おろしゃ会が発足してから半年近くになろうとしています。3月大阪への遠足、4月入学式での宣伝活動の後しばらく活動は停滞していました。しかし、4月末に国際センターで行われた日露ラウンドテーブルへの会員たちの出席(ガウハルとはここで出会いました)など、水面下での活動は続いていたのです。
新会長の原さんが、そろそろ何かやりましょうかと言いだし、その結果、6月29日の呉智英氏講演会・懇親会が実現しました。
呉智英氏は、中学以来の私の友人です。高校時代には文芸部で部長の彼からロシア文学の面白さを教えられ、最近では一緒にロシア旅行をしたこともあります。彼はその折りにドライバーとガイドの役を果たしてくれたセルゲイ・ツァリョーフをすっかり気に入りました。そんな縁もあって、この会発足当初から彼に会の案内を送り、先の大阪への遠足にも是非参加して欲しいと誘いました。なぜなら、青春18切符による大阪への旅は、現在外交官として大阪のロシア領事館で働くセルゲイに会うのが主目的でしたから。
でも、その時は身辺多忙ということで断られました。私は執拗です(これはロシア見聞を趣味とする者には必要不可欠な性格です)。そこで6月に入ってから彼に、おろしゃ会の会報に何か書いてくれと頼みました。ヒョウタンからコマというのでしょうか。書くよりも、話しをしてやると答えてくれたのでした。
彼の場合、講演には××万円以上の謝礼が普通です。それを謝礼も交通費もいらない友情出演だというわけです。嬉しいことでした。しかも講演会後に居酒屋で行われた懇親会(会費3000円)で「学生は払わなくてよい、俺が出してやる」という大盤振る舞いまでしてくれたのです。ロシア文学の手ほどきを受けて以来、個人的にも色々と恩義を被っており、文字通り本当に有り難い友であります。
この行事を境に、他大学の学生を含め7人が新たに会員となってくれました。彼らの初々しい挨拶を是非お読み下さい。ゲストからのエセーもいただきました。ロシア語原文も掲載しましたので、ロシア語学習の参考になると思います。また創刊号に対して寄せられた様々なメッセージもご本人の許可をいただき、一部掲載させてもらいました。第2号に対する感想などありましたら、是非何か書いて下さい。第3号に掲載させていただきます。
誤解のないようにして欲しいのですが、おろしゃ会は、ロシアとの親善交流を目指す会ではありません。
もちろん結果として親善が深まればそれに越したことはありませんが、ロシア嫌いの人も会員になっているという点が重要です。かくいう私自身、最近はロシア見聞のたびに腹立たしさ、苛立たしさ、失望感など暗然たる気分を禁じ得ないところがあります。しかしそれをもってロシアの国民性とか民族性を規定するというのは、東大の乗松氏も書いているように、いかにも乱暴です。おろしゃ会に集う学徒は、呉氏の近著『ロゴスの名はロゴス』が示すように、理不尽なことを許さない、トレンドに乗っていい加減な発言をすることを許さないという姿勢が大切です。民主主義からファシズムに至るトレンドは、寄せては返す波のように現代社会の岸辺を洗っています。だからこそ意気投合した友に対してであれ、ロゴスは貫かねばなりません。呉智英氏とのロシア旅行中にこんなことがありました。「自分は日本人と朝鮮人とは一目見ただけ区別できる」と言い張るセルゲイに、呉氏は「そんなことはあり得ない」と一生懸命に論じていました。講演に来たときに、セルゲイの迷妄を打破するために作ったという小道具を見せてくれました。
そこには、修学旅行を楽しむ昭和30年代の日本人女子高生の集団写真と現代韓国の天才少女バイオリニストのブロマイドが一緒に印刷されていました。彼によると十中八九、前者が韓国人で後者が日本人だと答えるといいます。ほとんどの人が文化差・生活差を民族差と勘違いしているのだそうです。今度セルゲイに会う機会があったら、これを見せて彼の偏見を打破してやるんだと言っていました。私は執拗さも彼から学びました。
隣国ロシアの存在について無視・無知・無関心ではどうしようもない!ということだけが、声高に叫びうるこの会の唯一の主張です。よろしかったら呉智英先生のようにお話をしに来て下さい。大盤振る舞いはしなくて結構ですから。
加藤 史朗(愛知県立大学・外国語学部)
おろしゃ会へようこそ
第2代会長 原豊美(愛知県立大学文学部社会福祉学科3年)
おろしゃ会が発足してもうすぐ半年近くになります。「なんかおもしろそうだから」と思い、気楽な気持ちで始めましたが、いつのまにか私は会長という大役を背負うことになり、こんな私が会長でいいのだろうかと恐縮する日々をおくっています。
ところで、ロシア・サークルなんて聞くと、さぞロシアについて学んでいるように思われるかもしれませんが、それほど堅苦しいサークルではありません。私は学ぶ事も大切ですが、親しむ事がもっと重要だと思っています。興味を持ち、親しんでいく事で、今まで分からなかった良い面や悪い面が見えるようになり、違った角度からロシアを眺める事が出来ると思います。そして、そんな自分なりのロシア観が持てるようなお手伝いが出来れば幸いです。
どんな興味でも良いんです。「ロシア料理って?」「キリル文字が面白い」など。ほんの少しでもロシアに興味があれば、是非一度はおろしゃ会に足を運んで見てください。マイペースな私たちと楽しい思い出が作れるかもしれません。
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ゲストから
ご挨拶
Gaukhar Khalbaeva
こんにちは。私の名前はハルバエワ・ガウハルです。今年の4月にウズベキスタンのタシケントから日本に来て、2ヶ月ぐらいたちました。今回で日本に来たのは三度目です。今は名古屋学院大学の留学生別科で日本語と日本の社会・経済、そして日本の伝統的なことに興味があるので、陶芸を勉強しています。
日本に来たいと思った理由は、私は四年間以上タシケント東洋学大学で日本語と日本文学を勉強していたのですけれども、その時にとても興味をもったからです。はじめて日本に来たのは、1992年で、福島に行きました。福島とタシケントは友好都市で、福島市には「福島・ウズベキスタン」という友好会館もあります。私はこの友好会館の方のおかげで日本に来ることができました。福島では1ヶ月ぐらいホームステイをして、その間、いろいろな所を旅行して、とても楽しかったです。その時、一番おどろいたのは、日本の先端技術で未来の国のイメージがありました。
二度目に日本に来た時は1995年で、東京の法政大学に1ヶ月ぐらいいました。その間、京都と大阪、奈良へ旅行をしました。京都の竜安寺はとても印象がつよく忘れられません。今回は日本語を正確に勉強して、日本にいる間にいろいろ伝統的なことを習いたいです。また、今回の留学の間に沖縄と北海道へ行けたらいいです。この二つの島の人たちの生活を調べて論文を書く予定です。これからもよろしくお願いします。
1999年6月15日
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呉智英先生と(1999年6月29日 藤ヶ丘にて)
富士と日本の美(ロシア語原文略)
ガウハル・ハルバエワ(名古屋学院大学留学生別科 ウズベキスタン出身)
私はちゃんとした美しいエッセーを書けたらと思いますが、頭の中がまだ十分整理できていないので、思ったようにいかないかもしれません。
さて、私たちが出発した日はあいにくの大雨で、せっかくの旅行なのに残念でした。ガイドさんから「おはようございます」と言われても、皆の返答はか細いものでした。気が乗らなかったからです。今回の旅行の目的は富士山を見ることでした。ところが、こんな雨ではとうていそれは叶わないと思われたのです。
夕方6時頃、私たちは静岡県に着きました。「ますの家」という旅館で一泊することになっていたのです。
この旅館はなんとも美しい庭園に囲まれた、素晴らしい古い和風の建物でした。薄暮の光の中で、よけいロマンチックに見えたのかもしれません。庭はすみずみまで手入れが行き届いていて、それが大切に管理されていることをうかがわせました。私はこの場所を離れたくないと思ったほどです。しかし夕食の時間になりました。食事もまた当然印象深いものでした。ご飯だけでもこの世で最高に美味しいものだと思われました。今、この晩のことを思い起こすと、それがはたして本当であったのかと疑うほど、全く素晴らしいことだったと考えています。
床につく前に日本語の先生の助言で、皆で「てるてるぼうず」を作りました。そして奇跡が起きたのでした。朝、私たちは燦々と瞼に差し込む太陽の光で目覚めました。五月晴れです。私たちはゆかたのままで顔も洗わず、すぐに表に飛び出しました。富士山が見たかったからです。木の間越しに、はじめは何も見えません。しかしすでに庭に出ていた学生たちの集団に近づき、皆のカメラが向いている方に目をやりました。そしてついに「それ」を見たのです。富士がその麗姿を眼前に現しました。それは荘厳で、近づき難く、冷ややかなまでに玲瓏とした美しさでした。富士はその力を誇示するかのように私たちの頭上に聳え立っていたのです。写真の富士と「なまの」富士とでは全く別物です。私は瀬戸市に住んでいて、小さな日本の家や狭い部屋に慣れてきたのですが、おそらくそのためでしょうか。その場で感じたのはあまりにも鮮やかなコントラストでした。まことに日本という国は、コントラストの国だと言えます。
朝食の後、私たちは富士山をもっと近くで見るために出かけました。近くから富士山を見ると、自分が小さな存在であり、「大いなる」自然のちっぽけな一部だと感じられ始めるのです。人間が自然を支配しているのではなく、その逆なのだという自覚が生まれます。自動車やガラスとコンクリートで出来ているビルの世界に生活している私たちは、このことについてたまには考えてみなければなりません。そうすれば様々な自然な生き方、純粋な感情や美しさに立ち返ることができるでしょう。
その日の夕方、私たちは長野県に着きました。そしてこじんまりした古い旅館に泊まりました。夕食後、皆で温泉に出かけました。より正しく言えば露天風呂に入りに行ったのです。そこでは、明かりを消して満天の星空を楽しむことが出来ました。なぜ日本の人々は単純な、手の込んでいないと思われるものの中に美を見いだすことが出来るのでしょう。たぶん日本人は「もののあわれ」と呼ぶ「美学」の概念を考えだしたからでしょう。私たち外国人にできるのは、おそらく、その美しさを鑑賞することだけです。日本人が感じているのと同じように感じ取るということは、私たちには不可能なのです。それは遺伝子によって受け継がれていることがらです。私は日本人ではないのですから、きっと日本人の皆さんのようにその美を十全に感受することはできないと思うのです。
ともあれこの旅行は、とりわけ富士山は、私に消しがたい印象をもたらしてくれました。驚くほどの自然の美しさ、都会人とは違った人々の親切、美味しい食べ物、露天風呂、これらを私はずっと忘れないでしょう。そこには新しい世界に触れ、日本人の「心」をのぞき見る可能性がありました。それは私にはとても美しいものと思われました。(翻訳文責 加藤史朗)
ユーラからの手紙
ロシア語原文略
日本人の中でロシアのことを教え、ロシアに関する学の発展とロシア語を知らせることに尽力している倦むことを知らぬ楽天家、「ロシアの夢想者」、親愛なる友人、加藤史朗先生へ!
貴兄の大学で大きな関心をもってロシア語、ロシア史、ロシアの文学や文化、ロシア人の生活の様子を勉強している学生たちがいて、「おろしゃ会」がその方面で大きく寄与しているのを知って非常に嬉しく思いました。いつだったか、私はある年輩のイギリス人と話しをする機会がありました。彼は旅行者としてロシアに来た人でした。この人は全くロシア語を知りませんでしたが、英露辞典を携行していて、会話の際に、ちょくちょくその辞書を引くのです。どうして辞書が必要なんですかと私が尋ねると、彼は答えたものです。自分はまだロシア語で話すことも読むことも出来ないのだが、ロシアの作家の本を原文で読みたいと思っていると。ドストエフスキー、ツルゲーネフ、トルストイ、チェーホフといったロシアの作家はロシア語を通して人類に偉大なる数々の作品を残してくれました。そこで彼はロシアとロシア人をより深く理解しようとして、ロシア語が勉強したいと強く願うようになったわけです。
日本の教室におけるロシア語の学習にもそれなりの特徴があります。それを規定しているのは学習者の母語の影響、母語を基礎として得られた言語体験の質と量、外国語をマスターし、習得することの心理的特性、外国語教育の国民的伝統などです。日本人のロシア語学習者が決まって陥る大多数の間違いは、音声学的、文法的、語彙的な誤りです。この原因は、実にいろいろ様々ですが、日本人の学生たちがロシア語を話す際に犯す文法的な間違いの主たる理由は、母語(日本語)の干渉にあるのです。干渉による間違いが起こりやすいのは、学生たちの思考が主として母語によって行われる場合です。なぜなら無意識的にロシア語で話す技能はまだ身についていないからです。学生たちは日本語の文法的なカテゴリーの組み合わせを通じて会話のテーマと内容を把握します。ロシア語を習得しながら、学習者たちは一方で母語の基準に適合する表現を作るわけですから、どうしても長い間母語の影響を免れません。従って日本人がロシア語の文を作る際に、文法上の諸形態や結合は日本語の強い影響下にあります。その上、音声学的なあるいは用語上の間違いが文法的な間違いの上に「積み重なって」いくのです。
ロシア語の学習は日本人学生にとって厄介な課題となっています。ロシア語は世界でも最も難しい言語の一つだと言われます。学習の過程で様々な多くの困難に出会うことでしょう。ロシア語を熟知し、マスターする道はまさに「荊の道」です。その道を最後まで歩みきれば、それはその人にとって大きな栄誉となるでしょう。
ユーリー・B・クロチコフ
(学習院大学・駒澤大学・岩手大学ロシア語講師)
(翻訳文責・加藤)
おろしゃ会の皆様へ
郡 伸哉(中京大学教員)
初代会長各務さん(中央)二代会長原さん(右)と
私は昨年度まで愛知県立大学で非常勤講師としてロシア語の授業を担当していました。9年ほど受けもったと思いますが、その初めの時期、ゴルバチョフが日本に来たころがロシア語受講者の数のピークだったでしょうか(二十数名でした)。その後、受講者の数は減る一方で、このままで大丈夫だろうかと心配しながら、事情があって県大の仕事を辞することになったとき、「おろしゃ会」が結成されたのです。加藤先生の人柄と会員諸氏のエネルギーの相互作用によって。この会が本格的に活動を始めたこと、そしてこの会に私も「非常勤顧問」なる肩書きをもらって参加できることを、とても嬉しく思います。
私はロシア文学を勉強しているのですが、もっと別の対象を専門に選べばよかったと思うこともあります。でもひとつ言えることがあるとすれば、それはロシアとかかわることで、ロシアを知らない大多数の人とは違った感覚や物の見方を身につけた(身につけつつある)ことでしょうか。ロシアには、表面的に伝えられる政治や経済の状況からは想像できないような、独自の精神世界があります。そうした異文化に少しでも触れること(ただしホンモノに触れること)は、その人に何かオリジナルなものを与える可能性があると思います。私自身は専門としてかかわっているので、ロシアに触れて重苦しい気分になることもありますが、みなさんは専門にやるわけではないので、楽しく接して幅を広げられるわけです。 みなさんが「おろしゃ会」の活動を通してロシアの人たちと交流し、芸術に接し、ロシア人の書いた書物を読む(その気になって探せば、さまざまな分野の刺激的な本が翻訳で読めることを強調しておきます)、
そうした機会を増やしていくことを願っています。
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創刊号を読んで
中村 喜和先生からのお便り
拝復
写真、それにお手紙とおろしゃ会会報創刊号拝受。この会はすばらしい。教育者はこのようにいつもアジテーターでなければならないと思います。こういう若い人たちが 大勢あらわれると日露関係も変わるにちがいありません。名古屋のロシア研究に乾杯です。中村
中村先生とリハチョーフ先生(1999年3月22日サンクト・ペテルブルクにて 左の二人、長縄先生・清水先生)
中村先生は、ご承知のように、このたびロシア科学アカデミーからソルジェニーツィンと並んで金賞を授与されました。受賞後の先生のエセーは、文芸春秋の8月号に掲載されています。*******************************
「おろしゃ会万歳」
川上 恭一郎
(在モスクワ 日本国大使館)
モスクワの川上です。
返事が遅くなって申し訳ありません。
5月の連休は、大臣のバクー訪問につきあわされて、中東の暑さを感じてきました。モスクワが底冷えで閉口しています。夜長を道ばたで楽しめる季節はまだもうちょっと先のようです。
戻ってきて、嬉しい先生よりのたよりを発見。オロシャ会の会報、楽しく拝読させていただきました。
先生の心意気が感じられて、なんだかこちらまで嬉しくなりました。それに、会の方の新鮮な感想も興味深く読みました。大阪への旅も首尾良くいったようで何よりです。次はモスクワにいらっしゃいませんか。
彼の地で朝までこの国のこと、日本のこと、100年前のこと、100年先のことまで語ってみるというのもいい経験になるかもしれません。何かお手伝いできることがあれば遠慮なくいって下さい。
不思議なことに、東大の中村氏が書かれているように、なんだかロシアという共通の枠組みがあるだけで、なんだかずっと知り合いだったような気がするものです。
今後のおろしゃ会の発展をお祈り申し上げます。
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「札幌から」
大矢 温(札幌大学・外国語学部ロシア語学科)
楽しそうな会ですね。
また、ロシアに興味を持つ学生が増えたこともありがたいことです。
札幌大学のロシア語学科も、入学希望者が増え、今年は約2倍の競争率になりました。去年は実質全員入学で、定員割れのおそれさえあったので、一同ほっとしています。
ところで、札大ロシア語学科では、毎年夏休みに「ロシア語合宿」というイベントをしています。ロシア語だけしか使わないで4泊5日の合宿をする、というものです。ロシアから学生を招待したり、札幌市内のロシア人を呼んだりして、かなり「ロシア率」が高い環境で生活します。よろしかったらおろしゃ会の方々も参加してはいかがですか。
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親しくなる観点を探す
−露日ラウンドテーブル−
スベトラーナ・ミハイロワ(愛知県立大学講師)
ロシア語原文略
露日ラウンドテーブル−愛知県に住んでいるロシア人とロシアに関心のある日本人が入っている会を私たちはこのように呼んでいます。ラウンドテーブルの主旨は、言葉の壁を感じないで、お互いに親しくなる観点を探し、仕事の期間を終えて帰国した後、日本と日本人について豊かな印象が残るような雰囲気を創り出すことです。実際、ロシア人たちはふだん職場と買い物という限りのある空間の中で生活しています。しかし、ロシア人というものは、本来、人と人とのつながりをたいせつにする国民です。「お茶に呼ぶ」というロシア語の表現は、単にお茶をご馳走するだけではなく、むしろ人と人とが交わり、おしゃべりをするためなのです。人と人とのつながりがないと、ロシア人は苦しみ、不幸を感ずるのです。日本の茶道はこれとは異なります。
日本の茶道では言葉は必要とされません。逆に静と寂が必要とされるです。いかにしたら沈黙を主とした日本人の瞑想と、会話を主としたロシア人の表現欲とを結びつけることが可能となるのでしょう。これこそ、私たちが解決しようとした課題の一つなのです。
私たちはお互いに知り合ってから、日本とロシアのものの感じ方の特徴がわかるようなテーマを選んできました。例えば、茶道・書道・和風建築の特徴・お花見・ロシア料理やグルジア料理・歌などです。「出会い」という言葉がありますが、ここでは、その意味は、平行線として交わらなかったものが、二人、三人、四人の道となって突然に交わることが可能だということです。それは、幸福の瞬間です。このような幸福のために必用とされるのは、背景と夢の共通性です。そうすれば現代文明のなかで、どんどん増殖している無関心主義が姿を消すでしょう。
<和文も著者自身による。スヴェトラーナ・ミハイロワ先生は、県立大学と淑徳大学でロシア語を教えるかたわら、四年以上にわたり、上記のようなラウンドテーブルを主宰しておられます。モスクワ大学哲学部東洋哲学科のご出身で、道元禅師について修士論文をお書きになったそうです。加藤>
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ナターシャ・グジーのコンサートで通訳を勤めて
乗松 恭平
(東京大学大学院人文社会系研究科スラヴ語スラヴ文学専門課程修士1年)
ナターシャ・グジーという名のウクライナの少女が先日まで日本に来ていたことは、ご存知の方も多いかもしれません。1987年のチェルノブイリ原発事故で被害に遭った彼女は、重度の後遺症に苦しむ故郷の子供たちを支援するため、日本各地でチャリティーコンサートを開いていました。かくいう私は、大学の研究室で彼女のポスターを目にしながらも、母校の麻布高校でそのコンサートの一つが開催されるという電話を受けとるまで、注意を払うことはありませんでした。
私とロシア語の関わりは、今から8年前、ソ連崩壊の混乱期に、加藤先生が高校で開講されたロシア語講座に参加して以来です。高校1年生だった私は、しばらく前に読んだ『罪と罰』をきっかけに、ドストエフスキー熱にとりつかれていたのでした。大学でもロシア文学を専攻し、昨年は念願かなって、モスクワで8ヶ月間の留学生活を送ることができました。
突然かかってきた電話は、高校の文化祭でナターシャのコンサートが行われるのだが、その通訳をやってみないかというものでした。舞台上でもしゃべるという重責に、秋に帰国して以降ロシア語会話から遠ざかっていた私は、チェルノブイリ事故への知識のなさもあって正直尻込みしましたが、結局引き受けさせていただくことになりました。一つには、清潔な民族衣装に身を包んだあのポスターの少女と話してみたい、と思ったからでもあります。
本番の1週間前に、初めてナターシャに会いました。公民館でリハーサルの最中だった彼女はもちろんポスターとは違って普段着で、近視なのでしょう、眼鏡をかけていました。19歳の身で、被害者救済のためコンサートにまわる少女という情報から描いていたイメージよりは、全然ふつうの印象です。実際、しばらくしゃべるうちに懐かしい気持ちが湧いてきたのは、音合わせがうまくいかなくてちょっと不機嫌に
なったかと思うと、もう冗談に笑いころげているような無邪気さが、モスクワで出会ったロシアの女の子たちの多くと、共通している気がしたからでした。そんな、友達のだれかれと少しも変わらない少女が、大変なことを行っているという事実が、余計に重く思われました。本番の日も、私に気を遣って簡単な語を探してくれたり、歳は23だと言うと「せいぜい19くらいにしか見えない」だなんて言ってくれたりする彼女から、舞台の上の姿を想像することはとてもできないほどでした。
しかし本番の時間が近づいてきて、講堂の前に長蛇の列ができる頃になると、さすがの彼女にもナーバスな気配が現れました。舞台衣装に着替えて、高い靴を履いて、満足に進まぬマイクチェックにいらだちを隠せぬようです。それでも、「これはふつうなの(エタ・ノルマーリナ)?」と尋ねる彼女は微笑を浮かべており、チャリティーに身を捧げる人の優しさの一端を見た気がしました。
コンサートは大成功でした。ナターシャの歌と、ウクライナの民族楽器バンドゥーラの演奏、民族舞踊に、チェルノブイリ基金を支援している広河さんの話、スライド、客席には涙を拭いていた人もいたそうです。私も、わずか数分の間でしたが、ナターシャが事故の日の模様を舞台から語った際、通訳の勤めを何とか無事にこなすことができました。ナターシャからも「オーチン・ハローシー・ペレヴォートチク(とてもよい通訳)」とどうやらお墨付きをいただき、ほっと胸を撫でおろしたことです。 留学時代も含めて感じることは、ロシアやウクライナの人たちとの交流で、外国人だからと変に身構える必要はまったくないということです。確かに、その国によって
人柄に大まかな傾向は見てとれるとは思います。しかし個人的な付き合いの限りにおいては、その人の性格を、ロシア人だから、ウクライナ人だからと国籍や民族性にかこつけて整理してしまうのはつまらないことで(かつ乱暴なことで)、それはあくまでその人個人の性格として受けとめるべきでしょう。つまり、ロシア人だろうと日本人だろうと、いい人はやっぱりいい人で同じようにいるし、好きな人はやっぱり好きな人です。
そして私は、ナターシャはとても好きな人だなあ、と思ったのでした。
コンサートの後で乗松氏と
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「ニチェヴォーは私のためにある言葉」
小林由紀 (筑波大学環境科学研究科修士1年)
私が初めてロシアの地を踏んだのは1995年9月。もちろん旅行でした。未だに人から「何故ロシア?」と聞かれても答えられないのですが、とにかく惹かれるものがあったのでしょう。怖いもの見たさ、が一番大きかったと思います。なぜなら、社会主義とか革命なんて言葉に興奮してしまう少女時代だったからです。(ジョージ=オーウェルの”1984年”の世界が本当にあると思っていたのです。)大学では不勉強で、しかもロシア文学だって一冊も読んだこともなく、次に長期滞在を目的としてモスクワに渡った1997年4月に至っても1から10までもロシア語で数えられず、動詞も基本の5個ぐらいしか知りませんでした。日本でやりたいことが見つけられず国外逃亡でもしようかと思って選んだロシア留学は、そんなわけで全く「逃げ」になりませんでした。もちろん毎日がサバイバルです。自分にとっては初めての外国暮らしです。そして言葉がわからない。言われていることもさっぱり。買い物をしようにもあのころはまだデノミ前で、お札のゼロが・・・・、「おや?これは一体いくらなの?」という具合で、その上名詞も知らないのですから、4月はずーっとキャベツとソーセージ、卵ばっかり食べてました。町には何もかも溢れていた(みなさん、行列は嘘ですよ。)というのに。と、そんな感じで日々が過ぎていきましたが、人間なんとでもなるものなのです。気にしない、ニチェヴォーの精神ですよ、必要なのは。適応力があるといいますか、生命力みたいなものでしょうか。私はすっかりモスクワ生活に慣れ、親に帰ってこい、といわれても延ばし延ばしにして、結局完全に引き揚げたのは1998年8月末でした
ロシアで得たものはとてつもなく大きい。言葉には出来ません。私の今のひととなりを作ってくれていると思います。そしてロシアにいた、という経験(経歴)が私に様々な出会いやチャンスを与えてくれています。ロシア語は「しゃべれる」というには程遠いのですが、とりあえずロシアで生きてはいける、という自信のようなものがつきましたし、なにより自分の心が帰るところなのです。だから私はあまりロシアについて誰かと語り合ったりはしないのです。なんとなく出し惜しみです。自分だけのイメージがあるのです。(好きなところばかりではありません。嫌いなところも、怖い思いも実際しましたが、でも、ひっくるめてみれば私にとってはプラスなのです。)
そして、現在はやっぱりロシアと離れたくなくて、筑波大学の大学院で、ロシアの環境問題、特にシベリアの森林開発と破壊、先住民社会への影響といったテーマで研究しています。
なんとなく始まっていた私のロシアとの付き合いは形や場所、雰囲気を変えて続いていく気がしています。皆さんに薦めたいのは、ロシアの何か一面を知ったのなら堅苦しく考えず、是非「風景」を見に、そして匂いを感じに行ってみて下さい。ニチェヴォーの精神を味わいに。
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新会員紹介
「第一外国語としてのロシア語」
田辺先生と私
平岩 貴比古(愛知県立大学文学部日本文化学科1年)
県大でロシア語を学び始めて二ヶ月。気が付いたら、私は「おろしゃ会」に入会していました。大学入学以来、「絶対サークルには入らない」と心に決めていた自分が折れたのは、いささか不思議です。外国語科目の選択時には、キリル文字を読みたいとの一心で、迷わずロシア語を選びました。日本とロシアは、いうまでもなく隣国です。もちろん他にも近隣諸国はありますが、唯一の白人国家として、ロシアは特別な存在であるとも言えるでしょう。しかし、日本海や宗谷海峡が実際より「遠い」と感じられるのも、また事実です。私は今では、ロシア語を自分のスキルにしようと、本気で考えています。実際、英語が第一外国語ということになっていますが、私にとってはロシア語こそが第一外国語なのです。ロシア経済が安定したら、みんなでシベリア鉄道に乗りに行ってはどうでしょうか。
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「ロシアと私」
渡辺 俊一(愛知県立大学大学院国際文化研究科修士課程2年)
物心ついたころより、アメリカのホームドラマやハリウッド映画を見て育った私は、西洋社会に強く惹かれる様になった。しかし、西洋ははるか彼方で、遠い存在だった。18歳で上京した際、一冊の雑誌と巡り合った。それは、「今日のソ連邦」で、そこには、ロシア極東の、ハバロフスク、ウラジオストック、希に、ユジノサハリンスクの写真が載っていた。そこに住む人々や、風景は、西洋的であった。日本海の対岸に白人がいることは、非常に興味をそそられたが、冷戦下、ソビエトロシアは、日本から、近くて遠い国だった。それまでのロシアに対する私のイメージは、戦前日本にいた白系露人、巨人軍のスタルヒン、何度も戦った伝統的敵国といったものだった。1991年ソ連が崩壊し、ロシアは、日本にとって、もはや、軍事的脅威とは言えない存在と言っても過言ではないだろう。
ロシアと日本の接点は何であろうか?いままで、両国とも西と東の狭間で揺れていたような気がする。
スラブ系で西洋人だと自認するロシア人も西欧人からは「一皮むけばタタール」と陰口を言われることがある。一方、日本人はアジアの人たちから、バナナといわれる。外見は、黄色だが、中身は白いというわけである。両国が協力して、ヨーロッパとアジアの橋渡しができれば素晴らしいと思う。かつてポーランド人が日本人にこう言った。「我々は大きな森を隔てた隣人だ」そう、大きな森はロシアのことなのだ。
将来宗谷海峡にトンネルをほり、樺太経由で東京からパリまで新幹線で行けたらなんと素晴らしいことだろう。日本とロシアの親善を希望する今日この頃である。
最後に、樺太犬を保存しようとして活動していますので、興味のあるかたは、ご連絡ください。
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「はじめまして」
森田 愛子(愛知県立大学文学部日本文化学科1年)
はじめまして。愛知県立大学文学部日本文化学科1年の森田愛子です。語学の授業でロシア語を受けているわけでもないのに、おろしゃ会に入ってしまいました。ロシア語、さっぱりわからないのですが、なんとか頑張ってみるつもりです。頑張り切れなかった時は、速やかに通訳をお願いすると思いますので、その時はよろしくお願い致します。
ロシアに関する難しい知識は皆無です。あるのはロシアに対する正体不明の憧れだけです。ロシアは、歴史・文学・風土など、どれも私のツボにはまるのです。
ロシア料理はまだ未経験ですが・・・一度挑戦してみたいです。
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「ロシアへの関心」
日高 千佳絵(愛知淑徳大学 現代社会学部1年)
はじめまして、日高千佳絵です。わたしの小、中学生の頃のロシアに対するイメージは、『行きたいけど、危険そうで結局、訪れることができそうにない国』というものでした。ではなぜロシアに大きな興味を持つようになったのかというと、その理由の1つにフィギュアスケートがあります。ロシアにはフィギュアスケートの上手な選手が大勢いて、自然に彼等の国にも興味を持ちました。もう1つの大きな理由にフィギュアスケートと同じ頃、好きになったSergei Nakariakovがいます。わたしは彼のトランペットがとても好きです。秋にはリサイタルにも行くつもりです。そういった理由でわたしはロシアに大きな興味を持ちました。ロシアの事を色々知りたいので、会にも積極的に参加したいと思います。では、これから末永く宜しくお願いします。
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「はじめまして」
杉山 弓佳(愛知淑徳大学現代社会学部現代社会学科1年)
はじめまして。わたしは、愛知淑徳大学現代社会学部1年の杉山弓佳です。
わたしは昔から大変ロシアに興味を持っているので、おろしゃ会に入ることができてとてもうれしいです。大学では、スヴェタラーナ・ミハイロワ先生のロシア語の授業をとっています。面白いけれど、とても難しいです。もう少しロシア語をがんばって、学生のうちにロシアへ旅行に行きたいと思っています。
そして大好きなフィギュアスケートとバレエを生でみたいです。このことは、語ると長いので、このぐらいでやめておきます。では夏の遠足を楽しみにしています。
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「よろしく」
竹内 誠(愛知県立大学外国語学部・フランス科4年)
愛県大4年の竹内誠という者です。加藤先生の講義を受けている関係で、この度おろしゃ会に入会させて頂くことになりました。4年生ということで、どれほど顔を覗かせることができるか定かではありませんが、何卒宜しくお願いします。趣味は広く浅くもっています。バスケ、読書、等など。時々、ふらっと絵を観にいったり、好きな喫茶店に友達を招いたりと、忙しくなると衝動的に動きたくなります。残り僅かな期間ですが校内で見かけたら声でもかけてやって下さい。
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「露西亜・ヴァイオリン・わたし」
江頭 摩耶(愛知県立芸大・器楽専攻2年)
私は愛知県立芸大のヴァイオリン科の2年生です。ヴァイオリンは4歳から始めました。高校2年の時からロシア人のミハイル・ヴァイマン先生について勉強しています。普段は英語でレッスンをするのですが、ロシア語でレッスンが受けられるようになりたいと思い、3年前からロシア語の勉強を始めました。
独習で2年間、1年前からはユーラシア協会のロシア語教室に出ています。将来はロシア人の先生についてヨーロッパでヴァイオリンの勉強したいと思っています。
音楽以外でもロシアには関心があります。たとえばドストエフスキイやチェーホフの文学作品をたくさん読みました。なかでも、ドストエフスキイの『罪と罰』は3回も読みました。バレエやオペラなど、本場でいつか見てみたいと思っています。
芸大には残念ながらロシア語のクラスがありません。単位互換制度のことを知って、早速申し込みましたが、ロシア語が正式にとれるのは来年からだと言われました。でも幸いにも、テストケースとして非公式ながら、スベトラーナ・ミハイロワ先生の授業の聴講を許していただきました。毎週月曜日の2限にこんな奇麗な学校で勉強できるなんて、とても嬉しいです。どうぞ宜しくお願いします。
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「外から見ています」
榊原賢二郎(麻布中学校3年)
お返事ありがとうございました。いつも気にかけて下さって感謝しています。
加藤先生の大変なことも進んで引き受け、やがて周りの人も引き込んでしまう人柄をうらやましく思い、僕もそうしたいと思っています。
しかし今の僕は喘息や目のことなど他の人と比べて使える時間が限られています。しかも不器用なのでその時間さえ有効に使えず、目前の雑用に追われています。
おろしゃ会への参加にしても中途半端な活動になりそうで無理かと思います。外に身を置いてみなさんの活動を見せていただきたいと思います。
ロシア語はラジオの講座で少しずつ続けて行くつもりです。
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呉智英氏 講演要旨
講演日時 1999年6月29日(火)16時〜18時
演題「テキストとしてのロシアーはだしのゲン・レーニン廟・プロップー」
呉智英氏はロシアをテキストとして読むと、既成の観念にとらわれず、様々な読み方ができるということを、マンガ『はだしのゲン』との対比でわかりやすく語ってくれました。次のように私は聞きました。
『はだしのゲン』というマンガは普通、反戦平和のマンガの代表的なものとして、PTAなどの推奨図書ともなり、ヒロシマの悲劇を描いた代表作としてロシア語にも翻訳されている。しかし、テキストとして素直にこれを読めば、その生々しいリアリティーこそ重要なのである。そのリアリティーは、たとえばこれを読んだ読者が、「アメリカへの復讐を誓う」であろうことさえ予想させる。さらに言えば、このマンガのクライマックスは、見開きページ(マンガの最高のスペース)を使ったゲンの妹葬送の場面である。その場面で延々と描かれているのは、蓮如上人の白骨の御文である。つまり『はだしのゲン』は、浄土真宗の説法マンガとして読むことさえ可能なのだ。反戦平和のマンガとしてのみ『はだしのゲン』を評価することは、実はテキストとしてこのマンガをきちんと読んだことにはなっていない。それはテキストを無視した思い込み、つまりイデオロギーに基づく読み込みに過ぎない。ロシア=ソ連についても同じ事が言える。これまでロシア革命は、フランス革命以来の人権思想の勝利へと至る輝かしい道標として位置づけられ、社会科や公民の授業の中でも特筆して説明されたきた。だが、こうした見方は、宗教や神を否定したフランス革命やロシア革命の中で、最高存在の祭典やレーニン廟がもつ意味を無視した思い込みと言えるだろう。それはいわばイデオロギーなのであって、テキストとしてフランス革命やロシア革命を素直に読んだことにならないのである。フランス革命200周年を機にしてソ連が崩壊した現在、テキストとして素直にそれらを読むことが重要なのだという認識がやっと広まるようになってきた。イデオロギーの呪縛から解放され、まさに知的な関心の対象としてロシア革命を見る機会が到来したのである。その観点から言えば、テキストとしてのロシアは、面白くて仕方がない対象と言えるだろう。プロップは、そうした読み方の先駆者であった。だからこそ、レヴィ=ストロースは、彼の仕事を構造主義の先駆と認めたのである。今こそ格物致知の精神を蘇らす時であり、決して玩物喪志(フェティシズムやオタク)の傾向に埋没してはならない。「おろしゃ会」に集う青年諸子よ、今こそ学問が面白い。学びて倦む事なかれ!
講演の要旨は、まさにおろしゃ会の主旨「ロシアと素直に向き合う」と、はからずも一致したものとなりました。ご関心のある方は、お申し出下さい。当日録音したテープをお貸しします。(加藤)
<編集後記>
おろしゃ会は第一次幹事会(会長 各務永都子、副会長 原 豊美、会計 鈴木夏子)の後をうけて、
第二次幹事会(会長 原 豊美、副会長 渡辺俊一、企画・会計 平岩貴比古)へと引き継がれました。去るものは日々に懐かしいというのが、若い人々の良さです。第一回行事の主役、大阪のセルゲイから、昨日電話がありました。7月22日から25日にかけて名古屋伏見の国際センターで開かれるロシア・フェスティバルに行くから、各務さんたちに会いたいというのです。あいにく私はロシア思想史研究会の合宿と重なりました。おろしゃ会は、若い人々のものです。私は、合宿を選びたいとおもいます。大阪のセルゲイとおろしゃ会の面々は、楽しい再会の一時をもつことになるでしょう。
ちょっと寂しいけれど。 1999年7月14日 加藤 |