「おろしゃ会」会報第5号その3


敵対から友好へ

南保悌児(名古屋国際空港)


「おろしゃ会」の皆様へ
 「おろしゃ会」の懇親会にロシアの友人と共に飛び入りで参加させて頂きました。大学生のサークル活動と聞いていたので、私のようなオジサンがお邪魔して大丈夫だろうかと少し不安を感じていたのですが、実際に会の皆さんにお会いしてそれが全く余計な心配であったことが分かりました。これほど多くの、若くてエネルギッシュな人達がロシアに関心を持って活動していることを知り、とても感動しています。私自身は「おろしゃ会」のようなサークル活動とはまるで縁が無く、個人的にロシア人または旧ソ連圏の人との出会いを求め続けてきました。それゆえ私の場合、ロシア人と知り合いになる時というのは知人からの紹介によることが多く、大抵はその紹介された人からまた別の人と知り合いになるという形になります。ですから「おろしゃ会」の事も日頃から大変お世話になっている人からの紹介によって知ることができたのです。私は今後も個人的にロシアとの交流を続けるつもりですが、もしかするとこの先お互いにロシアに興味を持つ者同士で何かしら接点を持つ機会があるかもしれません。その際は「何だこの変なおっさんは」と思わずに、気軽に声を掛けてください。そしてお互いに情報交換をしましょう。この度はすばらしい懇親会に同席させて頂き、本当にありがとうございました。今後ともどうぞよろしくお願い致します。

加藤史朗様へ
 私は現在名古屋空港消防で働いていますが、その前は自衛隊に11年間勤務していました。ロシア語の基礎はその自衛隊で習得しました。ロシア語をやり始めた当時はまだソ連が崩壊する3年ほど前だったので、当然ロシア(当時はまだソ連)は日本にとって仮想敵国であり、私もロシアに対して「好き」という感情は全く持っていませんでした。むしろ日本に軍事的脅威を与える「敵」と考えていました。学習用の教材も軍事用語ばかりを扱ったものがほとんどで、最初に覚えた単語は確か「антенна アンテナ、空中線」でした。実際に北海道の稚内で仕事に就いてからも敵国同士の緊張感は続き、戦闘機や爆撃機や哨戒機などの軍事演習には本当に現実的な脅威を感じたものです。しかしエリツィンが初代大統領に就任した1991年頃から状況が変化し始めました。演習の数が年々減り続け、その規模や練度も次第にお粗末なものと化していきました。そして私自身も米軍のロシア語教官による1ヶ月半の集中講座や小平調査学校のロシア語上級課程(2ヶ月)などを経て、ロシア語に対する姿勢やロシア人に対する考え方を変えるようになりました。

 敵対から友好へ。いつの間にか、自分でも気付かない内にそのような方向に変わっていたように思います。いわゆるソ連崩壊後、私が住んでいた稚内の町にもロシア人の漁師が続々と乗り込んできました。しかし稚内では結局良いロシア人に会うことはありませんでした。信号待ちで止まっている車の助手席の扉をいきなり開けて車内に乗り込み、どこぞへ連れて行けと頼む人。スーパーマーケットで酔っ払って管を巻いているところを警備員に両脇から抱え込まれてどこかへ連れて行かれる人。1ルーブル硬貨(500円硬貨と同じように使える)でたばこやジュースを買う人。自転車や自動車(家の近くに置いてあっても彼等の目には捨ててある物に見える)を盗む人。夜中に酔っ払って誰かの家の扉をぶち壊し、女を紹介しろとせがむ人。彼等の漁船に調査に訪れた警察官をぶん殴る人。やくざに拳銃や大麻を密売する人。例を挙げればきりがありません。このように様々な問題が発生する中で稚内の市民とロシア人の関係が険悪なものになるのかと思えばそうでもなく、市民の側が然るべき対策を立てて、彼等を追い出そうとするのではなく迎え入れる努力をするわけです。お店には間違いだらけのロシア語が書かれた張り紙やプラカードなどが出現し、特にレストランには「酔っ払い、アルコールの持ち込みお断り」という注意書が貼られるようになりました。ロシア人専用のお店や休憩所まで建てられました。こうしたロシア人と稚内市民との交流のプロセスを実際に見聞し、私自身もロシア人と何度か接触を重ねていく内に、ロシア人ともっと多くの接点を持ちたいと熱望するようになりました。これが間違いの元だったのかと、今でも時々ぞっとすることがあります。しかしロシア語を勉強すればするほど、どんどん深みにはまっていきました。

 転機は奥尻島転勤と共に訪れました。名古屋空港の空港消防に求人があるという情報を得て、転職を決意しました。当然その裏にはロシア語に本格的に取り組みたいという考えがありました。自衛隊に居てもロシア語はできるのですが、秘密保全の規則が厳しくロシア人と接触することは非常に危険とされ、また自分がロシア語を話せるということを他人に言うべきではないとまで言い聞かされていました。ロシア旅行などもっての外です。一大決心で自衛隊を辞めたのはいいが、当初愛知県のロシア語学習者の少なさには本当に落胆するばかりでした。しかもサラリーの大幅ダウンと出世を捨てての転職で、精神的に惨めな思いをすることが何度もありました。何とかせねばと悪あがきをしている内にミハイロバさんと出会い、ザウリさん(羽島在住のグルジア人)と出会い、加藤晋先生と出会い、ジーマさんと出会うなど、色々な人達との出会いに恵まれるようになったのです。

 そしてまた新しい出会いに恵まれました。「おろしゃ会」の皆さんを見て、自分は間違ってはいないのだと強く確信し、また新たな自信が湧いてきました。今のところ通訳案内業試験の合格を目指して勉強していますが、そのハードルをクリアできればプロとして十分な能力を身に付けたと考えて良いと思っています。その頃には日本とロシアの関係もある程度進展し、私のレベルで活躍できる場所を見つけることができるのではないかと期待しています。今後も諦めずに頑張ろうと思います。この度はすばらしい人達の集まりに同席できたことを大変嬉しく思っております。本当にありがとうございました。今後「おろしゃ会」が益々発展し、多くの人に刺激を与え続けていくことを願っております。


私と韓国とロシアの微妙な関係

愛知県立大学外国語学部英米学科4年 鈴木夏子


  私は今年、とうとう4年生になる。今までの大学生活でこれといって大学生らしい勉学にはげむというような日々を送ってこなかった私にとって今年1年間は最も忙しく、厳しい年になると確信している。しかし、それと同時に、私にとって最も充実した1年になるだろう。なぜなら、今年はいよいよ卒業論文を書かねばならないのだ。私は、今まではっきりいって一生懸命勉強をしたことがない。こんなことを言うといままで大変お世話になった先生方に大変なお叱りを受けそうだが、これは正直な話である。勉強が嫌い、というわけではない。むしろ好きだ。本を読んで自分の視野や知識が広がっていくのを感じたり、語学を身につける楽しさは知っている。だから大学に入ったのだ。それなのに、いまの今まで私はこの大学で何を学んだだろうか。何を努力しただろうか。そんなことを考えると、自分の甘さ、情けなさが身に染みてつらい。何事も続かないこの性格。どうにかしたい。ヤル気はある。しかし、いまひとつ前に踏みだすことができなかった。
 そんな私であるが、前から心に決めていることがある。それは、卒業論文での研究テ−マである。大学2年になるころには既に自分が卒論で研究したい分野はほぼ決まっていたといってもよいくらいだ。そのテ−マというのは、「日本の韓国併合時における日朝露の国際関係」である。どうしてこのテ−マで研究をしたいのか?ということを今回このエッセイでお話したいのだ。私がロシア語を第2言語として選択したのも、今となっては運命だったのかしら、とも思える。ここまで思い入れのある卒業論文を今年わたしは必ず素晴らしいものとして提出しなければいけない。これのために努力し、苦労することはこれからの私にとって必要なことであるし、立派な論文を提出することは、今まで多くの心労をおかけした恩師の方々への御恩返しにもなるように思えるのである。
 それでは、私がなぜ、卒論のテ−マとして「韓国併合時の日朝露の国際関係」を研究したいのか、その理由をお話しよう。

 私がこの世でもっとも尊敬しているのは私の父方の祖父である。私にとって祖父はその生き方、思想において大きな影響を私に与えてくれる存在であり、おそらく、越えることのできない人である。また、彼は版画家でもある。祖父の版画はN.Yの市立美術館に収蔵されるほどであり、定期的に国展などの展覧会にも作品を出している。私はそんな祖父の孫であることを本当にうれしくおもう。今まで、色々と悩むことや、辛いことがあったが、祖父に相談し、時間を忘れるほど議論しあえるのは本当に楽しく、誇らしく思えることなのである。私がここまで尊敬して止まない祖父なのだから、私が選んだ研究テ−マに彼が大きく関係しているのはおわかりになるだろうと思う。

 私の祖父は京城(現在のソウル)生まれである。祖父は1921年3月3日に生まれた。その頃のソウルにはご承知のように「朝鮮総督府」が置かれ、日本は韓国を統治下においていた。彼はまさにその時代、その場所に生まれたのだ。祖父の父、私の曾祖父はその頃ソウルの「東洋拓殖会社」に勤めていた。東洋拓殖会社は公社であり、主に土地に関する事業を取り扱っていた。つまり植民地における土地の買収などを行っていた会社なのだ。曾祖父は農学校を卒業した後、国の農業試験場に勤務した、現在でいうキャリアだった。彼は大変厳格な人で、武術などにもたけた大変立派な人物だったという。私の祖父と祖父の家族はおそらく彼が生まれて少ししてから、今の北朝鮮のあの38°線より少し北のシャリ−ンという小さな街に移り住んだ。そして、祖父が3、4歳の頃再びソウルに戻ってきた。祖父はソウルに物心がついて初めて帰った時の、駅前の様子を今でもはっきりと思い出すことができるそうだ。曾祖父は祖父が4、5歳の時に東洋拓殖会社から退職し、その退職金として会社から農場を受けとった。祖父はその農場には既に人が住んでいたことを記憶している。彼によれば、その農場も会社によって韓国の地元民から買収したもの、つまり略奪したものであったろうという。
祖父は今まで、私とその頃の話をする時、あまり詳しい話をしたがらなかった。農場の生活において彼が韓国の人々、雇う側と雇われる側あるいは支配者と被支配者としてどのように普段接していたかを語りたがらなかった。それはあまり記憶していたくないことだからだろうことは私にもわかる。例えその頃としては良い関係のほうであったとしても、当時の日本が彼らに行っていたことを思えば、すんなりと話せることではないのかもしれない。ほんの少し彼から聞いた話は、近所の韓国人の子供たちとは全くというわけではないがあまり遊ばなかったこと、彼らは日本語を話していたことだ。          
 そんな話を聞いていた私は、いつか尊敬する祖父のうまれた韓国という国を訪れてみたいと思うようになっていた。祖父が生まれ、幼い頃を過ごした土地はどんなところなのだろうか、日本と似ているのだろうか、祖父の記憶に今でもあるような風景はのこっているのだろうか。祖父の母、私の曾祖母は祖父が12歳の時にソウルで亡くなっている。私は写真でしか彼女を見たことはないが、私にとって、ソウルを訪れることで、曾祖母がそこに生きていたことを感じることができる気がしていた。だから、どうしても訪れてみたかったのだ。そして、そんな日は以外と早く訪れることとなった。
私が大学2年になった年の夏休みに、L.Aの友達のところを訪れる機会があった。私はそれを意図したわけではないのだけれど、航空券が一番安いという理由だけで航空会社を大韓航空に決めた。チケットをとって初めて気づいたのだが、その空路というのは、名古屋発のソウル経由でロサンゼルスに行くものだった。その時私は、丁度よくソウルを観ることができるじゃないかという程度に思っていた。というのは、訪れるといっても、飛行機を乗り換えるまでの少しの空き時間しかないから、飛行場から郊外の景色を眺めるくらいしかできないことは分かっていたからだ。いつかまたちゃんと訪れることができればその時にじっくり時間を費やせばいい。今回は少しだけだけどいいチャンスだ、と思った。名古屋を離れて、2時間程で、ソウルに着いた。空港に入り始めは免税店の辺りをうろうろとしていたが、そのうちそういうことにも飽きて、空港の待合室の外にある、大きな窓ガラスから空港の外の景色が良くみえるベンチに座った。そこからはソウルの少し郊外になるが明るい街並みが見えた。街の色彩としては朱色が中心で、韓国らしいなと思ったのを記憶している。ぼ−っと街を眺めながら、今度はその周りの緑濃い山や丘陵が目に入ってきた。それらは私の目にそのなだらかなかたちと色を印象づけた。本当に美しかった。山や土地の名前は分からないけれど、絵に描いたように美しいやわらかな線をえがく、緑濃い丘陵の波は、初めてみるような、しかし、どこか懐かしい景色に思えた。日本でもみたことのあるような、でもどこか違う異国の景色だった。
 
そんな感慨にふけっている時にふと思った−私のおじいちゃんはここで生まれたんだ、昔とは景色は少し変わっているかもしれないけど、全てが変わってしまうわけじゃない。こんな山や郊外の様子は昔と雰囲気は同じなんじゃないだろうか、きっとおじいちゃんもこんな景色を眺めながらそだったんだな、と。私はそのおじいちゃんの育ったと同じ場所に立ち、彼の記憶と同じ景色を共有しているんだ、そして、私のひいおばあちゃんはここに確かに生きていたんだ、小さかったおじいちゃんたちと幸せに暮らしていたんだ、と思えた。すると、突然私の目から涙が溢れてとまらなかった。なぜ、私はそこでそんなにも泣けたのか、説明するのはとても難しいことである。ただ、私にとって、ソウルという場所は、自分のル−ツがある場所のように思えたのだ。こういうと少しおおげさと思われるかもしれないが、生まれて初めて訪れた異国の地で、そのように感じられたことは、何か運命を感じずにはいられなかったのだ。
乗り継ぎの飛行機の出発時間が迫り、景色を眺めていた場所を離れる時、私は、必ずいつかまたこの土地を訪れようと心に決めた。飛行機に乗りこみ、ソウルを離れる時、上空から見た景色は、また感慨深かった。祖父はソウルの郊外のどの辺りに暮らしていたのだろうか、あの山の麓のあたりだろうか、今度訪れるときには住んでいた場所の名前を聞いてそこを探しにこよう、きっとまた来よう。
 
そんなことがあってから、わたしの韓国に対する関心は増していった。自分が3年生になり、いよいよ、卒論のテ−マを具体的に自分の中で決めようとおもったとき、いろいろな選択肢の中で、私が研究したいのはやはり、自分が最も興味がある、韓国に関することであった。しかし、日韓の国際関係を研究するといっても、その範囲は広く、時代も様々ある。どの時代にしぼって研究したいのか、迷ったこともあった。
そんな時、ロシア語の授業を受けている時にふと思いついた。私が研究したい、知りたいのは私の祖父が生まれたあの時代、あの土地で何が起こっていたのか、ということだ。そして、その時代の日韓関係には裏でロシアも深く関わっていたにちがいない、そういった方面から韓国併合時の日韓露関係を研究するのは大変おもしろいではないか。せっかくロシア語を学んでいるのだから、これを活用しない手はないのではないか。そう思いついた時、とてもわくわくしてきた。こんなに興味のある事柄について研究できるのはとてもやりがいのあることだ。きっと今までになく思う存分勉強することができる、そのきっかけをもらえたような気がした。
 
ここまでヤル気のあることを書いてしまったのだから、私はもう後には引けない。日韓併合時についての資料や本をたくさん調べ、読まなければいけない。いままであまえてきた分、根気のいる作業になるだろう。でも、それを成し遂げれば、自分が学ぶ意味を見つけることができるだろうし、きっと私の自信にもなるだろうと思う。これからの1年間、よい卒論がかけるように今までになく努力したい、というのが今の私の目標だ。途中で挫けたりしないように、どうか暖かく見守っていただきたい。加藤先生どうかよろしくおねがいします。
 


"ロシア"との縁

奥山智靖(愛知県立大学外国語学部スペイン学科20009月卒)


 あえて現在の所属ではなく経歴の方で書かせて頂いたのは、この9月の卒業式をきっかけに加藤先生とお近付きになったことを強調せんがためである。学科柄「なぜあなたが?」といぶかしるむきもあるかもしれないが、そもそも先生のことを初めて知ったのは先生が学部共通の教務委員であらせられた時。当時の私は、3年に学部共通課程国際関係専攻(県大には外国語学部内に学科の枠を越えた専攻課程が2つ存在する)を履修登録したまま休学し、復学したばかり。ですから、先生に「この学生は今も県大にいるの?」ということを確かめるべく呼び出されたわけでして・・・懐かしや。
 私にとって"ロシア"は何かと縁がある。学部共通課程を取った者は必ずと言っていいほどアジア研究かドイツ研究そしてロシア研究のいずれかを"自然"と取るのがならわしだったのに、私ときたら"国際"と名の付く科目ばかりに走って1つも取らなかった(注:私が入った当時は英仏西の3学科体制だった)ため、卒業審査にあたりイチャモンが付いたという苦い経験をした。ロシア取っとけば!
 そして今の私は、アルバイトではあるが、京都大学附属図書館でお世話になっている。ここでの仕事は専ら所蔵資料(主に和図書)をNC(旧学術情報センター)に遡及入力することであり、たまたま私のあたった部門が経済(3分類)だったため、現在必死になって満鉄関連資料(例:露亜経済調査叢書)と格闘する毎日を過ごしている。
 きっと戦前のシベリア・モンゴル・中国東北部を研究している人にとってはそれこそお宝のような資料であろう()満鉄には色々な部署があるため、その都度打ち直しては書誌をヒットさせることは並大抵のことではない。それもそのはず、ラ米地域研究の大家たる国本伊代先生(中央大)もその著『ラテンアメリカ研究への招待』で「日本の地域研究のはしりは満鉄(南満洲鐵道)調査部である」と触れられるほど、功罪含め、その果たした役割は大きかったのだ。
 そういえば、私に司書への道を切り開かせるきっかけを与えて下さった四日市大学の富田与先生(比較文化)もペルーの専門家であるだけでなく、奥さん(も研究者)との関わりでロシアにもお詳しい。
よくよく考えてみると、加藤先生との出会いを含め、私と"ロシア"とのつながりは深い。ただ、これまでロシア語を全く勉強したことのない私には、あのキリル文字()が苦手でならない。しかし原書のタイトルまで読み込まないとNC上の書誌と同定できないことがままあるので、少しずつでも覚えられたらいいと思っている。
 最後に、これまでロシア自体にはあまり関心を持ったことのない私ではあるが、これも何かの縁、専門とする地域研究的手法、及び国際法(海洋法:200カイリ、漁業関連)、そして図書館学の知識を駆使して()資料面を中心にこの会に関われればと思っている。
 というわけで長くなりましたが、京都へおいでの際はぜひ声を掛けて下さいませ。


歴史学とはなんぞや

増田 暁(早稲田大学卒業生)


 先日、朝日新聞の本紹介の記事の中におもしろいものを見つけ、興味の引かれるままに手にとってみました。網野善彦著「『日本』とは何か」(講談社「日本の歴史」第1回配本)です。

 以前でしたら、世界史専攻の私が日本史の本を手に取ることは稀でした。しかし、かつて日本史選択の友人の言葉「世界史を学ぶと言ったって、自国の歴史である日本史を学ばなくては足元をすくわれてしまうではないか」が脳裏をかすめたのでしょうか、ふと読んでみる気になりました。確かに、私自身、「日本を知らなくてどうして他国の文化を語ることができようか」との思いがあったのも事実です。

 そんな私に対し、著者は冒頭から従来の日本史観を揺るがせるような質問を浴びせてきます。「日本とはいつ建国されたのか?」これに答えられるものは、たとえ大学生であってもそう多くはないでしょう。現在の日本国政府の定めるところでは、日本の建国日は2月11日の「建国記念の日」ということになっています。しかし、何年前の出来事か、と問われると、頭を捻らざるをえません。むろん、周知の通り「建国記念の日」とは、戦前の紀元節、神武天皇即位の日という架空の日を差しているため、特定するなど不可能なのですが。強いて言うなれば、西暦紀元前660年、となるのでしょうか。

 しかし、その架空の日を、我々の住む日本国の建国の日である、と信じ込まされているのもまた事実です。幼心に、「2月11日は建国記念の日だからお休みなんだよ」と言われ続けていたものにとって、そこに疑問を挟む余地はありません。
 さらに著者は質問を続けます。「日本とは鎖国された辺境の島国であったのか」「日本は農業社会の国であったのか」これらは、すべて歴史の教科書によってなんの疑いもなく我々に受け入れられてきたものでした。しかし、そこに盲点があったのです。

 「教科書に書いてある」から間違いはないだろう。「資料に載っている」のだから本当だろう。「小さい頃から言われてきた」のだから合っているのだろう。これらは、歴史を学ぶ上では重し以外の何物でもありません。
 「厳選たる資料批判こそ、歴史学の始まりである」と、耳にタコが出きるくらい聞いた覚えがあります。すでに学生を卒業して1年が経とうとしていますが、ここに至って初めてこの言葉の意味が分かったような気がします。目の前にあるものを疑う。その資料は、果たして本当に史実に基づいているのか。後世の人物によって歪められてはいないか。自分の直感、経験をフル回転させ、真実を見抜く。

 これはなにも歴史学に限った話ではありません。報道された事件は真実に基づいているのか。情報が氾濫する現代社会においては、真実を見抜くことが出来なければ、生きていくことさえ難しくなります。物事を、与えられるままに受け入れる。果たしてそれで、自分自身の人生を生きていると言えるのでしょうか。その意味で、歴史学とは、生きる上での智恵であり、私たちに与えられた「武器」なのです。



 
 

樺太(サハリン)の真実

                               おろしゃ会前副会長・県立大学大学院修士課程修了 渡邉 俊一


  樺太の領有問題を語る時、樺太アイヌを抜きには論理は成立しない。樺太アイヌは北海道アイヌと同種族で、言語面での方言と北方民族(ギリヤークなど)の影響を受けた文化を有することに独自性を保っていたが、基本的には原日本人たる縄文人の直系の子孫である。彼等は新石器時代から樺太に居住していた痕跡を残し、4世紀〜13世紀のオホーツク文化(ギリヤークまたはエスキモー系が担い手といわれる)の時期を除いて、一貫して樺太の主人公(主要民族)であった。そのことは、1845年から13年間に6回にわたり、北海道,樺太,千島などを探検した幕末の探検家・松浦武四郎が1859年、幕府に提出した樺太大地図から読み取ることができる。大地図の北緯50度付近に墨で筆がきし、「この付近(北緯50度)が境界としてあるが、島の地名はすべてアイヌ語であるから日本の領土である。」と述べている。確かに、北樺太のオハ(廃村の意)、ノテト(岬の意)、ポロ・コタン(大きな村の意)はアイヌ語である。北海道の知床岬と同じシレトコ(突端の意)が南樺太に2ヶ所もある。地名は最初に命名したものがその地に膠着して、異民族が侵入しても、容易に離れない性質をもっている。例えば、ポロ・コタンは和名・幌渓(ホロコタン)と訛り、更に、ロシア名・ピレオと訛ったが如くである。和人の樺太進出は平安末期から鎌倉時代に始まったといわれているが、初期の和人は、いわゆる流れ者たちで、リストラされた浪人(武士)や、管理されるのを嫌った農民、それに、脱走した囚人たちだった。徳川鎖国時代にも多くの日本人が渡航した証拠が遺されている。長野県塩尻市の故・加賀谷昇氏は、戦前、小学校の訓導とともに樺太の史跡発掘調査をしている。それによると、発掘品の中にはアイヌの土器や日本武士のよろい兜、日本刀の朽ちれ物、なかに津田薩摩守の石の鏡も出土したという。ロシアの物は一品もなく、アイヌの祭典に行くと必ず武士の物一式が陳列してあったという。神様は源義経を祀っていた。『元史』によると13世紀、クイ(樺太アイヌ)の攻撃に悩むギレミ(ギリヤーク)は、元に支援を依頼し、1284年と1285年に2回樺太出兵をしている。しかし、およそ3千のアイヌは勇猛果敢に戦い、元の軍隊は撤兵を余儀なくされた。1284年の出兵の際用いられた兵や船は、1281年、九州を襲った元寇(弘安の役)が失敗の後に計画された第三次日本遠征用のものであった。わずか3千の兵で元の大軍を撃退した陰には、北海道アイヌの援軍があったものと推定される。いずれにしろ、北からの日本攻略を画策していた元にとり、樺太攻略の失敗は大きな痛手であり、北方でのクイ(樺太アイヌ)の果敢な戦いのお陰で、樺太のみならず日本全体が救われたのである。1485年、樺太アイヌの酋長が松前家の始祖・蛎崎信廣に銅雀台の瓦硯を献上し、この時点で樺太アイヌの松前帰属が決定した。1593年(文禄二年)、蛎崎慶広は朝鮮出兵時に、肥前名護屋で豊臣秀吉に謁見し、蝦夷地の統治に関する朱印状を受けた。これは、秀吉が他の領主に授与したのと同じ形式であった。
 
蝦夷地とはアイヌの住む場所で、北海道だけでなく樺太も含んでいる。イギリスをイングランドというが、アングル族の地という意味であり、蝦夷地も同様である。1809年(文化六)、幕府はこれまで「カラフト」と呼んでいた島名を「北蝦夷」と改称した。これは、事実上この島に対する公式の主権宣言であった。1689年、ネルチンスク条約により露清間で紛争が続いていたアムール河上流地方の国境が確定されたが、この条約ではカラフトのことは一切触れられていない。ベルギー人ヤソ会士・トーマスが清国滞在中に作成した、東タターリア地図(1690)には、カラフトが「クイェ王国」(アイヌの王国)と記されている。1804年、遣日全権使節・レザーノフは皇帝の親書と贈り物を持参し来日したが、鎖国を国是とする幕府に追い返され、彼はその報復に1806年、カラフトのクシュンコタンに上陸し、運上屋や倉庫を焼き払い、米・酒・雑貨などを略奪し4人の日本人を捕虜にした。1807年にもカラフトのルータカを襲い、陸上の施設を破壊し、官船や商船4隻を焼き払った。実行者はレザーノフの部下・フヴォーストフ、ダヴィドフ両大尉であった。彼等は帰国後、オホーツク港で逮捕され、海軍省の軍事法廷において有罪を宣告された。ロシアは日本に対し、フヴォーストフ等の狼藉行為がロシア政府の意図で行われたことを否定しながら、一方では1808年、ロシア皇帝は商務大臣ルミャンツェフ伯を通じて露米会社の理事会から提出された「アニワ湾(クシュンコタン)におけるサハリン植民地についての請願」を裁可している。
 
東シベリア総督ムラヴィヨフは海軍士官ネヴェリスコイに、1849年カラフト及び黒竜江河口の探検を命令し、ネヴェリスコイは、カラフトが島であることを初めて確認した。(当時ロシアはカラフトが半島であると主張しており、1809年の間宮林蔵による間宮海峡発見を無視していた。)1850年、ネヴェリスコイは黒竜江岸(現在のニコライエフスク)に双頭の鷲がシンボルのロシア国旗を掲げ、朝鮮国境までの沿岸及びカラフトをロシア領と宣言した。ロシア政府は、外国(特に英仏)との紛糾を恐れ、これをネヴェリスコイの独断であるとして処罰しようとしたが、皇帝ニコライ一世は政府の決定を拒否し、逆にネヴェリスコイを賞賛し、「一度ロシア国旗を掲揚せる所においては、これを降ろすべからず」という有名な宣言を行った。この精神はいまでもロシアに生き続き、共産党から右翼まで第二次大戦後に引かれた国境線の変更に反対している。ロシアは第二次大戦で唯一領土を拡大した国で、1941年の英米共同宣言(大西洋憲章)の「領土不拡大の原則」、1943年のカイロ宣言(ソ連も同意)にも違反している。
 1809年、間宮林蔵は鎖国の掟をあえて破り、ロシア勢力の浸透をさぐるため、日本領樺太から対岸の大陸に渡るが、その際、黒竜江河口にシルン・アイノ(島のアイヌ)キムン・アイノ(山中のアイヌ)が部落をなしていることを記している。現在でも黒竜江河口の少数民族の中には、祖先が樺太アイヌであったことを信じて疑わない人々が存在している。アイヌにとって、樺太が島であるという意識はあまりなく、半年間凍結する間宮海峡を犬ぞりで横断することは、たやすいことであった。事実、日露戦争中、徴兵を嫌った樺太アイヌが黒竜州に逃亡する事件があった。アイヌの定住地としては、北海道、北東北、千島列島、南樺太といわれてきたが、事実は北樺太、黒竜江下流域、カムチャツカ南部も含まれるのである。千島・樺太交換条約で日本人となった北千島アイヌはロシア語が流暢で、ロシア正教に改宗していた者もいたので、ロシアのスパイになることを恐れた政府は、アイヌを色丹島に移住させ、生活環境の変化でその多くが死亡し、現在では千島アイヌは絶滅したといわれてきた。しかし、近年、ポーランドでロシア籍を選択したアイヌがロシア経由でやってきて、その子孫がいることが確認されている。興味深いことに、カムチャツカ経由でポーランドに来たアイヌを誰もロシア人と信じて疑わなかったという。ロシアはソ連時代、サハリンの発見、探検、調査、開拓、植民等、全て日本より早かったと事実を捻じ曲げて発表していたが、1988年、アメリカのスミソニアン国立博物館で、「Crossroads of Continents−大陸の交差点」と題する展覧会があり、それは、北太平洋の諸民族の文化と交流史を集大成したものだったが、ソ連はなぜか、アイヌ民族を除外するよう強硬に求め、事実アイヌは除外されたのである。これは、ソヴィエト政府が「北方領土問題」への影響を恐れたものだと解釈されている。樺太の主人公そして原日本人たるアイヌの存在なくして樺太は語れない。樺太がロシアから返還されるまで「戦後は終わらない」と私は思うのである。

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この夏ハバロフスクを訪問したときに


追悼 前愛知県立芸術大学客員教授 
ミルヴィス先生
 
 

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Мои встречи:
Генриэтта Григорьевна МИРВИС

                        С.А.Михайлова                    
Я сижу в в ее классе на уроке в Нагойской Консерватории.
Она сидит у окна и сощурившись курит, шикая, когда студента заносит. Потом спрашивает студента, знает ли он, что такое мазурка? И почему здесь такая каша?
Другая ее ученица Янагасэ Такако жаловалась, что Мирвис никогда ее не хвалила, наоборот только ругала, все время требуя звука. Она то и дело спрашивала, где он. этот звук?
Она часто возмущалась, как она называла, "чисто японским вариантом". У них, говорила она, на экзамене две комиссии в разных залах. Одна слушает этюды, а другая - романтическую пьесу. Обу выставляют баллы, а потом компьютер выводит оценку. Вот так у них решает компьютер и офис! О-ф-ффис! Из Фудзивары она выжала все соки, потом сказала по русски, что она ни черта не понимает, что у нее такие глаза.
Открытый урок по Моцарту
30.Х1.99г. она пригласила меня на свой Открытый урок по Моцарту в Нагойской Консерватории. За ней приехала завуч Яягучи-сэнсэй, а по дороге они забрали на машине меня. Был сильный и холодный ветер. Генриетта Григорьевна
была в зимнем пальто и куталась в меховую шаль. О своем самочувствии сказала, что скверно, поэтому, видимо обещанный концерт произведений Моцарта придется, видимо опять отложить, что она опять не репетировала...
Мы подъехали к музыкальному факультету Университета Искусств префектуры Аичи, который расположен в живописном пригородном районе. Сразу же направились в зал. -Вот в этой комнате у них проходят выступления,- показала она. До урока еще было какое-то время. Подошел Мацумото-сэнсэй, который сказал, что будет переводить урок. В короткое время помещение заполнилось студентами и преподавателями, которые приготовили блокноты и карандаши. Многие студенты имели в руках партитуры и делали там пометки с замечаниями.
Начался урок. Гэнриетта Григорьевна в красном костюме была очень элегантна и женственна. Она обожала всякие туфли и мы часто ходили выбирать ей новую пару. Ее стройные ноги подчеркивали миниатюрные черные туфли на довольно высоком каблуке.
Она поднялась и спокойно произнесла: Today is open lesson, not
Lecture, I listen, show and give some idea.
Далее она продолжила, что открытый урок - это не шоу. Микрофон двигался вместе с рукой так, как она жестикулировала. Сегодняшний урок по Моцарту - это сам Моцарт, Может быть это звучит как повтор, но здесь нет удвоения потому что He is Mozart the same.
Because no time for him. Я не знаю, поняли ли это студенты, но Генриэтта Григорьевна говорила о том, что Моцарт вне времени, что категория времени и Моцарт - вещи несовместные. Быстро надев очки, она пригласила к роялю первого ученика. Найдя нужную сонату в нотах, она посматривала то на играющего, то на партитуру. По окончании она тут же заняла место у рояля повернувшись к залу сказала, что исполнение было весьма удачным. Композиция Моцарта выглядит простой. Однако за этим чисто внешним скрыт глубокий мир, поэтому очень трудно исполнять Моцарта. Это не просто фортепьяно. Это глубокая многогранность. Это струнная музыка. А мы пианисты. Что такое музыка? Музыка - это art of sound. Это искусство звука, который communication suru. Нам надо представить себе (imagination) и выразить характер с помощью музыки. Сначала надо найти звук у себя в голове, а потом отыскать его в нотах.
Forte это не просто, а это целый характер. Between аккомпанементом и melody есть большое расстояние. Это Большая Проблема для пианиста. Левая рука ведет ритм и создает атмосферу, а правая рука - управляет фразами. Каждый звук имеет ценность драгоценного камня и очень важен. Между мелодией и аккомпаниментом совсем нет пространства или интервала. Они тесно примыкают друг к другу. Так дайте же эту трагическую душу Моцарта, выразите ее в аккомпанименте! В Моцарте нет inside и outside. Нет дуальности у Моцарта.
Характер музыки Моцарта - как вы его видите? Фортэ и пьяно - кажется,просто,
но если не изменить свой характер, то не получится ничего. Всего 18 лет было тогда Моцарту!
Rubato - левая рука дирижер, "free", темное-светлое - где они, как их найти? Да, японцы не знали европейской музыки, это понятно. Но разве они не мечтали о гармонии? Но их гармония состояла из звуков гораздо меньшего количества. Но и им присуща была "виртуозность" и в этом я вижу основное общее начало, потому что любые вариации имеют одну базу.
 

Потом, после урока когда мы ехали в машине, Г.Г. продолжала:
Исполнение музыкального произведения меняется со временем. Оно видоизменяется с новым слушателем, но я не признаю музея. Потому что важен ДУХ. То гда во время Моцарта все было другое: не было поездов, шум был другой, порог слушательского восприятия был другим. Если абсолютную величину того времени перенести в сегодня, то получится, как если бы ты пришел в театр и услышал шепот. Но передать ДУХ того времени в абсолютной величине важно. Если бы можно было играть так как раньше, значит надо сесть на лошадь, а не на синкансэн.
Изменилась архитектура города, поэтому манера исполнения должна быть другой.



ミルヴィス先生を偲んで

                                       愛知県立芸術大学4年 戸谷 誠子


私にとってミルヴィス先生は一生心の中に住む人となるだろう事を確信している。
大学3年になるまでは、高校時代の先生の紹介で周期的に毎回違う外国の先生からレッスンを受けていた。彼らは日本の先生方とは違って吸い込まれるような魅力と自由さを持っていた。もっと何かを得たいと感じていたが、一人の先生による定期的なものではないため、アドバイス程度で終わってしまう事が残念であった。ミルヴィス先生と出会い、一曲を初期段階から仕上げまで見て頂いたことは、私にとって本当に幸せな体験であった。  
曲は気楽に選んだショパンの協奏曲。これを選んだ事で、私は初めてピアノの良さを真に感じる事が出来たと思う。ロシア人にとってショパンは独特の想いがあり、深いところで理解している。故に、初め先生のおっしゃることを実行するまでにかなりの時間と精神力を必要とした。今まで私が何かを弾く際、心の奥で感じることがあっても、それを全て出すことに抵抗があり、何かに縛られている自分を無意識に感じていた。どのように弾けば先生に気に入られるか、そればかり考えて弾いてきた私に対して、ミルビス先生が求めたものは自由であった。生徒それぞれが持つ個性を引き出そうとする姿勢、今考えると、これこそが教師にとって最も大切なことだと思う。その時は必死に先生の言葉に耳を傾ける事で精一杯であったが。そうしてゆく中で、私はもっと先生に近づきたいと思い始めた。学校内で遠くから先生を見かけるだけで幸せになったり、偶然を装って「HELLO」と声をかけたりしていた。昼食をよく共にさせて頂いた時は、お箸の使い方に毎回感心し、先生と箸が何故こんなにフィットするのか不思議であった。先生の外面から受ける印象は、かなり恐ろしいが、内面はとても優しく、愛情深く、母なる大地を感じさせるような人であり、常にロシア人としての誇りを持ち、威厳があった。バスで通っている私は、バス停でよく先生とお会いした。バスを待つ時も、人が並んでいる事関係なしに必ず先頭に立っていらっしゃった。雨の日は、並んで歩いていると、先生の傘の先が私の顔や頭によく当たりもしたが、私は先生と話したかった。先生という職を通してではなく、ヘンリエッタ・ミルヴィスという人間に惹かれていたし、何より彼女の内に秘められた音楽が本当に好きだった。
後期、私はラフマニノフを弾く事になった。それまで私にとってロシアといえばバレエやフィギュアスケートなどの芸術の都という印象はあったが、ミルヴィス先生との出会いとラフマニノフの音楽により、ロシア芸術に対して崇高なものを感じ始めた。六曲から成る小品で、三曲目が特に暗かった。先生はそれを日本語で「かなしみ」そして孤独なのだと伝えてから冒頭和音をならした。その瞬間身震いを憶えた。この人は本当に孤独を知っている人だ、当然の事と思うが、ラフマニノフと彼女が一体化した気がした。全六曲を通して感じたのは、ロシアの大地、気候、そして人の持つ孤独と焦りなどの様々な感情である。この頃からロシアに行ってみたいと思うようになり、冬休み後に先生が戻られないと知った事で一段と強まったのである。
何度も迷い悩んだ末、今年の8月三週間に渡ってモスクワ音楽院の講習会に参加した。音楽院の歴史は古く、1864年に創立しそのままの姿で現在も立ち聳えている。鳴らない鍵盤を持つピアノに、ギシギシ音の鳴る床。それぞれの部屋の壁には厳めしい顔をした巨匠達の写真。そこの教授達はそれぞれに色を持ち、ばらばらのようでも共通点はあった。それはロシア人としての誇りと芸術に対する深い情であり、妥協を許さない厳しさである。そして町で見たロシア人も、生まれた瞬間から生きる厳しさを知っている気がした。ミルヴィス先生とお会いすることはできなかったが、ロシアの地に立ち、空気を吸う事で彼女を感じる事が出来、この三週間は私にとって大きな経験となった。
11月6日にミルヴィス先生の死を知った。我々の目の前に風のように現れ、去っていった人のように思えるが、私に心を自由にして弾く事がどれだけ幸せであるかを気づかせ、音楽のすばらしさを教えて下さった。私はこのことを忘れずに生きてゆきたい。そして最後に、この出会いに心から感謝する。



                                          
                                   愛知県立芸術大学大学院2年 入江 陽子


 私たちが最初にミルヴィス先生にお会いしたのは去年の4月でした。真っ赤なコートを着て、いつもそうしていたように、帽子をかぶり、恐そうな顔つきでレッスン室?に入っていらっしゃいました。以前から厳しくて評判の先生でいらしたので、その時は恐そうに見えたのかもしれません。
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 それから約1年という短い期間でしたが、ミルヴィス先生から得たものは今までの?どんなレッスンよりも計り知れないものです。私は、先生の人間味のある、時には暖かく、時には情熱的な音そのものに心を奪われました。先生の音楽は、一つ一つが言?葉だったのです。どんな曲にも、作曲者のメッセージがこめられているという事、そ??して私たち演奏家は、それを楽譜から読み取り、自分の解釈でそれを聞き手に伝えな?ければいけないという事を学びました。
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 レッスンは、噂どおり、今までにないペースで進んでいきました。2週間に1回は新?しい曲を持って行き、譜読みに追われていたのを思い出します。先生が要求された事?は、たとえ新しい曲でも、短時間のうちにその曲のキャラクターを把握して演奏する?事でした。音の間違いよりもいかにその曲を理解しているかが問われていたと思いま?す。"日本人はテクニックはあるけれど何も考えずに演奏している人が多い。"二言目にはこうおっしゃっていました。先生は、速く弾くためのテクニック、正確に弾く?ためのテクニックというより、表現するためのテクニックを教えてくださったので?す。去年は、譜読みにおわれ、ついていくのに必死でしたが、1年たってゆっくり振?り返ってみると、先生が教えてくださった事がどれだけプラスになっているか分かりません。
 レッスンのときは一人の厳しい音楽家でしたが、レッスンが終われば、先生は私に?とっておばあちゃんのような存在でした。いつも調子はどうかと声をかけてくださっ?たり、孫の話を本当に嬉しそうにお話なさったり、亡くなられた旦那様の写真を見て?思い出話を語ってくださったり・・・。本当に暖かいおばあちゃんでした。先生には常?""がありました。生徒に厳しいのも、教育者としての愛。先生の音楽も愛でい?っぱいでした。
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 先生が私たちに残してくださったものは、ずっと私たちの中で生きています。今年?の夏、先生が最後に電話口でおっしゃった"これからは離れ離れになるけれど、あな?たたちの事は大好きだから、頑張りなさい"という言葉を胸に、音楽を続けていきた?いと思います。先生、天国から私たちのこと、しっかり見守っていてくださいね。く?じけそうな時は先生のこと思い出します。本当に1年間ありがとうございました。
 
 



 

トゥバにおける仏教(前編)
                       

井生 明(いおう あきら 早稲田大学卒業生)

 


「序章」

予言

 時は19978月。場所はトゥバ共和国のチャダンという街。3年前に出来たばかりであるその街のチベット仏教のドゥガン(礼拝所)で私は僧の話を聞いていた。ドゥガンを入った突き当たりには金色の仏像が安置され、その周りには供物や仏画、そしてダライ=ラマ14世の写真が所狭しとひしめき合っていた。仏像の前には小さな金色の器が並び、その中ではチベットと同様溶かしたバターが燃えている。しかし、チベットの寺院ほどその室内にはバターのにおいはしない。礼拝所の手前半分には、訪れる信者が座る木製の背の低い長椅子が並べてあり、その後ろの壁にはチベット仏教の祈りの文句「オム・マニ・ペメ・フム」がロシア語で書いてあった。
 その場所にいたのは4人。僧と老尼僧、その息子と私であった。老尼僧の年齢は70歳ぐらい。私はトゥバ語を解さないので彼女がしゃべるトゥバ語を僧にロシア語に訳してもらっていた。彼女の口から出るスタッカートやしり上がり調子の多いトゥバ語の響きを楽しみつつ、僧の訳すロシア語を聞いていたところ、とある話に私は興味を引かれた。現在、トゥバ共和国ではチベット仏教が復興していると言われるが、実はその事については23年前に予言されていたという。そしてその予言が今まさに成就しつつあると・・・。
当時、トゥバは共産主義政権の下いかなる宗教の自由も許されていなかった。そんな時代にこのチャダンから、ゲシェー(注12人と彼女がモンゴルのウラン・バートルに巡礼に行っ たのである。当時その巡礼の許可を得るには実に大変な苦労があったらしい。その3人以外にも多くの人々が許可を申請していたが、許されたのはその3人だけであった。一行ははるばるトゥバからウラン・バートルへたどり着きそこのチベット仏教寺院で「予言の書」を開いてもらった。そこで聞いた言葉が、「将来トゥバに再びチベット仏教寺院が建設されるであろう」というものであったのである。
 その予言は見事に当たった。ソ連邦崩壊を受けてトゥバ共和国でも宗教の自由が許されたのであった。現在のトゥバではまだその数は少ないが、チベット仏教の寺院が建設され仏陀の教えは再びよみがえろうとしている。                           

トゥバ

 トゥバ共和国はロシア連邦内にある自治共和国の一つであり、1944年にソ連邦に併合された。バイカル湖の西方、モンゴルの北西に位置する。言語はチュルク語系のトゥバ語を使用し、文化的にはモンゴルと共通する部分が多く気候的にも同じような条件を持つ。遊牧生活とそれに伴う馬への強い愛着、チベット仏教の信仰、フレーシュ(相撲)、ホーメイ(一人二重唱、Split Harmonic Singing)などは両者に共通して見られるものである。モンゴルと国境を接するトゥバ南部に住む人々は今でこそ国境を隔ててはいるが、かつてはモンゴル人とともに遊牧生活を送っており、モンゴル人を同朋のように思っている。しかし一般的にはお互いに「我々はトゥバ人とは違う」、「我々はモンゴル人とは違う」という意識をも持っているようである。首都はキジル。

チベット仏教

 チベット仏教はトゥバにはモンゴルを通じて17世紀に浸透し始めた。当初は封建領主達が自らの支配的地位を強化するために導入したという面が強く、一般のトゥバ人大衆にまで根を下ろしていたとは言えなかった。共産主義時代、特に1930年代から40年にかけては、チベット仏教の僧やシャーマンといった宗教者の粛清が行われた。彼らは逮捕・追放され、仏像や仏具は焼き払われ寺院は一つ残らず破壊された。

 幸運にも1997年7月末から約1カ月間にわたり私はトゥバに滞在する機会を得た。その間にチベット仏教のフレー(寺院)やドゥガンをいくつか訪れることができ、何人かの僧にもインタビューを行うことができた。この論文では主に、現地で行う事ができたそのインタビューを基にしてトゥバ共和国におけるチベット仏教について考察する。

1章「テンジン・ジュンバ」
 
 
 

出会い

 私がトゥバ共和国で初めて会ったチベット仏教僧がテンジン・ジュンバだった。その出会いの場はチャダンのドゥガンである。チャダンで私がユルタ(遊牧民が住む持ち運び可能な天幕)に住まわせてもらっていた時に、偶然イタリア人の観光グループがそのユルタにやって来た。彼らの中にはロシア語を解す者がいなかったので、私は彼らのチャダン及びその近郊へのツアーのロシア語から英語への臨時通訳として2日間彼らに同行していた。 そのツアーの初日にチャダンにあるドゥガンを訪れた。我々がそのドゥガンを訪れたのは正午過ぎでちょうど祈祷の真っ最中であった。その当時、トゥバに来て一週間以上経っていたのだが、私はそこで初めてトゥバのチベット仏教の様子を垣間見る事ができ感激したのを覚えている。というのも最初にトゥバに着いてからしばらくは、私は首都のキジルに滞在していたのであるが、そこではどうも面白くなかったからである。何というか人々の篤い祈りやら、熱気(?)などといったモノが感じられずにいたのであった。旧ソ連邦の少数民族地域ではほぼそうなのかどうかは知らないが、建物にせよ食生活にせよ独自の民族的なものがほとんど見られず、果たしてここはどこなのか?と思ったのである。はっきり言ってしまえば「ロシアの地方都市と何一つ違わないじゃないか?」というふうに感じていたのである。そんな折りのドゥガン訪問により、多少元気になった私はそのイタリア人のツアーが終わったあと、自分が住まわせてもらっていたユルタからそのドゥガンまでの片道約9キロの道程をヒッチハイク、時には歩いて話を聞きにいったのであった。

ドゥガンにて

 イタリア人と一緒にドゥガンにお邪魔した2日後、私は歩いて再びそのドゥガンへ向かった。ヒッチハイクで車をつかまえる事が出来ず、結局約9キロの道程を2時間以上かけて歩きやっとたどり着いた時には、すでに祈祷は終わった後だった。しかし、せっかく2時間もかけてやって来たので無駄にはできないと、ドゥガンへ入りテンジン・ジュンバにインタビューを頼んだのであった。
 テンジン・ジュンバは27歳。チャダン近郊のハイラカンという村で生まれている。ソ連邦崩壊後、宗教の自由が許された後に仏門に入った。当時彼は20歳で彼自身が言うには「私は共産主義政権の下20歳の時まで、私は私が仏教徒であることを知らなかった」と述べている。マルクス主義を標ぼうするソ連邦の成立後、その領土の至る所で、宗教施設の破壊、宗教者に対する弾圧が行われた。1926年にはトゥバ全土で26あったと言われるフレーはその後の粛清により一つ残らず破壊されている。 彼は仏門に入るとすぐに、サンクト・ペテルブルグにあるダツァン(僧院)にてチベット仏教に関する勉強を始めた。これは私の不勉強であったのだが、サンクト・ペテルブルグにチベット仏教の僧院があるとは全く初耳であった。

ダツァン in サンクト・ペテルブルグ

 このダツァンに関してはウラン・ウデ(ブリヤート自治共和国の首都)にある出版社「エコ・アルト」の「The Buddhist shrine of Petrograd」という本に詳しく書いてある。このダツァンの建設には当時サンクト・ペテルブルグに住んでいたブリヤート人2、カルムィク人3、ロシア人の仏教学者そしてダライ=ラマ13世らが尽力した。しかし、その建設に関しては政府からの許可を得る手続きに難航し、数年を経た後の1911年にやっと完成した。だが、そのダツァンが僧院として機能したのはごく短期間であり、ロシア革命後すぐにその施設や不動産は差し押さえられた。その後、その建物は不遇な扱いを受けたまま、時が流れていたが、1990年にやっとその施設がチベット仏教界に返還されることが決定された。ダライ=ラマ14世は、まだ返還が決まる前の1986年にソ連邦に立ち寄った際にこの僧院を訪れている。
 テンジン・ジュンバは1990年から1992年にかけての2年間をそのダツァンで過ごしている。彼が勉強していた当時トゥバ人は彼を含めて5人、ブリヤート人が約20人、カルムィク人が数名いたそうである。「何年間その僧院で勉強しなければならないのですか?」という私の質問には、「そこではそのような、何を何年間習わなければいけないといった概念はなく、例え半年でも、3年でも5年であっても何を学ぶことができるかということが重要なのです」という返事が返ってきた。彼がいた当時はそこでの生活費などは全て無料であった。彼は現在も無料かどうかは知らないと言っている。ダツァンで教えられる科目は主に仏教の世界観を説いた仏教哲学、チベット語、儀礼に関する事であり、インドのチベット亡命政府やヨーロッパからゲシェーやリンポチェ(注4)といった高僧がやって来て講義を行っていた。「ダツァンでの生活はどうでしたか?」という質問には「大変興味深かった」と答えた。「自分の周りに自分と同じように仏教を勉強している人がたくさんいたからですか?」と聞くとにっこり笑って「そうです」 とうなずいた。彼の名前はテンジン・ジュンバであるが実はこれは彼の本名ではない。これはサンクト・ペテルブルグのダツァンを終了した際に、もらえるチベット語の名前であって、だれにどのような名前がふさわしいか?といった事も考慮されて与えられる。彼の名前テンジン・ジュンバは字義通りに約すと「恵みの海」となるが、彼は私に説明する際には意訳して「人々に幸せを与える人」という意味だと言っていた。インタビューのふとした合間に私が聞いた「僧として人々に何をしたいか?」という問いに、「幸せを与えたい」と即答した事を今、思い出して何だか妙に納得してしまった・・・。

ドゥガンについて

 トゥバの首都キジルで発行されている「トゥバのチベット仏教」(M.V.モングーシュ、1992年、キジル)という本には、ドゥガンについての記述が見られる─「・・・それ以外の仏教寺院建築で印象的なのはドゥガンである。その出所はチベット仏教の神々のいずれかを奉った礼拝用の建物である。普通、ドゥガンはある具体的な神を奉って建てられており、その神の名前がつけられている。しかし、時にはいくつか例外もあって、ドゥガンがある人の名前を冠することもあった。ドゥガンは原則として二階建てであり、その内部・外部は仏教を象徴する絵画的ディテールを備えており、全ての寺院にはそのような礼拝用建物があった。・・・中略・・・ドゥガンの内部には仏像や様々なチベット仏教の勤行用具、楽器、経典があり・・・」─(「トゥバのチベット仏教」、40ページ)
 チャダンのドゥガンは礼拝所と僧の住居が一緒になった二階建ての小さな建物だった。1995年の122日に建設され、それ以来2年半の月日が経っている。先に「トゥバのチベット仏教」から引用したように、このドゥガンもその例に漏れずマイドゥル神を奉って建てられており、テンジン・ジュンバはこのドゥガンを常に「マイドゥル」と呼んでいた。その当時私は、このマイドゥルというのが仏の内の一人だとは知らず礼拝所自体がマイドゥルという名前であると勘違いしていた。テンジン・ジュンバは「現在は仏シャカムニの時代であって、マイドゥルはこのシャカムニの次に来るべき仏である」と私に説明してくれた。
 このマイドゥルには現在テンジン・ジュンバともう一人テンジン・ツルティムという僧、そして見習い僧が一人いる。(テンジン・ツルティムについては、後に第5章で述べる)。このマイドゥルには台所と寝室があり、現在はこの3人の僧が住み込み、仏教に関する様々な催事などを行っている。家に新たに仏壇を作ったりした時などは、祝福をするためにその家に呼ばれ読経をしたりもする。しかし、基本的な催事は毎日昼の12時から行われる祈祷であり、主にこのマイドゥルにいる3人で祈祷は行われる。マイドゥルの仏像に向かって右側にテンジン・ジュンバ、テンジン・ツルティム、見習い僧の順に右肩を正面に向けて並んでいる。彼らは赤い布が敷かれた低いテーブルに向かっており、その上にはチベット語の経典、お香、鈴、シンバルなどが置かれている。実際の祈祷は結構長かった。私が実際に見た限りでは大体40分間ほどこの祈祷は続く。祈祷のほとんどの部分では、3人の僧が同時にブツブツとチベット語でお経を誦む。当然、私には意味がわからなかったが、音の響きを聞く限りでは、抑揚があまりなく油断をするとつい眠ってしまいそうだった。実際、私達のツアーに付き添ってくれていたチャダンの文化会館所長のアナトーリーは、祈祷後「いやー、つい寝てしまったよ」とこっそり私に漏らした。その祈祷に参列した人々は木製の長椅子に座り、顔及び胸の前で合掌をし目をつむって瞑想をしている。私の見た限りでは、このマイドゥルに来る人々は若い人があまりおらず老人が多いようだった。

 祈祷も終わりの部分に差しかかると、今までとは多少変わって、鈴やシンバルといった楽器も使われる。もっと大きなフレーでは祈祷の際には真鍮性の長いラッパやクエスチョンマーク状の棒で叩く太鼓も使われる。祈祷が終了すると人々は仏前に立ちお布施をして祈る。しかし、私の見た限りでは仏像にではなくその横に並ぶダライ=ラマ14世の写真に向け祈る人々の方が多かった。その後何人かの人はマイドゥルに残る。彼らは自らが抱える問題について僧に相談するのである。ある人は病気になり、その症状を伝えどのようにすべきなのか?を聞いたり、ある人は自分の悩みを打ち明けたり、ある人は仏教の教義について教えを請うのである。この事に関してテンジン・ジュンバは「ここでは私達は心理学者みたいなものなのです。人々はこのマイドゥルに相談をしに来るのです。彼らはそれぞれ問題を抱えて来るわけですが、私達はそれを苦にせず敬意を以って解決しなければならないのです。私達自身も心を静め、彼らの為に儀礼を執り行わなければならないのです」と述べている。
 祈祷を終えると人々は、マイドゥルの建物の周りを時計回りに歩いて回る。これはチベット仏教で一般に広く行われている参拝法でコルラと呼ばれていて、神聖な場所の周囲を右回りに歩くというものである。

マイドゥル外観http://www.for.aichi-pu.ac.jp/~kshiro/kosumo.JPG

 この参拝用に設けられた参道がリンコルと呼ばれ、リンコルにはチベット人にとっての聖なる山であるカイラース山を回る巡礼用のリンコルもある。私はトゥバから日本へ帰る途上、アムド地方(中国侵略以前のチベットの東北部。現在中国の青海省、甘粛省にあたる。)の夏河(Xiahe)のラブラン寺を訪れたのだが、その寺院の領域を示す壁の周りにリンコルが設けられているのを見た。その寺院の壁に沿ったリンコルには実におびただしい数のマニ車5が設置されており、実際に私もチベット人に交じってコルラを行ってみた。しかし、情けないことにマニ車の回し過ぎで次の日には筋肉痛になっていた。人によりコルラのやり方は様々である。数珠を繰りながら、マントラ注6を唱えながら、更には携帯用マニ車を回しながらコルラする人もいる。チャダンのマイドゥルの周囲には、マニ車も無くまたリンコルも無かったが人々は熱心にマイドゥルの周りを歩いていた。マイドゥルの周りには草が生えていたのだが、コルラをする人が歩く部分だけは草が踏み分けられ土が見えており、あたかもそこはリンコルであるかのようになっていたのが印象的であった。
 

マントラ 左がチベット語、右がトゥバ語
 

チャダンのフレー
 「このマイドゥルが建設されてから、祈祷に訪れる人々の数は増えましたか?」と私は質問した。テンジン・ジュンバは「このチャダンは仏教ゆかりの地なのです。昔から人々の信仰はチベット仏教でした」と自信を持って答えた。彼にはチャダンは昔も今もトゥバの仏教の中心地であるという気概があるようだった。粛清が行われるまで、チャダンには上級寺院と下級寺院の2つがあった。このチャダンの上級寺院にはトゥバで唯一のチベット仏教の写本があったらしい。チャダン郊外にはかつてのチャダン上級寺院跡が今も残っている。1992年にダライ=ラマがトゥバを3日間だけ訪れた時、ダライ=ラマはこの上級寺院跡を訪問した。私は先に述べたイタリア人とのツアーでここを訪れた。チャダンの街から車で20分ほど走った所にそれはあった。最初は舗装されていない道を砂煙をあげながら走り、その後はでこぼこの草原を激しく揺られながら突き進むと、所々崩壊した黒い土壁が見えて来た。私達の一行は、その壁の100メートルほど手前で車を降り、短い夏を謳歌するように咲き乱れている花の中を歩き進んだ。チャダン地方博物館の館長であるビクトリヤの説明をうけながら私達はその跡を見て回った。彼女の説明によるとこの上級寺院は1905年に着工し、2年半後の1907年に完成した。今年はくしくも、その寺院の建設90周年であるという。ちなみに1996年はトゥバにチベット仏教が定着してから230周年だとも彼女は言っていた。チベットから来た僧がその設計図を持ってきた。その後実際の建築のためにチベットや中国から建築者や僧がやって来たが、実際の建設に携わったのは地元のトゥバ人であったそうである。建設資材、建設費用、建築者の衣食住などは全て、地元のトゥバ人が負担していた。この寺院に関しては「トゥバのチベット仏教」にも記述が見られる。多少長くなるが、今はもう無い寺院の在りし日の様子も描写されているので引用したい。

──「ハイディップはヘムチク地区の統治者に任命された後に自分自身が所有する寺院を建築するということを決定した。何故ならば自身の権力の確立・安定化のためにはチベット仏教界からの支持が必要だったからである。彼はその寺院の設計者としてチベットから僧のクンタン・エリンブーチを招請した。彼はチベット様式の寺院の建築見取り図を持ってやって来た。1905年の春にはチャダンの上級寺院の建設が大規模に進展した。寺院の建設にはモンゴルやチベットから特別に招請された大工や熟練労働者が参加した。しかし、主に寺院建設の中核となったのはトゥバの牧民であった。神意にかなった寺院の建設事業への牧民の参加を公布し、世俗のそして宗教的な封建領主は彼らに、仏教の名における全ての善行は来世への無事平穏な生まれ変わり、業からの救済、現世における不幸からの脱却を保証する《聖なる寄与》と見なされると吹き込んだ。
 2年半にわたってチャダンの上級寺院の建設は続いた。当時トゥバを訪れたカルッテルスは以下のように記述している。《白壁の四角い形をした寺院は俗界との境界を厳格に示す標識から遠く離れた所に建っており、言うまでもなく、本質的には遊牧地域である場所にある程度の定住的特徴を付与しているのであった。》(カルッテルス、1914年、197ページ)。寺院の屋根の上には、端に白い線が交じったカーキ色と水色のじゅうたんが掲げられており、さらには《その壁面のうち三面には窓や扉もなく、4つ目の壁面には小作人により整備維持されているポーチがあり、その内部では4つの大きな観音開きのドアへと通路が続いている。仏教の象徴である法輪は建物の上の四隅にそびえ、扉にも刻まれている》(カルッテルス、1914年、203204ページ)。この場合その宝輪の下にはタルナ、つまりさほど大きくはなく祈りの文句:オム マニ ペメ フムが書かれている。このタルナはチベット仏教徒の周辺では岩や断崖、様々な勤行用具、特に仏教寺院の壁や扉などの至る所に必ず書かれている。そして寺院の4つの壁に面して、こねた粘土と木の枠でできたスブルガン(ストゥーパ)が建立されている。
新しい寺院を訪ねたローデビッチはこの粘土でできた建物は非常に印象的な外見をしており、その四隅には風に揺られて調和のある音を奏でる鐘があり、内部には刺繍模様、仏像、《オム マニ ペメ フム》と刻まれた木片が豊富にあったと記述している(ローデビッチ、1912年、31ページ)。さらにそこには色付きのシルクの巻物、神聖なる楽器、何百冊の本から成る蔵書、無数のありとあらゆる仏像といったたくさんのコレクションがあった。
 多くの勤行用具、仏像などといった寺院の備品はモンゴルで高い値段で購入されていた。例えば、曼荼羅、供物用の皿は一つが1100ルーブルもしていた。
寺院が機能しだしてすぐ後ハイディップは有力な封建領主を参集し、将来この寺院で儀礼を行う僧を養成する事を決定した。手初めに8歳の子供100人が集められ、フーラク(見習い僧)に任命された。彼らに仏教の教義の基礎を教えるために、以前ウルガ(ウラン・バートル)で仏教の勉強をしていたハイディップの弟のロプサン・チャンジが任命された

 チャダン上級寺院の建設はトゥバにおけるチベット仏教の役割・影響を強めた重要な要因であったことは言うまでも無い事実である。その新しく建設された寺院は地域での最も大きく裕福な寺院の一つとなり、その建設を提唱したハイディップの権威は増大した。そして支配層の主たる同盟者であるチベット仏教界の政治的基盤も強化された」───
「トゥバのチベット仏教」にある1928年のデータによるとトゥバ全土では26の寺院があり合計2870人の僧がいた。チャダンの上級寺院所属の僧は一番多くその数は470人に達していた。その次がチャダンの下級寺院で270人、第3章で述べるサマガルタイ寺院の266人である。   

                       http://www.for.aichi-pu.ac.jp/~kshiro/niso.JPG テンジン・ジュンバと尼僧 
 
チャダンだけでも上級寺院と下級寺院と両方合わせると840人にもなり、全体の3分の1強を占めるのである。この点からみるとテンジン・ジュンバの「チャダンは仏教ゆかりの地なのです」という言葉にも納得がいくのである。
 
 


2章 テンジン・トゥグメット





フレーを訪ねて
 
 
 

トゥバ共和国の首都キジルには二つのチベット仏教寺院がある。一つはエニセイ川右岸にあるフレーである。ここはトゥバのチベット仏教の中心地であり、仏教関係の公式行事はここで行われる。もう一つがキジルの中央市場の近くにあるフレーである。私はチャダンでテンジン・ジュンバからその場所を聞いていたのでキジルに戻った時に寄ってみた。場所を聞いていたといっても、「キジルの中央市場のそばだ」としか聞いてなかったのであるが、とにかく市場に行き通行人に場所を聞いてみた。何人かに聞いたのだが「知らない」と言う人、「あぁ、あっちだよ」と大ざっぱに方向を示してくれる人、「xxx通りのxx番地よ」と親切に教えてくれる人もいた。言われた住所の所に行っ

市場近くのフレー
http://www.for.aichi-pu.ac.jp/~kshiro/fure-.JPG

てみると木造の白いペンキで塗られている平屋が建っていた。その入り口の前には神妙な顔をしたトゥバの人が数名立っていた。その人達に「ここがフレーですか?」と聞いたのだが「そうだ」としか返事がもらえず、どうしていいかわからなくなった。しばらくその辺りをうろうろして様子を伺おうとしたが、入り口からは中の様子はわからない。しばらく待った後にやっと祈祷らしきものが終わってエンジ色の袈裟を身にまとった僧が出て来たので、「今、祈祷がおわったのですか?」と聞いたところ「そうです」としか返事をせず、その僧はどこかに行ってしまった。仕方が無いので勇気を出して中に入った。中では、チャダンのマイドゥルの時と同じように祈祷後の信者からの相談を僧が受けているようであった。ドゥガンの前に並べられた木造の背の低い長椅子に座ってしばらく待った。白い薄い布がドゥガンの入り口にのれんの様にかかっており、中の様子はよくわからない。何人かの人が入れ替わりドゥガンへ入って行くがなかなか終わらない。入り口の横には机があり、その上には様々な仏具が置いてあった。それは家の厄除け、ダライ=ラマ14世のポスター、マントラが書かれた紙片、サンクト・ペテルブルグのダツァンの写真などである。相談を終えて出てくる人達は、
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その仏具を色々と物色していた。しかし、驚いた事にほとんどのトゥバ人はこの仏具の使い方・意味を知らなかった。ドゥガンの手前の控室みたいな所にこのフレーの管理を任されているおばさんがいたのだが、ほとんどの人はこのおばさんにその使い方や意味を聞いていたのであった。このおばさんは今フレーにいる人の中では一番偉い人らしく、私はこのフレーやトゥバのチベット仏教の復興状況について僧にインタビューをしたい旨を伝えた。しかし、どうやら現在このフレーを管理している偉い僧は今出張でいないらしく、自分が先程言葉を交わした僧や今ドゥガンで相談を受けている僧はまだ見習いだからそれはできないと断られてしまった。仕方なく、この後もしばらくこのおばさんにトゥバの仏教関係の書籍や復興状況を聞いたのだが、やたらと慎重な発言が多かったのを覚えている。どうやらまだ修行中の僧や管理をまかされているだけの自分を含めてあまり知識がない者に仏教に関する発言をさせて、不都合が生じたら困るということらしい。その日はもう祈祷はないらしく、また別の日に訪れることにした。
 

テンジン・トゥグメット

 その2日後に私は再びそのフレーを訪れた。先日、インタビューを申し込んだおばちゃんにもう一度頼むが再び断られてしまった。しかし、その時ちょうど彼女の弟でサンクト・ペテルブルグのダツァンでの勉強を終えて、これから故郷のクングルトゥックに戻ってドゥガンを建てるという僧が来ていた。彼女は彼とのインタビューなら許可できると言ってくれ、祈祷の合間をぬって礼拝室で、録音しないということを条件に彼の話を聞くことができた
彼の名前はテンジン・トゥグメット。もちろんこのチベット語の名前は本名ではなく、サンクト・ペテルブルグのダツァンを終了した後にもらった名前である。彼は92年の終わりから93年の半ばまでそこで勉強していたそうである。彼の勉強期間がほぼ半年であるところを見ると、やはりテンジン・ジュンバが第1章で述べたように、そこでは「何を何年間勉強する」といった概念はないようである。30代半ばと思われる彼はサンクト・ペテルブルグのダツァンの建設にまつわる話について語ってくれた。その事については第1章で軽く触れてあるのでここでは詳しく述べない。しかし、私にとって印象的であったのはその建設に最も尽力したのがブリヤート人のアグヴァン・ドルジーエフであったという事であった
 ドルジーエフは若くして故郷のトランスバイカル地方を離れ二度にわたってチベットへの旅行を試みた。そして、二回目にして彼はラサ近郊にあるデプン寺7ゴマン学堂に学生として入ったのであった。1888年に彼は今までどのモンゴル人もブリヤート人も取得したことがなかったララムパという高哲学位(仏教哲学における博士号)を取得した。彼はその非凡な能力と機知により、若き日のダライ=ラマの家庭教師(彼は主に問答8を担当した)の一人として任命され、ヨーロッパに出向いて仏教哲学のレクチャーをも行っていた。時とともに彼はチベットの支配者と親密になって行き、ダライ=ラマの主任政治顧問かつ信頼できる友人となったのであった。それ以降長きにわたって彼が形成した親ロシア派はチベットの外交政策に強い影響力を持つこととなった。彼はロシアとチベットの間における全ての交渉・仕事を請け負った。彼はそのサンクト・ペテルブルグへの初めての訪問の時にすでに、ロシアの首都であるサンクト・ペテルブルグにチベット仏教寺院を建設しようとして失敗した。その失敗にも関わらず彼は、二度目の来訪で再び寺院建設に乗り出したのであった。その結果彼の名前はサンクト・ペテルブルグの一部では有名になったのであった。その後、彼は皇帝ニコライ2世の謁見人となり、チベット情勢に強い興味を示す幾人かの人々とも親交を温めた。この様な状況の中でサンクト・ペテルブルグにおけるチベット仏教寺院の建設は1909年にドルジーエフの強力な指導の下に進められて行ったのであった。
 当時のチベット仏教圏においては決して中心とは言えないブリヤート出身の僧が、その政治・宗教両面にわたる長であるダライ=ラマの家庭教師を努めていたという事実に私は驚きを禁じ得なかった。現在共産主義崩壊後からのチベット仏教の復興の時期を迎えている国々はモンゴル、カルムィク、ブリヤートそしてトゥバである。しかし、トゥバはその信仰の度合い、言うならばチベット仏教を信仰してきたという歴史の濃度、そういったものが他の国々とは違うように思えた。モンゴル帝国時代からチベットと強い結び付きを持ち、チベット仏教僧パクパ9を政治の要職につけていたモンゴル、現在イリュムジノフ大統領の下、積極的にチベット仏教の復興・チベット擁護政策を打ち出しているカルムィク、ドルジーエフを輩出し、共産主義下においてもダツァンを存続させてきたブリヤートと比べるとあまりにもトゥバのチベット仏教の歴史は貧弱過ぎる様に思える。

クングルトゥック

 話は元に戻るが、このテンジン・トゥグメットはクングルトゥック出身である。このクングルトゥックはトゥバ東部のトージェと呼ばれるタイガ地帯にある。首都のキジルからこのトージェへは道路が一本も通っておらず、交通機関は飛行機やヘリコプターもしくは船である。しかし、船は冬にはエニセイ川が凍ってしまうので利用できない。天候がいったん崩れると飛行機もヘリコプターも飛ぶことができなくなってしまい、そんな時には他の地域からは完全に隔絶してしまうような所である。彼の故郷のクングルトゥックはそんなトージェ地区の最東端の村である。その村にもフレーがあったが、1930年代に粛清がありほとんどの僧が逮捕もしくは射殺されたそうである。テンジン・トゥグメットの話によるとその村のフレーには見習い僧も含めて100人を越える僧がいたそうである。彼が誇りを持って話したのは、彼の村のフレーにはシャタとトゥプタが一緒に教えられていたという事である。これらの言葉がチベット語なのかトゥバ語なのかは残念ながら聞きそびれてしまったのであるが、シャタは仏教用語で言うところの顕教10、トゥプタは密教11の事を指すそうである。チベット仏教の学堂では基本的に、例えばセラ寺12やデプン寺などの大僧院の主要学堂では、もっぱら顕教の思想哲学を学ぶのが普通である。もちろん、僧侶が自主的に密教の伝授を受け、各自で修行するようなことはよくあるが、それが学堂のカリキュラムになっているわけではない。チベットではガンデン寺13に顕教と密教の両方を並行して学修する伝統があるそうだが、トゥバで顕教と密教を同時に教えていたのはこのクングルトゥックのフレーだけだったそうである。その点に関してはこのフレーは特殊なものであったようだ。テンジン・トゥグメットはこのフレーには非常に教養のある僧がいたと言っていた。もしかするとそのフレーの特殊性はこの僧によるものだったのかもしれない。
 この僧は70年代末から80年代初頭にかけてまで存命していたそうで、共産主義下にも関わらずその村では彼の指導の下で様々な仏教儀礼が行われていたそうである。この村は伝統的にチベット仏教に対しての信仰心が篤く、信者が多かったという話である。ほとんど全ての家にチベット仏教の経典があり人々は人知れずこっそりとチベット仏教の儀礼や祈祷に参加していた。テンジン・トゥグメットが幼少の時に実際に見た祈祷は夜中に行われていたそうである。人々はこっそり僧の家に集まり、窓やドアのカギをしっかりと閉め、昼間は隠していた仏壇を出し祈祷を始める。祈祷の際の鐘やシンバルも気づかれないように音を小さく小さく鳴らしたそうである。
普段の祈祷ではなく少し大きめの儀礼などの場合は、70年代ごろまでは村の外れの方で行っていたらしい。そこでは人目をはばかる必要がさほどなく、ある程度盛大な儀礼を行っていたらしい。そんな儀礼の時は、ばれないように一人が村の外れに抜け、しばらくしてまた一人、さらにまたもう一人といった具合に次から次へと村を抜け出して儀礼に参加したらしい。驚いたことに当時は、トゥバ人の共産党官僚もこっそり儀礼に参加していたそうである。「そんな事をして、危なくなかったのですか?」という私の質問にテンジン・トグゥメットは、照れながらも真面目な面持ちで「いやーっ、田舎では皆親せきだからねぇ」と答えてくれた。 インタビューの最後に聞いた「クングルトゥックの人々に何を望みますか?」という質問に彼は「他の人々もチベット仏教について勉強して、さらには僧になって欲しい。そして、いずれは私が建てるドゥガンが僧院にまでなる事を望んでいます」と答えた。
 
 

3章 若き見習い僧

南へ

 キジルの中央市場の近くにあるフレーでテンジン・トゥグメットにインタビューをした2日後、私は車をチャーターして南へ行くことにした。行き先はキジルから160 ほどの所にあるサマガルタイという街である。トゥバ人の運転手ロマンとその奥さん、そして前日に食品店で知り合ったドイツ人のジャーナリスト志望のイリヤと私の4人である。サマガルタイのフレーは、以前はチャダンの上級・下級寺院に次ぐ規模を誇っていたという。その様な土地での現在のチベット仏教の状況を知りたかったというのと、南に行く途中のいくつかの場所では何家族かがラクダを遊牧しているという話だったので、その写真を撮ろうという事でトゥバを離れる2日前にトゥバ南部を少しだけ訪れる事にしたのであった。

かつてのサマガルタイ寺院

 チャダンの寺院同様、サマガルタイ寺院についても前出の「トゥバのチベット仏教」に記述がある。また長くなってしまうが、現在では既になくなっている寺院の事なのでそのまま引用したい。──「・・・トゥバにおける初期の仏教寺院はモンゴル北西部に接しているテス・ゴリ旗(ホシュン、コジューンと読む。トゥバの行政単位。)(現在のエルジン、テス・ヘム、タンヂン地区)の領域に建設されており、まさにこの地からトゥバ人の間にチベット仏教が浸透し広まっていったのだった。もしも19世紀から20世紀始めにかけてのトゥバの地図を見るならば、この領域にぎっしりとチベット仏教寺院がテス・ヘム川とその支流に沿って並んでいるのを見ることができるだろう。エルジン寺院(キルギスにより建設される)というこの地域で最古の寺院は1772年に、また別の寺院でこの地域最大の大きさを誇っていたサマガルタイ寺院(オユンナルにより建設される)1773年に建設されたのであった。これらの寺院は間違いなくチベット仏教の伝播の出発点であって、テス・ゴリ旗に住んでいたトゥバの部族グループはトゥバの中で最初にチベット仏教へと改宗したのであった。
 後にアンビン・ノユン14になるテス・ゴリ旗のノユン・オユン・ダージは実に積極的にチベット仏教の普及と確立に努めた。彼は熱心なチベット仏教の信者であり、まさに彼のイニシアチブでサマガルタイの寺院は建設されたノであった。
 そのサマガルタイの寺院の建設場所は僧により選ばれた。しかし、その建設の直後に僧達の規律が悪化し、彼らはチベット仏教の経典を読むことをしなくなってしまい、オユン・ダージはこの事に関して非常に気をもんでいた。このような状況は宗教の衰退をもたらすということで、彼は自分の配下の官僚と高僧に対してこの状況を解消し、さらに同様の事を将来二度と繰り返さないために必要な手段を採るように命令した。この問題に関して招請されていた僧は寺院の建設地が間違っており、この地域の守護神は女性の神であって、その女神がこの地域にいる僧達に悪影響を与えているということを解き明かした。このような理由で寺院は別の場所に移転されることとなった。この事実を信者の視点から見ると、そのような理由で寺院が移転されるということは全く正当であるように思われるのである。しかし、実際には僧のレベルが宗教者がそう行動するように定められた規律に釣り合う程、高くはなかったということは明らかである。このこともまた、トゥバではチベット仏教の教義や規範がチベット仏教僧自身にも、依然として十分に深く理解されてはいないということを物語っている。
サマガルタイ寺院再建の際にはモンゴルの活仏15ボグド・ジェプツン・ダンバが旗の統治者達に対し声明を出した。その声明において彼は今後モンゴルのサイン・ノユン・アイマクはサマガルタイ寺院の僧に対して庇護を与えることを約束した。来るべき寺院の落成を祝して活仏ダンバは贈り物として仏陀の教えの守護神であるマハカーラの銅製の仏像を贈呈した。後にこのサマガルタイ寺院には、この神を祝ったドゥガンが造られた。寺院自身はずっと、トゥバにおけるチベット仏教の一大中心地の一つであり続けた・・・」───。(「トゥバのチベット仏教」、3536ページ)
「トゥバのチベット仏教」にある1928年のデータによるとサマガルタイ寺院の僧の総数は266人であり、その当時ではチャダンの上級・下級寺院に次いで3番目の数を誇っていた。(「トゥバのチベット仏教」、126ページ)

チベット仏教寺院の商業活動

 トゥバにおいてチベット仏教は封建領主等の世俗的権力と結び付いて勢力を得たという事はすでに序章で軽く触れた。その理由は両者とも同じように宗教的影響力によって人民を結集しようと欲していたからであって、彼らは多くの点でこれに成功していた。トゥバの地における比較的広範な寺院建設の広まりは仏教界の物質的基盤の強化、仏教の礼拝システムの発達そして封建社会に対するあらゆる作用領域への仏教の及ぼす影響が強まったという事を物語っているのである。仏教の物質的基盤の強化はさらにチベット仏教寺院の富裕化をもたらしたのであるが、その原因は主に2つある。一つ目の原因は信者からの自発的な寄進と仏教の祝祭や季節儀礼に伴う供物によるものであった。それらの供物は家族の健康を祈願して読経や祈祷を頼んだ場合や、一族の無事平穏、来世における長寿の祈願、そして病気の治療のために捧げられたものであった。さらに、それらは高位の僧に対する個人的な贈り物でもあった。仏教の祝祭が行われる場合には必ず食品等の供物が供えられたいたのである。
 二つ目の原因は寺院の商業活動である。トゥバの大寺院は自らも家畜を所有しておりその所有家畜総数が1000頭を越えるのはごく当たり前であった。ほとんどの家畜が住民からの搾取によるものであり、寺院はその財政を充実させるために住民に数パーセントの利子でお金を貸し付けたりもしていた。トゥバの寺院は単なる宗教的中心地であるだけでなく中国人商人とも結び付いた商業中心地ともなっていたのである。当初モンゴルに住みそこで自らの商業拠点を築いていた中国人商人はそこで大幅に商業活動を発達させ徐々にトゥバにも入って来るようになった。彼らは特に20世紀の始めにトゥバに現れるようになり、寺院の近辺に居住するようになった。トゥバの地における最も有力な商業中心地はチャダン上級・下級寺院、サマガルタイ寺院、エルジン寺院であったが、サマガルタイ寺院の近辺にも1895年から1922年の長きにわたってメン・ツィベイという中国人商人が住んでいた。彼は寺院近辺では最も裕福な小売店を経営しており、そこではお茶、織物、ウォッカだけでなく陶磁器、木製の食器、パイプ、嗅ぎ煙草、目の細かい中国製の絹、糸、針、装飾品、病気や家畜の疫病に御利益のある銅製の仏像等を買うことができた。このような商品に対してトゥバの住民は主に現物で支払っていた。しかし、中国商人から買った商品がその支払われた物の実際の価値と等しかったということは稀であった。例えば、嗅ぎ煙草と羊一頭、針一本と雄羊一頭といった具合に中国商人は取引していたのであった。

若き見習い僧

 多少長くなってしまったが、以上で地の利をも生かして商業的中心地の役割をも果たしていたかつてのサマガルタイ寺院から目を移し現在のサマガルタイの寺院について述べたいと思う。
サマガルタイに着くと私達はそのままフレーへと直行した。現在のサマガルタイ寺院は木の柵に囲まれた敷地の中にある。その敷地の中には二つの建物が見えるが一つは現在使用されていないらしく、カギがかかっている。私達は草むらの中の敷石の上を歩き、開いている方の建物の方へ行ったが、だれもいなかった。仕方なく私とイリヤがぼんやりと建物を眺めていると、サマガルタイ出身であるロマンがどこからか若い僧を連れて戻って来た。早速、私とイリヤはその若い僧にインタビューを申し込んだのであった。しかし、この若い僧はまだ見習い僧であった。このドゥガンを管理する高僧は今日は、サマガルタイからさらに南へ50 程の所にあるエルジンという街に行っているらしくいなかった。私達はかまわずその若い見習い僧にインタビューを申し込んだ。彼は快く承諾してくれたが、インタビューの録音とドゥガン内部の写真撮影は許可をしなかった。これもやはりまだ見習い僧である、彼の言葉が曲解されトゥバのチベット仏教に対する誤ったイメージが定着してしまうのを避けるためだったようである。
 このドゥガンは1993年に建設された。ドゥガンの広さは大体10畳程度で入り口を入って左側に仏像、供物、仏画、そしてダライ=ラマの写真が置いてある。天井には仏教的な模様がペンキで描かれている。現在ここにはこの見習い僧と現在エルジンに行っている僧の合計二人がいる。この若い見習い僧は22歳で、普段はウラン・ウデの佛教大学のダツァンで仏教を勉強している。今は夏休みなのでトゥバに帰省し、その間は実習としてこのドゥガンで祈祷や読経の手伝いをしている。現在大学では2年目を終了しており、残りあと3年間そのウラン・ウデのダツァンで勉強するそうである。このダツァンの勉強に関する費用は全て自腹で払っているようである。それというのもこれは独立した寺院付属のものではなく大学という施設で仏教が教えられているからである。このダツァンではモンゴル人、ブリヤート人、トゥバ人等が主に勉強しており、ウズベキスタンからの学生も一人チベット仏教について勉強しているそうである。そこでの科目はチベット語の会話、経典の勉強、翻訳、そして問答である。
 彼は3年前にチベット仏教徒となった。「僧になると決心した理由は何ですか?」という質問には「人々を助けるため、生きとし生けるもの全てを助けるため」と答えた。彼は僧になる以前はチベット仏教についても僧についても全く知らなかったそうである。彼はまだ僧になって日が浅いせいか、私の質問にもはっきりと答えたことは、そんなに多くはなかった。しかし、チベット仏教の復興に関しては熱い思いを持っていた。彼はチベット仏教の復興のためにもっともっと僧を養成すべきだ、トゥバの地には、サマガルタイにはもっとたくさんのドゥガンそして僧が必要だと主張していた。トゥバの人々ももっと頻繁にドゥガンを訪れ、祈りそして仏陀の教えを学ぶべきだとも彼は言う。「チベット仏教の復興はとても良いことであって、人々に幸せをもたらす。それはまさに正しい道であって、共産主義時代にはその信仰は失われていたが、今再びよみがえろうとしている」。このように彼は主張した。それは自分自身で勝ち取った信念ではなく、絶対的に正しい良いものであると信じ込んだうえでの発言の様に思え、私は多少危うさをも感じてしまった。しかし、ほとんど失われてしまった自分たちの信仰や文化を取り戻し復興させるためには、そういった理屈抜きの情熱みたいなものも必要であるのかもしれないと私は感じたのであった。

埋蔵経典

 この若い僧とのインタビューの中で私はある事に興味を引かれた。このドゥガンには全部で16の仏画が飾ってあったのだが、そのうちの5つはウラン・ウデにて購入した物だそうだ。そして驚く事に残りの11の仏画の出所は何とほら穴だというのである。そのいきさつは共産主義時代の宗教に対する弾圧にまでさかのぼる。当時、信仰を禁じられた人々は仏像や仏画などが踏みにじられ、焼き払われたりするのを恐れ、それらをほら穴に隠したというのである。そしてソ連邦崩壊後、それらの物は掘り当てられて再び信仰の場で活躍しているわけである。この時は私は単に面白いなぁという興味でしかなかったのだが、その後日本に帰国してチベット仏教関係の本をもう一度見直していくうちに、非常に興味深い事実を発見した。
それはニンマ派の教義伝承方法の一つであるテルマ(埋蔵部、埋蔵経典)である。ニンマ派とはパドマサンバヴァ16を祖とするチベット仏教の一派で、古密派とも呼ばれチベット仏教では最も古い吐蕃以来の流れを継承するといわれる。普通、密教では師匠から弟子へとその秘法を相伝していくものであるが、伝授すべき弟子が見当たらない場合、師匠はその秘法を記した経典を地中などに埋蔵し、後世の弟子に託したといわれる。それがテルマであり、いわばテルマはそれを発掘した者(テルトン)が直接秘法を伝授されることから、短伝と別称されることもある。このテルマの発見に関しては、神託や予言やそれにともなう奇瑞譚があり、そのエピソードなどにも興味深いものがあるそうである。だがゲルク派等の他の宗派は原則的にテルマに関しては否定的である。
トゥバのチベット仏教はゲルク派であり、もちろんこのニンマ派のテルマとは関係ないのかもしれない。しかし状況は多少違うとはいえ、その教えを後世に伝える事ができなくなった際にそれをどこかに埋めて他日を期すという発想を共有していたという事実に偶然以上のものを見ようとするのは無理が過ぎるのであろうか?
(以下次号に続く)

1 ゲルク派における仏教哲学の学位。一般大乗仏教の研究を20~30年にわたって行った後、厳格な試験をクリアーして、博士位を得た僧。ゲルク派 とはチベット仏教4(ニンマ派、サキャ派、カギュ派、ゲルク派)の中では最も新しい宗派。その頂点に法王ダライ=ラマを戴くなど、政治的影響力の点からもチベット仏教で最大の宗派で、とくに戒律を重視する。トゥバのチベット仏教もこのゲルク派。
 

2 ロシア連邦内の自治共和国。モンゴルの北方にあり、バイカル湖の東西にわたる地域。その住民ブリヤート人はモンゴル系。チベット仏教を信仰。ソ連時代には2つのダツァンを残す。現在はロシア人の影響で定住化し、牧畜と農業を兼業している。首都はウラン・ウデ。
3
ロシア連邦内の自治共和国。カスピ海の北西沿岸に位置し、モンゴル系のカルムィク人が住む。伝統的にチベット仏教の信仰が盛んである。首都はエリスタ。大統領のイリュムジノフは積極的にチベット仏教復興政策を進め、インドのチベット亡命政府との関係を深めている。

4 仏法を正しく実践して、多くの人に示す人物。その言葉は、願った宝を思い通りに出してくれる如意宝珠からきている。

5 祈祷車ともいう。普通リンコルに沿った壁に取り付けられている。垂直の回転軸が付いた円筒形もしくは八面筒形をしたドラム。下側にハンドルが付いており、ここを握って時計回りに回す。中にはチベット仏教の経典が入っており、その表面には《オム・マニ・ペメ・フム》と書いてある。一回回すとその中の経典を一回読んだことになる。大きいものでは高さ3メートル程のものもある。

6 密教において、他者に恩恵・祝福を与え、自らの身を護り、精神を統一するため、あるいは悟りの智慧を獲得するために誦する神秘的な威力をもつ言詞。
7
 チベット三大僧院の一つで、ラサの北西10 ほどの近郊にあるチベット最大の規模を誇る巨刹。全盛期には1万人もの僧侶が修行生活を送っていたが、現在は45000人ほどという。4学堂を擁し、その内のゴマン学堂はダライ=ラマ14世が最初に仏教を学んだ所である。現在は南インドのムンゴットというチベット人植民地に再建されている。

8 仏教哲学に関する問いを出す僧と、その問いに答える僧との間で行われるやり取り。チベット仏教の問答は論理学のルールに従って、思想哲学を真正面から議論するものであり、僧はこの問答を通じて思想哲学の理解を深めていく。
9
 中国、元代のチベット人僧侶。10歳の時に伯父であるサキャ派の大学者サキャ・パンディータに伴われて中国に来て、モンゴル朝に仕え、フビライの時に国師として宗教上の導師となった。フビライの命を受けて《蒙古新字》をつくる。モンゴルにおいてサキャ派の始祖としてチベット仏教隆盛の途を開いた。

10 密教外の仏教のもろもろの教えを指し、普通の人々にもわかるように、言語文字の上に明かに説き示された教えである。
11
 密教とは灌頂という入門儀礼を通過した者以外には示してはならない「秘密の教え」のこと。
12
 チベット三大僧院の一つ。ラサの北8 の所にある。堅固な石造りの僧院が立ち並ぶ大寺院で、全寮制の仏教総合大学の役割を果たしている。日本人で初めてチベットに入った河口慧海や多田等観が明治から大正にかけてこの寺で学んだ。現在は南インドのバイラクッペというチベット人入植地に再建されている。
13
 チベット三大僧院の一つ。チベット密教改革者でゲルク派開祖のツォンカパ()1409年に創建した総本山。ラサから車で2時間ほどの所にある。チベット動乱と文化大革命により、伽藍のほとんどが破壊されたため、廃墟のあとが歴然としているが、近年その一部は復興されつつある。僧侶数は見習い僧も含めて、400人で最盛期は7500人がいたという。年に2度、巨大なタンカ(軸装状の仏画)が展示され、各地からの巡礼者でにぎわう。現在南インドのムンゴットというチベット人入植地に再建されている。(註)ツォンカパ とは、顕教と密教を整理大成したチベット仏教の大改革者でゲルク派の開祖。ガンデン寺にて逝去し、その遺骸は銀の仏塔に安置され、崇拝の対象となった。
 

14 旧時代のモンゴル王公の称号の一つ。官人、殿様、貴族の意味。ノユン階層といえば、平民(アラト)に対する支配者層を指した。
15
 チベット仏教で化身の意味。仏、菩薩、高僧などの生まれ変わりとされる者。すでに解脱して輪廻転生から脱却しているが、衆生を救うという菩薩行を実現するために、繰り返し生き替わり死に替わりして転生しているとチベット民衆に信じられている。
 

16 9世紀の人物。ティソン・デツェン王代にチベットに招かれ、多くの密教聖典を伝えたとされる伝説的な密教行者。チベット密教の租と言われる。当時、彼はチベットが彼の有する密教の教えを理解できるほど開化していないことを知り、教えの多くをチベットの各地に埋蔵した。これがテルマ(埋蔵経典)である。



 
 

あとがき

◇会報発行は、当初予定していた期日よりかなり遅れてしまいました。早くから原稿を寄せていただいた方にはお詫びいたします。しかしその分、多方面から貴重な原稿をいただくことが出来、読み応えのある分量になったと思っています。
おろしゃ会も創立メンバーを中心とする時代から第二世代を中心とした時代に入って、21世紀を迎えようとしています。日露関係は相変わらず難しい過去の歴史から抜けきれないでいるけれども、新世紀に生きる私たちは、今こそそこから目をそらさないようにしなければなりません。クラスノヤルスク合意は反故となりそうで、日露関係については、周囲にはシラケた気分が蔓延しています。しかし、そういう時こそ、問題を凝視すべきだと思うのです。20世紀の苦難を無駄にしないためにも。(平岩 貴比古)

◇個人的な事を述べるが、お許し願いたい。前号で3月にご逝去された日比和平先生や林霊法先生のことに触れた。この号にも11月に亡くなられたミルヴィス先生の追悼記事が載っている。何と悲しいことばかりだろう。本号を印刷しようとしていた矢先、つまり128日朝、高校時代の恩師であり、県大における私の保証人でもある川辺良介先生が72歳を一期にご遷化された。会報創刊以来の愛読者で、毎号必ず墨書にて感想を寄せて下さった。長母寺住持の職を昨年ご子息にお譲りになった矢先のことである。これからは隠居の身、「おろしゃ会」行事にも出ましょうと仰っていたのに。文字通り心にポッカリ穴が開いたようだ。演習の後、長母寺を訪ね、先生のご遺体を前に「スミマセン」というしかなかった。私には、新世紀は簡単にはやってこないということなのだろう。あまりにも多重債務ではないか! 9日(加藤 史朗)


おろしゃ会会報第5号
2000
128日発行

発行
愛知県立大学おろしゃ会
代表 原 豊美
(愛知県立大学文学部社会福祉学科4年)
4801198 愛知郡長久手町熊張茨ケ廻間15523
学生会館D-202

発行責任者
4801198 愛知郡長久手町熊張茨ケ廻間15523
     愛知県立大学外国語学部 加藤史朗
電話0564641111 ファクス0564611107
 
http://www.for.aichi-pu.ac.jp/~kshiro/orosia.html



 
 

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