「おろしゃ会」会報第5号その2


モンゴルの人々とゲルを組み立てる

愛知県立大学英米学科1年 N・S
ゲルは別名パオという。家庭教師でつい最近出てきたので、その名前は記憶に新しかった。モンゴル人は何
を言っているかよくわからなかったが、ジェスチャーなどでコミュニケーションはとれた。英語を話せたモン
ゴル人のひとは、モンゴル人はゲルを1時間半くらいで建てられると言っていたのでまだまだモンゴル人には
かなわないとおもった。ゲルの柱みたいなのはデザインがきれいで、凝ってるなあと思った。今度は馬頭琴を
弾いてみたい。 

ゲルの前にて、モンゴル使節団の人々と。文学部日本文化学科1年 幅 亮子さん提供




ロシア語を学ぶ契機

愛知県立大学フランス科1 齋藤貴典
 僕は今年から第二外国語としてロシア語を専攻することにした。ロシアという国に関しての知識は高校の地理の授業や新聞、ゴルゴ13などから多少は得ていたが、決して明るいものではなかったしロシアについての興味も然程なかったが、司馬遼太郎氏の『ロシアについて』を読んでからロシアという国についてもっと知りたいと思うようになったのだ。それで今年の四月から加藤先生とミハイロワ先生のロシア語初級の授業に出ることにした。経過としては自分の努力が足りないこともあって授業は必死だが、先生方に助けられながら頑張っているところである。
 


4-ая Экскурсия

Кружка 《Оросия》


おろしゃ会 企画・会計

愛知県立大学文学部日本文化学科2年 平岩 貴比古

 早いもので“おろしゃ会”での遠足も、これで第四回目を数えることになる。初夏の5月27日(土)、われわれは愛知県犬山市にある「野外民族博物館リトルワールド」へ足を運んだ。当博物館は、世界各地のあらゆる民族の家屋を再現している屋外展示施設であり、ボリショイサーカスの公演を定期的に行うことでも知られている。今回の遠足の目的は「サーカスを鑑賞して身近なロシア文化に少しでも触れ合おう」というものだった。この日はあいにくの雨天にもかかわらず、お忙しい中を会員諸氏にお集まりいただいた。
 愛知県犬山市と岐阜県可児市の境に位置する「リトルワールド」は、JR名古屋駅からは名鉄電車とバスを乗り継いで約一時間の近さ。10:30ごろには現地に到着したのだが、遠足・修学旅行シーズンということもあり、高校生などを中心にすでに多くの入館者で一杯だった。サーカス団来日期間中の土・日・祝日は一日三本の公演が予定されているため、一行はさっそく11:00からのステージを見物することにした。公演は野外ホールにて行われる。舞台はお世辞にも大きいとはいえないが、彼らの演技の「大きさ」がそれに左右されることはないのだろう。
いよいよ「ボリショイサーカス2000」の開演である。プログラムのオープニングを飾るのは美女の華麗な「空中アクロバットバレエ」。純白の衣装とスカーフを身にまとい、天井から下がる一本のロープの上で、まさにバレエのような美しい演技を披露する。前後左右に大きくゆり動き、ロープを手足に絡めながら宙に舞う彼女が観客の頭上を通るたび、歓声が上がっていた。続いては異国情緒ただようジプシー風の男女(実は父と娘)の演じる「キュービック・バランスアクト」である。ヨーガのような柔らかな動きとともに、並大抵ではない彼らの集中力といったものが感じられた。
サーカスというと、どうしても「空中ブランコ」や「猛獣ショー」などのいわゆる花形演技に注目してしまいがちだが、ここで忘れてはならないのが「クラウン(ピエロ)」の存在である。息を呑むような名演技の合間に、ホッと観衆を和ませてくれるのだ。クラウンは「見ているものを楽しませる」という真髄を心得ており、彼らは団長を務めることも多いという。私個人の意見ではあるが、実はサーカスの演技の中で一番難しいのは「クラウン」ではないだろうか。
さて、次は「梯子のバランスアクロバット」という、支えの全くない梯子の上を男性が自由自在に昇降する大技である。どうして倒れないかが不思議で仕方ない。背面昇りから、鉄棒の逆上がりのようなことまでこなしてしまうのだから、また驚きである。これは通常の来日公演でもなかなか見ることはできない演技だ。公演は盛り上がりに近くなり、若い女性による「フラフープ」の妙技へと続く。何だか顧問の先生方がとても嬉しそうであったのは気のせいであろうか。フラフープを回しながらの衣装替えや、新体操顔負けの高度な技術はさることながら、観客は何よりも彼女自身の芸術性に目を奪われた。ラストを飾るのは、団体演技「ロシアンバー」。もちろんロシアの居酒屋のことではなく、ロシアの棒のことである。大男二人が両側から弾力性のあるバー(平均台を想像していただきたい)を支え、その上で小男がピョンピョン飛び跳ねる。この小男、何となくプーチン・ロシア連邦大統領に似ていると感じたのは私だけであろうか。ともあれ、最後の「空中二回転ひねり」にはまさに拍手大喝采であった。
サーカスのプログラムもすべて終了し、大団円。その後、おろしゃ会一行はリトルワールドの常設展示の見学に周ることにした。小雨のため見学順路の足場が悪く(土が多い!)、有料園内バスを利用する。「順路」とはいっても普通の博物館のそれとはわけが違い、長く起伏があり、さながらハイキング・コースのようでもある。延べ33ヶ所を数える野外展示の詳細についてはここでは省略させていただくが、ただ一つロシアの民族に関する展示がなかったのが残念である。
途中で多少のアルコールが入りつつも、何とかリトルワールドの園内を無事一周し、時間に余裕があったので先ほど熱演のあった野外ステージにふと顔を出してみる。すると、公演と公演との合間にもかかわらず、ステージ上で柔軟体操などに打ち込むサーカス団員の姿があるではないか。たとえ休憩時間といえども体を動かさずにはいられないのだろう。サーカスの舞台裏の中に、あらためて彼らのプロ意識の高さを感じた。ひと気のない観客席の最前列でわれわれがその様子を眺めていると、一人の団員が近づいてきてくれた。「梯子のバランスアクロバット」を演じたアゼルバイジャン出身のウズィルさんである。
このようなところで日本人にロシア語で話しかけられるとは、彼らも大変驚いたことだろう。しばらくすると「フラフープ」のロシア美人・エレーナさんもやって来た。顧問の先生方に負けじと、私も可能な限りロシア語で話そうと試み、お二方からサインを頂戴する。たとえヘタクソでも言葉が通じたときの喜びというのは、何ごとにも代え難いものだ。団員と「身近」に接することは一般的なボリショイサーカス日本公演ではめったにない機会で、われわれは非常に良い経験をさせてもらったと思う(以前私が見に行った公演では、写真撮影が有料だったことを記憶している)。
彼らと直に話をしてサインも貰い、興奮も冷めやらぬまま一行はリトルワールドを後にした。そしてJR名古屋駅に到着後、お待ちかね本日のエクスクールシヤの打ち上げである。箸も会話も進み、団員のウズィルさんのようにはいかないが、われわれなりに数軒の店を「梯子」して、楽しい夜を過ごすことができた。このように教員と学生が触れ合うことも、最近ではめっきり少なくなったと聞く。今回は(今回も?)おろしゃ会の財政難のために、特急指定席さえ利用できなかったのが会計としては心残りだが、ともあれ、次回もこのようにエクスクールシヤが実施できるのを期待する次第である。サーカスというのは大人になっても良いものだ。
ウズィル(左)とエレーナ(右)のサイン


部室開き

おろしゃ会副会長

愛知県立大スペイン科3年 高木 利佳


104日水曜日、おろしゃ会の部室開きをした。昨年3月に会が出来てから1年を経たので、新学期早々からCCK(サークル代表者会議)に部室の割り当てを申請していた。これまでの活動成果が評価され、夏休み直前に部室(D-202)がもらえた。執行部など一部の人間はもらった直後から使っていたのだが、夏休みに入ったため、なかなか一般会員に開放する機会がなかった。夏休みが終わる頃、平岩君や私で部室の掃除をし、新学期早々みんなに気軽に来てもらおうと「お茶会」即ち“Tea Party”を計画した。
ビラを作り宣伝をし、当日は飲み物と少しばかりのお菓子を用意した。また、前回のイベントである原先生の講演会と「ロシア料理の夕べ」の時の写真や、ミハイロワ先生が持ってきてくださった地図などで部屋を飾った。
しかし講義科目の少ない水曜日ということもあってか、集まってくれたのは10人ほどだった。それでもフランス学科の小柳先生が差し入れを持ってきてくださったりと、お茶会はなかなか楽しいものになったのではないかと思う。2階の部室は風通しがよく、広々として快適であった。
その後、部室を訪れる人は多くはない。月曜日はミハイロワ先生がいらっしゃるので、会話の練習や質問に訪れる人がいる。他の曜日は部室を開ける人が少ないというカギの問題があるかもしれない。やはり入りにくい雰囲気があるのだろうか…。少しずつ考えていきたい。水曜日の午後はいつも部室は開いているし、コーヒーなどもあるので、ちょっとでも顔を出してくれるととても嬉しい。


おろしゃ会の意義

名古屋市立大学人文社会学部4年 小川 信也
まず、こういうサ−クルが出来たこと自体に強い意味があるかと僕は思います。その理由において一番重要なのは、加藤先生が述べられていたように、ロシアに対して「好き」か「嫌い」かという前に、ロシアに関心を持てなければどうしようもないという意見から来ています。そこで、学生が興味を持ち得るような「おろしゃ会」の存在意義は大いにあると思います。ただ一つ強調したいことは、ロシアについて考えるときに今のロシア連邦だけでなく、ほかに新たに独立した国々についても目を向けなければ、ロシアというものが見えてこないと思います。例えばウクライナでは人口の約2割、カザフスタンでは約3割がロシア人です。彼らは自らのアイデンティティ−をどこに求めたらいいのかという苦しみを背負っています。また、バルト三国では特にエストニア・ラトヴィアにおいては公用語がエストニア語・ラトヴィア語と決められており、それらの言語の試験を受けて合格しないと市民権は与えられません。僕はウクライナ・ベラル−シの近現代の社会動向を専門にやっていこうと思っているので、限定的な説明になりますけれども、ウクライナ研究は盛んになってきています。しかしベラル−シに関する研究はもっぱらチェルノブイリ関連のことしか扱っていないかと思います。余談になりますけれども、10月の27日に名古屋で、キルギスの民族アンサンブルがありました。僕は残念なことに直接見ていないのですが、そうした催し物が行われていることに対しては好意的に受け止めていますし、重要なことだともいえます。ですから、「おろしゃ会」がロシアについてのみ考えるのではなく、ロシア世界というものに目を向けることを期待しています。そのことが未だに続いているロシアという国が抱え持つ問題点を見極めるのに、大きな役割を果たすであろうと思います。
そして日本では、ロシアについての悪いイメ−ジが、よく放送されるのですけれど、必ずしもそのように一義的に語れるものではないことははっきりしています。僕自身が見聞きしたりことや新聞のアンケ−ト調査を見てみると、ロシア人の日本に対する関心の深さは、日本人がロシアに対して抱く関心を遙かに上回っています。僕は社会学の一環として、ゼミの中で「アメリカ・中国・ロシアという三大大国に日本は囲まれていますが、どの国に親近感を抱きますか」という項目を質問の中に入れて、アンケ−ト調査表をいくつかの大学に送って調査したことがあります。そのときにも、アメリカと中国にはかなり関心を持っているのに、ロシアに関しては格段に関心のなさを示すアンケ−ト調査の結果を得ました。そういった点からも「おろしゃ会」に入ってる皆さんは、ロシアに目を向けているという点に感心します。個人的な意見になるのですが、ペレストロイカの時期にはロシア語は大人気でした。しかしながら、今はとても不人気で僕自身「ロシア語なんて勉強しても意味ないよ」などと色々な方々に言われ続けてきました。とりわけ僕がペレストロイカという事柄に気づいたのは、中学に入ってからだと思います。それからいきなりソ連が崩壊したということに対してはただびっくりしました。恐らくソ連崩壊後においては、新生ロシアに期待する向きもあったと思います。だけれども結局のところソ連が隠蔽してきた社会病理が表面にでてきて、通貨危機も起こりロシアへの関心が一気に下がったように思います。そのためか大学の第二外国語などで見る限り、ロシア語履修者の数は、低くなってきています。そんな中での「おろしゃ会」の存在は、少しでもロシアに関心を持って欲しいという視点も含めて見ると、貴重な役割を果たしていると思います。繰り返しになりますけれども、友好関係の逆の概念は敵対関係ではありません。無関心ということが友好の逆の概念として位置します。そうした意味合いからも日本とロシアとの間に存在している問題について考えていくのにロシアに関心を向けていくことは大きな役割を果たすであろうと信じています。
また最近部室の方を訪ねてみましたが、活気のあるよいサ−クルだと思いました。

スヴェタラーナ・ミハイロワ先生と行く
モスクワ・ペテルブルグの旅



2000年8月6日(日)〜13日(日) 8日間


 

おろしゃ会のメンバーがこの夏、ロシアに行ってきました。以下は、森田愛子(愛知県立大学文学部日本文化学科2年)日高千佳絵(愛知淑徳大学2年)の合作による紀行文です。
8月06日(日)ロシアに行くまで/ホテル・モスクワ探索
8月07日(月)赤の広場/ノヴォデヴィチ修道院/モスクワ大学/サーカス
8月08日(火)       ダーチャ訪問
8月09日(水)       プーシキン美術館/トレチャコフ美術館/「赤い矢」号
8月10日(木)聖イサク寺院/スパース・ナ・クラヴィ教会/運河遊覧/
                        文学カフェ/エルミタージュ美術館/バレエ「ジゼル」
8月11日(金)  ペテルゴフ宮殿/再びモスクワへ
8月12日(土)  モスクワ市内で買い物/ダニーロフスキー修道院/モスクワ発
  8月13日(日)  帰宅
8月6日 ロシアに行くまで
関西空港にて

名古屋から重たい荷物を引きずり関西空港国際線ターミナルに到着。夏の旅行なので服もかさばるはずはないのだが、初のロシア旅行ということで勝手が分からず、無意味な荷物を詰め込んだせいかスーツケースが異常なほどに重い。帰りにおみやげを入れるスペースは確保したはずだが、何か嫌な予感がしていた。そして、荷物検査でその嫌な予感が的中、X線でスーツケース中の花火セットの存在が暴かれてしまったのだ。これは恥ずかしかった、かなり恥ずかしかった。ダーチャで花火をして遊ぼうとしていた私の願いは脆くも崩れ去った。 (森田)

アエロフロート

1210分発のアエロフロートにギリギリで乗り込み、自分の座席に座ると間もなく飛行機はロシアに向けて飛び立った。飛行中も、ロシアへ行くという実感はあまり無く、ただ漠然とした嬉しさと期待感を感じ、ずっと話をしたり機内誌を読んだりしていて約10時間のフライト中、ほとんど睡眠を取らずにロシアに到着した。 (日高)

ホテル・モスクワ探索

ウクライナホテルについて

私のような小市民には大それた、そして私を謙虚な気持ちにさせる外観をしてズドーンと建っておりました。気分的には「わたくし、こちらのホテルに泊めていただいてよろしいでしょうか?」という感じ。日本の近代的・機能的なデザインとは対照的な歴史を感じさせるスターリン様式建築のウクライナホテル。このようなホテルに泊まれるのもロシアならでは。ロビーの高い天井を見上げた時、あの神話や宗教画のような世界が描かれた天井画が目に飛び込んできた衝撃は強烈でした。
背伸びをしないと洗面所の鏡に顔が映らなかったのもショックでしたが…。

 
(森田)
モスクワ探索

空港からホテルへ向かうバスの中から白樺が見え、ここはロシアであるという雰囲気を十分出していたが、日本で地図帳を開いては思いをはせていたロシアに自分が今いることが信じられずに、ただ車内からキョロキョロ周りを見ては車や看板、マクドナルドなどを発見しては喜んでいるうちにホテルに到着した。部屋に荷物を置いた後はみんなでモスクワの町を散歩した。このモスクワの町というのが、自分の住む町とは全然違い驚きの連続だった。まず車道が広い!名古屋も車道が広いと言われているが比べものにはならない程広いため、車道を挟んだ向こう側へ渡るために地下道を利用するという日本の歩道橋の逆を体験することができた。 (日高)

8月7日クレムリン

モスクワと言えばクレムリン。日本にいた時から私の頭の中ではこんな単純な観光ポイントの公式があった。しかし貧相な知識しか持ちあわせていない私の前に現れたクレムリンはあまりにも巨大だった。

聖ワシリー寺院のド派手な装飾にはただ圧倒された。イワン雷帝が9勝目を揚げた時に、それまで勝つ毎に建てていた教会を1つにまとめて造られた聖ワシリー寺院、ガイドブックなどの写真よりはるかに鮮やかな色使いだった。聖ワシリー寺院だけでなくウスペンスキー、ブラゴベシェンスキー教会などにも驚かされたが、最も印象に残ったのは武器庫だった。クレムリン内にある武器庫、このちょっと兵器庫のような名前を持つここは、昔、本当に武器を製造したり置いたりしていたのだが、ピョートル大帝がサンクト・ペテルブルクに遷都を敢行した際にここの職人達も皆、新しい都に移ってしまった為、空き倉庫になってしまったのをそのまま宝物庫にしたために、この名で呼ばれているそうだ。権力の集大成とでも言うべき、装飾品、衣装、王冠、玉座、そして馬車などが気が遠くなるほど展示されていた。馬車を引く馬にさえ信じられないような装飾品がつけられていた。私がそれこそ馬車馬のように一生働いても、あの馬の宝石の1つ分も稼げないだろう。恐るべし権力、恐れるべし財力である。 (森田)

クレムリンの中に入るために列に並ぶのだが、朝早くから長い列ができており、しかも色々な国の人々がそれぞれ固まって、思い思いに話しをしながら並んでいるため、その人達を観察しているのもなかなか面白かった。しかも並んでいる場所から聖ワシーリー寺院も見えたので長い時間立っていても飽きることは無かった。そして中に入り武器庫、ウスペンスキー寺院、ブラゴベシェンスキー教会などを見学したのだが、特に武器庫は以前武器や鎧が製造されていたとは信じられない程きらびやかなものが展示されており、エカテリーナ2世の馬車の豪華さやウエストの細さに驚いた。 (日高)

ノヴォデーヴィチ修道院

チャイコフスキーの「白鳥の湖」のモデルとなった場所である。日本の公園だと芝生の上を歩くと足元が湿気でヒドイ目にあったりするが爽やかな空気の中ではそんな心配は必要ない。湖の綺麗さに思わずはしゃいで馬鹿な写真も撮ってしまった。オクサーナは子どもの頃この公園で遊んだそうだ。羨ましい子供時代である。

修道院のお墓にはロシアの有名人達が眠っている。ゴーゴリやチェーホフ、フルシチョフ、シャリャーピンなどのお墓がそれぞれ像などが置かれ凝ったデザインである。お墓の多くに亡くなった人の肖像や写真がはめ込まれていた。日本のお墓と違い形や大きさが様々に工夫されていて見ていて飽きない。また火葬された人たちの位牌が収められた壁には一面に石版に写真や文字が刻まれていて変わった光景だった。

知らない人のお墓など普通ならまじまじと見たりはしないし、不謹慎だがお墓を見て面白いと感じることもないだろう。しかしこの修道院にあるお墓はどれも故人に対する思いがデザインにあらわれており大変興味深かった。 (森田)

バスから降りるとそこにはとても美しい池があった。そこに着いて初めてその池が「白鳥の湖」を書き上げた場所だと知り、あまり大きい池ではなかったので意外だった。その周りは公園になっているため、散歩や読書をしている人も何人かいて、とても気持ち良さそうだった。池の奥にはノヴォデーヴィチ修道院を眺めることができ、とても景色のいいところだった。その池では冬になるとスケートができるらしく、なんて贅沢な遊びなのだろうと思った。

ノヴォデーヴィチ修道院には数多くの有名人が眠っているのだが、墓の前に立っている像によりそこにどのような人が眠っているのか一目瞭然で判るものが多く、しかも11人の墓が大きいため見ごたえがあった。

(日高)

 
 

モスクワ大学

ミハイロワ先生の母校であるモスクワ大学はとても大きく広い大学で、自分がもしその学生だったら迷子になり大学を自由自在に歩けるようになるにはかなりの時間がかかるだろうと思った。それと同時に現在そこに通っている本当の学生がかなり羨ましくなった。広いキャンパスでのめくるめく大学生活を想像すると、自分が体験できないような楽しいことが色々ありそうで羨ましくなってしまったのだ。校内の一部を見学したのだが天井が高く広々としているように感じた。しかし夏休み中のため入れない所があったり、学生がほとんどいなかったりで校内は少し淋しい感じがした。 (日高)

サーカス

それまでサーカスへ行ったことが無く、特別行きたいと思ったこともなかったのでけれど、そんな自分を後悔する程サーカスはかなり楽しかった。席も前から2列目で、近くでアクロバットや動物を見ることができ、とても迫力があった。ピエロの出てくるところでは笑いっぱなしで、危険な演技のところでは自分がやっているわけでもないのに緊張して、「そんな危険なことやめてー」と心の中では叫びつつも目は期待して見ている状態で、かなり満喫することができた。ロシアのサーカスは安く、人々の娯楽で気軽に行けそうな所だと感じた。 (日高)

8月8日 ダーチャ

今日はダーチャ行きである。モスクワ郊外にあるスヴェタラーナ先生の知人のダーチャを訪れるのだ。

この文章を読む方はダーチャとは何かご存知だろうが、念のためダーチャとは日本語では別荘などと訳される、休日にロシアの人々が自然を楽しみ、家庭菜園や庭造りを行なって過ごすための家であることを付け加えておく。ただし、日本語に上手い語がないので別荘と訳されるが、普通は日本人が考えるような大袈裟なものではなくもっとシンプルなものであるらしい。しかし、私たちが今回訪れる機会に恵まれた所は別荘といったほうが正確だろう。憧れの白樺の林の中にあるというだけでも羨ましいのに、家はかなりしっかりしたもので私の家よりはるかに立派だった。これが別荘でなくて一体何だというのだ。行ったことはないが軽井沢の別荘地といった趣である。
 
 

ダーチャにてキャビアで乾杯 真中ナージャ(女優の卵)

そんなダーチャの集まった道を歩いていると戸のペンキ塗りをしている人がいた。家もデザインしたものを業者に頼んだり、自分たちでできる所は材料を揃えて作ったりするらしい。ダーチャは日曜大工を楽しむためでもあるのだ。家の中を見学させていただくと、部屋に暖炉があった。立派な煉瓦造りのものである。かなり恥ずかしいが私の家には暖炉らしきものがある。家を建てるとき私の父は暖炉をつけたかったらしいのだが、そんな父の道楽を引き受けてくれるありがたい業者が当時見つからず日曜大工で父が無理矢理作った木の暖炉まがいの代物だ。木製なので当然火気厳禁・用途不明の我が家の暖炉もどきをダーチャで思い出し少し虚しい感覚を覚えた。

ダーチャから近くの川へ散歩にも連れていってもらった。地平線まで広がる草原と青い空に感動して犬みたいに駆け出したのは自分でも信じられない。しかし真夏の太陽が照りつけているにも関わらず、日本では絶対に考えられないほど湿気が無く爽やかな気候のなかでは、日本では考えられないようなこともしてしまうのだ。テレビで公園で裸同然の格好をして日光浴を楽しむ海外の映像を見ても何が楽しいのかさっぱり理解できなかったが、あの気持ちが初めてわかった。こんなに楽しくて汗もかかず快適なものだとは思わなかった。ただ散歩をしているだけだがメチャメチャ楽しかった。

ダーチャで家族の皆さんは親切でとても快く私たちを受け入れてくれて、おいしいたくさんの手料理も振る舞ってくれた。本当に量が多くてせっかくの料理をほとんど食べきることができず残念だったし、大変申し訳なかった。ダーチャでの一日はとても楽しいものでしたが、ロシア語が話せたらもっと有意義なものになっただろうと強く感じ、もっと勉強しようと思った一日だった。

ダーチャのペチカの前で団欒(ナージャ・森田・平岩・日高)

ホテルの部屋に戻るとテレビではプーシキン広場近くの地下道での爆発事故が報道されていた。大変残念な出来事が起こってしまったわけだが、私たちがモスクワを離れていた時だったのが幸いだった。

一日外にいたのでホテルの部屋で深夜にパックをした。この日のために日本から用意してきた(あくまで私にとってだが)高級品である。日本でだって使ったことはない初使用のものである。私たちは毎晩ホテルライフを満喫して楽しんでいたが、この夜が一番私たちは楽しんでいて、また一番他人様に見せられない姿でもあった。 (森田)

どこのダーチャにもさまざまな木々が生え、果実や野菜を育てており、とてもさわやかな雰囲気の中で、ロシアの人々は休日を過ごしていた。もちろん日本へ帰っても別荘などあるはずも無い私は、予想どおり羨ましくなり、そこの住民になりきった写真をたくさん撮った。お昼ご飯を食べた後、みんなで散歩へ出かけたのだが、天気も良く日本のように湿気も高くないので、どれだけ歩いても汗をかくことは無くとても気持ち良かった。そのように気候が良いうえ景色もとても素晴らしく、草・花は生え、地平線が見えるほどの広い土地に圧倒されつつ今まで体験したことが無いくらいの散歩をした。昼ご飯をお腹いっぱい食べたにも関わらず、直径13pくらいはあるキャビアの缶に目がくらみ、夜ご飯も許容範囲以上に食べとても幸せな気持ちに浸った。キャビアをたっぷりのせてパンを食べている時は、日本にいるみんなに罪悪感を感じたけれど… (日高)

8月9日 プーシキン美術館とトレチャコフ美術館

ギリシア風の大理石列柱の建物のプーシキン美術館は古代エジプトの装飾品やミイラからピカソ、セザンヌなどの西洋近代絵画まで展示されていて美術館というより博物館のようだった。数多くの彫刻も展示されていたがこれは学生がデッサンするための模造品がほとんどらしい。たとえ模造品でも教育目的でこれだけのものが揃えられているのが羨ましかった。デッサン用の頭像、胸像も廊下の片隅に無造作に置かれていた。

西洋近代絵画は「これでもか」というほど集められていた。一応作者ごとに作品は分けられていたが、建物内の部屋割りが入り組んでいることや展示の仕方で、素晴らしい作品が揃っているのにどこかしら鑑賞しづらく整然と分類されていない感じがしたのが残念だった。それでもピカソの「青の時代」の作品群とそこからの変化の兆しがある作品とが見ることができ感激でした。

トレチャコフ美術館は建物はとても可愛らしい印象のものだったが、中は建物の外見に似合わず美術館の王道といった感じの見やすい展示がされていた。日本の美術館のような几帳面な展示だった。収容されている作品は古典的な宮廷肖像画やロシアの画家、それにイコンが主なものだった。イコンのコレクションは大変素晴らしく、私はミュージアムショップでイコンが印刷された記念切手を購入した。プーシキン美術館の後だったので作品に当てられて少し疲れていたが見やすくてとても良い雰囲気の美術館だった。 (森田)

「赤い矢」号

切り良く0時発でないのは日にちの混乱が起こるからだろうか、それともダイヤの関係だろうか、2359分発のサンクトペテルブルグ行き寝台特急「赤い矢」号での列車の旅である。翌日の829分に着いてしまうが、列車に乗ると「旅」という感じがしてわくわくする。シベリア鉄道は私の憧れで、ほとんどそのシュミレーション気分である。

列車に乗ると早速自分達の部屋に向かい、こもって1等車2人部屋という贅沢な空間をチェックしまくる。ベッドが広くて感激するが、小柄な自分だからかなのかと後ろ向きな考えが頭をよぎり少しブルーな気分。いやいやこれは背の高いロシアの方でも広いでしょう。と、自分自身に言い聞かせる。テーブルのポットやティーカップ、夜食だか朝食だか分からないパンやハム、チーズ、ヨーグルトなどを見て1等車って素晴らしいとしみじみ感じ入る。電気やラジオのスイッチも把握し、ベッドの下までチェックしまくっていたが扉の横の物体だけがが謎だった。部屋に来たスヴェタラーナ先生に聞くと、あっさりそれは梯子だという答え。それを使って天井近くの棚に荷物を入れるのだ。聞けばああ、なるほどと思うが私たちはその棚の空間にさえ気付いていなかった。

問題が解決しポットで紅茶をいただいて列車の空間で満足に浸っていたが、人間の欲望は果てしない。モスクワのおみやげ屋さんで買ったロシアの帽子を列車の中でかぶりたくなったのである。ロシアの帽子と聞いて理解していただけるだろうか、冬ロシアの人達がかぶっているイメージのあの毛皮でつくられた高さの低い円柱型の帽子である。大きなスーツケースの中から帽子を引っ張り出して被り、記念撮影大会である。気分は銀河鉄道999のメーテルかシベリア鉄道に乗った小娘である。「メーテルだ!メーテルだ!」と大はしゃぎしながら列車での夜を楽しんだ。 (森田)

色々な場所を観光することももちろん楽しみだったのだけれど、この「赤い矢」号に乗れること(しかも1等車)をひそかに楽しみにしていた私はどんな列車であるか気になっていた。夜行列車のためバスは夜中にウクライナホテルを出て、夜のモスクワの町を走り駅に着いた。バスの中で「危険なため荷物に注意!」と何度も念を押されたため、みんな少し緊張した面持ちでバスの中で待機していた。しかも私はトイレが近く、列車に乗って20分はトイレに行けないとウクライナホテルにいる時点で聞いており、その時からトイレに行きたくならないか心配だったため特別な緊張もあって、なかなか複雑な心境だった。そして遂に駅の中に入って行き、自分達の乗り場までみんなで固まって歩いていった。駅の中には沢山の人がいて夜中なのに異様な雰囲気になっていた。その後各自の部屋に入るまでたいした問題も無くスムーズにいったので良かった。部屋に入るとテンションが高くなり、写真を撮ったり、窓の外の景色を見たり、部屋の中を隅々まで見たりして「赤い矢」号をかなり使いこなせるようになったが、トイレだけは揺れるのでなかなか使うのが難しかった。 (日高)

8月10日 聖イサク寺院とスパース・ナ・クラヴィー教会

聖イサク寺院は鈍い金色で覆われた円屋根の重厚な建物で威厳を感じました。世界で3番目に大きいというこの聖堂、30階建てビルに相当する高さのの天井画を見上げると、その大きさと豪華さに平衡感覚を失い目が回りそうでした。壁中に聖書の場面や聖人の姿が描かれていて、とてつもなく濃度の高い空気が建物内に立ち込めている気がし、その空気を吸っているだけで気絶しそうな喜びを感じました。

スパース・ナ・クラヴィー教会は何かお菓子の城のようなメルヘンチックな印象を受けました。外観に対して「血の上の」という物騒な名前がついているのは、ここでアレクサンドル2世が殺害された場所だからです。建物はモスクワの聖ワシリーと似た感じもしましたが、色合いが独特で薄黄緑色と濁った水色の二色で主に統一されていました。大胆な話ですが戦争中にはジャガイモなどの野菜貯蔵庫としてこの教会が使われたこともあったとガイドの方が話していました。そんな教会の内部はモザイク画で埋め尽くされた大変興味深いもので、野菜貯蔵庫として使うなんて本当に信じられない発想です。 (森田)

サンクトペテルブルグの町はモスクワより気温が10℃くらい低く天気も悪かったため、とても寒く感じられた。聖イサク寺院は入る前に心の準備をすることを薦めたい。心の準備も何もせず中に入った私はその豪華絢爛さにすっかりやられてしまった。
中は信じられない程手の込んだ造りになっており、聖イサク寺院を造るのにどのくらい手間がかかったか想像しきれない程に素晴らしかった。 (日高)
文学カフェ

文学カフェの店員さんはかなりテキパキとしており、料理を食べ終わるとすぐに片付け、(料理が残っていても手をつけていなければ「finish?」と聞いて片付けて行く)そして次の料理がこれまたすぐに運ばれてくるというかなりの早さだった。日本ではなかなか見うけられない速さだなと思いつつ食べた料理はとても美味しく、店内に響き渡る生の歌声も聴くことができ、雰囲気のいいカフェだった。 (日高)

エルミタージュ

私にとって今回の旅行、いや人生最大の目的ともいえる場所がエルミタージュ美術館だった。バスの窓からエルミタージュを見た瞬間私の血圧は多分上がっていただろう。

大ネヴァ川にかかる宮殿橋からエルミタージュを臨んだ時は寒くて今にも雨の降り出しそうな天気だったが、私の気分は高揚していて体調の悪い日高さんを放り出して写真を撮るという暴挙に出ていた。

エルミタージュ前に広がる宮殿広場では馬車に乗った新郎新婦の姿も見られたが、そんなことにかまいもせずに宮殿に目を奪われていた。

念願の宮殿内の広間に入った瞬間「何じゃこりゃ!」と叫び出したくなる衝動にかられた。豪華絢爛というのはこういうことを言うのだろう。目の前が金色で輝いていた。とんでもなく高い天井から重そうな飾りだらけのシャンデリアがぶら下がり、細かな部分まで装飾が施された壁面、床は種類の違う木目を組み合わせて作られた模様で彩られていた。今まで写真でさんざん見てきたが、実際に見るともう何がなんだかわからないような豪華さで、信じられないような世界が広がっていた。収容されている絵画を見るより前に宮殿内の装飾に魂を抜かれてしまった。

床に足がついていたかどうか本当に記憶が無い。目の前にある世界を見ることだけに私の身体機能は限定されていたのだろう。これだけのものを見せられると、本当に言葉が無い。ただ笑うしかない状態である。

地に足が着かないままエルミタージュに展示されるおびただしい数の絵画を鑑賞した。普通、美術館では絵画を鑑賞する時はその作品の世界に引き込まれ、絵から目を離し歩き出した瞬間に自分が現実に存在することを認識させられるのだが、エルミタージュでは絵画に目を向けると現実感を感じるという奇妙な感覚に陥った。非現実的な建物に終時圧倒されていて、絵画を見ることに安堵を感じていた。だが、それも思考回路を停止させたまま表面を目でなぞっているだけでしっかりとは鑑賞していなかった。今思い返せば冷静にもっとじっくり絵画を見るべきだったと後悔するのだが、あの時の私は憧れのエルミタージュに自分がいるということに完全に舞い上がっていた。

ラファエロの聖家族などのように見たことを覚えている作品もあるが、見たかったのに時間がなくて見れなかったり、見たはずなのに私がトリップしていたため覚えていない悔しい作品もある。作品1つにつき1分間ずつ見ても5年かかるという作品数を全て見たいとまでは言わないが、せめてもう一度足を運びたい場所である。今度は落ち着いてしっかり歩きながら楽しみたい。まだエルミタージュは私の最大の目的のままである。 (森田)

バレエ「ジゼル」

今まで私はバレエを生で見る機会などほとんどなく、せいぜい友達の発表会レベルのものしか見たことがなかった。そんな私が本場ロシアで、エルミタージュ劇場で、贅沢にも、生意気にもバレエを見るのである。これが気合が入らずにいられようか。

しかし何しろ縁の無い世界、未知の世界である。出発前から日高さんとどんな服を着たらいいのか、やっぱりワンピースか、靴はどうすると電話で打ち合わせをし、ロシア初日のホテルで「旅の恥はかき捨て」とお互いのワンピースを出し合い、劇場に行く直前のホテルでの着替えでも「私たち間違ってないか」と最後まで確認し合ううろたえよう。

「ジゼル」の内容についても、昔少女趣味な漫画でかすかに読んだ内容をやら、友達の発表会でのガラのワンシーンやらという記憶を総動員して思い出し、「地球の歩き方・ロシア」に載っていた作品解説を読んで安堵するという情けなさ。

だがかなり場違いな思いをしながら劇場に行ってみると、豪華だが予想より小さな劇場だったことにひと安心し、壁際の席に座ったこともあり落ち着いてバレエ鑑賞することができた。バレエの専門的な知識などないのでよくわからないが手足の長さを活かした群舞の踊りには力強い美しさを感じた。第2幕の主人公の儚げで幻想的な雰囲には引き込まれた。バレエ自体よりもバレエを見ることに満足した気もしたが私にとっては夢のような世界だった。

バレエを見終わったのは夜10時近くだったが劇場を出た時白夜による外の明るさに驚かされた。サンクトペテルブルグはモスクワよりも日没が遅かった。 (森田)

ロシアと言ったらバレエ、バレエと言ったらロシア!そのロシアでバレエを見ることができるなんてその日になるまで信じられない気持ちだった。しかも初めて見る「ジゼル」で私は内容をよく知らなかったため、お土産を買った店で森田さんに聞いて予習をしておき、行く前からかなりわくわくして気合が入っていた。そしてエルミタージュ劇場に到着すると緊張は最高潮に達し、その時の私はきっとにやけていたと思う。席は全自由席で私達が会場に着いた頃には結構うまっていたので焦り、やや必死になって席を探したが、なんとかみんな席に着くことができ、心を落ち着けると間もなく開演した。

主人公のジゼルを演じた女性の表現力が豊かでひきこまれ見入ってしまい、2時間の上演時間はあっという間に過ぎてしまった。終了後は感動と共に終わってしまったんだという少し淋しい気分になった。

エルミタージュ劇場に入る前は明るかったのだけど、バレエが終わり外へ出て行ってもまだ明るかった。バレエが終わると10時過ぎになっていたがサンクトペテルブルグの夜はそれだけでは終わらず、その後みんなでホテルアストリアへ行き、昼に予約しておいた大きいケーキとお茶を飲みながらピアノの生演奏を聞き、色々みんなで話をした。 (日高)

8月11日 ペテルゴフ

サンクトペテルブルグから水中翼船に30分間近く乗ってフィンランド湾を抜け、ペテルゴフまたはペトロドヴァレェツ(ピョートルの宮殿)と呼ばれる所に行った。ここにはピョートル大帝が建てた夏の宮殿がある。運河に忽然と現れる噴水に彩られた庭園と大宮殿は別世界に来たような美しさだった。

地形を活かして造られた階段状の噴水の上に建つ大宮殿の中はサンクトペテルブルグのエルミタージュと比べると広間というより小部屋のように内部が仕切られていたが、装飾は負けず劣らず凝ったものだった。部屋ごとに装飾の雰囲気も変えられていて、いかにもヨーロッパ・バロック的というものから中国風な影響を感じさせる部屋まであった。

庭園には64もの噴水と神話の英雄の彫像が置かれていて、変わり易い天気の中、日が射すと噴水と金色に輝く彫像の周りに虹ができて本当に綺麗だった。くどくなるほどの豪華さでも豊かな緑と海に囲まれた中ではそれも許されそうだが、人が通ると水上がる噴水や「ベンチの噴水」、丘をチェス台に見立てて造られた「チェスの噴水」など遊び心も取り入れ、本当に贅の限りを尽くしたといった感じの庭園だった。 (森田)

水中翼船に乗り約30分でペテルゴフに到着した。海を渡って行ったのでてっきりペテルゴフは島にあるのだと思い込んでいたのだが、後になって地図で調べてみたところペテルゴフはサンクトペテルブルグから南西に約29キロのフィンランド湾に面する所にあり、列車でも行けるそうだ。

船から降りて遠くを眺めるとそこには絵葉書や本でかなり見覚えのある風景が自分の目の前に広がっており、嬉しくなってしまった。みんなで急いで宮殿まで行き並んだ甲斐があり列の前の方に並ぶことができ、待ち時間は少なかった。その待ち時間には写真を撮ったり、中世の服を着た人々の演奏を聴いたりして楽しみながら待つことができた。

宮殿の中はさすがに豪華で周りに金色の模様が施された大きい鏡があり、まぶしかった。そしてそこに映る自分の姿がかなり貧相に見えた。部屋という部屋のすべてがそれぞれ個性的で雰囲気が違っており豪華な暮らしぶりに圧倒された。

宮殿を見学した後、庭園を散歩したのだが様々な噴水があり、しかもその噴水の水は20キロ以上も離れたロプシンスキー丘からポンプを使用せずに引いており、250年以上経った今でも枯れていないそうだ。夢のような話がロシアでは現実に起きており私の目の前では噴水がその存在感をアピールしていた。 (日高)

再びモスクワへ

1泊2日のサンクトペテルブルクはあっという間に終わってしまい、11日の昼過ぎにはモスクワ行きの列車に乗っていた。6人部屋の車内ではトランプとUNOをずっとやっており、しかもみんな真剣でゲームに没頭し白熱した試合が続いた。

停車した駅で黒野さんがみんなにアイスを買ってくださり、その美味しいアイスを食べている時はさすがに休戦していたけれど、みんなが食べ終わるとやはりトランプを始め、意外にすぐにモスクワに到着してしまった。 (日高)

8月12日モスクワ市内で買い物

ついにモスクワを発つ日である。午前中にトロリーバスをに乗ってアルバート通りへ行き買い物をした。ロシアのバスは自分で切符を切る。不思議な精算方法だ。裁判所の前を通り、着いたお菓子屋さんでは箱の形をした奇麗な緑色のケースに一目ぼれし、チョコレートのぎっしりと詰まったその宝箱を買った。

箱詰めのお菓子もあったが、量り売りのショーケースがあってとても色鮮やかで可愛らしかった。宝箱のチョコレートはかなりの量で、日本に帰ってからしばらくの間は会った人のほとんどにチョコレートを配っていた。今やっと空になった宝箱は私の化粧品入れになっている。 (森田)

これまでこの旅行ではバスに乗りみんな揃って行動していたのだが、12日の午前は私を含め5人だけで出かけた。まずトロリーバスに乗り、その後少し歩いて7日に昼食をとった「プラーガ」まで行き、オクサーナのイトコと合流して買い物を始めた。

スーパーのような所にかわいいノートが売っており何冊か購入したのだが、その買い方が面白かった。まず自分の欲しいものが何ルーブルになるのか聞き、レジへ行ってその金額を払ってレシートをもらい、そのレシートを持って売り場へ行くとやっとその商品が買えるというシステムだった。そのようなやり方で買うのは初めてだったので、体験することができ嬉しかった。その後行ったお菓子屋さんでもチョコレートをたんまりと買ってしまい、ホテルへ戻る頃には荷物が沢山になっており重かった。 (日高)

ダニーロフスキー修道院

ロシア最後の食事はダニーロフスキーだった。このレストランンは修道院が経営しており、寺院の裏側にあった。とても綺麗で雰囲気のよいレストランで料理も美味しく最後の最後までお腹一杯になるまで食べてしまった。思い返すとロシアに滞在中、お腹が空いた記憶が無く常に満腹だった。

昼食後、レストランの前に庭がありそこを散歩した。とても綺麗な庭には花が咲いており、ベンチに座って話をしたり写真を撮ったりと楽しい時間を過ごした。 (日高)

帰宅

モスクワのシェレメチェボ空港を発ちアエロフロートでの9時間35分の飛行を終え、関西空港に着き外に出た瞬間まるで真夏のプールサイドに立ったような暑さと湿気に包まれた。水の中のように体中にまとわりつく湿気が苦痛だった。おみやげで行きよりはるかに重くなった荷物を持ってこの水の中家に帰るのかと思うと、ロシアに引き返したくなったがそんなことが許されるはずもなくスーツケースを転がしながら関西空港内の駅に向かった。電車に乗ると冷房のおかげで暑さからは解放されたが、車外での暑さと湿気にロシア旅行自体よりもはるかに大きい疲労を感じたままだった。しかし南海なんば駅に着いてからさらに疲労が増すことになった。なぜなら近鉄なんば駅への乗り継ぎで広い駅構内を大きなスーツケースを持って移動しなければならなかったからである。ただ乗り場が離れているだけなら良いが、駅構内は階段、段差が多くその度に荷物を持ち上げる恐ろしい腕力を要求された。エスカレーターもスーツケースぎりぎりの幅で乗る瞬間、降りる瞬間はかなりの労力を強いられた。関西空港ではエスカレーターが設置されていてその幅も広く気にはならなかったが、ここに来てバリアフリーとは程遠い駅に苦しめられた。名古屋行きの電車に乗ると旅行ではなく荷物を運んだ疲労からひたすら眠り続けた。

近鉄名古屋駅で日高さん達と明日すぐ写真を現像して会うというハードな約束をして別れ、私はなんば駅に負けず劣らず階段だらけの中、名鉄電車に乗り換えた。地元の駅にここまでの移動の中で最長の階段があり少し気が遠くなりかけているとき私に「手伝いましょうか?」と優しく声をかけてくださったのはお寺の住職さん。心から感謝しながら、こんな時に私を助けてくれるのはやっぱり坊さんだけかと思いつつ家に帰った。午後3時頃家に着くと時差ボケなどすこしも感じずに私はロシア旅行について家族に熱く語り続けた。(森田)

ロシア旅行中は朝から夜まで(夜と言うか夜中まで?)ずっと観光したり遊んだりしていて毎日1時過ぎ頃に寝て、朝は6時30分頃には起きるという日本にいては考えられない程、密度の濃い生活を送った。もっとロシアにいたかったけれどそうも言っていられず、飛行機に乗る時間になってしまい、ロシアに残るミハイロワ先生やオクサーナ、平岩君を羨ましく思いつつ出国手続きを済ませた。手続きの後、飛行機に乗るまでに時間があったのでみんなで免税店に行った。免税店にはロシアのお土産屋さんで見かけた食器やマトリョーシカ、そしてお馴染みのお酒やタバコなどが売っていた。私はタマゴ型の缶にあめが入っているという可愛らしいお菓子を買い、なかなかいいものが買えたと満足していたらもう出発時間が迫っていたので、みんなで搭乗ゲートまで走っていった。すると手荷物、ボディチェックをしてくれる係りの方が明らかに不機嫌な顔をしていらっしゃったので申し訳無い気持ちになった。たぶん私達が最後だったのだろう…

帰りの飛行機の中でもほとんど眠れず、しかも私の席のリクライニングが壊れていて倒せなかったのでやや辛かった。そのため話をしたり音楽を聞いたりして時間を潰した。

関西国際空港に着いたとたん湿気がものすごくて、外国人の方が日本に来てこの湿気に驚くという気持ちが痛いほどよく分かった。そして「日本ってそう言えばこんな感じだったよなー」と蒸し暑さによって日本に帰ってきたことを実感した。

今回のロシア旅行は次から次へと素晴らしいものに出会い、その豪華さに圧倒されたり感動することが多かった。そして実際に行くことにより知ることのできる細かい部分の文化の違いも感じることが多く、とても充実した7日間だった。旅行中にテロ事件が起こったりもしたけれど波乱万丈な楽しい旅だった。もちろんロシアのことをより好きになったし、また旅行したいと思っている。帰ってきてからロシアのことを考えてはにやける日々が今日も続いている… (日高)


モスクワ・語学研修
愛知県立大学文学部日本文化学科2年 平岩貴比古


今年の夏、モスクワ国立言語大学で短期講習を受ける機会に恵まれ、生まれて初めてロシアを訪れた。滞在期間は観光旅行を含め8月6日から26日までの1ヶ月弱であったが、実際に大学で学んだのは8月14日から25日までの約2週間である。ロシア人の言うあの「黒い8月」に私はモスクワにいたのだ。
言語大は中心街を囲んでいるサドーヴァヤ環状道路の南西部、地下鉄「パルク・クリトゥーリ」駅から北へ徒歩3分の場所にある。キャンパスは決して大きくないが白い柱、黄色の壁が印象的な建物で、木々の緑とのコントラストが美しい。大学の近くをモスクワ川が流れ、周辺には「ゴーリキー公園」や「プーシキン博物館」、「トルストイの家博物館」などもある。モスクワ言語大は、モスクワ随一の専門外国語大学であり、ここには欧米諸国語はもちろんのこと、日本語学科まで開設されている。夏期講習は1限が45分。私の場合は「月曜に2コマ、火曜と水曜がそれぞれ1コマづつ、木曜は休みで金曜に1コマ」というペースで受講した。2週間で合計10限の授業になる予定だったが、第1週の月曜は手続きに時間をとられてしまい、1コマ分受けることができなかった。
これらの授業はマンツーマン形式で行われ、45分間のほとんどが会話練習に費やされた。私の担当教員はエレーナ・N・ニキーチナ女史という、背の高い素敵な方だった。モスクワ言語大には日本語学科があるということで、当初は日本語か東洋諸語専門の教員が回されると思っていたのだが、ニキーチナ女史はロシア文学・言語学の専門家だそうである。したがって、ロシア語で分からない単語が出てきた場合にはまず英語で説明があり、最後の手段として露和辞典をめくった。
授業の詳しい内容についてここでは割愛させていただくが、何より「ロシア語のみによる」講習が受けられたことは実に良い経験になった。日本にいるとどうしても母国語を使用する「甘え」が出てきてしまう。ロシア語での生活環境には多くのものを与えられた。また、ニキーチナ女史と練習した会話がそのままモスクワの街角で応用できたことで、私のロシア滞在はより一層充実したものとなった。ちなみに、大学で授業のある昼の時間帯以外は毎日モスクワ市内を散策し、地下鉄には2週間で50回近く乗車したとを記憶している。市内散策の感想については次号以降、述べることにしたい。
大学での講習の間、私はモスクワ言語大の学生寮に身を置いていた。寮は地下鉄「パルク・クリトゥーリ」駅のすぐ南に位置している。そこで日本人学生の佐藤杏子さん、天理大学ロシア学科の阪本秀昭先生に出会い、滞在中には本当にお世話になった。有り難いことに、阪本先生は今回のおろしゃ会・会報への寄稿を引き受けて下さった。

モスクワにロケーションに来ていたNHKテレビロシア語講座の二人と出会う
右ワジム・シローコフさん、左しまお・まほさん、中央はもちろんボク
 

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