「おろしゃ会」会報第7号その2

 

2001年10月8日発行

                       


広瀬武夫にみる

「語学力と地域研究」の原形

 

 奥山智靖(愛知県立大学スペイン学科卒)


ここ2回続けて私は当サイトに原稿を寄せているが、前回は特に先生の方から、京都から高山へ移る最中、火急の用を要して依頼され、慌てて京大図書館に眠る露亜経済叢書のくだりを引用してしまったが、今回は余裕をもって聞かされていたことと、偶然広瀬武夫氏なる高山にもゆかりがあって、かつ当サイトの趣旨からもズレない人物を見付けれたことはこの上ない幸せだ。

 島田謹二(きんじ)氏によれば、広瀬武夫研究の重点は「1897年秋から1902年春まで足かけ6年にわたる広瀬のロシア生活」に尽きるという。事実、第一次広瀬武夫ブームが起こったのは、1904年3月末に彼が日露戦争・旅順にて壮烈な戦死を遂げた直後のことであるし、1928年の25回忌にあっては折しの世情も手伝い”軍神”広瀬中佐像が世に広められていった。

 私が前任地、京大図書館に於いて、その館報『静脩』に、県大図書館に文庫を持つ新村猛氏(名大名誉教授)の父君新村出氏(『広辞苑』の祖)のことについて少々触れたことはご記憶に新しいかと思われる。彼もまた父親が裁判官で、山形から山口に移る時に氏が生まれたので「出」と名付けられたという有名なエピソードが残っているが、両者共にエリートの子だ。

 我が県大出の者にも外交官を志す者は多い。かくいう私もその一人であったが・・・中でもロシア語ができる者は昔も今も変わらず日本国内(外務省内においても)重宝される。今日田中真紀子外相の就任によってクローズアップされた”ロシア課長”の一件のくだりからも、また北方領土という日本に突き刺さったトゲのことを考えても、日本外交上にとってそれに勝るものはない。
「ロシア研究の中心は文学と宗教である」と言われる。だからこそ、広瀬武夫の生い立ちやロシア留学時における様子を知ることは、日本外交上とても参考になろう。

 また島田謹二氏はその著『ロシアにおける廣瀬武夫』中で次のように述べている。「留学生にとして、駐在員として、絶対にものにせねばならぬのはロシア語であ
る。読み、聞き、話し、書く?この四つの能力は、しかし、よういには到達できない。英語のように少年のころから学んだ語学は、現地へいけば、すでに根本がしっかりしているから、比較的はやくものになるが、ロシア語のように、もともと英、仏、独とは系統を異にして複雑な国語は、まったく初めから修めるのと同じだから、少くとも三年や四年は留学しなければどうにもならぬ」。小生にとっても、文中のロシア語をスペイン語に置き換えるなら耳の痛い言葉であるが、紛れもない真実だ。

 実際問題、広瀬武夫の語学力に影響を与えた人物は2人。マリヤ・オスカロヴナ・ペテルセンとマリアズナ・ウラジーミロヴナ・コヴァレフスカア。前者はフォン・ペテルセン博士の娘であり、後者はウラジーミル・コヴァレフスキー海軍少将の娘、ともに家族ぐるみの付き合いをしていた。広瀬武夫は語学力と同時に「貴重な情報も向うから自然と耳に入ってくる」(服部元良 
『明治の人 広瀬武夫』)状況にあったらしい。

 簡単ではあるが、今回の調査報告は、日露関係という地域研究上から重要と思われる広瀬武夫の紹介に代えさせてもらうこととし、高山という地域研究上からのそれは次回に譲ることとする。

                                        (おくやま ともやす/高山市図書館)


   県立大学学術講演会によせて  
 
 

 愛知県立大学 外国語学部4年

                           鈴木 夏子
                           


  2001年5月17日、愛知県立大学学術講演会。駐日ロシア連邦共和国大使館・参事官レオニード・シェフチューク氏が来校され、氏の講演を聞くことができるとあって、私は朝から正直どきどきしていた。私のような普通の一学生が日本とロシアの外交の最前線にあって活躍されている氏の講演が聞ける、TVのニュースでは新しい内閣になってからも北方四島問題などに関してのロシアと日本の微妙な取引が報道されていたので、今回の講演会はとてもタイムリーなものだ!と感じていたからだ。めったに出会えない、本物の国際関係に触れるチャンス!これを逃す手はないでしょう。もしかしたら、私は役に立たないながらもこの『Кружок Оросия−おろしや会』の会員なのでお話できる機 会もいただけるのではないかと期待しつつ、いざ学校へ!
 講演は午後2時30分からなので、それまでこのどきどきをおさえながら授業に集中しな くてはと思い、加藤先生のロシア語講座に出席したのだが、考えることは、もし氏にお会いしたら何と挨拶しようか、ロシア語で挨拶したほうが好印象かしら、だってロシア語を5年も勉強してきたのだから(といってもまったく勉強不足なのだが)少しくらいロシア語でコミュニケーションをしたいということだった。今おもえば、この講演会を催すにあたって東へ西へ奔走し、私達学生のためにロシア語を教えてくださっている目の前の加藤先生にはこれは本当に失礼な話であった。目もまわるほど忙しくしつつもこうやって授業をなさっている先生を目の前にして自分の都合の良いときだけ、ひょっこりと顔をだして協力もせず、後ろをちょろちょろとついてまわっている私が、またもや浮き足立って授業に集中せずにいたのだ。先生がボールを投げてもあまりかえってこない私のような学生にもいつも等しくロシアに接する機会と知識を与えてくださっていることに、感謝しきりであります。加藤先生いつも本当にありがとうございます。この場を借りて、この『おろしや会』のために日々つくしている優秀な方々にも一言。平岩くん(会長)、高木さん(副会長)いつも心配と迷惑ばかりかけても、いつも私をメンバーの一人として迎えてくれることに感謝しております。毎回なにかの折りにこの会の暖かさを感じるたびに、この会には『愛』がある(加藤先生談)と思う私です。いつもありがとう!
 さて、この会を支えている根底にあるものが『愛』であることを皆さんに理解していただいたところで話を講演会当日のことに戻しましょう。ロシア外交官、レオニード・シェフチューク氏に会えるとあってぐるぐると考えをめぐらしていた私であったが、本格的に氏が来校する時間が近づいてきた。加藤先生がシェフチューク氏を迎えに行かれる前に、『おろしや会』の部室を開けておくようにおっしゃったので、高木さんと私は部室の鍵を取りに大学の正面玄関へむかっていた。時間が許せば部室に来てくださるという。すこしお話できる機会がもてるかもしれない!と一層思いつつ、足早にむかっていた。すると、正面玄関の前に、黒い、高級そうなセダンがざーっと来て停まるのが見えた。−あっ!あの車は大学の公用車!ついにシェフチューク氏がいらした!どうしよう、このまま行けば挨拶をするのは必至で、きちんと挨拶をして学生の印象をよくしなければ!何語で?もちろんロシア語で?ちゃんと話せるかしら・・・でもどんな方だろうか、エリツィン元大統領のような熊さんみたいな方かしら、それともプーチン大統領のように狼みたいな眼差しをした方だろうか??そんなことをぐるぐると考えつつ、私達二人は黒い車にむかって行った。「挨拶するんだよね、やっぱりロシア語で?」「うちらに気づかないかも」「何て言おう、緊張してきた・・・」そんなことを話していた気がする。−ロシア語でこんにちははわかるけど、はじめましてがおもいだせない?!とあせっているうちに、丁度、私達が車の前にきた時、加藤先生とシェフチューク氏が車から降りていらした。先生は二人に気づかれて、「これがロシア語を学んでいる学生です。」と氏に私達を紹介してくださった。私と高木さんは「Здравствуйте,Меня зовут−(名前).」と 挨拶した。私としてはそれが精一杯であったので、それ以上は何も言葉は出てこない。それに対して氏は「はじめまして、シェフチュークです。宜しくお願いします。」と何とも美しい日本語で挨拶してくださった。(ロシア語でも答えてくださったようにも思えるのですが、何しろ緊張していてあまりはっきりとは思い出せないのです。)私はロシア語でいろいろ話されると思っていたので、あまりの丁寧な日本語に拍子抜けしたのが正直なところであった。シェフチューク氏は対日外交30年のベテランであり、対日外交の重要な場においては通訳を務めていらしたと聞いていたにもかかわらず、それをすっかり忘れていた。そういえば、加藤先生が氏と電話で話されている時日本語だったじゃない、と思いだしつつ、鍵を受け取り部室へ帰ったのだった。そして、シェフチューク氏の印象は、というと−「少し加藤先生に似ているかな」優しそうで素敵な方というのが第一印象でありました。
 部室に戻り、会の学生数人と待っていると、先生と氏が部室にいらしたので、講演が始まるまでの少しの間懇談する機会を得た。私はカメラ係だったので、その任を果たそうとデジタルカメラで良いアングルをつかむことに集中していた。先生と氏はおそらく、この『おろしや会』のことやロシアに関する話題で盛り上がっていたと思うが、写真を撮ることと後で氏にサインをもらいたいと考えるばかりで懇談らしきことは何もできなかったと記憶している。それは他の学生も同じだったように思う。コ?ヒ?をお出ししたものの、私達は緊張で棒立ちしていた。氏はたばこを嗜まれており、銘柄はマルボロであった。私はなぜか、「似合う」と思ってしまった。
 講演前に学長とお会いするというので、先生と氏は部室をあとにされたが、講演が終わった後でまた部室に来ていただけるというのでその時にサインをいただこう、少しお話ができるかもしれないと期待して、私は講演会会場にむかった。
 いよいよ待ちに待った講演の時である。会場には日ロ外交に関する興味深い講演を聞けるとあって、なかなかの入りであった。21世紀における日ロ関係は、この北東アジアにおいて今後ますます重要なものとなることは明らかだとおもわれ、私のような一学生にもこの講演はそんな国際関係の一端に触れることができるチャンスだと強く感じられた。会場には県大の先生方や学生、外部からもこの講演を聴きに人が集まり、興味深いものであることを再認識したのだった。
 講演は加藤先生の挨拶に始まり、県立大学長が挨拶され、この講演に際してのロシアに対する思いを話されていた。私が感じたのは、世代によってやはりロシア(旧ソ連)に対する印象というか思いは違うということだったが、過去も未来もふまえてこれからの日ロ関係について講演をしてくださるシェフチュ?ク氏に会場の期待は高まっていた。そしてついに氏が壇上に上がり、講演がはじまる。?私はというとまたもやカメラを片手によいショットを撮ろうと会場の後ろをうろついていたが、後ろでは遠すぎて表情が撮れないのでほとんど最前列に陣取った。氏の貴重な講演を目の前で聴くことができるという昂揚感と、その時間をカメラに収めることへの使命感で私は胸がどきどきしていた。
 シェフチュ?ク氏がこの講演で語られたことについて私がここで多くを言うためには全くの力不足である。ここで語られた、30年にもわたって氏が携わってきたロシアと日本の外交についての経験や諸問題、今後も両政府間で話し合われていくだろう北方四島の問題について、今現在勉強不足のためにいくつかを理解し得なくても、今後の国際関係、特に北東アジアにおける日ロ関係に関心のある一人の学生として、日本とロシアが歩んできた歴史と今後の展望をより学んでいくなかで理解していきたいし、それを可能にしようとする意欲を私はこの講演に来て得ることができた。そして、この講演を聴くなかで私の心に特に残っている氏の言葉がある。それは、外交関係に携わってきた長い経験のなかで、諸問題があったなかにも、最後に大切なのは人と人との出会いであり、交流であるということだった。今のロシアと日本の関係は良くなってきているけれど、今後より一層良い関係になるには経済のつながりを強くしていかなければならない、そのためには政府間だけでなくもっと民間レベルでお互いの国を知りあい交流していくべきだ。そのためにはどうするべきか。いろいろな交流の仕方があるだろうけれど、まず大切なことは何か。それは言葉ではないか。最近は英語が世界的に共通語だという意識が強い。それは必要なことだけれど、国と国が本当にお互いを知るには、まず相手の国の言葉を学ぶべきではないか。言葉はその国の文化であり歴史であり人なのだ。お互いの国の言葉に敬意を払い、理解して初めて分かりあえることが可能になるでしょう、そして私達が望むような両国の関係を築いていけるのではというものだった。これは私が講演を聴く中でそう理解したものなのでシェフチューク氏が伝えようとしたことと多少異なるかもしれないが、私のなかにはこのような言葉として強く心に残った。始めに言語ありき、というところだろうか。外国語を学ぶ本当の意味はそこにあるのではないか。それぞれの国で長い間培われてきた知の歴史が言葉であり、そこからその国の人々の生活も心の機微も知ることができる。外国の小説を翻訳されたもので読むことも楽しいけれど、原文で読むことができれば、細かいニュアンスや背景などをより楽しめるものだ。それはつまりその国のことばを学び理解することはコミュニケ?ションの一手段というだけでなく、相手の国を理解する最も基本的な方法ということだ。外国語を学ぶ中で私達はそれを忘れがちだけれど、その楽しさと重要さにあらためてきづいた。ああ、私はロシア語を学ぶチャンスを与えられているんだ!と。加えて、自分の国の母国語についてもその素晴らしさをもっと深く知るべきだとも思えた。 この言葉の感動を伝えたくて、質疑応答の際、先生方や学生が興味深い質問をするなか私のような学生がはからずも最後に質問することになった。(私は普段は、積極的な学生ではありません。何に突き動かされたのかどうしてもこの感動を表現したかったのです。)今思い出してみると実はマイクを受け取ってから自分が何を言ったのかあまり憶えていない。伝えたいことがありすぎたこととかなり緊張していたことで、私自身、話していながら何を言っているのかわからなかった。(小さな頃、ロシア昔話をよく読んでもらいました・・・とかいっちゃった気がする。)ただ、その時私が伝えたかったことは、今私達若い 世代が日本とロシアの現在やこれからに積極的に携わる機会も、その将来性の大切さもなかなか伝わってこないけれど、これからの両国の未来に期待をよせてロシア語を学んでいこうとしている学生たちに、ロシアと日本の将来がより明るくなることを信じて頑張るようエ?ルをいただきたいという事だった。精一杯だった。せっかくのこの貴重な機会に、もっと賢い質問をしたかったけれど、自分が今までロシア語を選択してきたわけはこの質問に要約されていて、今同じようにロシア語を学んでいる学生は一様にこう思っているように感じていたからだ。でも、こんな質問をしてしまって、シェフチューク氏はどう思われたのだろうか・・・。と、その時、しまった!と思った。私達『おろしや会』のことをPRしようと思っていたのに、できなかった!のだ。貢献できるチャンスだったのに・・・。ごめんなさい。みなさん。でも、私の質問の後にシェフチューク氏が加藤先生に送った言葉に私はとても感動した。それは、加藤先生がこれまでロシアに関して尽力されてきたことに対して氏が感謝を述べた言葉であったと思うが、二人のこれまでの関係の中での友情というか、信頼というものを感じることができたのだ。人と人との関係も、国と国との関係もこんな基本的な信頼関係があって成立するんだと実感した。
 講演会は無事に終了した。私にとって、そしてあの会場の聴衆の皆さんすべてにとってあの場にいてロシアと日本の今とこれからについて触れられたのはとても有意義だったと思う。こういった機会は学生にとってもなかなかないことだから。そういった意味でとても充実した講演会だった。
 最後の最後で、これは私事なのだが、とてもうれしかったお話をひとつ。講演会が終わって、私達の『おろしや会』部室にてシェフチュ?ク氏とお話をするチャンスができた。その際に前から画策していた、シェフチューク氏にサインを貰おう!という計画を早速実行にうつした。部員の学生それぞれがいそいそと氏にサインとコメントを貰っている間、私は何にサインを貰おうかとぐるぐると悩んでいた。始めは、買った当時から宝の持ち腐れのミニEnglish−Russian 辞書にサインを貰おうと思ったが、自分のロッカーを見てみると、かの‘罪と罰’と‘鼻・外套’の単行本があるじゃないですか!ドストエフスキーとゴーゴリ、どちらにしようかな、せっかくなので私としてはお気にいりのゴーゴリの本にサインを貰うことにした。シェフチューク氏もゴーゴリがお気にいりだと何かの話の折りに小耳にはさんだので、これだ!と確信した。そして私はいそいそとサインを貰いにいった。氏にコメントとサインを書いていただいている間、私はというと何か話し掛けることはないだろうかとまたもやぐるぐると思案していた。氏の手元をじっと凝視しながら、〈私もゴ?ゴリが大好きなんですよお〉とか〈何かおすすめの小説はありますか?〉など何とか自分が印象に残るような会話のとっかかりをと一生懸命探っていた。しかしロシア文学について話を進めたくても、それらについて立派な知識があるわけでもなく、言い出す勇気もなくてぼうっとしてしまった。その時ふいに、氏が私に「夏子さん、私はあなたの名前を忘れません。」といってくださったのだ!!私はその時なぜ氏がそんなことをいってくださったのか全くわからず、ただただ嬉しくて、サイン入りのゴーリの本を手にお礼を言うことしかできなかった。しばしの歓談の後、時間があるからと氏と加藤先生が帰られる際、感謝と挨拶をする時も私にいわれた言葉がうれしくてついついぼうっとしてしまったほどだった。それにしてもあんなに偉い方が私になぜあんなことを言ってくださったのだろうか?私は何も特別なことはしていないのに・・・強いていえば自分でも上がっていてなにを言ったか憶えていない質問のことだろうか???と考えてみたがわからない。でもその理由がわからなくても、私にとってシェフチューク氏が言ってくださったこの言葉は何にも換えがたいものだった。こんな風な言葉を送られる機会は人生に幾度とあるものだろうか。何度かあるとしても私の今までの経験のなかで最上のものだった。
 ここでみなさんはこう思うことだろう。この人間はどうしてこんなことにここまで感動するのだろうかと。ただの感動屋さんと思われるかもしれない。それも否めないけれど、私がこんなにも氏のこの言葉に感動したのにはわけがある。これは至極私事なのだが、最近私は近親者をなくした。その悲しみは深く、その辛さを解決するために私なりにだした答えが、これからの人生のなかで新しい出会いはあるだろうけれど、いずれ別れることがわかっている出会いなのだから、また悲しみが増えるだけで、それならばしないほうがよいということだった。新しく誰かと出会うことも、人との関係を築くことも拒んだ時期があった。そうすることですこしでも悲しむことが減ればいいと考えていた。人には出会いと別れがあり、生と死があることはよくわかっていたけれど、それを頭では理解していたけれど、心はついていかなかった。しばらくの間、こう考えていたけれど、私も学生にはかわりがないので自分がやれるだけの最低限のことはやり遂げようと思い、心は晴れなかったけれど本来の自分の生活に戻そうと努力する日が続いていた。それまで心配をかけてばかりいた友人や先生にはがんばります、と言ってはいたが積極的に外の世界に触れようという気力はなかった。そんな時にこの講演会があったのだ。この場でロシアと日本という国際的な空気に触れ、シェフチューク氏にお会いする機会に恵まれ、「あなたの名前を忘れません」という言葉を貰えたことは驚くとともに大変嬉しかった。自分にもまだできることがあるのかもしれないと考えるようになった。この出会いは私に自分にも可能性というものがあるかもしれないと気づかせてくれた。こんな出会いもあるのか、自分の考えを変えてくれる人に出会えるなんて。大げさかもしれないが、このように感じることのできる人との出会いは長い人生の中でいくつあるのだろうか。そのいくつかの中には歴史的な場面にでくわすこともあるのだろう。今回はそんな出会いや歴史を直に感じてきた方々に私は貴重なチャンスを与えてもらった。そのことを感謝してやまないのである。

 シェフチュークさん、そして加藤先生本当にありがとうございました。

 最後にもうひとつ、ロシア語勉強してて本当によかったです。これからも『おろしや会』とともに!
 
 

    
  
  講演中のシェフチューク氏               おろしゃ会部室で色紙に揮毫

    
         色紙贈呈                      サインをもらう

    
日ロ協会の小山さん・横山さん・県議の高木さんらと   学長室で森正夫学長と懇談 テーブルに両国国旗


名古屋に残る日露戦争
ーロシア捕虜墓地を訪ねてー

 

愛知県立大学 文学部 日本文化学科
平岩 貴比古


はじめに

  2001年7月7日七夕、筆者は名古屋市内・平和公園にある日露戦争時のロシア捕虜墓地を訪ねた。本稿は名古屋における捕虜墓地についての簡単な調査報告である。
  以前、地方誌で「平和公園にロシア兵とドイツ兵の外国人墓地がある」ということ思いがけなく知り、そのうち自分も足を運んでみようと考えていた。名古屋の地でロシアについて学び、サークル活動等を通じて東海地方のロシアにまつわる場所はいくつか回っていながら、恥かしいことに、身近にある史跡はつい見落としていたのだった。日露戦争時、多くのロシア兵が捕虜として日本国内に収容され、名古屋にも収容所があったということは聞いている。しかし、それがどこに所在し、何人の捕虜がこの地に留まっていたのか、今までに詳細に知る機会など全くなかった。今回、実際に現地に赴き、墓碑に刻まれたロシア人の名前を眺めてみて、名古屋におけるロシア捕虜の歴史について、多少なりとも調べてみることにした。
 

1.平和公園にて

  当日、名古屋は相変わらず30℃を超す蒸し暑い天気だった。車で平和公園へ向かい、午後2時ごろから一人で散策をはじめた。場所は管理者に聞くまでもなく、すぐに見つかるだろうと思って、「平和公園会館」には寄らずに地図で確認しながら探すことにした。案の定、30分も経たないうちに無事発見することができた。
  ロシア捕虜墓地は、平和公園・陸軍墓地の敷地内にあり、「万国英霊の墓」と標された一角で、ドイツ捕虜墓地の隣に位置している。木々で隠れ、一見人目に付かない場所だ。2メートル以上の高さの大きな記念碑、そしてその左にロシア語の刻まれた15の墓碑がある。墓地の正面には桜の木が緑豊かに生い茂っており、おそらく春ともなると満開の花を咲かせるのだろう。

陸軍墓地は交通量の多い道路に面しており、バス停からも徒歩1分と近い。平和公園は名古屋有数の共同墓苑であり、毎年お盆休みになると、墓参りのため市内および周辺部から大勢の人が訪れる。自分自身、何度かこの場所を通り過ぎていながら、ロシア人墓地の存在には全く気付かなかった。
ドイツ捕虜墓地について少し触れておくと、これらのドイツ人兵士のほうは第一次大戦時、中国・青島で日本がドイツに戦勝したときに捕虜として収容された。1914年11月、名古屋にも計308名のドイツ捕虜が到着し、当初、東本願寺(中区・東別院)が収容所として使用されていたという。以後、収容所がバラックに移り、各地から転収者が名古屋に集められ、多い時には収容者500名を超えた[冨田:59?60]。
 

2.記念碑・碑文

 捕虜墓地を訪れ、まず目に入ったのが、ロシア正教に独特な十字架を頂いた祈念碑である。背の高い大きな円筒形の石塔で、周りは長方形に囲ってある。その囲いも赤レンガで造られていて、どこか正教会の塀を彷彿させる。木漏れ日に金色の十字架が眩しい。「双頭の鷲」の下に刻まれた碑文の文字は、現代ロシア語の字体と異なっているので読み難かったが、蚊に刺されながらも何とか記録をとった。以下、ロシア捕虜墓地の記念碑・碑文を紹介するとともに、その和訳を付加えておくことにしよう。

Здесь погребены 15 русскихъ военнопленнихъ,
умершихъ въ 1905 году.
Господи упокой ихъ души въ царстве небесномъ!
Помятникъ поставленъ ихъ сослуживцами.

1905年に世を去った15人のロシア人戦争捕虜、ここに眠る。
主よ、天国において彼らの魂に安息を与え給え!
この記念碑、彼らの戦友により建立。
 

3.墓碑の詳細について

 次に、記念碑の左側にある計15基の墓碑、およびそれらの配置について解説する。墓碑に刻まれた名前などは、箇条書きにしてそのまま載せておく(下図参照)。現代人に存在を認知してもらうことで、故郷の土を二度と踏むことなく他界した15人のロシア兵の名誉を尊重し、彼らを弔うことになると信じている。
墓碑は正面から見ると上部が丸みを帯びた正方形になっていて、それらが縦3列×横5列に整然と並んでいる。「名前」「階級・所属」「命日」が順に記され、各々の捕虜のたどった運命について垣間見ることができよう。例えば下表?に<ск.28/X05>とあるのは、「1905年10月28日死去」ということを意味している。階級も兵<ряд.>や上等兵<ефр.>、伍長<мл ун-оф.>、軍曹<ст ун-оф.>などと様々である。ただし配属されていた部隊などについては専門的に調べてみる必要があろう。
 
 
 
 
 
 
 
 

? Ф.Юшкевич Ряд.Дуйск.резер.бат. ск.28/X05
? А.Костерин Друж.Алек.резер.бат. ск.23/XI05
? М.Изятулин Стр.бр.5ВССП ск.20/XI05
? Ф.Степанов Ряд.Новочер.полка ск.18/VII05
? А.Какауров Кан.кв.кр.ар. ск.7/III05
? П.Чернов Ефр.Дуйск.резер.бат. ск.12/IX05
? М.Шимураметов Стр.1р.11ВССП ск.4/XII05
? М.Мешанин Друж.Дуйск.резер.бат. ск.23/IX05
? Е.Козлов Ерф.8р.14ВССП ск.7/VII05
? П.Валигура Кан.кв.кр.ар. ск.24/III05
? И.Спасибин Мл.ун-оф.кв.кр.ар. ск.24/X05
? Т.Ерошкин Друж.Дуйск.резер.бат. ск.29/X05
? С.Боровенко Друж.Алек.рез.бат. ск.7/X05
? П.Уханов Ст.ун-оф.кв.кр.ар. ск.23/III05
? Я.Боровский Стр.6р.17ВССП ск.26/XII04
 

4.名古屋におけるロシア捕虜

  これら15人のロシア人兵士は一体名古屋のどこに収容されていたのであろうか。また彼らの戦友、つまり本国に帰還した他の大多数も合わせると、名古屋の地で過ごしたロシア捕虜は一体何人にのぼったのだろうか。このような身近な疑問について調べてみることにした。
  1904年(明治37年)に朝鮮・満州の覇権をめぐって勃発した日露戦争に際して、終戦までに、延べ7万2408名の捕虜ロシア兵が日本に連行された。収容所は東北から九州まで全国に29ヵ所設置されたという。設置された順番では、松山、丸亀、姫路、福知山に次いで、名古屋が5番目だった[檜山:126?127]。また、名古屋における収容者数は、1905年(明治38年)1月11日時点で、将校12名/下士卒1010名、計1022名になっていた[才神:93]。ただし同年の春までに、松山収容所から静岡・名古屋へ1500人ほどが転送されたというから[才神:95]、収容人数はもっと増えていたかもしれない。
  また、ロシア兵の本国への帰還時期については、墓碑から15人の死亡日を読みとることで推測することができる。日露戦争の講和条約調印は1905年(明治38年)9月5日であったが、それ以降も12月までの間、9人が名古屋で亡くなっているのをみると、捕虜送還の完遂はもう少し先のことであったろう。

  名古屋収容所の所在地や、その当時の様子については長谷川伸の『日本捕虜志』に詳しい。少し長くなるがここで紹介しておく。
  「松山、京都その他の多くとおなじく、名古屋市でも収容所を新築する金が貧乏な日本ではなかった、そこで収容所はここでも寺院だった。門前町の本願寺西別院には、旅順のスミルノフ中将・フォーク中将はじめ数名の少将とバーヤン艦長ヴィレン大佐がいた、いずれも副官が付添い、従卒は二名又三名ずつ付いていた。スミルノフ中将とフォーク中将の居室は、同寺奥殿の茶の間で、八畳二室の数寄をこらした座敷である。ヴイルイ少将とヴィレン大佐のはこれも良い建築と調度の書院であった。その他の将官以下も、それぞれ身分によって区別こそあれ、ひどい座敷には起居させなかった。食事は将官たちは、毎日、富沢町の偕楽亭から洋食を取り寄せて摂らせた、当時の金でその費用が一日一人五円ずつだった。これは当時の新聞紙『万朝報』が載せた記事中にある」[長谷川:122]

  ロシア捕虜を収容した西別院は現在の中区門前町にあり、有名な大須観音からも近い。ところで、第一次大戦の青島戦で発生したドイツ捕虜が、東別院に一時収容されていたことは先に書いておいた通りである。名古屋で収容所として利用された施設について、もう少し触れておくことにしよう。日露戦争以前の日清戦争時には、何と東区の建中寺が清国捕虜の収容所(廠舎)に使われていたという[才神:12]。私事だが、筆者の母校・東海高校は建中寺のすぐ裏手にあった。
  明治大正期において寺院を捕虜収容所としたのは、新たに収容施設を建てるのが財政的に困難であったためである。日清戦争では建中寺、日露戦争では西別院がロシア捕虜収容に利用された。ところが第一次大戦時、ドイツ捕虜は当初の東別院からバラック収容所へ移されており、このころから財政的にも少しずつ捕虜収容に手が回るようになったことを示している。
 

おわりに

  7月7日の散策では、数枚のスナップ写真を撮り、ロシア捕虜墓地を後にした。とりあえず手元にある資料から、以上のことを調べることができた次第である。名古屋の歴史を紐解いていけば、日露関係について、もっと多様な側面が見えてくるはずである。今後、サークルの遠足として墓地を皆で訪ねてもよいし、共同研究のテーマにしても面白いかもしれない。ともあれ、会員のみならず東海地方に在住の方には、実際に自分の足で名古屋・平和公園のロシア捕虜墓地へ行ってみることをお勧めする。
 

参考文献
・ 才神時雄『松山収容所――捕虜と日本人』中公新書、1969年
・ 長谷川伸『日本捕虜志(下)』中公文庫、1979年
・ 冨田弘「日独戦争と在日ドイツ俘虜」1979年(『板東俘虜収容所』法政大学出版局、1991年)
・ 檜山真一「日露戦争――ニコライ・ラッセルと日本――」(ロシア史研究会編『日露二〇〇年――隣国ロシアとの交流史』彩流社、1993年)
 

資料
 
 <名古屋平和公園・ロシア捕虜墓地>
所在地:名古屋市千種区平和公園三
アクセス:地下鉄東山線「星が丘」より市バス・星丘11系統、「平和公園」下車


戸田村を訪ねて

佐々木涼香



   「おろしゃ会」の行事として、初めてエクスクールシア(遠足)に参加した。行先は静岡県の戸田村でその日は気候のよい日だった。
 朝早く名古屋駅に集合し、そこでロシア人のスヴェトラーナ先生とサーシャに紹介され、全員が集合した段階で出発した。JR東海道線を乗り継ぎ、沼津へ向かった。電車の中でスヴェトラーナ先生にロシアのパンをいただいた。それは甘くて酸っぱく、硬いパンだった。今までこんなパンを食べたことがなく、これがロシアの味かと思い感激した。他の人々は電車の中で、ロシア語で会話していたけれど、私にはさっぱりだ。ロシア語は、英語などに比べて、発音が難しそうだ。
 到着後タクシーで沼津港へ向かったそこから問題の高速船である。私は海と船が嫌い。そのため初めはとても気分が悪かった。船の中は私達八名の貸し切り状態で閑散としていた。船の外へ出て写真を撮り、景色を眺める余裕が出てくると、船が結構速く進んでいる気が付いて、気分の悪いのも忘れた。
 無事戸田港へ着き、昼食を済ませると、目的地へ向けて歩いた。村を歩いていると、どの家でも、今まで見たこともないような蟹が、玄関前に置かれているのがよく目に付いた。きっとこの特殊な蟹が、戸田村の特産物なのだろう。歩いて行くと、「造船記念碑」が建っていた。写真を撮り、またひたすら歩く。三十分程海岸をぐるりと歩くと、第一の目的「造船郷土資料博物館」に到着した。まず館の入口付近にあった、ディアナ号の錨に圧倒されながら記念撮影し、中へ入った。中はさほどど広くはなかったが、私達は興味津々に展示品の一つ一つ丁寧に目を向けた。一回り観察した。絵巻、ヘダ号の模型、ディアナ号の模型、プチャーチンの日常使用品などである。
 短大の授業で話しに聞いて、プチャーチンや戸田村での造船事業については、少しは知っているつもりであったが、博物館に展示してある物を見て、もっと印象深いものになった。
 例えば、プチャーチンの胸像が展示されていた。プチャーチンは何をした人かは学んで知っていたが、人相や人柄までは分からなかった。が、今回初めて知ることができ勉強になった。
 帰りの電車の中では、みんな歩き疲れ切った様子でぐったりしていた。しかし、その分だけ有意義な楽しい旅だった。

高木利佳さん(右)と戸田湾砂浜にて


「不思議惑星キンザザ」と民族友好

 

愛知県立大学 文学部 日本文化学科
平岩 貴比古


 6月初め、会員の常本さんがあるソ連映画のビデオを大学に持ってきてくれ、一部の学生と教員で鑑賞した。映画の名は『不思議惑星キンザザ』(1986年) 。以前、ロシア映画の評論を読んだときにこの作品の存在を知ったのだが、そこには<緊張感を欠いた、まったりモードのSF冒険映画> との解説がしてあり、一体どういうものなのか気になり仕方がなかった。気になってはいても15年前のソ連発・グルジア映画ということで、もう日本で見るのは不可能だと考えるのが自然である。たまたまインターネットで検索したところ、この作品への情報が意外に多く見つかり、日本人にもファンが多いことが判明した。その上、他でもない今年7月に東京・渋谷ユーロスペースでの再上映が決定しているとのことである。そんな中で常本さんがビデオを見つけてきた。

 監督はゲオルギー・ダネリア、製作はモスフィルムである。通常SF映画というと、大規模なセットや特撮技術、CGなどを駆使して製作されるイメージがあるのだが、この映画ばかりはそうはいかない。ストーリー設定では、地球以外の惑星が舞台になっているとはいえ、どう考えても撮影場所は中央アジアあたりの砂漠にしか見えない。そして荒野の真中に時折ポツンと置いてある鉄クズが、この映画のセットのようである。加藤史朗先生はうれしそうに一言、「その辺に落ちているガラクタと同じだ」と評した。
 主人公は中年の建築技師ウラジーミル・ニコラエヴィッチと、グルジア人でインテリ学生のゲデバン。二人は、街中で「宇宙人らしき」人物に会ったことをきっかけとして、ありふれた日常から一瞬にして惑星「キンザザ」にワープしてしまう。そこに住む異星人は宇宙船を所持しているのだが、野蛮人の風貌といささかも変わりない。強烈な科学万能主義を批判である。彼らは地球の言語を解するようなのだが、英語でもフランス語でもなく、なぜかロシア語だけが(不思議なことにグルジア語も)通じるという不可解な設定。異星人にとってマッチが貴重品であることを知った二人は、それを異星人との交渉材料に、何とか地球に帰ろうと試行錯誤していく。スクリーンに一貫して描かれているテーマは「宇宙を超えた友情」である。

 この作品の舞台・惑星「キンザザ」とは、一体何なのだろうか。この作品の中に見たものは、まさに「ナンセンス映画」の極みであったような気がする。ストーリーの細部、または異星人の言語を理解するためのコードが限りなくゼロに近く、それを解するためにはコンテクストに多くを依存しなければならない。まさに記号論の世界である。ここでコンテクストとして引き合いに出せるのは、「ソ連」というキーワードだけだ。したがって解釈の余地は大きく、映画作品として非常に面白いテキストだといえる。
 最初に思ったのは、あの理解不可能な惑星「キンザザ」は、ソヴィエトにとっての「外国」を極端にパロディー化したものではないか、ということだ。主人公のウラジーミルとゲデバンの二人が、空飛ぶ鉄のカタマリに乗った異星人を見て、<資本主義社会の人間だ>と言う場面がある。映画自体はペレストロイカ以降に製作されたものである。ソ連時代に社会主義陣営以外の外国についてあまり情報を得ることができなかったことを自嘲し、海外旅行もままならなかった反動であろうか、一気に宇宙の果ての惑星へ舞台を移してしまったのが面白い。
ちなみに、異星人とロシア語でしかコミュニケーションできないという訳のわからない設定も、ロシア語学習者にとっては何だかうれしく思えるものだ。ロシア語が理解できるとはいえ、異星人の母語は「Ку(クー)!」という単語と、若干の名詞からなる言語である。足をガニ股にして、頬を手のひらで数回たたき、両手を横に広げて「Ку!」と奇声を発すれば、もう立派な挨拶だ。ソ連全土で『不思議惑星キンザザ』が上映された頃、この言葉が大流行したというが本当だろうか。

 映画のテーマは「友情」であると述べたが、それはロシア人とグルジア人の友情であり、また二人と異星人との間の友情である。ロシア語を介して異質な存在と心を通わせていく。そのような意味でこの作品は、「民族友好」の名のもとにソヴィエトに咲いた最後のあだ花だったのかも知れない。ソ連崩壊以後、皮肉にもロシア・グルジア両国の関係は悪化の一途をたどっている。
 ところでアメリカ映画において、宇宙人はすなわち侵略者であり、敵対する対象であることが多い。「異質なものと戦うアメリカ」というメッセージをそこに読み取ることができよう。宇宙人との友情を描いた作品もあるにはあったが、その場合、友好的な宇宙人の存在が欠かせなかった。一方で『不思議惑星キンザザ』では、友好的なのは地球人のほう、いや「ソ連人」のほうである。ストーリーも何だか人間くさい。SF映画のカテゴリー分類されてはいるが、そんな狭い枠に閉じ込めておくのはもったいないほど強烈な存在感を放つ作品であった。
(おろしゃ会・2001年度会長)


ハバロフスク訪問記
   

渡辺海運株式会社  渡邉俊一
(元おろしゃ会副会長)



   昨年9月、私は念願の極東ロシアに旅立った。あまり、準備時間がなかったので、青森発最終便のハバロフスク行きに滑り込んだ。ハバロフスクを選んだ理由として、ロシア極東部の中心都市であるばかりでなく、70年代に手にとった『今日のソ連邦』のグラビアを飾った鮮烈なイメージがあったからである。
  函館の知人を訪ねた後、青函トンネルをぬけて三内丸山という巨大な縄文遺跡のある青森に向かった。ハバロフスク出発時刻は、1時頃であったので、私は我偉大な先祖、縄文人の遺跡に立ち寄ることにした。
  三内丸山は、新潟のヒスイ、北海道の黒曜石など広い交流をしており、ロシア沿海州との文化的共通性も見られたスケールの大きい遺跡である。昼少し前に空港に着き、私が三内丸山観光中ずっと待っていてくれた古代蝦夷を想像できるような、純朴な運転手と分かれ出国の準備となった。
  簡単な打ち合わせがすむと、ロシア極東ダリアヴィア航空行きの待合室へと向かった。そこには、眩しいばかりの白人の子供たちがいて、自分自身の黄色人種の容貌を意識せざるを得ない気持ちがよぎった。しかし、かつて欧米の白人達の中で違和感を感じた時と少し様子が違うことに、気がつくのに時間はかからなかった。彼等の衣服は地味ですこし貧相な感じがあったし、欧米のように一部、東洋人を射抜くような視線がなかった。その時、私は彼等が極東のロシア人の子供で青森にホームステイにきていたことがわかった。子供独特の陽気さはあったが、日本のホストファミ
リーと離れるのがさびしそうだった。
  初めてロシアの航空機に乗り込んだが、パイロットやスチュワーデスの容姿のよさとは対照的に、おそまつな機体で、少し信頼性の面で不安を感じた。飛行機の座席というよりは、田舎のバスのようなシートであり貧相な感は否めなかった。飛行機は昼過ぎに青森を離陸し、一気に日本海を横断するという期待に反し北海道そして樺太の西海岸沿いに北上し、あっという間に大陸に渡っていた。
  ハバロフスク空港は貧相な地方空港である。タラップを降りると長身の女性の制服姿があり、旧共産圏のイメージを強く感じた。入国審査は効率的に見えたが、やはり共産国の雰囲気であった。手続きが終わるとすぐに、私の通訳兼ガイドのイリーナ・ベレメンコさんに声をかけられ、私が一緒に行動する日本人の相方は東京出身で中年の足の不自由なサラリーマンであることがわかった。イリーナさんは、40代前半くらいの独身で知性的な女性であった。ソヴィエツカヤガヴァニ出身でハバロフスク工科大学を卒業した元技術者である。流暢な日本語は彼女のガイドとして洗練された信頼性を感じさせ、私は安心感をおぼえ、さいさきのよい出だしであると期待した。

  すぐに、小型バンによりインツーリストホテルに着き、日本時間でまだ2時というのにこちらでは、日が高いのにもう4時ということで、その日はホテル周辺の散策だけで、何もスケジュールは組まれていなかった。近くには、ムラヴィヨフ像があり、彼が樺太侵略の立役者と思うと苦々しい限りであった。その像の近くで7歳くらいの子供が遊んでいて、慣れた様子で私に近づき汚れた小さな手を差し出し微笑んだ。明らかに金銭を要求していたのだ。愛らしく少しかわいそうに思えて硬貨を渡そうとすると、イリーナさんが飛んできてするどい口調でロシアの子供を追い払った。私は子供の身なりも悪かったので、少しぐらい小遣いをやってもいいじゃないかといったが、彼女はそれは、子供のためにならないし、子供の親に取られることを告げた。又、なによりイリーナさんのロシア人としての誇りを垣間見る気分であった。
  少し古風な調度品のあるシンプルな部屋に入り、大いなるアムールの夕日を眺めた。戦前の軍歌の歌詞に「赤い夕陽につつまれて今日は野末の石の下・・・・」という文句があったが、たしかに日本で見る夕陽より大きく感じられ、かつて北満州に開拓団として入った愛媛県人の見た光景がしのばれた。
  私は夕陽に照らされた、褐色のアムール流域をしげしげと眺めたが、何か新鮮さを感じなかったというのが、正直な気持ちであった。たしかに、アムール(黒竜江)は雄大で小川のような日本内地の河川とは趣を異にする。
しかし、かつて中国・前漢の時代(BC3世紀)『山海経』の「海外北経」には、北倭(北日本)が黒竜江の河口から始まると書いてあり、当時中国の勢力は黒竜江下流まで及んでいなかったが、この文献には黒竜江河口には「毛民」がいることが記されている。このあたりの少数北方民族は皆体毛が薄く、「毛民」とはアイヌを指していたことは間違いないのである。アイヌは日本各地で採掘された縄文人の頭骨に最も類似し、アイヌが古くからの日本列島(樺太を含む)の住民で縄文人の血統を色濃くのこしているのは十分証明可能である。
縄文人は我々日本人の基層となった人々で、勿論私の体にも彼等の血が脈々と流れているはずであり、私がアムールやハバロフスク近郊の風景に強烈な違和感を感じなかったのも、あるいは、我が先祖がかつてロシア人よりも中国人よりもずっと昔から住んでいたからかもしれない。事実、アムール流域には、樺太アイヌの子孫と自任する人々(クイサリ)がおり、機会があれば、遥かなる我が親戚に会ってみたいものである。
  初日の夕食は、インツーリストホテルの1Fレストランで食べたが、日本で味わったロシア料理よりも美味しいとはいえず、特に、炒めた米らしきものには閉口した。しかし、そのまずさも、若くて愛想の良いウェイトレスの笑顔で十分補足できたのであった。欧米のレストランでウエイトレスが愛想もなく、注文した品を音をたて置いて行くという話は良く聞くが、感心なことにロシアのウェイトレスは元々そうなのか、よく指導されているのか、とても感じが良く、旅行の最後までその印象は変わらなかった。
  実家に無事着いたことを報告し、休むことにした。しかし、お隣さんはゴトゴトと物音がし、忙しく今回の旅行の主目的であるらしい、女性の調達に出発するようすであった。
  初日は、朝食後いよいよ、小型バン(日本製らしかった)で市内観光に出発である。運転手は60歳くらいの初老の紳士で体格がよく、年のわりに体の身のこなしが速く、彼が健康で同世代の日本人よりバイタリティーにあふれているように見えた。おきまりの観光コースであったが、堅牢な建物は第二次大戦後、不法にも連行された日本兵捕虜により建造されたことを聞く。建物は美しいものもおおかったが、不思議とそれほど歴史を感じなかた。ハバロフスク駅は閑散としており、極東ロシアの中心的な拠点としては、わびしく思えた。駅のトイレに行こうとすると、おばあさんがしっかりと小銭を徴収し、中に入ると、あまりに便器がおそまつなこと、紙がないこと、不潔であることには閉口した。このことは、ロシアにいる間、ホテルのトイレを除いて、私の悩みと不快の種であった。
  次にガイドが案内してくれたバザール(市場)は大変にぎわっていて、売り子の少女は微笑みかけ、活発に商売をしている人の中には、朝鮮人(系)と思われる人も多数見かけた。私がガイドに「朝鮮人か?」と尋ねると「朝鮮人だ」と少し見下したような顔つきになったことは、日本人である私に対する感じの良さとは対照的で、知的な彼女に似合わないことであり、私にとってはショックであった。外国人用の高級品を扱うショッピングセンターでは、ものものしくサブマシンガンで武装した警備員が入り口をガードしていた。特に欲しい物のないわれわれは、イリーナさんの退屈な建物の説明を聞きながら市内を駆け巡った。ある像の前では、スカーフをした色黒の明らかにロシア人に見えない3人の婦人が立っていたが、ガイドによると占い師のジプシーだという。この時も彼女は不快そうな顔つきであった。おおらかなロシアでもなにかしら、民族的な差別感を垣間見る気がした。
  アムール遊覧の船にドイツ人グループと供に乗ったが、足の不自由な連れは、彼等に「韓国人か?」と聞かれ不愉快そうに「Japanese]と答えた。彼の表情に日本人の韓国人に対する感情が正直に出ていた。幸か不幸か、私の場合「日本人だな」と聞かれるのが常であり、その瞬間われながら安堵のきもちを持ったことで、私の心に無意識的に他のアジア系と区別したい感情があるのだと気づくのだった。アムール河は褐色で殺風景な風景が広がり、沖合い300メートルあたりで中国とロシアの警備艇が、まるで形だけと言わんばかりに、向き合って停泊していた。こうして2日目も特に感動もなく過ぎていった。
  3日目は、相方がイリーナさんとともに、中露国境のオプショナル・ツアーに出発したため、私は午前中、全くの自由を味わった。ホテルのすぐ近くの赤軍博物館に入ったが、入場者は私一人で見学コースを英語で尋ねるが通じず、ロシアのおばさんは、地下にある土産物売り場から一人の若い男を連れてきた。長身でなかなかいい男であったが、すぐに、10ドルで案内したいと申し出た。流暢な日本語で、戦争に関し聞きたいこともあったので、すぐに承諾した。階上にあがると、なかなかの英語を話すおばあさんが私に待ってましたとばかりに近づき、ロシア青年を押しのけて、説明を始めた。要するに、彼女はスターリン時代の申し子で、いかに赤軍が英雄的に戦ったか、ドイツがいかに残酷であったか、極東でもファシストの日本人をいかに追い出してやったかという3点であった。私はおばあさんに質問してみた。「満州になんで入ってきたのか」曰く「ファシストから解放するためさ」、「満州はもともと中国領ではないのか」曰く「日本が侵略したのさ」、「しかし、100年前はロシアが占領していたではないか。これはいいのか。サハリンはロシア人が来るずっと前に日本人が来ていたのだ」、ここでおばあさんは、突如英語からロシア語に変換しなにかわめきながら、うらめしそうに私の顔を見て去っていった。これを見ていたガイドの青年は困惑した様子であった。興味深い赤軍や関東軍の軍服や武器を見て、土産物売り場へ降りていった。ここで、きれいな琥珀のペンダントと赤軍の肩章を買って、美しいロシアの売り子に見とれた後、外へでて赤軍の戦車や野砲の前で写真を撮った。通訳してくれた青年は私に夜のハバロフスクを案内させてくれとちゃっかり、ガイド料金を提示した。夜の一人歩きは旅行会社に禁止されていたので、私はジャズ喫茶を案内するという彼の提案を了承した。
  午後はイリーナさんを雇い、今回のハバロフスク訪問の目的の一つである「極東共和国委員会」なるグループを見つけることであった。1991年、ソ連崩壊後、各地に様々な自治を求める団体が雨後のタケノコのように出来たが、これもそのひとつであった。

 1994年、「極東ロシアを行く」という番組でこのグループを知ったのだが、彼等の主張は、もはやモスクワを相手にせず、日本を頼って独立しようというものだ。いはば、ロシア版ルック ・イーストである。そのために、サハリン(樺太)を通じ、日本と2本の海底トンネルで結び、(つまり、間宮海峡と宗谷海峡である)経済的に日本との結びつきを強め、大正時代のシベリア干渉戦争時、ユダヤ系アメリカ人が構想し、しばらく存在した「極東共和国」を再現しようというのである。ムラヴィヨフ・アムールスキー(旧マルクス・レーニン)通り沿いの一階の建物にあるという「東海テレビ」の情報のみで、2人で通りを探し回った。しかし、そのようなものは見つからず、新聞を発行していたということから、イリーナさんにある「新聞社」に連れていってもらった。親切にも30分くらい新聞社の幹部の方が探してくれ、ようやく電話が通じた。もう、アムールスキー通りにはなく、アパートの一室らしかった。相手方も私に興味を示したが、私とイリーナさんの都合でその夜は面会できなかった。翌日、相手が週末のヴァカンスの後ならいいということで電話を切った。

  赤軍博物館で知り合ったオレグと9時にホテルで待ち合わせ、いよいよ夜のハバロフスクに出発だ。これまで専用車ばかりで走っていたので、トロリーバスに乗ってみたかった。とにかく、料金が安くかなりの混みようで、所持金を盗られないか気になったが、心配無用であった。それにしても、一目で旅行者とわかる私にロシア人たちは、特に気にもとめず、私もこの町の住人になったような気分で、欧米の田舎に行った時に感じる異邦人といった意識は、この町とは無縁である。バスを降り、目指すジャズ喫茶まで20分ばかし歩いたが、その間、私(外国人)がいるので、オレグに「女はいらんか?」と3回もロシア人から声がかかった。貴重な外貨獲得源なのか?ジャズ喫茶は薄暗く、70年代の日本の小さなジャズ喫茶という感じだ。演奏する曲は70年代のアメリカのロックが多く、とても懐かしかった。演奏グループは、極東一の腕前だそうだ。長髪でやせて70年代のロック歌手そのままの風貌でなかなか上手かった。オレグが次から次と飲み物と食事を注文したが、ホテルで日本食をすませていた私には、とても食べられるものではなかった。オレグ一人のおなかを満足させただけであった。注文をとる女の子は感じがよく、小柄でどこか東洋的な雰囲気もあったが、オレグいわく、正真正銘のロシア人という。帰りは、50ルーブルで白タクをつかまえホテルに戻った。ロシアでは白タクがOKなので、便利である。
 

 ハバロフスク4日目、朝からオプショナル・ツアーの自然動物リハビリセンターへ出発した。ホテルまで向かえに来たのは、センターのオーナーの息子さんで、俳優のような男前であった。音楽テープを聴きながら楽しいドライブであった。途中、給油したが、なんともお粗末なスタンドであった。シホタアリン山脈の針葉樹のタイガを見ながら3時間ばかし走った。近年、日本に輸出するため多くの木が切り倒され、男前(名前を忘れました)のロシア人は嘆いていた。彼は自動車が好きでトヨタとホンダを持っていて、日本車が一番で故障しないと絶賛していた。センターに着くと、髭もじゃの迷彩服を着た親父さんが出迎え、今日はあんた達とアメリカ人の団体が来るんだとごきげんであった。金歯を入れたアムール虎以外は特に感動はなかったが、バーベキューの美味しさ(グルジャ風)と蜂蜜を体中に塗られたロシア式サウナは最高であった。去年もボランティアで東京から2人の女の子が来たという。センターの娘さんたちは美人姉妹で裸馬に乗って遊んでいた。

 今回のハバロフスク訪問のハイライトともいえる乗馬が待っていて、それは私に痛快気分を味合わせてくれた。ロシア姉妹の「誰か乗りたい人?」という問いかけにアメリカ人グループも誰も興味がなさそうで、それではということで、私が日本武士代表として名乗りでた。さすがに、裸馬では落馬するので、可愛い姉妹に鞍をつけてもらい、いざ出陣。最初は「乗ったことある?」という不安気なロシア娘にOKのサインをだし、馬にまたがった。日本で乗っていたのはアラブやサラブレッドだったので、少し小さいと感じたが地元産であるという。私の身長にはぴったりだった。針葉樹の中を疾走するのは快適で、帰ってくるとアメリカ人、ロシア人の拍手をもらいごきげんであった。私の技術に安心したのか、もう一度乗せてもらい十分に満足できた。

 馬から降りると、荷馬車を引いたアジア系の夫婦が近づき、日本人かと尋ねられた。そうだと答えると彼等が朝鮮系であること、最近は中国系やベトナム系が来て、彼等の悪口を流暢な日本語で奥さんが私に語るのには、少々とまどった。しかし、彼等もロシアで微妙な立場にあることは、その表情から窺い知れた。

 夕方、インツーリストホテルに帰って、日本食レストランで食事をとった後、イリーナさんが「極東共和国委員会」の人に電話するが、ダーチャから帰るのが遅かったのか、結局連絡がとれず、会わずじまいになってしまった。

 最終日、早めの朝食の後、ホテルに出たが今日が青森便の最終とあって、帰る日本人が多く、ホテルの前はパトカーが2台警戒していた。精悍な警官が乗っていたが、車はカローラだったのが、貧相な感じを我々に与えた。霧の中を空港へ急いだが、途中で「日本人墓地」に寄り花束をささげた。こんなさびしいところで苛酷な労働、それも終戦後に強制された彼等の気持ちを思うと本当にせつない気持ちが充満した。私は合掌した後、敬意を込めて敬礼した。空港は日本人があふれており、手続きを済ませたあと、ドライバーとイリーナさんにチップを渡した。ずいぶんロシア人にチップを渡したが、なにやら19世紀的英国人の気分になっている自分を感じるとちょっと嫌な気がした。しかし、ロシアは何でも安くお金が減らない。そこで、私は100ドルで自分へのみやげに、骨董品屋で赤軍の軍服一式を買った。主人はきさくな人で私のロシア兵姿は結構ロシア人に受けていた。イリーナさんと手を振って分かれる時、少しさびしそうな表情を垣間見た時、共産国ではなくなったものの、厳しいロシアの生活を続けざるを得ない彼女に同情し、少し失礼だが、日本人に生まれてラッキーだったと感じた。そっれは、優越感ではなく、宿命というか自然に湧き出た感情だった。

 ダスビダーニャ・ロシア!まだ発展途上とは言え、可能性のある、内に秘めたエネルギーで満ち溢れた我が隣人である。私はもっともっと、両国が心理的に近い国になることを願っている。また、そうならなければならない。飛行機は多くの思い出を乗せて一路、青森に向かった。


 「宇宙ステーション…?」
   

              江頭 摩耶(愛知県立芸術大学弦楽器科4年)



   「宇宙ステーション…?」2年前、県芸から自転車で20分坂道を登り、初めて県大を目にした私の感想である。そこは、我々県芸生の日常からはあまりにもかけ離れた、パラダイスであった。

 「愛知県立芸術大学」通称「県芸」。私の通うこの大学では、日々過酷なサバイバルゲームが繰り広げられている。この学校は、学生をとことん鍛えぬくために、多くの設備を備えている。まず、教室はすべて日が当たらず、風通しが悪いように設計されており、夏場の湿度は80%を軽く越え、冬場の冷え込み、隙間風も相当なものだ。ここで練習することにより、どんな気候条件でも演奏できるようになる。そして、ガンガン弾きまくる隣の部屋のピアニストをなんとか無視して練習し続けることにより、高い集中力が養われるのだ。学食では、開校以来の秘伝の油で揚げたという評判のから揚げを奪い取ろうと、獰猛なネコどもが学生を襲う。そして、このような中、朝8時からのレッスンや、夜9時までの練習に4年間耐えぬいた者たちだけが、卒業を許されるのだ。

 さて、「単位交換」というありがたい制度によって、自動ドアやエレベーター、そしてウォシュレットまで備えた宇宙ステーション、県大に潜入した私の目的はただ一つ、タダでロシア語を学ぶことであった。そして今では、もくろみどおりタダでロシア語を学んでいるだけでなく、毎週授業を受ける際には、(当たり前のように)加藤先生にコーヒーとお菓子をごちそうになっている。しかもтолстой(太った)をなぜか勝手に「教養のある」と訳したりする。正にやりたい放題とはこのことだ。
 しかも、コーヒーとお菓子以外にも、計画外の収穫があった。それは、おろしあ会を中心とした、たくさんのすてきな人たちとの出会いだ。高校から音楽科に進んでしまった私の友人は、ほとんどが私と同じように音楽を学んでいる人たちばかりで、話題も限られている。そんな私にとって、おろしあ会でいろいろな人と会って、話をすることは、とても新鮮な体験だった。また、県大はきれいなだけあって(?)、学生はみんな明るくて朗らかな感じがするし、みんな外部の学生である私に、とてもやさしく親切だ。しかも、私は自分の学校も気に入っているのだが、県大ののびのびしたかんじが、私はとても気に入っている。
 というわけで、週一回、一時間半しか来ないながらも、県大は、私にとって大切な存在なのだ。そして、今週もまた、(今では車があるので)この梅雨空と坂道をものともせず、宿題も少ししかやっていないのに、いそいそと県大へ向かう。


俺とロシア

愛知県立大学外国語学部ドイツ学科1年
萩野 祐樹



  ロシア語を履修しているよ。と言うと決まって「なんでロシア語なの?」と聞かれます。
その時は「ドイツとロシアはすぐ近くだろ。日本とロシアは隣同士だろ。繋がるがや」などと適当な事を言っているのですが、ロシア語を履修し3ヶ月ほど経った今、本当の理由を言うと、ロシア語やってると話のタネになりそう、という更に適当なものです。真面目な理由で始めた人、ごめんなさい。
 極めていい加減な理由で始めたロシア語であったからなのか、始めたばかりの頃は本当にハテナマークの連続でした。暗号みたいな文字は書きにくくて腹が立つわ、この暗号みたいな文字列に本当に意味があるのか?と疑っているような状態でしたが、しばらくすると、暗号みたいな文字もなかなかに(ё_ё)可愛いものであり(´Д`)、曲がりなりにも「暗号文」を読んだり書いたりできるようにもなりました。全く未知の世界であったロシアのことも少しずつ解ってきました。しかし、私はまだひよっ子であり青二才なので、これからもっと精進していこうと思います。
 
 
 
 


おろしゃ会会報第7号
2001年10月8日発行



発行
愛知県立大学おろしゃ会
代表 平岩 貴比古
(愛知県立大学文学部日本文化学科3年)
〒480−1198 愛知郡長久手町熊張茨ケ廻間1552−3
学生会館D-202

発行責任者
〒480−1198 愛知郡長久手町熊張茨ケ廻間1552−3
     愛知県立大学外国語学部 加藤史朗
電話0564−64−1111 ファクス0564−61−1107
 
http://www.for.aichi-pu.ac.jp/~kshiro/orosia.html


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