おろしゃ会会報 第11号その2

2004年 4月18日発行)

 

2004年4月7日入学式の日に会長の加藤彩美とマリーナ(食堂前の緑地にて)

 

以下の文章はサンクト・ペテルブルクで知り合った大谷さんから寄稿していただいたものです。大谷さんは、一昨年まで本学の中国学科で教鞭をとられていた西槇先生(現熊本大学)のご友人だそうです。

 

混沌

             大谷幸太郎(在ペテルブルク・東京大学大学院)

 

ロシアの旧都サンクト・ペテルブルクの中心部に蜂起広場という所がある。ネフスキー通りとリゴフスキー通りが交差していて、この23年、車の数が激増したせいか、日中はいつもひどい渋滞だ。この広場に面した10月ホテルの前から毎日午後10時頃、78台のバスがフィンランドの首都ヘルシンキに向けて一斉に出発する。

2004229日。今年はこの日が冬の最後の日だ。渡辺謙のアカデミー賞受賞の成否が気になりつつ、ぼくがアパートを出たのは午後9時半近くになっていた。日曜日なので車をつかまえにくい。ようやく拾って、飛ばしてもらう。どうにか最後の1台に間に合った。フィンランドとの国境近くにある小さな町ヴィーボルグまでウトウトする。午前0時過ぎ、小さな店の前に止まった。ここでバスの乗車客は買い物をする。缶ビールを2ダース入りの箱ごと、そのほかアルコール飲料を何やらごっそり買い込んでいる。もちろんフィンランドで密売するためだ。ビザの期限が1日だけであればタバコ1カートンのみ、4日以上ならそのほかにウォッカ1リットル、ワイン2リットル、ビール16リットル()まで持ち込めるのだが、売るのはとうぜん違法。このような密売客をターゲットにした卸売り店がヴィーボルグには数軒ある。バスはヴィーボルグ駅前でも止まった。暗い広場に闇両替が待機している。ここから国境手前の旅券審査所と税関のある建物まで340分。検問が3箇所ある。普段はいちいち軍人が乗り込んできて全員のバスポートをチェックするのだが、この日は1度だけ。国境まで順調に辿り着いた。ここで全員バスを降ろされる。旅券審査所と税関を通過。税関には職員が1人もいない。最後の検問所を経て国境を通過しフィンランド領に入る。順番待ちをしてから旅券審査所と税関のある建物の前に停車。さっき欲張って「余計な」(つまり規定以上の)買い物をしてしまった人にとっては緊張する瞬間だ。ここでフィンランドの係官から荷物を「すべて」持って降りるように指示されるとアウト。酒類・タバコは没収。「前科」印をパスポートに押され、次回からはビザの発給を拒否される。このチェックは抜き打ちだが、この日はなかった。バスに乗り込んだのは午前2時半過ぎ。近くの休憩所で一息ついてから、あとは一路ヘルシンキだ。

通路に伸ばした足に誰かが触れたので目が覚めた。すでにヘルシンキの中心街。時計を見るとまだ5時前。今日はやけに順調だ。没収・押印でひどく時間を食ったあと、高速路上でバスのエンジンが壊れたなどということも、そういえばあった。いつものバス用駐車場に到着。「後ろのドアを開けてくれ!」と男が怒鳴って出て行く。彼はぼくを除くと唯一の男性客だ。どういうわけかもう寝付けない。一頃はこの駐車場の手前でタバコ目当ての車が急停車、素早くロシア人と取引して急発進、なんてことを早朝から繰り返していた。警察に目をつけられ、取引所が変更になったが、そこにもいつしか監視カメラが設置されてしまった。それでもあの手この手で密売はつづいているらしい。

7時半過ぎ、まだ早いが(フィンランドはモスクワ時間より1時間遅い)バスを降りることにする。全員寝ているので、通路に橋渡しされた何本もの足をまたぐなり、どけるなりして運転席までたどり着くのに一苦労だ。運転手を起こしてドアを開けてもらった。……

郵便局と図書館で用事をすませてバスに戻ったのは出発時刻午後12時半の直前。怒鳴って出て行った男も赤ら顔をして戻ってくる。商品を自分も呑んでいたのだろう。ここからが第2部。スーパーマーケットに2軒寄って高速道路に入ったころから、話声が大きくなる。いつものことだ。ヘルシンキでタバコ・酒類をさばいて(じつはバスが引き取る)無事ユーロを手にした乗客たちの次なる関心は、自分の行きたい店にバスを誘導することなのだ。バスごとにコースが違うので、買い物目的の客は乗車前に確認するのだが、それでもあとで意見がぶつかることはよくある。というより、最初からコースをきっちり限定してしまうと客が集まらない場合があるので、バス側は最初ある程度ぼかして客を乗せてしまい、間際になってからリクエストを擦りあわせようとしているのではないか。それだから争いになる。今日はなかなか激しい。女性客から放送禁止用語が飛び出す。この密売兼買出しツアーのガイドの手腕がもっとも問われるところだ。彼女はどの客も怒らせないように調整に努め、多数決をとり、それでも不満な客(その一人はぼく)をなだめ、ふたたび調整する。こんな光景はロシアではめったに見られない。今日のガイドのレヴェルは中か。さいごは自分がふてくされてしまったから。が、ともかく、このバスの中では、他社に客を取られぬようにという競争の原理もはたらいている。けっきょく国境近くの3軒の店に寄ることになった。どれもロシア人向けの卸売り店だ。商品が雑然と山済みされている。買い物は雑貨、日用品が圧倒的に多い。店員はロシア語を話す。ロシア人も仕事をしている。国境直前でタックスフリーの払い戻しを受けてから、ロシア領へ。午後6時半。まだ薄明るい。「レニングラード州」の標識が見える。

それにしても国境を挟んだ隣どうしの民族がこうも違うものか。フィンランド人はまことに堅実、勤勉、正直、親切だ。公共機関の職員も、ピザ屋や本屋の店員も、通りすがりの人たちも。顔の表情や服装、それに振る舞いを観察していれば、おのずとわかってくるものである。そしてまた、ヘルシンキは犯罪の匂いが極めて薄い町と言ってよいと思う。べつにロシア人を貶めようとしているのではない。ロシアにだって立派な人、素晴らしい人、魅力的な人はたくさんいるだろう。ぼくもそういう人たちを個人的に知っている。しかしこうして両方を見比べるなら、差は歴然としている、と言うほかはない。

ならばそういうお前は、何度もひどい目に会いながら、いったい何が面白くて7年以上もペテルブルクに住み続けているんだい?と人は訊くだろう。ぼくは「混沌」と答える。この言葉、加藤史朗先生から拝借した(「おろしゃ会設立趣意書」)。でも意味は少し違う。人間が目の前で、自分が夢想だにしなかった原理と価値観に基づいてじっさいに動き回っているのだ。これがたまらなく面白い。

 

 

 

エニセイ川右岸シシム川河畔でのお正月

2003年12月30日から1月3日

金倉孝子(クラスノヤルスク国立総合大学日本語講師)

 

2004年のお正月は、熊なら住んでいるかも知れないと言う、人里離れたシシム川河畔のキャンプ小屋で迎えました。シシム川は全長220キロのエニセイ川の右岸の支流です。東サヤン山脈から針葉樹林の中をずっと流れてきて、クラスノヤルスクより南200キロ程のところでエニセイ川に注ぐ、シベリアにしてはあまり長くない川です。

 川は長ければ長い程、下流になって汚れてきます。特に幾つもの都市や工場地帯を通って流れるヴォルガ川の下流は全く泥川になっているそうです。数十年前までは清流だったカン川も東サヤン山脈から流れ出し、イルベイスク村を通る時はまだ飲料水にできるくらいなのに、工業都市カンスクを通り、ウラン精製都市ゼレノゴルスクなどを通るうちにすっかり汚染された川になってしまいます。その点、シシム川は、開発されていない針葉樹林帯を通るので、清流のままで、魚も、うじゃうじゃいると言う話です。

 目的のキャンプ小屋は、クラスノヤルスクから直線距離では150キロ程東南の方向にありますが、もちろんそこまで道路は通じていません。クラスノヤルスクから250キロ程は、村から村へと通じる道があるので、その道をたどっていき、最後の村がシシム川の上流にあるので、そこでマイクロバスから降りて、夏ならシシム川をボートで下って目的地までいくか、冬なら凍ったシシム川の上をスノーモビールで行きます。

 今は冬ですから、スノーモビールで凍ったシシム川の上を寒さに震えながら、80キロ程下ると目的地のキャンプ小屋につくはずです。スノーモビールはバイクのようなものですから、冷たい風や雪煙がまともに顔に当るだろうと、私は防寒着の下に着るセーターを数枚や使い捨てカイロの他、額も耳も隠れる帽子、大きなマスクや幅広のマフラーを数枚用意しました。

 しかし、この暖冬です。例年のように零下30度くらいの日が数日続けば完全に凍るのですが、最近の零下10度くらいの冷え込みでは、まだ氷が薄くて弱いのだそうです。出発の日の朝、スノーモビールは危ないから、飛行機で行くのだと案内人に言われました。そして、マイクロバスで140キロ程行った途中の村、ナルバにある小さな原っぱ飛行場につきました。そこには超小型で私と同じ歳くらいの飛行機が一台、エンジン部分にむしろのような毛布がかけられて止まっていました。地元ハンターが針葉樹林に狩りに行く時に使うアマチュア飛行機のようです。

 パイロットのおじさんが、今日は天気が悪くて飛べないが、一応、シシム川方面の天候を見てみると言って、むしろをとってエンジンをかけ、暫くすると、ふわっと空に舞い上がりました。長いコンクリートの滑走路は必要ありません。80メートル程の原っぱがあればいいそうです。ひとまわりして、また、ふわっと降りて来て、気圧の状態が悪く視界も悪いため、今日は飛べないと言って、ペチカのある小屋に入っていってしまいました。

 仕方なく、私達旅行グループ客10人(3組の夫婦と、カンスクから来た家族連れの3人と、ひとりぼっちの私)と、添乗員のおばさんと、レクレーション係のアコーデオンのおじさんと、シシム川の宿泊小屋の管理人夫婦の14人はナルバ村の大きめの空家で雑魚寝をして、飛行日和を待つことになりました。何もすることがなかったので、私達14人は食べたり飲んだり歌を歌ったり、レクレーション係のおじさんの司会でゲームをしたり、冗談を言い合ったりしていたので、キャンプ地到着の前からすっかり親しくなりました。

 村は下水がないので、トイレは家から離れた小さな小屋まで行かなくてはなりません。夜は電燈もないので、トイレの穴に落ちる危険があります。夜だから誰にも見られないだろうと思って外の影になったところでしようにも、犬に吠えられます。ここが田舎生活の厳しいところでしょうか。

 翌日。その日も曇りで、飛行日和ではないと始め言っていましたが、天気も余りよくならないのに、12時に決行と言うことになりました。この日、出発しなければ、私達はナルバ村でお正月を迎えることになってしまいます。とはいえ、無理な飛行で事故が起きるのも恐いです。クラスノヤルスク知事が針葉樹林地帯にある自分の別荘からヘリコプターで帰ろうとして、墜落死したのは1年程前のことでした。大ニュースでしたからみんな覚えています。

でも、行くのを止めるとは、誰も言いません。私も、ここまで来たことですし、落ちない可能性もありますし、落ち方によっては死なない可能性もあると思いましたから、黙っていました。一年前の事故も、乗客の全員が死亡したわけではありません。太めの知事は死亡しましたが、軽傷ですんだ新聞記者もいました。  

添乗員に聞いたところによると、旅行期間中の事故については一人最高10万ドルの保険金がおりるそうです。120万円では、日本の遺族も大変です。ロシアならそれなりの金額ですが。

 さて、パイロットの息子の少年が飛行機の上にのってほうきで雪を掻き落とし、荷物も積み込んで、準備が整いました。さあ、出発です。私達はふわっと空中に舞い上がり、雪の積もった針葉樹林の上をふわふわ飛び始めました。私はどの辺に落ちたら軽傷ですむかと、窓から眺めていました。

 気圧の関係なのか、飛行機がぼろなのか、ひどく揺れます。私に冗談を言ってくれた夫婦連れも黙っています。ふと見ると前に座っている女の子が嘔吐物の入ったナイロン袋を手に持っています。私は、ナイロン袋が手許にありません。後ろの男性が、自分の毛糸の帽子の中に嘔吐しています。隣のおじさんは手袋にです。目的地まで100キロもないので30分くらいの飛行時間だ、と言われていましたから、時計を見ながら我慢していました。頭を機体に付けて飛行機の動きに身を任せれば、あまり酔わないかと、必死で嘔吐を堪えました。30分を過ぎても、まだまだ、低い山々や、先の尖った樅の木の森がどこまでも続き、飛行機は上下左右に気持ちの悪いゆれ方をしています。こんな状態が続くくらいなら、落ちた方がましだとさえ思ったほどでした。

 やがて、40分も飛んだ頃、小屋の管理人が、もうそろそろだと言いました。飛行機は上がる時と降りる時が危険なはずです。特に、キャンプ小屋近くはシシム川の谷間になっていて、そこの気候は着陸用飛行機にとって一段と不利のようです。でも、飛行機がやっと高度を下げてくれた時は、どうなってもいいから早く地上に降りたいと思いました。

 シシム川の川辺の小さな原っぱに無事着陸すると、私達は飛行機から転がり出て来て、雪の上に座り込んで吐きました。毛糸の帽子の中に吐いた男性は、雪の上に飛行内容物を空けています。

 暫くすると、飛行機の音を聞き付けたのか、そりをつないだスノーモビールがキャンプ小屋からやってきて私達の荷物を運んでいってくれました。スノーモビールのガソリンのにおいをかいて、私は気持ちが悪くなってまた吐きました。

 キャンプ小屋村は、一階が食堂と蒸しぶろと台所で2階に3つ部屋のある大きめの家と、バンガローのような小屋が、8軒程建っています。ちょっと離れたところにトイレ小屋、物置き、従業員の小屋などがあります。電気は自家発電で、節約のためか、昼間と深夜は、発電機は運転を止めています。

 水道はありませんが、雪と白樺の薪はたっぷりありますから、雪をとかしてお風呂に入ったりするのかと思っていました。でも、そうではありません。キャンプ小屋があるのは、シシム川が岩のそばを流れるところにあるのですが、小屋の管理人によると、普通、こうしたところには、地中や岩のあちこちから年中一定のプラス4度くらいの地下水ヤ岩水がじわじわとわき出しているのだそうです。その岩清水が合流してせせらぎとなりシシム川に注ぎます。そのせせらぎからコップで水を汲んで飲みます。バケツですくって、沸かしてお茶を飲んだり、蒸し風呂用の桶に入れたりします。

台所の後ろを流れて生活用水として利用されているこの小川の上流をたどってみたのですが、10メートルも行ったところで雪にかぶさった岩山で終っていました。雪の下にもっと細い小川が流れているかもしれません。下流をたどってみると、これはどこまでも流れていました。凍っているシシム川に合流しても、その小川のせせらぎはシシム川の隅を流れていました。なぜ、凍ったシシム川の端っこを凍らない小川の水が数キロも流れていくのか不思議です。せせらぎの水でシシム川の氷がとけるか、寒いシシム川のためせせらぎの水に氷が張るはずです。これは、プラス4度のせせらぎの流れがかなり早いから、かなり先までも凍らないそうです。でも、零下30度40度になると、さすが、湧き出たばかりの小屋の近く以外は凍ってしまうそうです。

 暖房は、すべて白樺の薪のペチカです。バンガロー小屋には、一軒づつ夫婦や家族連れが泊まりました。自分達で薪をくべなくてはなりません。眠りこけていると夜中に燃え尽きてしまって寒さに震えて目を覚まし、もう一度ペチカを焚き付けなくてはならないと言うことになります。薪の調達以外はセルフサービスです。

 私は食堂の2階の小さな一人部屋を当てられました。食堂の暖炉の熱はなぜか2階まで登ってきません。部屋には小さな電気ストーブがおいてあるだけでした。自家発電の電力は弱いのでストーブの火力も弱く、さらに、昼間と深夜は自家発電が止まるのでストーブも冷たくなります。「寒くてたまらない」と言うと、大きなガスボンベを一本くれました。でも、室内ではさすが凍え死にはしないでしょうが、ガス漏れや酸欠になってはそれこそ危険だと思って睡眠中は消しましたから、夜中は寒かったです。結局、ふとんを何枚ももらうことになりました。隣の夫婦は寝袋をもらったようです。

旅行会社や小屋の管理人側としては、旅行客をこの大自然の中に案内し、食事付き宿泊所を提供すること、さらに31日夜の新年用御馳走や余興を用意することなどがサービスの内容で、それ以上のことはしないようです。自分でしたいことを見つけてしなくてはなりません。ここでできることは、スノーモビールに乗ること、凍ったシシム川の上をスキーを履いて走ること、凍ったシシム川に穴を空けて魚をつること、蒸しぶろに入ること、ヴォッカを飲むこと、食堂の隣でビリヤードをすることの他は、周りを散歩するか、寝ること以外はありません。

私は3日間の滞在中それらを一通り試みました。何と言っても凍った川の上をスキーをはいて走ったり歩いたりと言うことは日本(金沢)では体験できないことです。そればかりか、凍っているかどうか分からない川の上を歩くと言うことも日本ではしません。

 小屋の近くのシシム川は凍っているようですが、上に雪が積もっているため、厚い氷なのか全く薄い氷なのか分かりません。雪の上をスノーモビールが通って跡をつけてくれましたから、そこは安全そうです。スノーモビールが沈みかけて川面が見えるところは、除けた方がよさそうです。少し沈んだ跡があって水がかぶさっていても、素早く通り過ぎるなら大丈夫です。

 しかし、これは体重にもよるようで、私達の通った跡をたどってかなり太めの女の人が通った時、その人の足下が沈んでいって水に浸かってしまいました。「ぎゃっ」と叫んだのに、当人の夫が「こっちへ来なくてもいいぞ」と言って知らん顔をして魚釣りをしていたので、後で大変な夫婦喧嘩になりました。実は私も知らん顔をして魚釣りを見ていました。夕食の時、みんなでその人に謝って機嫌をなおしてもらいました。

 実際、キャンプ小屋から下流へ2キロ程スキーを履いていったところでシシム川の氷がだんだん水っぽくなっていきます。これ以上いくと足下の氷が沈んでいきそうです。流れが早くて、この程度の低温では十分な氷は張らないのだそうです。

 ちなみに、魚は釣れませんでした。シシム川に美味しい魚がいっぱいいると言っても、場所を選ばなくてはなりません。上流へ2キロ程言ったところがよいと言うので、私も道具を持って、スノーモビールの運転手の後ろの席にまたがり出発しましたが、途中で氷がなくなったため、通行不能で引き返してきました。小屋の近くは凍っているので、穴を空けてつりましたが、誰も一匹も釣れませんでした。小屋の近くの川の氷の厚さは10cm程です。私も「穴空け機」で穴を空けて調べてみました。10cmもあればその上を通行するのに十分なのだそうです。 

 人里離れた針葉樹林の中では熊になら出会うかも知れないと、出発前、冗談を言っていたのですが、熊には出会いませんでした。小屋の管理人夫婦の話では、狼が増えてきたため、スポーツ・ハンティング用獲物のシベリア・アカシカが減ってきているそうです。狼を討ち取ると一頭につきいくらと賞金が出た時は狼の頭数も減っていったのですが、今は賞金がなく狼を打つ人もいないので、頭数はどんどん増えて凶暴になっているそうです。アカシカなどが減っては、スポーツ・ハンティング客を相手にしている小屋の管理人としては大損害です。

 管理人夫人がある時スキーでシシム川の上を走っていると、狼に襲われたばかりでまだ息をしているアカシカが倒れているのを見つけたそうです。急いで小屋に帰って夫とスノーモビールで駆け付けてみると、狼が内臓を少し食い破っていました。夫婦はスノーモビールにアカシカを積んで小屋に持ち帰り食糧にしたそうです。ですから、その冬は肉を買わなくてもよかったくらいでしたが、狼にとってはせっかくしとめた獲物を人間に横取りされて悔しかったのか、長い間その小屋の周りを吼え回っていたということです。

 その話を聞いたあと、この辺を一人で遠くへ行くのが恐くなりました。特に夕方ちょっと離れたところに行って、雪の上に獣のまだ新しい足跡を見つけた時は、びっくりして後ろも見ずに走って帰ってきてしまいました。小屋で飼っている犬の足跡にしては大きいと思ったからです。後で聞いてみると、それはやはり犬の足跡でした。でも、狼のではないかと思ったのは私だけではなかったようです。もう一人の女の人も走って帰ってきて足跡があったと言っていましたから。

 どんな美味しい御馳走がでるのか、野生獣の肉でもでるのかと思っていましたが、食事は31日の夜食以外は質素なものでした。大学の学生食堂の方が種類が多いくらいです。ここまで食料品を運ばなくてはならないので、なかなか毎日御馳走と言うわけには行かないのでしょう。ここで、夏の間にとれた蜂蜜が、唯一のデザートでした。食事は時間通りに出ないこともあったので、自分で台所に行って、そこにある食べれそうなものをコックさんによそってもらってペチカのそばに座って食べていました。

 1月3日は、ここのキャンプ上から帰る日ですが、シシム川の氷が薄く弱いため、空路しか帰る方法がありません。ところが、その日は雪が降って近くの山も見えないほどで、あの飛行機ではどうしても無理です。みんな、もし、今日帰れなかったらどうなるかという話をしていました。仕事の都合や、飛行機のチケットの都合などあって、どうしても帰らなければならない人や、もう数日ぐらいはいてもいいが家族が心配するから何とか連絡しなくてはと言う人たちです。携帯電話はもちろん通じません。

 私はあと1日ぐらいならここにいてもいいわと、自分の部屋で本を読んでいました。するとヘリコプターの音がするではありませんか。窓から見ていると、あの超旧式飛行機とは比較にならない銀色のスマートなヘリコプターが、雪煙を建てて小屋(母屋)の後ろの空き地に降りて来ます。これはお金持ちのハンティング・グループがチャーターしたヘリコプターで、この辺のどこにどんな獣がいるかよく知っているこのキャンプ小屋の管理人を呼びに来たものでした。

 管理人を乗せると、ヘリコプターはシシム川の対岸にあるまだ未完成のバンガローへ飛び立ちました。そのバンガローも、同じ管理人です。そこまでは歩いても15分ぐらいで行けるのに、ヘリコプターを飛ばすのはちょっと燃料の無駄遣いです。でも、ハンティングだけでなく、針葉樹林の空気を味わって、食事をしたりヴォッカを飲んだりするのも、彼等の目的のようです。

 ヘリコプターの定員は24名ですが、ハンティング客は10人しかいないので、帰りに私達が便乗する余裕がありそうです。それで、私達はいつでも出発できるように荷物をまとめ、待機しているようにと言われました。

 でも、便乗が断られるかもしれませんし、私達全員が乗れないかも知れませんし、もし、何頭も獲物をしとめれば、ヘリコプターに空席がなくなるかもしれません。そんなことをみんなで話していると、遠くで大きな銃声が聞こえました。可哀想なアカシカが射止められたのです。厳寒に耐え、狼にもも食べられずに生き延びてきたのに。

 暫くして、獲物とハンターを乗せたヘリコプターはシシム川の対岸のバンガローに降り、また暫くすると、私達全員を乗せるために、こちらへ向かってきました。私達の荷物は、あらかじめスノーモビールで対岸のヘリコプターまで運んで積み込まれていました。ヘリコプターがまた雪煙をあげて目の前に着陸すると、私達13人は急いで乗り込み、すぐ離陸しました。そして、こんなに天候が悪いのに少しも揺れることなく、一路クラスノヤルスクにむかいます。

 先に乗っていたハンティング客たちは若い女性連れで、瀟洒な服装や持ち物で、私達後から乗った乗客と差をつけていました。彼等は丸くなって座ってお互いにデシカメを取り合ったり、飲んだりして騒いでいましたが、私達は機内の奥の方で、可哀想なアカシカ入りのビニール袋の横に黙って立っていました。どうせ、ヘリコプター内はエンジンの音が大きくて話などできないのです。私は、クラスノヤルスクのどの飛行場につくのだろうと、小さな窓から下をのぞいていました。

 町の中心にある旧飛行場跡ヘリポートにつくと、外車(日本製中古ではない)が寄ってきてハンティング客の方を乗せていきました。生死を共にした私達12人はお互いの住所や電話番号を手帳に書き留め、再会を約束して、それぞれの方向のバスに乗って家路につきました。一番近くのバス停までは、ヘリコプター所属のマイクロバスが運んでくれました。ヘリコプターが、町中に着陸してくれて助かったです。でも、こんなところに乗り付けられるのは、緊急用病人を輸送する時などの特別な場合だけのはずです。普通は市からかなり離れた小型機用飛行場につきます。ハンティング客が大物なのでしょうか。おかげで、着陸して1時間も経たないうちに、タクシーも使わず帰宅できました。

 友だちに電話して、「今、ヘリコプターで帰ってきたところなの」と言うと「よほど険阻なところへ行ってきたのね」感心してくれました。険阻だっただけではありません。トドマツの松葉の匂いのよかったこと、雪の積もった針葉樹林や、シシム川の自然が美しかったことは言うまでもありません。おわり

 

アルタイ山麓のサナトリウム「ベロクーリハ」

2004年1月15日から30日

金倉孝子


 お正月に行ったところはエニセイ川の右岸支流で220キロのシシム河の畔でしたが、この冬休み(1月後半の試験休み)に行ったアルタイの川は、長さが700キロでカトゥーニ川と言い、アルタイ山脈の最高峰ベルーハ山(4506メートル)の北斜面から流れて、ビイスク市付近でビヤ川と合流してからオビ川(3680キロ)となり、西シベリアを北上して北極海に注ぎます。 と言っても今回は川を見に行ったのではなく、アルタイ山麓にあるベロクーリハというラドン湯サナトリウムで2週間の湯治をするために出かけたのでした。ロシアには、このような、ホテルと温泉と病院とヘルスセンターが合体したような施設で、10日未満の湯治客は、受け付けないと言う「サナトリウム」が幾つもあります。10日未満では治療効果が上がらないからです。以前は、「この病気は、これこれの湯治の必要あり」という医師の診断書がないと受け付けてもらえませんでした。そして、治療費を含む滞在費は、勤め先の企業が何割か負担していたそうです。
 でも、今は、自費で、誰でも好きなだけ滞在できます。アルタイ山麓には、スキー場もありますからスキー客も泊まりに来ます。去年は、プーチン大統領も家族連れで4日間泊まったそうです。
 私は一応ロシア式湯治と言うのも体験したかったので、出発前に知り合いの医者に、「五十肩なのでラドン湯で治療の必要あり。軽い慢性胃炎もある」という「サナトリウム用診断書」を書いてもらいました。これがあるとサナトリウムに着いてから、検査したり診断したりする手間が省けてその日から治療が受けられると言う話だったからです。何しろ2週間の滞在費8万円には2週間分の治療費も含まれているのですが、検査費は別途のようですから。
 
 アルタイ山脈は南東斜面がモンゴル高原に、南は中国のジュンガル盆地(天山の北)に、西は中央アジアのカザフスタンにつづき、北斜面が西シベリア平原につづきます。その北山麓にラドン湯サナトリウム町ベロクーリハがあります。
 ベロクーリハはクラスノヤルスクからは南西に当り、直線距離では600キロ程ですが、間に未到の山々があるので交通路がありません。それで、まず西へ、シベリア幹線鉄道でノボシビルスクまで800キロ程行き、そこから南へ行く支線に乗り移って400キロ程行ったビイスク駅で鉄道が終るので列車を降り、さらに、バスで70キロ程行くと、目的地です。
 以前は、クラスノヤルスクからの湯治客はノボシビリスクで、ビイスク行きの列車に乗り換えるか、そこから長距離バスに乗ってベロクーリハまで行っていました。今は、直通列車があります。と言っても、車両が1両か2両しかないので、クラスノヤルスクからノボシビリスクまでは、まっすぐ西へ向かうチェリャービンスク行きの列車の一番最後に連結されて引っ張って行ってもらいます。ノボシビリスクにつくとビイスク行きの車両は切り離されて、引き込み線に入り、南へ向かう支線に入る準備をします。南に向かう支線に入る車両はクラスノヤルスク(東)から来た私達の車両ばかりだけではなく、トムスク方面(北)やオムスク方面(西)から来た車両も切り離されて待っています。みんなが集まったところで、機関車がやってみて、お待ちかねの車両をみんなつないで南へと引っ張っていってくれます。
 クラスノヤルスクからビイスクまで30時間もかかるのは、ノボシビリスクでの待ち時間が、行きは6時間もあるからです。もちろん4人部屋の寝台車なので、30時間ぐらい寝て過ごせばいいです。でも、駅に停車中は、車内のトイレが使えないのが不便なことです。直接下に落ちる仕掛けになっているからでしょう。それで、ノボシビリスク駅ではたいていの乗客と同じように私も、荷物を自分の寝台に置いて、クペーのカギをかけてもらって町に散歩しに出かけました。
 ビイスクからの帰りは、26時間でつきます。ノボシビリスクの引き込み線で帰りの待ち時間は3時間ほどだからです。今度は、モスクワからハバロフスクへ向かう急行アムール号が来て、クラスノヤルスク行きの一両だけの車両を東へ引っ張って行ってくれます。やはり、3時間もあるのでノボシビリスク駅のトイレに行って戻って来ると、元の場所に車両がありません。幾つもの線路を跨ぎ、引き込み線内をいくら捜しても見つからないので、駅構内に戻ってアムール号が到着するのを待っていました。20両もあるアムール号の最後尾に必ず、どこかの引き込み線から私の荷物が置いてある車両が、連結されに来るはずですから。

 クラスノヤルスクからビイスクまで行きは普通列車なので2800円程でした。ビイスクからベラクーリハまでタクシーの相乗りで500円でした。帰りの車両はアムール号というデラックス急行に引っ張ってもらったので3600円もしました。
 サナトリウムに着いて部屋に落ち着くと、まず、内科医のところへ行きます。そこで五十肩のこと、さらに、(誰にでもあることですが)時々憂鬱で夜も眠れないことがあると言いました。ベロクーリハの広告に精神神経病にも効くと書いてあったからです。それで整形外科医と心療内科のところにもいって診てもらうように言われました。
 結局、マッサージ、アクアマッサージ、つぼシャワー、磁石(で治療)、体操、ラドン湯浴、トレーニング、洞窟心理治療、リラックス心理治療をすることになりました。アクアマッサージと言うのは深めのバスタブに横になって漬かっていると、水中の肩や腰に3気圧の噴流を当ててマッサージ効果をあげます。噴流を当てるのは、専門家の女性で、毎回「痛くないですか」と聞いてくれます。ラドン湯浴は、やはり個室の今度は浅いバスタブで、36度のラドン湯にじっと10分程浸かっています。寒いと言うと少し温かくしてくれます。泡が身体中にくっついてきます。一人が終るとバスタブからお湯を抜き掃除をしてから新しいお湯を入れ、次の人が浸かります。マッサージ師は、自分は指圧の勉強をしたのだといっていました。マッサージしながら、いろいろ日本事情を聞くのでした。自分の知っている限りこのサナトリウムに日本人が来たのは初めてだと言っていました。リラックス心理治療は、暗くした部屋でゆったりと座り気持ちのいい音楽を聞きながら、専門指導員の言う通りに身体の力を抜いたりしてリラックスの仕方を勉強します。
洞窟心理治療は洞窟のようにした暗い部屋で、静かな音楽を聞きながら25分間休みます。皆、鼾をかいたりして寝てしまいます。私も、鼾がうるさいと思いながらたいていは寝てしまうのでした。
 これだけ治療処置項目あると、時間割り調整が大変です。始めは指定時間が重なって、出られないことがあったりしましたが、あちらの窓口こちらの窓口と交渉をして、9時15分に始まり3時に終る時間割りを決めました。
 それで、心理治療棟から整形治療棟、浴場と、時計を見ながら走っていました。アクアマッサージで服を脱ぎ、終ると身体を拭いて服を着て廊下に出て、すぐ、つぼシャワーの順番につきます。それが終るとまた身体を拭いて服を着て、ラドン湯に浸かるため、また脱いだり拭いたり着たりします。タオルをまいて廊下に出られないと言うのが辛いところです。でも、できるだけ簡単な服で脱ぎ着が素早くできるようにしました。素足でスポンジのつっかけです。いつも分厚い靴下をはいているロシア人は、足を拭いて靴下をはくだけで3分は私よりよけいにかかっているでしょう。

 ベロクーリハの一番いいところは、アルタイの新鮮な空気だと聞いていました。私の受け持ち医に「マッサージをもっと増やして下さい」と頼んだところ、「マッサージはこれで十分。遊歩道を山の方に散歩したらいいですよ」と言われたくらいです。確かに、ここは病気を直すと言うより都会のスモッグから逃れてゆっくり疲れを癒すところのようです。
 3時にその日の治療が終ると、毎日外へ散歩に出ました。アルタイ地方は晴れの日の日数が多いことでも有名です。毎日雲一つない快晴の寒い日が続きました。クラスノヤルスクは、今年は1月は零下15度程度でしたが、アルタイは30度近く、外を歩くと頬が真っ赤になるのでした。でも、風がないので辛くありません。ベラクーリハには、大きなサナトリウムが10軒程もあります。ですから湯治客のためにお土産屋が列んでいます。山と高原があるだけで工場のないアルタイの特産と言えば、パンタクリン(アカシカの角袋から採る強壮剤)や、ハーブ、蜂蜜です。
 湯治客はみんな暇なのですぐ友だちができます。食堂で同じテーブルのケーメロバから来たおじいさんは、炭坑で何年も働き、職業病の診断がされたので、毎年企業の費用で湯治に来ているそうです。北極圏のノリリスクから来たおじさんは、身体の調子を直しているそうです。費用は企業持ちです。オムスクから来ている女性建築士のオーリャは、1年間休暇なしで働いたので、会社が費用を出してくれたそうです。ウスチイリムスクから来ている企業内女性弁護士のレーナは、その企業とサナトリウムが契約しているので従業員は無料です。みんな、ベロクーリハへ来て身体の調子がよくなったと言っていました。私はと言えば、余り変わりないような気がします。 
 たいていの湯治客は2、3週間の期間滞在し、去って行きますから、私が着いたばかりのころの顔ぶれと、帰る頃の顔ぶれは、違っていました。「サナトリウムでの恋」と言うのが、有名で、いろいろな一口話があります。全国各地からやってきた湯治客は暇ですから、つかの間のロマンスが生まれるのだそうです。チェホフの「子犬を連れた婦人」を思い出します。
 でも、現代の「サナトリウム族」はそれほど優雅ではなく、笑い話の種になっています。オプショナルツアーに参加すると、ガイドがそれらの話をおもしろおかしく話してくれます。サナトリウムに来る男性のタイプは、虎型、狼型、熊型、鷲型、サモワール型などとあって女性からハントの「され方」が違うそうです。女性は、りす型、ねずみ型、しか型、ひつじ型、きつね型、ねこ型、めんどり型、お馬鹿さん型などたくさんタイプがあって、男性ハントの「仕方」が違うそうです。でも、私のように、せっせと治療とオプシャナルツアーに励み、お洒落をしてディスコやダンスにでると言うことは全くしないで、散歩をすると本屋を見つけて地元の地理歴史の本を買い、夜はそれに読みふけっていたと言う「まじめ勉強」型もいるはずです。

 オプシャナルツアーは治療が休みの土曜の午後や日曜日に行われます。「ベロクーリハ市内見物」、「聖ツェルコフカ山登山(リフトで)」、「『常春』の村チェマール」、「洞窟の秘密」の4つに参加できました。
 聖ツェルコフカ山は、ベロクーリハのすぐ後ろにあり、スキー場になっていて、山頂に登るリフトもあります。日本のように、リフトの椅子から万一落ちた場合の(板やネットでできた)受け皿もなく、積もった雪の間から切り立った岩々のごつごつした斜面が、そのまま足の下に見えるのはスリルがありましたが、頂上までの30分無事リフトは動いてくれました。このリフトも、零下25度以下だと運転しないそうです。寒くて30分も座っていられないからです。オプシャナルツアーは寒さの少し弛んだ頃を見計らって行われました。往復のリスト代を含む参加費は800円ですが、さらに40円出すと、毛布を貸してもらえます。寒いので、その毛布を敷いたりかぶったりして終点までいきます。万一落ちた時のクッションになるかもしれません。ベロクーリハは広い広い西シベリア平原の一番南の端にあって、その後ろにある聖ツェルコフカ山から先は険しいアルタイの山々と高原しかありません。それで、その山の頂上から登ってきた方を向くと、はるか遠くまで西シベリア平原が見渡せます。ロシアは何と広いのだろうといつも思います。反対側は、山また山です。
「洞窟の秘密」ツアーは、日曜日の朝まだ暗い7時に出発して夜中に戻ってきます。参加費用は、交通費、食事、蒸し風呂、洞窟探検インストラクター費、ヘルメット付き探検服レンタル込みで5000円と高かったので、最低参加人数の4人に満たず、一度はお流れになりました。
 広いロシアにはたくさんの未探検の洞窟があります。調査済みの洞窟もありますが、シベリアの方では、人手の入らない洞窟がまだまだ多いです。人手と言うのは現代人のことで、石器時代人は、アルタイの洞窟に住んでいました。アルタイのすぐ東で、私の住むクラスノヤルスク地方南部のサヤン山脈やハカシア共和国にも、何十万年も前の旧石器時代の遺跡がたくさん見つかり、一説によると、この辺が人類発祥の地だそうです。
「洞窟の秘密」ツアーはロシア製改良ジープで、アルタイの一部アヌイ山脈の奥へ奥へと行きます。ジープに乗っていたのは、ツアー客6人(男性4人、女性2人)に、インストラクター(男性)、ガイド(男性)、コック(女性)の9人で、空き席がまだ2つありました。100キロも行ったところの、最後の村タポリノエを過ぎると、道はますます険しくなり、景色はますます美しくなるのでした。山道と言っても日本のように絶壁に作られているのではなく、アヌイ川に沿って、低いところに通じているので、春の雪解け水が溢れ出す頃には、どこまでが川でどこから道か分からないようなところを行くことになります。今は冬ですから、川と道の区別がつきます。
 150キロも行ったところが、私達の旅行基地のデニソヴァ洞窟探検者用国際総合施設です。その施設は夏場だけ営業していて、世界各地から考古学者や学術団体を受け入れています。山奥にしては設備の整った(つまりトイレ付き)宿泊所です。日本からも多くの考古学研究者が訪れているそうです。と言うのも、デニソヴァ洞窟は、一番古い層は30万年前の遺跡から、新しいのは鉄器時代まで20層以上の遺跡が、古いものから順番に層になって見つかったと言う、珍しい洞窟だからです。フランス製パイ菓子のミル・フィーユのようです。
 冬場は、世界各地からの研究者は来ませんからも、「快適」な方の宿泊所は閉まったままですが、ロシア人の研究者(一人)が常駐する質素な小屋だけは開いています。私達は、まずそこでひと休みして、それから、そのロシア人研究者がデニソヴァ洞窟に案内してくれました。そこは、旧石器の遺跡から順番に積み重なっている「目で見る」人類史博物館洞窟かと期待していたわけではありませんが、入ってみると、土の他は何もありませんでした。発掘物は研究所に持ち去られたでしょうし、未発掘物は、まだ土に埋まったままでしょうから。 
 周りの景色はきれいですし、そばにアヌイ川も流れているので、古代人は安全な洞窟の中で幸せに暮らしていたでしょう。
 小屋に戻って、簡単に昼食をとると、私達は、迷彩服を着て(私に合う小さなサイズがなかなか見つからなかった)、ライト付きのヘルメットをかぶり、登山用靴をはき、軍手をはめ、胸ポケットにろうそくを入れて、またジープに乗り込みました。今度は、道らしい道もないところを、アヌイ川の支流カラコル川が流れ出るカラコル山にあるムゼイナヤ洞窟へ行きます。
 車から降りて、カラコル山の急斜面を1キロ程登らなくてはなりません。長い足のロシア人に遅れず、雪で滑る急斜面を30分も登るのは、キャベツのように着膨れして日頃から運動不足の私のような怠け者には大変なことでした。汗をかいて息を切らし、自分の歳を打ち明け、もう少しゆっくり行ってくれるよう頼みました。みんな笑って私を引っ張ってくれました。
 やっと登ったところの斜面に80cm程の穴が開いています。これがムゼイナヤ洞窟の入り口で、深さが33メートル、通行できる距離が850メートルあるそうです。インストラクターが、まず、私に命綱をつけてくれました。そして私をそろそろと穴に落として行きます。私はと言えば、「どこにも足をかけるところがない」「暗くて見えない」とか、おびえた声を出していましたが、数メートルも降りたところで、男性が受け止めてくれました。
 中は鍾乳洞の洞窟で、天井からは鍾乳石が珊瑚礁のように生えていました。ヘルメットのライトやろうそくに照らされて、むくむくと成長している薄茶色の鍾乳石の間に、光沢のある石や、透明な石、キラキラと輝いている石も見えました。みんな記念に石を拾っていました。私は、どうせ、日本まで持って帰られるわけでもないので、余分な荷物は拾いませんでした。
 誰もまいごにならないよう、みんな一緒にどんどん先へ進んで行きました。私は、やはり不安なので、インストラクターに、そっと「帰り道は分かっているわね」と囁きました。「もちろんだ」と言う頼もしい返事でした。
 立って歩けないような狭いところも多かったです。四つん這いで進んだり、這って進みました。ところどころ深い亀裂も開いているので、落ちないように、手と足とお尻で歩きました。洞窟のいいところは足場がぐらぐらしないところです。切り立った岩の上にそろそろと足を降ろしても、私の重みで岩がぐらっと傾いたりはしません。
 天井にはコウモリが冬眠していました。群れになってぶら下がっているのや、ぽつんと一匹だけ天井にしがみついているのがいました。ヘルメットのランプでよく見ると、時々ぶるぶるっとうごめいています。せっかく冬眠しているのに、ヘルメットで擦って起こさないよう、私達は頭を低くして通りました。
 さて、洞窟から出る時も難しそうです。ガイドとインストラクターは、以前、65歳で100キロのおばあさんを引っ張りあげたことがある、と言っていました。「タカコなんてそれに比べたら軽いものだ、まだそれ程おばあさんでもないし」と言ってくれました。確かにその通りですが。
 入り口の下まで戻ると、また命綱をつけて引き上げてくれました。できるだけ自分の力で這い上がろうとしたのですが、足ががくがくして言うことを聞いてくれません。洞窟の外へ出てみるともう薄暗くなっていました。
 全員が無事「この世」に戻れたことを祝って、私達はヴォッカで乾杯をし、サンドイッチを食べて元気をつけました。斜面の下には、乗ってきたジープと運転手が待っています。
 私達が小屋に戻ると、もう蒸し風呂がわかしてありました。女性3人(コックの女性も含めて)が蒸し風呂に入り、ロシアの伝統通り、白樺の小枝で背中をたたいたり雪で身体を洗ったりしている間に、男性達はバーベキューを焼いてくれました。
 「『常春』の村チェマール」は、ベロクーリハの南東、カトゥーニ川の畔にあります。そのオプショナルツアーは2000円と値段がそれほど高くなく、アカシカ飼育場、コーサカス野牛養殖場、パトマス島寺院、有名なミネラルヴォーター水源地を訪れたりするので、参加者も多くバスでいきました。 
 9時に出発したので、途中バスの窓から、アルタイの太陽が草原のはるか彼方に見える山の端から登り始めるのが見えました。この冬の日の出と言うのは何度見ても魅せられます。何枚も写真を撮りましたが実物にはかないません。しばらく行くと、真っ青な空と白く雪をかぶった岩だらけのごつごつした山々が見えてきます。バスは、山を登り、峠を越え、高原を通り過ぎて、毛のふかふかしたフタコブラクダのいるところで止まりました。なぜ、ここにラクダが住んでいるのか分かりません。アカシカ飼育場で、交通機関として使っているのでしょうか。毛を掴んでこちらに向かせ、写真を撮りました。

 アルタイの山々とカトゥニ川の自然は、日本と高山の景色とは当然のことながら異なります。クラスノヤルスク南部のサヤン山脈とも山並の組み合わせ方が違うような気がします。
 団体バスで通り過ぎるだけではなく、もっとゆっくりアルタイを見たいと思いました。アルタイに多く残っている古代人が残した洞窟画も、一度見てみたいものです。アルタイ山脈を越えてモンゴルへ抜けるチュイスキー街道、小さいけれど深く透明なことではバイカルにつぐテレツコエ湖、アルタイで一番美しい川カトゥーニの上流、さらに、アルタイ共和国の首都のゴルノアルタイスク市(旧ウララ村)、150万年前というウララ遺跡などを訪れてみたいものです。
 サナトリウム滞在は2週間で、1月30日の朝食前にチェックアウトすることになっていますが、帰りのビイスク発の列車は30日の夜8時出発です。追加料金を払えば列車の出発の時刻まで滞在できますが、もう退院手続きをとったサナトリウムでただのんびりしているのは面白くありません。せっかくここまで北のですから、できる限りアルタイを見ることにしました。それで、ベロクーリハのいろいろな旅行会社に電話しましたが、「冬は、観光シーズンではないので、どこへ行っても雪と氷ばかりで花も咲いてないし、たいていの湖は凍っていて泳げないしクルーズもできない、今の季節、あまり面白いところはないが」、と言うことでした。
 結局、朝6時半から夕方7時半まで運転手とガイド付きの車をチャーターして約500キロ程回り、料金は15000円と言うところで、ある旅行会社の女性社長と話をつけました。社長は喜んで一番いいガイドをつけると言ってくれました。
 チュイスキー街道をモンゴルの国境までいくと片道でも500キロですから、せめて、途中のセミンスキイ峠まで行ってみたいと思いましたが、女性ガイドのターニャに前もって相談してみると、チュイスキー街道の自然がすばらしく、遺跡や、古墳、洞窟画が多く残っているのは、セミンスキイ峠を越えて、まだずっと先へ行ったチュヤ高原のあたりだ、セメンスキー峠までは、ただ道が上り坂になっているだけで、山の他は何もないと言うことでした。つまり、ガイドするところは何もないと言うことです。1日中アルタイの山道をドライブするのも悪くないと思いましたが、ガイドのターニャ推薦の「ベラクーリハから西へ出発、アヤ湖を見て、カトゥーニ川の吊り橋を歩いてわたり、チュイスキー街道に出て、南下、ウスチセマ村で、チェマールスキイ街道に入り、クユース村まで行って、ユーターン。帰り、ガルボエ湖と、アルタイ共和国首都のゴルノアルタイスク市の郷土史博物館を見学、さらに100メートル北上してビイスク市の鉄道駅へ」というコースに決めました。これですと、テレーツコエ湖の他は、私の希望が全部かなえられそうです。テレーツコエ湖は、今度いつかアルタイへ来る時のためにとっておきます。

 30日朝6時半、荷物を全部車に積んで、まだ真っ暗の中、出発しました。ターニャは私に見せて説明するためのアルバムの他、熱いお茶とサンドイッチも持ってきていました。日の出は、アヤ湖へ行く途中の山中で見えました。もちろん車を止めてもらって外へ出て写真を撮りました。この日はまた寒気が戻り零下30度でしたが、私のこの日の服装は零下20度前後対応防寒装備でしたから、写真を撮るとすぐ車に戻りました。

 アヤ湖はカトゥーニ川のすぐ左岸にある小さな淡水湖ですが、水面の高さは、すぐそばを流れるカトゥーニ川より50メートルも高いと言うのが不思議です。この辺のカトゥーニ川は蛇行していて、アヤ湖は、昔のカトゥーニ河の一部が川道から断たれてできたものだ、その後、流れの激しい川の方は、河床を削り、50メートルも深いところを流れるようになったが、アヤ湖は河岸段丘に残ったままなので、水面差がこんなに大きいのです、と言うターニャの説明でした。「河跡湖(または三日月湖)」のでき方について地理の勉強ができます。アヤ湖へ流れ込む川はありません。湖底からわき水が出ていて、それで、夏は水温が20度くらいになるので泳げるそうです。今は、もちろん厚い氷におおわれています。ターニャがさかんに「冬は面白くないわ、みんな凍っていて」と、残念がってくれましたが、「日本の私の住んでいるところでは、湖も川も海も凍ることがないから、ここのように一面に氷に被われている、という方が面白いんですよ」と説明すると「ふうん、私は今まで日本人のガイドをしたことがないから、どんなことに興味があるのか知らなかったわ」と感心していました。 アヤ湖を過ぎると、しばらくチュイスキー街道をいき、チュイスキー街道がカトゥーニ川を離れると、チェマールスキー街道に入り、ずっと道の続く限り、カトゥーニ川の川辺を進みました。カトゥーニ川は、こちらの民話ではアルタイ王の娘です。若者ビヤのところへいくために、父親のところから走り出ました。追い付かれないよう走ったので、流れがそれほど急なのです。ビヤ川と結ばれて、生まれた子供がオビ川です。

 この辺のカトゥーニ川はアルタイ山脈の幅の広めの峡谷を流れています。川岸に立って川上を見ると遠近の幾つもの山が波頭に見えるのでした。川は凍っていますが、ところどころ水面が見えます。流れが早くて凍れないのでしょう。冬のアルタイ山脈とカトゥーニ川の調和があまりにも美しいので、ほとんど十分ごとに車を止めてもらって、寒かったのですが、外に出て見愡れていました。

 エディガン村を過ぎて暫くすると、ところどころ洞窟の穴の開いた絶壁が見えてきます。ターニャが「何か感じませんか」と聞きます。ここでは、何か霊的なものを感じるはずなのだそうです。と言うのも、その絶壁の洞窟は紀元前後頃の古代人の神殿だったそうで、周りの岩肌には洞窟画(岩石画)も残っています。画はもう薄れていますが、ガイドが唾をつけて擦ると、かすかに角のある鹿の形がうかんできました。この寒さの中、唾をつけて岩を擦るなんて気の毒で見ておられません。でも、この時初めて、洞窟画は絵の具で描いたものではなく、岩を浅く掘って輪郭を作ったものだと知りました。

 この辺は雪がほとんどありません。アルタイでは、ところどころ、穏やかな気候の谷間があります。「常春」の村チェマールもそうで、19世紀から、結核患者用保養所がありました。チェマール村より40キロ程奥にある、この古代人の神殿跡地も、零下30度とは思えない暖かさです。聖なる岩肌の前の広い河岸段丘に、遠くに見えるカトゥーニ川に向けて幾つも小さな丘がありました。その丘の陰で、トイレをしようかなと言うと、ターニャが、それは古墳だから、罰が当ると言います。あっ、本当に、丘の周りに石も立っています。隣の丘も駄目です。でも、彼女が安全なところを見つけてくれました。

 クユース村で、カトゥーニ川に沿ったチェマールスキー街道は終っています。あとは道らしい道のないところを行くほかありません。クユース村の先に、高さ40メートル程もある滝があるそうです。もちろん凍っています。ターニャに、「流れている滝なんて、珍しくもない、凍り付いた滝を見てみたい」と言って、ここまで来たのでした。でも、地面が凍結していて車ごとカトゥーニ川に落ちそうな狭い箇所があったので、それ以上進むのは止めました。時計を見ると、もう午後2時過ぎで、そろそろ引き返さないと、ゴルノアルタイスク市の博物館の閉館時間までに間に合いません。 でも、途中で、ガルボエ湖(蒼い湖)に寄ったので、結局5時の閉館時間には間に合いませんでした。ガルボエ湖というのは、本当は湖ではなく、カトゥーニ川の広くなったところの一部で、地下からのわき水があるためその辺だけ川の水が凍らないのです。ですから、凍って自由に歩ける陸地のようなカトゥーニ河の横にある湖のように見えます。夏場は、ですから、その「湖」はありません。外気は零度以下の寒さでも、水温はプラスなので、湯気が立ち、樹氷がびっしり付いています。そして、湖がその名の通り透明な青色なのには驚きました。周りに人気がなく、しんしんとしています。冬の低い太陽が、アルタイの高い山々の陰にもう沈んで、薄暮れ時がせまっていました。アルタイの自然はどこも美しく、切り取って家に持って帰りたいくらいでした。憂鬱な時にそれを眺めると元気が出るかもしれません。

 アルタイ共和国の面積は日本の約4分の1ですが人口はたった20万人、首都のゴルノアルタイスク市(人口5万人)の他は小さな村が山間にあるだけです。アルタイ人の村もロシア人の村もあります。その中で古いロシア人の村は、18世紀からのロシア正教分派の旧教徒が、西ロシアからわたって来てできたものです。シベリアの辺鄙なところにあるロシア人村は、こうした隠れ教徒の集落だったところが多いです。

 さて、ゴルノアルタイスク市に着いた頃はすっかり暗くなっていました。博物館は、もうとっくに閉まっていましたが、通行人に聞いて一番大きな本屋を教えてもらい、歴史や「アルタイの民話と伝説」といった本をまた買い込みました。

 ゴルノアルタイスク市からさらにカトゥーニ川岸を川下に100キロ程行ったところでビヤ川との合流点ビイスク市があります。この100キロの間は、カトゥーニ河も平地をゆったりと流れて行きますが、途中1箇所だけバビルガン山と言うむっくりとそびえ立つ山があります。これはアルタイ王が、青年ビヤへ向かって走る娘のカトゥーニを引き止めるため、勇者バビルガンを遣わしたのですが、ぎりぎりのところで追いつけなかったバビルガンがそのまま岩になって残ったと言う伝説の山です。

 クラスノヤルスクの自然も美しいですが、アルタイには魅せられます。私の祖先はアルタイからモンゴル経由で日本へ来たのかもしれません。  おわり

 

 

キルギス滞在記

2003年9月28日〜10月23日)

羽鳥佑一郎 

慶応大学文学部2004年度卒業生・現キルギス在住

 

 「キルギスに行く」と言うと大抵の場合、怪訝そうに歪めたしかめっ面から「キルギスってどこ?」という質問が飛んでくることになる。タジキスタンを挟んでアフガニスタンと面していて、東の国境線を新疆ウイグル地方と分けている、と答えれば大体の見当はつけてくれる。いずれにしろ日本人には馴染みのない地名である。ちなみに地元の人は自分の国をキルギスタン(Кыргызстан)と名乗っており「キルギス」というとキルギス語あるいはロシア語でキルギス人を意味する単語を発しているものと誤解されてしまう。

 きっかけは極めて単純だった。盛岡の大学に留学していたキルギス人の友人と一緒に、日本に視察に来た政府・大学関係者数名を案内している際、ビシュケクのある大学の学長にキルギスに来て日本語を教えないか、と誘われたのだ。大学で学んだロシア語を生かした職に就きたいと漠然と考えており、それに加えて一片の知識もないまま、旧ソ連邦でありながらロシアとは別個の文化を持つ(と思っていた)中央アジアを一度は見てみたいと考えていた私にとってこの提案は魅力的に映った。日本語教師として働くかどうかは別として、ともかく一度行ってみよう、もし条件や生活環境が合わなければ帰ってくればいい。そんなノリで飛行機に乗ったのは話を受けて4ヶ月後、2003年9月半ばのことである。

 日本からキルギスへ入るにはウズベキスタン航空のタシュケント経由かアエロフロートのモスクワ経由でビシュケクというのが一般的だが、イスタンブールや不定期だがソウルからもフライトがあるらしい。私は韓国に住む友人とソウル市内で落ち合う約束をしていたので、成田→ソウル→タシュケント→ビシュケクという変則ルートを辿ってキルギスへ入ることにした。

 4日ほどかけてウズベキスタンの首都をぐるりと見て回った後、小一時間のフライトを経てビシュケクの空港に降り立った。空港は市街地から4〜50キロメートルのところに位置しており、世界各国から集まる旅客機に混じってアメリカ軍の、そしてそれと対抗するようにロシア軍の軍用機が並んでいる。かなり威圧的であるだけではなく、異様な光景であった。これには、アフガニスタンを舞台に繰り広げられた「対テロ戦争」を機にアメリカが軍事基地をビシュケクに設置し、それを受けて中央アジアにおける覇権を保持し、喉元に突きつけられた刃を牽制したいロシアが対抗措置としてやはり軍事基地をあらたに置いた、という構図が背景にある。この結果、町にアメリカ軍兵士が多く見られるようになった。ビシュケクは町としての規模が小さい(人口約70万)せいか、例えば六本木のような外国人の集まる一帯というのはまだないが、外貨を持ったアメリカ軍兵士やその他の欧米人をターゲットにしたレストランやディスコは現れてきている。値段は相場の3〜4割増し程度のところから数倍になるところもある。ちなみにレストランあるいはディスコが外国人向け、つまり高級かどうか見分けるポイントとして置いているビールの銘柄を挙げることができる。キルギスにおいてビールの値段は大体三つのランクに分けられている。一番安いのがキルギス産、あるいはカザフスタンのビールで次がロシアからの輸入ビール、最高級にヨーロッパ、またはアメリカからの輸入ビールということになる。普通はロシアのビール(Сибирская Корона, Балтикаなど)がメニューの一番上に陣取っているが、欧米人向けのディスコなどではハイネケンなりバドワイザーなりがにらみをきかしており、ここでは地元キルギスのビールなどはもうメニューに載せてくれただけでもありがたい、という態度で身を縮こまらせているのである。

空港についてもう一つ。ビシュケクの国際空港は、5年ほど前に日本のODA(Official Development Assistance)を受けて建設されたものだそうだ。ビシュケクで仕事をするJICA(Japan International Cooperation Agency)の人が言うには民主主義者という風評を獲得したアカーエフ氏の大統領就任後、キルギスには日本の援助がかなり入るようになった。電車の通っていないビシュケク市内の大事な交通手段である乗合タクシー−マルシュルートゥカ(маршрутка)の車体にも、日本の資金援助を意味するODAのマークがしばしば、非常に小さくではあるが、入っている。

 朝の10時に空港におりたち、迎えに来てくれた友人の車で市内へと向かう間、眼前に広がる五千メートル六千メートル級の山々に圧倒されて自分が実際にキルギスという異国の地にいるのだという現実感を失ってしまった。子供の頃、友達の家にお泊りをして目覚めた朝のように…。

 幸い、前述したキルギス人の友人はビシュケクに帰国しており、到着後しばらくは衣・食・住とも彼の助けを得て生活を営んでいた。その衣・食・住のうち、日本人が最も適応に困難を感じるのは「食」であろう。新鮮な海産物の入手が困難であることはまぁいいとして、食べ物が全体的に脂っこいことには辟易、とまでいかないまでもかなりの確率で胃もたれなぞの症状を呈すことになるのではないか、と日本の食文化に育てられた繊細な胃袋を持つ身としては思わざるを得ない。油で炊いた飯で作った焼き飯−プロフ(плов)、羊肉の蒸し餃子−マンティ(манты)、軽くスープとパンで済まそうとしてもスープには羊肉の塊とその脂肪分が浮いている…。ただ、食べ物が脂っこいのには理由がある。つまり極寒の冬に備えて体に脂肪をためなければならないのだ。動物にしろ寒い国ほど体が大きいというのは生き残るためにこのようなメカニズムが要求されるからであり、極寒の地の代名詞、ロシアの典型的なおばあちゃん−バーブシュカ(бабушка)があのような「健康的」(здаровый)な体型へと変化していくのは自然の摂理であり、あるべき姿なのだ。多分。もっとも食事が脂っこいのはレストランやカフェでの話で、自炊しようと思えばなんとでもなるし、手に入らない食材はほとんどないと言ってもいい。ビシュケク市内に数箇所ある市場に行けば、柘榴、ブドウ、柑橘類、ベリー類、リンゴや洋梨など山盛りのフルーツが並び、真っ赤で身の詰まったトマト、大ぶりで武骨だがうまいキュウリなど野菜の隣にはウオッカのつまみには欠かせないキュウリの塩漬けや、家庭風トマト、ピーマンの酢漬けがつまった大瓶がどっしりと腰をおろしている。何種類もの蜂蜜が売られているエリアを抜けて精肉売り場へ歩をすすめると牛肉、鶏肉、国民の大半がその信者であるイスラム教では禁じられているはずの豚肉とならんで羊肉や馬肉の大きな塊が吊るされている。この国で、肉を買うときの最低単位はキロである。大人の太腿程もあろうかという肉片を「とても食べきれないから半分にしてくれ」と頼んでも一蹴されるのがオチだろう。粟・稗・米・キビ・そばの実などありとあらゆる穀物のなかからロシア風お粥−カーシャ(каша)用にお好みの一品を選んだら市場を出る前に、インドのナンに似た、歯ごたえのある平たいパン−レピョーシュカ(лепешка)を買っておこう。中央アジアの食卓はレピョーシュカ抜きには考えられない。総体的にキルギスの市場は、サワークリーム−スメタ−ナ(сметана)やチーズなど乳製品が相対的に少ないということを除けば、大体ロシアのそれと同じような品揃えであるし、作りである。

飲み物もロシア産ウオッカ、キルギス産コニャック、各種ビール、ワインなどあらゆる種類のアルコール飲料が売られている。ロシアに一度でも行かれたことのある人なら馴染みのあるであろう、道端にぽつんと置かれている、電話ボックスの2.5倍くらいの小さな店−ラリョーク(ларек)もいたるところで見られる。市場、スーパー、食料品店の他にも道端の小さな店でアルコール飲料を購入することができるのだ。大の大人が鉄格子に囲われた小さな窓口にかがみこんで顔をくっつけ、店の人に「〜ください」とやっている姿はどこか物悲しいが。

「住」に関して問題は少ない。町の中心に一月、1LDKで50ドル、2LDKで80ドル、3LDKなら100ドル前後で借りることができる。アパートの管理人が空き部屋を貸す、といったケースよりも部屋の持ち主が代理店や知り合いを通じて入居希望者を探すというパターンが多いようである。ちなみに部屋を買おうとすると、1LDKで4〜5000ドル、2LDKで6〜9000ドル、3LDKで10000ドル程度から探すことができる。もっともこれらは新聞広告に出されていた値なので、交渉次第で何割かの値引きも期待できる。

私も友人の友人からバルコニー付きの3LDKアパートを月100ドルで貸してもらっていた。三人家族を追い出して郊外にある別のアパートに引っ越してもらい、空いたところに私が住み着いたのだ。もともと人が住んでいたところに移って来たわけだから、食器や家具、寝具など必要なものは全て揃っていたし、バルコニーには大きな麻袋一杯につめられたジャガイモや玉ねぎの他、自家製の木苺ジャムやキュウリの塩漬けも保管してあり、思わぬところで家庭の味を楽しむことが出来た。テレビをつければロシア、ヨーロッパ、アメリカはおろかインド、中国、韓国そしてNHKの日本語放送を見ることも出来た。一方でキルギスの地元テレビ局のチャンネルは一つか二つしかなく、衛星放送に加入していない家庭ではロシアのテレビ放送が主たる情報源となっているようだった。映画や音楽といった分野でもこの傾向は顕著にみられ、デパートのビデオカセット売り場の品揃えを見ると、ほとんどはハリウッド映画かあるいは60、70年代のソビエト映画、そしてロシア映画である。音楽に関しても、日本でいうところの洋楽とロシアのポップスが主力商品であることは明らかであり、特に若年層にこの傾向は強い。新聞はキオスクなどで売られている全新聞の三割くらいがキルギス語新聞で、残りはロシア語である。そのかなりの部分はモスクワ等ロシアの各都市で発行されているものを輸入したものである。モスクワ発の様々な情報誌(求人広告、アパート空き部屋の広告、その他のサービスなど)もキルギスにいてはまったく役に立たないであろうに、いたるところで販売されていた。

さて、住むところも見つけ、そばの実がゆと肉野菜炒めをビールで流し込むという安定した食生活のパターンも確立でき、さぁこれから肝心の日本語教師として就職する件をつめていこうと考えていた矢先、友人に「キルギスの自然を、おまえはまだ見ていないじゃないか」と車に乗せられ、訳もわからぬまま出発する運びとなっていた。

近年日本でも盛んになりつつあるエコ・ツーリズムの発展を受けてか、キルギスを訪れる旅行者は特に西ヨーロッパ、アメリカの若者を中心に増加傾向にある。旅行者のお目当ては国の北東に位置するイシク・クル湖である。この湖に関しては様々な伝説があり、その一つに湖中に沈んだ村というものがある。世界も有数の透明度を誇る湖の、その湖上から水中をのぞけば沈んだ村のかつての繁栄を偲ぶことができるといわれている。私が連れて行かれたのはビシュケクからそのイシク・クル湖方面に2時間ほど車を飛ばし、南西に向かう分かれ道を4時間ほどいったところにあるソン・コルという湖である。ところどころでロバに乗った少年に導かれた羊の群れに飲み込まれて動けなくなったり、馬に乗った壮年の牛飼いたちとウオッカを飲み交わしたりと寄り道をしながらごつごつの山道を登ってソン・コルに辿り着く。ソン・コル湖は海抜三千メートルにある世界でも有数の高山湖である。車を降りると数分間軽い頭痛、正確に言えば頭の中で何かが回っている感覚、に見舞われた。

三千メートルの高地に位置しているとはいえ、四方八方にさらに高い五千、六千メートル級の山々が聳えており、周りを富士山に囲まれているかのような偉容である。

我々は湖と山々の間に広がる草原で、遊牧を営む人々の宿営地−ユルタ(юрта)に一泊させてもらうことにした。差し込んだ西日を眩しそうに目を細め、しかしやけに力強く真直ぐにらみつけながら、牛や羊そして馬の群れを追う3〜4歳の息子と娘の様子をユルタの外に腰をかけて眺めていた姿がやけに印象的だった主人に声をかける。なにも遮るものがない草原で、私の住む東京都墨田区よりも三千メートル以上近い位置にある太陽の光にさらされて、サングラス無しにいることは困難だ。主人とその家族の目許に刻まれた深い皺は、この地を照らす太陽の力強さを物語っている。

主人は私の友人とキルギス語で短い挨拶を済ませると、私達をユルタの中に招き入れてくれた。まさに自家製、羊の毛皮で作った絨毯に座って木製の低い長方形のテーブルを囲む。早速奥さんが馬乳酒−クムス(кумыс)をご馳走してくれた。キルギス遊牧民の伝統で、客人に対して害意はないことを示すためにこのクムスをふるまうことになっている。ロシアでいう「パンと塩」と同じ意味合いを持つ風習である。差し出されたクムスを拒むことは、相手が示した平和な関係を構築しようという意志をむげにすることを意味している。十三世紀半ばから十五世紀後半までロシアの諸公国がモンゴルのキプチャク・ハン国による支配を受けていた「タタールのくびき」の頃、有力遊牧部族の元へ挨拶にきたロシア人に対してやはりクムスがふるまわれたという。一気にこれを飲み乾した使者には褒美が与えられたが、飲むことを拒否したり、口をつけても杯を乾せなかった者はその場で首を切られたという逸話も残っていると聞く。ところでクムスは胃腸の働きを良くする効果があるが、胃腸が働きすぎると下痢という惨事に襲われることになりかねない。大草原の、それもそこらじゅうに家畜の糞がころがっているような中で、下の心配をする必要もなかったのかもしれない。しかしお腹の弱い私はこの先の道中でも客人としてユルタに招き入れられ、クムスを勧められる度にばつの悪い思いをしながら断わっていた。そういうわけで一気飲みこそ控えたが、味見をしてみると、酸味が強く、とろみの少ないヨーグルトのような食感でなかなかおいしかった。よくいわれる臭みもほとんどなく、確かに一息に飲ほせる爽やかな味わいであった。もっともソン・クル湖のクムスは世界一うまいとキルギス人も口を揃えていっており、別格なのかもしれないが。

キルギスを語るとき、壮大な山々と並んで騎馬民族の生命線である馬のことを忘れることは出来ないが、ソン・クル湖ではまさに馬づくしの日々を送らせてもらった。馬乳酒を飲んだあとはユルタの主人と草原に馬を駆り、日が落ちる頃に戻ってきてユルタの中で馬を喰らう。大鍋で馬肉の、パーツ毎のでっかい塊をぐつぐつ煮る。味付けは塩のみだ。大皿に山盛りとなった塊を主人が客人、家族、親類らそれぞれの皿へと取り分けていく。自分の皿に置かれた肉を小さな包丁のようなナイフと手で好みの大きさにして食べる。馬の腸詰や軟骨なども主人が細かく分けて皆にすすめる。骨にこびり付いた肉をナイフでこそぎ落してきれいに食べ終えたころ、馬肉の煮汁と馬の脂であえたパスタがでてくる。動物性タンパク質全開の食事に、ウオッカがやはりよく合う。

馬について話を続けよう。一般に「馬+草原=モンゴル」という図式が椎名誠いらい定着した感があるが、キルギスがこれに挑戦できるポテンシャルを秘めた国であることは間違いない。ソン・クル湖では富士山の頂上並みの高みにありながら、雲に触れようかという湖に向かって草原を馬で駆け抜けることができるのだから。古事記にでてくる天高原も案外こんな所だったのかもしれない。東京の汚い空気に慣れた私には、むしろ体が拒否反応を起こすくらいにきれい過ぎるほどきれいな空気。深く吸い込むと、特に頭の部分に溜まった悪い血どもが、この澄み切った空気に浄化されまいと最後の抵抗を試みているのを感じる。つい数時間前までこの地を照らした太陽が隠れると、漆黒の闇につつまれる。星と月の弱々しい光では次に踏み出す一歩の安全を確認することすらおぼつかない。夜の恐ろしさ、命を護る陽光の大切さ…、本当に実感する機会も必要も東京ではなかった。しかしここでは、いつか我々が畏れた神々が今も生きている。

キルギスは「大草原を馬で駆ける」というイメージをめぐって王者モンゴルとがっぷり四つの大相撲を演ずる力を持っている。しかも同時に、馬を広大な草原とセットにして考える「定説」を覆すような一面をも兼ね備えているのである。中央アジアで最も美しい山々と馬とのコラボレーションがそれだ。馬の背に跨って野山を逍遥。谷間からは紅葉した森がのぞき、振り返ればはるか遠くに昨晩宿をとった村が見える。茂みを踏み越え、蹄ほどの深さしかない小川に鼻をつけて水を飲む馬を待つ間、馬上から摘んだ得体の知れない木の実なぞ味見してみる。気ままな散策に飽いたら踵で馬の腹をけり、「ちょっ!!」と掛け声をかければ、力を持て余した馬がここぞとばかりに全速力で山道を駆け上がる。空を駆けるよう…。

大草原を疾走、野山を逍遥、クムス、馬料理 ― 騎馬民族の末裔たるキルギス人の文化と伝統の一端を、特異な自然条件のなかで遊牧生活を送る彼らのなかに垣間見ることができた。いつかもっと深くそれに触れる機会があることを願っている。

まとまらないが、これが私のキルギス滞在の全貌(半分くらいかな?)である。乱文に最後まで付き合ってくださった、この一行を読んでいるあなたに感謝!

 

                     

Мои встречи в Японии:

Пианист Алексей Набиулин

(24 февраля 2004 года)

 

Михайлова Светлана

преподавательница Аити Префектурального Университета

 

Русский пианист Алексей Набиулин в июне 2002 г. на Международном конкурсе Чайковского он был удостоен серебряной награды.

Я имела возможность беседовать с Алексеем Навиулиным во время его поездки в Японию с концертом в феврале 2004 г., и хотела бы поделиться с вами этим рассказом. Вначале мне хотелось узнать, где  родился Алексей и когда начал заниматься музыкой? Алексей ответил так:

-           Я родился и вырос в г.Норильске. Там была школа школа искусств, где я и стал заниматься фортепьяно. А потом мне рекомендовали поступать в московскую ЦМШ и мама отвезла меня в Москву. Там я поступил в Цетральную Музыкальную Школу и стал учиться, а мама вернулась на работу в Норильск.

-         Вы стали учиться и жить в этой известной школе. Не грустно было без мамы?

-         Да, нет. Разве каждый мальчишка не мечтает о самостоятельной жизни?

Вот уж поистине сибиряк, подумала я, и спросила о том, как складывалась его дальнейшая жизнь. Алексей сказал, что окончив школу, поступил в Московскую Консерваторию в класс Михаила Воскресенского, где ему особенно много внимания уделяла его ассистент Наталья Труль. Я поинтересовалась его участием в конкурсах и тогда Алексей не скрывая гордости рассказал:

-         Моим первым конкурсом был конкурс в Италии. Мне было трудно самому поехать туда. Финансовую поддержку мне тогда оказало Городское Управление Норильска и этот конкурс я выиграл. 

 Я вспомнила свои школьные познания о Норильске, что это богатый край с самым большим месторождением медно-никелевой руды, что там находится огромный горно-металлургический комбинат. Географически этот район находится на севере Красноярского края в верховьях реки Енисей. Там замечательная природа, тайга и тундра, где обитают белые медведи и олени.    

 -- А у вас там очень холодно?

-         До -40-50 градусов доходит. Как-то по дороге на свой концерт, термометр в городе показывал –53.

-         А летом?

-         Видите ли, когда я был маленький, мы с мамой всегда уезжали на лето к бабушке на Украину... Но однажды я приехал в Норильск летом, и сойдя с трапа самолета, удивился какая была жара!  

  Алексей мягко улыбался во время беседы и его голубые глаза еще больше засветились теплым светом, когда он сказал, что в Москве его ждут жена и его  маленький сын.

Подошло время начала концерт. В черной рубашке навыпуск с белыми блестящими пуговками Алексей Набиулин глубоко поклонился и прошел к роялю. Без паузы он сразу же погрузился в исполнение Гайдна, Шуберта. Листа, Рахманинова. Мой спокойный собеседник превратился в энергичного и яркого мастера.

  После концерта по дороге в гостиницу Алексей некоторое время хранил молчание, но потом сказал:

- Когда я был в Японии три года назад, то недалеко от горы Фудзи видел небольшой деревянный домик. Я тогда подумал, вот было бы хорошо пожить в нем – пить японский чай и смотреть на Фудзи.

-  Не покажется ли вам скучно видеть все время один и тот же пейзаж ?

-         Нет, ну что вы! Ведь она же разная! – мягко улыбнулся Алексей.

 Мне показалось, что Алексею нравится природа Японии и говоря о Фудзи, он он наверное вспомнил серию пейзажей знаменитого японского художника. Кацусика Хокусая. Я никогда не была в Норильске, но мне почему-то захотелось увидеть этот город. В заключении я пожелала Алексею Набиулину победы на предстоящем этим летом конкурсе в Австралии и в его исполнительской деятельности.

 

 

 

 

私の出会い

ピアニスト――アレクセイ・ナビウリン

(2004年2月24日)

ミハイロワ・スベトラーナ(愛知県立大学講師)

 

  20026月モスクワで開かれた国際音楽コンクールでロシアのピアニスト、アレクセイ・ナビウリン(23才)さんは第二位に入賞しました{*}。

  私は20042月にコンサートのため日本を訪れたアレクセイ・ナビウリンさんと開演の一時間前に話す機会を得たので、その内容を紹介したいと思います。私の最初の質問は「何処の出身ですか?いつから音楽を始めたのですか?」であった。アレクセイはこう答えました。

―「私はノリリスク市で生まれ育ち、そこで小学校と同時に芸術学校へも通いました。

ピアノを教えてくれた芸術学校の先生は私にモスクワの中央音楽学校に入学することを勧めてくれました。母は私をモスクワへ連れていき、そして私は国立中央音楽学校に入学しました。母は仕事があるためノリリスクへ帰りました。」

―「あの有名な学校に入って、寮の生活がはじまったのですね。お母さんがいなくて寂しくなかったですか?」

―「いいえ、そんなことはありません。男の子はみな独立した生活を夢見るではありませんか」

 私はさすがシベリアの子だなあと思い、その後の彼の経歴について尋ねました。アレクセイさんの答えは以下のようでした。

―「中央音楽学校を卒業して、私はモスクワ国立音楽院に入学しました。ピアノはミハイル・ヴォスクレセンスキー先生の指導を受け、アシスタントのナタリア・ツルーリ先生の指導を受ける機会にも恵まれてよかったと思います。」

私はナビウリンさんのコンクール参加履歴についても質問しました。アレクセイさんはちょっと自慢してこう答えてくれました

―「私の最初のコンクール参加はイタリアでのことでした。私は学生で、お金がなかったため、ノリリスク市から奨学金をいただいて参加することができました。その結果、第1位に入賞できました。」

 ノリリスク市と言えば、私が学校で習った、銅・ニッケル資源の豊富な地域であり、世界一大きいコンビナート(鉱山地帯の冶金総合工場)があるところです。地図を見ると、ノリリスク市はクラスノヤルスキー地方の中の北に位置し、エニセイ川の沿岸にあります。

ノリリスクは大自然に恵まれ、タイガやツンドラ地帯では白熊や鹿が棲んでいる。

 私はアレクセイさんに次のように尋ねた。

―「ノリリスクって、とても寒いところですね?」

−「ええ、私はある日、自分のコンサート会場へ向かう途中、道路の温度計がマイナス

53度を指していたこともありました。」

―「夏はどうですか?」

―「私は夏になると、母に連れられて、祖母のいるウクライナで過ごすことが多かったため、ノリリスクの夏についてはあまり知りませんが、ある年の夏、ノリリスクに来た時に飛行機のタラップを降りて、凄まじい暑さに驚きました。」

このように答えたアレクセイさんの目は青く澄んでいました。彼は、モスクワに奥さんと男の赤ちゃんがいると話すと、その目は一層輝いて見えました。

まもなくアレクセイさんのコンサートが始まりました。彼は、光り輝くボタンの付いた黒シャツを着て客席に向かって丁重にお辞儀をし、ピアノに向かいました。座るとすぐにピアノ演奏に没頭し、ハイドン、シューベルト、リスト、ラフマ二ノフの曲を次から次へと弾いていきました。先程まで私とゆっくり会話を交わしていたアレクセイさんの姿は、エネルギー溢れたピアニストの姿に変わっていました。

コンサートが終わると、ホールからホテルへ向かって歩いたとき、しばらくアレクセイさんは無言のままでしたが、そして次のように口を開きました。

―「3年前に日本を訪れた時、富士山の近くで小さな木造家屋を見ました。その時、私はこの家で暮らし、お茶を楽しんで富士山を眺める生活もいいなあと思いました。」

―「毎日、富士山の風景ばかりでは退屈してしまいませんか?」

―「いいえ、富士山の姿は日によって変わりますし、一日の中でも朝、昼、晩と違って見えますから」と答えました。

アレクセイさんは日本の自然が好きで、おそらく葛飾北斎の浮世絵も知っていたのではないかと私は想像しました。私はノリリスクに行ったことはないけれど、いつかこの町を訪ねられたらいいなあと思いました。終わりに私はアレクセイ・ナビウィンさんに今年の夏、オーストラリアで開かれる国際コンクールに勝つこととピアニストのご活躍の成功を祈りますと言いました。

 

 

 

編者注 2002年6月に行われた第12回「チャイコフスキー国際コンクール」のピアノ部門の本選で、アレクセイ・ナビウリンさんは、チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」とプロコフィエフ「ピアノ協奏曲第3番」を演奏しました。なお、彼と同じモスクワ国立音楽院の学生であった上原彩子さんが第1位の栄冠に輝いています。

 

大学えて、

立命館大学国際関係学部 ミハイロワ・オクサーナ

                

皆さんお久しぶりです。私のことを覚えてくれている人は、今はもう少ないかもしれないのですが、実は私はまた名古屋に戻って来ます。中学校と高校は名古屋に住んでいたのですが、大学は四年間京都に住みました。おろしあ会にはずっと参加とかはできなかったのですが、皆さんが書いていた記事はずっと読んでいました。また参加とか投稿とかできたらいいなと思っています。京都は本当に住むにもとてもいいところでした。京都に行く前もすごくこの街に憧れていて、京都の立命館大学に入学が決まった時は大喜びしたことを今でも忘れていません。京都は日本の古都であり、そして古い街並みが好きな私には、いつも、ロシアの古都―サンクトペテルブルグを思い出させてくれます。私はペテルブルグ出身ではないのですが、同じくこの街も大好きなのです。そしてこの両方の古都には共通点もあるような気がします。例えば、古い教会がたくさんあるのと、古いお寺や寺院がたくさんあるところです。

 さて、私がこれだけ長く日本に住む事になるとは自分でも思いませんでしたが、いつの間にかこれだけたくさんの時間が過ぎていて、私も気づかないくらい早くて、そしていつの間にか私は日本にとても馴染んでいました。これだけ長く外国に住むといろいろな経験をする事があります。ロシアとの違いをいつも比較したりすることで私の考え方もどんどん変わっていきました。日本とロシア文化の明らかな違い、そして日本のいいところとロシアのいいところだけをとって考える人間に、自分が少し変われたような気がします。自分の国のよいところは例えば、人の暖かさであったり、日本の場合は例えば、何でもきっちりやるところがとてもよいところだと私は思っています。もちろんこういう違いに気づき始めたのは日本に来て7、8年経ったくらいの時で、自分の故郷も毎年訪れるようになってからでした。日本に来て最初の方はほとんど自国に帰らず…まだ子供であまりその違いを感じることがなかったからだと思います。

 名古屋にいる時は、京都と比べて日本文化そのものを感じる機会というのは少ないように思うのですが、京都にいる時は街を歩いているだけで文化を感じることができるような気がします。通りの名前や、周りの風景がそう思わせてくれているのでしょうか…。そんな街並みとももうお別れと思うと本当に寂しいものです。この間大学を卒業した私にとっては、この四年間は本当に早く過ぎていきました。しかし私は大学の間にたくさんのいろいろな国際交流活動や実際にお金をもらって通訳のお仕事をしたりして様々な経験をしました。この経験等を基に今は名古屋に戻って、そしてまた新たな決意をし将来に向かおうと思います。

 ちょっと話は変わるのですが、欲を言えば、名古屋、大きく言えば日本に、もっとロシア文化を知ってもらえる場所や、若者を引き付けるようなところがあればいいなと私自身思っています。なかなかロシア文化というのはまだ日本人には親しみにくいのかなと思ったりもして、これからの時代は日露交流が発展していってほしいように思います。なぜならロシアでは今日本はとても人気があり、たくさんの日本料理店、日本フェスチバル、そして日本作家の本もベストセラーになるほどになっています。更に日本語を学べる場所もとても多くなり、昔とちがって小学校でも日本語を取り入れているところも少なくなく、日本に関するロシア人の関心はとても高まっているからです。ですが私の国についてはまだ怖いイメージを持っている日本人が多い気がするので、逆に、多民族でこれだけ素晴らしい国が隣にあるというイメージがもっと生まれればいいなと思います。そしてロシアで日本が人気であるようになっていってほしいです。

 

 

 

卒業しました

県立大学外国語学部英米学科 2004年度卒業生

久野栄子

 

 ごぶさたしてます。4年前に県大の英米学科に編入し、ゆっくり時間をかけて卒業しました。県大では、いい先生たちやいろんな友達に出会え、行けてよかったなあとしみじみ感謝しています。ロケーションは、都心からかなり離れていて、不便だと言う人も多いのですが、私は緑に囲まれのんびりした雰囲気が気に入っていました。第二外国語は、物珍しさからロシア語を選び、はじめはがんばっていましたが、だんだん難しくなり、わけわからかくなってきて、いつの間にか授業も休むことが多くなりました。加藤先生の授業を受けているといつも、先生はロシアが好きなんだなあ、としみじみと思うのですが、でも授業についていけずに、休んでしまう自分が申し訳ないなあと思っていました。ごめんなさい、加藤先生。それでも、先生と話したくて、ちょくちょくと研究室に顔を出す私に、いつも明るく優しく接してくれた先生に感謝です。ロシア語は、文字は読めるけど、今では意味はほとんど忘れてしまいました。片言が分かるだけです。ロシア語自体は、ほんの少ししか分かってないけど、ロシア語を選んでよかったなあと思います。英語とは異なった外国語の存在を知り、先生をはじめ色々な友達と出会えたからです。加藤先生にはほんと感謝してます。ありがとうございます☆また、顔出します。ではでは。また。

 

卒業式の後、加藤先生の研究室にて

 

 

トルストイの声

 

おろしゃ会会長 文学部英文学科3年 加藤彩美

 

 私は「アメリカ史」の講義で、生前のトルストイの映像を見ました。彼が生きたのは1828年から1910年です。そのため、映像技術が実用化してから間もない頃の映像ということになります。そこには、すっかり年老いてはしまいましたが、知性のみなぎる瞳をもったトルストイがいました。彼の肉声も残されています。それは80歳という老齢の人間とは思えないほど確かなものでした。

トルストイが駅に現れるという情報が流れたときには、数多くの国民が彼を一目みようと、駅に集結しました。トルストイは当時から大人気の作家でしたが、彼の豊かな思想は創作活動にとどまりませんでした。世界が第一次世界大戦にするのは今か今か、という緊張した時代、また、日露戦争が多数の犠牲者を出して終結した時代、それが彼の晩年でした。トルストイは日露戦争を憂い、平和を願う長い論文を書きました。しかし、本国では発禁処分を受けてしまいます。また、ガンディーの貫く「非暴力・不服従」の運動に大いに賛同し、彼を励ます手紙を送ったこともあります。トルストイにとっては、国境など問題ではありませんでした。どこかひとつの国が、どれかひとつの民族が幸福になるだけではまったく意味を持たないと思ったのでしょう。

 トルストイは20世紀の、悲しく醜い戦争の時代をほとんど見ることができませんでした。第一次世界大戦や日露戦争が終結しても、まだ戦争は続いているのです。彼が、残りの20世紀の戦争や21世紀の戦争を見ていたら、何を思ったでしょうか。そして、まったく皮肉なことですが、悲劇に満ちた今になってようやく、人々の目が世界に向けられるようになりました。何が正しいのか、何を信じるのか、何を思うのか、希望はどこに残されているのか、私たちは見失おうとしています。しかし、世界のできごとから目をそむけるべきではありません。自分には無関係だと思うことが、悲劇の芽になりうるのです。自分が感じたこと考えたことを大切にして、トルストイの声を聞くのです。

 

怒るなかれ

姦淫するなかれ

誓うなかれ

悪に抗するなかれ

戦うなかれ

 

(トルストイの言葉)

 

 

ロシアへの情熱は冷めやらず!

愛知県立大学文学部英文科2年

石原 咲優

 

 こんにちは。じゃなくて、Здравствуйте! Очень рада с вами познакомиться. 私はロシアについて知ることが大好きで、高校以来興味が途絶えることがありません。

 なぜロシアなのか、というのはよく聞かれますが、私にとってそれは、怪しさ、ですね。隣国のはずが謎だらけ。「ロシアに旅行してきたよ」という人はあまりいない。古びた原潜が未だ港に放置してある。北方領土問題、そして時折元КГБの顔を見せるプーチン大統領。こんなにも探りがいのある国は他にないんじゃないかと、思うのです。しかし、母なる大地ロシアはさすがに怪しいだけではないのですね。有名な作曲家やバレエ、文学やフィギアスケート、あのおいしいボルシチだってあるのです。また、去年イギリスへ行く途中、飛行機から凍りついたロシアの夜の闇の中に街灯りがぽっぽっ見えた時には、この厳しい環境の中で人が生活しているのだ、と感動さえしました。 

 音楽以外に、これ程私を夢中にさせたものはありませんでした。以来、ロシア関連の本やニュースで情報収集し、名古屋駅近くの語学学校でロシア語を習い、ロシア料理を食べに行き、交流会に出かけ、着実にロシアかぶれと化していきました。そしてついには怪しいロシアをイメージしたCD「интеллигенция」を完成させたのでした。これは高校時代、同じくロシア好きの友人と共同製作したもので、作曲は私、彼はジャケット担当で、300円であちこちに売りまくりました。まだまだ追加制作しますので、ぜひ聴いてもらいたいです。

 話し出せばとにかく切りがありませんが、今回おろしゃ会の一員になれたことを嬉しく思っています。おろしゃ会とロシア語、ロシア研究の授業で、ますます私のロシア的活動に勢いがつくに違いなく、とても興奮しています。もちろん、ロシア語もブラッシュアップして将来は絶対ロシアで勉強したいと思っているので、ロシアからの留学生マリーナさんとも知り合えて幸運です。

 おろしゃ会にはまだ入ったばかりなので、これからの数々の出会いを心から楽しみにしています。

 

ロシアとの縁(えにし)

名古屋音楽大学作曲学科4年

小島知央(ちひろ)

 

 はじめまして。今年から単位互換の制度を利用して加藤先生の「ロシア研究」を履修しに、中村公園から毎週(?)県立大に来ています。父の仕事の関係で、ロシアは幼い頃から身近な感じ。3歳をロシア(当時はソ連でしたが)で過ごした私は、小学生になるまで、外国=ロシア、そして外国人は皆ロシア人だと思いこんでいたそうです(母談)。しかしながらロシアについての知識はほとんどなく、機会があったら学びたいなぁと思っていました。ですから、こうして加藤先生と出会い、講義を受けられることがとても嬉しいですし、他の大学の学生とも交流できて、毎週金曜日が楽しみで仕方のない私です。

 さて、かすかな記憶をふり絞ってロシアにいた頃の思い出や印象をちらちら書かせていただきたいと思います。支離滅裂な文章になってしまうでしょうが、あしからず。交通面で言いますと、地下鉄が非常に深いところを走っていることが印象に残っています。とにかく深くて、その上エスカレーターが急でスピードが早く、子供の私にとっては遊園地のアトラクション並のスリルがありました。バスは床に穴があいていて道路が見える状態。ガタガタ揺れて、そのうち横転してしまうのではないかと思ったほどです。記憶が鮮明なのは、やはり食についてですね。クヴァースというロシアではメジャーな飲み物があり、コーラの炭酸が抜けたような飲み物だと記憶していますが、アパートの下に週に二度ほど小父様が売りに来て、私は母と一緒にバケツをもって買いに行きました。小父様は樽を横たえたものを車に載せてやってきます。樽からはポンプのようなものが付いていて、水道水のようにクヴァースがでてきます。それをバケツに入れる様子を見るのが大好きでした。好物だったのがマロージノエです。アイスクリームのことなのですが、日本では味わうことの出来ない、美味美味美味のアイスクリームなのです!なんといいますか、とてもまったりとしているのに何故かしつこくなく、とにかく未知の味でした。ごめんなさい、うまく表現できません。日本でもマロージノエの様なアイスクリームを販売すればいいのに!と今でも思います。どこかの企業に提案してみようかしら。舌鼓を打つこと間違いなしですよ。野菜や果物も私好みでした。売人が道沿いにごろごろ並べて売りさばいていました。特に果物は、日本では甘いものほど良いというイメージがあるかもしれませんが、酸味が強いものが多かったです。お菓子が異常なほど甘すぎるからでしょうか。私は日本のものより向こうのリンゴの方が好きですね。自然な感じがして。ほんのり甘くて、小玉で、歯ごたえがしゃきしゃきし過ぎていないのです。公園に行くと小母様たちが犬を引き連れてリンゴをかじっています。そういえばマロージノエを食べて母と歩いていたら、前から来た小母様にマロージノエを突然奪われ、代わりにリンゴをもらったことがあります。真相は分かりませんが、どうも「こんな小さな子供に丸ごと食べさせて!おなか壊すからリンゴにしなさい!」と言っていたのではないかと母は思ったそうです。そして小さな黒髪の女の子が珍しかったのでしょう、至る所で可愛がられました。地下鉄で童謡を歌っていたら、小父様がポケットから多量のキャンディを差し出してくれたり、野菜を買うのに並んだ小母様方に「だっこさせて」とたらい回しにされたりして、どこかへ行っては「マーリンカヤ、マーリンカヤ(かわいいかわいい)」と言われるので、当時の私は「マーリンカヤ=私のロシア名」と思っていました(※実際はただの賑やかでやんちゃな女の子だったのですが)。

 思い出せば出てくるものです。ロシアでの体験をもっともっと書きたいところですが、破片として浮かんできてしまうので、もう少し整理し、まとまった形になったら再び投稿させて頂きたいと思います。子供の目線から見たロシアということで、感覚的な表現しかできませんが、ロシアの生活を垣間見ていただけたら嬉しいです。

 

おろしゃ初心者☆  

             

愛知県立大学外国語学部スペイン学科2年 木村文子

 

 おろしゃ会には1年の時から入っていました。そんな私、ロシアに興味があったかというと、正直全くありませんでした。たまたま姉が入っていたので覗きに行き、何となく入ってしまった次第です。1年生の間、おろしゃ会員として私がやったことは・・・学祭でのボルシチ作り。以上です。知っていたロシア語は、『スパシーバ』のみ(←しかもロシア語で書けない)。ロシアについても、高校の世界史レベル以上のことは何も知りませんでした。

 1年後、比較的見栄っ張りの私は、おろしゃ会なのにロシアについて無知であることがイヤになりました。春休みに授業でロシア語を学んでいる人たちと知り合ったこともあり、2年生からロシア語を受講してみようと思い、今現在ヨロヨロとロシア語を学んでいます。スペイン学科の同学年でロシア語をやっているのは私だけ。話せたらかっこいいかなあなんて思っています・・・が、思っていたよりずっと難しいです。まずアルファベットで混乱ですね!英語やスペイン語のアルファベットとは全然違います。覚えるのに一苦労でした(^_^.)これからやっていく活用形などもとってもやりごたえありそう・・・難しそうです。まわりのみんなについていけるようにあがいて行くつもりです。目指せ4ヶ国語話者☆

 ロシア語の授業では、ロシアの映像を見る機会があり、また、おろしゃ会の部室にはロシアの写真や観光のガイドブックがあるのですが、なんだかロシアは不思議な国ですね。とても情緒のある感じの建物や街並みがあったと思いきや、あの奇抜な彩色の教会が建っていて・・・。それらの建物に関しての知識は全く無いのですが、行きたいと思う国が一つ増えたことは確かです。

 余談ですが、携帯電話のメールで、ロシア語を入力することが出来ます。それがロシア語のアルファベットだと知ったのは結構最近ですが。先日高校の時の友人にちょっとしたロシア語を送ってみました。返ってきた返事にはもちろん、『分からない!』と書かれていました。それはそれで楽しいのですが、友達がロシア語を理解することができたら、会話にしてもメールにしても手紙にしても、とても楽しくなりそうだと思ったので、その友達に簡単なロシア語の単語を教え込む予定です。自分の知識がもう少し増えてからですが。

 ロシア語を始めたからには、ロシアに関しての知識をもっと持たないとなあと思っています。少しずつ勉強して行きます。むしろパソコンでロシア語は打てるのでしょうか?お姉ちゃんに聞いてみようと思います。

 

 

二つの街

県立大学外国語学部英米学科 2004年度卒業生

楯 山河

 

いつの頃からだったか、この世界というものはどうなっているのか、また何故そうなっているのかということに興味を持ちはじめた。テレビ番組や新聞など情報源は様々に豊富で、そこから貧困や暴力、悪政や自然破壊などの今日問題となっている諸悪、それらの根源を見ようとすると、どうも西洋の科学技術がそれらしいということがわかった。貧困や自然破壊の大きな原因の一つには人口爆発があるが、人口爆発は医療などの科学技術が発展したことに起因する。悪政とテロなどの暴力はコインの裏と表のようなものだが、それは民主主義や資本主義や国民国家といった科学技術の生み出したもの(概念)がうまく機能していないからである。とはいっても、この世が不平等であることは誰もが知っている事実だ。誰も自分の生まれる環境を選べない。はじめから勝負は決まっているといってもいい。自由と平等は常に目指されるべき目標でしかなく、達成されたことは一度もない。しかし、たとえ実現することはないとしてもその二つの理想を目指しながら進むべきだと思うのだ。つまり少しでも良い状態を作り上げていく姿勢が重要だと思うのだが、それを富裕層が邪魔しているのである。

二つの街といっても、特定の町のことを指している訳ではない。簡単に言うなら、金持ちの街と貧乏人の街のことである。つまりは資本主義という弱肉強食の競争の中で、勝ち上がり、この競争自体を作り上げた強者達が住む街と、彼らに食い物にされ、これからも損な役回りを演じることを強いられる人たちの街である。

金持ちの街として最初に思い浮かぶのは、アメリカの郊外にある、おそらくは白人専用の高級住宅街である。これは時として高い塀で町全体を取り囲み、限られた出入り口には検問所と警備員を置き、関係者以外を立ち入らせないという仕組みになっており、これをゲイテッド・コミュニティ(Gated Community)というらしい。こういった金持ち専用の閉ざされた空間はアメリカだけでなくフランスにもあるらしいので、そこは気を付けねばならないが、アメリカを最たる例として思い浮かべるのは間違ってはいないだろう。対する負け犬どもの街、貧しいものだけで構成された街、これは枚挙に暇がない。ソマリア、リベリア、シエラレオネ、コンゴなど主にアフリカ大陸の後進国が思い浮かべられる。しかし、これらの国にはかつて独自に発展してきた文明や文化があった。少なくとも内戦続きで荒廃しきった現状よりは数段まともな生活があったはずだ。それが植民地時代のあたりからおかしくなった。「暗黒」大陸(そして「新」大陸)は侵略者達に侵され、人々は搾取され、彼らの文化は野蛮で遅れているとされた。西洋人は彼らの文化を「石器時代と同程度」と考え、アフリカ人はまだ人間ですらないと考えた。余談ではあるが比較的最近になっても、文明進化論的考えはあまり変わっていないようだ。何かで読んだ話では、どこかの先進国の先鋭的な女性解放運動の活動家が、アフリカに残る野蛮で「女性の権利を傷つける」風習を止めさせようとしていた。その風習とは、確か、結婚前の少女は全員、貞操を守るために性器を3分の2ほど縫い合わされ、将来夫となる男がそれをナイフで切り開くというもので、縫合されていない女性は結婚できないのだという。確かに偏執的な印象はあるが、西洋文明はそういった風習を独善的に悪だと決め付けてきたのである。西洋諸国はアフリカを彼らの都合で区切り、境界線を引いた。土着している部族の縄張りや分布は無視された。1960年はアフリカの年といわれ、数多くの国が植民地から独立国家としてアフリカで誕生したが、それは宗主国の引いた国境線に則るものだった。これが後々の内戦へとつながる一つの大きな要因となったようである。

ちなみに、この文章は朝日新聞で連載されていた『カラシニコフ/銃・国家・ひとびと』というコラムにインスパイアされたものである。このコラムは「11歳の少女兵」というシリーズで始まり、次に「設計者は語る」、「護衛付きの町」と続くのだが、「護衛付きの町」が始まる前日に僕はこれを金持ちのゲイテッド・コミュニティのことだと先走った予想をしていたのだ。ところが始まったのはその真逆の最貧地域、ソマリアの首都モガディシオについてであった。ソマリアは1991年に中央政府が崩壊してからずっと内戦続きで、外国人などは現地の護衛を少なくとも7人雇わなければ、確実に襲われて身ぐるみ剥がれてしまうような場所だという。これに軽い衝撃を受けたわけだが、何故そんな勘違いをしてしまったのか考える内に、この二つの対照的な地域、そしてそこに暮らす人々のある共通点に気づいた。それはゲイテッド・コミュニティに住む金持ちも、中央政府すら確立していないような地域の人々も「安全」というものを欲しているということだ。もちろん動物の生存本能からすれば、それは当然の話である。金持ちも貧乏人も自分の命は惜しいに決まっている。問題は、その安全を得るための手段、そして今や世界中の誰もが安全を欲しているという状況そのものではないだろうか。

 貧しい人達のやり方は単純明快である。彼らは自らの安全を守るために銃を使う。攻撃は最大の防御というわけだ。フレデリック・フォーサイスのいう「失敗した国家」においてはどんな高尚な理論も役に立たない。暴力が全てを支配する世界だ。対する金持ち達のやり方は貧乏人とは違って、回りくどく、偽善的でいやらしい感じで行われる。どの辺がいやらしいかというと、マイケル・ムーアの本にあった「白人どもは笑顔で『差別はいけないことです、我々は差別しません』と言いながら、郊外に逃げ出す」というくだりのように、金持ち達は建て前上は「差別などない」「差別することは違法である」ということにしておいて、実際には暗黙の了解としてしっかり差別するのである。彼らは塀を作って中に逃げ込み、邪魔者をそれとなく「合法的に」排除し、法律上は誰もが平等であるとしつつ、決して平等に扱うことはなく、安全も含めて自分たちだけが全ての恩恵にあずかろうとする。これが彼らのやり方である。彼らの持つ権力という力は、暴力よりも高位にある。

中にはこれらと逆の動きもあるにはある。貧しい国の中で、また政府の援助もない中で何とか自国の現状を改善しようとNGOなどで草の根的な活動をしている人達もいるし、逆に裕福な人たちの中にもジョージ・ソロスのように後進国援助などに積極的に金を投じる人もいる。しかし、現状ではそのどちらも今ひとつ力不足なのは明らかだ。世界はこれからも資本大国が支配しつづけるだろう。当分の間それは変わりそうにないが、少しでも世界が良くなるためにはやはり力を持っている富裕層が先ず変わらねばならないと思う。

 

参照:

マイケル・ムーア、「アホでマヌケなアメリカ白人」

朝日新聞朝刊、「カラシニコフ/銃・国家・ひとびと」

平林利文、居住環境計画学/2050年の地域性。http://kingo.arch.t.u-tokyo.ac.jp/ohno/po/environseminar-folder/02hirabayashi.htm

(↑読むべし!)

 

プロコフィエフのオペラ《賭博者》Op.24

―ロシア語のデクラメーション・スタイルを中心に―

鳥山頼子(愛知県立芸術大学大学院1年)

 

加藤先生との出会いは2年前の春のことであった。当時愛知県立芸術大学の3年生であった私は、県大・県立芸大・県立看護大の3大学の間で行われている単位互換の制度を活用してロシア語の授業を履修し始めたのだった。他大学に通い、他大学の学生と肩を並べて勉強することは非常に新鮮で、刺激的であった。特に、2年前に私が受講したロシア語初級の授業は近年まれに見る盛況ぶりで(加藤先生いわく)、30人近くもの受講者がおり、私と同じようにロシア語を学びたいという意思を持ったたくさんの仲間たちの存在が嬉しかった。

 さて、ここでまず私がロシア語を学ぶことになった経過を述べたいと思う。私は、昨年度まで愛知県立芸術大学で音楽学を専攻し、音楽史を研究してきた。音楽を学問的に追究するという作業は、演奏を通じて音楽にアプローチすることと同じように、非常に奥が深く、困難なことである。しかしながら、人間に癒しや活力や感動を与えてくれる音楽と向き合い、それを分析するのは大変面白いことでもある。私は、大学に入学して以来、さまざまな音楽を聴いてきたが、ロシアの芸術音楽にとりわけ強い関心を抱いた。西洋音楽の影響から脱し、民族的な音楽の創作を志したグリンカや5人組の土臭さに満ちた力強い音楽、チャイコフスキーの珠玉のバレエ音楽、神秘主義に彩られたスクリャービンの音楽、ロマンティックな楽想に満ちたラフマニノフのピアノ協奏曲…。私は、これらの音楽が持つ独特の魅力にひきつけられ、いつしか卒論のテーマにロシアの音楽を取り上げたいと考えるようになった。こうして、私はロシア語の習得を目指すようになったのである。

 こうして2年間にわたる加藤先生とミハイロワ先生の温かいご指導のおかげで、ロシア語の基礎的な文法を身につけ、簡単な文章を読むことができるようになった。さらに、大学卒業を機に、加藤先生から卒論で取り上げたプロコフィエフに関する文章をおろしゃ会の会報に寄稿してみないかというありがたいお話をいただいた。非常に拙い論考ではあるが、ご一読を願い、皆様からの率直なご批判をいただければ幸いである。

 

 

 昨年、2003年はプロコフィエフの没後50年という記念の年であり、記念コンサートの開催や記念CDDVDの発売などプロコフィエフにちなんだイベントが世界各地でにぎやかに行われた。セルゲイ・セルゲエヴィチ・プロコフィエフ(1891-1953)は、周知のように20世紀前半のロシアを代表する作曲家の一人である。ウクライナのソンツォフカ村で生まれたプロコフィエフは、早くから楽才を示し、わずか9歳で最初のオペラを書いた。そして、1904年にペテルブルグ音楽院に入学し、リムスキー=コルサコフやリャードフらからロシアの伝統的な作曲技法を学びながら、現代音楽を研究した。その後、革命の混乱を避けて1918年に亡命し、アメリカやドイツ、フランスなどでピアニストとしてまた作曲家として世界的に活躍をした。しかし、プロコフィエフは、亡命をして異国の地で亡くなった同時代の多くの芸術家たちとは異なり、祖国に帰る道を選んだ。彼は、1936年にソ連に帰国し、新国家の要請に応えるべく社会主義リアリズムの作風を盛り込んだ音楽作品の創作に専念し、生涯の幕を閉じたのであった。このようにプロコフィエフの人生を追ってみると、彼がコスモポリタンな音楽家として幅広く活躍しながらも、祖国を非常に愛していたことが分かる。また、生涯を通じて精力的に創作活動を続け、自らの作風を模索し続けた彼のひたむきな姿勢を感じ取ることができる。

 プロコフィエフの作品は作品番号のあるものだけでも120曲を超え、ピアノの小品から交響曲やオペラなどジャンルも多様である。しかし、これまでのプロコフィエフの作品研究においてはおもに器楽曲に焦点が当てられ、テキストを持つ声楽曲やオペラはあまり注目されてこなかった。今回考察を試みたオペラ《賭博者》Op.24は、1915-17年にプロコフィエフが書いた最初の大規模なオペラであり、その後のオペラ創作の足がかりとなった作品である。しかしながら、この作品も例にもれず、研究があまり進んでいない。特に、欧米の研究者による研究例はほとんどないのが現状である。というのも、この作品がロシア語のテキストを持ち、プロコフィエフがデクラメーション・スタイルによってテキストに密着した音楽を書いているためだと思われる。そこで今回、これまで見落とされてきたこの作品の価値を見直し、プロコフィエフの新たな作品解釈を提示するとともに、あらためてこの作品を音楽史の中に位置付けようと試みた。

 オペラ《賭博者》Op.24は、早くから構想され、1915-17年に作曲された後、27-28年に大幅な改訂を経ている。なお、テキストはプロコフィエフ自身が作成しているが、原作はドストエフスキーの同名の中編小説である。1866年に書かれた中編小説『賭博者』は、ドストエフスキーの一種の自伝的作品といえる。つまり、作品で描かれているスリリングな賭博や、ヒロインと同名の女性(ポリーナ)との苦い恋愛などは当時のドストエフスキーが自ら体験したことであった。ドストエフスキーは、主人公アレクセイに自分自身を重ね合わせ、アレクセイの「手記」という設定のもとに一人称形式で物語を書き上げたのだった。幼い頃から読書家であったプロコフィエフは、ドストエフスキーのこの興味深い小説に出会って以来、早くからオペラ化を考えた。テキストの作成にあたっては、彼はドストエフスキーの文体に価値を見出し、原作をほぼ忠実に翻案している。物語は、ドイツの架空都市ルーレッテンブルクの賭博場を舞台に繰り広げられる、多様な登場人物による賭博をめぐる人間劇である。

 また、プロコフィエフはこのオペラを通じて、「番号つきオペラ」と呼ばれる伝統的なオペラの形式を否定し、ほとんどすべてを一種の「対話」によって組み立てるという斬新な試みをしている。つまり、アリアや重唱、合唱といったオペラの慣習的な形式を放棄し、登場人物同士の対話を連続させることで、音楽的な断絶を避け、舞台の緊張感を持続させようとしたのである。さらに、プロコフィエフは、声楽パートに、言葉の自然な抑揚に合わせたデクラメーション・スタイルという画期的な手法を取り入れている。この手法により、歌手たちの劇的な表現の幅は拡大し、聴き手もテキストの聴き取りが容易になる。次に、このオペラの最大の特色ともいえるこのロシア語のデクラメーション・スタイルについて詳しく見ていきたい。

 ここでまず、デクラメーション・スタイルという用語の定義を再確認しておく必要があるだろう。そもそも、デクラメーションdeclamationとは「演説」や「朗読」という意味である。この言葉が音楽に転用されるとどうなるのだろうか。ある音楽事典においては、デクラメーションを「歌詞に曲をつけて歌う際の、言葉の強勢と旋律のアクセントの関係」としている(注1)。つまり、デクラメーション・スタイルとは、とりわけ言葉の抑揚に留意した、朗唱風の歌唱スタイルということができる。先の事典によれば、デクラメーションという言葉が音楽において始めて用いられたのは18世紀のことだったとされており、この事実からも、言葉と旋律の関係に対して早い段階から関心が向けられてきたことが分かる。そして、プロコフィエフがオペラ《賭博者》を書いた20世紀の初頭において、デクラメーション・スタイルが再び多くの作曲家に注目されることになった。例えば、ドビュッシーやバルトーク、ベルクらはそれぞれ自国語のデクラメーション・スタイルを生み出し、作品に取り入れている。プロコフィエフもまた、《賭博者》におけるロシア語のデクラメーション・スタイルを通じて、声楽におけるまったく新しい表現形態を生み出そうとしたのだった。

 さて、それではオペラ《賭博者》におけるデクラメーション・スタイルを具体的に検証していきたい。最初に、その特徴として1音節に1音というシラビックな旋律付けがなされていることが挙げられる。そのため、全体的に旋律は音価の短い、多数の細かな音符から構成されることになる。【譜例1】は、第2幕におけるアレクセイのパートの一部である。ここでは、わずか2小節のうちに18の音節を持つテキストに対して18の音符が書かれている。こうして、歌手たちはテキストを「歌う」というよりも「しゃべる」ことで、テキストに密着した表現をすることができるのである。声楽パートは、概してこの例のようにシラビックに書かれており、言葉の発音がより鮮明になされるように配慮されている。

 次に、デクラメーション・スタイルについてアクセントの観点から考察していきたい。まず、その前にロシア語のアクセントの特性を整理しておきたい(注2)。ロシア語は原則として1つの単語につき1つの強いアクセントを持つ。また、アクセントは基本的に「強さ」によって作られ、「長さ」がそれを補うかたちで存在し、「音調」や「母音の質」がそれらに関与する。さらに、ロシア語はアクセントの置かれる音節の位置が一様に定められていない「自由アクセント」を持つ言語であり、他の言語に比べて多様なリズムを持っている。また、1つの単語でも語形の変化に伴ってアクセントの位置が変わることがあるため、その位置が意味機能を決定する上でも重要な役割を果たす。つまり、ロシア語は多彩なアクセントを持ち、発音の際にその位置を明確にすることがきわめて重要な言語であるといえよう。

 プロコフィエフは、この作品の声楽パートにおいてテキストのアクセントに合わせて注意深く旋律のリズムを変えている。【譜例2】は、第4幕第3場でアレクセイが賭博で大勝利を収め、ヒロインのポリーナに大金を差し出す場面である。ここは、4拍子だが、3連符、8分音符、4分音符を組み合わせて、拍の頭にアクセントが来るように注意深く音楽付けされている。こうして、きわめて自然に、音楽によってアクセントの強調が促されることになる。また、第1幕のポリーナの声楽パートである【譜例3】では、テキストのアクセントを拍頭に持ってくるために、リズムの変化とともに、拍子が変えられている。こうしたアクセントに合わせた音楽付けは、この作品の声楽パートのあらゆる箇所で見られる大きな特徴となっている。

 さて、アクセントが単語のレベルである波を作るとしたら、イントネーションは文あるいは単語の連なりのレベルで波を作り出すものだといえる。プロコフィエフは、テキストに音楽をつける際に、ロシア語のイントネーションにも留意している。なお、ロシア語のイントネーションは中心部を持つという特徴がある。この中心部とは、文あるいはフレーズにおいて発話者が強勢を置く語のアクセント部分に位置し、固定していない。そして、この中心部をめぐって波が作り出され、その際には特に声の高さの変化が重要となる。また、ロシア語のイントネーションは、文章の形態の違いなどから一般に5つの型に分けることができる【表1】(注3)。これらのことを踏まえた上で、声楽パートの旋律を見ていきたい。【譜例4】は、アレクセイとポリーナの対話の場面である。上から逐語訳、テキスト、イントネーションの動きを示すしるしとイントネーションの型の分類、声楽パートの旋律と付随するテキストを一緒に示してある。

まず、1段目のИграли на рулетке?は疑問詞のない疑問文であり、第3型のイントネーションを持つ文章だと判断できる。第3型のイントネーションの特徴は、中心部で声の高さが急激に上昇し、その後低く下降することである。文の内容から、中心部は「しましたか」のИгралиаと「ルーレットを」のна рулеткееだと予想できる。その上で、声楽パートの旋律を見てみると、確かに中心部のаеで音価が長くなるとともに音高が上がっていることが分かる。また、中心部の次の音節では音が下降している。さて、次の段のИграл.は確認を示す平叙文であり、第1型のイントネーションを持つ文章である。第1型のイントネーションの特徴は、中心部で声の高さが低く下降することだが、それに呼応して、中心部のаにおいて旋律も低く下降していることが分かる。さらに、3段目のЧто же вы молчите?の文章は疑問詞で導かれる疑問文であり、第2型に当てはまる。この型では、中心部がやや声の高さを上昇させて、かつ強く発音され、その後の部分で低く下降する。この文章の中心部は、内容から「黙っているの」のмолчитеиだと考えられる。それを踏まえて、声楽パートの旋律線を見ると、中心部иは前の音符から半音上昇し、かつ音価が長くなっていることが分かる。これは、第2型のイントネーションの特徴である、中心部での発音の強まりを明確に表していると考えられる。ここで挙げた例はほんの一部だが、作品全体を通じて、プロコフィエフはイントネーションによる音高の変化も考慮し、それに合わせた旋律線を書いた。こうして、声楽パートは概してテキストの自然な抑揚に合致したものとなるのである。

このように、オペラ《賭博者》の声楽パートには、シラビックでアクセントを自然に強調したリズム、イントネーションに合わせた旋律線によるロシア語のデクラメーション・スタイルが全面的に取り入れられている。プロコフィエフは、この手法により、ドストエフスキーの小説をオペラという劇音楽において忠実に再現しようとしたのである。こうして、オペラ《賭博者》は、これまでのロシア・オペラでは見られなかったリアリティを持ったまったく新しいタイプの作品となった。音楽史的に見ても、西洋の作曲家たちがこぞってデクラメーション・スタイルの試みを行った20世紀初頭という時期に、ロシアという辺境の地で同じようにロシア語によるデクラメーション・スタイルを考案し、音楽的な結実を果たしたプロコフィエフの功績は評価されるべきである。なお、オペラ《賭博者》で用いられたこの手法は、プロコフィエフのその後の声楽作品にも受け継がれ、彼の音楽の重要な様式の一つとなった。プロコフィエフは生涯を通じて母国語のロシア語と音楽との関わりを念頭において創作活動を続けた。こうした彼の姿勢からは、祖国とその文化を愛してやまなかった彼の横顔を見ることもできよう。今後、さらにプロコフィエフの音楽に対する再評価が多角度からなされ、研究が進展することを期待したい。

 

 

 

(1)『ニューグローヴ世界音楽事典』(講談社、1993-1995年)

(2)ロシア語の発音における諸特徴については、おもに城田俊『ロシア語の音声−音声学と音韻論−』(風間書房、1979年)を参考にした。

(3)同前、174-182頁を参考に作成した。

 

使用楽譜

  Prokofiev, Sergei. Igrok. (Moscow: Musika, 1967)

 

おろしゃについて考える

 

ロシアとの出会い

愛知県稲沢市  加藤 豪 46

 

はじめまして、加藤と申します。朝日新聞の夕刊の記事からこのおろしゃ会を知り、この度、旅行やロシア語講座からの感想を寄稿することになりました。よろしくお願いします。

 はじめに、私がロシアに興味を持つきっかけとなった事からお話します。私は、ロシア(ソビエト)に対して良い先入観を持っていませんでした。多分これは、学生時代に生じたと思います。やはりこのため、私はロシアに対にしての考えには偏りがあり、それは悪い方にとる傾向がありました。こんな気持ちの私が、2002年9月に、6日間の日程でロシアを初めて旅行する機会を持ち、観光した都市はモスクワとサンクトペテルブルグでした。当然、旅行前のわくわくするような興奮もなく、良く言えば旅慣れた、悪く言えば、その国に敬意を払っていないような態度で期待しておりませんでした。しかしながら、この旅行の日程が進むにつれ徐々に私の心に何か違和感が生まれ、それは、私の今までの固定観念の否定となり、逆に心地よい新鮮な気分に移り変わりました。その変化とは、私が以前からあったロシア人は皆、無口で、無表情で、非友好的という思いから、控えめで、友好的であり、素朴ですが親切で心のあたたかさを実感するようになりました。たった6日間の観光滞在からの感想ですので、実際には当たってないかもしれませんが、もう一度すべて白紙に戻し、考え直す良い機会となったことは間違いありません。地理的には日本に一番近い隣国ですが、感覚的には遠い国のロシア。旅行の印象が良かっただけに、さらに理解を深めていくことができるなら、すばらしいことではないかと思ったのが、私の最大のきっかけ理由です。

 次に、ロシア語についてですが、帰国後すぐはじめましたので約1年半になります。独学で気楽な気持ちでの学習なので、文法や発音などまったく自信がありませんし程度も低いと思います。しかし、NHKのテレビやラジオのロシア語講座テキストから流れるロシアの話題は、先の旅行での思い出と重なり合い興味津々です。滞在したモスクワやサンクトペテルブルグについての事はもちろん、その他に文化、芸術、生活習慣や料理などには特に関心が向きます。ロシア語の学習というよりもロシアの紹介をロシア語講座で聞くといった感じです。それで、今までの放送から感じたことは、かつて日本人が持っていた心がロシアにはあるような気がしますし、それは旅行での実感と一致するような気がします。このような興味本位での学習ですが、いつかロシア語で会話できるようになればと思い、毎日続けております。

最後に、ロシアとの出会いは、すべて偶然からの賜物です。たまたま参加した旅行、たまたまはじめたロシア語講座、それからたまたま朝日新聞から知った、このおろしゃ会。まだまだ私には興味尽きない楽しい不思議な国、ロシア。想像はますます広がり、私の心はロシアの大地を駆けめぐっております。この気持ちを大切にして、大いに楽しみたいと思います。これを縁にこれからもどうぞよろしくお願いします。

 

ロシアについて、おろしゃ会の現状について

 

愛知県立大学英文学科3年 木村美幸

 

 ・ロシア連邦

   面積…1,707万km2。日本の約45倍!

   人口…約1億5千万。日本+3千万。

   首都…モスクワ。どちらかというとヨーロッパ寄り。

   公用語…ロシア語。дやзなど、顔文字で見ますよね。

   大統領…ウラジーミル V.プーチン。仏や独の大統領や首相よりは有名です。

 

 Здравствуйте! 少しロシアについて探してみたのですがこんならしいです。私もまだまだ知識が乏しいですね。まぁ、韓国の人口とかを訊かれても返事出来ませんが。意外なものです。面積が広いのに人口同じくらいなら日本よりはのびのび暮らせそうです。治安を除けば…。

 私はロシアに行ったことが、当然と言うのもなんですが、ありません。強いて言うなら上空を飛行機で通ったことがあるくらいです。今、上のものを調べに外務省と総領事館のHPへ行ったらロシア語の部分は、閣僚の皆さんの名前しか分かりませんでした。要勉強!(前回のときも同じようなことを言っていた気が…)

 さて、今ロシアといわれると何でしょう。北方領土返還問題といわれる方もいると思うし、若い方々は女子バレーで唯一日本を負かした国と言われるかもしれません。愛知在住の方々ならばマンモスの発掘、万博で展示されるかもという話題を思い浮かべるかも…六カ国協議やモスクワの劇場や地下鉄の事件などを挙げられる方もいらっしゃるかと。私だけでも意外にロシア関連の話、思い出せるのですよ。割と身近な国なのですね。おそらく米英中韓に次ぐ勢いで…。割と軍事に力を入れている社会主義国だったかと。その一方で小説や音楽家で有名な方々(ドストエフスキーやチャイコフスキーが良い例)を輩出したり…。世界は広い、ならぬロシアは広い、といったところでしょうか。

でも、フランス語やドイツ語よりもロシア語を学ぶ方が少ないのは何故でしょうかね。第二外国語でそのフランス語を取っていたのでなんとも…なのですが、十中八九このややこしいロシアンアルファベットの所為では…。私も読めません、昨年の会報に私のロシア語理解度を書きましたが全く進歩していません。ごめんなさい。マリーナが再留学してきたし、来年は私も4年生、時間が空いたらチャレンジでしようかと思っています。今年、私の周りでロシア語始めた人が全員挫折しかかっている感じがしなくもないのですが…。

ものすごくどうでもいい事をだらだらと連ねたような感じになってしまって申し訳ありません。そろそろしめようかと思います。お目汚し失礼しました。では、До свидания!

 

 

 会員各位、皆様お元気でしょうか。最近全く顔を出さなくなった昨年度の広報担当、木村です。なかなか忙しくなってしまい(授業数は減ったのに)会報を書くのも遅れてしまい…少々心苦しい状態です。申し訳ありません。

 そして…罪滅ぼしでも何でもないのですが、ふと思ったので書いてみようかと。学生サークルとしての『おろしゃ会』の現状を。最近朝日新聞に載ったり(私は影も形も出てませんが)OBの平岩さんが論文で有名(?)になったりロシアから大学院へ留学生が来たりで大忙し…でもないのですが、我等はまったりと活動…していると思います。妹談です、見ていません(汗)

活動状況は、定例は毎週水曜日。午後からです。やることは様々。ロシア語の勉強をするなり、寄贈(貸出?)されているロシア文学を開いてみたり、クラシックのCDをかけてみたり。思い思いです。

 そして時々、加藤教授がロシア映画のビデオ上映会を開いてくださいます。今までに6回ほど。毎回、掲示板などで宣伝はしています。会員以外の方も、是非。学外の方は…教授にアポをとって頂いた方が話はスムーズかと。

 メンバーは、会長加藤彩美さん(3年)を中心に、登録している方は多いわけではないのですが…10人程度でしょうか。ひそかに自分の妹が混じっています。水曜日に部室に来るのは4〜5人かと。自分は時々火曜日に、部室にいたりするかもしれません。OBの方が訪ねてくることもあります。私たちよりも色んな意味でしっかり者…至らない後輩で申し訳ありません。

 大学祭では、ロシア料理を出しています。クレープ、ピロシキ、ボルシチを今までは出して来ました。今年はどうなっているのかちょっと連絡が来ていないのですが…果たして。

 と、まあこんな感じです。基本的にロシア語を皆とっているのですが、私は例外ですね…よって、顔は皆、教授に覚えられます。私は違う所で覚えられていますが…此処最近、顔を合わせる度に「原稿まだ?」…本当にすみません…。

 これで興味もたれる方、いますかねぇ…まったりとしたい方、ロシア語覚えたい方、是非、学生会館2階D202教室へ、水曜日の午後訪れてみてください。来たから即入会、などというきっついことはしません。お試し感覚で、どうぞ。

 

 

 

あとがき

 

おろしゃ会会長 文学部英文学科3年 加藤彩美

 

 今回もまた、とても内容の濃い原稿が集まりました。執筆してくださった皆様、どうもありがとうございます。この会報が多くの人にとってロシアをより深く、正確に理解する助けになることを信じていますし、また、願ってもいます。

 私は先日、邦画『CASSHERN』を観ました。そもそも戦争とはなぜ起こるのか、それを回避するにはどうしたらよいのかといった監督の考えが詰まっており、ひとつのアイディアとして参考になりました。

さて、『CASSHERN』ではところどころに、書かれたロシア語が見られます。登場人物は全員日本語を話しますし、ロシアが舞台になっているというわけではありません。だからといって、キリル文字が不規則に並べられているわけでもありません。エンドロールにはロシア語翻訳をした方の名前もあり、私はそれらのロシア語を読解することができませんでしたが、キリル文字を見たときには懐かしいような親しみを感じました。

不思議な印象だったキリル文字と私との距離が、縮まってきました。

 

 

 

 

「おろしゃ会」会報 第11号

2004年4月18日発行)

 

発行

愛知県立大学「おろしゃ会」

480-1198 愛知県愛知郡長久手町熊張茨ヶ廻間1552-3

学生会館D-202(代表・加藤彩美)

  http://www.tosp.co.jp/i.asp?i=orosiya

 

発行責任者

加藤史朗(愛知県立大学外国語学部)

480-1198 愛知県愛知郡長久手町熊張茨ヶ廻間1552-3

  kshiro@for.aichi-pu.ac.jp

  /~kshiro/orosia.html