おろしゃ会会報 第15その3

2008年4月9日

 

会員の仕事

卒業論文

 

塚田麻美(本年度中国学科卒業)

 

はじめに.... 2

第一章  新疆民謡の誕生.... 2

1-1.北京(1913−1937)... 2

1-2.八路軍... 2

1-3.「草原情歌」... 2

1-4.「凱歌進新疆」... 2

1-5.「サローム毛主席」... 2

第二章 改革開放.... 2

2-1.名誉回復... 2

2-2.「王洛賓熱」... 2

2-3.中台著作権史... 2

2-4.民族文化と著作権... 2

2-5.回答... 2

民族主義... 2

3-1.歌曲泥棒... 2

3-2.ウイグルでの事件... 2

3-3.晩年... 2

3-4.観光と中国民謡... 2

むすびにかえて.... 2

 

新疆民謡をめぐって

―王洛賓とその人生―

 

はじめに

 

日本で王楽賓の作品といえば「草原情歌」が有名である。王洛賓の名前を知らない人でも、60年代なら「草原情歌」を歌うことが出来るし、最近では女子十二楽坊もCDを発売している。草原情歌を知らない世代の私が王楽賓に興味を持ち始めたのは、新疆で彼の作品を聞いた時だ。私は2006年春に新疆大学へ留学する機会を得る。5月の連休を使って新疆屈指の観光地トルファンを旅行しようと私は長距離バスに飛び乗った。トルファンは漢族の街ウルムチと違って、ウイグル族が昔から住むオアシス都市だ。車内も里帰りするウイグル族でいっぱいだったと記憶している。しかしとるファンまでの道のりは退屈で、私は長距離バスではおなじみのミュージックビデオを眺めていた。当時は台湾ポップスやモンゴル民謡が大流行し、民族の多様さを感じさせた。もちろんウイグル民謡も流されて、口ずさむ者も現れる。ウイグル語で歌うので意味もわからず何曲か眺めていると、突然赤いと太陽と毛沢東が現れた。彼はウイグル族老人と握手を交わし、「サローム毛主席」と挨拶されている。サロームとはムスリムが広く使う挨拶で平安の意味だ。ところが車内を見渡すと、乗客たちはほとんど寝ていた。その光景を目にした私は不思議な感覚に陥った。外国人には同じように聞こえる音楽にもいくつか種類があるらしい。後に私はこの歌曲「サローム毛主席が」王洛賓の作曲だと知る。この経験から音楽を通して新疆がたどってきた歴史や民族の姿を考えてみたいと思い始めた。

 

王洛賓は漢族の有名な音楽家で、少数民族民謡を素材に音楽活動をしてきた。「草原情歌」のような歌曲は中国民謡として世界に広まり、90年代には「王洛賓熱」と呼ばれるブームを巻き起こす。特に彼は政治不安を抱える中国西北値域をフィールドに、少数民族の民間歌曲を漢語へと編曲した。そのため彼の活動には政治的なイメージもある。 

20世紀中国に生きた彼の生涯をたどる事で、三つの大きな問題を明らかにする事が出来る。第一が改革開放以前の政治と音楽の関係、第二が市場経済化以後の著作権論争、第三が昨今の新疆での民族主義と音楽の関係である。

 

また今回の卒業研究は先行研究者のRachel Harrisによる論文「Wang Luobin: Folk Song King of the Northwest or Song Thief? Copyright, Representation, and Chinese Folk Songs」を参考にして行った。

さらに勉強不足ではあるが、現代ウイグル語の資料も扱った。私自身は漢語だけではなく、それぞれの民族の言語ではどのように発言がされているかに大変興味がある。この研究を通して、新疆ウイグル自治区の民族の一面を垣間見ることができるのではないかと思う。

 

第一章  新疆民謡の誕生

この論文では王洛賓の生涯をたどりつつ、新疆民謡の果たして来た役割について分析する。特に第一章では改革開放以前の政治と芸術の関係、第二章では市場経済化後の新疆民謡をめぐる著作権論争、第三章では昨今の民族主義と新疆民謡の関係を明らかにする。また全体を通して新疆ウイグル自治区の歴史や、漢族と少数民族のつながりを知ることができるだろう。

中国国家図書館のホームページで検索したところ王洛賓の伝記については劉書環主編、万馬撰文『走近王洛賓』新疆美術撮影出版社(2000年)と王洛賓の息子王海成による『我的父親王洛賓』新疆美術撮影出版社(2005年)の二冊がある。しかし前者は現在日本では入手困難なため後者と先行研究者のRachel Harrisが残した伝記を参考に王洛賓の生涯を紹介したい。Rachel Harrisはまた別の作者によって書かれた伝記(ji1996年)をもとに記したようである。加えて、先行研究者のRachel Harris は論文「Wang Luobing: Folk Song King of the Northwest or Song Thief? Copyright, Representation, and Chinese Folk Songs[1]の中で、王洛賓を取り巻く問題を述べているので紹介する。

 

王洛賓と新疆ウイグル自治区の民族や民族音楽との結びつきは漢族と少数民族の姿、特に異質な文化の消費とアイデンティティ−の論争を明らかにした。またこの論争は伝統的な音楽や民謡を、金銭的に価値のある商品へと改編することによって生じる課題も提示している。その問題とは所有権や作品の確実性である。特には著作権の法律的な問題(誰が利益を得る権利を持っているのか)、そして道徳上の権利(誰が象徴として表現する権利を持っているのか)という感情に訴える課題だ。こうした問題は昨今の中国が社会主義市場経済化という変化を経験したことにより露呈してきた。さらに中国は国土の広大さや政治的目的のために継続中である音楽の市場操作によって、こうした問題が細分化している。

 

 

1-1.北京(1913−1937)

 1913年北京の胡同で王洛賓は生まれる。彼の父は民間の絵師で、当時ではかなり珍しい写真館を開店した。父は音楽や京劇が好きで王洛賓の音楽観に多大な影響を及ぼしたと思われる。さらにアメリカ人のプロテスタント教会で働いていたこともあり、王洛賓は幼い頃から賛美歌に親しんだ。また父は英語を記すことができたため当時の政府部門で採用され、一家の生活は比較的安定していた。王洛賓の兄弟は姉が二人と兄が一人であったが、教育熱心な両親の意向で全員が進学した。彼の母も子守唄を歌うことが好きな女性であった。

 王洛賓は北京で小中学校を卒業するが、体が弱く「薬箱」とあだ名がつけられたほどであった。彼の父は病弱な王洛賓を心配して、体育教育で有名だった潞河中学体育科に入学させる。その中学はアメリカ教会が運営していた学校でもあり、彼は入学と同時に洗礼を受けた。キリスト教に親しみながら学生生活を送る。さらに声が良かったことから学校の合唱団に入団し、西洋音楽のハーモニーに魅了された。その間に姉がハルピンに住む満鉄の翻訳家に嫁ぎ、彼女からロシア風の生活について聞かされる。彼は北京の伝統的な生活ではなく、ハルピンの国際的な雰囲気に憧れていた。ついには姉の出産を機に、家族に内緒でハルピンへ出かけてしまう。20世紀初頭のハルピンといえば、ロシア帝国の東清鉄道計画の要所としてロシア風の町並みが建設され、1920年代にはアメリカ、イギリス、ドイツ、日本の企業が支店を構えた国際都市である。ハルピンでは塞克[2]とギターを習う。北京に帰宅後、中学に復学するが塞克との交流から彼は情熱的かつ開放的になりロシア民謡も歌えるようになっていた。つづけて王洛賓は塞克の書いた詩に曲をつけ、初めて作曲をする。塞克は満州事変後に上海で、田漢率いる南国社の左翼文化運動に参加する人物でもある。

 1930年、王洛賓は北京師範大学の音楽学部に入学した。第一志望は北京大学や、清華大学であったが、学費が高く断念せざるを得なかった。五四運動を経験して、当時の北京や上海は新文化運動の影響が色濃く、その波は音楽教育にも広まっていた。そのため彼は最新のカリキュラムで学習することになった。

 北京師範大学音楽学部の教師陣も西欧からの帰国者や外国籍者で、彼の声楽の教師はロシア人ソプラノ歌手ホルバット伯爵夫人であった。彼女はパリ音楽学院の卒業生で、ニコライ二世の伯母にあたり、皇室の一員だ。夫は、東清鉄道長官を務めたホルバット(ホルヴァート)[3]であった。彼女は上流社会で培った自身の芸術的才能を活かし音楽教師になったが、彼女が王洛賓に与えた影響は声楽やピアノの分野にとどまらない。高貴で芸術と共に生きた夫人は堅苦しい理論ではなく、美しい芸術の普遍性を説いた。彼女はどんな国家も一夜にして滅びてしまうかもしれないが、芸術の美しさは永久に残るものだと語った。彼女は漢語が話せず講義は全てフランス語とロシア語であったが、彼女からクラシック音楽を習い、その中にはグリンカなどのロシア国民楽派の音楽も含まれていた。グリンカといえばロシア国民楽派の祖と呼ばれ、ロシアの国民性を表現するために民謡を素材として作曲し、ロシア音楽を成熟させた人物であるが[4]、王洛賓がその思想までも学んだかは定かでない。その他にも異色の教師陣に学び、彼は中国音楽より西洋音楽のほうが叙情的だと考えていたようだ。当時の彼の夢はパリに留学することだった。

台湾出身の柯王による世界民謡の講義にも参加した。彼は中国初の音楽大辞典の編纂に関わった人物だ。日本への留学経験をもつ彼の講義で使った教科書は、日本春秋社の『世界民謡』であった。李叔同の教えは直接受けていないものの、彼は中国近代学堂楽歌の先駆者の一人だ。外国民謡の旋律に初めて漢語歌詞をつけたのも李叔同であり、王洛賓も中国人に広く親しまれる歌は必然的に漢語でなければいけないことを発見した。母語でない歌は印象に残らないものである。

 父親が他界し、家計が苦しくなったため、王洛賓は大学を卒業して鉄道中学で音楽教師になる。金を稼ぐために計三校の音楽教師を掛け持ちし、忙しく働き始めるが、そうした中で、一人目の妻杜明遠と知り会った。彼女は当時珍しいバレエダンサーで二人は一目で恋に落ちた。

 1931年の満州事変後、戦争の影は日に日に濃くなり、妻杜明遠は開封に帰省してしまう。蕭軍の『八月的郷村』が魯迅の協力によって出版され、王洛賓は挿入歌「奴隷の愛」を作曲する。妻と別居を強いられていたことから、彼は『八月的郷村』に共感した。「奴隷の愛」は自由や祖国、愛をたたえた歌で、学生から支持される。こうした王洛賓の活動から、当時の芸術活動が抗日運動と自然に結びついていたことがわかる。

奴隶之[5]

蕭軍詩

我要恋

我也要祖国

毁灭把?是起来

毁灭了把?是起来

奴隶没有恋

奴隶也没有自由

 1-2.八路軍

 妻杜明遠の父親は1926年、中国共産党に入党し地下活動に関わっていた。日本警察に逮捕されたこともあり、牡丹江労働者運動の先駆者でもある。この時期彼は抗日運動に私財を注いでいた。

王洛賓が教師をしていた学校でも日本の教育システムが導入されるようになり、日本人の下で働くことを嫌った彼は、教師を辞職する。妻杜明遠は革命大学の学生になるが、王洛賓は左翼文芸運動に参加していた共産党員塞克の劇団と合流した。その後八路軍西北戦地服務団の合唱団員として抗日運動に身を捧げることとなった。ここで中国の軍隊と芸術について書かれた論文[6]を紹介する。

 

軍隊と芸術は早くから密接な関係にあり、近代に入ってからの例を挙げれば太平天国の軍隊にも、国民党の黄埔陸軍軍官学校にも劇団があった。共産党軍においては19279月に毛沢東が秋収蜂起の部隊を再編した「三湾改編」において軍隊の政治工作を強化すべく宣伝隊を設置したことに始まる。これは国民党の宣伝隊の模倣と考えられるが、その役割の重要性が認識されるのは1929年の古田会議以降であろう。その決議には毛沢東の「紅軍宣伝工作問題」が含まれており、そこには「紅軍の宣伝工作は、紅軍の一番重大な工作である」ことが明記されている[7]

経済的基盤の貧弱であった紅軍にとって軍隊の屯田先の民衆をいかに効率よく動員するかは非常に重要であった。その宣伝工作の任務は長征中も続き、延安では文芸工作の幹部養成機関魯迅芸術学院の創立(19384月)へとつながった。宣伝隊の任務はほぼそのまま延安の演劇団体の多くに引き継がれていったのである。

「魯芸創立縁起」(19382月)の一部では「芸術は大衆を宣伝鼓舞し結束させるための有力な武器である」「芸術家は現在の抗戦に欠くことのできない勢力である」と書かれている[8]

丁玲が主任を務め、王洛賓も参加した西北戦地服務団は魯迅芸術学院の卒業生からなる魯芸実験劇団と同じような活動をしていた。具体的には講演、街頭宣伝、壁新聞、標語やビラはり化粧宣伝などの大衆工作をこなしていたようだ[9]。化粧宣伝とは化粧講演と同じ。普通、単独では行わず、演説と組み合わせて効果を高めたようである[10]

そこで王洛賓は激化した山西省や、河南省の戦地に赴任し前線から帰ってくる負傷兵に刺激されて多くの抗日歌曲を作曲する。その中には原曲がルドルフ・フリムル1925ミュージカル「放浪の王者(The vagabond king)」の挿入歌「放浪者の歌(Song of the vagabonds)」を編曲したものもある。塞克の歌詞で「老郷、上戦場」と題名がつけられ、抗日映画の主題歌にもなった。その歌詞は日本への憎しみと祖国愛に満ちているが、同じメロディーが日本では、戦前に存在した松竹キネマ(現・松竹株式会社蒲田撮影所の所歌「蒲田行進曲」[11]に使われていたのだから皮肉というか奇遇である。戦後初めて蒲田撮影所の作品を見た中国人は大変驚いたようだ。

「老郷、上戦場」

塞克詩

1、 打起火把拿起枪,带足了子弹于粮,ー快上战场!

日本强盗到处杀人枪掠,多少城镇都被他们烧光                                      要活命的别彷徨,老乡门要求解放,只有上战场!  

1938年山西

 1938年に一団は西安に到着し解散した。程なく新疆軍閥の盛世才から劇団組織の依頼がはいり、王は妻や塞克と新疆に出発する。盛世才は1930年代から新疆を統治し始めた軍閥で、蒋介石の南京の国民政府に対抗するために「親ソ連」の政策をとり、10年以上新疆で事実上の独裁を展開する人物である[12]。中国全土で抗日運動が行われ、そのために芸術が使われていた。新疆への道のりは大変厳しかった。しかし途中の町で山歌を耳にし、王はその歌詞の素朴さと、今まで聞いたことのないメロディーに魅了された。

現在の中国音楽研究によると山歌とはおもに山間部、田畑、草原などで歌われる民謡で、労働の思いや恋人への愛情表現といった内容をときに裏声など高音域を多用しつつ歌われる。自由なリズムで歌詞も感情のおもむくままに即興的に表現される歌が多いが、北方の山歌は華北、東北には少なくおもに西北地域に集中的にみられる。

陝西省北部地域の山歌はドレミソラの五音階を基調としながらシやファも混入する同地域特有の音階を用いている。また甘粛、青海、寧夏一帯の山歌は花児、少年などと呼ばれ、歌による掛け合い、競い合い、愛情の吐露などを目的として行われる風俗行事としても注目されている。演唱形式はリーダー一人と数人のメンバーで構成されグループ同士の掛け合い。一対一の掛け合いの場合などがあり歌う内容も歴史故事から愛情表現にまで多岐にわたる[13]

 

王洛賓が育った北京やハルピンには山歌の文化が少なく、それまで西洋音楽を勉強してきた彼が未知の山歌に遭遇し、大変感動したことがわかる。山歌を知ったことから彼はパリ留学を断念し、西北地域の民謡を収集したいと思い始めた。このような発想は、彼が学生時代に習ったロシア国民楽派や西洋のロマン主義の思想に似ていると思う。

 1938年4月、一行は蘭州に到着したが、まだ内陸蘭州には抗日戦争の雰囲気は伝わっていなかった。そのため彼らは蘭州で現地の大学生から成る西北抗戦劇団に参加し、抗日宣伝を始める。抗戦劇団は日中全面戦争が始まると組織された。公演活動以外にも広場や街頭での展覧会(版画、漫画、衛生知識の参考図など)、軍人家族への慰問、巡回治療など幅広く文工団としての役割を果たしている[14]。またその公演中にも新鮮な民謡を耳にし、調子を整えて「康定情歌」として編曲した。そのほかにもソ連関係の物資を運ぶ馬車が蘭州を通ったので、御者からウイグル民謡を聞き取った。拍子や音階を改編し、ウイグル語歌詞は友人達を通して翻訳した。

その頃の代表作が「達坂城的姑娘」であり、王は学生時代の友人に原稿を送り発表した。このような形で王は発表を繰り返していたため、その後に作品の著作者がわからなくなる事件が多発した。

さらに私自身が少数民族音楽家の演奏する「達坂城的姑娘」と王洛賓編曲の「達坂城的姑娘」を聞き比べてみるとあまり似ていない感じがする。

王洛賓は、一般に歌いやすい単純な歌にアレンジして創作した[15]といわれている。つまり少数民族独特の音階や調子を、漢族好みのものへ改編したのだ。日本の新疆音楽研究家によると、新疆の歌曲といっても日本の4倍もある面積であるから、代表的なオアシス都市での民間歌曲には差異がある。12音階ではしるすことのできない曲、拍子に捕らわれない歌曲も多く、漢族の編曲家たちは自然とそのような曲をさけて、それまでに漢族の音楽習慣に近い音階や拍子の歌曲を選んで編曲したのかもしれないということだ[16]。もしくはあまりに少数民族的な特徴の著しい曲には感激をしなかったのかもしれない。

西北抗戦劇団はたびたび王の採集した新疆民謡を使って抗日宣伝をしたが、抗日とは無関係な編曲も行い始めた。ところが1938年に左翼文芸運動が国民党にとがめられ、西北抗戦劇団は国民党演劇団に編入された。実質的な解散を意味する。

 

1-3.「草原情歌」

西北抗戦劇団の解散後、王洛賓と妻は青海に旅立つ。以前から彼を賞賛してくれていた青海省の国民党主席馬歩芳を頼ったのだ。馬歩芳は回教系の「青馬」軍閥を作った馬海晏の孫である。彼の父馬麒の時代に一派は青海省の軍事、政治、経済、民族宗教のあらゆる面を支配するようになった。息子の馬歩芳も青海から甘粛にいたる西北地域で最も有力な権力者になり、国民党政府の西北軍政長官を命じられた。実は彼ら一派の歴史は清末の回民反乱のときに西北の政府側に降伏し同族の民衆を弾圧したことにはじまる。反乱者を裏切った彼らが民国期には軍閥にまで発展した[17]

馬歩芳は二人を歓迎し青海の西寧で教師の職を与えられた。西寧の回族がイスラム教の教えに基づいて歌や踊りに厳しかったことから、王は「穆斯林青年進行曲」(ムスリム青年行進曲)を作曲する。それも愛国的な抗日歌曲で、馬歩芳にも気に入られ、イスラム教長の許可を得てカリキュラムに採用された。さらに王は青海で抗争劇団や児童抗争劇団を組織し、河西回廊地域で採集した新疆民謡を、編曲して劇団において発表した。河西で編曲した曲は「掀起乃你的盖頭来」「青春舞曲」「阿拉木汗」(アラムハン)「喀什噶尔舞曲」(カシュガル舞曲)などであるが、いずれの曲も西寧のウイグル族が歌詞の翻訳を手伝った。

その後も馬歩芳は王洛賓に青海幹部訓練団音楽教官の仕事を任せ、青海における抗日運動を促進した。西寧では蘭州でも歌われていないさまざまな抗日歌曲が流行した。王は出張演奏の度に民謡を集めて、青海民謡も二十数曲編曲した。さらに新疆から移り住んできたカザフ人遊牧地区やモンゴル族ゲル地区を訪ねて、彼らの民謡も研究した。王洛賓の民謡採集旅行は遊牧生活で抗日に興味のなかった遊牧民青年に、抗日思想を広める役割も果たした。しかし彼は抗日思想を啓蒙するのと同時に、少数民族の文化を収集し吸収していった。このような活動は1942年の毛沢東の「文芸講和」の思想とも共通するかもしれない。「文芸講和」の論点は、文芸の労農兵(労働者・農民・兵士)への奉仕と作品評価における政治的基準の優先であろう[18]。だが彼が政治方針に影響されていたのか、おのずから民謡に魅せられてこのような行動をとったのかはわからない。共産党と国民党とを問わず音楽活動をしていることから考慮しても、抗日運動と民謡収集は彼の心からの活動で、政治や党に貢献するような音楽活動は時代のニーズにこたえた仕事であったのかもしれない。そしてこの時代、政治が芸術の影響力をたくみに利用していた事もわかる。

日本では「草原情歌」でおなじみの「在那遥遠的地方」も、1939年にカザフ民謡から編曲した作品である。当時の中国では珍しかった7音階を使用している。日本人が中国民謡だと思っているのは、厳密にはカザフ族の民謡を王洛賓が編曲したものだ。この歌曲は1941年(昭和16年)ごろ「何日君再来」などのヒット曲とともに上海から日本に入ってきた。1951年に中国語翻訳センター社長劉俊南が青山梓とともに歌詞を翻訳した。1953年に正式に発足したうたごえ運動の「青年歌集」にも載って歌われ始める。さらに195512月に日本でも公開された日共映画の第一作『白毛女』の主題歌にもなって注目を集めた。当時は中国民謡とだけ紹介され、王洛賓かカザフ族の民謡をもとに編曲したという事実が伝わったのは1980年代に入ってからだ[19]。中国政府も長年カザフ民謡だと知らなかった[20]

 

 

草原情歌           青海民謡

劉俊南青山梓訳

 

1、遥かはなれた               1,在哪遥远的地方

そのまたむこう                               有位好姑娘

誰にでも好かれる                             人们走过了她的帐房

きれいな娘がいる                             都要回头留恋地张望

 

2、あかるい笑顔                             2,她那粉红的小睑

  お日さまのよう                             好像红太阳

  くりくり輝く目は                           她那美丽的动人的眼睛

  お月さまのよう                             好像晚上明媚的月亮

 

3、お金も宝も                               3,我原抛弃了财产

  なんにもいらぬ                             跟她去牧羊

  毎日その笑顔                               每天看着她粉红的笑脸

  じっとみつめていたい                       和那美丽媳锦边的衣裳

 

4、山羊にでもなって                          4,我愿做一只小羊

  一緒にいたい                                跟在她身旁

  毎日あの鞭で                                我愿她拿着细细的皮鞭

  私をたたいておくれ                          不断轻轻打在我身上

 

これは王洛賓が草原情歌の編曲者だとわからなかった時代に出版された草原情歌の歌詞である[21]。したがってまだ王洛賓の署名はない。特に中国語の歌詞の一番と二番は王海成の伝記『我的父親王洛賓』に掲載されているものとほとんど同じだが、三番と四番は異なっている。

 

加えて、西寧のカザフ族女工から民謡を採集し「瑪依拉」(マイラ)「都達尓和瑪利亜」(ドタールとマリア)を編曲した。ところが後世「瑪依拉」には正真正銘のカザフ人作曲者がいることも判明する。さらに新疆に行ったことがなく、青海で新疆民謡を集めたので歌詞の翻訳上に様々な間違いも発生した。他にも勤労などを賛美した実用的歌曲も創作する。1937年以降王は芸術家としての良心や責任感から共産党、国民党の両劇団で需要のある抗日歌曲を創作していたが、彼の根底にある愛国心は相当のものであったと王成海は記している。人々の教育レベルが著しく低下する戦時中に簡単で親しみやすい歌曲は抗日思想を普及するのに格好の媒体であった。

 

 1941年に青海に移住以降、不仲が続いていた妻に恋人ができ、二人は蘭州で離婚する。その恋人が国民党のスパイであったため、王自身が共産党と深く関係しているのではないかと疑われる。王は蘭州市内で監禁された後、郊外の国民党甘粛省党部統調所砂濠秘密監獄に三年間投獄される。監獄には共産党員が集められており、獄中でも王は作曲を行う。彼は青海省国民党主席の馬歩芳の取り計らいもあって、出獄できたのだが、投獄された者の中には暗殺された者もいる。彼が投獄された直接の原因ははっきりしていないが、元妻やその恋人、彼の共産党員との交友に原因があるようだ。王洛賓の歌曲が当時の民衆をいかようにでも動かせる力をもっていたことに、国民党は脅威を感じていたのかもしれない。

出獄後、彼は再び青海に戻った。崑崙中学校で教師を務め、再婚した。三年に及ぶ投獄生活の中で、彼の情熱的な性格は影を潜めてしまったが、新妻黄静に支えられて、穏やかで充実した日々を送ることが出来た。この頃、彼は、青海地方幹部訓練団教育課長として、青海師範学校編纂の『小学音楽』『音楽師資訓練』などの教材を執筆した。

 1945年に馬歩芳は抗日戦争の勝利を祝賀して演芸コンクールを企画した。彼自身も毛主席歓迎のために演芸隊を組織し、王洛賓は指導教官に任命される。王は「四季調」を作曲した。

1946年王洛賓は馬歩芳の息子の勧めで軍に入隊し、国民党第40集団軍官訓練団の音楽教官になる。600余名の学生の音楽科を担当し、抗戦歌曲を教えた。馬歩芳に国民党入党を進められるが断る。1030年代に彼の編曲した歌曲が様々な友人達の手に届き、さらに改編されるが、個人の名前はあまり公表されず、編曲者がうやむやになる。

 1947年の年末王洛賓は北京に一時帰宅する。国共内戦がすでに始まって、短期の滞在だったが、母校の北京師範大学などで王洛賓の新疆民謡を讃える文化祭が開催された。当時新疆民謡は学生の間で流行していた。国民党は王楽賓がよりどころとなって学生運動が盛り上がる事を懸念して、彼を蘭州に帰省させる。

 1949年王洛賓は馬歩芳の取り計らいで、蘭州の音楽教師資訓練班の指導を任せられる。国民党勢力は弱まっており、王洛賓は西寧にもどる。彼の進退は危機にさらされるが、彼自身は自由な音楽家の気分で、共産党員の友人がいることや抗日歌曲を書いた経験から不安は無かった。19499月に西寧が解放され、一家は北京帰宅の準備を始める。

 

1-4.「凱歌進新疆」

 194999日、西寧は解放された。王洛賓は解放軍一兵団宣伝部副部長馬寒氷の希望により、その一員として新疆に進軍することとなる。

現在の新疆ウイグル自治区は清朝の間接支配体制下であったが、ムスリム蜂起が相次ぎ、1865年には中央アジア出身のヤークーブ=ベクが10年にわたって政権を樹立した。その後ロシアの勢力を意識して清朝は新疆に進軍し、1884年新疆省を成立させ、漢族の入植移住を積極的に進めた[22]。この頃からウイグル族の中国人化が本格的にはじまったようである。しかしウイグルという呼称はまだ定められておらず、彼らはそれぞれのオアシス都市の名前でお互いを呼び合っていた。1920年代ソ連で新疆省と隣接するカザフ共和国、キルギス共和国などが成立すると、省内の多数派の民族名称を定める必要性が発生し、ロシアの言語学者セルゲイ・マロフらがウイグルの名前を提案した[23]1930年代初頭からウイグル人による東トルキスタン独立運動が高揚をみせ「東トルキスタン・イスラム共和国」が樹立されるが、運動はあっけなく終わる。その後漢族軍閥盛世才が新疆で十年以上独裁を続けた。1944年には東トルキスタン独立運動が再び盛り上がるが1946年には独立運動の政府と国民党新疆省政府が和解し新疆省連合政府が成立した[24]

王洛賓が国民党の馬歩芳と関係していたことから解放軍への参加を反対する声も挙がった。しかし彼自身も新疆に魅力を感じており、36歳でギターを担いで新疆に進軍する。険しい道のりの途中でも「凱歌進新疆」などを作曲し、中国人民解放軍第一野戦軍第一兵団政治部文芸家副科長に任命される。

 

 凱歌進新疆[25]

     马寒冰词

 白雪罩祁连

 鸟云盖山巅

 草原秋风狂

凱歌進新疆

 

 194912月新疆は解放される。王洛賓は新疆軍区文芸科科長となり、高級な軍部の文化活動の演出や公式行事の文芸活動を任される。1949年の毛沢東ソ連訪問にともなって彼は中国初のソ連歌曲集「蘇聨新歌曲集」を翻訳する。その後、彼は新疆軍区の渉外事業を任され、様々な民族の代表者と交流する。共産党において芸術が外交の上で一役買っていたことがうかがえる。

 1950年に西寧に残してきた王家が、馬歩芳とのつながりから反革命家庭として差し押さえられる。五月に彼は新疆から西寧に家族を迎えに行くが、その途中で彼は馬歩芳のもとで働いていた同僚達が殺されたことを考慮し、新疆軍部に辞表を出した。北京で四合院を借り、一般人に戻ろうと北京八中で音楽教師をし始めた。ところが新疆軍部に見つかって、新疆へ連行される。その頃ちょうど三人の子供を残して妻が23歳で亡くなったので、母方の祖父が長男次男を引き取り、三男は里子に出された。新疆軍部の判断により、彼は軍から逃走した罪で労働基地で二年間強制労働をさせられた。

19522月彼は労働基地を去ることとなる。軍監督の下に南彊軍区カシュガルの文工団に赴任し、カシュガルやホータン地域のウイグル民謡を集め始めた。1954年には彼が一員として進軍してきた人民解放軍部隊が新疆生産建設兵団に改編され、その後に漢族の大量入植と開拓を促進することとなる。兵団は工業・農業・建設業・運輸業・商業・教育・医療・に従事する組織で、イリ、阿克蘇、ハミ、和田、吐魯番、カシュガル、ウルムチなどに農業師団を建設し、171の牧場・農場を設けている[26]。王洛賓やその他の音楽家たちが創作した歌曲はこの時代、辺境へのイメージをよりいっそう魅力的なものにし、内地からの移民を促す役割を果たしたと思われる。王洛賓はウイグル民謡を編曲して様々な軍区演芸発表会で賞賛された。

1954年、その功績が認められて彼は無くしていた軍籍を回復し、1958年までに生き別れとになっていた息子達と再会できた。ところがその身分はまだ不安定で、1959年からの反右派闘争の影響もあり、王洛賓は積極的な音楽活動を控えなければならなかった。

 

1-5.「サローム毛主席」

1959年新中国成立十周年記念大会のために彼は「薩拉栂毛主席」(サローム毛主席)を作曲し、新疆の芸術界を代表して演劇を手がける。毛沢東を個人崇拝する性格の音楽作品である「東方紅」は、はやくも1940年代に陝西省北部地域の貧農李有源が作ったとされる。陝西省北部地域の民謡をもとに編曲された[27]といわれている。またこれを農民文化の盗用とする見解も有る[28]。サローム毛主席のメロディーは王洛賓が少数民族の音楽特徴を生かして自ら作曲したものだ。これも民族文化の盗用と言えるかもしれない。1958年にウイグル族農民の70歳を越える老人が、毛沢東への感謝の気持ちから農産物を手土産にロバで北京まで行こうとした実話が元になっている。さらにこの老人の実話は新疆100年史に掲載されるほど有名な話である[29]。この曲は私が2006年の留学中、トルファンへのバスのテレビで放送され、衝撃をうけた作品でもある。毛沢東に主題歌「サローム毛主席」が気に入られ一世を風靡するが、19604月には反革命分子として軍区政治部看守所に拘束された。拘束の時期は反右派闘争と一致するが、王洛賓自身は文工団の女優と党幹部の不倫問題に首を突っ込んだからだと分析している。最近中国で活躍中の歌手「刀郎」[30]も「サローム毛主席」を歌っているのでその歌詞を紹介する。

 

拉姆毛主席

 

1、毛主席呀毛主席耶  日夜都在想念你
 毛主席呀毛主席耶  日夜都在想念你
   我要勤生力耶  把那盘缠起耶

有一天我去看你  我就毛主席

普天下的人民都你耶
            拉姆毛主席 拉姆毛主席耶 拉姆毛主席

          2、毛主席呀毛主席耶  日夜都在想念你
            毛主席呀毛主席耶  日夜都在想念你
            今天上我就要  上毛去看你耶
            到了北京到你  我就毛主席耶来来来

普天下的人民都你耶
 拉姆毛主席  拉姆毛主席 拉姆毛主席

19613月、正式に反革命分子として15条の罪状が発行され15年の懲役、20年の政治権利剥奪が確定する。罪状中には青海の馬歩芳とのつながりを指摘した一文や、サロームが漢語の“殺了你”(お前を殺す)に聞こえるといった罪もあった。王の投獄後、子供達は孤児院に預けられ、父親不在の苦しい日々を送る。

1963年に彼は軍文工団の依頼で出所し、文工団で軍部の創作活動をし始める。しかし罪は背負ったままであった。一定の自由は得たものの彼の作品数曲が「黄色」(卑猥な歌曲)と指定され歌唱禁止に、その中には日本では「草原情歌」と呼ばれる「在那遥遠的地方」も含まれていた。1965年に彼は軍部の束縛に耐えかねて自転車で失踪するが、一週間後にはつかまり、地方監獄に投獄される。彼は文化大革命の混乱期を幸運にも獄中でむかえた。獄中でウイグル語新文字やロシア語を学び、共産党思想についても勉強する。獄中では「共産党宣言大合唱」など共産党賛美の作品の他、政治とは無関係の創作も行った。面会に来た家族から与えられた煙草や食糧と交換して、囚人たちに民謡を歌ってもらったようだ。このような民謡収集の様子から、王洛賓の民謡への思いが感じられる。14年後の1975522日に正式に釈放される。その後も政治権利を剥奪されていたために、三男の名前を使って作品を発表し続けた。しかし出獄直後は仕事も正式な住まいもなく、次男の家庭に居候したり、映画館の屋根裏に住んだりと各地を転々とする。

 

http://blog.voc.com.cn/uploadnew/2006-09-11/1157946496.jpg

库尔班大叔见到了毛主席  候波 摄[31]

「サローム毛主席」のモデルとなった库尔班が毛主席と握手する場面

第二章 改革開放

2-1.名誉回復

1977年ごろから反革命のレッテルを貼られた知識人の罪を見直す動きが盛んになり、新疆の音楽界にも誤ってレッテルを貼られた芸術家が戻ってくる。199年の国慶節30周年行事で王洛賓も民族団結をテーマとした演劇「帯血的項鏈」の音楽を依頼され、各地で大成功をおさめた。1980年冬、王が抗日戦争中に作曲した「奴隷的愛」を新疆文工団で歌劇にすることが決定し、王も脚本と編曲に加わった。幸運にも新疆文工団から住居を与えられた。さらには新華社の記者が王洛賓に関する記事を書き、1981年には彼もついに名誉を回復する機会を得た。1979年の改革開放以後、王が1930年代から40年代に編曲した歌曲が、中国の国内外で売買され始めため、個人的な生活事情は急速に改善された[32]1983年には「洛賓歌曲集」が販売され、中国全土はもとより世界中の華僑世界で歌い継がれてきた数々の民謡が、実は王洛賓の作曲だと伝わった。

この時期に王洛賓の編曲ではなく作曲と認識されたことが、後々に著作権をめぐっての論争に発展することとなる。やはり「1991年著作権法」も制定されておらず、編曲・作曲といった専門用語の法律的な範疇については曖昧だった。さらにはそれまで「単位」の仕事として発表され、人民の共通の財産と認識されてきた音楽作品が、改革開放で急に金銭的価値を持つようになった[33]。したがって個人がいかに自分の権利と利益を確立していくかという資本主義的な考え方が浸透し始めた時期とも言える。

 

2-2.「王洛賓熱」

 1988年には台湾芸能プロデューサーの凌峰が新疆で王を取材し、台湾に彼を紹介した。この影響で広州や香港の記者も彼を取材し、各地で民族音楽会が開催された。彼は報道機関から「西北歌王」などと賞賛された。

19904月台湾人作家の三毛が王の歌曲や人生に興味を持ち取材に来る。その後30歳離れた彼女と王洛賓の交流は「黄昏恋」(老いらくの恋)と騒がれる。

ところが三毛は19911月には自殺し、二人の恋については当人のみぞ知るものとなる。台湾や中国の検索エンジンで二人の名前を検索するとかなりの情報がかかるが、真相はわからない。

 

 199012月王は、シンガポールの華人女性の李豪との縁で、同地で「シルクロード音楽会」を開いた。これがきっかけでシンガポールでも彼の歌が流行し始め、二人は合作で「シンガポールの太陽」を作詞・作曲する。彼女は王に「伝歌者」という文字の入ったペンダントをプレゼントした。王自身はこの字を見て物思いにふけり、多くの民族の歌曲を伝えた自分の功績に満足したようであった。

 19917月、国務院政府特殊手当ての対象者に選ばれ、テレビ局などからの取材も続く。19922月香港で中華文化促進委員会の主催で王洛賓音楽界が開かれ、王の歌曲が流行しはじめた。「在那遥遠的地方」が中国唱片総公司第二回「金唱片創作特別賞」を受賞する。

 1988年から台湾芸能プロデューサーの凌峰が王洛賓の歌曲に興味を持ち、台湾での活動を支援していた。彼は民謡を金銭価値のある商品にするにあたって、台湾にすでにあった著作権の概念を王に伝えたようである。王は自身の作品を台湾で宣伝してもらうのに、なぜ凌峰が著作権料を払ってくれるのか不思議であったらしい。やはり両岸の二人には著作権概念の浸透の度合いに違いがあったようだ。

 結局、王洛賓は凌峰と著作権契約を結んだ。代表作が10曲で2万元だった。

 

 2-3.中台著作権史

中国は1990年に著作権法を制定し、その間に1993年にはベルヌ条約に加盟した。そして2001年に著作権法を改正したが、中国の著作権問題はそのビジネス上の切実な要求から各国の注目を集めている。その歴史をたどることによって、必然的に両岸の著作権法史を明確にすることができるので以下にまとめる。

一般的には中国は著作権に対して理解が低いと考えられているようだが、実は中国大陸で著作権は1990年代に初めて登場したものではない。また日本の版権という言葉は1999年には著作権に取って代わり、法律上で使用されることはなくなったが、中国では版権は著作権の同義語であり、現在もなお版権=著作権として使用されている[34]

 版権、著作権、出版権の概念は清末に欧米から直接もしくは日本経由で中国大陸に輸入された。いずれの語も不平等条約である米中間・中日間の「通商航海条約」が改定された1903年までには定着していた。この条約によってアメリカは自国の著作が中国で保護されるようにした。著作権法も1910年(清朝末期)、1915年(北京政府)、1928年(南京国民政府)と幾度となく制定された。これら清末および民国時代の著作権法は著作の自由と文化の発展のために制定された。ところがこうした中国の著作権事情は1949年以降、新たな段階をむかえた。

中華人民共和国は民国の法制を一切継承しなかった、一方で台湾は1928年(南京国民政府)からの著作権法をそのまま継承し、現在の中華民國九十三年著作權法までに10数回の改正を行っている。全面的な改正は1992年に行われ、さらにWTO加盟を前提とした改正が1998年に行われた。その改正と詳しい内容については中華民国経済部知恵財産局のホームページ[35]で見ることができる。また以後、共産党政権は試行のためのいくつかの行政規則を発し、著作権は文革期を例外とすれば社会主義体制下の原稿報酬制度によって細々と支えられたが、ほとんどの財産は理論上人民に帰属した。しかしながら、改革開放の深化に伴う中国社会の変化に従い、19909月に単行法律の『著作権法』656条が制定された。1993年のベルヌ条約加盟によって海外の著作権を保護する義務を負い、2001年には改正されている[36]

 

2-4.民族文化と著作権

993年台湾のプロデューサー凌峰の主催する台湾中華文化促進会の招きで王は台湾を訪問した。台湾では王のドキュメンタリー番組や音楽会が行われ、反響は大変大きかった。

 

1993年に台湾の歌手羅大佑[37]と王洛賓の間で著作権論争が発生した。この論争がきっかけで、民族文化を金銭的価値のある商品にする際に生じる問題が明らかになる。また音楽関係者だけでなく、ウイグルの民族主義者たちの王洛賓批判も招くこととなった。この論争は初めから民族主義を意識したものであったのか、それとも単なる利益争いであったのか検討することが、今回の研究の目標でもあった。しかし残念ながら、具体的な内容にまで触れている文献は手に入らなかった。したがって台湾、中国のインターネットサイトを使って、ファンのサイト[38]や各種新聞社の報道を収集するにとどまった。今後はより正式な文献の収集に努めたい。

 

  19931018日、台湾の歌手羅大佑が自身の音楽会社音樂工廠と香港の滾石唱片と合作でCD「情歌記念日」を発売する。ところが印税が全く支払われていなかった。1994127日王洛賓は「厳正声明」を発表し、その中で@台湾香港合作CD「情歌記念日」の署名「王洛賓大佑世紀の大合作」は自己の名義の盗用であり、自己の署名権を侵している。ACD中の13曲は全て自身が3040年代に収集、整理、改編、創作(詩と曲を含む)した歌曲作品であり、王洛賓が著作権をもっている。BこのCDはまだ製作出版における本人の正式な同意を得ておらず、それは王洛賓に対する著作権の侵害であると述べる。199437日に南京中級法庭に王洛賓は起訴を提出した。

 

台湾の羅大佑との著作権事件に触発されてか、 19946月号の『人民音楽』に王の当時の著作権と数々の栄誉の称号に疑問を投げかける論文が発表された。19946月号『人民音楽』で載鵬海は1980年代から1990年代前半にかけての王洛賓編曲の民謡ブーム「王洛賓熱」について見解を示している。王洛賓は199311月の上海国際広播音楽節でも注目を集め、現在では彼の編曲と表現される歌曲も、王洛賓の作品と紹介され、報道機関は彼を「西部歌王」「西北民謡の父」などと呼んで賞賛の言葉を送った。また上海音楽学院も王洛賓に名誉教授の称号を与えた。載鵬海自身も上海音楽学院で音楽理論を専門とする教授であるようだ。

 

 載鵬海は論文「歴史是厳粛的−从“王洛賓熱”談到“炒文化”」[39]のなかで王洛賓は文化の転売と分析し、まずなぜ辺境の地で長年日の目を見なかった老人が突然ブームになったのかを考察している。彼は1990年当時台湾で話題になっていた女流作家三毛が彼の作品や経歴に興味を抱き、「在那遥遠的地方找到原作者」という文章で辺境の老人を新発見したかのようにシンガポールで発表したこと、ふたりがその後も交流をつづけ「老いらくの恋」と両岸の報道機関を騒がせたこと、彼女が19931月に自殺したことなどが王洛賓を有名にしたひとつの原因ではないかと述べている。このような偶然の事件の数々が大衆の好奇心を刺激し、「王洛賓熱」は作り出されたというのが彼の見解のひとつである。また19933月から5月に彼は訪台し、国家元首並みの歓迎を受けた。これも台湾人三毛の影響で、このようにまず台湾で「王洛賓熱」が始まったことが、彼を大陸で順調にヒットさせた要因であるとも考察している。

 次に彼は王洛賓と三毛の老いらくの恋は当人だけの問題であるからさておき、王洛賓の代表作である「在那遥遠的地方」などの作品は彼の記譜に過ぎないのか、それとも創作として扱われるべきものなのかに焦点をあてて論じている。

40年代まで民間伝承の形で西北地域に伝わってきた民謡が現在では王洛賓作品として売り出されている事態を批判した。正式には作品の何曲かが王洛賓記譜と扱われるべきではないかというのが彼の意見である。さらに年代や歌曲集によって王洛賓転録、王洛賓記譜、王洛賓譯など署名してあったり、友人の名前で署名してあったり、署名自体がなかったりと現状がとてもでたらめであることも報告している。王洛賓は「理由があって署名できなかった」と会見しているが、その理由とは何であるのかがはっきりしていないし、彼は投獄された経験もあるので、それと関係があるのではないかと彼は推測した。

1000曲ともいわれる王洛賓の作品だが、正真正銘の彼の作曲はそれほど多くなく現在の世間の賞賛は大げさではないかと彼の批判はつづく。また台湾人歌手羅大祐との間で起こった著作権裁判事件は、自己を守る意識というよりは著作権を守りたいがためではないかと見ている。

 その後彼はさまざまな過去の出版物を示し、歌曲に王洛賓がどのように署名したかや、どのような状況で採譜にいたったかを述べて、現時点で王洛賓の創作として賞賛されている歌曲の多くがフォークロアの民謡から採集、編曲されたものにすぎないことを例証した。   また同じ曲でも王洛賓以外の作者が署名している出版物も見つかり、歌詞や調子が異なる楽譜も発見されたのでさらに疑惑を抱く。歌詞や題名について検討をしてみても本来のウイグル語歌詞とだいぶ違うところもあり、王洛賓はウイグル語歌詞を自身の低級な趣味に基づいて翻訳してしまったのではないかという。

 そして最後に彼は民族の文化はこのように簡単に転売されるべきものではないと述べ、「歌王」の称号は王洛賓にはふさわしくないと批判している。歴史に残るロシア国民楽派などの大作曲家も民謡を採集してはいるが、グリンカは「音楽を創作したのは人民で、作曲家はそれを編曲したに過ぎない。」という名言を残し謙虚な態度をとっていると、王の最近の態度を非難した。彼自身歴史の真実を伝えるためにもこの論文を書き音楽界の研究者はこのような事態をきちんと追及していくべきだと警告して文章は結ばれる。

 

つづけて続編として書かれた論文「民歌豈容出売」[40]で載鵬海は王洛賓が歌曲の著作権を台湾音楽界の事務所に売ったことをあげ、民族の遺産である文化を彼が簡単に売買していることを批判した。彼が得た印税は本来は人民の利益となるべきではないか、また人民の文化であるにもかかわらず、その人民が曲を演奏する祭には王洛賓に印税を払わなければならないのは、どうしたものかと彼は考察している。

 

 載鵬海の一連の批判と分析は「王洛賓熱」にわく90年代初頭の中国の音楽研究者にしては一見冷静であるように感じる。彼の主張のひとつである王洛賓は西北民謡の編曲者に過ぎないというのはとても的を射ている。その後の音楽界や法律界の検討の末、最近発売された民謡歌曲集には王洛賓作曲ではなく、王洛賓編詩曲などと署名してある。きちんと法的な専門用語が整理されたことがわかる。しかし彼の主張は著作権法を考慮していないように思われる。この論文が発表されたのは1994年であるから、1990年著作権法の第二節著作権帰属第十一条には次のように記されている。

 

 改編、翻訳、注釈、整理によってすでに作品としてまたは生産された作品として存在するその著作権は改編、翻訳、注釈、整理したものが享受する。しかし著作権を行使する際には原作者の著作権を侵害してはならない[41]

 

つまり王洛賓は法律的にも認められた著作権の所有者であるのだ。ところが載鵬海はそのことには触れず、王が台湾音楽事務所と著作権契約を結んだことを非難している。また人民の文化であるにもかかわらず、その人民が曲を演奏する際には王洛賓に印税を払わなければならないのは、どうしたものかとの考察もやや大げさである。1990年の著作権法第四節権利の制限第二十二条には作者と作品の名前を明確にしたうえで、著作権人の許可を得なくても良い状況が定められており、その(九)には

 

 (九)報酬を得ずにすでに発表されている作品を演奏する[42]

 

とあるから金銭が絡まない演奏活動は許されていることがわかる。

 著作権法の定義は理解できるが、彼の創作はやはり少数民族の文化を編曲したに過ぎないのであるから、少数民族にも印税が入るべきだという考え方もある。民族文化は簡単に売る出されるべきではないとの見解も存在する。ところが結局のところ、少数民族とはいったい誰のことを指すのであろうという問題に行き着く。彼のように人民の文化であるから人民にも印税が入るべきだというのは、共産主義的な印象を受ける。そして人民の文化といっても少数民族地域特有の文化であるから、少数民族自治区政府に印税を支払うべきであろうか。それとも曲が採集された地域の一人一人であろうか。しかし少数民族自治区政府もその地域の住民も、それらの歌曲の作曲者でも編曲者でもないのだから、結局は民族の文化から得られた金銭とは誰のものであるのかわからなくなる。これこそまさに文化が金銭的価値を持って売買され始めたことによって生じた新しい問題である。

 

 杜業雄は同じ19946月号の『人民音楽』で「編選《洛賓歌曲集》的前前後後」を発表し、1994年からの載鵬海と陳鋼による王洛賓批判の疑惑を解こうとしている[43]。ちなみに陳鋼は上海の新聞「文報」94年5月1日付けで「王洛賓疑結」を発表しているが、残念ながらその論文は手に入らなかった。

 杜業雄は王洛賓が有名になったきっかけとなった「洛賓歌曲集」(83年)の編纂に携わった人物で、王洛賓がどのようにしてこの歌曲集に掲載された曲を収集、編曲、選択したのかについて述べている。彼は7曲の例を挙げて、王洛賓が本当に少数民族民謡を編曲した人物であると証言している。そしてその歌曲集が発売された1983年当時、彼は『人民音楽』で「在兄弟民族中生根開花的作曲家−王洛賓」と賞賛されていたので、先輩の王洛賓氏が永遠に「在民族中生根開花的作曲家」として認められることを願ってやまないと彼はまとめた。
 
199475日に台湾の歌手羅大佑は上海ヒルトンホテルで記者会見を開き、正式に1994127日の王洛賓の「厳正声明」に回答した。羅大佑は自身による王洛賓の署名著作権の侵害疑惑を否定し、「もし王氏がこれらの歌を収集、整理、改編したのなら、それは民族遺産を片付け、整理し、こっそりとやりとりをして発売譲渡するようなもので、他人と決別までして王氏はあたかも中華民族文化遺産の販売者のようだ」と強調した。その後、王洛賓は南京中級法庭に提出した起訴を破棄しているようだ[44]

 

中国音楽界に論争を巻き起こした王洛賓の著作権問題であるが、そのきっかけを作ったのは台湾の歌手羅大祐だ。これまでインターネットで台湾のサイトを使って調査をしてきた。一般に羅大祐は政治的なテーマで作品を手がけることも多いようだが、どのような意図があって発言をしたのかはっきりわからない。ウイグルの民族主義者たちが後に続くことを予想していたようにも感じられるが、台湾という政治的に微妙な問題と、新疆という自治区の現状を重ね合わせたのかは定かでない。しかし台湾人プロデューサーに売ったはずの著作権をめぐって、なぜ王洛賓が発言をしているのか疑問である。さらに王洛賓は当時すでに80才を越えていた。計画経済時代には政府主導で単位によって行われていた芸能活動も、ここに資本主義の芸能界の不透明さがあらわれてきたと思う。そして民族文化とは誰のものであるのかという疑問も新たに浮かび上がった。

 

 2-5.回答

王洛賓自身、台湾の歌手大祐との著作権論争や載鵬海と陳鋼による王洛賓批判の疑惑について『人民音楽』へ手紙を書いているので紹介する[45]

 

わが国には数十年の間著作権の法律が存在しなかったし、私自身著も作権の概念については疎かった。数十年の間私が書いてきた歌曲はすべて青海、新疆民謡を扱ったものであるが、私はこれまで一言も語ったことがなかった。私は1938年に西北地区で15曲の民謡を集め、抗戦的な内容の歌詞をつけ『西北歌声』という本を編纂した。本には「甘粛省抗敵後援会編印」と署名され個人の名前は署名しなかった。それは公民の義務でもあった。

 今日国内外でさまざまな栄誉をいただいて、中国の二人の先生から「王洛賓の民謡は彼の創作とはいえない」と批判されたが私は今までに一言も「それらの民謡を創作した」とは言っていない。

 「金唱片創作特別賞」を獲得したことや上海音楽学院から名誉教授の称号をいただいたことにも不満を示す方がいるが、「金唱片創作特別賞」はCDの売り上げや歌曲の流行地域が広いことから賞をいただいただけであり、学術的に討論された末に受賞が決定したわけではない。

最近ではアメリカ在住の華僑は200万人で、その半分が「在那遥遠的地方」を歌うことが出来るといわれている。彼らは歌曲にどのくらいの割合で伝統的な民謡の要素が入っているのか、何割が私個人の創作であるのかを考慮したりはしない。だが重要なことはそのような問題ではなく、歌曲の美しさが人々に享受されているということだ。このように人々に受け取られているということこそが私の誇りであるのだ。もし牛の背中に乗った青年や船頭もしくは荒野を走る御者たちが、すばらしい歌を口ずさんでいたとしても、それだけでは正式な曲でも創作でもない。私王洛賓はそのようなところに出かけていって彼らと言葉を交わした。私の歌は収集、整理、加工し創作として出来上がったものである。「達坂城的姑娘」や「在那遥遠的地方」は私が数年にわたって収集し、整理、加工を何度も繰り返して、今日のように多くの人々に広がり知られるような曲になったのだ。私の創作でないと批判する方もいるが、では誰のものであるのか。誰か名乗りを上げる勇気があるだろうか。

 

凌峰氏が私に関する40回のテレビドラマを撮影したいということであったので私の編曲した10曲分の著作権を売った。これは香港、マカオ、台湾に限ったもので大陸は含まれない。この点に関しては凌峰氏も証明してくれるだろうし、私たちの共通の友人である指揮者の先生も証明してくれるだろう。ある方が10曲の権利を譲渡したことが民族文化盗み売りと発言し、法律事件にまで発展したが、私は法律的な責任を負ってもいい。私は世論に問いたい、私が自身の民謡の著作権を他人に売ることは民族文化の盗み売りであろうかと。

 

ここで王洛賓は自身の作品が多くの人々に愛されていることを主張し、自身の名誉を訴えている。彼もまた著作権法に裏づけされた自身の権利を主張していない。1991年に著作権法が制定されて3年たった94年時点でも、まだその概念は定着していないことがわかる。

 

さらにもう一つ著作権を考えるうえで私が提案したいのは時代背景である。日本の文学者島崎藤村なども明治・大正・昭和の激動の時代に現在では剽窃とも言える形で西洋の文学を日本語に翻訳し、自身の作品として発表していたようだ。名訳として名高い鴎外の「即興詩人」も原文の削除、原文にない文章の挿入、原文の要旨翻訳などがあるそうだ。その時代は明治維新の影響などで欧風化が尊ばれ、翻訳の定義もはっきりしていなかった[46]

つまり現在の著作権の概念を50年以上前の作品と作者に簡単に押し付けることはできないのではないかということだ。

民族主義

 3-1.歌曲泥棒

ここで1990年代にブームを巻き起こし、政府からも賞賛されている王洛賓の作品が中国では具体的にどのように捉えられていたのかについて先行研究者の見解を紹介したい。

王洛賓の音楽は旅行者が最初に出くわす音楽であり、中核的中国から新疆へと向かう汽車や飛行機の中で流れた。そのような歌はテレビ、大学のキャンパス、バスのスピーカーで放送され、自治区の中心都市のカセットの露天でも販売された。このようなカセットは宝石で着飾ったベリーダンサーの表紙で包装され、新疆民謡と題名がつけられていた。王洛賓編曲の歌曲の大量消費は大衆の異国への憧れによって導かれた。しかし一つたしかなのは自治区の他のウイグル人が多数を占める田舎では王洛賓の新疆民謡に出会うことはない。ウルムチのバザールであるニ道橋のようにウイグル人の多い地域では、全ての店からウイグルポップスが鳴り響きその特徴を感じることができる。王洛賓の新疆民謡とは平行線をたどるこの音楽世界でウイグルポップスは、ウイグルの叙情と共にまったく異なる美学によってウイグル人歌手によって作られ録音される[47]

 つまり王洛賓の新疆民謡は、外部からやってくる移民や旅行者達のイメージする新疆の音楽世界であり、自治区内部のそれぞれのオアシス都市では彼ら独自のまったく異なる音楽世界、芸能界が展開されてきたということだ。

 

1994年有名なウイグル人知識人シィディックがウイグル語のウルムチ夕刊で「歌曲泥棒王洛賓、盗みをやめろ!」("Nakhsha oghrisi Wang Lobing, oghriliqingni tokhtat!")を公表し、王洛賓を批判した。[48]残念ながらこの記事は手に入らなかった。シィディックはその後アメリカに亡命し、ワシントン東トルキスタン亡命政府の活動家となった。さらにラジオフリーアジアのウイグルにも関わっている[49]

ラジオフリーアジアは、1994年に米国議会が立法した「国際放送法」(International Broadcasting Act)に基づき、1996年に米国議会の出資によって設立された短波ラジオ放送局である。ウイグル語放送は991月に開始された。これに対し中国外務省報道局長の朱邦造は「内政干渉」と激しく非難したと伝えられる[50]。そのため必然的に政府に批判的な内容も多い。このラジオフリーアジアのウイグル語記事に20075月王洛賓についての記事が掲載されたので、少し長文だが紹介したい[51]。おそらく記事の理論はシィディックが1994年に発表したものに近いと思われる。

 

「新疆歌曲」の面白みではない「潮流」が発生した

シナの30以上のホームページが「新疆民謡」の名前で新しい項目を始めている。

このようなページにおけるウイグル自治区のある種の歌手たちの演奏では、ウイグルのハーモーニーに漢語を挿入した「新疆歌曲」の傾向がつよくなった。ホームページでは音楽歌曲を使って、ウイグル自治区の新しい様相を外へと宣伝してきた。旅行者がウイグル自治区を訪れることを意図してきたし、ウイグル自治区政府以外の宣伝組織とも協力して仕事をしてきた。また「新疆民謡」は独特の宣伝歌曲でもあったようだ。

「新疆民謡」は、シナ軍お抱えの芸術家である王洛賓が創造したウイグル音楽の領域へとおとしいれられ、破壊活動、破廉恥行為に遭遇している。以前ウイグル自治区で、シナ軍芸術団の作曲家であった王洛賓は、ウイグルや他の少数民族の民間音楽に漢語歌詞を挿入して利用し、自身の創作として宣伝した。さらには外国へ売って利益を得たため、自治区では「歌曲泥棒」の名前で呼ばれ憎しみを招いた。シナ集団は今まで王洛賓をウイグル自治区の芸術界に貢献した芸術家とみなしてきただけではない。他の民族たちの音楽歌曲を盗み、破壊の伝統をも継承してきたのだ。これらの曲をシナのどのホームページも掲載し、新疆音楽番組の歌は知られていない。

 

歌曲がそもそも漢語で歌われたことは盗用ではないか?

今日シナにおいては30以上のホームページで新疆歌曲が解説されている。ところがウイグル自治区のカザフ、モンゴルのようなシナでない民族の音楽を基礎として創作された歌曲でも、歌手は歌を転嫁し、勝手に演奏する。どんな民族とでもそりが合うので、漢語で演奏された。とはいえこの歌手たちの魂が込められた芸術は、技術以外の特徴として近代的なテクニックと組み合わされ、新しい意識やスタイルが打倒した。シナもウイグル自治区の多民族たちの両方ともが、我々の芸術を継承しまいとした人々のためにおもしろみを送られたかもしれない。しかし自己の芸術を彼らが全体から優れていると思った芸術のために失い、そして生まれたこの芸術の傾向は民衆のためである。自己の音楽歌曲が自由で勝手な様式に改められ、新疆民謡の名前で破壊行為に遭遇させられたことによって、ウイグルで新疆音楽番組形式の歌曲のおもしろみでない傾向を生んでいる。ウイグル人芸術家にこれらのことについて意見を伺った。「新疆歌曲はウイグル人の恥じるべき部分であり、そして文化無知はシナへ同化していることの証である」とのべ仲間に提示している、著者もこの意見には賛成である。

 

このようなウイグル語での批判はとても率直で漢語での王洛賓賞賛の記事とは明らかに異なっている。彼らはまず王洛賓のような歌曲が観光宣伝のための音楽として機能してきたこと、そのためにも漢語で歌われてきた事実を述べた。しかし結局そのような漢族嗜好の音楽が新疆の音楽世界として認知され、近代的なおもしろみを民衆に与えてしまったことを指摘している。そのために民族の風格を持った音楽世界は、新疆の外では日の目をみることがなく、破壊された。破壊行為や破廉恥行為というのは、王洛賓などの編曲者が、歌曲を漢族風に編曲したり、極端に異国風に編曲したりしていることを意味する。また王洛賓の作品には女性の美しさや愛を歌ったものが多く、そのような表現が少数民族女性の悪いイメージや、男尊女卑のイメージを作り上げているとの見解もある。加えて女子十二楽坊が演奏する中国民謡の映像[52]を見ると、ウイグル族風のダンサーが、お腹を出した衣装で踊っている。最近日本でも流行しているベリーダンスの衣装だが、ウイグルにはそもそもそのような服を着る習慣はない。文化がおもしろみのために、誤って伝えられていることの一例である。

またこのような記事の中で、私たちはウイグル人の中での格差を見ることができる。それは先行研究者たちも指摘していることだが記事を書いているような比較的豊かな知識人が一般のウイグル人大衆を啓蒙しようとしていることだ。

このような漢族へのけんか腰の発言をしているウイグル知識人は、圧倒的に男性で医師、学者、法律家、芸術家、共産党員などであるようだ。彼らはメインストリームとエッジの二つの文化圏の容易では直井ところに存在し、ほとんどが漢語学校で教育され、いつも別の属性であるとそれぞれの文化圏から言われてきた。またいまだに田舎と呼ばれる地域の多くのウイグル人大衆とは距離をおき、かれらを代表しようとつとめる。彼らの意見は中国人の論説を基礎としているが、しばしばその説の中で対立したり、矛盾したりする。多くの研究者がウイグル知識人のアイデンティティと他のウイグル大衆のアイデンティティが分裂していることを指摘している[53]

 

3-2.ウイグルでの事件

シィディックの公的な王洛賓への批判は彼のその後の立場上政治的な意図を含んでいると考えられる、また単に王洛賓だけに向けられたものではないであろう。ここで新疆ウイグルと中国政治についての研究[54]を紹介する。

1955年の新疆ウイグル自治区成立にともない少数民族は限定された形の「自治権」を享受し、諸政策においても懐柔策がとられてきた。しかしながら中華人民共和国は政府の上に立つ共産党が一元的な主導権を握っている国家であり、新疆においても党の実権は圧倒的に漢族によって握られてきたといっても過言ではない。また、中国政府の諸政策の中には漢族を中心とする共産主義国家としての強力な国家統治の推進が政策理念の中核に置かれたことともあいまって、先住民としてのウイグル人の不満が醸成される可能性のあるものも含まれていた。具体的な批判の対象と成っているものは漢族移住の促進、宗教に対する厳しい統制と圧力、タリム盆地東部での核実験の実施、一人っ子政策にともなう避妊の促進、天然資源の搾取などである。

1984年の「民族区域自治区法」の制定により、民族的自己表現の容認が法律的にも裏づけされたことや、新疆ウイグル自治区の西側にあり同じトルコ系の諸民族が居住している中央アジア諸国が旧ソ連から1991年以降に続々と独立したこととも関係して、1990年代新疆ウイグル自治区ではトラブルが発生し始めた。

さらに改革開放の状況下で中央のイデオロギーによる統率力も低下してきたと思われ、より直接的には民族・宗教政策の緩和にともなって民族文化の強調やイスラム復興の機運が高まり、それが政治的な自己主張へとつながる下地を作った。

 

1987年秋にチベットで比較的大規模な「自決」運動が表面化し、「ラサ運動」と呼ばれる騒乱状態に陥った。天安門事件(1989年6月4日)の二週間前にウルムチでムスリム学生300〜4000名がデモを始めこれに天安門広場の座り込みに連帯する学生一万名が合流し、暴動事件に発展した(「ウルムチ事件」、「5・19事件」)。続いて90年のバリン郷事件が挙げられる。政府側の発表では「東トルキスタン・イスラム党」により「反革命武装暴乱」が進められたといわれ武装警察隊によって鎮圧されたがその過程で運動指導者を含む死者を出した。92年2月にはウルムチでバス爆破テロにより3人が死亡する事件が起こり、トルコ系ムスリム5名が逮捕された。93年6月にもカシュガルで連続3件の爆破テロが発生、8名が逮捕・処刑されている[55]

このような事件とシィディックの亡命した東トルキスタン亡命政府などの在外民族主義組織との具体的なかかわりについて明確なことを言うのは難しいし、一部の過激な組織のテロ行為を持ってウイグル人の民族主義的動向とすることは筋違いである[56]。しかし1990年代には前述の事件があり、ウイグル人の民族的自己主張が活発化した時期で、王洛賓へのウイグル人知識人からの批判もそのような政治的批判の一つのカードといえるだろう。

シィディックが分離独立運動家になったことから、中国政府は必然的に王洛賓を公的に賞賛しつづける事となった[57]。ここに王洛賓の評価をめぐってウイグル分離独立派対中国政府という構図が見られる。少数民族は今までの不満材料に加えて、民族音楽を使って自身たちの立場を主張し始めた。

 

3-3.晩年

 19946月、王洛賓はアメリカに迎えられニューヨークなどで公演や音楽会を行った。アメリカ華僑たちも彼の民謡を歌い継いでおり、政治的に難しい立場にあるニューヨーク華人にも歓迎された。67日にはニューヨーク国連本部で「シルクロード−王洛賓作品音楽会」が催され、150カ国の大使が訪れた。音楽会後国連教科文組織秘書課長から「東西方文化交流促進貢献賞」が手渡された。

1994124日ウルムチ県達坂城鎮党委および人民政府が「達坂城栄誉鎮長」を送り記念に「達坂城的姑娘」の銅像が落成された。彼は「人民音楽」での批判を受けて、人民が自身の編曲した歌を好んで栄誉を与えてくれることこそが自分に与えられた最高の権利であるとコメントした。

 1995年春に前年発見された胆嚢の腫瘍を切断する手術が行われた。経過は順調であった。

19956月の『人民音楽』で王は一連の著作権に関する批判に次のように回答する[58]

 

編曲者はただ民間伝承の民謡を記譜し、その旋律にしたがって、詩を創るだけなのだから、創作でもなんでもないと批判する人がいるが、わが国の民謡は長い間民間伝承の形態で五四運動の時期にやっと文字で記録されるようになった。まず民謡編曲のひとつの仕事は旋律の構成であるがそれだけではなくて私は音楽に文学の要素も加えてきたと思っている。詩には万人の心を打つような文学的な要素がなければいけないし、おのおのによって少しずつ違う調子や歌詞で歌う民謡を聞き取って集め、整えることは大変な作業である。言語や文化の異なる民族の民謡を漢語にするためには訳せない内容にもぶつかるし、それを表現していくことはとても難しい。現在図書館にはさまざまな民謡を整理した資料が保管されているが、私の民謡のように世界中に歌い継がれている歌曲は一握りに過ぎない。流行する民謡には美しい旋律や文学的な歌詞はもちろんのこと、高度な芸術的な霊犀ともいえる要素が少し加えられており、その要素こそまさに 編曲者の創造したものと言える。

30年代から40年代には自身も著作権に関する知識がなく「記譜、譯詩」と明記してきたがこれは間違いで「編詩曲」と書くべきであった。「記譜、譯詩」という過去の署名だけを見て、私の50数年の創作活動を否定しないでほしい。また民謡の著作権を売ったということで、私が中華子孫の権利と利益を侵害したと批判する方もいるがそのような事実があるなら例証していただきたい。

私の民謡の著作権があるのかないのか世論に尋ねたい。そして皆さんが私に著作権はないとおっしゃるのなら失礼いたしましたと、お詫び申し上げるつもりです。

 

 1994年秋、内モンゴル音楽協会の副主席張善が一連の著作権論争を中国音楽史における大問題と捉え王洛賓を訪れる。数日間彼らは語り合い、張善は「王洛賓現象之我見」を19955月『人民音楽』に発表する。その中で彼は「王洛賓は中国近代音楽の発展史上、西北(特に新疆)民謡の開拓者であるといえる。彼が改編した民謡は歌い継がれて衰退することがなく、広く世間に広まった、このことは重視されるべきである。音楽理論会の研究者は王洛賓が行ったこのような独特な道をたどり、その中から規則性を見出し、わが国の民族音楽の発展をさらに推進すべきである。」と述べた[59]

 19961月彼はシンガポールから帰国後に体調を崩して入院する。検査結果は胆管癌であった。19962月、病床にふせっている王洛賓のもとに中国著作権協会から次のような手紙が届く。「民謡の著作権に関して中国社会は討論を進めているが、私自身は社会世論に著作権の帰属を変える力はないと認識している。改編・整理したものに著作権がある。」

この手紙は余命いくばくもない彼にとって心の慰めとなった。病床で人生最後の創作となる「歌唱万年青」を作曲した。平和を願う気持ちが歌われた作品である。また彼を見舞いに新疆軍区の役人などが訪れた。

 1996314日早朝、王洛賓は息を引き取った。320日に哀悼の歌にかわって「在那遥遠的地方」が流れる葬儀場で、2000人の参列者に見送られた。

 

 3-4.観光と中国民謡

19964月、ウルムチ集郵公司から「王洛賓音楽生涯62年記念切手」が発売される。つづく5月には北京金山陵園に王洛賓の墓碑が落成された。

19968月「新疆洛賓文化芸術発展有限公司」が設立した。公司の総経理は王楽賓の三男で、伝記の著者でもある王海成だ。彼の著作権や名誉を守る運動と音楽会の運営、出版物の管理をしている。

19972月から4月にかけて新疆ウイグル自治区成立以来、最も深刻な事態と言われるイリ暴動が発生した。ウイグル族青年と漢族住民が衝突した事件で、当局の発表によると漢族側死者4名、負傷者190名、漢族官憲がウイグル族青年1人を射殺した[60]

1997年「新疆洛賓文化芸術発展有限公司」は王洛賓の没後一周年を記念して音楽会を企画するが、イリ暴動などの影響で情勢が緊張したため、音楽会の延期を勧められる。停電の影響で開始時間が遅れるが、1997412日に音楽会を終了した。その後北京、石河子、上海、などでも音楽会が開催された。

 

2000年から現在までに、新疆を代表する観光地トルファンの葡萄沟、達坂城古鎮景区、青海省海北州の三箇所に王洛賓に関係する展示物をあつめた芸術館が開館している。三箇所とも王洛賓の作品に登場したり、歌曲を採集した場所である。この地域の観光産業は王楽賓によって促進されたと中国の報道機関は発表している[61]。特に達坂城古鎮景区、青海省海北州はそれまで目立った産業がなく、経済的にも発展途上だった。そのため政府や旅行会社がスポンサーとなり王洛賓にちなんだ観光産業に尽力した。2001年からは、青海海北州人民政府主催の「草原王洛賓音楽芸術旅遊節」が開催され、多くの観光客を迎えている。歌曲は観光ソングとしても絶大な効果をあらわし、地域に潤いを与えているといっても過言ではない。芸術館の周辺では地域の住民による土産露天や民族音楽のながし演奏が行われ、彼らは収入を得ているようだ。ウイグル族知識人による王洛賓批判と、経済的に厳しいウイグル人大衆のそのような商業活動は見事に矛盾している[62]

 

 比較的豊かなウイグル知識人は純粋なウイグル文化を模索し、ウイグル人大衆を啓蒙しようとしている。だが一方で生活の苦しい大衆は、ウイグルが中国であることから得られる利益に頼らざるを得ない。観光産業はその一つの例である。ウイグル人の中でも考え方が分裂しているといえるだろう。王洛賓が生み出した新疆民謡は現在、民族主義者が中国を批判するカードとして使われている。民族主義の批判の対象であるが、同時に観光産業促進のための重要な道具でもある。少数民族たちが、民族的アイデンティティと経済的利益の間で揺れていることがわかる。

 

 

むすびにかえて

 

  今回の卒業研究を通して、まず王洛賓の激動の人生に驚きを隠せない。同一人物の経歴とは思えないくらい、彼の人生は変化に富んでいる。このような人物は20世紀中国だからこそ存在するのであろうが、本当に稀な芸術家だと思う。政治的なイメージともあいまって、彼の作品に対しては賛否両論が挙がる。党をパトロンとして芸術活動をしていたことも事実であるが、獄中でも民謡を収集していた。その姿から彼の民謡への誠実な思いも感じられる。

 

 この論文では王洛賓の生涯をたどることで、新疆民謡が果たしてきた役割を明らかにした。特に第一章では、抗日戦争から市場経済化を経験するまでの新疆民謡について分析した。多くの研究者達が指摘しているとおり、共産党は芸術の力を理解していた。宣伝隊が軍とつながって、抗日戦争の時期から民衆の団結を促す活動をしてきた。その中で一部の芸術家たちは、自分から望んで抗日運動に共鳴していたようだ。抗日運動が党と芸術家のつながりをさらに強くしたのだろう。王洛賓の活動を通して、同じ時期の国民党も積極的に芸術を使っていたことがわかる。特に1930年代に編曲された「草原情歌」が共産党の思想を繁栄した芸術と共に世界中に広まって、中国のイメージを定着させた。報道機関が少なかった時代であるから、芸術は中国国内だけでなく世界中で影響力を発揮したのだ。新疆の解放以後は内地から漢族移民を促進する働きもしたし、外交の場でも使われた。

 

 第二章では中国著作権法史について簡単に紹介した。改革開放以後、中国では個人の権利を守るために、急速に著作権の概念が広まった。王洛賓と台湾の歌手の著作権論争は著作権がらみの事件の一つの例である。台湾の歌手羅大佑が、ウイグルの民族主義を応援する意図をもって論争を起こしたのかはわからなかった。けれども両岸の著作権の浸透度が比較できた。また王洛賓の場合、中国の中央から著作権の概念が広まる前に、台湾の芸術家たちから概念が伝わっていた。しかし当事者達の論争での発言を分析すると、1990年代前半では彼らの理解度は低いように思われる。

 

 第三章ではウイグルの民族主義と新疆民謡の関係について報告した。著作権問題をきっかけに、ウイグル民族主義の活動家たちは王洛賓批判を始めた。彼らは芸術を使って民族的自己主張をしている。目立って報道されるのは極端な暴力事件や発言であるから、それをウイグルの民族主義の動向ととらえることは筋違いである。しかし彼らが中国の中央政府を飛び越えて、世界にメッセージを発信していることは明らかだ。王洛賓を批判していたシィディックの妻もまた、現在大変有名なウイグル分離独立の活動家である。昨年十二月に彼女は来日し、講演会を開いている。

 加えて、ウイグルの民族主義者の王洛賓批判からは、ウイグル族の考え方(先行研究者はアイデンティティと述べているが)の分裂を知ることができる。それは比較的豊かで民族主義的な発言をしているウイグル知識人と、いまだに田舎と呼ばれる地域のウイグル族大衆の間で見られる。豊かな知識人たちは純粋なウイグルについて模索している。だがそれに対して生活の苦しい人々は、ウイグルが中国の一部で有ることから得られる利益に頼って生活せざるを得ないのではないだろうか。さらにウイグル知識人たちも二つの文化圏に位置し、国家利益と民族利益の狭間で難しい立場に立たされているようだ。

 

 私は2005年ごろから中央アジアや新疆ウイグル自治区に興味をもち、勉強をつづけてきた。具体的には多民族の共生の実態に興味がある。現地にも留学する機会を得たが、新疆ウイグル自治区での民族の様相を把握することは難しかった。今回の研究でわずかながら、漢族と少数民族の姿を垣間見ることができたと思う。今後もさらに言語を習得し、多民族の生活する地域の実態を研究していきたい。

 

 

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おろしゃ 会」会報 第15

2008年X月X日発行)

 

発行

愛知県立大学「おろしゃ会」

480-1198愛知県愛知郡長久手町熊張茨ヶ廻間1552-3

学生会館D-202(代表・安藤由美)

http://www.tosp.co.jp/i.asp?i=orosiya

 

発行責任者

加藤史朗(愛知県立大学外国語学部)

480-1198愛知県愛知郡長久手町熊張茨ヶ廻間1552-3

orosia1999@yahoo.co.jp

http://www.for.aichi-pu.ac.jp/~kshiro/orosia.html

 

 



[1] Rachel HarrisWang Luobing: Folk Song King of the Northwest or Song Thief? Copyright, Representation, and Chinese Folk Songs

Modern ChinaVol.31 No.3July 2005p381-408

 

[2] 塞克 1906年河北省生まれ。作詞家。1920年代には新文学の文壇で活躍した。

http://www.nongli.com/today/todayxx.asp?8701.htm

[3] ドミトリー・レオニードヴィチ・ホルヴァート(1858-1937)は、1902年以後、東清鉄道長官を務め、ロシア革命後は、白軍を支持し、ウラジヴォストークの臨時政府の首班となる。1920年以後、中国に亡命。u/biograf/bio_h/horvat.html

[4]ポポノフ著 広瀬信雄訳「ロシア民族音楽物語」新読書社(1995)p,70

[5]王海成『我的父親王洛賓』(2005年、p10

[6] 牧陽一 松浦恆雄 川田進「中国のプロパガンダ芸術」岩波書店(2000927日、pp35-98

[7] 同書脚注より

 銭理群『1948:天地玄黄』(百年中国文学総系)山東教育出版社、1998

[8]牧陽一 松浦恆雄 川田進 、前掲書の脚注より

 孫国林・曹桂芳『毛沢東文芸思想指引下的延安文芸』花山文芸出版社、(1992p,487

[9]牧陽一 松浦恆雄 川田進 、前掲書の脚注より

『江西蘇区文学史』江西人民出版社(1984年、p,122

[10]牧陽一 松浦恆雄 川田進 、前掲書、p,104

[11] 鎌田行進曲『(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%B0%E8%A1%8C%E9%80%B2%E6%9B%B2

[12] 王柯「多民族国家 中国」岩波書店(2005p,108p,130

[13] 増山賢治「中国音楽の現在 伝統音楽から流行音楽まで」東京書籍(1994328日)

pp,102 -104

[14]牧陽一 松浦恆雄 川田進 、前掲書の脚注より

 孫国林・曹桂芳『毛沢東文芸思想指引下的延安文芸』花山文芸出版社、(1992所収)

[15]長田暁ニ「草原情歌」(『ハンドブック世界の愛唱歌―1000字でわかる名曲ものがたり』ヤマハミュージックメディア20051月)pp.284-285

 

[16] 鷲尾 惟子「民間歌曲にみられるウイグル人の地域性」『大学院生の自主企画による研究セミナー』奈良女子大学大学院人間文化研究科(20073月、p,14-16

[17]張承志『回教から見た中国:民族・宗教・国家』中公新書(1993pp,101-103)

 

[18] 瀬戸宏『中国演劇の二十世紀 中国演劇史概説』東方書店(1999年、p124

[19]長田暁ニ「草原情歌」(『ハンドブック世界の愛唱歌―1000字でわかる名曲ものがたりヤマハミュージックメディア20051月)pp.284-285

矢沢寛「ディスカバー・うたごえ―あとがきにかえて―」(矢沢寛編『うたごえ青春歌曲集』社会思想社1997pp.289-297

[20]植田トシ子「草原情歌」(矢沢寛編『うたごえ青春歌曲集』社会思想社1997pp.60

 

[21] 江波戸昭『世界の民謡をたずねて』自由国民社(1972年、p,253

[22] 王柯『多民族国家 中国』岩波書店(2005pp102-109

[23] 堀直「新疆・ウイグルについて―ウイグル文化のなりたち―」『大学院生の自主企画による研究セミナー』奈良女子大学大学院人間文化研究科(20073月、p7

[24]王柯 前掲書(2005pp102-109

[25] 王海成 前掲書 (p,36

[26] 莫邦富『中国全土を読む地図』新潮社(2001121日、p,257

[27]牧陽一 松浦恆雄 川田進 前掲書 p,152

[28] 同書 p,152

[29] 田衛疆 主編『新疆百年 1900-1999』新疆青少年出版社(2003p,123p,124

[30] 刀郎のCD2002年的第一》(2004年)

 成都人。本名羅林。四川音楽学院作曲学部卒業。2002年初めから「大漠情歌」、「絲路楽魂」などのCDがヒットする。http://ent.sina.com.cn/s/m/f/daol/

[31] http://blog.voc.com.cn/sp1/guohuailiang/11565856430.shtml

[32] Rachel Harris 前掲論文

[33] 増山周「報告・権利の主張と保護に目覚めた中国の実演家たち―北京で開かれた「音楽の権利保護に関する国際シンポジウム」に参加して―」『コピライト』(2001年1月p49

 

[34]中村元哉「中国の著作権史」(『UPNo.39220056月号)pp.28-33.

[35]中華民国経済部智慧財産局

 http://www.tipo.gov.tw/

[36]中村元哉「中国の著作権史」(『UPNo.39220056月号)pp.28-33.

 本山雅弘「各国の著作権法制・第四回台湾」(『コピライト』200010月号)pp.47-49.

 陳炘「中国における著作権および隣接権の保護」原田文夫訳(『コピライト』20011

月号)pp.74-75.

[37]羅大佑 1954年生まれの台湾苗栗人。祖先に客家をもつ。台湾の著名な歌手、音楽宗作家。李登輝が1996年に連続して参選したことに対して「台湾進行曲」を作曲。社会や政治のテーマで積極的に創作している。台湾ウキペディア(維基百科)よりhttp://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%BD%97%E5%A4%A7%E4%BD%91

[38] 「追夢羅大佑」というファンによるサイトの王洛宾論争を分析したページ

http://lotayu.org/modules/news/article.php?storyid=225

[39]載鵬海「歴史是厳粛的−从“王洛賓熱”談到“炒文化”」 (『人民音楽19946総第345期)pp.8-15

 

[40] 載鵬海「民歌豈容出買!?―《歴史是厳粛的》続篇」(『人民音楽19946総第345期)pp.19-21

[41]国家版権局印「中華人民共和国著作権法」199098

 著作権情報センターホームページ 外国著作権法令集

http://www.cric.or.jp/gaikoku/chaina/china.html

[42]国家版権局印「中華人民共和国著作権法」199098

 著作権情報センターホームページ 外国著作権法令集

http://www.cric.or.jp/gaikoku/chaina/china.html

 

[43]杜業雄「編選《洛賓歌曲集》的前前後後」(『人民音楽19946総第345期)pp.15-18

[44] 「追夢羅大佑」というファンによるサイトの王洛宾論争を分析したページ

http://lotayu.org/modules/news/article.php?storyid=225

[45] 王海成 前掲書 pp251254

[46] 永田 真理大作家は盗作家(?)―剽窃と創造の谷間を考える』(1981pp,8-18

[47] Rachel Harris 前掲論文

[48] 同論文

[49]新免康「新疆ウイグルと中国政治」『アジア研究』(Vol49,No1Junuary 2003pp,37-54

[50] 同論文 脚注より

 『朝日新聞』199916日朝刊

[51] Radio Free Asia Uyghur「“Shingjiang nahshilirizoq emes “oqpeyda qilidi2)」2007516

http://www.rfa.org/uyghur/xewerler/tepsili_xewer/2007/05/16/burmilanghan-naxsha/?simple=1

[52]女子十二楽坊CDDVD「世界名曲劇場-第一幕: 中国民謡集」(200611月)

 

[53] Rachel Harris 前掲論文

[54]新免康 前掲論文(pp,37-54

 

 

[55] 高崎通浩『民族対立の世界地図 アジア/中東篇』中公新書ラクレ(2002pp,212-218

[56] 新免康「新疆ウイグルと中国政治」『アジア研究』Vol49No.1,January2003

[57] Rachel Harris 前掲論文

[58] 王海成 前掲書から引用 王洛賓「我与西部民歌」pp,254-255

[59] 王海成 前掲書より pp,257

[60] 高崎通浩 前掲書 p,214

[61] 中国の天山網

 http://www.tianshannet.com

[62] Rachel Harris 前掲論文