だと思う。そうでなければロシアの人にあんなに愛されていないだろう。“チャアダーフに”という詩を書いて、訳そうと思ったけれども辞書の使い方も余り分からなくて、意味も分かりませんでした。ごめんなさい、でも授業にヴィデオで大体のことは分かったので今度是非プーシキンの詩集に目を通ってみたいと思った。

Eプーシキンの“ナターリアに”という詩を読んで恋の詩と分かって、もし私はこのような詩をもらったらと…。訳はあくまでも訳なので、自分で読めるように、プーシキンを楽しむ時期が来ると期待している。

F「駅長」を読んで、駅長が話した事をこんなに正確に読み物に出来るかしらと思った。プーシキンは、身分の高いものを批判し、弱者への思いやりを示している。でも悲しいストーリなので創作だと思いたい。彼の勇気に敬服します。

Gアレクサーンドル・シニャフスキーの「プーシキンとの散歩」を読んだ。プーシキンは自信家というかプライドが高いと見て取れた。プライドが高く、女好きであったことが、彼の作品をすばらしいものにしている原因なのだと思った。プーシキンの世界を感じ取りたいと思う。

H「エフゲーニ・オネーギン」はとても軽決で、声を出して読みたいような文体でした。ストーリにはまって、華やかな雰囲気を味わった。

Iなぜプーシキンがロシアの人々にそれほどまでに受けいれられているのか?俳句は短く外国の人に分からない点がいる。しかしプーシキンの詩は細かい描写がされているのでどんな国の人も楽しむことができるだろう。これからロシア語の力をつけて、ロシアの詩を原書で読み味わうことができるようになりたいと思う。

Jプーシキンについて考えて、プーシキンの詩を通して自然を理解できると思った。興味をもってよかったし、自分の力で彼を尊敬したと思う。

K読む人も自然と自分の心を見つめるようになるのではないかと思った。

L“Я вас любил”を読めないけれども読めるようになりたい。

 

以上の感想文において、日本の学生はまだロシア語が分からないけれど、プーシキンの様々な作品を通してロシアにかんする理解を求めようとしている。私は「読めるようになりたい」、「味わうことが出来るようになりたい」、「このような世界を感じ取りたい」、「声を出して読みたい」というような意欲は学生が文学だけでなく、隣人であるロシアの意味を理解しようとしているのだと解釈したい。

 

 

 

 

モスクワ便り

加藤 史朗 

愛知県立大学外国語学部)

 

昨年秋、加藤先生は1年間のロシア留学のためモスクワに出発されました。この「モスクワ便り」では、電子メールによる先生からのお便りを掲載します。なお先生は4月よりペテルブルクに滞在中です。(平岩貴比古)

 

20021014

ロシアに着いて、4日目になります。シェレメチェヴォ空港で私達を歓迎してくれたのは、今年初めての本格的な雪でした。毎日、0度前後の鬱陶しい天気がつづきます。与えられた住居は、まずまずの広さ(50平米ぐらい)で、地下鉄の駅にも近いのですが、生活必需品が不足しており、この数日間は、毛布やら布団やらシーツやらを買い、最低生活の条件を整えるのに費やしました。予想はしていましたが、なんか「神田川」の世界です。銭湯こそないのですが、老夫婦は若いカップルのように肩を寄せ合って生活をしております。地下鉄や市場の雑踏の中で、お互いを見失わないように、いつも手をつないで歩いております。(……)

二つ一緒に送った荷物のうち、一つだけが、今日のちょうどお昼に到着しました。荷物のように離ればなれにならないようにと心がけている次第です。(……)

 

2002117

今日はロシア革命記念日です。(……)ここ数年のモスクワの変わり様は、目を見張るばかりです。あちこちにモスクワの景観を一新するような豪華な建物が建設中で、街には商品が溢れかえっています。トヨタ、ホンダ、日産、三菱など日本車の数が目に見えて増えています。11月に入り、私の住む団地近くにも大型スーパーが開店しました。来た当初には、いったいいつ出来るのだろうと思っていましたが、昼夜兼行の突貫工事で、見る見るうちに開店となりました。ロシア人はまことによく働きます。店内は恵比寿三越と紀伊国屋を足して二で割った感じです。花王だとかコーセーなど、日本の化粧品、サントリーの「響」や「山崎」、さらに日本酒さえ売っています。日本では入手しがたいイギリスの紅茶も買えます。もちろん日本の電化製品や1万ドルを超える毛皮のコートも。

モスクワに来てすぐに、かつて駐日ロシア大使館に務めていたロシア人女性のお宅に招かれたのですが、麻布界隈の億ション顔負けの豪華な住まいでした。夫君は、もとはテコンドウなど武道の専門家でした。彼女を追って来日し、日本で何か仕事がないかと私に頼んできましたので、麻布学園の体育科の先生に問い合わせたこともありました。しかし、なかなか仕事は見つからず、空しく帰国、乾坤一擲、自動車の輸入販売会社を興して大成功し、奥さんをロシアに呼び戻しました。トヨタのランドクルーザーが爆発的に売れたようです。こうして彼は「新ロシア人」の一員となりました。「タイミングが良かった、今の若者にはもうチャンスはない」と彼は言うのですが、そうかなあと思わせるほどの活気が続いています。「新ロシア人」と「旧ロシア人」との間の貧富の差は、早晩21世紀型ロシア革命を招来するかもしれません。というのは、「旧ロシア人」の方も決して負けてはいないからです。なかでも「物乞い」の積極性には驚きです。地下鉄車内で、孫に車椅子を押してもらいながら、神の祝福を唱え喜捨を求めるお婆さん。「アフガニスタンやチェチェンで、諸君や諸君の子供たちのために戦って負傷した」と演説をした後、カンパを求める傷痍軍人の一団などの迫力には、圧倒されてしまいます。

細君も片言のロシア語を覚えては、一人で買い物に出ていますが、店によってずいぶんと値段が違うのに驚いています。市場原理は、すさまじい競争を呼んでいます。先に述べたスーパーの開店に対抗して、隣接する食料品店も値下げで顧客を放さないように努力しています。新聞やタバコも、店によって人によって(タバコやチョコレートといった単一商品だけを手に持って売っているお婆さんなどがいます)値段が違います。こちらに来てから、休日はほとんど買い物に費やしました。寝具、食器などあちこちで値段を見比べて買い持って帰るので、それだけで一仕事です。ぐったりと疲れます。余所で買ったものをもったままスーパーに入ると、ロッカーに預けるシステムが多いのですが、布団包みはロッカーに入りません。「爆弾が入っていないだろうね?」と冗談を言いながら警備員が預かってくれました。日本人学校でバザーをやるという情報を得て、出かけようとしましたが、電話で問い合わせても、主催者の誰もが地下鉄に乗ってそこへ行くルートを知らないのです。ビジネスマンの奥さんたちは、地下鉄に乗ったことがないそうです。会社から禁令が出ているところもあると言っていました。人質事件が多数の犠牲者を出した翌日、都心に日本のバレエ団の公演を見に行ったのですが、バレエ留学に来ていると思われる若者の他、日本人はほとんどいませんでした。「モスクワで日本のバレエを見てもしょうがない」という常識からだけではなさそうに思われました。大使館は、鈴木宗男事件に関わるバッシングのせいでしょうか、今までと比べると非常に低姿勢で、事件の後、安否を尋ねる電話がありました。お困りのことがあれば何でも仰ってくださいとまで言ってくれました。先週、市内最大の墓地に友人の墓参りに行ってきましたが、事件の犠牲者の埋葬式をやっていて痛ましい限りでした。テレビでは毎日、人質事件をめぐる討論、チェチェン戦争関係の番組をやっています。旧共産党系の新聞では人質の犠牲者が多かったことに政府が責任をとるように求めていますが、プーチンとモスクワ市長ルシコフは、相変わらず圧倒的な支持を受けているようです。日系議員イリーナ・ハカマダもよくテレビに登場します。

ソ連時代から今日に至るまで、この国の生活に馴染めない最大の問題点は、公衆便所が極めて少ないということです。最近では地下鉄の駅近くや公園などに、日本の工事現場などで見かける簡易トイレを見るようになりましたが、これが有料で平均5ルーブル(約20円)です。大きめのパン一個が買える値段です。しかし、空いていればまだしも、鍵がかかっているときには、本当に絶望的な怒りを感じます。ある日みぞれが降る中、日本から送ったサル便を取りに郵便局に出かけました。近くの郵便局に行ってみたら、別の郵便局だと言います。道行く人に尋ねながら、やっと探し当てたときには夫婦共々排尿の臨界点に達し、局員を拝み倒して中のトイレを借りることにしました。ところが細君はよいが、「男性用はない」と意地の悪いことを言います。細君に励まされ、荷物を抱えながら、必死の思いでアパートまで帰り着きました。泥と屈辱感にまみれた一日でした。

ヴェルサイユ宮殿にはトイレがなかったといいます。ロシアはフランス文明コンプレックスですから、それをまねたのでしょうか。しかし基本的な生理的欲求を我慢させる、利用者からは金をとる…こんなに不健全・不平等で馬鹿げた文明はありません。貧乏人は排泄も出来ないと言うのか!この問題を解決しなかった社会主義は、失敗して当然です。禅寺の雪隠の清々しさを知る日本人としては、日本の伝統文化の健全さを誇りに思いたいところですが、先日、日本人が経営するスーパーに行ってみて驚きました。「トイレはどこですか」と聞くと、「従業員専用のトイレしかない」という返事が返ってきました。郷にいれば郷に従えということでしょうか。マグドナルドが爆発事件以後も相変わらず流行っているのは、各店に必ずトイレが設置されていることにあるのではないかとさえ思われます。日本人の経営者は、どうしてこんなに単純な事実を見過ごしているのでしょう。今や全露雪隠同盟を結成し、セッチン革命を起こすべき時だと思います。親しくなったロシア人にこの革命思想を宣伝してまわっているのですが、反応は今ひとつです。「ロシアは文化水準が低いからでしょうよ」という自嘲的な返事が返ってきたこともありました。ロシア人の寿命が短いのはトイレを我慢し、老廃物をしょっちゅう体内にため込んでいるせいではないでしょうか。今やセッチン戦争の時だと言うのに、ロシア人はなぜ怒りの声をあげ、戦おうとしないのでしょう。不思議です。

 

地下にある有料トイレ 7ルーブリ

 

20021213

皆様お変わりございませんか。何でもありのロシアでは、日々之新たな生活にのんびりする暇もありません。(……)

登録(レギストラーツィヤ)!この言葉をめぐってこの一ヶ月近くの間、私たちは振り回され続けて来ました。10月下旬のノルド・オストの悪夢以来、街ではあちこちで頻繁に警察の尋問があり、パスポートと登録証は常に携帯していなければなりません。(5,6年前にパスポートをホテルの登録係に預けたままウラジーミルに遠出し、途中オレホヴォ・ズーエヴォの警察署に連行され、罰金をとられるなどひどい目に遭ったことがありました。)しかし、この二ヶ月間、私たち老夫婦は、そうした尋問に会うこともなかったのですが、一昨日昼、トレチャコフスカヤで初めて街頭尋問にひっかかりました。若くて美人の婦人警官に、です。もちろん現段階ではビザも登録も完備していますから、にこやかな婦人警官に「お幸せに!」と言われる幸運な尋問でした。振り返ってみれば、私はロシアに来てから、やたらとお婆さんに声をかけられてきました。もちろん、道を尋ねられたり、靴の紐がほどけているよと言われたり、ロシアの冬はどうだと聞かれたりの他愛のないことですが…。ジェブシカに声をかけられたのはこれが初めてのことだと思います。

しかし、もう少しするとビザとレギストラーツィヤは切れてしまいます。そうなればにこやかなパスポート・コントローリとは行きません。オレホヴォ・ズーエヴォの二の舞です。これまで、科学アカデミー・ロシア史研究所に研修員として一年間滞在するものは、まず三ヶ月のビザで入国し、それに見合った居住登録を研究所で簡単に行うことが出来ました。双方の期限が切れる直前に研究所の外事課に申請すれば、簡単に延長が認められたのです。ところが、金沢大学の梶川氏、一橋大学院生の岡本氏の9月出国のころから異変が起き始めていたようです。岡本氏はご夫人の出産のための一時出国でしたが、8月中から出国ビザの申請を何度も要求したにもかかわらず、「出国ビザはいらない」という外事課担当者の回答で、それを信じて9月18日に空港に行ってとんでもない目にあったそうです。34ドルの罰金をとられた上に、モスクワ市内にUターンさせられたのです。もちろん航空券は無駄になりました。その数日後に出国を予定していた梶川氏とも連絡をとり、緊急の出国ビザ(20から30ドルの出費)を得て9月22日に無事、帰国できたということです。明らかに実務担当者の失態でした。東京外語大の鈴木義一氏の話では、数年前にビザが現在のシール方式になったときから、出国ビザが必要とされ、これを知らないで人文大に留学した外語大の学生が税関を通過後にシェレメチェヴォ空港から引き返したという事件があったそうです。これがロシア史研究所では、全く教訓化されていませんでした。ところが、悲劇は、11月1日のいわゆる外国人法の施行以後、一層拡大します。9月1日から同研究所に滞在していた山形大学の浅野氏のビザと登録延長が出来なくなり、11月29日に彼は荷物の大部分を残したまま一旦帰国する羽目になったのです。研究所の説明では、外国人法施行以後、ビザの発給と登録の業務が外務省から内務省に移管され、各地区のOVIR(ビザと登録管理局)でそれを行わねばならなくなりました。外事課職員が、OVIRに浅野氏のビザと登録延長を求めた結果、最大で2週間の延長しか認められないと言われたということです。つまり三ヶ月ごとに、一旦帰国し、再度ビザを取得して訪露するという理不尽な話なのです。留学生や研究者たちは恐慌状態に追い込まれました。研究機関や大学などにより、対応はまちまちですが、かなりの数の留学生が泣く泣く帰国を強いられ、研究者の多くも一時帰国を余儀なくされています。しかし派遣機関と受入機関との間に協定がある場合は、この限りではないということでした。

このため、浅野氏帰国後、ロシア史研究所とロシア史研究会との間で「協定」を結ぶ試みを進め、ロシア史研究会に打診したところ、委員長の佐々木氏はこれに迅速に対応してくれ、研究者相互受け入れの「協定」締結が実現する運びとなりました。昨日ロシアは憲法記念日の祝日でしたが、ロシア史研究所副所長から電話があり、「浅野先生の早期復帰」と私の「ビザ延長手続きに関する見通しは、非常に明るい」という話でした。

しかし、この国では下駄を履いてみるまでは何も分かりません。私もひょっとしたら、年の暮れに一時帰国を強いられるかも知れません。その時は、戦いに敗れ、断腸の思いを抱いた帰国であり、ホームシックによる帰国だなどとどうか誤解しないで、温かく迎えていただきたいものです。

ここのところ−15度前後の気温でしたが、昨日は雪が降り、一時は零度近くまで気温が上がり、気持ち悪くなりました。日本も寒いと聞いています。ご自愛の上、よい年の暮れをお迎え下さい。

 

20021221

(……)この一ヶ月余りの間、ビザの延長をめぐって、右往左往してきました。研究所の要請にしたがって、佐々木委員長をはじめとするロシア史研究会委員会の皆様にご無理を願い、研究所との間で学術交流に関する「協定」を結んでもらうなどの手だても講じたのですが、悲惨な結果となりました。私のビザ延長はわずか、三週間です。今のビザは12月30日までですから、1月20日までの延長ということになります。これには、研究所の副所長も困惑しているようで、「チノフニキ(役人)のやることは全くわからない。でもまだ時間があるから努力してみる」と言うのですが、とても期待できないという印象です。というのは、ビザ延長とともに、子供たちの訪露に関する招待状の申請もしていたのですが、この期に及んで「科学アカデミーと内務省との間のコミュニケーションがうまく行かない。観光ビザで来ることを勧める」と、自信喪失状態にあることが見て取れるからです。昨夜は、刀折れ矢尽き果てた気分で、「何という国だ!もう沢山だ!」とばかりに、妻とともに文字通りの泣き寝入り」をしたのですが、高いびきの合間に、「エシチョ・ラス!(もう一度)」と大きな声で寝言を言ったそうです。あきらめの悪い男です。笑ってやって下さい。末筆となりましたが、皆様には良いお年をお迎えになりますよう、心から祈念しております。ではまた。

 

20021231

新年おめでとうございます。2003年が皆様にとって良い年でありますように。ガラヴァロムカのロシアの地より祈念しております。

 12月27日(金)は、日本でも仕事納めのところが多かったのではないでしょうか。ロシアでも御用納め(この言葉がぴったり!)の所が多く、ロシア史研究所も翌日からは冬休みとなりますので、ビザ延長のために預けてあったパスポートを取りに出かけました。疲れ切った様子のサーシャからパスポートとレギストラーツィヤの証明書、出国ビザをもらいました。結局、認められたのは1月20日までの滞在延期、つまりは三週間の延長ということです。ロシア史研究所が長期のビザ発給を可能とする招待状を出せるようになるまでには、まだまだ時間がかかりそうです。日本に帰り、また三ヶ月のビザで再入国するにしても、これが切れたら同じような手続きを踏まなければなりません。つまり、今まで外務省と科学アカデミー本部との間にあった連絡が全くなくなり、内務省管轄のパスポート・ビザ管理局と研究所との間に新たな安定した関係が成立するまでは、当面、三ヶ月を超えるビザの発給は不可能なようです。

 ロシア史研究会とロシア史研究所の間で結んだ「協定」が意味をもつようになるには、もうしばらくの時間が必要でしょう。どの位の時間かは、Bog znaet ! です。 現在、一年間の予定でロシア史研究所に滞在しているのは、山形大学の淺野明先生と私だけですが、ちょうど制度の変わり目に遭遇した悲運というしかありません。

 ビザ問題をめぐっては、この間、ロシア史研究会の仲間をはじめ、色々な人々にご心配いただきました。いちいちお名前は記しませんが、心より感謝いたします。野村一成大使からも、昨日、丁寧なメールをいただきました。年が明けたら、領事部部長の沖本さんが何らか納得の出来る措置をとるように努力する、しかしビザ発給は、あくまでロシアの主権事項であるので、どこまで介入できるかは分からないが…という内容でした。みちのく銀行、東芝、三井物産など民間企業の方々から受けたご援助やご助言に比べると、大使館の方は率直に言って、初めのうちは何か腰が重いなあという感じを受けていましたが、今では誠意ある対応をしてくださっていると考えております。あるロシア人は「一月下旬から2月上旬にかけては、モスクワは、もっとも過酷な気候となる。それを避け、日本で休息をとると思えば良いではないか」と慰めてくれました。

 モスクワに来てから、ロシア・ラジオという局が毎日、何度となくジャスミーンという歌手の『ガラヴァロムカ』というテンポのよい曲を流し続けています。初めのうちは、「チョープラヤ・オセニ」(暖かい秋)というフレーズがロシアの寒さの中で印象に残りました。12月になってロシアで最初の散髪をしましたが、その時のバックミュージックにこの曲が流れていました。女性理髪師に歌手の名前と歌の題名を聞き、早速、カセットテープを買いました。よくよく聞いてみると、歌詞は甚だ陳腐です。夏にはうまく行っていた愛は、気づかない内に、秋には姿を変えてしまった。トリックと不条理に満ちたこうした愛は、まるでガラヴァロムカのようなものと言うものです。ガラヴァロムカとは、直訳すれば「頭を駄目にするもの」、意訳すると「頭の体操」となり、具体的な商品名でいえば、「ルービックキューブ」です。19世紀の詩人は「知恵でロシアは分からない」と歌いましたが、それを私などが言うのは、烏滸がましいことです。私の現在の気持ちで言えば「ロシアはまるでガラヴァロムカ」です。

 この年で頭の体操をしても、と思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、一旦日本に帰ってビザを取得したら、 またすぐにモスクワに帰るつもりでいます。

 

200311

いやあ驚きました。プーチンの挨拶とともに、あちこちで花火がじゃんじゃん上がりはじめ、新年を迎えたのは良いのですが、午前二時になってもまだ花火が続いています。それだけではありません。何だか知らない人から、電話がかかってきます。「新年おめでとう!」というのですが、相手は全く見知らぬ人です。さっきから、酔っぱらいの小父さんが何度も「ワーシャ、ワーシャ」と言って電話をかけてきます。「人違いですが、ともかく新年おめでとう」と繰り返しています。どうなっているのだろう、この国は。しょうがない、新年用に買っておいた「大関」の口を切って飲み始めました。今度は「サーシャ、サーシャ」です。もう眠るのは諦めて、飲むことにします。皆さん、今年が良い年でありますように。外気は、ますます下がって、今−24度です。冬の花火という情緒ではありません。恐るべき国ですね。ロシアは。テレビでは定番の「運命の皮肉」を放映中です。これが終わる午前4時40分まで、騒ぎは続くのでしょうね。

 

 

 

初詣にノヴォデーヴィチ修道院に出かけました。−25度でした。

 

2003116

明日、夕刻の飛行機でいったん日本に帰国することになりました。この間のヴィザ更新をめぐる「闘争」に敗北した結果であります。理不尽な扱いに対して、今でも屈辱感にさいなまれております。

ロシアに来てからの3ヶ月余の私を評して、ある若い友人は「加藤さんは無駄な動きが多いからなあ」と言いました。ヴィザ延長をめぐって何度もロシア史研究所に行き、副所長と面談したこと、日本大使館のK氏やO氏を煩わせたり、N大使本人にも陳情したこと、ロシア外務省にいるS氏にもなきついたり、かつての職員O氏にも相談したことなど、いまとなっては無駄な動きの最たるものとも言え、この若き友人の慧眼に感心せざるをえません。しかし、考えてみれば、私がこれまで研究テーマとしてきたのは、ロシア文学における「余計もの」の形象およびロシア思想史における「余計もの意識」の役割と言った問題でした。慧眼の士もまさかそこまでは読み込んではおられないようです。

「無駄な動きの多い」三ヶ月余とは、すなわち、日本で考えてきた研究計画を日々更新するという慌ただしいものでした。思いもかけぬ出会いがあり、思いもかけぬ発見がありました。つまり日々慌ただしく、落ち着きもなく夢中で過ごして来ました。体力的に言えば限界に近い状態だとも言えます。ただ、そうした中で出会った人々と、一時とは言え今別れるのはとてもつらいです。一期一会の喜びと悲しみを感じてしまいます。「捲土重来、再びかたくあい抱擁せん!」と言い、「泣き」はしませんが、「涙ひまなし」という状態でロシアを去ります。色々とありがとうございました。(……)

 

200335

皆様ご無沙汰しております。1月中旬にいったん日本に帰国していましたが、2月中旬ロシアに再入国いたしました。ビザ問題による不本意な帰国でした。その際、ロシアの友人の一人は、「避寒のためと考えれば、そう悲観すべきことではない」と慰めてくれましたが、たしかにそういう面はありました。1月は−20度以下という日が珍しくありませんでした。しかし、再入国後は、早朝の気温は平均すると−8度で、お昼頃に0度近くにまでなるというのが、このところの天気です。数日間好天が続くことも珍しくありません。とりわけ3月になってからは、日差しの暖かさを感じます。よく除雪された道では、アスファルトの地がすっかり露出し滑る心配はありません。「もうすぐ春ですねぇ〜遊びにきませんか!」という昔の流行歌の一節がつい口に出ます。充実した研究生活というにはほど遠い状態ですが、今は身の丈にあったリズムで仕事をしています。日頃通っているINION(科学アカデミー・社会関係諸科学学術情報研究所)図書館の閲覧室には、雀が数羽棲んでいます。難解なロシア語の表現に躓くと、しばし雀と戯れます。閲覧室の一番前の机で本を読んでいると、目の前に雀がやってくるのです。先日は手持ちのデジカメで雀の写真を撮りました。さすがにフラッシュは躊躇われ、よくとれませんでした。この図書館は、国立(旧レーニン)図書館に比べると規模は小さいですが、閲覧者を信頼してくれているため、とことん自由が利きます。デジカメは、史料の複写のために持ち込んでいます。おそるおそる司書に使用許可を求めたところ、「Why not ?」と言われました。ノートパソコンを使ったり、それにスキャナをつけて文献を複写している人もいます。ロシアでここまで寛大な図書館は珍しいでしょう。専門家向けの図書館だからだと思います。レーニン図書館は、パスポートさえあれば、観光客さえも入館証をもつことができますが、ここは、研究機関や大学などの推薦状が必要です。レーニン図書館などは、辞書さえ持ち込めません。筆記具とノートだけです。大衆に広く開放されているから、規則がやたら厳格なのです。二つの図書館を比べてみると、帝政ロシア以来の規制と自由の両極の伝統が生きていると思われます。古典主義とバロックの対比にとどまらず、全体主義と無政府主義の両極につながる伝統と言えるかも知れません。この両極の狭間で生きているわけですから、建前通りとか本音剥き出しと言うわけには行きません。色々と厄介な問題が続出するわけです。ここからは普通、精力的な喋くりが展開されますが、ふっと口をつぐんで世捨て人になり、スキットといわれる方丈や洞窟に寝起きする隠修者の生活も用意されています。ロシア正教会の典礼は、喋くりとか議論につかれた人の参加を見込んでいるようです。皆さんよくご存知のカラマーゾフの兄弟でいえば、あれだけの喋くりの果てに、アリョーシャの静寂に至る物語がロシア社会のある筋道のように思われます。

今日夕刻、細君と娘息子の三人がモスクワに着きます。子供たちはかつてヨーロッパへ行くときのトランジットで、シェレメチェヴォ空港に降りたとき、この国にはどんなことがあっても絶対行かないと言っていましたが、そのときはそのとき。でもかなり大きなカルチャーショックを受けるでしょう。約10日間をモスクワですごして、子供たちだけで帰ります。また夫婦二人のモスクワ生活の再開です。4月10日からは、ペテルブルクに転居する予定です。建都300年祭を機にサミットが開かれる予定で、5月末から6月はじめには空港閉鎖があるそうです。この国では予定通りに事が運ばないのをあらかじめ予定しておかねばなりません。(……)

 

 

INIONの建物を背景にして(道路の向こう側低層の建物)

 

 

 

特別寄稿

 

大学院と大学院生活

 

           (東京大学大学院法学政治学研究科修士課程1年 旧ソ連・ロシア政治史専攻)

                                          柿沼 秀樹

 

 今回もまた大学でお世話になった田辺先生と友人の平岩君からの強い依頼により,本来部外者である僕が寄稿させてもらうことになった。書くからには読者にとって有益な情報をユーモアをこめて書き連ねたいと思う。

 

 僕が大学院進学したのは,理由も見つからないままに就職したくなかったからであり,大学で4年間も学生をやってた割には一向に頭が良くなっていないことを自覚したからである。

前者については,何も働きたくないという精神でものを言っているわけではない。理由なく入社することは、すなわち強制的に「会社人間」にさせられてしまうだろうと思ったからである。ところで丁度今日この原稿を書く前に1ヶ月ぶりに友人から電話がかかってきた。その友人はM銀行に今年の4月から就職していた。次のような愚痴が耳に伝わってきた。「うちの会社では、『一時間』の中休みを『30分』と読むらしい。『5時』退社を『9時』退社と読むらしい。この前先輩に真顔でこう言われたよ。『世の中には二つの常識がある。社会の常識と会社の常識だ』と。つまりそういうことらしい。社会では片手の指は5本でも,会社ではそれは3本にも6本にもなるということだ。こういうのをオーウェルでいうところの『二重思考』って言うのかな。・・・それはともかく今度飲まないか。」これがもし現実なら,僕は到底生き延びられないに違いない。

後者については,大学生活の後になってようやく分かってきたことである。特に卒業論文を書いている時期に,僕はこれまでやってきた勉強がいかに単なる知識の集積作業に過ぎなかったかを痛感させられた。その裏返しとして、その頃になってようやく研究者というものを尊敬できるようになった。知識だけではなく,それを分析する力をつけて,初めて自分の意見がしっかりとした根拠を伴って言い表せられるのだということ,僕は今から一年も満たない前に知ったのである。

大学院進学,これはとっても大変だった(かなり当たり前だが)。僕は大学院を自分にとって適切な指導教官と設備の充実度で選んだ。すると候補としては第一に東大がでてきた。東大には3人自分にとって適切な教官がいたが,そのうち経済については僕は素人なのでまずだめだろうということで除外し,政治と西洋史の二つに的を絞った。一方自分の出身大学の慶応では,やはり政治に適切な教官がいた。西洋史には皆無であった(そもそもだからこそこうやって 他の大学院を選ばなければならなかったのである)。だが慶応の場合はロシア史に限って言えば図書館がどうしょうもなかったので(これは大学生活を通じて常に感じてきた),第一希望はやはり東大に向けられた。

選抜方法とその実施時期は各大学各研究科によって全く異なる。東大政治(9月初試験)は専門試験3科目+語学科目(辞書持ち込み不可),ただし,論文を提出してそれがよければ専門試験を免除しますよという制度があったので,僕はこれに便乗した。慶応西洋史(9月末試験)は事実上語学科目2科目(辞書持ち込み可)、慶応政治(9月末試験)の場合は専門科目2科目と語学科目(辞書持ち込み可),東大西洋史(2月頃試験)は,結果として受けなかったので知らない。

すると僕の受験勉強計画は次のようになった。8月初めまでは専門科目免除のために論文を書く。8月中は英語と政治科目を必死にやる(特に政治については素人なのでかなりハードにやった)。9月東大政治の英語が終わった後は、政治,英語,ロシア語をやる。その後東大政治が落ちたら,急いで東大西洋史の受験対策に乗り出す。ちなみに英語の勉強では『社会科学系英語問題と解答』(中 央ゼミナール編、東京図書,1996)という参考書が役に立った。

事前に行う勉強については本人の努力次第なのであまり言う必要はないが,二次試験なるものについてはもう少し言っておく。大学院の二次試験は,見る限り結構落とすものである。その理由は単純で、大学院受験は大学受験のようにある一定数まで「落とす」システムではなく、ふさわしい人間だけを「採る」システムだからである。だから二次試験では「ふさわしいかどうか」はかなりじっくりと検討に処される。とにかく大事なことは,何を研究したいのか,どうしてそれをやりたいのか,どれほどそれについて知っているのか,ということであろう。僕は東大政治では40分間を8人の審査官に囲まれた。その間に,自分の書いた論文についてのスピーチをし、それを叩かれ,それを反論し,それを再び叩かれ,そこへ大学院で何をやりたいかを根掘り葉掘り聞かれ,最後に不意打ち的に難題を出され,答えられないでいると,「もう時間ですから」といわれて退出を促された。さすがにあの時は僕も不合格を覚悟した。そしてその後合否の発表の日まで毎日飲んだくれていたことは今でもよく思い出される。

 ここで話を入学後に切り替えよう。入学式はどこかの狭く汚い教室で,簡素に行われた。実際に何の感動も沸かないほどに簡素なものだった。僕はそれに対して憤慨すら感じていた(「何だって安田講堂じゃないんだろう?名称にしたって「入学式」じゃなくて「入学歓迎式」だ。しかも教官の何人かは堂々と居眠りすらおっぱじめていやがるじゃないか!」)。さらい加えて,3時間の「入学歓迎式」のうちほ ぼ1時間くらいが保健管理センターの人による「うつ病」についての傾向と対策の講義に費やされた(これはおそらく,数ヶ月前に助手の一人がわけあって自殺したのことによるのだろう)。僕はいまだかつて,入学日という晴れ晴れしい日に,うつ病について延々と講義を聞かされるという体験談を他の人から聞いた覚えは無い。

 授業について。はっきり言って「辛い」以外にここで申し立てることはない。僕の場合,今まで歴史を主としてきたので,政治についてはほとんど素人である。「新しい挑戦」とはいえ,毎週50ページ程の国際政治に関する 有名な論文を読み,かつ毎週課される設問に解答を用意しておいて,当日に討論を行う、という一連のプロセスはやはり負担である。この科目は「国際政治入門」であるが、どんなに誇張しても「入門」とはいえない内容である。大体において授業形式が演習の形態をとっているものは,えてして非常にきつい。私の指導教官である塩川伸明教授のゼミも、やはり討論という形式をとっている。各週の授業であるが、討論主催者(発表者ではない。何故なら発表はしないからである)は前の週までに原稿を皆に渡し,各自は当日までにその原稿を読み,検討して,当日に討論に臨む。討論では先生にではなく,同じ院生によって激しく鋭い批判にさらされる。発表主催者は各出席者からの批判の要点をすばやくまとめ,至らなかった点を率直に認め,反論できる部分を率直にぶつける。議論が行き詰まると先生が調停者的に発言を行い、次の議題へと事が運ぶ・・・。とはいえ,このような機会を持つことができるのは,やはりこのゼミの特色であろうと思われる(このゼミは強い意志を持つ他大学の人の参加も受け入れているので,希望者はメールで連絡をとられたい。メールアドレスは,先生の作成したホームページに載っている。おそらく「塩川伸明」で検索すれば見つかるだろう)。

 ロシアに関係ある授業といえば、東大には「スラブ言語研究科」なるものがあり,そこで開講している授業は多彩である。僕も「ロシア語表現法」と「20世紀ロシア氏研究」をとっている。ここへやってくる院生は,圧倒的に他大学が多い。特に外語大がそうである。確かにロシア文学なりを志す者にとっては,この研究科は絶好の学問の場になるに違いない。

 

 僕としてはもっといろいろと愚痴めいたことを書き連ねたいのだが、それは有益な気がしないので、このあたりで筆を置く。それでは。

 

 

 

 

クラスノヤルスク市から南へ

エニセイ川上流へ、2002年秋

金倉 孝子 

(クラスノヤルスク国立総合大学日本語講師)

 

 

10月30日から11月3日まで、5日間かけて、クラスノヤルスク地方南部へ車で行ってきました。あちこち寄ったので、全行程は1500キロ程になりました。でも、この1日平均三百キロは、シベリアにしてはとても少ない距離です。というのも、路面凍結の日があったりして、スピードを出せなかったからです。

 

クラスノヤルスク市を午後出発し、エニセイ川の左岸に沿って、国道54号線を、400キロ程南下して、ハカシア共和国の首都アバカン市(人口15万人)で第1日目は泊まりました。南下すればする程、半乾燥地帯に入っていき、森林は少なく、代わって草原が多くなります。

ハカシアはソ連時代は、ロシア連邦構成「自治共和国」でしたが、ソ連邦がなくなって、今ではロシア連邦構成「共和国」といいます。一応「共和国」なので、自分達の大統領、内閣、国会など持っていますが、地方自治体の知事、県会とあまり変わりません。外交権は勿論、ロシア連邦政府にあります。カフカス地方の、例えば、チェチェン共和国のように、ロシア連邦から分離独立などを要求したことは一度もありません。ハカシア人のための国ですが、住民の中でハカシア人は20%以下で、他はロシア人達です。ハカシア人はモンゴルの北から南シベリア、中央アジアに古くから住んでいたチェルク系民族の子孫だそうです。

 

 2日目は、さらに、半ステップ(草原)地帯を南下して、巨大な(昔のソ連のことですので、そんなものを建設した)サヤノ・シューシンスキー水力発電所のあるチェリョームシカ市に向かいました。

 エニセイ川やエニセイ川の支流には多くの発電所があります。1955年から71年にかけて作られたクラスノヤルスク発電所は、当時はロシア第一の規模でした。その後、エニセイ川の600キロ程上流に、78年から超巨大なサヤノ・シューシンスキー水力発電所が作られたので、ロシア第2の規模になりました。

エニセイ川の上流の峡谷は、手づかずの自然が残っていて、絵のように美しいのです。勿論すべての渓谷を自分の目で見たわけではありませんが。エニセイ川の、クラスノヤルスクから北の下流はクルイーズ船がありますが、南の上流は、大きな船の運行はありません。ダムがあったり、それこそ渓谷があったりで、筏やゴムボート、カヌーでなければ、今は通行できません。ちなみに、カヌーでの川下りは、観光客に人気があるそうです。私は、カヌーではなく、車で行ったので、エニセイ沿いの道に出たり、遠ざかったりで、全貌は見られませんでした。

エニセイ上流の手づかずの自然のような所は、シベリアにはたくさんあり、ソ連時代にはそうした地に、例えば、発電所を作ったりしました。発電所を作るためには、そこへ行くまでの道路を、まず作らなければなりません。また、その発電所を建設する労働者、そして、建設後はそこで働く労働者のための新規の町を作らなくてはなりません。そのようにしてできたのが、サヤノ・シューシンスキー発電所のためのチェリョームシキ市です。

 

アバカン市を出発し、さらに、南へ南へと草原の中の、鋪装道路を100キロ程走っていくと、右手に遠く、煙りをもくもくと吐き出す巨大な工場が、見えてきます。草原で遮るものがないため、遠くまで見えるのです。これは、サヤノゴルスク市と言う新興の工業都市で、サヤノ・シューシンスキー発電所からの電力を使うアルミ工場です。勿論公害垂れ流しで、サヤノゴルスク市へ入ると、それだけで、不快な匂いがしてきます。人口5万人だそうですが、その人たちの健康はどうなのでしょう。ソ連時代は、このような環境の悪い所で働く人は、年間休暇が多く、長期に黒海沿岸などのリゾート地、保養地などへ旅行できると聞いたことがあります。今は、どうなっているのでしょうか。

 この公害都市を抜けると、突然、美しいエニセイ川沿いの道で出ます。そこは、山の中の絶壁に囲まれた山道ですので、山国日本の「白山スーパー林道」なんかと少し似ていますが、エニセイのような川が流れていることが違います。また、周りの山々が、温帯地方の日本のように樹林に被われているのではなく、半乾燥地帯のため、森林は育たなくて低い草が生えているだけなこと、そのすぐ向こうの高い山々は、森林も草原もなくただ雪に被われていること、が違います。そうした半乾燥地帯の荒涼とした山々を見ると、私はいつも、「西遊記」の孫悟空でも飛んでないだろうかと思ってしまいます。

 左手にはもう川幅の狭くなったエニセイ川、その向こうには人気のない西サヤン山脈、右手にはこれも西サヤン山脈の絶壁を見ながら進みます。川に沿ってところどころ絶壁を爆破して道を作ったようです。50キロも走ると、突然、高さ240メートル(エッフェル塔でも300メートル)のサヤノ・シューシンスキー・ダムにぶつかるように、その道がおわリます。

 夏には、クラスノヤルスクから出発して船で、エニセイ川を下りましたが、今回は、車で、上流へ行ってみたわけです。サヤノ・シューシンスキー発電所より上流は、長い長いダム湖が西サヤン山脈の中にできています。西サヤン山脈の中に勿論、道路は、ありません。地図を見ますと、サヤノ・シューシンスキー・ダム湖を、さらに遡っていくと、トゥーヴァ共和国(ロシア連邦構成共和国の一つ)との国境をこえ、その首都のクィズィール市でエニセイ川は、大エニセイと小エニセイに別れ、さらに南へと、モンゴル高原に続く山岳地帯にのびています。アバカン市からクィズィル市に出るには、峡谷を流れるエニセイ沿いの道ではなく、別の、盆地を横切る国道54号線を通ります。

 さて、サヤノ・シューシンスキー発電所には博物館がありますが、見学のためには、前もって、パスポートのコピーを送って、許可をもらわなくてはなりません。発電所そのものも、部外者は近付くことはできません。ロシアは発電所に限らず、あちこちに、禁止地区があります。誰かがその発電所を爆破すると、6400メガワットもの発電力のダムがなくなるだけでなく、チェリョームシカ市や、多くの戦略的に重要な工業都市があっという間にエニセイ川の水に押しながされてしまうからだそうです。確かに、チェリョームシキ市は数秒後に水面下240メートルの水中都市になってしまいます。

今回、ファックスで博物館見学の許可申請をしておいたのですが、行ってみると、モスクワのテロのため、見学禁止と言われました。エニセイ川左岸に見晴らし台があると聞いて、砂利道を車で登っていきました。かなり登って登って行った所にある少し開けたところが見晴らし台でしたが、それでも、ダムの高さより低いので、ダムの向こう側は見れませんでした。途中検問所があって、車の中など調べられました。ロシアではどこでもそうだと思いますが、検問所と言えば、いつも、防弾チョッキを着て自動小銃を持った兵士が、「武器は持ってないか!」と質問します。

チェリョームシキ市は、発電所のためだけにできている人口2万人程のミニシティで、ロシア不景気のリストラのため、失業者が増えているそうです。大都市なら他にも産業はあるでしょうが、ここは、発電所しかありません。耕地もありません。発電所を解雇されたら、どうするのでしょうか。他の町も失業者が溢れていますし。

袋小路にある町なので、三方が自然の絶壁に囲まれた要塞都市のようです。戦国時代でしたら、きっと堅固だったでしょう。市のホテルと言っても、観光客のためと言うより、発電所関係の出張者のためにあるので、アパートのように台所付きでした。これは、家具付きアパートを日割り制で貸しているといった方がいいです。

チェリョームシキ市のすぐ横を流れるエニセイ川を見て、3000キロ下流の大河は想像できません。ダムがあるために特に狭いのでしょう。と言うより、狭いから、クラスノヤルスクから600キロも離れた所にダムを作ったのでしょう。西サヤン山脈の向こうのトゥーヴァ盆地に入ると、また広くなります。

 

次の日は、チェリョームシカ市から、道を少し戻って(何しろ、そこは突き当たりの袋小路なので、それ以上は行けません)マイナ村と言う所にある小さな発電所のダムの上(これが、橋になっている)を通って、エニセイ川の右岸に出、シーザヤ村で、車を止めて写真を取りました。このへんは一歩一歩が写真にとって残しておきたくなるほど美しいのです。この人里はなれた村に、大理石をふんだんに使った白と青の美しい教会があります。対岸のマイヤ村からもよく見える高台に建っています。これはソ連時代に新築された唯一の教会だそうです。というのも、シザヤ村は、有名なレスリング選手ヤルィギンの故郷で、彼は、たぶん、体育会系官僚を動員して、自分の母親と同じ名前の「聖エウドキヤ」教会を建てたのです。立派なものです。  

シザヤ村を通り過ぎ、エニセイ右岸の道も川岸から離れ、「シベリアのイタリア」と言われる程温暖なミヌシンスク盆地を北上し、盆地の中心地ミヌシンスク市(人口7万人)にむかいました。

古代文明は大河の近くで発展しました。エニセイ川も大河ですから、古代文明が発達してもよさそうです。でも、下流の北極圏は勿論、クラスノヤルスクがある中流地帯も気候が厳しくて、文化らしいものは発達しませんでした。でも、過ごしやすい気候のミヌシンスク盆地には、2万年前からの旧石器時代遺跡、6、7千年前からの新石器時代遺跡が残っていて、4、5千年前から青銅器文明が発達しました。紀元前後に鉄器文明が生まれ、16、17世紀は、現ハカシア人の祖先達が封建国家を作りました。また、墓跡もたくさん残っていて、シベリア(エニセイ)・スキタイ文化の青銅器遺跡(三千年前)や、匈奴青銅器遺跡(2200年前)、タガルスカヤ鉄器文化など発掘調査中です。墓は巨石で囲まれていて、発掘物は、ミヌシンスク博物館に保存されています。

 それで、その日は、ミヌシンスク博物館をゆっくりと見学し、写真もたくさん取りました(有料で、60円です)。入館料はロシア人は20円、外国人は約200円です。私は「日本人だけど、クラスノヤルスクの住んでいるのだから」と言って、ロシア人料金で入りました。その他、300円を払うと、専用ガイドが雇えます。特に、物知りと言う程のガイドではありませんでした。だいたいガイドと言うのは早口でしゃべるものですが、彼女は特に早口で、「もっとゆっくり話してくれなければ、私には分からないでしょうが」と、文句を言ったくらいです。

ミヌシンスクシでは、「アムィール」ホテルと言う19世紀末に建てられた古いホテルのデラックスルームに泊まりました。というのも、デラックスルームにしかバス・トイレがついていないからです。一泊2000円でした。1年前に、来た時も同じホテルに泊まりました。ホテルの管理人が私達を覚えていました。と言うのも、ホテルに泊まる時はパスポートを見せなければなりません。きっと、日本人がこんな所まで来て泊まるなんて、珍しいことだからでしょう。

 

また、次の日は、そこから東の方へ、エニセイ川の右岸の支流のトゥバ川の支流カズィール川の中流にある、チェリョムシャンカ村まで行き、午後からは、一気にクラスノヤルスクに帰るつもりでしたが、路面凍結のため、時速20キロ以上だせず、もう1日、アバカン市に泊まって、やっと5日目に、クラスノヤルスク市に帰ってきました。

 チェリョムシャンカ村へ行こうと思ったのは、そこがやはり、クラスノヤルスク地方の東方面の袋小路だからです。

 クラスノヤルスク地方は、人口密度が世界一少ないと言ってもいいくらいの北部中部は勿論、南部でも、道路網が発達していません。最終的な交通手段はヘリコプターか小型飛行機です。中心都市から比較的近距離の150キロ程度までの村々へいく道路なら、あります。道は、途中いくつかの村々をつなぎ、そのうち、舗装がなくなり砂利道となり、だんだん道が悪くなって、最後は、はずれにある小さな村で行き止まりになり、後は、馬に乗っていくしかありません。

クラスノヤルスク地方南部の中心地ミヌシンスク市からもそうした袋小路にいたる道が3、4本、放射状にのびています。その中でもチェリョムシャンカ村に行こうと思ったのは、そこに、新興宗教の共同体があると聞いたからです。ロシアでは、昔から、正統派とみなされず、迫害された宗教団体は、シベリアの奥深くへいき、そこで文明と懸け離れた共同生活を送っていました。中でも、有名なのはスタロベーリイという「旧統派」で、シベリアのあちこちに自分達だけの村を作って住みました。今でも、人里離れた自然の美しいシベリアの小さな小川沿いにそうした古い村で、もう、住む人も少なくなっているか、または、廃村寸前の村を見かけることがあります。中には本当に文明から忘れ去られた村もあって、偶然現代文明に発見されたと言うタイガの中の集落もあったそうです。しかし、発見後その「隠れ人たち」は現代文明に犯されて全滅したとか言う話です。

さて、チェリョムシャンカ村は、「旧教派」ではなく、1961年生の「現代のキリスト」と名乗る宗祖が組織した新しい宗団で、シベリアの中でも、最も美しいクラスノヤルスク南部の、気候の比較的温暖なミヌシンスク盆地のはずれ、東サヤン山脈のふもとの寒村に本拠地をおくことにしたそうです。信者達は、元の生活を捨て、ここへ来て、自分達の教会をたて、自給自足の共同生活をしています。宗祖ヴァッサリオン=キリストは、ドイツ伝導中で留守でした。

たまたま村の道で会って話をし、自分達の建設中の家まで見せてくれたモスクワ出身の信者リューバさんが、昼食に招待してくれたのもお断りして、2時頃、そこを出発しました。

チェリョムシャンカ村の側を流れるカズィール川の上流は東サヤン山脈のイルクーツク側までさかのぼります。カズィール川にも、その大きな支流のカジール川にも、もう氷が流れていました。後数日ですっかり凍ってしまうでしょう。カズール川の橋の上から、下をゆっくり流れていく氷を眺めていると、周りの景色の美しさに引き込まれ、寒いのも忘れてしまうくらいでした。

しかし、ぱらっと雨が降った後が大変でした。雪ではなく雨が降ると言うのは、クラスノヤルスク市では気温が高い証拠なのに、ここ、ミヌシンスク盆地では、少し気候の型が違うのでしょうか、なぜか、寒くなって、地面に降った雨が凍り、スケート場のようにつるつるになりました。アバカン市まであと80キロ、クラスノヤルスクまで500キロと言う所で、もうほとんど通行不能なくらいの路面凍結になりました。こちらで、路面凍結と言うと長距離バスも運行をストップします。つまり、道路交通が途絶えるくらい深刻です。と言っても、どうしようもないので、ホテルのあるアバカンまでの道を時速20キロ以下でそろそろと運転していきました。途中、霧が出て、5メートル先も見えなくなったりしました。

夜遅く、やっとアバカンに着き、ホテルを捜しました。「アバカン」ホテルは、一泊2千円と言われたので、断り、1400円の「ハカシア」ホテルに泊まりました。三日前、来る時泊まったホテルも「ハカシア」でした。その部屋は、ゴキブリが這い回っていたので、本当は600円高くても、「アバカン」の方がいいと思ったのですが、高いホテルにゴキブリがいないとい保障はありません。「ハカシア」ホテルの窓口で「ゴキブリのいない部屋にしてちょうだい」と一応言ってみました。「うちは、定期的に殺虫剤を撒いているから大丈夫よ」と言われました。恐る恐る洗面所を見てみると、本当に今度はゴキブリの姿は見えませんでした。人間には無害な殺虫剤だったかどうか、気になりましたが。

 

アバカン市で予定外に一泊し、次の日、5時半に起きて、クラスノヤルスク市へ向かいました。400キロ強の道のりで、夏場なら半日でいけるでしょうが、今は道路状況が分かりません。特に、クラスノヤルスク近くなると丘陵地帯、つまり山道を走ることになります。今頃は早く暗くなりますから、灯の全くない雪の山道を走るのは危険です。

しかし、ハカシア共和国を北上してチュルィム川盆地に出ると、道路状況はよく、少し安心しました。ここも、半乾燥地帯の草原で、国道54号線沿いにまで、昔のクルガン(古代の墓)が残っているので、時々車を止めて写真を取りました。

 

 ハカシア共和国の国境をこえて(と言っても、看板があるだけ)クラスノヤルスク地方に入り最初の大きな村は、ノヴォショーロフカ村で、広大なクラスノヤルスクダム湖左岸に面した「港町」です。船着き場があり、対岸へフェリー船が通っています。30分で320円だそうです。対岸にはリゾート地、保養所があるそうです。そこが袋小路になっているのかと言うと、そうではなく、最近、右岸に新道ができ、ミヌシンスクまでも通じているとのこと。私の持っている最新の2001年印刷の地図にも載っていませんから、これは、大発見です。信じられないので、近くの検問所の防弾チョッキで自動小銃を持った人にも念のため聞いて確かめました。ここに、サヤノ・シューシンスキー発電所のような禁止地区はありませんが、ロシアでは、国道の要所要所にこのような検問所があるのです。江戸時代の関所のようなもので、「手形」の代わりにパスポートや免許証などを調べることもあります。調べないこともあります。

ロシアで新しい道ができるなんて珍しいことです。次回の長期ドライブは、ぜひ、新発見のコースを試してみたいものです。

5日前に通った道を戻り家に帰り着いた時は、やはり暗くなっていました。

 

 

 

県大祭のこと

 

平成14年度の愛知県立大学「県大祭」において、おろしゃ会は3日間でピロシキ630個を完売しました。私たち は試行錯誤を重ね、県大祭では完成されたピロシキを提供することができました。食べ物というのはその国の文化を知るうえで、手軽でありながらも重要です。ピロシキは有名なロシア料理ですが、口にする機会はなかなかないでしょう。今回の模擬店のピロシキを通して、ロシアに親しみを持ってもらえたのではないかと思います。

出店にあたり、大学祭実行委員会さん、他サークルさん、先生方など、多くの方に協力をして頂きました。おろしゃ会は縁故に恵まれ、とても幸福です。皆様、どうもありがとうございました。

今年度のおろしゃ会は、県大祭でボルシチを提供する予定です。ボルシチは、赤いスープが魅力的なロシア料理です。またまた試行錯誤をしながら、本場ロシアのボルシチに負けないものを作ることを目標としています。

本年度もおろしゃ会をよろしくお願いします。(文責/加藤彩美)

 

2003年度「おろしゃ会」役員

 

会長  加藤彩美(文学部英文学科2年)

副会長 萩野祐樹(外国語学部ドイツ学科3 年)

田村明子(外国語学部フランス学科4年)

鈴木敦子(外国語学部フランス学科4年)

会計  横山弥生(外国語学部中国学科4 年)

広報  木村美幸(文学部英文学科2年)

 

 

 

あとがき

 

この度、中澤敦夫氏(新潟大学教授)の労作『マグヌス王写本の研究』が、ロシアで出版された。中澤さんは、199912月の会報第3号にリハチョーフ先生の葬儀の模様を伝える記事を書いてくださったばかりではなく、200012月の第5号には、文献学カンディダートの「学位取得記」を寄稿してくださった。このときの論文が、このほど出版された本のもとになっている。「学位取得記」を読んで感心したのは、論文審査のあと、お祝いの宴が開かれることであった。

618日に今度は出版を祝う会が開かれるというので、ロシア文学研究所(通称プーシキンスキイ・ドーム)に行ってきた。まず大ホールで学術講演が行われた。講師は中澤さんの指導教官を務めたアレクサンドル・ボブローフ(写真中澤氏の左) である。その後、こじんまりした部屋に場所を変え、手作りのおつまみやケーキなどを持ち寄っての祝宴が始まった。下の写真には、一部しか写っていないが、さらにこれに倍する人々が集まって、口々にアツオに祝辞を述べた。非常に和やかな雰囲気で、こうした研究者仲間の連帯感こそ、中澤さんの宝物だと思った。連帯感は横のつながりだけではなく、縦のつながりでもとらえられていた。というのは、祝辞の中には、中澤さんの日本における恩師・中村喜和先生との学問的継承性に触れたものがかなりあったからである。ちなみに中村先生もこの春ロシアで本を出された。本の標題は、いみじくも『日本海に架かる見えざる橋』と言う。人と人との繋がりの不可思議さと大切さを教えてくれる。(加藤史朗)

 

同僚の祝辞に答えてスピーチする中澤氏・氏の右手のボブロフ博士は、現在北大スラヴ研究センター客員研究員として札幌に滞在

 

私は、その美しい発音に惹かれロシア語を学び始めた。必要に迫られてもいないし、やめようと思えばいつでもやめられる。それでも一生懸命になれるのは、私は言語を芸術だと捉えているからだ。絵画、彫刻、映画、音楽や文学と何ら変わることのない芸術だと。芸術家は自己を表現する手段として、作品を制作する。言語もそうだ。自己を表現するために言語は存在するのである。

おろしゃ会は今年度も数名の新入部員を迎えた。彼らがかつての私のように、ロシア語をきっかけとして、言葉の存在する理由や人と人とのあり方を考えてくれたらと思う。(加藤彩美)

 

 

 今回で愛知県立大学「おろしゃ会」会報は、記念すべき第10号の発行を迎えることができました。創刊号が出たのは4年前、199938日でした。ここまで継続することができたのも、学長をはじめ愛知県立大学の先生方、本誌に貴重な原稿をお寄せくださった方々、そして多くの読者の皆様のおかげです。この場をお借りして、学生会員を代表し深くお礼申し上げます。

「おろしゃ会」とともに過ごした4年間の大学生活は本当にあっという間でした。この春に愛知県立大学を無事卒業し、4月からは京都で大学院生として の第一歩を踏み出しました。遠方からではありますが、これからも会報編集をはじめサークル活動を支えていければと思います。(平岩貴比古)