おろしゃ会会報 第15号

2008年4月9日

 

2008年3月27日午後3時 会長職の引継を終えて 左 新会長・田川聡子さん、右 前会長・塚田麻美さん

(管理棟エントランスにある愛知県立芸術大学教授・佐藤勲先生の作品と共に)

 

 

卒業をむかえて

塚田麻美(おろしゃ会前会長 中国学科平成19年度卒業生)

 

 長久手町は桜が満開です。藤ヶ丘の桜並木を歩いていますと、5年前故郷の茨城を離れた日を思い出します。入学した当初はまったく一人ぼっちのようで、同学たちの話す名古屋弁がやけに冷たく感じられました。大学生活とはとても不思議な時間です。出身も趣味も異なる方々が、4年間同じ教室で勉強しました。放課後アパートに帰ってからも、なんとなく心もとないので友人と集まって食事をしました。まるで新しい家族ができたように感じたものです。それが卒業式を終え、10日も経ってしまうとそれぞれが新居に引越し、異なる業界へと旅立ってしまいました。私たちはまた一人ぼっちにもどったのですが、5年前にはなかった自信が少し感じられます。それはまさに教育がもたらしてくれたものだと思います。また私達が大学で得たものは専門分野の知識だけではありません。両親のようにあたたかい目で見守ってくれる先生、何でも話す事のできる友人は私の宝物です。おろしゃ会ではあまり交流することのなかった他学科のお友達や、年の離れた先輩、後輩にも恵まれました。さらに未知の分野であったロシアへの興味も、私の人生をより面白いものにしてくれるでしょう。私はこのような大学生の醍醐味をできるだけたくさんの方々に味わっていただきたいと思います。これからもおろしゃ会の活動を通じて皆様の学生生活が豊かになりますことを願っております。(2008年3月31日)

 

県立大学のメインモニュメントの前で、会計帳の引継(3月27日)

 

おろしゃ会会長就任にあたって

   田川聡子(愛知県立大学文学部国文学科3年)

 

 今年度、おろしゃ会会長を務めることとなりました、国文学科三年の田川聡子です。ロシア文学に興味を持ってロシア語を学び始めて二年、私の世界は大きく広がりました。入学するときには考えてもみなかった多くの素晴らしい体験をさせて頂きました。おろしゃ会に加わってからは、様々な分野の方にお会いすることができました。会長の任を果たすことで、少しでもお返しすることができればと思います。

 先生方、先輩方の活動の成果を受け継ぎ、また、自信を持って次期会長へ引き継ぐことができるように努めて参ります。どうぞご支援賜りますようよろしくお願い申し上げます。新年度、新たなメンバーの加入を期待しつつ、就任のご挨拶と致します。

 

                                                                       平成2041日                                                                  

 

キャンパスの丘にて(快晴の日には、背後に御嶽山の雄姿を望むことができます。3月27日)

 

卒業しました!

3月20日(木曜日)、式が終わる頃には雨もあがり、おろしゃ会のメンバーたちのcommencementを祝福する天気となりました。卒業と門出に寄せたメッセージとともに、皆さんの晴れ姿を掲載いたします。(加藤史朗)

 

おろしゃ会のメンバー(左から戸松君、塚田さん、神谷さん、吉田さん)

 

吉田裕紀さんと

 

吉田裕紀さん(愛知県立大学外国語学部中国学科卒業生)からの便り

 

加藤先生へ

 

こんにちは。吉田裕紀です。 卒業式のときは、一緒に写真を撮っていただきありがとうございました。県大の講義では、ロシア研究(1)(2)と、ロシア語のほかにもロシアについて学ぶ機会がありました。大学に入る以前から、わけもなくロシアに惹かれていた私にとって、ロシア語などを学べるのはとても嬉しいことでした。ロシア語の難しさに挫折しそうにもなりましたが、先生の指導で2年間学ぶことができました。そして、興味は歴史だけでなく、現在のロシアの

政治や経済へとますます広がってきました。そしてサークルを通してロシア好きの学生と出会えたことも大きな喜びです。

 これからはロシアについて公に学ぶ機会は多くはないと思いますが、独学でも地道にロシア語などを勉強していきたいと思っています。

 先生、2年間ありがとうございました。先生のますますのご活躍お祈りしています。

神谷早紀さんと戸松建二くん(加藤の研究室にて)

 

神谷早紀さん(愛知県立大学外国語学部中国学科卒業生)からの便り

 2008年3月20日、なんとか卒業を迎えることが出来ました。神谷早紀です。

ロシア語の講義を受講したのは三年生から、おろしゃ会に参加したのは四年生からととても短い間でしたが、それでもおろしゃ会がきっかけでたくさんの方と出会い様々な楽しい話をしてそれまでの自分にはなかった新しい視野を広げることが出来ました。

おろしゃ会に誘ってくださった前会長の塚田麻美さん、あたたかく迎えてくださった加藤先生や会員のみなさんにとても感謝しています。それと、四年生になって新しいサークルに入ることを決意したあのときの自分にも感謝しています。

 おろしゃ会での貴重な体験を胸に、四月からは社会人としてまた新たな世界で頑張ろうと思います。ありがとうございました!!

 

 

国際関係演習の卒業生と(左から渡辺さんと矢代さん、お二人の友人・小崎あつ子さん

 

渡辺奈々さん(愛知県立大学外国語学部英米学科卒業生)からの便り

 

加藤先生
 こんにちは。卒業式の日は一緒に写真を撮っていただきありがとうございました。とてもいい思い出になりました。
先生のゼミは本当に楽しかったので、1年しかとらなかったのがもったいなかったなぁと思っています。
国際関係や歴史(学)はもともと好きでしたが、どうしてもアメリカ中心で見ることが多かったと思います。先生のゼミで色々な視点から見ることができ、また違った発見ができました。個人的には特にヨーロッパの宗教の変遷や、ユダヤ人の歴史、ユダヤ人が社会主義と資本主義をそれぞれリードしていた云々という話がとても興味深かったです。また、発表で映画を取り入れるのはありそうでなかったので、よかったです。特に「蝶の舌」のような歴史的事件と関連した映画は、映画のバックグラウンドの解説があると、映画の見方も理解度も断然かわりますね。
 
大学から離れてしまうと、せっかく学んだこともすぐに忘れてしまいそうです。忘れない程度に細々と勉強していかなきゃなぁと思っています。時間の都合がつきましたら、また是非遊びに行かせて頂きますのでその時はどうぞよろしくお願いします。
 

矢代淑枝さん(愛知県立大学外国語学部英米学科卒業生)からの便り

 

加藤先生、こんにちは。

 

 大学四年生の一年間大変お世話になりました。国際関係を受講したことは、英米学科の授 業とは異なり、英米を専攻した以外に、付加された別の貴重な勉強ができ、又、大学生としての本来の時間を持つことができ、私の大学生活の一つの収穫になり ました。加藤先生の授業は、話題が豊富で先生自身の博学さに驚嘆しました。これは事実です。先生のジャンルを超えた広範囲にわたる知識は、聞く者を退屈さ せるどころか、話に引きこませるユ−モアを交えた楽しい授業内容でした。この良さを後輩の三年生数人には伝えたのですが、受講してくれればと願っていま す。

 大学の法人化で、変化を余儀なくされる県大ですが、どうか先生の持ち味を、これまで通り生かせる大学であって欲しいと願っていると同時に、先生の今後のご活躍を祈願いたします。本当に一年間有難うございました。

 

カナダに留学中の矢代淑枝さんからの便り

 

加藤先生、こんにちは!
 
 ご無沙汰してますがお元気ですか? 私は5/20に日本を出発して、こちらに来てやがて2ヶ月が経とうとしています。最初の二週間くらいは友達もなく世代の違う人達の中、辛い日々が続きましたが、いまではすっかり落ち着き、国の異なる友達と英語を介してコミュニケ-ションが出来る喜びを実感しています。でも肝心の英語の上達はなかなか実感出来ず、果たして日本に帰るまでにどれだけ伸びるのか不安ですが...
 海外留学は高校生の頃から夢で、この歳になってようやく実現できたわけですが、夢と現実はかなりの違いがあるようです。こちらの生活に慣れる事には全く抵抗はなかったものの、語学の吸収力、理解力、判断力、反応には年齢を実感せずにはおれません。加藤先生にはこの気持ち良くお分かりいただけると思います、渡辺さんには無理かもしれませんが...
 こうした歯痒さに耐えながら、バンク−バ−の生活も徐々に楽しめるようになりました。こちらの語学学校は世界各国から学生が来ているのですが、韓国人、ブラジル人が多数を占め、その理由は両国とも、良い職を得る為の必要条件が英語であるということです。特徴的なことは、韓国人は大学生が殆どですがブラジル人はキャリアのある30代以上の人が多いことです。またこれらのことに加え私のクラスメイトにケベックに住むカナダ人が英語を勉強にきていることに驚きました。東西を英仏に占領された遺産が、こんな現象を生んでいることにも驚かされます。
 こちらの語学学校で入学の際、語学レベルのテストとインタビュ−があったのですが、私が今年大学を卒業したことを話すと非常に驚かれ、今までにそうした実例はなかったこと、そして私がアメリカ政治を専攻したことにも興味深深であったことには私のほうが驚かされました。授業が始まってからもこの歳で大学生活を送ったことで話題提供には事欠くことなく、大学生活の意義を痛感する次第です。
 わずか三ヵ月半の滞在では吸収することも僅かですが、長い自分の人生の中で経験の無い世界に入り込んでいる体験は、若いときに体験するのとは異なる重みがあり自分の決意に納得しています。
 その他の話題として、勉強とは関係ないですがカナダの物価の高さと税金の高いのには参ります。築20年くらいの中古の家で六千万円以上しますよ。それは普通だそうです。また至るところにすしショップがあり、先生から学生に至るまで(国を問わず)すしは知っていて嫌いな人は聞いたことがありません。寿司に限らず車、コンピュ−タ−、カメラ殆ど日本製です。アメリカのテレビの宣伝には日本製の商品が頻繁に登場します。改めて日本人のこれまでの活躍を賞賛せずにはおれないし、誇りに思います。これからの時代は問題ですけどね...
 という私のカナダでの生活です。つたない内容ですが少しはこちらの状況を理解して頂けたでしょうか?日本は暑さが頂点に達しようとしているそうで、加藤先生もお身体を大切に前期を乗り切られるようお祈りしています。
 
                                                                                                                       

2008年7月18日 矢代

 

 

アメリカでジャーナリストとして活動中の服部鮎美さんからの便り

 

4年生の学生さんはそろそろ卒業式の時期ですね。おろしや会会員の中にも、卒業される方がいらっしゃると思いますが、学生さん達のこれからが本当に楽しみですね!

 

「卒業」と言えば、私も4学期目に入り、大学院 最後の学期となりました。そこで、今学期からテレビ局でインターンシップを始めました。「ジャーナリストになりたい」という夢を持ってから数年が経ちましたが、今やっと念願のアメリカのテレビ局に足を踏み入れることが出来ました!

 

仕事内容は、ニュースミーティングへ出席して「今日のニュース」について話し合ったり、取材に出掛けて記事を書いたり、映像の編集をしたりと、見つけようと思えば仕事はどんどん入って来るものだなと感じています。

 

仕事中は、大学院で学んだことを実際に生かすことが出来、遣り甲斐を感じる一方、学問と実務では異なることもあり、常に新しい発見の日々です。私は元々好奇心が旺盛なので、新しいことに巡り合う度に、「この仕事が出来て良かったな」と思います。

 

今こうしてアメリカで勉強したり、仕事が出来るのも、県大を卒業したからだと思っております。今年卒業された皆さんも、これから自信を持ってご自分の道を進んでいかれると良いなと思います。一人でも多くの学生さんが、「遣り甲斐」を見つけられることを願っています。

 

それでは、どうぞお体をご自愛下さい。また近いうちにメールを送らせて頂きます。

 

服部 鮎美 

 

 

クラスノヤルスク日記 第二部

 

幅 亮子(名古屋大学大学院)

 

 

4月

 

気温はマイナスとプラスを行ったりきたり、といった毎日。町中を歩く人のコートも薄くなりました。帽子をかぶっている人もまばらです。アスファルトの雪もほとんどなくなりました。が通勤路の林はまだ雪がいっぱい残っています。(1日)。

暖かくなると同時に、あちこちで野焼きが始まりました。これは生えてくる草のため、という本来の役目と、「ついでにいっぱい捨てられているゴミも燃やす」という重要な役目があるそうです。でもほとんどがビール瓶なので、結局燃えていません。プラスチックも燃やしますが、大丈夫なのでしょうか。煙たいのと悪いガスを含んでいそうで、窓を開けようにも、開けられません。

 

学生に世界地図(日本製)を見せた時の反応

@ どうしてアメリカ大陸が右にあるのかと質問され、「日本の地図では日本が真ん中だから」と答えると、変だと言って笑われました。ロシアではアメリカ大陸は左にあります。つまり日本は一番左端。学生曰く「ロシアの地図のほうが便利」。うーん、まあ日本人にとっては日本の地図が見慣れているから見やすいぞ。

日本製の地図では北方領土が日本のものになっているのを見て、学生はみな「間違っている」と言います。「でも普通、日本の地図では日本のものになっています」と私が言うと「じゃ、今そこには誰が住んでいますか?ロシア人でしょ!!」「絶対おかしい」「どうして日本なの?!」・・・と反論されました。5年生に見せても「ここは日本じゃないですよ」と笑っていました。

ロシア人の韓国語の先生は「日本にとって北方領土は大きな問題なんでしょ?韓国と日本も竹島があるし。私は、北方領土は半分ずつ、つまり2島返還で問題解決と思うけど、日本は全部欲しいんでしょ」と話していました。ユーリャ先生にその話をすると、「学校でそんな話は勉強しない。私も日本で書かれた本を読んで、びっくりした。シベリア抑留についても授業では何もない」と。うーん。日本語をとっている学生はこういう問題があることぐらいは知っていると思っていたんだけどな。橋本・エリツェンクラスノヤルスク会談が行われた歴史的な場所なのに。

 

4月2日(月)

4月末に日本語クラスの祭りがある、と昨日ユーリャ先生に聞きました。いろんなイベントがあり、私は書道とスピーチコンテスト担当とか。いつの間に担当になってたの!?・・・ということで、授業で書道をしました。

1時間目は1年生。書道の道具は前任の先生が残してくださったので、全部あります。中国語の先生は毎回授業で使うそうで(新しい字を習うたびに毛筆で書かせるとか)、墨汁は私が自分で持ってきたものまで使われています。隠しておいた墨汁まで見つかってしまいました。たくさんあるからけちくさい事をいうつもりはありませんが、私の感覚では、日本人の先生が残してくれた=日本語クラスのもの、と思っていたので私か日本語の先生に何かひと言あってもいいだろうと思うのですが、私がけちなのでしょうか。うーん、文句を言うのも何だかな・・・

 

ところで、前任の先生が残された書道のお手本を見ると、ものすごく達筆です。どうしよう、私じゃお手本になりません。でもやるしかないので、とりあえず道具を持って教室に行きました。カフェドラには、練習用の水で字が書ける紙(乾かして再利用できる)がたくさん残っています。それも持って行きました。

学生には前もって、どんな漢字を書きたいか考えてきて、と言ってあります。さて、何を書きますか?と聞くと「愛」「雪」「龍」「大学」「露」「暖」「乳」「暮」「図書館」「お菓子」「吹雪」などなど・・・どうして、という漢字もたくさんですが、聞くと「きれいな字だから」ということでした。とりあえず、好きに書かせることにしました。学生が書いたのを見て感じたのは、みんな字を細く書く、ということです。筆の先っぽで書きます。私は逆に、いつも字が太くなりすぎるタイプなので、おもしろいなと思いました。

さて、そんなこんなで書いていると、飽きてきた学生が遊び始めました。「ロシア語は大変ですね。。。(日本語)」と書いたり、筆で絵を書き始めたり。最後には「タトゥーだ!」と言って腕に書き始めました。静かな教室よりはやりやすいからいいですが・・・まあ、みんないっぱい書いてくれたからよしとしましょう。後になってトイレで一生懸命「タトゥー」を洗い落としていました。

 

午後は1年生のRと一緒に「永遠の火」を見に行く約束をしていました。授業の時に、他に誰か来ますか?と聞いたら、行きたいと言う学生がたくさんいたのですが、他に用事があるとかで結局RとRの彼氏とで行きました。一緒に戦車に登って遊んだ後は、Rの彼氏の家でケーキを食べながらお茶をしました。

 

ところでこのRとの散歩ですが、ある1年生の子が「2人で行くなんてダメ!」と言っていました。「きっとゴマをすって成績を上げてもらおうとしているから」だそう。そんなことを言っても、その子自身、私と2人でどこか行こうと誘ってきます。どうやら個人的にその子とRとの仲が悪いから、そのようなことを言うようです(第三者の学生談)。さらにその散歩のことを他の人にまで「リョウコが悪い」と話しています。さすがにムッとして「私はそんなことで成績を良くしたりしないから」と言ったのですが、納得しない様子。それで結局、クラス中の子に声をかけてみたのですが、みんな「忙しいから行けない」との返事。もういっそ「先生」「学生」と割り切った付き合いをしたほうがいいのかな。難しいところです。

 

4月4日(水)

昼に町の温度計を見るとプラス12度。他の温度計はプラス8度でした。どっちが正しいのかわかりませんが、とにかく暖かくなりました。もう林をスキーしている人はいません。林の雪も大分融けました。行きはまだ昨日の雪解け水が凍っていて、靴が濡れずにすんだのですが、帰りは水溜りどころではありません。その上ぬかるみだらけ。家に帰るとブーツは泥だらけです。はやく春用に買ったブーツを履きたいのですが、この状態の道を新品のブーツで歩くのは気が引けます。かといって、他に靴を持っていないので、いまだにモコモコの冬用ブーツを履いています。

 

今日は給料日でした。13日、14日のスピーチ&カラオケコンテスト(イルクーツク)までの旅費も、別に出張費としてもらえるそうです。でも出発は12日だというのに、出張費がもらえるのは10日だそう。ほんとにもらえるのか。

 

4月5日(木)

昨日よりは林を歩きやすくなりました。今日は朝から暖かかったので道はぬかるんでいましたが、水溜りは減りました。

3時間目の3年生の授業は2人だけ。他の3人は夏休みのアメリカ行き(ハリウッドでバイトをするとか)のビザをもらうため、エカテリンブルグに行っているそうです。「ロシアは今年、ピンクのブタの年ですから」とOはブタの大きなぬいぐるみをくれました。ガリーナ・アレクサンドラにぬいぐるみを見せると、「なにもないのにプレゼントをもらうってことは、学生にとても気に入られてるんだよ」と言ってくれました。

 

16時からザチョットと試験。4年生のSとNTが4月11日から9月までトルコに行くので、5月の試験が受けられないから、ということで2人だけ早く試験をしました。トルコではホテルで働くそうです。夏休みには海外(アメリカ、トルコなど)のプログラムで働くという学生が多くて驚きます。「11日の前に、和食のパーティーをしましょう!」と誘われました。

 

途中の店に寄って、歩いて家に帰ったのはもう20時。まだ外は昼間のように明るいです。昨日からエレベーターが復活しました。結局2週間ほど動きませんでした。動かなかったのは、修理するお金がなかったからだそうです。・・・

 

4月8日(日)

1年生のAさんとその友達2人と私の4人でクラスノヤルスク水力発電所(Крас. ГЭС)へ行きました。バスでも行けるけど不便だから、ということで車を持っているAさんの友達の男の子J君に声をかけてもらいました。

 

まず発電所に行く前に、スピーチコンテストのあるイルクーツクへの切符を買いに、駅に行きました。窓口で聞くと、3日前からしか買えないとのこと。前もって買えないのか・・・仕方がない。ロシアではよくあることなので、気を取り直して発電所へ。

 

発電所までは時速100キロ近く飛ばして40分ほど。その途中に、以前(3月16日)に行った「魚のツァーリ」像やアスターフィエフの家などがあります。帰りに寄ることにして、まずは発電所へ。

発電所の近くの道にはたくさんの車が停まっていました。どうやら食べ物を持ってピクニックに来ているよう。日曜だからな。

ダムはまだ凍っていて、水が流れていませんでした。ここの川岸の石が赤いのが、「クラスノヤルスク」という地名の由来になったのだとAさん。確かに赤い。

帰りには前回行けなかったアスターフィエフの家博物館と、そのおばあさんの家にも行きました。中に「クラスノヤルスク地方パスポート」というお土産(本物そっくり)が20ルーブルで売っていたので買ってしまいました。写真があれば、写真を貼ってスタンプを押してもらえるそうです。

途中でもう何度目かの「魚のツァーリ」像を見に行きました。以前(確か12月の吹雪の日)に来た時は私たちの他に誰もいなかったのに、今日は駐車場も満タン。エニセイ川はいつ見てもでかい。

 

あわただしくも観光三昧の1日でした。帰りにはAさんとナスチャに知らない日本のアニメソングを一緒に歌わされました。

 

   

1年生と                         2年生と

4月10日(火) 

エニセイ川を望む

 

念願のジェレズノゴルスク訪問です。やっとプロープスク(通行許可証)がおりました。朝8時半にバレエ・オペラ劇場からジェレズノゴルスク行きのバスが出るとのこと。Tさんから電話をいただいて、とにかくそれに乗れば大丈夫、AL(うちの4年生の学生でもあり、ジェレズノゴルスクで日本語を教えている)も一緒のバスで行くから、КПП(入場チェックする所)は彼女に助けてもらってください、とのこと。ジェレズノゴルスクは閉鎖都市で、ロシア人ですら許可証がなければ入れない町。コードネームは「クラスノヤルスク26」。私の許可証はTさんの大学の学部長さんが作ってくれてあるはずですが、ロシアでは何が起こるかわからない。無事入れるか、冷や汗ものです。

 

朝は道路が渋滞すると思い、早めにバスでバレエ・オペラ劇場へ行くとあっという間に着いてしまいました。まだバスの時間まで30分以上あります。しかも寒い。数少ないカフェも開いていない。その辺を歩きまわり、体を温めながら待ちました。

バスの時間になり、それらしき車をさがすと、劇場の裏に黄色いハイエースのようなものが停まっています。しかしALが来ない。電話をすると「私は劇場には行きません」と。どうやら途中でこのバスに乗るとのこと。

後でTさんから聞いたのですが、私の乗ったバスは大学のスクールバスだそうで、クラスノヤルスクから毎日ジェレズノゴルスクへ先生を送っているのだそうです。

 

車を飛ばして1時間弱、延々と続く林の中に突然、鉄条網で囲まれた門が出てきました。沖縄の米軍基地のような感じです。門の入り口でバスを降ろされ、途中からバスに乗ってきたALと一緒に門の隣の部屋に行きました。そこでALが説明すると、おばちゃんが何やら紙切れを出してきて「行ってよし」。意外と何もなく通過できました。住んでいるTさんですら簡単には通してくれないということだったので心配していたのですが、一安心。部屋を抜けると、さっきのバスが待っていますが、まだロシア人男性が捕まってしまったらしく、なかなか出発しません。結局その男性は中に入れなかったようです。Tさん曰く、町を囲む鉄条網には穴があいていて、その穴を通って町に出たり入ったりしている学生もいるとか・・・

 

入り口からしばらく走ると、Tさんが住んでいる宇宙飛行士学校の建物と寮が見えてきました。Tさんはバス停で待っていてくださいました。

Tさんの部屋でお茶をいただき、その後授業があるということだったので教育大学に行きました。

大学では女性の学部長さんが歓迎してくれました。「よかったらうちに来ない?先生が足らないの」とも言われました。場所が場所だからな・・・ 

今日は授業見学の子どもたちが来るらしく、だから私が見せ物で呼ばれたのか、と納得。ただ遊びにくるだけでは許可証なんか出してくれないか。

 

まだその授業までは時間があるとのことで、Tさんの教え子たちと一緒に近くの公園に行きました。人造湖がある公園です。林の木々の芽は膨らみかけているのですが、湖はまだ凍っていました。この暖かさならもう氷がとけはじめているかなと思うのですが、まだ氷の上で魚釣りをしている人がいました。湖の向こう側には大きな金色の玉ねぎ屋根をした教会が見えました。

公園には1954年のジェレズノゴルスクができた年から現在の2006年までに起こった出来事が地面のコンクリートに描かれていました。それを見ると1994年にエリツィンさんが来たみたいです。星型のなかなかかわいい絵でした。

 

そろそろ発表が始まる時間になり、大学に戻りました。

Tさんはパソコンで日本の写真を見せたり、歌を聞かせたり、と準備で忙しそう。「私はそれを見ていればいいのね」と気楽にいたところ、中国語のロシア人先生に呼ばれました。「今から子どもたちの前で着物についての発表をするから、1つ1つコメントしてくれ。ALが通訳するから日本語で大丈夫」とのこと。着物について!?日本語でいいなら、まぁ・・・と行ってみると、着物の種類について、歴史について話しています。「肌襦袢」「足袋」についてコメントを、と言われても・・・

 

最後は質疑応答。「中国語と日本語はどこが違うのですか」「どうしてモスクワじゃなくて、クラスノヤルスクに来たの」「ロシアの男はどうですか」などなど。

ジェレズノゴルスクの町の案内をしてくれるという話だったのですが、帰りのバスの時間が迫っていて、発表が終わるともう帰らなければならないと言われました。「ええ!全然町を見てない!(本当に発表に使うためだけに私を呼んだわけ!?)」と私が言うと、学部長さんはバスの運転手にジェレズノゴルスクの町を一周してから帰るようにしてくれないかとお願いしてくれました。でも、バスの時間は決まっているからそれはできない、と。せっかくならレーニン像やクラスノヤルスク26のレリーフを見たかったな。貴重な休日なのに働かされた気分。けど小旅行ができて楽しかったです。Tさん、学部長さん、ありがとうございました。

  

           3年生と                           5年生と

イルクーツク小旅行編

 

4月11日(水)

4月11日 23:33発 車両29  席31   607.6ルーブル   12日 17:48到着 (モスクワ時間)

イルクーツクで行われるスピーチ&カラオケコンテストのため、鉄道でイルクーツクまで。クラスノヤルスク時間では24:33発になります。参加予定者はOさん(スピーチ)とAさん(カラオケ)。Aさんは仕事が休めないとかで、1日遅れで合流することになりました。帰りはノボシビルスクから参加予定の先生、学生たちと偶然にも同じ電車。ノボシ組はクラスノヤルスクで途中下車して観光してから帰る予定だそうで、では一緒に散歩でもしましょう−ということに。

まずOさんが私の寮に来て、一休みしたあとでタクシーに乗って(夜遅いからバスはもうない)駅まで行きました。深夜で寮まで呼んだのに、駅まで100ルーブル。Oさんと「安い!」と喜びました。Такси ТОКИО(タクシー東京)にお願いしたのがよかったのでしょうか。

 

初めての鉄道旅行はちょっと衝撃でした。車両まるまる個室ドアも何もなし。ただ2段ベッドが並んでいるだけ。盗難に気を付けないと。

もう夜遅かったので、隣の人たちは寝ている様子。でも布団は2段ベッドのさらに上にまるめて置いてあったので、Oさんが隣のお兄さんを起こして下ろしてもらいました。

電車の独特の揺れと、初めてのシベリア鉄道、しかも2段ベッドの上段(手すりがないのでよじ登る)なかなか眠れないかと思ったのですが、疲れていたので熟睡でした。

 

騒がしさに起きると、もう朝。周りは全員ウズベク人。イルクーツクで働いているらしい。女性2人で乗っている私たちを見つけると、ビールを持って近寄ってきました。そしてなぜか乾杯。どこから持ってくるのか、冷えたビールがどんどん運ばれてきます。どうやら停車中にホームにいる物売りから買っている様子。1人のおじさん(自称25歳だけど、明らかにもっとおじさん)からはウズベキスタンの紙幣をもらいました。「4月12日、29号車の出会いに」というサイン付きで。この紙幣1枚でウズベクのビールが1本買えるとか。

イルクーツクに着くともう夜。駅にはイルクーツク言語大の学生が迎えに来てくれていました。寮まで車で送ってもらい、すでに到着している先生たちにあいさつし、荷物を整理していると親睦会?ということで先生たちに呼ばれました。遠くはヤクーツク、チタ、ノボシビルスクからの先生たち。みなさん同じような苦労をされていて、わたしだけじゃないんだな・・・としみじみ。ひさびさに(ロシアに来て一番かも)精神的にすっきりした夜でした。

 

4月13日(金)

イルクーツクの先生に引率されて、言語大までバスで行くことに。バス停はラッシュアワーということもあり、すごい数の人。Oさんと「(後で財布を出さなくてもすむように)前もってお金用意しようね」と言っていたのですが、一瞬の隙にOさんが財布をすられてしまいました。私は鞄のファスナーを開けられたことに気付き、すぐに手を払ったので大丈夫でした。

Oさんは今日コンテスト本番。ショックでスピーチに影響しないといいんだけど・・・

私たちの他にもヤクーツクから来た学生も携帯電話をすられたそうです。この寮の近くのバス停はターヤやクシューシャ(2人ともイルクーツク言語大出身)の話によると「一番危険で有名なバス停」だとか。

 

そんなこんなでバタバタとコンテストが始まり、私も審査員として参加しました。他大学のレベルの高さにびっくり。「本当に2年生!?」という学生ばかり。

Oさんのスピーチは、やはり朝の事件のショックからか練習ではちゃんと全部暗記していたのが後半の部分で言えなくなってしまい、スピーチ途中で舞台を下りてしまいました。最後に発表された順位が思ったよりよかったので、もし全部言えていたらかなり上位まで食い込んだろうに、と思うとスリを呪いたくなります。次回もがんばってほしいなぁ。

一番記憶に残ったスピーチは「日本とロシアのトイレ文化」。取り上げてほしかったテーマだけに、先生たちは全会一致で「いいテーマだ!」。スピーチの中身もおもしろく、「ロシアではよく便座がありませんが、どうしたらトイレが改善されると思いますか?」という質問に「なぜ便座がなくなってしまうのかもわからないので、私にはどうしたらいいかわかりません。」そうだよなーその通りだよなーと納得。

 

コンテストも無事終わり、みんなでバイカル湖に行くことに。イルクーツクの先生がタクシーバスを用意してくれました。1人300ルーブルという破格の値段(学生は200P)。バスも景色もきれいで快適。バイカルまでの道はだだっ広い。水面が見えるたびに「バイカル?」と車内がざわめきましたが、アンガラ川だとわかるとため息。

バイカル湖はまだ凍っている部分があり、湖面で散歩や釣りをしている人がたくさんいました。

散歩をしていると、ボートに乗ったおじさんが声をかけてきました。湖のクルージングはどう?と。50ルーブル。おもしろそうなので2回にわけて全員乗ってみることに。

湖の中心にあるシャーマンの石まで行き、コインを投げて命中するといいことがあるというので、みんなで当たるまでひたすら投げる。私は1回目で命中し、上機嫌。するとおじさんが「あと50ルーブルずつでもっと遠くまで行くけど」いい商売だな・・・ でもみんな賛成し、湖が凍っているふちまで行きました。空も水も青い。バイカル湖は大きすぎて、氷の先が見えませんでした。

 

湖畔でおばちゃんたちがオームリ(омуль、バイカル湖に住む魚)の燻製が売っていました。私も一口もらいましたが、本当においしかった。忘れられない味になりそう。

おばちゃんたちも観光客慣れしていて、日本人だとわかると日本語字幕つきのバイカル湖DVDをすすめてきました。クラスノヤルスクと違って頻繁に日本人が観光に来るんだ・・・としみじみ。

 

Oさんも元気になったようだし、楽しかったしよかったよかった。出張に来たはずなのに、ロシアに来て一番観光気分で楽しんでる日だな。バイカルアザラシTシャツもほしかったのですが、着るときがないと思いやめました。男子学生に「Tシャツかわいいよね」と言い彼のほうを見ると、すでにバイカル湖Tシャツを着ていてびっくり。学生も楽しかったようです。よかったよかった。

 

4月14日(土)

Aさんも遅れて到着、今日はカラオケコンテストの日。朝からリハーサルです。今日がメインイベントかと思うほどのお客さん。昨日のスピーチはホールががらがらだったのに。今日のカラオケはスポンサーもついていて、ちゃんとビデオも撮ってくれるし、賞品もでるとか。

参加者の方も、映像を取り入れた演出をしたり、着物を着てダンスをしたり。気合入ってます。

Aさんは優勝は逃したものの、特別賞をもらいました。その上、アンコールで舞台上でもう一度歌わせてもらいました。先生方からの評判もよく、私が指導したわけじゃないのに鼻が高かったです。

 

カラオケコンテストの後は、20時半の出発までまだ時間が余っているので、イルクーツクを散歩することに。言語大は町の中心にあり、近くにたくさんのきれいな教会があります。永遠の火やアンガラ川もすぐそば。町が近いのはいいなぁ。クラスノヤルスクは遠いもんなぁ・・・

イルクーツクに来たら必ず行こうと思っていた、「金沢通り」。イルクーツクと金沢は姉妹都市で、兼六園にある灯篭と同じようなものがイルクーツクにもあります。昨日に引き続いて観光気分です。

 

4月15日(日)

さてイルクーツク旅行も終わり(旅行じゃなくて出張なんだけど)、クラスノヤルスクへ。ノボシビルスク組は帰りにクラスノヤルスクに立ち寄ってから帰ることになっていたので、私たちが案内することになりました。帰りの電車も同じだったので、当然車内は酒盛りに。イルクーツクまでは1泊。

クラスノヤルスクに着くと、なぜか私もほっとしました。すこしずつこの町が自分の町になっているんだな。もう帰国が近いのに。ちょっと残念。

 

駅に荷物を預け、徒歩で街中をうろうろしました。クラスノヤルスク中心街の名所はすべて行きました(多分)。こうして自分が案内する立場になると、また新しい発見があっておもしろいです。

そいうえば、クラスノヤルスクのおじさん像(町の中心街にある像)の付近で日本語らしき会話が聞こえてきました。周りをきょろきょろすると、日本人らしき男性2人組を発見。スーツだったので、出張のよう。初めて市内で日本人を見た嬉しさに、思わず「日本の方ですか?」と話しかけてしまいました。仕事でクラスノヤルスクに来て、帰るまでに少し時間があるから観光しているということでした。初めてクラスノヤルスクで日本人に会ったぞ。今週は日本人にたくさん会う週だな。

・・・そんなこんなでイルクーツク小旅行は終わりです。楽しかった!

 

4月29日(日)

今日は朝からアニメフェスティバル。入場料は参加者(発表する人たち)も1人100ルーブル。400人のホールで超満員、500人来ていたとか。入場料はどこに入るんだろう。会場はエニセイ川の右岸(寮からバスで1時間半以上かかった)にあるДК(文化会館)。日本でいうところの文化会館で、各地区にあります。

 

私は日本人だからという理由だけで審査員をやらされました。知らないアニメキャラのコスプレ、知らないアニメソングのカラオケ、何かのアニメを切り貼り編集して、ロシアンポップスにのせて上映、など・・・アニメがすごく古かったり(1年生のAさんの好きなアニメは『キャンディ・キャンディ』。歌もよく「そばかす なんて・・・」と口ずさんでいます。私は見たこともない・・・)、マイナーなものばっかり知っています。逆に有名なもの(『ワンピース』とか『ドラゴンボール』とか)は全然知られていません。私が「そんなアニメ、知らない」と言うと、「ああ、リョーコはアニメが嫌いだから」と言われました。嫌いというか、普通の一般的な日本人は知らないと思うけど・・・「リョーコは日本人なのに、どうしてアニメを知らないの?」「日本にアニメはいくつあるの?」「どんなアニメが人気なの?」・・・ごめん、アニメに関しては全然わかりません。コスプレも半分以上わかりませんでした。

その後、ワーリャの妹のダンス発表会があるということで見に行きました。ジェーニャの両親も来ていました。幼稚園の年少組くらいから中学生くらいまでの男の子女の子がくるくる踊っていました。かわいかったです。

 

明日は祝日でいろいろなところが休みらしいですが、大学はいつもどおりあるらしい。店はお休みだろうな・・・ってことは大学の食堂も休みだろうな。

 

5月

 

4月の後半にはまだまだ冬の色だった白樺林が、5月になったとたん緑色になりました。毎日毎日、林を歩きながら、明らかに前日より木の芽が成長しているのを見て、驚くと同時に自然の強さを感じます。林の中は黄色や紫の見たことのない花がいっぱいです。タンポポも咲いています。

5月の中ごろから急に雨が多くなりました。ほとんど毎日雨が降ります。まるで梅雨です。学生も「いま、ロシアの梅雨です(日本語)」と言っています。

    

シベリアの春                     ロシアの櫻

 

大学の改修工事が始まりました。玄関から階段までを1階から4階まですべて改装するようです。部屋の改装はなく、階段のみ。驚いたことに、同年代の女の子が作業着ではなく、普通の服を着てペンキを塗っています。時々おばちゃんも作業しています。若いお兄さんはほとんどいません。日本で建物の改修作業と言えば、体格のいいお兄さんというイメージなのですが。

ということで、玄関が使えなくなったので、食堂近くのドアから出入りするようになりました。階段も使えないので、どうやって上に上るのかと謎に思っていましたが、いままで開かずの扉だった扉が開き、建物の奥にある階段を使うようになりました。これがまた遠回りで、カフェドラの真下にあるバフタに教室の鍵をもらいに行くのも、わざわざ遠くの階段まで行かなければなりません。改修が終わるのは7月末とか。私は改修後を見ずに帰ることになります。

今の仮階段に行くまでに、何だか知らない部屋をたくさんくぐっていきます。理系の研究室のような感じです。ここは「現代外国語学部」、どうしてこんな研究室が・・と思っていると、謎がとけました。ここは現代外国語学部ができた10数年前までは、理系のキャンパスだったとか。さらにその前は学校(школа)だったそうです。だから新しい学部なのに、こんなに古い建物なのか。仮の階段までの廊下は暗くて、学生とすれ違っても顔がわからないほどです。

 

5月1日(火) 祝日 

せっかくの祝日なのに、授業のない火曜日とかぶってしまってなんだか損した気分。

小さいパレードがある、ということで町に行って来ました。12時にワーリャの店で待ち合わせ。行くともうワーリャとターニャが来ていました。

 

まずは中央公園を散歩。3人がそれぞれ巨大綿菓子(сахарная вата、直訳すると「甘い綿・わた(ロシア語でも“ワタ”と発音する)」35ルーブル)を買い、食べながら散歩しました。公園は有料なのですが、人でいっぱいでした。

その後、川岸を散歩しました。私とターニャはさらにアイスを食べました。3人ともсладкоежка(甘党)です。オペラ・バレエ劇場前の広場ではダンスなどのイベントがやっていました。

 

そして今度はワーリャが言うクラスノヤルスク一おいしい店でホットドックを買い、川岸で休憩しながら食べました。土手には黄色い花が咲いていました。りんごの木も芽が膨らんでいました。天気もよく、春の一日を満喫しました。      

 

5月11日(金)

明日予定されていた日本文化祭が延期になってしまいました。そもそも、どんなイベントがあるのかいまいち学生たちも先生も知らなかった(ユーリャ先生だけが知っている)。イベントは@スピーチコンテストAアニメの翻訳&吹き替えBコンサートC書道、らしいとわかったものの、詳しくは不明(ユーリャ先生だけが知っている)、という状態だったので、仕方がないといえば仕方がないのですが。そもそも、学生がスピーチの準備をする時間がないとかで、参加者が集まらなかったのが一番の原因でした。

 

5月5日(土)

噂では準備のため11時に集合といわれている日本文化祭。昨日、ユーリャさんにメールをしてやっと確認が取れました。5年のPさんからもメールがあり「ほんとに祭りあるの?」と半信半疑。開始は12時からですが、ガリーナ・アレクサンドラが作ってくれた学生向け掲示には「11時開始」と書いてあるとかで、学生の間では謎の祭りとなっていたようです。

 

プログラムは

スピーチコンテスト Aアニメの翻訳&吹き替え上映 Bコンサート C結果発表 D茶話会 です。それぞれにちゃんと賞品があります。スピーチには6人が参加しましたが、アニメの参加者は2年生グループのみでした。

 

スピーチのテーマは多種多様。「日本とロシアの花に関することわざについて」「人は嘘をつくことがある」「ロシアの気候」「黒澤明『生きる』を見て」「夢と現実」「メル友」・・・どんなテーマにするのかでその学生の興味の方向もわかるし、おもしろいな。

 

アニメ:『高橋留美子劇場』30分のアニメ、学生がロシア語吹き替えをする。時々、「あ、この表現難しいな。ロシア語で何ていうんだろう」と思う部分が訳してなかった。おいおい。

 

コンサート:嵐『wish』、『陽の当たる場所』、レミオロメン『3月9日』見たドラマの影響がよくわかる選曲(『wish』は『花より男子』から、『3月9日』は『1リットルの涙』から)。前もってテキストを用意していたので、みんなで歌う。

 

そのほかにも休憩時間に書道のコンクールもありました。各学年で誰が一番かを先生と相談したのですが、私の意見と他の先生の意見が全然合いません。感覚って違うものだなぁ。

 

5月6日(日)

ひさびさに何も予定のない休みです。いい天気なので、町の散策を兼ねて本屋に行くことにしました。近所のバス停からは21、88、90のバスが出ていて、どのバスも町の中心部に行きます。でものんびりしたかったので、一番遠回りの88番バスに乗りました。約40分かけて中心地まで行きます。他のバスなら20分強です。

 

14時ぐらいに家を出て、まず本屋・リテックスに行きました。実は誕生日近くに買ったイタリア−ロシア語辞典の英語版が、最近売られているのです。しかし値段が630ルーブル。ドイツ、スペイン版は590ルーブルなのに。なんだかくやしいし、すでにイタリア版をもっているのでなかなか手が出せません。出張費が入ったことだし、買っちゃおうかと思って来たのですが、やっぱり勇気がでませんでした。月給の10分の1です。

結局2階の文房具コーナーで、ノートと定規を買いました。ノートは蝶の絵のものをいつも買うので、それを探しました。すると、白いモンシロチョウのノートがあります。かわいいなと思い手に取ると、平積みされている下のノートの絵は、なんと茶色い蛾の絵でした。「蛾」の絵のノートなんて、ちょっと気持ち悪い・・・

 

その後、町を散歩してから帰ろうと歩き出しました。目的地はポクロフスカヤ教会。大きいカメラを抱えたおじさんも教会の写真を撮っていました。私もその隣で、壊れかけのデジカメで写真を撮りました。(日本にいたときはまだ壊れていなかったのですが、こちらに来て寒さからか、12月に外で撮っていたらモニターが映らなくなりました。ピントが合っているのか、画角すらはっきりとわかりません。パソコン上では写真は大丈夫なのですが。誰かにシャッターをお願いする時は冷や汗モノです)いろいろ写真を撮っていたらメモリがなくなってしまったので帰りました。

 

帰ってきてから、最近買った「トウフプリン」のようなものを食べてみようと思い、ふたを開けると腐ってカビが生えていました。ほんの2、3日前に買ったのに。ちゃんと店でチェックするべきだった。

 

5月7日(月)

カフェドラ(кафедра)に事務の女の人(まだ名前を覚えていない)が来たので、ターヤが出張費について聞いてくれました。すると、寮費や交通費は前回もらった給料に含まれていない、とか。あの給料はますます謎です。

総合的に考えると、出張に行く人には現地滞在費も一律支払われる+交通費・宿泊費は別途支給ということでしょうか。ならあんな車両に乗らなくても、クペーで贅沢旅行できたな、とちょっと残念。ターヤ先生曰く「クラスノヤルスク、ヤクーツクは物価が高いから、交通費・宿泊費請求の時に、いくらか上乗せしてくれる」とか。ヤクーツクの物価が高いのは、ヤクーツクの先生に聞いて知っていましたが(寒くて野菜や果物が育たないので、全部空輸)クラスノヤルスクもそんなに高いのでしょうか。ターヤも私がイルクーツクに行っている間にモスクワの日本語教師会議に行きましたが、その時クラスノヤルスクと野菜や果物の値段が変わらなくて驚いたとか。(もちろん交通費等はモスクワのほうが高いそうです)何にせよ、出張でこんなにお金が出るなら、日本人教師の渡航費を出せ、と言いたいところです。一部負担でもいいから、なんとかならないのでしょうか。

 

5月9日(水)

今日は戦勝記念日。町ではパレードがあり、あちこちで集会をしていました。が、私はパレードにも集会にも行きませんでした。「今日はおじーさん、おばーさんが騒ぐだけの祭りで、パレードもおもしろくないよ(ワーリャ談)」だそう。やはり若者にとっては戦争なんて遠い過去の話のようです。

その代わりにユーリャさんの招待でシャシリクパーティーに行きました。場所は近所の林です。クレシュがいるかもしれない、ということで服の袖とズボンの裾に専用の虫除けチョークを塗りました。「これでクレシュが来ない、と言われている」。「言われている」じゃ困る。

クレシュというのは、シベリアの森に住んでいるダニで、保菌しているものに刺されると脳がやられて最悪の場合死亡する、という虫です。保菌率は10パーセントほどで、林のなかでもちゃんと道に沿って歩けば大丈夫だとか。肉眼で確認できる大きさの虫なので、林を歩いた後は必ず友達同士で首筋、足首、手首(一番刺されやすい場所らしい)を確認します。ワクチンがあるらしいですが、刺されても痛みを感じないらしく、発見が遅れて死亡するケースが多いそうです。(すべてユーリャ情報)

 

森の中なのでトイレはありません。茂みの中で隣り合って、です。こういうときこそダニに刺されそう。

最初は晴天で雲ひとつない青空でしたが、次第に曇り、ヒョウが降り始めました。気温も一気に下がり、凍える寒さです。シャシリクを焼いて暖をとりました。おいしいけど、寒かった!

 

5月10日(木)

ノボシビルスクでのスピーチコンテストに参加するため、電車の切符を買いに行きました。

行き 5月11日(金)18:35発6:48着 4両45番席 656.90ルーブル

帰り 5月13日(日)14:04発3:28着 11両19番席 567.90ルーブル

全てモスクワ時間。クラスノヤルスクは+4時間。ノボシビルスクは+3時間。

 

スピーチコンテストの後のセミナーが終わるのが、6時過ぎ。ノボシ17時発の電車では最後までいられません。どうしてこんなに急いで帰るのかというと、ユーリャ先生:「月曜日は授業がある」から。朝7時半にクラスノヤルスクについて、9時の1時間目から14時半の3時間目まで働け、と。さすがに1時間目はキャンセルしました。ユーリャ先生は厳しいわ・・・

値段が違うのは電車によるとか。古い電車は安いようです。でも車両を選べるわけではなく、その時間にある車両にのるしかないので、値段は運?

 

そういえば、今日山の大学本部でサインを集めにうろうろしている時に、女の子たちに署名をお願いされました。エストニアの記念碑撤去についてのものです。学生のOさんもAさんも「反対!」とサインしていました。こちらではやはり大きな話題になっています。私も署名しました。

 

5月11日(金)

ノボシ行きの日。

22時。バスで駅まで行きました。無事Oさん、ユーリャ先生と合流。クラスノヤルスク時間で22時35分発、電車に乗ってベッドの用意をして、お茶を一杯飲んで、もう寝る時間です。周りの人は乗ってすぐに寝てしまいました。今回も例の車両です。クラスノヤルスクからノボシビルスクはイルクーツクよりも近く、寝て朝起きたらもう9時48分(ノボシビルスク時間)には到着です。クラスノヤルスクから毎晩出発します。

 

5月12日(土)

朝、明るくて目を覚ますともう日が昇っています。今回は通路側上のベッドだったので、下に眠っているユーリャさんが起きない限り、起きられません。雲ひとつない晴天。それにしてもまだみんな寝てるなぁと思い、時計を見ると朝の5時。5時でこんなに日が高いのか。昨晩寝たのは確か12時ごろだったので、もう少し寝ようと思い目をつぶるが、なかなか寝られない。せっかくだからまわりの観察をすることにしました。隣の席に寝ているのは、おそらく50代ぐらいの女性2人と20代ほどの女性の3人組、その隣にはまだよちよち歩きの子連れの夫婦、今回はほとんどロシア人ばかりで、聞こえてくる会話もロシア語でした。

 

まずは宿泊先の大学寮に向かいました。ユーリャさんはノボシビルスクに来たことがあるそうで、少しは地理がわかるそう。ユーリャさんに任せてついていきました。

Марушруткаに乗ると、1回15ルーブル。なんとか寮に着き、今度はスピーチコンテストの舞台となる会場に行きました。町にあるシベリア・北海道日本センターです。レンガ立てのきれいな建物で和室もあり、日本の本やビデオが山のようにありました。うらやましい・・・

 

5月13日(日)

スピーチコンテスト当日。Oさんは2回目のコンテストでユーリャ先生もいるし、ちゃんと全部話すことができたようです。私は違う部屋で審査員をしていたので、Oさんの発表は聞くことができませんでした。残念。でもユーリャ先生が褒めていたので、きっと練習以上にうまくできたのでしょう。よかった。Oさんはスピコン参加希望を出したり、私に積極的に話しかけてきたり、ここ数ヶ月で一気に日本語が上手になりました。やっぱりやる気を出すと伸び方が違う。みんなもOさんを見習って頑張ってほしいな。

 

5月14日(月)

7時半にクラスノヤルスクに到着。寮につくと、8時過ぎ。30分ぐらい寝られたけど、疲れがとれない。

今日は10時半に大学でOさんと会って、事務に出張届と領収書を出さなくてはなりません。9時半すぎに家を出て、大学までいつものように歩く。出張届はガリーナ・アレクサンドラが書いてくれるとか。ありがとう〜!と言っていたら、結局ターヤが書いてくれた。

 

肝心の授業、5年生は来ない。Pさんにメールしたけど返事がない。昼に偶然会って、「何で授業来ないの?」と聞くと「いまザチョットの週だから授業がない」らしい。えええ!せっかく大学に来たのに。そして、4年生の3時間目の授業も誰も来ない。誰も。せっかく来たのに・・・

前の授業で「金曜(今日)はDVD見ます」って言ったから、授業に関係ないと思ってこなかったのかな。DVDなんてうちで見れるし、試験関係なさそうだし、ってこと?うーん・・・

 

5月16日(水)

12時に5年生のザチョット。朝、山の大学にコピーしに行く。1枚1ルーブル。2台コピー機があるけど、自分でさせてもらえない。女の人に、どっからどこまでって言ってコピーしてもらうシステム。人件費の無駄だといつも思う。私の前の人は100枚近くコピーしてた。仕事とはいえ、こんなに他人のコピーをとるなんて嫌にならないのかな。

 

図書館の鍵をかりて、図書館でザチョット。まずは読むテスト。W君はカンペを用意していました。その後、自分の大学生活に関してというテーマで話してたら、彼は1年半イギリスに留学してたことが判明。しかもそこで日本人学生と付き合ってたとか。お互いのコミニケーションは英語で。でもなかなか意思伝達ができなくて大変だったとか。うーん、確かにW君、もてそうだもんなぁ。

その後、学生がぞくぞくと集まり、作文を提出していきました。S君の宿題作文は超傑作。みんな公開したいぐらいいい出来でした。

 

そういえば、最近森の中を歩いていると、ワラビがたくさん生えています。おじさんが集めてました。ガリーナ・アレクサンドラに、どうやって料理するの?って聞くと、「本当にワラビ?」と疑い顔。「この辺は犬がいるし、取らないほうがいい。道で売ってる人は、町から離れた森で採ってきてる。」らしい。最近食堂でよくワラビがサラダコーナーにある。どこで採ってきたのかな。

 

5月18日(金)

3時間目にはターヤ先生と一緒に3年生のアメリカ組の試験がありました。3年生の3人はアメリカでのプログラムのため、ロサンゼルスに行くそうです。ユニバーサルスタジオで働くプログラムだとか。どんな仕事するの?と聞くと「初めは料理をつくると聞きました。でも最近は子どもと一緒だと聞きました。(日本語)」といまいちわからない。本人たちもわかっていないよう。「どこの住むの?」と聞くと「まだわかりません。多分アパートをレンタルします。多分高いです。(日本語)」ええ、もう来月の頭に行くのに、住む場所も何するのかも決まってないの?大丈夫なのでしょうか。

最後なので3人に手紙を書きました。もちろん日本語で、です。そして一緒に写真も撮りました。でも、学生はいまいちな反応。別れを悲しんでいるのは私だけ?そんなことはないだろうけど・・・

ターヤ先生に「もう最後の授業だから手紙を書いたよ」というと「これは試験だから最後の授業ではない」と。「え?どういうこと?試験の後にもまだ授業があるの?」「あるんですか?」いや、こっちが聞きたいよ。「え、授業はもうないよね?」「知らない」

大混乱です。試験っていうことは授業が終わりじゃないの?

 

5月19日(土) 

昨日の夜は3時までDVDを見ていたので、今日は昼の12時に起きました。2週間ぶりの休日。ひさびさにゆっくり寝ました。

天気は雨。寒い。湯もやはり出ない。

初めて電熱棒?を使ってみました。こっちに来て、何か事件が起こるたびに新しい言葉を覚えます。そう思えば、不便な事件が起こっても、まあ勉強になるからいいか。今回覚えた新しい言葉はкипятильник。泡だて器が太くなったようなもので、反対の先っぽはコンセントになっています。電源を差し込むと、急速に熱くなり、これで湯を沸かそうというわけです。風呂おけの下には、こんな時のために洗面器一式がそろっています。電熱棒といい、洗面器といい、湯が出ないときのために用意があるなんて。

 

水はものすごく冷たくて、ただ手を洗うだけでもかじかんでしまうほどでしたが、30分ほどで洗面台いっぱいのお湯ができました。この貴重な湯で髪と体を洗わなければなりません。「湯水のように使う」という言葉はロシアにはなじまないなぁ・・・

その後、買い物しにタルゴーヴィ・クバルタールへ。18時といってもまだ真昼のように明るいです。いつもは22時過ぎになって、やっと日が暮れます。

肉コーナーで初めて量り売りで買う。重さの感覚がわからないから困る。200グラムってどれぐらいかがさっぱりわかりません。パック売りに慣れてるからなぁ。

 

うちに帰って、最近お気に入りのчеремшаの卵とじをしました。ニラ玉みたいな感じ。ニラよりもにんにく臭い。ロシアではこんなのが林に生えてるらしい。オーリャに聞いたら中国にもないらしい。通りでおばあちゃんが1束10ルーブルくらいで売っています。

それにしても部屋が寒い。毛布をかぶりながらパソコンに向かいます。

 

5月21日(月)

1時間目は1年生。隣のオーリャ(中国人の先生)も試験とか。「何年生の?」と聞くと、「自分の英語の試験」とのこと。「英語はロシア語より難しいと思う」と言っていました。いや、ロシア語のほうが私には難しいぞ。

 

2時間目は休み。ですが、1年生のANさんのお願いで、ロシア語の歌詞の和訳を手伝いました。でも、「困った時に」という訳が気に入らないとかで、どうして?と聞くと「きれいじゃない」何がきれいじゃないのかわからない。音が? 「音じゃなく、普通の言葉だから。」ええ・・・いまいち理解できない。もっと文学的にしろってこと?うーん・・

 

3時間目は4年生。DVDを見ようとしたのですが、パソコンで作ったDVDは読み込んでくれない。仕方がないので『男たちの大和』をロシア語で見ました。

その後なぜかOさんの家でお風呂を借りに行こう、ということになりました。伝統的なバーニャです。疲れていたので断ったのですが、家にもお風呂がないし、スッキリできるかなと思い行きました。でも、サウナって疲れるんですね。ロシア流に白樺の枝でバシバシ叩かれるし、水は浴びせられるし。確かにスッキリしたけど、もうぐったりです。

 

帰りはもう10時半。いつも遅い時間のバスは終点の寮まで行きません。また途中で降ろされました。しかも次のバスが来ない。すると一緒に降ろされた同じ年ぐらいの女の子が「一緒に違うバス停まで歩かない?もう暗いけど、二人なら大丈夫だから」と言うので、一緒に歩いていくことにしました。マーシャという女の子です。彼女も学生で、このあたりの大学に行っていたから道は知っているということでした。こんなに疲れた日に、よりによって夜道を歩かされるなんて。

 

5月23日(水)

14時半から残りの4年生の試験の予定。その前に、久々に大学本部にインターネットをしに行きました。前に入れたお金がもうそろそろなくなる頃なので、まずカッサにお金を払いに行きました。すると、行列です。何並んでるんだろうと思ったら、フラッシュメモリやフロッピーのデータを印刷してもらっていました。どうしてこの国は人件費を無駄遣いするんだろう。プリンターを学生に使わせたら壊すから、ってことなのでしょうか。カッサには1人の女性だけで、学生が「・・ってファイルの、・・って名前のドキュメントを・・枚。・・を・・枚・・」と頼んで、女性がそれをプリントアウトして持ってきて、チェック。時々間違えて印刷するので、再び印刷しなおし・・・という具合で、なかなか自分の番になりません。

ようやく自分の番になり、210ルーブル払ってきました。これでしばらくインターネットができます

 

寮で書いたメールをコピペして送信。通信速度が遅いので、メールを読んで、送るだけで1時間半。ニュースも見たかったのですが、時間がなかった。

 

家に携帯電話を忘れたので、取りに帰り、そのまま歩いて大学へ。小雨が降っていましたが、ほとんどのロシア人が傘をさしていません。私も折りたたみの傘を持っていましたが、森の中は木が雨をさえぎってくれるので、傘をささずに行きました。

カフェドラにつくと、ガリーナ・アレクサンドラとデカナットの派手な若い女の人(顔はわかるけど名前を知らない)がパソコンで何かしています。試験の用紙をプリントしたい。。。

「プリントしてもいい?」「ええ・・後にして」「次が試験なの!急ぎなの!」とお願いすると、ガリーナ・アレクサンドラが席をどいてくれました。しかも「紙ある?」と聞くので「自分で買ってきたから」と言うと、「今日私が持ってきたから、それを使って。自分の紙は使わなくていい」って。ラッキー。「その紙は向こうの棚にあるよ」とガリーナに言われ紙を探していると、「リォーカはロシア語がよくわかるようになったよー。でも残念だけどもう帰るんだよね」と彼女がデカナットの人と話しているのが聞こえてきました。2人はその会話まで私がわかってるとは思っていないようでしたが、ちゃんとわかってるよー。ちょっと嬉しい瞬間でした。

 

試験。学生は全員で8人と思ったら9人!今期初めて会った学生ばかり。事務から名簿ももらえないから知らなかったのです。うーん。プリントが足らない。いそいでプリントをしに戻りました。

 

5月25日(金)

5年生の試験。9時から開始。全員(といっても6人だけど)で終わったのは2時半。休憩なしの5時間半ぶっつづけで疲れました。みんな頑張ってたから、やりがいがありました。

先に終わった学生と一緒に食堂でお昼を食べる約束をしていたので、試験が終わってから食堂へ行きました。

 

明日から2日間、今度は水が出ないという情報をキャッチ。お湯はでるらしい。明日はそのため大学が完全休校。トイレが使えないからね。

その対策用に、風呂場にあったバケツに、とりあえず水を張っておきました。するとお隣さん(オーリャ)は鍋という鍋と、どっから見つけたのか、でかいホーローの鍋にいっぱい水を張っていました。あと、ちょうどあったペットボトルにも水を入れておきました。

トイレはどうしようかな。2日間、水なしで生活できるかな・・・。(飲料水は買うけど)

 

5月26日(土)

朝起きると、トイレのタンクのふたが開けられていました。オーリャが開けたらしい。タンクに湯を入れて、ひもを引っ張れば、普通にトイレが流れると言うわけ。なるほど。けど、溜めてある水を使うのはもったいない。けど今は蛇口から熱湯しか出ない。オーリャは熱湯をバケツに溜めて、トイレに流していました。トイレがもうもうとサウナ状態・・・(湯は、冬はぬるくて困ることがあるのに、こういうときに限って熱湯・・・)

 

さて、帰国も近いことだし、テキストやプリントの整理をしようと部屋中にプリントを並べていると、お隣さんがノック。「何してる?手伝ってくれない?」。ドアがベニア板丸見えになっているので、そこにきれいな壁紙を貼りたいらしい。まあ、やってみよう。「のり、これでいいと思う?」「え?何これ」「小麦粉」小麦粉に湯を加えて練ったもの。まあ、やってみよう。

壁紙は黒地に白い花のもの(私の部屋のと同じ)と茶色いブツブツした柄(何ともいいがたい)があったのですが、茶色のものはドアには足らなかったので、黒を貼ることに。適当に切って、ドアに小麦粉を塗って、貼る。意外にくっつく。継ぎ目が丸わかりだけど、何とかできた。うーん、もとのままでもよかった気が・・・。ま、でも私はもう日本に帰るしね。

部屋に戻ると、Aさんからメールが。「今日は寒いので、花見に行けないけど2年生と中心街を散歩しよう!5時に会います。ロコモチフのバス停で。(日本語)」暇だからいいけど、「会います」ってのは決め付け?と突っ込みたくなります。日本語で書いてきてくれるのは嬉しいなぁ。

 

ベンチに座って待っていると4人の学生が集まっているのを見つけました。あとは1年生のOさんがいません。30分待ちましたが来ないので、先に歩き始めることにしました。Oさんは結局1時間遅刻で走ってやってきました。

川沿いを散歩し、途中でピザを食べにカフェに寄りました。カフェでOさんお勧めのお茶を頼むと、ティーパックに日本語が書かれていてなんとなく嬉しかったです。

 

博物館の近くにモンゴルのゲルが設置されていました。学生曰く、中国のお茶が飲める、とか。とりあえず入ってみることにしました。モンゴルチックなのか、中国チックなのか、アジア的要素がミックスされたような室内。お香もたかれていて、なかなか雰囲気のあるカフェでした。期間限定で設置されているカフェのようです。お茶も変わった味でおもしろかった。

 

5月28日(月)

1時間目、1年生の授業。今日は最後の授業なので、みんな配達のお寿司を注文してくれていました。みんなで朝1時間目から教室で寿司を食べ、日本から送ってもらったカルタで遊ぶ。・・・私、授業で遊びすぎかな・・・。とうとう教室でお寿司を食べるなんて。みんな喜んでいたし、私に日本語で話しかけてくれるし、私が彼らの立場だったらすごーく嬉しいし楽しい授業だよね。もちろん真面目に授業をするときはしないといけないけど。 

 

5月31日(木)

今日は2年生、3年生の最後の授業。先週の授業の際に、「次は最後の授業だから、ケーキを食べてお茶を飲みましょうか」と提案すると、みんな大盛り上がり。

10時ごろ、そろそろ家を出ようと準備していると、3年生のOからメールが。「先生、いまどこですか?(日本語)」そんなメールが来ると、授業時間を間違えたかと不安になってしまいます。「いま家だよ。今から大学に行きます」と返事をすると「どうしよう。今授業がありません。もしかして、いま、授業の代わりにセンターに行きましょうか?(日本語)」ええ!!?どういう意味??

考えた結果、今日は3時間目に私の授業、でもOは2時間目がない。だから空き時間ができてしまい困っている。でも私は2時間目2年生の授業がある―という意味だろうと解釈し、「もしよかったら、2時間目に2年生と一緒にお茶を飲みませんか?一緒にパーティーをしよう!」と言うと「2年生と一緒に大丈夫ですか???」と心配そう。いいんじゃない?なんて適当な返事をする私・・・。

 

結局、3年生もみんなやってきて、2年生たちと一緒にパーティーになりました。大きいケーキを買ってきたり、大量のお菓子を食べたり。最後は最近人気のカルタです。人数が多いから、かなり白熱しました。1時間半があっという間でした。

 

帰りはクシューシャ先生と一緒に帰りました。そのとき一言「明日はマイナス2度だって。さっきインターネットで天気予報みた。帽子、コート必要だよ」と。30日の深夜から1日の朝にかけて一気に寒くなるらしい。これはやばい。もう集中暖房は切れているし、そうでなくてもただでさえ寒くて最近は毛布をかぶって作業してるっていうのに。

もうしまってあった温度計を窓の外にぶら下げました。やっぱりロシアだなー

 

6月

 

6月1日(金)

結局、昨日の深夜は+5度くらいでした。この温度計は少し高めに数字がでるので、確かにマイナス近かったのかもしれません。

でも、今日になってみると、確かに寒いけどマイナスほどではありません。よかった。帽子やコートは必要ないようです。いい天気なので、林を歩いてアカデムゴロドクАкадемгородокの郵便局まで手紙を出しに行き、そこからバスでセンターに散歩に行きました。最近フラフラと出歩くようになり、やっと地理がわかってきました。今日は中央公園で「子どもの日」らしく(そういえば、昨日学生がそんな話をしていた)、イベントをしていました。

 

6月3日(日)

9時、結構早い時間です。40分前には家を出なくてはならないので、8時20分には出発しました。いつもなら9時の1時間目にはスクールバスで行くのですが、日曜だから走っているはずがありません。歩いて行きました。日曜の朝だけあって、全然人がいません。いつも林の中でそうそう人とはすれ違いませんが、今日は全く人と会いませんでした。

大学はいつも通りあいていました。よかった。

 

カフェドラに行くと、ユーリャ先生がもう来てパソコンから印刷をしようとしていました。が、紙がない。ユーリャさんは「インターネットもないし、印刷の紙もないし。どうやって教えるの!!」と怒っていました。本当にそうだよね。印刷の紙は、以前ガリーナ・アレクサンドラが棚にしまって「これを使え」と言っていたのを思い出したので、そこから出してきて使いました。簡単に使われないように隠してあるのでしょうか。絶対気付かないような場所においてあります。

 

印刷が終わり、さっそく試験です。私も今日は教壇ではなく、学生と一緒に座っていたらユーリャ先生が「じゃ、4人ずつ試験をしましょう」と言いました。すると他の5年生はP、K、I、私を残して教室を出て行きます。いや、私は試験受けないって。

試験は、@日本に関するロシア語テキストを読んで、日本語で内容説明、そのトピックスの日露比較、A日本語テキストを読んで、日本語で内容説明と自分の意見、先生の質問に答える、Bテープを聴いて、ロシア語に訳す、Cテープを聴いて、日本語に訳す、というハードなものです。Bの日本語テープは日本の観光ガイドという設定で、日本の地名がたくさん出てくるし、「豊臣秀吉が建てた大阪城・・」まで出てきて、なかなか難しかったですが学生はがんばって答えていました。

 

なんとか3人とも合格し、ユーリャ先生は他の学生の試験があるので教室に残り、私たち4人は先に寮に帰ってカレーを作ることにしました。給食でカレーの日はなぜか夜に家でも偶然カレーが出る、という話を小学校や中学校の時にした覚えがありますが、昨日もカレー(自分で作った)、しかもお隣さんもカレーだった、今日もみんなでカレー。カレーは好きだからいいですけど。

 

とりあえず、買い物をすることになりました。まず市場で野菜を買い、その後、日本製品がいっぱい売っているというスーパー、ディクソンДиксонへ行くことに。途中、林の中で洗濯物がたくさん干してありました。誰か住んでいるわけでもなさそうですが、どうして!?

 

ディクソンには日本のシャンプー、リンス(「サロンスタイル」等)、食器用洗剤(「チャーミー」等)、洗濯用洗剤(「部屋干しトップ」等)がありました。どれも「誰が買うんだ」と言いたくなるぐらい高かったです。たとえば、食器用洗剤が1本(たぶん250mlぐらい)65ルーブル。ロシア製のものは500mlで28ルーブルで買えます。でも日本製のものは質がいい、ということで買う人がいるとか。

カレーは料理が得意なKに任せて、他の3人は彼女の助手として野菜の下ごしらえとかをダラダラ話しながらしていました。テキパキとKがほぼ一人で完成させてくれたカレー。ルーじゃなくて、いろんなスパイスを混ぜて作ったカレーです。おいしかった!ありがとう。

 

6月4日(月)

家に帰ってゆっくりしていると、ターヤから電話。「明日2年生のザチョットをしたいんだけど、答案用紙作るの手伝って!」とのこと。20時半にターヤの部屋に行くと約束しました。

ターヤが言う問題を私が打ちこんで、完成したのが23時半ごろ。そしてお茶を飲みながら、大学の愚痴を言い合いました。ターヤが言うには「正直、この大学は学生の日本語レベルが低い・・・」のだそう。レベルが低いというか、そもそも熱心な学生が少なく、ターヤががんばって教えても全然やりがいがないと。確かにノボシビルスク、イルクーツクの学生に会って、すごく上手に日本語で話すので「何年生?」と聞くと「2年生です」と言われ、びっくりしたこともありましたが・・。

ところで、6月1日の天気について。ターヤは1時間目の授業があったので朝8時半頃大学に行ったそうですが、その時は寒くて寒くて凍えそうだったとか。明らかにマイナスだったと言っていました。やっぱりあの日は寒かったのか。

 

6月5日(火)

デカナットに行って給料をもらいました。いつもより高いのは出張費だと思われますが、今回は明細がないのでわかりません(明細があっても、肝心なところが書いていないのでわかりません)。ユーリャさんが昨日一筆書いた紙(ユーリャさんの給料を私に預けてほしい、という内容)は「だめ」と断られ、結局彼女の分の給料は受け取れませんでした。うーん、以前給料をもらったときは「ユーリャさんの分をあなたに預けてもいい?」と聞かれたことがあるのですが。その時は結局Aさん先生が預かりました。(ユーリャさんは週に1回土曜日しか大学に来ない上、土曜日はデカナットが休みだから)

 

そういえば、カフェドラ部長?(というのかな)のバレンチナさんに「今度国家試験でしょ」と聞かれて、「リョーカ、厳しくね!わかった?」と釘を刺されました。私が甘いというのはどこからの情報??確かに甘いかもなぁ。他の先生の基準を知らないから何ともいえないけど。国家試験は私一人で評価するわけじゃないからちゃんと厳しく評価するけどね。

 

6月8日(金)

今日はгосэкзамен5年生の国家試験です。9時から。中国語もトルコ語も、すべての学科で同じ日にあります。今日は筆記試験(Письменный экзамен)です。

まず、朝イチに大学に行くと、誰も日本語の先生がいない。ええ!ちゃんと来るかな・・・とハラハラドキドキ。試験自体はそんなにたくさんではないので、あまり時間はかかりませんでした。作文が主なので、読むのが楽しみ。

 

その後、Aさんさんと一緒にコンタクトを買いに行きました。「日本はハードレンズが多い、ソフトは目に悪いって言われているから」とAさんに言うと、猛反対される。「だって、硬いんだよ!痛いじゃん」。目医者さんのおばちゃん(といっても、ちゃんとした検査はしていない)も、「よくわからんけど、ハードレンズってのはまったく曲がらないでしょ。つまり、こういうのと一緒なんだよ。」とガラス瓶を指差していました。結局「ハードは目に悪い」ってことらしい。「でもソフトは空気が通らないでしょ」と言うとAさん:「このレンズは普通に問題なく通るって言われたもん」と。日本はハードのほうが空気通ると言われてるんじゃなかったっけ?うーん。どっちが正しいのか・・・

ボシュロム、ジョンソン&ジョンソンのワンデーアキビューが1枚250ルーブル。連続装着可(最高1週間)で半年もつらしい。私は毎日外すから、と言うと、ロシア製(Оптимед)のレンズを薦められました。同じ250ルーブルで、1年持つらしい。が、毎日外して、って。

検査(といっても視力検査のみ)、レンズ2枚500P、洗浄保存液、ケース100P(鏡とかつき。Aさんは「ちゃんとしっかりフタ閉まるの?と確認していた。液の容器のフタが閉まるか、なんてあたりまえすぎて日本では調べないなあ。」目薬(ボシュロム150P)。

右目と左目の視力が違う人は、レンズもそのようにしないと体にわるいらしい。左右で度が違うまま強制するとダメだ、とおばちゃんは言っていました。つまり、裸眼では左右の視力が違うのに、両眼を同じ視力に矯正するのは体に悪いのだそうです。

ロシアの検査表は半分が日本と同じC型(って言うの?切れ目を指すやつ)のものですが、反対の半分はロシアのアルファベッドが並んだもの。おばちゃんはロシア語版を使っていました。見えるか見えないのかを言うだけだけど、Ыとか聞かれたら正しく発音できないよ・・・

私の視力はロシア風には左(−)3.0 右(−)5.0でした。(数が多いほど悪いらしい)

 

6月9日(土)

国家試験二日目。今日も9時から。朝は寒くて、オーリャ先生もターヤ先生も「寒いーまだ冬だよ」と言っていた。

昨日の夜は深夜1時までターヤと話し、その後、ユーリャさんにもらったテキストの印刷が見づらくて私ですらところどころ読めないので、ワードで書き直しました。なんとかコンテクストから解読して。それが終わったのが2時過ぎ。朝は8時半に出発するスクールバスに乗るため、7時半には起きなければなりません。朝はコーヒーだけ飲んで、行きました。オーリャ先生と一緒です。バス乗り場で待っていると、ターヤもやってきました。

 

国家試験が終わったのは2時ごろ。その後、バンケット(ちっちゃいパーティー?)でした。

その後5年生の3人娘にメールすると、食堂にいるよと返事。私も食堂に行って、ご飯を食べました。4人でおしゃべりしていると、見知らぬおじさんに「ロシア語以外で話すな、食事の邪魔をするな」とどなられる。学生も負けじと「こっとは先生と話しているの!いやなら耳ふさいで!」。そんなこと言われるなんて、ちょっと気分が悪い。

その後食堂のおばさんが話しかけてきて「あの人、ちょっとね・・・気にしないで」と。要するに、いつもあんな人らしい。

 

6月10日(日)

今日はクラスノヤルスクの誕生日。379歳になりました。

11時半にAさんとワーリャの店の前で待ち合わせ。ワーリャも来る予定だったのですが、寝坊したからと言って来ませんでした。ワーリャの店はパレードが行われるミーラ通り沿いにあるので、店を開けてくれたらちょうどよかったのですが。

渋滞するだろうと思い、10時半に寮を出ました。渋滞していなければバスで30分ほどで中心街に着きますが、だいたい普段からいつも渋滞しています。しかも今日はお祭。渋滞しないわけがない。

さっそく丘を降りてしばらくしたところで、渋滞し始めました。全然進みません。バスの中も満員です。(私の乗るバス停は2つ目のバス停なので、座れることが多い)まだまだ中心地までは遠いのに、なんだこの渋滞は、と思ったらパレードの出発地点だったらしく、バスが10数台停まって車線をふさいでいました。

どのバスも国旗を掲げています。

渋滞したのはその辺りだけで、中心街は渋滞していませんでした。

パレードは12時半から始まるそうです。私がミーラに着いたのが11時15分ぐらい。すでにたくさんの人が場所取りをしています。Aさんは渋滞に引っかかったらしく、12時過ぎにやってきました。

 

смайкのハンバーガーを売っている露天はありましたが、食べ物を扱うお店がほとんどありません。その代わり、おもちゃの露天がたくさんありました。私も旗がほしかったので、ロシア国旗(中に双頭の鷲が書かれている)30ルーブル、Я люблю Красноярскと書かれた旗(15ルーブル)、クラスノヤルスクのライオンの書かれた旗(10ルーブル)3本も買ってしまいました。

ユーリャさんは例のアメリカ人女性と一緒にVIP席にいるというメールが。いいな。Aさんに「リョーコはもうロシア人だからVIP扱いじゃないんだよ」なんて慰め?られました。パレードの後にはすぐにVIP席の椅子やステージを撤去、紙ふぶきやクラッカーのごみで色鮮やかになった道路も、水力で吹き飛ばすトラックがきて、さっさと掃除をしていました。一気に始まって一気にパレードが終わった気がします。

個人的に一番好きなのはコカコーラのマリリンモンローでした。若いお姉さんならともかく、明らかなおばちゃんまでセクシーな服を着て踊っていました。そうなんです、おばちゃん、おじさんまでコスチュームで着飾っています。見物人のおばちゃんですら、ディズニーランドで売っているような動物の耳のおもちゃをつけています。

 

その後、夜の花火を見るためにOさんの家に行く。ロシアの伝統的な家で、本当にかわいい家なのだけど、(恋人のお父さんが建てた)あと3年しか住めないらしい。チャソブニャも近いし、中心地も近いし、昔からここに住んでる人だけしかいないから安全だそう。そこに大きなマンションが建つんだって。

「今年の花火はすごいらしいよ。すごく長くやるらしいよー」と言うので「え、そんなに長いの?3時間ぐらい?」と聞いたら「1時間」・・・。

で、その今年の花火なのですが、全然始まらない。23時半に始まる予定(こんなに遅いのは、この時間にならないと暗くならないから)なのに、全然何の音もしない。「恋人はテレビで23時半からって言ってた」、とOさん。

結局20分遅れで開始。チャソブニャの真上に花火が上がり、とてもきれいでした。が、20分足らずで終了。ええ!!!こんなに楽しみにしてたのに。

    

クラスノヤルスク市庁舎       パイプオルガンのある教会     大学の裏からエニセイを望む

 

6月11日(月)

今朝はOさんの恋人にバス停まで送ってもらい、帰宅。

帰りに、今日初めて山の大学の近くのバス停でクワスの黄色いタンクを見ました。どのバス停にもあると言われているクワス、ここにはないので、バスに乗って買いに行くしかない。やった、と思い、もう店じまいしようとしているおばちゃんに「1リットルください」と言うと1.5リットルのペットボトルしかないから、1.5リットルしか売れない、と。ええ、そんな。まあいいや、じゃ1.5リットル。36ルーブルでした。確かペットボトル料が18ルーブルだったと思います。高いな。これからはペットボトルを持っていかないと。

 

6月12日(火)

最近6月に入ってから、町の中を綿毛のようなものがふわふわ飛んでいます。しかも半端な数じゃありません。まるで雪のように飛んでいます。最初はたんぽぽの綿毛だと思っていたのですが、違いました。Топольという木が原因。このアレルギーの人もいるそう。私も6月に入ってからくしゃみと鼻水がよく出ます。日本では花粉症もないのに、ロシアでアレルギーになったのでしょうか。早くなくなってほしいです。クラスノヤルスクはこの木が多いんだとか。

 

今日は祝日。「どこから独立したの?」と学生に聞いても、みんな「知らない」と言います。でもどこもかもお店が閉まっているので、大きい祭なんじゃない?と。どこの国も若い人はそんなもんかーなんて思ってしまいました。

 

6月13日(水)

今朝4時半頃に目覚めると、もう日が昇っていました。鳥の声がよく聞こえて、気持ちのいい朝でした。きれいだったので写真を撮って、また寝ました。1度早朝散歩に行かなければ。

 

さて、やっと起きると曇り空。今日は大学のインターネットセンターに行こうと決めていたので、ご飯を食べてすぐに行きました。

ネットをしていると、何だか寒くなってきました。周りの女の子はすでにノースリーブを着ていますが、私にはまだ寒すぎます。どこか歩くか、家に帰って熱いコーヒーを飲むか迷いましたが、ここでの生活が残り少ないと思うと、少しばかり寒くても散歩に行くことにしました。

実はもう1度行きたいところがあります。以前ユーリャさんとシャシリクをした時に、バスで通った白い教会です。バスの番号は忘れてしまっていたのですが、地図で確認して、場所の目星はついていました。最近このあたりの地理がわかってきたことだし、バスなら乗り間違えても同じ番号のバスで帰ってこられるし、いざとなったらタクシーで帰れるし。とにかく、行ってみました。

 

さて、乗換えをしてしばらく行くと(10分ぐらい)教会が見えてきたので、あわててバスを降りました。教会の入り口がわからず、まわりをぐるりとまわっているとスーパーКрасный ярがありました。せっかくなので寄って、最近お気に入り(でもなかなか売っていない)のチョコがけバフリを買いました。

入り口にはいつものようにおじいさんがコップを片手に座っていました。教会の中には入らずに、周りを一周して戻りました。

 

乗り換えのバス停までバスを乗り、そこからは歩いて帰りました。途中に日本人墓地があるので、お参りをしてきました。バフリもお供えしてきました。今年の8月には遺族会の方々がいらっしゃるそうです。以前来た時には、お皿にのせたブリヌィとお花がお供えしてありました。

 

7月

 

7月3日(月)

今日はジブノゴルスクДивногорскに行く予定。1時半にルチで待ち合わせ。AさんとOさんが来るらしい。お隣のジブノゴルスクへ船で遊びに行きます。まずAさんがユーリャ先生に渡したいものがあるから、ということで市役所へ。ユーリャさんと雑談をし、市役所のすぐ近くの船着場(речной вокзал)へ。

船は15時発のものに乗るつもりだけど、待てども待てどもOが来ない。チケットがなくなるといけないから、ということで2人で先に切符を買いに行きました。

意外と大きい船。カッサにはすでに行列。子連れの若いお兄さんが「小さい子どもがいるから」と言って先に並ばせてもらっていました。ロシア人は本当に子どもに優しいなぁ。バスの中でも絶対「子ども優先」を守っているし。学生に言わせれば「(モスクワとかの)町の人は冷たいけど、クラスノヤルスクの人は親切だから」だそう。1枚150ルーブルでした。

結局、オキザは無事に間に合いました。ジブノゴルスクまでは40分。帰りは電車で帰る予定。

 

船の中ではガラスが汚いので景色が曇って見えました。写真もきれいに写りません。シベリア鉄道でも日本人観光客はよく窓を拭くって聞いたことがあるからな・・・ロシアの感覚と日本の感覚は違うのかな。以前は甲板に出られたそうですが今は出られず、2つだけある入り口から体半分だけ外に出られました。船の旅はあっという間でした。

 

ジブノゴルスクは「坂の町」−とは聞いていましたが、まさに階段の町。おじいさんおばあさんはどうするんだろう。

Aさん曰く「ジブノゴルスクは車が少ないから安全」だとか。静かな田舎。

 

とりあえずおなかがすいたので、カフェを探してさまよう。階段を登った中心に広場があり、そこにカフェがある、と通りすがりの女性が教えてくれました。行けども行けども階段階段・・・・ひたすら上ります。

ゼーゼー言いながらそのカフェに着き、メニューを見るとサラダ1つ90ルーブルほど。高いからやめようと外に出ようとしたら、店員が舌打ちをしているのが聞こえました。

 

暑い中、カフェを求めて階段を登る。そんな中、Oが「горячие еды(温かい食事)」と向こうの看板に書いてあった、というのでAさんと探します。いろんな人に聞きまわって、ようやく見つけた店ではおばちゃん2人が片づけを始めたところ。「なにもないよ」と言われ、困っているとガルデロープ(コート預けるところ)のおばちゃんが「近くに店があって、サラダとか売ってるよ」。今度こそ、と言われた通りその店に向かう。着いたのは普通の食料品店。でも片隅にテーブルと椅子があり、ここで食べてもいいらしい。サラダ3種類頼んで65ルーブルほどでした。

このお店、壁一面にロシアの昔話の絵が描いてあります。なかなかかわいいお店。サラダもおいしかったです。

その後は町の散策。その辺の公園でブランコに乗ったり、アイスクリームを買って食べたりしてブラブラしました。それにしても、今日は暑い!一気に日焼けしそう。

 

夕方になり駅に行くと、「今日は電車がない」。なんで!?

下りてきた階段を再び登って広場のバス停まで行き、バスのチケットを買うことに。

いまいま来た道をまた戻ります。しかも行けども行けども階段。本当にすごい町。足腰が強くなりそう。

帰りはバスで35ルーブル。船は150Pだったのに、すごく安い。きっと船は観光用なんだな。クラスノヤルスクまでは45分ほどでした。 

 

7月5日(木)晴れ+激しい雷を伴った夕立

今日はOの家に15時に行く約束をしました。それまで家でのんびりしていると、晴天の空に突然の雷です。空の半分は青空なのに、もう半分は真っ黒な雲に覆われています。スコールがどんなものか体験したことはありませんが、きっとこんなのなのかなと。突然の激しい雷雨でした。中心街のほうでビカビカ稲光が見えました。落ちた、と思った場所で地面に火花が散っていました。

さて、そんな雷雨も30分ほどで止み、13時45分ごろOの家に向けて出発しました。彼女の家はチャソブニャの近くなので(『地球の歩き方』によると「治安が悪い」らしいですが、むしろ安全なほうだと言っていました)68バスなら30分、88なら1時間あれば十分です。空はもう青空、さっき降った雨でむしむししていました。

ちょうど88バスが来たので乗り込みました。ところがなぜか道路が渋滞しています。渋滞はいつものことなのですが、まだまだ中心地までは遠い場所、いままでこんなところで渋滞したことはありません。

突然バスの中で驚きの声があがりました。道路が冠水しています。普通乗用車のステップ辺りまで水がでていました。水の中で立ち往生した車もあり、ますます渋滞がひどくなっています。

 

さて、やっと冠水地帯を抜けたと思ったら、今度は町の中心部でも渋滞です。まだ平日のお昼、今日はよく渋滞するなと思っていたら、なんとここも冠水していました。名古屋で言ったら栄ですよ。女の子がキャーキャー言いながら、靴を脱いでズボンの裾をめくって歩いていました。ロシアは通りにビール瓶の破片が散乱しているので危ないよ、とハラハラしながら見ていました。

そんなこんなでOの家に着いたのはもう15時過ぎ。2時間もかかってしまいました。

でもなかなか見られない光景を見ました。

  

        クラスノヤルスクの民家                レチノイ・バグザル(エニセイ川河川航路の駅)

 

 «ロシアでの生活を振り返って»

まとまりなく日記という形でこのクラスノヤルスクでの生活について書いてきましたが、この後2007年7月9日にクラスノヤルスクを出ました。学生たちとのお別れはさみしかったですが、日本で会うことを約束してのお別れでした。未だによくメールのやり取りをしています。みんな駅で森山直太郎の「さくら」を歌ってくれました。ホームから去っていく列車を見送ってくれました。一生忘れません。

 

この後、せっかくビザが残っているんだからということで、モスクワ、サンクトペテルブルグに7月末まで滞在し、その後バスでフィンランドへ行きました。日本に帰国したのはお盆直前。フィンランド入国で大いにもめて、あわやロシアに送り返されるかという事態になりましたが、なんとか陸路で入国できました。その辺のお話は興味がある方がいらしたら、おろしゃ会にいらしてくれたらいくらでもお話します。

 

今年の夏(2008年)にはその時の教え子の一人が名古屋にやってきます。会う約束をしているので楽しみです。彼女にとっていい経験になるように、楽しい思い出ができるようにお手伝いできればと思っています。

1年だけですが、シベリアで生活するといういい経験をさせてもらいました。両親をはじめたくさんの人に心配をかけてしまいましたが、本当に行ってよかったです。

長い長いこんな日記に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

2008年夏 猛暑の名古屋にて 幅 亮子

 

 

 

愛知県立大学おろしゃ会主催講演会

 

開発援助の問題点

現場の視点から、

25年間を国連職員として働いて−

 

講師 平塚夏樹氏

日時 11月3日(土曜)午後3時から午後5時

場所 学術文化交流センター2階 文化交流室A

 

平塚夏樹氏は、1980年〜2005年にかけて国連開発計画(UNDP)のスタッフとして、シエラレオーネ、タンザニア、太平洋諸島、モルディヴなどの開発援助計画に直接的にかかわった後、ニューヨーク勤務を経て、さらにタイ、モンゴルの開発計画を指揮して来た方です。特にモンゴルにおいては、ロシアとの関係についても考察されて来ました。現場から見た貴重なご意見をうかがえると思います。皆さまのご来場をお待ちしております。

お問い合わせは おろしゃ会顧問 加藤史朗まで メール myherzen@yahoo.co.jp 又はお電話で0561-64-1111(研究室内線2914)

 

 

県大祭に参加

学術交流センターにおける平塚氏の講演 パワーポイントを操作するのは田川聡子さん

ロシアン・カフェのスタッフ

 

初めてのお客様

営業中のカフェにて(左から井平さん、塚田さん、石原さん、川口くん、国分さん、神谷さん)

 

ロシアに関するクイズの正答を講師の平塚先生に解説するアリョーシャ

11月18日学生会館の中会議室で学祭の打ち上げ 韓国からの留学生二人も参加

 

加藤 晋先生・加藤瑠璃子先生ご夫妻来校

おろしゃ会に資料や基金百万円をご寄付

加藤の研究室にお出で下さった加藤先生ご夫妻

 

2008年1月30日 加藤先生ご夫妻が私の研究室にお見えになり、現金100万円とともに、以前にご寄付下さった資料に加えて、さらにたくさんのロシア関係の図書、ビデオ、DVD、CDなどをご寄贈下さいました。今、それらの資料目録を作成中です。ロシア語やロシア文学、ロシア音楽などに関する資料のほとんどは、先生ご夫妻の猛勉強の痕跡があり、これを手にするものに大きなインセンティブを与えてくれます。お金については余りにも多額なため、前部長の塚田さん、新部長の田川さん、副顧問の田邊先生と相談の上、基金管理委員会を設け、ゆっくり時間をかけて構想を練り、有効に活用させて頂きたいと考えています。以下の文章は、現段階における加藤晋先生基金を用いたシンポジウムの企画書です。あくまで「案」の段階であり、講師名などは、まだ確定していませんので、匿名としました。

 

加藤晋先生基金記念シンポジウム

 

「日本とロシア−若い世代へ」

 

 

企画書

 

本年1月30日、おろしゃ会にかつて書籍その他のロシア関係資料をご寄贈下さった加藤 晋先生がご夫妻で来校され、新たに膨大なロシア関係書籍やビデオ、DVDやCDなどをご寄贈くださいました。それだけではありません。金100万円もご寄付して下さいました。顧問としては、余りにも巨額の寄付であり、現金の方は固持いたしましたが、かねてよりの考えだとして、ご意志は変わらないということでありました。そこで、折角のご芳志に恥じぬような形でこのお金を利用することをお約束し、ご寄付を頂くことにいたしました。取りあえず、次のような委員会を作り、加藤 晋先生に領収書をお渡ししました。

 

 

領収書

 

加藤 晋 様

 

おろしゃ会へのご寄付金として

金壱百万円(\1,000,000)を確かに受領いたしました。

 

2008(平成20)年1月30日

愛知県立大学おろしゃ会顧問

加藤史朗 

 

 

なおご芳志として頂戴いたしました寄付金の保管と使用に関しましては、以下の教員と学生からなる加藤晋先生基金管理委員会を組織し、厳正に執行することをお約束いたします。

 

加藤晋先生基金管理委員会

 

加藤 史朗(愛知県立大学外国語学部教授・おろしゃ会顧問)

田邊三千広(星城大学リハビリテーション学部准教授・愛知県立大学非常勤講師・おろしゃ会顧問)

塚田 麻美(愛知県立大学外国語学部中国語学科四年・おろしゃ会会長)

田川 聡子(愛知県立大学文学部国文科二年・おろしゃ会次期会長)

 

 

 

学生たちにとって、何か有意義な企画はないか。これからじっくりと考えてみたいと思いますが、取りあえず、次のようなコンセプトはどうでしょうか。「日本とロシア−若い世代へ」というシンポジウムを県立大学で開催するのです。というのは、学生諸君がロシア語およびロシア関係の授業を履修していても、現実のロシアに向き合い、考え、議論する機会はまことに微々たるものだからです。しかし近年、我が国における隣国ロシアの存在感は、着実に増大しつつあり、我が県立大学においてもその傾向を如実に感じることが出来るのです。ロシア人の非常勤講師やロシアからの留学生の存在ばかりではありません。スペイン学科夜間主在籍のNさんは、トヨタ系物流会社の社員として、一昨年以来、休学して、サンクト・ペテルブルクに滞在中です。またかつて文学部日本文化学科に在籍していたRさんは、クラスノヤルスクにあるシベリア国立総合大学で一年間日本語教員として教鞭をとり、昨年夏に帰国しました。さらに、国際文化研究科在籍のTさんは、シベリア抑留問題をテーマとして修士論文を執筆し、大学院の紀要にその一部が掲載される予定です。

 

こうした中で愛知県立大学の「おろしゃ会」も手をこまねいているわけにはまいりません。会の歴史においても、2001年6月に東京外国語大学で行われた「研究者と市民の集い、市民学会」に参加し、当時会長を務めていたHさん(現 時事通信岡山支局)が、「おろしゃ会」の活動報告をおこなったという実績をもっています。「おろしゃ会」は、来年二月には、創立10周年を迎えます。これを機会に「おろしゃ会」が主催者となり、県立大学の学生や地域の人々に、「日本とロシア」の関係を考える場を設けたいと考え、次のような提案をしたいと思います。

 

@2008年度のロシア史研究会全国大会を愛知県立大学に招致する。この件については、すでにロシア史研究会委員で内定済みである。さらに、奇しくも、本年は、ロシア文学会、ロシア東欧学会、JSSEESというロシア関係の主要学会が全て名古屋で大会を開催する。いずれも開催日は、10月11日と12日である。13日の休日にシンポジウムを開ければ、反響を呼ぶことになる。

 

Aロシア体験のキーワードは、シベリアである。幸い、本学の初代ロシア語教員は、シベリア干渉戦争の研究で名高い、H先生である。先生を講演者として招請したい。その際、先生の討論者として、名古屋大学のI先生を想定している。

 

B上記シンポジウムを研究者の学術的報告だけに終わらせない。第二部として、日露の若い世代に壇上に立ってもらう。ロシア人としては、セルゲイ・ガルキンやマリーナ・ロマエワさんを考えている。日本人としては、先述のRさんやHさんなどが候補になります。

 

以上のようなシンポジウムの準備運営費用として、加藤晋先生基金のおよそ半分を使わせていただきたいと思います。

 

                                              2008年2月15日 加藤史朗

 

 

 

ケルンからの便り

安藤由美(愛知県立大学ドイツ学科・おろしゃ会前会長)

 

加藤先生へ

 

Guten Tag ! お久しぶりです。ケルン在住の安藤由美です。お元気ですか?

手紙を書くのがすっかり遅くなってしまってごめんなさい。時が経つのは本当に早くて、私がドイツに来て、もう9カ月が経ちました。私の留学生活も残り3カ月です。でもまだまだ帰りたくないです!!!ドイツに来たばかりの頃は、ドイツ語もあまり分からないのに、ビザの手続きとか保険の手続きとか…。よく分からないことがたくさんあったし、授業に出ていても何がなんだかサッパリ・・・というかんじでした。帰りたいと思うこともしばしば・・・。でも夏休み前くらいから、ドイツの生活にも慣れてきて、いろいろな所に旅行に行って、友達もたくさんできて…。すごく楽しいと思えるようになってきました。今の学期は前よりもドイツ語が理解できるようになったと思うので、大学の講義もとてもおもしろく感じます。でも、ドイツ語を聞いて、メモを取って…2つを同時にやるのは難しいです。90分集中しているのもつかれます…。授業以外にも、友達がたくさんできたことがすごく楽しいです。語学コースで同じクラスにロシア人の子がいて、少しずつロシア語を教えてもらったりしています。こっちにいると、3、4カ国語話せるのが当たり前、みたいになっているので、ロシア語への意欲が復活しています!!でも今、ドイツ語から英語への切り替えだけでもできていないのに、もっと他の言語が増えたら、私の脳はどうなってしまうのでしょう…?パニックですね。

 でもこっちでドイツ人だけじゃなくて、色々な国の人に出会えて、言葉はもちろん、その国の文化に興味を持ちました。もっともっと勉強したいです。

 あっこの前ダニエル君に会いました。もうすぐ卒業ということで試験がたくさんあるらしくて、忙しそうでした。卒業後は、日本で働きたいそうですよ!また会えるかもしれませんね!!

 11月になって、日本も寒くなりましたか?ケルンはすっかり寒いです。炬燵と鍋が恋しいです…。なんだかまとまりのない文章になってしまいました。すみません…。では、お体に気をつけてください!2月半ばに帰国予定なので、ぜひ日本でお会いしましょう。楽しみにしています。あと、ご自宅の住所が分からなかったので、大学に出しました。それではまた。

 

2007年11月17日 安藤由美

 

 

えらい仕事はとうとい     

迪義(愛知県立大学名誉教授

 

 最近、高校生に対して行われたある意識調査で、「あなたは偉くなりたいですか」という問いがあり、それに対して92パーセントが否定的な答えだったそうです。その理由は「偉くなれば責任が重くなる」、「自分の時間がなくなる」などでした。では、将来に対して彼らはどういう希望をもっているのでしょうか。それは適当な収入があって、のんびり暮らしたい、ということだったそうです。それは人生に対する一つの選択です。そこで、今回は「偉くなる」「偉い」という観念との関係で働くことの意味について私の考えをまとめてみたいと思います。

 意識調査のアンケートに応じた高校生の大半は、偉くなることを望んでいないようですが、しかし、彼らが出世願望を全く捨てたわけではないでしょう。高収入を得ることや人に評価されることは人間の本来的な欲望です。仮に今は偉くなりたいと思っていなくても、社会人になってから考えが変わるかもしれません。同年輩の友人たちが自分より速く昇進し、自分は低い地位にとどまっている、そのうち奥さんから「お隣の加藤さんは部長になられたそうよ」などと云われたりする、それでも動揺しなければ、幸いです。私たちは「競争社会」に生きています。何かにつけて人と優劣を競う風潮があります。そして、人生における成功、不成功が収入のレベルによって測られます。学校の卒業式で「身を立て、名を上げ、やよ励めよ」と歌われるように、社会における活動で業績を上げることは、いいことでしょう。しかし、昔と違って、現代では競争から離脱する人間が特別であるように思われがちです。それは第三次産業が経済の中心になっていることと関係があるようです。第三次産業、つまりサービス・販売の分野ですが、この分野では自分を飾り、対人関係に積極的であることが求められます。学歴だけでなく、外見、格好良さが重視されるわけです。さらに、成功者のモデルというものがあって、それから外れた者は評価されません。自分を「下流」だと意識することもあるようです。今日の世相を分析した三浦展(あつし)さんは、『下流社会―新たな階層集団の出現』(2005)の中であなたの「下流度」を測るとして、12の質問項目を挙げてます。その過半数に当てはまるなら、あなたは「下流的」だというのです。最初に年収が年齢の10倍未満であるという項目があって、後は当人の生きる姿勢に関係するものです。<その日その日を気楽に過ごしたい>、<好きなことだけをして生きていきたい>、<一人でいるのが好きだ>、<地味で目立たない>、<一日中テレビゲームやインターネットをして過ごすことがよくある>。これらのことは、競争に勝ち抜いて上昇しようとする意欲が乏しいということの現れだそうです。

  現代の競争社会では、学業成績によって進学のチャンスが左右され、生涯の「経済的水準」までその影響を受けることがあります。高校時代に寄り道をして大学受験をしくじったとします。そうすると、それがもとでフリーターになるということがありえます。そして、一旦フリーターになると、そこから脱け出ることが、かなり困難なようです。この辺りの事情を、作家の雨宮処凛(かりん)さんが自分の体験を通して語っています。雨宮さんは、中学でイジメに遭い、苦しみながらも、一日も休まず通いました。休めば、進学、就職ができない、人生が終わりだと思っていたからです。しかし、高校に入ったとたん、「私の中で何かがプチンと切れ、何もがんばれなくなった。親は <大学受験もあるし、中学の何倍も勉強しないと> と追いつめてきた。もういい、それからビジュアル系バンドにはまり、家出をくりかえした。高校を卒業してから、上京して、美術大学を受けたけど、全部失敗、結局、フリーターになったのです」「時給800円程度で、月収は10万円いくか、いかないか。30代になっても時給は同じなのかと考えると、不安がつのります。飲食店などでの仕事はすぐ首になるし、いくらでも代わりがいる雇用形態に、自己評価が低くなりました。ついには家中の薬をのみ、胃洗浄も経験しました」。結局、フリーターという名の非正規雇用は「生存ぎりぎりの使い捨て労働力」だといいます。実際、フリーターとして働いている人たちのなかには、家賃が払えず、インターネットカフェで寝泊まりする人がかなりいます。結婚して家庭を築くことは到底無理です。派遣労働の現場では、単純な仕事だからといって、使う側はその働きを十分に評価せず、働く者を粗末にする。自己評価が低くなったと雨宮さんが言っているのは、そういう状況のことです。しかし、私たちは他者の評価に惑わされてはなりません。貧しければ、下流であると思うのは間違いです。収入が低いからといって自分を貶めてはなりません。働きが少ないから報酬が少ないのではなく、賃金が不当に低く抑えられているのであれば、それを改めさせなければなりません。

 非正規雇用は企業経営者が生産コストを節減する目的で作り出したものです。経営者は人件費を減らすための安易な方法として非正規雇用を行っています。ある種の労働は誰にでもやれるという理由で、それらに限って賃金を低くしています。人の働きの持つ本来の意味を無視したやり方です。しかし、特定種類の労働を軽んじることは、利益の追求に駆られた経営者だけに見られることではありません。私たちの労働に対する考え方のなかにも潜んでいます。職業に貴賤はないと言われますが、この思想を、私たちは直ちに受け入れられるでしょうか。例えば、ゴミ処理や建物の清掃などが大切な仕事であることは明白です。ところが、私たちは、自分の周りの誰もがその種の仕事を高く評価しないのを知ると、自分も同じように判断してしまいます。他に、物を運んだり、配達する仕事も十分に評価されていません。肉体労働に対して知的労働を上位に置く歴史的な格付けが影響しているのです。力が強くて、重い物を持ち上げられることは「スゴイ」と言われても、「偉い」とは言われません。ところが、それが職業でなくてスポーツであれば、事情が違ってきます。重量揚げやハンマー投げ、それに格闘技などでは、力の強いことが好成績につながります。職業において歴史的に肉体労働の評価が低かったことが、やはり私たちに誤った判断を招いています。かつて、大学に入る前の浪人中、私は牛乳配達をやったことがあります。毎朝4時に起きるのも大変でしたが、昔の牛乳は厚いガラスのビンに入っていて、80本ほどのケースを自転車の荷台に載せます。自転車をこぐときは荷台の箱を腰で押さえて、ふらつかないようにします。配達が終わると、仕入れ先から新しい牛乳が届いています。今度はそれを店の大きな冷蔵庫の中に運び入れるのです。重いケースを何度も持ち上げていると、腕の関節や腰が抜けそうな気がしてきます。疲労困憊して、明日もやれるか自信がなくなります。昔、クーリー(苦力)というのがありました。19世紀、中国やマカオで酷使された労働者のことです。それとは比較になりませんが、牛乳ビンのケースを何度も揚げ下ろししていると、一時自分がクーリーになったような気持ちになりました。つらい作業に対して十分な報酬がないことの不満から仕事がうとましくなり、仕事そのものが賤しいように思われてきたのです。

 建物や設備の清掃、保守などは、重要性において他の業種に劣るものではありません。しかし、農業・漁業、工業のように生産に直接関わる仕事に比べて低く評価される傾向があります。病人や障害者の世話、老人の介護、子どもの保育なども同様です。保育や介護は、近年、その重要性が再認識されていますが、十分ではありません。これらは、言うまでもなく人の生命、健康を維持することに関わっています。洗面や入浴などの身繕いと食事が一人でやれない幼児や肢体不自由な人たちへの介助サービスはもっと尊重されなければなりません。今、老人介護にたずさわるヘルパーの待遇が低いことが問題になっています。制度に欠陥があるようですが、やはりこの種の労働に対する一般の評価が関係していると思います。肉体労働と知的労働との歴史的な格差が、依然、職業階層を分けているようです。大学での就職活動で私たちの視野に入っていたのは販売やサービス部門、会社の営業関係の仕事でした。箒やバケツを持ってする仕事ではありませんでした。私たちは高等教育を受けたエリートだったのです。ある女子学生が卒業後の進路について私と話していたときに、「会社に入ってお茶くみなんかやらされるのなら、何のために就職したのか分かりません」と言ったことがあります。「お茶くみ」という言葉にはサービスを貶める観念が伴っています。訪問客にお茶をだすことは「お茶くみ」とは言いません。茶を上手に煎れるには訓練が要りますが、肝心なのは人に奉仕する心です。それはエリート意識とは反対の、謙虚に人に喜んでもらう心です。上司や同僚にお茶をだすことは、進んでやればいいのです。むろん、それはサービス残業とは別の問題です。

 次に家庭の主婦の立場を考えてみましょう。家庭の主婦は母親であるのが自然です。母親は子どもを育て、自立させる役目をもっています。この、母である人のお陰で、あなたも私も大人になれたわけですから、家庭の主婦は文字通りの意味で「偉い」のです。実際、お母さんの働きは超人的です。あるアメリカの調査では、週一日休みを取らなければ、週92時間、一日平均13時間に及ぶといいます。賃金労働の標準が一日7時間、週35時間だとすれば、主婦の働きはこれをはるかに超えています。それに活動の種類が多様です。炊事、洗濯、掃除、子どもの世話、子どもの相談相手など、10は下らないでしょう。子育てが身近でない人のために具体的な現実を少し思い起こしておきましょう。例えば、子どもはよく泣きます。それに泣き続ける時間がしばしば長く、乳飲み子はときどき夜泣きをします。それもすぐ泣きやみません。母親は疲れていても、眠れず、また周りに迷惑をかけていないかと気をもみます。また、三才くらいの子どもが、夕方、わけもなく泣きわめくことがあります。母親が食事の支度で忙しくしているときに、いつまで泣き声をあげている。何か気持ちが安定しないのでしょう。それに、子どもはたびたび腹痛を起こしたり、熱を出したりします。ケガをすることもあります。

 このように育児は大変ですが、金銭的には無償です。そして、それゆえに、その働きが深い意味を持ちます。親は子どもに対する愛情から動きます。愛というものは与えれば、与えるほど増してきます。子どもの世話を苦しいと見るだけなら、仕合わせではありません。育児の苦労は人を苦しめるものではありません。それは子どもの成長を見る喜びによって報われます。母親が子をもつ喜びは何ものにも替えがたく、尊いものです。女性は、子どもの世話をしながら体力的、精神的訓練を積んで母になります。子どもが病気になって熱を出したりしても、うろたえないようになるでしょう。しかし、そういうときに、まだ経験の浅い女性が動揺しないように心を支え、励ますのは夫たる男の役目です。そのために、夫は常日頃から妻の話をよく聴いていなければなりません。これは、その気になりさえすれば、さして困難ではありません。しかし、わずかな思慮と忍耐が足りなかったために疎かにしてしまうことがあります。男はつねに仕事を第一に考えます。家事、育児は女性にまかせて、自分は仕事に専念したいのです。特に、ある計画を成功させようと奮闘しているときは、そうです。しかし、妻の話しに無頓着であったり、「そんなコマゴマしたことを一々気にしていられるか」と突っぱねたりするなら、重大な過誤をおかすことになります。妻の目には夫は自分を無視しただけでなく、家庭を顧みないと感じられるからです。女性はしばしば子どもと一体的になっています。それはそのまま受け入れなければなりません。夫が頼りになると分かってこそ、女性は子どもから距離を置くことができるからです。子どもは私たちの未来であり、人類が存続する姿であります。子どもを健やかに育てたいという母親の願いは天命に支えられています。そして、子どもが健やかに育つためには、夫婦が和していなければなりません。人は、相手と調和しようとするときにこそ他者の立場を尊重します。

 以上にお話ししたことは、結婚していな人には実感が湧かないでしょう。しかし、私たちは経験していないことをも理解しなければならないのです。女性の立場や考え方は、男と違います。また、女性から見れば、男は非常に違って見えることがあります。男は女性ほど簡単に嬉しがったり、悲しんだりしません。表現が乏しく、時によっては、物も言わない、コミュニケーション障害を疑いたくなることもあります。そういう傾向を誇張して、互いに壁を作ることは愚かです。私たちは違った人間と生活することによって理解力が試されます。想像力を働かすと共に、論理的に考える習慣を身につけましょう。

 最後に、雇用の問題について、基本的なことを思い起こしておきたいと思います。非正規のシステムは、雇用者側が賃金を生産コストとしてのみ捉え、労働力をかすめ取る道具としているなら、人道に悖るものです。実際、弱者に生存ぎりぎりの条件を強いる例がしばしば報じられています。東北地方から東京に出てきたある40才の男性は「将来が不安で、毎晩3時間ほどしか眠れなかった」と取材した新聞記者に語っています。食品工場に派遣されて、深夜から早朝にかけて働いていましたが、勤務時間は約束された時間よりも長く、休憩も与えられませんでした。最初の3月間は社会保険もなく、結局、会社の寮を出てしまいます。ネットカフェに行って、求人雑誌でふたたび職を探します。書籍発送や引っ越し作業などを続けているうちに、腰を痛めて働けなくなり、生活保護を受けることになりました。何か新しいことをしようとしても、なかなかやれる状況ではないと言います。このように不安を抱えた毎日、将来への希望のない生活が非正規雇用の条件に結びついています。しかし、そのような状況から、何とか脱却しなければなりません。

 いま、非正規で働く人々が立ち上がっています。今年の4月「自由と生存のメーデー07」という集会が東京で開かれました。フリーター、派遣、期間社員などが、正社員と共に「生存権」を保障させる要求を掲げて集まったのです。彼らは、真面目に働いて、人間らしく生きることができる社会を目指しています。彼らを支持し、応援しましょう。雨宮さんは「今の日本にいて生きづらさを感じない方がおかしい」と、次のように言っています。「自分は悪くないということと、お互いに、ただ、そこに生きていることを肯定し合うことが必要だと思います。そのためには、生きづらさについて、話し合うことが大事です。そうしたら、若者同士がつながっていけると思います」。働く若者が、自信を持って生きていけるように、職業に貴賤はないと言われることの意味をこめて、えらい仕事、大変な仕事は尊いということをあらためて主張したいと思います。それから、何をやってもうまくいかないと思っている人たちに、「なにごとも決して諦めずに、やり続けよう。春種をまいて、夏によく養えば、かならず秋に収穫がある」という貝原益軒の言葉を添えておきます。

 

 

初めてのトルストイ

 

市崎 謙作

 

 

 ありがたいことに,定年後ずいぶん経ったというのに加藤史朗先生とご縁ができて,ロシアをめぐって学ぶことや考えることが少しずつふえてきました。これも加藤先生のお陰と感謝しております。だが思うほど勉強も進んでおらず,ロシアについて専門研究しているとはとても言えない状態です。

そんな私ですので,加藤先生から『おろしゃ会 会報』に何か書くようお誘いいただく度に,いつも迷ってばかりいました。でも,勇気をふるって,初めてトルストイのものを読んだ少年の日の思い出を書いてみようと思います。

 それは,トルストイの『光あるうちに光の中を歩め』(米川正夫訳)という短い作品を岩波文庫で読んだときの思い出です。この読書体験から受けた感銘は,少年の私のその後のものの見方を左右するほど大きなものでした。もちろん未熟な読み方しかできなかったことを恥ずかしく思うばかりですが,ある意味では自分を一生呪縛しつづけてきたものを祓うために,その読書体験を振り返ってみたいと思うのです。

 

未完成の作品

 『光あるうちに光の中を歩め(Ходите в свете, пока есть свет)』は,トルストイの作品の中では不安定な位置を占めています。一応完成し,かなり多くの人に読まれているというのに,トルストイ自身は作品として価値をあまり認めていなかったらしいからです。

 晩年のトルストの生活にぴたりと寄り添っていたチェルトコフがこの作品の草稿を発見しました。そして,その書きかけの作品を完成するようトルストイに働きかけ,この働きかけに応えてトルストイは何回か手を加え,1887年には一応仕上げました。しかし,チェルトコフによれば,トルストイ自身は「完全に仕上げる情熱」を失ってしまい,「外面的には円熟した作品」だと言えるのに,「本質的には未完成のまま…放棄」してしまったそうです。それだけでなく,トルストイは,これを「彼の作品に加えられることを欲しなかったばかりか,全集に編入することさえ拒んだ」とも言われます。つまり,トルストイから見れば,自己の作品であると認めることも躊躇するような,できの悪い未定稿だったということになります。(参照:米川訳書の末尾所収のチェルトコフ「弁明の辞」)

 そのせいか,たとえば手元にあるフラプチェンコらが編集した22巻本の全集(1978-1985)には収録されていません。藤沼貴さんの実に生き生きした伝記『トルストイの生涯』(レグルス文庫)の巻末年表には,1887年6月上旬の項に「作品が完成」と記されていますが,本文中では全く言及されていません。川端香男里さんの『トルストイ』(人類の知的遺産52)では,言及もされていないし,年表にも記されていません。

『光あるうちに光の中を歩め』の話は非常に単純で,小説としてのおもしろさはあまりありません。思想の書として読むこともできますが,その少し前(1879-82)に書かれた同じように短い『懺悔(Исповедь)』ほどの衝撃を与えるものでもありません。しかし,作品として未完成であろうとなかろうと,他にもっと衝撃的な作品があろうとなかろうと,終戦直後,生まれて初めて,偶然,トルストイという人の『光あるうちに光の中を歩め』を読んで,忘れられないほど大きな感銘を受けた者がいたのは事実です。未熟な少年の私には,この作品が言わんとすることをよく理解できたとは言えないでしょうが,しかし,未熟な者なりに大きな感銘を受けたのです。

 

14歳になって

 終戦の年(1945年)の3月,私は満14歳になりました。

誕生日を少し過ぎた4月13日夜の空襲で,東京は駒込駅近くにあった住家が焼かれました。

その夜は曇り空で米軍機の機影は全く見えませんでしたが,空襲が始まると,山手線の線路向こうにあった家々はたちまち軒並みに焼夷弾の直撃を受けました。爆撃機の轟音だけが響き,雲の中から火がそそがれるという不気味な空襲でした。レーダー爆撃していたのです。幸い,線路のこちら側にあった私の家の周辺には,最初,焼夷弾が落とされませんでした。すぐに遠くのほうから四周の家々が激しく燃え始め,新聞が読めるほど明るくなりました。やがて風とともに火の波が近づいてきたので,隣組の関係で母ひとりを家に残したまま,僅かに焼け残った高台の一角へと先に避難しました。後で母が避難しようとしたときには,私たちが通ってきた道は火の海に飲み込まれて通れなくなっていたそうです。幸い,山手線の線路幅がやや広かったのと,両側にも道路があって火の壁を分けてくれていたので,母は,熱さをじっと耐えて線路の中央にうつ伏せになり,火勢の衰えを待ったそうです。そのお陰で焼死を免れました。翌朝,母を探しに焼け落ちたわが家のあたりに行く途中,熱さを避けて側溝に伏せたままま焼死した多くの遺体に出会いました。経験したことのない異臭も漂っていました。14歳になったばかりの私の忘れられない体験です。

 私は軍国少年になっていて,恐ろしいことに,「男たる者,進んで軍人に志願し,国のために闘うべきである」と信じて疑っていませんでした。海軍兵学校を志望していましたが,戦争末期のその頃,満14歳になれば兵隊に志願できるように制度が変わりましたので,乙種予科練の航空兵に志願するかどうか大いに迷いました。少年航空兵になり一刻も早く戦うべきではないかとも思っていたからです。だが,通っていた学校がもうすぐ卒業できるので,卒業後に志願しようと思い,次の募集を待つことにしました。年齢ぎりぎりだったというや,視力が衰え始めていたこともためらった理由です。

学校と言っても,昼は工場で工員として働いていましたから,夜間部のものです。日本大学付属の「工学校」といい,戦争中に設けられた二年半で修了できる夜間制乙種工業学校でした。すでに二年も在学していましたから,もう少しで卒業できたのです。家には経済的余裕はありませんでしたから,学校で勉強するのはこれで終わりと覚悟していたので,せめて工学校は卒業しておきたいと願っていたのです。

書き足しておきたいと思いますが,昼労働し夜勉強するという生活をしていたからと言って別に苦でもありませんでした。昼は昼,夜は夜で,次から次へとおもしろい体験がありましたし,特に工学校での勉強は,当時は国民学校と呼ばれていた小学校時代の勉強とは質的に全く異なっていて,実に興味あるものばかりでした。ユニークな先生や教え方のうまい先生が多くおられました。昼の疲れで思わずコックリすることもありましたが,何か新しい世界が開かれていくような喜びを感じたことも多かったです。しかし,終戦も近づくにつれ空襲が多くなり,夜学の工学校は休講の連続。残念なことに,最後の半年はあまり授業を受けられませんでした。

こうして14歳になっていた私は,家を焼かれた空襲で幸い焼け死ぬこともなく,少年航空兵にもならず,間もなく工学校も卒業できるという8月になって終戦を体験しました。

 

神田の岩波書店に並んで初めて文庫を買う

小学生のころ,母が夜になると働きに出るので一人で留守番をしていなければなりませんでした。そのせいで,読書の楽しみは小学生の頃に身につけていました。工学校時代には,読書家の畏友Y君から大きな影響を受けて図書選択をするようになりました。Y君は,工学校を出ただけで,その後,図書や新聞の編集をしたり書評を書いたりするようになった努力家で,数冊の著作も出しています。

東京は手ひどい空襲を受けたというのに,不思議なことに,東京神田の古本屋街の主要な部分は焼け残っており,Y君と連れだってよく古本漁りをしたものです。

神田に在った岩波書店も焼け残りました。戦後,書籍刊行を再開すると,多くの人が岩波書店の前に長蛇の列をなして本を買いました。知的に餓えていた人が多くいたのです。1945年の暮れだったか翌年早々だったか,岩波文庫が数点復刊されるということを知り,私も岩波書店の店頭に並んで乏しい小遣いを割いて初めて文庫を購入しました。その時買ったのが,トルストイの『光あるうちに光の中を歩め』だったのです。

なぜそれを買ったのか,理由はよく覚えていません。トルストイの本だからという理由で買ったわけではありません。トルストイがどういう人なのか,14歳の少年には知るよしもありません。何とはなしに,題名に惹かれて買ったのかも知れません。Y君も別のルートで購入しましたが,やはり購入した動機はなんだったのか,よく覚えていないと言っていました。しかし,Y君もまた,私同様,この本を読んで大きな感銘を受けていて,自分は「私が選ぶ三冊の岩波文庫」に選んでいたと言っていました。

きちょうめんなY君は,今でも,その時の原本をきちんと保存していたので,この雑文を書くにあたって原本を見せてもらいました(自分のは,あちこち転々としているうちに失いました)。本の表紙には右横書き(!)でタイトルが印刷され,文章は旧漢字で組んであります。後に本文は新漢字に改版され,表紙も左横書きのタイトルにされますが,戦前に組んだ活字本の紙型が戦災を免れた岩波書店の倉庫に焼けずに残っており,それを用いて再刊されたのでしょう(どうしてこれを選び出して再刊したのか,理由が知りたいですが,残念ながら,調べる余裕はありません)。

奥付をみると,昭和21年1月15日第17刷発行とあり,発行部数2万部を記してあります。昭和3年に初版が出ていますが,それ以来,ずいぶん多くの人に読まれているわけです(岩波文庫の米川訳のほかに,新潮文庫に原久一郎訳のものが出ていますが,これの初版は昭和27年になっています)。明治・大正期には翻訳が出ていなかったようですが,昭和3年に米川訳が出て以来,Y君や私同様,この本を読んで感銘を受けた人はずいぶん多くいるのではないかと推測されますが,どうでしょうか。

 

あらすじ

(0)『光あるうちに光の中を歩め』という小品は,生活遍歴やさまざまな生き方についての懐疑や意義の解明の記録のようなもので,小説としては話は非常に単純なものです。まだキリスト教が異教視されていたローマの時代,五賢帝のひとりであるローマ皇帝トラヤヌス(在位98-117)の治世のころ,キリキアの国はタルソの町でのことです(その頃は知りませんでしたが,タルソはパウロの生まれ育った町です)。富裕な家に生まれたユリウスという青年がいました。ユリウスにはパンフィリウスという解放奴隷の子である親友がいて,しばらくはいっしょに学問的研鑽を積んでいました。学業半ばにしてパンフィリウスは,母の面倒をみるために去っていきますが,ユリウスは無事に学業を終えます。しばらくして,偶然,パンフィリウスに会い,その頃は危険視されたキリスト教徒として,多くの信者たちとともに,私有を否定する共同生活していることを知ります。ユリウスは,いかにも幸福そうなパンフィリウスの様子には強い印象を受けました。

(1)ユリウスは,やがて放蕩生活に溺れるようになり,莫大な借金をします。父親に尻ぬぐいをしてもらいますが,以後は結婚して家業に励むよう命じられます。みじめな気持になったユリウスは,幸福そうだった親友パンフィリウスのことを思い出し,そのもとへ行ってみようと思います。途中で「ある人」に会います。その人は,キリスト教は人間の「自然」を認めようとしない点で誤っているとか,私有の否定は欺瞞的であるとか批判します。そして,歓楽に溺れる時期は過ぎたのであり,「一人前の男」になって国や福祉のために尽くす「第二の時代」が来たのだとユリウスに忠告します。ユリウスは説得されて翻意します。

(2)父の勧めるままに結婚し,仕事にも励むようになり,「第二の時代」はしばらく平穏に続きます。しかし,気持ちはどうもすっきりしません。そんな頃,またパンフィリウスに出会って,結婚や仕事や暴力などについて話し合います。ユリウスは,その後も仕事に励み,裕福になり,町の名士になっていきます。しかし,不運にも,ひどい怪我をして寝込むことになり,病床でこれまでのことを反省する時間的余裕ができます。考えているうちに,これまで自分のやってきたことの意味がしだいに疑問になってきます。不運が重なり,使用人のひとりに大金を使い込まれます。そんな時,前にユリウスを翻意させた「ある人」が,今度は医師として現われ,人生に懐疑的になっているユリウスに,第二の「懐疑時代」に逢着しているが,「義務」を自覚して励めば懐疑は消えると言います。この説得が効いたのか,けがが治ったユリウスは前以上に勤勉に働き始めます。

しばらくしてキリスト教徒の弾圧が始まり,多くのキリスト教徒が殉教することになります。町の有力者になっていたユリウスのもとに,キリスト教徒を何とか助けてほしいと頼みとパンフィリウスがやってきます。信仰生活や愛,また,暴力,労働,犯罪などについて突っ込んだ話合いがなされます。しかしユリウスは,苦境にあるキリスト教徒たちのために何もすることはできません。

(3)こうして十数年が過ぎたころ,ユリウスは妻に先立たれます。おまけに息子が放蕩をしはじめます。すっかり疲れ切ったユリウスがふと聖書を開けると,「すべて疲れたる者また重きを負える者われにきたれ,われ汝を休ません」という句が目に入ります。ユリウスはまたパンフィリウスの所へ行こうと思います。途中でまた「あの人」に会い,今までの生活から得た英知を世のために捧げるべきだと,「第二の時代」を続けるよう説得されるのですが,今度はユリウスは翻意せず,真実の「生についての英知」を得たいとパンフィリウスらキリスト教徒のもとへと向かいます。そして,そのキリスト教的共同体の一員として,信仰の喜びのうちに生を終えます。

 

生活遍歴の三段階:自覚深化

 あらすじから分かるように,ユリウスの生活遍歴は,(1)先ず,快楽主義的生き方をし,(2)次に,道徳主義的生活を経た後に,(3)キリスト教信仰の宗教生活に真の幸福を見出すというものです。この三段階の生活遍歴は,トルストイ自身が自らに与えている生活遍歴の区分とよく符合します。

 トルストイは,晩年,自分の過去を振り返っていくつかの時期に区分することを何度かしていますが,ビリューコフに与えた生涯の概観のひとつによれば,(0)幸福な幼年時代の14年間,(1)功名心・虚栄心,そして肉欲に身をまかせた20年間,(2)結婚し,まじめに仕事をした道徳的な18年間の時代,(3)その後(1880年以後)の(精神的回心を経た)時代,の四つに分けられると言っています。

(0)幸福についてのトルストイ幼年期の「原体験」は別とすると,「(1)快楽主義→(2)道徳主義→(3)キリスト教的信仰」という三段階を経て,神=愛と信ずる晩年のトルストイ的な境地に達しているわけです。

すぐに連想されるのは,デンマークの実存主義的思想家キルケゴールの思想です。キルケゴールは,自己の生き方(実存)の自覚を,「美的→倫理的→宗教的」という段階を経て深めていきます。トルストイとよく似ています。もっともキルケゴールは,宗教的段階を「宗教的A→宗教的B」と逆説的な信仰の境地へと深めていく点で大きく異なりますが…。

 

理論的対話

 『光あるうちに光の中を歩め』は,主人公ユリウスとキリスト教徒の親友パンフィリウス,異教的(反キリスト教的)な「ある人」などとの対話が主な内容を占めています。そこでチェルトコフは,「小説というより,むしろ論争の性質を帯びた理論的対話の連続」の書だと特色づけています。それらの対話のなかで,信仰論,財産論,私有批判,労働論,暴力論,犯罪論,恋愛論,結婚論など,興味ある重要な議論が展開されます。どれも改めてしっかりと検討すべき大切な問題ばかりですが,当時の私には細かいことは理解できませんでした。

後になってトルストイの別の作品をいくつか読みますが,問題をきちんと整理して,誰でもが理解し納得できるような解決を図ろうと努力している姿勢には,いつも感心します。普遍的な解を求め,洋の東西を問わず納得できる考えがあれば学ぼうともしています。ここにドストエフスキーと違ったトルストイの魅力のひとつがあるのではないでしょうか。ドストエフスキーの解決には,しばしば,特殊ロシア的な精神風土の中においてでなければ理解できないような屈折したものが多くあり,それがなぞ解きとしてドスエフスキーを読む楽しみをなしています。もちろんトルストイにも,特殊ロシア的な解決法がみられますし,押しつけがましい個性(シェストフのいう「説教家」のトルストイ)を垣間見せることもありますが,普遍的なものを志向する姿勢がいつも強く感じられます。

 

原体験としてのトルストイ

 誰しも,何かを思い考えたり感じたりする原点ともなっているような,いつまでも忘れられない記憶や体験というものがいくつかあるのではないでしょうか。そういうものを「原体験」と言います。「原体験」とは,「記憶の底にいつまでも残り,その人が何らかの形でこだわり続けることになる幼少期の体験」(『大辞林(第3版)』)です。

 未熟な読み方ですが,ともかく『光あるうちに光の中を歩め』を読み,私は大きな感銘を受けました。この読書体験から,私は二つの問題提起を受け取ったと思っています。この問題は,その後,折あるごとに繰り返し思い出されるものになりました。つまり,この読書体験は,私にとってひとつの「原体験」とも言うべきものになったのです。

 

二つの問題提起

 

(1)どう生きるべきかというソクラテス的問いとして

 小説冒頭のプロローグでは,「幸福な生き方」をしているかどうかということをめぐって論争が行われます。そして本文に入り,幸福で意味のある生き方を求めるユリウスの生活遍歴が描かれます。

この話が意味するのは,「人生,ただ生きていればいいというものではなく,大切なのは幸福に生きることだ」ということです。後になって,ソクラテスが,大切なのは「ただ生きる」ことではなく「よく生きること」なのではないかと問いかけることを知るのですが,考えてみると,トルストイからは,すでにソクラテス的な問題提起をされていたわけです。ただ,トルストイ的な「どうしたら幸福に生きられるか」という問題提起は,必ずしもソクラテス的な「よい生き方」と同じとは言えません。しかし,真摯に「どう生きるべきか」を考え,自らの生き方を批判的に反省しなければならないと教えている点では同じです。だが,その「幸福」とはいったいどういうことなのでしょうか。

こうして,当時は食うや食わずの生活をしていて栄養失調にもなりかけていたというのに,空をつかむような問いにからめとられて生きるボンヤリ者の少年がひとり誕生することになりました。このボンヤリ者が産まれるのを手伝ってくれた「産婆」が,『光あるうちに光の中を歩め』のトルストイだったのです。

 

(2)「私」ではなく「私たち」の幸福な生活を求めることが大切だということ

だが,その生き方は,単に「私」の生き方としてではなく,「私たち」の生き方の問題として考えるべきではないかと思われました。小説本文の冒頭,『使徒行伝』(新共同訳でいう『使徒言行録』)4:32-35のことばが引用されますが,これにはハッとしました。

「信じた人々の群れは心も思いも一つにし,一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく,すべてを共有していた。使徒たちは,大いなる力をもって主イエスの復活を証しし,皆,人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には,一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆,それを売っては代金を持ち寄り,使徒の足もとに置き,その金は必要に応じて,おのおのに分配されたからである。」(原文は文語訳ですが,新共同訳で引用しました。)

 

パンフィリウスは,ここに示唆されているような共同生活をしています。

その共同生活は,@「心も思いも一つにする」原始キリスト教的信仰共同体です。パンフィリウスは,そこでは,神への信仰が相互の愛という形で人々を結びつけていると言います(パンフィリウスという名は,ギリシア語の「パン=すべて」と「フィリア=愛」から合成され,ラテン語風の語尾を持つ名前で,「汎愛者」というほどの意味を持っています)。

 しかし,Aこの共同体の人々は何も私有していません。しかし,誰ひとり貧しい人はいないのです。そこで人々は,「能力に応じて働き,能力に応じてとる」のではなく,「能力に応じて働き,必要に応じてとる」ような共産制共同生活をしています。

 正直言って,私には信仰のことはよく分かりませんでしたが,私有を否定し,貧しい者が誰一人いない共同生活をしながら皆が幸福に生きられるという,こんな世界があったらどんなにすばらしいだろうかと心から思いました。私が初めて知ったユートピアです。

 

(3)疑問も残る

すでに述べたように,この小説の中では多岐にわたる議論が展開されていますが,多くは,少年の私にはよく理解できませんでした。本質的な幸福は,トルストイ流に理解されるキリスト教的信仰に基づく生活にあるという結論もよく分かりませんでした。こういう解決法にはどこか論理の飛躍があるように感じられて,少年の私には(そして,今の私にも)素直に受け取ることができません。確かに,意味ある生き方をすべきだし,「私たち皆の幸福」を求めることが大切だとは思いましたが,本当にキリスト教的信仰がなければ解決できないのかと疑問は残りました。また,初めてのトルストイには感動しながらも,トルストイがいつも最後には持ち出す汎神論的神秘体験や宗教的解決に辟易して,私は熱烈なトルストイ信奉者にはなれませんでした。

 

「光」を求めて

 トルストイが言うような「貧しい者がひとりもいない,誰もが幸福であるような共同社会」ができたらどんなにすばらしいだろうかと心から思いましたが,いったい,現実にはどうしたらいいのでしょうか。物的には過不足のない生活のできる,皆が幸福であるような社会は,どうやれば実現できるのでしょうか。自分なりにどう社会に貢献できるでしょうか。

 当時は,個人的なことなので書くのははばかられる暗い日々でした。私のトルストイ原体験は,当時の暗い思い出とも結びついています。この暗闇にトルストイが現実の「光」を与えてくれたとは言えませんが,少なくとも,「光」を求めることが大切だと教えられたように思いました。その後,運命のいたずらで,期待してもいなかった高等教育を受けることができるようになりましたが,「最高学府」でも明るい「光」は見出せませんでした。(イワン・イリイチも,皮肉にも,死ぬ瞬間にしか「光」を見ることができませんでした。)

 パンフィリウスの住む共同体では,人々は互いに信じあい,支えあい,愛しあって生きています。人々を結びつける根底には神の愛が働いており,その神への信仰で結ばれていることになっています。そうした信仰のことを理解しなければならないと思いましたが,分かりませんでした。しかし,ともかく,貧しくてもいいから,互いに信じあって平和に暮らすことができる「ユートピア」のような社会をどうにかして実現したいと願望するようになりました。

 

原始キリスト教的共同体の系譜

『使徒行伝』(『使徒言行録』)の著者が「ルカによる福音書」を書いたルカであるという点では,聖書研究者の意見は一致しているようですが,4:32-35に描かれている共産制共同体(2:44-47にも同様に記述がありますが)は,原始キリスト教の専売特許ではないようです。エッセネ派のユダヤ教徒が私有を否定する平等な生活をしていた証拠がありますし,探せば他の宗教にもあるだろうと思います。 

 また,宗教的ではない相互扶助的共同体だっていろいろあります。それに,原始キリスト教徒の共同生活についてのルカの記述について,事実であったかどうか疑問視される向きもあります。たとえば,田川建三さんは断言します:「もちろんこれは,事実ではない。やや後になって,最初期のキリスト教の歴史を書こうとしたこの本の著者が,一番最初の教会をいわば理想化して描いた図である。今日の学者で,これを事実だと思う人は,まずは一人もいない」と(田川建三『キリスト教思想への招待』勁草書房,2004年,p.133)。

そうは言っても,西欧においては,この短い一句に含まれる理念の影響は非常に大きかったようです。田川さん自身書いているように,中世の西欧キリスト教会は異教徒をも受け入れる救護施設のようなものを作り,貧しい者,病人その他困っている人をすべて助けようとしましたが,これは,万人平等・相互扶助の精神を実現しようとした一つの工夫であり,やがては社会福祉の理念につらなるものです。キリスト教的兄弟愛の「義人同盟」が母体となって「共産主義者同盟」が生まれ,マルクスらが「共産党宣言」を書いたということはよく知られた事実です。南米で大きな影響力を持っていた解放神学派のカトリック神父たちが共産主義的社会システムを支持していることも周知のとおりです。

 トルストイは,ロシアにおいて制度化された正教会(ロシア正教会)に対しては批判的でしたが,農民の素朴な信仰のうちにむしろ真実の信仰を見出し,キリスト教的な無政府主義的共産制共同生活を望ましいものと思い始めました。黙っていても財産がどんどんふえていくような生活をするようになったトルストイがそう考えだしたというのは逆説的ですが,では具体的どうしたらよいかということは単純ではありません。とやかくしているうちに,トルストイが死ぬ直前の1909年,トルストイの主張に共鳴する人々が共同体を作ってトルストイ主義を実践しようとしました。晩年のトルストイを支え,トルストイに『光あるうちに光の中を歩め』を完成するよう働きかけ,その死後はトルストイ全集の編集にも携わったチェルトコフは,このトルストイ主義運動に大きな影響を与えていました。チェルトコフは,ソ連成立直後には,レーニンに働きかけて共同体が存続できるよう活動もしています。トルストイ主義的共同体では,キリスト教信仰は絶対条件ではなかったようですし,また他にも,トルストイ主義者とは違う立場から共産制共同体に生きようとする人もおおぜいいたようです。しかし,1930年代後半,ソ連では,それらの共同体は弾圧され,多くの人が圧殺されました(参照:人見楠郎ほか著『愛と微笑みのパッション』新読書社,2000年)。日本では,武者小路実篤の「新しい村」運動がトルストイ主義の系列に属しています。

ルカが『使徒行伝』(『使徒言行録』)で播いた種は意外な展開をみせているわけです。しかし,グローバリズムの現在,貧困と経済的不平等はむしろ拡大しています。社会格差も大きくなっています。戦争もいっこうになくならず,権利主張と人々の対立がますます激しくなり,万人平等の幸福など,寝言でしかないみたいです。しかし,そうであればこそ,トルストイの教えは今でも貴重だと思えてきます。「光」が見えないのに『光あるうちに光の中を歩め』というのも妙ですが,少なくとも「光」を求めて歩みつづけることや,そうした「光」にあふれた共同体を求めることは,なお,ますます大切なことなのではないでしょうか。

 

幸福問題の多面性と壁

 実は,「幸福」という概念は多義的です。多義的であるだけでなく,個人主観的な要素が強く,人々に共通する側面も多重的です。そのために,どうすれば幸福が実現できるか,万人の合意を得ることは容易ではありません。また,すぐれた英知が頭で深く「思索」し洞察したからといって,問題は解決しません。現実にどう対処するかという政治的「施策」を実行することが必要になるのです。そのためには,政治的な特殊な能力や,かなりの努力と試行錯誤が必要になります。(こうしたら幸福になれるという指南書が多く出ていますが,ほとんど「私の幸福」の一面を何ほどか語っているにすぎません。しかも,こうしたら「私の幸福」が得られると断言したとたんに,不幸に苦しむ多くの人を放置する無神経で傲慢な言い方になる危険もあります。)

「幸福」を阻む大きな壁があります。たとえば,「死」という形而上学的な壁です。根本的にはのり越えることのできない不可解な壁です。「私の幸福」ということなら,「覚悟」をすることによって乗り越えることができるかも知れませんが,「私たちの幸福」ということになるとそうはいきません。また,「愛する人の死」の前では無力さを痛感するばかりなのではないでしょうか。

 どういうわけか,『光あるうちに光の中を歩め』は「死」の問題には全く取り組んでいません。しかし,トルストイは,生涯,何らかの形で「死」の問題に取り組み,考え抜いていました。『戦争と平和』も「死の問題」は重要なテーマです。トルストイ晩年の初めころに書いた『懺悔』という作品は,「我々の生に終り(=死)があるのなら,我々の為すことすること,生きていることは,すべて意味を持たないのではないか」という問題提起をして私たちに大きな衝撃を与えます。幸福と死との関わりは,別に検討すべき大問題ですが,『光あるうちに光の中を歩め』にはこういう問題提起はありません。

 

「希望の星」であったソ連

 皆が幸福である,パンフィリウスの原始キリスト教的共同体のような,愛によって結ばれたユートピア的共同体は実現できるのでしょうか。

 学生時代,いささか理想を同じくする人々と力を合わせて活動することがありましたが,妙に「大衆」をもちあげるかといえば,裏では妙な理由をつけてつまらぬ暴力的活動をするのには参りました。トルストイからの影響の余波もあり,大学教養学部時代には,差別化して「ソ同盟」と呼んでいたソ連を研究するソヴィエト研究会に一年半ほど所属していました。第3外国語でロシア語を一年間学び,ソ連大使館から資料をもらってきて学生祭でソ連擁護や日本帝国主義批判の展示もしました。資料といっても,「Советский Союз」という写真の多い挿絵雑誌などで,今から考えると,ソ連政府の対外向け宣伝のお先棒をかついだにすぎません。しかし,一時期にはソ連を「希望の星」と崇めて,ありがたく読んでいたのです。

 学生時代には自活生活をしていたのですが,ろくなアルバイトがなくてどん底の生活をしていました。こんな生活が長く続き,体重は激減。でもまあ,育英会の「奨学金」という借金のお陰で,餓死せずに生きてきました。そのうちに,中ソの対立,フルシチョフのスターリン批判,左翼活動の分裂と対立などが次から次へと起こり,心を一つにした共同体や「私たちの幸福」の実現は,しだいしだいに夢のまた夢のようなものになっていきました。

 大学院時代,ある私立女子高校の非常勤講師としてアルバイトしましたが,生活に困って,誘われるままに正規の教諭として数年働くことにしました。しばらくしたら大学院へ戻るつもりでしたが…。幸い,そこでいい同僚に出会い,特に,純朴な女子生徒たちを受け持って働いているうちに,すさんだ心にまた「私たちの幸福」という夢が少し蘇ってきました。あのとき出会った人々は,皆,忘れられません。あの時教えた生徒たちは,私にはないものをたくさん教えてくれた救いの恩人です。

 その後,かなり経ってから大学院に戻り,修士課程を終えて教育系の短大に就職し,専門でもない教科を勉強しながら教えていました。定年後,ひょんなことであるロシア人と知り合い,ロシアへの関心が少しずつ蘇ってきましたが,「羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」で,ロシアのことは厳しい目でしか見られません。「希望の星」であったソ連は幻滅のうちに倒壊しました。しかし,トルストイは,今でも,私にとっては魅力ある大きな存在として残っています。

 

市場原理では解けない問題もある

 残念なことに,初めて出会ったトルストイから受け取った問題提起には,まだ満足のいく解答は見出していません。「幸福」の実態は万華鏡のようにくるくる変わるものですが,それだけでなく,「私たちの幸福」を願っても,それを実現する手立ても見つけられそうもないのです。

 「どう生きたらいいのか」を考えるとき,「どうすればいいのか」と考えるのと「どうすべきか」と考えるのとでは大きな違いがあります。「人は,どうすれば幸福に生きられるのか」という問いは,そもそも普遍的な解などないものであって,こういう問いにからめとられたことが不運であったのかと思うこともあります。「幸福」とは,死すべき運命を含めて,私や私たちが存在する意味を大きく肯定しつつ存在することであると私は思いますが,絶対肯定できることなど,実はできないのかも知れません。

だが,幸福についてああかどうか考える前に,たとえば,地球上に餓えた人が多くおり,生まれてはすぐに死ぬような子どもが大勢いるという不幸な現実があることには,誰しも平気ではいられないのではないでしょうか。積極的に幸福問題を解こうとする前に,地域格差や社会内格差という人間の不平等問題を先ず解決すべきでしょう。地球規模での貧困問題や食糧問題は,資源問題や環境問題を含めて,地球規模で皆が納得のいくような解決策を見つけなければいけないものです。物資や資源の絶対的な希少性という限界はありますが,恐らくは,地球規模での資源や富の適切な配分によって人間らしい生活の最低水準を地球規模で平等に確保できる方策は見つけられないと決まってはいないと私は信じています。(社会レベルで解決すべき幸福についての基礎的問題が多くあります。「幸福」には,個人性・社会性・運命性という三つの側面がありますが,生活問題の多くは社会的に解決すべきものです)。

だが,こうした地球規模の問題は,自由主義的な「市場経済」原理に任せておけば自然に解決できるものでしょうか。「見えざる神の手」としての「市場経済」原理に基づく今のグローバリズムは,国際的には,植民地主義とは違った形で巧みに国々を差別化する正当化原理になっています。「自由」な「市場経済」は,国内では,新たな社会階層の差別化や分裂を激化させています。物的次元での「私たちの幸福」は,市場経済原理に頼っていては公平に解決できるとはとても思えません。

(市場経済を支えるのは欲望原理ですが,その欲望にはジレンマ構造があり,これが不幸を再生産します。増殖する欲望はさらなる利益を求め,戦争や暴力を正当化さえします。欲望優先の社会では個人もしだいに自己本位に生きるようになり,関係のない無実な人でも平気で殺せるようなエートスが生まれてもくるように思われます。これは社会学的にも大きな問題です。)

 

普遍的な,平等性における愛の結びつきと合理的解決可能性を信ずるトルストイ

 トルストイからの問いかけ(と私が受け取った問題)に,凡庸な私は,いまだ満足のいく解を見出していません。「幸福とは何か」ということには何ほどか理論的な解答を与えることはできますが,人類規模での「私たちの幸福」の諸問題に対して,現実的に,いったいどうしら答えたらいいのでしょうか。

ところで,「私たちの幸福」という形で問題を受けとめる場合,すべての「私」が何らかの意味で平等であることが前提になるのではないでしょうか。またその実現には,「私たち」皆が納得できる解決法を共有して,皆が納得できる現実的な社会的関係を構築し維持するために力を合わせることが必要になります。こうした社会関係の構築には,一個の「私」の単なる「思索」ではなく,「私たち」皆が考え合意した,実効的な「施策」を実践することが必要になります。

 注意すべきことがあります。「私たち」という概念には,ある危険性がひそんでいるのです。「私たち」と言うとき,その概念は必ずしも人類普遍的なものであるとは限りません。多くの場合,「私たち」と言うとき,自分たちの「私たち」ではない「あなたたち」や「あの人たち」,つまり別の「私たち」から差別化しなければ意味を持ちません。つまり,「私たち」という語は,通常は,他の「私たち」と対比して使用されます。「私たち」の範囲には小さいものから大きなものまでありますが,他を差別化する集団としての「私たち」は,しばしば他の「私たち」と対立する相対的な「私たち」です。たいていの戦争は,「私たち」を守るためという理由で,他の「私たち」集団との間で行われます。エゴイズムというのは個人の特性を指す語ですが,実は,集団もまた排他的なエゴイスティックなものになる可能性があるわけです。

だから,人類規模の「私たち」の幸福問題の解決は非常にむずかしいのです。人類規模で「私たち」皆が平等であると考えられ,そして,その「私たち」共通の問題として受け止めて,皆が合意できるような解決策を見出すように協力して,皆が納得できるやり方で実行しなければ解決不可能だからです。

 人の手で人類規模での問題を解決するのは非常にむずかしいことです。そこで,「市場経済」は,経済問題を「見えざる神の手」という超越的な原理に解決を委ねたということができるでしょう。つまり,「市場経済」原理の根底には,人間には,人類普遍的に経済を調整する主体的能力を持たないという人間への不信感(一種のペシミズム)があるのではないでしょうか。確かに,経済問題だけでなく,地球上で現実に起こっている多くの問題には,人類全体が合意できるような形で解決されているものはほとんどありません(天然痘の絶滅というような公衆衛生上の成功例がいくつかありますが…)。

 だが,そもそも,少なくとも人間であるというだけで「私たち」皆が平等であるということに合意することから出発して人類規模の幸福問題の解決することなどできるのでしょうか。そのような合意ができる可能性はあるのでしょうか。口では自由・平等と言いながらも,結局は,相対的な「私たち」がエゴイスティックに利益を確保できるような形でうまく事を収めるということなるのが落ちではないのでしょうか。

 真に人類規模で問題を解決するには,先ず,セクト化した「私たち」という相対性を突き破らなければなりません。万人平等であるような,人間たちが絶対に平等であるような「私たち」,つまり絶対的な「私たち」という立場を実現しなければなりません。絶対的「私たち」は,対立する他の「私たち」を持つ相対的「私たち」と違い,差別的な別の「私たち」のないものでなければなりません。

こういう絶対的「私たち」という視点を切り開いたのは,いくつかの偉大な創唱宗教です。それらにおいては,「私」でしかない唯一の神や仏の前に「私たち」を据えます。そこには,絶対的な「私」である超越者の前に立つのが絶対的な「私たち」であり,その「私たち」には対立する他の「私たち」はないのです。

絶対的な,何か超越的なものの前において,先ず,人間はすべて平等であるという絶対が把握されたのです。民族宗教的な傾向のユダヤ教を超えて成長したキリスト教やイスラム教,すべての人間に共通する四苦八苦の解決から出発した仏教などには,神や仏の前で絶対的に人間すべてが平等であるという前提があります。だから,究極的には,「私たち」人間すべての救済と幸福を志向するものでありうるのだと思います。絶対的な超越者の前では,人間すべては絶対的に平等です。唯一の超越者の前においては,人間は皆,同じような存在者として共通すると捉えられ,普遍的な平等性において把握されます。だからまた,それらの創唱宗教は「普遍宗教」であるとも言えます。歴史上数人の偉大な覚者は,ともあれ,「私たち」人類が同じであるという平等性を確立し,人なら誰でもが救われたり悟ったり,要するに「私たち皆が幸福に」なる道を見つけることができるとする視点をきり開いたのです。人類全体の普遍的な幸福原理を見出そうとする動きがこうして始まったのです。

もちろん,「信仰」には必ずしも合理的でない点があり,だからこそ「信仰」なのですが,人間の弱さや過ちやすさを自覚して,特定の形に制度化された宗教の排他性をのり超えることができれば,人類の「普遍的な平等性」をふまえて,皆が真に普遍的に合意できる解決策を見出す可能性もないとは言えないかも知れません。(哲学にも人間の普遍的平等性を支持する流れもありますが,否定する流れもあります。また,哲学的「思索」は,必ずしも現実的「施策」に結実しないために,創唱宗教のような実効性のある力も持ちにくいという限界もあります。)

 だからと言って,「私たちの幸福」という問題は,創唱宗教の「信仰」という形でしか解決できないと主張しているわけではありません。そうではなくて,解決可能性の視点が切り開かれたのではないかと言っているのです。実際には創唱宗教は,しばしば,制度化すると信仰が硬直化し,また社会的にはセクト化して普遍的な力を失っています。人間を差別なく救済するものではなく,人間を差別化する原理に堕することもあります。絶対的「私たち」という視点を見失い,相対的「私たち」による抑圧原理になることもあるのです。

 しかし,トルストイが求めていたのは,セクト化した宗教を乗り越えた普遍的な問題解決だったのではないでしょうか。だから,キリスト教な「愛」を語っていても,それは,「普遍的に平等」な人間たちが皆兄弟として信頼し協力しあって生きることができる可能性を信じていると告白する地点に立ち,特定の相対的な「私たち」の立場を超えて「私たち」すべてを絶対的に幸福にする視点を切り開こうとしていたのではないでしょうか。特定の制度化したキリスト教をのり超えて人類普遍的な救済原理を示そうとしていたのではないでしょうか。つまり,トルストイは,文化相対性を乗り超えて人類普遍的な問題解決ができると信じていたのです。だから,本来普遍的であるべき宗教が,社会的な矛盾・対立を放置したり正当化したりする,権力と結びついたものに転落したと思えるときには,制度化した宗教を批判せずにはいられなかったのです。愛を説くはずの宗教が偏狭な国家権力と妥協して民衆抑圧を合理化し,戦争や暴力を正当化するものになっていくのを見て,トルストイがロシア正教を批判したのも,キリスト教的愛(アガペー)の原点にたち戻り,普遍的な視点から「私たちの幸福」問題を根本的に解決できるはずの普遍宗教として活力をとり戻してほしいと願ったからなのではないでしょうか。

 

非暴力主義とオプティミズム

トルストイは,権力側と結びついたロシア正教を真っ向から批判し,露土戦争や日露戦争には反対し,革命に失敗した革命家たちの処刑に反対したりと,晩年には,しきりに反体制的な行動をしました。これらはすべて非常な勇気が要ることです(ヴィッテやストルイピンではなく,今のプーチンのような人が権力側にいたらトルストイはどうなっていたかなどと,妙な空想をします。ひょっとして暗殺…?)。しかし,トルストイはあくまでも,悪である暴力に依らず,言論によって抵抗しようとしました。

非暴力的に社会的な問題が解決できると信ずるためには,「人は皆,話せば分かりあえる能力を平等に持っている」という確信(オプティミズム)がなければなりません。こういう能力を「理性」と呼べば,人間には誰でも同じように理性を持っていると確信しているから非暴力的に問題は解決できると信じられたのだと思わざるを得ません。人間の絶対的平等観が,ここでは,普遍理性信仰とも呼べる形に具体化しており,こうした信念に基づくオプティミズムなしには,非暴力主義は成り立たないのではないかと思います。

トルストイの非暴力主義は,ガンジーやキング牧師などの活動において,一定の実現性があることを証明しました。この成功は,未だに地球上から飢餓や戦争をなくすことに人類が成功していないとはいえ,セクト的集団という社会的エゴイズムをのり超えて,人類普遍の問題として幸福問題を解決する可能性があるのではないかというオプティムズムの可能性を信じさせるものです。

もちろん,非暴力主義を貫くのは非常に厳しいことです。

藤沼貴さんが『イワンのばか』に触れて書かれておられることばは忘れられません。――王はイワンの村に兵隊を送り,兵隊たちは略奪暴行の限りをつくしました。しかし,誰も全く抵抗しようとせず,ただ泣いているばかりです。しだいに兵隊たちは,自分のやっていることがばからしくなって,そのうちに散り散りに逃げていってしまうのですが,「ここには,民話的な,とぼけた,いささか滑稽な表現の中に,厳しい絶対不戦の思想がこめられている。住民は…一切の抵抗をしない。そして,道徳の力,心の力で敵に勝ち,敵を追いはらうのである。この突きつめた反戦論は,“自分が死ぬのがいやだから”とか,“戦争放棄の憲法があって,法を破るのはよくないから”といったひ弱な平和論ではない。…トルストイの反戦は,自分の信念をたたきつけ,自分のからだを銃口にさらす,決死の行為なのである。それは暴力的な戦いより,むしろ危険で,勇気を要する“戦い”である。」(藤沼貴『トルストイの生涯』レグルス文庫,p.214)

非暴力主義の根底には,人類普遍的に納得できるはずの道理ならば,どんな人にも道理はとおるはずだというオプティミズムがあるからこそ,イワンたちは暴力に耐え抜けたのではないでしょうか。正しい道理には,最後には必ず納得して従うはずだというオプティミスティックな信念(あるいは信仰?)がなければ,非暴力主義は貫けないと思うのです。(日本では,1887年に刊行された中江兆民の『三酔人経綸問答』に日本国憲法第九条を先取りするような「国防不要」論を展開されていますが,その根底には,「自由・平等・友愛」の「理」が侵略者にも通ずるはずだというオプティミズムがはっきりと見られます。)

しかし,現実には,特殊な集団(相対的「私たち」)の利益を守るためという理由で争いは絶えず,また,戦争の好きなサディストやマゾヒスト,戦争を金儲けの機会ととらえる機敏な人もいて,戦争は止むことなくつづいています。その集団は差別化的な「私たち」の立場にあるものです。しかし,同じ人間として人類普遍的な「私たち」の立場に立てる可能性は全くないのでしょうか。こういう立場に立てれば,特殊な利害を問題とする争いをなくすことができるのではないでしょうか。

形而上学的な死の運命と問題を別とすれば,人は誰でも,望みもしないのに殺されるようなことを望みはしないでしょう。つまり,人間なら誰でも合意できるようなことがあるはずです。ですから,困難なことではあっても,誰も戦争しないで問題を話し合いで解決し,ひいては人類全体の平和と幸福な生活を実現しようではないかという包括的な平和原則を納得して確立できる可能性がないとは言えないのではないでしょうか。「私の死」の問題に直面したトルストイが「私たち」すべての救済可能性を見つけることができたのも,「私」個人の立場を超えて絶対的に「私たち」皆の視点に立つことができたからでしょう。

戦争は,たいてい,不平等な経済的利害に関わっています。市場経済原理にまかせて欲望のジレンマを放任するのではなく,万人平等と非暴力の原則に立って資源問題や生産・配分問題を解く努力をすれば,地球規模の経済的不平等だって合理的に軽減できる可能性はないとは言えないのではないでしょうか。(20世紀におけるソ連の計画経済実験の失敗は,社会主義的計画経済そのものの実現不可能性を証明しているのでしょうか。市場経済原理を神格化するのでないとしたら,改めて皆が納得できるような新たな社会主義を模索することにも意義があるのではないかと思います。)

「エデンの園」から追放された人間は「不幸」を経験することになりました。不幸を経験した人間は,だからこそ幸福を追求し始めるのです。この追求の営みは果てしなく続いています。トルストイもまた,生涯,幸福問題について真の解決を求めて苦闘しました。しかもトルストイは,「私の幸福」ではなく「私たち皆の幸福」をどうしたら実現できるか模索しました。「すべての人間の幸福」を,人間誰でもが納得できる普遍的な形で合理的かつ非暴力的に解決しようと努力したのです。その根底には,幸福問題には普遍的な解があり,それが実現できるはずだというオプティミスティックな信念(信仰)が前提されています。こうした「大いなるオプティミズム」が,トルストイの大きな魅力を成しています。

現代においても,人間としてこの世に生を享けた「私」や「私たち」の幸福問題は不完全にしか解かれていません。依然,幸福は追求さるべき問題です。こうした幸福の追求をつづけるには「大いなるオプティミズム」が絶対に不可欠であることをトルストイが教えてくれたように,私には思われます。

 

 

仮想と現実、チェーホフへの接近

 

林 迪義(愛知県立大学名誉教授)

 

 

 事実でないことを事実であるかのように話せば、偽りになりますが、ありうることとして語るならば、それは仮想世界を設定することになります。仮想世界を設定することは、私たちが予定を立てて行動する上で不可欠です。計画が確実に実現するように、「もし……であったら」という仮定を立て、複雑な行事であれば、起こりうることをいろいろ想定して準備をととえます。物語や小説を読むときにも、現実世界から仮想世界へ入り、また現実世界に戻って考えるということをします。仮想世界で必然的に起こることは原因から結果への普遍的な関係によるものです。その因果関係は、世界の仕組、自然と人倫の法則に基づいて推測されます。自然の法則は世界の根本原則ですから、それに反した想定は無意味です。重力の法則に逆らって水を低いところから高いところへ流すという設定をすれば、地上における物の落下を否定することになります。物語を創作する者は、主に現実世界の要素を組み合わせて筋を展開することもあれば、現実世界では不可能なことを語ることもあります。仮想世界が可能な世界の一つであるときには、語られる事柄がどの程度真であるかが測られます。例えば、テレビドラマのある場面ですが、若いカップルの和子と三郎がいて、夕食後、和子が流しに立って食器を洗っています。三郎は新聞を読んで石油の価格が上がったというニュースを和子に話しています。二人の会話がなめらかに展開しています。この、なめらかに展開するということは、十分に真ではありません。双方の発言がいつもすべて了解されるとは限らないからです。「ええ!なんだって?」とか「ちょっと、そこのところもう一度言って」というような言が和子の反応に含まれる可能性があります。このように仮想世界の真理は現実世界における可能な要素によって測られるでしょう。しかしまた現実には不可能だとされている事柄も無視することはできません。

 そこで、今回は小説や映画、ドラマなど物語性をもつ芸術表現における真理ということを考えてみたいと思います。それは描かれている事柄が現実に起こりうる確率の問題にとどまりません。作者の表現意図がよく伝わるかどうかということも関係します。なぜなら小説や映画は受け手の共感と理解の上に成り立っているからです。読者に好まれ、分かりやすいということは、作品が広く読まれるための第一条件だと言えましょう。作品が表す真理の問題自体は、内容に関係しますから、それは実際の例に即して考えなければなりません。作品を検討する前に、表現の理解、伝達について、まだいくつか考えておきたいことがあります。映像芸術と文芸とで伝達の可能性が違うことです。文章の記述は、視覚・聴覚など感性的な様相を伝える面では弱さがあります。対象の感性的な特徴は読者の経験的知識に属すからです。事物についての詳しい説明がなされても、対象を見たことがない人にとっては、効果がありません。バルザックの小説には、しばしば19世紀パリの町並み、家屋、室内の様子が事細かに描写されています。例えば「白い石目の通った緑色大理石」というような表現があります。しかし、実物を見たことのない人に対象物のイメージを呼び起こすことはできません。一方、視覚表現である、写真や動画は、未知の事物についてもある程度想像させることができます。写真を見せて「これが例の大理石だ」と言えば、見る人は質量感は別としても、どういうものか見当は付くでしょう。さらにまた、劇映画はトリックの技術によって、いわゆる仮想現実を作り出します。非現実を現実のように思わせる効果です。それは有力な表現の手段ですが、それを用いることが、そのまま作者の意図を伝えるものとはなりません。子どもの頃、私はフランス映画の名作『禁じられた遊び』を見て、非常に強い印象を受けました。第二次大戦下のフランス、地方に避難する人々をドイツの戦闘機が襲撃します。道路や橋を爆撃し、道端に伏せた人々を機銃で掃射します。これらはすべて作り出された映像による表現でしたが、現実の光景を写し出しているかのようでした。両親を失った幼い少女ポーレットが村の方にさまよって行きます。小川のほとりで牛を連れた農家の少年ミシェルに出会い、彼の家に引き取られます。死んだ子犬を抱いていたポーレットのために、ミシェルは墓を作ってやります。二人はいろいろな小動物の墓を作って遊びます。仲の良い兄妹のような二人でした。しかし、やがてミシェルの両親は孤児であるポーレットを役人に引き渡してしまいます。戦争被災者が集められた場所で孤立するポーレット、他人のミシェルという名を呼ぶ声を追って群衆のなかに消え去っていきます。映画では、場面の展開から何が起こっているかが、文学よりも直裁に分かります。しかし、監督のルネ・クレマンがこの作品に託したメッセージは、当時6才だった私には理解できませんでした。そこには戦災孤児の悲惨な運命を想像することが求められていたのです。他方、文章の世界では、登場人物の姿形が見えない代わりに、彼らが感じること、考えること、要するに内面が記述されます。それが登場人物と読者とを結び合わせるわけです。同時にそれは作者の思想に対する理解を導くものにもなっています。

 さて、作品を解釈する側に立ちますと、先に述べましたように、作品が受け入れやすいか、どうかが問題になります。小説に限ってみますと、人気のあるものは、読者が登場人物に対して共感をもったことが理由であることがしばしばです。登場人物が自分と同じような境遇を生きている、あるいは状況は違っていても自分と同じように苦しみ、喜んでいる姿が読者の関心を呼ぶのでしょう。今の世の中、会社が倒産して家父長の収入がなくなり、自分は大学をやめなければならないとか、あるいは交通事故で人を傷つけて多額の賠償責任を負うことになったとかいう状況が稀ではありません。類似の経験をした人なら、困難を克服したいきさつを知りたいと思うかもしれません。しかし、読者の関心点は千差万別です。ここでは、人生の難局に挑む英雄の物語ではなく、日常の生活を題材にしたものを取り上げることにしました。そこでチェーホフを選んだのですが、その理由は作品が普遍的価値をもつからです。日常といえば、同じことが漫然と繰り返される日々という側面があります。チェーホフの小説では、退屈で、時には停滞でさへある人々の生き様が描かれています。特別なことは何も起こらないような筋書き、面白くないと思われる小説が、なぜ読者の共感を獲得するのか?おそらく、人々の偽りのない姿と心境が描かれているからでしょう。登場人物のなかには、閉塞的な状況から抜け出すことができない人々やそれに対して新しい境地を開こうとする人々などがいます。以下に対照的な筋書きを持つ2つの作品を選んで、作者の意図を見つめてみたいと思います。 

 まず、『ヨーヌイッチ』という短編小説です。物語は、同名の医者が、ある県庁所在地、S市の近くに赴任してくる所から始まります。ツールキン家の招待を受けたヨーヌイッチは主人のイヴァン・ペトローヴィッチに大げさな物言いで迎えられます。                                    

 「さあさ、こちらへ、一つ最愛の妻にお引き合わせいたしましょう」。彼は妻に向かって「ねえヴェローチカ、私はこの方にこう申し上げているんだよ。御自分の病院ばかりにひっこもっておられるなんて、そんなローマ法があるもんじゃない。すべからくその余暇を社会に捧げて頂くべきだとね」(…)イヴァン・ペトローヴィッチはまた客の方へ話しかけ「あなたは実によいときにおいでになったんですよ。わが最愛の妻が一大長編を書き上げましてね、今日それを朗読することになっていますので」と言う(神西清訳による)。

 それから、同家の令嬢が紹介され、お茶が出されて、客一同が広間に通され、神妙に席におさまる。そして、奥方が自作の小説を朗読し始めるという段取りです。後日、ツールキン家にたびたび出入りするようになったヨーヌイッチは、同家の娘に結婚を申し込みます。しかし、あっさり断られ、それ以来、S市の連中と親しい交際をしなくなります。4年経ち、ヨーヌイッチには多くの顧客が出来ます。ある日、またツールキン家の招待を受けます。このときモスクワの音楽学校から帰ってきていた例の娘から暮らしぶりを尋ねられて、次のように答えています。

 「こんなところで、どう暮らすも何もあるもんですか?年を取る、ふとる、焼きがまわる。昼、夜、あっという間の一日、人生はただモヤモヤと、なんの感銘もなく、なんの想念もなく過ぎていく。…昼のうちはもうけ仕事、晩になるとクラブがよい、付き合いの相手ときたら、カードマニアかアル中か、とにかく鼻持ちならぬ連中ばかり」(同上)

 それからまた何年か過ぎ、ツールキン家はあい変わらず主人の冗談と奥方の自作小説のお披露目を繰り返しています。ヨーヌイッチの方は自分の領地と家を何軒も持ちながら、欲の一念にとりつかれ、興味を引くものは何もないというあり様。患者に対しても気むづかしく、孤独で、退屈で、世間に対しても自分に対しても不満を抱き、だからといって何かしようとするわけでもありません。チェーホフのこの一篇は、肺結核を病んでいた作者自身の心境を反映するかのように暗鬱な印象を残して終わります。

 『ヨーヌイッチ』とは対照的に、最後の小説である『いいなずけ』は明るく、春のような希望の光が感じられます。若い主人公のナージャの家には、母、祖母それに女中たちがいて、それに祈祷を挙げる司祭とその息子で婚約者のアンドレイッチが出入りしています。これらの人々は、神父と女中を除いて、働いていません。アンドレイッチは10年前に大学を出て、定職を持たず、時々慈善音楽会でバイオリンを演奏するだけという具合です。ある夜、ナージャはふと目を覚まし、繰り返し浮かんでくる考えにとりつかれます。アンドレイッチが自分に求婚した時から現在までのことが思い出されてきます。そして結婚式まで一月あまりとなった今、「得体の知れない重苦しいものが自分を待ち受けている不安と恐怖」が起こってくるのです。一方で、親戚の青年サーシャのことが頭に登ります。美術学校を出た後、モスクワの石版印刷所で働いていますが、結核で弱った身体を休めるために夏のあいだ家に泊まっています。彼はナージャに次のようなことを言います。

 「この家は変ですね。誰も何もしない。お母さんは一日中ブラブラしているし、おばあさんも何もしない。あなたもそうだ。アンドレイッチも同じだ」/「あなたやあなたのお母さんやおばあちゃまが何もしないとすれば、あなたたちの代わりに他の人が働いているわけで、あなたたちは他の人の生活に食い込んでいるということになる」(中央公論社1993による)

  サーシャは、他者の働きによって生きていることは汚れた生活だと言って、ナージャに勉強に出ることを勧めます。結婚が半月後に迫ったある日、アンドレイッチは準備がととのった新居にナージャを案内します。この時、アンドレイッチは、自分が働かないのは時代のせいであり、なまけものが大勢いることは時代の特徴だと言います。ナージャはアンドレイッチに対して何の愛も感じていない自分に気が付きます。しかし、それを誰にも言えず、悩み続けますが、ついに、ある晩母親に打ち明けます。長いこと泣いた後で、自分は結婚しないと宣言し、今の自分たちの生活がくだらない、恥ずかしいということも付け加えます。この現実から目が覚めて、「私は生きたい」とうったえたのです。翌朝、モスクワへ戻ろうとしていたサーシャに自分も出発することを伝えます。サーシャはナージャにとって未来を照らす者のように見えていました。 

 「何か有意義な計り知れないほど重要なことをサーシャが今にも言いだすだろうと待ち受けていた。ナージャは彼がまだ何も言わないうちから今まで知らなかった何か新しい、ひろびろとした世界が目の前にひらけてくるような気がしていたのだ。期待に胸をふくらませながら、どんなことでも、死をもいとわない覚悟で、じっと彼を見つめていた」(同上)

  ナージャはペテルブルグの学校に行って、翌年の春一度故郷に戻ります。それから、サーシャの死を見送った後、ふたたび晴れやかな気持ちで旅立ちます。

   チェーホフの小説には、他にも話題にしたい作品がありますが、どの作品も人間の真の生き様を描き出しているという点では変わらないと思います。読者は登場人物の姿に自身を重ねて共感を覚えるでしょう。彼らのなかに私たちの同類が見いだされるのです。なすべきことを怠って、ぐずぐずしていたり、取り越し苦労をして眠れない夜を過ごしたりしています。『いいなづけ』のナージャは自分がアンドレイッチと結婚すれば、怠慢で虚偽の生活に陥ってしまうことは、はっきりしていました。決してそうなりたくないと思いながら、婚約を取り消す勇気が出ません。それに、母親や故郷を離れたくないために、神経症のように同じ問題のまわりをぐるぐる回っています。一方、サーシャは他者の働きによって生活することを自分に許さず、働いて倒れてしまいます。ヨーヌイッチは、孤独で、気難しく、人に好かれることもなく、不幸です。俗悪や虚偽を嫌っていますが、周囲に対する不満を膨張させているだけです。これらの作品の登場人物たちは、よりよく生きようとして困難に打ち克とうとする人々、そう思いながら、いつまでもできないでいる人々、そしてよりよく生きることを止めてしまった人々です。作者が焦点を置いているのは、よりよく生きることを願っていても自分の弱さのために直ぐに前進できない人々です。チェーホフは、「芸術的文学とは、それがあるがままの人生を描くからこそ芸術的と名づけられる」と言ったそうですが、この言葉は、彼の小説が人生の真理に近づく試みであったことを示唆しています。さらに、人間のあるがままの姿とともに、あるべき姿にも光を当てています。『いいなづけ』のサーシャは、病身であっても精神は活発であり、ぐずぐずしていません。自分よりも他者を優先して、すっきりしています。チェーホフ自身は「人々のために生きる」ことが人間には必要であると考えていました。農民のために無料で医療を施し、飢饉やコレラの流行に対して救済に駆け回っていました。現代の日本でも、よりよく生きるために解決すべき問題は数多くあります。いま現に重い課題を背負って解決のために苦労している人々は、「私は生きたい」というナージャの叫びをどう受け取るでしょうか?生きることは、同じ所にとどまらず、よりよい明日に向かって歩むことだという意味で、それは作者による真理の表現ではないでしょうか?人々に注がれる温かい眼差しと共に、作品のもつ味わいの深さが読者の心に残ります。深いところにある意味は私たちの人生経験が増すにつれて気付かれてくるでしょう。

 

うだつの上がる街 美濃市にて

 

 

 

 

 

おろしゃ 会」会報 第15号

2008年9月30日発行)

 

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