おろしゃ会会報 第13号

2006年

 

おろしゃ会の幅さん、クラスノヤルスク大学で日本語教師を始める

(左からユーリヤ先生・幅先生・クラスノヤスク大学学生)

 

愛知県立大学「おろしゃ会」会報 第13号

2006年10月21日発行

 

 

はじめに... 2/安藤由美

ロシアでの1年を振り返って... 2/豊川浩一

沿海地方の村の旅... 23

ウラジオストクからチェルニゴフカまで... 24−/齋田えり

教員を目指すみなさんへ... 41/加藤彩美

鮎美さんからの便り... 44/服部鮎美

チャイコフスキーの『人生』交響曲との... 56

日ロプロジェクト... 56/スヴェトラーナ・ミハイロワ

涙がこぼれないように(または成仏するということ)... 60/加藤史朗

 

 

はじめに

 

こんにちは。新しくおろしゃ会の会長になりました、安藤由美です。現在は大学3年生で、大学ではドイツ語を専攻しています。

 私がロシア語と出合ったのは2年前です。第二外国語として何を勉強しようか考えていたときに、せっかくなら何か特別な言語を学びたいなぁと思いました。ロシア語を学べるところは日本でも少ないと聞いて、おもしろそうだなぁと思いました。その当時は(今もですが・・・)ロシアについての知識は全然ありませんでした。知っているロシア語といえばスパシーバくらいだし、あとピロシキとボルシチがおいしい国ってくらいの知識でした。実際にロシア語を勉強し始めて、まずはアルファベットを覚えなければなりませんでした。でも新しい文字で読んだり、書いたりすることはとてもおもしろいことだと思います。それからロシア語には格変化がすごく多くてとても困ります。格によって名詞や形容詞、人の名前まで変化してしまうことはとても驚きました。このようにとてもややこしい言語ですが、そんな言語を流暢に話せるとかっこいと思って、日々勉強しています。まだまだ精進しなければなりませんが・・・。

 これからおろしゃ会の会長として、もっとたくさんの人にロシアという国、文化や言葉を知ってもらえるように活動していきたいと思います。たくさんの人がロシアに興味を持ってくれたらうれしいです。よろしくお願いします。

 

 安藤由美さんは、愛知県立大学外国語学部ドイツ学科の3年生です。この春、卒業した加藤彩美さんの後を継ぎ、おろしゃ会の第5代会長となりました。どうぞ宜しくお願いいたします(加藤史朗)。

 

 

ロシアでの1年を振り返って

豊川 浩一(明治大学文学部)

 

はじめに

 

久しぶりにロシアで1年間研修しました。これから行く予定があり、またロシアでの研究とはどういうものかと疑問をお持ちの方もいらっしゃるでしょうから、そのことについて少しお話しましょう。私のロシアでの研修は主に図書館と古文書館での勉強ですが、自分の関心に従い、いろいろな国や地域を訪れました。深いロシア理解を目指しながら18世紀ロシア史を考えるという点からすると心もとないのですが、ほぼ私の考えていた目的を達成することができたと言えるでしょう。その意味で20044月から20053月までの研修は有意義で実り多いものでした。なお、今回の研修テーマは第一に「日露交流史――18世紀を中心に――」、第二に「プガチョーフ叛乱における民衆意識」、第三に「ロシア帝国民族統合史の研究――バシキール人と植民政策」です。いずれも18世紀ロシア社会の特質を違った角度から考えようとするものです。生活の中心が図書館と古文書館でしたので、ここではそのことを詳しく記しながらロシアにおける研修の様子をお知らせしましょう(なお、いくつかの体験は「おろしゃ会」1112号に書きましたので参照してください)。

 

T 研 究

一 受け容れ機関

 

 まず、私が所属することになった科学アカデミー・ロシア史研究所について述べてみましょう。ここは大学と異なり、研究を行うための機関です。ロシアでは研究と教育とが厳然と区別されています。大学は教育を、研究所は研究を行うところとなっています。

 研修先を決めるに当たっては、どの機関にどのような研究者がいるのかということを把握しておかなければなりません。ソ連時代ではそれが難しく、著名な研究者でも、その人が研究所に所属しているのか、大学に所属しているのか、またどこにいるのかさえ分からないことがありました。しかし最近では研究者に関する便覧が刊行されていて容易に分かるようになりました。

 私の場合には旧知のカザーフ史研究者に依頼して実質上の研修指導者になってもらいました(公には違うのですが)。その研究者が勤務していたのがモスクワの科学アカデミー・ロシア史研究所だったのです。地下鉄「アカデミーチェスカヤ」駅を降りてすぐのところにある研究所は専門毎に幾つかのセクションに分かれています。たとえば「封建制研究センター」、「19世紀研究センター」、「20世紀研究センター」、「軍事史研究センター」、「諸民族研究センター」、など。「センター」とはいっても部屋があるだけです。そこに週1度の会議に研究員が集まり、1年間の研究計画を立てたり、また報告をしたりするのです。最初は「封建制研究センター」に顔を出しましたが、基本的には「諸民族研究センター」に入り、そこの研究員の指導を仰ぐことになりました。

毎週火曜日の2時から会議が始まりますので、その前の時間に研究員と研究テーマや研究方法、古文書の所在、などについて話を伺うということにしました。ときには研究所の所長とも会って自分の研究成果について述べたりもしました。そのおかげで論文を幾つも書き、それを雑誌や本に載せてもらうことにしました。

ロシア史研究所でお世話になった所員たち

 

二 モスクワでの研修

1.図書館

 

実際の研修の様子について述べてみましょう。まずはロシア随一を誇りかつ世界的に見ても大規模なロシア国立図書館(РГБ旧称レーニン図書館)を紹介します。ここはクレムリンの真横、地下鉄「レーニン名称図書館」駅で降りるとすぐのところにあります。日曜日と月の最終月曜日を除いて毎日開館しています。9時から20時まで、土曜日は9時から19時まで開いています。この図書館には帝政時代、ソ連時代、そして現代ロシアで刊行された本がすべて収められています。日本の国会図書館と同様に出版された本はすべて納められるシステムになっているからです。しかし、1991年以降、情況に変化が生じ、必ずしもすべての本が入らなくなりました。それでもほとんどすべての本があるので便利です。しかも18世紀のものでも(いやそれ以前のものさえも特別室で閲覧可能です)、19世紀のものでも現物で読むことができるという利点があります。ただしこれも最近は様変わりしマイクロ化されたものはマイクロフィルムで読むようにということになりました。また図書館本館の横には付属の「本の博物館」があり、中世のロシア文献に触れたい人にとっては垂涎の的です。

 

モスクワの旧レーニン図書館

 

なお、現在、博士号取得者やアカデミー会員、ならびに外国人研究者のための特権的な閲覧室である第一読書室は工事中です。それでも第一閲覧室のための受付コーナーがあり、その担当係員がわれわれのために便宜を図ってくれます(その意味でもやはりロシアはヨーロッパの諸国同様にソ連時代も含めて「階級社会」なのです!入ってすぐのクロークでもコートを預けるにあたり第一閲覧室の人は優先されます)。コピーのための場所は数ヶ所あり、すべて館員が依頼を受けて行うシステムです。最上階の4階が一番空いています。担当の女性職員は、冬の朝早く行くと、「人が来ないので凍えそうだ」と言いながらさっとコピーをしてくれました。食堂、ビュッフェともに便利です。こちらは11時から18時まで利用できますので古文書館から「はしご」してここに立ち寄る人には夕食も取れるという意味でよいでしょう。一息つくために生ビール(「シビルスカヤ・カローナ(シベリアの王冠)」という銘柄)が飲めるのはありがたいものです。ちなみにビールは05リットルで32ルーブリ(1ルーブリ=4円)、コーヒーは5ルーブリ、紅茶は2ルーブリ、ピロシキは5ルーブリ程です。

ロシア国立図書館手稿部(ОР РГБについても述べてみましょう。この図書館では、通常の本を読む以外に、古文書を読むための閲覧室が特別に2箇所(3階とテー棟)あります。私もそこで主に20世紀前半の歴史家М.К.リュバーフスキーの書き残したバシキーリアの歴史に関する手稿を読みました。モスクワ大学学長まで務め、科学アカデミー会員でもあったこの中世ロシア史の大家は1920年代後半に「ブルジョア史学」のレッテルを貼られてウラルへ流されました。1936年にウファーで死を迎えるまで限られた史料と文献で研究しました。その手稿の存在は知られていても利用した人は多くはありません(ナウカの『窓』9月号の拙文を参照してください)。この手稿部は月曜日、水曜日、金曜日は11時から20時まで開いています。火曜日と木曜日は10時から19時まで。土曜日は10時から17時までとなっています。10人も入ると一杯になる閲覧室はこぢんまりとしていて、また左手横にクレムリンの鐘楼を間近に見ながら勉強できるという特等席でもあります。

いまひとつの手稿部がテー棟(テーは印刷所を意味するチポグラフィアの略。そこに印刷所があるのかどうかは知りません)にあります。同じ図書館の広大な敷地の中ですが、始めは人に聞かなければ行けない程ちょっと厄介な場所にあります。月曜日から金曜日までの9時から17時まで勉強できます。いつも決まって受付のミリーツィア(民警)が利用者の席があるかどうか電話で連絡を取り、空いている場合にのみ入れてくれます。私は3度目にしてやっと入れました。閲覧室は非常に狭く、6人が入ると一杯になります。そのため研究者の史料を読む様子がひしひしと伝わってきます。そこでは18世紀バシキーリアの重要拠点オレンブルク市で要職にあったП.И.ルィチコーフの書き残した文書を読みました。

またこの図書館にはロシア国立図書館ヒムキ分館(Химки)があります。モスクワ郊外の北西に貯水所として有名なヒムキ市に存在するのです。ここに学位取得論文(博士論文・博士候補論文)、新聞および本館に収蔵し切れない文献を読むための分館があるのです。地下鉄の終点「レチノイ・ヴァグザール(川の駅)」駅からバス344番ないしは368番に乗って「ビブリオテーチナヤ(図書館)」という停留所で下車します。もはやここはモスクワ市ではありません。バスの300番代がそれを示しています。バスで行くと12ルーブリですが、マルシュルートカ(15人乗りの乗合タクシー)ですと片道15ルーブリです。降りると情報大学などの新設大学があって学生たちも行き交い、また市場も広がっています。10数年前に初めて利用したときとは様子が随分違っていました。当時はバス停の周辺には何もなく、雑草の原っぱの中に大きくて「崩壊しかけた」分館がぽつんとあるだけでした。現在では、上で述べたように、界隈は賑わい、高層マンションまでもが建築中で、分館を探すのに人に尋ねなければならないほど苦労しました。ただし分館の「崩壊しかけた」という形容詞は現在もそのまま使えます。

 館内に入るとカードかコンピュータで読みたい学位取得論文を検索することになっています。ごく最近のものはまだ入っていない場合がありますが大体は読めます。ただし、現在、分館が修理中ということもあって私の請求した論文のうち2点(一つは1950年代にН.Ф.デミードヴァによって書かれた18世紀前半のバシキール人蜂起に関する博士候補論文、および1990年代初頭О.Г.ウセンコによって提出された1718世紀民衆運動の社会心理に関する博士候補論文)の請求が拒否され少々ショックでした。その他3点の博士候補論文は手にすることができました。2点は後輩に依頼されて請求した20世紀初頭の政治史に関するもの。もう1点は南ウラルの民族間関係に関するものです。実際に読んだのは最後のものですが内容的に物足りなさを感じました。オレンブルクの院生が書いたのだからその地方のことを良く知っているはずと思いましたが、利用資料の少なさと未刊行史料の「無さ」(これは致命的です!)からすると勉強不足は否めないのです。なぜこの論文が受理されたのか不明です。少なくても私が留学していた80年代末〜90年代初頭頃の学位取得論文はもっと質の高いものであったはずだが、と思いながら読みました。

 以上のような論文をこの分館で読むことができますが、もっと手っ取り早くその内容を知る手段があります。論文の概要書がここでも、またロシア国立図書館本館でも(他でも!)手にすることができるのです(さらには1975年以降の学位論文ならヒムキ分館に行かなくてもマイクロフィルムによって本館で読むことができます)。規則によって100部印刷することが学位請求者に義務付けられている概要書は論文審査にあたって全国の当該研究に関心のある研究者に配られ、論文審査の日にこれに基づき研究者が質問したりするためのものです。これによって論文そのものを読む時間が省けますし、読みたいところを概要から探し出し、学位論文の当該箇所を集中して読むことができます。2003年と2004年の概要書のテーマを分館で見ていると最近の研究動向がだいたい分かります。カフカース問題、地方史研究、宗教問題、等など。カフカース問題は現在焦眉の政治課題だけに歴史的にそれらの問題を追求したいというのは自然です。地方史研究も現在の流行で、刊行された地域を見ると自分の出身地方についての研究がほとんどです。いい悪いは別にして、これは最近の「系譜学」研究の流行とも重なるところがあるでしょう。モスクワでの私の友人の多くがこの系譜学を「職業」にしているのは何かの縁でしょう。宗教問題については、これもソ連崩壊後の90年代から盛んになってきています。具体的な論文のテーマを見ると日曜学校の活動や宗教教育などが目に付きます。

 概要書は書くべき項目パターンが決まっていて、われわれにとっても論文の書き方を知る上で大いに役に立ちます。項目を列挙すると以下のようになります。テーマの現実性(アクトゥアリノスチ、すなわち現在の社会政治情況とどのように関連があるのか)、研究の対象、研究の目的と課題、研究の範囲とする時代と地域、研究の方法論的基礎、研究の到達点、基盤となる利用史料(刊行・未刊行)、学問的な発見、研究の学問的かつ現実的な意義、本研究の検証(アプロバーツア、つまり内容の一部に対してどのような評価を受けたのかという点)、論文の構成、具体的な概要(序論から結論までの要約)、最後にこの研究テーマに関して学位請求者が公にした研究論文が記されています。なお、アプロバーツアですが、これは学位論文が学術的な価値があり、かつ学界に寄与をすることを証明するものですし、また他の研究者も研究の必要性や内容の重要性を認めているということを示すためのものです。学位論文提出者がいろいろなところで報告したり関連論文を学会誌などに載せたりしたことを書くのです。以上の方法論はソ連時代(革命前からかもしれません)から受け継がれたもので、学問的には極めて秩序だっていて優れた方法を示しているといえます。学問の方法を直接論文作成の手順と合わせて知るための最良の手本です。学位請求論文は自分が勉強した大学や研究所に提出するのですが、ロシアにおいては何処で出しても全国レヴェルということで同じ扱いになるほど非常に高いレヴェルなのです。

最近ではこうした学位取得論文を学部の学生たちが読みに来ています。私が行った昨年7月のある土曜日には読書室は満席でしたし、コピーの部屋には依頼する学位論文が山と積まれていました。とてもよい傾向だと思いました。ただしコピーは依頼のたびに許可を得なければならず、また一回のコピーが30枚までという制限がありました。全頁コピーするに当たってCD-ROM化する方法もあるというのですが私は知りません。

ヒムキ分館には学位論文以外に古い新聞が収蔵されていて、これを読むのも楽しいものです。私も『オレンブルク県通報(Оренбургские губернские ведомости)』に付属して刊行された「非官報(неофициальная」を読みました。これは、他県の新聞もそうですが、公式通達以外の様々な社会情報が載っていて当時の地方社会の情況を知るのに大いに役立ちます。1847年第7号の新聞から項目を列挙してみましょう。第1に地方の情報。火事、急死、死体の発見、殺人(たとえば、この号によると物騒ですが2人殺害されたとあります)。溺死。チェリャービンスク郡で5歳の男の子がトーゴフカ川に張った氷に開いていた穴に落ちて溺れた。不意の事故死、つまり凍死。第2に地方の歴史。第3に倹約。第4に民間治療。「ひょうそ」治療の簡単で確かな方法。第5に「ごたまぜ」と称して、人物の伝記的紹介(何号だったかにオレンブルクの基礎を築いたИ.К.キリーロフ、プガチョーフ叛乱で大きな役割を果たしたサラヴァト・ユラーエフなどの簡単な伝記が載っていました)。第7に(非官報の)お知らせ。実に多彩で面白いものです。 

しかし、ここでは食事の心配をしなければなりません。10数年前と同様、軽食ができる程度のビュッフェはあるのですが、本格的な食堂がないからです。1日かけて遠足に行くと思えば楽しいですし、特に季節の良い秋など、鳥などのさえずりを聞きながら勉強するのは最高です。

ロシア歴史図書館(РГИБ)は私が従来から利用している歴史専門の図書館です。地下鉄「キタイ・ゴロド」駅からサリャンカ通りへと通ずる道を登り、修道院を右手に折れるとすぐの所にあるこの図書館は、月曜日から金曜日まで9時から21時まで、土曜日は9時から20時まで開館しています。日曜日は休館です。20047月から10月までは館内整理を兼ねた書庫の修理が始まり、利用できるのは読書室に配架・収蔵されている補助的な本(『年代記全集』、『ロシア法大全』、革命前の百科事典、旧ソ連邦構成国家の歴史概観シリーズやかつての自治共和国史料集などだが、これがなかなかのもの!)のみとなり本が出てこないのでその期間は利用しませんでした。しかし、この図書館はその名の通り、歴史を専門にしている人には非常に便利な図書館です。カード・カタログは件名に沿って並べられ、それに関する論文名もひけるので体系的に勉強しようとする人には役立ちます。また館員も歴史と司書の教育を受けた人であるため、こちらの疑問にも容易に答えてくれて大いに助かります。コピーは館員を通して1時間以内にできます。   

ここの食堂は12時から18時まで利用できますが、最初の1時間は職員のみの時間と掲示されています。それでも人の少ないときには「知らぬ顔」をして職員に抜かされずに入っていくことができます。食事のヴォリュームとパンの種類が豊富なことが特徴です。ただしアルコールはありません(残念!?)。

他に社会科学関係の本を集めた科学アカデミー社会科学学術情報研究所(ИНИОН図書館があります。月曜日から金曜日までの10時から18時までの開館です。ここはその名の通り社会科科学関連の本、および何よりも様々な雑誌を体系的に読むのには最適のところです。大きくさえなければ鞄も持ち込めますので便利です。コンピュータ持込の許可も要らず、またデジカメによる写真撮影についても咎められることはありません。1階と2階にある書店もいろいろと本が揃っています。ここでは韓国からの留学生を多く見かけました。韓国で今ロシア研究が活発に行われている証しなのでしょう。ただし、食堂がしばらくの間工事中のため利用できず不便でした。

 

2.古文書館

 

次に、研修期間中わたしが毎日のように通っていた古文書館について紹介しましょう。

地下鉄「フルンゼンスカヤ駅(有名な革命家フルンゼに由来する)」から歩いて10分ほどにある古法文書館(РГАДАについてです。これは中世から19世紀前半までのロシア史を研究する者にとって基本的で重要な史料を保管してあるところです。ここはかつて司法省のあったところでもあり、その後、古文書館の館長として帝政時代を代表する歴史家С.М.ソロヴィヨフが勤務していたところでもあります。この古文書館と同じ敷地内にあるロシア連邦古文書館(ГАРФ)――ここは主に19世紀から20世紀の史料を保管してあります――では日によって開館の時間が違うのは良く知られたところです。例えば、「古法文書館」の開館時間は月曜日と水曜日は12時から20時まで、火曜日と木曜日は10時から17時半まで、金曜日は10時から16時半までです。土日は休館です。月初め、つまり毎月1日は「清掃日」のため休館です。

ここでは様々な種類の文書を読みました。第一に、1718世紀初頭のバシキール人蜂起に関する史料。第二に、全般的なバシキーリア行政に関する史料。第三に、日露交渉史に関する史料。第四に、18世紀ロシア社会史に関する史料です。最後の史料はすぐには論文にすることはできませんが将来のためと思い閲覧し筆写しました。

またこの文書館の一角を利用して現在行われている史料展(これについてはすでに「おろしゃ会」のホームページに書きました)のセレモニーや講演のため月に一度の割で休館になったり、早めに閉館したりしてしまうことがあります。これも掲示されます。7月中には開館時間が変更され一律10時から17時半までとなりました。8月は休館。しかし何より驚くのは、いやあたりまえなのですが、古文書館の職員が皆古文書の専門家であるということです。ほとんど全員歴史学博士候補(日本の修士かそれ以上の学位に相当)の称号を持っています。彼らは良い論文を書いていて、自分のテーマについて熱く語ってくれます。分からないところなど聞けばすぐにフォンド番号やそのオーピシが何処にあるのかも教えてくれますし、読めないところを手伝ってもらうことさえできます。私の読んでいる文書を見せてほしいという館員もいました。専門が近ければその知識を得ることができますし、意見交換するのは大事なことです。さらに、そこで勉強しているロシア人は人懐こく開けっぴろげですぐに友人になることができます。彼らに分からないところなどいろいろ教わるのは良いことです。そうすることで一層人間関係が広がります。ただし、複写には時間が掛かります。数年前、露清関係史を専門とする日本人研究者が滞在中に申請したコピー(500枚を越える膨大な量)を、彼が帰国して1年経過後、たまたま私がそこに立ち寄ったので持って帰るように依頼されたことがあります。私自身も驚きましたが、何より、私が持って帰ると、なかばあきらめていた当の日本人の驚き様も大変なものでした。

「ロシア連邦文書館」とは異なり、ここは短期滞在者には向かないところです。「写経」が必要だからです。私も実際に1年間「筆写」し続け腱鞘炎になりました。なお、マイクロフィルム室は閲覧室の隣ですが、よい機械で読むためには朝一番で行く覚悟が必要です。「ロシア連邦文書館」にも開館の時間や通知などが掲示されているのでそれをみて欲しいものです。

別棟に食堂とビュッフェがあります。食堂は12時からですが何時に終了するのかは知りません。またこの頃は「静かに」なりましたが料理と盛り付け担当のおじさんとのやりとりは見ものです。注文するのをゆっくりしていると叱られます。「ここはレストランではないのだからさっさと言いなさい」、などと。でも彼との会話に慣れると楽しいものです。「魚のフライ」がメニューにあり頼んでもそれがないときには、「日本は遠いからね。獲れないのだよ」、ときます。サラダ、スープ、メインの料理、紅茶、パンのフルコースをとっても100ルーブリ(400円)とはかかりません。ビュッフェのほうは11時から16時まで開いていますが、眠気覚ましにお茶とお菓子をとったり、寒さしのぎにウォッカを飲みたくなったりした人には格好の場所です。館員が真っ赤な顔をして「リュームカ(柄のついたグラス)さ」と言っているのを見るのは実にほほえましいものですし(日本だったら大変!?)、仲間に加えてもらうことさえあります。

軍事史文書館(РГВИА)9月には開くといっていましたが、実際に利用しだしたのは20051月からです。ここは18世紀のピョートル大帝の寵臣であったメンシコーフの邸宅であっためいたみも甚だしく、頻繁に修理を行っていて閉館していることが多く注意が必要です。知り合いのロシア史研究所の研究員は「抜け道」があると言っていましたがどうするのかは知りません。

地下鉄「バウマンスカヤ(有名な革命家のバウマンの名前に由来)」駅から程近いこの古文書館は名前の通りロシア史の中でも戦争や軍事情報に関する史料を読むための古文書館です。バシキール人の蜂起や、18世紀末に彼らが「カントン」と呼ばれるカザーク的行政組織に組み込まれて以降の歴史を調べるには大事なところです。残念なことに幾つかのフォンドは修理のため閉鎖されていて利用できませんでした。館員によると、「修理と言うことはほぼ永久に利用できないということだ」そうです。閲覧室は30人程の椅子がありますが、20人も入ると一杯になります。月曜日から木曜日までは945分から17時まで、金曜日は15時までの開館です。食堂はありませんので昼食持参か「ガマン較べ」をします。

 

三 ペテルブルクでの研修

1 図書館

 

 ロシアには「両首都」という言葉があります。モスクワとペテルブルクのことです。前者は12世紀に初めて文献にその名前が登場しますが、後者は18世紀にピョートルによって人工的に造られた都市です。いずれもロシア人にとっては重要な都市であり首都でした。それゆえ両首都で研究することが重要になります。私がソ連時代に留学していたのはサンクト・ペテルブルク(旧称レニングラード)でしたが、今回は現在研究中のテーマに関連する史料の多いモスクワにしました。しかしそこだけに史料があるわけではなく、いろいろな地方を回らなければなりませんでした。まずはペテルブルクの研究施設へ行きました。

第一にロシア国民図書館(РНБ旧公共図書館)です。ここは1516年前の留学時には「我が家」のように利用し、開館する朝9時から閉館する21時まで「机にしがみつくように」勉強した(いや「しがみつくように寝ていた」というのが正確な表現です)ところです。当時、所属していた大学の寮がネフスキー大通りに面したカザン寺院の裏手にあり、そのため地下鉄「ゴスチンヌィ・ドヴォール」駅にあるこの図書館まで歩いても10分という距離だったのです。その頃の私にとってこの図書館には「何でもある」と感じたほどあらゆる種類のそしてどの時代の本もありました。「一生をここで過ごせたらどれだけ素晴らしいか」と思えたぐらいに勉強にとって最良の環境でした。もっとも当時のソ連はペレストロイカ末期のため、物資はなく、私のような家族連れの留学生は子供の食品や衣類を探すのも大変でした。また節酒法も施行されていて、お酒も簡単には手に入らずにそれを買うために何時間も並んだり、こちらのほうも苦労しました。考えてみれば研究以外のことに精力を使ったものです。でも文化都市としてのレニングラードを十分に堪能することもできました。図書館や古文書館での勉強に疲れると、レニングラード・フィル、キーロフ劇場(現マリインスキー劇場)、マールィ劇場、エルミタージュ、ロシア美術館などに歩いて通いました。今回はその時間がなく少々残念でした。

 最近、この図書館には分館ができました。所蔵図書の多さもあって1975年以降の図書は

ずいぶん離れたところに移管されたのです。新しくできた地下鉄の駅「パルク・パベーダ」のそばですが遠くて不便です。古い本を読むことを目的にしている私でさえ、新刊本を見る必要に迫られ苦労しました。ただし、新館には綺麗な食堂とビュフェがあります。旧館の食堂は工事中のため利用できずビュッフェで軽食のみとなります。この点は新館のほうがはるかに上です。

 

2.     古文書館

 

古文書館についても述べましょう。一番重要なのはペテルブルクのロシア歴史文書館(РГИАですが、ひところ話題になった2004年度中の閉館・移転はなく、20053月までは開館していることでした。ただし、4月には本当に閉鎖され移転とのこと、研究者はみな大変なショックです。ロシアでは1度閉まるといつ開くか分からないからです。ここは立地が非常に良いのです。18世紀の往時を偲ばせる元老院と宗務院が合わさった建物はネヴァ川に面したところにあります。隣には馬上のピョートル大帝像「青銅の騎士」とイサーク・キーエフ大寺院があり、観光の目玉でもあります。現ロシア大統領はここをペテルブルクにおける大統領官邸に使用することを公言し、古文書館を移転させることにしたのです。

この文書館は1819世紀以降のロシア史を勉強する人には欠かせません。私も十数年ぶりに11月の2週間程ここに通いました。開館時間は10時から17時までです。文書を請求すると1日置いて出てきます。すべてが出てくるわけではありませんし、「ロシア連邦文書館」のようにだだっ広いところで50人近くが机を並べて勉強しています。少々味気ない感じがします。ここでは18世紀末のバシキーリア行政に関する文書、とくに同地方に「カントン制度」を導入したオレンブルク総督О.А.イゲリストロームの元老院へ提出した文書を読みました。これ以外にも、プガチョーフ叛乱に参加したバシキール人サラヴァト・ユラーエフの父ユライ・アズナリンとその仲間たちがロシア人工場主の土地購入に反対する文書を発見しました。これらは私にとって大きな収穫でした。

なお、ここには食堂はないので皆「ガマン較べ」をするか、「ブッテルブロード(オープンサンド)」を作り、持参したりんごやバナナを食べたりしています。私も最初の頃は我慢をしていましたが、さすがに3日目から食事を持って臨みました。

同じペテルブルクのエルミタージュの斜め向かいにあるロシア海軍史料館(РГАВМФ)では、なんと館員の女性が私の名前を覚えていてくれました。もう156年ほども前になる留学時、23週間利用しただけでしたがよほど日本人の名前が珍しかったらしく「あなたの名前を知っている」と言われ、嬉しくもあり、驚きもしました。ここにも食堂はありませんが日によっては19時までやっていますので、時間に余裕のない私などは、「歴史文書館」での勉強を終えるとすぐここに来ていわば「はしご」をしました。ここでは18世紀初頭のバシキール人蜂起に関する史料を見ました。

また、いまひとつ私の好きな科学アカデミー・サンクト・ペテルブルク歴史研究所古文書部(Архив СПб ИИ РАН)についても一言。現在はもはやモスクワにあるロシア史研究所の支部ではなく独立した研究所となりました。落ち着いたペテロ・ザヴォーツカヤ通りにある素晴らしいところです。ただし、ここは1週間に2日(火曜日と木曜日)10時から17時半までしか開いておらず、このことを間違えないようにしないといけません。かくいうわたしも開館日を間違えて金曜に行き、「今日、閲覧室は開いていませんよ」と受付に言われてびっくりしました。自分の頭のなかで勝手に開館日を火曜日と金曜日と決め付けていたようです。

ここでは先の留学時代に発見し、大部分を写したものの、まだ少し書き残していた文書の筆写をしました。18世紀前半のバシキール人の動向、そしてロシアに漂流しエカチェリーナ二世時代に謁見して日本に帰国した大黒光大夫に関する史料です。光大夫の署名はデジタル撮影をしてもらいました。後者の史料は156年前の段階では、わたしが2人目の閲覧者でしたが、その後4人ほど閲覧したようでした。

 

四 地方での研修――ニージニ・ノヴゴロドとウファー

 

良い意味で厄介なのはモスクワ州(および市)を含めた地方の文書館です。ともに通常の中央文書館(モスクワとペテルブルク)が閉まる夏の8月も開いているのです。観光を兼ねて地方めぐりをするのも良いでしょう。20世紀30年代の「集団化」を専門とする知人である日本人研究者は、7月には「ロシア連邦文書館」で、そして8月には「モスクワ州文書館」で勉強していました。私の本を読んだというモスクワ大学の院生は8月に白軍に参加したコサックの史料を探しにオレンブルクの古文書館へ出かけて行きました(彼は2004年にオレンブルク・コサック軍団のドゥードフ将軍の戦友バキチに関する本を刊行しました)。

負けじと私も916日から25日までニージニ・ノヴゴロド中央文書館(ГАЦО)へ行きました。23時過ぎ発の夜行列車に揺られてニージニ・ノヴゴロドに到着したのは翌朝7時です。ここを訪れるのは始めてです。193291年までゴーリキー市と呼ばれたこの都市は最近まで外国人の立ち入りが禁じられていた「閉鎖都市」でした。都市から約100キロ南にあるアルザマース市などに原子力研究所があるからです。また水爆の父サハロフがその政治的発言のために流されて自由を奪われたところとしても有名です。しかし、ヴォルガ川とオカ川が合流する地点に建てられた交易の町は19世紀にはロシア帝国第3の都市として栄えたところです。17世紀初頭の「動乱時代」、ポジャールスキー公とならんで義勇軍を組織・指揮してポーランド軍などの外国干渉軍を打ち負かした商人クジマ・ミーニンを輩出した町でもあります。現在では自動車をはじめとする工業生産のうちロシア全体の70パーセントをここが占めています。綺麗なクレムリンが残っている歴史のある町です。

古文書館はバスで「アフト・ヴァグザール(バス・ターミナル)」という停留所で降りるとすぐのところです。ちなみにこのバス・ターミナルからアルザマースや17世紀中葉にロシア正教会から分かれた旧儀派(古儀式派・分離派)の村落が多い「聖なるロシア」で有名な湖スベトロ・ヤールへ行くバスが出ています。

古文書館は月曜から金曜まで9時から16時半まで開館しています。10人も入れば溢れてしまいそうなところですが、読書室の女性責任者の采配が優れていてゆったり勉強できるところです。自分の専門や勉強したいテーマについて述べると、案内書を持ってきてその読み方から関連文書のフォンド番号まで教えてくれます。当文書館の所蔵文書が膨大でないというのがかえってよいのでしょうが、モスクワと異なり、修理が必要な文書はマイクロ化されていないため請求を断られる場合があります。注文して翌日には文書が準備され、そこまでしなくてもと思いますが、研修生と思われる若い女性職員が請求者の名前を呼び上げて机のところまで持ってきてくれます。ここで、私は地方におけるプガチョーフ叛乱の波及情況や聖職者の動向に関する史料を調べました。

なお、館内には食堂はないので、昼飯抜きで頑張って勉強を続けるか、堪えられないときには近くの食堂まで出かけます。食事の料金はモスクワの半額ですし(つまり物価がモスクワの半分ということでしょう)、気分転換にもなります。古文書館に鞄を持ち込めるなど出入りが面倒ではありません。これは10年前に利用したウラルのチェリャービンスクの文書館も同じでした。

 

ニージニ・ノヴゴロドのヤールマルカ

 

私の専門に最も近いバシコルトスタン共和国の古文書館についても述べましょう。200521日から13日までの僅かな期間でしたが、共和国の首都ウファーにある文書館2箇所で勉強しました。一つはバシコルトスタン共和国・中央国立古文書館(ЦГИА РБ、いま一つは科学アカデミー・ウファー学術センター・学術アルヒーフ(НА УНЦ РАНです。ここでの勉強は短期間ではありましたが大変充実していました。かねがねわたしが読んでみたいと思っていた史料が山のようにあるからです。一つは18世紀バシキール人蜂起の史料、いま一つは18世紀末に組織される「カントン制度」と呼ばれる行政制度です。もちろん2週間では十分ではなく、ほんの僅かな部分しか読めませんでしたが、この先どのような勉強をすればよいのかヒントを得ることができました。またここでは十数年前に訪れて知り合った友人たちのほかに、私の研究テーマに則して研究している新しい友人と知り合いになれたというのが最大の収穫です。これについては後で述べましょう。

 

ウファーの国立バシコルトスタン大学の先生たちと共に

 

五 ロシア以外での研修 ―― ヘルシンキとタリン

 

ロシア以外でも研修しました。フィンランドのヘルシンキへは2度、エストニアのタリンへは3度行きました。9月初旬と年が変わった1月初旬にヘルシンキとタリンへ出張旅行をしたのです。ヘルシンキに行くのは実に10年ぶりでした。何が変わったかといいますと、まずもってヘルシンキ大学が誇る付属図書館「スラヴォニック・ライブラリー」の所在地が変わったのは大きいことです。93年に初めて訪れた時はフィンランド中央駅からバス17番で海の傍の終点まで行った記憶があります(住所:Helainki, Jungfrustigen 1 B)。ところが今回訪れるとほぼヘルシンキの中心地に位置する元老院広場のすぐ隣、福音教会の正面に移転していました(住所:Helsinki, Unioninkatsu36)。また館員が英語にもロシア語にも堪能なので、フィンランド語ができない私には大助かりです。

この図書館はロシア帝国に併合された19世紀半ば以降、ロシア帝国の一員として帝国で刊行された書籍の全てが帝国図書館の慣例に従ってすべて納められています。従って革命前のものは全部読めるというわけです。しかも、ロシアの図書館とは異なり、多くの基本的図書が開架式なので手にとって自由に読め、何か調べたいと思えば、それに関連する本棚の傍でじっと背表紙を見ていたらよいというわけです。私は全巻揃った『帝室地理学協会紀要』の前で立ちすくんだ程です。こんな「夢みたいなことがあろうか」というところです。日本の大学だって図書は請求するものと相場は決まっています。ところが100年前のものであろうが200年前のものであろうが自ら探して手にとって読めるのです。これは「夢」なのか現実なのかはたと考えてしまいます。もちろん請求しなければならないものもありますが、そんなことはたいしたことではありません。ちなみにフィンランドは日本を大きく引き離して「学力世界1」を誇っていますが、この図書館の充実振りを見るだけでもそれが頷けます。

この図書館では日本人や欧米の研究者をよく見かけます。アメリカの有名なロシア社会史研究者は1年の多くをそこで過ごすといいます。彼は70歳にもなろうかというのに毎日違うイヤリングをつけて来たのはさすがにお洒落です。また私と同年代の日本人ロシア史研究者たちもそこでよく見かけました。一夏をそこで過ごし、資料を収集しようというのです。ロシアでの研究は日常生活でストレスがたまるということもあり、快適に過ごせるヘルシンキでの研究を心がける研究者もいます。日本ではなかなか会えない彼らとのよい交流の場でもあります。

さらに、素晴らしいカフェテリアが図書館内にあって疲れたらそこでコーヒーでもパンでも、さらには食事だってとることができます。しかも静かで清潔です。ロシアの猥雑さと喧騒になれた者からするとやはり驚きですし別世界がそこに広がっています。

2回目のヘルシンキ行きの目的は図書館での研究ではなく、そこを経由してエストニアの港町パルディスキ市(旧称ロゲルヴィク)へ行くことでした。その町は18世紀以来、ロシアの流刑者を受け容れたバルト海に臨む町としてさまざまな文献に登場し、私の研究テーマであるバシキール人の歴史を調べていると幾度も出てくるのです。ぜひこの町とそこにあった監獄跡を見たいというのが私の思いでした。結論から言うとそれは果たせませんでした。1度目は9月のヘルシンキ滞在時にタリンに行ったとき、2度目は10月中旬の滞在登録延長のため出国先をタリンにしたとき、そして3度目がそれだけが目的の1月初旬でした。最後の時の意気込みは凄いものがありました。悪天候をついてヘルシンキからタリンに行ったのですが、嵐が接近中のためすべての交通機関がストップしているという案内係の忠告に従い、急遽ヘルシンキに戻りました。さもなければタリンで足止めをくらい予定通りにはヘルシンキに戻れなかったでしょう。というわけで、残念ながらパルディスキ行きは次回の宿題として残りました

ヘルシンキにある正教会

 

六 研修の成果――学会発表と論文

 

 今回の海外研修ではあまり根をつめては勉強しないことを大前提にしていたのですが、ロシアに着いてみるとあれもしたいこれもしたいの「したいこと尽くし」です。そのためいろいろな研究会や学会に出席してみることにしました。

まず始めは、929日から30日まで開かれたП.А.ザイオンチコフスキー教授生誕100周年を記念して開かれた『ロシア19世紀〜20世紀初頭』というテーマの国際学会です。モスクワ大学の人文系学部本館で開かれたこの会はとても良いものでした。19世紀中葉の農奴解放についての研究に生涯を捧げた旧ソ連の碩学ザイオンチコフスキーを記念して10年ぶりに開かれた会でした。本や論文で知っていた有名な歴史家が参加していました。日本からも知己の歴史家3名が報告しました。それらは、「クールリャントにおける農民改革」、「ロリス=メリコフの政治的見解とその戦略」、「大改革期ロシアにおける農民の法的秩序と郷裁判」です。セクションは二日で7部会に別れており、若い人々の研究が従来の研究を凌駕するものだけに壮観でした。

 二つ目の会はあまり興味がなかったのですが、所属するロシア史研究所からの依頼で出てみることにしました。すでに述べた社会科学情報研究所図書館を会場に『20世紀後半における世界的な経済発展というコンテクストのなかでのロシア』というものです。経済史の全国規模での学界でしたが、どうも年配の人が中心を占めていて内容も古臭い研究発表のようでした。やはり肩書きばかりに頼る学界には学問的な活気が欠けるようです。

 三つ目は面白い会でした。何より面白いのはこの会の主催者です。その人はロシア史研究者ですが、他方では事業で成功した人物です。まさに現在のロシアを象徴する人物です。地下鉄「レーニンスキー・プロスペクト(レーニン大通り)」駅近くにある科学アカデミーのホテルを会場に開かれたこの会は、休憩時間ごとにお茶・オープンサンド・お菓子のコーナーができるなどなかなか至れり尽せりでした。私が最も驚いたのは1日目の最後に参加者全員をバスに乗せてアルバート街にある高級レストランを借り切って開かれた懇親会です。通常の学会では豪勢なレセプションはありませんが、「最後の晩餐」風のセッティングなど何から何まで豪華でした。本題の『ロシアの歴史と文化における20世紀』と題された会の諸報告も刺激的なものでした。海外からの研究者とならんで、地方からの出席者も多かったのですが、ここでもやはり若い人々の研究が優勢でした。

 第四の会は、ロシア史研究所からの依頼に従い出かけたものです。プーチン大統領の政策を支援するために開かれたこの会の司会を務めていたのは、いわば「プーチン軍団」の一員でもある内務省文書館の館長です。内容は、日本ではまず考えられないのですが、歴史的経験を現在の政治情勢にいかに反映させるべきかという提言を含んでいます。イギリス王立アカデミー会員やヘルシンキ大学教授、ワルシャワ大学教授をも招いて開かれたこの会は、現代政治の抱える問題点を歴史の経験から検証するというものです。発想は面白いのですが、その分野で一流の研究者が研究成果を述べ、最後に現在の政治情勢やテロなど直面している現状について言及するのは唐突の感を受けます。

 別の場所で、私も2度報告をし、論文を5本提出しました。ウファーでの研究の合間、依頼されて同地の歴史研究所とバシコルトスタン大学で報告したのです。自分の研究テーマや日本の研究状況、さらには日本の大学の勉強や研究システムについて述べました。それぞれ30分くらいの報告でしたが、聴衆がなかなか活発な質問をしました。いろいろ知りたいのでしょう。なにせ遥か遠くの「陽出づる国」から来て、しかも自分たちバシキール人の歴史を勉強しているのですから驚きかつ興味を持つのは当然なのかもしれません。テレビのクルーも来るということでしたが、それは来ませんでした。そうしたこともあって、旧知の友人以外にもいろいろ学問上の友人ができました。とてもありがたいことです。

ウファーで提出した2本の論文について述べましょう。一つは現在私が考えているテーマ「1619世紀のバシキーリアにおけるロシアの植民」、いま一つは年来のテーマ「1820世紀の日露関係史」(『ヤドキャリ(遺産)』29号)についてです。それ以外に、モスクワの歴史研究所研究員の紹介もあり、研究所の紀要に論文と史料紹介を書きました。題名は「18世紀末バシキーリアにおける行政の確立」、史料紹介は「П.И.ルィチコーフの《オレンブルク異教・国境局》について」という題のものです。さらにいま一つ「18世紀のバシキーリアにおける植民」と題する国際学会のための報告用論文も提出してきました。

 

U 生 活

一 展示会

 

 古文書館や図書館では様々な展示会を催しています。それを見学するのもロシアの社会やインテリたちが何を考えているのかを知る上でも興味深く面白いものです。

たとえば、昨年、古法文書館では、「全ソ共産党(ボ)第17回大会――銃殺刑に処せられた勝利者たち」(56日〜71)という展示会が開催されていました。見覚えのある党員たちが様々な理由で処刑されていく史料(主にロシア連邦文書館所蔵史料)の展示が中心ですが、映像史料もあります。この前後には、「ユーリ・ガガーリン――伝説と人間」(131日〜314日)、「カザン1000年」(325日〜423日)、「友よ、われわれは遥かなる地へと向かう(処女地開拓50周年に寄せて)」(714日〜822日)、「第1次世界大戦、19141916年(開戦90周年に寄せて)」(93日〜1010日)、「エカチェリーナの煌く時代(エカチェリーナ二世生誕275年に寄せて)」(1021日〜1128日)、「パーヴェル一世の家族(生誕250年に寄せて)」(1215日〜2005328日)といった展示会がありました。今年の9月には「日露戦争100周年」を記念して展示会が予定されています。いずれも視覚に訴えながら、文献史料と非文献史料の両方を駆使して展示する方法は良い勉強になりますし、ロシア史の流れが複合的に分かるというものです。

 

二 出張と旅行

 

 在外研修の間に、私は様々なところへ出かけることができました。ロシア以外では、すでに述べたフィンランド(ヘルシンキ)、エストニア(タリン)へ行きました。フィンランドへは2度、いずれも研究を兼ねた旅行でした。エストニアへは3度でしたが、フィンランドへのついでに足をのばしたのが1度、滞在登録延長手続きのためにロシア以外へ出ることを要求され、近くの外国ということで列車にて23日(車中泊)が1度、そして3度目は私の研究テーマであるプガチョーフ叛乱の首謀者の一人サラヴァト・ユラーエフが終身労働懲役になって流されたパルディスキ(旧称ロゲルヴィク)を見に行くためでした。しかし、これは荒天のためかないませんでした。いずれにせよ、ロシアでの生活はかなりの緊張を強いられますので、リラックスするためにもこうした出張は必要です。

 最後に旧知の友人たちを訪れたことを記しておきましょう。

まずはペテルブルクの友人たちとの再会。ペテルブルクへは6月と11月に行きましたが、そこで156年前の留学時に知り合った友人たちと会い、彼らの様子を尋ねました。皆、ロシア社会の変化とともにその生活も変化していました。

チュリャービンスクにも行きました。出張でウファーに行った折、思い立って寄ることにしました。ウファーから夜行に乗って到着した日の夜行でまたウファーに戻るという強行軍でしたが、友人に会えたという喜びが強い旅でした。その人はかつて戦前のハルビン医科大学で勉強し、そこで日本人教師(医学者)に習ったといいます。その後、医者としてロシアで活躍された方です。この人とは10年前に古文書館で勉強するためにチェリャービンスクを訪れた折、偶然知り合い、しばらくは手紙のやり取りだけでしたが、10年ぶりの再会でした。その人からは84歳にもなり自分の過去の履歴を残しておきたいとの思いから自分の書いた思い出を日本で翻訳出版して欲しいと頼まれました。

トヴェーリの友人夫婦は私がかつてレニングラードで勉強した時の仲間です。この都市には2度訪れました(1月と3月)。特に誘われて見に行った31213日の「マースレニッツァ(謝肉祭)」という冬を送り春を迎えるお祭り(これはキリスト教がロシアに導入された10世紀末以前から民間に伝わるお祭りで、キリスト教化以後、異教のお祭りとして禁止されていた)は素晴らしいものでした。といっても特別の会場はなく、適当な森や林を見つけて行うのです。このお祭りは出来合いのものとは違います。彼らがこの町に来るまでこうした民間信仰は行われていなかったといいます。彼ら自身が企画したものです。集まって来た人も二人が教えている芸術学校の生徒、その親や親戚、その他口コミで集まった人々です。まずお祭りを行うに相応しい適当な場所を見つけることから始めます。場所が決まると、今度は薪用の木を切り、枝を払うのです。私も雪のなか枝を払いに行きました。クレープに似たブルィニを焼き、案山子のような人形2体を作り、また最後にそれを焼くためのものです。その間、昔から民間に伝わる歌を歌い、ゲームをし、そり滑りをするのです。人々の普段たまったエネルギーを発散させるものだそうです。日本のお祭りの原点と似ています。

 

トヴェーリでのマースレニツァ

 

翌日はこの町が主催する「公式の」お祭りを見に行きました。こちらは日本の縁日と同じです。中心街の公園に会場が設定され、いろいろな出し物があります。友人は指導している老人たちのアンサンブルとともに出演しました。みな年金生活者です。男性4人がアコーディオンを弾き、女性4人が歌と踊りを披露するのです。ソ連時代以降盛んになる民衆歌「チャストゥーシュカ」を延々と歌いつづけます。日常の生活の辛さや労働の苦労を笑いで吹き飛ばした歌です。いわば民衆の生きる知恵を反映した歌です。迫力がありました。彼らは時間を気にせず歌いまくります。聴衆も応援します。7歳になる友人の息子もアコーディオンを弾き喝采を浴びていました。主催者は時間どおりに終わって欲しいようでしたが構わず歌いつづけます。その後、彼らと持ち寄りの料理とお酒(自家製のウォトカ)で食事をしました。楽しい時間でした。

これ以外に、ロシア国内旅行したり(そのなかにはもちろん地方都市への古文書探索が含まれます)、日帰りでの遠足としてモスクワ近郊(セルギエフ・パサト、アブラムツォヴォ、アルハンゲリスコエ、トゥーラ、ヤースナヤ・パリャーナ、ウラジーミルなど)に出かけたりしました。なかでも印象的だったのは6月末から7月の半ばにかけて出かけたペテルブルク――ベルモルスク運河――ソロヴェツキー修道院――ベルモルスク運河――キジー島――ヴァルラアム修道院――ペテルブルクの船の旅です。11日間にも及ぶこの船旅は私にロシアの歴史と文化について深く考える機会を与えてくれました。船内でのロシア人との交流もさることながら、ソロヴェツキー修道院ならびに運河開鑿とその過程で犠牲になった1930年代の政治囚たちのこと、キジー島やヴァルラアム修道院のえもいわれぬ美しさなど、どれをとっても感銘深いものでした(「おろしゃ会」のホームページを参照してください)。

 

ヤースナヤ・パリャーナにあるトルストイの墓

 

ウラジーミルの黄金の門

 

V 厄介な滞在登録

 

最後に、生活する上で一番苦労した点について述べましょう。

私はビザ延長のための煩わしさを避けるために、今回のビザ取得にあたっては、所属することになる「ロシア史研究所」の招待以外に、別のルート(マールィ劇場)の招待状をもらい、結局ビザはその回路で取得しました。「ロシア史研究所」の招待状ですと3か月分しかビザが発給されず、3か月毎に日本に帰りビザの申請をしなければならないからです。これは近年のテロ以後、ビザの発給がもはや外務省の担当ではなく、内務省に移管したために、そこと関係が良好ではないアカデミー管轄下の機関が抱える一番の悩みです。

しかし別ルートでも滞在登録の煩わしさには変わりなく、とくに20048月から9月にかけての一連のテロ事件(国内線飛行機の2度の墜落事故と地下鉄の駅を狙ったテロ、そしてベスランでの小学校占拠事件)以後、手続きは一層面倒になり、これに悩まされました。私は4月と10月の2度にわたってこの手続きを踏みました。まず、周知のとおり、パスポートを招待先の機関(研究所か劇場)に預けてから登録完了までの1週間〜2週間、証明書(スプラフカ)をもらい、ひたすらパスポートの返還されるのを待ちます。外国人の滞在登録は6か月ずつ更新しなければならず、そのたびに当該機関から書類をもらいそれに書き込みます。民間のアパートに住んでいる限り、住宅管理組合まで出かけて大家さんにも署名してもらった上で申請書に管理組合代表者の署名と判子をもらわなければなりません。通常、管理組合代表者は1週間のうち1日か2日しか事務所に居ず、「滞在登録は滞在する都市に到着後72時間以内にしなければならない」という法律を忠実に遂行しようとすれば困ったことが生じかねないのです。ちなみに、1013日で半年間の滞在登録期間が切れるわたしが更新を願い出たところ、1年以上滞在予定の全外国人は、留学生を除き、更新にあたって1度任意の外国に出てパスポートにロシア入国の判子を押してくるようにとの指示を受けて戸惑いました。これは、先のテロ事件以後、法律が変わったためだという内務省パスポート担当部局の指示によるものでした。この指示には驚きましたが、私にはどうすることもできません。すでに述べたように、気分転換を兼ねて一番安上がりなタリンへ23日列車の旅(車中2泊)に出かけることにしたのです。ロシア領内出国検査地点であるイヴァンゴロド市を通過する際の不良税関役人もなかなか厄介でした。難癖をつけて袖の下を求めてきます。運の良いことに発車の時間となりました。いまではもはやエストニア領となった入国検査地点ナルヴァ市(ピョートル大帝時代の北方戦争の戦場として有名)に出たときの爽快感は格別でした。いずれにしても滞在登録は本当に厄介なものでした。

2005916日記す)

 

 

沿海地方の村の旅

ウラジオストクからチェルニゴフカまで

 

北海道大学文学研究科スラブ社会文化論 修士課程2年 齊田 えり

 

 今年2005年の夏、私はウラジオストクに滞在した折に、沿海地方(Приморский крайのいくつかの農村を訪れました。指導教官の原之先生の勧めにより、体験をまとめてみました。以下はその時のお話です。

 

 そもそもなぜこのような旅をすることになったのかというと、私は「沿海地方の国内農業移民」を修士論文のテーマとしており、「移民がどのような場所を選んだのか、実際に自分の目で見たい」という思いがあったからです。 

 農村行きには、はじめロシア人の先生が同行してくださることになっていました。ところが先生が体を壊され、とても同行はできないことになってしまいました。私の渡航の目的はこれだけではなく、文字資料の収集も主要な目的で、こちらの方は目的を果たしつつありました。しかし「農村行き」をあきらめきれなかった私は、一人でも行けないか、実現の手だてを考えることにしました。

 

1.     準備

1-1     旅行会社

 まず、現地旅行会社へと向かいました。『地球の歩き方』(シベリア&シベリア鉄道とサハリン)に載っていた「ロータス」という会社です。こわごわドアを開けると、こざっぱりした気持ちのいい部屋で、にこにことスタッフの方が迎えてくれました。実はこの前にもう一つ別の会社に行っていたのですが、担当者が休暇中で、代わりの担当者も出てしまっていました。「ロータス」の印象があまりにもよかったので、私はもう一つの会社の説明を聞くこともなく、こちらに旅行の手配を頼もうと決めていました。

 そこでお話を聞くと、私の行きたいような旅行に会社としてできるのは車の手配のみで、それも1時間25ドルとのこと…。「バスを利用した方が安いですよ」と言われ、「考えてみます」とその日はそれで旅行会社を後にしたのでした。

 

1-2     アフタバグザール(автовокзал

 「そういうことならアフタバグザールへ行きなさいよ」というロシア語学校の先生のアドバイスにより(平日午前中はロシア語学校に通っていました)、フタラーヤ・レチカ(вторая речка)にあるというアフタバグザールに行ってきました。「автовокзал」とは、露和辞典には「長距離バスターミナル」と載っていますが、そのとおり各地への長距離バスの発着場所なのです。こういうことでもなければ来ることもなかったし、存在さえ知らなかったかもしれないこの場所…。なんだかわくわくしてきます。

 しかし…見方がわからない!とても複雑で…。とりあえず行きたい場所と、その発着時間をメモしました。

 その後鉄道の駅(ウラジオストク駅)にも一応行ってみたのですが、鉄道ではウスリースク行きしかないようです。時間もちょうどいいのがないし…。現地の人の話では、やはりバスの方が機動性は高いようです。できれば鉄道で行ってみたかったのですが、あきらめてバスで行くことにしました。

 

1-3   計画を立てる

 さて、メモしたバス時刻表とニラメッコしながら、旅行計画を立ててみました。やってみるとこれがなかなか難しい。たとえば「ウラジオストク→チェルニゴフカ」の場合、ウラジオストク発は14:00(日曜以外)、13:10、11:10(日曜のみ)。チェルニゴフカ発は7:00、6:00、16:20(日曜のみ)。そうすると、日帰りが可能なのはウラジオストク11:10発だけになります。しかし片道4時間20分かかるので、チェルニゴフカに着くのは15:30。1時間でも見られないことはないかもしれないけど、でも私はいろんなところに行きたいのです。ということで、すっかり頭を悩ませてしまいました。

 次に考えたプランは、ウスリースクに泊まってそこから方々へ行くというもの。ウスリースクは沿海地方第二の都市です。(第一はウラジオストク、第三はナホトカ。)ここならホテルもあるだろうし、ここを起点にすればウラジオストクを起点にするよりいろんなところに行けそうです。で、ホテルを調べたりして、すっかりその気になっていたのですが…

 

1-4   やはり車で行くことに…

 ロシア語学校の先生にウスリースクについて教えていただこうと思い、計画を話すと「Нельзя!」と言われてしまいました。「バスで村へ?ウスリースクは大きな都市だからいいけど、でも必ず誰かと一緒に行きなさい。まず、あなたは中国人に見られるだろうし、そして外国人はお金をたくさん持っていると思われるから。それに昼間でも酔っぱらいがたくさんいるからね。エリさん、それは絶対いけません」と、とんでもないという風でした。(*このあたりでは対中国人感情が悪いのです。)

 バスの安さは魅力的だったのですが、結局、身の安全にはかえられない、ということで、やはり旅行会社で車を頼むことにしました。そしてもちろんこちらの方が機動性は高まります。

 

2.  前日

さて、調査には現地で知り合った日本人の先輩——Yさんが同行してくださることになりました。(偶然にも同じ津田塾

大学出身でした。)「こんな機会でもなければ絶対行かなかったとこだから〜。」「行ってみたい♪」と、思ってもない申し出をしてくださったYさん。願ってもない申し出に、ありがたく甘えることにしました。実は旅行会社に最初に行った時・アフタバグザールに行った時・ウスリースクのホテルを調べた時…すべてYさんにお世話になっていました。旅行中も大変お世話になったことは言うまでもありません。

 前夜に予定ルートをつくってみました。

 私がずっとこだわっていたのはチェルニゴフカ(Черниговка)という村。一番遠いし、ここに行ったら他は行けないかもしれない…と思ったのですがどうしても行きたい!と思っていました。寄る計画をたてた村の中で、実はこの村だけ毛色が違います(ウスリースクを除く)。というのは、他の村は、(私の研究対象である「海路移民」の中で)ごく初期にやってきた移民がつくった村なのですが、チェルニゴフカのみ少し創基年が遅いのです。しかしここは「チェルニゴフ」という名前がついていることと——つまりチェルニゴフ県出身者がつくったということ——それからポルタヴァ県からの移民も多いということで、もし二つの県の出身者の子孫にそれぞれインタビューをできればおもしろいと思っていました。(*チェルニゴフ県、ポルタヴァ県、それから「海路移民」とは何かということについては原之『ウラジオストク物語』三省堂、1998年、114125頁をご参照ください。)とはいえ私にはインタビューできるほどのロシア語力はなかったので、それは「できればする」ということにし、村のようすを見るだけでも見たいと思っていたのです。

 で…トイレ休憩も考えて、アフタバグザールがあるような村落をはさみながら、ルート作りをしました。(アフタバグザールがないような村では、トイレなんてないと言われていました。)そう、それから村に行く時には、「シベリアダニ」がいるかもしれないから林の中には入らないようにと言われていました。繁殖期をすぎていたのでほとんど危険はなかったのですが…。ちなみにこれ、ロシア人は予防接種をしているから大丈夫なのだそうです。でも年3回ぐらい受けなくてはならないのだとか。

 決まったルートは次のとおりです。

 

    ВладивостокМихайловка(トイレ休憩)→☆Черниговка→☆Вознесенка

Ивановка(通過)→НиколаевкаИвановка(通過)→ РаковкаУссурийскВладивосток

 

 下線を施したのは主要目的地、☆印は博物館に寄りたい村です。ニコラエフカは、専門家であり、当初同行してくださる予定だったЮ. В. Аргудяева先生にルートの助言をいただいたところ「おすすめの場所」だったので必ず行こう、と二重線。ラコフカは、時間がなければ行かなくてもよい、ということにしました。本当はパクロフカ(Покровка)も行きたかったのですが反対方向なので…断念しました。

 本当は土・日の二日間車を予約してあったのですが、中心都市・ウスリースクとウラジオストクを往復するだけでもかなり時間がかかると考え、思い切って一日で巡ることにしました。Yさんは車でナホトカに行ったことがあったので、それを参考にしたのですが(ナホトカまでは車で片道3時間ほどだそうです。)1時間25ドルかかるとあってはあまりにも時間のロスだからです。旅行会社からは「土曜が終わった時点で日曜をキャンセルしたくなったらしてもいいですよ。」と言われていました。

 村ですることは、1. 写真撮影、2. 博物館訪問(博物館がある村のみ)、3. インタビュー(できれば)です。

 

3.      村へ(8月6日、土曜日)

3-1 出発(7:00)

前置きがずいぶん長くなりましたが、いよいよ当日です。

打ち合わせでは、7時に集合ということになっていました。運転手さんとはこの時初めて顔を合わせます(前日の電話

で声は聞いていたのですが)。旅行会社の人からは「とてもいい人です」と聞いていたのですが、正直なところ私はほとんど信じていませんでした。あまり怖くなくてぶっきらぼうではない人だったらいいな、と思っていたくらい。ですが、寝ぼけながら先輩と待ち合わせ場所に行ったところ待っていたのは…想像もしなかったほど感じのよい人でした。しかも、驚いたことに奥さんまでいらっしゃっていました。運転手さんはヴァジム(Вадимさん、奥さんはオリガさんといいます。このお二人に、一日お世話になることになります。ヴァジムさんに前夜作った予定ルートを渡し、「こんなかんじで行きたいのですが…」と言って、いよいよ出発!

 

3-2 ウスリースク(8:30)

 朝靄の中、車は走って行きます…。出発したころはきれいな朝靄だったのに、だんだん空模様があやしくなってきました。前夜遅くまで計画をたてていたわたしたちは、すぐにうとうとしてしまいました。

 奥さんの「着いたよ〜」の声ではっと目を覚ますと、そこはウスリースク。時計を見ると8時30分。早い…!2時間以上はかかると思っていたのに。「ここで朝ごはんを食べて少し休憩してから、先に進みましょう」とのことでした。みんなで食べるようにとごはんの用意をもってきてくださっていて、これにもまたびっくり!私はしっかり朝ご飯を食べてきていたのですが(朝食べないとふらふらになるので…)、せっかくなので少しいただきました♪

 ヴァジムさんによると、ウスリースクに来たら(ここまでは車で遊びに来る人もいるようです。ウスリースクにはロシア語学校もあります)、「教会と、博物館と、ニコライ2世が泊まった建物を見せるんだよ」ということでした。

 

3-3 ミハイロフカ(通過)

 さて、腹ごしらえもしてウスリースクを出発。これでぱっちり目が覚めた私たちは、改めて走る車の外を観察し始めました。「一戸建てが多いね〜」とYさん。そういえばウラジオストクでは集合住宅ばかりだったのに、ここではほとんどが一戸建てです。村に来た、という気持ちになります。

 予定ルートでは次はチェルニゴフカだったのですが、「もし問題なければ先にヴァズネセンカに行きましょう」ということで今はヴァズネセンカへ向かっています(その方がルートが楽なようです)。今、通過しているのはミハイロフカ。ウスリースクと隣接していてすぐに入ります。オリガさんの話によると、「ここに最初の移民が到着して、昔は富んでいた」とのことです。実は「ここに最初の移民が到着」というのは、「あれ?」と思ったのですが、自分の勉強不足のこともあるし、それを訊けるほどのロシア語力もないしで、訊けずじまいでした…。さすが地元の方で、オリガさんもヴァジムさんもよく知ってらっしゃるようです。結局肝心なことは訊けなかったのですが、ヴァジムさん自身もウクライナからの移民もしくは移民の子孫だったかもしれません。(旅行会社の、同名のヴァジムさんはウクライナからの移民でした。)

 「ほら、あれは朝鮮人の集落よ」とオリガさん。えっこんなところに!と思って見ると、本当に「Корейская деревня」と書かれた看板が見えます。このあたりの朝鮮人はスターリン時代に強制移住を命じられたはずなのに、残っていた人がいたのだろうか、と思いながら訊いてみると、ほんのここ10年ほどの間に住み始めたとのことでした。

 

3-4 グリゴリエフカ(Григорьевка)(通過)、ダリザヴォートスコエ(Дальзаводское(通過)

 これまでも農村を通ってきているのですが、今度は本格的に農村らしくなってきました。グリゴリエフカに入ってから舗装道路ではなくなったのです。未舗装道路に入って最初に印象的だったのが、きのこ売りのбабушкадевушкаを道ばたで見かけ始めたこと。そこで売っているきのこも大きくて日本で見るものとは全く違い、…写真を撮ってこなかったのが残念です。

 途中、道が少しアスファルトに戻ったりしながら、ダリザヴォートスコエを通過。このあたり、途中、牛がのんびり歩いていたりしてのどかです。人通りはほとんどありません。古い民家が立ち並び、このあたりは老人ばかりで、若者は皆町へいってしまう、という話です。日本の「過疎化」のようなものでしょうか。どこも同じ問題を抱えているんだな、と思いました。

 一面の白い花の傍を通り、オリガさんの話によると「ソバの花」とのことでした。その他、豆の畑もありました。これらは会社が作り、ウスリースクや国に売るのだそうです。一面黄色いところもあり、これは収穫した後とのことでした。ほんとうはもう少し詳しく話を聞きたかったのですが、ヴァジムさんも説明してくれようと横を向いてくるので…(もちろん運転中です)

  ヴァズネセンカに入る直前(あるいはもう入っていたのか?)少し住民の方に話を聞こう、ということでヴァジムさんが止まってくれました。

 

◇インタビュー

 ヴァジムさんが民家のドアをたたいて連れて来てくれたおじいさんに少し話を聞きました。インタビューの内容をまとめてみます。(以下、インタビューをした時同じ。)

どこから?:ロシア人。クールスク県出身。

いつ来たか?:1939年(当時10歳)。

 残念ながら私の探していた人(19世紀末にやってきたウクライナ人移民の子孫)ではなかったので、これだけ聞いて、お別れしました…。

 

3-5 ヴァズネセンカ(11:40)

 さて、いよいよヴァズネセンカに到着。ここには学校付属の博物館があるのです。ですが、ウスリースクで博物館が閉まっているのを見ていやな予感はしていたのですが、やはり閉まっていました…。(事前に確かめなかった私が悪いのです。)学校付属なので、週末、しかも夏休み中となるとそれは閉まっているでしょう…。仕方がないのでとにかく写真を撮って、人がいればインタビューも敢行してみることにしました。

 が、いるのはガチョウばかり…。「村の写真を撮ろう!」と思って来た私ですが、慣れていないのでどういう「画」を撮ったらいいのかよくわかりません。見えるところには家と家畜ばかり。でも、来て納得したのは真っ平らな地面が広がっていること。ウラジオストクは坂ばかりなのに、この対照的なこと!地図で見るとこのあたりは平野だし、知識としては知っていたのですがやはり「百聞は一見に如かず」で、「ウラジオはあんなに坂ばかりだったのに…」と、感慨深く思いました。そして村の中に畑がなかったことも、行ってみなければわからないことでした。やはり無意識に日本の農村風景を思い浮かべてしまっていたようです。

 

インタビュー

そうこうするうちに人が通りかかったのでインタビューを。

 

1. おじさん

「ちょっとお聞きしたいんですが…」明らかに警戒している風です。そりゃ外国人がいきなり「あなたはどこから来たの

か」なんて聞いたら警戒しますよね。ここにはいつ来たのですか、と聞いても「Давно!」の一言のみ。「Спасибо.」と言って別れました。

 

2. 少年たち

通りがかった2人の少年たちが、もの珍しそうに近寄ってきました。「いつ来たか…知らないよね?」「うん、知らない。」

で終わり。でも、驚いたのはその2人がタバコを吸っていたこと!一人はまだ小学生ぐらいなのに…。(でも、後日ロシア語学校の先生に「小さい男の子がタバコを吸っていてショックだった。」と話したら、「そう、でもそれは普通よ」と言われました。普通なのか…)

 

3. おばあさん

やさしそうなおばあさんが通りかかったので聞いてみました。

どこから?:モスクワ郊外、イヴァノフスカヤ州(область)。

いつ来たか?:1989年ぐらい。

今何をしているか?:年金暮らし。

その他:若い人々は働く場所がないので、ウスリースクやウラジオストクへ行く。

 

 私が探していた人でなかったのは残念でしたが、とてもやさしいおばあさんでした。先の男の子たちを見て「とても荒れている」という印象を受けてショックだったのですが、「仕事がない」というのも日本よりはるかに深刻な印象を受けました。日本は「ない」といっても本当にないわけではありません。(パートやアルバイトの需要ばかり増えているのは、それはそれで問題だとは思うのですが…。)でも、こちらでは「ない」といったら文字通り「全然ない」のだと感じられるからです。

 もう人は通らなそうだったし、そろそろ時間だったので次の村へ行こう、と車に乗り込もうとしました。するとヴァジムさんが「博物館を開けてもらえることになった」と…。

 

◆博物館(Краеведческий музей средней школы села Вознесенка

  開けてくださったのは学校の校長先生Гарина Михайловна Медведьевさん現在は中国にいらっしゃるとのことのご夫君で、この学校の体育の先生をされているЯков Яковлевич Медведьевさん。とても気のいいおじさんで、上機嫌で学校の歴史、村の歴史、自分の家族のこと、昔の生活用品のこと…と、とめどなく話をしてくださいました。

 

インタビュー(Яков Яковлевич Медведьевさん)

どこから、いつ来たか?:このあたりには1948年にクールスクからやってきた(最初からヴァズネセンカに来たわけではなかった)。

いつヴァズネセンカに来たか?:1977年にヴァズネセンカに移り住んだ。

その他:自分は10番目の子供だった。この村には、最初ポルタヴァ県から多く移民がやってきて、その後クールスクなどから多くやってきた。

学校のこと:この学校は1903年にできた。この学校はもともと幼稚園だったが、人が少なくなったのでこの幼稚園に全部移ってきた。

 

 学校の中は机などとても小さくてかわいらしく、「子どもの時ってこうだったっけ…?」と思っていました。「もともと幼稚園で、(設備はそのままに)すべてここに移ってきた」と聞いて、納得。

 

3-6 ハルキドン(Халкидон)(通過)

 ヴァズネセンカでだいぶ時間をオーバーしてしまいました。急いでチェルニゴフカへと出発。その途中でハルキドン、という村があるのですが(印象的な名前ですが、中国語由来の名前だそうです)、そこはヴァジムさんのおじさんが以前住んでいた場所とのこと…。ヴァジムさんも子どもの頃はよく遊びに来たそうです。もしロシア人の先生と来ることができていたら、ここにも来たかったので、意外な縁でここに来ることができて(通過するだけですが)感慨深く思いました。

 

3-7 チェルニゴフカ(1:00過ぎ)

 さて、やっとチェルニゴフカ着。ここはかなり大きな村のように感じます。ここにも博物館はあったのですが、やっぱり閉まっていました…。

 で、村の風景や、博物館や、つながれていたヤギや(初めて間近で見ました)、井戸を写していたのですが、ここでも偶然館長さんの息子さんが通りかかり、母である館長さんに電話してくれたのです!またもやラッキーなことに開けてもらえることになりました。

 ほどなく館長さん(Раиса Федровна Мироненкоさん)がやって来られて、館内を全部案内してくださいました(説明つき)。チェルニゴフ地区(Черниговский район)の自然、地区の人々の絵、伝統的な農村での生活用品…そうそう、ウクライナや中国のお札も展示してありました。

 何よりもうれしかったのは、館長さんからチェルニゴフ地区について書かれた本をいただいたことです。(Коронин В. А. (Ред.) Черниговский район. Владивосток. 1996.

 それからやはり、「チェルニゴフカ」という名前は、「チェルニゴフ県人が作ったから。」とのことです。

 さて、お礼を言って館長さんと別れ、食料の補充をするために店に入りました。このような大きな店があるところを見ても、この村はかなり大きな村なのだな、と感じます。ところでここでびっくりするようなことがありました。日本人と出会ったのです!こんなところで日本人と会うとは思わなかったので、驚きました。昆虫の研究のために山へ行くところだそうで、博物館の方やカメラマンの方などでした。

 

3-8 休憩

 チェルニゴフカは3時過ぎに出発して、途中遅いお昼ご飯を食べました。そこで運転手さんのヴァジムさんに聞いた話…

沿海地方の移民について。

大祖国戦争の前後では、移民の質が違う。

ボリシェビキの頃、危険思想をもっている人は来させられた。それは、モスクワやペテルブルクなど、西に近いところの人々の目が、西ではなくロシア国内に向くようにするためだった。

私は大祖国戦争どころか、シベリア鉄道での移住が始まる以前のことを研究しているので、このころのことはよく知りま

せん。しかしさすが地元の方で、自分が日本でロシア語の文献を読み、やっとわかったことがこのようにいともあっさりと答えられてしまうと、少々悔しく思うとともに、現地に来てよかった、と実感します。

 食後のコーヒーを飲んでいる時、オリガさんが「ちょっときのこを採ってくるね。」と近くの茂みの中に入って行きました。数分後現れたオリガさんの手にはきのこが2、3個乗っています。でも、残念ながら最近の雨のせいでだめになっていました…。これは私たちに見せるために採って来てくれたのだそうです。

 4時30分ごろ、出発。

 

3-9 オシノフカ(Осиновка(通過)、イヴァノフカ(5:00頃)、ニコラエフカ

 実は私、このころそろそろ疲れが出てきていたのか、あまり記憶がないのです…。インタビューせず、写真だけ撮ったからかもしれません。イヴァノフカとニコラエフカの二つの村で写真を撮ったのですが、後からどっちが先だったやらわからなくなってしまいました…。Yさんと記憶をつきあわせて、やっと判明したのですが。せっかく助言をいただいた場所ですが、疲れと、少し気弱になっていたのでインタビューは行いませんでした。

 ニコラエフカの風景は、この日一日で見慣れた村の風景です。でも日が射してきて気持ちがよかったし、(チェルニゴフカのように「大きな村」というわけではなかったのですが)、広々として気持ちのいい村だと思いました。似たように見えても、やはり村によって少しずつ印象が違います。

 

3-10 ラコフカ(7:00頃)

 最初「時間がなかったら寄らなくてもいい」としていたラコフカですが、十分時間がありそうだったので行くことにしました。しかしここからが、恐怖の未舗装道路…。延々と続いて、申し訳ないやらで「行く、と言わなければよかった…」と後悔しました。でも、後の印象は「行ってよかった」です。7時頃ラコフカ着。

 ここは、これまで来た村の中で一番貧しい、という印象を受けました。ここではインタビューを行いました。

 

インタビュー(Ваня Нестеровна Штандерさん)

おばさんと女の子が遊んでいて、「私たちはウラジオストクからお客に来たのよ」とのこと。私たちの目的を知る

と、家のおばあさんを呼んで来てくれました。それがВаня Нестеровна Штандерさんです。(ヴァジムさんご夫妻によるとШтандерというのはポーランドの姓だそうです。)

 

どこから来たか?:ウクライナのバリンスカヤ州シャーツキーから。(キエフから電車で7時間ほどのところ。)

いつ、誰と来たか?:1974年、家族と。

移住の理由は?:コルホーズでの賃金が安く、生活できなかったので移住した。

ここでの生活はどうですか?:以前よりよくなった。(Лучше!と実感をこめて。)

今、農業はしているのですか?:5羽のガチョウと何頭かの牛がいるだけで農業はしていない。

では、ここでは誰が農業をやっているのですか?:中国人。

学校はありますか?:ある。郵便局もある。

この村に教会はありますか?:ない。教会はウスリースクにある。ウスリースクまでのバス代は22ルーブル。(cf. ウラジオストクでは市内均一7ルーブルです。)

 

 かわいい女の子とかわいいおばあさんに会って、ラコフカは図らずもとても印象に残る村となりました。インタビューも(はじめて)落ち着いてできたし。そしてお聞きした話も衝撃的でした。というのは、「中国人に土地を貸している」という話が出たからです。「中国人に土地を貸している」というのは私が読んでいる19世紀末の資料にも出ていて、状況は全然変わっていないのがショックで…。別に中国人が嫌いというわけでは全くありません。ただ、100年以上も経っているのに何も状況が変化していない、ということに衝撃を受けたのです。

 ウラジオストクでは、中国人に対する感情は悪いので、こちらでも「仕事を奪われて悪感情を抱いているのではないか?」と思い、聞いてみました。でも、そういうことでもないようです。むしろそれで得た収入を税として納めるので、助かっているようす。中国の北の方の人は、仕事がないのでこちらに流れてくるとのこと。また、中国は医療費が高いのでこちらで産む人が多いそうです。ではこの辺りの若者はどこで働いているのかというと、少し行ったところの工場(фабрика)で皆働いているのだとか。その工場、帰る時に横を通り過ぎましたが、たいへん大きな工場でした。

 

3-11 ウスリースク(休憩)(8:00頃)、ミハイロフカ、ウスリースク(9:00頃)

 さて、旅行もそろそろ終わりに近づいてきます。ウスリースクのアフタバグザールでコーヒーを飲んで少し休憩します。やはりコーヒーはほっとします♪オリガさんはロシア人には珍しく(?)紅茶よりコーヒーの方が好きなのだそうです。

 そしてせっかくだからと、ミハイロフカにも行くことに。ここでもインタビューは行わず、写真だけだったのですが、24時間スーパーなどもあって少し大きな村、という印象を受けました。牛を追っているおじさんなどもいて、のどかな風景です…。

 そして、最後に再びウスリースクへ。「もう一度通る」ということで、これまでちゃんと写真を撮ってこなかったので。9時頃でしたが、通りには人通りはほとんどありませんでした。建物はこんなに大きくて立派なのに…。それなのにバーのようなところから大音量の音楽だけががんがん流れていて、不思議な印象でした。(もちろん店の中には人がいて、食べたり踊ったりしているのですが。)

 

1. 旅の終わり—結びにかえて—

 一日の行程が終わって、ウラジオストクへ帰ってきました。ウラジオストクに入ると、大きな道路、電飾で飾られた木(11時近くなのでさすがに日が暮れています)、大きな建物群が目に入ってきました。これまでの村の印象とあまりにも違い、ウラジオストクがいかに大きなところか、ということを初めて実感しました。

 11時に寮(滞在中は極東大学の寮に住んでいました)に到着。朝7時に出発したので、計16時間の「小旅行」でした。体はくたくただったけど、いい運転手さんと出会え、行きたいところに全部行け、インタビューもできたのでほっとしていました。後から見れば「調査」というより単なる「ドライブ」と大差ないのですが…。それでも「現地を見る」という目的をしっかり果たすことができ、自分の原点、問題意識を再確認することもでき、とても充実した小旅行となりました。

 最後に、同行してくださった「Yさん」こと富山県庁職員の澤木有紀さん、運転手ご夫妻のВадимさんとОльгаさんにお礼を申し上げます。もし自分一人だったら…。とてもここまでできなかったと思います。特に、Yさんには道中ほとんど通訳のようなことをしていただいていました。インタビューができたのはYさん、そして住民の方を話に引き込むなどしてくださったヴァジムさんご夫妻のおかげです。そして、村へ行くにあたってアドバイスをいただいたАргудяева先生、先生との間の連絡をとりもってくださったКожевников先生、突然訪ねたにもかかわらず快く質問に答えてくださったМизь先生、その他ここには書ききれなかった多くのお世話になった方々に、この場を借りてお礼を申し上げます。

 なお、「天気がよくなかったのだけが残念…」と思っていたのですが、当日ウラジオストクは快晴で暑かったそうです。内陸部とウラジオストクは天気が違う、と聞いていたのですがまったく正反対とは。ウラジオストクに帰る途中、ものすごい大雨が降ったと思ったら、少し進むと雲がなくなって晴れた、ということもありました。そのようなことも、楽しい不思議な思い出です。

 

付録—写真、地図

 

写真

1. バス時刻表。ウラジオストクのアフタバグザールにて。

 

2. 未舗装道路。全部ではありませんが、時にはこんな道路も走りました。

 

3. ヴァズネセンカ。

 

4. 伝統的な台所用品の使い方を実演してみせるメドヴェージエフさん。ヴァズネセンカにて。

 

5. チェルニゴフカの博物館。

 

6. チェルニゴフカ。この店の中で、日本人の方々と出会いました。

 

7. きのこをもつオリガさん。

 

8. 「井戸端会議」をする女性たち。

 

9. 「ここまでイヴァノフカ」。

 

10. ニコラエフカ。

 

11. ラコフカ。訪れた村々では、このような大きなパラボラアンテナが立っている家をよく見かけました。

 

12. 「昔ながらのイズブーシカ(избушка)。」この屋根の部分の装飾が、伝統的なのだそうです。このような家を村々ではよく見かけました。また、村では家は青や黄色や、時には緑で色鮮やかに塗られていました。

1、2、6、7、9、12=澤木有紀さん提供

3、4、5、8、10、11=筆者撮影

 

地図(Дороги Приморья より)

 


おろしゃ会の会長を務める加藤彩美さんは、4月から三重県の学校で英語の先生として働くことになりました。初志を貫徹して厳しい教員採用試験を突破した経験は、後輩の皆さんにきっと役立つだろうと彼女に言ったところ、早速、次のような文を書いてくれました。教員を目指す皆さんにぜひ読んで欲しいと思います。加藤史朗


教員を目指すみなさんへ

 

英文学科4年 加藤彩美


 

教員になりたいと思う人へアドバイスができればと思って、私の教員採用試験を記します。ここで私が扱うのは、中学もしくは高校の教員への道です。

はじめに、平成17年度に私が受けた試験と、その結果をお知らせします。私は愛知県の高校英語と神奈川県の高校英語を受験しました。それぞれの県の試験内容は後ほど述べます。愛知県は2次試験落ちで、神奈川県は採用となりました。しかし私は、三重県にある私立学校へ行くことになりました。

次に、教師になるにはどのような方法があるのかを説明します。まず、教職課程を履修することは必須です。そして、学校には公立と私立があります。先に公立学校、続いて私立学校の受験方法を述べます。

公立学校は、毎年7月に各自治体で採用試験が行われます。各自治体というのは都道府県だけではありません。名古屋市、横浜市、札幌市など、政令指定都市もそれぞれ教員を募集しています。願書は各自治体に返信用封筒を同封して請求するのが基本です。ただし、愛知県立大学には愛知県や名古屋市の願書が、就職資料室に置かれます。願書の配布は5月くらいですが、自治体によってまちまちなので、各自治体の教育委員会のホームページをご覧ください。その願書に必要事項を記入して、あとは受験票を待つのみです。最近は、インターネットで受験申し込みができる自治体もあるようです。受験日は、早いところだと7月に入ってからすぐにあります。関東は7月中旬、東海は7月下旬でした。試験日がかぶっていなければ、いくつの自治体の採用試験を受けても構いません。しかし、たとえば名古屋市、愛知県、三重県、岐阜県は同じ日にあります。教員採用試験には受験料がかかりません。受験日がかぶらないようにうまく調整して、合格の可能性を高めるのはよい方法です。

私立学校は、コネの場合も多いようです。だからといって、悲観する必要はありません。学生課の隣にある就職資料室には、私立学校の求人情報があります。奥の部屋の本棚に、職種ごとに並んだファイルがあります。教員の場合は「教育」のファイルを見てください。幼稚園から高校まで、地元から遠隔地まで、ありとあらゆる求人票が入っています。まめに閲覧して、気になる情報があったらメモをとりましょう。私立学校の場合は、求人票にしたがって応募をします。その学校へ直接履歴書を送って、学校側から連絡があったら面接や試験へ行きます。

次に、公立学校の試験科目を説明します。ほとんどの自治体で、一次試験で教職教養、一般教養、教科専門の試験と集団面接があります。それに加えて小論文や性格検査(ペーパー)を課す自治体もあります。自治体によっては、英語科であれば、TOEICの点数や英語検定の級によって専門科目が免除される場合があります。愛知県の場合、1次試験では教職教養、一般教養、教科専門の試験と、集団面接がありました。教職教養、一般教養、教科専門はすべてマーク式の試験でした。神奈川県の場合、教職教養、一般教養、教科専門の試験と、集団面接、そして60分で900文字の小論文がありました。小論文は1次試験で行われましたが、1次試験の合否には関係せず、2次試験の成績に加味されるということでした。どちらの自治体の試験でも、教職教養と一般教養の試験は併せて一科目の扱いでした。神奈川県も愛知県と同様に、試験はすべてマーク式でした。1次試験では全体の7、8割正答しないと合格は難しいと言われていますが、私は自己採点した結果、神奈川県の教職教養・一般教養は5割しかとれませんでした。それでも1次試験を突破したのだから、正答率は当てにせず、1次試験が終わったら2次試験対策を始めましょう。

2次試験では、自治体によって内容がまちまちです。2日間にわたって行われるところが多いようです。中には1日目と2日目の間が1ヶ月程度離れている自治体もあるので、経済的にも遠隔地の場合は行くのが大変です。愛知県では、1日目にクレペリン検査、英語のペーパーテスト、2日目に集団討論、個人面接が行われました。英語のペーパーテストは記述式でした。どの程度の問題かを示すのは難しいのですが、国立大学入試の2次試験程度の難易度だと思いました。リスニングはありませんでした。神奈川県では、1日目に性格検査、ひとり10分程度の模擬授業、個人面接、2日目に英語で個人面接がありました。集団討論、模擬授業などは、たしかに講師や私立学校での教員を経験している受験生は上手です。場の仕切り方も、話し方も、声量も、何もかも違います。私が受験した愛知県、神奈川県の2次試験では、2割程度しか現役生はいませんでした。しかし、現役生は可能性を秘めている分有利です。現役生の経験は浅いですが、それを逆手にとって、教職経験者にはない新鮮さを見せられれば経験者に劣ることはありません。

私立学校の試験は、面接と小論文だけという学校もあれば、私が受験した学校のように1次で教職教養、教科専門、小論文、集団面接を、2次試験で3分間スピーチ、個人面接を課すところもあります。

では、実際にどのような勉強をして採用試験に臨めばよいかを記します。私は3年生の2月から、勉強を始めました。3年生の夏ごろから、勉強を始めなくてはいけないなと感じてはいたものの、私も始めは何をしたらよいかわからないまま全く手をつけていませんでした。勉強を始めたきっかけは、「教員採用試験を受けるなら、一緒に勉強しない?」という同じ教職の講義を受けている学生からの誘いでした。彼女は、同じ講義を受けていながらも、その当時は一度も話したことのなかった学生でした。彼女とて、何を勉強したらよいか知っているわけでもありませんでしたが、私は、何人かで学習を始めれば、学習法を模索しながらできるのではないかと思ったので、すぐに賛成しました。採用試験を受けるつもりだった他の友人も誘い、4人での勉強会が始まりました。

様々な出版社が、教員採用試験の参考書を発行しています。私はいったいどれを選べばよいのかわかりませんでしたが、書店で目立っていた東京アカデミー発行のオープンセサミシリーズを買いました。参考書や問題集など、オープンセサミシリーズだけでもかなりの数がありますが、私は参考書の、@教職教養 I(教育原理・教育史)A教職教養 II(教育心理・教育法規)B一般教養 I(人文科学)C一般教養 II(社会科学)D一般教養III(自然科学)を選びました。この中でも@とAは欠かせません。勉強会のメンバーも@とAを持っていたので、共通の教科書として使いました。

 はじめに教職教養から取り掛かりました。教職教養をいくつかに区切って、各自がレポーターになり、ハンドアウトと作ってきて、要点を発表するという勉強法をとりました。この日には、この人がこれについて発表するという細かな計画を立てたので、一人一人責任感を持って勉強会が進んでいったと思います。春休みに教職教養の内容が一通り終わりました。問題を解くことは、1次試験の寸前まで続きました。

 一般教養はあまりにも範囲が広いので、ほとんど勉強はしませんでした。個人で、わからないものは解決するといった方法をとっていました。最近の傾向として、プライバシー、著作権、パソコンの知識はよく出題されるようです。自治体の中には、緑茶を淹れる際にカテキンが最もよく出る温度は何度かといった出題をするところもあるようです。こうなってくると一般教養は運です。このように何が出題されるかわからない一般教養よりも、ある程度出題の予想がつく教職教養で点数を稼ぐほうが賢明だと思います。ただし、その自治体にまつわる芸術家、名産、世界遺産や国宝は一般教養の問題になりやすいです。他の地方から見たら意外な問題も、当の自治体ではありうるのです。なお教職教養でも、その自治体の教育政策や教育目標はホームページ等で確認し、おさえておきましょう。自治体はそれぞれの教育政策を自慢にしています。出題が多く、さらには面接で訊かれることもあります。

 私たち勉強会は教職教養の次に、小論文の勉強を始めました。自治体の過去の小論文のテーマはホームページや教員採用の雑誌などで公開されているので、時間と字数を確認して、同じ様式で小論文を書きました。小論文を書くことだけで終わらず、各自の小論文を回し読み、評価し、書き直すというところまでしました。具体的に、簡潔に、を常に意識できるようになりました。

面接の練習が始まるころ、ちょうど6月の教育実習も始まりました。実習の準備などでなかなか全員が集まることができない時期でしたが、それでも勉強会は続きました。面接の練習は、試験直前まで続きました。最初に集団面接の練習をしました。1人が試験官役になり、残りが受験者役になりました。小論文のテーマと同じく、教員採用の雑誌で過去の質問項目を知ることができます。学習指導、生徒指導など、とにかく練習を重ねました。1次試験を挟むようにして、個人面接の練習も始まりました。自分の意見についてだけでなく、面接中の態度やしぐさ、話し方の悪い癖までも互いに指摘しあえました。

とりわけ小論文と面接は、一人でよりも、何人かで練習するのを強く勧めます。まず、自分以外の誰かがいることで妥協がなくなります。また、他者の意見で参考になるものはどんどん吸収できます。さらに、自分が教員を目指すのはなぜなのか、教員になることで自分は何がしたいのかと自らに問い直すきっかけにもなります。ただ漠然と生徒への愛情がどうだとか考えずとも、自分の中に決意のようなものが生まれれば、飾ることなく正直に、自然に小論文を書くことや、面接官と向き合うことができるようになるでしょう。

これまで私の教員採用試験体験を述べてきました。あくまで私の体験であり、こうしなければいけないということはありません。ただ、もし参考になるところがあれば、真似してみてください。教員採用試験は、ただの試験ではなく、自分が教師になるために何を持っているか、何が足りないのか再確認できる機会でもあります。自分にできうる全てのことをして挑んだ教員採用試験を終えた後、きっとみなさんももうひとまわり人間として成長できると思います。ひとりでも多くの教師が誕生することを願っています。

 


 

鮎美さんからの便り

 

前号に引き続き、服部鮎美さんからのお便りを掲載いたします。彼女は、現在大韓航空のスチュワーデスをつとめておられます。

 


 

2005年9月2日

 

加藤先生、

こんにちは。まだまだ残暑が続きますが、お変わりありませんか??

今日は、オークランド(NZ)からのレポートです。

ニュージーランドといえば、自然が沢山あって、時間の流れがゆっくりしていて、野生の動物がいて・・・、というイメージがあると思いますが、こちらにいると、本当にその通りの国だなと思います。
ショッピング街へ行っても、靴屋さん、洋服やCDのお店などなど、5時に閉まる所がほとんどです。遅くても6時までには終わってしまいます。(たまに、4時に終わる所もあり、ビックリします!)
昨日も、小さなデパートの中で食事をしていたら、6時になった瞬間、強制的に締め出されてしまいました。
皆が早い時間に仕事を終えるこの国では、きっと、アフター5の生活が充実しているのではないかなと思います。

「自然が沢山」と聞くと、「そういう所に永住したい」とか、「そんな所で子育てをしたい」と思われる方も多いと思います。実際、とても素敵な所です。今回私は、「子育て」という観点から見て、「自然一杯で子育てに適した」この国では、どんな幼児教育がなされているのかなと思い、クラスを一つ受講してきました。

先ず、私の受けた授業の受講者は、海外から来た、幼稚園の先生や、小学校の先生が一緒でした。授業の内容は、新しい歌を覚え、それにまつわる、ダンスやゲームを考え、その遊びの中で、子供たちに、物の名前や、人と交わることを教えるという内容です。文章で書くと、単純に聞こえるかもしれませんが、実際は、1時間の中で、行動することが沢山ありました。とにかく、自分の中にある経験や、知識をどんどんアウトプットしていかないと追いつけない印象でした。歌を覚えるのは容易でも、ダンスや、ゲームを創るということは、今までの私の経験であまりしてこなかったことです。(県大の中では、児童教育学科の学生さんは、こういったことが得意かもしれませんね!)

ちなみに、ゲーム(未就学児対象)の中には、教師が、子供たちを抱きしめるという内容も含まれていました。歌を歌う中で、ゲームをする中で、ダンスを覚える中でなど、普段の遊びの中に、人とのスキンシップが含まれているのは、とっても大事なことだなと思いました。

初めて行うことを、その場で創り出す、頭で考えるよりも、体を使うということが、私の中で大きな体験となりました。これは、それまでの経験が多い、少ないに関わらず、自分自身の中で、アウトプットの方法を知っているかどうかが大きな鍵になるなと思いました。

学生の皆さんも、何かを発表しなければならないとき、発言しなければならないときなど、自分の中の引き出しから、それまでの経験、知識を引き出さなければならない機会は多いと思います。ですが、引き出す練習を沢山しておけばおく程、理路整然としたものを創り出せる気がしました。

今回の体験は、「是非もう一度」、と言わず、何度も体験したいなと思えた授業でした!

それでは、まだまだ暑いですが、どうぞご自愛ください!

〜服部 鮎美〜

 


 

2005年10月2日

 

加藤先生、

こんにちは。ご無沙汰しております。
今日は、アムステルダムからのお便りをお送りします。

オランダといえば、チューリップや、風車、木製の靴というイメージが強いと思います。こういった風景は皆さんも、写真などでご存知かと思いますので、今回は少し別のお話をしたいと思います。

首都のアムステルダムには、アンネ・フランク ハウスという博物館があり、ナチス政権下に、フランク一家が隠れ家として使っていた建物を、そのまま見ることが出来ます。

アンネは、ジャーナリストになることが夢で、隠れ家で生活をしていた間、日記を付け続けていました。それは、元の生活に戻ることが出来たら、本を出版しようと考えていたためです。ですが、大変残念ながら、それが実現出来なかったため、父親によってその遺志が受け継がれました。書店に行って、『アンネ・フランクの日記』を目にすることが出来るのは、父親のオットー・フランクが、アンネの日記の出版に奔走したためです。そして、フランク家の中では、唯一父親だけが、生き残ったため、彼が、生前の隠れ家を、博物館として遺しました。

アンネが付けていた日記の中には、「私たちは、他のどんな国民にもなれません。私たちは常にユダヤ人なのです。私たちは、常にユダヤ人であるしかなく、またそれを望んでもいるのです。(19444911日)」と書かれています。あれだけ、迫害されても、自分たちはユダヤ人であるしかなく、「またそれを望んでもいる」と書いていることにとても感銘を受けました。

学生の皆さんは、自分で、「日本人であることを望んでいる」と言えますか?
日本人は、とても謙虚で、(勿論そこが美徳でもありますが、)時に、自信がないのではと問われます。しっかりと意見を主張しないことや、地に足の付かない国の外交政策から、「もっと日本人であることに、誇りを持ったら良いのに・・・。」とつい思ってしまいます。

外国に行くと、日本のパスポートを所持していることはとても大きなことだと分かります。多くの国に、ビザ無しで入国できることから、「日本」という国が信用されていることが分かります。海外には、同じアジア圏の韓国や、中国には認めていませんが、日本にはビザ無しの入国を認めているという国があります。

日本人は、ナチス政権下のアンネの様に迫害されていません。あれほど、差別を受けたにも関わらず、「ユダヤ人であることを望んでもいる」と言えたアンネ(この時、既に隠れ家生活を始めて2年が経とうとしており、この約4ヵ月後には、ドイツ秘密警察に見つかり、アウシュヴィッツに送られました。)自分が、ユダヤ人であるために、殺される運命にあったにも関わらず、強く自分の国籍に誇りを持てた強さにとても感銘を受けました。

海外へ行くと、日本が恵まれていることや、基礎構造(インフラ)が、ほぼ完璧に整備されていることに気が付きます。「物質的豊かさに恵まれ、精神的な豊かさに乏しい」といわれる昨今の日本ですが、物質的に豊かなことが、どれほどありがたいことか、ふと思い浮かべて頂けると良いなと思います。誰も、100年前のインフラでの生活に戻りたいとは思わないでしょう。まずは、世界トップレベルの豊かさを持つ日本のありがたさを知ってください。日本人はすごいんだなぁと、漠然とでも誇りを持ってもらえたら良いなと思います。

それでは、またお便りしますね!

服部 鮎美

 


2005年11月4日

 

加藤先生、

 

こんにちは。ご無沙汰しております。

今回は、アメリカ、オハイオからのレポートです。

 

アメリカはご存知の通り、銃が合法化されています。生まれてこれまで一度も銃を触ったことのない私は、新しい経験として、銃を撃つ体験をしました。銃はとても重く、的に当てるのも容易ではなく、映画などで見るイメージとは明らかに違うものだと分かりました。そして、つくづく日本では違法とされていて良かったなぁと思いました。

 

アメリカでは、銃は自分の身を守るものであると同時に、(といっても、日常で銃が必要になるような機会は滅多に無いようです。)シューティングを楽しむという意味で用いられるようです。今回、オハイオ州でも、「銃を撃つ場所」と書いた看板があり、「シューティングを楽しんでも良い」という場所が幾つかありました。

余暇の一環として、銃を撃つのだなぁと文化の違い、新しい発見に驚かされました。

 

〜服部 鮎美〜

 


 

2006年1月24日

 

こんにちは。今回は、韓国ソウルで歴史について考えてきました。
日韓の歴史認識の違いについては、新聞、テレビでも目にすることですが、今回は、時代の移り変わりについて考えました。

 ソウル中心部に西大門刑務所という場所があります。現在は実際に使われていないので、正確には刑務所跡と呼べると思います。そこは、韓国が日本に占領されていた当時、韓国独立に関わった運動員、住民が投獄、及び拷問された場所です。当時の処刑場や、牢屋はそのまま残されており、拷問、虐待の様子は、蝋人形で再現されています。スピーカーから録音された音声も流れており、とても現実味のある場所です。

 当時の写真、物品などからも実際に拷問が行われていたということは、察しが付きます。正に、日本では見たことの無いような拷問のリアルさが伝わってきました。また、この場所は広い公園の中にあり、公園を訪れる家族連れや、恋人同士でも気軽に立ち寄れる場所であります。それに、入場料がなんと1,500ウォン(日本円で約150円)という安さもあり、多くの人が訪れています。その中には勿論日本人旅行客の姿もありました。歴史問題は、韓国のものだけ、日本のものだけの問題ではないので、お互いが歩み寄るにも、互いの認識について知る必要があると思います。

 この刑務所で、私は韓国人の親子に出会いました。小学校低学年の児童とその母親で、その児童は熱心にメモを取り、どうやら学校の宿題をまとめているようでした。それを手伝うかの様に、母親は色々な物を一生懸命に写真に収めていました。しかも、Sonyのデジタルカメラで、です。戦争の「加害者」と「被害者」。それを語り継ぐ刑務所跡で見られた、「韓国人が使う」、「日本製のデジタルカメラ」。時代の移り変わりを感じないではいられません
でした。喧嘩をしないで、お互いの良いものを認め合う。「韓国の食べ物が美味しい」とか、「日本の電化製品は性能が良い」とお互いの良いところを共有できると良いなぁと思いました。そして、「そういうことが出来る世界を平和と言うのだな」と、当日出会った親子から感じました。

またお便りしますね!

〜服部 鮎美〜

 


※服部鮎美さんは、これまでつとめてこられた大韓航空を退社され、現在、アメリカの大学で勉強中です。大学院にすすみ、ジャーナリズム論を専攻されるそうです。


 

2006年1月30日

 

加藤先生、

こんにちは。
先週、アメリカ東部、フロリダでスクールバスを巻き込む交通事故がありました。そこでは子供7人が犠牲になり、これは本当に悲しい事件です。ですが、その事故を扱う記事を読み気がついたことがありましたので、メールをさせていただきます。

AP通信の記事には「この事故で7人の養子の子供達が犠牲になった」と書いてありました。もし、この事故が日本で起こったものであるなら、その子供達が「養子」かどうかというのは新聞に言及されることはなかったと思います。プライバシーの侵害に当たる可能性があるからです。

日本を含むアジア各国は、養子を受け入れることがアメリカほど一般的ではありません。この記事を元に大学の授業でプレゼンテーションをしたところ、アジア人、アフリカ人学生ともに、「自分が養子だということは人に言いたくない」と言っていました。ところが、アメリカ人の学生は、「私の叔父も養子だし、これは極めて一般的なことで、隠すような事は何もない」と言っていました。

実際、今私の周りにいるアメリカ人もその人自身が養子であるとか、親戚に養子となった人がいるという人が多いです。そういう議論を繰り返すうちに、アメリカにおいては「養子であるか否かはプライバシーの侵害に当たらない。」という結果に至りました。日本とは違う新しい発見に驚いています。
考えてみると、アメリカでは、「義理の親、義理の子供」というのもよく聞く気が致します。

それでは、また勉強をする過程で新しい発見がありましたらメールをさせていただきます!

どうぞお体をお大事に・・・。

服部 鮎美

 


 

2006年6月2日


今日はガソリンスタンドで思わぬ物を見つけました!

「ドネーションボックス」です。これは、要らなくなった服や靴を入れるための箱です。そして、定期的に収集され、経済的に困窮している人や、体が不自由で働けない人に寄付するための物です。 とても良い仕組みだと思いました。何故なら・・・、ある人が要らなくなった物があり、寄付したいとします。しかし、どこに電話をすれば引き取ってもらえるのか、どうしたら困っている人に届けられるのか、直ぐには思い付かないかも知れません。そうこうしている内に寄付する機会を失ってしまうかも知れません。仕事等で忙しい人は、尚更ボランティアに掛ける時間がないかも知れません。

もし、ガソリンスタンドに収集箱を設置しておけば、誰でも好きな時に寄付が出来ます。合理的な仕組みですね。さすがアメリカ。
調べてみると、このドネーションボックスはガソリンスタンドだけでなく、スーパーや、ショッピングセンター等にも設けられているそうです。ちょっと買い物に行った時についでに寄付(ボランティア)が出来る。「要らなくなった物」を「捨てる」のではなく、「再利用」してもらえる。精神的にも、環境面から考えても効果的だと思いました。

そして、地域には幾つかこういった寄付を取り仕切る組織があります。そういった組織は多くの障害者を雇っています。これについては、障害者の社会参加を促すことが出来ますし、彼らは一定の収入を得ることが出来ます。とても良い仕組みですね。

私は、高校に入学した時、「ボランティア活動がしたい。」と思いました。しかし、一体どこに連絡すれば活動が出来るのか分かりませんでした。そこで、電話帳で調べたり、人に聞いたりしてやっと老人ホームでの仕事を見つけました。

もし、日本がアメリカの様に、街角にドネーションボックスを設置していたり、毎週の様に、ガソリンスタンドで活動をしている高校生達を目にすることが出来たなら、私はすぐにボランティア活動を始められたと思います。私が高校生の時に経験したように、「何かボランティアをして社会に貢献したい。」と思っても、どこでチャンスを見付ければ良いのか分からない人は他にもいらっしゃるのではないでしょうか?

〜服部 鮎美〜

 


 

2006年6月6日

 

加藤先生、

今日も投稿させて頂きます。
もうすぐ父の日ですね。アメリカでも、父の日に肖って「父の日商戦」が繰り広げられています。デパートへ行くと、「お父さんへのプレゼント」コーナーがあり、テレビを付けると父の日に向けてのコマーシャルが流れて来ます。
先日、私も父へカードを送りました。照れ屋の父は、カードを受け取ってもきっと照れると思いますが、「感謝の気持ちは口に出さないと伝わらない」ということを、アメリカで学んだので、「ありがとう」の気持ちを送ることにしました。
アメリカに来て思います。気持ちを口に出すことが多くなりました。自分の考えや、気持ちを口にしないと会話についていけないことも分かりました。
アメリカは自由の国です。友達と何人かで一緒にいたとしても、各個人に「話す自由」と「黙っている(話に参加しない)自由」が与えられています。(日本も同じかも知れませんが。)自分から、話に加わろうとしない限り、(ただ皆の話に加わりたいと「思っているだけ」では、)何も変化がないことも学んだ気がします。ただ、黙って笑顔で居るということも可能ですが、自分だったらそうではありたくないなと思いました。

自分の気持ちを明確に、きちんと伝えるには勉強が必要です。特に、外国語で伝える場合には。
今日は、新しい目標が出来た気がします。勉強を続けること。そして、「意思を伝えたい」という気持ちを忘れないことです。

それでは、どうぞお体ご自愛ください。

服部 鮎美

 


 

2006年6月7日

 

加藤先生、
こんにちは。現在、私の家の近くにアイルランドの友人が滞在しています。今日は、そのことについてメールをお送りします。
現在、一ヶ月の休暇を取ってアメリカに遊びに来ている友人(アイルランド人)がいます。彼らは、以前我が家を訪れこの土地が気に入り、この近所に別荘を買いました。そのため、この一ヶ月はお互いご近所さん同士なのです。
先程、その友人家族が我が家にやってきました。
 
現在、アイルランドは物凄く土地の値段が高いそうです。特にダブリンの地価は、
ニューヨークや、ロンドン等の大都会と同等か、それ以上に値が上がっているそうで
す。ここ15年から20年程の間に、不動産で財を築いた人も多いとか。今回来ている友
人もその内の一人です。
 
彼らは、アイルランドの田舎に大きな家を建て住んでいました。そこは、他の家からかなり離れたところでした。プライベートの空間を持ちたいということからの選択でしたが、これが大変大きなミスだったそうです。
 
強盗に入られ、胸にナイフを突きつけられ、飼い犬を殺され、ビデオ監視モニターは勿論壊され、犯人は車を奪い逃げたそうです。ちなみに車を奪うときは、車庫を破り抜けて行ったそうです。信じられますか??話を聞いているだけで恐ろしいです。
 
友人はナイフを突きつけられ後、犯人にナイフを突きつけ返し、殺せる瞬間があったそうです。しかし、彼女はしませんでした。それは、「もし、犯人を殺せば、正当防衛とは言え自分は殺人者になってしまう。」そう思ったそうです。日本でもこれは同じだと思います。裁判で情状酌量の余地は認められると思いますが、一生罪悪感や恐怖に見舞われるかも知れません。
それでも、危険に襲われた時、自分の身を守ることはとても大切です。 アメリカは、州によって法が違いますが、幾つかの州は、「何者かによって身の危険を感じたら、その者を殺しても良い。」という法律があります。変質者が家の敷地内に入ってきて、自分の身に危険を及ぼす可能性があれば銃で撃ち殺すことは合法なのです。しかし、もし犯人を半殺しにしただけで、逃がした場合、犯人は後日被害者を訴えることが出来るのです。もし、犯人が完全に死亡した場合はそのようなことはありません。「自分の身の危険を感じた」ということを立証出来れば、違法だとはみなされないのです。
 
普段、暮らしていると平和そのものですが、法を追っていくととても興味深い法律や、常識に出会います。
 
それでは、またお便りします。

服部 鮎美

 


 

加藤先生、

今日、2通目の会報をお送りします。
スーパーマーケットへ行き、毎回思うことがあります。「ビニール袋の使い過ぎ」です。
アメリカの殆どのスーパーや、ショッピングセンターでは、買い物した際のビニール袋や紙袋は全て無料です。そのためか、各個人の買い物袋を持参する人は、先ず見かけません。そのため、毎日膨大な量の買い物用ビニール袋が消費されます。車でスーパーまで訪れ(ガソリンの消費)、大量の袋を使用。消費大国です。
ヨーロッパでは、ビニール袋有料の政策を取っている国があります。ドイツや、イタリア、スイス等は随分前から始めています。そこでは、多くの人が個人の鞄や袋に、食品を入れて持ち帰ります。一人一人の試みが環境に与える影響は計り知れません。

一方日本では・・・、私が訪れたスーパーでは、袋を有料にするのではなく、自分の袋を持参した人にポイントを与えるという制度を設けていました。袋を一度に有料にしてしまうと反発の声が上がるかも知れません。袋持参を「強要」するのではなく、「提案」する形を取るのはマイルドな日本らしいなぁと思いました。(良い意味です。)
 
私は、スーパーへ行くとき、ドラッグストアへ行くとき等必ず自分の買い物袋を持参します。小さな小さな私の試みですが、環境保護にとって大きな一歩になることを願っています。

それでは、またお便りしますね!

服部 鮎美

 


2006年6月14

 

加藤先生、

 

先日、アメリカ南部を旅行し、60年前戦争が行われていた頃について考えました。そのメールをお送りします。

 

先週の南部旅行でサウスカロライナ州を訪れた後、私と友人はジョージア州にも立ち寄りました。ジョージアでは、エアーフォース博物館が最も印象的でした。この博物館には、1940年代に、戦争に行き亡くなった若者、功績を挙げた若者等についての資料や、飛行機等が展示してあります。戦争はこの世の中で一番無駄なものです。しかし、当時の人たちにとって、戦争は必要不可欠で、多くの人が命を掛けていました。理由は、ナチスを倒すため、日本を倒すため、世界を守るため等。その様子を伺い、とても悲しく思いました。

 

映画「メンフィスベル」を見たことのある人には特に、ジョージア州サバンナにあるこの博物館をお薦めします。

 

「メンフィスベル」の粗筋は・・・、戦時下、25回のミッションを終えた軍人は、家族の下、故郷に帰ることを許されます。勿論、殆どの者はそれだけの仕事をこなす前に亡くなってしまいます。この物語は、24回のミッションを無事に終えた10人の若者が、(一機の飛行機に10人の軍人が乗ります。彼らの飛行機の名前がメンフィスベルです。)最後のミッション(1940年前半、ナチス政権を倒すため、ドイツにある工場にミサイルを落とし、工場を破壊するという任務)を無事に終えて、故郷に帰れるかどうかという実際の話です。

 

私は、戦争映画や、暴力シーンを含む映画は殆ど見たことがありませんでした。しかし、この博物館を訪れ、そして「メンフィスベル」の映画を観て、知っておかなければならないことがあるということに気づきました。悲しいのは、こういった戦争が過去の話ではないことです。今現在も、地球上では戦争が行われているわけですから。

 

それでは、どうぞお体ご自愛下さい。

 

服部 鮎美

 

 


 

名古屋のロシア人墓地をお世話する会
 

 

 

 


あなたは平和公園の中にロシア人墓地があることを知っていますか?

 

 名古屋平和公園の北側、大きな桜の樹の下には15人のロシア人の名前が書かれているお墓があり、ロシア式によって名前、肩書き、亡くなった日付もロシア文字で刻まれている。右側には高い慰霊塔の玉の上にロシア正教の十字架があり、「1905年亡くなった兵士仲間へ神に支えられ霊を安らかに」とロシア語の文字は少し見えづらくなっている。

1991年以来、毎年4月、最初の日曜日に名古屋正教教会のゲオルギー神父さんは慰霊祭をつとめ、日本ユーラシア愛知県連合会の皆さんや大阪総領事さん及び、名古屋在住のロシア人も参加している。

 しかし、今でも、この15人については詳しいデータがない。また、遺族探しのためにも名古屋にある大学のロシア語を習う学生に声をかけている。

 

1.          どうして百年前、ロシア人が名古屋で亡くなったのか?

2.          このロシア人は何歳だったのか?

3.          亡くなった理由は何だったのか?

 

などを、調べてみたいと思った方は「名古屋のロシア人墓地をお世話する会」に参加してみませんか

名古屋ユーラシア協会愛知県連合会  多田重

大阪ロシア総領事

 

興味のある方はこちらのアドレスにメールを送ってください。

e-mail : svetlana@sd.starcat.ne.jp

 

                                                                                                                    

愛知県立大学、愛知淑徳大学のロシア語講師 ミハイロワ・スベタラーナ

 

 

チャイコフスキーの『人生』交響曲との

日ロプロジェクト

               

ミハイロワ・スヴェトラーナ

 

 

 

        

西本智実さんに提供された日本初演「ジーズニ」のチラシ  チャイコフスキーのクリンの家‐博物館に保管されている

ЖИЗНЬ」の楽譜草稿

 

 

 

 

ロシア魂を求めて

 

 現在、国際交流の中で日ロの経済・教育・芸術交流は拡大しつつあります。ソ連解体後、日本とロシアはお互いにより深い交流・関係を求めています。このような交流は音楽の分野でも実現され、その例の一つは、日本のNHK楽団において、ロシア出身のアシケナージが指揮の担当を行い、ロシアの交響楽団では日本の西本智実が指揮を担っていることです。

1956年の日ソ共同宣言から50周年記念の区切りになる今年、日本における様々な文化イベントが開催される予定です。このイベント・スケジュールの中では、5月末、西本智実指揮のロシア交響楽団が来日し、九州から北海道までの全国コンサート・ツアーを行い、チャイコフスキーの『人生』という未完成シンフォニーの日本初演をおこないます。この企画はロシアの偉大な作曲家チャイコフスキーの、未だ世界で知られていない作品を日本人にも紹介することで、日ロ文化交流にとって歴史的な意味を持つものです。日本の若手の音楽家、西本智実がチャイコフスキーの作品を取り上げ、チャイコフスキーとの新たな出会いと同時にロシアの魂の解釈を伝えてもらいます。

 

日本の指揮者の試み

クリン―モスクワ―大阪―岡山―金沢―長崎―東京―静岡―札幌―ヨーロッパの音楽祭へ)

 

西本智実は1994年大阪音楽大学作曲科を卒業し、留学のため、1996年サンクト・ペテルブルグ音楽院へ渡り、ロシアの先生から学び始めました。彼女は、留学時期が終わると日本で指揮を始めても、ロシア音楽のこの都との交流を続けてきました。1999年、西本はショスタコーヴィチ記念サンクト・ペテルブルク・フィルのメンバーによる室内管弦楽団を指揮する機会を得て、益々、世界で大活躍するロシア出身の音楽家と共に指揮する機会を増やしました。やがて同門のゲルギエフなどの協力を得て、モスクワのボリショイ交響楽団ミレニウムや、マリィンスキー劇場の提携公演による関西歌劇団公演にてチャイコフスキー『エウゲニ・オネーギン』というオペラを指揮してきました。そして20045月、西本がチャイコフスキー記念財団・ロシア交響楽団の芸術監督・首席指揮者からの依頼を受け、現在、芸術監督・首席指揮を務めるまでになりました。もともとロシアの音楽を愛する西本智実は、日本とロシア間の音楽部門を橋渡しするという大切な役割を果たしています。彼女はまずチャイコフスキー記念財団と日本との交流を前提にして、モスクワ近辺にあるチャイコフスキーの家-博物館に足を運び、作曲家が晩年に残した『人生』というシンフォニーと出会いました。クリン市にあるチャイコフスキーの家-博物館の依頼を受けた財団と西本は具体的なプロジェクトを立ち上げるというアイディアを実現する運びとなりました。つまり20065月7日にクリンの作曲家の家で演奏すること、翌日にモスクワのチャイコフスキー記念音楽ホールでも演奏する事です。そして国境を越えて、日本で発表されることまで決まりました。日本ツアーのためのチラシは日本語だけでなく、以下のように、ロシア語も取り入れて

 

Чайковский

ЖИЗНЬ

西本智実

チャイコフスキー未完成交響曲

ロシア交響楽団

日本初演ツアー2006

              

                

 

と書き込まれています。その日本ツアーは西本智実が生まれ育った大阪で最初の発表をして、岡山―金沢―長崎―東京―静岡―札幌にて演奏する予定です。西本智実は当時パイオニアだったチャイコフスキーが現在‘‘ロシアの魂‘‘として息づいているのかをも感じとりながら初演指揮に望みたいと強く思っています。といって、日ロプロジェクトが成功するよう、熱心に日本人の熱いサポートを呼びかけています

 

生活・暮らし・生命・人生・ 生涯・ 命…―ジーズニ

それぞれの少し違う意味をもつ日本語の言葉はいずれもロシア語に訳すと一つの単語で「ЖИЗНЬ」(ジーズニ)に当てはまります。その中「ジーズニ」と最もサウンド的に響き合うのが、「じんせい」です。ロシア人はこの言葉をよく口にし、挨拶にもします。「お元気ですか」というより「人生はどうですか」を意味する表現で「КАК ЖИЗНЬ?」と言います。その意味は、人生は順調に流れていますかとか、活気のある人生かどうかを確かめる挨拶です。自分の生き方を思わせる一つの手がかりの挨拶でもあります。チャイコフスキーの時代は農奴制が終わって、一人一人の人生に関する考えがどんどんと変わり始めた時でした。

芸術の世界の様々なジャンルでもこのことは、見ることが出来ます。特に188090年代あたり、芸術家は自然のことと人間の世界を見つめ、その人生というテーマを広く表現してきました。N.ゲーという画家は「真実とは何か」という絵画を提供して、人と神の点からこのテーマを展開してきました。ロシア文学と言えば、チャイコフスキーはチェーホフの作品から大きな感動を受けました。その中、『手紙』という短編を読んだチャイコフスキーは、人間関係なのか人と神の関係なのか、どちらがもっとも大切であるかというロシア的な疑問をチェーホフが鋭く考えて、やわらかく表現されたこの小説のものの見極め方の細かさに心打ったれました。

チャイコフスキーは時々「やりたいことはいっぱいあり、人生は足りないほど短いものだ」と悩み始めました。そうした多忙な中、彼はニューヨークのカーネギ・ホールで、コンサートを開催しないかと誘われ、その招待を引き受けました。18912月アメリカへ行って、5月にヨーロッパへ帰り、太洋を見つめるこの船旅の間、『ジーズニ』のシンフォニーを書き始めました。その原本の記録にはチャイコフスキーが、「神様に祝福をあたえたまえ」という祈りの言葉を書いて、その上に重ねて楽譜を書きました。作曲家は人生と、その目的、そしてどこまで続けられるのか中々分からないという疑問を抱えていた晩年でした。自らの人生はそれでいいのかどうかというような中身のシンフォニーで、もしかして答を見つけるのは無理だというということを感じて未完成のままで残したかも知りません。

この説について専門家は、はっきりした記録が無いので、『ジーズニ』は未完成のままで終わったとか、またはEs-dur交響曲へ変形されたとか、または六番交響曲に移されたことという意見に分かれています。けれども、西本智実は

 

私見では「未完」の作品は永遠に「未完」の作品であるという事です。しかし交響曲としてなぜ未完で終えたのか...という事は最も興味深い事です。実際作品としては作曲家本人は別作品に転用していますし、決して破棄したものではありません。

 

といいます。つまり、西本の見方は、未完成は物足らない、または、本質が無いということではなく、このままで結構ということであります。チャイコフスキーの音楽におけるこの作品の存在が独立した生命を持っているかどうか別として、西本は、オーケストラの演奏により、この「未完成」を完成と思い、作品の価値を感じています。西本智実はチャイコフスキー自ら指揮をしていたサンクト・ペテルブルグの劇場にて指揮をする貴重な体験や東洋の美意識を生かせながら我々にチャイコフスキーの『ジーズニ』との出会を与えてくれるのです。

 

 

 


 

涙がこぼれないように(または成仏するということ)

 

                                        加藤 史朗


 

 年を取るともう少し落ち着けるのかと思っていた。還暦を迎えたら、また疾風怒濤の中に舞い戻った。喜びももちろんないわけではない。しかし、感性は悲しみの方により強く反応する。「上を向いて歩こうよ、涙がこぼれないように」という坂本九の歌、「悲しくて悲しくって、とてもやりきれない」というフォーククルセダーズの歌。流行時には、これらの歌は何の感興も呼ばなかったが、今は切なく身に沁みる。

 

とりわけ悲しいのは親しい人々の長逝である。この一年間で、ロシア語の佐藤勇先生の奥様、ロシア史研究の先達、保田孝一先生と日南田静真先生、前の職場(麻布学園)の理事であった田辺肇先生、若い教え子の若いお母さんなどを立て続けに喪った。

 

保田孝一先生は、おろしゃ会会報の寄稿者であった。会報第4号(2000年4月刊行)に先生は、「高田屋嘉兵衛と対露外交」という論文を掲載されている。

ワールドカップ日韓共催の年、2002年8月に、清水市でロシアの女流画家ナターシャ・マクシーモワの展覧会があった。このとき、清水は、ロシアチームのホスト・シティで、日露交流のイヴェントに保田先生は引っ張りだこのお忙しさであった。なかでも先生が一番力を入れておられたのが、長年にわたり交友関係を続けてこられたナターシャ・マクシーモワの絵画展開催であった。私は、田邊三千広先生の車で、この展覧会を見に行った。最も印象に残ったのが、次頁の絵である。題は確か、「吹雪の中アルヒーフに通うY氏」であったかと思う(現在は清水の先生のお宅に飾られている、田邊三千広氏撮影)。

 

この絵のテーマは1970年代に、レニングラードの中央国立歴史文書館(現サンクト・ペテルブルクのロシア国立歴史文書館)へ吹雪をおして通い詰める先生の孤高のお姿である。本誌冒頭の明治大学の豊川先生の文章で明らかなように、今では研究者ならば、アルヒーフで仕事をするのは当たり前のことである。しかし、留学さえままならなかったソ連時代には、アルヒーフに出入り出来るのは、特権やよほどのコネがある研究者に限られていた。保田先生はアルヒーフへの道を、私財を抛つようにして、開拓されたのである。いつのことであったか、ソ連大使館で先生に会ったことがある。その折りに、「アルヒーフに自由に出入り出来るようになるまでには、家一軒建つぐらいのお金がかかりましたよ」と語っておられた。先生のこうした努力は、まさにピオネール(先駆者)というに相応しいものであった。ニコライ2世の日記をアルヒーフの中に見出され、その翻訳を朝日新聞社から出版されたことは、周知の事実である。

先生の清水のお宅の書庫には、アルヒーフで丹念に書写した資料がきちんと整理され、書棚の大きなスペースを占めている。

清水のお宅にある書庫にて(2006年春・田邊三千広氏撮影)

 

当初は、ストルイピン改革(この研究も今ではロシアの内外で人気のテーマであるが、当時ストルイピンは反動政治家として片づけられていた)や農村共同体研究の資料収集が主流であったが、晩年には日露交渉史やニコライ二世研究に全力を注がれていた。昨年秋、成蹊大学で行われたロシア史研究会大会でお会いしたのが、最後となった。謹んでご冥福をお祈りいたします。

 

悲しいのは人の死ばかりではない。現に今、生き生きと活動している「組織organisme」の死もまた悲しい。私たちの愛知県立大学も来年度から独立法人化される。「独立」は、良いことであろう。だが、衝撃を受けたのは、今年の3月に発表された「基本計画」で、昼夜開講制の廃止が盛り込まれていたことである。平成21年度をもって夜間主学生の募集停止を決めたというのである。

 

県立大学の学部夜間教育は、40年以上の歴史を有する。瑞穂区高田町のキャンパスで行われていた夜間第二部の伝統は、1998年に長久手キャンパスに移転してから、昼夜開講制というシステムの中に生き続けてきた。夜間主の授業は、熱心な学生が多く、やりがいがある。とりわけ総合演習などの授業形態では、様々な年齢層、さまざま職業の学生がいて、実に活発な討論が成り立つ。こういう教育の場を県は無くそうというのだ。

 

私は日本の教育行政の欠点は、「啓蒙」の呪縛から逃れられないことだと思っている。啓蒙の原語にあたるenlightenmentとは、本来、天賦の理性を各人が自ずから光り輝かせることであった。The Concise Oxford Dictionaryによれば、精神的な覚醒の意味で用い、例として仏教において輪廻転生の呪縛から自由になることが挙げてある。まさに成仏するということ」ではないか!しかし、この言葉が明治日本に持ち込まれ、「啓蒙」という訳語を与えられたとき、お節介な言葉としての運命が決まった。それは、権威あるものが無知蒙昧な輩を教え、指導するという意味で使われる。だから「教育」は、強迫観念になりやすい。強迫観念にとらわれた教育ほど、厄介なものはない。ロシアでも事情は似ている。帝政ロシアの文部省は、文字通り「啓蒙省」であり、政府という語は、「矯正する」という動詞に由来する言葉であらわす。最近、増刷を重ねている落合博満の著書『コーチング』(ダイヤモンド社)のコピーには、「教えるのではない、見ているだけでいい」とある。落合の発言は、猛ノックなど、密度の濃い練習で知られる人物のものだけに、示唆に富んでいる。啓蒙=教育=強迫の神経衰弱的な連鎖をどこかで断ち切らなければならない。鍵はおそらく「成仏するということ」の中にあるのではないだろうか。

 

今年春に県の「基本方針」が公開されてから、この半年間、有志が中心になって、こうした県の決定は、「有司専制である」と訴えて来た。有司とは、官僚のことであり、自由民権運動が薩長藩閥政治を批判した時の言葉である。何人かの同僚、学生、卒業生などからなる「学部夜間教育の存続を求める会」を作り、県会に陳情したり、公開討論会を開いたりしてきた。一万人以上の方から署名もいただいた。この間、実際に教場まで足を運び、学部夜間教育の実態を自分の目で確かめたのは、民主党の高木ひろし議員一人だけであった。高木議員のご尽力で、民主党の議員二名に無所属議員二名が紹介議員となり、われわれの夜間主存続の願いは、正式な請願として9月21日に県議会議長宛に提出された。しかし、10月4日(水)午後1時から行われた県議会の総務県民委員会において、残念ながら不採択と決まった。同委員会の議場には、委員として13名の議員のほか、70名前後の県職員、一般傍聴者8人などが参集。まず、請願紹介者として、民主党議員が請願を支持する発言を行い、その後、請願採択に反対する自民党、公明党の議員が発言。この間、一切討論は行われず、すぐに採決となった。その結果、請願に賛成する委員は4名で、過半数に達せず、請願は不採択となった次第である。傍聴定員は、10人であるが、5分遅れた学生は、入室を認められなかった。これをもって、有志団体としての運動には一応の終止符を打つことになった。しかし、何という悲しいことだろう。現場を見ずに、机上の計算で教育の場を改変するということがあって良いのだろうか。「モノ作り」を唱っている愛知県は、実は「ヒト作り」の県ではなく、知を愛するという有り難い名を帯びながら、「哲人政治」の対極ともいうべき「有司専制」の県ではないだろうか。

あまり残された時間はないけれども、「涙がこぼれないように」して、私なりにこうした現実に立ち向かって見たいと思っている。蟷螂の斧の故事に習って。

 

後生の人々のために、私たちの主張をまとめておく。

 

@十分な議論もなく、40年以上にわたる学部夜間教育の伝統に終止符を打つのは暴挙である。「夜間主コース廃止」を盛り込んだ「基本計画」は、夜間の授業に出て、自分の目でその実態を確かめたこともない人々が統計の恣意的な解釈によって立案したものである。

 

A机上で作られた「基本計画」は、夜間主の実態をしっかりと把握していない。勤労学生や社会人の割合が減っているというが、社会人入試で入ったものだけが「勤労学生」や「社会人」ではない。一般入試で入ってきた学生もほとんどが昼間働いている。昼間主に比べ社会人の割合が多いことは言うまでもない。編入試験で入ってくる学生の多くも社会人である。しかも入試倍率は、ここ5年間は5倍から7倍で、発足当初の2.8倍を大きく上回っている。格差社会の進展の中でニーズは衰えていない。

 

B机上で作られた「基本計画」は、グローバル化の真っ直中にある愛知県の真のニーズを見逃している。「物づくり」を掲げる愛知県において、グローバル化は、地域にまで浸透している(例:保見団地)。今や愛知県は一刻も早く、この時代の激流のなかで「人づくり」に取り組まねばならない。語学教育をはじめとする多文化共生教育を最も効率的に実行できるのが、愛知県立大学の昼夜開講制である。

 

C高齢化社会の到来のなかで、多文化共生は、世代間でも必要である。夜間主コースで老壮青が机を並べ、学習していることの意味は、大きい。核家族のなかで孤立する若者が、高齢者と真に出会っている。

 

D県の夜間主廃止の背景にある財務の観点は、合理性に欠ける。多文化共生や生涯教育に対応した施策を新たに行うなら、夜間主廃止によって生まれた余剰を遙かに上回る新規投資が必要となる。また「基本計画」は夜間主を廃止する一方で、大学院の拡充を唱えるが、現在、大学院に進んでいるものの多くが夜間主出身である。(20061021日)

 

 

9月13日午後6時から県立大学・学術センターで行われた「公開討論会」の模様を伝える中日新聞朝刊(9月14日付)

名古屋テレビ、東海テレビなどのニュース番組でも報道された。

 

中日新聞の加藤寛太記者が学生に呼びかけ、座談会が行われた。20061114日付け朝刊に掲載

 

 

おろしゃ 会」会報 第13号

2006年10月21日発行)

 

発行

愛知県立大学「おろしゃ会」

480-1198愛知県愛知郡長久手町熊張茨ヶ廻間1552-3

学生会館D-202(代表・安藤由美)

http://www.tosp.co.jp/i.asp?i=orosiya

 

発行責任者

加藤史朗(愛知県立大学外国語学部)

480-1198愛知県愛知郡長久手町熊張茨ヶ廻間1552-3

orosia1999@yahoo.co.jp

/~kshiro/orosia.html