「おろしゃ会」会報第7号その1


2001年10月8日発行

はじめに
                                
6月23日(土)・24日(日)に東京外国語大学の調布新キャンパスで開かれた「市民学会」は、今まで全く別々に活動していたロシア関連学会が大同団結をして開いた未曾有の規模の学会である。会場には500人を上回る聴衆が集まった。愛知県立大学からも非常勤講師の田辺三千広さん、スヴェトラーナ・ミハイロワさん、学生の鈴木夏子さん、平岩貴比古さんが参加。私は、初日は、大阪における教え子の結婚式に出席したため、参加できなかったが、「交流団体・NGOの活動」というセクションで、田辺先生と平岩君が「おろしゃ会」を代表して発言した。おろしゃ会の活動の目安として次のような見解を述べてもらったので、ここに掲載する。

(1)日本に最も近い巨大な隣国ロシアに無知・無関心ではどうしようもない。素直にロシアと向き合     おう。ソ連の崩壊は、イデオロギーの束縛から離れ、自由にロシアと向き合えるチャンスをもた      らした。
(2)ロシアに対する関心の持ち方は多様であり、どんなものであってもこれを尊重する。
(3)日露友好を目的とはしない。国家の枠組みでものを考えない。交流団体とは一線を画す。
(4)これまでの日露関係の歴史は勉強するが、それに囚われることはしない。
(5)素直にロシアと向き合うには、ロシア語を出来るだけ習得しなければならない。
(6)会自体の存続や発展を図らない。

8月 田辺三千広先生と一緒に二年ぶりでロシアに行ってきた。8月15日から19日までは、シベリアの都市クラスノヤルスクを訪問、愛知県県会議長高橋則行氏を団長とする「日本とロシアの友好親善をすすめる愛知の会」の一員としてクラスノヤルスク市長との会談、シベリア抑留者の墓前祭などに参加した。8月19日から21日まではモスクワに滞在し、日本大使館河東公使への表敬訪問、モスクワ市の副市長との会談、21世紀委員会との懇談などに臨席した。こうしたミッションの一員として訪ロするのは、1993年9月に青森県の県会議員や商工会議所の一団とサハリンへ行って以来である。この時は、みちのく銀行の頭取(現会長)大道寺小三郎氏の招待を受けたものであり、気楽な旅であった。しかし今回は、私も発起人の一人として名を連ねている「愛知の会」発足を記念したミッションであり、応分の責任を負うべき旅となった。8月9日に発足した同会は、自民党、民主党、公明党などの県会議員、ビジネス、マスコミ、文化、シベリア抑留者遺族の会など多方面の人々からなっている。目的は、日ロ平和条約の早期締結をめざそうとする「21世紀委員会(日ロ友好フォーラム21)」(ロシアが側の立て役者の一人がルシコフ・モスクワ市長、日本側の立て役者の一人が先日亡くなられた末次一郎氏)の活動を地方レベルで支援することである。
 『論語』に「巧言令色すくなし仁」という言葉があるが、こうしたミッションに参加すると浮かび上がる言葉である。ミッションには「巧言令色」が付き物である。セレモニーの要素が大きな位置を占め、「巧言令色」はむしろ必要不可欠の要素なのだ。モスクワ市庁舎におけるモスクワ市当局の我々の迎え方には、ある種の完成された形があり、歴史と文化の厚みを感じさせる実に堂々たるものであった。会談の場となった白で統一されたホールは、歴代モスクワ総督が執務した部屋に隣接していた。玄関への送り迎え、お茶のサービス、モスクワ市の現況に関する率直な説明、いずれをとってみても貴族文化の練度の高さという他ないものであり、圧倒的な印象を受けた。日本には幸か不幸かこうした貴族文化の伝統はない。外国において困難に直面したとき、日本大使館はあてにならぬという風評がある。外交官は国内では巧言令色にして拳拳服膺、いったん国外に出ると、同国人に対しては傲慢不遜にして敷居が高いなどとも言われる。だがそういう風評には、二重の側面がある。国外に出るとにわかに「主権者」意識が芽生える国民性の問題も考慮にいれなければならない。
 威厳を示すことと威張ることとは、現象的に見れば、紙一重の差ながら、そこには「仁」の多寡において圧倒的な違いがあると言うべきだろう。尊厳とか威厳という言葉に示される価値観は、あくまで個人の業ではあるが、それを育み尊重しようとする伝統のなかでしか成り立っていかないものだ。自己形成よりも自己実現を優先する社会では、無理な業である。そうした社会では、汚い例えで恐縮だが「目くそ鼻くそを笑う」という構造を払拭できないからだ。
 みちのく銀行の大道寺氏に感じた威厳を、今回は団長の高橋則行氏に見出すことができ幸運であった。県議の長老として既に70歳を越しておられるが、長年にわたって、日本では極めて不評なソ連・ロシアと交わり、未だ国交のない北朝鮮にも赴かれている。しかし氏に感じた威厳は、そうした政治向きのことからではない。多様な人々からなる20人の代表団を束ねるだけではなく、さらに多様なロシア人ともテーブルを囲む団長の仕事は、「すくなし仁」では成り立たない。ミッションには「巧言令色」の要素が不可欠であるがゆえに、逆に個々人における「仁」の多寡が際だつのだと実感した。クラスノヤルスクで一行の世話をしてくれたマリーナ・ロマーエヴァが、国際交流基金の招きで9月初旬に来日した。若く美しく謙虚である彼女は、小父さんたちの夢を育む存在だ。多忙な彼女を一日、名古屋に招き、歓迎と再会の宴が出来たのも、高橋氏のお力添えによるところ大である。惚れっぽい割に相手との感性の差にすぐ辟易としてしまう私は、あまりにもエゴセントリックであり、幾重にも反省せねばならないと感じた。
 一行と別れた後、田辺さんとモスクワにさらに続けて4泊した。一番の目的は、故コンスタンチン・ヴォリャークの遺族を弔問し、彼の墓参りをすることであった。コースチャは、先に逝った長男の横で、ひっそりと眠っていた。愛別離苦は生老病死の一番の友だ。エセーニン、ヴィソツキイ、オグジャヴァなどの眠る墓地では、老辻音楽師がトランペットでガリ・ガリ・マヤ・ズヴェズダを奏でていた。いつ聞いても哀切極まりない曲である。

9月 恐るべきテロ事件に動揺、言葉を失い、会報7号の発行が遅れる結果となる。あの衝撃的な映像の後、NHKは、終夜「同時多発テロ事件」についての情報を流しつづけている。眠られぬ夜が続いた。痛ましさ、不安。崩れ落ちる世界貿易センタービルの映像は、心中のストゥーパをも揺さぶった。「人は精神的に高揚している時ほど、エゴイストになることはない。Человек никогда не бывает таким эгоистом, как в минуту душевного восторга.」(『コサック』)というトルストイの言葉を思い浮かべ、テロリストを呪った。だが、その後のアメリカの反応を見ながら、別の不安にとらわれ、バートラム・グロスの『フレンドリー・ファシズム』(邦訳『笑顔のファシズム』日本放送協会出版)という本のことを意識した。この本は80年代の半ばに出版され、当時、共感をもって読んだものだ。アメリカ発の潮流にフレンドリー・ファシズムの兆候を感じていたのだが、事件後の米国大統領の「アメリカの友か、テロリストの友か」という発言には、まさにフレンドリー・ファシズムの極致を見る思いがした。トルストイの言葉にアメリカも耳を傾ける必要がある。報復が喧伝される中で、こういうことが言いたかったのだと思わせる文章に出会った。会報に連載を寄せていただいている左近先生の「目には涙を!テロにはヘテロを!」という文である。下記サイトに掲載されているので、ぜひお読みいただきたい。

http://www.palfan.co.jp/ikari/ikari02.htm

  左近先生をはじめ、今回も様々な方々からご寄稿いただいた。早坂氏には、現在のロシア・スラヴ研究が陥っている隘路からの脱却を目指す提案をしてもらった。氏は、11月下旬に県立大学教員組合の講師として、来校予定である。また『ロシア人・日本人』(2001年ボロンテ刊)の著者、ニコライ・ドミィトリエフ神父は明晰なロシア語で書かれたメッセージを寄せて下さった。新潟大学のサヴェリエフ氏からは、達者な日本語のメッセージをいただいた。在野の研究者・岩田さんが寄せて下さった文には、学ぶ情熱と喜びが溢れていて、刺激的だ。その他、一人一人のお名前は割愛させていただくが、寄稿者の皆様に、心より感謝の意を表したい。          
                                                          2001年10月6日 加藤 史朗


  スラヴ研究の新展開に向けた
ストラテジー

JSSEES年次大会(法政大学、12月1日)への提言

                   早坂真理

                       東京工業大学大学院
                           社会理工学研究科、教授        


はじめに

 いま日本社会では教育改革が姦しく叫ばれている。大学教育の大綱化を経て、平成7年にはすべての国立大学で教養部が消滅し、学部再編、大学院重点化などが実施され、そしていま独立行政法人化を目前に控え、教育のあり方が根本的に問われてきている。文科系のなかでもマイナーな部分とみられてきたロシア・スラヴ研究の将来を、ここで冷静に見直すことも無駄ではあるまい。
 大学教育におけるスラヴ研究とは何であったのか。基礎教育なのか、自立した専門性をもつ分野なのか。旧帝大系では長い間ロシア語を外国語教育のカリキュラムに組み込むことはなかった。ロシア研究は帝政ロシアが列強とはいえ後進国とみなされたために学界では認知されず、またロシア語教育もロシア革命後のコミンテルンと対決する戦略上から冷遇された。戦前は早稲田大学のような私立の教育施設、もしくは国策に拠る教育機関、東京外大と大阪外大、そのほか関東軍内教育施設とかハルビン学院のようなところで、いわば周縁領域で実施されていたにすぎない。第二次大戦後になって北大文学部と東大文学部にロシア文学科が設けられ、またスプートニクショックによる旧ソ連の科学技術に圧倒されて、ようやく各大学の教養課程にロシア語教育が設置されるようになった。だがそれは旧ソ連と対峙する西側陣営の国策に規定された面も否定できず、北大に設置されたスラブ研究センターもそうした役割を担っていたのである。1956年のハンガリー動乱やスターリン批判を機に発足したロシア史研究会や、1974年に発足した東欧史研究会などの活動を通じて、1989年の一連の東欧革命や1991年末のソ連崩壊という世界史的大事件に触発されて一時期とはいえロシア語人気が高まったが、その後は受講生数の減少はとどまるところを知らず、ロシア語教育そのものが衰退していった。基礎としての語学教育が衰退すれば、当然ながらその上に構築されるべき専門教育も崩壊せざるを得ない。若い世代の関心が多様化しているせいもあろうが、旧ソ連関係を専攻してきた諸分野が存在理由を失いつつあるのが現状ではないか。
 理由はいくつかあり、インターネットの爆発的普及と経済のグローバリゼーションは誰も予想さえしなかったとはいえ、そのことだけが理由ではあるまい。学界に蔓延する専門分野の固定化、排他性等々、枚挙に暇がないほどの否定的な要因を指摘できるのはいまにはじまったことではない。蛸壺化の弊害は、専門課程にかぎらず基礎教育の面にも及び、カリキュラムの硬直性に顕著に現れている。学界発表をみても「教育」に目を向けた企画は少ない。自己の専門性を誇示したり、宣伝するだけの傲慢な発表がやたら目につくといったら言い過ぎであろうか。学界活動とは、次の世代を育成し、そのための方略を提案する場でもあるはずだ。JSSEESは昨年度(2000年11月、京都)のシンポジウムにおいて、地域研究としてのスラヴ研究のあり方を問うシンポジウムを企画した。今年の企画もその一環である。地域研究として自立可能なのか、明確な結論は得られなかったが、議論を継続していく必要性は参会者すべてが理解したと確信する。大学教育、とくに教養教育が危機に瀕する中で、近年のスラヴ研究を取り巻く学界状況を私なりに総括し、いくつかの提言をしてみたいと思う。

インテリゲンツィア論は復権するか

 教育行政の分野で著名な天野郁夫氏の提言を紹介しておこう。氏によれば、教養教育の理念とは、四つのC、すなわちcreativity(創造性), continuity(持続性), critical thinking(批判的思考), communication(対話能力)の育成に集約されるという。平成7年の教養部廃止をめぐっては、戦前の旧制高校の理念を復活させるべきだとか、教養部廃止そのものが失敗であったとする種々の議論が沸き起こったが、天野氏はすべての議論を論外と斥ける。私は氏の主張を新しい提言と受け止めたい。文科系の教員は自宅研修と称する特権を享受し、いままでは週三日程度の出講で十分とする既得権に安住できた。しかし、学生に対するサービスという観点からみると、月曜日早朝からから金曜日夕方まで勤務し、日々学生のケアに専念しなくてはならないのはいうまでもない。教育とは、何も知識だけを教え込むことではない。学生の日常生活の細々とした面倒をみることも大きな業務である。少子化や高齢化社会に対応した教育プログラムを作らなくてはならないとすれば、入学してから就職・進学先の世話に至るまできめの細かい配慮をしなくてはならない。全人格的な教育とは、生涯教育を視野に収めなくてはならず、偏った専門性をもった知識を教え込むことではない。かつての教養部にはこうした努力が決定的に欠けていたのである。
 天野氏が挙げた重要なキーワードのひとつ「批判的思考」は、ロシア思想史研究者ならば周知のことで、一昔前に「インテリゲンツィア論」として一世を風靡したテーマであったではないか。1970年代初の大学紛争の際に、このテーマにこだわったのは私一人ではなかった。天野氏の提言はもちろん現在の大学改革を念頭に置いてのこととはいえ、私なりに再解釈しつつ、70年代初頭のインテリゲンツィア論への関心とを重ね合わせてみたいと思う。「批判的思考」は、いつの時代でも若い世代の現状批判の活力源としてその拠所を歴史や思想に求め、当然視されたものである。私自身のロシア近代史研究の出発点も、まさにそうであった。1860年代初頭の農奴解放を契機に近代化の道をまっしぐらに歩むツァリーズム官僚層とそれに真っ向から挑戦した革命的インテリゲツィアの営為は、同じく近代化に邁進する明治政府に果敢に挑戦した自由民権派の試行と重なるところが多く、大正・昭和期を通じて日本の青年知識人層を魅了し続けてきたものである。近代ロシア史のハイライトともいえるインテリゲンツィア論を通観すると、根無し草のようなゲルツェンやバクーニン等に代表される1840年代までの貴族的インテリゲンツィアとちがい、農奴解放後の1870年代のインテリゲンツィアの環境は、直接に農民啓蒙運動に専念できた点で大きく異なっていた。後進的ロシア社会にも社会参加の機会の拡大、すなわち大衆社会が訪れたことの証である。  
 われわれはインテリゲンツィアという言葉をロシア語から学んだ。しかし、起源をたどると、はじめてこの言葉を用いたのは、1840年代のプロイセン領ポーランド(ポズナン地方)に勃興した「国民哲学派」であった。ナポレオン戦争期にいち早く農民解放を実施し、資本主義化の道を歩みだしたプロイセン領ポーランドでは、地主を主体とする知識人層のあいだから資本主義化の進行がゲルマン化を加速するとの警戒心から、ポーランド自身が様々な職種へ就業する必要が主張されたのである。国民哲学派が造語したインテリゲンツィアという言葉は、ポーランド人が知識・技能を身に付けて職業人として社会参加の範囲を拡大すること、そうすることによってポーランド人社会が自立することを意味していた。ロシア語でこの意味内容に合致するようになったのは1870年代以後のことで、デクラッセした地主の子弟が地方自治団体(ゼムストヴォ)へ就職するようになる、資本主義化の道を歩みだした時代に相当する。だが、同じ時期に展開されたナロードニキ運動や革命的テロリズムの劇的な反体制派運動に目が奪われ、平和裏に、あるいは静かに進んだ社会参加の方はそれほど注目されなかった。
 むしろこうした平和的で静かな志向は、同じ時期のロシア領ポーランドで顕著にみられた。一月蜂起(1863?64年)の敗北後の挫折感の漂う中で、帝政ロシアの官吏などへ就業する道さえ閉ざされたポーランド王国の知識人は、ロシア化の圧力が一層強まると、「有機的労働」とか「基礎からの労働」をスローガンに掲げ、蜂起路線に拠る国家再建の道を断念し、ここに大衆の社会参加をもってポーランド的固有性の確保をめざすワルシャワ・ポジティヴィズム運動が誕生した。政治に対する強烈なペシミズムを特徴とするこの運動は、ポーランド近代史において重要な意味をもった。帝政ロシアの官僚機構から疎外されながらも、積極的な社会参加を通して、すなわち科学技術の振興、職業人の育成という観点から学校教育の充実などが図られていった。近代ロシア史が政治的テロリズムに収斂していったのとは対照的であった。このようにインテリゲンツィアという言葉は、その意味内容においてロシアとポーランドとで大きな差がみられた。
 インテリゲンツィア論は1970年代の日本では積極的な意味をもって研究されたが、その後の高度成長とバブル期にかけて豊かな社会の到来とともに消え失せてしまったようである。若い世代の関心を惹くこともなく、いまや学会発表や研究会報告の論題に取り上げられることさえ少なくなってしまった。

 
研究方法は劇的に進化する

 1970年代初頭に大学院に入ったひとりとして、ここで自分の依拠してきた研究方法を回顧し、紹介するのも無駄ではあるまい。当時はゼロックスのような文明の利器はなく、そもそもコピーという概念すら希薄であった。ゼミ教材を作るのにアンモニアの匂いのするコピー機を使用し、苦労の絶えない毎日であったことを思い出す。ロシア史関係の資料が乏しい以上、必要文献を図書館の参考係でアメリカの議会図書館へコピー複写を依頼し、あるいは取り寄せたマイクロフィルムを複写して作った非常に劣悪な印刷状態の史料を読まねばならなかった。それほど史料に渇望していたわけで、逆説的ではあるがそれだけ入手した史料を精読し、史料に愛着を抱くこともできたのである。当時は資料収集の方法としてマイクロフィルムに頼ることが多かった。私が専攻した歴史学(西洋史)の分野では、「文献学」を重視する明治以来の東大本郷の実証史学の伝統が強く、ドイツの実証史学の強い影響の下に研究するスタイルが確立されていた。精緻な研究態度はもちろん大切なのだが、ドイツ国法史学の分野が強過ぎ、さらにいえば先進国の模範たるドイツ、フランス、イギリスの歴史のみが優先され、後進的なロシアや、ましてや弱小スラヴ諸民族の歴史などは研究に値しないとさえ扱われたのである。そうした傾向に反発して生まれたのが東欧史研究会であった。
 こうした傾向は徐々に変化し、フランスのアナール派等の影響を受け、文献学を補強する領域の開拓がめざされるようになり、感性(心性)の歴史とか社会的結合を対象とする、社会学や文化人類学の手法を取り入れた研究が現れはじめた。文献学に加え、社会調査法やフィールドワーク型の方法が歴史研究にも導入され、文字化されていない資料の探索が試みられるようになった。文書館に所蔵されている手書史料などの未刊行史料の探索も歴史研究の課題とされるようになった。現地史料の探索に熱中し、あるいは生き甲斐を感じ、競い合う研究者が溢れ、われ先にと海外の大学等の研究機関に出かけていったのが70年代末-80年代初のことであったと思う。それだけに外国語の習得、それもマイナーな言語の習得に汗水たらし、体力を消耗するフィールドワーク、参与観察の成果を競い合う時代に突入したのである。私自身を振り返ってみても、当初の文献学的史料調査・研究スタイルを変え、1992年4-5月には体制崩壊後のソ連から分離独立したウクライナ、クリミア地方を旅行し、「歴史の復元を模索する」という視点から現地でインタヴュー調査を実施した。その延長上に1996年7月-1998年1月にかけて実施したリトアニアの寒村での農村調査を踏まえ、文献学ではカバーできない領域を開拓できたと自負している。
しかし、1990年代に至り、コンピュータの著しい発達によって社会計測の方法が確立しつつあるなかで、従来型の文献学的手法はおろか、フィールドワーク型の体力消耗型の研究手法にもほころびが目立つようになってきた。社会計測の方法としては、歴史学にかぎってみると、歴史人口学の分野がいち早く確立したが、そのほかの分野まで導入されることはなく、教育カリキュラムに取り込まれることもなかった。政治学や心理学などの領域では計量分析の方法は選挙予測などの面ですでに幅広く応用されており、データに依拠する歴史学においてこそ計量系の分野は導入されやすいはずであるが、残念ながら、学会としての取り組みはなされていない。歴史学はいまなお「解釈」に力点が置かれがちである。地味な分野である史料学を発展させ、データベース学として確立される道が残されていることを提案しておきたい。それとともに、情報環境の変化に対応したカリキュラム改編を行い、情報機器を利用した教育方法の改善も試みられなくてはならないだろう。

情報系の展開から近代史を俯瞰する

 現代がグーテンベルクの活版印刷以来の転換期という見方は、一般に広まっている。東欧スラヴ研究を志して以来30年近く経ち、文献学、フィールドワークへと領域を広げ、そしていまコンピュータの利用に四苦八苦しているわけだが、情報環境の進化の観点からスラブ研究に取り組む意味が最近理解できるようになった。このことについて以下述べてみよう。
 1992年11月にベラルーシの古都ポーロツク市を訪れた際、この地で生まれたフランツィスク・スコリーナの印刷博物館を訪問する僥倖に恵まれた。恥ずかしい話、そのときまでスコリーナという人物についてまったく知らなかった。スコリーナが生まれたポーロツク市は、ルネサンスが東スラヴ地域にまで及んでいたことを示す証拠である。キエフ・ルーシの遺産を引き継いでいるとはいえ、13世紀末から急速に発展し、東スラヴ地域の覇者となったリトアニア大公国が隣国ポーランド王国と連合関係に入り、ポーランド経由で西欧文化が流入した結果である。グーテンベルクが1455年に活版印刷術を開発して以来、ヨーロッパ各地に技術は急速に広まり、固有の民族言語の活字化に貢献したことは広く人口に膾炙されている。スコリーナはポーランドの首都クラクフのヤギェウォ大学で学んだあと、イタリアのパドヴァ大学に遊学し、そのあとプラハで印刷技術を学んだと伝えられる。スコリーナの印刷活動の特徴はそれまで修道僧の独占であった聖書の写本技能を庶民の手に移し、挿絵や後書きをふんだんに印刷物に添付したことである。その結果、印刷作業を通して庶民の言語文化の確立、すなわち国民語としてのベラルーシ語の確立に貢献したのであった。同じく、リトアニア大公国の国法(リトアニア法、とくに1588年の第三次リトアニア法)がスコリーナが開発した技術を用いて印刷に付され、政治行政言語として長く法的効力をもったことが重要である。この法律はリトアニア大公国の憲法としてポーランド分割まで法的効力を失わず、分割後もロシアのアレクサンドル一世によってウクライナやベラルーシ地域で認可され、19世紀中葉まで法規範として機能したものであった。その後ロシア化政策が強まる中で、ほとんど死語と化したベラルーシ語の復興がはじまったのはようやく20世紀初頭のことで、農村インテリゲンツィア出身のヤンカ・クパラとヤクブ・コーラスによる農村の啓蒙活動を通じて展開されたといわれる。現代のベラルーシの民族派は、印刷されたリトアニア法の言語を固有のベラルーシ語であると賞賛する。ベラルーシ語といわれるものは、現在では首都ミンスク周辺の農村地帯で使用されているにすぎない。優勢なロシア語とポーランド語のあいだに引き裂かれた、一方言といっても素人には理解できる。固有の国民語なのだと主張するのであれば、それが農村インテリゲンツィアによる教育啓蒙活動の結果であることを認めた上で、ポーロツク市までルネサンス文化が及び、ベラルーシ国民文化の形成に貢献したという歴史的経緯を把握しなくてはならないだろう。すなわち、個別にベラルーシ史ないし狭義の言語文化を考察するのではなく、総合的に士族共和制ポーランド(rzeczpospolita)の枠組みのなかで多民族性、複合的言語文化の構造を分析しなくてはならないのである。
 こうした観点からみるとき、19世紀末から20世紀初頭にかけてベラルーシやウクライナそしてリトアニアの政治文化の見直しを求めた郷土派の意義が最近注目されるようになってきたことを指摘しておきたい。「歴史的ポーランド」の政治文化を背景にもつ在地の指導者層である郷土派は、ポーランドの政治文化からの相対的な独立を求め、ロシア帝国版図内部での連邦制の実現に意欲を燃やした。多民族国家としてのリトアニア大公国の枠組みを「歴史的リトアニア」とし、台頭する新生リトアニア人独立派が標榜する「民族誌的リトアニア」に対置し、「歴史的ポーランド」の枠組みを堅持しつつ諸民族の共存・共栄を図る政治路線を掲げた。郷土派の主張は、今日の民族対立を意図的に煽る風潮を戒める意味でも傾聴に値するものである。今日のスラヴ研究の方法論的見直しを図る際、国境を越える視野をもつ必要からみても、郷土派を復権させる価値は大きいと思う。こうした観点は、細分化が著しい東欧史研究にとくに当てはまる。情報環境が激変する渦中に生きるわれわれにとって、15?16世紀が同じく情報環境の激変だったことを想起し、500年に及ぶ時間枠のなかでスラヴ東欧研究の意味を再考しなくてはならないだろう。ポーロツク市のスコリーナを顕彰する印刷博物館は、そのことを現代のわれわれに伝えているメッセージでもある。

情報発信が政治宣伝の死命を制す

 私が学生時代に選んだロシア・インテリゲンツィア論は、その後ロシア革命史研究、そしてポーランド亡命史研究へと進んだが、思い返してみると、若い頃は革命の本質を探究するとか、歪められた革命史を糺すといった稚拙な思い込みで資料探索をしていたように思う。また試行錯誤を重ねながらも、東欧近代史研究の大枠をつかむことができ、士族共和制ポーランドが未成熟ながらも国民国家の方向を歩みつつ結果的に分割され、20世紀に至ってリトアニア、ウクライナ、ポーランド、ベラルーシの四カ国に分離独立する歴史的経緯を確認できたのも幸せなことであった。18世紀末のポーランド分割から20世紀初頭のロシア革命に至るダイナミックな政治変動を、この地域出身の革命家の営為をひとりづつたどることによって確認できたのである。
 私は20歳代後半から30歳代後半にかけて主に亡命ポーランド人の政治活動について研究してきた。士族(szlachta)を主体とする多くの亡命者がなぜフランスに政治外交の拠点を置いたのか、若い頃はこの点をオーソドックスに政治外交史の枠内に閉じ込め、国際関係の二極構造の枠組みで論じたにすぎなかった。しかし、現代の情報革命の展開との関連で見直してみると、まったく別の歴史像が浮かんでくることが最近わかってきた。
亡命政権を担うチャルトリィスキ派が政治外交の拠点をパリに置いたのは、列強としてのフランスの力を背景とするだけではなかった。すでにフランス革命の時点から亡命ポーランド人はパリに活動拠点を置き、対ロシア工作のための情宣活動の足掛かりとして成熟したフランスの読者層の支持を確保し、それのみならず本国や分割列強へ向けた強力な情報発信源としていたのである。現代ポーランド人の原型はロマン主義の時代、すなわち十一月蜂起(1830年-31年)後の大亡命の時代に形成されたといわれるが、まさにこの時期のパリこそ亡命ポーランド人に様々な出版活動の機会を与え、印刷に拠る情報量を飛躍的に増大させたのであった。それは、政府系、反政府系を問わず、フランスの情宣誌に掲載するだけではなく、ポーランド語による多数の政治情宣誌の刊行、ポーランド語による文学創作活動を通して実行されたのである。こうした情宣活動は、もちろん士族層を主体とする亡命者を読者層を対象とし、識字率の低い本国の民衆を対象としたのではなかった。私が長年研究してきたウクライナ出身のミハウ・チャイコフスキの文学創作活動は、士族共和制ポーランドの再建をめざす政治的メッセージを含み、代表的国民詩人アダム・ミツキェヴィチの諸作品はリトアニアとポーランドの政治的統合を恒久化する政治的役割を果たした。出版活動の展開なくして亡命ポーランド人の政治活動は意味をもたなかったのである。
 こうした情宣活動は大亡命の時代が終焉を迎えるパリ・コミューンの時期にまで及び、共和派の諸活動を経て、その後の社会主義運動の展開においてその役割は飛躍的に大きくなった。社会主義のスローガンに民衆・労働者階級の解放のための識字率の向上、すなわち教育の機会均等が掲げられたのはそのためである。フランスのブランキ派の言説「知的プロレタリアート」の育成、すなわち労働者階級は自らの解放のために自らの知的水準を高めなくてはならない、とする言説に端的に表現されている。社会主義運動においては、とくに教育の機会均等に比重が置かれていた。私が利用した図書館や文書館には、貴重な資料として非合法の政治情宣誌が収蔵されていた。19世紀末から20世紀初頭にかけてこそ、書誌情報を獲得する必要性が民衆レベルにまで下降していった時代であったのも頷ける。皮肉なことであるが、ロシア革命期に高い知的水準を誇った古参ボリシェヴィキの言説よりも、平易な、あるいは粗野なスターリンの言説の方が民衆には分かりやすかった。情報を大衆操作の技術として駆使する時代がやがて訪れるのである。
 先に挙げたワルシャワ・ポジティヴィズムの全盛期、ワルシャワ大学で学んでいたリトアニア人学生が帰郷後、リトアニア語の復興運動に乗り出したことも指摘しておきたい。リトアニア民族復興運動の象徴とされる『黎明(アウシュラ)』誌(1883年-86年)の発行が、ワルシャワ・ポジティヴィズムの強い影響下に生まれた事実こそ興味深い。このように「教育」をキーワードとして民族の枠を越え、様々に情報伝達が行われていったことに注意が払わなくてはならない。

技術革新、学際性、複合性を機軸にスラヴ研究・教育を再構築する

 情報化社会の到来とともに、自立した地域研究の可能性は失われつつあるかにみえる。いつどこにいてもインターネットを利用すれば世界各地の情報は瞬時に入手できる。ブロードバンドの時代においては、いち早く情報をキャッチすることが成功の秘訣である。情報過多の時代であるからこそ、情報を選別する技法を開拓しなくてはならないだろう。情報技術のめざましい発展に目を奪われていては、充実したスラヴ研究は不可能である。上述の通り、スラブ世界においてもルネッサンスに遡って近代国民言語文化が誕生したのは事実である。このことを再確認し、21世紀を展望する方略を模索しなくてはならないだろう。今後の可能性を私なりに整理し、思いつくままに以下提案してみたい。

1)インターネットを利用した遠隔操作による授業の実現がいますぐのところに来ていることを認識し、本格的に授業改善に取組まなくてはならない。天野氏が挙げた四つのCのひとつ「コミュニケーション能力」の育成はロシア語教育にも十分に適応可能である。コミュニケーション能力を高めるには、文法重視の授業は必ずしも必要ではない。言語学と語学教育を切離し、効果的な方略を提案することである。30年前に開発されたテープレコーダを手に、一昔前の教科書を利用する、いつもながらの授業風景は受講学生に嫌われるであろう。語学教育は言語学者や文学者の独占物であっていいはずはない。専門分野に特化するのではなく、他分野との融合・競合を絶えず視野に入れ、学際性を追及しなくてはならない。

2)今日的テーマである環境、経済のグローバル化、情報化に対応する、コンピュータを利用した社会計測・計量分析の方法を取り入れ、研究方法を刷新する必要がある。近年発展の著しい統計学の成果の一つである多変量解析を用い、データベースを構築すれば文科系諸分野にも新しい展開がみられるであろう。行列式などの初歩的な数学の知識があれば十分である。

3)外に向かっては国際協力の方略を示し、内に向かっては異文化理解の必要を提案することである。その場合、画像や音声を取り入れたホームページなどを活用した授業がもっとも効果的である。3Dグラフィクスを利用してバーチャル空間を創出し、異文化理解を授業に取り入れると効果は絶大である。こうした作業こそが国際協力の基礎となり、自国文化・歴史の理解力を向上させる条件となる。

4)同じ文脈で留学生や海外で日本語や日本文化を学ぶ若い世代を対象とした教育システムを構築することが可能である。わざわざ日本に来なくとも、現地にいながら双方向の学習環境において学習効果を上げることは現代の技術では十分に可能なのである。

おわりに

 はじめに紹介したように、ロシア・インテリゲンツィア論と重なる「批判的思考」、「創造性」、「継続性」、「対話能力」は、教育の基本に据えられるべきであり、こうした点からスラヴ研究を再構築しなくてはならないだろう。情報過多の時代にあって、対象や目的がみえにくくなり、細分化してしまったために学生がどこに焦点を絞るべきか、教えるのに苦労する場面は多い。困難を克服するには、学生には「対話能力」の育成、論述の仕方、文章の修練など基本から教えなくてはならない。19世紀末のワルシャワの知識人が主張した「基礎からの労働」、「知は力なり」に象徴される「有機的労働」の精神は、現代に生きる教育者にも通じるものである。過去のロシアやポーランドの知識人の遺産を学ぶことも、スラヴ研究を発展させる上で決して無意味なことではない。高等教育の再編が姦しく語られる時代だからこそ、日本におけるスラヴ研究の火種を絶やさないためにも、新しいストラテジーとして提案したいのである。
 


ロシア凡人伝(2)
 

左近 毅(Takeshi Sakon 大阪市立大学名誉教授)


生徒変じて教師となる

 東京外語というのは、ヘンな学校だ。幕末に星を見る役所があった。その星を眺める役人を育てる役所から、外語は誕生したのだ。早い話が星から生まれたと言ってよい。ナニ、「瓢箪から駒」とは聞いたことがあるが、「星から大学」とは初耳ですって?それはそうでしょうナ、なにしろ時代は幕末から明治にかけての、「なんでもあり」の激動と珍奇に満ちあふれていたのだから。そもそも、洋書の代わりに「蛮書」とか学生を「稽古人」とか読んでいた大時代だ。だから、先生も呼び名は「指南役」である。「イザ、一手お願ひたてまつる」とかナントか口上を述べて、稽古を頼む。すると教師のほうも、「しからばお相手つかまつる」とか応じて、さては丁々発止の仕儀となる。つまりは剣術の延長である。もっともこれは、小生がやって来る四○年以上も前の話だ。なんでも当時は、諸式おおらかで自由にできていたらしい。教師は朝の七時から開店し、夕方五時に店をたたむ。その間学生は授業にいつ出ようと勝手で、また出席も欠席も自由、オヤジが死んだ時以外は「届けいっさい無用」だった。なんとも羨ましいですな。ただし残念ながら、教師が自由勝手に授業を休んだり、遅刻したりは許されなかったらしい。にも拘わらず、かつては教師の側にも、この有り難い「自由の校風」をおおいに楽しんだ人物がいたそうだ。なんでも函館領事館から来たトラフテンベルクとかいう者で、やたらと無断欠席が多く、目付け役の日本の文部省なんか、てんで眼中になかったらしい。氣の弱い文部省は、腹いせまじりに「怠け者で自分勝手だ・・・」と公式記録のなかで鬱憤(うっぷん)をはらしたが、首にもできなかった。とんだとばっちりを受けたのが、ペテルブルグの日本語の大先輩コストゥイリョフだった。後任として明治九年に外語へ採用されるにあたり、給料を大幅に値下げされたうえに、仰々しい契約書を書かされ、いわゆる一筆取らされたのだ。「本学ノ定メタル休日外ニ病気ニ非ズ欠勤シタル場合、月給ヨリ日割計算ニテ差引モノトス。亦(また)コストゥイリョフ氏ノ授業職責ヲ果シ得ザル場合、素行不良乃至(ないし)ハ契約不履行の有タル場合、校長ハ当該契約ヲ破棄シ得モノトス」。げに持つべきは、悪しき先輩ではなく良き先輩ですな。ともあれまさしく動乱の時代、外語はあっちへ移転したりこっちへ引越しさせられたり、合併させられたりしていた、また呼び名もコロコロ変わるわで、なんとも忙しい。小生が臨時に出講したころは、神田の錦町(現在の共立女子大とか電機大学のそば)に木造二階建ての校舎を構えていた。校長は上田萬年というひとだ。辞令をもらう時にそのいかめしい顔をチラと見ただけで、とんと縁がない。ズットあとで日本語の大家とわかったが、これがホントのあとの祭り。ロシア語科の学生は当時四○人、こっちのクラスは若くてかわゆいがほかに無試験の別科というのがあって、偉そうな風采の荒木貞夫とか八杉貞利とかいう、ひねた学生が十九人も屯(たむろ)していた。

できたばかりの東京外国語学校

 凡人なうえに西も東もわからぬ小生が、たどたどしい日本語を操りながら東京で暮らす。これは並大抵のことではない。
時々ロシア語やドイツ語を耳にしたくなるのが、やっぱり人情というものだ。独り言を言ってみたところで虚しいし、ヤマビコみたいなもんで馬鹿らしい。そこへ、向こうでもロシア語が聞きたいという日本人が現れた。なんでも、ツルゲーネフの『片恋』をロシア語から翻訳したらしい。それは後で知ったことだが、日露会話の教えっこをやったものだ。取りとめも無いその合間には、文化だとか文学だとか、歴史だとか時事だとか四方山(よもやま)に話がおよぶ。そのうちクロノ大先生の話が出て、小生はまったくビックリした。教え子だというのだ。長谷川辰之助という人だった。つまり、われわれはクロノ先生の相弟子と判明したわけで、これぞ「世間は狭し!」と互いに自分の膝をたたいたものだ。爾来われわれの付き合いは急速に親密となり、ついにはクロノ大先生への恩返しとばかりに、生まれたての新生外語で教えるハメになったから、世の中なんて甚だもって妙ではある。その外語には、ヴラヂーミル・ファメンコとかパーヴェル・スムィスロフスキーというロシア人教師がいた。でも日本語はまったくしゃべらなかったから、凡人といえど多少日本語をかじっている最中の小生はおおいに重宝され、いささか面目をほどこした。日本人のロシア語教師には、長谷川先生のほかに古川常一郎という人がいた。旧外語時代に長谷川先生を教えた先生で、しかもクロノ大先生の同僚と聞けば、輪をかけて偉く見え、そばに寄るのも恐ろしい。という次第で、敬してあまり近寄らなかった。小生が教えていたころの学生たちをあまりしかとは覚えていないが、二人の名前が記憶に残っている。一人は、井田孝平といって成績がとびぬけてよく、将来を嘱望(しょくぼう)されていた。いま一人は和泉良之助という名だった。これが、いやに年齢をとっている(満二十七歳)癖にすこぶる出来が悪い。ある時、あまりひどいから百点満点のところをたった一点にして落としてやった。すると長谷川先生が血相を変えていわく、「そりゃ、いかん」、お眼鏡違いだという。かなりの漢学者で見所があるのだという。そして、横車を押しとうとう無理やり及第させてしまった。その時、凡人の小生は釈然としなかった。それが後になって知ったのだが、和泉は二松学舎なる漢学の学校をおえ、剣道に秀いでた国士だった。それも、のちのちウラヂオストックで深い関わりを持つ人間であろうとは、凡人の小生には思い及ばぬことであった。今にして思えば、落第させなくてよかったと、ツクヅク思っている。要するに、教壇に立つ者は成績の良い学生と最も出来の悪い学生は覚えているものだ。真ん中は、サッパリ記憶に残らないから不思議だ。これは、凡人だけに固有の現象かもしれない。

二葉亭四迷こと長谷川センセイ

 ところで、記憶に残っていないと言えば、この長谷川センセイこと二葉亭四迷についても、迂闊(うかつ)な話だがなれそめの前後がどうも思い起こせない。だいたいからして、明治の大文豪だなんて聞かされたのはこれまた後の話で、知り染めた当座は、眼前を走馬灯のごとくに忙(せわ)しなく通り抜けて行く日本人の一人としか映らなかった。どこで、いかなる動機で知り合いになったかと詰問されると、まるで覚えていないから奇態だ。凡人の空っぽな頭をいくらひねっても、思い出せない。凡人が記憶しているのは平凡なことばかりで、それはなにも記憶していない平凡さに酷似している。だが、どうしても思い出せというなら、あえてこんなイメージが再現できそうだ。顔は少し四角だ。目はギョロ眼で、鼻下にドジョウのように細くて真っ黒なひげが座っている。日本人としては背が高く、肩幅も広いし、まさかそれが肺病には見えない。「これでどうだ、かなり的確な四迷センセイの特徴が描けたぞ」と、自信たっぷりにある日本人に開陳したところ、「そりゃ先生、先生の書斎にぶらさがっている二葉亭の写真そのままじゃありませんか」と突っ込まれた。なるほど、そう言われればその通りだ。記憶のなかに写真が入り込んだのか、はたまた写真のなかに記憶が侵入したのか、とにかく両方がごちゃまぜになって、長谷川センセイが出来上がっている。とにかく何事につけ、あわれ日本語しか眼中になかった小生には、大センセイも文芸的日本語の教授機械としか映らなかったわけで、まこと申し訳ありませぬ。かつて『紅楼夢』で中国語をマスターしたと自負する小生に、センセイは言下に「尾崎紅葉の『多情多恨』を読みたまへ」とのたもうた。なにやら艶(なまめ)かしいタイトルに胸を轟かせて、小生は早速『多情多恨』の一ページを開いた。するとたちまちウンカの如き疑問が沸き起こってきて、ハナから感興をそがれた。まず振り仮名で、ハタと当惑した。紅葉の使い方が、字引の説明とおおいに違うのだ。「こりゃ、どうしたことだ?」どっちが正しいのか?街に紅葉は「ちまた」と振り仮名をつけている。字引で確かめると「まち、がい」となっているではないか。これは、ひょっとして紅葉の「まちがい」ではあるまいか。日本の作家は、あまり素養が無いとみえる。振り仮名を省いてるのもある。杜撰(ずさん)なのか、あるいは手抜きだろうか。高(たか)の知れた作家だ、紅葉は。読者のこちらは、なかなか佳境に辿り着くどころではない。字引と首っ引きで、肩は凝るし目がかすむ。「提灯」なることばに振り仮名がない、非常に困る。中国語ではチータンだがそれと同じかどうか、哲学的に悩む。一人は、「ひとり」と読ませるのかそれとも「いちにん」と読ませるのか、それは文学の根幹に関わる大問題である。日本語が難解なのか、それとも紅葉が三流作家なのか。疑問は疑問を呼んで、小生の平凡な頭は?印で満杯になる。人名も難物だ。神田さんは「かんだ」であり、「かみた」でもあり、また「こうだ」とも読むから、こうなると当のご本人に確かめるしか術(すべ)がないのだ。なんで日本語なんぞを始めたのか、またぞろ悔やまれる。いったい普通の日本人はどれくらいの漢字を知っているのか、以来それを知りたくて堪らなくなった。モノを調べても、三○○○字とあったり、四○○○とあったり、さらには千二百とか千四百という説もある。大新聞の某ジャーナリストの説では、教育ある日本人は一万字ほどをよく覚えているとある。わがニコライ大主教は八○○○字の漢字を日本でマスターせんと挑戦して、みごと挫折した。小生は、密かに二葉亭四迷として当代の文豪でもある長谷川センセイをテストしてみたくなった。その思いがしだいに募った小生は、日本の学校で教えられていた四千二百字の漢字をカードに別々に取り、こっそりと試験の準備にかかった。ほぼカード式テスト用紙が完成したころ、小生はセンセイにそれとなく持ちかけた。わが日本語の勉学のために、願わくば各漢字に音と訓のヨミをつけ、語義を記されんことを。試されるとは露知らぬセンセイは、鷹揚(おうよう)に引き受けてくれた。そしてテストの結果が判明し、非凡なセンセイをみごと試練にかけた凡人の小生はそれを読んでおおいに楽しんだ。なに?何点だったか教えろですって?生憎と小生は凡人の悲しさ、結果と素点についてはすっかり忘れました。ただこっそりと打ち明けると、エッヘン怖いものです、大作家センセイには随分と「百姓読み」が見つかったですぞ。(注:百姓読みとは、垂涎(すいぜん)をすいえん、洗滌(せんでき)をせんじょう、絢爛(けんらん)をじゅんらんなどと読むこと)。

漢字悪い?

 どう考えても不合理である。ロシア文字は、横にしようと縦にしようとたかだかその数は四○足らずに過ぎない。それが、日本語に使われる漢字ときたら星の数ほどにある。なんとかその数を減らすことができないものか。怠惰とそしるなかれ。凡人の凡人たる所以(ゆえん)は、つねに楽をしたいと願うところにある。そんなこと考える暇に片端から覚え込んだらどうか、と思うような人はすでに凡人の資格を失っているのだ。誰だ!「やみくもに覚えるくらいなら、寝ているほうがマシだ」なんて呟いているのは?残念だが、貴君の意見に賛成である。まず如何にして覚えるか、である。そうです、偉そうに言えば、経済と合理化の思想なんです。凡人ながら、西洋思想の波をちょっぴり被った小生には、日本人諸君の目には非凡と映る面も多少はある。勤勉と申せば、たしかに日本人は勤勉だ。だが、むやみと勤勉である。なにしろ無数の漢字を前にして、孜々(しし)として丸暗記するという、壮大にして永遠なる事業に挑んでいるのだから。やっぱり工夫ですな。剣も工夫です、漢字も工夫である。かつてイシガメ流ならびにオオブチ流の門を叩いたものの、結局なにやら合点がいかずその奥義をきわめることが出来なかったデス。「技は教えるものにあらず、盗むものなり」と言われて、なに訊いてもセンセイは答えなんだ。あわれ背水の陣を余儀なくされた小生は、宮本武蔵よろしくペンと毛筆を腰にはさんだ小生は、塚原卜(ぼく)伝ならぬ四迷センセイの指導でもって改めて漢字修業の道にいどんだ次第だ。ところが、である。漢字修業の道はげに険しい。四迷センセイのお陰で、迷いと疑惑はますます募り、深まり、免許皆伝はまるでおぼつかない。ナントカ工夫はないものか?凡人の小生の思いは、またもやそちらへ飛ぶ。雪がシンシンと降り積もる、とある深夜、なにやら心細くなって望郷の情に胸ふさがり、遠くバルト海に想いを馳せている時、大学で教わった中国語の恩師ヴァシーリエフ先生の顔がフト浮かんだ。これは、もう一種の啓示である。なぜなら、この中国学の大家も漢字で苦しんだ果てに、the method of graphic arrangementとかいう画期的(とご本人は思っていた)習得術を開発していたからだ。小生が思い出したのは、その方法ではない。ヴァシーリエフ大先生が、「中国人による愚かしい空想」と腐したところの、中国人によって発明された漢字習得の古法「永字八法」なる秘儀であった。ほんとうに、これはまさしく神のお告げ。小生は思わず躍り上がったとたん、行灯(あんどん)がひっくり返って火事を出すところだった。メンデレーエフは、夢の中で元素の周期表を発見したというが、凡人の小生は夢までいかない一歩手前で大発見をしたものだ。少しでも楽をしようという小生の飽くなき工夫は、この永字八法にさらなる独自性を加えた点にある。すなわち永の文字を八部分に分解し、これの展開方向によって派生する文字特性群を二十二に分類し、あわせて三十の漢字を順番に配列しておくのである。
えっ?もっと詳しく願います?おっとどっこい、それはダメです。あまり詳しく説明すると小生が凡人の頭をひねりにひねり、せっかく編み出した秘伝の奥義を盗まれては困ります。楽をしてはダメです。このへんにしておきましょう(つづく)。
 


「イワン雷帝蔵書」発見?



 

岩田 行雄(ロシア書籍文化史研究)

  2001年5月26日。モスクワ行きのアエロフロートの機内でのこと。隣の座席は若い女性。その隣は外国人女性。この外国人女性が上手な日本語で隣の女性にしきりに話しかけていたが、そのうち私にも話しかけてくるようになり、3人の会話が始まった。外国人女性は日本人男性と結婚している日本在住のウクライナ人で、里帰りの旅であった。私がエカテリーナ2世の蔵書について調べるためにペテルブルグとモスクワに行くことを話すと、彼女は思いもよらないことを話し始めた。モスクワのクレムリンの地下で「イワン雷帝蔵書」の一部分が見つかったというのだ。それはいつのことかと訊ねると、「たぶん今年だと思う」との答え。ロシアの週刊新聞『アルグメントゥイ・イ・ファクトゥイ(論拠と事実)』の2月のある号に、発見された『イーゴリ公軍記』の写真と、クレムリンの地下をどのように掘り進んでいったかの図面も載っていたから間違いないという。
  私はこの話しを聞いて、愕然とした。事実だとしたら、これは文字通り「世紀の大ニュース」だ。金額的にも数千億円になるだろう。イワン雷帝(1530-1584、在位1533-1584)の蔵書に関しては、相続した写本を主体とする約900冊にのぼるコレクションを所有していたことが知られている。このコレクションには、ビザンチン帝国最後の皇帝の姪でイワン雷帝の祖母ソフィア(ゾエ・パラエオロガ)が、1473年に祖父イワン3世の2度目の妻として輿入れする際に持参したビザンチンの写本が多数含まれている。だが、「イワン雷帝蔵書」はある時から忽然と消えてしまい、考古学的な調査も含めて様々な探索が試みられたが、その行方は謎のままだった。私は『アルグメントゥイ・イ・ファクトゥイ』紙がゴルバチョフ時代のグラースノスチ(情報公開)のもとでスクープを連発して急速に部数を伸ばし、現在も290万部の発行部数を誇る新聞であることは知っていたが、同紙をまったく読んでいなかったことを後悔した。それにしても、なぜ今までこの大ニュースが伝わってこなかったのか、頭の中はそのことで一杯であった。今回の旅は、すでに発表をすませている「ピョートル大帝蔵書の構成」「ロモノーソフ蔵書の運命」についで、「エカテリーナ2世の蔵書」に関する調査を主目的にしているが、次の論文のテーマを「イワン雷帝蔵書の謎」と決めていたからである。
  前半の滞在地ペテルブルグでの第一の目的は、エルミタージュ美術館内の図書館でエカテリーナ2世蔵書の製本の特徴を確認することにあった。しかしながら「イワン雷帝蔵書発見」の記事が気になって仕方かないので、『アルグメントゥイ・イ・ファクトゥイ』紙を置いている新聞スタンドや書店で2月の号を持っていないかと訊ね回ってみたが、週刊新聞のバックナンバーを持っているところなどあろうはずがない。国立図書館(旧公共図書館)でも聞いてみたが、あいにく新聞は置いていないとのことで、諦めるしかなかった。
  4日間の滞在で予定した調査を一通り終え、特急夜行列車「クラースナヤ・ストレラー(赤い矢)」号でモスクワに着いた私は、クレムリン前のロシアホテルでチェックインの手続きを済ませてから『アルグメントゥイ・イ・ファクトゥイ』社を訪れることにした。アポイントメントはないが、現地で雇った運転手のオレークに住所を示して、とにかく同社に向かった。『アルグメントゥイ・イ・ファクトゥイ』社の所在地ミャスニーツカヤ通りの近くまではホテルから車で30分ほどで到着したが、さらに10分ほど周辺をまわって同社を探しあてた。建物は前庭のあるコの字型の2階建てで、瀟洒なたたずまいであった。正面には背の高い柵があり、左手に出入り口の守衛所があるので当方の用件を伝えたところ、当然のことながら「アポイントなしでは中に入れるわけにはいかない」との返事。さてどうしようかと考えている時、運転手のオレークが、ある政治活動での仲間が同社の中にいることを思い出した。何という幸運。彼はさっそく守衛所脇の内線電話で連絡を取ってくれた。その結果、私たちは見事に難関の守衛所を突破し、オレークの仲間の女性に会うことが出来た。彼女はすぐに『アルグメントゥイ・イ・ファクトゥイ』紙の綴じ込みを持って来てくれた。私は入り口の応接セットに座り、はやる心を抑えて2月に発行された各号に3回も目を通した。だが、それらしい記事は載っていない。そこで、改めて今年の第1号から順にゆっくりと見ていくことにした。オレークも真剣に目を凝らして見てくれた。そして我々は遂に、3月に発行された第11号に掲載されている「イワン雷帝蔵書発見さる!」の記事を発見した。この記事はパーヴェル・ワシーリエヴィチ(名前と父称のみで、姓は書かれていない)の署名入りで、タブロイド版の第14頁のほぼ全面が使われていた。私がオレークの友人に14頁とタイトルページのコピーを頼むと、彼女は1分も待たないうちにコピーを持って来てくれた。何をするにも大変な時間と忍耐を要するロシアで、しかもアポイントなしで初めて訪れた所でこんなにスムーズに物事が運ぶのは奇蹟に近い。
  私は再び応接セットに座り、コピーを読み始めた。
「クレムリンの秘密の塔の擦り減った階段を、私は慎重に降りていった。階段は暗号の鍵が付いた、どっしりとした金属製の扉に通じていた。係官たちが1分間ほど鍵に魔法をかけると、扉は音もなく開いた。」
  何やらミステリアスな書き出しの記事にざっと目を通したが、その内容がどうも腑に落ちない。記者が写っているトンネル内の写真も合成のようだし、手にしている『イーゴリ公軍記』も写本とは思えない。彼が這い回ったというクレムリン内部から城壁の外側にまで続くトンネルの見取り図も怪しげである。私はこの記者に直接会って、内容を確認したいと思った。そこで、質問項目を次の4点にまとめた。
?  写真は本物か。
?  トンネルの見取り図は本物か。
?  この記事に対するロシアの歴史家たちの反応は。
? 今日この発掘現場を見ることが出来るか。
  オレークの友人にもう一度来てもらい、パーヴェル・ワシーリエヴィチに面会したい旨を伝えると、すぐに彼の秘書である女性が2階から降りてきた。そして彼女が言うには、パーヴェル・ワシーリエヴィチは非常に多忙で今日はいないこと、社内にいるのは金曜日だけで、それも朝から会議や執筆の打ち合わせのスケジュールがぎっしりと詰まっているとのことであった。モスクワ滞在はわずか4日間だが、運のいいことに翌日が金曜日にあたっていた。そこで、秘書に「明日もう一度来るので、彼に会わせてほしい」と頼むと、「会えるとしても15分以内、いや5分位かも知れないが、確実に時間が取れるとは約束出来ないので、明朝10時に電話をするように」とのことであった。
  別れ際に、彼女らに向かって「この写真はモンタージュではのないか」と質問すると、「判らない」との返事。ついでに「この記事は真実か」と訊ねると、二人は声をそろえて「シュートカ(冗談)!」と答えた。エイプリル・フールなのだと言う。このあまりにも意外な答えに、私はオレークと顔を見合わせて「なーんだ、そうだったのか」と言いながら声をあげて笑った。機内で出会ったウクライナ人女性が私を騙そうとしたとは考えられないが、結果的には私が見事にひっかかってしまったのだ。それにしてもこんな手の込んだ冗談を考えたパーヴェル・ワシーリエヴィチとはどんな人物なのか、是非とも会ってみたくなった。明朝10時にオレークが電話することを伝えて、我々はレーニン図書館に向かった。私はオレークと別れる際に、彼のおかげで最大の懸案が解決したことへの礼を述べた。そして、彼が私の仕事を「相場」よりもかなり安く引きうけてくれていたことが判っていたので、感謝のしるしとして、私は「二人の娘さんへのおみやげを買う暇がないので」と言いながら当初彼に約束していた報酬の倍額を手渡した。
  翌朝10時過ぎにオレークから電話があった。秘書の女性に電話をしたが、部屋には誰も来ていないのでまだアポイントが取れないと言う。私はとにかく行ってみることにして、10時半にホテルまで迎えに来てもらった。途中までは、学校の先生をしているというオレークの妻が同乗した。『アルグメントゥイ・イ・ファクトゥイ』社には11時頃に着いた。パーヴェル・ワシーリエヴィチは出社しているとのことだが、内線電話をかけても部屋には誰もいなかった。彼はたしかに社内にいるのだが、動き回っていてなかなか連絡が取れない。15分ほど待っていたが、私は諦めて「時間がないので、レーニン図書館へ行こう」とオレークに言った。だが、彼は「せっかく来たのだから、もう一度だけ内線電話をかけてみよう」と言って、ダイヤルし始めた。丁度その時、2階から背広姿の男性がにこやかな笑顔で降りてきた。新聞記事の写真で見覚えのあるパーヴェル・ワシーリエヴィチその人だった。初対面の挨拶を交した後、彼は遠来の客として私をオレークとともに2階にある個室に案内してくれた。明るく、こざっぱりとした個室には、入り口のドアー近くに秘書の机、そして前庭に面した窓に近いところに彼の机があった。
  パーヴェル・ワシーリエヴィチは私が名刺を取り出そうとしている間に、先に彼の名刺を差し出した。彼のフルネームはパーヴェル・ワシーリエヴィチ・ルキヤンチェンコ。私も自分の名刺を渡し、それと同時に私がなぜ「イワン雷帝蔵書発見さる!」の記事に興味を持ったのかを説明する代わりに、エルミタージュ美術館館長宛てに書いた手紙のコピーを取り出してパーヴェル・ワシーリエヴィチに示した。この手紙には私のこれまでの研究内容を伝えるために、前述した3点の論文以外にも16世紀から18世紀にかけてのロシア、リトワ、ベラルーシ、ウクライナの出版史に関する論文5点及び「フランス革命とロシア」の論文1点をリストアップしてあったからである。彼は手紙のコピーに目を通しながら、感激した面持ちで一言「バリショイ・スペツィアリスト(すごい専門家だ)」とつぶやいた。この一言は私にとって最高の誉め言葉であった。
  私は彼に「あなたはとてもご多忙なので、すぐにおいとましますから」と伝えると、彼は「気にしないで下さい」と言った。この言葉に少し安心して、私が記事の中にある写真について「これはモンタージュですか」と質問すると、彼はいたずらっぽく笑いながら「そうです」と答えた。私が今回のロシア訪問の目的はエカテリーナ2世の蔵書に関する研究だが、次はイワン雷帝蔵書の謎についての論文執筆にとりかかるつもりであることを告げると、彼の方から『母国の心臓部―クレムリン』と言う本を知っているかと質問してきた。私が「知らない」と答えると、彼は資料室に行ってその本を持って来てくれた。そして、ページを繰って、「イワン雷帝蔵書」に関するページを開いてくれた。私は二つ目の質問として、どうして「イワン雷帝蔵書」についてのジョークを考えたのかを聞くつもりであったが、もうその必要はなかった。私が「このページとタイトルページのコピーが欲しいのですが」と頼むと、彼は快く引き受けてくれた。パーヴェル・ワシーリエヴィチがコピーをとるために部屋を出ていった後、オレークがいささか興奮気味に「彼はこの会社のナンバー2だ!」と言った。そう言われて名刺を見直してみると、小さな文字で書かれているので先ほどは気が付かなかったが、「副編集長」の肩書きがあった。彼はコピーを手にすぐに戻ってきた。私は彼の親切な対応にお礼を言って、その場を辞することとした。
  私たちが帰る時、彼は多忙にも拘わらず前庭まで見送ってくれた。私はパーヴェル・ワシーリエヴィチに会えてとても喜んでいることを改めて伝えた。そして「手紙を書きます」と言いながら、彼と固い握手を交した。彼は「私もあなたに会えてとても嬉しいです」と応え、最後に日本語で「ありがとう」と言った。
  わずか4日間のモスクワ滞在中に、最優先課題として『アルグメントゥイ・イ・ファクトゥイ』社を2度も訪問したわけだが、レーニン図書館での調査とはまた別の、大きな充実感があった。
  帰りがけに、もうひとつ嬉しいことがあった。オレークが昨日のお礼にと言って、カリーニングラード産の「フラグマン」という銘柄のウオッカをプレゼントしてくれたのだ。このウオッカは、彼の言によれば「昨年のコンクールで金賞をとった、最も旨いウオッカ」ということであった。さらに、彼は「この次にモスクワに来た時には、是非我が家の食事に」と招いてくれた。

             *           *           *           *           *

  私はパーヴェル・ワシーリエヴィチとの約束を守って手紙を出す準備をしている。タイトルは「騙された日本人からの手紙」。「アルグメントゥイ・イ・ファクトゥイ」紙を手にした写真を添えて送る予定である。そして、手紙の最後を次のように結ぶつもりでいる。
「日本に帰ってからのこと。私は自分の本棚から1冊の本を取り出した。この本の中にモスクワのクレムリン内にあったチュードフ修道院の蔵書の歴史についての論文が掲載されている。その論文によれば、ポーランドの干渉者たちによりロシアが支配されていた時代、1610年から1612年に羊皮紙の写本がとくに大きな被害を蒙っている。バルイカという人物の日記によれば、モスクワ解放軍によって包囲されて飢餓状態にあった干渉者たちは、羊皮紙の写本を探し回っては、それらを釜ゆでにして食べてしまったという。そのような状況に鑑み、私は「イワン雷帝蔵書」もポーランド人たちに食べられてしまったのではないかと考えている。しかしながら、今となっては誰も彼らの腹の中を確かめることは出来ない」。(2001年7月10日記)
 
 



次のメッセージは、松本にお住まいのニコライ・ドミィトリエフ神父からいただいたものです。ニコライ神父は、『ロシア人・日本人』(2001年ボロンテ刊)という本を上梓され、出版社から私にも贈られてきました。読んでみると、とても面白く、学生たちにも一読を勧めました。訳者は令夫人の山崎 瞳さんです。山崎さんとのメールのやり取りのなかで、寄稿をお願いしたところ、素晴らしいメッセージをいただきました。お二人に心より感謝いたします。なおご著書の著者紹介によりますと、神父は、1960年モスクワのお生まれで、モスクワ神学校、レニングラード神学校に学ばれ、在学中からアレクシー府主教(現ロシア正教総主教)の副輔祭長を務められたとのことです。

Уважаемый  профессор  Като-сэнсэй
и  дорогие  студенты!


Дмитриев  Николай

  Сейчас, когда  я  пишу  это  письмо,  я  живу  в  городе  Мацумото,  в  префектуре  Нагано.  Здесь  рано  утром  и  ближе  к  вечеру  в  воздухе  разливается  приятная  прохлада и бодрящая свежесть.    Скоро  светлячки  будут  летать  над  рисовыми полями,  радуя  глаз  своим  деликатным скромным сиянием.
    Я  был  очень  рад  Вашему  письму,  уважаемый    Като-сэнсэй,  Очень  обрадовал  добрый  отзыв  о  моей  книге  ?Русские  и  японцы?.  (Значит  ее  написание ? был  не  напрасный  труд).  Это  было  в  мае  нынешнего  года.  Тогда  книга  только  начинала  появляться  на прилавках  книжных  магазинов.  Большое  спасибо,  что  Вы  охотно  и  с  вниманием  прочитали  мою  книгу.  Мне  это  очень  приятно.
Как  вы  знаете, Россия,  очень  изменилась  за  последние  10  лет.  По  этому  поводу  в  зарубежных  странах,  некоторые  радуются,  а   некоторые  сильно  огорчаются.  Иногда  можно услышать такое мнение,  что  Россия  теперь стала  не  такой  очаровательной  страной,  какой  был  в  свое  время  Советский  Союз.  В России  теперь  часто  можно  столкнуться  с  беспорядком  и  хаосом.  Может  быть.  Но  это  только  часть  истины.
Если  человек  хочет  увидеть  истинную  красоту  истинной Руси, которую в лучших произведениях русской литературы  именуют  Святая  Русь,  нужно  обратить  свой  взор,  заинтересованный  и,  деликатный,   не  столько  на  события  повседневности,  меняющиеся  с  большой  скоростью,  сколько  на  глубину  духовной  жизни  русского  народа.  Ее  можно  увидеть  в  таких  элементах  культуры,  как,  например  сказки,  былины,  народные  песни,  древняя  русская  литература...  И,  конечно  же,  в  полной  мере  мы  можем  соприкоснуться  с  русской  духовностью, бращаясь  к  чистому  роднику  Православия.
Прожив  в  Японии  почти  десять  лет,  я  хорошо  знаю  по  своему личному  опыту,  что  японцы  совсем  не  склоны  глубоко  обрашать  свое  внимание  на  релиозные  темы.  (Честно  говоря,  меня  это  в  начале  крайне  удивило.  По  своей  наивности  я  думал,  что  это  только  атеистическое  правительство  Советского  Союза  насаждало  безбожие  в  душах  своего  народа.  Глубже  познакомившись  с  японской  историей,  я  понял,  что  в  Японии  дело  обстоит  несколько  по-другому.  В  определенный  период  времени  в  Японии  ?религиозность?  насаждалась  практически  насильственно,  а  любое  насилие  вызывает  отторжением,  аллергию).  И  все  же  я  должен  сказать,  о  том,  что  Православие  ?  это  не  только  ключ  к  пониманию  духовного  богатства  русского  народа,  но  и  наиболее  верный  путь  к  адекватному  восприятию  всей  русской  культуры.  Это  несомненный  факт.  Открыв  произведения  таких  русских  писателей, как Ф.М.Достоевский, И.С.Шмелев,  Мельников-Печерский,  Н.В.Гоголь...,  не  говоря  уже  великих  классиках  А.С.Пушкине  и  М.Ю.Лермонтове,  каждый  может  убедиться  в  этом.  И  я  очень  рад  тому,  что  Вы  можете  читать  такие  книги  не  в  переводе,  а  в  подлиннике.  Русский  язык  настолько  багат  в  своем  содержании,  что,  особенно,  когда  речь  идет  об  абстрактных  темах,  в  переводе  многое  может  быть  утрачено,  передано  упрощенно,  ?плоско?.
В  заключении этого  письма  я  хочу пожелать  Вам, уважаемый профессор Като-сэнсэй, всем Вашим студентам и читателям Вашего издания,  доброго  здоровья  и  больших  успехов  в  Вашей  работе  в области русского  языка.  Буду  очень  рад,  узнать  о  Ваших  интересах,  о  жизни, о  стремлениях  и  творческих  планах.
С  уважением,
Дмитриев  Николай

июля  2001  г.

P.S.  Считаю  своим  долгом  сказать  и  о  том,  что  эта  книга  вышла  в  переводе  на  японский  язык.  Выполнила  перевод  Хитоми  Ямазаки,  которая,  по  счастливому  стечению  обстоятельств,  является  не  только  прекрасным  переводчиком-русистом,  но  и  моей  дорогой  женой.  Благодаря  ей  стало  возможным  в  полной  мере  донести  мои  мысли  и  чувства  до  японского  читателя.
 


ニュース!

本日(10月9日)落手したお便りでは、ニコライ・ドミィトリエフ神父は、日本正教会東京復活大聖堂(ニコライ堂)司祭として赴任するために、東京にご転居なさったそうです。 


『ロシア人・日本人』を読んで
   愛知県立大学外国語学
ドイツ学科2年 山下純子

 まず、第一章では、筆者の少年時代のロシアについて書かれている。
筆者は日本に最も近い国ロシアに生まれた。ロシアを支配していたのは共産主義のイデオロギーであり、これを唱えるソ連共産党は国民の無料の教育、無料の医療、無料の老後生活を次々に実現させていった。また学校では通常の教科のほかに将来の共産主義国家を担うべき模範的国民を育てるための教育も始められる。どの教科でも「レーニンおじさん」が模範的な人間像として先生から熱く語られる。また、ソビエト政権は無神論をとっていたため、学校では身体検査が行われ、子供が十字架をワイシャツの下につけていないかチェックされた。
ブレジネフの時代、ソビエト国民の生活は前よりも楽になり、教会に対する弾圧もかなり弱まっていた。しかし一般的にはソビエト社会で要職についている人は出世の差し障りになることを恐れて、教会とはできるだけ距離を置くようにしていた。
すべてが国有制度の中でアパートを一戸もらうのは容易な事ではなかった。それでもソビエトの家は全家暖房完備で、公共料金も家賃も信じられないほどに安い。社会主義国家は最低限の生活は保障してくれたから、ソビエト時代、人々は時間にはとてもゆとりがあった。ソビエト時代は何でも安く手に入ったが物が、いつでもあるわけではないのが難点だった。
帝政時代ダーチャというのは郊外に土地と家を持っている貴族たちが、自然との接点を求める都会の住民に家や部屋を賃貸してあげるシステムだった。それがソビエト時代になってダーチャの土地は国のものとなり、都会の住民に国が土地を貸し与えるようになった。  
また、ソビエトでは共産主義に関係のない本を普通の書店で買う事はほとんどできなかった。このためサイムスダートが広まった。また、外国の情報も決定的に不足していたために、ある面では外国を非常に過大評価している向きもあったし、ある面では現実以上に悪いイメージをもっていることもあった。
 第2章ではロシアの宗教そして、宗教観について記してある。
ロシア正教会の歴史は988年の「ルーシの洗礼」に始まった。正教はロシアの文化芸術形成に大きな役割を果たしてきた。12世紀、封建領主の諸国分割が進んだ時期において、ロシア正教は唯一のロシア国民の結合の象徴だった。1448年、ロシア正教はコンスタンティノープルから独立した。この後、他の東方正教会の指導部の承認を得て、ロシアは正教会で5番目の地位を占めることになる。
スターリン時代、ソビエトに対してヒットラー率いるドイツ軍が侵攻した。これに対し、ロシア正教会は祖国防衛のために立ち上がることを国民に呼びかけ、寄付金を集め始めた。この時、スターリン政権は国民が悲嘆に打ちひしがれている時に、精神的のみならず、団結して国民をはげます教会が必ずしも政権の敵ではないことに気が付くのである。そして30年の間、教会を非合法とみなして弾圧を行ってきた後、ソビエト政権ははじめて教会を合法的存在として認めたのだ。
共産党は、ソビエト国民は全員無神論者でなければならないという方針をとった。しかしロシア人の伝統として、共産党員はほとんど全員が子供に洗礼を受けさせていた。「ロシア人とは洗礼を受けているべきもの」という従来からのしきたり、または常識に根ざした行動だった。ロシアの伝統では「ロシア人であること」とは「洗礼を受けた者」だった。ブレジネフ時代には、教会は迫害こそ受けなかったが、自由でもなかった。教会が自由を得たのは、1988年にロシア洗礼千年祭が行われた当時、ゴルバチョフ政権の下でだった。
ソビエト解体後、ロシア正教会は積極的に行動するようになった。ロシア正教会が帝政時代のように再び国教の地位を目指しているのではないかと言われるようになったのもこの時期である。しかし筆者は言う。「今日、経済的に困難なこの時期、そして民主主義ロシアの発展という新時代に、教会は国民の精神的復興を助けなければならない」と。
 第3章では、ロシアの変貌について述べられている。
ソビエト国民が自分の国の指導者を見るのは、テレビの画面に映る党大会のひな壇に並んでいる彼らであり、パレードの時にレーニン廟の上に立っている彼らである。そこに並ぶ面々は「ソビエトの指導者」以外の何者でもない。いうなれば、体制の権化、雲の上の存在だった。しかしゴルバチョフがこのイメージを変えた。彼はグラスノスチとペレストロイカを打ち上げ、「北の脅威」を「友好的隣人」に変えたのである。彼は共産党と社会主義共和国連邦という枠組みは残したままでリフォームを行おうとしていたが、結局改革は一人歩きし始め、状況はゴルバチョフの把握できる限度を超え、体制は崩壊した。
ソビエト政権下の教会は、教会関係者のためだけに存在していた。教会は、教会の境界線を越えて存在することはできなかった。ソビエト連邦体制解体直前のゴルバチョフ時代末期に、かつて破壊されたままになっていた教会が次から次へと政府からロシア正教会へ返還され、修理が施され、開けられていった。そして町の教会は急に忙しくなった。共産主義という一つの「宗教」が崩壊した後、人々がロシア人として確かな精神的な拠所を求めていたことは間違いない。
ソビエト連邦が崩壊してから10年が過ぎて、今日ソビエト連邦時代をもう一度再現することはできないことが明らかになった。「体制の競争」といわれてきた東西冷戦。しかし結局社会主義体制の現実は社会主義理論を実証できなかった。「ロシアは現在の世界において自分の場所を見出さなくてはならない」という言葉がロシアでしばしば聞かれるようになった。ロシア人にとっては、心の奥底では共産主義が崩壊したことよりも、印籠がある日突然消えたことのほうが打撃だったのだ。印籠、それはロシア民族の誇りを端的に示してくれる看板である。
年配の人にとって、懐かしいのは共産党ソビエトではなく、ソビエト時代のライフスタイルである。自分で判断しなくでも、自分で決断しなくでも、もたれかかる背中があった。庶民にとって、もたれかかれる背中があった点では、帝政時代もソビエトもかわりはない。しかし新しいタイプのロシア人も存在している。彼らは一見混沌としているように見えるロシア社会の新しい生活様式の中で、自分を活かす術を大胆に模索し、自分の手で実現できるかもしれない具体的な目標を己の前に立てるのである。また「働く」ことの意味も変わった。ソビエト時代「働かなければならない」とはノルマを達成することを意味した。しかし市場経済では「働かなければならない」という言葉には意味がある。若者たちは働くことに意味のある国としてアメリカを評価し、ソビエト解体の頃から多くのロシア人がアメリカに渡っていった。
 新生ロシアは人々に思想の自由と市場経済をもたらした。しかしある意味で,新しいロシアというのは、過去の罪の清算を意味する。その意味で象徴的なできごととして、救世主キリスト教会の復活があった。新たに復興された聖堂の成聖式は2000年9月20日に行われ、この日、ソビエト政権による殉教者を聖人とする列聖式も行われた。ロシアが本当に新しいロシアとして船出するためには、通らなければならない償いであった。
 第四章には日本での暮らし、日本の若者、社会問題について触れてある。
以上が『ロシア人・日本人』の内容であるが、私はまず、ロシア人の生活に想像以上にロシア正教が係わっているに驚いた。無神論を今も引きずる日本人である私には理解しがたいものがある。だが、私は無心論者だと言いながら、心のどこかで、お願い助けて、と思っているその心は、ロシア人が神に求めるものとあまり変わらないのではないかと思った。
また、私はゴルバチョフがエリチィンに負けたという事実と、今の日本の状況についても考えた。ゴルバチョフは新思考外交を展開して、アフガニスタンからの撤兵を表明し、国際関係の緊張緩和・軍縮問題に努力した人である。日本人は波風立てず、自分の意見は抑えて、皆の意見を尊重する、そんな指導者を望む傾向があるし、日本人はそうあるべきという慣習がある。その点でゴルバチョフは日本人向きだ。しかし、ロシア人は社会的混乱の最中、よりロシア的で、より男性的で、より強く、より指導者に向いていると判断してエリチィンを選んだ。この状況は今の日本によく似ていると私は思う。日本経済は今や、先の見えない停滞期に入り、国民は今だかつてない不安に直面している。この状況の中で一人独自の方針を強固に主張する小泉氏が内閣総理大臣に選ばれた。これはロシアにおいてゴルバチョフではなく、エリチィンが選ばれた状況に通じるものがあるのではないかと思う。筆者は、どうしてエリチィンが選ばれたのかは日本人には分からないだろうと言っていた。しかし社会が混乱している時、国民が望むのは強い指導者であることは日本でも、ロシアでも変わらないと私は思う。だから新生ロシアの指導者としてエリチィンが選ばれ、今の日本で小泉氏が選ばれたのだ。確かに両国民の感性は違うかもしれない、それでも強い指導者を望む思いは同じだと私は思う。



   Фонтан любви,
фонтан печали

Попытка воссоздания портрета
 

Михайлова Светлана


    28 апреля 2001 г. куратор Нагойского музея искусств Баба Сюнкити спросил, не известно ли мне имя М.Волконская. Оказалось, что одной из деталью картины современного немецкого художника являются балетные туфли, на которых написано это имя. Никого другого с таким именем, кроме жены декабриста, которая последовала за мужем в сибирскую ссылку,  мне известно не было.
  Мы спустились к картине. Это было большое (3х5) серого цвета  полотно Кифера Ансельма под названием "Принцесса Сибири" (1988).На нем было изображено или, правильнее сказать, проложено железное полотно.Множество железнодорожных путей располагались в перспективе и сходились в глубине. Справа на картине висели натуральные балетные пуанты с надписью внутри M.Volkonskaya. Справедливо возникали вопросы. Японцы выдвигали версию о Кшесинской.
   К картине имелась аннотация следуюшего содержания:
- "В этой картине Кифер пытается рассмотреть немецкую индивидуальность на теме истории Германии  периода второй мировой войны. Художник облекает себя миссией искупления вины и поиска этого средствами искусства. Более того, он распространяет такое понимание на грехопадение  человечества в целом, пытаясь отыскать способы избавления от первородного греха на материале истории и мифа. Для большего ощущения весомости исторического прошлого используется помимо красок свинец, песок, солома, волос и др. Вовлекая внимание в тяжелые слои материала, художник возбуждает наше воображение. Думается, основным содержанием этого полотна является событие русской революции, за которым стоит полная тревог судьба императрицы Александры. В результате революции был разрушен режим абсолютизма и после победы Октябрьской революции Александра вместе с императором Николаем П была сослана в Сибирь и растреляна. Картина создает впечатление подьезда к конечной станции и встречи с судьбой Александры. Железная дорога, исчезающая вдали, уводит нас в созданный Кифером мир, в котором стерты грани далекого и близкого, прошлого и будущего".

   Честно говоря, такое пояснение к произведению Кифера как-то не проясняло картины. Какие мотивы побудили художника сделать деталью картины пуанты с именем М.Волконской? Видимо, для ответа на этот вопрос предстояло связать воедино три вещи: русский балет - сибирская ссылка - сибирская принцесса..
   Русский балет
  О связи с балетом фамилии Волконских удалось выяснить, что единственно с такой фамилией значился только С.М.Волконский из круга "Мира Искусства",который в 1899 г.,когда Дягилев вошел в дирекцию императорских театров, занял пост директора. Однако, его работа была непродолжительной. В результате ухудшения отношений с Дягилевым и Бенуа он в 1901 г. был уволен.
Сибирская ссылка
 Марии Волконская (25.ХП.1805-10.УШ.1863)была младшей из трех дочерей Раевских. Ее матерью была внучка М.Ломоносова, а отцом  легендарная личность, прославившая русскую военную доблесть на всю Европу. Имя генерала Раевского вошло в роман Толстого "Война и мир" и получило всенародное признание.С семейством Раевского был в дружбе Пушкин. Когда за излишнюю откровенность в стихах он был удален из столицы на юг, он почти в течение всего 1820 г проживал в их Крымском имении, бывшей собственности герцога Ришелье. Марии тогда не было еще и пятнадцати, но ее сдержанность, ум, сильный характер не могли оставить равнодушным пылкое поэтическое сердце.Настроению Пушкина был близок образ Марии и во многих его стихах той поры можно встретить ее имя, как символ чистоты и святости.Например,в "Полтаве"
       …Твоя печальная пустыня,
         Последний звук твоих речей
         Одно сокровище, святыня,
         Одна любовь души моей.
Ей же посвящена тема неразделенной любви в поэме "Бахчисарайский фонтан", названный по преданию о горестной Марии фонтаном слез.
         В Тавриду возвратился хан
         И в память горестной Марии
         Воздвигнул мраморный фонтан…

         Журчит во мраморе вода
         И каплет хладными слезами,
         Не умолкая никогда.
         Так плачет мать во дни печали
         О сыне, павшем на войне.
         Младые девы в той стране
         Преданье старины узнали,
         И мрачный памятник оне
         Фонтаном слез именовали

   Пушкин пророчески, сам того не ведая, написал судьбу Марии Волконской, которой действительно была уготована печальная и горестная судьба. В главе "Воспетая Пушкиным" И.С.Зильбернштейн  сообщает, что в начале 1825 г.в возрасте девятнадцати лет Мария вышла замуж за  гораздо старшего ее Сергея Волконского и 2 января 1826 г. у них родился сын. 14 декабря 1825 г. Волконский был арестован и посажен в Петропавловскую крепость за участие в восстании.  Подсудимые декабристы делились на 11 разрядов и Волконский был отнесен к категории "государственных преступников первого разряда, осуждаемых к смертной казни отсечением головы" (с.53), однако на следующий день - 11 июля смертная казнь была заменена  на двадцатилетнюю ссылку в Сибирь с лишением всех  чинов и гражданских прав. Выступавшие за отмену крепостного права декабристы сами оказались в положении рабов. И тогда Мария самостоятельно приняла решение следовать за мужем на каторгу, что означало по тем временам  потерю дворянского звания и принятие рабства. Император был в шоке, когда не только Мария, но и другие жены отказались от светской жизни и добровольно последовали ее примеру, даже несмотря на ужесточение условий, выразившемся в запрете брать с собой детей. Пушкиновед Зильбернштейн отыскал уникальный портрет Марии с 10-месячным сыном 1826 г. работы художника П.В.Соколова. Мария изображена в прозрачной  шали, обвивающей голову и шею. На руке, обнимающей сына, золотой браслет с драгоценными камнями. В выражении глаз художнику удалось передать сложную гамму чувств молодой женщины. В их выражении нет счастья. Там больше скорби.По композиции картина явно выполнена по типу Рафаэлевской  мадонны, у которой одно покровительство - небо.
   31 декабря 1826 г. в доме сестры Марии был устроен прощальный
вечер, на котором для Марии пели лучшие певцы Италии и Франции, там был и Пушкин и в зимнюю новогоднюю ночь дочь лучшего российского генерала, отстоявшего честь своего отечества,
переступила родительский порог, променяв его уют на суровую сибирскую стужу. Мужественному генералу дать благословение дочери означало отказаться от своей славы и от своего отечества, а это было за пределами его воли. Ему было трудно предвидеть всех последствий  решения дочери. Он желал ей только светлого счастья и его дом без нее утратил покой. Имя Марии старались не произносить, но оно жило в сердце, поэтому его последними словами были: "Моя дочь - самая удивительная женщина, которую я знал".

    Сибирская принцесса.
   Тогда в Сибирь за своими мужьями приняли решение двинуться
жены многих декабристов. Вначале их было девять,  потом стало вдвое больше, двое из них были француженки. Следование в места заключения лишало их  дворянского звания, имущества, всех прав. Унаследовав бесстрашие, Мария отрекалась от всего без колебаний, подписывая все бумаги, не читая…
Дорога из Петербурга до Благодатского рудника составила 6 тыс.км. В 1827 году их перевели в Читинский острог, оттуда в 1830 году  - в Петровский завод, а в марте 1837 г. Волконские отбыли в село Уриковское Иркутской губернии. За это время из далекой России поступали известия об утрате близких. На смерть их сына Пушкин написал эпитафию.
В 1855 г. после смерти императора Николая 1, была амнистия и Волконские поселились в селе Воронки Черниговской обл. Мария прожила в Сибири 30 лет. Там родилась дочь Елена, которая вышла замуж за русского офицера Джулиани А.И.. У них было два сына Сергей и Михаил. Единственный Портрет Марии с сыном работы Соколова приобрел их троюродный брат В.Н.Звегинцов у Сергея Джулиани в 1925 г., случайно повстречавшись с ним на улице во Флоренции, когда тот шел продавать акварель антиквару.  Сейчас этот портрет хранится в музее Пушкина в Москве. Мария вернулась к воспевшему ее поэту.  Тема Бахчисарайского фонтана в поэзии Пушкина ? это тема Марии, тема русской женской души.
     Фонтан любви, фонтан живой!
     Принес я в дар тебе две розы.
     Люблю немолчный говор твой
     И поэтические слезы.

     Твоя серебряная пыль
     Меня кропит росою хладной:
     Ах, лейся, лейся ключ отрадный!
     Журчи, журчи свою мне быль…

    Фонтан любви, фонтан печальный!
     И я твой мрамор вопрошал:
     Хвалу стране прочел я дальной;
     Но о Марии ты молчал…

    К ней испытывал нежные чувства Пушкин. Ее
очень любил отец.
Она не глядя подписывала документы об утере
всех прав. Она выращивала в Сибири розы и арбузы. Имея все, она отбросила все.
    Русский культуролог Ю.М.Лотман писал, что декабристы проявили значительную творческую энергию в создании особого типа русского человека, по своему поведению резко отличавшегося от
того, что знала вся предшествующая русская
история.
   Если кто-либо захочет увидеть Бахчисарайский фонтан, не обязательно ехать для этого в Крым. В одном из залов Эрмитажа в Петербурге есть его реплика. В глубине зала к прикрепленной к стене  раковине по каплям стекает в маленькое озерцо слеза Марии, без которой ни пушкинская поэзия, ни русская культура не имеют совершенства.Так в моем сознании произошло соединение трех ипостасей в одно целое.
 
 



 
 

外国語教育と国際化


サヴェリエフ・イゴリ(新潟大学助教授)


  サヴェリエフ・イゴリ略歴
1968年、サンクト・ペテルブルグ(ロシア連邦)生まれ。1993年、サンクト・ペテルブルグ国立大学東洋学部卒業(専攻日本史)。1995年、サンクト・ペテルブルグ国立大学極東史学科において、1年を短縮してPh.D.(歴史学)を取得。1995年4月、大阪学院大学国際学部客員研究員、同年10月、サンクト・ペテルブルグ国立大学東洋学部助手。1996年4月、名古屋大学大学院国際開発研究科博士課程に入学、1998年10月、同上を中退し、新潟大学人文学部助教授に就任した。専門は、東北アジアにおける移民問題、明治政府の対外政策である。著書は、『Iapontsy za okeanom: Istoriia iaponskoi emigratsii v Severnuiu i
Iuznuiu Ameriku』(太平洋を渡った日本人:北南米への日本人移住の歴史),ペテルブルグ東洋学センター出版社,1997年8月.
 


 私は、3年前から、日本の大学で、ヨーロッパ社会論、極東ロシア社会環境論などの歴史を教える科目を担当し始めた。同時に、教養ロシア語も教えることになった。日本の大学で外国語を教えていると、当然、日本における外国語教育の色々な側面が見えてくる。そこで、ロシア語の教育に限らず、日本の大学における外国語教育に関する意見を少し述べてみたいと思います。
 日本人の大学生は、中学校の時に勉強し始めた英語の授業を継続するほか、さらに、第二外国語として、フランス語、ドイツ語、ロシア語、スペイン語、中国語、朝鮮語の6各国語の中から一つを選択できる。英語をかなりいいレベルまでブラッシュアップして、もう一つの国の言葉を覚える。外国人教師を含めて、充実したスタッフがそれぞれの言葉を教えている。授業では、ビデオ、テレビを活用したり、本当に、十年前には夢想もできなかった技術と教授法を使ったりしている。ところが、かくもよく整備されたシステムがあるにも関わらず、学生たちは実に真面目に勉強しているにも関わらず、卒業生の大半は、外国語を実際に使いこなせないという現実は、不思議に思われる。
 ロシアにおける大学時代の外国語勉強を思い出せば、文系の4年生・5年生(ロシアの大学は、基本的に5年間)のほとんどが、普段から通訳、ガイド、企業のマネージャなどのアルバイトをしており、みんな、外国語を実際に使っていた。今、ロシアの教育制度は、改革が進行中で、大都市の大学と地方大学とのギャップも大きく、あんまり良い例ではないかもしれない。他の国の例をみよう。
 英語圏諸国以外の先進国(オランダ、フランス、ドイツなど)では、大学卒業生が英語=国際語を流暢に話せることが基準になっている。企業だけではなく、ヨーロッパのコンビニの店員も英語でぺらぺらしゃべている。そうじゃなければ、就職が難しいだろう。
 日本の話に戻ると、最近、日本の企業の国際化が進み、海外の取引相手が増えており、海外における支店のネット・ワークが広がって行く。教育機関、市役所などでも国際交流が徐々に進み、外国人と付き合う仕事がだんだん増えていく。中学校、高校でも、海外研修旅行が増えている。個人のレベルでも、いわゆる民間外交が進み、国際結婚のケースも増えている。これからも、国際化がもっと加速していくではないと思われる。
 それに伴って、バイリンガール(bilingual)の人、例えば、英語も日本語も母国語として使っているものも、だんだん増えていく。現在、アメリカの企業、大学は、バイリンガールの人材をたくさん雇用している。日本関係の仕事をするアメリカの企業の職員や大学の教員は、バイリンガールであることは、スタンダードの一つになっている。おそらく、近い将来、日本の企業も、日本語しかできない職員に通訳をつけるかわりに、二つ以上の言語を母国語にしているバイリンガールを雇うことになるのではないかと思われる。その時、バイリンガールではない大学生は、就職活動の際、彼らバイリンガールと競争できるだろうか。今でも、「外国語がにがてだから授業で外国語を使わない学問を専門にした」という考えを、よく学生から聞くことがある。それでは、21世紀のリズムにあんまり合わないと思う。答えは、一つしかない。外国語を一生懸命勉強すべきだ。
 しかし、外国語の授業では、時間が非常に限られていて、例えば、クラスに10人がいれば、一人当たりで実際に会話の練習ができる時間は9分しかない。当然、予習、復習は、重要だ。しかし、それでも充分ではない。日本の大学の学生は、授業で聞いたことを勉強して、自分で同じテーマの本、論文、記事などを読まないことが気になっている。
 そこで、もう一度、ロシアの大学を思い出してみることが、日本での教授法を多様化する試みに参考となるのではないかと思う。
 ロシアの大学では、外国語の授業で必ずдомашнее чтение(直訳をすると、「自宅読書」)という宿題の一種があって、学年半期で50−100頁を読んで、毎週、先生に読んだ5−6頁の内容について、授業が終わった後、回答する。それは、かなり厳しい制度であったが、それ以外に、外国語の著書、資料を趣味で読んだ学生も多かった。さらに、文系の学生は、卒業論文などのレポートを作成する時にも、必ず、外国語の資料を用いている。
 欧米諸国の大学の状況はよく分からないが、おそらく、ロシアの大学と同様に、学生が読む外国語の資料が量的に多いと思う。そこで、日本の大学生も、読解する著作、資料の分量を増やせば、すばらしい効果があるではないかと思う。とりわけ、ある国か地域を専門にしている学生は、この国の文学の著作、歴史の有名な著書を読むことが非常に重要であろう。例えば、ロシア文化・歴史・文学を専門にしている学生には、流暢に話したり、ロシア語で文章を書いたりするようになるために、プーシキン、ゴーゴリ、レールモントフ、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフという六大作家の著作をロシア語で読むことをお勧めしたい。または、現在の作家の著作も、推理小説でもいいが、読めば、ロシア語能力が早く向上できるのではないかと思う。
 キーワードは、読書だ。
 
 


レザノフを弁護する


高橋寿之(仙台市若宮丸研究会)


 以下の文章は、おろしゃ会サイトをご覧になった高橋寿之氏から寄稿していただいたものです。氏はインターネット版「おろしゃ会」会報第4号に掲載された保田孝一先生の「高田屋嘉兵衛と対露外交」をお読みになり、そこに描かれたレザノフのイメージがは誤解にもとづくものだとして、「レザノフを弁護する」記事を投稿してくださいました。実りある議論が出来ればよいと考えて掲載させていただきます。学生ホームページの掲示板も合わせてご覧下さい。(加藤史朗)


1804年、長崎に来航したレザノフ。
「日露通商樹立の交渉に失敗し、怒りに任せてロシア政府の許可も得ず樺太・択捉を襲撃した」
日本人がこの人物に対して考えるところの最大公約数であろう。日本を攻撃したということで、レザノフに対する日本人の評価は低い。憎悪すら抱いているといえるだろう。さらに司馬遼太郎の偏見によって、レザノフ像は歪められた形で日本人に伝わっている。
だが、冷静に年表を開くと、先に記したレザノフの人物像が、史実をまったく無視しているものであることに気づくはずだ。
1804年10月、レザノフ長崎に来航
1805年4月、日露会談。レザノフ、長崎を去る
1806年10月、レザノフの部下フヴォストフによる樺太襲撃
1807年3月、レザノフ没
1807年5月、フヴォストフらが択捉襲撃

 長崎を去ってから樺太が襲われるまで、1年半も時間が空いている。もし「怒りに任せての行動」であるなら、長崎会談の直後か、遅くても年内に行動を起こすはずだ。攻撃するために充分な装備がなかったとしても、長崎とカムチャッカの航路は2ヵ月ほどで渡れる距離であり、すぐにでも戦闘準備が整うはずなのである。まして択捉が襲われた時レザノフはすでに故人となっている。レザノフが皇帝の許可も得ずして日本を攻撃した、という理論は到底説明できない。
では、文化年間の魯寇の背景とはどのようなものであったのか。長崎を去ってから樺太が襲撃されるまでの、レザノフの行動を追ってみることにする。
 レザノフは長崎を去った後、日本海を通って樺太に停泊した。1805年5月である。ここで日本の役人と会い交流している。もし俗説のように「怒りに任せた」のであれば、ここの行動は説明がつかない。当時樺太の番所の防衛は貧弱であり、クルーゼンシュテルンをして「貧しい漁村並み」といわせたほどである。その気があればすぐにでも略奪行為を行なうことが出来ただろう。
1805年7月、レザノフは武力による対日通商樹立を皇帝アレクサンドルに上奏し、翌1806年8月にはフヴォストフ中尉、ダヴィドフ士官候補生を指揮官とした日本攻撃部隊を組織した。日本襲撃を決めてから行動を起こすまで、1年近い時間がかかっている。これは北太平洋にあるレザノフとペテルブルグの皇帝との間で連絡を取るためにかかった時間であり、皇帝のゴーサインが出たことはほぼ間違いない。単独で行動するならこのような長い時間は不要である。
しかし9月、突如としてフヴォストフに出した命令を撤回する。新しい指令は、樺太の日本基地の視察を命じ、日本人には敵対しないようにというものであった。フヴォストフらは使命の変更に戸惑い、レザノフに本意を確認しようとしたが、レザノフはすでにオホーツクを去りイルクーツクへと向かっていた。フヴォストフらは、皇帝にすでに上奏している以上先の任務を果たすべきと判断、10月に樺太の番所を襲うのである。
 捕虜になった者たちは半年後に釈放されたが、その時ロシアから、彼らを通して書簡が松前藩に送られた。これは日本人ながらロシアに残り通訳になっていた仙台出身の善六あたりが書いたものと思われるが、これによると「皇帝は」「報復しようと」フヴォストフらに「示威行動を起こすよう命じた」のである。つまりレザノフが政府の許可を得ずに命令を出したのではなく、皇帝からの命令であったということになる。
 さらに翌1807年の5月には、択捉島で略奪を行なった。日本ではレザノフの復讐であると考えられていたが、その頃レザノフは病死していた。フヴォストフらの行動は、レザノフの命令によるものではないことがここからもわかるだろう。彼らは皇帝の命令に沿って行動していたのであり、レザノフが魯寇の罪で非難されるべき証拠は見つからない。
 なお、フヴォストフらについても日本人は誤解している。
「日本襲撃の罪でオホーツクで軍事裁判にかけられ、逃亡したが河で溺死」と伝えられているが、これは間違いである。オホーツクで軍事裁判にかけられたとすれば、溺死したペテルブルグは逃亡していくにはあまりにも遠すぎる。そもそも、樺太襲撃のあとに彼らはカムチャッカに捕虜を連れて帰っているのであり、日本襲撃の罪で軍事裁判にかけられるのなら、択捉襲撃の前だ。彼らが裁判にかけられたのは北千島列島における略奪行為のためであって、日本を襲ったことではなかった。
 またフヴォストフらが死亡したのは1809年であり、日本襲撃から2年も経っていた。彼らは軍事裁判にかけられたどころか、スウェーデンとの戦争で活躍し褒賞すら得ていた。フヴォストフは死んだときは大尉だったが、日本襲撃のときは中尉だったから、昇格すらしているのである。皇帝によって、彼らの行動が認められていたことは間違いないと思われる。
長崎の交渉で、幕府はレザノフが引き連れていた日本人漂流民の受け取りを拒否している。漂流民は、いわばロシアの友好のしるしとしての手土産であったが、幕府側は通商問題と絡められることを嫌い受け取りを拒んだ。しかしレザノフは、長崎では政治家としての任務を捨ててまでも、日本人漂流民の引渡しに懸命になった。そして彼らと別れるときには心から親愛の情を見せている。もしレザノフに人の情けがなければ、利用価値のない漂流民は、たちまちロシアに連れ戻されただろう。
またレザノフがカムチャッカでは露米会社の物資を病院に無償で施そうとしたり、北太平洋に先住民のための学校を作るなどの人道的な活躍をしていることを忘れてはならない。
「日露通商樹立の交渉に失敗し、怒りに任せてロシア政府の許可も得ず樺太・択捉を襲撃した」
司馬遼太郎によって植えつけられたこのような愚にもつかない俗説から、我々は早く抜け出すべきである。
 
 


「国境」の街・根室から
 

                    読売新聞社根室通信部

五十棲 忠史(いそずみ・ただし)

【はじめに】

  おろしゃ会の皆さん、はじめまして。まずは簡単に自己紹介させていただきます。私は、三重県四日市市出身の27歳。現在、北海道東端の根室市に住み、新聞記者をしています。中学・高校時代に加藤史朗先生と出会い、世界史を習っておりました。ロシア語の実力は、「ほんの片言」程度です。
 根室市は、人口3万少々。基幹産業は漁業で、サケ・マスやサンマ、花咲ガニなどが漁獲されます。この時期、脂の乗ったサンマが連日1000トン以上も水揚げされ、浜は活気づいています。

【北方四島】

 根室では、ロシア=北方四島と言っても過言ではありません。
北方四島は、国後島、択捉島、色丹島、歯舞群島から成っており、総面積は約5036平方キロで、愛知県(5154平方km)とほぼ同じです。現在、国後島に約5千人、色丹島に約2千人、択捉島に約7千人のロシア人が暮らしています。歯舞群島には国境警備隊が駐留しているだけで、民間人はいません。
 最も近い歯舞群島・貝殻島は、根室市納沙布岬からわずか3km7km。戦前、北方四島に住んでいた元島民約1万7千人のうち、2千人が根室で暮らしています。全国には9千人弱の元島民がおり、愛知県にも50人ほど住んでいるはずです。
根室では、北方四島との「ビザなし交流」も盛んです。毎年、相互に10回ずつ程度、訪問しています。北方四島は日本の領土なので、日本側からの訪問団はパスポートを持参しません。私も、報道関係者という枠で、これまでに計3回、参加させていただきました。「自然は、高度成長期前の日本(要するに素晴らしい)。町並みはロシアの寒村(要するにみすぼらしい)」という印象です。
 ただ、ビザなし交流の規模はまだまだ小さく、双方で延べ8千人ほどが参加したに過ぎません。根室市民のうち、戦後になってから北方四島を訪れた人は、元島民を除けば、ほとんどいないのが現実です。
さらに言えば、一般市民とロシア人の接点は、あまり多くありません。道路標識はロシア語併記だし、バスにもロシア人は普通に乗っています。ロシア人相手の商売を営んでいる電器屋や時計屋、船具店、焼き肉屋などはロシア語の看板を掲げています。しかし、積極的に触れ合おうという人以外は、あまり関わっていないのが現状です。もっと言えば、根室の人はロシア人に冷たい。ロシア人は決まった店にしか行かない。これも北方領土問題の落とす影なのかもしれません。ちなみに、市内にロシア料理店は一軒もありません。

  
 

【北方四島は日本領?ロシア領?】

 ところで、北方四島は日本の法律上、どう位置付けられているのかご存じでしょうか?
私も根室に住むようになってから知ったのですが、
●出入国管理法上では「本邦に含む」すなわち日本領
●関税法や検疫法では「当分の間、外国と見なす」すなわちロシア領
という扱いなのです。ですから、北方四島と根室との間を、人間は自由に行き来できませんが、モノは自由です。事実、北方四島周辺で漁獲されたウニやカニなどが大量に輸入されています(このウニやカニが密漁品だとロシア当局は指摘しているのですが、長くなるので触れません)。この漁獲物を運ぶために、年間約2万人のロシア人船員が、根室にやってきます。
 北方四島を訪問する際に使用するチャーター船内は、免税です。パスポートを持たない渡航なのに、なぜか酒やタバコが免税で買える。何とも不思議です。
 郵便行政上でも北方四島はロシア領扱いです。択捉島を訪れた際、自宅に宛てて投函した絵はがきは、「択捉島→ユジノサハリンスク→モスクワ→東京→根室」というルートをたどり、約3週間後に無事到着しました。直線距離ではわずか280kmの道のりを、14000kmと50倍も遠回りしたことになります。
出入国管理法で、北方四島を日本扱いしているおかげで、不思議な事件が発生しました。国後島在住のロシア人が今年5月、「不法上陸」の容疑で逮捕されたのですが、「国後島から根室への移動は、国内移動なので同法違反にはあたらない」と判断、釧路地検が処分保留のまま釈放してしまったのです。同様の例は、昨年2月にもあったようです。

【記者稼業のつらさ?】

 加藤先生から、「苦労話など、新聞で読めない話を」との要望がありましたので、ちょっと脱線します。やはり、ロシア人相手の取材で私の前に立ちはだかるのは、キリル文字とウオツカでしょう。前者は努力で何とかなるとしても、後者は何ともなりません。最近訪れた色丹島のお宅で、6時間の滞在中4時間は酔いつぶれて寝ていました。いったい何をしに行ったのやら。ちなみに、知り合いになったロシア人は、必ずと言っていいほどウオツカをお土産に持ってきてくれます。自分の意志では全く飲まないので、そろそろ店が開けるほど、ウオツカがたまっています。どなたか飲みに来ませんか?などと、僕が酒に弱いという話をしても、面白くも何ともありませんよね。

【終わりに】

 もっとコンパクトにと思ったのですが、書いているうちに「あれもこれも」と欲張ってしまい、長くなってしまいました。こんな駄文に付き合ってくれた人はいるのだろうかと心配しながら、筆を置くことにします。またリクエストがあれば、何か書かせていただきます。ありがとうございました。
 
 
 


おろしゃ会会報第7号
2001年10月8日発行



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愛知県立大学おろしゃ会
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(愛知県立大学文学部日本文化学科3年)
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