「おろしゃ会」会報第15号

おろしゃ会会報第15号その0

２００８年９月15日

追悼

加藤　晋先生

（1936･3･30～2008･3･18）

　おろしゃ会は、多くの篤志家に支えられている。中でも名古屋の医師・加藤　晋先生には、発足当初より、いろいろとご支援を頂いてきた。本年はじめ、会報第14号を新年のご挨拶とともに先生にお送りしたところ、早速メールで返事をいただいた。何度かメールのやりとりをする中で、先生から思いもよらぬ申し出を受けた。１月30日に大学に行き、手元に残っているロシア関係の資料とともに金100万円を寄付したいと言われたのだ。ロシア語やロシア関係の資料については、既に2001年春に二度に渡り350点以上の寄贈を受け、会室内に『加藤晋先生文庫』が設けられていたので、心構えは出来ていた。だが、100万円の寄付というのは、尋常ではない。一度はご辞退を申し上げたが、先生の意志は強く、跳ね返されてしまった。異例の事態に面食らった私は、顧問の田邊三千広先生、前会長の塚田麻美さん、現会長の田川聡子さんなどと相談し、加藤　晋先生記念基金管理委員会を作り、この基金を有効に活用すべく、いろいろと思案した。その結果は、１月30日に私の研究室にお出でいただいた時の先生ご夫妻の写真とともに、既に、インターネット版の会報第15-1で公開してある。

先生ご夫妻はその日、ベンツのスポーツカーで颯爽と大学に来られ、研究室にて資料と寄付金を渡された後、生協の食堂で学生たちに交じって、加藤晋先生はカレーライス、瑠璃子先生はうどんの昼食をとられて、すぐにお帰りになった。まさに一陣の風のようであった。その後、学生からもお礼状を出したいと言っていますとメールで申し上げると、次のような返信が届いた。

「お礼状はいりません！なんども申し上げますが、私はすべて没交渉とし、一通の年賀状すら書かない人間ですから、もうお礼状とやらも縁ないものです。今、試験シーズンですから、学生さんは書き慣れないお礼状に神経を使うより、試験勉強に精をだして一点でも多く稼いでください。おやすみなさい。」

　８月の前半、札幌で原　暉之先生と会い、インターネット版の会報第15-1で公開した企画案の変更について了承を得た。まとまった企画は、次の通りである。秋の県大祭に合わせて、おろしゃ会では加藤　晋先生基金をもとに、シンポジウム「日本とロシア―若い世代へ－文学の立場から」を行う。講師に東京外国語大学長の亀山郁夫先生を迎え「グローバル化時代のドストエフスキー―『カラマーゾフの兄弟』と『罪と罰』の可能性」という提言をいただく。これをもとにフロアと質疑応答をするというプランである。そのことを札幌から郵便で加藤先生にお知らせした。インターネット版の会報第15-1に掲載したプランについては、何度か先生にメールで報せたが、返事はなかった。やがてメールは配送出来ないというメッセージが届くようになった。世俗との交わりを断ち、鶴舞図書館において、ヘブライ語で旧約聖書を読んでいますという便りを最後にもらっていたので、メールも止めてしまわれたのかと思い、郵便にしたのである。ところが、名古屋の自宅に戻ると、奥様から返信が届いていた。モジリアニの「母と子」の絵はがきの文面に「晋は３月18日に死去いたしました」とあった。さらに「先生の大学へ参りましたのは、最期ま近い時でした」とも書かれていた。愕然とし、言葉を失った。

９月に先生のお宅を訪問し、半年も遅れて先生のご遺影にご挨拶をした。その際、奥様の瑠璃子先生が著された『ラピス　ラズリー　――瑠璃色のかなたへ旅だった夫を見送って――』（星雲社刊）という書物をいただいた。同書によれば、先生は2006年秋に肺癌と診断された。以後、余分な延命措置は拒絶され、残りの時間をギリシヤへの５度の旅行、ヨーロッパ・ロシアやカムチャツカへの旅、ドイツ訪問、北海道など国内各地への旅、映画鑑賞などなど、めくるめく程の一年半を過ごされた。

下の写真は、2007年５月、ニュルンベルクを旅した折りに撮られたもので、瑠璃子先生の本にある写真の原画を送っていただいた。ニュルンベルクに着いた時が、たまたま同市のサッカーチーム全国優勝達成の瞬間と重なり、チームのＴシャツを着ていた先生が若者に囲まれ、大もてだったという。写真で見る先生の姿は普段と全く変わらないばかりか、むしろ、生き生きとしている。

先生が寄贈された資料の一部がまだ未整理のまま研究室にある。一つ一つを手にして驚くのは、いずれもしっかりと読み込んでおられることである。ロシア語会話のテクストなど、ここは誰それのテクストの剽窃、ここは間違いなどと書き込みがしてある。寄贈された中にフランス語文献もある。カミュの『異邦人』（ガリマール文庫）は、クタクタになっており、まさに崩れ落ちる寸前の体である。ラ・ルース古典文庫の一冊ラシーヌの『フェードル』は、部分ごとに千切られ、ホッチキスで留めてある。おそらく常時携帯し、暗記されたようだ。いずれにしろ、猛勉強ぶりが伝わってくる。

今、大変な遺産を先生から相続してしまったという思いにかられている。大変重い。先生の訃報に触れ、一ヶ月余りが過ぎ、やっと、その遺産の一部を手にして、どっこいしょと立ち上がりかけたところである。

2008年９月14日　加藤史朗

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　2007年５月ニュルンベルクにて（撮影：加藤瑠璃子先生）

加藤　晋さんの思い出

安井　亮平（早稲田大学名誉教授）

　思い返してみるに、加藤　晋さんと私とは、妙な縁で結ばれていたものだ。

　1948年春、私たちは名古屋の東海中学校に入学し、ついで同高校と都合６年間一緒に学んだが、親しくなったのは、高校で山岳部に属していたためである。

　部員は同学年の数名だけであったが、かなり活発に活動した。そのリーダー格が晋さん（当時なぜかドンちゃんと呼んでいたように憶えている）であった。

　よく土曜日授業がおわると、そのまま鈴鹿山脈の御在所山麓に出かけ、翌日御在所山や鎌ヶ岳、雨乞山などに登って、日曜日夜に帰宅したものである。晋さんを先鋒に岩登りも試みた。夏休みや秋の連休には、前穂高岳や白馬岳に遠征したことがあるし、国体の予選で木曽山脈の恵那山にも登った。

　私にとって、居心地が全く良くなかった中学・高校時代で、ほとんど唯一の明るい思い出である。

　だが、1954年高校を卒業し、それぞれの道を歩み出すと、加藤さんとの絆もぷっつり断ち切れた。

　再び加藤さんと連絡がとれたのは、それから三十数年たってからである。

　晋さんと夫人の瑠璃子さんがロシア語の勉強を始めたのは、瑠璃子さんの『ラピス　ラズリー　瑠璃色のかなたへ旅だった夫を見送って』（2008年、星雲社）によれば、1986年のことだという。お二人は、どうやら、1989年10月から翌年３月にかけて私が担当したＮＨＫラジオのロシア語講座を聞いてくださったらしい。多分そのためなのだろう、そのころ突然晋さんから電話があったように記憶している。

　それから2006年４月まで十数年にわたり一月半か二月に一度電話をもらった。たいていは、晋さんの病院の昼休み直前で、たまに患者の途切れた時のこともあった。いつも決まってまず私の健康を訊ねられた。

　ちょうどそのころ私は極めて不調だった。目眩が甚だしくて、もどしたり、立って歩くことが出来ず這ってトイレに通ったりした。気分が暗く、夜もほとんど眠れなかった。教師稼業が心底いやになり、無性に大学をやめたくてたまらなかった。

　しかしどの病院で検査を受けても、耳にも他の器官にも全く異常がみつからない。とどのつまり自律神経失調症との診断であった。今から思うと、更年期障害かうつ病と考えたほうが、わかりやすい。

　少し目眩が治まり出したころ、いつもの電話を受けたので、「上を見ると目眩がして困っている」としきりに訴えると、晋さんは事もなげに、「じゃ上を見なきゃええがね」といった（いつも晋さんは名古屋弁を使った）。そうだ、上を見なければ良いのだ。実に簡単なことではないか。途端に心が軽くなった。おかげでこれを契機に、いつどこで目眩が起きるかもしれないという不安と恐怖から脱出することが出来た。徐々に健康が回復していった。つくづく晋さんは名医だと感服したものである。今も感謝している。

　それからは、身体に取り立てて悪いところはなくなった。いつもの問いかけにも、「まあまあ、何とか」とか「年相応に」と答えられるようになった。すると決まって、「そりゃええがね」、「それでええがね」と励まされた。「机にばっかりかじりついておらんで、散歩しやぁ」、「ちょっと近所のスーパーへ行って、人の暮らしを見やぁ、これも勉強」などなどいろいろと助言を受けた。まさに主治医であった。

　いつも電話で話すのは専ら晋さんであった。私が話すのは、ほとんど何か訊ねられた時だけ。こちらから電話をしたこともない。

　いつの間にやら、こちらから何か質問したり、意見を述べたり、新しい話題をいい出したりしないこと、こちらからは電話をかけないことという不文律が、二人の間に出来上がっていた。だからといって、一方交通という感じでは全くなかった。晋さんの話の節々にこちらへの細やかな心遣いが感じられたし、一見ぶっきら棒に見えるが、実は優しくて親切なのを山岳部の経験からよく知っていたからだ。それに何よりも、晋さんの話がおもしろく、さまざまな事を学んだし、この極めて個性的な希な人物を知る大きな喜びがあったからである。

　電話でよく話題にのぼったのは、晋さんがいつも飲み会をしたり一泊旅行をしている同窓の数人の親友連中の消息や、その飲み会や旅行の報告であった。これは噂話などではなくて、卒業以来学校はおろか同窓会にも出席したことのない私への、晋さん流の精神安定剤であると、私は受け取っていた。

　しかし、最大の話題は、晋さんの語学勉強についてであった。私への気遣いから、取り分けロシア語とロシア人が、よく話題となった。

　ロシア語会話に上達するために、瑠璃子さんと連れ立って、名古屋港にソ連船が入る度に埠頭で待ちうけて船客に話しかけたり、時に街を案内したりするとか、名古屋に来たロシア人学者を探し出して付き合っているとか、名古屋大学留学生会館まで出かけロシア人留学生を見付けては世話しているとか、実に涙ぐましい努力である。もっとも時にロシア人の毒気にあてられ、辟易していたようだが。

　ロシア人を自宅に招いてご馳走すると、必ず私に電話があって、その人たちを紹介された。後ほど、その中の一人、晋さんお気に入りの物理学者が、モスクワの私たちの借家を訪ねてきて、深夜まで話し込んでいったことがあったし、不幸にも帰国後モスクワで不治の病に倒れた研究者を、家に訪ねて、晋さんのお見舞いの品を届けたことも二度ほどある。

　晋さんは、懸命に、プーシキンらロシアの詩や、気に入ったロシアの歌の歌詞を暗記し、その音調を愛でた。それが、晋さん流の外国語習得法であった。ドイツ語やフランス語やイタリア語の詩を暗誦したら、知り合った本国人がひどくたまげていたと、愉快そうに晋さんが話すのを、幾度も聞いた。

　私はロシア語一本槍で、ロシア語を勉強し始めてから半世紀以上たつというのに、四苦八苦の毎日なのだが、晋さんは、瑠璃子さんの証言によれば（前掲書）、なんと11ヶ国語（英語、イタリア語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、ヘブライ語、ラテン語、現代ギリシャ語、古代ギリシャ語）も出来たという。ちなみに、瑠璃子さんも８ヶ国語学んでいらっしゃる。私の若い友人にも一人ポリグロットがいるが、彼は言語学者であるから当然だとしても、やっぱり晋さんのようなポリグロットは、私には不思議な異星人のような存在に思える。

　ある時、「そんなにことばが出来るのに、そんなに外国人とつきあっているのに、なぜその本国へ旅行しないんだろう」と、思わずもらすと、「病院があるんで、旅行などできせん。まあ、旅の代わりにことばをやっとるんだわ」との返答だった。

　最晩年は、古代ギリシャ語とヘブライ語に打ち込んでいた。病院の激務の中、名古屋大学と南山大学に聴講に夫婦二人で通った。ギリシャ悲劇や喜劇とか、哲人の著作を原文で読む楽しさを度々聞かされた。研究書を需めに京都の本屋まで行った話も聞いた。「これこそ至上の悦楽だなあ」と感嘆すると、「いや、ほんの遊び、遊び」と、いかにも照れ屋で時に偽悪家（まさに典型的な名古屋人だ）の晋さんらしい反応であった。名古屋やその近辺に住むギリシャ人と付き合い出したとも聞いた。

　さらに、晋さんは、ヘブライ語で旧約聖書を読み出した。「旧約聖書はなんと豊饒な世界だ」と、繰り返し述べた。私はただ感嘆し羨望しながら聞くばかりであった。

　加藤さんとの絆が復活して間もなくのことであるが、名古屋に来る予定を訊ねられたので、名古屋には当分行かぬが近々京都へ行く予定であると答えた。珍しく京都で講演を頼まれていたのである。

　当日会場につくと、なんと加藤さんが京都に住む同じく整形外科医の同級生とともに、来てくれていた。高校以来ほぼ40年ぶりの再会であった。さすがに互いに年をとってはいたものの、すぐにわかった。

　会が終わると、ロシア料理をご馳走になり、夜は、京都の友人なじみのバーに連れて行かれた。いかにも京都らしい、外からはバーと見えない一見さんお断りの店だった。あれこれ話が弾んだが、昔話に耽ることはなかった。晋さんは最終の新幹線で帰ると言い張って、なかなか腰を上げようとしなかったのだが、果たして間に合ったかどうか。それについて次の電話でも全くふれることがなかった。晋さんの美学が許さないのだ。晋さんは、説明したり弁明したりするのを極度に嫌った。

　二度目にそして最後に加藤さんと会ったのは、さらに十数年後2006年５月初め、石垣島においてである。

　その２、３月前にこんな電話があった。いよいよ４月末で34年間やってきた病院を閉じ、ギリシャに留学する、それで５月初めに世話になった人や親しい友人を夫婦で石垣島に招待し、それでもって自分の葬儀に代えたい、それ以降は友人や知人との交際を一切謝絶する、ついては君たち夫婦も石垣島に招待したいので、ぜひとも受諾してほしい、とのことであった。

　突然の異例な申し出にとまどったが、結局参加させてもらうことにした。石垣島や竹富島など八重山諸島は、私たちの大好きな所で、すでに数度訪れていた。そもそもかつて石垣島を晋さんに勧めたのは私であった。

　石垣島へは三泊四日の旅であった。参加者は各自自由行動とのことで、おかげで思いがけぬ時に石垣島や竹富島を満喫させてもらった。夜、加藤さん夫妻にホテル最上階のバーに誘われたものの、私が全くの下戸で付き合い下手ときているから、折角の貴重な機会を十分に活かせなかったのが、今も心残りである。出発の日の朝、朝食をとりにロビーに降りると、ばったり、はやホテルを出発せんとする晋さんに出会ったが、それが最後の別れとなってしまった。

　やはりそれ以降二度と電話はかかってこなかった。再び晋さんとの絆はぷっつり断ち切れた。

　今年４月中ごろ、瑠璃子さんからの便りで初めて、晋さんが３月18日に逝去されたことを知った。晋さんの希望にそって、近親者のみで葬儀が執り行われたという。最後までいかにも晋さんらしい。

　瑠璃子さんの本によって、晋さんの最後の日々をくわしく知ることが出来た。

　2006年４月末に自ら開いた病院を閉じ、５月初めのゴールデンウィークに石垣島へ私たちを招待した時には、まだ病気のきざしはなかった。肺癌で余命10ヶ月と宣告されたのは、10月のことであったという。それから2008年３月に逝去するまで、「誰にも自分の肺癌を報らせることなく」、「無駄な抵抗はやめて、命のある限り、充実した生を全うしよう」と、懸命に豪気に生きた、その姿に脱帽する。

　くわしくは、『ラピス　ラズリー』をご覧いただくとして、大患をかかえながら、念願のギリシャ旅行を５度のほかドイツやヨーロッパ・ロシアやカムチャトカを旅行し、国内も大好きな北海道をはじめ各地を度々旅行した。死の前日には、残される瑠璃子さんのためにセキュリティまでも処置して、遂に「全てをやり遂げた満足感から本当に穏やかな顔つきを見せて」亡くなったのである。

　失って初めてその価値に気付くというが、残念ながらまさにその通り、晋さんの偉さも、遅まきながら今時が経つにつれて、その全貌が見えてきた。

　永年医療に携わり病院を経営しながらも、晋さんは、決して俗に堕することがなかった。そういえば、電話で語り合った十数年の間、一度として、晋さんから世間話や噂話や個人的な事を聞いたことがなかった。現実追随・大勢順応を良しとする日本社会で、晋さんが己の原則や美学を貫き通したのは、お見事としか言い様がない。

　　　　加藤瑠璃子著『ラピス　ラズリー』の表紙　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　同裏表紙

加藤晋先生基金記念シンポジウムのポスター

（おろしゃ会会長・田川聡子さん作成）

おろしゃ会」会報第15号

（2008年Ｘ月Ｘ日発行）

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