おろしゃ会会報第9号 

    2002年10月8日


 
 

マリーナ歓送会の後で おろしゃ会スタッフと
後列左より 真栄田 加藤 高木 田村 鈴木
前列左より マリーナ 加藤 平岩
 
 

《はじめに》   
    
                            田辺三千広

(名古屋明徳短大・星城大学)


  私がロシア史を勉強しようと考えたのは、大学3年生のときでした。当時はゼミという形はなく、卒論を書くための演習クラスに分けられていました。私が属したのは、《アウグスチヌス研究》で知られた近山金次先生のクラスでした。今日まで、近山先生を始め、多くの先生方に御指導を受け、今でも細々とロシア史研究を続けています。先生方について少し詳しく語りたいのですが、紙面の関係でここでは止めておきます。《会報》の何号かでいずれ《わが恩師》というテーマで特集号を組むつもりです。その折にでも紙面が許せば書きたいと思います。
 学部4年生になった春、いよいよ就職活動を始めなければと思いました。第三語学でロシア語をこれも細々と続けていました(ちなみに私の第二語学はフランス語でした)。できればロシア語を生かして商社に就職しようと就職課を訪れました。就職課の人に馬鹿にされました。当時は《青田買い》の時代でした。ほとんどの企業は3月までに内定を出していたようです。《もう私企業は終わりました》。これが就職課の答えでした。新聞社、放送局、公務員の試験はまだでした。ところが希望する就職先の応募条件にことごとく引っかかり、試験を受けることさえできませんでした。残っていたのは7月の大学院の試験だけでした。こうして私の将来へのレールが敷かれたのでした。
 私が大学院に入学した年から、早稲田、慶応、学習院の三大学の大学院単位互換制度ができました。私は慶応大学の学生でした。慶応にはロシア史の先生はまったくおられませんでした。《講義要綱》から早稲田にはロシア史の大家、山本先生(先生についても別号で詳しく述べます)がおられることを知りました。早速授業を聴講させていただくことにしました。これが山本先生との出会いであっただけでなく、加藤史朗先生との運命の出会いでもありました。山本先生のゼミは10数人の大学院生を抱える大ゼミでした。しかし、《ロシア史》のゼミでありながら、加藤さんと私以外にロシア史を専攻している学生はいませんでした。他は東欧史を勉強していました。しかも、全員がそろって出席したことのないゼミだと知りました。これは何もみんなが不熱心であったという意味ではありません。ゼミ生の何人かが必ず毎年どこかの国に留学していて、全員が顔をそろえなかったという意味です。私が初めて参加を許された年も、一人はチェコ・スロヴァキアへ、もう一人はポーランドへ留学中とのことでした。その後も続々と留学していきました。
 このような環境で勉強していたせいか、いつしか私も留学したいと思うようになったのでしょう。しかし、当時はソビエト連邦で勉強することはとても難しいものでした。そこで私はソ連留学をあきらめ、その周辺諸国を狙いました。最初はスウェーデン政府奨学金に応募しました。失敗。失敗にしょげていたとき、ナウカ社の《窓》に掲載された保田孝一先生の記事を偶然目にしました。それはフィンランドのヘルシンキ大学付属図書館である《スラヴォニック・コレクシヨン》の紹介記事でした。ここに決めました。翌年、フィンランド政府の奨学金に応募しました。
 受験生は16人でした。そのうちの一人に奨学金が与えられるという難関でした。私にとってもっと難関に思えたのは、私以外の受験生はみんなフィンランド関係の勉強をしていたことです。フィンランドの大学でロシアの歴史を勉強したいとはやはり変ですよね。しかし、どういうわけか当選しました。こうして私は、希望に燃えて初の海外留学に出かけました。
 留学中は面白いことが山とありました。日記に克明に記録してあります。後日チャンスがあれば出版しようと考えていますからここでは省略します。今回のこの《会報》のテーマである《留学》との関連で一つだけ書いておきます。それは、留学前と留学後では私の性格、人間性がすっかり変わったということです。プライバシーとの関係で詳しくはお話いたしませんが、多くの貴重な経験を経て、私はすっかり《ずぼらな》人間になったような気がします。これは、何も悪い意味で申しているのではありません。逆に、人生がとても愉快になったという意味です。
 学生時代の《留学》は人生にとって大きな意味をもちます。できるだけ多くの学生に積極的に海外へ出かけてもらいたいものです。その気持ちを強くもってもらいたいという願いから、今回のテーマ《留学・文化交流》を選びました。これから留学を考えたり、海外旅行を考えている学生の皆さんのお役に立てることを願っています。
これまでの《会報》は、その存在を広く世間に知ってもらいたいという気持から作られてきました。その目的はかなりの程度達成されたように思えます。今回の号からは、それに加え読者の役に立ててもらいたいという目的を加えていこうと思います。それゆえ、特別なテーマを設けました。次号のテーマは《私の見つけた小さなロシア》です。会員は全員書きます。会員以外の方もどんどんご投稿ください。
 
 

特集「留学・文化交流」
 

海を越えて、海の向こう側へ

加藤  彩美 
(愛知県立大学文学部英文学科1年)


  おろしゃ会の部室にはロシアの地図が貼られている。この地図では、ロシアが中心に位置し、日本はその余白を埋めるように小さく描かれている。初めてこの地図を目にしたときは、ロシアの国土は日本の国土の45倍もある―そのような数字も知識も寄せつけないほどの存在感に圧倒されてしまった。
  それが主たるきっかけで、私はおろしゃ会の会員になった。そして1ヶ月も経たないうちにマリーナさん来日の日が訪れた。彼女に会うまでに少しはロシア語を覚えようと思ってはみたものの、結局はロシア語のアルファベットですらままならないという無惨さであった。ロシア語で会話ができないならば英語だろうかと考えをめぐらせてみたが、それは杞憂だった。彼女の日本語能力には目をみはった。彼女にロシア語のアルファベットを教授されながら、彼女の意志の強さを感じた。
  日本人は『努力』という言葉を愛してやまない民族である。それが適切に使われているかはずいぶん怪しいものであるし、私は『努力』の存在ですら信じていなかった。『努力』は自分のための名詞ではない。私は、言葉だけが乱用され、もはや偶像崇拝となったかのような『努力』に飽き果ててしまっていた。各分野でそれぞれの能力に長けた人は、『努力』の影を見せないからであるということに長く気付かなかった。マリーナさんは、日本語を読む、書く、話すことに優れている。それだけではなく、彼女は日本語だけでなく英語も堪能であるから、外国語を習得する才能があるのだろうなとうらやんでいた。しかし、多くの人を明るい気持ちにさせてくれる温かさを持った彼女から、深夜まで勉強していて寝不足だと聞いたとき、濃い霧が晴れていくように感じた。彼女の強い意志こそが『努力』につながり、能力を開花させたのだと理解できた。今の私には、『努力』を不快な言葉としてはねのけることはできない。
  マリーナさんは文字通り多彩な人である。私は彼女から、ロシア語以外にも社交ダンスを習った。普段、部屋にひきこもりがちな私にとっては、『社交』はたいへんな苦悩の言葉である。それでも、彼女と踊るのは楽しかった。彼女は胸を張って軽やかに踊り、私は足元ばかり見ながらふらふらと踊った。
  興味のあることはわかっているつもりなのに、それを持て余し、立ち竦む学生は多い。私もその一人だ。想像だけでは生きて行けない、義務と責任の伴う社会に臆病になり、永久に学生のままでいられたらと真剣に願う。その中にあって、マリーナさんの存在はひときわ光彩を放っていた。彼女は、言葉も想像も行動に変えてゆけるのだ。私は、大きな力をもらった。
  留学生にとっても、迎える人々にとっても、留学というのはあらゆる偏見を打ち砕くにはよい機会である。特に、日本人は外国人に対して過剰に意識するところがある。実際に、共に生活をしてみると異なる国籍や民族への意識は薄らいでゆき、人間としては何の違いもないと思えるようになる。これは、古典文学を読み、現代の人も平安時代の人も思い悩むことは一緒だと知るのとよく似ている。そして、相手の持つ文化や思いに興味を持ち始める。常に客人であり、ガイドの案内でせわしく行動する観光としての海外旅行とはまったく違う。もちろん、留学においてはその国の人々と生活する中で困惑や失望を感じることもあるだろう。言葉や行動、何もかもが自分の責任なのだから。しかし、それら責任と誠実に向かい合い、乗り超えようとしなければ、自分の求めるところには辿り着けない。私はまだ、ここ日本でも迷っている。それでも、いつか広い世界を見ることができるように、今はせめて自分の興味や関心の先だけは見失わないようにと強く意識している。
 


ロシアからの留学生・マリーナ
                                  高木 利佳 
                     (愛知県立大学外国語学部スペイン学科4年)

 ついこの間私の通う愛知県立大学に一人のロシア人留学生が来た。彼女はとても真面目で頭がよく、美人で親しみやすい人だった。同年代ということもあり、私達はすぐに仲良くなった。日本語がペラペラだったので私達は主に日本語で話していた。時々ロシア語でも話したが、ほとんどの単語がわからないので結局日本語になっていた。
顔の広い彼女は2ヶ月という短い滞在の中で、いろいろな人からの誘いでいつも忙しそうだった。彼女はよくこう言っていた。
「日本に勉強をしに来たのに、日本では勉強できません。」
「遊んでばかりで私とても不真面目…。」
しかし私達日本人から見れば、彼女は十分すぎるほど頑張っていたように思う。彼女のその頑張りは私達にも影響を与えた。もっと頑張らなければと思わされた。そして改めて、“言葉を覚えるにはその国に住むことである”と思った。日本にいる間に彼女の日本語はさらに上達した。私達のロシア語もほんのわずかだが進歩した。しかしやはり使わなければ言葉は忘れるもので、すでに私の頭の中からは抜けてしまったようだ。
彼女はまた我が大学に留学したいと言っていた。その時はもう少しロシア語で話ができるよう、少しでも私のロシア語が上達しているよう祈るばかりだ。
 
 
 

がんばります。
                                 鈴木 敦子 
                     (愛知県立大学外国語学部フランス学科3年)

 私がおろしゃ会に入って驚いたこと、それは、勉強好きな人たちの集まりであるということである。少なくとも私にはそう感じた。なぜなら、会員のほとんどが、ロシアに何かしらの興味をもっていて、その上でロシア語を学んでいたり、学ぼうとしていたり、ロシア史を学んでいたりとしているからである。そんな中にいると、「自分は何をしてるんだろう?」と思ってしまう。私の入部動機は、ロシア語を学ぶことではなかったし、ロシア史に多少興味はあるが、真剣に取り組もうとも思わなかった。「じゃあ、なんで?」と聞かれると、「遠足があるから!」という軽すぎる気持ちで入ったのが事実である。だから私は、おろしゃ会にとっての裏切り者であり、同時にせっかくの他文化を知るチャンスを自分で無駄にしていた。そのことを、ロシアの留学生マリーナが来たこと、そして友人がフランス留学をすることで深く実感した。
 マリーナは、すごく勤勉で、日本での限られた時間を1秒も無駄に出来ないというくらいの意識で、日本のことを勉強していた。友人も、大学入学当初から、フランス留学を目標に頑張っていた。私の身近にいた2人が、留学することで少しでも多くの他文化を学んでいる、学ぼうとしている。そのことは、高校・大学と留学や文化交流をする上で、とてもいい環境にありながら、それを無視してきた私にやる気と勇気を出させた気がする。あと1年、ただアルバイトに明け暮れた日々を過ごすのではなく、社会に出てしまう前に自分の今ある環境を無駄にしない日々を送るべく、1度はフランスに行ってみようと思う。私をマリーナに出会わせてくれたおろしゃ会と友人に感謝である。
 
 
 

私がフランスに留学する理由
                                  田村  明子 
                     (愛知県立大学外国語学部フランス学科3年)

 この10月からフランスに留学することになった。この留学は、私が大学に入学して以来、ずっと目標にしてきたことだったので、決定したときはとても嬉しかった。そして、それからの三ヶ月間は留学のための様々な準備に追われたわけだが、その中で「なぜ私は留学したいのか?」「私は何を学ぼうとしているのか?」という問いを再び考え直す時間を持つことができた。その考えをここに書きとめておこうと思う。
 
 そもそも、私がフランス語を勉強し始めたのは17歳の時であり、その動機は、大好きなお菓子作り・パン作りの役に立てば、というものだった。そして、言語学に興味を持った私はソシュールの原著を読みたいと思い、フランス学科を選んだ。その後、興味は次第に言語学から美術史、とりわけ19世紀美術へと移っていった。しかし、こんなたいそうなことを書いてはいるが、大学に入ってからの私は常に一つの疑問にとらわれていた。それは、私は何のために大学に入ったのか、ということだった。毎日がフランス語の予習とフランス語の授業の繰り返しで、自分がカリキュラムを「こなしている」だけのように思えることが何度もあったのだ。大学に入った当初、大学は学問をするところだと思っていた私はそんな自分自身が許せなかったし、かといって、打ち込めるほど興味のあることも見つけられずに、自分を見失ったように感じていた。しかし、大学でいろいろな人に出会い、今まで知らなかった新しい世界に足を伸ばすようになって、大学はただ学問をするためだけの場所ではないのだと思うようになった。自分の世界を広げてくれるのは学問だけではないということを再認識したのだ。そして、大学はそんな新しい出会いの場でもあると考えるようになったのである。
 もちろん、自分の研究したいことが何なのかをさらに絞り込んでいき、それについて学んでいくことが最も重要だ。しかし、それと同時に、私は自分のことをもっとよく知りたいと思っている。私にとって、フランスへ行くのはそのひとつの手段なのだ。フランスという自分の属している文化とはまったく異なった文化に触れることで、自分というものを相対化させ、認識したいのである。アジアとヨーロッパの違い、アジア人に対するヨーロッパ人の考え方など、普段は知ることのできないことがわかるだろうし、逆に自分のヨーロッパに対する考え方も浮き彫りになるだろう。自分を認めることは、時としてとても困難な作業となるが、それでも私は自分をよりよく知るために、そして自分を変えていくためにフランスに行きたいと思う。
 最後に、人が自分を変えようとすること、自分の世界を変えようとすることは素晴らしいことだと思う。たとえそれが他人から見れば些細なことであっても、その人が勇気を持って、新たな世界を切り開いていこうとする姿勢は、理屈抜きで「カッコイイ」。そして、自分も常にそういう姿勢で、自分と向かい合っていきたい。

この文章を、亡き友人・山口朋洋君に捧げる 2002.9.1 田村明子
 


Im Unglueck erkennt man die Freunde.
吉田 祐子 
(愛知県立大学外国語学部ドイツ学科2年)
  私はこの夏ドイツで一ヶ月間語学学校に通いました。今回はドイツで語学力をつけてこようとかいう目標より「行くこと」自体に意義があると思って出発しました。自分で全部やろうとしたので、初めての海外で、自分で学校を決めて、自分で授業料を振り込んで、自分で飛行機のチケットをとって、パスポートを取って、保険に入って、クレジットカードを作って…、と行く前から死にそうでした。ちなみに全部一人で出来るわけありませんでした。あまりの手続きの複雑さと、自分の常識のなさにいつもあきれる親の気持ちが少しわかりました。
何を学んだか。それはドイツに行く前から、ドイツで勉強している真っ最中にも、そして帰った後からもずっと考えていることです。実際、語学よりもそれ以外のことを多く学んだというか、現実の一片を知ったので、今は頭が混乱していますが、その中から分かっていることをここに残したいと思います。
 はっきり言って、ドイツでの生活は最悪でした。留学は楽しいことばかりではないとはよく聞いていたし、つらいこともたくさんあるだろうとは身構えていたけれど、あまりにも運が悪かったです。よっぽど日頃の生活が悪かったのでしょう。たくさんの理由はあるわけですが、こんなに我慢をし続けたのは人生の中で初めてかもしれないってぐらいでした。おかげで忍耐力が強くなった気がします。それでも、我慢できたのは励ましてくれる人がいたから。ありきたりなことを言っているだけに聞こえるだろうけれど、本当のことだからしょうがない。皆がいなかったら、一ヶ月耐えられなかったです。今回のドイツ行はいつもと同じように、口だけで行動の伴わなかった私でい続けただろうし、とても無理でした。
 私の長所はと聞かれたら、いつも「どんな環境で、どんな境遇においてもそのせいにして妥協しないこと、逃げないでそれを踏み台にして克服すること」と言ってきました。それは周りの人にも言われてきたことで、私はそういう強い自分が好きでした。けれど、ドイツに行ったら、あまりにも妥協しまくりで、そこから抜け出せなくて、現状を見ては泣いているだけで、どうしていつものように強くなれないのか最初は自分でも分からなくて、焦ってばかりでした。でもいつまで待ってもあの強い私は登場しませんでした。それでやっと気がつきました。皆がいるから強くいられたんだって。周りで守ってくれて、支えてくれて、一緒に耐えてくれる人がいない限り、そんな強くいられるわけがないんだって。自分の大きな勘違いと、今まで一人で問題を乗り越えたことがないことに気づかされました。すごく幸せ者だったんです。
 実際、どんなに有名などんなに素晴らしい芸術作品や山や城や噴水を見ても、一人で見たら心に留まらずにさらさら流れていってしまって、その時は「へぇ、すごいねぇ」と思っても後で何も残りませんでした。日本でいつも見る何の変哲もない空や夕焼けに感動して泣きそうになっていた自分からしたら想像もつかないくらい冷め冷め。この大きな違いの原因は私の横に大好きな人がいなかったこと。大好きな人がいない限りきれいなものを見てもきれいと思えないし、思えたとしてもそれを倍や二乗にすることは私一人では出来ませんでした。少なくとも私はそうでした。
 私が辛かったときは日本からの先輩のメールで生き返りました。ありがとう。あと、皆は気づいてないかもしれないけれど、実は皆が私のことを好きでいる気持ちより、皆のことを好きな私の気持ちの方が大きいです。きっと。それぐらい、好き。それだけ依存している部分も大きかったと思うけど。そして、今回の無謀とも言えるドイツ行きに許可を与えてくれて、サポートし続けて、日本からたくさんのエールをくれた家族に感謝します。私は一人では何もできない頼りない子です。強くいられたのは皆がいたから。これからはもう少し甘える存在でありたいと思います。いつも強くいるのは疲れます。周りの状況をよく見ながら自分に正直でいたいです。ということで、皆にはまた迷惑をかけ続けるだろうけど、よろしくね。

 またドイツに行きたいです。悔しいから。今度は語学力がどれだけ成長したか確かめるために行きたい。一緒にがんばれる友達も励ましてくれる人たちもいるから、根拠もなくやってのけられるような気がしています。

-Bekannte kommen und vergehen, Freunde nicht.-



 

           きらまー  みーしが  まちげーみーらん

慶良間見しが、睫毛見らん

真栄田 裕哉 
(愛知県立大学外国語学部英米学科4年)

 私は16歳の夏から翌年17歳の初夏までアメリカに留学をしました。留学を決意した理由は多々ありましたが、やはり最大の理由は語学学習と文化理解でした。アメリカでの新しい、そして未知の生活に胸を躍らせ発つ日を心待ちにしていました。沖縄から羽田、成田と経由し、10時間以上の長いフライトを経てサンフランシスコへ。夜が明けるとともに目に飛び込んできた、赤く広大な大地、あの時の感動は今も忘れる事が出来ません。「とうとうアメリカに来たのだ。」 そう強く感じました。
 アメリカへと旅立つ前の私は、ただひたすら英語の学習とアメリカについての本を読む、そしてそれが留学を成功させる事だと考えていました。しかし、それだけでは十分でなかった、そう気づかされるのに時間はかかりませんでした。アメリカ人や他の国々からの留学生から様々なことを問いかけられたのですが、私は満足のいくような答えを返せない時が多々ありました。その中でも特に私が困ったのは、宗教について質問された時です。ホスト・ファミリー見つけるために作成された私のプロフィール表には、仏教徒であると記されていました(私自身は宗教については何も記入しなかったのですが……)。そのため仏教はどんな宗教なの、どんな儀式を行うの、などと質問された時どのように答えればいいのか非常に悩まされました。またそれ以外でも、政治、経済、映画、漫画など、幅広い質問に合いましたが、それらについても、上手く答えられない時がありました。
 私は1億3000万の中の日本人、そして130万人の中の沖縄人と自分自身をそれまで思っていました。つまり特別ではない、普通の日本人、沖縄人であると考えていたのです。しかしひとたび外に出れば、私はある意味特別となり、彼らにとっては日本と沖縄を代表する人間が私となってしまいます。つまり彼らが持つ日本と沖縄というイメージを、私によってある程度決定付けされてしまうのです。
 今回のタイトルである「きらまーみーしが、まちげーみーらん」、これは沖縄語で、遠くにある慶良間島は見えても、自分の睫毛は見えてないという意味です。私はまさしく遠くのものばかりに目を向けて、近くのものを見ていませんでした。自分の足下は見えにくいというのは時として起こりうることですが、しかし足下を見ずして、正確に遠くを見ることは出来るのでしょうか。私とは違い、他の国々からの留学生は自分自身の文化について多くを知っている事にとても驚かされました。それはつまり彼らは真の留学生であったのではないかと思います。相手の文化を正しく理解するには、それと対比できる何かが必要であると思います。それが自分自身の属する文化や習慣だと私は思います。本当の意味での他文化学習は自己文化学習から始まるのだ、私は留学を経験しその事を強く実感させられました。
 
 


レポート「マリーナ・ロマーエヴァ歓送の夕べ」
Прощальная вечеринка
Марина, до свидания!
 
 
 
 

日時:7月12日(金)午後5時〜午後7時
場所:愛知県立大学生協食堂

ロシアからの留学生マリーナは二ヶ月間、県大で精力的に活動をしてきました。国際関係など、たくさんの授業を受講し、おろしゃ会では、忙しい中、毎週私達にロシア語を教えてくれました。私は彼女との交流を深めていく中で、彼女の物事に対する積極性と真剣さに驚くと同時にそれらを素晴らしいと思いました。彼女と出会えたことをとても嬉しく思っています。マリーナとの別れを惜しみ、楽しい思い出をさらに確かなものとするため、私たちは歓送会を企画しました。

【出席者ご芳名】
(敬称略。当日の名簿による。記載漏れ、誤字脱字、順不同などご寛恕ください。)
一般社会人
稲葉佳子(ホームステイ先稲葉治様ご令室)、稲葉千紘(同ご令嬢)、小山良治(愛知日ロ協会会長)、信藤一枝(日ロ協会)、鳥山進(同)、鈴木基治(同)、浅野好子(同)、片桐清高(県会議員)、高木浩司(県会議員)、小島丈幸(県会議員)、松原幸江(石田流師範)、加藤淑子(石田流師範)、伊藤秀男(日ロ友好愛知の会)、木村高志(東海テレビ事業局局長)、田邊三千広(名古屋明徳短期大学)、堀内守(名古屋大学名誉教授)、江崎春海(自民党愛知県連)、その他
県立大学教職員
森正夫(愛知県立大学学長)、日置雅子(外国語学部学部長)、林迪義(フランス学科)、大黒康子(外国語学部事務局)、松宮朝(社会福祉学科)、スヴェトラーナ・ミハイロワ(県立大学ロシア語講師)、東弘子(学部共通)木下郁夫(同)、加藤史朗(同)
一般学生
大西孝一郎(フランス学科)、加藤孝雄(中国学科)、村井香苗(ドイツ学科)、吉田祐子(同)山崎みえ(同)、本井智子(同)、森紗波(社会福祉学科)、橋本知帆(同)、服部陽介(同)、中瀬綾乃(英米学科)、大橋美由紀(同)、三原佳子(同)、川上真紀子(藤田保健衛生大学大学院)、十亀まり子(名古屋明徳短大)、鈴木千愛(同)
おろしゃ会学生
鈴木夏子(英米学科)、真栄田裕哉(同)、久野栄子(同)、高木利佳(スペイン学科)、平岩貴比古(日本文化学科)、田村明子(フランス学科)、鈴木敦子(同)、加藤彩美(英文学科)、ガウハル・ハルバエワ(名古屋大学大学院)、その他
 
 

【協議書】(ロシア語版)

Соглашение о приеме студентки
Красноярского государственного университета (РФ)
Университетом префектуры Аити в качестве стажера

1. Университет префектуры Аити принимает в качестве стажера студентку IV курса японо-английского отделения факультета современных иностранных языков Красноярского государственного университета для прохождения краткосрочной стажировки в данном университете.
2. Продолжительность стажировки ? с апреля 2002 года по сентябрь 2002 года.
3. Стажер принимается в качестве особого слушателя общего курса лекций на факультете иностранных языков Университета префектуры Аити.
4. Университет префектуры Аити не несет никаких расходов, связанных с пребыванием и обучением стажера.
5. Стажер следует положениям устава Университета префектуры Аити во время прохождения обучения.
6. Данное соглашение  вступает в силу в случае подписания его обеими сторонами или же, если обе стороны не подписывают его одновременно, во время вторичного подписания, и теряет силу с истечением срока стажировки.
 

25.01.2002
Ректор Красноярского
государственного Университета
А.С. Проворов
25.01.2002
Ректор Университета
префектуры Аити
Мори Масао
 
 

【協議書】(日本語版)

クラスノヤルスク国立大学(ロシア連邦)女子学生の愛知県立大学
受け入れに関する協議書

1. 愛知県立大学はクラスノヤルスク国立大学現代外国語学部日本語・英語専攻課程4年の学生を当大学における短期留学生として留学させることを認める。
2. 留学期間は2002年4月から2002年9月までとする。
3. 当該留学生は愛知県立大学外国語学部共通課程の特別聴講学生として受け入れられる。
4. 愛知県立大学は留学生の生活および学習に関するいかなる経費にも責任を負わない。
5. 当該留学生は勉学の期間、愛知県立大学の諸規則を遵守する。
6. 当協議書は両大学当事者の双方が署名したとき、あるいはもし両者が同時に署名しない場合は、両者のうち二番目の当事者の署名をもって効力を発し、当該学生の留学期間の終了をもって失効する。
 

クラスノヤルスク国立大学学長
A・S・プロヴォロフ
2002年1月25日
愛知県立大学学長
森 正夫
2002年1月25日
 



 

マリーナからの手紙
(マリーナ帰国後、8月21日に編集・平岩宛てに電子メールが届きました。)


今日は! ご無沙汰して、申し訳ありません。「千と千尋」のビデオ、どうもありがとうございました。私も近い内に例のロシア映画と「Generation P」を送ります。

Спасибо за все, что ты сделал для меня в Японии. Ты замечательный. Мне было очень весело и интересно. Как бы мне хотелось тебя увидеть! Я скучаю по той жизни, когда обо мне все так заботились. Теперь передо мной стоит множество насущных проблем, подлежащих немедленному решению. 時は短すぎて……

大学院の入試はもう受けましたか。私は9月1日から前期に入ります。この夏、あっと言う間でしたね。また手紙を書きます。

マリーナ
 



会員・会友寄稿

ロシア系ユダヤ移民
最大マイノリティーが左右する現代イスラエル情勢
                               平岩  貴比古 
                      (愛知県立大学文学部日本文化学科4年)

1。はじめに

 2001年2月6日に行われたイスラエル選挙(首相公選)では、右派政党・リクードのアリエル・シャロンが、現職で労働党のエハド・バラクを破り首相に選出された。シャロン62.5%、バラク37.5%という「イスラエル政治史上最も大差で」(*1)、である。この選挙結果を、前バラク政権で和平工作が失敗したことを受けてのイスラエル国民の判断とみることは可能だろう。しかし、一言に「イスラエル国民」といっても、事情はそう単純ではない。ユダヤ人の国といわれるイスラエルだが、そのユダヤ人の中でも社会集団ごとに分かれており、いざ選挙戦ともなると、集団の支持を集めることが各政党の最大の目標となるからである。特に近年では、冷戦後イスラエルに「帰還」したロシア系ユダヤ移民が、有権者の一端を担うようになり、選挙の動向自体を左右するまでになっている。
では、イスラエル国民とはいったいどのような社会集団から成り立っているのか。またロシア系ユダヤ人の存在は、現代イスラエル情勢にどう影響しているのか。これらの問題について以下、分析を試みたい。

2.二大政党とロシア系移民
 イスラエルでは、首相は直接選挙で選出される。建国以来、長期にわたり労働党から歴代首相が選ばれてきたのだが、1977年に右派・リクードがはじめて政権交代を実現した。1992年には労働党が再び返り咲き、その後1996年にリクードのネタニヤフ、1999年に労働党のバラクがそれぞれ勝利した。そして前述したとおり、2000年の選挙ではリクード候補のシャロンが選出された。現首相シャロンは強硬派として知られ、彼がイスラエル・パレスチナの双方が主権を主張する聖地「神殿の丘」を訪問したことにより、パレスチナ人の新たなインティファーダ(反イスラエル闘争)につながったことは有名である。
ここ十年の間、労働党とリクードの政権がめまぐるしく変わっているが、国民全体が束になって、この二大政党の間を揺れている訳ではない。イスラエルでは国民の中で、社会集団ごとに主要な支持政党が分かれているのである。
 そもそもイスラエルに住むユダヤ人には、主にドイツ・東欧から移住してきたアシュケナジ(*2)と、中東・北アフリカといった地中海世界から移住してきたスファラディ(*3)の二種類がある。アシュケナジは医者や政治家など知識人階級に多く、一種のホワイトカラー層を占めていて、伝統的に労働党支持である。ユダヤ教への信仰心は比較的薄い。一方のスファラディは、アシュケナジに遅れて移住してきた人々であり、社会の中ではブルーカラーの職種についていることが多い。スファラディには厳格なユダヤ教徒が多く、右派のリクードを中心に支持している。
 労働党支持のアシュケナジは有権者全体の30%強、リクード支持のスファラディは40%強を占めており、両者に決定的な大差はない。そのため、上に挙げた二種類のユダヤ人以外のマイノリティー社会集団が、選挙結果に重大な影響を及ぼし得るという構図になっている。その社会集団とは、イスラエル社会に同化したアラブ系市民(*4)、そして冷戦後に旧ソ連諸国から移住したロシア系ユダヤ人である。
以前よりイスラエルにおいて、アラブ系が重要なマイノリティーであったのだが、1990年代に大量に流入したロシア系移民は、彼らを有権者数で超えてしまった。現在、全有権者に占める割合は、アラブ系が約12%、ロシア系が約14%となっている。
ロシア系の存在は、1999年の首相公選の際、各党のキャンペーンにも大きく作用した。リクードをはじめ、多くの政党が、テレビコマーシャルにロシア語の字幕を入れていたのである。当初はロシア語字幕を入れていなかった労働党も、選挙戦二日目から各党の動きに同調せざるを得なかった。何とリクードは、ロシア語音声のコマーシャルにヘブライ語の字幕をつけることまでしたという(田中宇「誰がユダヤ人かをめぐる陣取り合戦」)。

3.なぜ旧ソ連から移民が増大したのか
 イスラエルへのユダヤ人の「帰還」には、大きく三つのピークがあった。一番目は、19世紀末以来のシオニズム運動、ナチスのホロコースト、そしてユダヤ人国家建国にともなうドイツ・東欧からのアシュケナジの移住。二番目は、地中海・イスラム世界からのスファラディの移住。そして三番目が、ソ連崩壊後のロシア系ユダヤ人の移住である。1998年までに旧ソ連から約76万9000人が移住し、その期間の年間総移民数では実に8割がロシア系だったという(*5)。
  では、なぜそれほどまでにロシア系移民が大量流入したのか。
  大きな理由の一つには、やはりソ連政治体制の崩壊にともない海外移住が認められるようになったことがある。過去にソ連では、イスラエル移住希望のユダヤ人は「レフューズニク」と呼ばれ、人頭税を課されたり、職場を追われたりした(滝川義人『図解・ユダヤ社会のしくみ』)。彼らがソ連市民である限り、「帰還」は不可能だったのである。イデオロギー体制の消失とともに旧ソ連諸国で民族主義の気運が高まることになるが、ユダヤ人もまた例外ではなかった。
  移民流入の要因としては、現在イスラエルでは新たに移住してくるユダヤ人に「移住奨励金」が給付されている、ということも見逃せない。ロシア系移民を題材にし、1999年に製作されたイスラエル映画『ヤナの友達』(*6)では、劇中、主人公ヤナの夫が移住奨励金を担保に銀行から金を借り、ロシアに帰ってしまうという一幕があった。ソ連崩壊後の経済混乱の最中にあったユダヤ人にとって、イスラエル政府からの給付金は魅力的であったに違いない。
  もう一つの理由は、意外なことに、1986年チェルノブイリ原発事故にあるといわれている。ソ連時代、ユダヤ人の半数は被災地であるベラルーシやウクライナに居住しており、被災したであろう約15万人のユダヤ人がイスラエルに渡ったのである(*7)。

4.報道にみるロシア系移民
  ロシア系移民の存在は、イスラエルの現代社会問題としても、広く日常的に知られるようになった。日本でも彼らに関する情報を耳にすることは多い。
  中でも、2001年10月に黒海上空で起こったロシア・シベリア航空機墜落事件は象徴的な出来事であった。事故発生時、9・11同時多発テロ事件の直後だったこともあり、テルアビブ空港は一日閉鎖となったが、後の調査でウクライナ空軍機によるミサイル誤射が原因だったと分かった。この航空機はテルアビブ発、ロシア南部ノボロシースク経由、ノボシビルスク行きのチャーター便だった。死亡した乗客66人のうち51人がイスラエル人で、このほとんどはロシア系ユダヤ人であったと推測される。ノボロシースクは多くのユダヤ移民の出身地として知られ、イスラエルからロシアへの「里帰り」に際し起こった惨事だった(*8)。
  また2002年5月には、ユダヤ人のアイデンティティーを揺さぶりかねない不思議な事件が起こった。旧ソ連からの移民であるユダヤ人女性が、パレスチナ人の夫とともに、少年の自爆テロをほう助したとして逮捕されたのである。事件は少し複雑である。当初の発表では、パレスチナ解放機構・主流派ファタハの武装部門タンジームに所属するイブラヒム・サラチェンと、彼の妻で11年前に移住したロシア系の女性マリナ・ピンスキーが、テルアビブ近郊で起きた自爆テロの犯人(16歳のパレスチナ人少年)を現場に運んだとされていた(『中日新聞』6月1日朝刊)。しかし、これは誤報であった。逮捕された妻は、実はウクライナ出身の自称「イリーナ」という女性で、実在するロシア系ユダヤ人女性ピンスキーのIDカードを偽造していたのである。さらに容疑者であるパレスチナ人の夫と、名前を利用された実在のロシア系女性の前夫が「同姓同名」のいとこ同士であったことも、当局を途惑わせる原因となった(同6月3日朝刊)。
  この自爆テロほう助およびID偽造事件では、容疑者のウクライナ系女性も、名前を使われたロシア系女性も、同じソ連からのユダヤ移民だった。両者はパレスチナ人との結婚、という点でも共通している。一つだけ違うのは、前者がキリスト教徒(正教徒)だったことである。イスラエルで「一等市民」であるにはユダヤ教徒でなければならず、占領地からのチェックポイント通過を容易にするために、彼女はIDカードを偽造したのだった。事件の背景には、旧ソ連出身のユダヤ移民が、パレスチナ人と少なからず結婚しているという現実があった。

5.リクードとロシア移民党の協力
 政治に話を戻すと、選挙結果を左右しかねないロシア系ユダヤ人だが、彼らは一般的にリクードを支持しているといってよい。これはリクードと、ロシア系ユダヤ人でつくる政党・ロシア移民党との協力関係からも知ることができる。とはいっても、その支持基盤は必ずしも強固なものとはいえない。ロシア系ユダヤ人は、ソ連時代に敬虔な信仰心を失うという運命にあったため、宗教的価値観においては、改革派ユダヤ教徒であるアシュケナジと通ずるところがある。つまり、労働党支持の素地も持っているという訳である。
 では彼らがリクード支持となるのはなぜか。それは、ロシア系ユダヤ人が民族的には一応アシュケナジでも、一部インテリ層を除いてブルーカラー職種に就くほか選択肢はなく、「エリート政党」である労働党に反感を抱いているからである。イスラエルにはIT産業の牽引力となったロシア系エリート技術者がいることも事実だが、ロシア語しか話せないという言語的なハンディキャップから、大多数の人々は低所得の状態に置かれている。すなわち「階級的」にはスファラディに近い。
 このように経済的な困難のつきまとうロシア系移民だが、彼らが最初に直面した問題は、イスラエルへの「入国」、そして「住居」だった。
 彼らのイスラエル移住には「帰還法」が適応された。この法律によると、両親か祖父母のうち誰かがユダヤ教徒であればユダヤ人として認められ、イスラエル国籍を得ることができる。実際70万人以上の旧ソ連のユダヤ人が、「帰還法」にもとづき移住した。しかし、イスラエルにはユダヤ人を定義するもう一つの法律、「宗教法」があった。母親がユダヤ教徒でなければ正式なユダヤ人と認めないもので、これに多くのロシア系移民があぶれた。「宗教法」は内務省の管轄であり、超正統派政党・シャス出身の副首相兼内相エリ・イシャイがコントロールしていることから、ロシア系の人々はシャスに対して反発、シャスと近いリクードからも一時手を引こうとした。
 それでもロシア系移民のリクード支持は根強いが、それは「住居問題」に関係がある。リクードは1993年の和平合意後も占領地へのユダヤ人入植を奨励し、イスラエルによる占領を既成事実化しようとしているが、占領地は税制面で優遇されるため、ブルーカラーのロシア系にとって魅力的な移住先となっているのである(*9)。現在、副首相兼住宅相はロシア移民党のナタン・シャランスキーである。このユダヤ人入植政策は、リクードとロシア移民党の協力により実現したものとみてよいだろう。

6.イスラエル・パレスチナ紛争への影響
  先にも述べたように、シャロンが「神殿の丘」への訪問を強行したことは、パレスチナ人の新たなインティファーダに火をつけた。イスラエル軍は本格的な軍事行動に着手、パレスチナ自治区は封鎖され、事態はいっそう混迷を深めている。しかし、インティファーダの原因をすべて、シャロンの「神殿の丘」訪問に求めるのは無理があろう。それはあくまで「引き金」であったにすぎない。
  インティファーダの背景には、やはりパレスチナ人の危機感、新たな入植者たちが「静かに」侵略してくることへの危機感があった。軍事力で圧倒的不利にあるパレスチナにとっては、「国際世論」を除けば、パレスチナ人の「人口増加」だけが頼りだったのである。実際、パレスチナ過激派の一部には、ロシア系ユダヤ人をテロの標的にすべきという考え方も生れている。
  シャロンのリクード政権は、ロシア移民党と利害を一致させ、「静かな」侵略の先兵として、ロシア系移民を入植させているようにもみえる。人口の約7分の1を占めるロシア系の人々は、選挙の結果を左右する可能性があるだけでなく、具体的な政策に、確実に重大な影響を与えているのである。唯一のロシア系ユダヤ人閣僚ナタン・シャランスキーが住宅大臣であることが、まさにそれを象徴しているのではないだろうか。


*1 シブリー・テルハミへのインタビュー(『SAPIO』2001年3月14日号)より
*2 アシュケナジ(Ashkenazi)という言葉は、ノアの第三子ヤペテの子の名に由来する。中世ドイツ語とヘブライ語の混成語であるイデッシュ語を話した。
*3 スファラディ(Sephardi)は、オバデヤ書に言及されている国名に由来している。かつてはスペイン語とヘブライ語が混合したラディノ語を話したが、今日では廃れ、ほとんど話されていない。
*4 多くはいわゆるパレスチナ人だが、(1)イスラム教徒、(2)キリスト教徒、(3)ドルーズ教徒、(4)ベドウィンなどがいる。(イスラエル大使館website)
*5 ミルトスwebsiteより
*6 原題は『Hahaverim Shel Yana』。自身がロシア系移民であるアリク・カプルンの監督作品。湾岸戦争前夜のロシア系移民の様子がユーモラスに描かれている。
*7 パレスチナ・オリーブwebsiteより
*8 10月4日、ロシア南部ノボロシースクの南約190キロの黒海上空で、シベリア航空ツポレフ154旅客機がウクライナ空軍機に撃墜された事件。同機に搭乗していた乗客乗員78名は全員死亡。乗客51人がイスラエル人だったという。(『毎日新聞』2001年10月4日電子版)
*9  山田しらべ「パレスチナは牢獄と化していた」(『SAPIO・2001年5月9日』)より

参考資料
○ 田中宇「分解するイスラエル:2種類のユダヤ人」 http://tanakanews.com/990528israel.htm
○ 田中宇「誰がユダヤ人かをめぐる陣取り合戦」 http://tanakanews.com/990602israel.htm
○ 滝川義人『図解・ユダヤ社会のしくみ』2001年、中経出版
○ 『SAPIO』2001年3月14日号・5月9日号、小学館
○ ミルトスwebsite http://www.myrtos.co.jp
○ パレスチナ・オリーブwebsite http://www5a.biglobe.ne.jp/~polive/report/kusa.html
○ イスラエル大使館website http://www.israelembassy-tokyo.com/about/society/01.html
○ 『毎日新聞』2001年10月4日電子版
○ 『中日新聞』2002年6月1日朝刊、6月3日朝刊
 
 
 

モスクワ短期留学記
                                   柿沼秀樹 
                        (慶応大学文学部4年・西洋史専攻)

 私は「おろしや」会に実質的に部外者であるが、にもかかわらず私のロシア語演習の指導をしてくださった田辺三千広助教授から私に執筆の依頼があったので、このささやかな感想文めいたものを書こうと心に決めた。本文が少しでも読者の役に立てれば幸いである。
 感想文めいたものといっても、それがまったく日記と変わるところがなければ大方の読者は読む気を起こすことはないし、読んでくれたとしても結局その時間の浪費を後悔させてしまう羽目になるだろう。従ってここでは私が経験した限りで得た有益な情報をちりばめて、むしろそこに力点を置いて、このモスクワ短期留学の思い出を文章化しようと思う。

 私は大学1年生からロシア語を学び始め、今でも学んでいる。蛇足ながら私の通う大学のロシア語の授業を概説的に説明しよう。ロシア語の授業は非常に豊富である。各学部にはそれぞれ独自に講師を招いてロシア語の科目が設置されており、特に法学部には「ロシア語インテンシヴ」なるものがあり、3、4人の講師がトータルなロシア語能力の向上を目指して週4回の授業を展開している。個人的に言えば、私は早くからこの授業の存在を知っておけばよかったと今でも後悔している。学部以外にも「語学視聴覚研究所」なるものが存在し、年3万円と有料だが十分元は取れる授業が週2回展開されている。さらに大学それ自体とは無関係の「慶応外国語学校」なるものも存在している。半年に5万円で週3回の授業がなされているが、生徒は社会人が主なため学生としてはいくつかの点で不満足な授業展開になる場合が多々ある。最後に言い忘れたが、私の属する文学部のロシア語はどうかというと、1・2年生に対しては必修で語学科目独立して存在し、それをクリアしないと即留年になる制度が採られている。また一般科目としてのロシア語もあり、初級・中級・上級・特級の4つがある。文学部内の各専攻(すべての専攻にではない)にロシア語の原点購読の科目もあり、西洋史のそれを担当しているのが田辺三千広助教授である。上記の全ての授業内容に対するより細かな説明は、経験を元に語ることになっておよそ客観的足りえなくなるのでここでは控えさせていただく。このようにしてロシア語の授業科目自体はわが大学においては豊富だが、どういうわけか「露文」という専攻もなく、「ロシア・東欧史」といった類の専攻もない。さらに極めつけは、学内においては決してロシアとの交換留学制度は存在しない。このことは伝統的であり、つまりは意図的である。それは、たとえばそれ以外の留学相手にはポーランドやスウェーデンやフィンランド、さらには中央アジアのウズベキスタンといった国があるということによってもある程度示唆されているものと思われる。学内にはこれらの国の言語を教える授業などは存在しないか、あってもきわめて不十分なものである。それらの授業を学ぶか独学かをしている学生は私と同じような感覚で学内の授業システムを批判しているが、にもかかわらず彼らはそれ故に非常にたやすく交換留学か行えるという事実を捨象している気がする。
 話を元に、そして最初に戻そう。私は2002年の2月16日から3月28日までロシアのモスクワに短期語学留学をした。その受け入れ先はЦМО(ツェントル・メジュドゥナロードナヤ・アブラザバーニヤの略。学生は皆「ツモ」と言っていた。高校生の頃は麻雀に通じていた私にとって、その響きは奇異であった。)という教育機関であり、モスクワ大学と系列関係にある機関らしい。校舎も違えば学生層も違う(ロシア人の学生はいない。当然といえば当然だが日本人学生の中にはそのことに不満を持っている人は多い。)が、私がその機関にモスクワ大学の図書館に入れるように頼んだら5分で許可が下げたので、両者に関係があることは真実だろう。
昨年の同じ時期にそこへ同じく短期留学をした友人が今年度も行くつもりで私に一緒に行こうと勧めたのが話の始まりであった。彼は昨年は旅行代理店を通してそれを行ったため、高くついたらしい。その旨(愚痴)を向こうの機関の人に伝えたところ、一枚の申し込み用紙と入学案内書をもらった。それを書いてファックスで送れば、簡単に入学許可が下りるとのことだった。私はこのことを聞いて、一緒に行くことに同意した。この機関が少し前によく聞かれた外貨ぼったくり目的の機関などではなく、まともなそれであることは、何よりもこの目の前にいる友人が五体満足で、そして喜んで再び留学しに行こうという意欲に満ち溢れていたということによって証明されているように思われたからだ。
ところが、その友人は急遽行くことが不可能な状況に陥った。それゆえ私が一人で手続きをすることになった。1月の初めに早速申し込み用紙をファックスで送った。とはいえ申し込み用紙に記入する際に私は少し戸惑ったことがあった。何よりも申し込み用紙自体にはお金のことについては何一つ触れられていないことと、自分が寝泊りする寮についての説明がまったくないのにただ4つの寮の中から1つを選ばなければならないことがその原因であった。いずれにしても少なくとも寮のことに関しては「選びようがありません」と書いて、それで送った。2週間が過ぎ、メールにて返事が来た。そこにはこう書いてあった。

「ファックスを受け取りました。万事ご心配なく。書類は数日中に用意されるでしょう。(傍点筆者)」

このメールを見る限りで、私が何の安心も得られなかったことはお分かりかと思う(「書類」とは何のことだろう?  「用意される」って一体・・・。しかし全くもって曖昧じゃないか!)。私の予定としては2月の初めにはもう向こうに着いて、それで1ヶ月を向こうで過ごそうというつもりだった。書類にはもちろんその旨を書いておいた。しかしそれ以来何の返事が来ないまま2月にはいった。このころにはもう私はこの件にはすっかり見切りをつけて、他の仲介業者にいろいろと問い合わせた。しかし返ってくる返事はすべて「もう遅い。そんなことは一ヶ月前からするものだ。」と、おとといどころではなく、一ヶ月前に来いと言われて一蹴された。その数日は絶望に陥っていたことは今でもよく思い出されるほどである。
 しかし2月の6日になって、突然一枚の紙切れがファックスで届いた。それはヴィザ申請用紙であった。私は小躍りしながら翌日に大使館に足を運び、ヴィザ発行までの一週間の間に6万円のアエロフロートの往復航空券を購入した。そして2月14日に大使館にヴィザを受け取りに向かったのである。
 大使館に歩いていく途中、確か午前10時くらいだったと思うが、私の希望に満ち溢れた気分とはまったく裏腹に、周囲の雰囲気は緊張していた。警官がやたらと多かった。その数は歩くにつれて増していき、そこを右に曲がれば大使館だという交差点にいたっては武装警察官の大集団に遭遇した。その数は200人はいたと思う。住民はみな外へ出て不安な面持ちで周囲を見守っていた。ロシア大使館に関係のあることだということは察しがついた。というのも、警察の護送車みたいな車が大使館の正門を防御する形で配置されていたからである。私はその時、どうしてもあのいわゆる「ウキウキ」気分が胸のうちから出て行こうとしなかったので、周囲の状況との著しいコントラストの故にか、ずいぶんと不思議な感覚を味わい続ける羽目になった。
 とそこに、一台の大型バスがゆっくりとやってきて、交差点の前で停止した。すぐに機動隊がバリケードを張ってその大使館方面への侵入を阻止した。緊張はいやおうなく高まった。私はちょうどそのとき持ってきたカメラのシャッターに手をかけた。その場にいた人の顔という顔は、みなそのバスに集中した。
それはいわゆる「右翼」の団体であった。彼らはスピーカーを片手に、大声で、非難と罵倒と中傷をまじえながら北方領土返還を訴えていた。「とにかくお前たちは帰ってくれ」ということが彼らの意見であった。それに対し警察もまた「とにかくお前たちは帰ってくれ」ということで穏便に対応した。印象的だったのは、スピーカーを手にした人が途中からロシア語でしゃべりだしたことであった。さらにそのバスに乗っている人たち全員が窓を開けて、「ダモーイ!」と一斉に叫んでいたことも忘れられない光景だった。
ともかくもこの事件が単なる抗議運動だけで終わってくれたことは私にとっては嬉しいことであった。抗議運動それ自体は、それがどんな権利主張であれ、民主主義国家においては大事なことであろう。そういう運動に自覚的な注意を向けない限り、われわれは知らず知らずのうちに巧妙に衆愚化されてしまうからだ。人は騙されている時は騙されていると感じることは決してないのである。

さて、話は飛んでモスクワ到着後から書き連ねよう。日本から午後1時発のアエロフロート便に乗って着いたのは現地時間の午後5時。そこから3時間税関の列に待たされ、自己紹介もされない人に連行され車に押し込められて、どこだかもわからない建物に押し込められ、そこではその建物の管理人らしきおばさんに何も理解できないままにサインを強要され、部屋に案内され、そこで朝鮮の人の歓迎を受けたのが10時過ぎであった。この時刻にプラス5、6時間すれば、私のそのときの精神状態がどんなものであったかを少しでも分かっていただけるだろう。
すべての契約は、当然のことながら現地で行われた。それはつまり、当然のことながらロシア語で行われた、ということを意味する。それは大変な困難を伴うものであった。しかし、その経験で少しわかったことがあった。それは、ロシア人は(もちろん全てではないが)、相手が理解できていない場合は本当に真摯に、そして真剣に、そしてなによりもわかりやすく説明してくれる、ということであった。契約したことは、どのコースで勉強するか(選択としては週5回か週3回いずれか)、住む場所はどこにするか(今の場所でいいか悪いか)、が主なものだった。これらに付随して、ああしてくれこうしてくれというのが多くあった。私にとっては、これら全てのことは、貴重な経験として映った。
学校の授業は、大変すばらしいものであった。一言で言えば、各人はその努力に応じて、その成果が得られる、といえる。それにしてもやるべき課題は大量にあった。私は最初の2週間は、学校以外はどこへも出かけずにずっと寮に閉じこもってガリ勉していた。
生活に関していえば、衣食住の「食」の部分が重要である。寮には台所はあるが、調理用具は自分でそろえなければならない。そして、当然自分で作らなければならない。私はかつて一人暮らしをしたこともあり、同部屋の朝鮮の人に親切にも毎夕食を作ってもらっていたから、このことに関しては問題はなかった。あのころは、夕食をしている時はいつも、「まさかモスクワで本場の朝鮮料理が食べられるとは夢にも思わなかった」としみじみ感じていた。
「食」に関連して言えば、市場の存在を忘れるわけにはいかない。食糧はここで買ったほうが、安いし新鮮なので得である。ただ、私が見る限りでは、魚に関してはお世辞にも新鮮であるとはいえない。市場は食料に限らず、それ以外にもいろいろなものが売っている。私も調理道具はここで買った。場所としては「チョープリー・スタン」という駅である。これは地下鉄の図でいえば黄色い線である。地区としては南南西の方。また、衣服を専門とする市場も存在する。それは同じく黄色い線の「カニコーヴァ」という駅である。店が本当に腐るほどあるので、購入の仕方にはよく注意すべきである。私のやり方としては、まず、ある店にいって自分のほしい種類の衣服の値段を聞く。すると向こうはあれこれと差し出しては試着を勧める。試着をし、あれこれと文句をつける。そうして最終的に、その店で買うのだったらこの一着、というものを選び、交渉する。市場ではまけてくれない店はそうない。裏を返せばそれほどぼったくっているともいえるのだが。とはいえ、ぎりぎりまで値段を下げておいて、こう言う。「今は金を持っていないし、今日買うつもりはない。明日来ます。」(この言葉は絶対に最初に言ってはいけない。)そうして、ポケットから手帳を取り出し、店の番号と服の種類と値段を書く。これをほかの店でも繰り返す。次の日に自分の気に入った店の数件を渡り歩く。そこで再び値段を交渉する。その際「ほかの店ではこれこれの値段だったんですよ。」とその手帳を見せながら話をするのは効果的である。また、自分は学生であるといって、そこから自分話をすると、暇をもてあそんでいる店の人にとっては気分のいいものとなって、気前がよくなるかもしれない。ただ、私は心得ていたことは、自分を絶対に日本人とは言わないということだった。これが効果的か、逆効果だったのかは判別つかない(というのも、特に中高年の多くの人は日本人を尊敬しているからである。その理由はもう過去のものとなった高度経済成長に求められるであろう)。
こういうやり取りをやっている中で自然と注意と警戒心を深めざるを得なかった相手は、もう50代ともなろうと思われる外見をしたおばあちゃん達である。この人たちは押し並べて口がうまい。そしてそう簡単に値切ろうとはしない。ある店ではこのようなタイプのおばあちゃんに次のように言われて危うく財布の紐を緩めるところだった。「ねえ、お若いの、こんな純朴なばあが何をうそをつくもんかね。私はこれまで生きててうそなどついたためしがないよ。このばあのいうことに間違いはないんだから。こんな純朴なばあはうそなどつくもんですか。さあ、これをお買い。この品をここまで安く売っているのはうちの他はありゃしないんだから。さあ!」
もう一つの楽しい市場としては有名なイズマイロフ公園の市場である。ここは週末に開かれていて、いろいろな珍しいお土産が売っている。けども値段は明らかに外国人向けで、たとえば少しばかり大きめのマトリョーシカは4000ルーブルもする。4000ルーブルと言えばロシアの平均月収である。比較的安いのはチェス盤である。チェス盤はそこら中に売っているので、先述の方法を用いて安く買うべきである。私はそれ以外に緑色の民族衣装と、「パールティア(党)・BACK TO THE USSR」という名前のトランプを買った。後者に関してはその名前は本心からなのか、それともビートルズの「BACK IN THE USSR」という曲のタイトルのもじりなのか、いまだに判別がつかない。
話は変わって、ロシア人と友達になるにはどうすればいいか、について。先述のとおり、この学校にはロシア人の学生はいないので、多くの日本人留学生はロシア人と友達になれないことに不満を抱いている。これは特に女性に多い。私自身は、そのような短い期間に友達を作る気は自発的には起こらなかった。だがその方法についてひとつ聞いた話があるので伝えようと思う。それバーというものである。そこではたやすく人々が知り合いになれる。そこでロシア人の男性に聞いたのだが、バーは人と知り合う場所としての機能がある、という。けども、私を含めて多くの人はロシア語が不十分だからこそロシアに来ているのだし、そこでどうやって会話すればいいか不安になることだろう。でもそれはバーのけたたましい騒音というものである程度カバーされる。ただ注意したいのは、バーの中には「フェイス・チェック」なるものをやっているところがある。要は、外国人は立ち入り禁止、ということだ。あと、もうひとつ付け加えたいのは、バーは主に踊る場所であって、飲む場所では無い気がする、ということだ。あくまで主観的なのだが、向こうには日本人的な感覚の居酒屋なるものは、私の知る限りでは一般的に広まってはいないので、その感覚でバーに行くことは避けたほうがいい。
鉄道の話について。私は2回ニージニー・ノブゴロドに、1回ノヴォシビルスクに鉄道を使っていった。切符なぞは、それ専用のカッサに行って買えばそれまでの話である。電車の中には風呂がないだとか、各駅にとまる時間は短いだとか、しばしば物売りがやってくるだとかはよく知られているので書かないにしても、切符の値段については注意してほしいことがある。ひとつの事例を挙げれば、私がノヴォシビルスクに行ったとき、行きは1800ルーブルであり、帰りは2700ルーブルであった。しかも車両は同じ2等で、サーヴィスなぞまったく変わらず、その上運行時間は帰りのほうが数時間多かったのにもかかわらず、である。ただ違うのは、鉄道会社が行きはシベリア鉄道で、帰りはトムスク鉄道だったということである。私はいつも駅のカッサで買っていたが、そこで手に入れる切符は全て同じ書式で、多分これはロシアでは統一されていると思われる。よく注意してみてみると、行きと帰りの切符で違っているところは上から2行目の表記である。

行きの場合:
「москва яр?новосиб гл(・・・数字・・・)」
帰りの場合:
「новосиб гл?москва КАЗ(・・・数字・・・)фирм」

たぶん意味するところは、帰りはКАЗという会社の電車です、ということだろうと思う。私の言いたいことを簡単にまとめてしまえば、カッサでは向こうからはどの会社にしますか、などとは決して言わず、その時点でまだある切符を売るだけで、こちらが何も知らないと不必要に高い切符を買わされる恐れがあるのでは、ということである。だからお勧めしたいのは、なるべく早いうちに買うことと、あらかじめ鉄道会社の仕組みを知っておく、ということだ。私はこれについてはまったく知らないので、誰か知っている方がいたら教えていただきたいと思う。
 図書館について。私のこの留学の主要な目的の一つは、自分の大学には置いてない、今後読むことになるだろうと想定される著書を購入することだった。私は「フルシチョフ期における農業政策について」大まかなテーマ枠組みの下で目下卒論を進めているが、その際、現在もなお着々と公開されつづけているソ連史の史料を元にかかれた研究書をせめて一冊は使いたいと思い、モスクワ到着後はすぐに「ドーム・クニーギ」に向かった。しかしそこにはそのような本は皆無であった。一応古書コーナーなるものがあったが、そこは順番制で探すというシステムを採っており、私にはそこにある莫大な本のタイトルを追うだけでももう手一杯であった。たまたまクリュチェフスキーのいわゆる「ロシア史講話」があったので買ったが、それを読む日は果たしてやってくるのだろうか。付け加えていえば、ロシア最大の本屋であるくせに、そこには一つもトイレがないということにもとても不快感を味わった。
 こうして本は図書館にて探すほかはない、ということがわかった。もちろん古本屋を探すと言う手段もあったが、それは徒労に終わる可能性が極めて大きい気がしたので諦めた。そこでモスクワ大学の図書館を利用することになった。しかし私はそこの正規の大学生ではないので、図書館に入るには読書カードなるものが必要であった。そこでЦМОの人に頼んでみると、その人はパソコンをカチカチとたたき始めてこう質問してきた。
「全般的にいって、何のテーマで本を探したいのですか?」
質問の意味がわからず、私はこういった。
「あの、フルシチョフ時代の事をテーマにしてるんですが。」
「いえいえあなたのテーマじゃありません。大体どの分野の本ですか。」
「ソ連邦史、ということですか?」
「そう、それですよ。じゃ今ディレクトルのところに行ってきますので、お待ちください。」
そうしてその人はそれまで書いていた文書を印刷して、それをもって部屋を出て行った。2分とたたないうちに戻ってきて、私にその紙を渡した。そこには大体こう書かれていた。

「モスクワ大学・・・学部長・・・へ
この学生、柿沼秀樹に貴殿の図書館の「ソ連邦史」
の分野において図書を探すことを許可してくれるよう
願う。
ЦМО所長・・・より」

このような文書はあらかじめ作成されており、下線部の空白のところを書き加えればちゃんとしたものとなる。そしてこの紙の右下の部分に青い円形のスタンプが押されており、それは私のヴィザ申請書にあったものと同一のものだった。私はこのようなところに、ロシア社会の権力と責任のあり方の一端を垣間見た気がした。
 こうしてモスクワ大学の図書館に乗り込んだが、そこでは図書を入手する方法があまりにも面倒なものだった。まず文献カードで希望の図書を探し、そこに記載されている番号をメモして受付窓口に並ぶ。そして長い間待たされた後やっと図書を注文し、それを係りの人に取ってきてもらう、というもの。また、図書は館外持ち出しは禁止であり、従って私の場合その全ページをコピーしなければならなかった。モスクワ大学の中ではコピーはそれを職業として行っている人がおり、その人に一頁4ルーブルで依頼できた。だが、世の中はそれほど甘くはないので、当然予期されたように、その図書館には置いてない本があった。こういう場合大抵そのような本に限って最も自分にとっては大事なものなのである。かくして私は国立の歴史図書館に足を運ばざるをえなかった。
 モスクワにはそのような図書館は多く、各図書館にはその図書館リストがどこかの壁に貼ってある。図書館カードを作れば私でも入ることができる。そのカードを作るにはパスポートと自分の証明写真が必要であるが、私の場合は「どうせ今日一日しか入らないんだから!」と言って写真は貼らなかった。そこではなんとコピーに枚数制限があった。これでは話にならない。そこで私は何とか妙策を考えついた。その図書館ではコピーするところと、コピー代金を払うところが別個に独立していたと言うことに目をつけて、私はまずコピー代金を払いに行った。向こうは枚数制限を言ってきたが、ロシア語が全くわからない振りをして(いや、実際にわからなかった)「私はしてもよいと言われたのだ」と繰り返して強引に金を払い、その引換券をもらった。そうしてコピーをするカウンターでは「向こうは制限なくコピーできると言ったのだ。もうお金は払ってしまったのだ」と主張して双方に行政的混乱を発生させた。払った金は返さない、というのが大体においてルールである。結局コピー精算所の人と口論した末、コピーカウンターの人は「しょうがないですね。これはロシアと日本の友好のために特別に許可するんですよ。いいですか。」と言って、不承不承にコピーしてくれた。

 以上が私の提供しうる留学に関する情報かと思う。最後に言っておきたいのは、田辺助教授の紹介でお世話になった、グーセバ・アレクサンドラさんに、モスクワ案内をしていただいたことである。生粋の「モスクビーチュカ」であるグーセバさんは、もう見飽きているはずのモスクワの名所を感慨を込めて分かり易く私に案内してくれた。さらにそれだけでなく家に招かれて、楽しい食事をともにした。グーセバさんには現代生物学の研究者となっている息子のイヴァンさんがいて、本当にいろいろな話を聞かせてくれた。正直にいえば、3杯以上ヴォートカを食らった状態で約3時間も絶え間なくロシア語を聞かされるというのは、よほど強靭な精神力がないと不可能だとつくづく感じざるをえなかった。真剣な眼差しで話をどしどしと突き進めるイヴァンさんを前にして、そのそばで心配そうに私が理解しているのかどうかと案じてくれているグーセバさんの眼差しは私にはとても印象的で、今後も忘れることはできないだろう。
 観光の事について全く触れていないので、一つのことだけいっておきたいと思う。それは地下鉄「クロポトキンスカヤ」駅にある、「救世主キリスト教会」についてである。この教会はスターリンによって破壊され、ソ連が崩壊した後に再建されて、数年前にようやく一般公開されて教会である。「綺麗」だとか「美しい」だとかの形容表現で一括することはあまりにも恐れ多いのでここではこの教会についての描写はできない。ただ地下に写真展覧会があり、私にはそこで見た無神論者たちの集会の写真や教会破壊の写真は、とても印象的で、考えさせられるものとなった。
 以上が私のモスクワ短期語学留学記である。皆さんのご一読に感謝。
 
 
 

ロシア地域研究について考える

小川 信也 
(名古屋市立大学人文社会学部卒業生)
国際化・情報化・総合化という言葉が叫ばれるようになって久しい。大学においても、これらの言葉が大学名や学部の名前などに濫用されている。こうした社会の中で、私なりの解釈を交えつつ、ロシア(あるいはその周辺地域)の地域研究がどのような性格を今後持っていくのが望ましいのだろうかということを考えてみたい。

1.「国際化」とロシア地域研究
地域研究はそもそも国際関係論と対になる形で生じてきた学問である。このことを下地として考えるならば、地域研究には「国際化」という名のグローバリゼーションとは反対に、研究しようとする特定の地域を国家という枠組みに縛られることなく、対象の地域を見ていくという姿勢が重要である。そうした姿勢は、ソ連崩壊以前の冷戦構造下でのソ連・ロシア研究に顕著に見られたイデオロギーにとらわれた研究姿勢とは別物でなければならない。ソ連崩壊後に、ロシア関連の民間友好団体や大学のロシア教育が陥ってしまった悲惨な状況というのは、冷戦イデオロギーからの脱却が不十分であったことから生ずるものではないだろうか。その点を考えると、おろしゃ会のような個々の関心から出発してロシアに触れあっていくというサークルは時代のニーズにかなったものだと言える。

2.「情報化」とロシア地域研究
現代社会は情報に溢れている、いや数限りない情報にアクセスすることが容易になったと言うべきだろうか。また情報を解析する技術も急テンポで発達している。そのような環境の中で、数理データの解析に基づく研究なども増加していっている。社会経済史や家族の研究といった分野では、歴史人口学という学問領域が開拓され成果を上げている。また私自身人文社会学部というその名の通り、人文・社会科学を総体的に扱う学部に所属してきた経験から言って、こうした数的データを処理して研究を進めていくということの重要性は身にしみる。然るに、文献学に偏重している現在のロシア史学(ロシアだけに限った話ではないだろうが)はこうした時代の潮流に取り残されてしまっている。このように言うと、文献学は全く駄目で、数的データに依存した統計処理技法を用いた研究の方が優れていると言う意見を私が持っていると考える方もいるかもしれない。そうではなくて、文献学、フィールドワーク調査、数的データ処理による研究方法を、各々できるだけスキルとして身に付け、研究していくことが望ましいと言いたいのである。その考え方の上に立って、これからのロシア地域研究が進められると良いと考える。

3.「総合化」とロシア地域研究
私は「総合化」という文脈の中で、地域研究を考えるときに次のことが言いたい。それはロシア地域研究ならば、ロシアという地域に拘泥するのではなく、絶えず他の地域というものを意識して研究していく必要があるのではないかということである。地域研究は究極的には、世界のあらゆる地域を有機的に結びつけるようなネットワークの広がりをもっていることが必要である。そこまでいかなくても、他の地域に常に目を向けていけるだけの視野の広さは不可欠である。なぜかと言えば、世界というものを一層身近に感じられるような社会に生きている我々にとって、ある地域で起こったことが遠く離れた地域の動向に大きな影響を与えるということが日常茶飯事になってきているからである。こうした分析は国際関係の領域で取り扱われることが多いけれども、国家の関係を前提とした国際関係で導かれることと地域同士の繋がりと言う観点から導き出されることとの間には差異がある。具体的にどの地域とは言いにくいが、ロシア地域研究の分野でも、こうした周辺地域との繋がりを密にした研究が発展することを期待したい。

4.まとめ(地域研究について)
ロシア・旧ソ連地域に関心を持つようになってから日は浅いけれども、常に地域研究というスタイルを意識してきた。それは歴史学・法学・経済学と言った学問分野を学部の時に専門にやってこなかったこともあるが、社会学のように社会をそのまま見ていくという学問のスタイルに強い興味を覚えていたので、外国研究を行うときも対象をできるだけあるがままにみていきたいと考えたのである。まだ地域研究にはきちんとした方法論が確立しているわけではないけれども、その分いわば門外漢の私には門をたたきやすい学問領域であった。ロシアについて述べると、ロシア世界は現在のロシア連邦の国内にだけ存在するのではなくて、きわめて広い地域に分布している。だからそれぞれの地域でのロシア人社会はどうかとかいった研究が必要になってくる。そのようなときに様々なアプローチができる地域研究はきわめて重要な役割を果たす。そういったことなどを考えると、国家の枠組みから一度離れ地域ごとに対象を分析する「地域研究」は今後日本を含め全世界的に広まっていくに違いない。
 
 


 
特別寄稿


エニセイ河クルーズ
――2002年6月22日から7月4日――

金倉  孝子 

 シベリアにある主な河は、極東のアムール河を除いて、大抵、南から北へ流れています。東から、レナ河、エニセイ河、オビ河の順で、それ以外の大中小の川は、直接北極海に出てしまう川を除いて、みな、その3つの大河の支流か支支流と言ってもいいくらいです。地図をごらんになるとわかりますが、その3つの大河の中で、エニセイ河は、うねることなく、ほぼ、直線的に真南から真北に流れています。そのため、延長は、他の2つの大河に比べて短いですが、他の2つの大河より、南から始まり、オビ川と同じように、北極海の一部のカラ海に注ぎます。流れも、シベリアの河にしては早く、水量も、ロシアで1番多いです。「アントン・チェホフ」号でのクルーズで、行きは河を下るので時速30キロ近く、帰りはさかのぼるので17キロ程でした。
 クルーズは、本当に良かったです。いつも「ビンボー」旅行ばかりしているので、たまに、こんな「豪華」なのも悪くないです。といっても、12日間クルーズで全部入れて千ドル弱ですから、日本流に言えは「豪華」と言う程のこともありませんが。それに、何でも、見て聞いて体験した私には、千ドルの値うちは十分ありました。

 河の氷が完全に解ける6月末から初雪の降る8月末までの間、5回のクルーズしか遂行せず、春や、秋は船のメンテナンス、冬は、乗務員を、一旦、解雇にして、川湾の安全なところに繋がれて冬越しをするのだそうです。
  春の終わりに雪が解けると、ナビゲーション船が出て、河の水深を計り、航行可能なところに白いブイを何キロか毎においていきます。
 河の氷がいつまでも解けないということもあります。
 クラスノヤルスク州を南北に流れるエニセイ河の沿岸には、クラスノヤルスク市を除けば大きな都市はほとんどありません。エニセイ河に橋などと言う贅沢なものがかかっているのも、クラスノヤルスク市と、南のハカシア共和国首都のアバカン市だけです。ほかの町々、村々では、向こう岸へ行くのは、フェリー船(つまり、渡し船)です。冬は、凍った川の上を車で走れます。トラックでも平気で走ります。そのため氷が堅くなって、春の終わりになっても、氷が解けません。自然に解けるのを待っていては、第1に河川運行の再開が遅れますし、第2に、上流から雪解け水が流れてくると、そこでせき止められて洪水になってしまします。それで、そのような堅くなった氷の固まりは、爆破します。5月はじめ、材木集散地のエニセイ河右岸の町(製材所は左岸にある)へ行った時、そんな爆破の音がしていました。
 ちなみに、秋になって、河が凍り始めると、それらのブイは、回収して、陸にあげておきます。「エニセイ河・河川運行会社」も楽ではありません。

 私の参加した、6月22日発の第1回目の航海は、乗客の定員は約200名のところ、実際は五,六十人程度でした.外国人は、私を入れて4人、片言ロシア語のオーストラリア人、それとロシア語を全く話さないイギリス人のおばあさんとアメリカ人男性です。それでも乗務員は規格通り約60人と、添乗員が6人(子供連れできている添乗員もいるので8人)でした。添乗員の役割は、12日の船旅の間、乗客が退屈しないよう楽しませることなので、ピアニスト、ヴァイオリニス、バヤニスト(バヤンという鍵盤なしでボタンのみの手風琴奏者)、体操の指導をしたり、ゲームの司会をしたりするレクレーション係、エニセイ河や沿岸の町、村、少数民族、観光地などについて説明する郷土の地理歴史家、達でした。他に旅行会社から来ている人。「エニセイ河・河川運行会社」派遣の写真家。お土産屋テナントの店員も、乗っていました。
 50人余の乗客はほとんど自分の勤める会社の費用で、家族連れできていました。このような形で、儲かっている会社は社員にボーナスを支払うようです。私のように自費で、と言うのは、数人でした。確かに、一人千ドルも出さなくても、四百ドルくらいでトルコ、エジプト、キプロス島などへいけますからね。最近のニューリッチは、地中海方面に出かけて体を焼いて、買い物をして来ます。ロシアは広いですが、観光名所開発がすすんでなく、施設も悪くて、国内旅行はあまり人気がありません。ソ連時代でしたら、いくらお金があっても、行ける外国は限られていました。ですから、今ではちょっとお金があると、みんな地中海、インド洋、東南アジアです。

 豪華クルーズ船「アントン・チェホフ」号は、25年程前にオーストリアで建造され、しばらくはスイスの旅行会社がチャーターして、ヨーロッパから旅行客を集めていたそうです。今年、久しぶりに「エニセイ河・河川運行会社」経営に戻りましたが、船主は「ノリリスク・ニッケル鉱山会社」という超お金持ちの会社です。クルーズを企画している旅行会社も別です。そうした諸会社と関係している諸会社が、自分達の社員にクルーズと言うボーナスを出しているようです。
 「アントン・チェホフ」号のような、長さが115メートル、広さが16、4メートル、4階建てで、1階客室の下には船員達の部屋、さらに、バー、喫茶店、ホール、映画室、プール、サウナがあり、吃水2、8メートルで、2700馬力の河舟は、シベリアには他にありません。ヴォルガ河に「レフ・トルストイ」号と言う豪華クルーズ船があるくらいです。サンクト・ペテルブルクのネヴァ川運河の「セルゲイ・キーロフ」号も、今でも運行しているかもしれません。河なので波もなく、全く揺れません。水上を滑るホテルのようです。

 クラスノヤルスクを6月22日に出発して、12日間のクルーズに、毎日一ケ所には上陸しました。23日は、18世紀に毛皮の大集散地で、近くに金もとれたと言うエニセイスク市(だから古い教会も残っている)、24日は古い河川港のヴォロゴヴォ村など、途中上陸したエニセイ川ぞいにあるシベリアの村は、救い様もないくらい寂れていて、水上を滑るように移動する4階建ての真っ白いホテルとは、余りにも大きな差がありました。材木や漁業コルホーズで成り立っていた村々が、ソ連崩壊後、村経済も破産したようです。こんな緯度の高いところでそれなりの水準の生活をするには、インフラ整備と維持に多額の予算が必要なのでしょう。ロシア人が来るまでのシベリアのツンドラ地帯とその南のタイガ(針葉樹林)地帯は、原住民が放牧や漁業の原始的な自給自足をしていました。
 17、18世紀のコサックの「開拓時代」も、冬越しをする程度の集落で、先住民と変わらない程度の生活だったのでしょう。
 それが、スターリン時代に、強制収容所を前線にして、どんどん近代的な町ができていったそうです。でも「社会主義」経済が破たんして、それら、シベリアの町も、自分たちの産業を失い、町全体が失業状態で、儲かる産業のあるほかの町(例えば、アルミニウム産業で設けているアーチンスク市やクラスノヤルスク市のような)からの「補助金」で生活しているそうです。もちろん、地下資源は、シベリアの各地に、豊富に埋蔵され、今のところは眠らせてあります。その地下資源採掘が、採算の合うような時期が来ると、今は、寂れてしまった村落でも、役にたつので、「補助金」で、存在させておくと言う目的もあるのだそうです。

 出発して4日目には1番大きな支流ニジニー・ツングースカ川(延長1300キロ)がエニセイ河に合流する地点にある、トゥルハンスク市に上陸しました。トゥルハンスクは、17世紀の前半にできたクラスノヤルスクより10年程古いエニセイスク市より、さらに古い町です。シベリアの古い町は、ヨーロッパ・ロシアから、毛皮になる動物を追って、ロシア人が,集散地・根拠地を、東へ東へと作っていったところからできた町なので、比較的、北方にあります。高価な毛皮になる動物(イタチ類)は、ちょうどこの当たりの緯度にいますし、それに、その当時はシベリア南部の比較的住みやすいところには、先住民のタタール人やモンゴル人の居住地があって、そう簡単には、ロシアに服従しませんでしたから。
  添乗員の郷土史家によると、エニセイ河左岸のトゥルハン川の河口に1607年にトゥルハンスク市ができその後洪水で流れたので、右岸に作り直したのだそうです。シベリアで1番古いと言う教会(の跡)や、修道院(の跡に再建途中のもの)がありました。

 エニセイ河を北へ下るにつれて集落は、ぽつんぽつんと稀になります。これら集落は、ほとんどスターリン時代の強制移住者達や、流刑者達の村だそうです。だから、お互いにこんなに離れているのでしょうか。また、立地条件と言うのもあります。幹線「道路」のエニセイ河に近く、しかも、水面から10メートル以上は高くなくてはなりません。そんな河岸段丘に村があり、船着き場があり、船着きがから村への急な階段があり、少し離れたところに、円柱形の大きな石油タンクがいくつか見えます。
  エニセイ河のような、流域面積の広い長い川では、(つまり、厖大な面積にあるほとんどの水分という水分は、最後にはすべてエニセイ川に流れ込むわけですから)下流に行く程,洪水の時の水位が高くなります。堤防を作るような無駄なことはせず、10メートル程度の水位の上昇にも安全なところに集落を作るのです。でも、たまに17メートルと言うような洪水があると、家が流れてしまい、別のところに新たに村を作ったりするそうです。
 その日は、渇水でも洪水でもないちょうどよい水位の日だったので、4時間のトゥルハンスク市見学を2時間で切り上げて、ニージニー・トゥングースカ川遊覧を、予定外でやってくれました。トゥルハンスクはクラスノヤルスク地方の中でも1番古い町(もちろんロシア人側からものを見て)と言っても、ほかのシベリアの町々同様寂れていて,舗装してない埃だらけの道と、蚊が喜ぶ雑草だらけの公園と、まだ復興途中の小さな修道院しかない町で、2時間で十分です。私はそこの郵便局から、クラスノヤルスクへ「無事だよ」の電報を打ちました。電報なんて、懐かしいですね。
 ニージニー・トゥングースカ川の川岸は、絵のように美しく、私は、甲板を右舷へ行ったり左舷へ行ったりして写真をとっていました。この川をさらに奥へ奥へとさかのぼると、エヴェンキ民族自治共和国の首都ツーラ市(というより村)があり、さらに上流へさかのぼると、20世紀はじめの有名な「トゥングースカの大隕石」の落下地点らしいところの近くへ行けるそうです。隕石が落ちる様子の目撃者も多く、地球の反対側の地震計も振れたと言うのに、いまだに隕石そのものは発見されていないのだそうです。私達の船は、もちろんそんなに遠くへは行かず、1時間程行って、引き返して来ました。

 トゥルハンスク市を少し過ぎると、クレイカ川がエニセイ河の右岸に合流する地点の左岸にクレイカ村があります。ここは2つのことで有名です。まず1つは革命前、スターリンが流刑にされていたところで、その後、スターリンが住んでいたと言う小屋をガラスで囲み、スターリン記念館ができ、巨大なスターリン像や、また、スターリン「神殿」が建造され、エニセイを通る人々は、その神殿のお参りを義務づけられたそうです。しかし、スターリン批判後、像はエニセイ河に投げられ、神殿は焼かれたそうです。「せっかく作られた建築物を、政治的に否定されたからといって、破壊してしまうのは、間違っているのではないか、歴史的な意味から、残しておくべきではないか」というテーマで、船内でシンポジウムが開かれました。ぜひ出席して、自分の意見は言えないまでも、ロシア人達の意見を聞こうと思っていたのですが、その時間、眠っていてしまい、聞きぞこねました。というのは、クルーズの2日目ぐらいから、不寝番をするようになり、昼食の後、寝てしまうようになったからです。
 何の番かと言うと、もちろん、太陽の番です。はたして太陽が本当に一晩中沈まないか、この目で確かめていたのです。クレイカ村が有名なのはちょうどこの地点が、北緯66度33分で、これより北が北極圏になります。それで、ここを通過する時は、船は汽笛を鳴らし、ちょうど赤道通過祭のような「北極圏突入祭」をしたりします。乗客は、エニセイ河の神様や人魚姫などに仮装して、飲めや歌えや踊れのどんちゃん騒ぎをします。船長からはシャンパン酒がふるまわれます。芸達者なロシア人達はみんな一芸を披露します。私にも、何か日本的なことをやってほしいと言われました。お金を払って遊覧に来ているというのに、ここまで来て日本文化の宣伝をしたくないものだ、と思って「まあ、私、何もできないわ」と言ってました。

  クルーズは夏場だけなので、レストランのウェイトレスなどは、みなアルバイトです。豪華客船「アントン・チェホフ」号ともなると、無料どころか稼ぎながらクルーズができると言うので、アルバイト希望者が殺到します。しかし豪華客船「アントン・チェホフ」号には外国人も多かろうと言うので外国語のできる女子学生が採用されます。7人のウェイトレスのうち一人は、私の学生のポリーナ(日本語科3年生)でした。私は、もちろん、ポリーナの受け持ちのテーブルに座り、彼女に「あれ持って来て、これもって来て」と気軽に頼むことができました。彼女が仕事から暇な時、一緒に甲板を散歩したりしました。他の乗客と親しくなるまでのはじめの一日二日は、彼女のおかげで、「ひとりぼっち感」が少なくてすみました。まだ、夏休みになるずっと前から、私は「アントン・チェホフ」号の予約をすることは、学生達に言ってましたし、ポリーナもニコニコして、アルバイトに採用されたと報告していました。第一回航海より一足先に仕事をはじめたポリーナは、船の様子を前もって私に教えてくれていました。
 「北極圏突入祭」のこともあらかじめ知っていたポリーナは、ちゃんと準備をしていました。以前ポリーナ達のクラスに、日本の歌を教えたことがあります。そのなかの小学生唱歌(!)「村祭り」という歌を覚えていて、それをバヤン伴奏で二人で歌おうと言うことになりました。楽譜がある訳でもないので、添乗員のバヤニストと,何度もそらで歌って練習して、本番に備えました。おかげで、その感じのいい愉快なバヤニストのジェーニャとすっかり仲良しになりました。

 クレイカ村通過は、夕方で、「突入祭」もそのころあったのですが、その日の夜も、もちろん不寝番をしました。ちょうど夏至の頃、北緯56度のクラスノヤルスクから、北緯66度33分の北極圏を通過して、70度のドゥジンカまで、2000キロを、まっすぐ北へ北へと進んだので、「白夜」、「黄夜または赤夜」となっていく様子がよく分かります。「黄夜または赤夜」は「白夜」に習って作った私の造語です。ロシア語ではただ「北極圏の昼」といいます。本当は夜なのに、昼間のように明るいからです。日本ではこんな現象がありませんから、それにあてはまる言葉もないようです。もしかしたら、ちゃんと正式な科学用語があるのかも知れませんが、私は知りません。毎夜(ロシア語風に「毎昼」といったらいいのか)の不寝番のおかげで、地軸が23.67度傾いていると言うことをこの目で確かめることが出来ました。
  クラスノヤルスク(モスクワも同じ緯度)では、11時ごろまで明るいですが、一時、二時は真っ暗になります(サマータイムなので、太陽が最も低くなるのは、夜中の1時2時なのです)が、北西の空だけは真っ黒ではなく、一晩中夕焼けが残っています。太陽の沈み方が日本と比べて浅いからですね。でも、「白夜」とは言いません。北緯60度くらいから白夜が見られます。
  白夜と言うのは、太陽が完全に沈んでも、沈み方がずっと浅いので、一晩中、うす明るいことですが、北緯66度33分の北極圏を過ぎると、太陽は、全く沈まなくて、夜中の一時二時と、さんさんと輝いています。夕方9時から後は、日本での午後3時と言う感じで朝まで続きます。
  クレイカ村から後は、夜は明るくて眠れず、昼間は明るくても眠れるようになりました。

  5日目には、エニセイ河沿岸でも、最も大きな町の一つイガルカ港に上陸しました。ここはシベリアでもっとも大きな海港でもあるそうです。と言うのは、ここまでエニセイ河をさかのぼって北極海から海洋船が寄港できるそうです。イガルカ市は、もちろん永久凍土帯に、革命後囚人労働のおかげでできた舗装道路や高層建築(四、五階程度)のある町です。ここには永久凍土博物館があると聞いていたので、氷付けのマンモスでもあるかと期待していたのですが、5万年前の氷とか言うのがある程度でした。完全な氷付けマンモスと言うのも、この辺で確かに見つかったのですが、そんな貴重なものは、こんなド田舎の博物館にはおいておけなくて、サンクト・ペテルブルグの博物館に送られたそうです。永久凍土博物館は地下にあって、もちろん氷点下の気温なので、コートを着て降りていきました。たいしたことはなかったです。私と言えば、もうほかの乗客仲間と親しくなっていたので、わいわいきゃっきゃっと騒いで、写真を取り合っていました。
  イガルカ市(村)は何しろ、地下2メートルは永久凍土なので、家を建てるにも下駄をはかさなければなりません。また水はけが悪いのか、夏場は沼地が多くできます。そして冬はうんと寒いでしょうね。ソ連時代は木材の集散地でした。地下資源も豊富ですが、それを開発するためにはまた多額の資本が必要で、今のところ、眠らせてあるそうです。
  もちろん、スターリン時代(またスターリン、でも、シベリアはスターリンなしには考えられないようです)に、大発展する「社会主義」経済の中、開発計画が実行に移されていきました。さらに、晩年のスターリンは、北シベリア鉄道をひこうと考えました。シベリア南部のモスクワ・ウラジオストック幹線鉄道と平行した、永久凍土帯を東西に横切る鉄道です。それは、オビ川中下流のサレハルド市からエニセイ河中下流のイガルカ市まで1200キロの鉄道計画「501」計画、または「503」計画と言うのだそうです。
  「なぜ503なの?」とガイドに訪ねると、待っていましたとばかりに説明してくれました。サレハルドの強制収容所は501で、イガルカが503で、同時に、多地点から作りはじめたからだそうです。どんなに多くの資金とそれ以上に囚人の奴隷労働が投入されたか、本当のところは分かりません。まず、イガルカ市郊外に男囚の収容所ができ、それから女囚の収容所ができたそうです。子持ちの女囚もたくさんいて成績が悪いと子供とも面会延期になったとか、ガイドが話していました。
  永久凍土博物館の隣には,「503」博物館もあり、収容所を再現した小屋がありました。囚人用2段ベットや、彼等が使用したコップやスプーン、有刺鉄線などがありました。北シベリア鉄道はスターリンの死後放棄され、今ではタイガの中に錆びた機関車がひっくり返っているとガイドが写真を見せて説明しました。永久凍土帯に鉄道を敷くのは技術的にたいへん難しかったようです。それを、スターリンの独断で始めたのですが、死後、一時中断となり、間もなく放棄となったそうです。
  シベリアの町の住民は大部分は元囚人やその子孫でしょう。
  スターリンの「業績」の跡が、今では観光名所になっているのも奇妙な感じです。「アントン・チェホフ」号は同じ行路を北へ北へとドゥジンカまでいき、また、南へ南へとクラスノヤルスクまで帰るのですが、帰りのコースに、その503鉄道跡見物ツアーも入っていました。乗客の中には、そんなものは見たくないという人も半数以上いました。また、そこまで行くにはエニセイ沿岸のエルマコフカ村(以前は囚人の村だった、だから今は無人)から奥地へ、タイガのなかを4、5キロも歩かなくてはなりませんから、それが嫌で参加しない人もいました。
  夏のタイガはどんなか、有名です。向こうから来るのが熊かと思ったら、それが蚊柱だったという話もあります。これら吸血昆虫類には、船の甲板でも悩まされていました。大きなアブにさされると一週間くらいもパンパンに腫れて、眠れない程痒いです。私は航海中、4度も、船医の治療を受けました。

  スターリンの圧政の犠牲者についての本はたくさん読みましたが、本当の強制収容所はまだ見たことがありません。見たくないというロシア人の気持ちもわかりますが、タイガの中に錆びてひっくり返っている蒸気機関車や、強制収容所跡を、ぜひ、この目で見たいと思いましたので、私は断然、参加者組に入りました。用意万端、この日の為に買った養蜂業者のようなネット帽子を用意し、長い針のアブでも届かないような分厚い服を着て、軍手をはめ、腰には携帯用日本製蚊取り線香をぶら下げ、虫よけスプレーを両手に持って出発しました。ここまで武装した乗客はありませんでした。(あと、ゴム長さえあれば完全でしたが)。みんな携帯用蚊取り線香を珍しがって、それが何か分かると「あんたの後ろから行く」と言われました。もちろん日本製蚊取り線香なんて、タイガの中では少しも役にたちませんでした。体のどこにでも吸血昆虫が止まりましたが、蚊取り線香の上にだけは止まらなかったです。
  タイガを歩くのに、昆虫や、はり出した枝の他、沼地にも苦労しました。沼地を避けたつもりでもはまってしまいます。沈まない方法は、沈むより先に通り過ぎることです。それで、前を行く人に、「早く行ってよ」と言いながら、走り抜けようようとしますが、うまくいかず、膝まで漬かってしまうことがあります。もう、一旦、膝まで泥だらけになると、また沼があってぬかるんでも、「へいっちゃら、もう私はへいっちゃら、ルンルン」と歌って通り過ぎました。
  しかし参加者の半分は、昆虫と沼に音をあげました。「もう、私達は、これ以上行きたくない、途中バラック小屋も見たから、もうよいではないか、引き返そう」と大合唱しました。でも、「先に進もうではないか」と言う人もいたので、その人に加勢しなくてはと私も「進もう、進もう」と大声をあげました。外国人のおばちゃんにしてはこの元気さが、後で、みんなから好かれました。結局2組に別れ、半数が最後まで行って、大きな収容所跡前で写真をとって来ました。こんなところで、何年間も強制労働させられ、いったいどんな人が生き残れたでしょう。夏の昆虫はともかく、冬の寒さ、そして多分、まずい食事、何よりも耐えがたい住宅環境と強制労働、奴隷的屈辱感……。
  帰りは、私とバヤニストのジェーニャと写真家のスラーヴァが迷子になり、この3人が一番遅れて本船に戻りました。もちろん全員確認するまで船は出航しません。

  6日目に、目的地の、タイミール自治共和国首都ドゥジンカに着きました。ここは、ノリリスク市のニッケル鉱山会社の専用港で、ノリリスクが閉鎖都市になると同時に、ドゥジンカも閉鎖され、許可がなければ、外部の人は上陸できません。でも、私達は、「アントン・チェホフ」号の乗客様ですから、許可されます。でも、国境警察のパスポート審査がありました。
  ドゥジンカでは北方民族博物館につれてゆかれました。原住民のネネツ人が民族衣装を着て民族楽器を演奏したり、マンモスの牙のペンダントを売っていました。私のことをすぐ日本人と見破って、「コンニチワ」と日本語で話し掛け、「前に来た日本人は、日本にもシャマニズムがあると言っていたが……」とロシア語で言い出します。
  ここではツンドラ見学もコースに入っていました。「私達は、ツンドラなんか見たくない。ここでは安くてうまいはずの魚が買いたい、店に連れていってほしい。店だ、店だ」と言い出す乗客もいて、本当にロシア人らしいです。魚なんか、クラスノヤルスクでも売っているではありませんか、ツンドラは日本では見られません。
  ドゥジンカからノリリスクまで200キロのアスファルト道路ができていて、そこを途中まで、ツンドラ見物に、バスでいきました。また、凍土帯の上の舗装道路ですから、新しいと言っても、もう穴ぼこです。雪も残っていました。至る所沼地でした。雪のないところには、ツンドラの低木や、ツンドラに生えるツツジやキイチゴ(名前はちゃんとメモしてきましたし、辞書には日本語も載っていますが、聞き慣れない名前なので省略)が生えていて、日本で言う「天然記念物」なのだそうです。摘んではいけないのでしょうが、束にして根っこごと土つきで抜いてくる女性乗客もいました。私は慎ましく3本ほど小さいのを摘んできました。

  ドゥジンカからさらに500キロもエニセイ河を下ると、遂に、北極海の一部のカラ海に出ます。河口の港はディクソンといって、昔はここまでクルーズをしていたそうですが、さすが、ここまでいくには、天候のよい日に限られていたそうです。ドゥジンカから、別便で、北極海を航海してヨーロッパ・ロシアのムルマンスクまでいく行路もあります。そこまで2800キロだそうです。ウラジオストックまでも行けますが、そのためにはタイミール半島の北を通らなくてはならないので、それは、もう、原子力潜水艦の世界でしょう。
  私達はドゥジンカから北へはいかず、ここから折り返します。帰りはさかのぼるので速度が遅くなります。でも、一日一度は上陸して、バーベキューと魚のスープ大会、魚釣り、中央タイガ自然公園「散策」、乗客と船員のサッカー大会と、私達乗客を楽しませるためのプログラムが組んであります。
  これらは、集落でないところに上陸するので、船着き場はありません。大きな「アントン・チェホフ」号は沖の方に停泊し、乗客はモーターボートでピストン輸送されます。モーターボートに乗ったり降りたりする時には、船員の男の子達が、手取り足とりで、なかなか好い気分でした。もちろん私は自力でスルスルと乗り降りできますが。私の3倍くらい体重のありそうなロシア婦人は、大変そうでしたよ。
  ところで、上陸中、トイレにいきたくなった時は、青空トイレはダメです。吸血昆虫がいますから、肌を出さないほうがいいです。船の、自分のキャビンに戻った方がいいです。モーターボートは何度も何度も行ったり来たりしてくれますから、何度もお世話になりました。
  カワススキや、マス、クラスノピョールと言うコイ科の魚が私でも簡単に釣れました。えさはミミズで、そのへんを掘って集めました。例のノリリスク鉱山会社経理部長と言う人が、私に釣り竿を貸してくれたので、獲物もその人の物になりました。

 エニセイ河の水温は、クラスノヤルスク市では、40キロ上流にダムと発電所があって、ダムの底の、夏は冷たい水が流れてくるため、5度くらいの冷たさの水温ですが、この辺まで来ると、20度近くまで暖まります。冬はダムの底の暖かい水が流れてくるため、クラスノヤルスク付近の川の水は凍りませんが、この辺はもちろん完全に凍り付きます。つまり、クラスノヤルスクのダムの上流下流の100キロ余平方程の自然を変えたわけです。これは、大変な自然破壊です。
  それはともかく、クラスノヤルスク付近のエニセイ河では冷たくて泳げませんが、1000キロ近く北方の、コムサという川岸では19度の水温で、案内の自然保護林管理者のおじさんが、泳げると言ったので、水に漬かってみました。水着は持ってこなかったのですが、誰も見てない遠くの方まで行って、服をそのまま脱いで水浴しました。もうそのころは、同じ一人旅で来ている、クラスノヤルスク・ホテル女性支配人のナージャと、いつも行動を共にして、水浴も、釣りも彼女と一緒でした。
  毎晩、船内の音楽室でピアノとヴァイオリンのコンサートや、詩の朗読会、バーで、クイズ大会、いろいろな出し物があったのですが、いつも彼女と一緒でした。食事のテーブルも一緒でした。
  一度、デザートが不味いケーキだった時、こんな不味いケーキは食べられない、変わりに別の物を持って来なさいと、レストランの支配人を呼んで申し付けました。これは、ちょっと私にはできません。彼女が言うと、申し訳ありませんと、よく冷えたウォッカとレモンを3人分持って、支配人が私達のテーブルに謝りに来ました。いつも、私達のテーブルは、これも一人旅の、片言ロシア語を話すオーストラリア人と3人でした。
  ナージャはクルーズ主催会社の招待客の一人で、つまり無料で、デラックスルームに泊まっていました。でも、その部屋にだけは冷蔵庫があったので、途中の漁村で買った半リットルのキャビアを保存してもらいました。漁村なんかでキャビアを買うとただのように安いです。クルーズが終わってから、彼女とは写真の交換をしました。

 シベリアを東西への運行は昔は馬車やそりでのシベリア街道、今ではシベリア鉄道がありますが、南北への運行は、冬はやむなく高価な空路ですが、夏は、もちろん河川運行です。でも、河川なので難所、浅瀬があります。エニセイ河の有名な浅瀬はカザチンスクといって、これがあるために、以前は、大きな船は手前のエニセイスクまでさかのぼれても、クラスノヤルスクまでは来られなかったそうです。
  浅いだけではなく、岩がごつごつと突き出ていて、川幅は狭く曲がっていて、流れは速いという難所で、所々に事故船の残骸が舳先を出して残っています。撤去なんて事はしないのでしょうね。その事故船残骸に草が生えたり、木が生えたりして島のようになり、「モデスト号」島などと昔の名前で呼ばれたりして、景観の1つになります。         今では、「アントン・チェホフ」号のような大きな船でも通行できます。難所ですがエニセイ川でも最も美しい風景のところで、川岸の絶壁の木々も美しく、河のあちこちで渦を巻いたり、泡だっていたりするところを、昼間通るために、時間調整をして、前日、数時間も、河の中ほどに錨を下ろして泊っていたくらいです。そこはまだ緯度が低いので、真夜中の薄暗い時に通らないほうが安全だから、ということもあります。
  流れを下る時も早瀬のため、危険ですが、さかのぼる時は、もし、馬力の弱い船だったり、未熟な船だったりすると、流れに逆らって上りきれないことがあります。また、万一の遭難のときのためにも、この難所には常に、「エニセイ川・河川運行会社」の救助船が常駐しています。ここを通るときは、船長自らが舵を取り、みんな甲板に出て、船員は危険度を監視し、乗客は美しさに見ほれていました。
 エニセイ河には、カザチンスクほどではありませんが、いくつか難所があります。各船は、大支流カーメンニー・トゥングスカ河がエニセイ川に注いで、川幅や水量がぐっと増える地点までは、「エニセイ川・運行会社」が毎春印をつける、赤や白のブイの示すとおりに、通行します。狭い難所で、船が行き違う場合は、どちらかが、待っています。
 エニセイ川は貨物運行が、今でも盛んで、荷物を積んだ平らな舟を、エンジンのある船が押していきます。平ら舟というのは、自前では動けないで、荷物の積み下ろしが容易なように大型いかだのような形で、荷物を積んで浮いているだけの船です、なぜ、引かないで押すのか、理由はとても簡単です。エンジンのある船が進むときには後ろに波ができ、もし、引いていると、その抵抗で平ら舟が速度を遅くするからです。平ら舟が前にあり、エンジンのついた船が後ろにあれば、推進力を邪魔するものが後ろに何もないので、効率よく走れます。
  クルーズ船ではない普通の客船では、乗客はほとんど商売人で、クラスノヤルスクなどで買った大量の野菜類を、野菜不足の北方へ運んでいきます。また、クラスノヤルスクで買った、中古の日本車や、タイヤなどの部品も、船の大甲板に積んで運んでいきます。クラスノヤルスクからドゥジンカまでの船賃は、片道食事なしで百ドルくらいもしますから安くはないです。「アントン・チェホフ」号の豪華食事観光つき往復の千ドルは、やはり安いです。普通の客船は、行きは3日半、帰りは6日かかるそうです。飛行機の半分以下の値段ですが、時間がとてもかかります。商人のように、手荷物が多い人は、船がよさそうです。「アントン・チェホフ」号のほうが、これら客船よりずっと速度は早いのですが、クルーズ船なので、観光しながら行くため、行きに6日もかかり、帰りは上陸観光してもたった6日で来れるのです。
  途中何度も、いろいろな船と行き交いました。仲良しの船同士ですとお互いに汽笛を鳴らして挨拶します。
  1度、行き交うだけでなく、「イッポリート・イワノフ」号という客船が、『アントン・チェホフ』号よりしばらく後に、同じ船着場についたことがありました。クラスクノヤルスクのような大きな港なら、数台の船が直列に停泊することもできます。上流に小さな港ですと、浮桟橋がひとつあるだけですから、平行に停泊します。後からついた船は、先についている船の横に着くので、上陸するときは、人の船の中を通り抜けていきます。別の船同士の乗客や船員がお喋りできます。
  先に着いた船が先に出発するときは、後からきて、横付けしている船にどいてもらわなくてはなりません。錨を上げたり下げたり、ロープをかけたりはずしたり、大変なことです。
  船が停泊するときは必ず舳先を川上に向けなければならないそうです。ですから、川下に出発するときはユーターンしなければなりません。

 シベリア鉄道や、シベリア街道ができるまでは,南北交通だけではなく、東西交通も河川を利用していました。
  西のオビ河から、オビ河の支流を通って、西へ西へと川をさかのぼり、川がなくなれば、船を陸に挙げて、人力で、エニセイ河の東の支流まで引いていく、という方法です。しかし、人力で引いていくのは大変なので、運河を作りました。両河の支流をつなぎ、周りの池など利用して、結局7.8キロ掘ってできたそうです。支流など利用した運河というのは(多分どんな運河でも)、浅かったり、流れが急で登れなかったりするので、必ず、いくつか水門を設けて、水を入れたり出したりして、船を上げたり下げたりして通行させるそうです。オビ・エニセイ運河も、そうした水門も14作ったそうですが、小さい運河だったこと、シベリア鉄道が開通したことなどで、利用されなくなり、革命の国内戦のとき、破壊されて、今では、「アレクサンドル水門」とか言う地名だけが残っています。
  もちろん、そこまで、「アントン・チェホフ」号が行ったわけではありません。添乗員の郷土史研究家が時々、船内で「エニセイ史」の講義を開いて教えてくれたのです。それも、プログラムのうちでした。私は、最も熱心な聴講生でした。ロシア語での講座を聞いて100パーセントわかるわけではなく、あまり、質問してばかりでは、ほかの乗客にも迷惑なので、その講師の郷土史研究者から、本を借りました。この、「エニセイ川クルーズ」紀行文には、私が見たこと、体験したことのほか、彼らから聞いたこと、そして、それが間違っていないよう、その本を確かめて、書きました。

  クルーズの最後の日、お別れパーティーというのがあって、「ミス・クルーズ」が表彰されたり、「クイズ・物知り」賞や、「河原に落ちていた木や石で芸術作品を作った」賞、「サッカー」優秀賞が発表されました。その他、乗客を喜ばせる「賞」がいろいろあって、私には「誰よりも多くを体験したで」賞が、あたりました。確かに、他の乗客は、上甲板で1日中日光浴をしたり、トランプしたり、ただビールを飲んだりしているところ、私は、主催者の用意したプログラムにほとんど参加したので、添乗員さんたちも、自分たちの努力に答えてくれた私が好ましかったのでしょう。何でも知ろう、見よう、体験しようの明るい元気いっぱいの外国人おばちゃんだったので、みんなから感心され、大事に扱われました。友達もたくさんできました。クラスノヤルスクに戻って、3日後、日本へ帰ってしまいましたが。9月には、また、再会しましょう。


露訳 浦島太郎
     訳者 白石雅子
まえがき

 私は海部郡に住む主婦で白石雅子といいます。私は神戸市外国語大学で4年間ロシア語を学びましたが、残念ながら、卒業後はロシア語に縁の無い生活を送ってきました。昨年結婚して主婦になり、自由な時間が持てるようになったのので、どうしても忘れられないロシア語を再び学びはじめることにしました。しかし、すぐに単語、文法など多くのことを忘れてしまっていることに気づきました。なんとか失ったものを取り戻そうと、ロシア語の翻訳をしてみようと思ったのです。“浦島太郎”を選んだのは物語が短く、内容が単純だと思ったからです。しかし、翻訳していくうちに、昔話は子供達のモラルや好奇心を育む教訓や不思議な場面が詰まっている素敵なお話だと改めて感じました。また、日本の伝統的な情景も描かれているので、ロシアの子供達がこのお話を読んで“浦島太郎の国”としてエキゾチックな日本に思いを馳せ、興味を持ってくれれば嬉しいなと思います。
 最後になりましたが、翻訳に際し丁寧にご指導下さいましたガウハル先生、本当にありがとうございました。

Вступление

  Меня зовут Масако Шираиши. Я домохозяйка, живу в Ама-гуне. Я изучала русский язык 4-года в институте иностранных языков города Кобэ, но после окончания, к сожалению, провела жизнь без русского языка. Прошлым летом я вышла замуж, бросила работу и, у меня появилось много свободного времени. Я опять начала изучать русский язык, ещё не“ушедший”от меня. Я сразу поняла, что уже забыла много слов и грамматику. Поэтому я решила переводить, чтобы вернуть то, чем когда-то обладала. Я выбрала переводить “Урашима Таро”, потому что, эта сказка короткая и простая. Но переводя несложные предложения, я вновь ощутила, как эта замечательная история необыкновенно новым образом открывает простые моральные истины и воспитывает любознательность у детей. Кроме этого, эта сказка описывает традиционный японский пейзаж. Я думаю, что если русские дети, прочитав её, проявят интерес к “Стране Урашима Таро”, то им станет интересна и “экзотическая”Япония. Я была бы этому очень рада.
Я благодарю Гаухар за её руководство по этому переводу.


Урашима Таро


  Давным-давно жил-был молодой рыбак. Звали его Урашима Таро. Была у него старушка-мать. Он ловил рыбу, а она следила за хозяйством. Так жили они, поживали.
  Однажды утром, как обычно, сел Таро в лодку и отправился ловить рыбу. Но в тот день он не смог поймать ни одной рыбёшки.
“Ничего не остаётся, как вернуться домой.”- подумал Таро и повернул лодку к берегу.
Когда он поднялся на берег, Таро услышал, как дети шумят на пляже. Подойдя поближе, он увидел, что они мучили маленькую черепашку, подбитую палкой. Маленькая черепашка беспомощно барахталась. На глазах у неё были слёзы.
“Отпустите её ! Нельзя издеваться над слабыми !”- крикнул Таро детям.
“Хорошо ! Тогда купите её у нас, дяденька !”- стали кричать дети ему в ответ.
Таро пожалел черепашку. Он дал детям немного денег, и они убежали, оставив ему маленькую черепашку.
“Бедненькая, тебе наверно было больно,”- сказал Таро, кладя черепашку  к себе на ладонь. Стряхнув с неё песок, он увидел, что у неё был необыкновенно красивый панцирь чудесного цвета.
“Постарайся не попасть детям в руки снова.” С этими словами он отпустил черепашку в море. Таро стоял на берегу, провожая её взглядом. Ему показалось, что черепашка, отплывая от берега, повернулась к нему и, качаясь на волнах, склонила голову в поклоне. Затем она исчезла в морской пучине.
На следующий день Таро вновь отправился в море ловить рыбу. Вдруг к его лодке подплыла огромная черепаха. Таро очень удивился, когда черепаха обратилась к нему:
“Господин Таро! Спасибо вам за то, что вы вчера спасли жизнь маленькой черепашке! В знак благодарности я отвезу вас в подводный дворец Рюгудзё!”
Таро забрался на спину огромной черепахи, и они со всплеском ушли под воду. Они проплывали через лес морской капусты и коралла, как всё вокруг заблестело так, что стало светло. Это сверкали раковины, кораллы и жемчуга - они прибыли в Рюгудзё!
Прекрасная принцесса встречала поражённого Таро со словами:
“Благодарю вас за то, что вы вчера спасли мне жизнь! Меня зовут Отохиме.”
Та красивая черепашка, которую спас Таро, была принцесса Отохиме. Решив узнать, как живут люди там, на земле, она приняла облик маленькой черепашки, но подплыла слишком близко к берегу и попала в руки жестоких детей.
“Господин Таро, пожалуйста, будьте нашим гостем! Не торопитесь домой! Отдохните и повеселитесь вдоволь!”- пригласила его Отохиме.
“Благодарю вас, но там, дома, ждёт меня старушка-мать,”- начал было Таро.
“Не волнуйтесь, всё время, пока вы будете у нас гостить, служанки нашего замка позаботятся о вашей матери.”
Так Отохиме провела Таро в большой красивый зал, где было полным-полно разных угощений. Как только он вошёл, танцовщицы запорхали, как бабочки. Таро никак не мог прийти в себя от восхищения - всё было так красиво!
Отец принцессы Отохиме, король Рюо* , был благодарен Таро за спасение его дочери:
“Пожалуйста, чувствуйте себя как дома.”- обратился он к Таро.
Дни летели очень быстро и, Таро жил в подводном дворце как во сне. Тем временем, принцесса показывала ему подводный замок, объясняя названия диковинных рыб и раковин.
Так, Таро однажды увидел чудесную комнату. Она была пуста, но в ней были четыре двери, расположенных в ряд.
“Откройте, пожалуйста.”- сказала принцесса.
Таро открыл одну из них. Там цвели вишни и поддувал лёгкий ветерок.
“Это ? комната Весны.”- объяснила Отохиме.
Таро открыл следующую дверь. Это была комната Лета. Там, по синему небу плыли пушистые облака, громко пели цикады и ветерок играл с ещё зелёными колосками риса.
Следующая была комната Осени. Золотые рисовые колосья склоняли свои тяжёлые головы к земле. Немного спустя небо окрасилось красивой вечерней зарёй, и наступила ночь. Полная луна медленно плыла по небу.
Когда Таро открыл последнюю дверь, он увидел, что там всё было белым-бело. Подал снег. По белоснежному полю туда-сюда прыгали зайцы.
“Это - комната Зимы.”- сказала Отохиме, -“Давайте поиграем в снежки!”
Таро жил в подводном царстве весело и беззаботно. Так незаметно пролетели три года.
Однажды Таро вдруг вспомнил о матери, которая осталась там, на родине.
“Пора мне возвращаться домой - мать меня заждалась!”- сказал он Отохиме.
“Не уезжайте, пожалуйста,”- просила та, -“оставайтесь с нами!”Она старалась удержать его, но поняла, что волю его изменить невозможно. Тогда она решила подарить ему на память волшебный ларец.
“Это вам от меня на память.”- она протянула ему красивый ларец.-“Вы сможете вернуться в подводный замок Рюгудзё, если только откроете этот волшебный ларец. Но не открывайте его до того времени, пока не решите навсегда вернуться сюда!”
Таро поблагодарил Отохиме и её отца за их доброту и гостеприимство и поспешил забраться на спину большой черепахи, которая отвезла его на берег.
Таро побежал домой. Но то место, где стоял его дом заросло травой, и всё вокруг изменилось. Таро стал расспрашивать людей в округе о том, что случилось с его старым домом. Так одна старушка рассказала ему историю о Урашима Таро, который жил здесь триста лет тому назад. По словам старожилов, он ушёл в подводное царство Рюгудзё и не вернулся оттуда.
“Я думал, что это были всего три года... А на самом деле триста лет прошли...”
Таро бродил по берегу моря в рассеянности. Забыв про наставления принцессы Отохиме, он открыл подаренный ему ларец.
Там лежало только журавлиное перо. Но вдруг из ларца поднялся белый дым и, окутав Таро, превратил его в старика. В то же время, журавлиное перо взлетело и, коснувшись Таро, обратило его в журавля.
Так, люди говорят, что, когда плачет журавль, это Таро встречается с принцессой Отохиме, которая, превратившись в черепашку, приходит повидать его.

*“Рюо”переводиться как “Король-дракон.” Прим. переводчика.

-конец-





 白石さんの文中にあるガウハル・ハルバエワさんは、名古屋大学法学研究科の修士課程を終え9月にウズベキスタンのタシケントに帰りました。おろしゃ会会報にエッセーを書いてくれたり、県立大学の「アジアの文化」という講義に出てくれ、中央アジアの文化について語ってくれました。詳しくは、会報の第2号とノーヴォスチ(ニュース)1号をご覧下さい。(加藤)
 


ロシア語を学んで


  初級ロシア語前期試験に、「ロシア語を半期学習してどんなことを考えましたか。ロシア語交じりの日本語で自由に作文しなさい」という一題を設けた。それぞれの学生が、率直に感想を書いてくれた。なお今年度のロシア語初級選択者は昨年比倍増の26名に及んだ。これは、ペレストロイカ全盛期に迫る数である。大学再編をめざす議論が相変わらず続いているが、ロシア語教育の現場からは、「愛知堅実大学」というヴィジョンを提唱しておきたい。今、眼前にいる多数の堅実な学生たちが即「愛知堅実大学の未来」である。(加藤史朗)


○ 最初はрусский языкを取るつもりはあまりありませんでした。というか、第二外国語でрусский языкがあることを知らなかったのです。しかし、入学したばかりのオリエンテーションで、先生が壇上でрусский языкのいい所を話されてから、おもしろそうだなと思ってизучатьしてみようと思いました。Маринаさんが来て、本当の発音を聞いて、難しいところもあるけど、英語ほど単語のアルファベットと読みがかけ離れていないので、изучатьしやすい言語だと思いました。実際、最初はアルファベットからしてよく分からなくて、ыの意味というか、これじたい一体何なの?っていう感じでした。しかし、色々実際の文章であたっていくうちに、だんだんわかるようになってきて、こういう時に使うんだとわかるようになってきました。だから、実際わからないとばかり言っていないで暗記することも大事だとわかりました。最初は全くわけわからなくて、やっぱりやめとけば…と思ったこともあったけど、やってよかったと思っています。少し分かりかけてくると、とてもおもしろいものだと思いました。(しかし、単語はなかなか覚わらないし、文法もイマイチしっくりこない所もあるけど。)これからもロシア語を続けてизучатьしていこうと思います。Маринаと友達になれてよかったと思います。あんなに日本語がしっかり話せて、彼女はすごい人だと思います。Я тоже あんなふうにхочешь говорить по-руссуки.(国文1年・堀沙代子)

○ ロシア語は格変化を覚えるのが大変だった。я изучаю china язык.1年?3年の時、第二外国語で中国語をとっていたが、名詞に性別は無いし、基本的に文末に「了」をつければ過去形になるし、単語の形や発音が変化することがないので、なかなか慣れることができなかった。
覚えると楽しくなった。
小さいころ、私はソ連が嫌いだった。アメリカ映画の影響もあったし、北方領土に関しての印象があったと思う。「遠くて寒い国」だった。しかし今はロシアは近い国だと思っている。
ロシアの曲も好きだ。クラシックでもロシア系の作曲家の曲は好きなものが多いし、民謡(童謡?)もあの暗さが好きだ。特に「ポーリュシカ・ポーレ」が好き。(国文4年・堀田佳奈)

○ ロシア語は音の響きがきれいだと思いました。(Мне кажется, русский язык красивый.)前期に歌をいくつか習ったけれど、とても響きがきれいで、すぐに覚えました。(「白樺」をたくさん歌ったから、それが一番印象に残ってはいるのですが。)
ロシア語に使うアルファベットは、最初は覚えるのが大変だったけれど、今はなんとか覚えてきました。ただあまり使わなかった文字(цとかщとか)はよく発音を忘れます。(このアルファベットはキリル文字というのですね。ギリシャの文字が元になっていたなんて、今まで全然知りませんでした。)確かに文法は難しいし、○格と名のつくものは多いし、大変ですが、ロシア語の文法は面白いです。語尾を変えることで“を”や“に”など日本語の“助詞”の代わりになっているし、男性や女性として区別された名詞や語尾も調べていて飽きないなあと思います。(国文1年・岩下久美子)

 
○ Я не знаю русский язык. →ただ興味だけでロシア語をとりました。но я изучаю русский язык.→マリーナやミハイロワ先生、加藤先生を通して。生の今のロシアを知ることができ、今までのロシアに対するイメージが一新されました。ロシア語は英語や日本語に似ている所がたくさんありますが、やっぱり独特でочень трудный язык です。今一番興味深く感じるのは、ロシア語の発音の流れで、前回のミハイロワ先生の授業でミュージカルを見たのですが、すごく素敵でおもしろかったです。(意味はほとんどпонималаできませんでしたが…。)マリーナと歌を歌った時も楽しかったです。ロシアの文化、もっと勉強したいです。中級になったら、生のロシアをもっともっと教えてください。期待してます。Большое спасибо ! スペルが不安…。英語の方にやっぱり慣れています。Thank you veru much !
(英文1年・塩川紗代)

○ 最初はロシア語は興味があって選びました。でも、難しいじゃないかなあと思っていました。実際に習ってみると、授業をちゃんと聞いていれば思っていたよりも難しくなかったです。ロシアは日本に近いけど、あまりなじみがないような気がします。友達に「ロシア語を習っている」というと「マイナーだね」とよく言われます。たしかに、ロシア語をやっている学校は少ないと思います。でも歴史的に見ても、ロシアは日本と関係が深い気がします。
Я ещё плохо говорю по-русски, но я хочу говоить  по-русски !
ロシア語の「р」の舌を巻く発音ができません。テレビでロシア人が話しているのを聞いていても、今まで聞きとれたのは、「Здравствуйте !」とか「хорошо」とかぐらいです。本物のロシア人の人は速くしゃべるので聞きとれません。たまに動詞が分かるぐらいです。あと半期でもっと聞きとれるようになりたいです。日本語、英語、ロシア語と3ケ国語話せたらかっこいいなあと思います。だから今、英語もロシア語もがんばっています。マリーナさんの日本語は上手だったので私も上手にロシア語がしゃべれたらいいなあと思います。
 先生、前期のロシア語の授業はとても楽しかったです。後期もがんばります!Большое спасибо ! (地域情報1年・櫨木久美子)

○ Мне кажется, русский язык трудный. 一番おどろいたのは名前まで変化してしまうということです。(例えば、Марина Марине )初めて、 Я изучала 英語以外の言語を。だから、何から手をつけていいかわからず、初めの頃はне понимала. さんが授業にきてくれたことによって、ロシアを身近に感じることができ、Маринаさんの存在は大きかったと思います。高校までは教科書どおりの授業だったけど、やっぱり、大学の方が、そういう意味ではおもしろいです。それに、日本とロシアのつながりも少し教わり、русский язык だけでなく、ロシアという国にも、興味がわいてきました。русский языкは先生が最初の授業で教えてくれた通り、つづりのまま、発音すればよかったので、アルファベットを覚えてからは、単語が覚えやすくなりました。これからますます難しくなっていくと思います。けれどЯ могу говорить по-русски.ようになりたいので、少しずつマスターしていこうと思っています。私は、海外にまだ一度も行ったことがないので、いつか、ロシアに行ってみたいと思います。この大学に入って、ロシア語を勉強すると決めるまで、ロシアに何の特別の思いはなかったけれど、きっかけは何であれ、あと半年がんばって続けます。二年生になってから、中級をとれるかわからないので、一年でどれくらい上達できるか、少し楽しみな部分もあります。半期間、楽しかったです。ありがとうございました。(児教1年・細井 彩)

○ ロシア語を学び始めて一番最初に驚いたのは文字です。これまでロシア語に触れたことは全く無かったので、ロシア語ではどんな文字が使われているかも知らなかったのです。英語とはかなり多く違う文字が出てきて、覚えるのは大変でしたが、私はロシアの文字が好きです。初めにロシア語は権威者の言葉だと書かれていましたが、それは文字にも感じられる気がします。特にそう感じるのはЖという文字です。この文字は単体で一つのマークの様です。ちょっと大げさですが、ゴシック建築の左右対称の宮殿を思い起こさせます。そういう訳で私は、ロシア文字は権威的だと思い、その荘厳さが好きです。
マリーナが日本語をペラペラしゃべるのにも驚きました。やはり言語はしゃべって使うのが一番の上達手段なのでしょうか。マリーナが(絵)本を読むと速く覚えられるといっていました。私は絵本が好きなのですが、ロシアの絵本というのはどこに行けば売っているのでしょうか?
 それから今困っているのが辞書です。ロシア語の辞書は殆ど売ってないので、仕方なく薄い辞書を買うことにしました。日本人はロシアが隣接国だとは余り考えていない様な気がします。北方領土問題に絡んでも、ロシア語はもう少し学ぶ人が増えてもおかしくないのにな、と思いました。気になっているのがウラジオストークの意味です。マンガで「征服せよ東方を」という意味だと書いてあったのを見たのですが、本当にそうなのか気になります。
 質問ばかりしてすみません。ロシア語を学ぶのは、ドイツ語を学ぶのと同じくらい楽しいので出来ればずっと続けたいです。
最後に、先生の授業は分かりやすくて好きです。(ドイツ1年・小西あかね)

○ Я ещё не могу читать и говорить  русский язык, но 私は何年か後かに、ちゃんと読み書きができ話せるようになって、ロシアへ留学したいです。そして私は、ロシアの音楽が大好きです(ショスタコーヴィチ、チャイコフスキー、グバイドゥーリナなどなど)。その気持ちは多分当分変わることはないと思います。今、ロシア語を勉強し始めてとてもうれしいことは、ロシアの関係の人たちと話すといった交流をもつチャンスができたことです。最近では、現代ロシアを代表する作曲家グバイドゥーリナさんと、少しだけロシア語でお話できたことです。やはり、話す人の国の言語で話せると、好印象をもってもらえるのかなあと思ったので、さらに話せるようにしたいです。
ここまではロシアの音楽についてですが、他にも美術や文学、歴史についても、かなり興味がでてきました。文学は、チェーホフや、ドストエフスキーなど有名なのはこれまでに読んできましたが、最近では詩集(アイギ)を読んでいます。美術ではシャガールの絵がとても好きです。歴史的背景は、かなり音楽においても影響力が強いものなので、どんどん学んでいきたいと思いました。
ところで私には、とても心強いロシア語の先生が身近にいます。つい先日7年ぶりに会ったのですが、おじの仁志先生です。7年前は特に興味もなくさらりと聞いていたのですが、彼は実はロシア語の先生でした。安村家はロシアと関わりがあるといえばあるといえます。私の曾祖父、省三(せいぞう)はロシアでは通訳、日本では新聞記者をしていました。その弟、三郎もロシアで牧師をしていました。ですので、ますますロシア語を学んでいく環境が整い、やる気も出てきたので、どうか今後もよろしくお願い致します。(県立芸大・安村好正)

○ Я люблю изучать  русский язык и ロシアの国のことкино и музыку. Мне кажется, ロシアの国очень большая. Языкを学ぶことは、その国の文化や価値観を知ることにも繋がるというが、Сейчас 少しだけрусский языкに触れ、ますますロシアという国に興味がわいた。Я見るтелевизор ロシアに関する番組。それだけロシアが私に近く感じられるようになったのだと思う。У ロシアесть  вопрос(政治・経済の問題), но長い歴史と沢山の民族がжитьする面白さがある。いつかシベリア鉄道に乗りにロシアに行きたい。Я слушаю по-русски, 思ったよりも軟らかい発音をするのだな、と思った。はじめは、勝手にロシアのイメージを硬い感じがすると思っていた。知らない文字の羅列が、だんだん言語として分かっていく過程だからこそ、この初級の半年間はとても楽しかった。(国文4年・稲垣智子)

○ 私がロシア語(русский язык)を勉強しておどろいたことはいっぱいありますが、女性名詞と男性名詞の区別があるということに、まずおどろきました。日本語にも英語にも名詞に性別なんて無かったし、名詞に性別をつける言語があることすら、全く知りませんでした。なので、はじめ(4?6日くらい)はかなりとまどってしまいましたが、最近になって馴れ始めました。馴れ始めたというのは問題がただ解るということではなくて、なんで男女の区別をするのか?が何となく解ってきたということです。私の考えなんて間違っているかも知れないけど、なんとなくロシア人は言葉の響きを重要視しているような気がします。例えば、もしСколько стоит этот книга?  だったら、なんとなく変ですが、 Сколько стоит эта книга?になると、どこか美しいような気がしました。ただの思いこみかもしれないけれど、私にはそんな気がします。そう考えるとロシア語はとても面白い言語だなあ、とつくづく思ってしまいます。後期もがんばりたいです。最後に余談になってしまうかも知れませんが、イクラ《икра》がロシア語なのにはビックリしました。イクラがロシア語だったらサザエさんのイクラちゃんって、実はロシア人なのか?とか考えてしまいました。たしかにイクラちゃんは日本語しゃべれないし、かみの毛の色も黒くありません。でもまさか、とは思うのですが‥‥。(地域情報1年・江尻芳雄)

○ ロシア語をとったのはマイナーだったからと、妙な好奇心からでした。何でも初めてのことは吸収しやすく、おもしろく感じるものだから、このロシア語も例にもれずそうでした。加藤先生の話し口調は軽快でおもしろく、聞いていても飽きないし、またマリーナというネイティヴのロシア人に出会えたのも良い経験になりました。マリーナの日本語の上手さには驚きました。マリーナ程のレベルまでロシア語を話せるようになるとは思わないけれど、これからの勉強でどこまで上達できるか、自分で自分に期待しています。今ちょっと躓き気味ですけど…。
ロシア語は最初に想像していたよりも、はるかに難しく、細かな所まで変化する言葉だった。日本語や英語にない名詞の性格にはすごく戸惑った。また微妙に英語に似たアルファベットや単語におもしろさを感じた。少しでも話せる、書ける、読めるようになると、ぐんとロシア語が身近になった気分になり、楽しくなる。友だちにも自慢してみたり…。
楽しく学ぶことは上達への一歩。この講義を通して、そんなことを学んだ気がする。
Я ещё плохо понимаю русский язык, но я люблю русский язык! Большое спасибо!!! До свидания. (児教1年・柳本真友子)

○ システム学科の人が自分一人だけだったので、最初はとまどいを覚えた。自分とは学部・学科の違う知らない人に、“Как вас зовут?”“Сколько вам лет?”他にも趣味を聞いたり、普段日本語で聞くと少し失礼にあたるようなことをロシア語の授業では簡単に聞けたことが、何となく新鮮に思えた。授業の中で、こちらが相手にロシア語で質問すれば必ず答えが返ってくるし、逆に相手に質問されれば、こちらが必ず答えを返す。年齢や趣味など普段聞きづらいことが、こうも簡単に聞けると、逆に自分の母語が窮屈に感じることさえあった。きっとロシア語以外の言語をとっていたとしても、同じことを考えていたと思う。
マリーナと会えたことは、本当にいい体験だったと思う。自分の中では「日本に来る外国人は日本語を覚えずに来る」というイメージがあるが、マリーナの日本語は驚くほど上手く、感心させられた。マリーナが我々に教えてくれたロシア語の発音、ロシアの風習、ロシアの状態などもためになったが、何よりもマリーナの熱心で真面目な姿勢には学ぶべきものがたくさんあった。自分の中で外国人に対する見方がだいぶ変わったように思う。
(情報システム1年・岸本圭史)

○ 最初、加藤先生が、入学式の時の説明会で、ロシア語は簡単だとおっしゃったのでロシア語を選択しました。Нет ! いざ受けてみると、アルファベットは見たことないようなのばかりで、発音も、очень, очень難しかった。Маринаはおもしろくて、歌も очень хорошо だった!あとкрасиваяだった。Мне кажется, 今ではだいぶロシア語にも慣れてきた。Я いつもвнимательно слушала, как читал 先生。Но не очень хорошо понимала. ところもたくさんある。女性名詞、男性名詞、中性名詞、複数や格の変化はとてもтрудный!でも、世の中そんなにлёгкий な言語はないだろう。でも、いろいろな言語をизучатьすることは、楽しいことなので、その中でロシア語を学びロシアについていろいろзнать できてよかったと思う。ロシア語ではЯ люблю вас. しか知らなかったけど、たくさんЯ изучала русский язык. <икра>がпо-японски тоже< икра >だったとはне знаю だった。красная икра!!  後期になると二つともスベトラーナ先生になるので、不安です。実はスベトラーナ先生の授業はЯ ещё плохо понимаю.むしろ全然。皆に遅れないようにもっと Я изучаю русский язык しなければならない。рと л やв とбは未だに区別がつかないし、これからずっとр、 л 、в 、бが入っているслово には苦労するだろう…。Я хочу пониматьロシア映画を字幕なしで!そのためにも、努力していきたい。
これから、ロシア語以外の言語にもふれ、いろいろな国について изучаю したい。そしてМыは国々の習慣や考え方をпонимаемしていくことが必要だし、それは大切なことと思う。Миру мир!! である。Я могу понимать по-русски !と胸をはって言ってみたい。
(国文1年・丹羽周子)

○ 一番最初のロシア語の授業のとき、ビックリした。それは、まず人数の少なさだ。ロシア語って人気がないのかな。でも先生の話を聞いているとけっこう楽しい。高校のころの英語の授業とはちがっていた。実際に声に出し、テキストをもちろん進めるのだが,合間合間に会話の時間をつくり、グループに分けて、もちろん по-русскиで話すのだが、自分はпо-японскиで話している方が多かった。けど、覚えたロシア語を使うのは、けっこう楽しい。初めに覚えたロシア語、
それは「хорошо」だ。先生はこれは、けっこう使うといっていたが、案の定このテストにも出ていた。ま?それはいいとして、早速この「хорошо」を友達にもいったり、親にもいったりした。「ハラショー、ハラショー、ハラショー」というふうに。次に覚えたのが、「очень приятно」である。これもよくつかった。初対面の人にとかにも言ったけど、その人、ロシア語が分かんなかったからチンプンカンプンでしたよ。ま?それはいいとして、次に覚えづらくて苦労したことは、まずは動詞が主語によって変化すること。これは、ビックリしました。だって英語も変化するけどせいぜい、「過去」「完了」「進行形」でしょ。それに比べロシアは「я」「ты」「он/она」「мы」「вы」「они」と、英語の二倍だよ。これは苦労した。もう一つ苦労したのが「?格」とかいうやつ。本当のこというと、いまだに「与格」とか「対格」が分かりません! もう一回изучатьします。でもロシア語の方が英語より簡単だと思う。なぜなら、英語はあまりききとれないけど、ロシア語はききとれた言葉もあった。最終的にロシア人と軽く日常会話ぐらいしたいなという願望もあります。ここらでまた、この講義の初めほうでみた、ロシアのアニメ映画でもみたいなと思います。前期はどうもありがとうございました。Да свидания!!!(地域情報1年・阪井勇貴)

○ 中国学科に在籍していて思ったことは、語尾変化がこれほど多くて、男性名詞・女性名詞のはっきりした区別がなくて、その概念のようなものを理解するのが難しく、今でもそれは理解できていません。ただ、やはり規則というものに慣れてくるとなかなか楽しいものだと思えるようになりました。つづりは非常に難しく、似通った字の発音は今でも間違ってしまいますが、文字通り発音すれば何とか読めるようになるのは、とても嬉しいことです。
マリーナさんが、語学を学ぶには、その国の経済的状況が優位であったり、社会的立場、国際的立場で活躍している国だからという理由が多い、とおっしゃってましたが、私がロシア語を学習しようと思ったきっかけは、ロシアの音楽家チャイコフスキー、またロシアをイメージできるロシア人作曲家の曲が好きになったからです。経済的、社会的な面からだけでなく、文化的なものから興味をもって、語学を始める人も多いと思います。このロシア語はロシアの土地や自然、文化を言葉の中にきれいに表現している語学だと思いました。今後、もう少しうまく話せるように学習していきたいと思います。(中国4年・田中陽子)

○ Русский язык はанглийский язык に似ていると思いました。アルファベットの並び順も、一つ一つの字は違ったりするけど、発音が似ているので、すぐにсловарь がひけるようになりました。また、русский язык の発音はとてもきれいで、Марина говорит по-русски のときはいつもЯ внимательно слушала как она читала. 加藤先生の授業もоченьおもしろくて、いつも楽しみにしていました。後期から、しばらく先生の授業がないのは残念です。
私は高校生の時から、大学に入ったら第二外国語としてрусский язык をやりたいと思っていました。なぜならЯ люблю ロシア。私にとってロシアはочень 魅力的で神秘的な国です。また美男子の多いことや、あの寒い時にかぶるモコモコの帽子がたまらないです。私のおばが、ソ連時代のロシアに行ったことがあり、彼女から話しを聞いて、本当に行ってみたいと思いました。この授業でロシアのいろんな話を聞くことができて、本当に楽しかったです。在学中にロシア語を話せるようになりたいと思います。(英米1年・伊原智子)

 
○ 最初はрусский язык がどんなものか全くわかっていなくて、このまま続けていけるか不安でした。Но, Марина がいたурок は楽しかったので好きでした。初めのうちは文字もわけがわからなくて覚えられそうにないと思ったけどанглийский язык の“N”を“И”と書き間違えたりしてрусский язык に慣れたんだなと思いました。Я хочу понимать по-русски. Я хочу читать книгу по-русски. いつかはシベリア鉄道に乗って旅行できるくらいロシア語がマスターできたらいいなと思います。ロシアは隣国なのによく考えたら、ロシアのことを全然知らないんだなと思いました。それだけにМарина との授業は新鮮で、色々な事を教えてもらえて、ロシア語をとって良かったなと思いました。Марина がいた期間は短いものだったけれど、私たちにとってかなりのプラスになったと思います。ロシア人との交流はこれからの日本に必要不可欠となってくると思います。近い将来、そうなった時に、今ここで学んでいるロシア語が少しでも役に立てばいいなと思っています。ロシア語をとってなかったら、まずこんな事は考えなかっただろうと思います。最近ニュースなどでロシアとの北方領土問題などの場面でロシア語がでてくると、ちょっとだけ(本当に少しだけで)聞き取れたり、読めたりする自分が嬉しかったりもします。夏季休講中に全部忘れてしまわないように、時々は復習したりすることも必要だと思ってます。後期もロシア語を頑張って、もし実力がついたら中級の方もとりたいと思います。そして卒業旅行はシベリアに…というのが密かな目標だったりします。(国文1年・春田小夜子)
 

○ 私が第二外国語としてрусский языкを選んだと先輩達に言ったら、「クセモノを選んだねー。」と言われてしまった。聞くと他の言語に比べてтрудныйなのだという。どんなものかと思って講義に出たが、先輩達のいう通りであった。Трудныйだった。「わからない」「読めない」の連続。何がわからないかがわからない。карандашを示されてКак это по-русски? と聞かれても沈黙する以外手段がなかった。教科書を読むよう指示されても読めず、沈黙し、挙句の果てにурокを中断させる始末。はっきり言ってあの時は情けなくて涙が出た。しかしビデオ等で見聞きするロシア語のリズムというか、力というかそう言ったものにはやはり魅かれる。自分も話してみたいと思う。学問とはどこまでもтрудныйなものなのだろうが、少しでもлёгкийだと思える部分を広げられるように、Я ещё плохо понимаю по-русскиと言わなくてもすむように少しずつ進んでいきたい。最低限урокを中断させることだけはしないようにしたい。
(社福1年・服部陽介)

○ Сначала яはрусский языкを選択したのは、простоフィギュアスケートのロシア人の選手が好きだったからですが、半期、学んでみて、очень красивый言語だと思ってさらに興味がわきました。とても感動的だったのは、私は映画をсмотретьするのが好きなのですが、見た映画(アメリカ、イギリスの映画)のいくつかにрусский языкが登場して、しかも、それをчитатьすることができたことです。あと、ニュースで、ムネオハウスに書かれていたрусский языкもчитатьできました。Английский языкのアルファベットとは違うものがたくさんあって、сначала оченьとまどったけれどнедавно慣れてきました。Но, словальをひくときは、ещеアルファベットの順番を覚えていないので、かなり大変です。早く順番も覚えて、速くсловальをひけるようになって、どんどんновый単語を覚えてゆきたいです。そして、ペラペラにговорю по-русскиできるようになりたいです。(日文1年・杉江真以子)

○ Я русский языкを難しいと思っていました。そして、実際にやってみると、これがまた想像以上に難しくていきなり挫折しそうになりました。
でも授業で映画やチェブラーシカのアニメなどを見せてもらったときに、ほんとに少しの単語だけどпонимаюできて、そこで考えが変わりました。「русский языкもなかなかおもしろい。」 それからたまにテレビでロシア語を話しているのをвнимательно слушатьするようになりました。あとは授業にもっと積極的に参加するようにして、русский языкの理解を深めていきたいです。そしてできれば万博ときにボランティア通訳として活躍したいと思っています。
半年間ありがとうございました。また来年の後期もよろしくお願いします。
(ドイツ1年・佐原彰太)

○ 私がロシア語を勉強しようと思ったのは、めずらしいからです。他の言語は、どこの大学へ行ってもありそうだけど、ロシア語は、たぶん、ないだろうと思ったからです。そして、それはあたっていたみたいです。他の大学の友達にめずらしがられます。それがちょっとうれしかったりもします。だから、私は、ロシアのことはほとんど知りませんでした。昔、ソ連だったことや、日露戦争があったことぐらいにしか、知りませんでした。そして、この前期、ロシア語を勉強して、ロシアを知りたいと思いました。歴史のこと、文化のことなど、色々なロシアを知りたいと思うようになってきました。そして、そのことが少しあらわれてきたと思ったのが、テレビのニュースです。いつもなら、父が見てるのをとなりで、ボーっとして聞いていて、右から入って左へぬけるようでしたが、ムネオハウスのことや、北方領土問題のことをやっていると、不思議としっかり見ています。何を言っているのか意味がわからないと父に聞き、よけいに意味がわからなくなりましたが、でもこのことは私の中では大きな進歩です。なんか、大学生になったんだと、実感することでもあります。
今、兄が夏休みになって家に帰ってきています。その兄に、あいさつを教えています。今まで勉強を教えてもらっていたので、兄に教えるのはちょっと気分がいいです。ちゃんと、Как вас зовут?は教えました。兄は「角ばった、バスタブ」とか言ってますけど…私はちゃんと答えられます。今度駅であった時には、ちゃんと答えられますよ!(社福1年・橋本知帆)

○ 私はロシア語はむずかしいと思います。Мне кажется русский язык трудный. なぜなら、男性名詞や女性名詞、動詞の第1変化や第2変化などがあるからです。
 私がロシア語を勉強しようと思ったのは、クラシックバレエを習っていて、先生やピアニストがロシア人だからです。
   最近、新しい先生がきました。もちろん日本語は分からない(не очень хорошо понимает)ので、私たちはロシア語を理解する必要があります(мы понимаем русский язык)。しかし、半期間ロシア語を勉強して、バレエの先生の行っていることが、少しずつ分かるようになってきました。まず、あいさつや数、потом(それから)“Хорошо(良い)”とか“Нет(ダメ)”とかいろいろ分かるようになってきました。
これからも、もっとたくさん勉強очень изчаюして、先生と会話ができるようになりたいです。これが私の目標です。
   半期間、本当にありがとうございました。Большое спасибо! また来年よろしくお願いします。(児教1年・早川真由)

○Я ещё плохо понимаю русский язык. すみません…。
Русский языкは発音がたくさんあって大変だった。Я巻き舌が出来ないので“Р”の発音は今も出来ない。Но, Маринаが私に発音が良いと言ってくれたのはとてもうれしかった。先生のурокで勉強して、Маринаに会えてよかった。
大学に入るまでрусский языкのことなんて、考えたこともなかったけど、урокを取って、もう少しいろいろ知りたいと思った。シベリア鉄道にも乗ってみたいし、バイカル湖にも行ってみたい。それには、もっとロシア語をизучатьしないといけない。巻き舌も出来ないといけない。だから、後期も、もっとがんばりたいと思っている。将来、ロシア人のдругができたらいいと思う。
それに先生がрусский языкはこれから世界的に重要な言語になるみたいなことを言っていたので、今のうちにマスターして、大学を出た後役に立てたい。でもрусский языкは、先生の言っていたように、文法がややこしいので、正直不安はたくさんある。女性名詞とか男性名詞とか中性名詞とかいろいろごちゃごちゃになってしまうし、それに関係して変化があるのでまた分からなくなる。日本語にはないことだから余計にだと思うのだけど、Маринаはロシア人だからその変化が違うと、気持ち悪いって分かるので、私も、それが分かるくらいになれたらいいと思うし、なりたい。高校の時の先生が、とにかくчитатьするのがいいと言っていた。だからとにかくчитатьしようと思う。
そういえば、第何回目か忘れたけど、一回だけ見たチェブラーシカがとても印象的だった。一回だけしか見れなかったので、また見たい。すごくかわいかった。あの時よりも、少しは話の内容がпониматьできるようになっていたらいいなぁと思う。あと、希望なんですけど、ロシア民謡を伴奏つきのテープとかあったら聞きたいです。
前期間、どうもありがとうございました。(国文1年・山下有美)

○Я ещё плохо знаю русский язык, но я хочу изучать русский язык.
早いもので、ロシア語の勉強を始めて、間もなく丸4ヶ月になります。そもそも、私が3年生になって突然ロシア語を始めたのは、私の音楽学の研究テーマがロシアの芸術音楽になったからです。私は、かつてから、ロシアの作曲家、チャイコフスキーや<5人組>、プロコフィエフ、ラフマニノフらの音楽が好きでよく聴いていました。1年生の終り頃から本格的にロシアの音楽史を調べ始め、すっかり夢中になってしまいました。卒論では、プロコフィエフの音楽についてまとめてみたいと思っています。プロコフィエフは、日記や自伝を多く著しています。私は、ロシア語の力を使って彼の“生”の声を聞いてみたいと思っています。また、ロシア人音楽学者の優れた論文も読めるようになるでしょう。私にとってロシア語は、研究の幅を広げる重要なものです。これまで勉強してきて、文字の難しさ、発音の難しさ、文法の複雑さなど多くの壁にぶつかってきました。しかし、夢を実現させるためにも、さらに勉強を続けて行きたいと思います。また、私の密かな野望としていつかロシアに渡って、「ロシアと日本の音楽文化交流史」を研究したい、という夢があるのです。そんな大きな夢をかなえるためにも頑張っていきます。
ご指導ありがとうございました。先生もお体にお気をつけてご活躍ください。またお会いする日まで…。Спасибо большое!!(県立芸大・鳥山頼子)

○ ロシアは日本の隣国だというのに、私はロシア語やロシアのことを全然知りませんでした。Я не хорошо знаю о России. ロシアには何百もの民族が住んでいて、現在どういった生活をしているかなど想像もしなかったものです。マリーナさんのように同じ年代の人とふれあうことで、ロシア語の本場の発音も体験できましたし、песня(歌)とか日本に関係することなどを紹介してもらったので(P.20のバロージャの歌はばっちりです)、親しみやすくわかりやすかったです。でも、まだ、全然ロシアの文化も知りませんし、ロシアは広いですから、全部知ることは難しいものだと思います。Мне кажется, я не знаю все. (『現代ロシア事情』だったと思いますが、なかなあおもしろかったです。) しかし、ロシアの国の広大さ、寛大さ、スケールの大きさなどが印象的でした。ロシアの文化、民族性をもっと知ってみたいです。この文化にふれると視野が広がるというか、少しだけ世界の人のことを考えるようになり、ちょっと成長したのではないかと思います。日本以外の国のことを考えるのは本当に必要なことだけど、怠りがちなことです。これからは世界規模で世界は進んでいくような気がしますが、乗りおくれないようにしたいです。Потом反省しなければならないこともあって、それはマリーナさんのことです。彼女はたったの4年間で生活に支障のない日本語が話せますが(2年目で通訳もしていますし)、自分はというと…。英語を7年も勉強していても、日常会話さえもままならず、未だに全然だめです。今、実はロシア人の女性(Света)と文通をしているのですが、(英語で)毎回よく意味のわからない文をつくって、相手を困らせることもあります。もちろんこのСветаとはロシア語を使って文通できるようにしたいとは思っています。
最後に愛知万博のボランティア通訳の要請がきたらできるように3年後までに準備していきたいです。少しロシア語は難しいとは感じますが…。(社福1年・森 紗波)
 
 


あとがき

 今号、初めて会報に参加しました。体験と思考とが互いに認知しあった文章を書けるようにと思っています。秋になり、またひとつ歳をとれば、すこし違った考え方で次号を迎えられるような気がします。(加藤彩美)

 これまで、おろしゃ会会員でありながら会報を読んだことの無い私が、会報を書いてしまいました。読みにくい文章ではあると思いますが、こんなのもアリということでお許しください。頑張ります。(鈴木敦子)

 今回初めて原稿を書きました。今見ると、非常に稚拙な文章ではずかしいです。次回はもっとしっかりとしたものをお見せできるよう、がんばります。今度はフランス便りになると思います。それでは、皆様ご自愛ください。(田村明子)

 これまで学生会員を勉強やサークル活動の面で支えてくださった顧問の加藤史朗先生が、2002年9月よりモスクワ、およびサンクト・ペテルブルクへ一年間の留学に出掛けられます。今後、加藤先生は研究等でご多忙を極めると思われるため、ひとまず両肩の重荷を下ろしていただき、当面は顧問の田辺三千広先生に会報製作の面で協力していただくことになります。私は加藤先生には大学入学時からお世話になっており、もし先生と出会えていなければ、今の自分は存在し得えなかったと思っています。
 さて、田辺先生からの提案で、今号より特集として毎回学生の共通テーマを決め、それについての記事を掲載していくことになりました。特集「留学・文化交流」、いかがでしたか。次回のテーマは「身近にあるロシア」を予定しています。学生会員のみならず、教員の先生方、他大学の方、また社会人の方にも書いていただければと思います。もちろん共通テーマ以外の原稿も随時募集中ですので、エッセー、レポート、論文等をお寄せくださると幸いです。
 次号はいよいよ記念すべき第10号です。お楽しみに!(平岩貴比古)
 
 


おろしゃ会会報第9号

2002年10月8日発行


発行
愛知県立大学おろしゃ会
代表 平岩 貴比古
(愛知県立大学文学部日本文化学科)
〒480−1198 愛知郡長久手町熊張茨ケ廻間1552−3
学生会館D-202

発行責任者
〒480−1198 愛知郡長久手町熊張茨ケ廻間1552−3
     愛知県立大学外国語学部 加藤史朗
電話0564−64−1111 ファクス0564−61−1107
e-mail kshiro@hi-ho.ne.jp
http://www.for.aichi-pu.ac.jp/~kshiro/orosia.html



 
 

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