おろしゃ会会報第3号
1999年12月8日
愛知県立大学おろしゃ会
はじめに.... 1
ドミートリイ・リハチョフ氏の葬儀に参列して... 2
カムチャツカだより... 9
ドアを開くロシア語とわたくし... 10
プーシキンについて... 13
本を読むと頭が痒くなる... 16
おろしゃ会・夏のエクスクールシヤ.... 20
各地からの便り... 28
「加藤先生との出会い」. 28
母とロシア... 29
極東ロシアの寒村を訪れて... 30
「こんとん渦中」. 33
「おろしゃへの遠き道」を読んで... 34
私たちとの交流を... 35
今、樺太(サハリン)について考える... 37
大学の先輩からの手紙.... 39
私が初めてロシアを知ったのは?. 40
予定より発行が遅れてしまいました。早くから原稿をお寄せいただいた方々には特にお詫びいたします。会報の第2号で紹介したリハチョーフ先生が、9月30日にお亡くなりになりました。94歳でした。今年の春、横浜国立大学の長縄さんたち「ロシア思想史研究会」のメンバーとペテルブルクを訪れた時、たまたま同じホテルに宿泊されていた中村喜和先生のご紹介を受け、最晩年のリハチョーフ先生にお目にかかれたのがせめてもの慰みです。葬儀に参列された新潟大学の中澤敦夫さんより、貴重な報告記事をいただきましたので、お借りした写真とともに掲載します。
「おろしゃ会」では9月11日に伊勢白子に遠足に出かけました。前の大阪への遠足と比べると、今回は、すべて学生の企画・準備によるものです。大阪のロシア連邦総領事館からセルゲイ・ツァリョ−フが名古屋まで新幹線で駆けつけ、合流してくれました。また来る12月14日(火)には第2回講演会を開きます。皆様のご参加を期待しています。私事ですが、11月に成文社のホームページにリレーエセ−「おろしゃへの遠き道」を掲載しました。ビデオクリップまでついています。ご笑覧下さい。会報のバックナンバーも県大外国語学部のホームページに公開中です。あわせてご覧下されば幸いです。この会報に掲載されている「お便り」のいくつかは、インターネットで会報などを見て下さった方がe-mailで感想を寄せて下さったものです。第3号も同僚の助力で近い内にアップロードする予定です。(「おろしゃ会」顧問 加藤史朗)
リハチョーフ先生と中村先生ご夫妻、左端は神戸外大清水先生(1999年3月22日)
中沢 敦夫(新潟大学)
ひと夏かけてようやく書き上げた学位論文の内容指導を受け、また追加の資料調査のために、大学の秋休みを利用して、ペテルブルグに到着したのは9月29日のことだった。友人で指導教官でもあるロシア文学研究所(プーシキン館)の研究員サーシャが空港に出迎えにきてくれたが、その最初の言葉は、「いま、病院からきたところだ、リハチョフが病気で、昨夜、手術があったが、まだ意識はない」というものだった。
翌30日、ペテルブルグの図書館利用の手続きのために町を歩きまわり、お昼頃、ワシーリイ島と科学アカデミー図書館前のサハロフ広場にたどり着いたとき、プーシキン館の方角へ向かう、研究所の若手研究員オレークにばったりと遭った。この辺りは大学、図書館、研究所が集中している場所なので、友人・知人に偶然に遭うのは珍しくないが、オレークが場違いなほど大振りの白いバラの花を四輪手にしていたので理由を訊くと、ドミートリイ・セルゲイヴィチ亡くなった、今、研究所に人が集まっていると言い、挨拶もそこそこに足早に去っていった(このバラは、私の滞在期間中、研究所の玄関の間に遺影とともに飾られていた)。
その時から私がペテルブルグを発つ10月9日までの間、リハチョフ氏の葬儀とそれにかかわる行事や出来事の渦中に身を置くことになった。というのも、私が3年前に1年間の研修を行い、そのかかわりで今回学位論文を提出することになった機関はロシア文学研究所(プーシキン館)の中世ロシア文学部門なのだが、リハチョフ氏は最後までこの部門の主任を務めており、ここは氏が45年もの間一貫して学術活動の拠点としていた場所なのである。そこに勤務するスタッフは、文字どおりの氏の弟子たちであり、勤務先の上司・部下以上の関係にある。運命のいたずらによって東の国からふらりとやってきた私は、親族・友人をのぞけば、リハチョフ氏の死を最も切実に受けとめた人々の中に交わり、いわば身内の一人として、一連の出来事を経験することになった。以下、出来事を追いながら、そこで見聞きしたこと、感じ考えたことの幾つかをお伝えしようと思う。
リハチョフ氏の葬儀は、氏がペテルブルグの名誉市民の称号を受けていたことから、市長を委員長とする葬儀委員会が組織することになった。そのため、研究所の部門のスタッフたちは葬儀運営の実務からは解放されたが、自分たちとしてどうかかわるかを話し合うために、10月1日の午後に研究所に集まった。そこには、ドイツに留学中の若手の研究者や、ノヴォシビルスク文学研究所のロモダノフスカヤ所長、リハチョフ氏の弟子で現在はモスクワ世界文学研究所研究員のロビンソン氏など、他所から駆けつけた人々の顔もあった。挨拶もそこそこに、連絡先の確認、弔電のとりまとめ、新聞・雑誌死亡記事の収集などについて話し合われる。誰かが言い出して暗黙の了解となったのは、没後40日(故人は40日までは完全に死者の世界に属さないとされる)までは新しいことはなにも決めないでおこうということであり、そのこと自?体が、これから研究所で起こるであろう変化の大きさを予感させる。
葬儀は逝去から3日後の10月3日の日曜日に行われた。早朝、棺を運ぶ役を仰せつかり、部門の男性スタッフ五人とともに病院へ。病院の遺体安置所で遺体と対面した。その後の儀式の荘厳に作り上げた雰囲気を思うと、静かで簡素な場で、リハチョフさんとお別れできたのは幸いだった。
遺体とともにマイクロバスで、市民葬(Grazhdanskaia panikhida)の会場、タヴリーダ宮殿に向かう。バスが市街に入ると、ゴローホヴァヤ通りから、イサーク寺院、青銅の騎士の傍らを通って、ネヴァ川沿いにエルミタージュの先まで行き、そこから宮殿のあるスモールィニイに向かった。ちょうど、中心地をぐるりと巡るようなコースで、車窓からは、晩秋のペテルブルグの景色が薄明の中に次々と移り変わっていった。生涯もっともかかわりの深かった都ペテルブルグの「最後の道」をリハチョフ氏に歩んでもらおうという主催者のはからいなのかもしれない。
遺体がタヴリーダ宮殿のエカテリーナの広間に安置され、10時から一般の弔問が始まる。私は部門のスタッフとともに、遺族席の後ろで立ち続ける。ひっきりなしの?弔問客は性別、年齢とも多彩で、組織されて来たふうはない。彼らの大多数にとっては、おそらくこれがリハチョフ氏との初めての対面だろうが、その表情には親しい友人・知人を見送るような感情がこもっている。弔問の列は16時まで途切れることは?なかった。世界的な学者というのとは別の私のよく知らない、ロシア人にとってのリハチョフ氏がここには確かにいるのだと思った。
タヴリーダ宮殿における市民葬(筆者撮影)
16時から招待者だけの市民葬の儀式が始まる。両都の市長、政府・議会の代表、科学アカデミー、ペテルブルグ大学のトップなどの弔辞が続く。広大なホールで音響が悪く、また一日の緊張による疲れのせいでほとんど何を言っているのか聞き取れない。2時間という時間の制限の中でリハチョフ氏に親しい人にまで言葉を述べる機会が与えられず、この儀式の評判はよくなかった。
18時過ぎにホールから棺が運び出され、ペトログラード区の競技場の近くにあるウラジーミル公教会に安置される。ここは、一時期リハチョフ氏が住んでいた家の近くにあり、家族とともに通っていた教会とのこと。私たちもバスで教会へ。私は簡単な安置の儀式のあとで帰宅したが、部門のスタッフは、これから1時間交替で夜を徹して詩編を読むとのことだった(この儀式はゴーゴリの「ヴィー」などを参照)。
翌朝10時から教会で、遺体を前に、追悼の祈祷式(ザウポコイナヤ・リトルギア)が執り行われる。これが教会葬にあたるが、一連の葬儀の行事の一環で、市長、遺族も出席。荘厳な儀式の中、3時間ほど蝋燭を手に立ち尽くす。終わって、出棺のために聖堂を出ると、外にも実に多くの人がいるのには驚かされた。埋葬の墓地は遠いので、人々にとっては教会からの出棺が事実上の別れになるわけだ。
仕立てられたバスで、1時間半ほどかかって、フィンランド湾に面する別荘地にあるコマローヴォの墓地へ。ここには、氏の両親の墓、早世した娘のヴェーラ・ドミトリエヴナの墓があり、近くにはリハチョフ家の別荘もある。墓地で葬送(オトペヴァーニエ)の儀式が行われ、「永遠の記憶」(ヴェチナヤ・パーミャチ)が会葬者によって歌われる(パステルナーク「ドクトル・ジバゴ」の冒頭を思い出して下さい)。そして埋葬。棺が墓穴の中に降ろされ、遺族をはじめとする会葬者が土塊を投げ入れるのを見ていると、文字どおり
uidti v matj-zemlju という表現を思い出す。
埋葬式が終わり、部門のスタッフとともにバスで市内に戻る。引き続いてロシア文学研究所への大ホールで、追善の会食(ポミンキ)が行われる。はじめのうちは公式の弔辞も続いたが、1時間ほどが経ち官吏たちが退席すると、研究所や部門のスタッフの追悼の言葉が始まる。ようやく、どんな組織をも代表しない言葉、個人的な思い出の言葉が聴けるようになった。もちろん、みな控えめで、その言葉も雄弁ではなく、混乱したものが多かったが。意外(?)だったのは、この場に出席していた大統領夫人ナイナ・エリツィナの弔辞が、自分にとってのリハチョフ像だけを語って大変印象的だったこと。
コマローヴォ墓地における埋葬(筆者撮影)
翌日(5日)、研究所のロシア中世文学部門で会合があるというので私も呼ばれた。議題は、リハチョフ氏逝去にともなって予想される当面の変化にどのように対処するかということで、具体的には、葬儀委員長でもあるペテルブルグ市長ヤコヴレフ氏に、部門の名前で陳情書を書こうというものだった。議論百出のあげくに決まった内容は、次の6項目である。
@リハチョフ氏への特別年金をはじめとして、生前受けていた便宜を遺族が引き継げるように取り計らう。A研究所のリハチョフ氏の部屋を、記念執務室兼博物館として保存する。Bリハチョフ氏のアルヒーフを保存、管理、収集するために、文書研究スタッフの定員を、研究所に一つつけるように取り計らう。C研究所と、リハチョフ氏の住居に、記念の銘板を付けるように取り計らう。Dリハチョフ氏の学統を継続するための、奨学金を創設する。Eペテルブルグ市内の通りあるいは公園などにリハチョフ氏の名前を遺す。あるいは、ペテルブルグ市内に、リハチョフ氏の構想にもとづく 公園を創設する(氏の著書で邦訳もある『庭園の詩学』を参照)。
以上のことは、まだ仲間内の話ではあるが、リハチョフ氏が弟子たちにとってどのような存在であったか知る上でよい例なので紹介した。ここに挙げられたものの中にはペテルブルグ市長の権限に属さないものもあるが、中世ロシアの「嘆願書(チェロビトナヤ)」の習慣と同じく、権力を持った人物に対して、とりはからいを願うという内容である。考えてみれば、リハチョフ氏は社会的にも、研究所の組織の中でも、いわば超法規的存在として「嘆願」を受ける立場にあり、弟子たちに文字どおりの「庇護」を与えてきた。その支柱を失った今、研究所の中世ロシア文学部門は、定員 削減、予算縮小など現在のロシアの学術研究機関が直面している困難にじかにさらされることになる。これまでのような活発な研究・出版が続けられるのか。これまで氏の求心力によって保たれてきた部門の優秀なスタッフが、海外に散ってしまうのではないか。リハチョフ氏が確立し、部門が継承・発展してきた学的な伝統はどうなるのだろうか。懸念される問題は多い。
以上書いてきたことの他にも、仲間内で飲みながら話したこと、10月8日にリハチョフ家で行われた追悼の会食(ポミンキ)(この時に上記の「陳情書」を市長に渡した)での様々な思い出の話など、エピソードはまだあるが、最後に、リハチョフ氏に関わる私の因縁めいた思いを一つ書いておきたい。
先に触れた1996年の3月から1年間のペテルブルグでの研修で、日本から2冊のロシア語の本を持参した、それはY・ルリエ『14〜15世紀全ロシア的年代記』とD・リハチョフ『テキスト学』だった。重い荷物を考えて、持参する本をこの2冊にしぼったのは、参考書として使うことの他に、この2冊に特別な思い入れがあったからだった。両方とも取っつきにくく難解な内容でありながら、苦労して読み進めていくうちに、この説明をするために、この論証を出すために、この結論を下すために、二人の学者は、どれほどの資料をめくり、何十回・何百回アルヒーフに通い、どれほどの人生の時間を使い果たしたのだろうかと、あきれてしまったのである。大袈裟な言い方をすれば、本の中に「学者の生き方」を見せつけられて、これはきちんと付き合わなければ相済まないというような、気持ちにさせられたわけだ。
ペテルブルグに到着した翌日3月19日に、私はルリエ氏が亡くなったことを知らされた。その時、感じたのは「しまった、遅れをとった」という気持ちだった。研究上の助言を得ることができなくなったということの他に、直接にその人に接する機会を失ったという悔いが残った。今回、二冊目の本の著者の死に同じ様な情況で遭遇し、思うようには待ってはもらえないものだという思いを深くした。『テキスト学』を教科書にして書いた論文の審査に立ち会ってほしかった、リハチョフ学派のテキスト学が日本でも続けられてていることを評価してほしかった、など悔いを言えばきりがない。
こんなわけで、出遅れの場面に二度も立ち会うことになったが、今は、置いていかれただけでは済ませられないという気持ちだ。ちょうど、中世の文献を目の前にあれこれ想像を巡らせることによって、有名、無名のその作者たちが私たちに近い存在に感じられるように、二人の遺した著作、論文の中の思考に付き合うことによって、その存在を近くに引き寄せ、少しは、遅れた分を取り戻すことができるのではないか。そんなことを考えている。
広瀬 健夫(カムチャツカ教育大学)
ペトロパブロフスク・カムチャツキー
1997年3月にある年令になったので、信州大学をやめ、その9月からカムチャツカ教育大学の日本語の先生になってもう2年になります。しばしば停電があるなどうっとうしいことも多いのですが、楽しい、面白い事も多いので、もうしばらくカムチャツカ生活をつづけようかと考えています。
カムチャツカは日本より少し広い土地に人口はわずか40万人(1998年)ですからとても自然が豊かで、カムチャツカ唯一の都市(そこには私が住んでいるのですが)、ペトロパヴロフスクにも自然がいっぱいあります。土地が私有制でないというのも大きいと思いますが、町じゅうには雑木林が気楽、無雑作にあります。日本の都市だったら、間違いなくマンションか駐車場に変わっているでしょう。ちょっといくと森がはてしなく続いていて夏には木の実やキノコなどがたくさんとれます。木や森が身近にあるというのはとても気が安まります。6−7割の人がダーチャという300坪ほどの農地をもっていて、ジャガイモ、ニンジン、キャベツ、それにビニールハウスでトマトやキュウリなどをつくっています。大体、4−5人家族の一年分の食料(パン、肉などを除いて)は自給しているようで、隣のビクトルのダーチャにはときどきつれていってもらいますが、雑草とりなどの労働の後、白樺の木陰につくられた木のテーブルで、とりたてのトマトやキュウリ、卵などを買ってきたビール(はかり売りの地ビールですが、これがうまい)をのみながら食べるのは、いやもう最高です。夏は10時頃まで明るいし、ゆったりと時間が流れていきます。ビクトルに「これは貴族の生活だ」と冗談めかしていうけど、本当に優雅な生活で、日本ではちょっと考えられません。
もっともこの貴族の生活には、それなりの努力も必要で、十数年前に安い価格でダーチャ用の白樺林が払い下げられたのですが、その白樺を切って畑にかえ、その一隅に2階建ての小舎を自力で建てたのです。ロシア人男性は、サービス産業が発達していないことから、なんでも自分でやるし、出来るのにはびっくりしてしまいます。
去年の8月からルーブルが下がってロシア経済はたしかに大変なのですが、そしてお乞食さんもふえたように思いますが、野菜は大体自分でつくるし、自立的な部分が多いので、貴族の生活とよびうるようなゆったりした部分があることも確かで、そのへんは日本より豊かだという気がします。(1999年8月)
白樺の森の中を散策する筆者
ドアを開くロシア語とわたくし
スベトラーナ・ミハイロワ
(愛知県立大学講師・おろしゃ会非常勤顧問)
作家のツルゲーネフは「ロシア語」という散文詩の中で次のように書いています。
「疑いまどう日、祖国の運命を思い悩む日にも、ロシア語よ、汝だけが私の助けと支えになる。おお、偉大で力強い、真の自由なロシア語よ!汝がなければ、いま祖国で行われていることを見て絶望に陥らずにはいられようか。それにしても偉大な国民にこのような言語が与えられていないなどとどうして信ずることができようか!」
この短い散文詩は「ロシア語」というシンプルな言葉の組み合わせに含まれている豊かさを、これ以上はないほど見事に表現しています。ツルゲーネフは長く外国に住んでいましたが、祖国との遺伝子的な関連を失ったことがなかったのです。この詩は今から100余年前に書かれたのですが、今日でもこれ以上に生き生きとした言葉を見つけるのは困難でしょう。つぎのように尋ねたくなります。本当にロシアは、人々の傷ついた心の中で、その子供たちの将来への自信が蘇るような国となるのでしょうか。他の安定した国々と同じように。混沌は一体いつまで続くのでしょうか。
このような質問の答えはどこにあるのでしょうか。おそらくどこにもないでしょう。なぜならこの疑問符はロシアという国全体と同じぐらい大きいからです。この偉大さを最高の知恵と才能を持つ音楽家(チャイコフスキイ、ラフマニノフ)や画家(シシキン、レビタン)や文学者(プーシキン、ゴゴリ)などは伝えようとしたのです。ロシアの川はどのぐらい広いのかを、ゴーゴリはドネプル川の真ん中までどんな鳥でも飛ぶのは無理でしょうと言い、シベリアがどのぐらい広いのか、チェーホフは渡り鳥しかこのタイガの果てを知らないと書いたのです。さらにロシア人の心も「広々として平坦な大地」のようです。「ムーロムという古い都市の近郊、沼まで繁茂した森林の中に、歩きにくく通りにくい泥濘の地に、豊かなカラチャーロフ村があり、そこに実直な農民イワン・ティモフェイヴィチが妻のエヴフロシニヤ・ヤコヴレヴナと暮らしていた」のです。さらにこうした心は、「あなたが他の人に愛されるようにと祈るほど、誠実に、優しく」あなたを思いやるのです。
この深さや大きさを理解することは可能なのでしょうか。このことは特にロシア人ではない人々にとって難しいことでしょうが、理解してみようと試みること自体が、すでに偉大なる幸福なのです。この目的を達するには半端ではない集中力と深い洞察力が必要とされます。日本の学生は忙しい人たちです。高校まで一生懸命勉強していた彼らは、大學では勉強というものではなく「バイト」というものに力を入れているのです。モノを手に入れるためや旅行するために自由になる金を稼ごうと一生懸命なのです。ですから講義や演習でもくつろいで寝ていることが多くて、先生の質問に答える気がなく自分のほうからも質問することもないのです。このような学生たちは何かより易しい科目を選んだ方がましなのです。言語を学ぼうという熱意は音楽や歌を聞いている間に生まれるのです。そしてその言語の国民をもっと知りたい気持ちが浮かぶのです。愛情が生まれたら山がどれだけ高くてもこわくないという諺が両国民にもあるのです。私が日本の学生たちに望むのはこうした気持ちをもってほしいということです。そうすれば、ロシア語を勉強することは、恐れではなくなります。そのとき・・・彼らは大きな建物の入り口に立って次のような声を聞くのです。
「お前はこの敷居をまたごうというのか。何がお前をまちうけているか知っているのか?寒さ、飢え、憎しみ、あざ笑い、恥かしめなどを・・・敵からだけではなく、友人からも受けるとしても?」・・・それでも彼らは自信をもってこう答えることができるのです。
「はい、知っています。感謝も、同情も欲しくはありません。でもやっぱりわたしは入りたいのです」と。そうすると大きな扉が開かれるのです。(ツルゲーネフの「敷居」という散文詩から)。
ミハイロワ先生と平岩君 加藤の研究室にて
郡 伸哉(こおりしんや 中京大学教員、おろしゃ会非常勤顧問)
1999年も終りが近づいてきました。例の「7の月」のレベルから、コンピュータの2000年問題のレベルまで、9という数字の連続は、人びとの心に何らかの作用を及ぼしています。ところでこの1999年は、ゲーテ生誕250年、ショパン没後150年をはじめとして、いろいろな文化人の生涯を記念する年にもなっています。ロシアでは、詩人プーシキンが生まれてからちょうど200年目になります。
プーシキンは1799年に生まれ、死んだのは1837年、つまり37歳のときです。短い生涯だったのですが、このプーシキンは、ロシア人にとって特別な存在です。その200回目の誕生日にあたる今年の6月6日(昔のロシアの暦では5月26日)は、ロシア各地でたいへんなお祭り騒ぎでした。どうして文学者であるプーシキンがそんな特別な存在になったのか、よくわかりませんが、どんな民族も自分たちの誇り、あるいはシンボルを求めるわけで、多くのロシア人にとってそれが詩人プーシキンなのです。
もっとも、プーシキンの詩の一つ二つを翻訳で読んでみて、あるいはロシア語を習いはじめた人が辞書をたよりに原文で読んでみて、ほんとうにすごいものだと、すぐに感じられるとは思われません。ひとつには、プーシキンの魅力は、なによりもそのロシア語のことば自体にあるからです。もうひとつは、やはり時代の問題でしょうか、プーシキンの詩に歌われる恋愛や自由などの感情・思想は、人間に普遍的あるいは古典的なものですが、その分かえって、いまの時代には目新しさや強い刺激を与えにくいかもしれません。とはいえ、プーシキンはさまざまな感情を詩に歌い、人間のさまざまな面を小説や戯曲に表わしました。ですから、プーシキンのいろいろな作品を読んでいるうちに、翻訳を通してでも、これは自分にぴったりくる、というものが見つかると思うのです。
わたしの場合は、短篇小説集『ベールキン物語』が最初の出会いです。語る対象への適度な距離感、それでいて暖かさを感じさせる簡潔で小気味のよい語り口にまず引きこまれました。この作品や、同じく短編小説の『スペードの女王』はよく知られていますが、その後、それほど知られていないいくつかの短い戯曲(まとめて「小さな悲劇」と呼ばれる)を読み、短いなかにたいへん濃い内容がこめられていること、ひとつひとつの何気ない軽いことばに凝縮された重みがあることに驚きました。
映画、演劇、あるいはクラシック音楽のファンなら、ピーター・シェファーという人が演出する劇『アマデウス』、あるいは同じ人の監督した同名の映画をご存知でしょう。モーツァルトの天才を妬んでサリエーリという作曲家がモーツァルトを毒殺するという筋の作品です。あれは基本的には、いまから170年ほど前に書かれたプーシキンの「小さな悲劇」のひとつ、『モーツァルトとサリエーリ』に拠っていることは間違いありません。『アマデウス』は、映画も見たし、松本幸四郎と市川染五郎の演じる劇も見ました。しかし世評のわりには感心しませんでした。もとになっているプーシキンの戯曲の方は、サリエーリの重苦しい独白も、モーツァルトの軽い無駄口も、ひとつひとつのことばが心に染みこみます。
さてそのプーシキンの描くモーツァルトは、プーシキン自身と近いところがあるとよく言われます。実際プーシキンの魅力のひとつは、モーツァルトの音楽と同じように生命の躍動を感じさせる点にあると思います。プーシキンの詩が、そしてプーシキン自身が、世界という海を自在に泳ぎ、捕まえようとしても捕まらない自由でしなやかな生き物、そしてその自在さで世界に活力をもたらす存在のような気がします。その一方で、プーシキンは大自然の息吹(それはときに無気味でもある)を全身に受けとめ、的確なことばにして伝える媒体のようでもある。世界は生きている、プーシキンも生きている、それぞれのエネルギーが互いに行き来し、ことばという波動を発する、そのことばに耳を傾けるわたしの体もその生命の波動に共鳴する、そんなイメージを抱いています。
しかし作品に即さずに抽象的に語っているだけでは、書く方も読む方も、もどかしさを感じます。実際にプーシキンの作品を読んでいただくしかありません。そこで最後に、プーシキンを翻訳で読んでみようという人のためにひとこと。まずプーシキンの日本語訳でもっともまとまったものは、「プーシキン全集」(全6巻、河出書房新社)です。また各種の世界文学全集や文庫本にも、抒情詩、短篇小説、韻文小説『エヴゲーニー・オネーギン』、戯曲『ボリス・ゴドゥノフ』などの作品が入っています。そのうち現在購入できるものは残念ながらわずかなので、図書館などで借りて読んでください。(なお、この11月に出した拙著『プーシキン――饗宴の宇宙』(彩流社、3500円)のなかにも、詩の翻訳や「小さな悲劇」の詳しい紹介などが含まれています。)
郡 伸哉先生の本です
愛知県立大学外国語学部・英米学科3年
鈴木 夏子
私にとって本を読むということには少々勇気が要る。特に活字が苦手だとか、本に興味がないというのではない。むしろ本は好きなほうだ。多分しばらく読まないだろうに、新しい本を次々と買ってしまう。本屋に行くと、話題の新作だの、世界の名作だのにいろいろと目移りしてしまう。じゃあなぜ本を読むのに勇気がいるのか?それは、本を読むと頭が痒くなるからなのだ。頭といっても頭の中、つまり脳みそがかゆくなる。これはとてもおかしなことだろう。本を読むのに頭がかゆいなんて大丈夫?と思われても仕方がないだろう。しかし、表現しにくいのだが、多分、自分が読んでいるその本の世界に入り込んで、いろいろと思いをめぐらすことが、私にとってそのような反応として現われているように思う。例えば、今まで、どんな小説に頭がかゆくなっただろうかおもいだしてみる。?最近でたばっかりのエッセイだとか小説は結構すんなり読めた。アガサ・クリスティの探偵小説などはとてもわくわくして面白かった。そういえば、George
Eliot の“サイラス・マーナー”や、ヘルマン・ヘッセの“デミアン”、トニ・モリスンの“ジャズ”“蒼い眼がほしい”、日本文学では夏目漱石の“こころ”などを読んだとき頭が痒くなった。自分がその主人公とその時代に思いをめぐらすことは、たやすいようでなかなか困難だと感じたのを覚えている。作者がその本の中で言わんとしていることを感じ取るのは私にとってそう簡単なことではないのだ。今まで自分が読んできた本の中で、そういった反応が特に感じられたものにロシア文学がある。全てのロシア文学を読んだわけではないが、ゴーゴリの“鼻・外套”、ドストエフスキーの“罪と罰”などである。特に“罪と罰”は高校生の時に一度読んだきりなのだけれど、もう一度読み返すにはまたいつものように頭が痒くなるのがわかっているのでなかなか読み返す勇気がでないのだ。その高校の時にこの“罪と罰”の感想文を書いたのだが、このおろしや会の顧問であり、私をいつも暖かい眼で見守り、ロシア語を教えてくださっている加藤先生がおろしや会会報に載せなさいとおっしゃるので、恥ずかしながら載せていただくこととなった。
『罪と罰を読んで』 鈴木 夏子
古めかしい題名の小説だと思ったが、ロシア文学は前々から興味があったのでこの小説を読み始めた。かなり長い小説で私に読んでいて理解できるかわからなかったが、これがなかなかおもしろく、どんどんと興味がわいた。話のスケールがとても大きく、さすがロシアらしいと思われた。
ペテルブルグに住む貧乏な学生ラスコーリニコフは或る日、強欲な金貸しの老婆を殺してしまう。それは金のためというよりは、貧しい人々を苦しめている金貸しを人間としての存在価値がないと考えた結果だった。善良な人達が苦しむ姿に我慢ならなかったからでもあった。だが、自分の罪を合理的に肯定しようとすればする程苦悩するラスコーリニコフ。
そんな彼の魂を救ったのは清らかなソーニャの美しい心だった。ソーニャは貧しい家族を助けるために娼婦という人から蔑まれる仕事をしているにもかかわらず、驚くほど純粋で清らかな心を持ち続けている女性だった。その人によってラスコーリニコフは本当の意味で人間として生まれ変わることができるのだった。
私にとって一番印象的だったのは、自分では無神論者だと思っていたラスコーリニコフがソーニャの信仰心に動かされて、大地にくちづけをして自首する場面だ。ここでは彼に対するソーニャのシベリヤの大地のような大きな愛や、ラスコーリニコフの苦悩の末の真実を知った感動を私は感じた。それに加えて背景の二人を包み込むシベリヤの大地の壮大さも私の心に何か訴えるようなものがあった。それからラスコーリニコフはシベリヤで刑に服するのだが、ソーニャはそんな彼についてゆくのだった。
果たして、人間の価値とはどう決めることができるのだろうか。現代社会では貧しいというだけで人間として低く見られがちである。ところが、この小説にでてくる人々は皆貧しい。貧しいがこの人々はとても人間的な心を持っている。娼婦でありながら清らかなソーニャ、殺人者だが本当は心やさしいラスコーリニコフ。登場人物、どんなつまらない人物も皆人間らしい。見かけだけではわからない人間の深い部分を見る思いがする。そんな深い見方をすることが今日私達にあるだろうか。現代の私達は安易に見た目や服装やその人のことを良く知らないのに好き嫌いを決めてしまうことが多い。その人の本質を知ろうとせず、いつのまにかその人を傷付けてしまうのだ。私にもそんな経験がある。人間の本質とは何かこの本を読んで考えるようになった。もっと世界中に目を向けてみようと思った。貧しくとも心清く一生懸命生きようとしている人はたくさんいる。食べ物に困って子供でさえ、学校も行かずに働いている。が、私達のような生活に決して苦労していない者が自分は世界で一番可哀相だと思ったり、この人間は価値のないものだと決め込んでいじめたり…。私は今の現代社会は病んでいると思う。人間の本質や本当の意味での罪と罰≠ヘあるのだろうか、と思った。しかし、今の私たちはここまで進化してきたのだから本当の人間の価値を理解することができるはずである、この小説を読んでそう思った。
普段、こんなことをめったに考えない私をこんなに考えさせたこの小説を書いたドストエフスキーの洞察力溢れる人間観にはどきっとさせられた。こんなに人の心の複雑さを感じる小説は初めてだった。本当に人の心の深さについて考えさせてくれるからだ。この小説に出てくるどんな人も決して立派ではないが、人間臭く、なぜかとても身近に感じた。舞台となったサンクト・ペテルブルグの美しい背景も印象的ではあったが、何より作者の貧しい人々に対する暖かい気持ちが心に残った。今回、この小説をよんで考えさせられたことはたくさんあったが、本当にこの小説を読んで良かったと思う。私はこれからもっと自分の視野を広げていきたいと思っているし、サンクト・ペテルブルグにも行きたいと思っている。この本は私には正直言うと少々難しかったが、ロシア文学はなかなかおもしろいではないかという発見もあったので私は満足している。
今、この文章を読み返してみるとなんとも幼稚で恥ずかしい。反省する為に当時の文章をそのまま載せたが、日本語としておかしいところがそこここにあるし、変に力んで文章を書いている。高校生らしい、そのころの私が罪と罰≠読んで感じたことを正直に書いたものではあるが、今見ると、表面的で、深く読み込むことができていなかったのがとてもよくわかる。今、この小説を再度読み返して、感想文を書くのならば、歴史的背景やドストエフスキーに関する知識が以前に比べて増えたので、彼がこの小説で言わんとしていたことをさらに深く読み込むことができるだろう。更に違った観点からこの小説を読むことができるだろう。しかし、やはり、そうすることで私の頭が痒くなるのが目に見えているのでなかなか勇気がでないのだ。でもやっぱりもう一度読んでみようかな、と思い始めている。挑戦すればきっとまたおもしろい発見があるかもしれないから。
愛知県立大学文学部・日本文化1年 平岩 貴比古
9月11日、我々おろしゃ会では夏の行事としてエクスクールシヤ(遠足)を実施した。会の研修旅行としては、これが前回の大阪行きに続き二度目となる。ちなみに3月の大阪行きの当時は、私はまだ県立大学に入学する前であり、その内容についてはほとんど知らない。詳しくは、おろしゃ会会報の創刊号を参照していただきたい。今回の目的は、江戸時代にロシアと日本との外交交渉のきっかけをつくった漂流民、大黒屋光太夫の生誕ゆかりの地を訪ねるということだった。三重県への日帰り旅行、題して「おろしゃ会・夏のエクスクールシヤ」である。そもそも事の発端は、サークルとしての「おろしゃ会」があってもなかなか行事が持てない、せっかくの夏休みなので何処かへ行こう、ということだった。確かに大学の夏期休暇は2ヶ月近くもあり、長いといえば長い。会のスローガン「隣国ロシアの存在について無知無関心ではどうしようもない」ではないが、若者たる大学生がじっとしていてはどうしようもない。そのため、大黒屋光太夫をはじめとする漂流民の故郷、三重県鈴鹿市白子町を訪れることにしたのである。
そして、入会まもなく人員不足のためか企画会計のポストに就いた私に、遠足についての一切の責任が任されることになった。「企画」という二文字がポイントである。遠足の話が持ち上がったのが7月。以降、この「夏のエクスクールシヤ」の計画が進むことになる。日帰りとはいえ、遠足の準備は面倒そうなものであるが、決して面倒ではなかった。私の趣味は旅行なのだ。しかも旅行へ行くことよりも、計画することのほうが楽しい。そんな稀有な私には、まさにピッタリの仕事だったというわけだ。8月になると学生は夏休みに入ってしまうため、プランの概要は7月中に完成させる必要があった。喫茶店でコーヒーを飲みながら10分くらいで構想は固まった。我ながら、なんていい加減な企画係なのだろう。それでも何とかなってしまうものだ。ともかく7月末には案内書を作成し、一部の学生には早々と電子メールで連絡をしたが、多数の関係者に案内ハガキを郵送することができたのは8月に入ってからであると記憶している。あと、私にはすべきことが一つ残されていた。それは名古屋市図書館に行って、ある本を借りることである。実は恥ずかしながら、井上靖・著の「おろしや国酔夢譚」を完読したことがなかったのだ。
エクスクールシヤの参加申し込みの期限は、8月末日ということであった。その時点での参加予定者は10名ほどであり、多くもなく少なくもない人数なので企画者の私としては内心ホッとした。結局この遠足では伊勢神宮と大黒屋光太夫資料室を訪れることになるのだが、実はそもそも予定には二つの選択肢があった。「伊勢湾横断プラン」と「赤福プラン」である。我々が決行したのは後者のほうだ。「伊勢湾横断プラン」とは、午前中に知多半島を南下し、鳥羽行き高速船に乗船、伊勢を経由して一路白子町へ向かうというものだった。「海に生まれた船人が
異国十とせの旅まくら」と鈴鹿市立若松小学校の校歌にもあるように、大黒屋光太夫が漂流した、ロシアにまで続くまさにその海を渡ってみるのも良かったかもしれない。しかしながら、このプランでは日帰り旅行にしては交通費がかさみ、時間的にも行程に無理が生じてしまうため、我々は「赤福プラン」を採用することにした。言い遅れたが「赤福プラン」とは、その名の通り伊勢神宮に立ち寄り、赤福を頬張るというものである。ロシア人の参加も考えると、やはり天照大神を祭る伊勢神宮は外せないということだった。? 遠足当日の9月11日朝、名古屋駅におろしゃ会の面々は集った。ゲストとして大阪ロシア領事館のセルゲイ・ツァリョーフ、名古屋市立商業高校のオクサーナ・ミハイロワのお二方の参加もあり、夏の遠足はよりいっそう賑やかなものとなった。近鉄名古屋駅から宇治山田行きの急行に乗り、一時間半ほど列車に揺られて伊勢市には10時半ごろ到着した。
駅前がお膝元である外宮を参拝し、三重交通バスで内宮へ足を運ぶ。ここでひとまず早めの昼食をとることにし、一同、名物の「伊勢うどん」と「てこね寿し」に舌鼓を打った。これが本当に美味しいのだ。そして真昼間からビールとは、さすがは恐るべき「おろしゃ会」である。各々内宮を参拝したり、五十鈴川で禊をしたりした後、タクシーで駅へ向かった。本来ならば「赤福」は赤福本店でいただくべきだったが、移動時間がないため近鉄電車の中で食べることにした。どうやら学生のほうは、本店でのみ食べられる「赤福氷」なるデザートを楽しみにしていたらしい。何か食べ物の話ばかりになってしまったが、おろしゃ会が単なる「食い倒れサークル」ではないことを一応注意しておく。? ここから遠足は一変して、大黒屋光太夫の足跡を訪ねる旅になる。伊勢若松駅で下車し、我々は徒歩で15分ほどの距離にある鈴鹿市立若松小学校へと向かった。田園風景が広がる、海に程近い場所である。この小学校の国際理解教室内に「大黒屋光太夫資料室」はあり、週末には一般公開もされているのだ。加藤史朗先生が小学校側に事前連絡してくださったので、資料室の責任者の方に案内をしていただけることになった。室内には、光太夫をはじめとする乗組員たちの遺墨・遺品が数多く展示してあり、図や年表などで分かりやすく解説もされている。そして資料室見学のあと、私は若松小学校校歌なるものをみつけた。先ほども一節ほどを紹介したが、今一度ここで3番の歌詞すべてを引用してみたいと思う――
海に生まれた船人が 異国十とせの旅まくら その忍と勇おもうとき 歴史の光しのばれて われらの使命身にしみる 心のふるさとわが母校 ――。今の日本では、英雄というものの存在自体を否定する風潮があるようにも思えるが、この土地に「英雄」はまだ健在であるといえよう。
夕日に包まれた海岸線を散策したのち、名古屋行きの急行電車に乗り込んだ。この伊勢湾からでさえも海を通して繋がっている隣国ロシアについて思いを馳せたのは、はたして私だけだったであろうか。名古屋駅にて参加者全員で夕食を囲み、乾杯、「おろしゃ会・夏のエクスクールシヤ」の全行程はこれで終了した。特に大きな問題が起こることもなく、企画としては成功であった。ただ私が反省せねばならないのは、一日の移動距離が長かったため参加者を疲労させてしまったことであろう。今回の旅はひとことで言えば、電車に乗りっぱなし歩きっぱなしの旅でもあった。だがそれほど心配することもなさそうだ。学生はまだ若いし、何より顧問の先生方もまだまだお若い。ともかく、これからはもっと余裕のある行程にしたほうが良さそうである。反省点をあげるときりがないのだが、おろしゃ会の会員・会友の方々と有意義な時間を過ごすことができたということは、たいへん有意義な経験であったように思う。そしてこの喜びは、決して私一人だけの喜びではないはずだ。おろしゃ会が活動を続ける限り、おそらく第3回目の遠足も行われることになる。残念ながら今回参加できなかった方には、次回ぜひ参加していただきたい。またいつか「おろしゃ会を愛する人々」でこのように集えるのを期待して、このエクスクールシヤの総括を終えることにしよう。
私の感想
オクサーナ・ミハイロワ(名古屋市立商業高校3年)
先日私たち「おろしゃ会」の仲間は、伊勢白子に行ってきました。第2回の旅は1回目と全く違う人々が集まり、それなりに盛り上がることができました。?初めに私たちは伊勢神宮に参拝に行き、天気もまさに快晴だったので、美しい写真も撮ることができました。外宮ではとてもきれいな川が流れていて、私たちはそこで少しの休憩をとりました。それからバスで内宮に向かいました。「おかげ横丁」に寄り、お昼においしいうどんを食べました。「おかげ横丁」には、古い街並みをイメージした雰囲気が漂っていました。次に私たちを白子の小学校の先生が迎えてくれるというので、急いで行かなければなりませんでした。赤福も食べる時間がなかったので、買って電車の中で食べました。そしてギリギリで先生が迎えてくれるという時間に間に合うことができ、私たちはロシアに流された人物「大黒屋光太夫」について説明を受けました。この小学校では一部分が小さな博物館みたいになっており、すごいなと思いました。その先生の説明はとても詳しく、私もロシア人でありながら知らなかったことを勉強することができ、とてもためになりました。日本人にもこういう人がいたということに感動しました。小学校の前には光太夫の銅像もあり、そこで記念撮影もしました。その後は近くに海岸もあったのでみんなで散歩しました。ちょっと疲れた旅だったが楽しかった。
初めて参加して 江端千恵(名古屋明徳短期大学・国際文化科1年)
今回初めて参加してみて最初はとても不安でした。とりあえず友達と行く事になったのですが、見知らぬ人達と仲良くやっていけるかどうか…そればかり考えていました。だけど実際会ってみるととても面白く、やさしい人達ばかりでした。私のロシア人の方々に対する感じも変わっていました。
大黒屋光太夫の事についても勉強させてもらいました。私はそれまでその人の事など全然知らず、日本とロシアとの関係の始まりも考えた事がありませんでした。しかし伊勢に行きだんだんと知っていくにつれ、面白く興味も湧いていきました。ちなみにその時に勉強した事がとても今授業で役立っています。?参加させていただき本当にありがとうございました。
「ロシアとの距離」 森田愛子(愛知県立大学文学部・日本文化科1年)
おろしゃ会で伊勢へ行ってから2ヶ月たちました。天気予報に反して、当日は晴天。(あまりの暑さに伊勢神宮参拝を私は辞退してしまいましたが。)大黒屋光太夫の資料館はじっくりと鑑賞することができ大変興味深い一日だったと、記憶しています。おろしゃ会での伊勢行き以来、ロシア関連とはNHKのラジオ講座ぐらいで特にこれといった事もなく過ごしていました。しかし、先日ひょんな事からバレエを観に行く機会があり、また知人からロシアの歴史や美術館の資料・写真集(?)等を見せてもらったりして、単純な私は「ロシアへ行きたい。エルミタージュ美術館に行きたい。」とすっかり舞い上がってしまいました。ロシア行きは不安なので目下、ロシア国立美術館やエルミタージュなどからの貸出品を展示している小樽の美術館行きを計画しています。本当はロシアに行きたいのですが、地図の上では近いのに実際に行くとなると遠く感じてしまいます。これは経済的なことだけのせいではなく何よりロシアという国が身近に感じられない現状が問題なのでしょう。このロシアとの距離感がおろしゃ会を通して少しでも縮むことを私は望んでいます。
遠足後名古屋駅前で行われた懇親会で
田邊先生と平岩貴比古のお決まりのポーズ
「加藤先生との出会い」
麻布学園 中三 榊原 賢二郎
加藤先生は中 一の時の担任で、「世界」という教科を教えていらっしゃいました。学校生活において目の不安が有るということで、入学式に先立って詳しくいろんな話をして頂きました。また暗く危ない場所については電灯を明るくする、手すりをつけるなどの対策をしてくれました。そのお蔭で、自主自立という校風を聞いて不安になっていた私の中学生活の初めが、不安の無い物になった事は云うまでも有りません。
その加藤先生は今はロシア語を大学で教えていらっしゃいますが、私の学校内でも放課後にロシア語の講座を開いていました。この講座はこれまで二回開かれてその年から始まる講座は三回目ということでした。ポスターを見てなんとなく面白そうだと思って入ってみました。授業は加藤先生と、おろしゃ会会報に出ていたセルゲイ・ガルキンさんが教えてくれました。最初一番きつかったのがロシア語のアルファベット三十三文字を覚えることでした。中一は毎年この学校の創立者の墓前祭に行きますが、その帰りのバスの中で前に座っていた加藤先生からラジオのロシア語講座の本を借り、ようやく覚えたことを思い出します。次に易しい挨拶を勉強し、文法を少しずつプリントなどで学んでいきました。しかしロシア語講座は一年半だけで終わってしまいました。僕が中二の十月に加藤先生が大学に行かれることが決まったからです。それから僕自身努力しなかったためにロシア語は中途半端に終わってしまいました。しかしおろしゃ会の発足に触発されて、今年からラジオ講座でもう一度やり直しています。? 加藤先生と出会ったことで外国に対する興味を持てた以上に、先生の行動力と人に対する温かさに触れられたことで大きな影響を受けました。
母とロシア
大内 望(早稲田大学政経学部卒業生)
加藤先生こんにちは
お便りありがとうございます。
>おろしゃ会会員および会友各位
>おろしゃ会会報第3号の発行を11月中に予定しています。
>皆様からのメッセージをお待ちしています。
ということは、私をおろしゃ会会員にしてくださったということでしょうか。大変光栄(^^ゞ
ロシアといえば、70歳を過ぎた母が良く言う東北弁の独り言に「カシロフジナさん、どしてるもんだか」というのがあって、それは子供の頃から、何度も聞いたものです。
ロシア革命を逃れて日本に来た白系ロシア人が、母の通っていた女学校にいて、卒業後その人は消息不明になっているらしい。
先日「今だったら、きっと友達になれたのに」という、新たな母の独り言を聞いて、今までのの独り言の意味がようやく解りました。
友達もなく、異国の学校をさびしく卒業したであろうその同級生のことが、ずっと気になっているのでしょう。
母がその女学校、今の盛岡白百合学園を卒業したのはもう50年以上も前のことなのに。
寂しいことに私の身の回りで、ロシアとの接点はこれきりです。
小林 由紀(筑波大学環境科学研究科修士課程1年)
加藤先生
小林です。9月30日にウラジヴォから帰りました。
今回はウラジヴォから更に700キロ(?)以上北の山奥の村に調査のため入ったわけですが、約1週間の村での生活は、日本のものとはかけ離れていました。そんな生活
に自然に、なんの違和感もなく溶け込んでいけた私自身に少し驚きましたが、モスクワに行ってから約2年半の間に自分の中で物の見方やいろいろな価値観が全く変わったのかもしれません。
この調査は、人口200人の先住民ウデゲの村、アグズ村がタイガを切らないで経済的困窮から抜け出すための方策を考え実践していく、という柱をもっています。小さな成果としてはサケ・マスの持続的資源利用と管理を行うための孵化場計画が立ち上がりそう、といったところでしょうか。私は私なりに視点を設定していろいろなものを見て考えてきました。今、この貴重な経験をどう消化してゆくか、多少混乱してはいますがなんとかやっています。
ところで、自分の指導教官の策略で農学研究科のゼミに突っ込まれてしまい、ロシアの土地所有制度について発表することになってしまいました。筑波大の林学、農学の考え方は、大土地所有制度がなくなれば、つまり「近代的土地所有制度」になればすべての問題は解決する、という路線が大勢を占めていて、私は特にロシアの森林に関してはその路線で語るのは少し違うのではないかと思っているのであまりやりたくはありません。とはいっても、いずれ知っておいたほうがいいこともあります。そういうわけで、その発表の根拠としてロシアの憲法、土地・少数民族・森林に関する法律が必要なのですが、それらを入手する方法はないでしょうか。ロシア関係の知人にあたってはいるのですが回答がありません。日本の研究機関関係で持っていそうなところをご存知でしたら情報をいただけませんか。よろしくお願いします。
今年もあと3ヶ月をきってしまいました。早くも修士終了後の身の振り方を考えなくてはいけません。ちょっと気持ちが重い日々を送っています。
また、少し寒くなり、風邪もはやっていますね。私も流行の先端を行きまんまと風邪をひきました。体には十分お気を付けてお過ごしください。
それではまた。
加藤先生
いかがお過ごしですか。私はめちゃくちゃな動きをしつつも、なんとか自分のテーマの方向を決めて行こうと、やっております。ところで、突然ですが、お聞きしたいことがあります。今度、農学研究科のゼミで、ロシアの土地所有制度について発表しなくてはならないのです(興味が薄いのでやりたくないのですが)。特に森林の所有制度をやればいいのですが、先生方の思惑はロシアをフィールドにしている人が他にいないので、農地に関しても私にやらせよう、ということなのです。そこで、資料から歴史的流れや、帝政時代、革命後、現在の土地改革をまとめればよいのですが、ひとつどうも分からないことがあります。それは、イエルマークがシベリアを征服してツァーリに献上?しましたよね。で、その土地(ロシアの国土)は、「ツァーリ」の所有物的色合いのものなのか、それとも「国家としてのロシア」の所有物なのか、どっちなんだろう、ということなのです。先生はどうお考えになりますか。本を読んでも歴史的事実は書いてあっても、どうもこういう概念的なことを見つけられないでいます。どなたかお書きになっているとは思うのですが、勉強不足なものですから・・・。
ところで、研究テーマに関して、いろいろ読んだりしていますが、結局は、「極東ロシアにおける林業と森林保全の両立、住民(ロシア人・少数民族を含めて)の経済的向上の可能性」といったことをやろうと思います。大きすぎるテーマかもしれませんが、ウェイトは林業と森林保全に置き、またそこにかならず関わってくる、生きた人間の姿、つまり少数民族を絡めようと思っています。
大きな枠組みでは、開発(経済)と環境保全はどこまで妥協し合えるか、といったことで、これは書いてゆく自分の心の方向性であります。
具体的には、フィールドにしようと思っている沿海州のアグズ村(先日訪れた村です)において目下緊急の問題として、森林伐採をエネルギー(重油)補助と引き換えに行政が迫ってきているという事実を取り上げ、エネルギー自立と経済の安定を考えてゆきたいと思います。
どうも話がみえない、といわれそうですが、ここのところ少々詰まってまして、でも先ほどふとひらめいたものですから、支離滅裂で申し訳ありません。
そもそも、化石燃料を主体とするエネルギーに疑問を持っていて、更に3ヶ月ほど前から、木質バイオマスエネルギーというものに興味を持ち、勉強しているのです。専門でやっておられる方(若いんですよ、まだ。私と同い年です。)に面倒を見てもらって、研究会などにも関わらせてもらっています。日本ではあまり知られていませんが、スウェーデンやデンマーク、アメリカなどでは、再生可能の自然エネルギーの
中でもかなり大きな期待がかけられており、現に実用段階で大きな成果(スウェーデンでは総電力の15%近くをまかなうまでになっています)を上げています。まだまだ勉強不足ですが、これからはロシア(特に辺境の村で、行政の外圧にニェットをいえるように)で、このバイオマス、もしくはその他の再生可能エネルギーを導入できないか、ということも考えています。
長くなってしまいました。とりあえず近況報告ということでした。
それでは、先生のお答え、お待ちしています。
「こんとん渦中」
柳 忠宏(早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修4年)
皆様はじめまして。早稲田大学の柳と申します。「おろしゃ会」会報、拝見しております。御熱意ある活動内容に感激です。
さて私は、大学でロシア語を選択していました。
まず入学直後に考えたことは、「誰も勉強していないようなことを、やってやろうじゃないか」。これが、私とロシアの出会いかもしれません。案の定、ロシア語のクラスは毎週片手ほど集まるか否かの状態であり自然と私の学習態度も疎かになっていきました。
大学三年の時、西洋史の授業で加藤先生にお会いし、それからロシアについて、積極的に学ぶようになります。榊原賢二郎(麻布中学校3年)さんのように、「加藤先生の大変なことも進んで引き受け、やがて周りの人も引き込んでしまう人柄」へ、どうやら私も引き込まれてしまったようです。
今では、ロシア語学習CDを購入したり、都内のロシア料理屋に通いつめたりと、ロシア大好き人間になってしまいました。もちろんウォットカもよく飲む。
卒業論文も、もちろん「ロシア史」です。何から何まで手を出してしまい、どうやら私も「スラブ的混沌」の一隅に至ってしまった気分です。
残念なことは、小生が貧乏学生であること。中部と関東との距離は、シベリア大平原に等しい。
当面はここでお会いすることになりますが、皆様よろしくお願いします。
藤澤義光(早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修2年)
まず、はじめに感動したのは、先生のロシアに対する並々ならぬ関心についてです。文学面から政治のイデオロギーに関するまで、大変強い関心を抱いておられます。
我々の世代というものは、大変色々な意味において恵まれています。情報に関してもそうです。小さな頃から義務教育や新聞、雑誌、テレビといったマスメディアを通して、大量の情報を与えられています。その結果、何かこれ一つといった関心を持ちづらくなっています。僕の周りを見渡してみても、「これ」と言いきれるものをもっている人はとても稀です。
その点、先生の授業を受講している一人の学生として大変恐縮する思いです。というのも、僕は現在オーケストラに傾倒しているためです。「これ」というものがある面、ある意味では恵まれているのかもしれませんが、模範的な学生ではないのは確かです。
しかし、ロシアに関して興味が無いわけではありません。チャイコフスキーやプロコフィエフといったロシア人は、オケをやっている人間にとって知らない人はいません。そして、彼らの書く曲の多くは日本人に共感し易いものばかりです。それは、彼らの曲のモチーフとなっているロシア民謡が日本人にとって理解し易いものだからかもしれません。なぜ理解し易いのかと言えば、それはやはり地理的に近かったからであると思います。
ゲルマン系のドイツ音楽に比べ、スラブ系であるロシアの音楽は、僕にとっても近いものであるような気がします。その近いはずのロシアに関して、何も知らないというのは良いはずがありません。先生が文学の中に見たロシアのナロードと大地を、僕は知らず知らずと音楽の中に感じているのですから。?? 近頃ロシアに関心を抱く人が減りつつあるのは、関心を与えられる場が少ないことにもよると思います。高校の世界史の教科書などがそうです。記述の割合が段違いです。つまり、関心を持っていないと言うよりは、関心を持つきっかけを与えられていないと言うべきでしょう。その点において、先生が主催されている「おろしゃ会」は、とても有意義なものであると思います。これからも活動の場を広げていかれることを願います。僕自身、模範的な学生ではないのに、このようなことを書くのは非常に恐縮ですが、先生のエッセーに少なからず感銘を受けたため、あえて稚拙な文を書かせていただきました。?いい加減な若輩者ではありますが、これからもご指導、ご鞭撻のほどをよろしくお願いします。
沢西 舞(早稲田大学・教育学部)
おろしあ会のサイトを見せていただきました。実は、似たような(ともいえないかもしれませんが)ことを私もやっております。
以前、私がロシアへいったことは先生にもお話したかと思います。その関係で、ボランテイアという形で、私は活動に参加しています。むさしの・多摩・ハバロフスク協会というのをご存知でしょうか?もともとは、武蔵野市がロシアと国際交流をしていたことがきっかけで、1993年に多摩全市町村で記念事業としてロシアに100人の子どもを派遣するという試みがありました。私もその時に参加した一人です。くわしいことは本になっているので、お暇な時にでもご覧ください。
「シベリア大冒険 東京っ子100人、緑の大地を行く」(ハバロフスク自然探検隊編)といっても非売品なので、多摩の図書館あたりにしかないかもしれませんが。なにぶん、私が中学3年の時のもので、こっぱずかしい写真や文章が多く、うちにこの本はあるのですが、すすめられるものではありませんので。
大学に入ってから、もともとこの企画を考え出した武川さんというかたから協会の事を聞きまして、広報委員として活動しないかと誘いを受けました。現在では年に4回、会報を発行しています。私は「人物評伝」という記事を担当し、毎回ロシアにかかわりの深いロシア人や日本人を一人とりあげ、記事を書いています。その関係で、西洋史研究の授業をとりました。私の専門は日本近世史ですが…。実を言うと、先日だしたレポートも、昔書いた人物評伝の一つを手直ししたものです。すいません。うちの協会は、国際交流が目的というよりは、自然保護に重点をおいているものですが、自然探検隊に参加したメンバーや、現在この協会で広報委員として一緒に活動している仲間は、ロシアに興味を持っています。
せっかくロシアに関心のある団体ですから、何か交流はできないものでしょうか?ただ現在は私自身も就職活動がはじまるので、記事を書く以外、あまり協会の活動に参加していないので、表立ってなにをすることはできないかもしれませんが、インターネットを使って情報交換などできたら面白いかと思います。なにぶん、私達の活動拠点は東京なので、?会ったりする事は難しいかと思いますから。
ちょっと思いついただけですが、ロシアに興味がある人というのはなかなか最近はいないので、先生にメールを送ってみることにしました。どうでしょうか
渡邉 俊一 (愛知県立大学大学院)
樺太(サハリン)は、現在、ロシアが勝手に、領土編入して、サハリン州と言われています。州都は、ユジノサハリンスク、戦前は、豊原と名付けられていました。
言うまでもなく、樺太は日本固有の領土で、主にアイヌ系日本人が住んでいました。樺太アイヌの人達は、タライカ湖周辺、つまり、北緯50度あたりを北限に定住していましたが、樺太北部、ロシア沿海州のアムール河(黒龍江)下流にも、しばしば足跡を残しています。北樺太には、ニブヒ、ウィルタといった日本人以外の少数民族も住んでいましたが、樺太の全地名がアイヌ語であることからわかるように、アイヌ人が優勢でした。中国の前漢の時代からアイヌ人は、クイ(毛深い人々)として登場し、歴史書にはアイヌが黒龍江下流にいて、毛深く、勇猛な民族で、日本は黒龍江東方、つまり樺太から始まるとしています。韓国の古い書物でも、やはり、日本が樺太以南であることをしめしています。
では、何故ロシアが支配しているのでしょう。それはロシアがソヴィエト時代、スターリンの赤軍が日ソ中立条約を破り、一方的に樺太の国境を越え侵略して、占領したからです。それは、1945年8月9日未明でした。ソ連軍は国境付近を砲撃し、国境警察の派出所を占拠し11日に赤軍本隊が進撃を開始し、帝国陸軍125連隊第二大隊と交戦状態となりました。
日本軍の国境守備隊は、頑強に抵抗しましたが、北海道の旭川にあった司令部より越境攻撃が許可されず、不利な態勢での戦闘しか出来ず、突破されました。司令部の判断では越境すると、ソヴィエトが樺太を占有する口実となることを恐れたからでした。赤軍は西海岸にも攻撃、上陸し、真岡(ホルムスク)では、日本軍が正式の停戦交渉団を通訳を伴い派遣しましたが、なんと二度も武装解除のあと、射殺されました。やがて、赤軍は樺太の首都、豊原に迫り、もはや抵抗が無駄だと感じた市民は、各家庭の屋根の上や玄関に白旗をたてましたが、赤軍の戦闘爆撃機により攻撃され、多数の市民が日本降伏後、8月15日以降に殺害されました。北海道に避難する船舶も、戦争が終了したにもかかわらず、ソ連の潜水艦の攻撃をうけ、北海道上陸直前に1700人の民間人が死亡しました。樺太での民間人の死者は、7千人を越えています。
1951年、サンフランシスコ条約により、日本は独立を回復しましたが、ソ連はその内容が気に入らないということで、調印を拒否しました。樺太の帰属は、その時は、決定できず、将来調印国48ヶ国により帰属を決定することになりました。したがってソ連は、なんら樺太を領有する権利はなく、不法占拠が50年以上続いているのです。昨今、川奈において、橋本−エリツィン会談がありましたが、その中でエリツィンは、領土問題を法と正義のもとで解決すると約束しました。法と正義のもとでは、戦争による領土不拡大の原則(ソ連も合意)を宣言したカイロ宣言を誠実に履行し、南サハリンから速やかにロシア軍を撤兵させ、帰属の権原を48ヶ国に預けるべきです。
アイヌ系日本人は、北樺太や、カムチャツカ南部にも、住んでいて、本来日本の領土ですが、これらの地域は、日本が善意を持って、ロシアにプレゼントしましょう。しかし、北緯50度以南の樺太(サハリン)と千島(クリル)列島は、返還されなければなりません。ロシアが樺太において先進国日本と陸上の国境線をもつことは、おおいに利益となるでしょう。スターリンの過ちを認め、ただちに樺太を返還すれば、常識ある日本人はロシアを許し、賠償は求めないでしょう。勿論、現在住んでいるロシア人には、永住権も認めるし、必要なら日本国籍も与えましょう。もし日本の樺太の主権を認めず、サハリンの武装占領を止めなければ、ロシアは、世界の笑い者となり、ロシアは21世紀も、後進国のままでありましょう。
注: アイヌをアイヌ民族と呼ばず、アイヌ系日本人としたのは、近年の研究でアイヌが縄文人の直系であることが解ったからです。言うまでもなく縄文人は原日本人で、日本人の基層をなしているからです。
加藤 史朗様
実は「ロシアに関する事」との条件を見た途端、私はえもいわれぬ感覚が体内を駆け抜けるのを感じました。そうseriousに受け止めた訳でないのですが。途端に筆を取る所か、思考がストップしたようなとでも申しますかそんな思いです。
ロシアには(それも革命後の)潜在的な、或いは生理的とでも言う様な恐怖心と嫌悪感を、そして不信感を持っている自分に気付いたのです。為政者が代るといとも簡単に国の歴史を書き換えてしまう。前任者の業績もゼロとなる。
ポツダム宣言受諾、無条件降伏後に火事場泥棒の様に北方四島を占領し現在に至るこの現状。国家間の条約(日ソ不可侵条約)を平気で反古にするお国柄等々。
そして日本人捕虜の虐待、言語に絶するシベリヤでの強制労働と続き、未だ平和条約すら存在していません。
一個人としてのロシア人は人懐こく、豊かな人間性を備え、文学に、芸術に、科学に優れた資質と業績を示し、その豊かな自然と相俟って魅力と可能性を秘めた国である事は衆目の一致する所なのですが。
実は、私自身何も知らぬ故に平気でこんな事を言っているに違いありません。ナマのロシア、現状のロシアの真実を知らぬが故に。加藤さん、これからもどしどし「ロシアの事」を教えて下さい。 私達の「瞼のウロコ」を落としてくださいな。なんてスバラシイことでしょう。「オ-チン、ハラショー」。
10/11 1999 影谷 茂
追伸
私とロシアを近づけてくれたのが、丁度2年前の1997年10月11日麻布学園講堂での「ロシアの歌姫エカテリ-ナ」のコンサ-トでした。大変豊かな声量で、感情を込めて「モスクワ郊外の夕べ」「トロイカ」「ステンカ・ラ-ジン」「ともしび」「カチュ-シャ」「カリンカ」等々を胸をえぐる様に又ある時は心の琴線に触れる様に歌ってくれたのです。やや大柄の美人歌手が、表情、感情、しぐさ、をまじえてピアノを弾きながら次からつぎへと歌うのです。感動と感情の起伏、余韻を残して歌姫は手を振りながら舞台から消えましたが、拍手、拍手、。文字どうりStanding
Ovation.に送られて。私を招待してくださった加藤教諭とエカテリ-ナに、そして麻布学園講堂に敬意を込めて、最後にもう一度「オ-チン・ハラショー」。
私が初めてロシアを知ったのは?
泉谷 圭保 (慶応大学法学部)
私が初めてロシアを知ったのは、鉄のカーテンの向こう側からこちら側に逃れてきたポーランド人亡命者を通してだった。
「あの地獄から抜け出すためなら何でもした」と彼女はいった。当時移民受入政策の盛んだったニュージーランドに住んでいた私は、彼女のように祖国で自由を奪われ、命辛々逃れて来た多くの移民と出会った。
―電車はいつ来るか分からない。真冬の雪の中を3日待った。お腹の中の子供が心配だった。亡命者を阻止するために電車のプレートはいつも外されている。ナチに連行されたまま連絡の途絶えた両親が残した全財産を隠しながら生きのび、それをはたいたビザを握りしめて一か八かで運命を懸けた。行き先の分からない列車。シベリア行きか、スイスか―。失敗したら間違いなく終わりだ。それでも逃げたかった。スイスに着いたと分かったときは震えと涙で立っていることもできないくらいだった。そこからここに来て、婚約者と落ち合った。―そういう彼女にとっての地獄こそが、ドイツであり、そしてソ連であった。10才で帰国。北海道の祖母にこの話をした。すると祖母は一言、「ソ連はひどい国だ」という。何故そう思うかを聞く前に祖母は自分が北方領土と共にソ連に「取られた」水晶島の生まれであること、戦争でいつソ連軍に殺されるか分からないから逃げてきたこと。自分の先祖の墓がそこにあり、ビザなし渡航があったとしても、「自分の土地を返さないソ連が許せない」ことを述べ、悲しそうにため息を付いた。当時7才そこそこだった私に難しいことは分からなかった。けれど、ロシアが私にとって、罵られし存在としての刻印を押されていたことは確かだった。政治難民、ホロコースト、北方領土問題。国、民族、その間の政治と戦争が生み出した様々な軋轢、その間でもがく人々との対話。そういうものに少しずつ関心を抱くようになっていった。
97年4月、ひょんな事から大学の福利厚生プログラムの一環でワルシャワ経済大学に派遣され、念願だったポーランド訪問が実現した。ロシアとドイツに蹂躙され続けた民族の過去。それだけとってもお葬式のような国のようなイメージがあった。しかし実際言ってみると、若者が目を輝かせながら自らがポーランド人であることを誇らしく歌っているような闊達な国だった。世界地図からその存在を消されても、臥薪嘗胆の精神で生き返ると言うことはどう言うことなのか。第二次世界大戦で戦車と爆撃にすりつぶされた街を煉瓦のヒビ1つに至るまでそっくり再現したといわれるワルシャワの街を見たとき、ポーランド人の持ついい知れない誇り高さに打たれた。そしてアウシュビッツのビルケナウ収容所。見渡す限りのバラックに動揺しながら、その一つに入った。ここに確かに人がいたのだ。何気なく触れた柱に刻まれた文字の凹凸を指でなぞって、そう感じた時のことが忘れられない。時の風化のバリアをかけるように、あちこちに人の気配が静かにあった。土になった無数の人を偲ぶろうそくと花束の臭いが胸にしみた。
あれから他に数カ国へ一人旅をし、様々な文化や価値観に触れたが、結局国や民族がどんなものなのかは分からない。ただ、国や民族は、一度生まれると意地やや誇りが生み出す「国や民族そのものの臭い」のようなものをまとうように感じるくらいである。それに対して、強烈な臭いを覚えながら帰国し、いざ自分の国の香りを探そうとする度に焦燥感にかられる。無関心な香りが充満していて嗅覚が麻痺し、結局「自分たち」の臭いが分からないからだ。国や民族としての危機感や意地が殺菌消毒され、誰もそんなものを気にしなくなり、個人が「自分だけの」臭いを辺り構わずまき散らして「個性」を豪語する潮流があると思う。私は自分の嗅覚をたどりながら、「自分たち」の臭いを探しながら少しずつポーランドに近づいて行きたいと思った。日本とポーランド。その間に立ちはだるロシアを通ろうと大学5年目にして、ロシア語とロシアを学びはじめ、幸運にも加藤先生にお会いすることができ、この話をすると、「ロシア人は“私”(я)ではなく、“私たち”(мы)を大切にするんです」というお言葉を頂いた。また週に4時間もでロシア語を習っている東井ナジェージダ先生に、幼い頃聞いた「罵られしロシア」の話をすると先生はおっしゃった。「永遠に解決しなくても、私たちは共存して行くしかない」。今、ロシアという国について無知ながらに、ロシアの香りに親密さを感じている自分がいる。来年から記者の仕事をすることになり、どこに行くのか、何を伝えて行くべきか五里霧中だが、自分の嗅覚をたどりながら、人や文化や国の間に流れていきたいと思っている。
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