おろしゃ会会報 第16号その3 2009年5月19日 |
帝国日本の周縁で,図書館する
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日本領「樺太」
ロシア帝国領であったСахалинの南部が近代国民国家としてのわが国の統治下に入ったのは,1904(明治37)年から1905(明治38)年にかけて両国の間で戦われた日露戦争の結果であることはよく知られている。 以後1945(昭和20)年までの約40年間,わが国はСахалинの南部=樺太の開発に努めてきた。森林・水産資源の開発,パルプ工業などの産業振興や,それを支える鉄道建設や教育機関(学校)などの社会資本の整備と拡充が推し進められた。民衆のための社会教育施設である公共図書館の開設もその一つであった。 樺太の公共図書館運動
樺太における日本人の公共図書館の設置運動とその活動(以後「公共図書館運動」という。)については,最後の樺太庁図書館長(正確には「(ソ連)南樺太日本人図書館長」である。)であった塩野正三(1916〜1993年。戦後,札幌医科大学図書館,札幌大学女子短期大学部教授。)によって紹介されている。彼が遺した数編の論考[i]は纏まった記録を欠く樺太の図書館史の研究にとって貴重なものであるが,それらによれば樺太において公共図書館運動が具体化したのは,1928(昭和3)年の大泊町(現Корсаков)に設置された大泊教育会附属図書館の開館からであるとされる。 しかし,明治末期にはすでに「読書趣味を普及する一法として小なる図書室を設置すべしとの事」[ii]が地元紙『樺太日日新聞』で論じられており,大正6(1917)年には,留加多郡の教育会が管内各小学校職員に必要な参考書約20部を購入,巡廻文庫を開始したことが報告されている[iii]。その後も同紙では,図書館の設置が論じられ,また豊原(現Южно-Сахалинск)や大泊の教育会などが巡廻文庫や図書室を開設したこと/開設しようと計画したことを伝えている[iv]。 1928年の大泊町教育会附属図書館の開館は,当時の樺太においてエポックメーキングな事件であったことは,同紙が伝える同館に関する記事の量や内容によって推察できる。しかし,大泊町教育会附属図書館に先行する図書館設置に関する議論や,ささやかな巡廻文庫の試みなども,樺太の公共図書館運動を考察するうえで忘れてはならないものであろう。明治末年頃からの地道な取り組みの延長に,大泊町教育会附属図書館の開館があったと理解したい。 樺太教育会図書館から樺太庁図書館へ
樺太の庁都豊原における公共図書館運動の中で重要な事件といえば,1932(昭和7)年1月の樺太教育会附属図書館の開館である。先に述べたように,同館の開館も豊原地方で先行した巡廻文庫の実施などの試みの延長に位置するものといえるが,同館が後の樺太庁立の図書館の前身であったという点で,その意義には大きなものがある。 同館は豊原の住民に好評であった反面,さらなる充実が望まれていたが,1937(昭和12)8月樺太庁に移管され,樺太庁図書館として再出発することとなった。教育会という一団体の私立公共図書館から現在の都道府県立図書館相当の公共図書館となったわけである。 庁立となった同館は利用者サービスの充実に努め,その甲斐あって同館には利用者が殺到することとなった。ただ,あまりの多数の来館者に,閲覧スペースが狭隘であった同館は,児童の入館を制限するという,公共図書館にとってはとんでもない事態を出来させるに至っている[v]。 また,1937年8月に制定された樺太庁図書館規則(樺太庁令第45号)には,その第6章に「図書閲覧ノ便ヲ有セザル者ノ為ニ巡回文庫ヲ設」けることが規定されていた(第40条)。樺太の中央図書館として全域サービスが義務づけられていたわけだが,同館はすぐには実施していない。 増加する図書館利用者の期待に応え,そして全域サービスを展開するために公共図書館の運営,殊に巡廻文庫=館外サービスに熟達したスタッフの必要が,この時期の樺太庁図書館では痛切に感じられていたに違いない。 「動く図書館」の有数の実務者であった楠田五郎太が来樺する以前の樺太庁図書館の事情は,以上のとおりであった。 楠田五郎太,樺太にて図書館する
1939(昭和14)年3月,兵庫県巡廻文庫の担当者として兵庫県における館外サービス活動を活発に推し進めていた楠田五郎太(1908〜194?)が樺太庁図書館に着任した。 楠田は,当時の地方中小図書館の不振の原因について,館内閲覧が中心であった大都市の大図書館経営法を無批判に踏襲したことにあると考え,不振からの脱却の方法を,図書館と図書館職員が積極的に建物としての図書館から外へ出,民衆に対してサービスを展開する館外活動=「動く図書館」に求めた人物である。また,「動く図書館」とともに広報活動も重視,活発に実践していた。革新的図書館人の研究団体であった青年図書館員聯盟の有力な会員であり,岡山市立図書館・兵庫県巡廻文庫での活発な館外の実践によって,「動く図書館」の有数の実務者として知られていた。著作にその名も『動く図書館の研究』(研文館,1935年)がある[vi]。 楠田の来樺は,充実が望まれていた樺太庁図書館にとって,まさにうってつけであったであろう。彼と同じ年に同館入りし,ともに図書館運動を推進した前出の塩野は次のように述べている。 「昭和14年3月に司書として兵庫県立図書館貸出文庫係として兵庫県下の巡廻文庫の責任者として活躍していた楠田五郎太氏を迎え樺太全島の青年指導者を中心として巡廻文庫の実施をおこなった。この巡廻文庫は内地の数県において実施されており,その成果を注視していた時期であったが,樺太において各都道府県立図書館の性格を持った樺太庁図書館が実施したということは一大特筆に値するものといってよいだろう。司書の楠田氏は日本における巡廻文庫の実務者として有数の人でもあったから樺太庁図書館にとってもまことに幸せな事であった」[vii]。 楠田は,翌年の3月には樺太庁図書館を辞し,同年5月には当時上海にあった日本近代科学図書館にいた森清(もり・きよし。1906〜1990年。『日本十進分類法』NDCの考案者として著名。)の誘いに応じ,彼の後任として日本近代科学図書館に赴任するので,樺太庁図書館での活躍は僅か1年という短いものであった。しかし,この間,樺太庁図書館では利用者へのサービス充実を考慮した事業に取り組んでいる。 まず1939年5月には「出納室を改造し一部開架式」とし,翌6月には念願の「全島支庁及出張所並市町村に貸出文庫」回付を開始している。翌年2月には「少年図書閲覧室」の竣工を見ているが[viii],このことについて「今日迄図書館の一隅に大人の人達の気兼しつゝ読書欲の一分をみたして来た少年達も,今日から僕等の少年図書室と天下晴れた思ひのままに読書を満喫することが出来」[ix]ようと『樺太日日新聞』は伝えている。 図書館の広報にも怠りがない。1939年の4月に樺太庁図書館は『図書館とはどんな所か』という小冊子を刊行した。その中で,図書館の仕事や利用方法などに言及するとともに,図書館は「今日では最早図書館は好学者や学生の専有物ではなく市民の百科辞典であり開放せられた社会人の大学であり」[x],「今日の社会には無くてはならぬ重要な機関」[xi]であると述べているが,これは楠田が常日頃述べてき,そして目指した公共図書館の姿である。 こうした活動に,楠田の意向とその実行力が強く働いていることを読みとるのは難しいことではない。青年図書館員聯盟の機関誌に,楠田の手で樺太庁図書館のことが報告されているが,帝国日本の周縁の地にあっても,彼の図書館事業に懸ける意気込みはますます盛んである。 「我樺太庁図書館ガ生誕僅カニ二歳不完全ナ設備ト貧弱ナ内容トオ以テ活動シテイルコトワ恰モオホツク海ニ漂流スル小舟ノ運命ニモ似テイル」「ケレドモ若シ田舎侍ノ広言オ許サレルナラバ,コノ小図書館コソ将来ノ北進日本ノ文化起点トナルデアロゥト思ウコトデアル」「我々ノ今後為スベキ仕事ワ多イケレドモコノ粒ノ如キ図書館ニ在ル10名ノ館員ト我等ノ館長山本市太郎氏ワ火ノ如キ熱意ト鉄ノ如キ意志トオ以テ如何ナル難事業オモ完成スルデアロゥコトオ確信シテイル」[xii](引用文中の「図書館」の表記は,原文では「くにがまえ」の中に「書」の字――引用者注)。 なお,1939年度において樺太庁図書館が活発な活動を展開できた背景には,楠田の存在とともに,理事者の図書館事業に対する理解によるところも大きい。当時の樺太庁長官であった棟居俊一(第13代樺太庁長官。在任1938〜1940年。)の努力により,樺太庁は1939年度について巡廻文庫の設備を含む「本島未曾有の大予算」[xiii]を獲得するとともに,「一挙に五百七十名の増員を行」った[xiv]。こうした措置が楠田の来樺と巡廻文庫の実施などを可能にしたわけである。長官の棟居は,自身歌人であり,文化的な事業振興に理解を有していた人物である。樺太の文化界にとっても,図書館にとっても彼の赴任は「まことに幸せな事であった」といえよう。 樺太における日本人図書館運動の終焉
楠田は先にも述べたように1940年の春に樺太庁図書館を辞し,中国は上海にあった日本近代科学図書館に転じる。上海でも彼は「動く図書館」を強力に推し進めていった[xv]。 その後樺太庁では,市町村立(私立)図書館館則準則(1940年3月17日樺太庁告示第47号)や図書館設置規格(1940年3月31日庁議決定)を公示,樺太における公共図書館運動を推し進めていった。1940年には,公立大泊図書館(4月)と公立真岡図書館(8月)が開館している[xvi]。 苛烈化する昭和の戦争は,1945(昭和20)年8月10日のポツダム宣言受諾,15日の玉音放送で終息したが,樺太では国境線を越えて進撃してきたソ連軍との戦闘が15日以降も継続した。日本「本土」[xvii]が戦場となった数少ない事例の一つである。 ソ連軍統治下の樺太庁図書館改めソ連南樺太日本人図書館については,その館長を務めた塩野の論考に詳しい[xviii]。しかし,樺太における日本人による独自な公共図書館運動については,すでに1945年8月の樺太での戦闘勃発と同時に終わっていたと言うのが至当だろう。40年に満たぬ公共図書館運動であった。 |
脚注
[i] 塩野正三「樺太における公共図書館発達史序説(その1)」札幌大学女史短期大学部紀要1号9頁以下(1983),「樺太庁図書館の創設およびその変遷について」札幌大学女史短期大学部紀要5号73頁以下(1985),「樺太における公共図書館発達史序説(その2)」札幌大学女史短期大学部紀要6号15頁以下(1985),「樺太の図書館」日本図書館協会編『近代日本図書館の歩み 地方篇(日本図書館協会創立百年記念)』838頁以下(日本図書館協会,1992)。
[ii] 「読書の好時期」樺太日日新聞1911年10月5日1面。
[iii] 「留加多郡教育会現況」樺太日日新聞1917年6月16日2面。
[iv] 藤島隆「新聞にみる樺太地方公共図書館の発達」北の文庫20号17頁〜20頁(1992)。
[v] 「児童はお断り 図書館の利用者鰻上りに激増 遂に手痛い禁止令」樺太日日新聞1938年3月19日3面。
[vi] 彼の「動く図書館」の詳細については,拙稿「楠田五郎太の『動く図書館』――15年戦争下の館外奉仕活動」中部図書館学会誌』37巻38頁以下(1996)を参照。
[vii] 塩野正三「樺太における公共図書館発達史序説(その2)」札幌大学女史短期大学部紀要6号20頁(1985)。
[viii] 以上,樺太庁図書館編『要覧』1頁(樺太庁図書館,1940)。
[ix] 「さあ僕達の図書室が出来た 少年分室きのふ開催」樺太日日新聞1940年2月22日3面。
[x] 樺太庁図書館編『図書館とはどんな所か』3頁(樺太庁図書館,1939)。
[xi] 同上書2頁。
[xii] 楠田五郎太「カラフトノ土」図書館研究12巻4号528頁(雑誌名中の「図書館」の表記は,原表記では「くにがまえ」の中に「書」の字)。
[xiii] 樺太敷香時報社編『樺太年鑑(昭和14年)』100頁(樺太敷香時報社,1939)。
[xiv] 同上書85頁。
[xv] 上海での彼の活動については,拙稿「上海日本近代科学図書館の楠田五郎太――上海と日本の図書館学」山根幸夫教授追悼記念論叢編集委員会編『山根幸夫教授追悼記念論叢 明代中国の歴史的位相(下)』427頁以下(汲古書院,2007年)を参照。
[xvi] 塩野正三「樺太における公共図書館発達史序説(その1)」札幌大学女史短期大学部紀要1号19頁〜21頁(1983)。
[xvii] 樺太は1943年内地に編入されている。