「おろしゃ会」会報第8号その1
 
 
 
 
 
 



 
 
 
 
 
 
 
 

2001年11月10日 平和公園エクスクールシヤ

愛知県立大学「おろしゃ会」会報 第8号
2002年4月8日発行

2002年4月8日発行

「おろしゃ会」会報第8号もくじ
はじめに/加藤史朗 2

特別寄稿
世間は誤解する/中村喜和 4
左近毅先生の訃報に接して/早坂真理 6
「新評論」の60周年記念/ワシーリー・モロジャコフ 7
Японский язык в России, русский язык в Японии:чтобы лучше понимать друг друга в эпоху глобализации/Железняк О.Н. 11

会員会友寄稿
拿捕、仲裁、オットセイ保護条約/木下郁夫 21
「北方領土問題解決に向けて」/服部亜衣子 23
ツルゲーネフ『ムムー』と現代ロシア文化の困難/乗松亨平 26
カネフスキー監督『動くな、死ね、甦れ!』/平岩貴比古 30
風が吹くまま、気の向くまま、私は「わたし」と旅に出る/蓑島陽子 33
Здравствуйте!/Марина Ломаева 37
イルクーツク紀行/奥山智靖 42
「おろしゃ会」7号の寄稿者に宛てて/金倉孝子 46
春の反省(&次回予告)/鈴木夏子 48

おわりに/平岩貴比古 49



 

はじめに

Сакура уже отцвела… 桜はもう散ってしまいましたよ…







 「おろしゃ会」会報春季号は、4月8日付け、愛知県立大学の入学式当日に発行、これを祝って青少年公園で花見と洒落込むのが昨年来の目論見であった。しかし、今年はどうしたわけか、桜は3月下旬に満開。新年度開始前に、早くも風に舞う花びらを杯に浮べて、酩酊を重ねる仕儀となってしまった。おまけに愛知万博工事の余波で、4月1日をもって青少年公園も閉鎖となり、今や地下鉄藤ヶ丘駅と万博会場を結ぶリニアモーターカーの新設工事のさなかにある。国破れれば、山河も危うしと思わざるをえないほどの風景の変容ぶりである。
 桜はロシア語でも、サークラだ。古い和露辞典には桜に当たる語句としてвишня があるだけだ。しかし藤沼貴先生の和露辞典では桜はсакураサークラであり、研究社版露和辞典でもサークラが桜であり、チェーホフ「桜の園」の桜вишняにはサクランボを採る「セイヨウミザクラ」という説明がある。
  実もつけないで花びらを散らすサークラは、ことのほか美しくて悲しい。昨年10月に会報第7号を出して半年も経ないうちに、私の身近だけでも18歳を待たずに逝ってしまった少年が二人もいる。そうした少年の友人一人と昨年秋に会った。少年とは東京駅で待ち合わせたのだが、会うとすぐさま「生きる意味なんてあるんですか」と直球を投げてきた。思わず「ストライク!」と言いそうになってしまった。だが判定を途中で覆す自信のないアンパイヤのように、「意味があるかどうかは知らないけれど、価値はあると思うよ。いかなる人生であれ…」とつぶやくように答えた。はるか昔の情景を思い浮かべながら・・・。何の集まりの時であったかは忘れたが、講堂に蝟集する1500余人の少年を前にして高校時代の恩師が「生徒諸君!これだけは言っておきたい。いかなる人生であろうと絶対に生きる価値があるということだ」とまさに獅子吼されたのをその時思い出していたのだった。今の私は、すでにあの時の師と同年輩だ。だが若者と接するときのエネルギーの量と自信において、師とは雲泥の差があると認めないわけにはいかない。どうしてこうも自信がもてないのであろう。おろおろと悲しむばかりか、その悲しみも、数日を経てみれば桜の花びらのように散ってゆき、何の実も結ばない。その繰り返しがあるばかり。

 「おろしゃ会」にとっても悲報が続いた半年間であった。昨年、10月8日に今井義夫先生、今年1月4日に左近毅先生の訃報に接した。お二人とも私の研究テーマにおける先達であられるだけではない。今井先生は闘病中に会報を読んでくださり、励ましのお葉書を何度もいただいた。先生ご快癒の後には、ご寄稿もいただくことになっていた。昨秋、サラトフで開かれたチェルヌィシェフスキイに関する国際シンポジウムには、自分は病で出られないから、代わりに行って欲しいとも懇請された(ロシア史研究会大会と重なり、先生のお言葉に従えなかった)。長野県原村の別荘に招いていただいたり、外国人研究者との会食に誘っていただいたり、子供が生まれるとお祝いを下さったりとお世話になるばかりで、何のお返しも出来ず、お見舞いさえ出来ず、和顔愛語という言葉にぴったりの記憶だけを残して去ってしまわれた。
  左近先生とのお別れは、唐突すぎて未だに実感が湧かない。先生には「おろしゃ会」の常連寄稿者になっていただいていたからでもある。一昨年の夏、稲葉千晴氏(名城大学)とご一緒に犬山の鵜飼見物の後、酩酊状態でお電話を下さったことがある。この機会を逃しては、と思い、「先生、おろしゃ会に原稿を書いて下さいよ」とお願いしたところ、「アビヤザーテェリナ・ヤ・ナピシュゥ!(きっと書きますよ!)」とロシア語で答えてくださった。その大きなお声が今も耳朶に残っている。先生はお言葉通り、2001年4月発行の第6号に「ロシア凡人伝」という玉稿を寄せて下さった。「ロシア凡人伝」は大好評で、「左近という人は二葉亭を知っているようだから、百歳を超えておられるのか」という問い合わせもあった。暮れに電話でそのことをお伝えすると、「そういう誤解は、ありがたい!ますます張り切ってしまいます。おそらく10回以上の連載になるでしょう」という心強いお言葉を伺った直後の訃報であった。先生への追悼の言葉は、今も思いつかない。畏友の早坂氏に無理を言って「追悼の辞」を書いていただいた。
  かつて覚王シャカムニは、生老病死の四苦が人生の本質であると教えられた。さらに四つの苦が加わり、四苦は八苦となる。なかでも四苦の一番の友は愛別離苦であると思わざるを得ない年に達したと痛感している。集まり散じて「おろしゃ会」も灯篭のように姿を変える。だが、どこかでこの会で出会った人を一瞬なりとも思い起こしていただけたらと願わざるをえない。永遠の「今」( eternal now )がこの会のモットーではないかと思っている。
会報の読後感として寄せられたさまざまな意見のなかで、特に気に入ったものがある。「まさに玉石混淆ですね!」という評である。「玉石混淆」こそ、おろしゃ会のあり方に相応しい言葉ではないか。たくさんの玉稿をいただくことによって、石も玉となるかもしれないからである。おろしゃ会には「他山の石」にもこと欠かない。ウズベキスタンから名古屋大学の大学院に来ているガウハルという女子学生の名は、文字通り「金剛石」という意味である。さらに五月になれば、クラスノヤルスクから留学生マリーナが県立大にやってくる。クラスノヤルスクとは「赤い断崖」という意味で、その名のとおり同市の中心を流れるエニセイ上流の河谷には赤い石の壁が続いている。おまけに彼女の両親はともに地質学者である。マリーナはきっと大きな可能性を秘めた「原石」であるに違いない。
  中村喜和先生をはじめとして、玉稿を寄せていただいた方々に「石」を代表するものとして心よりのお礼を申し上げたい。

加藤 史朗(愛知県立大学外国語学部)

世 間 は 誤 解 す る



 
 
 
 
 

中村 喜和(一橋大学名誉教授)

 ロシアへ旅行するたびに痛感させられるのは、国土の広さである。そんなことならわざわざ出かけるに及ばない、地図を眺めれば分かるじゃないか、と言う人がいるかもしれない。それは理屈である。いったんロシアに足を踏み入れると、広いという実感がわれわれの意識に圧倒的な力で迫ってくる。
 先だってシベリアへ旅したときもそうだった。新潟からウラジヴォストークまでは1時間10分で着く。しかしそこからイルクーツクまではさらに4時間もかかる。そこでシベリアの半分である。東京からは北へ飛んでも西へ向かっても、1時間半で日本という国は見えなくなってしまう。
 そういう感覚をもつ者にとって、今は亡きリハチョフ博士がロシア人のあこがれた「ヴォーリャ」(自由)に関して述べた次の言葉はすんなりと納得がゆくのである。
 「広大な空間はロシア人の心をとらえて離しませんでした。行けども行けども果てしがなく、大きな川の流れに乗ってどこまでも旅をすることができ、自由の息吹き、見はるかす大地の息吹きを吸いこみ、風で胸をいっぱいにふくらませ、頭の上に大空を感じ、足の向くまま気の向くままに、どこへでも行くことのできる大きな空間です。」(『ロシア的なものについての覚書』、長縄光男訳では『文化のエコロジー?ロシア文化論ノート』群像社刊)
 ところで、私が雪と氷にとざされたシベリアへ出かけた目的というのは、イルクーツクやウラジヴォストークなどで「文化講演」をするためだった。「文化講演」というのは現地の総領事館のつけた名前で、日本とロシアのかかわりで何か「文化的」なことを話してもらいたいという注文だったのである。私は「肉と魚--日露文学比較考」というテーマを立てた。内容はともかく、奇妙な命名ということでこの題目は注目をあつめたようである。
 タネを明かせば、どうということはない。明治の文豪尾崎紅葉が同時代のロシア文学を「血のしたたるようなビフテキ」になぞらえたことを枕にふっただけである。そして話の粗筋としては、日本の文学は二葉亭四迷以来ロシア文学から大いに学ぶところがあって進歩をとげたと言えるけれども、口承文芸のジャンルに属する昔話を比べてみると、日本の語りにはロシアのそれに見られるような気宇の壮大さが欠けていること、それはどうやら二つの民族の空間感覚の相違にもとづくのではないか、と締めくくった。その結論の傍証として上述のリハチョフ博士の名文を引用させてもらったことは言うまでもない。
 極東国立大学の中の日本センターでこの話をしたのが3月5日である。講演と質疑応答のすんだあとで、いくつかのテレビ局や新聞社の取材があった。新聞社のインタビューのさいは、記者が小型のカセット・レコーダーを持参するのがロシアの慣例らしい。ジャーナリストとの一問一答の詳細はすっかり忘れてしまっていたが、帰国後ナウカの宮本さんから3月7日付け『ノーヴォスチ』紙の半ページ分の記事を見せてもらい、その内容を読んだときには、すっかり仰天した。それは講演のテキストを随所にアレンジして配置しているものの、まるで架空の会見記だったからである。ちなみに署名している記者名はリリア・ハルという。テープレコーダーを持参した女性のジャーナリストが2人いたようにおぼえているが、リリアさんが大柄な方だったか小柄な人だったかは、まったく思い出すことができない。
 ハル記者の素養が尋常でない点は、私が自分の訳した『ロシア中世物語集』の内容の紹介として「原初年代記」「イーゴリ軍記」を挙げているのに加えて、「ボリスとグレープの聖者伝」をつけ加えていることである。たしかにそういう作品は存在する。ただ私の『ロシア中世物語集』には入れてないし、私は一度も言及しなかったのだ。
 以下の個所は彼女の創作である。
 --ウラジヴォストークでの暮らしに問題はありませんか。
 「少々ね。道を横切るのがホネです。私はもう若くありませんから」(笑い)
 --日本の中古車が多くてショックではありませんか。
 「たしかに多くて、ショックでした。(再び情緒的な笑い)...」
 この(笑い)というカッコ内の注記がクセモノで、読者はこのやりとりをすっかり信用することだろう。
 こんな問答もある。
 --あなたはロシア料理がお好きですか。
 「はい。自分でもボルシチをつくります。かなり好評ですよ。東京にはロシア料理のレストランが4軒あって、私はよく出かけます...」
 こういう質問は講演のあと聴衆の一人から出されて、私が答えている。しかし私の発言の後段はありうべからざる内容である。ロシア風のレストランが東京じゅうに4軒しかないなどと私がしゃべるはずがない。ハル記者はだれかからこの数字をあやまって教えこまれているにちがいない。
 この類のいくつかの誤りなどはまあ笑ってすごせるのだが、彼女の次のような結論には邪推ですよと抗議したくなる。「概していえば、講演のハイライトは用心ぶかくカムフラージュされているものの、例の領土問題への関心であることは透けて見える」
 リリア・ハル女史はまるで私が日本国を代表して、ロシアは巨大な国であるからちっぽけな島々など(北方領土)にこだわらず日本にさっさと返すべきである、と要求しにウラジヴォストークをおとずれたかのように誤解しているらしい。
 もっとも、ハル女史の記事は私の「文化的」な見解を「政治的」に曲解したものであるとはいえ、私の人格をいちじるしく傷つけるものではないが、目下世間にはずっと恐ろしい誤解が横行している。鈴木宗男代議士の場合がそれで、この大がかりな政治ドラマの真相が明らかになるにはまだかなりの時間がかかることだろう。
 



 
 

左近 毅先生の訃報に接して

早坂 真理 
(東京工業大学大学院教授)



 正月早々予期せぬ訃報に驚いた。長年JSSEESの企画運営に携わり、支えてこられた左近毅先生が亡くなられたのである。
 先生は1939年の生まれ。東京外国語大学ロシヤ語科を卒業され、一橋大学社会学部大学院の故金子幸彦教授の下でロシア思想史の研究に従事された。まだ就職先がみつからない時期、アルバイト生活をしながら、こつこつとバクーニン研究を続けておられた。1970年代のはじめ、白水社より刊行されたバクーニン選集の翻訳作業の多くを担当されたのは、ほかならぬ左近先生であった。刊行に先立って、旧ソ連ではマルクス・レーニン主義史学の規範の下で異端視されていたバクーニン研究がピルーモワによって上梓されており、左近先生は、選集刊行の準備作業と思われるが、その邦語訳の解説も手がけている。私は学生時代、ロシア語だけでなくロシア史の知識さえあやふやであった頃、左近先生の著述等に親しみ、ナロードニキ研究を志した一人である。今日ではナロードニキ研究、もしくはロシア・インテリゲンツィア論に取り組もうとする研究者は少なくなったが、終生ロシア思想研究に献身された左近先生の誠実なお人柄に感動を覚えた。
 左近先生とは、昨年末のJSSEESのシンポジウム(12月1日、法政大学)の際にお元気なお姿を拝したのが最後となった。ビールを片手に今年の抱負を熱っぽく語っておられたお姿を思い出すにつけ、残念でならない。2004年の日露戦争勃発100周年が近づきつつあるが、その国際共同研究の企画に意欲を燃やしていたとも聞いている。「おろしゃ会」にも寄稿され、関心の広さに敬服するとともに、その地味なお仕事ぶりは、私にとって道しるべともいうべきものであった。
 JSSEESも大学環境をめぐる厳しい情勢に翻弄され、将来を見据えなければならない重大な岐路にさしかかっている。そうしたなかで重鎮ともいえる左近先生を失ったことは、われわれには大きな痛手である。先生の意思を受け継ぎ、ロシア思想史研究の火が今後とも消えないように努力しなくてはいけないと痛感した次第である。産学官連携の旗印の下で実利が優先される時代だからこそ、先生の遺産は評価されてよいだろう。心からご冥福をお祈りする。



 
 

「新評論」の60周年記念

ЮБИЛЕЙ 《НОВОГО ЖУРНАЛА》


ワシーリー・モロジャコフ 
(歴史学博士)


 
  1942年3月からニューヨークで季刊出版されている「新評論」(?Новый журнал?)誌は、ロシア・旧ソ連以外における最も古いロシア語文学雑誌である。「新評論」の六十年間の歴史は、二十世紀ロシア文学・文化の輝かしいエピソードによって亡命ロシア文化のドラマチックな運命を代表するものである。
 「新評論」の直接な先駆者というべき雑誌は、1920年からパリで出版されていた「現代評論」(?Современные записки?)である。1940年春、ドイツ軍がフランスに侵入しパリを占領したので、「現代評論」の出版を続けることが出来ず、ユダヤ人であった二人の編集者はアメリカに亡命した。歴史作家マーク・アルダーノフ(Марк Алданов)と詩人ミハイール・ツェートリン(Михаил Цетлин)は、「現代評論」の活動を継承する意味で、アメリカにおいて新しい雑誌を創刊し、それを「新評論」と題した。
 「現代評論」と同じように「新評論」は亡命ロシアのインテリたちの文学・文化の中心になった。「現代評論」の柱として活躍し、世界的に有名となった小説家イワン・ブーニン(Иван Бунин 1933年文学ノーベル賞を受賞)は、戦争の時にフランスに住んでいたが、新しい作品を直ちに「新評論」に送った。ブーニンとアルダノフと同じく亡命ロシア文化の長老的存在であった小説家ボリス・ザーイツェフ(Борис Зайцев)とヴラジーミル・ナボーコフ(Владимир Набоков)、詩人ゲオルギー・イワノフ(Георгий Иванов)、思想家ゲオルギー・フェドートフ(Георгий Федотов)、画家ムスチスラフ・ドブジンスキー(Мстислав Добужинский)たちが「新評論」の主な協力者になった。ドブジンスキーは雑誌のカーバ・デザインを作った(コピー参照)。
 第二次世界大戦が終わった1945年にツェートリンは死亡し、アルダノフは直ぐにフランスに帰ってしまったので、歴史研究者のミハイール・カルポーウィッチ(Михаил Карпович)が「新評論」の新しい編集長になった。ハーバード大学の教授であったカルポーウィッチはボストンに住んでいたので、ニューヨークで雑誌の日常的な編集実務を担当したのが、編集事務長ローマン・グーリ(Роман Гуль)であった。グーリ自身は、有名なノン・フィクション作家であり、優れた編集者として知られていた。1959年にカルポーウィッチが死去した後、グーリが「新評論」の編集長になった。前任者と同様、グーリは1986年に他界するまで終身の編集長であった。
 文化的に見れば、「新評論」の使命は、革命以前のロシア文化・文明の遺産と伝統を保存することにある。「新評論」の編集部は創刊の時から文化人、政治家、軍人、また一般人の回想録、遺稿、日記、書簡などを発表している。それはこの雑誌の特徴ともなった。共産主義時代には、ソ連における「新評論」の購読は勿論不可能であったにもかかわらず、雑誌は秘密裡に専門家の手に入っていた。例えば、ソ連の文学研究者は、トルストイ、チェーホフ、ブーニン等の関係文書を「新評論」から引用したことも少なくなかった。
 「新評論」の協力者は、ロシア・ソ連から移民していた全ての四つの世代、あるいは「波」を代表している。
 「第一波」は、1917年の革命と内戦直後の亡命者で、「新評論」を創立したブーニン、アルダノフ、カルポーウィッチの世代である。彼らはグーリもより若かったが、白軍の将校として内戦に参加した。政治的に彼ら全員は反ソであったが、在ソ生活の個人的経験を全く持っていなかった。「第一波」の文学者は、革命以前の自由民主主義的インテリを文化的に代表していたので、十九世紀クラッシク文学、リアリズム、また「銀の世代」の伝統を守っていた。ブーニン、ザーイツェフ、アルダノフがその長老的存在であった。つまり「新評論」の文学的趣味はかなり保守的であったと結論できる。
 「第二波」は、第二次世界大戦以後の亡命者である。「第一波」より文化的素養に乏しく、その世代は、スターリン時代のソ連を目の当たりにするという悲劇的な経験を持っていた。彼らの作品は反ソ・反共であるにもかかわらず、文化的には恐らくソ連文学の影響を受けていた。その世代の主な文化人は歴史作家・評論家ニコライ・ウリヤーノフ(Николай Ульянов)、小説家・文学研究者ボリス・フィリッポフ(Борис Филиппов)、詩人イワン・エラーギン(Иван Елагин)等であった。「第二波」の最も若い世代の文化人は現在も「新評論」の活動に積極的に参加している。
 「第三波」は、ブレジネフ時代のソ連からの移民者である。彼らも政治的に反ソ・反共であったが、この世代は文化的には非常に多面的である。例えば、ロシア・リアリズムの伝統を継承している小説家アレクサンドル・ソルジェニーツィン(Александр Солженицын) (1970年ノーベル文学賞の受賞者)は一時「新評論」の柱となったが、アヴァンギャルド文化に近い詩人イオーシフ・ブロードスキー(Иосиф Бродский)(1987年ノーベル文学賞を受賞)は、グーリ編集長の保守的趣味と全く相容れなかった。1970年代にグーリ自身は「第三波」のスターになったブロードスキー、また文学評論家アンドレイ・シニャーフスキー(Андрей Синявский)等を何度も激しく批判した。
 しかし、亡命ロシア人の世界でも、「新評論」の編集部でも世代交代はやむをえないことであった。グーリが死亡すると「第三波」の小説家ユーリ・カシュカーロフ(Юрий Кашкаров)が新しい編集長になった。彼はかなり保守的な雑誌の編集方針を継続したが、ペレストロイカの下で所謂「ソ連への橋」の役割を果たした。
 ペレストロイカが始まると、ソ連に住んでいる文化人は「新評論」で自分の作品を自由に発表することが可能になった。また多数のインテリはソ連から移民して、亡命ロシア人の「第四波」を形成した。以前の三つの「波」と違って、今回は、政治的プロテストの感覚はあまりうかがえない。若い文化人は、1990年代のロシアの苦しい日常生活から離れたが、ロシア文化の伝統を全世界的に広めたと言える。この世代には有名な作家がまだ少ないが、詩人マリーナ・ガルベル(Марина Гарбер)の詩集二冊は「新評論」で話題になった。
 カシュカーロフ編集長は1994年に死亡し、1995年に「第三波」を代表している詩人・文学研究者ワジーム・クレーイド(Вадим Крейд)が編集長になった。現在「新評論」の編集部は、クレイド編集長を含めて9人の有名な文化人で構成されている。それは、画家・評論家セルゲイ・ゴッレルバフ(Сергей Голлербах)、小説家ユーリ・ドルージニコフ(Юрий Дружников)、歴史研究者ゲヌリヒ・イオッフェー(Генрих Иоффе)、ドイツ人のロシア文学研究者ヴォリフガング・カーザク(Вольфганг Казак)、文学評論家マリーナ・レドコーフスカヤー(Марина Ледковская)、世界文学研究者・評論家アナトーリー・リベルマン(Анатолий Либерман)、歴史研究者マーク・ラーエフ(Марк Раев)、詩人ヴァレンティーナ・シンケーウィッチ(Валентина Синкевич)である。編集部の殆ど全員は様々な大学の教授、名誉教授、博士である。シンケーウィッチは、アメリカで出版されている「出会い」(《Встречи》という亡命ロシア人詩集年鑑を編集している。
 「新評論」の編集は、編集部の役割は重要であるとしても、グーリの編集時代と同じように大体が編集長の「ワン・マン」でおこなわれている。クレイドは、1936年シベリア地方に生まれ、1960年にレニングラード国立大学文学部を卒業し、1960年代のソ連の非公式な「第二次文化」(彼自身の言葉)の代表者として有名になった。1973年ソ連からアメリカに亡命した彼は、文学博士の学位を得て、アイオワ(Iowa)大学のロシア文学教授(現在名誉教授)になった。文学者としてクレイドは、詩集四冊、文学研究二冊を著作し、「銀の世代」と亡命ロシア文学者の詩集・小説・回想録等三十冊以上を編集した。編集長になる前から彼は数年間「新評論」の編集部の一員であった。
 クレイド編集長の見解によれば、現在「新評論」の主な目的は次の通りである。それは、全世界のロシア文学者を集めること、全ての世代の亡命ロシア文学者を集めること、亡命ロシア文学者とロシアに住んでいる文学者を集めること、またロシア文学・文化――特に亡命ロシア人の文化――の伝統を守って保存することである。「新評論」は、ロシア文学・美術・思想・歴史の未公刊関係文書の発表を重要な仕事と見ると同時に現代文学を大事にしている。一言でいえば、「新評論」は本当にいつも新しい文学雑誌である。
 「新評論」60周年おめでとう!

註:「新評論」の総目次は現在印刷中である。
参考文献
Вадим Крейд: 《Двухсотый номер》 // 《Новый журнал》. Кн. 200, 1995.
Вадим Крейд: 《Утраты всегда поэтичнее приобретений》 (интервью) // 《Kнижное обозрение》, 2000, 10 января.
Вадим Крейд: 《Просто не хватало лошадиных сил》 (интервью) // 《Независимая газета. Ex-libris》, 2001, 25 октября.

以下に掲げるコピーは、左が『新評論』の表紙、右がワジーム・クレーイド編集長から「おろしゃ会」の皆さまに宛てて送られてきた直筆のメッセージである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2002年2月12日
親愛なる友人たち!
「おろしゃ会」会員の皆さんが、ロシア研究において成果を挙げられ、個人生活においてもご多幸であられますよう、心より祈念しております。                 敬具
   「新評論」編集長 ワジーム・クレーイド



 
 

Японский язык в России,
русский язык в Японии:
чтобы лучше понимать друг друга
в эпоху глобализации


Железняк О.Н. 

     Заветный ключик к пониманию любой культуры, это, конечно же,  ? знание родного языка другого народа. Изучая язык другого народа постепенно начинаешь понимать его обычаи и традиции, образ мышления, осознавать специфику и своеобразие его культуры.
     В эпоху глобализации знание иностранных языков приобретает особое значение. Мы живем в такое время, когда все в нашем мире с каждым днем становится все более и более взаимосвязанным, взаимозависимым, взаимообусловленным. Размах этой взаимосвязанности определяется уже мировыми, глобальными масштабами. Возникновение общих для всего человечества проблем, глобальных проблем - экологических, ресурсных, духовно-культурных и т.д., заставляет нас искать их решения совместными усилиями. В этом современном мире, нам просто необходимо хорошо понимать друг друга, необходимо укреплять сотрудничество в самых различных сферах, нам жизненно необходимо достичь  своеобразной гармонии сосуществования во взаимопонимании и  единстве друг с другом.
     Это - только одна многочисленных причин, которые определяют интерес японцев к русскому языку и побуждают русский изучать японский язык. Мы стараемся лучше понимать друг друга в современную эпоху, эпоху глобализации.
     В последнее время в России и странах СНГ японский язык пользуется особой популярностью. Японский язык преподается в более, чем 30 средних школах страны. ?География? японского языка в России очень обширна. Его изучают в Москве, Санкт-Петербурге, Нижнем Новгороде, Екатеринбурге, Новосибирске, Иркутске, Хабаровске, Владивостоке, Тбилиси (Грузия) и т.д. Более чем 70 ВУЗов 24 городов России и стран СНГ имеют в своих программах обучения такую дисциплину как японский язык. Для тех, кто уже окончил школу или ВУЗ, и решил сделать японский язык своим призванием, организуются курсы японского языка, сейчас их около 30 в 10 городах России и стран СНГ.
     Для того, чтобы сделать процесс изучения японского языка эффективным, а уроки - интересными и увлекательными в России постоянно готовятся и выходят в свет новые учебники японского языка. Так, подарком для российских студентов стал ?Учебник японского языка? (для начинающих) в 2-х томах Нечаевой Л.Т. Совсем недавно был издан ?Увлекательный японский? (начальный курс японского языка) Н. Ерофеевой. Выходят и другие издания.
     Своеобразным праздником японского языка в России и странах СНГ стал прошедший в октябре 2001 года в Москве, ставший уже традиционным ?14 конкурс японского языка студентов стран СНГ?. Организаторами конкурса были Посольство Японии в РФ и Ассоциация преподавателей японского языка стран СНГ при поддержке Японского фонда. В конкурсе приняли участие 25 студентов из стран СНГ, прошедшие предварительный отбор в своих странах.
     Победителями конкурса стали 1 место ? Юлдошев Лутфилло из Самаркандского Университета Иностранных языков. Его выступление на тему ?Почему зимой в Узбекистане мало туристов? поразило авторитетное жюри артистизмом и, безусловно, знанием японского языка.
     Призовые места также заняли Михайлова Анна (Институт Стран Азии и Африки Московского Государственного Университета) с темой ?Сны и сон?, Абдыкарова Чинара  (Кызгызский Государственный Национальный Университет) с темой ?Русские в Кыргыстане?, Кривицкая Юлия (Сахалинский Государственный Университ) с темой ?Дети, которым не хватает тепла и ласки? и Селиванов Александр (Камчатский Государственный Педагогический Университет) с темой ?Несостоявшееся свидание?.
     Безусловно, для того, чтобы успешно выступить на этом конкурсе, его участникам необходимо было не только продемонстрировать хорошее знание японского языка, но также и хорошо знать особенности японской культуры, его традиций.
    Компетентное жюри конкурса отметило, что в этом году выступления отличались великолепным исполнением и блестящим знанием японского языка.
     Хорошей возможностью для изучения ?живого? (разговорного) японского языка стали Фестивали японского кино, которые ежегодно организуются под эгидой Японского Фонда и Посольства Японии в РФ в рамках Фестиваля японской культуры ?Японская осень?. В этом году прошел уже 35 подобный фестиваль. Показ японских не дублированных художественных и документальных фильмов (для тех, кто только начинает изучать японский язык, есть русские титры) дает возможность послушать разговорный японский язык, приблизиться к реалиям современной японской жизни, лучше понять культуру японцев.
     Говоря о языке невозможно не сказать о художественной  литературе. В России и странах СНГ постоянно переводятся и издаются на русском языке литературные произведения японских авторов. Диапазон, переводимой на русский язык японской литературы, очень широк. Есть и произведения из древней японской литературы - ?Анналы Японии? в 2-х томах в переводе Л.М. Ермаковой и А.М. Мещерякова (1997); есть и произведения авторов средневековья  - ?Утаавасэ?. (Поэтические турниры в средневековой Японии (IX-XIII вв.)) в переводе И.А. Борониной (1998); есть и  произведения авторов 19-20 веков - Хирага Гэннай, ?Похождение весельчака Сидокэна? в переводе А. Кабанова (1998) и ?Алая камелия?. (Японская лирика веселых кварталов) в переводе А. Долина (1997). Среди произведений современных японских авторов в последнее время особой популярностью пользуется роман известного японского писателя Харуки Мураками ?Охота на овец? в переводе Д. Коваленина. Сейчас готовятся к публикации на русском языке и другие романы этого японского писателя. Это только некоторые работ, к сожалению, перечислить все просто не представляется возможным.
     Кроме непосредственно литературных произведений японских авторов, в России также издаются журналы, в которых обсуждаются  проблемы и японского языка, и вообще японской культуры, такие как ?Япония сегодня?, ?Знакомьтесь Япония? и др. Уже около 30 лет регулярно выходит в свет ?Ежегодник. Япония?.
     Интересной тенденцией стало проникновение слов из японского языка в русский язык. Так, например, некоторые японские слова, такие как самурай, кимоно, икэбана, оригами, уже прочно ?прижились? в русском языке, обретя в нем свою новую вторую форму существования.
     В Японии русский язык, также как японский язык в России, обрел свою ?вторую жизнь?.  Русский язык преподается в отдельных школах Японии, изучается во многих ВУЗах страны. В Японии,  также как в России, для тех, кто хочет расширить и усовершенствовать свои знания по русскому языку, существует множество специальных курсов.
     Особым событием в Японии стало, создание в 1994 году в целях  японо-российского культурного сотрудничества в сфере образования на данный момент единственного в Японии филиала российского Вуза - Хакодатской Международной школы ? филиала Дальневосточного Государственного Университета.
     Одной из главных причин создания этого учебного заведения стало то, что в 21 веке под влиянием процесса интернационализации общества ускоренными темпами происходит и формирование человека с интернациональным мышлением и богатой индивидуальностью. Создание подобного учебного заведения, стало первым шагом на пути навстречу новой эпохе, эпохе глобализации.
     В последнее время российско-японские отношения успешно развиваются во всех областях. Естественно, что уже сейчас требуются квалифицированные специалисты по России, которых как раз и готовит Хакодатская Международная школа.
     Все преподаватели Филиала ? россияне, ежедневное общение с которыми, оригинальная методика преподавания позволяют в короткий срок овладеть русским языком. В университете готовят специалистов не только по русскому языку (теории и практике перевода), а вообще, специалистов по России. Поэтому в учебном плане университета, помимо непосредственно русского языка, есть такие предметы как экономика России, география России, культура, история, этнография и другие. Учебный план также предусматривает стажировку в России, во Владивостоке.
     Что же касается других ВУЗов Японии, то для совершенствования языковой подготовки японских студентов в Японию из России постоянно приглашаются специалисты по преподаванию русского языка.
     Помимо непосредственно изучения русского языка, японские студенты, как и русские студенты, стремятся ближе познакомиться  и лучше узнать русскую  культуру. Для этого в японских учебных заведениях есть прекрасные возможности. Так, например, осенью прошлого года в Токийском университете Иностранных языков прошел праздник культур разных стран, в том числе на празднике была прекрасно представлена и культура России: японские студенты исполняли русские песни ? ?Катюша? или ?Подмосковные вечера?, играли на русских народных инструментах. Кроме того, во время праздника можно было также отведать блюда национальной русской кухни ? традиционные русские блины, пирожки, щи и т.д.
     Особенно хотелось бы сказать о существовании в Японии специальной программы, посвященной изучению русского языка. Она называется ?Росиаго кайва? и регулярно выходит в эфир по утрам в воскресенье и днем в пятницу на 3 канале ?NHK кеику?. Программа не только помогает японцам изучать русский язык, знакомит их с особенностями и нюансами современного разговорного русского языка, но и позволяет узнать что-то новое вообще о русской культуре.
     Время от времени на японском телевидении появляются и другие программы о России, ее истории, искусстве, современной жизни в России, о спорте и т.д., что также помогает японцам лучше узнать и понять русскую культуру.
     В Японии, также как в России, постоянно выходят в свет новые  учебники и учебные пособия по русскому языку. Так, совсем недавно был опубликован новый учебник под оригинальным названием ?Сирой Кин?. Авторы учебника, Х. Канадзава и А. Накорчевский, выбрали для реализации своей идеи очень оригинальный подход. В основу учебника была положена  детективная история. Это позволило совместить в одном учебнике одновременно обучающий и развлекательный моменты. В Японии это первый учебник подобного типа. Новый учебник также привлекателен с точки зрения постижения основ современного русского разговорного языка, в нем дается множество популярных оборотных фраз, выражений и т.д. Особенностью учебника также является то, что это ? одно из первых в Японии пособий по синтаксису, что также делает новый учебник особенно привлекательным, для всех тех, кто изучает и увлекается русским языком.
      Таков лишь некоторые факты из ?биографии? японского языка в России и русского языка в Японии, хотя, я думаю, их список можно было бы продолжать бесконечно.
      Ясно одно, японцы и русские интересны другу другу, изучая японский и русский языки, они тем самым делают очередной шаг навстречу друг другу, пытаются лучше понять и узнать друг друга, стремятся понять другого и через это понимание лучше понять самих себя. Изучая русский и японский языки, японцы и русские, тем самым укрепляют взаимопонимание между нашими странами и народами, для того, чтобы вместе пойти навстречу новой эпохе, эпохе глобализации, основными девизами которой станут взаимопонимание, сотрудничество и дружба.

Об авторе:
Железняк Оксана Николаевна ? старший научный сотрудник Центра Исследований Японии Института Дальнего Востока Российской Академии Наук (Москва). ? ЦИЯ ИДВ РАН.


ロシアにおける日本語、日本におけるロシア語

−グローバル時代のよき相互理解のために−


オクサーナ・N・ジェレズニャク 
(科学アカデミー極東研究所・日本研究センター上級研究員)

 あらゆる文化を理解するための大切なカギ――それはもちろん、外国語を熟知することです。外国語を学べば、しだいに慣習や伝統、思考形体を理解し、異文化の特殊性や独自性を意識するようになるでしょう。
  グローバル化の時代において、外国を学習するということは特別な意味をもっています。私たちの生きている時代は、世界のすべてのものが日々一層、相互に関係、依存、制約しあうようになっています。この相互関係のスパンは、すでに世界的、地球的な規模になっているのです。全人類に共通なグローバルな問題――環境問題、資源問題、精神文化の問題など――の発生により、私たちはともに努力し、これらを解決していくことを余儀なくされています。現代においては、まずは異文化間で互いに理解しあうこと、大きく異なった環境の中で協力を堅固なものにしてくこと、また相互の理解・結束のもとで共存という独特の調和に達することが切実に必要とされています。
  これは、ロシア語に対する日本人の興味を規定し、ロシア人を日本語に目覚めさせる多くの理由のうちの一つに過ぎません。私たちは現代、すなわちグローバリゼーションという時代において、互いに理解しあえるよう努めていこうではありませんか。
  近年、ロシアをはじめとするCIS諸国において、日本語は特に人気があります。日本語を教えている中等学校[日本の中学・高校に相当]は30を超えます。ロシアでは「日本語の地図」はとても広大なのです。日本語の学習はモスクワ、サンクト・ペテルブルク、ニジニ・ノヴゴロド、エカテリンブルク、ノヴォシビルスク、イルクーツク、ハバロフスク、ウラジオストク、トビリシ(グルジア)などでおこなわれています。また、ロシアとCIS諸国の24都市70以上の大学で、日本語の科目がカリキュラムに含まれています。中等・高等教育機関を修了したのちに日本語をものにしたいと考えている人を対象とした日本語コースも開講されており、いまではロシアおよびCIS諸国のうち10都市で30を数えます。
  日本語の学習プロセスを効果的なものにし、一方で授業を面白くて楽しいものにするため、ロシアでは新しい日本語教科書が次々とつくられ日の目をみています。ロシア国内の学生にとって「贈り物」となったのは、L・T・ネチャエワによる『日本語教本<初級者用>』全2巻でした。ごく最近ではN・エロフェエワの『楽しい日本語<日本語初級課程>』が出版されており、他にもたくさんの教科書が刊行されています。
  ロシア・CIS諸国の日本語学習において特別な祝祭日となったのが、前回は2001年10月に催された、すでに恒例となっている「第14回CIS学生日本語コンクール」です。主催者は在ロシア連邦日本大使館とCIS日本語教師協会で、後援は日本財団でした。コンクールには事前にCIS各国で選抜された25人の学生の参加がありました。
  優勝者で一位になったのは、サマルカンド外国語大学のルトフィッロ・ユルドシェフ。「冬はなぜウズベキスタンに旅行者が少ないか」と題した彼のスピーチは、日本語の知識はもちろんのこと、その芸術的才能でプロの審査員を唸らせました。
  入賞席次には順に、「夢、そして一つの夢」をテーマに発表したアンナ・ミハイロワ(モスクワ大学アジア・アフリカ諸国研究所)、「ロシア人とキルギス人」がテーマのチナラ・アブドゥィカロワ(キルギス国立国民大学)、「温もりと愛情が足りない子供たち」のユーリヤ・クリヴィツカヤ(サハリン国立大学)、「実現しなかった再会」のアレクサンドル・セリヴァノフ(カムチャトカ国立教育大学)とつづきました。
  言うまでもありませんが、コンクールの演説で成功をおさめるには日本語の優れた知識をアピールするだけでなく、日本の文化・伝統の特質をよく理解しておくことが参加者にとって不可欠でした。
  コンクールの権威ある審査員は、完成度や日本語の知識のすばらしさという点で、この年の発表が抜きん出ていたことに注目しました。
  「生きた」日本語(会話)の学習にとってよい機会となったのが日本映画祭です。これは日本財団と在ロシア日本大使館の後援で毎年開催されているもので、文化フェスティバル「日本の秋」の一環としておこなわれました。この年はすでに35の同様の祭典が開かれています。吹き替えでない日本の劇映画やドキュメンタリーフィルムの上映は(日本語が分からない人のために字幕はありますが)、日本語会話を耳にし、現代日本の生活のリアリティに近づき、日本人の文化をよりよく理解する可能性を与えるものでした。
  言語の話をするなら、文学作品にも言及しなければなりません。ロシアやCIS諸国では、徐々に日本人作家の文学作品のロシア語への翻訳・出版が進められるようになりました。露訳される日本文学の分野は多岐にわたります。古代の日本文学でL・M・エルマコワとA・M・メシチェリャコフの訳による2巻の『日本書紀』もありますし(1997年出版)、中世の作家による作品『歌合せ――9世紀?13世紀の中世日本における詩のトーナメント』もI・A・ボロニナの訳で出ています(1998年)。また19世紀・20世紀の作家では、平賀源内の『風流志道軒伝』がA・カバノフの翻訳で(1998年)、『赤い椿――小唄(浮世の歌)』がA・ドーリンの翻訳でそれぞれ出版されています(1997年)。現代作家の中では最近、有名な村上春樹の長編小説でD・コヴァレニン訳の『羊をめぐる冒険』が好評を博しました。彼の長編は現在も露訳出版が準備されています。以上はごく一部であり、残念ですがすべてを列挙することは不可能です。
  直接的といえる日本人作家の文学作品のほかには、ロシアでは日本語や日本文化全般についての諸問題を扱った『日本の今日』や『日本に親しもう』などの雑誌も出版されています。『年鑑・日本』は定期刊行がはじまってすでに30年が経ちます。
  興味深い傾向は、ロシア語への日本語の浸透です。例えばサムライ、キモノ、イケバナ、オリガミといった日本の言葉は、もうロシア語にしっかりと「根付いて」おり、その中で新しい別の存在形体をもっています。
  日本の中のロシア語も、ロシアの中の日本語と同様「二度目の生き方」を獲得しました。ロシア語はいくつかの日本の学校で教えられ、多くの大学で学習されています。ロシアと同じように日本でも、ロシア語の知識を広げ完全にマスターしようとする学生のために、多くの専門コースが設けられています。
  1994年、教育の分野での日露文化協力を目的とし、日本では現時点で唯一となるロシアの大学の分校・極東国立大学函館校(函館国際学園)が設立されたのは特別な出来事でした。
  この教育機関がつくられた大きな理由の一つに、速いテンポで社会の国際化が進む21世紀は国際感覚と豊かな個性を身につけた人材の育成を必要としている、ということがあります。このような学校の設置は、新しい時代、すなわちグローバリゼーションという時代へ向かっていく第一歩です。
  ここ数年、日露両国の関係はあらゆる分野において順調に発展しています。現在、函館国際学園で育成されているような、優れたロシア専門家が要求されているのは必然と言ってもよいでしょう。
  函館校の教官はみなロシア人ですが、彼らとの日々のコミュニケーション、そして独自の教授法が短期間でのロシア語習得を可能としています。大学では通訳の理論・実践におけるロシア語専門家だけでなく、広くロシアについてのスペシャリストの育成に力を入れています。ですから大学の教育プランはロシア語一本でなく、ロシア経済・地理・文化・歴史・民族誌などの科目があり、ウラジオストクでの現地実習もカリキュラムに規定されているのです。
  他の日本の大学について言えば、学生のロシア語学習を一層充実させるため、本国からロシア語教授のプロが招かれるようになりした。
  ロシア語を直接学習するほか、日本の学生もロシアの学生と同じように、相手文化に親しみ理解していけるよう努力をしています。日本の大学にはすばらしい可能性があるのです。例をあげると、昨年の秋に東京外国語大学で世界各国を扱った文化祭が開かれ、その中でロシア文化もよく紹介されていました。日本の学生は「カチューシャ」や「モスクワ郊外の夕べ」といったロシア民謡を歌い、ロシアの民族楽器を演奏しました。また文化祭期間中、ロシアの国民的料理――伝統的なブリヌィ、ピロシキ、スープなどを試食することができました。
  特に指摘しておきたいのは、ロシア語教育のため特別に制作されているテレビ番組の存在です。「ロシア語会話」というこの番組は、毎週日曜朝[今年度より火曜朝]と金曜午後にNHK教育チャンネルで放送されています。日本人がロシア語を学び、現代のロシア語会話の特徴やニュアンスを知るのに役立つだけでなく、文化全般についてのニュースにもなる番組です。
  時おりロシアの歴史、芸術、現代事情、スポーツなどについての別の番組も放送されていて、日本人がロシア文化を知り理解する手助けとなっています。
  日本でもロシアと同様、たえず新しいロシア語の教科書や参考書が出されています。ごく最近では『白い金』という題名の新しい教科書が出版されました。編者の金沢大東[神奈川大学講師]とA・ナコルチェフスキー[慶応大学助教授]の両氏は、その理想の実現のため、きわめて独創的な方法を採用しました。教科書の下敷きに推理小説があるのです。これは一冊の教科書に、学ぶ、楽しむという二つの側面を両立させるのを可能にしています。日本でこのようなタイプの教科書は初めてではないでしょうか。この新しい教科書は現代ロシア語会話の基礎の理解という点では魅力的なもので、一般に使われる言い回し・表現などを学ぶことができます。また教科書の特徴的なのは、これが日本で最初となるシンタクシス(統語論)の参考書の一つであり、ロシア語を夢中になって学習する者にとって魅力ある書となっているということです。
  以上はロシアにおける日本語、日本におけるロシア語の「履歴書」のいくつかの事例に過ぎませんが、もっともこれらは絶えず続いていくであろうと私は考えています。
  日本人とロシア人が相互に関心を持ちあって相手の言語を学ぶことで、互いに親密になるための第一歩を踏み出し、よく理解し認識しあえるように挑戦し、それが相手だけでなく自分自身を理解することにもつながるのは明らかです。ロシア語・日本語を学習することにより、日本人とロシア人は、グローバリゼーションという時代にともに向かっていくための国と国、人と人の相互理解を強化することができるでしょう。相互理解、協力、友好を基本的なモットーとして。
(翻訳文責:平岩貴比古/[  ]は訳者注)

おろしゃ会会報第8号
2002年4月8日発行



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