おろしゃ会会報 第16号 2009年4月28日 (おろしゃ会創立10周年) |
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卒業生歓送会 卒業しました! 井平貴子(愛知県立大学文学部社会福祉学科卒) 20日の卒業式では、先生と一緒に写真を取らせていただいてありがとうございました。風は強かったけれど、雨があがった後の青い空と暖かい日差しは、まさしく卒業式日和だったな、と思います。 私のロシア語との出会い(というと大げさですが)は加藤先生との出会いでもありました。4年前、入学式の日のオリエンテーションで、突然今までの事務的な話とはぜんぜん違うロシア語(ロシア語は日本語と文法が似ているところもある、という話でしたね。люблю
тебяという言葉をはじめて聞きました)の話をしていった加藤先生を見て、その日はじめて会ったばかりの同じ学科の友達と「え、今のは何?宣伝?」と、ちょっとびっくりしながら話していたのを懐かしく思い出します。 その後日、初めての講義の時間割登録で、みんなわけが分からずいっぱいいっぱいになりながら、それでも1年生のうちに取っておいた方が良いと言われた外国語の講義を何にしようかと話している中で、私の頭からロシア語のことが離れませんでした。 正直に言って、加藤先生のあのオリエンテーションでのお話がなければ、ロシア語なんて最初から選択肢に入ってなかったと思います。(失礼な話ですね;)ロシアという国に対してそれ程知っていることも何かイメージもありませんでした。(今でも大して知っているわけではありませんが・・・・・・) でも、なんだかあの先生の話を聞いたら面白そう、ちょっと気になる・・・・・・という気持ちがずっと消えず、社福の時間割相談に行ったときに、須藤八千代先生とたまたま「外国語は何にするか決めたの?」と話が出て「ロシア語が気になってるんです」「いいじゃない!あの加藤先生って面白い人よ」という会話で「よし、ロシア語にしよう」と決めてしまいました。 1年生のときにロシア語はスベトラーナ先生と加藤先生の講義で週に2つありましたが、初めのうちはまず文字が読めなくて、最初にもらったロシア文字のアルファベット表と何度も見比べながら教科書やプリントを読んでいた気がします。英語のアルファベットと形が似ているのに発音がまったく違ったりするのが一番難しかったように思います。 やっと文字を覚えたかな、という頃に今度は文法の難しさに直面してしまいました。動詞の変化は何とか覚えられたのですが、名詞や形容詞の変化は性やら格やらが頭の中でぐちゃぐちゃになってしまって大変でした。(正直今でも覚え切れていません;) そんな風にして毎週苦戦しながら何とかロシア語を続けていられた私ですが、まさか卒業論文の題材にまでロシアを選ぶことになるとは、そのときは思っていませんでした。 考えてみればロシア語を学んだことで今まであまり知ることのなかったロシアへの興味を持ち、またおろしゃ会などで違う学年・学部の方や校外の方と知り合うことができたというのは、とても「大学らしい」ことで、専門の勉強と同じくらい面白くて大切なことだったんだなぁと思います。 せっかく4年間学んだのだから少しでも覚えておきたいので、大学を卒業してもラジオなどを聴いてロシア語は続けられたらいいな、と思っています。根気がないので忘れないようにするだけで精一杯かもしれませんが・・・・・・県大にも学祭などの時には遊びに行きたいと思います。 加藤先生、おろしゃ会の皆さん、本当にありがとうございました。 |
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ロシアの海へ〜石原吉郎再読 愛知県立大学文学部社会福祉学科 須藤八千代 |
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<伏木港とウラジオストクの間> 2008年の夏の終わりに私は夫と二人、念願のロシアに足を踏み入れた。ゆっくりとした時間を楽しみたいと、富山の伏木港からロシア船RUS号で行くことにした。フランス・リールに滞在しているとき、ロシアはとても近い感じがした。しかしこのヨーロッパから入るルートを止めたのは、加藤史朗先生の「あっちから入ると暗いよ」という一言である。ロシア研究の専門家の言葉である。「ロシアに対して持つ暗いイメージを一層、固定することになるかもしれない」そんな気持ちから私はすぐ計画を変更した。 伏木港から週2回出ているRUS号の情報を知り、氷見の旅行会社と接触した。船、鉄道、ホテルすべての手続きを済ませてからビザが下りるというのだ。基本的に自由な旅はできないというルールだった。最新の『地球の歩き方』も同様な説明だった。直前にブラジルで開催された「IFSW(世界ソーシャルワーカー会議)」から戻ってすぐ会社にパスポートを送り、ビザの手続きを依頼した。クレジットカード一枚で自由に鉄道に乗れるEUと、自由旅行はできないと説明されるロシアを対比して、その「暗さ」への好奇心が湧いてきた。 その一方、たびたび連絡を取る旅行会社「FKK」の担当者が数日おきにロシア極東、特にウラジオストク、ハバロフスクへの出張を繰り返しており、また代わりに電話に出る女性は「ハバ」「ウラジオ」と隣町に行くように応対した。それは「念願のロシア、シベリアの旅」という私たちの気負った感覚を裏切るものだった。その日本とロシアの今を教えてくれたのが、今回の船旅である。 ミッドランドスクエア前からでる高速バス「キトキトライナー」で素晴らしいドライブを楽しむと、間もなく氷見駅に着く。駅の隣の「FKK」のカウンターでチケット一切を受取り伏木港までバスに乗った。さびれた町を抜けると、岸壁に「RUS」と書かれた大きな船が停泊していた。私たちは、そのままスーツケースを持ち上げて高いタラップを上り乗船した。そこからロシアが始まった。白いブラウスに紺のスカート姿のロシア人女性スタッフが、フロントに数人いて受付けをしていた。 出航の予定は夜6時だが早く乗船するようにと旅行会社の女性に言われた。時間は12時すぎだった。なるほど14時になると昼食のアナウンスがロシア語と日本語であった。食事は毎回、大きなホールで取った。行きの乗客には私たちのほかに日本人旅行者はいなかった。外国人は6,7人の仲間でカナダとオーストラリアから集まり、東京で数日過ごしたあとモンゴルからサンクトペテルブルグまで旅する一グループだけだった。15時に入管職員によって出国審査が船内のホールで行われた。すでに船の甲板は日本の中古車や中古モーターボートで一杯だった。しかしそのあとも延々と船の船底に中古車が積み込まれていく。岸壁に留めてあった車がすべて姿を消し最後にオートバイや自転車までが船底に入ると、ようやく船は出航した。 しかし十日後、ウラジオストクから伏木港に戻るRUS号の甲板は空っぽだった。乗客は船に乗るまで狭い部屋で長い時間待たされた。さらに一人ひとり別室に招き入れ「金を持っているか」と聞いてきた。私は財布に残った一枚の50ルーブル札を見せてその男の前を通過した。全員が乗船して船がようやく動き出し、暗くなった街をもう一度見たくて一番高い甲板に上った。スウェーデンやカナダ、アメリカからきた若者がビールをラッパ飲みしながら「ロシアの官僚主義バカヤロー」と叫んで散々待たされた鬱憤を晴らしていた。私もその仲間に加わった。 ハバロフスクでも見かけたドイツ人夫婦、日本からハワイそしてアメリカ大陸と知人を訪ねて旅するスイス人の図書館司書などと同じテーブルで二日間楽しい時間を過ごし、秋の鰯雲が日本海全体に広がる空を見ながら、何枚もウォークマンでCDを聴いた。モスクワから来た青年が、RUS号が次に出港する3日間に友達に会うために東京のお台場に行きたい、その行き方を教えてほしいと私に聞いてきた。二日目の夜は遅くまで若者たちとワインを飲んで話した。夫が残った100ドルでワインを数本買ってご馳走した。その中の二人のアメリカ青年は日本語も堪能で、愛知万博以降長久手に住み軽トラックをインターネットでアメリカに売る仕事をしていると話していた。「日本は生活していくのが楽。でも楽すぎて自分がダメになりそう」と彼がいう。数か月会っていない恋人との関係を心配しながら、モンゴルで軽トラックのラリーをやってそれをアフガニスタンの子どものチャリティーに役立てようと計画していた。 船はウラジオストクを出て二日後の朝、予定どおり伏木港に入った。しかし乗船したときの予想を裏切って、下船に半日かかった。日本への入国など私たち日本人にとって何ら問題はないと高をくくっていた。帰りの高速バスの予約もしてある。しかしロシア人の入国審査は延々と続き、また数人は別室で船長同席で面接を受けている。日本人の私たちに船長は船室で待つように言った。実際、入管職員が船室にきて簡単な質問をするまでに昼食のアナウンスが入ったほど時間がかかった。 高速バスの停留所まで乗ったタクシー運転手は「ロシア人はこんなに一万円札を握って中古車を買っていくんですよ」と大きく手のひらを広げて見せた。売り手はパキスタン人で地域の日本人は、その様子を見ているだけのようだ。RUS号が伏木港に着岸し待たされるあいだ外を見ていると、サーカス興行に使われる動物の檻が今度は船底から次々に出てきた。また入管職員が船に入る前に、3人ほどのロシア人が自転車に乗って船から走り去っていくのを見た。日本とロシアの「今」は、グレーゾーンを抱えながらエネルギッシュに動いているようだ。 <ウラジオストクそれからハバロフスク> ウラジオストクの街は当然、日本の中古車で一杯だった。ただ思いがけずホテルのすぐ横の会場でウラジオストク映画祭が開催されていた。私たちは多くの観客を集めていたこの映画祭で「THE
PHOTOGRAPH」(インドネシア)と「ANNIE LEIBOVITZ:LIFE THROUGH A
LENS」(アメリカ)の2本を見た。また「SWELLFISH」という短い映画を出した韓国の若い映画人と仲良くなった。私が好きなケン・ローチに二人も関心を持っていた。日本からは「東京ソナタ」が出品されていた。私たちが泊っていたホテルは会場の近くで映画関係者で一杯だった。映画祭のクロージングの日に、「PACIFIC MERIAN」という看板がかかる会場入口の赤い絨毯を関係者が次々に上っていく映画祭らしい華やかな光景も楽しんだ。その時見かけた日本人女性に翌日、ホテルの食堂で声をかけて扇千恵さん(大阪大学ロシア語非常勤講師、訳書『タルコフスキーの映画術』『ソヴィエト映画史-七つの時代』など)と知り合った。この映画祭の審査員でありまたモスクワ国際児童青少年映画祭審査委員長も務めた扇さんと、朝食のテーブルやホテルのロビーで話してロシアへの距離は一気に近くなった。大学時代にロシア語履修から脱落した経験を持つ夫は、扇さんの前で学生に戻ったようにはしゃいだ。 ホテルの前にはスポーツ湾が広がる。フロントの女性の完璧な日本語にも驚いた。浜辺は美しくゴミもない。静かに波が寄せ、人びとは遊園地で遊んだり海で水浴したりしてのんびりと過ごしていた。海辺で夫がスケッチしていると、さまざまな人がノートを覗き込む。それは中国人旅行者だったり、アゼルバイジャン人の屈強な男だったりした。 私たちはいつもそうするように、この街をくまなく歩いた。ハバロフスクに行った数日をはさんであちこちと街を歩き、疲れると座って私は石原吉郎を再読した。なぜシベリアに行きたいと思っていたのか、私は旅の準備の途中突然思い出したのだ。それは20代に熱心に読んだ石原吉郎に原点があった。そこで神奈川の自宅から詩集やエッセイを名古屋に持ってきた。私はウラジオストクの海岸に座り『望郷と海』(1972)『海を流れる河』(1974)『断念の海から』(1976)『海への思想』(1977)などに、繰り返し書かれた「海」とはこの海なのだとその水に手を入れた。 石原は『海を流れる河』のなかで「真に体験の名に値する体験とは、外側の体験をはるかに遠ざかった時点で、初めてその内的な問い直しとして始まると私は考えている。したがって私に、本当の意味でのシベリア体験が始まるのは、帰国したのちのことである」(41頁)と書いている。私の読書体験も長い時間を経てウラジオストクで真の体験に値するものになった。海は波もなく匂いもなく、かすかな音をたてて海岸に寄せてくる。海岸にいる人びともまた言葉少なく穏やかだった。本の言葉がしみ込んできた。 ウラジオストク駅から一晩、シベリア鉄道に乗るとハバロフスクに着く。シベリア鉄道でモスクワまで一気に行くだけの十分な時間がなかった。しかし次の機会のためにも様子を見ておきたいと私は考えた。列車は4人一室のコンパートメントである。行きは私たちの上の寝台にハバロフスクまで行く30歳と36歳の陽気な男二人が乗った。私たちは一緒にビールを飲んだ。彼らは片言の英語を話した。日本人との同室が面白いといった表情だった。 私は寝台に横になってシベリア鉄道の「ごっとん、ごっとん」という音と振動を味わった。ようやく夢が実現したという喜びがあった。ハバロフスクには朝、到着した。駅からアムール川に臨むホテルまで美しい木立が続き、その間を路面電車が走っている。ハバロフスクがこんなに美しく整備された都市とは意外だった。ロシア700の都市の中で一番都市基盤が整備されていると、どこかに書いてあった。私は2日間歩きまわって心から魅せられた。アムールスキー並木通りは森の中を迷いつつ進んでいくようだ。デナード公園やカールマルクス通り、レーニン広場、またもう一つの森の道ウスリースキー並木通りなど、どこまでも歩き続けたくなった。 インツーリストホテルからアムール川は目の前だった。着いた夕べ、美しい日没を見ることができた。アムール川とも「再会」した気分だった。なぜなら父が初めて買ってくれたLPは、ダークダックスが歌う「ロシア民謡集」だった。その歌を今も忘れない。その中の一曲「アムール川のさざ波」が口をついて出た。と同時に涙があふれた。結核のため入院した母に、中学一年生だった私は電話口でロシア民謡を歌ってあげた。歌はしっかりと記憶されていた。歌いながら私は13歳の子どもになった。 ハバロフスクの中央市場は、ウラジオストクの何倍もあり燻製の鮭やキャビアなどを売る店が多い。圧倒的に少ないのは野菜である。萎びたようなキャベツや白菜、あとはジャガイモで果物もあまりない。日本の新鮮で緑に満ちた野菜売り場と比べ物にならない。食物だけでなくそれ以外の「もの」に関してかなり格差がある。しかし日本が過剰なのだろう。質素であるが“そこそこ”の日常生活には不足はない程度に揃っていた。 ウラジオストクに戻る日は午後から雨が降り出した。曇って寒くなったムラヴィヨーフ・アムールスキー通りを歩いていると、後ろから若い男女が追い抜きながら「ロシアは寒いですか?」と日本語で話しかけてきた。明日、仕事で名古屋に行くという。 アムール川の川岸に出て遊覧船に乗った。ビールを飲みながら出発を待ったが、私たち以外にお客が来ないため遊覧船は出航しないという。「イックスキュウズ」とロシア語のような英語で言われて雨の中を下船した。すぐ横に中国側からハバロフスクに買い物に来る船が着いて、ぞろぞろと中国人が降りてきた。渡し船のような雰囲気であった。 帰りのシベリア鉄道でも同室になった男性にご馳走になった。30代の男性は中国に仕事に行くところで、列車が動き出すと携帯電話が鳴り、さっき窓の外にいた奥さんと4歳の息子が踏切で手を振っていた。彼は私たちのために列車のどこかからサンドイッチやウオッカを買ってきてくれた。もうひとり60代の男性は自分の畑で作ったというトマトやキュウリに、韓国風唐辛子味噌を添えて私たちに勧めてくれた。ロシア極東の食文化は、日本、ロシア、中国、韓国が混じり合っていた。 夫が厚いロシア語辞典を小さなテーブルの上に開き、ロシア語と英語の単語を交えながら小さな宴会が続いた。言葉を超えてより近い地理的関係にある人間同士のうちとけた感覚があった。シベリア鉄道の旅は行きも帰りも楽しかった。 <百万本のバラ> RUS号に乗って帰る日、港近くの路上で「百万本のバラ」を、アコーディオンを弾くおじいさんと一緒に歌った。彼はロシア語で、私たちは日本語で。女性が目の前のかごに紙幣を入れた。ウラジオストクの港は鉄道の駅の裏側にある。駅周辺には70歳はとうに過ぎた老女の姿が目立った。「部屋を貸す」という看板を持っている人、ほんの少しの落花生を売っている人。落花生の台の前に立つと彼女は慌てて紫色の口紅を塗った。商売用なのだろうか、けばけばしい紫だ。それは彼女たちの暮らしの厳しさを匂わせた。私は小さなコップ二杯分の落花生を買い、おつりを渡そうとする老女の手を軽く押さえた。 |
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エストニアの思い出 ―あるバシキール人の足跡を尋ねて― 豊川 浩一(明治大学文学部) |
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ここに記すのは2007年の夏に行ったエストニアでの調査旅行の記録である。念願かなっての調査であるが、これから出かけるかもしれない若い人たちのために書き残そうと思う。 2007年9月2日から15日までフィンランドのヘルシンキを経由地としてエストニアへ出かけた。エストニア西部の港町パルディスキ市での現地調査とタルト(タルトゥ、エストニアの専門家はこのように呼ぶ)での古文書調査である。私が卒業論文以来調べているプガチョーフ叛乱(1773〜75年)に関連して、そのなかで重要な役割を果たしたバシキール人指導者サラヴァト・ユラーエフの最後の顛末を調べることが目的であった。叛乱の終盤に拘束され、その父や仲間とともにこのバシキール人の英雄が送られた流刑地を実際にこの目で確かめたかったのである。これまで同地へは都合3回行くことを試みていずれも失敗している。そのあたりの事情については『おろしゃ会』会報13号の拙文に詳しい。また、同市やタルトの古文書館における調査の成果の一端は「バルティースキー・ポルトの囚人サラヴァト・ユラーエフとその周辺―帝政ロシアにおける地方史研究の試み―」(『駿台史学』132号、2007年)として発表した。興味のある方はご覧いただくとして、今回は学術調査以外の「思い出」を記すことが主眼である。 * * * * * 9月2日(日)11時に成田を発ってヘルシンキに着いたのは現地時間で15時。日本との時差は6時間。フィンランド航空の飛行機は日本人ツァー客などで満席。なかにはノルウェーでのフィヨルド見学ツァーに参加するという人もいる。ヘルシンキでは飛行場からバスとトラムを乗り継いで中心地に程近い定宿のホステルへ直行する。4泊代110ユーロ(ただし、ポイントがたまっていたため1泊は無料、当時1ユーロ=170円)。近くのスーパーでパン・水・ビール・惣菜など食料品などを調達(5・62ユーロ)。翌3日(月)から5日(水)までヘルシンキ大学付属スラヴ図書館で調査。いつもながら図書館の利用しやすさや食堂の清潔さなどに感心する。その間、5日には、列車でタンペレへ(往復56・90ユーロ)。正教会、レーニン博物館、アムリ労働者住宅博物館、そしてムーミン博物館(!)を見学。
ヘルシンキ大学附属図書館正面 同図書館内部 6日(木)10時、タリンへ向けて高速船で出発(往復42ユーロ)。11時30分着。徒歩で中央郵便局近くのホテルへ(2泊代1380クローネ、当時1クローネ=10円)。ここでの目的は2つ。無期懲役刑を受けたサラヴァト・ユラーエフの最終目的地バルティースキー・ポルト(現パルディスキ市)に送られる途中の中継監獄として利用された「のっぽのヘルマン」をじっくり眺めること。そして国立博物館にあるとされているプガチョーフの肖像画(エカチェリーナ2世とダブらせて描かれた有名な肖像画)を見学することであった。第1の目的は容易に達せられた。何度も来て見ている塔をいま一度監獄として利用されたことを考えながら内部や外側から、またさまざまな角度から眺めると格別な思いがする。しかし第2の目的はかなわなかった。館員に聞いてもプガチョーフの肖像画はないという。私が読んだ本の間違いなのか、あるいはどこか別のところにあるのか不明である。その代り、18世紀、罪人に対して使われた印(額と頬に押すロシア語「ВОР」―悪党―の3文字の印)を見ることができた。これは収穫であった。
のっぽのヘルマン エストニア国立博物館内にある懲罰用印 7日(金)、晴れのち曇り。7時47分発の郊外電車でパルディスキ市へ出発。切符は車内で購入(片道20クローネ)。車窓から森や草原などエストニアのさまざまな姿を垣間見ることができる。8時57分着。駅舎はなくプラット・ホームの「パルディスキ」という看板のみ。駅傍にある売店のおばさんに「サラヴァト・ユラーエフの像」と「郷土史博物館」の所在地を聞く。ロシア語が通じるのがパルディスキ市らしい。ここは1962〜94年まで旧ソ連最大の施設を持つ原子力潜水艦の訓練基地として基地所属の原子炉2基を持ち、約1万6000人を雇用するいわゆる「閉鎖都市」であった。ソ連崩壊後の1995年、ロシア連邦は原子炉施設の管理を放棄し、そのため多くのロシア人は本国へ戻ったが、この地に留まったロシア人もかなりの数に上るという。現在、約4000人が暮らしている。後に知己を得た「郷土史博物館」の「番人」氏はそうした軍人の一人であった。
バルディスキの駅 パルディスキ郷土史博物館の「番人」氏 話を現地調査に戻すと、日本でインターネット検索によって見ていた「サラヴァト・ユラーエフの像」は難なく探すことができた。たとえバシキール人英雄で、ソ連時代には「農民戦争」の指導者の一人として賞賛されていたとしても、南ウラルのウファーからかくも離れたエストニア西北の地に銅像があるのは不思議である。「郷土史博物館」を探すのは大変難儀した。住所のRaii38が分からず歩きに歩いた。遠く町外れまで、廃墟となった建物を傍らに見て1時間ほど歩いた。どうも違うのではと思い中心地へ逆戻り。通りすがりの女性に「郷土史博物館」の場所を尋ねアパートの一部屋を改造した「博物館」をみつけたが、掲示には開くのが12時とある。時間つぶしにルター派教会近く海岸沿いにある「聖ゲオルギエフスカヤ教会」を見学。背の高いこの正教会はサラヴァトが同地に流された18世紀後半にはすでに建てられており、当時のスケッチにもその姿を見ることができる。また懲役囚でもロシア正教徒であればこの教会のミサに参列できたようである(このあたりの事情については前掲拙稿を参照されたい)。ただ残念なことに現在は修理中で中には入れなかった。近所の食堂で早めの昼食。魚のスープ、ペリメニ、ジュース、パンで腹ごしらえ(75クローネ)。元気が出てきたところで海を見に行く。この同じ海をサラヴァトも見、また近くで軍港を完成させるべく岩を削る労役に服したのかと思うと感激もひとしおである。
サラヴァト・ユラーエフの像 博物館の展示
バルディスキの正教会 バルディスキの海 12時になったので「郷土史博物館」へ。そこにいた男性にまだ早いと言われるが、中を見せてくれとせがみ見学。「館」とは名ばかりで1部屋限りの「展示室」といったところ。展示品はサラヴァト・ユラーエフ関連のものばかり。彼の逮捕を記した古文書のコピー、「のっぽのヘルマン」の写真、当時のレーベリ(タリン)からバルティースキー・ポルトまでのエストニアにおける彼の足跡、後世の画家の描いた肖像画、そしてバシキール人の伝統衣装などの展示など。バルティースキー・ポルトの歴史を示す資料は僅かしかない(入室料10クローネ)。 先の男性はここの館長ではなく、「番人」とのこと。小学校の教師をしている奥さんが館長である。学校がある日には、元ソ連軍の艦船乗組員であった彼が館長の代わりに座っているという。それでもよく知っていて、18世紀以来のこの町の話をしてくれた。特に興味深かったのは、この町にあるサラヴァト・ユラーエフの胸像に関する逸話である。実はこれは2代目という。一つ目は作られて早々に誰かわからないが不心得物によって盗まれたとのこと。その背景には、エストニアにバシキール人英雄の像を建てることが不見識だ。たとえここでロシア帝国の植民政策の犠牲となって死んだとしても、という意見があったらしい。彼は私の旧知のバシキール人研究者とも面識があり、また彼自身バシコルトスタンに行ったこともあった。何より彼の母親がバシキール人であるという。バシキール産の蜂蜜をなめながら、お茶やお菓子をいただき、いろいろな話をして15時40分まで話し込む。名残惜しかったが、最終16時10分発の帰りの列車に乗り込むために辞去する。タリンへは5時18分着。中心にあるビルー・センターで夕食のための食材を買い(79・10クローネ)ホテルへ帰る。 9月8日(土)、晴れ。タリンへ出発する前に、エストニアが誇るカドリオク公園へ行き、「外国アート博物館」、「クム」、「ピョートル1世の小屋」を見学。ここにもプガチョーフの肖像画はない。一旦、ホテルへ戻り、そこからバスターミナル発の高速バスで一路タルトへ。16時55分着。所要時間2時間30分(片道140クローネ)。学生寮を改造して作ったというホテル・タルトはバスターミナルの目の前。14日までの6泊7日の代金3960クローネ。部屋に荷物を置いて早速夕食のための買い物。ワイン・コニャック・パン・惣菜など数日分の食材を購入(317クローネ)。いつもながら酒類が食事の中心を占めていることに驚く!?一旦、帰宅後、旧市街を中心に町を散策。この大学町は1632年の創設で、2007年は創設375周年の記念の年。タルト大学はいまでこそ記号論で有名だが、伝統的に医学や科学系の学問が抜きん出でいた。有名な医学者ピローゴフもこの大学と関係があるとか。大学町として発展してきた旧市街地とその周りの住宅街がはっきり分かれているのも面白い。カトリックとプロテスタントの教会を見学。
タルトの旧市街 不思議なオブジェ 9月9日(日)、晴れ。8時に朝食をすましてカトリック教会の10時のミサに参列(ポーランド語)。ミサ後、神父(リトアニア人だったかポーランド人だったか忘れてしまった)と英語で少々お話。帰宅途中、翌日から行くことになる古文書館(住所はLiivi 4)の場所を確認。この古文書館はかつてタルト大学の学生寮であったとかで、外観はなかなか趣がある。1時過ぎ、この調査旅行についていろいろアドヴァイスをしてくれたエストニアの専門家で大学院の後輩のKさんと会いパブ「ワイルド」で4時半までビールを飲む。土地のビールは格別であった。ちなみにこの店の前には名前が同じ英国の詩人オスカー・ワイルドの像がある。ホテル裏手にあるスーパーで夕食の食材を購入(38クローネ)。 9月10日(月)、晴れ。7時に朝食。9時に古文書館が開くことを考えて8時20分にホテルを出る。ゆっくり町並みを見て歩きながら行くも開館前に到着。それでも入れてもらい古文書を閲覧。すでに日本から読みたい史料をインターネットで連絡しておいたので容易にみられるかと思ったが、館員の手違いで(担当者が休暇中のため連絡がうまくいかなかった)予約していた史料を出すのに手間取る。それでも対応がスムーズのためストレスがたまらず、順調に仕事ができた。館員のなかにバシコルトスタンからの依頼で史料をコピーしている人がおり、その人と話しながら史料についていろいろな情報を得る。7時まで仕事。その間、昼食のため外に出てタルト大学のカフェでたっぷりと食事(76クローネ)。いつものようにスーパーで夕食用の食材を購入(71・7クローネ)して帰宅。
エストニア国立古文書館の全容 古文書館の内部 古文書 9月11日(火)、晴れ。7時に朝食。8時30分に出発するも、古文書館へは一番乗り。本日の収穫はコピー。ロシアでの古文書史料コピーの手続きの煩雑さを経験している私にとっては驚きと感激の連続であった(コピー代132クローネ、1枚4クローネ)。大学のカフェで昼食をとった後、散歩。旧КГБ博物館へ(12クローネ)。訪れる人もない館内はソ連時代の尋問風景を再現していて不気味でさえある。古文書館に戻り6時15分まで閲覧。 9月12日(水)、晴れ/曇り/雨/曇り。朝食後、8時30分に古文書館へ出発。9時から昼食をはさんで夜7時まで仕事。期待していたジェーロが出てきた。昼食時の散歩では近くの国立博物館と美術館を見学(それぞれ入館料20と25クローネ)。昼食代73・50クローネ、夕食用食惣菜89・70クローネ。 9月13日(木)、曇り/晴れ/雨/曇り。朝食時、ドイツ人観光客の年配のご夫妻と同席。タリン、タルト、サンクト・ペテルブルクへ3日間のバス旅行という。建築家のご主人は40年前にサンクト・ペテルブルクで働いたことがあるとか。今日も古文書館に一番乗り。コピー4枚も上出来。昼食時、昨日買ったパンと惣菜でサンドイッチを作って持ってきたので外で食べようとしたが、あいにくの雨。文書館の片隅で食べようと許可を得るべく職員に聞くと、地下の職員用休憩室で食べるようにと案内してくれた。当の職員がスープを作り、さらに持参したパンをくれた。その後、雨が上がったので散歩。古文書館そばの大学歴史博物館へ(入館料20クローネ)。夕食用の食材55・60クローネ。コピー代16クローネ。アイスクリーム20クローネ。 9月14日(金)、晴天。チェックアウトを済まし、8時のバスで一路タリンへ。平原や森が広がる途中の風景は素晴らしい。10時30分タリン着。バスターミナルからはトラムを乗り継ぎ船着場へ。12時の高速船に乗り1時間半でヘルシンキへ。いつものホステルで荷を解き、6時までヘルシンキ大学付属図書館で調査。夕食の食材を購入して帰宅したのは7時。 9月15日(土)、雨風強し。朝食後、図書館へ。偶然Tさんと会う。就職が決まったということで、お祝いを兼ねて昼食。14時10分のバスで空港へ。帰りの飛行機も日本人で満席。隣のフィンランド人に言われて機外のオーロラを見る。 9月16日(日)、成田着。 (追記)2008年10月、「郷土史博物館」の「番人」氏からコピーが届いた。私が彼に依頼していたパルディスキ市の歴史を概観する論文である。この町の歴史について書いてある論文があればそれを送ってほしいと依頼していた。感激である。ただし、そこにはプガチョーフ叛乱で捕まって流された人々のことについては触れられてはいない。 |
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2008年11月1日(土)と2日(日)県大祭に参加 県大祭でボルシチを販売 二日目に見事に完売 左より井平さん、白木さん、田川さん、幅さん |
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盛況だった 第一回 加藤晋先生基金記念シポジウム 「日本とロシア―若い世代へ−文学の立場から」 故加藤晋先生は、ロシア語を含む11カ語のポリリングィストでしたが、「おろしゃ会」にも絶大なご援助をしてくださっていました。この度、故加藤晋先生の遺志を生かすため、加藤晋先生から寄せられた基金を活用する活動のひとつとしてシンポジウムを行なうことを「おろしゃ会」が企画されました。その第一回記念シポジウムは、2008年11月1日(土)午後3時半〜午後5時半、おろしぁ会と愛知県立大学との共催という形で、2008年県大祭行事の一環として盛況裡に行われました。今回のシンポジウムは、
というテーマで行われましたが、200名近い参加者を得て活発な質疑応答がなされました。 提言者の亀山郁夫先生は、数日前にロシアから帰国され、翌日またロシアへ出張されるというご多忙な日程の間を縫って、今回のシンポジウムのために有益な提言をしてくださいました。 古典であるドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が、亀山先生の新訳によって蘇えり大ベストセラーになっていることは周知のことですが、書かれなかった『カラマーゾフの兄弟』第二部の構想を推理するという大胆な試みも大きな話題になっています(『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』光文社文庫、2007年)。さらに、現在、『罪と罰』の新訳にもとりかかられており、すでに第一部が刊行されています。 亀山先生のこうしたご努力や日本読書界の反応はロシアでも大きな反響を呼んでおり、亀山先生を交えてシンポジウムが開かれたり、『カラマーゾフの兄弟』第二部構想の紹介や評価がロシア国内でも行われています。 本シンポジウムのためには講演のレジュメが配られましたが、豊富な話題と多くの問題提起を盛り込んだもので、僅か二時間のシンポジウムでは消化しきれない内容豊かなものでした。 『カラマーゾフの兄弟』における「父殺し」というテーマは、近くは村上春樹の『海辺のカフカ』にも通底するものですが、ドストエフスキーの文学はさらに21世紀の現代にも通じるものがあります。『カラマーゾフの兄弟』(書かれた第一部)や『罪と罰』のストーリーが展開するのは1866年ころであるというのが亀山先生の持論ですが、1861年の農奴解放が行われた五年後のロシアは、それまでロシアを支えていた、独裁的ツァーリの安定した統治とロシア正教における神のもとでの共生という二つの原理が弱体化し崩壊する危機に瀕した時代です。「世界の崩壊」という出来事が運命的に予感されつつ、ポリフォニックに人間が避けてとおれない諸問題を扱うのがドストエフスキーであると亀山先生は考えておられますが、こう考えれば、ドストエフスキーは21世紀の私たちにも訴えるものを多く持っていることが理解できます。 ドストエフスキーの文学は、「物語層−自伝層−歴史層―象徴層」という多重構造において構築されており、重層性において多面的に解読されなければならないものだというのが亀山先生の仮設ですが、こうした視角から、(またぎ越すこととしての)罪、イエス信仰、オイディプス神話の意味などをドストエフスキーを通して考えることは、確かに、私たちにとっても有意義です。この無差別テロの時代に、ドストエフスキーが提起している殺人やテロと生命の価値との関わりの問題を考え直すことも必要です。また、魂の大地への回帰によって、私たちは生きる意味や生きる喜びを回復できるのでしょうか。亀山先生のお話を通して、こうしたさまざまな問題性を孕むものが、古典文学としてのドストエフスキーに含まれることに、私たちは改めて気づかされたように思います。 今回のシンポジウムで特に印象深かったのは、古典の翻訳をめぐる問題や意義を考察しなければならなかったという亀山先生の体験談をお聞かせいただいたことです。 先生のご本を拝読して、一言一句に至るまで細部にわたってドストエフスキーの小説を解読した上で訳語を決定しようとしたご努力が察しられるのですが、さらに、こうした努力の上に立ちながら、現代の読者の心に伝わるような表現をしようと努められたというお話もありました。ごつごつした言葉や「くたびれた言葉」を使わないようにし、現在の時点で人の心にすーっと入ることができるような翻訳をしようと努力されたというお話です。このことを「透明性」のある文体で表現することと受け止められ、「受動的、音楽的、映画的な体験として『カラマーゾフの兄弟』を経験させる」ということを目標として翻訳されたと総括されていました。また、こうした翻訳をするための翻訳者の資質はどのようなものでなければならないかという踏み込んだ議論もなされました。 こうした翻訳論を掘り下げるだけでも多くの時間が必要であると思われますが、今回のシンポジウムでは、さらにまた、ドストエフスキーをテーマとして文学の意味や可能性をまで問おうとする野心的な提言も伺うことができたわけです。「おろしゃ会」の企画であり、愛知県立大の学園祭という小さな場におけるシンポジウムにすぎないものでしたが、亀山郁夫先生は、こういう場もいささかも疎かにされず、誠実に問題提起をしてくださり、問題解決の手がかりをいくつも与えてくださいました。シンポジウムに参加でき、亀山先生の有意義なお話を聞けたことを心から感謝しなければならないと痛感しています。 (感謝の気持ちを込めて シンポジウム参加者KI記) 愛知県立大学国際文化研究科博士課程のマリーナさんによる「パンと塩」による亀山先生のお出迎え(撮影 鈴木夏子) 講演中の亀山先生(撮影 鈴木夏子) |
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講演『グローバル化時代のドストエフスキー』を聞いて 都築 由子(愛知県立大学文学部英文学科4年) |
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講演には翻訳の話が盛り込まれていたが、翻訳に関してどの程度原文に忠実であるべきか、翻訳者の解釈がどの程度翻訳作品に反映されるのかという問題は、私にとってとても興味のある話題であったため、実際に翻訳に取り組んだ方の話を聞くことができ、参考になったと思う。 亀山氏の『新訳カラマーゾフの兄弟』は「誤訳」が随分多いと言われていたこともあり、しばらく前から訳者がどういう意図で日本語訳をしたのか気にかかっていた。亀山氏が、日本人ならばこの程度まで文字で表現したほうが原文の意味が汲み取りやすくなるのではないか、との考えで、原文に沿っただけの訳を100%としたとき、彼は120%の訳をしたと説明を聞き、納得した。私は、120%の訳を誤訳と言うのは適切ではないと思う。多少訳者の主体性が入り込みすぎているとは言えるかも知れないが、それは一般に言う意味での「誤訳」ではないだろう。 私が、亀山氏の120%の訳に賛同できるのは次の二つの理由からである。 一つには、言葉自体の持つ意味範囲や言葉が育まれてきた文化背景が異なるなど、原文に沿って原文からだけの情報を訳したところで、作者の意図したところまでは伝わらないこともある。ドストエフスキーの作品であれば、ロシア人やロシアを理解する人ならば読めば自然に分かることであっても、ロシアに関して知識も乏しい人が読めば、重要な伏線が示唆的に書かれていても見逃してしまうのではないか。 二つ目には、ある言語を他の言語に移し変える作業自体が、ある一つの作品解釈を読者に提示することであると同時に、ある国や民族の文化を他国に紹介する一つの手段であると私は考える、原文の筋を大幅に変えることがないのならば、むしろ原文には言葉として書かれていない要素でも大胆に取り込んであってもいいと思う。翻訳者を通して、翻訳本を通して、他国の文化の一端を理解することにつながるのなら、それはそれでいいのではないかと思う。100%であろうと、120%であろうと、原文の意図が汲み取られていて、かつ日本人に理解しやすいように工夫した日本語となっているのは問題ないと思う。 だが、どの翻訳者も100%を越える訳をしてほしいと思っているわけではない。冒頭で、二葉亭四迷の訳の姿勢を紹介していており、コンマとピリオドの数と句読点の数を揃えるという、彼なりのこだわりで原文の流れを尊重し日本語で忠実な再現しようとしたようだ。少し変わった手法を使っていると思ったが、その原文の流れを保持しようとするその努力に感心した。こうした訳も、不適確な訳として排除されるべきではないと思う。 ただ、私が思うのは、英語を訳すならは英語とその文化を本当に理解している人が翻訳に取り組んでほしいということである。本当に理解していれば、何パーセントの訳であれ、大きな誤訳をすることは避けられるのではないだろうか。 私は2年ほど前に『カラマーゾフの兄弟』を飛ばし読みしたが、いろいろな宗教用語や時代背景などを理解していなかったため中途半端な読みとなってしまった。その頃は2度読みたいとは思わなかったが、講演会を聞き、また、NHKラジオで亀山氏の講演『カラマーゾフの兄弟』を聴いているため、俄かに興味がわいてきて、最近本を手にして卒論の合間に読んでいる。一巻ごとに最後に「読書ガイド」という解説が添えられている上に、以前私が読んだ訳より文がこなれた日本語に噛み砕かれていてとても読みやすいと感じている。私のロシア語力はまだまだだが、いつか一部でも原文を比較できたらと思っている。 一年ほど前に、ラジオの「ロシア語講座」でニコライ・ゴーゴリの『鼻』という作品を取り上げていたが、内容だけでなく、朗読の雰囲気とショスタコービッチのオペラ『鼻』と比較することもでき、とても面白かった。 翻訳で楽しむのもよいが、亀山氏の話を聴いて原文の音の響きや、語の配置なども面白そうだと感じた。特に次のエピソードはとても印象に残っている。 ドストエフスキーの文は、同じ語が近い間隔で繰り返し使われる訳者泣かせの文章で、よほど注意していないと別の文脈につなげて訳してしまう、との趣旨のことを言っておられたが、これは作者がわざわざ親切にも読者の注意力を喚起しているのか、または読者を引っかける意図かどうかとあれこれ考えてしまい、興味深かった。 講演後のサイン会、生協の用意した文庫本完売 加藤は亀山先生の落款を手伝う (撮影 長尾邦松) |
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亀山郁夫先生の講演によせて 高田 映介(京都大学大学院博士前期課程1年) |
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去る11月1日、愛知県立大学の講堂において加藤晋先生基金記念シンポジウム「グローバル化時代のドストエフスキー――『カラマーゾフの兄弟』と『罪と罰』の可能性――」が行われた。お話しくださったのは東京外国語大学学長にして、演題にもある『カラマーゾフの兄弟』新訳で広く知られる亀山郁夫先生。限られた時間の中で、内容のぎゅっと凝縮された非常に興味深い講演であった。 その後、加藤先生からこのシンポジウムのレポートを書くという大役をおおせつかった。講演の全内容を包括的かつ綿密にお伝えできれば、シンポジウムに参加できなかった方々へも素敵な贈り物となるではあろうけれど、私は日頃チェーホフの研究に従事する者でドストエフスキーについてはまったく愛好家の域を出ないのだから、ここはいっそ、一聴衆の素朴な立場で拙い筆をとりたいと思う。この点について悪しからずご了解頂き、その上で講演の雰囲気をちらとでも感じて頂ければ幸いである。 当日は同大学の文化祭一日目ということもあり、シンポジウムには学生のみならず一般の市民の方も多く参加された。はじめにロシア伝来の歓待の仕方である「パンと塩のもてなし」にのっとって亀山先生にパンを一口お召し上がり頂き、講演は和やかなムードの中でスタートした。これは終了後に加藤先生の言を借りれば、亀山先生のお話し振りはまさに『罪と罰』冒頭におけるマルメラードフの語りのよう。講演のつい先日にもモスクワへ飛ばれたことを皮切りに、どこまでも自由に連鎖し広がっていくお話には圧倒されんばかりであった。その中でも私が特に心惹かれたのは翻訳に関する話題である。亀山先生訳の『カラマーゾフの兄弟』が古典文学としては異例のベストセラー(100万部を突破!) となったのは周知の事実だが、出版から一年以上を過ぎて、実際にご本人の口から当時の状況や翻訳に対するお考えなどをお聞きするのは極めて貴重な体験であった。 亀山先生の訳を含め古典の新訳が続けて出版されたことをきっかけに、現在、翻訳及び翻訳技術にまつわる話題が各方面で熱く取り上げられている。異なる二つの言語間で一対一対応の関係が成立するというそもそも間違った、それでいて根強い考え方もようやく見直されてきたように感じる一方で、訳が「合っているか間違っているか」という旧式の視点も相変わらず足を踏ん張っている。このような議論はまだこれから一層盛んに闘わされるべきであろうが、こうした状況が訪れたこと自体はまずもって喜ばしい現象に違いない。 講演では翻訳の「透明性」について触れられた。この「透明性」は、卑近な言葉では「読みやすさ」と言い換えることができるかもしれない。「読みやすさ」は、外国語の文学作品に日本語で親しむ読者の大多数にとって、特に優先されるべき事柄であるかもしれない。実際、「ロシア文学はちょっと……」と言う人に何が足を引っ張るのかと尋ねると、「読みにくい」ことがしばしば理由に挙げられる。なるほど、ロシア独特の父姓を伴った人名の読みにくさであるとか、あるいはもっと単純に、翻訳が古くなって、日本語として読みにくいものになっているとかいったことが、せっかく手にとった本を読了せずに諦めさせる原因になっているのは間違いない。例えば『カラマーゾフの兄弟』で言うなら、「アレクセイ・フョードロヴィチ!」という原文通りの呼びかけをやめ、「アレクセイさん!」あるいは「カラマーゾフさん!」と呼ばせたら、ぐっと読みやすくなり、かえってロシア人の受ける親しみの感覚にも近づくことになる。これぞ亀山先生のおっしゃる「透明性」の好例であろう。先生ご自身、「少年時代に手に取った『罪と罰』の訳がもしひどく読みにくいものであったなら、最後まで読み終えることはできなかったかもしれない」という、われわれが嬉しく頷いてしまうような打ち明け話も聞かせてくださったが、確かに、内容を味わう以前の文章そのものに苦慮があってはそこに書かれた世界の奥深さも、神秘も、到底楽しむことなどできはしないだろう。異言語の障壁をすりぬけて苦労を感じずに読み進むことができるような訳文は、翻訳の求めるべき一つの目標なのである。 しかし重要なのは、「透明性」がその本来の任務を離れて、いわば「悪しき透明性」に陥ってはならないという点だろう。もし訳者が真摯に原文と付き合うことを忘れ、その訳文がある種の恣意的な操作の元で行き過ぎた主張を始めたとしたら危険である。日本語でしか読むことのない読者にとっては、文字通り訳文がすべてなのだから、彼らは知らず知らずのうちに訳者の主観的な解釈を押し付けられる羽目になってしまう。だからといって、「作品を本当に味わいたければ原語で読むしかない」などという乱暴な言い方は万が一にもなされるべきものではない。それは学徒の怠慢に他ならない物言いであろう。多くの人が作品に親しみ、それぞれの解釈を持ちうるためには、主観的な読みを排しあくまでも原文の則した「良き透明性」でなければならないのであって、翻訳は自らがその両肩に負っている重大な責任を決して放棄してはならないのである。 では、訳文に望みうる最高の状態とはどのようなものなのか。さらに一歩踏み込んで考えてみたいと思う。私は学部生の頃、四年に渡ってフランス現象学を学んだ。なかでもとりわけメルロ=ポンティに親しんだが、彼の著作にこういう表現がある。それは<かさばりというもの>(voluminosité)という言葉だ――論理上の空虚におびやかされることのない、われわれが現に生きている空間、「物がそこにある」という言い方がなされうる素朴で経験的な空間を表すために用いられた用語である。この語を援用して、私が思うに、もし一つの言語から別の言語へと翻訳された文章において、原文の<ヴォリューム>が、生気に溢れた拡がりそのものが再現され得た時、そこに翻訳の最高形態があると言えるのではないだろうか。先頃中京大学で催された日本ロシア文学会での、翻訳に関するワークショップの中でも同様のフレーズが聞かれていた。「翻訳家は原文の『感じ』や『雰囲気』を伝えることに最も腐心する」というのである。 もちろん、「雰囲気」なるものは、漠然として感覚的であるが故に、訳文においてもっとも反映させづらいものだろう。それでも上述のような「良き透明性」の上に、作者の創り出そうとした雰囲気を捉えようとするならば、そうしたこともまた可能なのではないか。そうであってこそ、訳者及び翻訳がその対象とする作品に、作者に、何より読者の一人ひとりに誠実な態度を貫くことにもなるであろう。 翻訳の話ばかりになってしまったが、シンポジウムでは他にも、日本で導入まで間もない裁判員制度が『カラマーゾフの兄弟』における大審問官と関連づけられるようなお話などもあった。これは、配布されたレジュメの全部までは時間の都合でお話し願えないまま、講演後の質疑応答に移った際に、参加者の質問から出た話である。ちょうど質疑応答がレジュメの続きを補うようでもあり、会場は活気あるシンポジウムの場となった。こうしたことからも、演題の通り『カラマーゾフの兄弟』と『罪と罰』の両作品には度量の広い未曾有の可能性が秘められていることを改めて感じさせられた。そういった意味でドストエフスキーの書いた小説世界自体がまさにグローバルであると言えるだろうし、彼の作品が今日も多くの人に愛読される由縁はそこにあるのだろう。 ちなみに、シンポジウムの後にはサイン会が行われた。講演直後でお疲れでいらしただろうにも関わらず、亀山先生が快く書いてくださった言葉は『カラマーゾフ万歳!Ура Карамазов !』。さてそこで、このレポートを一聴衆の立場でと銘打って書き始めたからには、最後にぜひとも、ご多忙の中貴重なお話しをお聞かせくださった亀山先生をはじめ、記念基金シンポジウムの実現のためにご尽力された加藤先生、おろしや会の皆さん、ならびに関わりになられたすべての方に、この場を借りて感謝の気持ちを述べさせて頂きたいと思う。Ура! |
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亀山先生の講演 感想 情報科学部1年 石井光太 |
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講演前に、「カラマーゾフの兄弟」を少ししか読めませんでしたが、これから読むにあたっての着眼点を知ることができました。 ロシア文学はほとんど知らず、どんなものかもわからなかったのですが、「父殺し」などとても深く考えさせられるものだと知りました。 また、時期によっては、この「父殺し」を読むと読者はドキっとすると聞き、もっと早くこの作品に出会ってればと思いました。 遅くはなりましたが、「カラマーゾフの兄弟」を読んでいきたいと思います。 「安江」における懇親会(撮影 鈴木夏子) |
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亀山先生のご講演に寄せて 愛知県立大学文学部国文学科3年 福冨麻子 |
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1.
ロシア語と出会い 私は、愛知県国際交流協会日本語教室のボランティアを始めてもうすぐ5年になります。この日本語教室の学習者で、1年ほど私が担当させていただいたロシア出身のアンナさんとのお付き合いを通じて、ロシアを身近に感じるようになりました。 アンナさんはロシアで生まれましたが、子どもの頃クル病にかかり、一家でウクライナへ移住したそうです。その後、今のご主人と知り合って日本にいらっしゃいました。 アンナさんの口癖は「本が読みたい」でした。ロシアでは文学教育が熱心だったとのことで、ロシア文学はもとより、日本文学の三島由紀夫や、村上春樹などを翻訳により読んでいたそうです。そんな折、愛知県立大学のおろしゃ会で映画「罪と罰」の上映会をすることを知り、まだ面識のなかった加藤先生にメールでお願いし、アンナさんを大学へお誘いしました。 映画鑑賞後は、県民公開している図書館へロシア語の本を探しに行きました。その頃、県大のOPACはキリル文字に対応しておらず、私はロシア語がわからず、アンナさんはローマ字、日本語がわからないといった具合でどのように探したらよいのか途方に暮れました。すると司書の方が特別に書庫へ案内してくださり、アンナさんは無事プーシキンを借りることが出来、とても喜んでいました。 その後しばらくして、県大のOPACは、ロシア語やポルトガル語に対応し、原書の検索ができるようになりました。今の日本社会は日本語か英語ができれば、教育、ビジネスなど事足ります。そして、英語は国際語とばかりに外国人を見ると英語で話しかける傾向があります。 アンナさんはそのことをとても嫌がって「私はロシア語と日本語しかわからない。」といつも言っていたことが、私をロシア語へと向かわせました。 2.
翻訳家の資質について 私の個人的な話が長くなりましたが、ここで本題である亀山先生のご講演で強く印象に残ったことを述べたいと思います。 それは、翻訳家の資質についてであり、先生は、次の2点についてお話してくださいました。 ◎
類化性能「共通点」を探す思考法=芸術的思考=前近代的世界観=境界を隠す闇=文脈の「飛躍」=「無意味」=詩性=(現代における)非常識 ◎
別化性能=「違い」を探す思考法=科学的思考=近代的世界観=境界を暴く光=文脈の「繋がり」=意味=物語性=(現代における)常識 文学は、社会を照らし、人々の思想を語っています。翻訳をするという営みはそれらを操作するということですから、人間の存在を超えた作業であるともいえます。 折口信夫は「共通」はアートであり、違いは「学問」であると言っているそうです。 日本語を研究対象としている私にとって、「共通」は「認知」であり「違い」は「言語」であると言えそうです。つまり、私たちは国境を越えて誰もがひとしく平和を願っているにもかかわらず、言語文化の差異による小さな摩擦が大きな違いを生み出しているのです。 3.
グローバル化時代のドストエフスキー 不勉強な私は、この講演の演題である「グローバル化時代のドストエフスキー」の意味するところの検討がつきませんでした。 先生は「カラマーゾフの兄弟」が父殺しの物語であって、「罪と罰」が天に裁かれる物語であり、我々は既に「愛と憎しみ」を解決し、立ちふさがっている運命を予感しているとおっしゃり、現代社会において、なぜ今ドストエフスキーなのか、問いかけるようにお話してくださいました。 旧約聖書のバベルの塔は神によって壊されました。グローバル化時代は再び、バベルの塔を築いているような気がします。 グローバル化時代の共通は「自然」、違いは「文明」ともいえるのではないでしょうか。翻訳家である亀山先生は、ドストエフスキーの作品を通して神の溜息をかすかにお聞きになったのかもしれません。 むすび 初めにご紹介したアンナさんは、日本のみかんは世界で一番おいしい食べ物だと思ったそうです。かつて中国大陸から、秦の始皇帝が徐福に命じ、不老不死の薬を求めるために我国へと派遣しました。その不老不死の薬とは、みかんであったのではないかと言われています。 私たちは、水と太陽に恵まれみかんのおいしいこの日本という国で、神にみかんを取り上げられないように、グローバル化がもたらすものが何かを予感せざるをえない時を迎えているといってよいでしょう。 先月、実家へ帰省した折に、お茶の水のニコライ堂へ立ち寄りました。ちょうどお祈りの時間でしたので私も蝋燭を捧げました。ニコライは日本への布教にあたり、「古事記」「日本書紀」を学んだそうです。天に驕らず、異なる言語文化を謙虚に学ぶことを神は奨励しているのではないでしょうか。 |
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亀山先生の講演会を聴いて 亀山 昂志(平成19年度英文科卒) |
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ご無沙汰しております。旧文学部英文科卒・亀山です。私が県大を卒業してもう2年が経つのですね。時の経つ早さには相変わらず驚かされます。先日、加藤史朗先生のお誘いで、県大祭の日に行われた東京外国語大学学長・亀山郁夫先生の講演会に参加させていただきました。同じ苗字であるということで親近感を憶えていたので、職場で宣伝をするほど講演日を楽しみにしていました。今回は講演会の感想や、自分の近況を報告したいと思います。 まず、最初に謝っておかなければならないのは、私が「カラマーゾフの兄弟」を読んでいないことです。それゆえ、亀山先生の御講義内容のほとんどが身近でないものとなってしまいました。大変申し訳ありません。ですが、翻訳作業の苦労話などを聞くことができ、外国語を学ぶ者として勉強になりました。 今回県大を訪れたことで、しっかりと挨拶をすることができなくて残念だったのですが、加藤史朗先生やスベトラーナ先生を再び見ることができたので良かったと思います。お元気そうで安心しました。しかし一方で、県大の変わり様には少し驚かされました。まず、B棟裏の駐車場スペースに建造中のあの建物は何でしょうか?おそらく合併する看護学科の建物だと推測したのですが、あまり多くない駐車場を潰してしまっているのは残念に思いました。このようにして、かつての我が学び舎も、自分の記憶しているものから、少しずつ変化してゆくのだなと感じました。現在私の勤め先には、県大卒の方が4名いますが、その内3人は さて、話は変わりますが、最近私が見た映画で『イースタン・プロミシズ』というものがあります。内容は、ロシアンマフィアが登場するR15指定のとても怖いものなので、あまりお薦めできないのですが、映画の中でロシア語が度々使われていたので、ロシア語を懐かしく感じました。「ズドラーストビーチェ」「ダスビダーニャ」「スパシーバ」「パカ」「ダバイ」などです。舞台はイギリスなのでたまにしか使われませんし、マフィアを演じる俳優達もネイティブではないのですが、その言葉の響きで、ロシア語の授業を受けていた自分の学生時代を思い出しました。勉強は途中で諦めてしまったのですが、ロシア語はとても素敵な言語だと思います。今でも、第2外国語にフランス語やドイツ語やスペイン語や中国語でなく、ロシア語を選んで良かったと思います。今では、ほとんどロシア語に触れる機会はありませんが、たまにこうして聞くときに味わいが出ていいなあと思います。ただ、今回の映画を見たことで、ロシアという国に対する恐怖心が増してしまいました(笑)。 最後に私の近況を報告させていただきます。私は現在、高等学校で英語の講師を務めておりますが、この度愛知県の教員採用試験に合格いたしまして、来年度より県内のどこかの高校に正規職員として配属されることになっています。おろしゃ会そして学科の先輩でもある加藤彩美さんに続き、私も教師として頑張っていきたいと思います。今年で教壇に立って2年目になるのですが、未だに自分の力不足を痛感する毎日です。生徒が言うことを聞いてくれない、反抗される、授業がうまくできない、平均点が下がる、など落ち込むことばかりです。ですが、持ち前のプラス思考と立ち直りの早さ、開き直りで、今のところ何とかやってきています。それに、こういった経験が必ず将来役に立つと思っているので、日々勉強と思って、積極的に失敗を繰り返しています。昨年度は特にひどく、仕事のストレスで病に冒され、気胸・虫垂炎・インフルエンザの三重苦を味わうことになりました。(今年は大変快調です。) 教員生活を1年と半分過ぎて、一つ悟りを開いたことがあります。それは、専門の勉強に終わりは無いということです。私は、ここ最近まで「教材研究」の意味を履き違えていました。授業で扱う単語の意味や文法事項さえわかっていれば問題無いと思っていました。特に気づかされたのは、人に教える立場の者は、生徒に教える以上のことを多く知っておかなければならないということです。生徒に信頼をされるためには、「この先生に聞けば何でも答えてくれそう」と思わせるくらいのオーラを出す必要があると思います。そのためには、際限なく勉強をし続けなければならないのです。そうでなければ、話を真面目に聞いてもらえませんし信用されません。自分の高校時代も、オーラのある先生の話はしっかり聞いて信用していたのですが、初めて自分が逆の立場になった当時は、「(英語に関して)このくらい知っていればいいや、十分教えられる」などという甘い考えを持っていました。その結果、これまで生徒に個別に質問をされたことがほとんどありません。先生によっては生徒が頻繁に訪れる職員室に、私に質問に来る者は1人もいません。この状況は良くないと思い、近頃は色々な参考書を読みあさり、難しい質問にもすぐに答えられるように勉強をしています。勤務校の先生の中でも、私が特に尊敬するのは歴史(社会科)の先生です。あの先生方の知識量は半端ではないです。といっても、色々私が質問しているわけではないのですが、一言二言話を聞いただけでそう思わせる迫力を持っています。かつては世界史で教鞭を取られていた加藤史朗先生に対しても、私は同じ感じを抱いたことがあります。先生は私が知りえない引き出せない知識を膨大に蓄えられているのだろうと、よく感じさせられました。その持っている知識を全て聞くわけではないのですが、豊富な知識を持つ先生の話は、生徒の心に残るのだと思います。私もそういった教師になりたいと思っています。 最後になりましたが、おろしゃ会のこれからのますますのご活躍とご発展を祈っております。それではみなさんMerry Christmas and a Happy New Year!よいお年を。 2008年 12月25日 |
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ドストエフスキー、生きる力 愛知県立大学名誉教授 林 迪義 |
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昨年の秋、愛知県立大学で開かれたシンポジウムの感想を少し述べさせてもらいます。シンポジウムは「グローバル化時代のドストエフスキー」というタイトルで、私には少し違和感がありました。というのは、『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』は19世紀という時代の産物のように思っていたからです。亀山先生のお話を聞いて、二つの作品が現代的な広がりをもちうることに気が付きました。現代の我々にも生きた教訓が多々含まれています。親の遺産の相続、金銭欲や情欲にからむ争い、生と死に対する考え方、生き甲斐の問題、親子兄弟の関係に対する倫理観などは、世の中がどう変わろうと、つねに遭遇する問題です。二つの作品はグローバルな(世界的な)課題に充ちていると言えましょう。 亀山先生の「提言」は「なぜ、いま、ドストエフスキーが―古典の可能性1」から始まって9項目に及ぶ多様な内容でした。私にはそのすべてを理解するキャパシテイがありませんでした。ですから、私の感想はそのなかの一部に触れるだけです。それは金銭と人間の堕落に関すること、そしてドストエフスキーにおける生きる力です。 金がいかに人間を狂わせるか、この命題は内なる欲望に対する人間の弱さを意味するだけではありません。金銭に関わる制度と犯罪に対する世間の通念も関係してきます。この側面で、亀山先生は、フランスのロベール・ブレッソンのL'argent(金銭)という映画を挙げていました。若い職人が知らずに手にした偽札のために罪を着せられて、転落する物語です。監獄にいるあいだ子どもが病死し、妻も去ってしまいます。若ものは絶望し、世を恨み、人を殺すという結末に至ります。金は約束手形であると同時に、富の代価です。これだけの金があれば、これだけのものが買える、こういうことができる。額が高くなればなるほど、欲望を実現できる可能性は広がります。そして、人は多額の金が短時日に稼げることに気を引かれます。その代表的な手段は賭博です。賭博においては一攫千金の夢に舞い上がり、どん底に投げ落とされもします。ドストエフスキーは40代のときに、ルーレットにはまったそうです。目の前で事が展開するルーレットと並んで、大きな市場で回転するマネーゲームがあります。一昨年末にアメリカの金融市場で始まった騒動は金融機関のゲーム(投機)がもたらした結果です。一般の人々のなかにも金銭を投じて一定の利益を得た後に、一挙に1千万円以上の損失を出した人がいます。外国では自分が投機をしたつもりがないのに銀行が預けた金を運用して、その結果、多額の損害を受けた人もいます。『カラマーゾフ…』では、フョードロフの遺産とドミートリにまつわる3千ルーブリという金が物語の主な要素となっています。しかし、金銭はたとえ額が僅かであっても、物を入手する手段として大切な役割をもちます。数百円の金でも食物を得るための貴重な代価となります。ポケットに百円玉が残っていれば、何とか飢えをしのぐことができますから。 豊かであることは楽ですが、そのことが主体の堕落につながることもしばしばあります。19世紀ロシアの特権階級を主人公としている『カラマーゾフ…』は、その事例を如実に示しています。亀山先生によると、当時のロシアでは農奴制の廃止によっての独裁制のタガが緩み、それに伴って「自由という液体が禍をもたらし始めた」と言います。アルコール、売春(本能の解放)、犯罪の増加と、混沌たる社会が現出します。それはロシアが崩壊する不安をドストエフスキーに吹き込みました。ところが、いまの日本で起こっていることは、大半が暗い未来を予感させるものです。第一に、雇用不安。これは若ものの未来を閉ざします。結婚して家庭を築く望みも持てない、その日暮らしの生活。そんな状況にある若ものがどれほどいるでしょうか。第二に産業構造の変化が否定的な結果をもたらしました。長年培ってきた技術が廃れて、国内の生産が消滅した分野があります。アパレル産業がその一つです。製縫技術が顧みられなくなったからです。品質よりも価格を優先した結果です。経営者だけでなく、消費者も良いものよりも安いものを求めたのです。第三に不正行為と犯罪の増加です。信義を顧みず自己の利益に走る風潮がかつてなく広がっています。役人の裏金作り、製品、食品の偽装、公職に就くための情実、建設業関係での賄賂などが連日報じられています。 佐藤優氏は「ドストエフスキーは世界大混乱を予兆する強烈なニヒリズムの文学であり、(…)そこに肯定的価値を付与している日本の読書界は、受け止め方が転倒している」と言っています(朝日新聞2008.06.15)。さて、どうでしょうか? ドストエフスキーの生涯は、死刑を免れた後に流刑地で生き延びる体験を経ています。「動物的に生きていることであっても、かけがえがない」、亀山先生はこの言葉を伝えながら、朝日の一条、紅茶の一杯が貴い。年金120万で毎朝納豆と夕の吟醸酒一杯で十分生きていけるという話しをされました。この身近な生活の実例は真に迫まるものがあります。実際、職を失って乏しい生活資金で生きていくことを想像しますと、朝の日の光に喜びを感じることは第一義的に重要です。世を怨んで、暗い気分に沈んでいたら、気力を保つことができるでしょうか。世の不正と闘おうとするなら、生きる力を強めなければならないでしょう。『カラマーゾフの兄弟』と『罪と罰』は、私には、ニヒリズムとはほど遠く、むしろ、よりよい生を希求する精神に貫かれていると思います。苦難が重ければ重いほど、それを耐え忍ぶ気力と、深い闇の彼方に光を望む意志が感じられます。亀山先生の提言は、内容の解釈よりも作品の直感的な響きを私に伝えてくれました。 2009年3月24日 |
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2008年11月6日木曜日、稚内市サハリン課の内田和男氏が県立大学を訪問された。ロシア語応用などの学生のほか、図書館の米井さん、日本とロシアの友好と親善を進める愛知の会事務局長の横山さんも同席された。稚内市とロシアの関わりだけではなく、内田氏とロシアの関わりについても興味深いお話しを聞くことが出来た。ご寄稿をお願いしたところ、ご多忙中にもかかわらず、早速、以下の原稿をいただいた。 |
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私とロシアとの関わり 稚内市建設産業部サハリン課 主事 内田和男 |
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はじめに この度、愛知県立大学を訪問し、加藤先生他、ロシア関係の皆さん、学生の皆さんにお会いできて、大変うれしかったです。 愛知という地域性の中に、ロシアと関係を続けていらっしゃる皆さんにお会いできたので、元気を分けてもらったような感じでした。 北海道はロシアに近いのですが「ロシアとの交流が活発か?」というと、必ずしもそうではありません。北海道は広いので、ロシアと地理的に関係が薄いところは、どうしても活動が停滞してしまいます。 私とロシアとの出会い 私がロシアに出会ったのは、高校3年生まで遡ります。今は、北海道稚内市に住んでいますが、出身は広島県福山市です。そんな環境の中、高校で地理を勉強している時に、ロシアが資源大国であるにも関わらず、その資源をうまく活用できていないことを知ったのでした。資源が豊富な国なので、本来は富裕な国であり、国民も裕福だと思っていたのですが、当時のメディアには「物を買うのも一苦労」という人が多くいると報道されていました。新聞やニュースで「子供のために靴を買おうとしても、お金が無いから買えない・・・」という姿をみて、ずっと頭に残っていました。 国民の裕福さというのは、物質的な尺度だけでは分かりませんが、その姿が「かわいそう」と単純に思ったのです。「かわいそう」と思う環境など、ロシア以外にもいくらでもあると思います。それがロシアという国に出会ったことで、私の気持ちが反応したようです。この単純な気持ちの中から、日本の技術力とロシアの資源を結びつけることが出来れば、貧しい人たちが少なくなるのではないか、とこれまた単純に思いました。根拠など何も無く、ただそう思っただけでした。「じゃあ、どうすれば良いのだろうか」と考えたときに、まずは「言葉が話せないとだめだよな」ということになったのです。これでどこの大学に行くのか、という方向性が出てきました。 ロシア語を教える大学 気がつくと、北海道の大学に来ていましたが、北海道を選んだのは「ロシアに近いから」でした。広島にいると北海道の大学のことは分かりませんでしたが、「目的地に近いところに行った方が良いよ」と助言をもらったので、ロシア語を学ぶことのできる北海道の大学を選びました。やる気があって大学に入っているので、最初のうちはロシア語の勉強もそれなりに身についていましたが、何かの理由で1回授業に出なかっただけで、がくっとロシア語が分からなくなりました。第二外国語としてのロシア語でしたので授業数も少なく、分からなくなるとやる気も一緒に無くなっていきました。 また、私が学んだ旭川大学は北海道の真ん中あたりにあるため、ロシアとの繋がりもそれほど無く、ロシア人も探してもなかなか見つからない環境でした。そんな大学1年生の夏に「サハリンに語学研修に行く」という話がありました。派遣対象は2年生でしたが、1年生の私も何とか参加させてほしいとお願いしました。結果として、これが今の私を形作る原点になっています。 ※ここで「サハリン」という言葉が出ましたが、当時は全然知りませんでした。どこにあるのかも大して気にしていませんでした。サハリンは北海道稚内市の更に北に位置します。 ユジノサハリンスク市 初めてのロシア どこの国に行っても同じ様に感じると思いますが、語学を勉強する人間が実感することは、自分の語学力の低さだと思います。 サハリンに行ったお陰で、自分のロシア語の力不足を痛感し(当たり前ですが)、「もっと勉強をしなければ」と感じていました。(そんなに長続きはしませんでしたが) これ以後、個人的にサハリンやモスクワなどにも行くようになり、ロシア語を継続して勉強していく「想い」を維持していました。 第二外国語で勉強しているだけですので、授業以外は自分で勉強場所を探す必要があります。だからこそロシアに何度も行くということになっていました。 ロシアに行く方法としては、大学の先生の知っている方を紹介してもらうようにしていました。いろんな人に頼ったことで、何度も行くことが出来たのだと思います。 大学を卒業するころには、相当ロシア語力があがっていてもおかしくありませんが「総合的に使えるロシア語力」をあげるということは、難しいことでした。 ロシア語で会話をしているときに、ちょっと細かい話になると、言葉が続かないのです。 そこで「総合力」をあげるために、ロシアへ留学を決めました。 ロシアの大学 これもロシアに住んでいる日本人の知り合いを探して、留学する場所を決めました。 ロシア関係をやっている人は狭い世界なので、つながりを探すと結構見つかります。そして、知り合いが住んでいたロシア連邦チタ州チタ市のザバイカルフスク国立総合大学というところを知り、そこに語学留学をするとともに、工業大学で日本語講師をすることになりました。日本語講師は依頼されて、教壇に立つようになりました。 チタに日本人はいないし、日本へのアクセスも不便なところです。日本製品もそれほどなく、中国が近いため中国製品ばかりです。それでも、日本語の需要があるようです。なぜなら、ある程度の給与を得ている人間は、日本製品を持っているのですが、その使い方がいまいちよく分からない。説明書は持っているのですが読めない、周りに知っている人もいない、ないないづくしです。 そこに日本人が来たものですから、しかも一応大学を卒業している程度の学力(ロシア語力ではありません)はあるということで、講師の依頼となったのでした。日本語を教える技術を身につけたいのであれば、こういった日本人の居ないようなところに行くことでチャンスを得ることができると思います。 海外に長期間住むということは・・・ 1年半ほどチタに住んでいましたが、私自身はロシアで生きていこうと思ったことなく、日本社会の中で生きていくことを考えていました。チタに滞在中、ロシアに住む何人かの日本人にお会いしたことがありました。そのとき感じたのは「長い間ロシアで生活していると、日本社会にとけこむことが大変かもしれない」と思ったのです。具体的に説明することが難しいのですが、日本では「暗黙の了解」や「あ・うんの呼吸」という言葉があるように、見えない決まり事というのがあると思います。 ロシアで長期間住んでいて身につく性格が「図太くて、ずうずうしい」感じです。これはどこに居ても同じことなのかもしれませんが、ロシアで生活している中では特に必要な性格のような気がします。このような感覚が身についてしまう前に、日本に帰ることを決断しました。 ロシア語の勉強 私は、人との付き合いが苦手で、ロシアで学生をしていたときも、サハリンで社会人をしていたときも、あまり人の輪は広がりませんでした。本当は、人の中にどんどん入って行く人の方が、いろんな面で良いのですが、私は今でも苦手です。 チタ市というのはトロリーバス(当時)も走っているくらいの街で、なかなかの規模でした。大抵の物はお金があれば買えましたし、物も豊富にあったと思います。(1999年前後) 海外の大学で語学留学をする場合は、予備科のようなところでロシア語を学ぶのでしょうが、外国人が少ない地域ですのでそういった科も無く、言語学の先生に直接ロシア語を教えてもらいました。最初のうちは、外国人用のロシア語教科書を使っていました。 しかし、ロシアの言葉を学ぶには、ロシア人が学校で勉強してきたことを学ぶのが手っ取り早いだろうと思い、ロシア人の国語の教科書に変更しました。単純に小学1年生から順番に始めたのですが、こつこつやっていたら10年も11年もかかりますので、1か月に1学年分を勉強することにしました。 授業の方法はいたってシンプルで、教科書に書いてある内容を私が説明する、という感じです。4,5年生くらいまではやったと思うのですが、やったことと言えばとにかく単語を覚えていくことが中心でした。 先生は日本語がさっぱりわかりませんし教科書はロシア語なので、授業の方法は私が教科書の内容を説明し、内容が間違っていれば先生が指摘するというような感じでした。たった1教科だけなのに、寝る時間を削らなければ間に合わず、先生とマンツーマンでいるにも関わらず、よく居眠りをしていました。 留学後 1年半の滞在の後、チタから日本に帰ってきましたが、大学とは既に縁も切れており、広島に帰るしかないかな、と考えていました。 ※(最初の頃に思った「想い」などはこの時期にはすっかり忘れています。) ただその前に、大学の先生に相談をして、それから進路を決めようと思っていました。大学の先生と相談をしたときに言われたのは「ロシア語をこれからの仕事にするかどうかは別にして、まずは関連した仕事に就いた方が良い」とのことでした。一度、こういう分野の縁が切れてしまうと、なかなか復帰するのは難しいそうです。相談した結果、大学の先生から紹介を受けて、稚内に行くことになりました。その時は市役所に勤めると思っていませんでしたが、人の縁に助けられ今の仕事に出会いました。とんとん拍子に話が繋がっていましたが、私が誰にも頼らず稚内に行ったとしても、途方に暮れただけだと思います。どんな形でも良いので人の繋がりの中で進んでいくことで、出会えたのだと思います。 社会人になってロシア語 稚内に移り住んで、早速、ロシア語を使う仕事をするようになりました。ロシア語に関しても、チタから戻ってきたばかりですので自信がありました。しかしながら、実際に仕事でロシア語を使ってみて分かったことは、「仕事で使う単語と普段の単語は決定的に違うんだな」ということでした。(今では結局同じかなと思っています)仕事で使う単語とは、たとえば「青年会議所」「商工会議所」「市長」「課長」等々。組織名や役職を書きましたが、こういう単語を使ったことはありませんでしたし、調べたこともありませんでした。大体、大学時代にも縁がない言葉でした。学生時代の勉強はとても大切ですが、仕事で使うようになると、また一から始めることになるんだな、と勉強した時でした。 余談 私の職場は市役所ですが、ここで働いていて気がついたことがあります。市役所ではロシア語を使うということも含めて仕事をしていますが、市役所で働かず他の仕事をしていたとしても「稚内で生活していればロシア語を使う機会に恵まれる」ということです。 稚内には、ロシアからの貨物船も多く入港し、稚内とサハリンを結ぶ定期フェリーも運航しているので、ロシア人を街中で見かけることが多いです。ロシア人を街中で見かけるということは、ロシア人が様々なサービス(販売店やタクシー等)を使うということになり、ロシア語が出来るということは、そういった仕事に関係するチャンスに恵まれることを意味しています。 ロシア語ということだけを取れば、ロシア人が多くいるところで生活することで、仕事のチャンスを増やすことになります。 海外勤務 稚内市役所はサハリン州ユジノサハリンスク市(日本名 豊原)に事務所を設置しています。また、ロシア連邦に事務所を設置している市町村は、稚内市だけです。ここには市の職員が配置されていますが、私もその機会に恵まれ2年間駐在しました。 ロシア語を勉強していると、「通訳」という職業が最初に出てくると思います。私が市役所で働く中でも、確かに「通訳」という立場で仕事をすることが多いです。これがサハリン事務所で働くようになって、少し変わってきました。現地で勤務をするということは「ロシア語が出来る出来ない」よりも「仕事をするかしない」かが重要になるようです。ですから、言葉が出来る人が対ロシアに関する仕事を仕切るようになってきます。このようにすることで、通訳の仕事をするよりも自分で考えた事を話したり、相手から関連の内容について話をしてもらう方が理解も早くミスも少なくなります。 通訳を介して仕事をするというのは、手間がかかる上に、どうしても若干の誤訳が発生し、誤解が生じやすくなりますし、当事者でないために、物事が進みにくくいらいらする場面も出てきます。(これは私の性格かもしれません)だからこそ言葉がわかる人間が動き回って仕事をするようになります。 現地での仕事 ロシアで仕事をすることは面白いです。というのも、外国人という「立場」があり、また日本人という「ブランド(信頼度)」もあるために、相手側(相手企業)の重要人物(社長等)に会うことが容易です。 ロシアに限りませんが、権限を持っている人と話をすることで仕事を進めやすくするというのは当たり前の話であり、権限を持った人に会ってもらうことが最初の仕事になります。今の場合、この点をすでにクリアしているのですから、仕事がおもしろくなるのは当たり前です。 仕事ということで言いますと、今のサハリンで積極的に活動をすると、様々な仕事を見つけることが出来ます。サハリンプロジェクト(石油・ガス)に関連してサハリンが好景気を迎えていることは、海外と取引を行っている企業(日本を含め全世界的)は敏感に察知しています。 サハリン州の人口規模は50万人程度ですので、大企業が参入するのはなかなか難しいため、中小企業がビジネスに参入するチャンスがあり、実際にこういった企業がサハリンで人脈を作ろうとやっきになっています。しかし、この人脈を作るという作業が難しいため、目に見えた成果に繋がっていきません。そのような条件の中、現地で生活していますと、少しずつ知り合いも増え、様々な商売のチャンスが見えてきます。サハリンに住むロシア人の嗜好や日本製品で買いたいと思っているもの、或いはどういったサービスを望んでいるのか、ということがわかってくると日本の企業との橋渡しができるようになります。個人的にこういうことを続けていると、貿易会社を立ち上げるなどといったことに繋がっていくのでしょう。今、日本国内で活動をしている対ロシア貿易の企業は多かれ少なかれ、地道な活動の上で商売を継続しています。 サハリンの姿 サハリンは、学生時代からも何度か訪問していますが、当時の印象は日本の20年以上前の姿、というものでした。建物が古く、修理がされておらず、道路も汚い、そういうことからこんなイメージを持ったのかもしれません。サハリンは樺太(からふと:日本領時代)と呼ばれた時代があり、日本人が多く住み、一つの新興地のような時期がありました。稚内はサハリン島が見えるほどの近さ(最短距離43km)にあり、樺太と北海道の交通の要所として機能していました。現在では、稚内とサハリンに定期フェリーが運航していますが、当時も稚内から定期船が往来し、人や物が行き来し栄えた場所です。 最近、テレビで放映された「霧の火」にもありますが、戦争でソ連軍が侵攻してきたため、多くの方々が犠牲になった場所(樺太)でもあります。このように歴史的に日本と関係が濃い場所ですが、今はサハリンプロジェクトという名称で石油・ガスの開発がどんどん進められています。これに付随するような形で、各国から労働者が集まり、人口も一時的に多くなっています。サハリン州の人口は50万人を超える程度ですが、このほかに外国人労働者や地方からの労働者がサハリンプロジェクトの関係で流入しています。人が多くなれば、経済活動も活発になり、プロジェクトが進められることで、その土地にお金も落ちるため、経済活動が活発になっています。前述していますが、建物が古いためにサハリンの印象も暗かったのですが、建物の改修が進められ街全体が整備されていますので、印象も随分と変わってきました。 旧拓殖銀行 最後に 「高校時代に想ったことが出来ているのかな?」と思えば、なんとなくやっているようです。私はロシア語の勉強を始めて今年で14年目になりますが、いつも「ロシア語を勉強しないと成長しないな〜」と思っています。ところが、あんまり勉強をしていません。ただ、止めないでとりあえず続けているので、ロシアとの縁が切れること無く、今も続いています。そうやって「想いをかなえて」いるのかもしれません。 今回、皆さんにお会いできたことも一つの御縁でした。これを機に稚内のこと、サハリンのことをお話させていただくことも今後あろうかと思います。そのときはどうぞよろしくお願い致します。 この度はありがとうございました。 |
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稚内とサハリン(樺太) 山本早苗(愛知県立大学大学院) |
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2008年11月6日、加藤史朗教授のロシア語の授業後、教授の研究室にて北海道稚内市役所のサハリン課の内田氏に稚内の現況をお聞きする好機を得た。 稚内という地名はアイヌ語の「ヤムワッカナイ」―冷たい水のある沢―から転化したという。小学生の頃、地図をみては稚内とか留萌とか難しい読みの地名を覚え得意になっていたが、その後の認識は、宗谷海峡を挟んでサハリン(旧樺太)に対峙する北海道最北の港とか、利尻・礼文島へ観光拠点、流氷に対するロマン、南極観測で犠牲となった樺太犬のふるさとという程度の域を出なかった。 しかし内田氏の談話で次の二点に興味を持った。第一は現在の稚内は対サハリン貿易の前線基地であるという点である。その輸出品目は自動車(中古車および新中古車)、建設資材、食料品など、輸入品目はやはりカニを中心とする水産物である。この品目だと稚内は出超であると推定される。 インターネットで発表されている平成19年北海道の対ロシア貿易の概況(財務省貿易統計を基にした北海道経済部商工局商業経済交流課集計)の道内税関支署別の貿易額をみると、稚内の輸出は小樽に続いて2位の34億5877万円、輸入は71億8729万円で7位である。ちなみに1位は苫小牧で、その品目は鉱物性燃料となっている。 このように稚内の輸入額は輸出額の2倍ほどであり、さきの推定とは逆転して実際は入超である。しかしこれは北海道名古屋事務所および稚内港湾事務所の資料等により、現在はまだ車、建設資材はサハリンプロジェクトが対象であり、さらにリースであるため、輸出量が契約年ごとに変化していることによるものとわかった。 この「サハリンプロジェクト」とは、1990年代に立ち上がったサハリン島沖合いの石油や天然ガスの天然資源を採掘開発するプロジェクトのことであり、オランダのロイヤルダッチシェルなど世界の石油メジャーをはじめ、日本からも伊藤忠、三井物産、三菱商事、日通といった企業が参加している。鉱区は9以上の区域に分けられている。天然ガスの液化工場基地をサハリンに造成し、直接関東圏に船舶輸送し、そこから移出入している。豊富な天然資源とその開発に対する日本をはじめ外国資本の投資は、今後ますます増大することは必至で、稚内がより発展する要因となろう。 第二はサハリンの朝鮮系ロシア人の存在である。朝鮮半島の飢饉による食糧不足から逃れた人々、あるいは日本植民地時代の移住者や、ロシアによって炭鉱労働者としてサハリンに送り込まれた人々の子孫である。一部にはロシア人との結婚で混血も進んだであろうが、現在はチャイナタウンならぬコリアンタウンを形成している。 そもそもサハリンという地名は満州語の「黒い川の入り口の峰」から由来し、無人島であった。森林が多く石炭の埋蔵量も多いなど豊富な資源のため、日本とロシア間には領土問題がおきた。日本はアイヌ移住を根拠に領土を主張し、ロシアはこれに対抗して1869年サハリン島を流刑地と宣言し囚人を開拓移民として送り込んだ。(崔吉城 著「樺太朝鮮人の悲劇」―2007年第一書房発行より) さらにサハリン(樺太)ときくと我々が連想するのは、サハリンが島であることや間宮海峡を発見した間宮林蔵である。この間宮林蔵の探検ルートを追跡したのが、高橋大輔の「間宮林蔵・探検家一代」(2008年11月、中公新書ラクレ)である。サハリンアイヌや間宮林蔵にアイヌの妻子がいたことを明らかにし、大陸に渡ってアムール川中流のデレンを探している。デレンは満州仮府といって、清朝の中国人が周辺民族から黒テンなどの毛皮を朝貢として受け取り代わりに反物を授けた拠点で交易場でもあった地である。 稚内は現在その地の利を生かしてサハリン(樺太)への観光客誘致運動を展開している。利尻島、礼文島もある。サハリン貿易からロシア人との交流が盛んであるので、街では異国情緒を味わえるに違いない。一度はサハリンの地を踏み、ロシア語会話の肝試し(!)に挑戦してみたいものである。 最後に内田氏をはじめ、快く資料を出していただいた北海道名古屋事務所および稚内港湾事務所の方々に厚く御礼申し上げます。 |
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11月29日に早稲田大学で行われたロシア思想史研究会に久しぶりで出席し、畏友の坂本 博さんに会った。懇親会の折りに、何か寄稿してくださいとお願いしたところ、クリスマス・イヴに次のような興味深い原稿を送って下さった。まさにクリスマス・プレゼントである。坂本さんは、ロシア・マルクス主義の父:プレハーノフの専門家であるが、山男でもあったことを思い出した。刺激的な「奮闘記」である。(加藤史朗) |
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「山のロザリア」ロシア語訳奮闘記 坂本 博 |
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5年前から東京立川で「ロシア民謡で学ぶロシア語」講座を開設している。1回に1曲ずつ取り上げ、もう100曲近くのロシア民謡およびロシアの歌を歌った。そこでは受講生に歌いたい曲のリクエストがあれば必ず取り上げているのだが、「山のロザリア」だけは別であった。実は、歌おうにも「山のロザリア」にはロシア語の歌詞がないのである。「山のロザリア」はロシアの古い舞踊曲(ワルツ)で、日本語の歌詞は作詞家の丘灯至夫がそのメロディーに合わせて書いたものである。丘作詞の歌は最初、1956年に「牧場のロザリア」という題名でコロンビアレコードから出された。歌ったのは織井茂子である。しかし、この時にはさっぱり売れなかったようだ。5年後、1961年に「山のロザリア」と改称し、スリー・グレイセスがこの歌を出すと、一躍ミリオンセラーとなった。歌声運動がこの爆発的流行を支えていたとされている。こうして、「山のロザリア」という、ロシア民謡としてよく知られているにもかかわらず、ロシア語では歌えない歌が誕生したのである。 そこでこの「山のロザリア」をロシア語で歌えるようにしようと、歌詞のロシア語訳を思い立った。ただ歌詞のロシア語訳には、普通の文章の場合とは違って、いくつかの制約がある。一つはロシア語に特有なリズムをメロディーに乗せること、もう一つは韻を踏むことである。これらの制約によって原詩の内容が少し異なるものになることがあるが、これは避けがたい。だが、その相違は出来るだけ少なくすることが訳者に求められる。以下はこれらの制約との奮闘記である。 まず、丘作詞の歌詞を掲げておこう。 山のロザリア 作詞 丘灯至夫 1.山の娘ロザリア いつも一人歌うよ 青い牧場日暮れて 星の出るころ 帰れ帰れもう一度 忘れられぬあの日よ 涙流し別れた 君の姿よ 2.黒い瞳ロザリア 今日も一人歌うよ 風に揺れる花のよう 笛を鳴らして 帰れ帰れもう一度 やさしかったあの人 胸に抱くは遺身の 銀のロケット 3.一人娘ロザリア 山の歌を歌うよ 歌は甘く哀しく 星もまたたく 帰れ帰れもう一度 命かけたあの夢 移り変る世の中 花も散りゆく 4.山の娘ロザリア いつも一人歌うよ 青い牧場子山羊も 夢を見るころ 帰れ帰れもう一度 忘れられぬあの日よ 涙流し別れた 君の姿よ 一読して分かるのは、歌の主人公ロザリアはロマンチックな色彩で描かれていて、具体的なイメージはほとんどなく、唯一黒い瞳であることぐらいである。同じ作詞者のヒット曲「高原列車は行く」の中で花束を投げる「牧場の乙女」のイメージとの類似があるかもしれない。それからロザリアと彼女の恋人とのドラマも具体的には何も分からない。確かなのは、悲しい別れがあったことと恋人が死んだこと(遺身のロケット)である。だが、なぜ二人が別れたのか、どうして恋人が死んだのかについては書かれていない。二人が共有したと思われる「命かけたあの夢」があったことは暗示されているが、それがどのような夢であったかは分からない。このような事情から二人のドラマを再現して物語ることは諦めざるをえなかった。それから1番の後半と4番の後半が同一になっているように、内容的に繰り返しが多い。このようなことも考慮して、ロシア語の訳詞は1番と2番に限ることにした。 「山のロザリア」のメロディーは3拍子のワルツだが、歌い出しは弱起になっている。従って「山の娘」は «Девица горная» のように倒置した。本来ならば「山の牧場の娘」とでもしなければ分かりにくいところであろうが、言葉も入らないし、原詩でも「山の娘」なので、直訳のままにした。「ロザリア」は「ラザーリヤ」のように2番目の母音にアクセントがあるので、「ザー」が1拍目でなければいけないのだが、日本語でも「ロザーリア」のように2拍目を付点4分音符にして少し延ばしているので、そのままにした。 「いつも一人歌うよ」のうち「一人」つまり «одиноко» や «одной» はリズムの関係で入れることができず、「いつも悲しい歌を歌うよ」つまり «Все время грустную песню поет» とした。 「青い牧場日暮れて」は «Розалия» と韻を踏まなければならないので、そのまま訳すことはできない。最後に «края» をもってきて、 «Вечер приходит в глухие края» つまり「夕べが人里離れた地方にやって来る」とした。「青い牧場」は入れることができなかった。 「星の出るころ」は «поёт» と韻をふまなければならない。 «В небе уж звездный
полёт» つまり「空にはもう星が飛ぶ」と少し変えざるをえなかった。 「帰れ帰れもう一度 忘れられぬあの日よ」は解釈が難しい箇所である。次の行は「涙流し別れた 君の姿よ」となっているので、「あの日」は別れた日ということになる。心理的に、別れた悲しい日に帰って来てほしいというのは少し不自然である。また、「帰れ帰れもう一度」は2番の後半でも繰り返されるので、直訳は断念し、恋人に会いたいロザリアの気持ちを表していると解釈して次のように訳した。 «Могла бы встретить, мой милый, тебя» つまり「愛しい人、あんたに会うことができたら」。「忘れられぬあの日よ」も直訳ではなく、 «Врезался в память тот день роковой» つまり「あの運命の日が記憶に刻まれた」とした。 「涙流し別れた 君の姿よ」も直訳はできなかった。最大の理由は韻である。まず «тебя» と韻を踏まなけばならない。そこで «Как мы прощались, друг
друга любя!» つまり「愛し合いながら、どんな風に私たちは別れを告げたことか」とした。次も
«роковой» と韻を踏まなければならない。「涙流し」というところを少し拡大して、 «Помню и горький плач
твой» つまり「あんたの慟哭も覚えているわ」として辻褄を合せた。原詩の「君の姿」は入れることができなかった。ところで、このように訳してみると、ロシア語訳では別れの様子が少し生々しく見えてくる。これはロシア語そのものがそうさせるのだろうか。 2番の歌い出しも弱起になっているが、「黒い瞳」つまり «черноокая» という言葉は旨く入らない。そこで «С глазами черными Розалия» とした。また「今日も一人歌うよ」の「今日」つまり «сегодня» もなかなかリズムに合わない。そこで「この黄昏時も歌を歌う」つまり «И в эти сумерки песню
поет» とした。 「風に揺れる花のよう」は次の「笛を鳴らして」と同じくその前の「今日も一人歌うよ」にかかるのであろうが、そのまま訳して理解されるかどうか心もとない。理屈をこねると、笛を鳴らしながら歌うことはできないはずだ。その上、例によって韻のことがある。最初は «Розалия» と韻を踏まなければならないので «ручья» を持って来て、 «Словно цветочек дрожит близ ручья» つまり「あたかも小さな花が小川の傍で震えるように」とした。次の「笛を鳴らして」の笛はおそらく牧人の角笛であろう。しかし、「角笛を鳴らす」つまり «играет на роге» もリズムや韻の関係で入れることができなかった。ここは «поёт» と韻を踏まなければならないので、「子牛たちを呼ぶ」つまり «коровок зовёт» とした。そして、前の「あたかも小さな花が小川の傍で震えるように」はどうしても後ろにかかりがちなので、「優しく」という副詞を入れて意味をつないだ。つまり «Нежно коровок зовёт» となる。 2度目の「帰れ帰れもう一度」はほぼ直訳で、 «Вернись, вернись вновь, мой
милый, ко мне» とした。「やさしかったあの人」は «Знаю, ты так и был
нежен со мной» 「知ってるわ、あんたはずっと私に優しかったことを」と少し表現を変えた。 2番の最後、「胸に抱くは遺身の 銀のロケット」も韻を踏む関係で少し変えざるをえなかった。 «ко мне» に対して «во сне» を置き、 «Клянусь, я буду носить
и во сне» つまり「 誓うわ、私は夢の中でも身に着けていることを」とした。次の「銀のロケット」は難しかった。「ロケット」は «Твой медальончик» でいいのだが、「銀の」つまり «серебряный» という言葉がどうしても入らないし、 «со мной» と韻が踏めない。ついに「銀の」を入れるのを断念し、代わりに「手作りの」つまり «ручной» を入れた。結局、「あんたの手作りのロケットを」つまり «Твой медальончик ручной» と訳すことにした。 以上が「山のロザリア」ロシア語訳奮闘記である。訳し終わって一つ心残りなのは、ロザリアの恋人のその後の運命が語られなかったことである。私の訳では、彼は死んだことにはなっていない。しかし、理由も分からず若い人を死んだことにするのもどうかと思う。心残りはありつつも、とにかく「山のロザリア」のロシア語訳はここにある。この歌をロシア語で歌えるようになったのである。 Розалия горная Слова:
Тосио Ока
Перевод
на русский: Хироси Сакамото 1.
Девица горная Розалия Все время грустную песню поет. Вечер приходит в глухие края. В небе уж звездный полет. Могла бы встретить, мой милый, тебя. Врезался в память тот день роковой. Как мы прощались, друг друга любя! Помню и горький плач твой. 2.
С глазами черными Розалия И в эти сумерки песню поет. Словно цветочек дрожит близ ручья, Нежно коровок зовет. Вернись, вернись вновь, мой милый, ко
мне. Знаю, ты так и был нежен со мной. Клянусь, я буду носить и во сне Твой медальончик ручной. |
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おろしゃ会遠足 2008年12月13日(土) 岐阜県美術館に「青春のロシア・アヴァンギャルド展」を見に行く
同展覧会のポスター |
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会場入り口前にて 食事会にはOBの戸松くんも参加 福富さん 幅さん 長谷川くん 井平さん 元部長の加藤さんと遠足の企画をした金本さん |
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以下の文章は今年の3月に卒業する学生たちから寄せられたものです。最初のものは、亀山先生講演の感想も書いてくれた都築さんの文章です。都築さんは、かつてロシア語の授業も選択しており、顔なじみでしたが、教場で顔をあわせたのは、数年ぶりでした。熱心に聴講し、ラジーシチェフの『ペテルブルクからモスクワへの旅』の英語資料を見事に翻訳して、私を吃驚させました。そして、今回は、私の方から頼んだわけではないのですが、講義に関する感想を送ってくれました。読んでみて、最後の指摘にはドキリとしました。痛い点を突かれたからです。 馬鹿馬鹿しい話ですが、最近の大学では、全国至るところで、シラバスを精緻に書くことが求められています。つまり、講義の目標をたて、年度末には、自己評価自己点検の書類を作成しなければなりません。知らず知らずのうちに、私もシラバスに追い立てられて、ピョートル改革から始めて、メドヴェージェフとプーチンの二頭体制まで話さねばならないという義務感が優先し、もっと大切な教室での「公約」を忘れてしまっていたのです。目の前の学生との関係性の中で話を組み立てるべきなのに、何を勘違いしたのか、シラバスという計画に支配され、達成目標というノルマに縛られてしまったというわけです。ソヴィエト型社会主義の失敗について講義しながら、実は、自らがその失敗を全く教訓とせず、小規模な形ではあれ、繰り返してしまったというお粗末です。都築さんの文章は、そうした点を見事に指摘しています。恥ずかしいですが、掲載する次第。 |
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「ロシア研究(1)」の講義を聴いて 文学部英文学科4年 都築 由子 |
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この「ロシア研究」の講義は、教職関連の実習や試験で追われていたこと、また卒論の進み具合がはかばかしくなかったこともあり、1年間続けられるかどうか不透明であったため、正式な受講ではなく、聴講というかたちで講義に参加させていただきました。前期ばかりか後期の定期試験にもでられなかったため、1年間の講義を通して私が関心を持ったことを中心に以下に感想をまとめたいと思います。 講義は、様々な文献からの引用の紹介や、映像資料の視聴、ロシアに関する小話等、内容が盛りだくさんで勉強になったと同時にとても楽しかったです。引用文献は、史料であったり、同時代人の体験記や日記であったり、歴史家の見解であったりと、膨大な資料の中から抜き出しておられることが伺われました。これらは今後自分で勉強する際に参考になります。自分で勉強しようとすると、どの方面からどの文献に当ってよいのか見当がつかず、自分の限られた知識の範囲内で文献資料ばかりになってしまいますが、こうして様々な資料を紹介していただき、資料探しにとても役立ちます。 講義には、政権交代やグルジア紛争など、その時々の話題も盛り込み、その歴史的背景を織り込んで講義を進めておられる点もよかったと思います。また、学生が活発に講義に加わるという雰囲気ではなかったですが、(私自身は講義にあまり積極的に参加していたとは言えませんが)、時に教師と学生との対話形式で進められていたこともよかったと思います。 映像資料に関しては、特に印象に残ったものは、エカテリーナ2世を扱ったものと、チェルノブイリ原発事故を取材したものです。前者は、一人の女優がエカテリーナ2世を演じ、専門家の見解も織り交ぜて、女帝の人生を忠実に再現したものでしたが、彼女がどのように受けとめられ評価されているのか一つの見方を提示してくれ、エカテリーナ2世の別の側面を見ることができました。高校の世界史で習った女帝は、専制君主というイメージが強く、エカテリーナ2世個人としての思い、考えなどを見ていなかった気がします。 後者は、大量に拡散した放射性物質が、原発事故後、原発の周辺住民にどのような影響を与えたかを扱っていますが、とても悲惨な状況にあることが示されており、事故から20年以上たった現在でも事故の影響を引きずっていることが推測されました。現在、環境問題の取り組みの一巻として、安定したエネルギー供給源として、各国で原発停止が見直され、原発運用を進める傾向にありますが、このチェルノブイリ原発事故と事故に伴うリスクを考えると何とも言えない複雑な気持ちになります。 前期はピョートル一世から始まるロシアの近代化の過程が扱われましたが、Alexander Radishchevの旅行記が私には衝撃的でした。旅行記には、実際に目撃した地主の農奴への非人間的扱いが生々しく語られており、ロシアに古くより根付く農奴制がいかなるものであったのか考えさせられました。この旅行記を読むまで、「農奴」という言葉は知っていても、「農奴」がロシアにおいてどのような存在であったのかあまり理解していませんでした。Radishchevは、農奴制を直接的に激しく糾弾しているわけではないですが、淡々と書かれた言葉の中にとても恐ろしいものを感じました。英語は多少奇妙な文体でしたが、日本語に訳してしまうより、原文の味が出ているのではないかと思いました。 後期では第一次世界大戦以後が扱われましたが、私が興味を持ったのはソ連の農業政策です。戦後、ソ連は農業政策が立ち行かず、農村が疲弊し飢饉に見舞われるなど、自国民の食糧確保ができず、冷戦状態の相手に食料輸入の面で依存せざるをえず、国際協調路線を取らざるをえなかったという状況にありましたが、日本の食糧自給率もはかばかしくないこともあって、ソ連の農業政策について興味を持ちました。日本の農業との関連性はないかもしれませんが、食料政策はいつの時代も重要な課題であることに変わりはなく、何か学べることがあるかもしれないと思いました。 一つ残念に思われたのが以下の点です。せっかく外国語学部の科目として開講しているわけですから、各々での学科での専門分野を生かし、中国、ドイツ、イギリス等との国との関係からロシアを捉えるという試みもなされても良かったのではないかと思いました。最初の講義の際に、「この講義では皆さんにも何かテーマを調べてもらい、発表してもらいます」という趣旨のことを言っておられたと思うのですが、この発表という形で、学生がそれぞれの視点からロシアを捉えなおす機会にできたのではないかと思いました。(ですが、近代史を網羅するには、発表にかけるだけの時間が割けないかもしれませんね。) 今回の講義のおかげもあって俄然やる気が出てきたこともあり、ロシア語やロシア史などは今後も勉強を続けようと思っています。 最後になりましたが、1年間ありがとうございました。どうぞお体をお大事になさってください。 |
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シベリア(クラスノヤルスク市)からポリーナさんが投稿してくれました。ポリーナさんは、昨年夏、一ヶ月余りを名古屋で過ごし、おろしゃ会の美濃市への遠足にも参加しました。彼女と時々、スカイプでおしゃべりをするのですが、4月19日のおしゃべりの時に、ロシア正教の最大のお祭り、パスハ(復活祭)の飾り付けをした美しい写真を送ってくれました。そこで早速パスハについての記事を依頼しました。以下は、その記事とパスハに必ず付き物の御菓子のレシピです。写真も彼女が撮影したものです。(加藤史朗) |
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Православная Пасха
Девятнадцатого апреля
наша семья отпраздновала день Святой Пасхи. Этот день считается самым главным
праздником Православной России. Каждый верующий русский человек с нетерпением
ждет этого дня и готовится. Пасха - это день Воскресения Христова. Именно в
Пасхе заключается смысл православной веры. Иисус воскрес из мертвых и показал
людям, что смерти нет. Русский народ празднует Пасху более двух тысяч лет.
Пасха- это переходящий праздник и каждый год она празднуется в разное время.
Подсчетом времени и определением даты занимается Православная Церковь. Традиция
празднования Пасхи дошла до наших дней, и передается она из поколения в
поколение. В этот священный день принято ходить в церковь. Праздничное
богослужение представляет собой ночное посещение храма. В православных храмах
пасхальная служба начинается ровно в двенадцать часов ночи, но народ приходит
в храм заранее, чтобы не оказаться за его порогом — большинство церквей в
пасхальную ночь переполнены. Праздничная служба длится три- четыре часа.
Люди, пришедшие в храм вместе со священником, совершают крестный ход вокруг церкви. А после окончания службы верующие
приветствуют друг друга целованием и словами «Христос воскресе!».
В течение пасхальной недели во всех церквах разрешается любому желающему
звонить в колокола. Празднование Пасхи продолжается сорок дней — ровно
столько, сколько Христос являлся Своим ученикам после Воскресения.
Со временем, этот православный праздник стал народным гулянием. С ним
связанно много обычаев: праздничный стол, украшения и особые поздравления. В
наши дни не все люди посещают ночную службу в храме, многие празднуют Пасху,
немного отдалившись от религиозных традиций. Подготовка
к Пасхе:
К празднованию Пасхи народ готовиться заблаговременно. Церковь готовит
верующих к самому главному празднику при помощи поста. Пост перед Пасхой
длится в течение сорока дней. Этот пост считается самым строгим и поэтому его
называют Великий пост. Великий пост
– прежде всего очищение души человека и
отказ от земных наслаждений и искушений. В этом году пост начался 2 марта. Во
время поста не разрешается кушать продукты животного происхождения: мясо,
молоко, яйца и т.д. Только в некоторые дни разрешается есть рыбу. Первая и
последняя недели поста самые строгие.
Соблюдать столь строгий пост очень сложно. В своей семье мы пытаемся
придерживаться правил, но очень трудно в холодной Сибири питаться сорок дней
только растительными продуктами. Мы стараемся не есть мясо, молоко и яйца во
время поста. Еще одну трудность вызывает обилие народных праздников и дни
рождения родственников, которые приходятся на это время. Но я знаю точно, что если попытаться
выдержать пост, то радость наступления этого праздника безгранична.
За неделю до Пасхи русский народ празднует Вербное воскресение. В этот день мы
приносим в дом букеты сделанные из веток вербового дерева. Согласно Библии,
Вербы заменяют собой - пальмовые ветви, которые держали в этот день в руках
встречавшие Христа жители Иерусалима. Я с детства очень радовалась этому дню.
Когда папа приносил в дом ветки вербы, я знала, что скоро праздник Святой
Пасхи. Вместе с вербой в дом приходит ощущение прихода весны. Эти веточки
ставят в воду и через некоторое время на них начинают распускаться зеленые
листочки. В этом году вербное воскресение праздновалось 12 апреля. Пасхальный
стол:
В этом году мы отмечали Пасху 19 апреля. Но пасхальный стол в нашей
семье начали украшать за два дня до торжества. Чтобы в воскресение все было наготове.
В воскресение 19 апреля вся семья просыпается и идет за стол.
Перед началом еды мы читаем молитвы, зажигаем свечу. На столе стоят
иконы, верба, куличи и яйца. Так как мы старались воздержаться от мяса и
молочного, но на праздничный стол так же выставляются мясные деликатесы. В
этом году мы приготовили отварной коровий язык.
После прочтения молитвы мы устраиваем небольшую забаву. Мы стукаемся
яйцами. Чье яйцо останется целым, тот и победил. Стукаться можно только двумя
концами, боками яиц не стукаются. Как правило, побеждает в таких «боях» глава
семьи. Но иногда и подыгрывают детям. В детстве у меня было деревянное яйцо,
раскрашенное как настоящее, и я всех побеждала!! После домашнего застолья мы
берем с собой угощения, яйца и идем в гости. Мы идем к родственникам к
дедушкам с бабушками. Устраиваем игры, пробуем бабушкины куличи. Еще на Пасху
принято выпивать сладкое красное вино «Кагор». В этот
праздник принято приветствовать родных и друзей словами: «Христос воскресе!». В
ответ на эту фразу принято говорить «Во истину воскресе!» Как
красить яйца:
Для окраски яиц лучше всего использовать луковую шелуху, которую
собирают заранее. В зависимости от цвета шелухи окраска яиц может быть
оранжевой или темно коричневой. Можно варить яйца, обмотанные нитками, тогда
на них получаются интересные разводы. Так же для окраски яиц можно
использовать и другие природные красители: - если замочить вареные яйца в клюквенном или
свекольном соке, то они будут красного цвета. - если добавить в горячую воду цветы фиалок и замочить
в ней вареные яйца , то они получатся фиолетового цвета. - отварив яйца в 250 мл кофе - получится коричневый
цвет.
Чтобы цвет был ярче, шелухи надо взять побольше, и варить ее около
получаса до того, как в отвар опустите яйца. Чтобы яйца не лопнули при варке,
их надо около часа подержать при комнатной температуре, при варке в воду
можно добавить столовую ложку соли. Чтобы окрашенные яйца блестели, их
вытирают насухо и смазывают маслом. Яйца окрашивают, не очищая от скорлупы.
фото 1 и 2 - урашение
к Пасхе. фото 3- праздничный стол Рецепт
русского кулича: Ингредиенты:
·
мука (2 кг.) ·
яйца (8 штук) ·
дрожжи
(100 гр.) ·
изюм (20гр.) ·
сливочное
масло
(125 гр.) ·
растительное
масло (20 гр.) ·
сахар (500 гр.) ·
соль ( на кончике ножа) ·
ванилин
(на кончике ножа) 1.
Дрожжи развести чуть теплой водой(1 ст. л), добавив щепотку сахара. Дать
постоять 5 мин. Желтки и белки взбивать отдельно с сахаром до образования
белой пены. Смешать 2 ст. муки с взбитыми желтками и белками, дрожжами.
Поставить все в теплое место (возле плиты) на 2 ч. В
православных семьях принято освещать кулич. Для этого мы идем с ним в
церковь, и священник капает на него святой водой и произносит молитву. Рецепт
царской пасхи: Ингредиенты: ·
творог
(700 гр.) ·
масло
(500 гр.) ·
сметана
(500 гр.) ·
яичный
желток (4) ·
сахар
( 1 стакан) ·
ваниль,
изюм, цукаты 1. Творог прокрутить 2 раза на мясорубке, 3-ий раз
прокрутить вместе с маслом, смешать со сметаной. Отдельно хорошо растереть
желтки с сахаром и потом добавить в творог. Все
размешать до однородной массы и поставить на плиту. 2.
Постоянно
помешивая, чтобы не пригорело, довести до кипения (но не дать закипеть). Как только
масса хорошо нагреется, начнет подниматься пар, снять с плиты (масса будет
жидкой), всыпать ванилин и дать остыть, периодически помешивая. 3.
Приготовить
марлевую ткань в 2 слоя, вылить туда получившуюся массу и подвесить стекать
на 10-12 часов в прохладное место. Форму выложить влажной марлей в 1 слой,
переложить в неё стёкшую массу (можно добавить по желанию изюм или цукаты),
сверху завязать и поставить небольшой груз на 10-12 часов, чтобы масса
приняла форму пасочницы. 4. Перед
подачей на стол форму разобрать, марлю сверху развязать, перевернув на
тарелку, марлю снять. Украсить
кулич .
фото 4- царская пасха фото 5- русский
кулич фото 6- пасхальное яйцо.
По традиции русские хозяюшки сами красили яйца и пекли куличи. Сейчас
в городах в магазинах можно
купить все что хочешь. Продаются пасхальные куличи, специальные красители для
яиц и наклейки для их украшения. Но в моей семье мы стараемся сохранить
традиции наших предков и красим яйца при помощи луковой шелухи и сами
стряпаем куличи. Мама стряпает угощения и красит яйца, а я с детства люблю
украшать праздничные угощения. Например,
разрисовывать яйца зубной пастой:))
Полина Дацышена |
おろしゃ 会」会報 第16号 (2008年12月26日発行) 発行 〒480-1198 学生会館D-202(代表・安藤由美) http://www.tosp.co.jp/i.asp?i=orosiya 発行責任者 加藤史朗( 〒480-1198 mail to: kokusai_kato@yahoo.co.jp http://www.for.aichi-pu.ac.jp/~kshiro/orosia.html |