おろしゃ会会報 第16その4

2009年6月16

 

「第二次現代版プガチョーフ遠征」と「パンと塩」

豊川 浩一(明治大学文学部)

 

 

 この3月、南ウラルのオレンブルクを訪れた。私にとっては2度目の訪問で、前回は1993年の夏である(そのときの様子については拙稿「現代版プガチョーフ叛乱―オレンブルク、ウファ、カザン」『窓』(ナウカ)89号、1994年を参照されたい)。実に16年ぶりであった。プガチョーフ叛乱におけるバシキール人指導者サラヴァト・ユラーエフとその父ユライ・アズナリンに関する伝記を書くための調査旅行だった。そのためオレンブルク州古文書館での史料閲覧を主たる内容とした出張であったが、これ以外に思いがけず多くの収穫があった。古文書館での仕事もさることながら、当初の予定にはなかった同地在住のバシキール人たちとの交流や研究者との意見交換、2度にわたる大学での報告・講演、研究テーマに関連するコサック村の訪問とそこでの歓迎、新聞やテレビの取材など、10日に満たない旅行で疲れはしたものの、実に内容のある旅行であった。上記2名に関する史料の掘り起こしをしながら、かれらに関わる土地を尋ねつつも、「パンと塩」による心からのもてなしに接した旅でもあった。

 

* * * * *

 

 311日(水)に成田を発ってほぼ定刻にモスクワ着。空港内で両替をし(200ドル=5610ルーブリ)、アエロエクスプレスの乗り場へ直行。これは日本の旅行社より入手していた情報による。この電車に乗ると地下鉄サヴョーロフスカヤ駅まで35分で着く(250ルーブリ)。地下鉄を乗り継いでパルティザンスカヤ(旧称イズマイロフスキー・パルク)駅まで。ホテルそばの売店でビール2本と水を購入(105ルーブリ)。ホテルでの登録料1ルーブリ。

 12日(木)。9時発のアエロエクスプレス(200ルーブリ)に乗るために地下鉄キエフ駅へ。ヴヌコヴォ空港1110分発オレンブルク行きに搭乗。機内で昼食。オレンブルクではバシキール人友人の知り合い(オレンブルク教育大学女性教員)が迎えに来てくれていた(以下「出迎え氏」と略称)。ホテル・ニヴァにチェック・イン。携帯電話のシム・カード購入(100ルーブリ)のため電話センターへ。その後、16年前を懐かしみつつ一人で街中を散歩。目抜き通り「ソヴェト通り16番地」にあるオレンブルク州古文書館を訪ね、受付の女性に翌日また来ることを告げて出る。散歩して気付いたことに、街全体が16年前とは大きく様変わりしていた。たとえば、同じ通りにある商館(「ゴスティンヌィ・ドヴォール」)が立派になっていたのには驚いた。16年前の夏に訪れた時には、街全体が疲弊し、建物は建設中のものを含めてすべて朽ち果てているという印象を受けた。当時は商館も閉鎖しており、外壁も黒ずんでいたことを思い出す。現在は淡いベージュ色の外壁もさることながら、その中にあるブティック風の衣料品店やファーストフード店など小奇麗ですべてが明るい。寿司さえ食べることができる。また「ソヴェト通り」の終点にあるチカーロフの銅像は相変らずその威容を誇っていたが、その足元に流れるウラル川にかかる橋の横にはロープーウェイがあったのには驚いた。帰りに「南ウラル新聞」(9ルーブリ)、オレンブルクの地図(70ルーブリ)を購入。夕食はホテルのカフェにて(173ルーブリ)。

 

「ゴスティンヌィ・ドゥヴォール」   チカーロフの巨大な銅像

ゴスティンヌィ・ドヴォール                  チカーロフの銅像

 

 13日(金)。9時半に古文書館へ。私の所属する大学図書館長の手紙を持っていっただけではたして利用できるかどうか不安だったが、無事仕事をすることができた。なぜか副館長に呼ばれ、その部屋で挨拶がてら話しをしてから閲覧室へ。オーピシを見て、フォンド3(オレンブルク県官房)、オーピシ1のみを読むことに決める。それだけでも滞在期間にしては時間が足りないくらいであると思われた。この日は3件の史料のみ出してもらう。古文書館閲覧室の開室時間は、月曜日から木曜日までは9時から5時まで、金曜日は4時まで。昼食は向かいの教育大学にある食堂が便利である。閲覧終了後、買物がてら散歩。チカーロフの銅像脇にある「オレンブルク歴史民族博物館」を見学。展示物を見ると16年前にそこを訪れたことが懐かしく思い出される。プガチョーフ軍の大砲を初めとする様々な武器、街の中心でもあった商館や交易所の図面、そこでの賑わいの様子を人形で示した展示など。帰りに水と食料品を購入。6時過ぎに出迎え氏を通して私のことを聞きつけたバシキール人(オレンブルク農業大学教員)がホテルに来る。彼は私と同い歳で、プガチョーフ叛乱の参加者にして指導者の一人キンジヤ・アルスラーノフの末裔という(以下「末裔氏」と略称)。持参した現代の「シェジェレ(系譜)」のコピーを示しながら、アルスラーノフから彼自身に至る歴史的経緯を説明してくれる。いまの時代にも「シェジェレ」があることにビックリし、また何よりもあの有名な叛乱指導者の末裔に会えたことは大変な驚きであった。記念にその「シェジェレ」を頂く。

 

「シェジェレ」をかざす末裔氏

「シェジェレ」をかざす末裔氏

 

 14日(土)。8時過ぎ、出迎え氏より電話。ウファーからのテレビ・クルーが来るのでフルンゼ公園近くのモスクに来るようにとのこと。事情を飲み込めぬまま指定された場所に行く。モスクでは他のバシキール人たちとともに個別のインタビューを受ける。来訪の目的は何か、何を研究しているのか、などなど。こちらの方が尋ねたかったが、結局、何のためのインタビューか不明のまま終了。そこで数名のバシキール人と知り合いになったが、その中の一人ですでに年金生活に入っている人とともに、プガチョーフが本営を置いた「ビョールダ村」(現在名ビョルドィ)へバスで向かう。アレクサンドル・プーシキンが取材旅行で聞き取りをした相手であるブントーヴァの家の跡、プガチョーフ軍の本営跡、サラヴァトとプガチョーフが会見した場所の跡、などを尋ねる。帰りに、同行してくれたバシキール人の家に寄り夕食をご馳走になる。ワインや野菜・卵料理などは美味しいが、羊の肉の料理だけはどうも苦手であった。このバシキール人によるクライ(日本の尺八に似た葦で作られる民族楽器)の演奏を聞く(以下「尺八氏」と略称)。物悲しい調べが特徴的。ビール2本とパンを買って(67ルーブリ)6時に帰宅。

プガチョーフ軍の本営があった場所    ブントーヴァとプーシキンが会った場所跡を背景に・尺八氏

プガチョーフ軍の本営があった場所                                        ブントーヴァとプーシキンが会った場所跡を背景に・尺八氏

 

クライを演奏する尺八氏   現在の「ビョールダ村」(ビョルドィ)のたたずまい

バシキール人によるクライ(日本の尺八に似た葦で作られる民族楽器)の演奏                   現在の「ビョールダ村」(ビョルドィ)のたたずまい

 

15日(日)。マイナス5度。曇りのち晴れ。午前中、教育大学の付属図書館で関連の本の予約をする。12時半、「ゴスティンヌィ・ドヴォール」で末裔氏と待ち合わせ。朝、電話をして、旧カザーク地区「フォルシュタット」(かつてはオレンブルク市に隣接していた。前回の旅行では訪問できなかった)の案内を頼んでいた。待ち合わせ場所に彼の上司で農業大学祖国史講座主任の女性教授(以下「主任教授氏」と略称)も来る。18日にプガチョーフ叛乱関連の「円卓会議」があるから出席・報告するようにとのこと。ほとんど決定事項!あとで教育大学の出迎え氏に聞くと、この人はオレンブルクの誰もが知る有名人物とのこと。「フォルシュタット」はオレンブルク・カザークの居住区として形成され、その後何度か作り直された。築100年以上を越す木造の家がほとんどであるが、周りには近代的な高層ビルが建ち、そのコントラストが甚だしい。もはや隣接地区ではなく、大きくなったオレンブルク市に飲み込まれていた。そこを散歩後、前日に尺八氏に勧められた「民族村」を見に行き、そこで食事。

 

フォルシュタットにある家  フォルシュタットにある家と現代のビル

フォルシュタットにある家                    フォルシュタットにある家と現代のビル

 

16日(月)。マイナス5度。曇り。ホテルでいつも通り朝食をとるも子供連れが多い。なぜだろうかという疑問を抱きつつも、9時過ぎまで部屋でサラヴァトの創作詩を読む。9時半に古文書館に到着。2番目に入る。閉室の5時まで勉強。昼食を教育大学食堂でとる。5時すぎに教育大学付属図書館へ行き、前日予約していた本の閲覧。帰りがけに、「38日通り」にあるカトリック教会へ聖体訪問。ミサ後、シスターや神父と会話。現在、神父は3名、シスター4名とのこと。古い歴史のあるこの教会は、93年まで毛織物製作所の倉庫として使われており、最近になってやっと教区に戻されたという。神父とシスターたちは全員ポーランド人で、2001年にオレンブルクに来たという。この地方のカトリック教会の浸透情況を調べるのも面白いであろう。同地の建設当時のことを記した18世紀の文献には、カトリック信者がいたとは記述されていなかった。ではいつ頃この教会が建設されたのか、また信者はだれか、その後の歴史はどうか、など疑問は次から次へと沸き起こる。

17日(火)。マイナス7度。いつも通り、古文書館で勉強。12時に尺八氏が来てバシキール人の家に招待すると言い、車で20分のドライブ。土曜日にモスクで会ったバシキール人女性の家へ。いわば「新ロシア人」風作りの家にはバシキール関連の装飾品や伝統工芸品がたくさんあり、さながら博物館のようであった。昼食はカザフ料理(ご主人はカザフ人とのこと)とコニャク(!)。帰りがけにバシキール産の蜂蜜を頂く(実に美味しかった!)。古文書館に戻ったのは3時。新聞「オレンブルグ子」の記者がインタビューをしたいといって待ち構えていた。日本から来たというので珍しかったのだろう。5時に末裔氏が来てオレンブルクの東方にあるサラクタシュへ行くという。同行者に主任教授氏。プガチョーフ叛乱の名所クラスナヤ・ガラー(「美しき丘」とでも訳せようか)へ。現在は農業大学の所有地で、昨年、映画「大尉の娘」の撮影をした場所だという。途中、2つの村を訪ねる。一つはストゥデンツィ村。生神女教会(1862年建立)を見学。その付属の建物には18名の老女達が共同生活を送っており、修道女達がその世話をしている。二つ目は元首相チェルノムィルディンの故郷の村。そこにある「立派な」教会は彼の寄付によって作られたという。それらを見て、「美しき丘」へ。主任教授氏の実の詳細な説明を聞きながら雄大なロシアの大地を見る。そこにある宿泊施設で晩餐。帰宅は12時。

 

18日(水)。マイナス7度。曇り。「衛生日」で古文書館の閲覧室には入れないことになっていたが、すでに月曜日に入る許可を得ていた。9時に古文書館へ。係りの女性職員は来ている。他にいつも1番のりをしている老人と私だけ。閲覧室で会議があるとかで、12時に館員控え室に移動を求められる。昼食はいつも通り教育大学の食堂で。5時まで。末裔氏が来て農業大学へ。ラジオ・テレビのインタビューを受けて、「円卓会議―プガチョーフ叛乱」に出席。始まる前に、「大セレモニー」。ロシア人・カザフ人・バシキール人・チュバーシ人・カザークなどの民族衣装に身を包んだ学生のお出迎え。本当に驚く。たどたどしいロシア語で日本のプガチョーフ叛乱研究の現状と私の関心について報告。動員されたのであろう学生からの質問が多かった。プログラムには10名近くの報告者の名前があったが、当日は3名の報告のみ。残りは翌日に回すという。このいい加減さにも驚く。同じ会場でお茶会。その後、カフェに移動して夕食。

 

オレンブルク農業大学での歓迎セレモニー

オレンブルク農業大学での歓迎セレモニー

 

 19日(木)。マイナス7度。曇り。いつも通り古文書館へ。1時に出迎え氏に付き添われて教育大学へ。数日前、この大学でも学生を前に話しをするように頼まれていた。私はせいぜい20人くらいのゼミ形式での話しをすればよいのかと考えていたが甘かった。文学部長に挨拶をして教室へ移動。何と100人ほどの学生が待ち構えている。今回もバシキールの民族衣装を身に纏った学生たちの出迎えを受ける。彼らの踊りや歌、詩の朗読もあった。日本の学生事情その他を話す。前日の経験からか「心臓」だけは強くなる。3時頃に古文書館へ戻る。5時まで仕事。末裔氏が迎えに来て、現代も活動しているコサック村のクラスノレチェンスコエへ行く。同行者はいつもの主任教授氏。コサック幼年学校生の出迎えを受け、コサック記念碑に献花。何だか怪しい雰囲気。手渡されたプログラムを見て仰天。日本からの公式訪問であるかのようになっている!分刻みで移動してさまざまな場所を訪れる予定!?無名戦士の墓の前でも献花。公民館でコサックの服装をした老人による「パンと塩」の出迎えを受ける。話には聞いていたが、本当にそのような出迎えを受けると感激する。その後、展示室で説明やコサックの民族歌を聞き、記念撮影。また別の場所にある現在修復中の教会を見学。完全な公式行事!こんなことがあっていいのだろうか。また何のためなのか不安になる。一連の「公式行事」が終るともう夜。アルメニア人の経営するレストランへ行き、この村の行政官を含めて晩餐。この日も大変な一日であった。

  これぞ本当の「パンと塩」!  民謡を歌うコサックの女性たち

これぞ本当の「パンと塩」!                    民謡を歌うコサックの女性たち

話を聞きに集まってくれたオレンブルク教育大学の学生たち  オレンブルク教育大学でバシキール人の民族衣装を着た学生たちの出迎えを受ける

話を聞きに集まってくれたオレンブルク教育大学の学生たち     オレンブルク教育大学でバシキール人の民族衣装を着た学生たちの出迎えを受ける

 

 20日(金)。マイナス7度、曇り。朝から大急ぎでパッキング。朝食後、近所の総合郵便局へ行き、紙袋二つほどの本および資料を日本へ送る(68日、やっと届く!)。一度ホテルへ戻り、パッキングの済んだ大きなバッグを持って出迎え氏に会うべく教育大学へ。お礼を言い、借りていた本を返す。サラヴァト・ユラーエフ関連の本をもらう。代わりに詩の翻訳を頼まれる(いまだなしていない)。古文書館へ。6時発の飛行機に乗るために、3時に出迎え氏が来た(1時間前には空港でのチェック・インを済まさなければいけないという)。彼女がバシキール人組織「クリルタイ」にタクシーを頼んでくれていた。その後、末裔氏と尺八氏が見送りに来た。尺八氏が同乗して。彼の作った「俳句」を手渡された。飛行場では彼と別れを惜しんでワインを飲む。定刻6時発、無事にモスクワ着。モスクワを出発した時と逆の道を辿って同じホテルへ向かう。

 21日(土)。モスクワの友人たちと会う。720分発のアエロフロートにて帰国。

* * * * *

 以上が、プガチョーフ叛乱に導かれてオレンブルクを訪れた私の記録である。予定していた古文書館での仕事は無事に行うことができた。加えて、多くの人々、特にバシキール人と知り合いになれたこと、また彼らの助けを受けながら、いわば立体的に(古文書以外の調査)取材を行えたのは収穫であった。それはまさに、現実の上でも、また精神的にも「パンと塩」を体験する旅であった。出迎え氏、末裔氏、主任教授氏、尺八氏など、お会いできた皆さんに感謝したい。

 

 

おろしゃ会ホームページに戻る