「おろしゃ会」会報第6号その1


2001年4月8日
愛知県立大学おろしゃ会


 

セルギエフ・パサード郊外の道をローザノフの家に向かう 
長縄光男・御子柴道夫・清水俊行・ニーナ・世界文学研究所の教授
1999年3月
 



 

はじめに
 
 

                                   加藤 史朗
 

◇夢でしか会えない Можно встретиться только
                   в мечте,а не наяву.                              
 「おろしゃ会」の創部2周年を記念してホームページを開設したのは、3月8日であった。すぐにこのことをe−メイルで各方面に知らせた。一割ぐらいの確率で反響があった。ロシアの友人コースチャにも送った。日本語は読めないが、写真は見ることができるからだ。ところがこれに対して奥さんのターニャから思いもよらぬ返事が来た。2月11日に彼が死んだというのだ。冗談を言っているのではないか、とさえ思った。頭の中が真っ白になった。昨年末に来たメールでは、共同研究で今度韓国へ行くことになるから、そこで会おうと知らせて来たばかりである。彼の最後の日々を知りたいと思い、ターニャにメールを送ったらЯ плачу с тобой!(あなたと一緒に泣いています!)と題する返事が返ってきた。「今、話すのは辛い。シロウがモスクワに来た時、話せるかもしれない」という内容だった。
 友の名はコンスタンチン・ヴォリャーク、享年55歳、ロシア科学アカデミー海洋物理学部門の主任研究員である。出会いは全くの偶然だった。1988年7月、モスクワ大学恒例の「ロシア語教師のための夏季セミナー」に参加するために、アエロフロート機で成田を発った。たまたま隣席に座ったのが、京都の国際学会に出てモスクワに帰る途上のコースチャであった。ほぼ同世代であることや、酒やタバコを嗜むこと、ゲルツェンの出たモスクワ大学物理・数学部の卒業生であることなどからすっかり意気投合し、シェレメチェヴォ空港へ着くまでの間に、機内で一般にサービスされる各種の酒の他に、彼のおごりでグルジア産の銘酒ツィナンダーリを二本空けてしまった。酔ったままモスクワ大学学生寮における一ヶ月半の生活を始めたわけである。空港での別れ際に、電話番号のメモを渡し、必ず遊びに来いと誘ってくれた。
 一ヶ月半の滞在中に二度にわたって家を訪ね、ご馳走になった。ヴェーラという愛くるしい娘とペーチャという腕白そうな息子がいた。わが子より共に三歳ほど上である。「みつばちマーヤ」のビデオをお土産に持っていったらとても喜んでくれた。この時から10年余、年に一二度の訪ソ・訪露の度に、彼と会うのが慣例となった。今、ヴェーラもペーチャも共にモスクワ大学学生となり、それぞれ美術史家、言語学者の道を歩み始めている。
 コースチャと最後に会ったのは、1997年である。この年は二度彼に会った。早春に呉智英氏と一緒に会い、夏に田邊三千広氏と一緒に会った。1999年にモスクワを訪ねたときには、生憎ブラジルに出張中であり、奥さんのターニャに会っただけである。帰国直後に彼から「僕を抜きにして二人で会うなんて!」という恨みがましいメールが来た。いつの間にか、モスクワに行く目的の半分以上が彼と会うことになっていたと思う。会わなくても、手紙やメールのやりとり、時々の電話などで接触していた。話題は、いつも人生とは何かという青臭いものであった。日本人の友達に言ったら、笑われそうなことばかりを話し合っていたように思う。でも、いつも彼は、的確な意見を何の衒いもなく述べてくれた。例えば、「時々、君のことを夢で見ます」とメールに書いたら、即座に次のような返事が来た。「僕が君の夢に現れたとは嬉しいことだ。でもシロウ、どんな人生を送っていようと、夢の中より、現実でнаяву会うことのほうが、ずっと良いと思うよ。はやく会いたいね」と。この言葉にどれほど勇気づけられてきたことか。
 でも、コースチャとはもう夢でしか会えない。彼の訃報を聞いて、頭の中が真っ白になったと冒頭に書いた。今、続きを述べなければならない。今は頭の中は真っ白どころか、彼のイメージで一杯になっている。喪失とは、ある意味で憑依なのだ。
 愛するものを得るよりも、喪うことが多い年齢となった。その時々に、頭の中が真っ白になるのだが、それは、一種の「初期化」現象といえるのではなかろうか。初期化された頭の芯に、喪ったものの像は専一のものとして保存され、時と共におのずから自己を更新し上書きする、生きたイメージとなる。つまり喪ったものは、永遠に消去不能な忘れがたいものとなり、「歴史」となるのである。
 今、コースチャの追悼文を書くことは、ターニャが言うようにとても辛く困難だ。ターニャに会ってから、書けるものなら書いてみたい。だから、狡いことかもしれないが、コースチャと会ったことのある近しい友人三人に追悼文を寄せてもらった。いずれも「おろしゃ」の今日と日本の現在との狭間の中で、一人のロシア人の死を惜しむ心のこもったありがたいнекролог(弔辞)だと思う。友はありがたい。夢でしか会えない者についても語り合えるからだ。一番大切なものは友達なのだということが、しみじみと良く分かった。

◇おろしゃ会の歩みは無常迅速

  先号で、おろしゃ会の歩みは、「亀のごとく遅々とした歩み」だと書いた。しかし、それは訂正されねばならない。早稲田でロシア語やロシア文学史、ロシア思想史を習った安井亮平先生のご縁で、外科医の加藤晋先生と出会った。先生とやはり小児科医の奥様、加藤瑠璃子先生は、お二人揃って語学の達人である。英仏独露はおろか、古典ギリシア語なども独力で学んでおられる。お二人ともお仕事柄、長期に休暇をとることが出来ない、つまりのんびりと海外旅行をするわけにはいかない。だから、日本に来ている外国人と付き合い、「海外旅行をする」のだと仰る。今、先生ご夫妻は、名古屋大学に来ているロシア人学生や研究者などと交際なさっている。私も今までに四人のロシア人学生や研究者を紹介していただいた。その度にご馳走になったばかりではない。今年に入って、先生がこれまで集めて来られたロシアに関する書籍など、約400冊を県立大学に寄贈して下さったのだ。詳しくは「おろしゃ会ホームページ」にリンクしてある平岩君作成の「加藤晋先生文庫目録」をご覧いただきたい。加藤先生は、安井先生の中学以来の友達なのだ。
 安井先生も最近、悲しい思いをなさった。「コージノフさんを悼んで」という先生の文章を是非お読みいただきたい。先生がコージノフさんを早稲田にお呼びになった時、私は院生としてその講筵の末席を汚していた。今でも、その時の録音テープを大切に保存している。安井先生が私達学生にロシアを語られる時には、常にブブノワ先生をはじめ具体的な生きた人がいた。先生の講義を聞いていたとき、それは、私を嫉妬させるばかりであった。しかしそれから30数年の歳月を経て、先生の講義の意味がやっと分かり始めてきたように思う。先生の「先生」に対する「追悼文」を読みながら、学生たちの言動に一喜一憂している自分を情けなく思う。「遅々とした歩み」などと言うのは傲岸不遜であった。
 左近毅先生からも「ロシア凡人伝」という非凡なタイトルの玉稿をいただいた。これから10回ほどの長期連載となるだろうと心ときめくことを仰る。「小生の本稿執筆の意図と狙いは、ロシア人側の難解な日本語学習の経験を、日本側のわかきロシア語学徒に紹介し、またロシア人を友としロシアと関わった日本人たちの歴史を彼らに教えて、刻苦精励・奮起の契機をもたらすことにあります。そうしたささやかな目的にいささか貢献できましたなら、これに過ぎる喜びはありません」という送り状もいただいた。私も紅顔ならぬ厚顔にして「日本側のわかきロシア語学徒」の一員でありたいと思っている。「おろしゃ会」を代表して心よりお礼申し上げたい。


コージノフさんを悼んで





                        安井 亮平 (早稲田大学名誉教授)


 

コージノフさんのお宅で 1999年6月

 
 1月26日朝6時ころのことであった。「ニーナさんから電話よ」と妻に起された。ニーナさんは、能を研究するモスクワの心友である。ニーナさんは、いつもと違って、あいさつもそこそこ口速に、「辛いニュースです。お友達のワジム・コージノフさんが亡くなりました。先ほど10時のニュースで放送されたのです。さぞ悲しいことでしょう。お気持ちはよくわかります。私たちも同じです。明後日世界文学研究所での葬儀に参りますので、あなたの名前で花を届けましょうか。」私の頭は真白になり、働かない。「そちらは今12時ですね。また明日電話します」と、答えるばかりであった。まさか。正月にコージノフさんに電話した時、あんなに元気で、いつもの皮肉な笑いとともに得意の辛口の冗談を連発していたというのに。とても納得できない。
 すぐさま夫人のエレナさんに電話してみたが、誰も出ない。
 モスクワの朝になるのを待ちかねて、まずコージノフさんとも親しい、モスクワ郊外にあるプリーシヴィン博物館の館長リーリャさんに電話した。リーリャさんも悲しみに堪えていた。もうコージノフさんが亡くなったのは、疑いないが、しかしニーナさんから聞いた以上には事情がわからない。そこで、やはりコージノフさんの若い友人、北ロシアのヴォログダの詩人、ミーシャさんに電話してみる。ようやくコージノフさんの最後の様子が明らかになった。24日に持病の心臓病で入院したのだが、翌25日の昼前、トイレへ行こうとしたのか、病室の入口近くで倒れてそのまま絶命したというのである。
 エレナさんと私が連絡をとれたのは、ようやく26日の夜のことであった。
 二・三日後ファクスでニーナさんから27日の葬儀の様子を報せてきた。
 100人以上の友人や知人や愛読者が参列し、故人と別れる列は、1時間ほど続いた。ほとんどの人が涙を浮べ、会場はただ悲しみに充ちたしじま。ニーナさんは、エレナさんに私の弔意を伝えるとともに、コージノフさんの右肩の傍らに私からといって白いバラを供えてくださったという。
 

 コージノフさんと私が初めて会ったのは、1974年1月23日のことであった。コージノフさんは44歳、私は39歳、二人ともに若かった。
 73年9月から10ヶ月間、私は早稲田とモスクワ大学の交換協定によって、モスクワ大学の寄宿舎で暮らした。ある時、知り合いの世界文学研究所の大学院生に、「誰か会いたい人あるの」と聞かれた。「コージノフさんに会いたい」というと、活発なコムソモルカの彼女は、持ち前の実行力と機動力で、その場で数人に電話し、コージノフさんの電話番号を聞き出すや、たちまちコージノフさんから会う約束をとりつけてしまった。
 チャアダーエフについて卒業論文を書いた私は、大学院に入ってからは主にスラヴ派を勉強していたが、わが国ではもちろん本国のソヴィエト・ロシアでもスラヴ派の論議されることが絶えてなかっただけに、1969年『文学の諸問題』誌上でのスラヴ派をめぐる論争は、私自身にとっても一大事件で励みともなった。論争の参加者の中では、スラヴ派の現代的意義を積極的に認めるコージノフさんに、もっとも共感を抱いた(拙稿、「最近のスラヴ派再評価」、『ヨーロッパ文学研究』第20号、1972年12月)。
 当日は、彼女に付きそってもらい、3人で作家同盟会館のレストランで会った。夕食をごちそうになり、4時間半余り、専らコージノフさんの話を聞いた。頭も舌も回転が極めて速く鋭いが、しかし暖かみのある人という印象で、私の緊張も次第に融けたのを覚えている。別れ際、次はわが家に一人で来るようにと誘われた。6月に帰国するまでに数回訪ねたが、いつも暖かく迎えられた。当時は外国人を自宅に招くのは、なかなか勇気のいることであっただけに、有難かった。帰国直前には、モスクワ郊外のペレデェルキノの別荘に招かれ、パステルナークの墓に案内してもらった。中でも印象深いのは、初めてお宅を訪ねた3月16日のことである。話題は、当時進行中の中国の文化革命をめぐってで、あれはスターリンの粛清の中国版にしかすぎないというコージノフさんに対して、私はロシア語がよく話せないため、いや、何かがある、何かがあると、何時間も繰り返すばかりであった。7時に訪ねて、お宅を辞したのはなんと夜中の1時半だった。
 

 それからほぼ隔年にロシアに行くたびに、コージノフさんと何度も会った。親しくなるに従い、ますます、その知的で繊細でいささか皮肉で暖かな人柄と、博識と、ロシアに寄せる熱い思いに深く魅かれていった。いつも新しい関心と仕事の話を聞くのが楽しみであった。のっぺらぼうのソヴィエトの仮面の下に息づく、本当のロシアとロシア人の姿を、コージノフさんとの交流を通じて、徐々に感ずることができるようになった。コージノフさんの仕事を、「ワディーム・コージノフの仕事」(木村彰一編『ロシア・西欧・日本』、朝日出版社、1976年3月)、「近代ロシア文学史の構想――「コージノフの仕事」その後――」(『ヨーロッパ文学研究』第27号、1979年12月)などなどと、私なりに跡づける作業を続けた。
 76年8月には、コージノフさんにお願いしてボチャローフさんを紹介してもらったが、二人の対照的な生き方や物の見方に、予想はしていたものの、改めて目を見張った。ロシアは決して一枚岩ではなく、多層的多元的であることを実感した。同時に歴史の連続性をも。私の関心は、19世紀中ころのスラヴ派から現代ロシアのインテリの生き方に、本格的に向うようになった。
 コージノフさんとボチャローフさんはともに50年代中ころモスクワ大学で学び、その後世界文学研究所の同僚でもあった。二人は、61年に中央ロシアのサランスクにバフチンを訪ね彼を再発見した名誉を分つ仲間なのだが、やがてコージノフさんの関心は文学から歴史に移り、思想的にもユーラシア派に近くなった。一方、ボチャローフさんは、最近の大部の『ロシア文学のプロット』(モスクワ、1999年)にいたるまで一貫して文学研究を続け、いわば西欧派の立場に立つ。この二人と、やはりサランスクに同行したガーチェフさん(文学からやがて哲学に向った)の三人の各自各様の歩みに、私と同時代のロシアのインテリの思想的模索の全体像と問題性とが表現されているように、私には見える。
 残念なことにガーチェフさんとはまだ親しくなる機会に恵まれないが、コージノフさんとボチャローフさんの歩みを、四半世紀以上にわたって身近で追うことができたのは、私にとってまことに貴重で幸せな経験であった。これだけでも生きてきた意味があると、つくづく思っている。
 でも、もうコージノフさんはいない。
 

 コージノフさんは、類まれな心優しい組織者であった。どれほどの人を結びつけ、どれほどの人の仕事や生活を手助けしたか、知れない。殊に若い才能に親切であった。極めて忙しい中いろいろな立場や民族の若い文学者や哲学者相手にセミナールを主宰し、応援した。でも決してボスぶることはなかった。ボスであるには、あまりにもコージノフさんは明敏で繊細で潔癖で複雑であった。よくコージノフさんは反ユダヤ主義者と非難されるが、その実際の活動を見れば、的外れなことが分るはずである。
 私も実にいろいろな人や物を紹介してもらった。会わせたい人があるからとか、見せたい物があるから、あるいは聞かせたい物があるから、すぐ来るようにと、よく電話をもらった。
 上に挙げた人たちの他、作家のベローフさん、数学者で思想家のシャファレーヴィチさん、プリーシヴィン夫人やその秘書のヤーナさん、歌手のワーシンさんとその仲間、ペテルブルグの歴史家ブルミーストロフさんなど、私の親しい人たちの大半は、コージノフさんの紹介によった。
 ボチャローフさんも、自分の友人や知人の多くは、コージノフさんから紹介されたとよくいっている。
 

 何年か前、コージノフさん夫妻と、中央ロシアのリャザンとその郊外のエセーニンの故郷の村を訪ねた。北ロシアのヴォログダや、ベローフさんの故郷のチモニハ村を厳寒の1月に一緒に訪ねたこともある。いずれもコージノフさんの招待による。
 88年10月に半月、早稲田の招聘専門家として夫妻を日本に招き、一緒に京都と奈良と天理を旅行したのも、今では懐かしく楽しい思い出である。
 

 去年7月、コージノフさんは70歳になった。
 それを祝って、いろいろと催しがあったり、『現代人』誌やさまざまな新聞で特集が組まれた。コージノフさんへのロシア社会の高い関心を物語っている。

ペレデェルキノにあるコージノフさんの別荘にて 2000年7月




 昨夏の私たちのロシアの旅も、コージノフさんをお祝いするのが、最大の目的であった。ベレデェルキノの別荘の庭で、コージノフさん夫妻や娘さん夫妻やそのお子さん、それに私たちで、シャンパンとシャシリクでお祝いした。和やかで心のこもった宴であった。これがコージノフさんとの最後の別れとなってしまった。
 その時、コージノフさんが、珍しく自負心をあらわにして、自分はこの10年間に17冊の本を書いた、だが今も書きたいこと、書かねばならないことが山ほどあると、語った。確かに、『ルーシとロシアのことばの歴史』、『ロシアの運命』、『ロシアの勝利と苦難』、二巻物の『ロシア:20世紀』など、画期的な問題作揃いである。
 志半ばでコージノフさんが仆れたのは、返す返すも残念であるが、しかし重い持病に苦しみながら、これほどの仕事を成し遂げたのは、全く驚きである。近くで見てきてそう思う。きっと逞しい気力とロシアへの熱い思いが可能としたのだろう。今更ながらコージノフさんの勁い精神に感服する。
 コージノフさんの仕事の全貌と予言的意味が明らかになるには、なお時間とさらなる試練が、ロシアにそして私たちにも、必要なのだろうか。
 


ロシア凡人伝(1)





                 

左近 毅(Takeshi Sakon大阪市立大学名誉教授)




 

      「やさしき友よ、学説はすべて灰色だ、
         人生の黄金の樹は永久に緑色だ」(詠みびと知らず)
 
 
 

イヌも歩けば日本語に当たる?

 小生は凡人だ。凡人だから、なにをやってもうまくいかない。人後に落ちてばかりいる。運もついていない。カネはもちろん無い。オヤジが学者肌だったから、よけい凡人ぶりが目立つ。始末におえない。
目の上のタンコブというやつだ。新聞社の社長にふんぞりかえって、ニコリともしたことがない。六人兄弟姉妹の長男で、ほかの者がまたオヤジの筋をひいて末は博士になったり、ミュージシャンになったりしたから、よけいこちらの覚えがメデタクない。長男のクセに、といつも白い眼をギョロつかせてあわれな小生を睨む。気の弱い小生は、ヘビに睨まれたカエル同然だ。
 言いなりに、ペテルブルグ大学へ放り込まれた。凡人をもって自負する小生には、惨憺たる悲惨をきわめた日々が待っていた。まわりは秀才ばかり、佃煮にするほどいる。こちらは、何をやってもビリカスだ。それに法律の無味乾燥なこと、はなはだしい。法科に入れられた以上、法律ヌキというわけにはいかない。オヤジの死んだ後の遺産はどうなる。心配だからついでに調べてやった。相続能力に、「胎児ガ死体デ生マレタ時ハコレヲ適用シナイ……」。ハテナ、小生は凡人で生ける屍みたいなものだ。ダメか。
「相続人ガ無能力者デアル時ハ第九百十五条第一項ノ期間ハ其ノ法廷代理人ガ無能力者ノ為ニ相続ノ開始ガアッタ事ヲ知ッタ時カラコレヲ起算スル……」。なんだかサッパリ解せぬが、「無能力者」という一
句がひっかかる。小生のことを言っているのじゃーあるまいか。なんにしても、法律は小生に意地悪して遺産をわたすまいとしているようだ。法律の繁文縟礼(はんぶんじょくれい)を前に、小生は三年めにとうとう音(ね)をあげてしまった。最早、ついていけないのである。
 そこで凡人ながらも、智恵を絞って考えた。凡人でもなんとかこの世間を渡っていく妙案は無いものだろうか、と。たどり着いた結論は、所詮(しょせん)非凡人に伍して同じことをやっていたのではダメだ。ではどうするか。ヒトのやらぬ事をやる。それだ、それに決めた。というわけで、小生は自分で気がついてみると、日本語の勉強をしていた。なに、ご心配めさるな。日本語を勉強する人士はすべて凡人というわけじゃない。凡人のチャンピオンたる小生がタマタマ選んだのが、日本語であったにすぎない。というより、日本語のほうでなぜか小生に白羽の矢を立てたのだ。そういう関係だ。もっとも、その頃のペテルブルグ大学東洋語科には、日本語の講座なるものがまだ無かった。
 

凡人、奇人に出会う

 しかも教師といってもそれはたった一人、なんだかわからぬが得体の知れぬ人間が日本語の教師に収まっていた。それが、クロノ(黒野義文)という日本人だった。しかし得体が知れぬといってもあとでわかったのだが、けっして怪しい人物ではない。れっきとした東京外語なる大学でロシア語を学んだらしい。怪人クロノ先生については、小生が日本へ来てから少しずつその全貌が明らかになった。なんでもテング様のような神童であったらしいが、逸見なる兵法家とか弓術家の家系につらなるそうだから、妖術をあやつったかも知れない。異才を買われて母校の先生になっていたそうだ。クロノ先生は、もうその頃から変わっていた。壮士のように和服のすそを高くからげ、鉄杖をふり回しながら往来を闊歩(かっぽ)し、学校のそばにあった牛肉屋に毎日かよって十人前もペロリとたいらげ、給料のあらかたはその店に注ぎ込んでいたというからスゴイ。その頃先生は結婚して、もう子どもが三人もいたそうだが、さぞやご家族はひもじかったでありましょう。そこへ明治の十八年、クロノ先生にとっては、大好きな牛肉が食べられなくなる大事件が起こった。なんと、東京外語がお国のつごうで廃校になってしまったのだ。
 
奇人、ロシアへ渡る 

 やけクソになったクロノ先生、妻子をいとも簡単にふり捨てて、スタコラサッサとウラヂオストックくんだりへ独りで高飛びしてしまったらしい。哀れなるは残された家族、その運命やいかに?だがクロノ先生は、いまやそれどころではない。自分が生きていくに精一杯で、ウラヂオストックで売春宿の用心棒をして生計をたてていたとの噂だった。でもさすがに異才だけのことはある。クロノ先生の胸には、ちゃんとした目算と魂胆があった。カネを貯めそれを旅費にして、はるかなるロシアの首都サンクト=ペテルブルグへ乗り込もうという寸法だったのだ。そのついでに、半年かけてシベリアを徒歩で横断するという快挙をなしとげた。とうてい凡人の小生には、なせるワザではない。汗とホコリにまみれお化けのようになったクロノ先生が、ペテルブルグへ姿を現したのは明治二十年前後らしい。その時、西徳二郎という公使がペテルブルグにいた。このひとは、ペテルブルグ大学の法学部で勉強した最初の日本人だ。そしてのちには外務大臣にまで出世した。クロノ先生は、なにはさておきこの日本公使館へ転がり込んで居座ったそうだ。そのうち気がついてみると、いつの間にかペテルブルグ大学の教壇に立っていた。先生無類のロシアびいきで、やがて名前を、ヨシフ・ニコラエヴィチ・クロノとまで変えた。ヨシフは義文をもじったものだ。ニコラエヴィチは、東京に司祭ニコライが建てた正教神学校にちなんでいるそうだ。あとの話だが、クロノ先生も日ロの激突という戦争の時代に翻弄され、帰るにも祖国へ戻
れなくなってしまった。おまけに、国策としての日本研究に担ぎ出され、『露和軍事用語必携』なんていう本を書き上げてしまったからもうイケナイ、日本の土を二度と踏めない運命となった。

手探りで始まった授業

 奇人クロノ先生、教え方もなにもあったものではない。「とにかく、ぜんぶ教えちまえ!」というわけで、伊呂波の手ほどきから始まったものである。いきなり、「色葉匂へど散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ……」を暗記させた。講釈を聞くと、どうやらクロノ先生の有為転変の人生を歌っているようだ。暗記するにしても、日本語のわからぬ小生には皆目雲をつかむようでポカンとしていると、先生憮然(ぶぜん)たる面持ちでこれを逐一ロシア文字に直してくれた。先生に敬意を表して、書いておこう。イロー ハ ニーヴォ エード ツィリ ヌール ヴォ、ヴァーンガ イォ ターレ ゾ ツニェー ナラーム ウーイ ノ オーク ヤーマ キョーオ コイェーチェ、 アサーキ ユーメ ミーシ エーイモ セーズ。ところが段々と知って驚いた。この歌の中に、日本語のアズブカの文字が全部入っているという。平假名(ひらかな)に片假名(カタカナ)、ついで中假名(なかかな)を教えてくれた。早い話が、漢字の当て字だ。さらに、万葉がなも教えてくれる。この他に、天空の星ほどもある漢字の勉強がくわわる。凡人の小生のアタマは、もう端(はな)から爆発しそうだった。そして何よりも閉口したのは、無味乾燥にして論理のかたまりとしか思えぬ法律条文を、これまた理屈ぬきで暗記させる。日本帝国憲法とかで、恐れ多くも畏くもやんごとなき日本のミカドがどうしたとか、こうしたとか書いてあるらしい。難解の最たる条文だ。まずクロノ先生「万世一系ノ天皇……」うんぬんと、浪曲をうなるていで音吐朗々とやらかし、「諸君もやりたまへ」とくる。凡人としては理解を絶した文意で、「先生、万世一系とはなんですか?」と早速質問すると、先生「文意などどうでも宜しい、百回くりかえすとそのうちにわかってくるものである」。 どうやらこれは、一回ぐらい読んでもわからぬようにわざわざ工夫してあるに違いない。カエルの子はやはりカエルの子……語学屋のオヤジの影響だろうか。法科が嫌いで転部した小生には、もう地獄だ。同じ法でも、文法は明快そのもので凡人の小生としては許せる。しかしクロノ先生の奇人たる所以(ゆえん)は、『総里見八犬伝記』とかいう怪奇小説を座右の書として愛読し、それを講ずる時の嬉しそうな表情はもう恍惚(こうこつ)の域に達していた。おかげでこちらもイヌの八剣士の大ファンとなり、「さては良き敵ござんなれ…イザイザ…」とか喚(わめ)いては、ペンを振り回し、同級生と撃剣をまじえたものだ。時にはこれが嵩じて、自分が剣士の犬塚信乃や犬坂毛野になって夢に登場し、アワヤというところで「伏姫」を救うシーンが出てきたりする。そして伏姫の美貌を空想したりして、授業中ボンヤリと虚空を見つめたものだ。
 それにしても、その凡人中の凡人にして伏姫のファンに過ぎない小生が日本に留学し、はては日本人の女性を妻(さい)とする羽目(ハメ)になるとは……ものの弾みというものはゲに妙なものだ。
 (筆者の注)読者の諸君をおどかすつもりは、さらさら無い。だが断っておくと、「凡人」という表現はあくまでご本人の謙遜によるものと思える。なぜなら実を申せば、ご本人は家庭ではラトヴィア語をしゃべり、旧制中学ではドイツ語で授業を受け、ラテン語を習い、さらには中国語、朝鮮語をもマスターしている「神童」まがいの人物なのだから。さりとて読者諸君よ、ゆめ落胆するなかれ!要は、キミも『紅楼夢』や『元朝秘話』を中国語で読めばよいだけの話なのだ。

長崎から東京へ

 さて、どこでどうしたものか読書以外に能のない小生に、卒業まぢかにおよんで母校勤務の話しが降ってわいた。瓢箪(ひょうたん)から駒(こま)とはこのことだ。奇人クロノ先生に幻惑されたとはいえ、ひときわ日本語に取り憑(つ)かれていたわけでもなく、むしろいささかエッチなあの『紅楼夢』をひそかに耽読し、夢想を現実として生きていた小生に、いきなり日本語の教師になれと言う。なんでも母校に日本語講座が新設されるらしい。こちらの事情も、へったくれもあったものではない。かくて小生は、日本留学を命ぜられたしだいだ。政治に疎(うと)いながら、日清戦争で日本が勝利し朝鮮半島に日本が進出してきたせいだろうと小生も思った。中国の天山大山脈やゴビ大砂漠のむこうに、ヒョイと日本が顔を出した形だ。愛する両親に別れをつげ見送ってくれる恋人もなく、まだ雪の残る一八九九年(明治三十二年)の春、小生はペテルブルグを発ってオデッサへむかった。ここから義勇艦隊の定期船が出て、シベリアや長崎へと船客を運ぶことになっていた。義勇艦隊といっても、これは軍艦ではない。平時は貨客船として運行し、戦時に武器を装備して戦艦に早変わりするいわば忍者みたいな船だ。
シベリアへむかうその定期船が、長崎と上海を格好の寄港地として、とくに冬場は結氷を避けて長逗留するならわしになっていた。だから、当時ロシアから日本留学となれば、まず長崎上陸というパターンになる。遠い異国をめざす心細い小生に同道してくれたのが、こちらも同じく心細い思いでいっぱいの同窓ベリチェンコ君だった。彼は中国語の専門を活かし、中国のロシア公使館へあらたに赴任するところだったので、これ幸いと呉越同舟をきめこんだ。
 長崎での頼りはロシア領事館で、上陸するなりそこへ身を寄せた。しばらくすると心細さも薄れ、少しクソ度胸がすわってきた。さぁそうなると、小生としては街なかへでかけ、おぼえたはずの日本語で「やぁ、我と思わん者はござんなれ、イザイザ!!」とやってみたいではないか!日本人を片端からつかまえ、他流試合をまじえてみたいではないか!というわけで、とある日独りで町を見物としゃれこんだ。ところが凡人の小生が学んだはずの日本語は意外なほどにまったく通じず、手振り身振りだけの有様。領事館に戻る道を聞くのにも四苦八苦のていで、小生はほうぼうの体(てい)で領事館へ舞い戻った。爾来すっかり自信を無くし、日本人と見るとだんまりを決め込んで日本語はしゃべらぬことにした。だが日本語を学ぶために留学してきた以上、いつまでの領事館に篭城しているわけにもいかない。とにかく日本の首都たる東京に登って、一から出直すことに決めた。というより、ロシア領事館の先輩に愛想をつかされ、東京へ追放されたというのが真相に近い。
 かくて小生はまたぞろ船上のひととなって、下関をめざした。下関をへて東京に着き、まず頼ったのは言わずと知れたロシア公使館。まさか公使館へ居候というわけにもいくまい、公使館は小生を築地のメトロポールなるホテルを寝場所に指定した。ここはコンドル(正確には、ジョセフ・コンダーと呼んで欲しいです)と一般に呼ばれたイギリス人建築家が建てた洋風旅館で、ニコライ大聖堂はもちろんロシア公使館の宴会場をつくった縁から、小生を紹介したのだろう。持つべき者は公使館、日本語の先生までちゃんと用意してくれた。それが大淵とかいう五十がらみの先生で、なんでも漢方医のうえ俳句もひねる人物。それが小学読本を使って『紅楼夢』を愛読する小生
に日本語を講ずるのだから、なんとも珍妙な図である。さりとて凡人の辛さ、しかも何から何まで公使館にオンブしてもらっている小生としては文句も言えない。例えばこんな具合だ。「ははさま、此の本のゑをごらんなされ……きんときがまさかりを持ちて、くまにのりてゐます」。ところがどうして、クロノ先生の教え方が悪かったのか、オオブチ先生の手ほどきが間違っていたのか、とにかくこの期(ご)に及んでわかったのは、日本語とは滅法(めっぽう)難しい言語であるという恐るべき現実だった。三つの種類に漢字が同居しているのは知っていたものの、いわゆる訓読みなる読み方は中国語とまるで違う。時には意味まで異なってくるのだから閉口する。酒の同意語を書けなんて課題を出されたら、読者のみなさん書けますか。答えは、おみき、ごしゅ。それにYa ne znayuとかI do not knowが一つでは済まない。知らぬ、知らない、知らないわ、知らないわよ、知りません、知るもんか、知らねえ、知らん、存じません、存じ上げませぬとか、もう星ほどの数がある!凡人の小生には、これは最早(もはや)地獄の責め苦であり、しまいにはこの煩雑さに無性に腹をたてたものだった。さりとて、いまさら尻尾(しっぽ)をまいて逃げるわけにもいかない。だから『小学読本』のほうはサッパリ進まず、どうしても質問ぜめになる。ところがオオブチ先生もさる者、「余計なことを考えめさるな。只管(ひたすら)に覚えなされ」と答えてすましている。ロシアから持ってきたクロノ先生の『日本語独習案内』のほうが、まだマシだ。なにしろ独習できるように書いてあるのだから。とまれ、『紅楼夢』をひそかに耽読したのは功徳で、これがおおいに漢字の理解を助けてくれた。オオブチ先生にも、一つ妙なところがあった。出張講義のたびに、「昨日は失礼しました」と言う。どんな失礼な事をされたのか、とこちらはその都度(つど)気になって仕方がない。ついに辞書を調べて合点(がてん)がいった。つまりは、時候のあいさつと同じで、「こんにちは」と同義だったのだ。もっとも、よく胸に手をあてて考えると、オオブチ先生は未だかつて小生の愚問珍問に明答をもって答えたためしがない。これをしも失礼と解釈すれば、ナルホド失礼ではある。その失礼が重なりに重なって、あるいはこちらの質問攻勢にホトホト疲れたのか、そのへんの経緯(いきさつ)は定かではない。熱心だけが取り得の小生にたいする日本語教授を辞めたいと仰せになる。その代わり、類稀なる良師を紹介してくれると言う。それが石亀先生だった。尤も、「類は友を呼ぶ」と日本語のことわざは言うではないか。オオブチ先生の友達はやはりオオブチ流で、教わっておいて恩師をくさすのは気がひけるが、イシガメ先生はオオブチ先生に輪をかけた堅物で、こちらの質問にたいし鎧(よろい)で身を固め、頑として答えない。さすがの小生も矢折れ刀尽きた体(てい)で、疑問はみずからの解釈によって解くことにした。ところが世の中というのは面白い、「捨てる神あれ
ば拾う神あり」で、小生は東京外国語学校でロシア語の臨時講師を頼まれることになった(つづく)。
 


【講演会記録】

Proust et les Ballets russes
--- la position de la Russie en France a la Belle Epoque ---

М . Пруст и Русский Балет
-Статус России во Франции Эпохи Расцвета-

マルセル・プルーストとロシア・バレエ
--- ベル・エポックのフランスにおけるロシアの位置 ---
 
 
 

日 時  2000年7月14日(金曜日パリ祭当日)午後4時〜6時
場 所  H414教室
講 師    原 潮巳先生(本学外国語学部フランス学科助教授)
 
 
 



 
 

プルーストとロシア・バレエ



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

愛知県立大学外国語学部フランス学科助教授 原 潮巳 



 ディアギレフ (1872-1929) 率いるロシア・バレエの活動は、今世紀初頭のパリにおける最も重要な芸術運動の一つであった。本稿では、この時代のフランスを代表する小説家プルースト (1871-1922) がロシア・バレエとどう関わったか辿ることを通して、ベル・エポックのフランスにおけるロシアの位置というものを考えてみたい。特に、ロシア・バレエがパリで大成功するに至った社会的文化的コンテクスト、そしてその芸術的「前衛」としての側面に注目してみよう。
 

I. プルーストが観たロシア・バレエ

 パリにおけるディアギレフの活動は、1906年、グラン・パレでのロシア美術の展覧会にまで遡る。翌1907年5月にはラフマニノフ (1873-1943) が自作のピアノ協奏曲第2番を弾き、1908年5月から6月にかけて、ムソルグスキー (1839-81) のオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』が、希代のバス歌手シャリアピン (1873-1938) によってオペラ座で上演されている。ロシアを代表するこの国民オペラがヨーロッパ中で知られるようになるのは、この時のパリ公演がきっかけである。ただし、バレエの上演は1909年が最初であり、しかもそれはまだ大変小規模なものに過ぎなかった。
 ロシア・バレエが実質的に始まり、フランスの観衆に大きな衝撃を与えたのは、1910年のシーズンが最初である。この年プルーストは、リムスキー=コルサコフ (1844-1908) の音楽に基づく『シェエラザード』を2度観に行っている。その2度目はグレフュール伯爵夫人 (1860-1952) の招待によるものであったが、彼女はロシア・バレエの重要な支援者の一人であり、プルーストの小説『失われた時を求めて』のゲルマント公爵夫人のモデルである。プルーストは脚本を書いたレオン・バクスト (1866-1924) について、書簡の中で次のように述べている。「バクストに本当によろしく言って下さい。彼は最初の瞬間から私にとって魅力的でした。彼のことを大変に賛美しているのです。『シェエラザード』ほど美しいものを私は知らないのですよ。」。
 1911年5月、プルーストは、ロベール・ド・モンテスキュー (1855-1921) (世紀末フランスを体現する人物であり、ユイスマンスの『さかしま』の主人公そして『失われた時』のシャルリュスのモデル) がパトロンとなった、『聖セバスチャンの殉教』のゲネプロに出かけている。これは、ドビュッシー(1862-1918) の音楽によって、20世紀を代表する女性ダンサーの一人となるイダ・ルビンシュタイン(1880-1960) が踊るというものであった。同年6月、リムスキーの音楽による『サトコ』が初演される。プルーストがこの作品を観た形跡はないが、彼の小説にしばしば現れる「水族館」のイマージュはこの作品から来たのではないかとする研究者もいる。
 1912年には、プルーストの生涯の親友でありおそらく同性愛の相手であったレイナルド・アーン(1875-1947) が音楽を書いた『青い神』が初演される。だがこの年のロシア・バレエの最も重要な作品は、ドビュッシーの音楽に基づく『牧神の午後』であろう。これに主演して一躍有名になったニジンスキー (1890-1950) とプルーストについて、モーリス・ロスタンが次のような回想を残している。「ニジンスキーは当時の神様でした。彼は一度ならず、プルーストや私と一緒にラリュの店に夜食を摂りに来ました。化粧を落とし三脚台から降りるや、彼は夢見るロシアの不良少年に戻っていたのです ! ある夜私達は、より伝統的な観客の大騒ぎをよそに、『牧神の午後』を完全に繰り返させました。その中でニジンスキーは、天才をドビュッシーのそれに付け加えながら踊ったものです !」。
 1913年5月22日にプルーストは『ボリス・ゴドゥノフ』を観ている。続く5月29日は、ストラヴィンスキーの音楽による『春の祭典』が初演されている。大きなスキャンダルを巻き起こしたこの初演にもプルーストは行ったというのが通説となっているが、確たる証拠はない。
 1914年5月、リヒャルト・シュトラウス (1864-1949) の音楽による『ヨゼフの伝説』が初演される。
プルーストが観た証拠はやはりないが、『失われた時』第6編『消え去ったアルベルチーヌ』に次のような興味深い言及がある。ヴェネチアで観たカルパッチョ (1465頃-1525頃) の絵が主人公にこのバレエを思い起こさせるのだ。
 

 私は、『悪魔に憑かれた男を治癒するグラドの総主教』を初めて観ているところだった。私は肉色と紫色の見事な空を眺めていた。その空を背景にして、そこにはめ込まれた背の高い煙突が何本も浮き上がり、ラッパの様に開いたその形は赤いチューリップが咲いたようで、ホイッスラーの描いた多くのヴェネチア風景を思わせる。次いで私の目は、木造の古いリアルト橋や十五世紀の「ポンテ=ヴェッキオ」から、金色の柱頭彫刻で飾られた大理石の館に移り、さらに運河へと戻ったが、その運河ではバラ色の上着を着込んで羽根飾り付の縁なし帽をかぶった若者達が小舟を操っており、彼らはセール、シュトラウス、ケスラーによるあの煌びやかな『ヨゼフの伝説』の中で、文字通りカルパッチョを思い出させたある人物に、取り違える位に似ているのであった。


1914年にこの他プルーストが観たものとしては、アンデルセンの童話に基づいてストラヴィンスキーが作った『ナイチンゲール』、リムスキーの『金鶏』がある。
 第一次世界大戦が開戦すると、ロシア・バレエの活動は当然ながら縮小を余儀無くされる。1915年にはイギリス赤十字のための1回の公演が行われたのみであり、1916年には一切の活動が休止した。しかしながら1917年5月には、ロシア・バレエの作品の中で最も前衛的なものの一つである『パラード』が初演される。これはコクトー (1889-1963) が梗概を書き、ピカソ(1881-1973) が美術を、サティ(1866-1925) が音楽を担当したものである。プルーストは感想をコクトーに次のように書き送っている。
「もし今日、これほどの発作に襲われなかったら、あなたに ── そしてピカソ氏のために ──、『神に非難を向けるかのように』踊る理解されない軽業師の白い玉縁飾りの付いた日曜日の青色が、私のうちに倦むことなく誘発するくしゃみと憂鬱について語りたいのですが。私はそんな物悲しい気分で生きているのです。」『パラード』と同時に上演された作品に『ラス・メニナス』がある。これはプルーストに大きな影響を与えた作曲家フォーレ (1845-1924) の『パヴァーヌ』に基づいている。なおこの曲の合唱部分のテクストは、ロベール・ド・モンテスキューが書き、グレフュール夫人に捧げられたものである。
 1918年には再び公演は全くなかったのだが、プルーストはロシア・バレエを通して発見したボロディン (1833-87) の弦楽四重奏曲第2番を聴くために、ドイツの大型爆撃機による空襲を押してまで外出している。
 しかしながら、第1次大戦後、自らの小説に没頭するプルーストは、ロシア・バレエについてほとんど言及しなくなる。戦後の公演は全く観ていないようである。従って、1921年初演の『道化師』によって、20世紀のロシアを代表する作曲家の一人、プロコフィエフ (1891-1953) を発見する機会を逸したのだ。1922年のプルーストの死から7年後、1929年8月にディアギレフが亡くなり、彼が率いたロシア・
バレエは、実質的には終焉を迎えることになる。
 

II. 反ドイツ、反ワーグナーとしてのロシア・バレエ

 19世紀後半から20世紀前半にかけて、ヨーロッパ各国でナショナリズムが台頭した。ここで注目したいのは、フランスにおいてはナショナリズムが、特に反ドイツという形で顕在化したということである。そして、地理的にドイツを挟んで利害を共有していたフランスとロシアは、協力してドイツと対抗していくことになるのだ。こうした流れを年表にしてみると、次のようになる。

1870-71     普仏戦争 (スペイン王位継承問題を直接の契機として、プロ
            シアを主とするドイツ諸邦とフランスの間に起こった戦争。
            ドイツの大勝に終わる。)
1894        露仏同盟成立。
1894-1906  ドレフュス事件 (ユダヤ系軍人アルフレッド・ドレフュスが機      密書類をドイツへ売却した嫌疑で逮捕されたことから始ま               る、当時のフランスの国論を二分した事件。)
1896       ロシア最後の皇帝となるニコライ二世がフランスを訪問。
1907        英仏露三国協商成立。
1914-18     第1次世界大戦 (1914年7月のサラエボ事件を受けてオースト
            リアがセルビアに宣戦。
            ドイツは、セルビアを後援するロシアに対抗して、ロシア、             フランス、イギリスと相次いで開戦。1918年11月にドイツ降
            伏。)

 一方、芸術の世界においては、19世紀後半のヨーロッパはワーグナーの音楽の絶対的な影響下にあったといえよう。特にフランスにおいては、専門の音楽家のみならずボードレールやマラルメといった文学者も巻き込んで、「ワーグナー主義」≪wagnerisme≫が起り、1880年代後半にはワーグナー専門の雑誌『ワーグナー評論』Revue wagnerienneが刊行されるほどであった。しかしながら、先に述べた反ドイツ的風潮が高まった時、ゲルマン精神の権化として槍玉に挙げられたのが、まさにワーグナーであった。かくして、この時代の芸術家にとって、ワーグナーの影響からいかに脱するか、そして彼に代表されるドイツ的美学に取って代わり得るものを何処に求めるかということが、危急の問題となったのだ。
 その具体的な例として、ドビュッシーとムソルグスキーの関係を取り上げてみよう。『失われた時』第5編『囚われの女』に、この二人の作曲家のオペラにおけるレチタティーヴォを、パリの街角の行商人の呼び声と比較した有名な一節がある。
 

各種の商人が、もっとも行商だが、高貴なゲルマント邸の前を通りかかるので、時にはむかし教会全盛当時のフランスを偲ばせるのだった。というのは、近所の小さな家並に向かって行商の上げる愉快な呼び声には、ごくわずかな例外を除くと、どこにも普通の歌らしいものがなかったからだ。『ボリス・ゴドゥノフ』や『ペレアスとメリザンド』の朗唱 ── ほとんど感じられぬ程の転調でかすかに彩られる朗唱 ── と同様に、歌とは似ても似つかぬものだった。
だがまた一方、これは礼拝式の際に神父の歌う聖歌を思わせる。通りの情景はいわばこの礼拝式の素朴で縁日風なコピーに過ぎないが、それでもやはり半ば礼拝式めいた厳かなところを持っているのだった。[中略]このように静かな界隈では[中略]、あの『ボリス』の非常に庶民的な音楽、一つの音が変化して他の音に移っても、出だしの響きはほとんど変わることのないあの群衆の音楽 ── 音楽というよりむしろ群衆の言葉 ── と同様に、民衆のレチタティーヴォがめいめい異なった転調を示しながらはっきりと聞こえてくるのだった。たとえば「ええ、タマキビ貝 ! タマキビ貝がただの二スウ !」を聞くと、人はどっと袋の方へ押しかける[中略]。
カタツムリ売りの場合もやはりムソルグスキーのほとんど叙情性を欠いた朗唱を偲ばせるが、しかしそれだけではない。というのは、まるで「しゃべる」ような調子で、「カタツムリィ、新しいよお、きれいだよお」とやった後で、メーテルランク風の悲哀と曖昧さをドビュッシーが編曲したような調子で、ちょうど『ペレアス』の作者がラモー風になってゆく沈痛なフィナーレの一つ[中略]における如く、カタツムリ売りは歌うような憂愁を込めて付け加えるからだ。
「一ダース六スウにおまけ……」


 実は、ドビュッシーとムソルグスキーのこのような類縁性は、プルースト独自の発見ではない。むしろプルーストの時代にあっては繰り返し指摘されたものである。ドビュッシー自身、1901年4月の『ルビュ・ブランシュ』に掲載された記事で、ロシアの作曲家に次のような賛辞を送っている。「これまで誰も、より優しくより深い抑揚を持って、私達の内にある最良のものに語りかけたことはなかった。[ムソルグスキーは] 比類のない存在であり、型にはまったやり方や無味乾燥な常套表現を持たない彼の芸術によって、そうであり続けるだろう。」1908年6月、『メルキュール・ド・フランス』の音楽評論家ジャン・マルノルドは、『ペレアス』の先駆的作品としての『ボリス』という点を強調する。「『ペレアスとメリザンド』の演劇的方法のすべては、すでに『ボリス・ゴドゥノフ』の中に、4分の1世紀前に存在している。そして、この方法と共に、形式や常套表現から解放された新しい叙情性が存在している。それは、類似した感性によって表現され、自然で奇跡的なまでに革新的な和声によって、より近いフランス人においてひとりでに花開いたのだ。」
 しかしながら、ドビュッシーとムソルグスキーのこのような結び付けは、エドワード・ロックスパイザーが以下に指摘するように、純粋に音楽的な見地からなされたと言うよりも、先に述べたドイツ的ワーグナー的美学に代わり得るものを求めるこの時代の欲求から発したもののように思われるのだ。「ドビュッシーとムソルグスキーのいわゆる類縁性については、際限なく書かれてきたが、それは私達には誇張されているように思われ始めている。[中略]時が経ってみると、ムソルグスキーがフランスで得た高い評価は、大部分は、『反ワーグナー』を発見したいという欲求に由来していたと断言出来るように思われるのだ。」
 この時代のパリでロシア・バレエが大成功した背景にもまた、こうした社会的文化的コンテクストがあったのだと言えるのではないだろうか。
 

III. 芸術的「前衛」としてのロシア・バレエ

 「前衛」≪avant-garde≫という軍事用語が芸術の分野で初めて用いられたのは、19世紀末、後期印象派についてであった。過去の伝統の徹底的な否定をモットーとするこの傾向は、やがて20世紀の美学を支配して行くことになる。プルーストは、まさにこの前衛の誕生の時代を生き、ジョイスやカフカと同様に、後世の読者にとって文学におけるその先駆者とみなされるようになるのだ。一方ロシア・バレエは、多くの前衛の担い手達に活動の場を提供した。すなわち、先に見たように、ベル・エポックの文学界の寵児たるコクトー、サイレンやタイプライター等の楽音以外の音響を取り入れたサティ、『ペレアス』で20世紀フランス音楽の出発点を示したドビュッシー、古典音楽において軽んじられていたリズムを前面に押し出したストラヴィンスキー、キュビスムを創始したピカソ等が、ロシア・バレエを通して広く知
られるようになったのだ。ニジンスキーもまた、『春の祭典』の生贄の乙女に、古典バレエとは全く逆向きの足のポーズを取らせることで、伝統の否定を象徴的に表し、ロシア・バレエの前衛性を宣言したと言えよう。
 ところで当時、芸術における前衛を支持していたのは、一部の進歩的な貴族を除けば、主として新興ブルジョワ層であった。この時代、政治的経済的にはすっかり支配力を失っていた貴族層が、その主権を最後まで守っていたのは文化芸術の領域である。そんな貴族が拠り所とする伝統に対し、ブルジョワはまさに伝統の否定を主張する前衛を武器として突き付けたのだ。『失われた時』の中で、芸術を手がかりに社会的地位の上昇を狙うブルジョワの典型として登場するのがヴェルデュラン夫人である。彼女は、第5編『囚われの女』において、ロシア・バレエの実在の最大の後援者ミシア・エドワーズ (1872-1950)をモデルとするユールベレティエフ大公夫人と並んで、ロシア・バレエの「全能の仙女」として、次のように登場するのだ。
 

観客の好みが、ベルゴットのように理性的でフランス的なものから変わって、特に異国的音楽に夢中になって以来、あらゆる外国人芸術家のための自他ともに許すパリ連絡員とでもいったところのあるヴェルデュラン夫人は、魅惑的なユールベレティエフ大公夫人と並んで、やがてロシア・バレエの踊り手達のために老仙女キャラボスの ── だが全能の仙女の ── 役を務めることになる。ロシア・バレエのこの魅力的な侵入 ── この誘惑に抗議したのは目のない
批評家だけだった ── それは人も知る如くパリに激しい好奇心をもたらした。ドレフュス事件のように刺々しくはなく、もっと純粋に美的なものだが、しかし同じように強い好奇心をもたらしたのである。そしてこの時もヴェルデュラン夫人は、社交的な意味での結果こそ大違いだが、やはり最前列を占めることになる。かつて重罪裁判所の法廷で、判事席のすぐ足下にゾラ夫人と並ぶ彼女の姿が見かけられたように、ロシア・バレエに喝采を送る新しい時代の人達
が先を争ってオペラ座に殺到した時、いつも二階ボックス席の一つにユールベレティエフ大公夫人と並んで、見たこともない羽根飾りをつけたヴェルデュラン夫人の姿が目につくのであった。丁度以前に裁判所での興奮の後、夜はヴェルデュラン夫人の邸で近々とピカールやラボリに接し、また特に最新ニュースを聞いて、ジュルランダン、ルーベ、ジューオー大佐、〈軍規〉等から何が期待出来るかを知ったように、今では『シェエラザード』や『イーゴリ公』の踊りで熱狂をかき立てられた後に、帰って寝る気にもなれない人々はヴェルデュラン夫人の邸へ行く ── と、そこではユールベレティエフ大公夫人と〈女主人〉の主宰する見事な夜食の会が用意されて、身軽に跳躍出来るようにと夕食を抜きにした踊り手達、指揮者や舞台装置家達、イーゴリ・ストラヴィンスキーやリヒャルト・シュトラウスのような大作曲家達を毎晩のように集めており、またこのいつも変わらぬ小さな核の周囲には、エルヴェシウス夫妻の夜食の会のように、パリ最高の貴婦人達や外国の妃殿下達も好んで加わるのだった。社交界の人々の中でことさら目が肥えていることをひけらかす連中、同じロシア・バレエの中にも暇にあかせてあれこれと差別をつけ、『レ・シルフィード』の演出は『シェエラザード』よりもどこか「凝った」ところがある、きっとニグロ芸術からきたものだろう、などと言い出しかねまじき連中も、おそらく絵画に比べて幾分人工的なこのバレエという様式において絵画の印象主義と同じような根本的な変革を成し遂げた人々、人間の好みと演劇とを一変させたこれら偉大な改革者達を目の前に見て、うっとりするのだった。
このように、ヴェルデュラン夫人にとってロシア・バレエの前衛性は、貴族達の好奇心を惹き、そのスノビスムを刺激するための都合の良い道具にしか過ぎないのだ。
 ところでプルーストは、20世紀小説の原点である『失われた時』を書いた。ところが、興味深いことに彼自身は、前衛の信奉者に特徴的な「新しさ」というものに対する強迫観念をほとんど持っていなかったのだ。それは、ロシア・バレエに対する彼の態度にも表れている。彼に最も深い印象を残したのは、20世紀芸術の金字塔となるような『牧神の午後』や『春の祭典』、『パラード』ではなく、19世紀の作曲家リムスキー=コルサコフの音楽に基づく『シェエラザード』だったのだ。
 

 ロシア・バレエは1910年代のパリに突然咲いた異国の花であった。しかしながら、それが花開くことになった背景には、一方で反ドイツ反ワーグナーという社会的文化的コンテクストが、一方で前衛の誕生が存在していたのだ。プルーストはこの異国の花を愛ではした。しかし、すでに自らの方法論を確立し小説に没頭し始めていた彼に大きな影響を与えるには、それは少しばかり遅咲きの花であった。
 


おろしゃ会会報第6号
2001年4月8日発行



発行
愛知県立大学おろしゃ会
代表 平岩 貴比古
(愛知県立大学文学部日本文化学科3年)
〒480−1198 愛知郡長久手町熊張茨ケ廻間1552−3
学生会館D-202

発行責任者
〒480−1198 愛知郡長久手町熊張茨ケ廻間1552−3
     愛知県立大学外国語学部 加藤史朗
電話0564−64−1111 ファクス0564−61−1107
e-mail kshiro@hi-ho.ne.jp
http://www.for.aichi-pu.ac.jp/~kshiro/orosia.html



 
 

おろしゃ会ホームページに戻る