おろしゃ会会報 第14号 2007年 |
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クジマ・ペトロフ=ヴォトキンによる生神女のイコン(1915年ごろ、ロシア美術館蔵) おろしゃ会会長に就任して 塚田 麻美 (愛知県立大学外国語学部中国学科4年) 私がロシア語を勉強し始めて三度目の春を迎えました。ロシア語はなかなか上達しない私ですが、今年度のおろしゃ会会長を務めさせていただくことになりました。これまで「おろしゃ会」の活動を通してたくさんの方々にお会いすることができ、私の学生生活は確実に豊かになったと思います。このような大役は不慣れなものですから、不行き届きがあるかもしれませんが、学生生活を実り多いものにしてくれた「おろしゃ会」に感謝しつつ、精一杯努めさせていただきます。すでに新入生にも加わっていただきとても嬉しく感じております。ご意見、ご提案がありましたらお気軽にご連絡ください。最後にこれからの活動が先生方、先輩方、そして私達学生のご縁を結ぶ暖かいものになることを祈って就任の挨拶とさせていただきます。 5月1日 長久手にて
おろしゃ会会長新旧交代の儀(2007年2月9日)左が旧会長の安藤由美さん、右が新会長の塚田麻美さん 仲をとりもつ田邊先生とOB萩野君 クラスノヤルスク便り
幅 亮子(名古屋大学大学院博士課程前期在籍)
おろしゃ会会員の幅亮子さんは、2006年10月から2007年8月までシベリア連邦大学(旧クラスノヤルスク国立総合大学などが再編されて本年1月に発足)で日本語の講師を務めてこられました。この大学は、現在、愛知県立大学大学院に留学中のマリーナ・ロマエヴァさんの母校です。幅さんが折々寄せて下さった便りを掲載することにいたします。紙幅の都合上、本号では、3月末までです。残りは次号で。(加藤) 到着早々の幅さん、クラスノヤルスク大学本館のホールにて。天井に人工衛星の模型が展示してある 街のカフェでチャイを飲み、ブリヌイを食べる(街を案内してくれた学生が撮影) クラスノヤルスク大学のスタッフと(クラスノヤルスク大学の下記サイトから) http://www.lan.krasu.ru/depts/for_lang/east/
加藤先生 こちらに来た当初はベッドもない、テレビもない、熱いお湯が出ないーと精神的にもまいっていましたが、最近になり少しずつ環境が整ってきました。整ってきた、というより、いろんな人が手をさしのべてくれるので、それに助けられています。 日本映画祭の記事を掲載したクラスノヤルスク国立総合大学の新聞『大学生活』(2006年11月28日付) 写真中央が幅さん リョウカ・ハバ と記されている 2006年12月9日 加藤先生 私のメールの件はOKです。恥ずかしい気もしますが・・・。 加藤彩美ちゃんからメールをもらいました。4年生の学生は彩美ちゃんと連絡をとっているそうで、メール・アドレスを教えてもらいました。彩美ちゃんも春休みにクラスノヤルスクに行きたいと言っていたので、今から楽しみです。
2006年12月25日 寮から大学に至る道(12月25日撮影) クラスノヤルスクでは11月の半ば過ぎから急に冷え込み、12月の頭までは連日マイナス20度でしたが、ここ最近は暖かい日が続いています。毎日、夕方4時を過ぎると日が傾き始め、朝は9時ごろにようやく明るくなってきます。夜は長いですが、毎日授業の準備に追われ、なかなか自分の時間が持てません。 教師という仕事は初めてで、本当に毎日が戦いのようです。毎日帰りに林の中を歩きながら(大学までは林の中を50分ほど歩きます)、ため息をつき、日本にいたら今ごろ何をしていたかな、今日の授業は楽しかったな、いや、今日は準備不足だった、ちゃんと準備しないと、明日はどの課をやろうか、今日はインターネットが接続できなかったけど明日はどうかな、などとあれこれ考えています。考えながらも足元に注意しないと、踏み固まった雪に足をとられてしまうので、なかなか大変で50分の道のりもあっという間です。 5年生の学生たちはロシア語ができない私を心配して、いろいろ面倒をみてくれます。以前愛知の会のみなさんがクラスノヤルスクへいらした際の写真も見せてもらいました。その時、日本の歌を歌った学生をおぼえていらっしゃいますか。彼女は歌のお礼に半被をもらったと言ってその時の写真を見せてくれました。彼女―アーニャはロシア人の友達を紹介してくれ、彼女たちは毎週、クラスノヤルスクのあちこちへ私を連れて行ってくれます。彼女たち―ジェーニャとワーリャは日本語が話せませんが、私に理解できるよう、ゆっくりと何度も話してくれます。このシベリアの寒さの中で、同世代の友達の優しさは本当に温かいです。もっとロシア語が話せたらもっと仲良くなれるのに、とは思うのですが、なかなか上達しません。コツコツがんばっています。 授業に関しては、やはり難しいです。意欲がある学生はどんどん質問して、どんどん吸収していくのに、全然授業に来ない学生や、来ても全然聞いていない学生には、どのように対応していいのか、毎日頭を痛めています。特に1つのグループは、15人いるのですが、今までで2回出席者がゼロということがありました。私の授業がおもしろくないのかな、と悩んでしまいます。他の日本語の先生−ターヤ先生に相談したところ、ターヤ先生も同じ悩みをもっていました。いつもターヤ先生とふたりで相談し合っています。中にはまだ一度も授業に来ていない学生も数人いるようで、おそらくザチョットと試験の時に初めて顔を合わせることになりそうです。ザチョットは12月25日から、試験は年明けに始まります。12月の半ばになって、急に授業に来る学生の数が増えました。もちろん学生の多くはとても熱心です。授業中はいろいろな話 をしてくれます。最初の授業で、「私はロシア語がまったくわかりませんから、日本語で話してください」と言ったためか、私に用事があるときには前もってメモを用意して、一生懸命話してくれます。22日の今学期最後の授業の時には、「ええ終わり?寂しい...けど冬休みに会いましょう!」と言ってくれました。とてもかわいい学生たちです。 11月17日−19日の夜には日本映画祭が街の美術館のホールでありました。上映された映画は『森の学校』『風花』『からっ風野郎』の3本です。私は『風花』以外は観ていないので、一観客としてもとても楽しみにしていました。上映の前にはユーリャ先生と私で開会の言葉や映画の紹介をしました。300人収容のホールは満席、通路もすし詰め状態で、外にも人があふれていいたのでおそらく連日400人以上は集まっていたのではないかと思います。無料開放のイベントだったので、正確な数はわからないのが残念です。映画の反応もよく、雑誌やテレビのインタビューもあり、大成功でした。 12月29日には日本語の学生による新年のパーティー(学生たちは「忘年会」と呼んでいます)をする予定です。忘年会の一番の目玉は日本語の創作劇です。ここ最近はその劇のため、授業後も学生たちと集まって練習をしています。セリフのすべてが日本語で、天狗や雪女や河童が登場するという、なかなかおもしろい劇です。台本もよく考えられていて感心しました。劇のあとは、折り紙の早折り競争や日本の歌を歌ったりして過ごす予定です。とても楽しみにしています。 あっという間に12月になってしまいました。もう3回目の給料をもらいました。明日が給料日と聞くと、えっもう、と驚いてしまいます。給料は目の前でお金を数えて直接手渡しなので、働いた実感があって嬉しいです。このままあっという間にこちらでの生活が終わってしまうのかと思うと、もっとこっちにいたいような、はやく日本の空気を吸いたいような、複雑な気持ちです。しかし必ず何らかのものを得て、帰りたいと思っています。 日本のお正月が少し恋しいです。その分、こちらでの新年の祭りを満喫したいと思います。みなさまもよいお年をお迎えください。 クラスノヤルスクより 幅 亮子 一番冷え込んだ日に 寮の窓から外を眺める 大学の建物 校舎の落書き 2006年12月27日 幅 亮子 2006年12月29日 忘年会でユーリヤ先生と あけましておめでとうございます。
С Новым годом! 1月雑記
日本人墓地(2006年10月撮影) 1月6日(土)
幅 亮子 1月14日(日)
12時にлокомотивのバス停で待ち合わせだったのに、遅刻してしまいました。学生2人+学生の彼氏はすでに到着していて、予定よりバスが早く着いたT先生と一緒にバス停で私を待ってくれていました。この寒さの中ですから、本当に本当に申し訳なく思っています。T先生、学生たち、本当にごめんなさい。 カラウリナヤの丘から眺めたクラスノヤスク市
1月27日(土) ユーリャ先生の家でお寿司パーティーをしました。13時に先生の家に集合。メンバーは学生3人、私、ユーリャ先生とそのご主人。メニューは親子丼(のご飯なしの、上の具だけ)、みそ汁、巻き寿司、おもち、зимний салат。巻き寿司のために、学生が例のкитайский городでноль для сушиを買ってきてくれました。韓国の海苔で、表面に塩がふってあり、油っぽいにおいがしました。あとは中身用にアボカドとカニカマ、きゅうり、форель(辞書で見たら「ブラウントラウト」とありました。見た目はサーモンそっくり)を用意しました。みんなでああでもない、こうでもないと試行錯誤しながら作りました。私よりも学生のほうが慣れた手つきで、「本当に日本人かなぁ?」と言われてしまいました。確かに私の作ったものは、具も片寄っていてお世辞にもおいしそうではありません。おとなしく学生たちが作るのを見ていました。おもちは大好評でした。みんな「本当に米から作ったの?米だけ?」と不思議がっていました。食べるときはもちろんお箸でいただきましたが、箸の練習で盛り上がり、зимний салатまで箸で食べることになりました。罰ゲームのようでした。巻き寿司なんてうまくできるのかと不安でしたが、ユーリャ先生が「すしのこ」を持っていた!うえ、Форельがおいしくて、見た目はともかく、以前友達の誕生日にデリバリーを頼んだクラスノヤルスクのすし屋よりおいしかったです。この作ったすしを売ったらいくらになるか、と学生と計算してしまいました。 ヨールカ(クリスマスツリー) 氷の彫刻と子どもたち ユーリャ先生の家で行ったお寿司パーティー 2月雑記
【モスクワ=内藤泰朗】ロシアの国営テレビ、第1チャンネルは2日、同国中部のシベリアで、黄色やオレンジ色のなぞの雪が広範囲にわたって降り、住民たちの一部が体調の不調を訴えて入院する騒ぎとなっていると報じた。 それによると、黄色い雪は1日から、オムスクやトムスク、チュメニ、ノボシビリスクなどシベリア各地で観測され、幅数キロメートル、長さ100キロメートルにわたる帯状の広がりをみせた。このためロシアの保健衛生当局は、雪のサンプルを採取して調べているが、2日の段階で人体に有毒な化学物質は見つかっていないという。
2月14日(水) 学生にバレンタインチョコをもらいました。とはいっても、ロシアではバレンタインデーを祝わないので、もちろん日本のバレンタインにちなんで、です。私はと言えば、バレンタインをすっかり忘れていました。3日前までは覚えていて、チョコの用意をしないと、と考えていたのですが。男性は1年生に1人、2年生に2人、後は5年生に3人(まだ2、3回しか会ったことがない)いるのですが、今日は5年生の授業だけで、しかも女の子二人しかいなかったので、次会った時に渡すことにしました。 「バレンタインは女性が男性にチョコをあげる。でも、ホワイトデーにお返しをする男性は少ない」という話を学生としていると、「女の子ばかりがプレゼントするなんて、だめ!」と学生。こちらに来て思ったのですが、プレゼント好きな人が多いようで「日本では、そんなにプレゼントをもらわないなぁ」と言ったらびっくりされました。ここでは、「リョウコ、こんなにたくさんのプレゼント、日本に持って帰れる?あ、送ればいっか。手伝うから大丈夫!」と友達に言われるほど、私もプレゼントをもらっています。 2月15日(木) 2年生の学生にチョコを渡して、バレンタインの話をしました。そのチョコというのは、昨日スーパーで買ったものでカラフルなかわいい袋に入っていて、一目ぼれで買ってしまったのですが、カッサで値段を見て驚きました。商品棚には15ルーブルと書かれていたのに、75.80ルーブル。普通の板チョコが20ルーブルなのに、一口サイズが5個入りでこの値段とは。外国製の新製品は高いなあと思いながら、結局買いました。こちらでは値段が書かれていないことが多いので不便です。2年生が喜んでくれたから、ちょっと高かったけど、まあいいか。(後日談:帰国後、日本のスーパーで同じチョコレートを発見してがっかり。400円ぐらいだったので、値段は同じぐらい。) 2月17日(土) 気付いたらマースレニッツァ(масленица)です。とはいっても、私のイメージは「ブリヌィを焼いて食べる」。学生に聞いても「とにかくブリヌィなんです」ということでした。丸いブリヌィは太陽を表すとか。私のブリヌィ好きを知っている1年生の学生たちが、パーティーに誘ってくれました。 授業後すぐにアーニャの家に行き、アーニャと一緒に巻き寿司を作りました。韓国のり(塩と油がぬってあるもの)と日本と同じのり(中国製、でも乾燥剤が日本語表記だったので、日本にも輸出しているよう)があったのですが、アーニャが「韓国のりのほうがおいしい」と言うので、結局韓国のりを使いました。もともと素人がつくるもの、どんどん日本の寿司ではなくなっていきます。 1年生のターヤはママと一緒にピロシキとブリヌィを焼いて、あつあつの物を持ってきてくれました。 寿司(のようなもの)もピロシキもブリヌィもあるし、あとはオキザを待つだけ、なのですが、オキザから道に迷ったとの電話が。オキザはブリヌィのためにスメタナを買ってきてくれたのですが、到着したときにはスメタナがシャーベットになっていました。 ブリヌィは普通薄く焼くそうですが、伝統的なものは分厚くてふわふわしているとか。ターヤのブリヌィも厚いものでした。とてもおいしかったです。寿司も、多く作りすぎたかなと思っていましたが、なかなか好評で完食しました。 メモ:帰り際、アーニャにドラマ『王様のレストラン』と岩井俊二監督の『love letter』のDVDをやいてもらう。またアーニャのビデオライブラリーが増えていた。こちらに来てロシア語の「海賊」という単語を覚えた。 2月18日(日) 月曜の1年生の授業の準備のため、日曜なのにいつも忙しい。 友達のワーリャとジェーニャからメール(смс)がありました。простите меня(ごめん)。今日はпрощённое воскресеньеです。謝罪の主日、масленицаの最後の日曜日です。学生曰く「とにかく、謝る日」。返事はбог простит(神は赦す)。 そんな中、ロマンさん(クラスノヤルスクのテレビ局で働いているジャーナリストの男性)が映画に誘ってくれました。ニコラス・ケイジの『ゴースト・ライダー』。日本にいたら絶対観ないタイプの映画ですが、食わず嫌いはいけないので、観に行ってきました。 誘ってくれたロマンさんには申し訳ありませんが、観終わったあと、ぐったりしました。でも、ロマンさんも「子どもの映画だ」と言っていたので、まあいいか。家にこもっているのは寂しいので、なんでも、こうやって誘ってくれるのは嬉しいです。 2月19日(月) 授業は2時間目に5年生。その後、5年生は英語の授業だったのですが、英語の先生は他のクラスの授業がある、というわけのわからない理由から、映画を観ることになったそうです。で、なぜか私も一緒に観ました。 ジョン・ウィリアムズの映画で、タイトルは忘れてしまったのですが、絵画の中に入りこむ話でした。 英語の授業なので、もちろん英語のみでした。学生は、明らかに私より理解しているようで、日本語も英語もなんてエライなあ・・と感心してしまいました。 友達も、「子ども(6歳)には来年から英語を習わせる!!」とはりきっていました。やっぱり英語なんですね。 2月20日(火) 昨日の朝の話ですが、冷蔵庫を開けると、仕切りのガラス板が割れていました。全然気付きませんでした。お隣さんのオーリャ(中国人)に聞くと「いつ割ったの?」と逆に聞かれました。私が割ったんじゃないってば。一体誰がいつ割ったのでしょうか。結局真相はわからないまま、私の部屋にある棚のガラス板とサイズが同じぐらいだったので、それと交換して、ガラス事件は終わりました。結構分厚いガラスなので、私もオーリャも割ったら気付くと思うのですが・・・謎が残ります。 今日はそのガラスを捨てに行きました。捨てに行く、といっても、玄関を出て10mほどのところにあるゴミ捨て場に持っていくだけです。コンテナのようなものがあるので、ガラスも燃えるゴミも缶もすべてそこに入れます。時々、ゴミをあさっている人がいますが、彼らはまだ使えるものを探しているそうです。野良犬やカラスもよくいます。 ダツィシェンさん(アジア史の先生)と昨日帰りの林の中で会った時、「16時から学生とサッカーをするから見に来い」と言っていたので、サッカーのコートに行ってみるとダツィシェンさんが見当たらない。結局会えないまま部屋に帰ると、玄関のドアにEMSのお知らせが貼ってありました。「15:30に荷物を持ってきたけど不在だったので、郵便局まで取りに来い」というものでした。私がサッカーを見に部屋を出たのは16時ちょうどでした。15:30には部屋にいたはずですが・・・とにかく、無事EMSが着いたのでよかった。知らない住所の郵便局だったので、学生にお願いして一緒に行くことにしました。2月13日に日本から送ってもらったので、ちょうど1週間。でも11月末に送ってもらったSAL便はまだ来ません。いまどこにあるのでしょうか。 2月23日(金)祝日:祖国防衛の日、男性の日 今日は祝日で休み。1年生のアーニャさんからメールがあり、13時に友達と会うからリョウコもおいで、とのこと。クラスノヤルスク一大きい映画館ルチ(луч)で待ち合わせをしました。いつものことですが、やはり待たされます。アーニャは10分遅れ、その友達は1時間遅れでやってきました。これがロシア時間なのかな・・・ ルチの入り口では男性のみにカードを配っていましたが、私もほしかったので無理やりもらいました。 ルチの2階でパフェを食べながら、おしゃべりをしました。アーニャの友達のユーリャは幼稚園の先生だそう。あと英語も教えているとか。ちなみにパフェはおいしかったのですが、みかんが薄皮付きのまま入っていました。そういえば、こちらではりんごも洋ナシも皮付きのまま食べるなぁ。 2月24日(土) 5年生の授業中に、「まだクラスノヤルスクの博物館に行ったことがない」と言ったら、「じゃ、是非行きましょう」という話になり、行って来ました。以前から気になっていた、市役所の横にあるエジプトっぽい絵が描かれた博物館に。ユーリャ先生も一緒です(あれ、授業は?)。エジプトの絵は単なるデザインで、エジプトの展示があるわけではないそう。クラスノヤルスク地方の博物館です。 その前に、5年生のポリナに頼んで、一緒に郵便局までEMSを取りに行きました。ポリナも知らない郵便局だったので、ポリナの彼氏も一緒に探してくれました。郵便局に行って、窓口に並び(常に行列、しかも窓口のおばちゃんは必ずマイペース)10分ほど待ってやっと私たちの番がくると、EMSは隣の部屋だ、と。郵便局を一回出て、同じ建物の東側の入り口に「EMS」と張り紙をしたドアがありました。中に入ると、部屋の中にEMSが乱雑に詰まれています。名前を言うと、すぐ渡してくれました。サインはよくわからない紙切れに名前を書くだけでパスポートもいりませんでした。日本語が書かれた箱が他にも積まれていて、何だか日本が恋しくなりました。 その後、私は大学へ行き、ポリナと彼氏のマキシムくんは一緒に食事に行く、ということで一旦別れました。 大学でユーリャ先生の授業が終わるのを待ち、終わった頃にポリナとマキシムくんもやってきて、4人で博物館へ向かいました。博物館では5年生イラとオーリャが待っていました。 ヤクート人やエヴェンキなどの民族衣装やトナカイの皮、角でつくられた住居、でっかいマンモスの骨やシベリアの動物たちの剥製、ソヴィエト時代のよくわからない展示・・・じっくり見て回ると1日でもいられそうな量の展示品でした。1つのマネキンが私の中学の同級生にそっくりだったので、一緒に記念撮影をしました。 剥製を見ていて驚いたことがあります。剥製は、ただ並べてあるだけではなく、自然に近いように木や草を作って、その上にポーズ付きで飾られているのですが、たしか狼の展示では、狩りをしている様子が再現されていました。鳥を捕まえていたのですが、いままさに鳥に食いかかったところで、羽を散らした鳥が狼たちの口元に、というシーンが、忠実に再現されていました。鳥好きとしては目を覆いたくなる展示でした。 その日は花嫁・花婿が来ていました。モスクワでも街中でドレス姿の花嫁・花婿をよく見かけましたが、博物館で見たのは初めてです。 メモ:今週はずっと風が強かった。今日は特にひどくて、鞄が飛ばされそうなほど。シベリアではいつもこの時期風が強いとか。天気も変わりやすい。 2月26日(月) 1時間目1年生の授業のテーマは「町を案内する」。1年生は授業に積極的に参加してくれるのでおもしろい。町にあるものを聞くと、病院、スーパー、本屋、花屋・・・たくさんの答えが返ってきます。ある学生が「病院の近くにあるものは日本語で何ですか」と聞くので、よく話を聞くと、遺体の安置所のよう。予想外の答えが返ってきておもしろいです。 授業が終わって食堂でお昼を食べていると、同じ寮に住んでいるダツィシェンに会いました。ダツィシェンさんも授業が終わったから、一緒に帰ろうということに。「どうして家に帰るのに食べるんだ。家で作ればいいのに」と言われてしまいました。 いつも食堂に来て思うのですが、学生、特に女の子の食べる量がものすごく少ないように感じます。5年のポリナはいつもライス(日本の感覚で言ったらSライスより一回り少ないぐらい)とサラダ。イラもサラダとオムレツ(たまご1個分ぐらい)。いつも私はみんなより一皿多めに食べています。みんな足りているのかな・・・それとも私が大食いなのかな・・・ 2月27日(火) ダツィシェンさんから、教育大学で授業があるからよかったら一緒に来ないか、と電話がありました。今から30分後に出発するとのこと。その電話があったのが朝9時半で、実はまだ寝ていたので、またの機会にご一緒することにしました。 インターネットをしに山の大学(本部)に行くと、コート預け場は大混乱。しまった、12時15分、昼休み。この時間は3時間目の授業に来た学生と、帰る学生とで混雑するんだった、時間をずらすべきだった。とにかく、列と思われるところに並ぶと、学生たちは列なんてお構いなしで、我先に押し合っていました。こんなに混雑しているのに、コートを受け取るおばちゃんは一人。しかも、やっぱり急がない。しかも、どうやら空いている場所がないらしい。でもインターネットセンターは、1月からなぜかコート持ち込み禁止になっています。入り口にコートを掛ける場所があるのに、「コートは預けてください!」と掲示が。一度、コートを持って入ったら怒られました。しかし、厚手のジャケットのようなものを椅子に掛けてパソコンを使っている学生もいます。コートとジャケットの区別が難しいところです。 本部には預ける場所があるからいいのですが、私たちの言語学部にはありません。それなのに、そこのパソコン部屋も今週からコート禁止になりました。ここで授業があるときには、学生はコートを隠し、人目を気にして部屋に入ります。コート禁止令は何が目的なのか、わかりません。 (補足:禁止令から1週間後、言語学部のパソコン部屋入り口にコート掛けが設置されました。学生はそこにコートを掛けています。でも入り口には「禁止」の張り紙が。どうしたらいいのでしょう。) やっとコートを預けた、と思っても、インターネットセンターにはパソコンは10台ほどしかないので、空いていないこともしばしばです。また待ちます。こっちに来てから待たされることには慣れました。その間にも、コートを持って入ろうとした学生が追い返されていました。クロークがもういっぱいなんです、と言ってもダメでした。 インターネットは、先生は無料と言われていたのですが、やっぱりどこのパソコンも有料でした。右下に残高が表示されるのですが、減り方がえらい速い日と、そうでない日があるように感じるのは気のせいでしょうか。時々、表示されないので、いつ電源が落ちるかとハラハラします。(お金がなくなると、保存する前に問答無用で電源を落とされます) あるとき、もうすぐお金が終わるから追加しようと2つ隣の部屋に払いに行くと、昼ごはんの時間でもないのに、鍵が閉まっています。ノックしても返事がありません。仕方なく待っていると、15分後、中から女性が出てきて、どこかに行ってしまいました。鍵は開いていたので中に入ると、カッサにちゃんと男性が座っています。一体何だったのでしょうか。 やっとパソコンが空いて、メールやニュースを見ると、ネットの速度が遅い遅い。どうしようもありませんが、有料でこんなに遅いと損した気になってしまいます。写真などはさっさとフラッシュメモリに保存して、家でゆっくり見ています。 帰りのコート受け取りにも待たされ、もみくちゃにされました。 冷蔵庫に何もないので、スーパーに行こうと思ったのですが・・ 1つは林(しかも坂道)を20分ほど歩いたところにあるスーパー、クラースヌィ・ヤール(Красный
яр)。値段は普通。でも品揃えはイマイチ。 もう1つはバスで10分ほどのシネコン付き大型スーパー、ラムストール(Рамстор)。値段は少し高い。品物は多い。 天気もいいし、散歩がてら、と思って林のほうのクラースヌィ・ヤールに行くことにしました。しかし、着いて愕然、臨時休業。24時間営業のはずなのに。仕方がないので、結局そこからバスに乗って大きい方のスーパーへ行きました。こんなことなら、はじめからラムストールに行けばよかった。 ラムストールから帰ると、本格的に雪が降り始めました。朝はあんなにいい天気だったのに。寮の入り口の掲示を見ると、私の部屋に手紙がきています。荷物を郵便局まで取りに来い、という通知でした。おそらく11月末に出したSAL便が届いたのでしょう。しかし郵便局の住所がありません。しかも私の名前はРуико(ルイコ)でした。無事届いたのはいいが、受け取りにまた苦労しそうな予感。 2月28日(水) 日本の研究機関から日本人女性の方がいらっしゃいました。14時ごろから30分ほど日本語のユーリャ先生、ターヤ先生や講座主任の先生たちとお話をして、帰っていかれました。シベリアの日本語教育について研究されているそうです。 クラスノヤルスクでは、卒業生は日本語を生かした仕事に就くことが少ない(そもそも日本語の仕事が少ない)という話から、「では、ここではただ趣味のようなものですね」と言われて、考えてしまいました。学生ともそのことについて話したのですが、まぁ趣味かもね、と言っていました。確かにそうかもしれません。でも、ただ日本に興味があって、それだけの理由で日本語を勉強していてもいいですよね。直接仕事に結びつかなくても、外国語を学ぶことはマイナスにはなりません。 帰りに、ユーリャ先生にお願いして荷物を受け取りに郵便局へ行きました。寮の近くの郵便局へ行くと、うちじゃないと言われ、じゃどこの郵便局か訪ねると、知らない、と。調べて!とお願いして、またユーリャ先生はご主人にも電話して調べてくれました。どうやら大通り沿いの郵便局らしい。バスに乗って、やっと探し当て、無事荷物を受け取ることができました。しかし郵便局の人の荷物の扱い方はひどかった。日本だったら苦情どころじゃありません。荷物を放り投げていました。ダンボールはぐしゃぐしゃに破られていて、原型を辛うじて保っている状態。中にはいっていたあられは粉に。わさびの箱も開けられ、箱と中身が別々になっていました。重かったし、この箱の状態では抱えて持っていけないのでタクシーで帰りました。タクシーではなぜか助手席にも男性が座っていて、寮までの10分間ぐらいをずっと話しかけてきました。何歳か、どこから来たのか、から、結婚しているのか、などなど。若いおにーちゃんだったので、少し警戒。怖い目にあったことはありませんが、やっぱりひとりでタクシーは少し怖いです。でもこのお兄さんは荷物を寮の入り口まで運んでくれました。いい人でよかった。 3月雑記 ・
日本では桜が咲いたという話を聞きましたが、こちらは相変わらずマイナスの世界です。でもマイナス10度から15度ぐらいなので、そんなに寒くありません。よく雪も降るし、まだまだ春は遠いです。(3月1日) ・
「まだまだ春は遠い」と思っていたら、15日から一気に暖かくなり、連日プラスの温度になりました(15日15時に町の温度計を見たらプラス6度、20日は14時でプラス6度でした)。人通りが多いところや、街中ではもうほとんど雪がありません。そして、もうみんな帽子をかぶっていません。コートもダウンを着ている人は少なくなりました。でも夜はさすがに少し寒いです。(3月20日) ・
10ルーブル硬貨と2ルーブル硬貨コレクションが25枚を超えました。10ルーブルは普通、紙幣なのですが、時々コインがあります。金縁でロシアの町が描いてあってとてもきれいなので、いつも使わずに集めています。2ルーブルも普通のコインと記念コインがあって、ガガーリンのコインが特にお気に入りです。2月分の給料は10ルーブル硬貨が混じっていて、給料日に食堂に行くと早速お釣りで10ルーブル硬貨をもらいました。他の先生が普通に使っているのを見ると、何だかもったいないように感じてしまいます。 ・
以前バスに乗っていて、乗客が少なかったのと夜遅かったために、途中でバスを降りさせられたことがありました。「お金返すから他のバスに乗って」と。内心腹が立ったのですが、その時のお金に記念硬貨が2枚も入っていたのでご機嫌になり、「まあいいか」とまたバスを待ちました。でも、そんな時に限って全然バスが来ない。しかも12月の寒い夜10時。結局20分ほど待ってバスが来ました。私の寮のバス停、通称ゴス(国立大)は、終点の1つ手前で、夜は最後まで乗る人が少ないので、よく途中で降ろされます。いまはだいぶ町の地理がわかってきたので乗り換えも大丈夫ですが、夜に急に知らないバス停で降ろされるなんて、日本では考えられないですよね。「日本では・・」という基準はこちらでは通用しないので、そんな経験も楽しもうと思います。 3月1日(木) 3月になったことに気が付かずに、授業をしていてやっと気付きました。あっという間です。 授業後、時間割を確認していたら、男性が講座にやってきました。クラスノヤルスクで日本車のパーツを扱う会社の社長さん、ダモフさんでした。クラスノヤルスクで一番おいしい寿司バー「七人の侍」に連れて行ってくれるとのこと。 早速、今夜行く約束をしました。 店に入ると、ちゃんとカウンターがある!! 席は普通のテーブル席でしたが、目の前でにぎってくれました。 ビールはアサヒの黒ビール、あとは大好きな熱燗。 巻き寿司はいろんなバリエーションがあってとてもおもしろかったです。 以前、友達の誕生日でデリバリー寿司を頼んだ時は、巻き寿司の天ぷらやクリームチーズのようなもの(フィラデルフィアチーズと書いてありました)が入った巻き寿司があって、どれもおいしくて驚きました。 「七人の侍」も、クラスノヤルスク一だけあって、どれもおいしかったです。 (「七人の侍」がクラスノヤルスク一おいしいというのは、他の学生も言っていました) 最近、落ち込むことが多くてつらかったのですが、おいしいものを食べて、楽しく話して、とてもご機嫌な夜でした。3月も頑張ろう。 3月2日(金) 今日から4年生の授業が始まります。今日が最初の授業の時は、学生にあらかじめプリントを渡してコピーをお願いできないので、自分で用意しなくてはなりません。コピーの用意や、5時間目だから寮を3時半に出ればいいか、などと考えていると、13時ごろ日本語のターヤ先生から電話がありました。「今日は授業がないよ」ええ・・そうですか・・・いつものことですから、もう慣れました。 それにしても、ターヤ先生の電話というのが謎のもので、12月に「携帯を買った」と言っていたのですが、いつも部屋に置きっぱなしで、電源は入れていません。まだ袋に入ったままです。でも、以前電話をもらい、その番号に掛けなおしたことがありました。 8時半の大学バスで1時間目の授業に行く時、ターヤ先生と寮の入り口で待ち合わせをしました。しかし、25分になっても来ません。寮の部屋に行けばいいのですが、各階の廊下の入り口にはもう一つ扉があり、その階の住人の誰かに開けてもらう時しか中に入れません。携帯電話があれば電話をして開けてもらえます。 とりあえず寮の入り口でターヤ先生に電話をしてみました。 すると、目の前にある公衆電話が鳴り出しました。 偶然なのか、そもそも公衆電話って番号があるんだ、と驚きながら、また電話をすると、やっぱり目の前の電話が鳴ります。どうしたものやら、もうバスは行ってしまったし、歩いて行こうとしていると、ターヤ先生が足早にやってきました。そして開口一番「もう先に行ったと思った」 さすがにムカッとしましたが、公衆電話が鳴ったのがおもしろかったので、まあいいです。もともとそんなにイライラするほうじゃないとは思いますが、こちらに来て、常に「仕方ない、まあいいか」という言葉が真っ先に浮かぶようになりました。 電話ついでに、16時にそのターヤ先生の部屋にお邪魔する約束をしました。 ターヤ先生はオムレツを用意して待ってくれていました。オムレツには高野豆腐のようなものが入っていて、なかなかおいしかったです。その後一緒にドラマ『王様のレストラン』を見ました。ちなみにターヤ先生のお気に入りの邦画は『おろしゃ国酔夢譚』です。 3月3日(土) 3時間目に5年生の授業。ひな祭りについてのテキストを読みました。今日は5年生のポリナさんが休み。ここのところずっと休んでいます。彼女は1年生の授業も担当していますが、やはり最近授業は休みだそうです。携帯電話もつながりません。 授業にはいつもポリナさんとイラさんしか来ませんが、今日はなんとサーシャ君、オーリャさんが来ました。オーリャさんは会ったことがありますが、授業は始めて。サーシャ君は前学期に3回ぐらい授業に来ています。 テキストを読んでもらうと、オーリャさんサーシャ君は漢字はほとんど読めません。ポリナさんイラさんとあまりにレベルが違うので、困りました。(彼女たちはよくインターネットで日本のニュースを読むそうです)また、今日は来ませんでしたが、1回しか授業に来たことのないワシリー君はカタカナも危うい。本人にやる気があれば、いろいろ手助けをしたいのですが、日本語より英語のほうに興味があるらしい。英語は頑張っているようなので、それならそれでいいと思うのですが。卒業できるか心配です。 授業後に1年生のアーニャさんの家に行き、一緒にスープとビーツのサラダを作りました。 スープは「牛肉の缶詰め」という、不思議なものを使って作りました。いつもスーパーでたくさん並んでいる缶詰めなのですが、お肉コーナーに牛の骨が堂々と置いてある国なので、牛肉にはちょっと抵抗がありました。でも便利だし、おいしかったのでこれからはちょくちょく使おうと思っています。煮た牛肉のかたまりが入った缶詰めでした。「私の主食は、肉です(日本語)」といつも言うアーニャさんは、缶から直接食べることもあるとか。 夜は、久々にテレビを見て過ごしました。寮にテレビがないので、新鮮でおもしろかったです。素人の1分ショー大会のようなものでした。審査員がアリ・ナシを決めるのですが、家で買っている七面鳥を連れてきて芸をさせるおじいちゃんや、ラップダンスをする今風の若者がいたり、アーニャさんと二人でビールを飲みながらあれやこれや難癖をつけあいました。 3月4日(日) 結局昨日の夜は遅くなってしまったので、アーニャさんの家に泊まらせてもらいました。 アーニャさんの家にはよく泊まらせてもらうのですが、彼女の家の猫のソーニャはいつも私の上で寝ます。お客が来ると、必ず客の上で寝るそうです。よく、息苦しくて目が覚めます。 ソーニャは日本式に「チチチ・・」と呼ぶと全然こちらを見ないのですが、кис-кис-кис-кис(キスキスキスキス・・)と呼ぶとちゃんと振り向きます。私よりロシア語を理解してるかもなぁ。 昼にジェーニャ君の家に遊びに行きました。彼は中国語の学生なのですが、よく日本語クラスに遊びに来るので顔なじみです。私と学生たちはいつも「ジェーニャ君はアーニャが絶対好きだよねー」と噂しています。いつもアーニャさんを何かと誘うからです。「ジェーニャ君は長身でかっこいいし優しいし、なかなかいいじゃん」と私も勝手なことをよくアーニャさんに言うのですが、アーニャさんは年下に興味がないらしく、ジェーニャ君はナシだな、ということでした。どこの国でも、恋愛はうまくいかないものだな・・と、当たり前ですがしみじみ思ってしまいました。 そのジェーニャ君の家に遊びに行くのは、前ジェーニャ君のお手製寿司をご馳走してもらった時と、今回が2度目です。 ジェーニャ君は、女の子が来るんだから、とプレゼントを用意してくれていました。ハカシアの伝統的なビーズ刺繍のネックレス。太陽を表す刺繍だそう。 3月5日(月) 1時間目―1年生。病院での会話の練習。学生が「小テストをして」というので、次回は小テストをすることに。テストを要求する学生!なんて熱心なんだろう、と感激。 2時間目―5年生。今日もイラさんだけ。30分後にクリスティーナさんが今学期初めて授業にやってきました。なぜかバイクの話になり、「日本ではバイクの免許を取るのは難しいと聞きました」と言って、英語で書かれた日本についての本を見せてくれました。確かに、自動二輪の免許は難しい、特に大型は、と書いてあります。何を基準に難しいというのかわからないけど、とりあえず男の学生でバイクの免許を持っている人は結構いるよ、という話をしました。 ちなみに、クラスノヤルスクでは2回だけ、原付に乗っている人を見ました。ヘルメットはかぶっていませんでした。でも夏にはバイク乗りがたくさん現れるそうです。気持ちがいいだろうなぁ。 3時間目―4年生。金曜の5時間目の授業は、こちらが言い出す前に、学生のほうからの申し出で2時間目に変更になりました。4年生は今期初めての授業。ちゃんとプリントも14枚、人数分用意しましたが、来たのは7人でした。しかもそのうち2人は30分の遅刻でした。 授業中に携帯で写真は撮るし、おしゃべりばっかで話は聞かない。「Mさん、ここを読んでください」と言っても、おしゃべりをしていて気が付かない。声を張り上げて「Mさん!!!」と言うと、「あ・・・ごめんなさい」と急にしおらしくなって読み始める・・・の繰り返しでした。 プリントは、最初の授業だから簡単なものをと思い、2年生と一緒にやった日本語のクイズを用意したのですが、4年生は「難しくてわかりません」と。2年生はちょうどいいと言っていたのになぁ。 ターヤ先生と相談すると、「4年生なんだから、上級のテキストを使ってください」と言われるのですが、この調子じゃ学生にとっても上級は荷が重過ぎます。4年生の中にも真面目に取り組んでいる学生がいるので、何とか楽しく授業ができるように考えなくてはいけません。 3月7日(水) 授業は2、3時間目、連続5年生。またポリナさんは休みで、イラさんと最近よく来るクシューシャさんだけでした。クシューシャさんは前期には授業に2、3回しか来ていないのですが、もうすぐ試験なので来るようにします、ということでした。ところが授業中、イラさんに本を見せて何か話しています。何?と聞くと、ロシア語―スペイン語の辞書でした。授業を聞かないのは問題ですが、何をしていたのか日本語で答え、その本についても日本語で説明してくれたので、まあ許すとしましょう。私も見せてもらったのですが、すごくいい本でした。オールカラーの写真でわかりやすくて、私もロシア語の勉強のために欲しくなってしまいました。クシューシャさんに聞くと、イタリア語版とスペイン語版もあるそう。 ところで、クシューシャさんはその後「スペイン語の授業があるので・・・」と言って、途中で帰ってしまいました。 明日は女性の日で祝日。うちの講座で唯一の男性がこれまた大きなハート型のケーキを持ってきてくれました。中にいちごのムースが入っていておいしかったのですが、外側のクリームがなぜか生臭い。箱も厚紙をホチキスで留めただけの手作りっぽいものだったし、一体どこで買ったのでしょうか。 ダツィシェン先生(アジア史)も来て、一緒にケーキを食べながら、15日から始まるジェレズノゴルスクのシンポジウムについて話しました。私は学生や友達たちと誕生日パーティーをする約束なので行かないと言っているのですが、ジェレズノゴルスクのレストランで酒を飲みながら祝おう!とまた誘われました。16日なら行きます、と言ったところ、16日はシンポジウムに来た人たちにクラスノヤルスクを案内する、ジェレズノゴルスクのT先生もクラスノヤルスクに来るよ、とダツィシェンさん。またよくわからない展開になってきました。行きたいか、と聞かれたので、とりあえず行きたいということをアピールしておきました。 最近、学生に人気のない先生というのもわかってきました。これは学生からのナマの情報なので信憑性は高いです。そんな話を聞いていると、「こんな風に言われないよう、私も頑張らなきゃ。怖いなぁ・・」と思ってしまいます。授業でブーイングとかボイコットとかはないようですが、ある授業ではそうとう鬱憤がたまっているようです。学生は「その先生はいつも間違える」と言うのですが、間違えるから嫌いなのか、嫌いだからそう言うのかはわかりません。 逆に、先生のなかで誰と誰が特に親しいのかもよくわかってきました。しかし月に1、2回しか見かけない先生もたくさんいるので、まだ全員の名前を覚えていません。最近はじめて会った先生もいます。 講座全体の雰囲気として、普段、講座の部屋にいるときには私のほかに日本語の先生がいなくて、ほかはほぼ全員が中国語の先生なので、なんとなく肩身が狭いです。 3月8日(木)祝日・女性の日 町の中心・ミーラ通り沿いに友達ワーリャの服屋さんがあります。日本で言うセレクトショップのような感じで、NEXTというブランドを扱っています。せっかくの祝日で、ひとりで部屋にいるのはさみしいので、その子の店に遊びに行ってきました。女性の日のプレゼントに、ワーリャの好きなイチゴのチョコを持っていきました。 ワーリャのお店に寄った後、本屋に行こうと思っていたのですが、「今日は祝日だから、早く店を閉めて、一緒に本屋に行こう」ということになり、ワーリャと一緒に近くの本屋へ。その前に、ワーリャの好きなベネトンの店に行きました。ベネトン、もちろんUNITED COLORS OF BENETTONです。クラスノヤルスクに路面店があるなんてちょっと驚きでした。ちゃんとショーウインドウもあります。70パーセントオフのセール中でした。そこでかわいいマフラーを見つけました。384ルーブル。70パーセントオフでこの値段、ということは元々1280ルーブル。マフラーひとつにこの値段とは。クラスノヤルスクでもブランド物は高いと聞いていましたが、本当ですね。先生の給料だけでは、買う勇気がありません。中国製の膝丈ダウンコートをкитайский город(中国人マーケット)で買うと2000ルーブルぐらいなのに。うちの学部ではよくブランド物を身につけた学生を見ます。「この学部はお金持ちの家の学生が多い」という噂を聞いたことがありますが・・・ それはともかく384ルーブルなら買えるし、まだ寒いから使えるし、と思い、買うかやめるか考えていたのですが、ワーリャは「もうすぐ暖かくなるからいらないよ」と。確かにそうですが、まだ氷点下の毎日だし・・・結局、保留にしました。 それから、すぐ隣にある、クラスノヤルスク一大きいと言われている本屋に行きました。 例のスペイン・ロシア語辞書を探すためです。イタリア語とドイツ語とスペイン語版がありました。英語版がほしいのですが、残念ながらありません。となると、イタリア、ドイツ、スペインのどれかから選ばなくてはなりません。ワーリャに「リョウコはロシアに来てイタリア、ドイツ、スペイン語を勉強するの?」と笑われました。 どの辞書も中身の写真は全部同じでした。でも値段は違う。クシューシャのスペイン版は800ルーブルでしたが、ここではスペイン、イタリアは598ルーブル。でも、イタリア語版は本に傷があります。ドイツは傷なしで630ルーブル。本に傷があったり、本屋によってこんなに値段が違うことにも驚きです。いずれにせよ、値段が高いのでこれも保留にしました。もっと給料がよかったらな・・・ 3月10日(土) 3時間目に5年生の授業。15時アーニャ、ワーリャと待ち合わせして、散歩に行こうと誘われました。3時間目が終わるのが14:25なので、そのまま待ち合わせ場所に行けばちょうどいいな、と頭の中で計算していました。 午前中に大学本部に行って久々にネットで日本のニュースを見たあと、12:50から始まる授業のため、大学へ。するとワシリー君しか来ていません。ワシリー君はカタカナも覚束ないので、5年生用に用意したテキストでは難しすぎるなぁ、とどうしようか悩んでいると、結局ワシリー君もどこかに行ってしまいました(どうして?)。イラさんにメールすると、どうやら風邪らしい。「ポリナさんは来ましたか?」と聞くので、ポリナさんにもメールしてみると、「イラさんは来ましたか?あと、クリスティーナさんも今日大学に行ったはずです」と。どうやら、みんながみんな、誰かが授業に行くと思っていたよう。「ワシリー君しかいないよ。しかもワシリー君はどっかいっちゃった」とメールしたら、ポリナとイラから「ごめんなさい・・私たちのグループは恥ずかしいです・・(日本語)」と返事がありました。風邪ならしょうがないから、大丈夫だよ、じゃ、私は帰るね、と返事して、帰ることにしました。4時間目にはユーリャ先生の授業があったのですが、ユーリャ先生も帰ったそうです。学生が来ないんじゃ、仕方がない。 15時に市役所の前のバス停でアーニャと待ち合わせ。授業がなくなって私の計画より早くなってしまったのですが、バスがなかなか進まなくて、結局15時少し過ぎに市役所に着きました。そこからバスを乗り換え、ワーリャとその友達と合流。ワーリャの友達、というので若い子を想像していた(ワーリャは私と同じ歳)のですが、40歳の女性でした。 一体どこに行くのかな、と楽しみにしていたら、寮の窓からも見えるスキー場でした。寮から直線距離にするとそう遠くないのですが、エニセイ川の対岸にあり、橋が遠くにしかないので、一度町に出て橋を渡って遠回りをしなくてはいけません。12月には毎週花火をやっていたスキー場で、一度行きたいと思っていました。 着いてみると、すごい人人人。土曜日だからでしょうか。クマの着ぐるみを着たお兄さんがいたので、一緒に写真を撮ってもらいました。 山の頂上にはリフトで行きます。何にしろスキー場なので、スキーやスノーボードを持った人と一緒にリフトに並びました。往復で100ルーブルでした。 4人乗りのリフト。最近できた新しいものだそうで、速くて怖かったです。モスクワのエスカレーター並みに速かったと思います。 頂上でワーリャが作ってくれたサンドイッチを食べながらお茶を飲みました。頂上からは町が一望できて本当にきれいでした。山々もまるで絵画のようでした。頂上は少し寒かったですが、楽しかったです。 3月12日(月) 月曜の朝はいつも不安。1時間目は1年生。活発な学生が多いだけに、やりがいもあるし、その分準備に苦労します。今日一日楽しく授業しよう、と毎朝自分に言い聞かせて出発します。 1時間目があるときは、いつも8時半の大学バスで行きます。今日はお隣さんの中国人の先生オーリャも「1時間目に学生が来るかわからないから、とりあえず行く」ということで、一緒に行きました。するといつもバスにはオーリャと、名前を知らない女の学生と、私ぐらいしか乗らないのですが、今日はにぎやかでした。中国からの留学生が6人ほどバスを待っていました。オーリャの学生だそうです。中国語で、私のことを日本人だと説明しているのがわかりました。また、学生が「韓国じゃないの」と聞いているのもわかりました。いつも先生控え室で中国語が飛び交っているので、「日本」「韓国」「(バスが)来た」くらいの言葉はわかりました。何だか嬉しかったです。 クラスノヤルスク大は、中国、トルコ、北朝鮮、イギリスに提携校があるそうで、優秀な学生はその大学のプログラムを受けることができるそうです。でも残念ながら日本はありません。講座主任の先生に、「リョウカ、どう思う?」と聞かれました。正直、提携を結ぶのは難しいでしょうね・・・お隣のジェレズノゴルスクでも、日本人学生の受け入れを始めるという話を聞きましたが・・・ 1時間目の1年生の授業は、テストをしました。堂々とノートを見ようとする学生が多いので、テストの間中「ダメ!ダメ!」と注意していました。小テストのつもりが学生に言わせると「小さくないです!!(日本語)」だったそう。結局今日はテストをして終わりました。 2時間目の授業中、4年生がやってきて、今日は3時間目に幅先生の授業があるけど、私たちは2時間目の英語の授業がなくなりました、だから3時間目まで待ちたくないので、授業を別の日にずらしてください、と。うーん、変な話だ、と思いながら、今日の分は水曜の4時間目に移動になりました。 ということで、午前で授業が終わってしまったので、町を散歩することにしました。 8日に一目ぼれしたマフラーを見に、またお店に行きました。1つだけ残っていました。70パーセントオフで384ルーブル。ものすごく迷いましたが、自分への誕生日プレゼントと思って買いました。イタリアブランドの、中国製のマフラーをロシアで買うなんて、変な話です。 次にお隣の「クラスノヤルスク一大きい本屋」へ行きました。ここでも8日に迷った辞書を、さんざん迷った挙句買いました。店員さんに怪しまれるほど、ずっと同じ場所で迷っていました。598ルーブル。日本円で考えるとそんなに高くないですが、これで今日の出費は給料の15パーセントです。高かったですが、誕生日だからいいか。 3月13日(火) 授業は休みなのでワーリャのお店に遊びに行きました。お茶を飲んでいると役所の人が来て、アンケートを置いていきました。2週間に1回ぐらい来るそうです。いつも答えるたびにペンを2本くれるから、たくさんここのペンがある、と言ってペンを見せてもらいました。Business
analyticaというところのペンでした。そのアンケートを見せてもらったのですが、とてもおもしろかったです。 ・ 今の生活に満足しているか、金銭的にはどうか、仕事の内容はどうか。 ・ 結婚相手に何を望むか。愛、お金、容姿・・・・? ・ プーチン大統領についてどう思うか。 ・ ツァーリ、歴代の指導者(ピョートル1世からエリツィンまで)で好きな人は誰か。(ワーリャは「わかんない」と言って、ピョートル1世にマルをつけていました) ・ これらの国が好きか嫌いか。АアゼルバイジャンからЯ日本まで4段階に評価。 などなど。A4の紙に両面印刷びっしり文字で4枚ぐらいありました。 このデータをどのように使うのでしょうね。それにしても2週間に1回ぐらい、とは驚きです。 メモ:「私って、中国人に見えるかな。またバスで間違えられたよ。」という話をワーリャとしていると、「リョウコは中国人よりもブリヤート人に似ているから、きっとバスとかでも、ブリヤート人だと思われてるよ。ブリヤートはリョウコよりまつげが少ないけど」と言われた。あと他には「カザフスタン人に似てる」らしい。私の担当の学生の中にも、両親がカザフスタンから、韓国、ドイツ、フランス・・・と様々な国の出身の学生がいます。 3月14日(水) いつもはなかなかインターネットができませんが、今日は兄の誕生日なので、なんとかEメールを!と思い、講座の部屋でパソコンが空くのを待っていました。やっと空いた、と席を陣取り、まずは大学のログイン、次にメールのログイン、と日本ならすんなり進むところを、回線速度が遅いのでワンクリックに30秒ほど待ちながら、やっと「メールの作成」にたどり着いたと思ったら、お隣さんの中国人の先生オーリャが「ちょっとドキュメント印刷させて!すぐだから」と言うので、「まあいいよ」と席を譲ると、すべてのウインドウを閉じ始めました。「だめ!閉じないで」と言ってもマウスを返してくれません。結局印刷したいドキュメントがない、と言って控え室から出て行きました。なんだか、こちらに来て、いつもまわりに振り回されているように感じます。 16日、17日とジェレズノゴルスクのT先生のところにお邪魔する予定だったのですが、今日になってプロープスク(通行許可証)が出ないという連絡をもらいました。プロープスクがないとジェレズノゴルスクには入れません。 そもそも、15日から17日までシンポジウムだから来てほしいと言われていました。 でも、15日は誕生日だから行きません、16日なら行きます、とパスポートのコピーも1ヶ月ほど前に渡してあったのですが、最近になって、やっぱりシンポジウムは15日だけ、という話になり、じゃ、私が16日に行ってもシンポは終わってるし仕方がないか、また別の機会に行こう、と思っていたら、16日、17日のほうがプロープスクを作るのに都合がいいということだったので、じゃ、16日、17日に行きます、という話だったと思うのですが・・・ プロープスクが出ないのでは仕方がありません。でも16日の昼にはダツィシェンさん(アジア史の先生)主催のエクスクールシャがあるらしい。ダツィシェンさん曰く「Tさんも来るよ。Tさんはまだそのことを知らないけど」。“もちろん”T先生は、そんな話、私に聞くまで全然知らなかったとおっしゃっていました。ここではいつも本人の知らないところで話が進んでいます。 とにかく、私がジェレズノゴルスクに行けなくても、T先生とは16日のクラスノヤルスクのエクスクールシャでお会いできそうです。しかし、そのエクスクールシャについても「当日の朝に電話するよ」(ダツィシェン先生)ということで、どこに行くのかわかりません。 なんだか、こちらに来て、いつもまわりに振り回されているように感じます。それでストレスが溜まるということもないので大丈夫ですが・・・本当に不思議な国です。 3月15日(木)私の誕生日 私の誕生日。もう20歳の折り返し地点です。 昨日の夜に、当然ながら今日の授業の準備(2、3年生の授業)をちゃんとして大学に行ったのですが、なんと必要ありませんでした。 まず講座に行くと、部屋にいた先生たちがみんな「с днём рождения!!!!」とお祝いしてくれました。しかもプレゼントを用意してくれていました。クラスノヤルスクの絵葉書が入ったアルバムとチョコとカード。いつもロシア人の先生の誕生日にはケーキを食べるのですが、私には絵葉書がいいと、用意してくれたのですね。ガリーナ・アレクサンドラ(講座の秘書のおばちゃん)は「リョーカ、今日は誕生日だから髪がきれいね」と、髪をほめてくれました。髪についてはしょっちゅういろんな人に褒められます。日本では褒められたことがないのに。 2時間目は2年生の授業。鍵を借りに守衛さんのところに行くと、もうない、と。変だな、と思い教室へ行くと、学生が机をくっつけて、お茶とブリヌィを用意してくれていました。もちろん、私の大好きなスメタナもあります。(学生の間で、私のスメタナ好きは有名らしい)ブリヌィは、学生のアリーナが朝5時に起きて用意してくれたそうです。プレゼントの白樺で作った箱の中には、ビーズで編んだ動物のブローチやネックレスが入っていました。トーニャのママが作ってくれたとか。お茶を飲みながら、折り紙をしました。 みんな、本当にありがとう。宿題やってこなくて困らせたりすることもあるけど、みんな本当に大好きです。 2年生の授業(授業じゃないけど)が終わり、片づけをしていると1年生のリェーナがやってきて「食堂に来て」と。でも講座にも顔を出さないとな、と迷っていると、2年生が「大事なパーティーだから、行ってください!!(日本語)」と。講座には朝、顔を出したし、まあいいか、と学生に付き合うことに。リェーナは「みんな、幅先生がだーいすきです。だから、パーティーをします」と日本語で言ってくれました。食堂は昼休みで満員。行列ができています。でも学生は丸々1つのテーブルをキープして待っていてくれました。今日は1年生のオーリャも誕生日。みんなできれいな木の箱に入ったチョコと、カードをプレゼントしてくれました。カードにはもちろん日本語で「お誕生日おめでとうございます」と書かれています。 1年生の授業は週に1回しかなくてさみしいけど、みんな授業中は本当に熱心です。会話の練習も5学年中、1番活発に話してくれます。このまま5年生まで勉強し続けたら、そうとう話せるようになるんじゃないかと楽しみです。アニメファンが多いのもこの学年。時々私も知らないアニメの話もしてくれます。 じゃ、講座にも顔を出してくるよ、と学生と別れ、講座に戻ると先生が少ない。そういえば今日はみんなジェレズノゴルスクのシンポジウムに行っているんだった。結局食堂へ戻りました。すると階段で再びリェーナに会いました。もう1年生は解散したようです。リェーナにカラオケの話をすると、「行きたい!!」とエヴァンゲリオンの歌を歌い始めました。なかなか上手です。じゃ行こうよ、と話していると、食堂のほうから3年生がやってきて、私を見るなり急いで隠れました。手には3つの風船を持っています。それぞれに「お誕生日」「おめでとう」「ございます」ときれいな字で書かれていました。私に見せてびっくりさせようとしていたようですが、まさか階段にいるとは思っていなかったらしい。「大丈夫!!私はまだ見てないから」と、みんなで笑いながら、風船をもらいました。 3時間目は3年生の授業です。3年生は大きなケーキを買って、お茶の用意をしてくれていました。体育館の先生の部屋でケーキを食べました。ナスチャは先月モスクワへ行ったときのおみやげをくれました。きれいな絵葉書とマトリョーシカのマグネットです。3年生は5人の女の子しかいないので、ホールケーキはなかなかの量でした。こちらに来て太ったんじゃない?と送った写真を見た母親から言われ、お隣の中国人の先生にも「亮子、太った?」と聞かれ、「特にここが」と太ももを触られました。その話を学生としていたら、「じゃ、ケーキの後で散歩に行きましょう」ということになりました。 外はとてもいい天気で、雪がとけてあちこちに水たまりができていました。(17時頃に町の温度計を見たらプラス4度でした)学生と話しながら、エニセイ川の川岸まで散歩しました。風が強かったですが、とてもきれいでした。 授業(?)のあと、控え室に戻って風船をバスで持って帰ってもいいものか、ガリーナ・アレクサンドラに聞くと「大丈夫!まだバスは人が少ないから」と。「ほんとに、ほんとに???」「大丈夫、大丈夫」と言うので、3つの風船を持ってバスでアーニャさんの家に行きました。帰りに守衛さんの部屋の前を通ったら、鍵番のおばちゃんも「誕生日おめでとう」と言ってくれました。 (守衛さん(鍵番の人)は3人の人が日替わりでいるのですが、おばちゃんとおじいちゃんはいつも会うとニコニコあいさつをしてくれます。あと1人の若いお兄さんはちょっと怖い感じ) アーニャさんと合流したあとでスーパーに寄り、頼まれていたカクテル用のお酒を買って、夜のパーティー会場のジェーニャの家へ。ジェーニャとワーリャは今夜のごちそうの準備を始めていました。メニューは私がリクエストしたборщ(ボルシチ) зимний
салат(いろんな角切り野菜の入ったマヨネーズ味のサラダ) селёдка под шубой(マヨネーズ、ビーツ、ゆで卵、じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、魚、がミルフィーユになったサラダ) блины(ブリヌィ) です。 準備をしていると、ユーリャ先生や5年生の学生ポリナ、イラ、クリスティーナ、ポリナの彼氏のマクシム君が来ました。 みんな大きなプレゼントを抱えています。ユーリャ先生はきれいな花束とチョコ、ポリナさんは私のロシア語の勉強のためにロシア語の辞書と教科書、イラは雪女の人形、クリスティーナはペテルブルグ製の花柄のカップとソーサーをプレゼントしてくれました。 アーニャさんはチェブラーシカのワニのゲーナの歌を日本語版で歌いながら、オレンジのお菓子をくれました。ロシアで誕生日の歌といえば、日本と同じ「ハッピバースデートゥーユー・・・」のロシア語版か、このゲーナの歌だそうです。私も知っている歌なので、一緒に歌いました。 ワーリャとジェーニャはバレエのチケットをくれました。「くるみ割り人形」と「白鳥の湖」の2枚。しかも1列目と2列目です。一番に予約して買ってくれたそう。今週と来週の日曜の17時からです。 持って帰れないほどのプレゼントと、食べきれないほどのごちそう、そしてたくさんの人が私の誕生日を祝ってくれました。本当に嬉しかったです。日本にいた頃の私の感覚では、25歳にもなって、誕生日なんてそんなに大したイベントじゃないし、と思っていました。 こちらに来ていつも思うことは、人と人との結びつきが素朴だなぁ、ということです。皮肉とか、悪い意味ではありません。 ユーリャ先生や5年生たちが帰った後、ジェーニャとワーリャが「ユーリャのチョコ、食べてもいい??」と。お店でいつも見るけど、高くて買ったことがないとか。そんなに高いものを・・・アーニャが言うには「ユーリャ先生は、リョウコが来てくれて本当に感謝してるんだよ。だから、こんな高いものでもプレゼントするんだよ」と。ユーリャさん、ありがとね。 そして帰る時に、ワーリャが部屋に飾ってあった25個の風船をまとめ始めました。まさか、と思いましたが、やっぱり。「リョウコ、あげるから持って帰ってね!」ネコが暴れて3個ぐらい割れましたが、それでも3年生がくれた風船とあわせて25個はあります。「こんなにたくさん、バスで持って帰っても大丈夫?」「大丈夫!前に持って帰った子がいるから」そうか、前例があるのならできないことはない。せっかくお祝いをしてくれたのだから、25個、ちゃんと寮に持って帰ってきました。小さなバスのドアをくぐるのに一苦労、席についても前が見えないほどの風船の数。でも1つも割りませんでした。 その他のプレゼントは、あまりに多くてジェーニャの家でとりあえず預かってもらうことにしました。花はちゃんと持って帰って、部屋の玄関に飾りました。寮に帰って一息つくと、もう日付が変わるところでした。楽しい1日でした。みんな、本当にありがとう。こちらに来て、出会った人すべてに感謝です。 3月16日(金) エクスクールシャ。ジェレズノゴルスクのシンポに参加された先生たち(イルクーツク、ノボシビルスクから)と一緒にクラスノヤルスクの名所をまわりました。案内人はもちろんダツィシェンさん(アジア史の先生)。今日の予定は「朝、電話するから」としか聞いていなくて、早めに起きて待機していました。すると10時ごろダツィシェンさんから電話が。「1時間後、предмостная площадьで会おう」聞いたことのない広場です。説明を聞くと、橋を渡ったエニセイ川の対岸の広場だそう。とにかく90番のバスで大丈夫だということだったので、行ってみることにしました。ちなみに「寮からだと50分ぐらいかかるから、あと10分ぐらいで寮を出て」という、急な話でした。ダツィシェン先生の説明を聞くと、それと気付かずに私も数回行ったことがある広場のよう。バス停に行くとちょうどバスが来ていました。 なんとなく目星はついていたのですが、降りるバス停を間違え、バスを乗り換え引き返して、ようやく広場に着きました。ダツィシェンさんに電話すると、あと10分ぐらいで着くとのこと。バス停で待っていると、黄色いハイエースのような車がクラクションを鳴らしています。まさか、そんな車で来るとは思っていなかったので、なかなか気付きませんでした。どうやら大型タクシーのよう。車の座席に座ると、窓が肩から腰ぐらいの高さにあるので、外の景色はかがまないと見えません。変な車でした。結局、T先生はプロープスクが出なくて来られないそう。残念・・・ 行った場所は ・
Виктор Астафьевの≪царь-рыба≫のモニュメント。結婚式のあとは必ずここに来て、木にリボンをつけたり、名前が刻まれた南京錠を柵にかけたりするそう。眼下にエニセイ川が広がる。 ・
モニュメントの近くにあるアスタフィエフの遺品などが残っている図書館。 ・
彼のおばあさんの家とダーチャ。 ・
エニセイ川にコインを投げ入れると願いがかなう、と言われて、1ルーブルを投げてきました。クラスノヤルスクは工場が多くて環境がよくないと聞きましたが、エニセイ川の水はきれいでした。 ・
Дивногорскの市役所にある博物館。発電所の模型などを見てきました。肝心の10ルーブルの裏に描かれている発電所には、時間がなくて行けませんでした。 ・
スキー場でリフトに乗り、クラスノヤルスクが一望できる山の上へ。頂上でコニャックを飲む。 ・
劇場前の広場を散歩。 Коммунальный мост と一緒に記念撮影。 ・
帰る先生たちを見送りに、クラスノヤルスク駅へ。駅で偶然友達のワーリャに会う。ノボシビルスクに行く切符を買いに来たらしい。 クラスノヤルスク出身の作家ワーリャ・アスターフィエフ著『魚の王様』のモニュメント前で ダーチャの前で エニセイの川辺にて 楽しかったですが、いろいろ回って疲れた1日でした。 しかしまだ1日は終わっていませんでした。イルクーツクからの先生(女性)は明日帰るそうで、夜は私も一緒にダツィシェンさんの家におじゃましました。ダツィシェンさんの家といっても私と同じ寮に住んでいるので、遅くなっても大丈夫です。ということで、毎度おなじみの「ダツィシェンさんのお手製のワイン」をごちそうになりました。次から次へと出てくる食べ物に、イルクーツクの女性と一緒に「もう食べられないよね・・・」とひそひそ話したり。21時を過ぎ、私は明日も授業があるので帰ろうとすると、イルクーツクの女性が「まだ帰らないで」と。引き止められるとまた嬉しいので、結局23時過ぎまでおじゃましていました。 ロシアに来て、「私、お酒強くてよかった・・・」と何度も自分の体に感謝しています。前に真冬のバーベキューをしながら飲んだ時は、例のロシア流「ウォッカはお猪口で一気飲み」のペースにのせられて、後悔するまで飲みました。でもその後はそのまま映画を観に行きました。 でもダツィシェンさんはザルどころではないので、いつもダツィシェンさんのペースにはまらないよう気を付けています。 メモ: 昨日も暖かかったのですが、今日も暖かくて15時ごろに町の温度計を見たらプラス6度もありました。雪がとけて、道路は泥水の洪水です。ダツィシェンさんも誕生日プレゼントに、モンゴルのブーツ型のキーホルダーをくれました。早速携帯のストラップにしました。 3月18日(日) 誕生日プレゼントでもらったチケットでバレエを見てきました。 Щелкунчик −『くるみ割り人形』です。子供向けのバレエだけあって、たくさんの子どもが来ていました。色とりどりの衣装、いろんな小道具、オーケストラの音楽。バレエは純粋に踊りだけを見るんだという私の思い込みをぶち壊してくれました。ワーリャは「今からノボシビルスクに行く。観終わったら感想をメールしてね」と言い残して、第一幕が終ると駅に行ってしまいました。ジェーニャは「バレリーナがイマイチだった。ジャンプするごとにドンドンいっていた」と厳しい評価でしたが、私は2回目のバレエで、オーケストラもよかったし、最前列だったので大満足でした。 帰りにバスに乗ると、ちょうど席が空いています。隣は同じ歳ぐらいの男性でした。座れたのはよかったのですが、「どこから来たの?」から始まって、その男性がナンパしてきました。携帯電話の番号を教えてくれと言われましたが、もちろん教えませんでした。「ロシア語は全然わかりません」と答えておきました。 家に帰ってからジェーニャにそのことをメールすると、「リョウコ一人で帰らせるんじゃなかった・・・」と心配させてしまいました。 ジェーニャも昨日、家に帰ると玄関のところに男が立っていて、いきなりズボンを下ろし始めたから急いで逃げたんだよ、と。露出狂はどこにでもいるんですね・・・私の方は危険を感じるほどではありませんでした。学生に聞いてもナンパは多いそうです。 3月19日(月) ガリーナ・アレクサンドラ(事務のおばちゃん)に昨日ナンパされたという話をしたところ、彼女の第一声は「かっこよかった?」でした。「きっと、リョウカのことがすごく気に入って、何て言えばいいかわからなくて、正直に気持ちをいったんだよ。心配しなくていいよ」だそうです・・・ 3月21日(水) 5年生の授業なのですが、ポリナさん一人しかいません。 ポリナさんに訳を聞くと、クラスノヤルスクで3月22、23日にレスリングの女子ワールドカップがあり、日本人選手が来ているそうです。それで、イラさんとオーリャさんは日本語通訳のボランティアに行ったとか。それは是非行きなさい!!日本でもテレビ放送されるそうですね。エニセイ川に浮かぶ島にあるスタジアムで行われるとか。 日本人が来ていると思うと何だか嬉しいです。 3月22日(木) 2時間目、2年生の授業。アーニャさん一人しかいません。廊下で「今日は一人です・・・」という話をしていると、3年生のオクサーナさんに会いました。オクサーナさんは4月にイルクーツクであるスピーチコンテストに参加することになっています。オクサーナさんが「一緒に授業に行っていいですか?」と言うので、アーニャさんにも聞いて、一緒に授業をすることにしました。オクサーナさんはスピーチの原稿を書いてきていたので、私がチェックをしながら、アーニャさんと一緒にオクサーナさんの練習を聞きました。教室がどこも空いていなくて(私の授業があるはずの教室は日本語のターヤ先生に先に占領されました)図書館で話していたのですが、すると3年生がどんどん集まってきて、結局3年生が全員集合しました。2年生の授業なのに、2年生は一人だけで3年生が全員集合。何だか申し訳ないような気分でした。 結局そのまま3時間目の3年生の授業へ突入しました。授業の間に、外は吹雪いてきました。みんなで「ああ、もうすぐ春ですね・・・」と話していました。 最近暖かい日が続いていましたが、今日は雪、しかも大粒の雪が一日中降っていました。行きに雪がとけていたところも、帰りには雪で真っ白でした。 3月23日(金) 朝、大学に行く途中の森の中で忘れ物に気付きました。寮まで戻ると10分ぐらい。忘れ物は授業で使う予定のCD。急げば間に合う、と急いで戻ったのですが、寮の玄関で大変なことを思い出しました。ここ1週間ほど、寮のエレベーターが動かないんだった。私の部屋は7階。最近は30分森の中を歩いたあと、7階まで階段、帰ると汗だく。しかしここまで来たんだから、と部屋まで戻りました。 CDを持って、再び7階分階段を下りると、ちょっと授業に間に合わない時間。仕方なくタクシーにしました。 バス停に行くと、今日に限ってタクシーがとまっていない。これは困った、バスでは絶対間に合わない、走ってもだめだな・・と途方にくれていると、黄色い行灯を乗っけたボルガが対向車線の店の前に止まりました。助手席から男性が降りて、お店に入っていきます。ちょうど客を降ろしたところかな、ラッキー。急いで道路を渡り、車のドアを開けて、「国際外国語学部まで」と言ったのですが、おじちゃんは「知らない」と。大学の住所を言っても、わかっていない感じ。すると「いくら払う?」と逆に聞かれて、「100ルーブル」と言うと、「乗れ」乗ってみるとどうやら助手席の男性は客ではなく、「いま、ちょっとお店に行ってジュースを買ってるけど、すぐに戻るから、ちょっと待ってくれ。その後一緒に行こう」そもそもタクシー営業中じゃなかったようです。 戻ってきた男性は運転手さんの息子さんぐらいの年齢。2人ともアジア系の顔立ちをしていました。 助手席の男性は私に質問攻め。運転手さんは大声で笑って聞いています。まあ、よさそうな人でよかった、と思っていると、助手席の男性:「ところで、どこに行くの?」おじさん:「さあ、知らん。(私に)案内してくれよ」やっぱり知らないんだ。のんきなものです。 助手席の男性は「今度ビールでも飲もう」と誘ってきます。携帯電話の番号も(また)聞かれました。「秘密」と私が言うと、運転手さんは「秘密か!」と大声で笑っていました。大学に着いて、降りようとしたら毎度のごとくドアが開きませんでした。ロシア車のドアには未だに手こずります。結局外から運転手さんが開けてくれました。 2時間目に4年生の授業。4年生は悪い学生というわけではないのですが、授業中の反応が少ないので疲れます。指名して聞いても、答えないことがあります。今日は1コマだけですが、どっと疲れました。さて、疲れたし帰ろうとコートを着ていると、講座主任の先生が「今日は誕生日のケーキ食べるから、もうちょっと待って。ケーキ好きでしょ?」と。(いつも誰かの誕生日の前に、その日に授業がある先生たちからガリーナ・アレクサンドラが20ルーブルずつ集めます) 中国語の先生がカラフルなケーキを持ってきました。何かの動物の顔が描かれています。チェブラーシカじゃない?いやライオンだよ、チーターだ、ネコだ、トラだ・・・結局、ライオンだろうということで落ち着きました。中のクリームがバナナ味で、まだ冷えていて(いつもは部屋に冷蔵庫がないので、昼休み、生ぬるくなった頃食べます)おいしかったです。 いつもは部屋の片隅で、DVDの再生専用になっている25インチぐらいのテレビ(教室にDVDやプロジェクターなどの設備がないので、学生とDVDを見るときにはテレビとDVDプレーヤーを担いで、教室まで持って行きます。男子学生はほとんどいなくて男性の先生は一人だけなので、必然的にいつもヤロスロフ先生(唯一の男性教師)が運んでくれます)が、数日前からパソコン棚の上、部屋の真ん中にどーんと置いてあります。しかもアンテナ付き。今日は1日中テレビがついていました。今だけなのか、これからこうすることにしたのかわかりません。 しかし、今日になって理由がわかりました。日本で開催されているフィギュアスケートの大会を見ているのです。 ガリーナ・アレクサンドラは「さっき、日本の男の子が滑ってたけど、結果見て泣いてたよ。日本では男も泣くの?」と聞いてきました。感極まって泣いても不思議じゃないよな、逆に見ている人ももらい泣きしたり・・と思い、「私は変だとは思わないけど。ロシアでは男は泣かないの?」と質問し返すと、「うーん、男なのに泣くのは変だよ」 日本ではフィギュアスケートの大会で盛り上がっているのでしょうね。 夕方にはダツィシェン先生(アジア史)とスキーをしました。用事がありダツィシェン先生の部屋に行くと、「もう冬が終わるから、今のうちにスキーに行こう」と。最近、全然運動していないので一緒に行くことにしました。 林の中を行くこと1時間半。現代外国語学部の建物の近くまで行きました。帰りにも1時間半。帰った頃には暗くなっていました。また足がアザだらけです。 3月24日(土) 3時間目に5年生の授業、なのですが、ポリナからメールがあり「今日の授業は私一人なので、休みにしましょう」と。変な話ですが、ポリナも美容院に行きたいらしく、休みにしました。ユーリャ先生にメールすると「じゃ、休め」と一言。 夕方にはジェーニャの家に行って、ジェーニャとワーリャとで寿司をつくりました。ワーリャは新しい寿司の開発にハマっているらしく、今回は甘く煮たにんじん入り巻き寿司でした。色もきれいで、思ったよりおいしかったです。でもジェーニャには不評でした。 ところで今日の夜からサマータイムになります。時計が1時間早くなるので、日本との時差は−1時間です。 3月25日(日) 誕生日プレゼントのバレエлебединое озеро 『白鳥の湖』を観に行きました。とてもきれいで、ワーリャもジェーニャも私も大絶賛でした。ハッピーエンドではありませんでしたが、バレエも衣装も音楽も、全部よかったです。今回は2列目中央の席でした。周りの人もドレスを着て来ている人が多かったです。 バレエが終わると20時ごろなのですが、外はまだ明るくて驚きました。サマータイムで1時間違うと、かなり違って感じます。12月にはもう16時ごろ日が沈んでいたのに、これからどんどん日が長くなるのでしょうね。 3月28日(水) 昨日27日(火)はダンス教室に通っているワーリャの妹の発表会を観に行って来ました。エニセイ川の右岸にある、小さなホールです。ワーリャのおばさんやおばあちゃんも観に来ていました。 ロシアの民族衣装を着た伝統的なダンスや歌、バラライカの演奏など、会場は大盛り上がりでした。私は歌の歌詞まではわからなかったのですが、お客さんは大爆笑でした。 帰りは乗り換えなしで、1時間ほどバスに揺られて帰ってきたのですが、帰った途端に気分が悪くなりました。今朝になって大分落ち着いたのですが、まだ熱っぽかったので今日は授業を休ませてもらうことにしました。水曜は5年生の授業だけなので、ポリナにメールで連絡しました。すると「薬はありますか?他に何か欲しいものがあったら、言ってください。お見舞いに行きます(日本語)」と返事。気持ちは本当に嬉しかったのですが、ベッドから起き上がるのもつらい状態だったので、お見舞いは遠慮してもらいました。 昼間、寝ているとアーニャからもメールがあり「寂しかったらお見舞いに行くよ。ケーキか果物を持って」ケーキは嬉しいのですが、食べられる状態じゃなかったのでまた遠慮してもらいました。 何はともあれ、みんな心配してくれるのが嬉しいです。 3月29日(木) まだ頭がガンガンしましたが、木曜は週に1回だけの2、3年生の授業なので、行くことにしました。大学の廊下でポリナとアーニャにすれ違い、「どうして来たんですか?家で寝ててください!!」と怒られてしまいました。 今週の土曜日はдень открытых дверей。オープンキャンパスです。現代外国語学部も何かやれ、ということで、中国語や韓国語の学生は歌を歌うとか。日本語の学生に聞くと、みんなそんな日があるなんて知らないようでした。知っている学生も、昨日知ったばかりで何も用意していない、と。しかもその日は普通に授業があります。私も今日になって、お隣の中国人のオーリャからその話を聞きました。外国人教師は絶対行け、と。日本語の発表は何をしようか、とターヤ先生と話していると、折り紙、DVD、歌がいいのではないか、とのこと。でも歌を歌う人がいません。どの学年の学生に聞いても、「おもしろくないイベントだから行きません」「幅先生も行く必要ないよ」「授業がある」との返事。ターヤ先生も私にまかせっきりです。困った。 夜はお隣の先生と、韓国語の先生とでご飯を作って食べました。そこでも、土曜日は絶対来い、授業は休んでいいから、とのこと。 3月30日(金) 4年生は学部長の講義があるとかで、私の授業は休みなのですが、明日のオープンキャンパスの相談のため大学に行きました。 結局、4月のカラオケコンテストに参加するアーニャさんに歌ってもらうことになりました。しかしアーニャさんも乗り気じゃないよう。なんとか説得して、一人で歌ってもらうことになりました。DVDはいらないとアーニャ先生(埼玉の研修帰りの日本語教師)が言うので、歌と折り紙にしました。そのアーニャ先生も「興味ない」から当日は来ないとか。どんな風に発表するのかもわからないし、一体どんなことをするのかもよくわからないイベントです。 3月31日(土) とうとうдень открытых дверей。11時から本部にある日本センターで開かれました。まずは中国語の発表。人が多いのと、場所が狭いので、みんなで車座になって見ました。私はてっきりブースがあって、そこで発表すると思っていました。 中国語の発表は、まず中国人留学生のあいさつと歌(手話?付き)、ロシア人学生の歌でした。 トルコ語は、トルコ人の先生のあいさつと、民族衣装を着た学生たちのダンス、歌、クイズ、DVDともりだくさん。 3番目は日本語です。あいさつなんて、全然聞いていません。そもそも何を話せばいいのか。ターヤ先生が、「みんなの前で折り紙をして」と言いますが、一人でこんな大勢の前で、小さい折り紙をしても絶対うけないと思い、発表の後で折り紙をすることになりました。となると、うちは1人の学生が歌うだけ。どうしよう、とターヤ先生を見ると、「頑張って」と、我関せずといった風。結局、アーニャさんが自分で自己紹介をして、私が音楽をかけて、アーニャさんが歌ってくれました。アーニャさんの歌はアーニャさんレパートリーの中から私が選ばせてもらいました。彼女は本当に歌が上手で、歌詞の発音もきれいで日本人が歌っているかと思うほどです。彼女のおかげで会場は一盛り上がりして、無事発表は終わりました。(後日、中国語の先生がアーニャをすごく気に入った、とてもよかった、と言っていました) 最後に韓国語。最近お隣の教育大に大学院生として留学してきた韓国人の若い男性が、おそらく韓国人だからという理由だけで引っ張りだされて、パワーポイントを使って発表させられていました。(否定的な書き方をするのは、一昨日韓国語の先生と話していた時に、彼の話をしていて、「彼はロシア語が全然ダメ」と言っていたのにもかかわらずロシア語で発表させて、彼がしどろもどろで話していると、会場には笑い声が、という状況だったから) なんだかとても疲れたイベントでした。最後に質問の時間があったのですが、先生たちが前に集まったので私も行こうとすると、アーニャさんが「ロシア語で答えられないから行かなくていいよ」と。しかしお隣の中国人の先生が手招きをします。私が行こうとすると、またアーニャさんが「ダメ」と。そんな風にもめていると、日本語の先生として私の名前が紹介され、結局私も前に立たされました。 質問は、学部の建物はどこにありますかとか、何人ぐらい学生がいますか、といったものでした。学部の建物の話の時には「林がきれいです」と答えていたので、何だか笑ってしまいました。確かに林はきれいですが、古い建物で、辺鄙な場所にあるのでそう答えたのでしょうか。 イベントは1時間ぐらいで終わり、最後に部屋の片隅で折り紙をしました。トルコ語のカーチャ先生も来てくれました。彼女は日本映画際にも来てくれたし、嬉しいな。折り紙に来てくれたのは8人で、そのうち5人が顔見知りでしたから、あまりオープンキャンパスらしくありませんでした。 結局、日本語の学生で来てくれたのはアーニャさん(歌)のほかは1年生のリェーナさん1人。彼女は私たちの出番の時に「幅先生、がんばってー!」と大声で応援してくれました。2年生、3年生はユーリャ先生の日本語の授業で、しかもテストらしいので参加できなくても仕方がないのですが・・・ 早く終わったので、アーニャさんと一緒に町の中心街へ行きました。ミーラ通りを歩行者天国にしてярмаркаをやっていました。露天が並び、子どもが遊ぶ風船を膨らましたドームがあり、試食もありで日本の夏祭りのようでした。もうすぐпасха (復活祭)なので、鳥のおもちゃやドームのようなパンも並んでいました。4月15日の選挙のチラシもたくさん配っていました。 |
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大山麻稀子さんはロシア思想史研究会の仲間で、現在千葉大学大学院の博士課程に在籍しておられる方です。彼女から「人生で一番驚いたこと」というメールをもらいました。読んでみて「ちょっと良い話」だと思い、おろしゃ会会報に掲載許可を求めたところ、快諾してくださいました。本の写真と訳文も彼女が送って下さったものです。
【序文和訳】 ヴィクトリヤ・トーカレヴァ 彼女は、まるで長らく周囲の環境に苦しんできた小さな女の子のようである。だから彼女は、耐えるとはどういうことなのかをよく知っている。 彼女の作品は、そんな雰囲気を漂わせている。 無論のこと、彼女の直感力の鋭さは彼女本来の気質である。しかし、あるものすべてを受け止めるトーカレヴァの柔らかな心は、彼女が生き抜いた時代が授けたもののように私には感じられる。彼女は何ものをも拒まない。(同様に、彼女は一人の読者もはねつけない。) トーカレヴァの作品の基をなしているのは「許容力の大きさ」であり、その頂きで彼女の鋭い直感力がきらめいている。 その作品内には、母親の持つ柔和さとオプティミズムがある。(母親というものは、悪いことであれ良きことであれ時は何かを生み出し続けることを知っている。つまり、母親は、歴史が変転し続けることを知っているのだ。) トーカレヴァは他のロシア作家と同じく、「存在すること」を吟味する。彼女の手法は込み入ったものではない。というのは、その作品は手法によってではなく、直感力の鋭さによって生きているからである。 彼女は急がずに、ささやくように読者に語りかける――あたかも自分自身にささやきかけるかのように。それゆえ、我々が彼女の作品を読むとき、我々はその主人公の一足一足をたどっているのだ。 主人公の周りで起こっている事件を、我々は自分自身の体験として受け取るだろう――あたかも主人公の顔に我々自身の瞳が据えつけられているかのように。 どんな人もトーカレヴァの世界に容易に入ってゆくことができる。彼女の作品は、数学的文学作品である。彼女はもっともなことをもっともに語るのだ。 彼女の作品を読むとき、我々は自分たちがいかにもっともなことに気づいていなかったかを知るだろう。 彼女は、自分の感覚も読者も欺いたりはしない。 ヴィクトリヤ・トーカレヴァは、真っ直ぐな心を持った作家である。 そして、その視線の高さが読者の視線の高さと同じであるがために、トーカレヴァの作品は読者に慰めを与えるのである。 大山麻稀子(日本) 本書序文の標題は「ヴィクトリヤ・トーカレヴァ」となっており、大山さんが書いた作文の題そのものがつかわれている。 文末にはマキコ・オオヤマ、ヤポーニヤとある。 巻末にある目次の冒頭に「ヴィクトリヤ・トーカレヴァ−大山麻稀子による序言」とある。
アンリ・トロワイヤ追悼 福住 誠 フランスの著名な作家であり、『女帝エカテリーナ』や『ドストエフスキー伝』、『ヴェルレーヌ伝』や『バルザック伝』などの邦訳で日本でもよく知られているアンリ・トロワイヤが、今年の3月2日に95歳で亡くなった。シラク仏大統領は「フランス文学の巨匠」とその偉業を讃えたとのことである。そこで彼の死を悼み、彼が作家になるまでに歩んだ苦難の道をたどってみることにしよう。 アンリ・トロワイヤは1911年11月8日にモスクワで生まれた。本名はレフ・タラソフ。祖先はアルメニア系チェルケス人だった。父は織物商人で、9歳年上の姉と4歳年上の兄がいた。彼が生まれるとき、母はもう少しで命を落とすところだったと言われていた。この裕福な家には使用人が12人もいた。年老いた婆や、御者、門番、執事、時計師、床磨き、料理人、女中、スイス人の女家庭教師。彼は両親や婆やとはロシア語で、女家庭教師や兄や姉とはフランス語で話した。 レフが6歳になったばかりの1917年にロシア革命が起こり、市街戦が行われた。砲弾の破片や機関銃の弾丸を防ぐために、窓にマットレスが釘付けされた。もっと危険な地区に住んでいた家族の友達が難を逃れにやって来て、廊下に並べられた一時しのぎのベッドで眠った。婆やは頻繁に聖像画の前でひれ伏し、女家庭教師は泣き、スイスに帰りたいと言った。レフと兄は時々彼女の監視の目をくらませて、マットレスの角を持ち上げて外を見た。手に銃を持った数人の人影が通りの角を曲がると、身を屈めながら一歩一歩前進していた。「白軍だ。赤軍を不意打ちにするところだ」、と兄が言った。レフには赤軍が、例えばアメリカインディアンのように、本当に赤いのかどうか分からなかった。女家庭教師は赤くないと言った。 不意に大人たちはパニックに襲われ、旅券や通行証のことしか話さなくなった。使用人は次々と嘲笑的な態度で家を去っていった。ボリシェヴィキが街を支配していたので、ブルジョワである父は秘密警察に逮捕されないように逃げなければならなかった。ロシアはドイツと講和したが、白軍は赤軍と戦闘を再開した。不安で気も狂わんばかりになって、母はハリコフで父と落ち合おうとして家族全員でモスクワを去る準備をしていた。必要な書類を手に入れると、彼女は直ぐに皆のコートの裏にせっせと宝石を縫いこんだ。母、姉、兄、祖母、レフそしてスイス人の女家庭教師は固まって駅に向かって行った。婆やはモスクワに残った。皆は疑われないようにみすぼらしい格好をしていた。これは逃亡だった。 移動はほとんどいつも家畜車に乗って行われた。うさんくさそうに見ている男女に取り囲まれていたので、皆は目立たないように黙っていた。突然、真夜中に火の手が上がった。よく油を注していなかった車軸から飛んだ火花が、床の隙間からはみ出ていたわらに火をつけた。風で火が煽られ、暑くて息苦しくなった。恐怖のあまり泣き叫ぶものもいれば、ひざまずいて祈るものもいた。奇跡的に列車は小さな駅で止まり、皆は煙の中を路上に飛び降りることが出来た。まだ別の試練が待っていた。赤軍が守っている戦線の通過、荷馬車での夜の逃亡、そしてドイツ軍が設営した隔離キャンプに着くと、そこで全員スペイン風邪に罹ってしまった。薬はなかった。わら布団の中へ入って来るネズミを手で追い払いながら粗末なベッドに寝て、飢えと疲労と熱と戦っていた。毎日病人はあばら家で死に、まだ生きている人たちが死体を運んだ。ドイツ軍に雇われていた一人の百姓女が、「伝染病に一番よく効く薬だよ」と言って、母にウオッカを差し出した。実際、それで皆は助かったのだろう。窮状を切り抜けると、どうにかこうにかハリコフまで歩き続け、そこで父と再会した。 ボリシェヴィキが進撃してきた1919年5月に、一家はクリミア半島のヤルタにいた。グズグズしてはいられなかった。なぜなら皇帝一家は前年にボリシェヴィキによって虐殺されていたし、どっちつかずの政治的な意見を持っていると疑われたものは、隣人の単なる密告によって銃殺されたからである。逃げるためにやっと石炭運搬船に乗ることが出来た。乗客は全員船倉に集まった。しかし船が港を出ると直ぐに、黒海で嵐が起き、乗客は船に酔ってしまった。突然、水夫たちが暴動を起こし、乗客をセバストーポリで降ろし、ボリシェヴィキに引き渡すと言った。船酔いを忘れさせるほどの恐怖だった。乗客たちはお金を出し合い巨額のお金で水夫たちを買収した。船はノヴォロシースクへ向かった。 ノヴォロシースクから別荘のあるキスロヴォーツクへ彼らは列車で行った。この地域はまだ白軍が支配していたからである。やがて戦況が変わり、1919年のクリスマスにはまたモスクワに戻れるだろう、と大人たちは話していた。しかしこれは楽観的な予測に過ぎなかった。状況は悪化し、市民はパニックに襲われていた。そこで再びノヴォロシースクに戻った。レフは初めて両親がロシアを離れるかもしれないと話しているのを耳にした。ボリシェヴィキが打ち負かされ、立憲君主制か自由民主制の新政府が樹立されたら戻るつもりだった。1920年1月14日にパスポートが作られた。だがノヴォロシースクの港は氷結し、どの船も出港できなかった。ボリシェヴィキが町に迫っていた。やっと二月初旬に天候が和らぎ、家族は全員急いで混乱の中を乗船することが出来た。船は雪で真っ白だった。船には命が助かったのを喜び、そしてロシアを離れるのを悲しんでいる難民がいるだけだった。船が沖に出ると、周りの人たちも泣いていた。 コンスタンチノープル(イスタンブール)に着いたが、新たな困難が待ち構えていた。しかしどうにか切り抜けると、イタリアの船に乗せられてヴェネチアへ向かい、そこからフランス行きの列車に乗り込んだ。 パリに着いても、レフはスイス人の女家庭教師に教わったお陰でフランス語はロシア語と同じくらい話せたので困らなかった。両親はアパートを借りた。レフはリセ(公立校)に入学した。しかしパリの生活は高くつき、ロシアから持ってきた宝石はあまり売れなかった。生活を切り詰めなければならなかった。ソヴィエト体制が強固になるにつれ、ロシアへ帰るという望みは絶たれてしまった。しかし父は祖国が永久に無くなってしまったことを信じようとはしなかった。祖母はロシアの存在をまだ信じ続けていた。困窮していた。女家庭教師とも別れなければならなかった。父は最後の宝石を売ってしまうと、他の亡命ロシア人と協力して事業をいくつか起こそうとしたが、うまくいかなかった。お金に困っていた。レフはリセを退学になることを心配していた。姉はロシアの劇団に入って古典バレエを踊り、家族の生活費を稼いでいた。兄は技術者になりたくて受験勉強していた。 レフはバカロレア(大学入学資格)試験に合格すると、法学部に入学した。1930年のことである。彼はアルバイトをしながら勉強を続けた。相変わらず家族は貧しく、家具は競売された。1933年に彼は法学士となりフランスに帰化し、軍務に就き、1935年にセーヌ県庁の文書係になった。小さなアパートにはもう家族は三人しかいなかった。兄は技術者になり結婚していたし、姉はアメリカに定住し、やがてロシア生まれの青年と結婚しニューヨークに古典バレエ学校を設立した。 レフは小説『ほの明かり』を執筆していた。そしてこの小説は「プロン」社から出版されることになった。しかし出版社はペンネームを使うよう要求してきた、というのは著者名が「レオン(レフ)・タラソフ」では、読者が翻訳本だと思ってしまうからということだった。出版社の要求はもっともだっただけにがっかりしてしまった。彼は無意識に、新しい姓が旧姓のように「T」で始まることを望んでいた。タラオ、タラソー、トロア・・・トロワイヤに決めた。出版社に電話したところ、姓はいいが、音声上の理由から名も変えるよう要求された。レオン・トロワイヤではしっくりしないし、重苦しくて内にこもっている。響きがもっとはっきりするように名には「i」が含まれていなければならない。うろたえてレフは、思いつくままに「じゃあ、アンリだ!」と口ごもった。出版社は「アンリ・トロワイヤ」というペンネームに同意した。1935年に処女作『ほの明かり』はポピュリスト文学賞を獲得した。こうして彼は作家としての第一歩を歩み始めたのである。1938年には『蜘蛛』がゴンクール賞に選ばれ、そして1959年に彼はアカデミー・フランセーズの会員に選出された。 こうして大作家として名声を博したアンリ・トロワイヤは、100冊以上もの書物を著して世を去ったのである。 |
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県立大学関係者の近親者の中にも、シベリア抑留を体験された方がいらっしゃるし、おろしゃ会会員の中には、研究テーマとして「シベリア抑留」を取り上げている人もいます。福住先生が小田原の地方紙にシベリア抑留に関する文を書かれたと伺い、おろしゃ会会報にも掲載をお願いしたところ、早速、以下の文を寄稿してくださいました。 シベリアから生還した旧日本兵 福住 誠 敗戦から61年が経った、そして今の日本はまるで戦争など経験しなかったかのように経済大国として復興した。しかしながらまだ戦争は終わっていないと心の中で思っている人々もいる。それは旧ソ連軍によってシベリアに抑留された人々である。 戦争が終わったにもかかわらず、旧ソ連各地に不当にも抑留された日本人は、厚生省援護局作成の資料によると約57万5千人で、そのほとんどが旧ソ連の戦後復興のための労働力として強制的に労働を科せられ、そのうち約5万5千人が死亡した。 彼らはどのような扱いを受けたのだろうか。それを語り伝える人も少なくなってきたが、これは生き延びて日本へ帰国した元抑留者が私に語ったごく短いが本当の話である。 当時22歳の鉄道員であった私の義兄、尾嶋久和(現在84歳)は、1944年(昭和19年)4月1日に帝国陸軍に応召し、満州の関東軍の無線隊に通信兵として配属された。翌年の1945年(昭和20年)8月8日にソ連軍はヤルタ協定に基づき、日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告し、満州に侵攻し関東軍を撃破した。 日本は8月15日に無条件降伏したのに、彼の部隊は8月19日に移動のため八面城を出発し、8月20日に四平街に着き、貨車の中で停戦を知らされた。その後所属していた五四九部隊は奉天に集合し、ソ連軍に武装解除され、そこに約1ヶ月止まっていた。ソ連軍の説明によると、ウラジオストック経由で日本へ帰国させるから出来るだけたくさんの品物を持って行くようにとのことであった。 9月30日に1500名の日本人捕虜は客車に乗せられ、奉天を出発した。3台の蒸気機関車を連結した列車は、燃料が石炭ではなく木炭だったために馬力が無く、小興安嶺山を越えられなかったので、全員客車から降りて列車を後押しした。そして下り坂になったとき再び列車に乗った。 10月17日にソ満国境を通過し、ソ連領に入った。誰もが日本に帰れると思い胸躍らせていた。しかし一向に日本海は見えて来なかった。ある朝、仲間の一人が騒ぎ出した。「おい、この列車はおかしいぞ。日本に帰れるなら東へ向かっているはずだ。それなのに朝日が後ろの方に見えるぞ。東へは向かってないぞ。」大騒ぎになった。ソ連兵はこの騒ぎを鎮めるため、「この列車は夜、東へ向かっているので心配しないように」と言って皆をなだめた。そのときはそれを聞いて何となく納得してしまった。しかし車窓からバイカル湖が見えたとき、「だまされたんだ、もう日本へは帰れないんだ」と思うと、悔しくてたまらなかった。 11月3日に列車は中央アジアのカザフスタン共和国のカラガンダに着いた。そこは広大な炭鉱があるだけの高原地帯だった。そして直ちに収容所へ入れられたが、それは一種の刑務所のようなところだった。そして見張りも囚人だった。出来るだけたくさん持って行くようにと言われた所持品は没収され、ソ連兵は没収した腕時計を両腕にいくつも付けていた。 もう冬でとても寒かった。零下30度以下になることもしばしばだった。収容所の建物は250平米のバラックで、わらの敷かれている二段ベッドに毛布を一枚掛けて寝た。暖房はペチカが一つあるだけで、燃料は一日石炭60キロと決められていた。トイレは建物の外にあったので、用を足すときは棒を持って行かなければならなかった。なぜなら寒さのために他の人が用を足した糞が凍り、それが針のようにとがっていて、今度は自分の尻を突き刺す危険があったからである。それで用を足す前に棒でその糞をたたき割らなければならなかった。ところが部屋へ戻ると、飛び散って衣服にくっついていた糞が溶け、臭くてたまらなかった。一度夜起きたら、もう寒くて寝付けなかった。 早速1500名の抑留者は二五名単位の小隊に編成替えされ、1日8時間の強制労働が始まった。仕事の種類は技術の有る者は大工、左官、無い者は砕石、石炭降ろし、農園でのジャガイモ掘り、工場での運搬、土方作業だった。 朝6時起床。靴下が無かったので足にネルを巻いた。8時点呼。これには一時間かかった。朝食は黒パンと飯盒に粟をどろどろに煮たスープだった。昼食も夕食も同じだった。1日のノルマが課せられ、夏は3立米、冬は1立米の穴を掘らなければならなかった。その働きによって受け取る黒パンは450グラム、350グラム、250グラムに分けられていた。特に冬は地面が凍っていてなかなか仕事がはかどらず、とてもつらかった。 夏、たまに1日のノルマを早く達成して休んでいると、ノルマが少なすぎるから休んでいるのだと言われ、余分にノルマを課せられてしまった。 零下30度以下の日は仕事をしなくてもよかった。その代わりに日曜日は働かなければならなくなった。熱(37.5度以上)があるときは病人と見なされ休んでいてよかった。そして入院した場合は1日5回食事が出た、なぜならソ連のために働いて病気になったのだから再び元気になって働いてもらいたいからということだった。 寒さと栄養失調のために死んだ仲間もいた。死ねば腐ったトマトと同じだからといって、丸裸で埋葬された。 収容所の生活に耐え切れず脱走する仲間もいたが、捕らえられて懲役25年の刑を受けた。 入浴は1ヶ月に1回だけだった。湯は手桶に一杯で、石鹸はキャラメル大のが1個だった。シラミが湧いたために衣類は熱湯消毒された。 少ない食料を節約して正月用に取っておいたのに見つかってしまい、余分なものとして没収されてしまった。 あるときロシア人のトラック運転手と監視人と一緒に、日本人二人が石炭置き場の守衛とぐるになって石炭を盗み出し、山分けしたことがあった。 近々日本へ帰れるという情報が意図的に流された、そして誰もが最初はそれを聞いて喜んだ。しかしそれが毎月1回流されるようになると、もう誰もそれを信用しなくなった。 民間人は一般に人がよかった。仲間がソリを修理してやってもお礼を受け取らなかった、するとロシアの女たちは自分たちには支払う義務があり、日本人は受け取る権利があると言い張って、お礼を置いて行った。これには感心してしまった。 子供たちは日本兵のことをハラキリ、サムライと呼び、野蛮人と見なしていた。あるときアジア系の子供が夜空の月を指して、「日本にもお月さんがあるか」と聞いた。そこでからかってやろうと思い「ある、ある、三つもある」と言ったら、その子供は「すげえなあ」と言ってたまげていた。 収容所に入れられてから約1年11ヶ月が過ぎようとしていた。「ダモイ!」(帰国)という言葉が聞こえた。どれほどこれを待ち望んだことだろう。1947年(昭和22年)9月20日にカラガンダを発ち、ナホトカから船に乗ったが、日本に帰れるかどうか半信半疑だった。なぜなら今まで露助(ロシア人)には何度も嘘をつかれたからである。10月12日に舞鶴港に着いた。ようやく地獄の苦しみから解放されたのである。 あれから61年が経ち、今では抑留生活が懐かしい思い出に変わりつつあるとは言え、奪われた青春時代を償ってくれと言いたい。 ボルガ川クルーズ 福住 誠 2004年の夏、モスクワからサンクトペテルブルクまでボルガの船旅を楽しんだ。日本で現地集合・現地解散のツアーを申し込んだ。7月20日の夕方にモスクワに着くと、出迎えの車でベルグラード・ホテルへ向かった。翌日モスクワの街を歩いた。14年ぶりのモスクワは明るくなり、再建された「救世主キリスト聖堂」の金色の丸屋根が目にまぶしかった。土産物屋やレストランの価格表示もドルよりユーロの方が多くなっていた。そして公衆トイレも汚物が山盛りになっていて、とても使えたものではないといわれていたが、たまたま入ったトイレはそうではなかった。相変わらず「赤の広場」には観光客がたくさん来ていた。それから初めてトレチャコフ美術館へ行った。西欧の名画が納められているエルミタージュ美術館と違って、ロシア名画のコレクションも見ごたえがあり非常に興味深かった。お腹が空いてきたのでレストランを探した。外に価格表が出ていたがルーブルなのかドルなのか分からなかった。聞くとユーロだという。現金の持ち合わせがなかったので「カードが使えるか」と尋ねると、大丈夫という返事だった。そこで安心して氷の山に魚介類が載っている「海の幸」やスープなどを注文した。料理はとても美味しく満腹になった。領収書を見たら、びっくりしてしまった。2万円も食べてしまった。ユーロ表示で余り計算もせずに食べたいものを頼んだからだ。しかしそれなりに満足したのだから、よしとすべきだろう。 翌22日午後12時にホテルに迎えが来て、車でクルーズ船の停泊している船着場、レチノイ・ボクザールまで連れて行ってくれた。船は旧東ドイツ製の「ニコライ・バウマン」号という。船上には7月22日から8月2日までの滞在だ。乗客はドイツ人、フランス人、スペイン人、ウルグアイ人のグループだった。日本人は私たち二人だけで、イギリス人とオランダ人のグループに入れられた。私たちのグループにはクセニヤという英語の話せるガイドが付いた。彼女は19歳のサンクトペテルブルク大学ロシア文学専攻のアルバイト女子学生で、チェーホフの小説が好きだと言っていた。これから11日間このグループとこのガイドと一緒に行動することになる。食事をするテーブルも決められ、80に近いと思われるイギリス人老夫婦と毎回食事をすることになった。「イギリスへ行ったことはあるか」と聞かれたので、「ロンドン、エジンバラ、湖水地方、バース、ストラトフォード・アポン・エイボン」と答えた。ウエールズ地方から来たというこの老夫婦は、とてもお洒落だった。 食事は、毎晩夕食時に翌日の夕食は魚にするか肉にするか、または別のものにするかを決めるアンケートが回ってきて、印をつけなければならなかった。料理はソ連の時代にホテルで食事をしてうまくなかったので期待していなかった。だが今回は違った。予想に反して日本人の口にも合う美味しい料理で、野菜も多くずっと飽きることはなかった。ソ連からロシアに変わったよい傾向だった。しかしテーブルを決められたのは窮屈だった。 23日はモスクワ市内観光に連れて行かれた。クレムリンも以前来ているので特に感動もしなかった。翌24日の出港日の午前の自由行動時間に、ロマノフの家博物館へ行くため地下鉄に乗って街へ出掛けた。しかしそれがなかなか見つからずやっと見つかって入ろうとしたら、まだ開いていなかった。やがて係りのおばあちゃんたちが出勤してきた。裏へ回れというので言うとおりにしたが、開けてくれなかった。開館時間はとっくに過ぎているというのに。焦ってしまった。12時半には船が出港してしまう。なぜ開けてくれないのだろう。恐らくお茶でも飲んでおしゃべりでもしているのだろう。結局は入れなかった。ああ、やっぱりロシアだ! 船が静かに岸を離れた。船旅というものは何か心躍らせるものがあるようだ。しかし船室は狭かったしエアコンは壊れていた。なぜならそれが異常に熱くなり修理してもらったのに、今度は夜になると船室が冷えすぎて寒くなってしまったからである。結局、最後まで我慢してしまった。 毎晩翌日の予定表が配られた。夜はコンサートが開かれ楽しいときを過ごせるようになっていた。 船は静かに航行していた。ところがしばらくすると船がゆっくりと狭い運河の中を垂直に両岸ぎりぎりに下りて行った、そして水門が開かれるとまた進み始めた。これは非常に興味深い貴重な経験だった。こんな事はめったに味わえるものではなかった。こうして終着地のサンクトペテルブルクまで18ヵ所もの水門を通っていくのだ。やがて船はボルガ川本流に入り北上した。 ボルガ河岸は、ドイツのライン河岸に比べたら景色は非常に単調である。華やかさは全くない。時たま廃墟となった修道院が現れたり、木造の家屋が点在しているのが見えたりするくらいである。時間はゆっくりと進んでいく。しかし川の中に瓦礫となって佇んでいる教会が目に入ってきたときは、なかなか風情があるなと思った。 7月25日の午前11時半に最初の寄港地ウグリチに着く。船着場のすぐそばで民族衣装を着た女の人が騒々しく歌を歌って観光客を出迎え、また道の両側には土産物を売る露店が並んでいた。そして変容大聖堂と聖デメトリウス教会へ行ったが、そこで聞いた男声合唱団は素晴らしいものであった。それからウオッカ博物館へ行き、そこでウオッカの試飲もした。 7月26日午前7時半にコストロマに到着した。この田舎町にあるイパチェフ修道院を見学し、それからヤロスラーブリの変容修道院と預言者イリヤ教会を見学した。歩きながらガイドにロシア語で話しかけると、どうしてもっと早くロシア語で話さなかったのかと言われた。そこでレールモントフの詩『帆』の冒頭「海の青い霧の中に白帆がひとつ見える・・・」を口ずさむと、クセニヤはびっくりした。この詩はロシアの教科書にも載っているのだろう。テレビ番組「徹子の部屋」にゲストとして出演していた旧ソ連大統領、ゴルバチョフもこの詩を披露していたから。またニコライ・カラムジンの『ロシア人旅行者の手紙』の一部を『ロシア人の見た18世紀パリ』と題して翻訳出版し、故今井義夫さんに言われて全く面識のないロシア文学研究所のカチェトコーワ先生に贈ったところ、丁重な返事を頂いたことなども話した。すると彼女はカチェトコーワ先生のことはよく知っているとのことだった。 7月27日午後1時半にゴリツイに到着。ここの聖キリロ・ベロゼルスキー修道院の大回廊は壮観だった。しかしこんなに大きな修道院に修道士が二人しか住んでいないと聞いて驚いてしまった。 聖キリロ・ベロゼルスキー修道院の大回廊 夕方、船はさらに北上した。夜になると天気が悪くなり、船が少し揺れ始めた。外を見ると、荒波が立っていた。川ではなく海だった。ところが実際はオネガ湖だった。余りにも大きくて海のように思えたのだ。そして翌日の午後にキージ島に着いた。ここには釘一本使ってない木造の教会があり、それは見事なものだった。また博物館になっている農家では民族衣装を着た若くてきれいな娘さんたちがリリアンを作っていた。そして家具調度も農民の暮らしぶりが偲ばれて興味深かった。
船に戻り夕食の時間になった。いつもワインを飲んで陽気に騒いでいるのは、フランス人のグループだった。静かにイギリス人老夫婦と食事をしていると、40代のフランス人女性がやって来て、たどたどしい英語でイギリス人に話しかけた。おばあちゃんはうるさがった。それから私にも話しかけてきた。そこで「フランスへは行ったことがある。パリ、サンドニ、ヴェルサイユ、シャルトル、シャンティイ。ディジョン、ブザンソン、ストラスブール、コルマール。モンサンミシェル、ル・ピュイ、クレルモンフェラン、ロワールの古城。カルカソンヌ、ポン・デユガール、ニーム、アヴィニョン。アルル、エクス・アン・プロヴァンス、リヨン、ペルージュ、ボーヌそしてマルセイユ」、と行った場所を列挙 キージ島の木造教会 した。これを聞いて彼女は驚き、仲間のところへ行って、「あの日本人はフランスをぐるりと回ったのよ」と言っている。そのうちフランス人たちがフランスの国歌を歌いだした。私もアルコールが回ってきたので起立して歌った。するとこっちのテーブルへ来いというので仲間になった。「マルセイユではブイヤベースが美味しかった」と言うと、皆は満足そうにうなずいていた。それから私はさっき来た女性に「ずっと前から好きでした」とフランス語で冗談を言ったら、皆が爆笑した。 夜の9時にキージ島を離れ、翌29日の午後12時半にマンドロギに着いた。ここでは昼食を野外で取ることになっていた。観光客がシャシリク(バーベキュー)、ワイン、ビールのランチを楽しんでいる間、女性の歌手がロシア民謡を歌いながら会場を回っていた。ところがずっと気になっている夫婦がいた。40代と思われる二人はエジンバラから来たと言っていた。皆が騒いでいるのにメガネをかけた夫人は読書をしているのである。それを旦那が注意する様子もなかった。昼食だろうが夕食だろうが、いつもそうだった。朝食も例外ではなかった。こうなると食事の最中に読書をしているのか、読書の最中に食事をしているのかもう分からなかった。旦那が何も言わなかったのを見ると、日常もそうなのだろう。どこの国にも変わり者はいるものだと思った。 乗船するまでにまだ少し時間があったので露店でキャビアを買った。安かった。開けるものを持っていなかったので船員に開けてもらい食べてみた。ちょっと変だった。空港でいつも土産に買うキャビアと味が違う。失敗だった。古かった。 ← 水没して廃墟となった教会 今晩は乗客全員がグループごとに余興をやらなければならなかった。ダンスをするグループもあれば合唱をするグループもあった。私たちのグループは寸劇をやることになった。私は若い娘に恋焦がれる若者の役をやらされる羽目になった。娘の役は、背が1メートル90位のオランダ人の大男だった。スカーフを被り、ほほ紅を付け、目をぎょろつかせていた。私の恋敵の役もオランダ人の大男だった。そしてこの恋敵を私がやっつけて、めでたしめでたしとなった。しかしこの喜劇の最後の場で、私はこの娘役の大男に抱きかかえられて手を振りながら退場したのである。これを見て観客は大爆笑した。仲間は大成功だといって大喜びしていた。翌日、スペイン人の青年が「グッド」といって声をかけてきた。一夜にして私は大スターになってしまったのである。 7月30日の午前10時にサンクトペテルブルクに着いた。エルミタージュ美術館見学だ。以前来たときと同じものを見せられた。レンブラントやラファエルロなどの絵画だった。午後はペテロパヴロフスク要塞見学だ。ここにある聖堂は初めて入ったが、皇帝たちの棺があり興味深かった。 7月31日の午前は市内観光だったが、これも前に来ているので新鮮さは感じられなかった。午後は自由行動だったので街を歩き、ある土産物屋に入った。品質のよい土産物が並べられていた。女店員に30歳位の東洋人がいた。日本人だった。日本人観光客担当のスタッフで、ロシア人と結婚してここに住んでいるという。一日中家にいてもつまらないのでパートで働いているという。夫は日本語が分からないし、彼女はロシア語が分からないので英語で話をしているとのことだった。そんなでよく結婚したなあ、と思った。 8月1日はグループと別行動を取った。今日はツアールスコエ・セロへ行く日だ。ところが日本で予約をしておいたガイドが時間になっても来なかった。ロシアならありうることだと思った。ガイド料も払い込んできたのに心配になってきた。しかしこの船の主任ガイドが旅行社に連絡を取ってくれてやっと来た。どこに船が泊まっているのかが分からなかったからとのことだった。船で昼食を取らないことが分かったので、女のスタッフがリンゴとサンドイッチを作らせて持ってきてくれた。車でエカテリーナ宮殿に向かう。金色の丸屋根と白とブルーの外観のこの宮殿が見えてくると、すがすがしい気分になった。船が嵐に会いロシア領に漂着した大黒屋光太夫が、日本への帰国を願い出るため女帝エカテリーナ2世に謁見した大広間も興味深かったが、なんと言っても圧巻は、「琥珀の間」だった。ナチス・ドイツに持ち去られ、いまだに行方不明になっているので、それを再現したものであるとはいえ、感嘆してしまった。写真に撮りたかったが、撮影禁止だった。それからまだ時間があるからどこか行きたい場所はあるか、と女性のガイドが聞いた。パヴロフスクへ行くことにした。ここには暗殺された皇帝パーヴェルの宮殿がある。宮殿の前にはパーヴェルの立像が立っていた。中に入るとどの部屋の調度品も目を見張るほど素晴らしかった。やはり皇帝の住んでいた宮殿だけのことはあると思った。まだ時間があるからガソリン代を出してくれればサンクトペテルブルクの街を案内すると運転手に言われたが、いくらお金を取られるか分からないし、いままでに観光名所は見ているので断り、船に帰ることにした。 8月2日は下船の日だ。仲間とも別れの挨拶を交わした。もう一生会えないと思うと、複雑な心境になった。午後12時に船に迎えの車が来て、サンクトペテルブルク・ホテルへ向かった。一休みしてから巡洋艦オーロラ号のそばを通り、街中まで歩いて行った。かなりの距離だった。ガイドブック『地球の歩き方―ロシア』に美味しいケーキ屋があると書いてあったので入ってみた。全く美味しくなかった。こんなことを投稿した女性の味覚は一体どうなっているのだろうか、と思った。 8月3日、ホテルに車が迎えに来て、サンクトペテルブルク空港へ向かう。モスクワ経由で、翌4日の午前10時に成田空港に着いた。15日間の旅だった。 |
おろしゃ 会」会報 第14号 (2007年11月1日発行) 発行 〒480-1198 学生会館D-202(代表・安藤由美) http://www.tosp.co.jp/i.asp?i=orosiya 発行責任者 加藤史朗( 〒480-1198 http://www.for.aichi-pu.ac.jp/~kshiro/orosia.html |