「おろしゃ会」会報第4号その1

2000年4月8日付
愛知県立大学おろしゃ会

                                              ご投稿歓迎 E-mail


日比 和平翁のイコン


 

はじめに.... 2

日比和平さんを悼む.... 6

高田屋嘉兵衛と対露外交.... 7

Япония  Валерия Брюсова.... 14

(概要)ワレーリー・ブリューソフの日本.... 20


 

はじめに

                         加藤 史朗(おろしゃ会顧問)


 ◇悲しい一日 

3月8日水曜日「おろしゃ会」の第三回エクスクールシヤ(遠足)が行われた。第一回の大阪行きから丁度一年目である。一年前と同じように、午前9時に名古屋駅盲導犬サーブ像前で待ち合わせた。遅刻者を待っている時に、携帯電話が鳴った。友人の呉智英からであった。母校東海高校の校長であった林霊法師が昨日93歳で亡くなられたという知らせである。先生のことは、成文社のホームページに載せたエセー『「おろしゃ」への遠き道』でも触れたことがある。悩み多き高校生の私を仏教へと導いて下さった方である。戦前に妹尾義郎氏らと新興仏教青年同盟を組織され、治安維持法違反で入獄された経験をもつ情熱の人であった。私にとってまさに「巨星落つ」という感慨をもたらす人である。
 沈み込んだ気分のまま30分遅れで豊橋に向かった。教員は田辺さん、郡さんそれに私の3人、学生は愛知県立大6人、名古屋明徳短大1人、名市大1人、4月から立命館大生となるオクサーナ、合計12人のグループである。今回の目玉は、日本では珍しいイコン作者日比和平翁を豊橋ハリストス正教会に訪ねることであった。1月下旬に日比翁に電話し、この日にお会いする約束であった。一週間ほど前から確認の電話をかけていたのだが、お宅はいつも留守で通じない。そこでやむを得ずハガキを出しておいた。教会(正式名称・聖使徒福音者馬太聖堂)は市の中心部、吉田城近くにある。お会いする前にお昼を済ませておこうと、皆で城址近くの市役所最上階にある食堂で昼食をとった。約束の1時が近づいたので、お喋りに興じている学生たちを郡さんにまかせて食堂に残し、田辺さんと一緒に教会に出かけた。日比翁にお会いできなかった場合を考えたのである。田辺さんは主代(ぬしろ)神父と面識があるからだ。教会には葬儀の受け付けの支度がしてあって、おやっと思った。司祭館に日比翁を訪ねると、ご令室が出てこられた。
−折角いらしたのに、日比はきょう皆さまをご案内できません。−
−何かご都合がお悪いのでしょうか。−
−今朝、亡くなりました。−
二人とも、唖然としてしばらく言葉を失ってしまった。次いで出て来られたお嬢さんが「父は今月初めに階段で転び、入院していました。葉書は昨日、父に見せました。楽しみにしていましたのに、皆さんが来られる当日に亡くなるなんて、何かゾクッとしました。ですから私が父の代わりに案内します」と言われるのだ。お悔やみの言葉を探しあぐね「すみません、すみません」と繰り返しながら、田辺さんに学生たちを呼びに行ってもらった。
 お嬢さんは、葬儀の供花で飾られた教会の中を案内して下さった。山下りんのイコンや日比翁が修復されたロシア伝来のイコノスタシス(聖障)があった。男性だけはその奥にある至聖所の中にも入った。最後に全員で鐘楼に上がり、大正初年にサハリンから取り寄せたという鐘の音を間近で聞いた。大小複数の鐘を、それぞれの鐘の舌を繋げた細い綱を両手でたぐるようにして、一人で同時に鳴らすのである。お父上からその技法を伝授されたのであろう。お嬢さんの鳴らす鐘の音は、激しく美しく、豊かに響いた。生前の日比翁の元気でやや甲高い声を彷彿とさせるものがあった。典礼に楽器を使わない正教では、聖歌とならんで鐘の調べが高度に発達してきた。ロシア史において「鐘」は重要なキャラクターである。「鐘」はロシア語で「コーロコル」という。「コーロコル」はさまざまに擬人化され、数多くの物語を育んでいる。(詳しくはこの度ロシア科学アカデミーの会員となられた中村喜和先生の『遠景のロシア』彩流社刊を参照)「コーロコル」を愛し、「コーロコル」に愛された日比和平翁であったと思う。
 豊橋駅で夕方5時に一行と別れたあと私一人同地に残り、夜7時から行われたパニヒーダ(お通夜)に出た。乳香の臭いと聖歌の響きに包まれた荘厳な典礼の中で、お棺の中に就寝しておられる翁に別れの挨拶をした。翁との出会いと別れは四年にも満たない短期間の内であったが、一瞬、走馬燈のように頭の中を駆けめぐったイメージは豊かに彩られたものであった。


 
 

教会の内部で

 出会いは全く偶然だった。1996年5月、豊橋のホテルで行われた麻布の教え子の結婚式に招待された。折角の機会である。結婚式に出る前に家族全員で三河三谷の温泉に遊び、豊橋市内を散策した。どうしても見ておきたいと思ったのは、豊橋ハリストス正教会である。こじんまりした教会を外からぼんやり眺めていると、話しかけてくる老人がいる。日比翁であった。私がロシアに興味があると知ると、翁はこの日のお嬢さんと同じように教会をくまなく案内してくださり、家族全員を鐘楼に上げ、時ならぬ鐘の音を聞かせて下さった。まだあどけなさを残していた娘も息子も、この日の学生たちと同じように両耳を手で押さえてはしゃいでいた。それ以後、日比翁は毎年クリスマスの時期に横浜松坂屋で開かれる自作のイコン展の案内を下さった。下の写真は、妻とともにロシアの歌姫エカテリーナさんを誘い、1996年12月に翁の個展に行ったときのものである。以来、しばしば自作のイコン、ロシア正教会の絵や模型、乳香など色々とお贈りものも戴いた。それも今では翁を偲ぶ形見となってしまった。

   生前の日比和平翁(横浜松坂屋個展にて)
  パニヒーダを終えて豊橋駅に向かう途中、この悲報を伝えるため妻に電話をした。妻は驚愕したが、続いて彼女の口から出た言葉に私の方も衝撃を受け、絶句してしまった。地下鉄日比谷線事故で、麻布高校の生徒が犠牲になったというのである。豊橋駅で夕刊を買った。30年も前に流行った歌だろうか。「悲しくって、悲しくって、とても耐え切れない」というフレーズをボソボソ繰り返しながら、新快速で名古屋に向かった。自宅でニュースを見ると、かつての同僚が憔悴しきった姿でインタヴューに応じていた。「3月8日」は悲痛きわまりない一日であった。

                                                                   

日比和平翁の遺影を抱くお嬢さん

 

 

 

 

◇おろしゃ会の一年

 「おろしゃ会」は誕生してわずか一年余のサークルである。それにしては、色々な出会いと別れがあった。目を閉じれば、悲喜交々の絵模様が走馬燈のように脳裏をよぎる。その一つ一つに愛着がある。たった一年余のことなのに、どうしてこうも濃密な絵模様が思い浮かぶのであろう。「おろしゃ会」という会自体が「走馬燈」のようなものだからではなかろうかと思ったりする。日ロ交流教会(今まで無能な理事を務めていた)のように、日ロの親善交流を図るという明確な目標があるわけではないし、ロシア史研究会(今でも無能な委員を務めている)のように、専門的な学術研究を行うものでもない。夏の夕べの軒先にひっそりと吊された走馬燈のように、はかない彩りを見せるだけの存在なのかもしれない。しかし、それこそこの会の存在理由ではないかとも思う。せっかちな私は「日本とロシア」に絶望的な気分となることが多い。その度に、林霊法師の「賽の河原で石を積むようなことはもう疲れました」という言葉を思い起こす。この絶望的な言葉は、先生が校長をお辞めになるとき、生徒会執行部の一員として「なぜお辞めになるのですか」と問詰した私への返答であった。今、思い起こせば、先生ほどの熱情をもってして初めて意味をもつ「絶望」なのであって、それは、新たな志へのパトスに満ちたものであった。先生は校長を辞められた後、僧侶としてさらに長年「賽の河原で石を積む」仕事に立ち向かわれたからである。
 先生のことを思うと、私はまだまだ甘い。私は「うたかた」という言葉が好きなのだ。「うたかたの恋」をしたり、「うたかたの夢」を見たりする性向がある。「うたかた」とは水の上に浮かぶ泡、つまりバブルである。「賽の河原で石を積む」というほどの切実さは、私にはまだ縁遠いと知るべきなのだ。だとすれば、「おろしゃ会」が「走馬燈」のような会、「うたかたの夢」であると言っても、それを嘆くのは筋違いというものであろう。フショー・ラヴノー(田辺三千広先生風に訳すと、「まあいいじゃないですか」となる)精神でやっていこうと思い始めている。

◇特集「日本とロシア」 

第4号は、思わぬ多数の方々の寄稿を受け、すこぶる内容豊富なものとなったと自賛している。まず新年早々、見知らぬ方から『スターリン全集』を寄贈したいという申し出があった。横浜にお住まいの稲葉 陽さんという方である。田中克彦『「スターリン言語学」精読』(岩波現代文庫)を読み、スターリン現象を今世紀最大の事件だと考え始めていた時であっただけに、喜んでご厚意に甘えた。さらに、稲葉氏からは同全集を購入した時の思いを書いていただいた。日比和平翁の追悼文は『ニコライ堂の人びと』(現代企画室)の著者・ゲルツェン『過去と思索』(筑摩書房)の完訳者、長縄光男先生にお願いした。また「日本とロシア」をテーマとした特集論文として、保田孝一先生とワシーリー・モロジャコフ氏の玉稿を頂戴することが出来た。保田孝一先生は、『ニコライ二世の日記』(朝日新聞社)で知られるように、ソ連時代からアルヒーフ(文書館)探索のパイオニアとしてそれこそ私財を擲つような努力をなさってきた方である。ゴロヴニンとリコルドの子孫と高田屋嘉兵衛の子孫を出会わせるという「偉大な橋造り」のお仕事は、「おろしゃ会」にとって何よりも刺激となるものだろう。モスクワ大学歴史学博士モロジャコフ氏は、東京大学に来て日本の保守革命に関する研究をなさっている。昨年その成果をロシアで出版された。それを紹介する『ネザヴィシマヤ・ガゼタ(独立新聞)』の記事も併せて掲載する。氏はまたブリューソフ研究でも知られ、既にいくつかの著作を出しておられる。今回はブリューソフの日本観に焦点を絞って論じていただいた。ロシア語で書かれた同論文の概要と解説については、ブリューソフについても造詣が深い中京大学の郡 伸哉先生にお願いした。さらにロシア関係の出版で独自の地歩を築いておられる成文社社長の南里 功氏からも特別エセーを頂いた。同社のホームページには、新刊書の案内だけではなく、ロシアに関する様々な専門家のリレー・エセーが掲載されている。併せてご覧になってほしい(http://www.seibunsha.net/)。また本学フランス科の林 迪義先生が昨年12月14日に「日仏露対照現(ママ)語学」という興味深い講演をして下さった。先生は、その後の校務のお疲れもあって、目を患われ手術をされた。先生からいただいた講演原稿には、さまざまな書き込みがあり、推敲を重ねておられる途中だと思われる。しかし、私の責任において掲載させていただくことにした。ご海容をお願いするとともに、一刻も早いご快癒をお祈りする。その他、今号に予定していたが、量的に掲載を見合わさざるを得ない原稿をお寄せ下さった方もいる。次号までお待ちいただきたい。
 


日比和平さんを悼む

     長縄光男(横浜国立大学)


 日本の正教会でも数少ないイコン画家として知られた日比和平さんが、さる3月8日永眠された。享年85歳であった。日比さんとは昨年暮れ、横浜松阪屋で開催された恒例の新作イコン展でお元気な姿に接したばかりであったので、加藤史朗さんから日比さんのお亡くなりになったことを聞かされた時には、本当に驚いてしまった。結局、あの時に買い求めてきた聖母子像のイコンが、私にとって日比さんの最後の作品になってしまった。
 日比さんに初めてお目にかかったのは3年程前、やはり加藤さんに紹介されて松阪屋のイコン展を訪れた時のことで、「旨い」とは言えないが「味わい」のあるイコンに何となく惹かれ、一点求めてきたのがお付きあいの始まりであった。その時のお話から、日比さんが豊橋教会を牧会された三平神父のご子息に当たることを知り、教会の昔のことを聞きたいと、豊橋まで赴いたこともある。その時に携えていったテープレコーダーが新品であったことから操作を間違え、折角のお話を録音し損なったことは返す返すも無念の極みであったが、幸い、「テレコ」を回しながらとったメモがあるので、これを元にして、今、日比さんの思い出を書いている。

メモによれば、私が豊橋を訪れたのは97年3月2日とあるから、お近づきになってから間もなくのことである。お話を伺ったのは豊橋教会に隣接する司祭館の一室。傍らには先頃主教に昇叙され京都の管轄に移られた主代(ぬしろ)神父もおいでになった。お話によれば、日比さんがイコンに目を開かれたのは5歳のころのことで、当時お父上三平神父のお勤めの関係で四谷教会に住んでいらしたのだが、そこの管轄司祭であった森田神父の机の上に置かれてあった「三面に開くイコン」にいたく感動し、子供心にも、こんな絵を書きたいと思ったのが、そもそもの始まりであった。その後、父上や伯父上の影響のもとに神学校に進み、やがて伝教者となって日本の各地の教会でお勤めをすることになるのだが、その間にも絵心は止むことなく、折に触れては描き続けていたという。
 正教会のイコン画家といえば山下りんの他に、柴山準行司祭の娘・秀子(結婚して大井姓と名乗ることになる)が知られているが、この両名以外にロシアでイコン画家として正規の教育を受けた者はいない。しかも「りん」は弟子を育てることなく、ニコライの死後は郷里の笠間に引きこもって絵筆を絶ってしまったし、秀子の方は結婚後、絵筆をもつことも稀であったから、正教会独自のイコン画の伝統は、大正期には早々と途絶えていたのである。従って、日比さんも一時期牧島神父(こちらもおそらく独学であっただろう)に手ほどきを受けたことがあった以外は、見よう見まねで描くほかはなかったのである。それでも画才は明らかであったようで、少年時代に「堂役」として仕えたセルギイ主教(当時はすでに大主教、あるいは府主教)に褒められ、よく絵の具や絵筆を買って貰っていたということであった。ただし、主教は日比さんが神学校を卒業したらパリに絵の勉強に行かせてやると約束してくれたのに、いざ卒業してみると一向に約束を果たしてくれず、結局うやむやにされてしまったのだそうだ。半世紀以上も昔のこんな話を、日比さんがつい昨日のことのように憤慨して語るその口ぶりに、私は日比さんに残る子供心を垣間見る思いがして、いかにも可笑しかったことが今なお思い出されるのである。
 日比さんのご冥福を心からお祈り申し上げる。
 


高田屋嘉兵衛と対露外交

 

保田 孝一 (岡山大学名誉教授)



 

1 高田屋嘉兵衛(1769-1827)を知っていますか。

 司馬遼太郎『菜の花の沖』文芸春秋文庫を読みましたか。嘉兵衛の伝記です。
 『広辞苑』によると、「嘉兵衛は幕末の廻船業者、淡路の人、一水夫から身を起して酒田、松前の航路を開き、のちの幕府の御用船頭、しばしば択捉、国後に渡って漁場を開き、1812年(文化9)露艦に捕えられてカムチャツカに到り、翌年帰国、ゴロヴニン釈放など日露間の折衝に当った」とあります。
 少し補足すると、かれは20代で北前船の船頭として頭角をあらわし、幕府の北方領土開発政策に協力し、択捉島で漁場を開くなど大きい業績をあげています。かれの経営方針、とりわけ労働力としてのアイヌ撫育は近代的でした。
 今日高田屋嘉兵衛は注目され、劇団わらび座がジェームス三木の脚本で、芝居『菜の花の沖』を全国各地で上演中で、その他に今年末から来年初めにかけてNHKが75分×5回の大型ドラマを放映する予定で目下撮影中です。
 今日なぜ高田屋嘉兵衛が注目されるのでしょうか。かれの対露外交における業績です。対露外交がむづかしいのは今も昔も同じです。19世紀初めに日露間に、大きな戦争に発展しかねない北方領土をめぐる紛争ゴロヴニン事件が起った時、一町人でありながら身命を賭して解決したのです。
 今日、高田屋嘉兵衛の銅像が、嘉兵衛と関係が深かった淡路島の五色町、函館、根室に立っています。五色町は231年前に嘉兵衛が生まれた土地ですが、過疎地であるこの町の町おこしのために、町をあげて嘉兵衛を顕彰しております。ここには高田屋顕彰館、歴史文化資料館などがあり、観光の目玉になっています。公園の中庭には、嘉兵衛とゴロヴニンの日露友好の碑が立っていますが、1996年8月に除幕式が行われ、私も出席しました。
 昨年10月下旬、五色町は、高田屋嘉兵衛生誕230年を記念して、ゴロヴニン事件の関係者ヴァシリー・ゴロヴニン(1776-1831)の子孫ピョートル・ゴロヴニンとピョートル・リコルド(1776-1855)の子孫アナトリー・チホツキーさんをサンクト・ペテルブルグから招待し、それに東京に住む嘉兵衛の7代目の子孫高田嘉七さんが加わり、ゴロヴニン事件から186年ぶりの友情と親善の対面式が五色町で行われ、三人そろって嘉兵衛の墓参りをし、日露友好の碑の前で記念植樹をしました。その半年前には劇団わらび座による演劇『菜の花の沖』が上演されたこともあり五色町民のムードは盛り上がりました。

 ゴロヴニン事件とは何か。

 歴史的にみて日本人は本州から北海道、北方領土へと北進し、ロシア人はシベリアを東に進み、カムチャツカに達し、そこから千島に沿って南下して来ました。18世紀末に、日露両国は外交関係を確立し、国境を画定しなければならなくなります。
 そのイニッシャティブをとったのはロシアでした。ロシアは日本に使節を派遣する決定を下し、ラクスマンという人が日本人漂流民大黒屋光太夫らを連れて1792年に北海道へ来航します。この時幕府代表は通商の交渉に応じると約束し、長崎への入港許可証をラクスマンに与えました。その12年後にロシア使節皇帝の侍従長レザノフがこの入港許可証とロシア皇帝から将軍への親書(ロシア語の正文、仮名訳、満州語訳)を持って長崎へ来航します。
 しかし幕府は半年間も長崎港に待機させたあげく、ゼロ回答をしてレザノフを追い帰しました。レザノフの訪日にはロシア政府首脳も大きな期待を寄せていたので、レザノフは手ぶらで帰るわけにはいかないと考えていました。レザノフは日本は豊かな国で、日本との貿易には大きな可能性があり、日本の商人もロシアとの取引を望んでいると確信しながら帰国しました。この時日露の通商関係が確立されていたら、ロシアはアメリカにアラスカを売ることはなかったと考えている学者がおりました。シベリア、カムチャツカ、アラスカに住んでいたロシア人にとっては、日本はおいしい食糧がたくさんある夢の島に見えたのでしょう。
 レザノフはこの時、日本に開国を迫るために部下の海軍軍人フヴォストフ大尉とダヴィドフ少尉に命令し、1806年と7年にサハリン南部や択捉島などの日本人やアイヌの集落を攻撃させ、掠奪を行なわせます。レザノフは皇帝の許可なしにこの命令を出しました。この攻撃に対して幕府は、ロシアに対する態度を強化し、北方領域の防衛力を強化します。幕府は、フヴォストフ、ダヴィドフらがロシア皇帝の命令で、日露国境地帯に攻撃を仕掛けて来たものと判断しました。
 ロシア軍の攻撃を撃退するために、北海道、国後、択捉へ津軽藩、南部藩、仙台藩、庄内藩、佐竹藩などの東北諸藩が派兵を要求され、3000人が出兵します。そして多くの武士が厳しい自然と野菜不足のために戦病死し、出兵した諸藩の戦費の負担も相当なものでした。
 1811年ロシアの海軍軍人ゴロヴニン少佐らが海図を作成するために南千島にやって来て測量し、水と食糧を求めて国後島に上陸します。この時国後島にいた日本守備隊はそれに応じるようなふりをしてロシアの軍艦ディアナ号艦長ゴロヴニン少佐ら7名の海軍軍人と通訳のアイヌ一人をだまして逮捕し、松前へ連行し、監禁しました。この時から今日に至るまでロシア人はこの事件のあった国後島泊湾のことを背信湾と呼んでいます。
 この時ディアナ号の副艦長だったのが、リコルド少佐でした。ゴロヴニンとリコルドは海軍兵(幼年)学校の同窓生で、イギリス海軍にも一緒に留学した仲間でした。リコルドは、ゴロヴニンの釈放を求めましたが、それが不可能と判断するや、一旦、ロシア海軍基地オホーツク港に帰り、上司の指示を仰ぎます。
 翌1812年夏、リコルドはフヴォストフが1807年に北方領域で捕え、シベリアに連行した中川良左衛門(五郎次)やロシア領へ漂流した日本人を連れて国後島へやって来ました。ロシア側の方針は、最初にゴロヴニンらが生きているかどうかを確かめ、生きていれば五郎次らと交換に釈放してもらうという戦術でした。それに加えて日本と国交を樹立する交渉をするというのでした。
 しかし釈放し、ゴロヴニンらの消息についての情報を収集させた五郎次が持って来たのは、ゴロヴニンら8名は略奪の罪で処刑されたという偽りの情報でした。リコルドはゴロヴニンらが本当に処刑されたかどうか確かめようとします。そのために処刑の事実を公文書で認めることを要求しますが、国後守備隊長は応じませんでした。その上五郎次は逃亡してしまいました。リコルドのいうことをきかなかったのです。
 この時択捉島から箱館へ向かって国後島の近くを手船観世丸で通過しようとしていたのが高田屋嘉兵衛でした。リコルドは観世丸を拿捕し、嘉兵衛ら五人の日本人と通訳のアイヌ一人を人質としてカムチャツカのペトロパウロフスクへ連行しました。現在そこの大学で我々の仲間の広瀬健夫先生が日本語を教えています。
 リコルド少佐が嘉兵衛から知りたかったのは、ゴロヴニンらが日本で生きているかどうかという情報でした。この時リコルドは日本語をほとんど知らず、嘉兵衛はロシア語を全く知りませんでした。嘉兵衛が帰国後に書いた「松前奉行への上申始末書」によると、リコルドは指を折りながら八人が国後、箱館、松前で生きているかどうかしつこく尋ねたようです。
 嘉兵衛は、ゴロヴニンらは松前に生存しており、かなり自由に暮らしていると答えますが、リコルドになかなか通じなく、とりわけゴロヴニンのことを嘉兵衛がХоворин(ホヴォーリンでなくカバリン)と発音したのでやっと通じたと、リコルドは海軍省への報告で書いています。実はゴロヴニンを逮捕したという松前奉行所の最初の報告では、カバリンと呼んでいたのです。
 嘉兵衛は、ロシア軍艦ディアナ号、それからペトロパヴロフスクのリコルドの宿舎で、リコルドと同じ部屋で暮しております。この時嘉兵衛の身の回りの世話をし、同時にロシア語を教え、自らも嘉兵衛から日本語を学んでいたオリカという12歳位の少年がいました。「上申始末書」で嘉兵衛はヲリカと呼んでいます。このオリカのことがロシア側の文書には全く出て来ない。リコルドの報告「対日折衝記」にも軍艦ディアナ号の『航海日誌』にも乗組員名簿にも出て来ない。オリカに最も似ているのはオリガという女性の名前であります。まさか女性では。
 さてリコルド少佐が望んだのは、なるべく早くゴロヴニンらをロシアへ帰してもらうためにどうしたらよいか、その後で日露の国交樹立のための交渉を始めることでした。
 高田屋嘉兵衛が望んだのは、なるべく早く日本に帰り、人質としてではなく、誇り高い日本人としてゴロヴニン事件を解決し、北海道や北方領土周辺を日露の平和の海にすることでした。リコルド少佐の海軍省への報告によると嘉兵衛はロシアとの貿易を望んでいたようです。
 嘉兵衛は、リコルド少佐からカムチャツカへ行くと指示されたその時から、日本国の代表としてリコルドと民間外交を行ない、問題を平和的に解決する決意をしたと書いております。この時代には外国と外交交渉を行なうことができたのは、そのために任命された旗本だけでした。そういう時代での嘉兵衛の決断は見事だったといわざるをえません。
 リコルドは嘉兵衛からゴロヴニンらの存命の情報をつかむと、釈放してもらうためにはどうしたらよいか、真剣に嘉兵衛に質問しています。
 これに対して嘉兵衛は、サハリン南部や択捉などの北方領土における日本人とアイヌの集落に対するロシア海軍軍人フヴォストフ、ダヴィドフの攻撃は不法であり、ロシア政府はこれに関係していないことを公文書で認め、政府高官が、例えばイルクーツク州長官が署名捺印するという条件を提示した。これは、この頃ロシア人と徹底的に戦うという方針から、できるだけ有利な条件で妥協するという方針に政策転換していた幕府の政策と不思議なことに一致していました。
 リコルド少佐は嘉兵衛を信頼し、上の条件で嘉兵衛を仲介人として、ゴロヴニンら八人の釈放について日本側と交渉を始める決断を下します。この時ロシア人の多くはゴロヴニンらが生きていることを信じていなかった。ゴロヴニンらが騙されたように、リコルドも騙されるのではないかと警戒していた。もし騙されれば帰国後リコルドは軍法会議にかけられ処罰されるかも知れない。そういうなかでリコルドは嘉兵衛を信じ、二年前にゴロヴニンら八名が捕えられた国後南岸で嘉兵衛ら三名の日本人を釈放します。
 この時代日本は鎖国で、新たに外国と外交交渉を行なうことは法により禁止されておりました。それ故、松前奉行所の高官の高橋三平と兵吾郎が幕府を代表してリコルドと交渉するのですが、リコルドと直接顔を合わせるのは交渉の最終段階の箱館であります。高橋、柚本の二人は国後島に急遽出張しますが、交渉は書簡の交換の形をとり、それを嘉兵衛が仲介しました。嘉兵衛は松前奉行所とりわけ革新官僚だった高橋三平に信用されておりました。
 こうしてリコルドは嘉兵衛が持参する日本語の書簡を、少年オリカの他に専門の通訳のいないところで読み、高橋と柚本は獄中のゴロヴニンからロシア語を学んだアイヌ語専門家上原熊次郎を使ってリコルドからのロシア語の書簡を読んでいます。
 専門の通訳、ロシア側では漂流し、帰化した日本人善六(ロシア名キセリョフ)、日本側ではゴロヴニンからロシア語を学んだ村上貞助、馬場佐十郎、足立左内が交渉に加わったのは交渉の最終段階においてでありました。
 嘉兵衛が1813年6月国後でリコルド少佐に渡した高橋三平と柚本兵吾郎の署名と花押のある日本語の書簡とそのロシア語訳の本物がサンクトペテルブルグの文書館のシベリア委員会文書に残っています。私が発見し、1996年に北海道新聞、97年に『地域史研究はこだて』第26号に発表しました。
 この書簡の内容は、1806年と7年にロシア船が国後、択捉やサハリン南部にやって来て家と倉を焼き払い、食糧品や武器を略奪した。1811年にロシア船が国後島に来たので七人を捕虜にした。1812年にもロシア船が国後にやって来て、ロシア人捕虜の釈放を願っている。かつて日本領で略奪、暴行を働いた船が政府の許しのない海賊船であったなら、上の役人の弁明書を送付してほしい。そうすればロシア人捕虜の釈放を検討するので弁明書を持って箱館に来航してほしいというものでした。
 リコルドはカムチャツカの長官として直ちに箱館に行くので、日本人の水先案内人を派遣してほしいと要請しますが、日本側はリコルドより位の上の役人、イルクーツク州長官の弁明書と、ロシア船が略奪して持ち帰った武器の返還、それを発見できなければそれの釈明書を要求しました。
 リコルドは日本側の要求を受けいれ、上司のいるオホーツク港へ向かいます。上司のオホーツク港長官ミニツキー中佐は、リコルドの報告をきくと直ちに弁明書を書きます。ミニツキーの手元にはイルクーツク州民政長官トレスキンの弁明書がありました。リコルドはミニツキーの弁明書とトレスキンの弁明書を持参してエトモ港(室蘭)に入港し、そこから国後で釈放した嘉兵衛の部下平蔵を水先案内人として、箱館に入港します。
 箱館では嘉兵衛がリコルド少佐を待っていました。嘉兵衛に指示された場所に錨を下すと軍艦ディアナ号上でリコルドは嘉兵衛に、ミニツキー中佐が松前奉行所高官高橋三平と柚本兵吾郎に宛てた弁明書を渡します。トレスキン・イルクーツク州民政長官が松前奉行に宛てて書いた弁明書は、リコルドが儀杖兵を連れて箱館沖ノ口番所近くに上陸し、番所の接見の間で松前奉行所付吟味役高橋三平に手渡しました。松前奉行に対してでなかった点に注目して下さい。
 箱館に上陸するというのは、リコルド少佐にとっては大きな賭でした。武装した10数名の軍人を連れて上陸して果して身の安全が保障されるか、2年3ヶ月前の国後におけるゴロヴニン少佐らのように騙されて捕えられるようなことはないかという不安が、ロシア側にありました。しかしリコルドは高田屋嘉兵衛を信頼し、上陸し、この決断がゴロヴニン事件を解決するために決定的役割を果しました。
 この時、鎖国日本と隣国ロシアの和議は、イルクーツク州民政長官トレスキンが松前奉行に宛てた書簡ではなく、嘉兵衛が軍艦ディアナ号上でリコルドから受け取ったオホーツク港長官ミニツキー中佐が高橋三平と柚本兵吾郎に宛てた弁明書=書簡に基づいて成り立ちました。このミニツキー書簡の方が、国後島でリコルドと高田屋嘉兵衛(高橋三平の名代)が鳩首協議して出した結論に近かった。日露両国が受け入れうるぎりぎりの妥協点であったのです。トレスキン書簡は、嘉兵衛とリコルドの結論を知らないで書かれており、ロシアの高圧的かつ大国主義的な態度がみられたのです。このミニツキー書簡とトレスキン書簡の控えは、モスクワのロシア帝国外交史料館に保存されているに違いないのに、閲覧を許可してくれませんでした。しかし日本側に両書簡の日本語訳が残っています。
 箱館における和議成立により、ゴロヴニンら八名は直ちに釈放され、帰国します。北方領土周辺の浪は鎮まり、日露間に平和がおとずれました。しかしこの時日露両国は国交を樹立したのではありません。ロシアは日本の鎖国政策を尊重し、日本に来航しないという約束をさせられ、40年間その約束を守りました。日露が国交を樹立するのは、プチャーチン提督が下田で日露和親条約を結ぶ1855年のことでした。
 プチャーチンは、アメリカのペリー提督のように、日本政府を武力で恫喝せず、平和的交渉に徹しました。そして国後、択捉の日本領有を認めました。高田屋嘉兵衛とリコルド少佐の平和的方法による日露交渉の精神は生きていたのです。

ゴロヴニン事件と私

 ゴロヴニン事件の今日的意味を痛感したのは、12年前の1988年のことです。サンクトペテルブルグに留学中であった私に、ゴロヴニンの七代目の子孫ピョートルが会いに来て、高田屋嘉兵衛の子孫高田嘉七さんに手紙を渡してほしいと依頼されたのがきっかけでした。そしてモスクワで初めて嘉七さんに会い、その後でサンクトペテルブルグの友好会館で嘉七さんとピョートルの御対面のセレモニーを行なった時にその御膳立を手伝いました。このセレモニーは『日露の過去・現在・未来』という題名の30分番組でペテルブルグのテレビで放映されました。
 これを機会に私はゴロヴニン事件に関する資料を調べ始めました。ロシアの文書館や図書館にはこの事件についての資料が沢山残っています。
 ゴロヴニンとリコルドは、ロシアに帰国するとこの事件についての全体像を皇帝に報告します。そしてそれが皇帝の命令でロシア語で公刊された『日本幽囚記』と『対日折衝記』であります。1816年のことです。この本は西欧で注目され、二年後に英語訳、フランス語訳、ドイツ語訳、オランダ語訳が出版されます。その七年後に日本語訳が完成します。その監修をしたのが有名な高橋景保で、訳者は、ゴロヴニン事件を解決する時に箱館で通訳として働いた長崎の人馬場佐十郎らでした。
 リコルドもゴロヴニンも、高田屋嘉兵衛を立派な人物として紹介したので、嘉兵衛はこの頃ヨーロッパ、アメリカで最も著名な日本人になりました。しかもリコルドの『対日折衝記』には、カムチャツカで描かせた嘉兵衛の肖像が掲載されておりました。ゴロヴニン事件解決の41年後の1854年に、プチャーチン提督が箱館に寄港します。日露和親条約を締結するために下田に行く途中です。この時箱館でプチャーチンは嘉兵衛の親戚を探したといわれています。
 その七年後の1861年に訪日し、50年間も日本でギリシア(ロシア)正教を布教した(東京神田駿河台にニコライ堂を建てた)宣教師ニコライは、最初のうちは箱館で日本語を学び日本研究を行なっています。この時ニコライは、リコルドの『対日折衝記』に掲載されていた嘉兵衛の肖像画を持参し、この時箱館に住んでいた嘉兵衛の子孫に贈ったといわれています。宣教師(後の大主教)ニコライは、ゴロヴニンやリコルドの書いたものを読み、日本に関心を持ち、宣教師になって訪日したと伝えられています。
 私は1991年からサンクトペテルブルグのロシア海軍国立史料(文書)館で、ゴロヴニン事件に関する資料、『日本幽囚記』や『対日折衝記』の原稿やそれを執筆するために必要だった資料、例えばゴロヴニン事件の時にリコルドが乗っていた軍艦ディアナ号の航海日誌などを探し出しました。そしてその過程でリコルドの子孫に出会うことに成功しました。ピョートル・ゴロヴニンさんを探し出し、日本に紹介したのは高田嘉七さん、チホツキーさんを日本に紹介したのは私です。
 リコルドは、イタリアからロシアへ軍人として移住したイタリア貴族の孫に当る人物で、ゴロヴニンと同年齢でしたが、ゴロヴニンより25年も長生きし、海軍大将にまで登りつめ、1855年プチャーチンが下田で日露和親条約の締結に成功した直後にサンクトペテルブルグで亡くなっています。
 その直後にかれの伝記が発表されましたが、どういうわけか伝記作家はリコルドには子孫がいなかったと書いており、それが最近まで定説になっておりました。しかしリコルドの娘さんの子孫に当るアナトリー・チホツキー氏は、自分の祖先を探すプロセスで、自分にリコルドの血が流れていることを、サンクトペテルブルグの史料(文書)館に保管されているロシア貴族の台帳や正教会のメトリカ(戸籍)で確認しました。
 私がサンクトペテルブルグで、リコルドの子孫と知り合うきっかけをつかんだのは、ロシア海軍国立史料館においてでした。ゴロヴニン事件関係の文書を探す過程で、リコルド文書の専門家にチホツキー氏を紹介してもらい、1997年秋に北海道新聞に発表しました。その記事を読んだ五色町長砂尾治氏が、ゴロヴニンとリコルドの子孫を日本に招待したのです。
 昨年10月22日から30日まで、私はチホツキー氏夫妻、ピョートル・ゴロヴニン氏それに高田嘉七さんと一緒に、成田−五色町−姫路−京都−函館−松前−東京−成田と旅をしました。五色町と函館でチホツキー氏は「高田屋嘉兵衛とリコルドの友情−その今日的意味について」のテーマで講演しました。松前町ではピョートルが「ゴロヴニンの幽囚と日露の友好」のテーマで話しました。
 チホツキー氏は語った。「リコルドは出口のないような状況でも、すべての観点から物事を判断し、正しい答えを出せる人間です。このような偉大な人が自分の祖先だったことは光栄です。自分がリコルドの子孫と知ってから、一度日本に来てみたいと夢見ていました。今日それが実現し、先祖ゆかりの場所で関係者が一堂に会して集まることは、歴史的に大変価値のあることだと思います。」(北海道新聞道南版夕刊 みなみ風1999年10月28日)
 10月29日には、小渕総理が、ピョートル・ゴロヴニン、チホツキー夫妻、高田嘉七さんを官邸に招いて、日露の友好を強調されました。そしてその翌日帰国のために成田空港の搭乗口に入る時、チホツキー夫妻は白いハンカチを出し、二つに切りさき、半分を嘉七さんに渡し、またいつの日にか再会し、このハンカチを一つにしようと誓い合いました。187年前にリコルド少佐が国後島泊港で嘉兵衛と別れる時にやったと同じことを、私の目の前でチホツキー氏はやったわけです。映画を見ているような気がしました。
 
 

1990年長崎旅博で、里帰りした「犬追物」を三笠宮殿下に説明する筆者(殿下の右)
ロシア史研究会編『日露200年』(1993年彩流社刊)より
 
 


Япония
Валерия Брюсова

Василий Молодяков


Личность и творчество Валерия Яковлевича Брюсова (1873-1924) характеризуются прежде всего энциклопедизмом, широтой кругозора, жаждой знания и постоянным исканием нового. Делом жизни он избрал литературу, хотя с тем же успехом мог применить свой талант в науке или общественной деятельности. Ученым он не стал, но обширные, профессиональные знания в области истории, географии, философии и даже естественных наук и математики отразились в его художественных произведениях. Однако как при жизни, так и сегодня Брюсов известен почти исключительно как литератор - поэт, прозаик, переводчик, критик. С опозданием мы открываем Брюсова-историка, создателя оригинальной культурно-исторической концепции, и Брюсова - политического мыслителя, чьи идеи и искания соответствовали передовому уровню европейской науки его времени.
Древнейшие цивилизации Европы и средневековая Германия, античный Рим и древний Восток, современность во всем ее многообразии и фантастические картины далекого будущего - таков диапазон творчества Брюсова. Япония занимает в нем не очень заметное, но тем не менее важное место. Исследуя восприятие Японии Брюсовым и его отношение к ней, мы можем проследить многие особенности его мысли и творчества.

Представления Брюсова о Японии начали формироваться во второй половине 1880-х годов, когда он, будучи гимназистом, жадно читал географические и естественнонаучные журналы, приключенческие романы и книги о путешествиях в экзотические страны. В 1894 г. он написал первое, еще довольно неумелое стихотворение о Японии, которое так и осталось в архиве (1). Настоящий интерес к дальневосточному соседу пробудился у него в 1899-1900 гг., когда он серьезно обращается к проблемам мировой политики в глобальном масштабе под воздействием идей философа Владимира Соловьева (1853-1900). Большое впечатление на молодого Брюсова произвела "Краткая повесть об антихристе" (1899-1900) Соловьева, повествовавшая о грядущем нашествии "новых монголов" (японцев и китайцев) на Европу. Восстание ихэтуаней и военная интервенция европейских держав в Китае в 1900-1902 гг., казалось, подтверждали пророчества философа, к которым при его жизни мало кто прислушивался. В эти годы Брюсов был близок к тому, чтобы считать Соловьева своим учителем, хотя его больше привлекали не религиозно-мистические, а исторические и политические аспекты его учения (2).
Русско-японская война стала одним из важнейших событий для поколения Брюсова - первой большой войной на его памяти и первым крупным поражением России. Брюсов видел в этой войне не просто конфликт двух стран из-за конкретных экономических или политических интересов, но битву двух начал, двух цивилизаций - Европы и Азии, представителями которых соответственно выступали Россия и Япония (3).
Хроникой войны и отношения Брюсова к ней стали стихотворения, вошедшие в сборник "
Stephanos" ("Венок") (1906). Эти стихи можно считать идеологическим оправданием русской экспансии на Тихом океане, как делали это марксистские авторы 1920-1930-х гг., но империализм Брюсова основан не столько на стремлении к конкретным политическим целям, сколько на осознании исторической и геополитической миссии России.
В стихотворении "К Тихому океану", написанном 27 января 1904 г., меньше чем за две недели до начала войны, Брюсов решительно заявляет о преимущественных, даже монопольных правах России - в качестве ведущей державы региона - на Дальний Восток (4). Известный идеолог русского империализма П. Б. Струве назвал это стихотворение "поэтической жемчужиной патриотической мечты" (5). В письме к литератору П. П. Перцову от 19 марта 1904 г. Брюсов выразился еще более определенно и откровенно: "Россия должна владычествовать на Дальнем Востоке. Великий Океан - наше озеро, и ради этого "долга" ничто все Японии, будь их десяток! Будущее принадлежит нам, и что перед этим не то что всемирным, а космическим будущим - все Хокусаи и Оутомара <Утамаро - В.М.> вместе взятые" (6).
Поначалу Брюсов был абсолютно уверен в победе России, исходя из ее военного и экономического потенциала. Его стихи и особенно письма первых месяцев войны полны воинственных призывов и антияпонских высказываний. Однако из них мы узнаем и другое: к тому времени он уже не только узнал, но и полюбил традиционное японское искусство, особенно гравюру "укиё-э", одним из первых в России оценив ее очарование.
Руководимый Брюсовым символистский литературный журнал "Весы" не мог остаться в стороне от происходивших событий. Его позиция отчетливо выразилась в рецензии на апрельский номер журнала "Вестник Европы" за 1904 г., написанной самим Брюсовым: "Великие события, переживаемые нами, объединили в одном общем чувстве всю Россию. Русским людям всех направлений понятно, что ставки идущей теперь борьбы - будущее России. Ее мировое положение, вместе с тем судьба наших национальных идеалов, а с ними и родного искусства, и родного языка зависят от того, будет ли она в
XX веке владычицей Азии и Тихого океана... Наши симпатии <к японцам и японской культуре - В. М.> не могут не потонуть в нашей любви к России, в нашей вере в ее назначение на земле" (7).
Брюсов стремился сделать линию "Весов" максимально нейтральной. Антияпонские высказывания соседствуют на страницах журнала со статьей о Харунобу. Два осенних номера "Весов" (1904, g 10, 11) были оформлены в японском стиле и содержали статьи о традиционном искусстве и культуре Японии. Номера, появившиеся во время боев под Ляояном, вызвали большой общественный резонанс. Поэт Вячеслав Иванов писал Брюсову 13 ноября 1904: "Японцы очень интересны" (8). Номера, выпущенные по инициативе Брюсова, противоречили официальной, общепринятой точке зрения, поэтому он был вынужден объяснить смысл этой акции литератору М. Н. Семенову, который осудил издание "японских" номеров: ""Весы" должны среди двух партий японофильствующих либералов и японофобствующих консерваторов занять особое место. "Весы" должны во дни, когда разожглись политические страсти, с мужеством беспристрастия исповедать свое преклонение перед японским рисунком. Дело "Весов" руководить вкусом публики, а не потворствовать ее инстинктам" (9).
Ко времени выхода "японских" номеров стратегическая и тактическая ситуация на театре военных действий складывалась явно не в пользу России. Вместо ожидаемой скорой победы началась затяжная позиционная война, которую российское командование вело крайне неуспешно и неорганизованно. В столицах гул японофобии несколько улегся, а в начале 1905 г. в Петербурге и Москве с успехом прошли японские выставки. Публикуя многочисленные репродукции японских гравюр, "Весы" (видимл, по инициативе Брюсова) указывали: "Помещая в этом номере ряд воспроизведений японских рисунков... мы хотим напомнить читателям о той Японии, которую все мы любим и ценим, о стране художников, а не солдат, о родине Утамаро, а не Ойамы" (10).
Именно позиция таких наиболее дальновидных деятелей как Брюсов позволила отделить Японию как "страну художников" от Японии как "страны солдат" и познакомить широкие круги русского общества с культурой и искусством Японии. Это звучит парадоксально, но именно война вызвала в России небывалый интерес к истории, литературе и искусству Японии, которые раньше оставались уделом узкого круга специалистов и знатоков-эстетов. За два военных года в России вышло больше книг и статей о Японии, чем за предыдущие полвека.
Однако любовь к японскому искусству не могла избавить Брюсова от тяжелых переживаний по поводу происходящего на фронте. После сдачи Порт-Артура он писал Перцову: "Победа, настоящая победа нужна нам не столько по военным, даже не по психологическим, а по почти мистическим причинам" (11). Эти же настроения мы видим в статье Брюсова "Метерлинк-утешитель (о "желтой опасности")", опубликованной только в 1993 г. В книге "Двойной сад" ("
Le double jardin", 1904) Метерлинк назвал "желтую опасность" "не серьезной", и Брюсов резко критиковал эти наивные суждения бельгийского писателя: "Откуда эта самоуверенность тона? И откуда это сытое самодовольство? Оправдывают ли их история и события дня?... Не ирония ли Случая, что эти самоуверенные и самодовольные слова прозвучали именно в дни Ляоянских боев?" (12).
Брюсов разворачивает перед читателем свой взгляд на всемирную историю последних столетий, подводя к мысли о неправомерности и невозможности европоцентристского взгляда на мир. Он утверждает, что европейцы не имеют никаких реальных оснований утверждать свое культурное или цивилизационное преимущество перед Китаем или Японией. Он пишет о беспощадной борьбе рас (белых и желтых, арийцев и семитов, арийцев и монголов), видя в этом непреложный закон исторического развития. Все эти мысли 6удут позднее развиты в его программной статье "Новая эпоха во всемирной истории" (1913), в основу которой ляжет переработанный текст "Метерлинка-утешителя".
"Предостерегали от "желтой опасности" и искренние прозорливцы, как Вл. Соловьев, и просто сметливые люди, как император Вильгельм. События кричали прямо в уши: за японо-китайской войной следовало боксерское движение <принятое в то время в Европе и в России название восстания ихэтуаней - В. М.>, за ним наша война с Японией... Два мира, европейской и азиатской цивилизации, могли развиваться рядом, пока их разделяли пустыни: океан, баснословный Тибет, дикая Манчжурия. Столкнувшись лицом к лицу, они почувствовали, что им на земле тесно. Поскольку Россия хочет быть представительницей Европы, поскольку Япония - передовой боец Азии, их борьба может окончиться только порабощением одного из противников. Всякий иной мир будет лишь перемирием, за которым позднее последует новая "пуническая" война"" (13).
В той же статье Брюсов дает четкую оценку англо-японскому военно-политическому союзу, который с такой помпой был заключен в 1902 г. против России. "Союз Англии с Японией, - пишет он, - искусственный и случайный. Англия готова ссужать деньги, чтобы помочь в борьбе со своей вековой соперницей <Россией - В.М.>, но, конечно, англичане первые откажутся признать желтокожих одинаковыми с собой существами. Англичане в своих восточных колониях никогда не садятся за один стол с туземцами, будь то и японцы" (14). Через 18 лет прогноз Брюсова полностью оправдался.
Неспособность России одержать победу в боях на материке, а затем и разгром русского флота в Японском море означали не только поражение в войне, но и крах всех имперских амбиций России на Тихом океане. Брюсов переживал эти события не только "политически", но и "мистически", понимая что они отразятся и на мировой ситуации, и на внутреннем положении России. Военное поражение наложилось на революционные волнения, распространявшиеся по стране после Кровавого воскресенья.
Разочарование в политике царского правительства, которое не справилось со своей исторической миссией, стало главной причиной революционных настроений Брюсова в 1905 г. Он открыто заявил о своей оппозиции властям, но не как социалист или либерал, а как обманутый в своих надеждах империалист. В этом принципиальное отличие его позиции от взглядов деятелей культуры, симпатизировавших революции. Соглашаясь "ломать" старый мир вместе с социал-демократами, Брюсов решительно отказался "строить" вместе с ними новое общество. Об этом он открыто заявил в стихотворениях "К близким", "Цепи", "Книга пророчеств" и особенно в полемической статье "Свобода слова", направленной против статьи Ленина "Партийная организация и партийная литература" (15).
После первой русской революции Япония отходит на второй план для Брюсова-поэта и Брюсова-политика, но никогда не исчезает полностью из круга его интересов. Опыт русско-японской войны становится неотъемлемой частью его размышлений о судьбе России в стихотворениях 1905-1908 гг. "Служителю муз", "Наш демон", "К моей стране". В 1913 г. он опубликовал статью "Новая эпоха во всемирной истории", посвященную будущим конфликтам европейской христианской цивилизации с объединенными силами Востока.
"Гул японских побед пронесся далеко по Азии, всколыхнул не только Китай, но даже, казалось бы, чуждую Индию, нашел свой отголосок и в странах ислама, почувствовавших, что борьба идет с общим врагом" (16). Это почти дословно повторяет его стихотворение "Проснувшийся Восток" (1910):
Не гул ли сумрачной Цусимы
Сон древней грезы разбудил (17).
Глобальный взгляд на события как прошлого, так и настоящего позволил Брюсову сделать правильный прогноз: "Панмонголизм и панисламизм - вот две вполне реальные силы, с которыми Европе скоро придется считаться. Третья такая сила должна зародиться в черной Африке" (18). Таков главный вывод Брюсова. Особенно удивительно то, что он так рано предсказал массовое восстание Африки против европейцев, идеологией которого стала концепция "негритюда".
В 1910-е годы Брюсов еще раз обращается к Японии в ходе работы над книгой стихов "Сны человечества". Этот грандиозный замысел предполагал отразить все формы лирической поэзии разных времен и народов в оригинальных произведениях (не переводах) на русском языке. Исполнить задуманное Брюсову не удалось, потому что такой труд вообще вряд ли под силу одному человеку, но и то, что он успел написать, представляет чоень большой интерес.
В данном случае это цикл стилизаций японских танка и хокку, озаглавленный в одном из черновиков "Страна вееров". Он был частично опубликован в 1913 г. в известном символистском литературном альманахе "Сирин" (19). В нем Брюсов стремился передать стиль, образы и настроение традиционной японской средневековой лирики, которую он знал по переводам, но не всегда соблюдал принятую форму, например, количество слогов. Можно по-разному оценивать эти опыты, которые не относятся к числу лучших произведений поэта, но надо иметь в виду, что перед нами - первые в России оригинальные стихотворения в духе традиционной японской поэзии. То, что автором их является именно энциклопедист Брюсов, весьма знаменательно.
 
 

Примечания
(1) В. Брюсов. Неизданные стихи. М., 1935, с. 301.
(2) В.Э. Молодяков. Образ Японии в Европе и России второй половины
XIX - начала ХХ веков. М.-Токио, 1996, с. 118-131.
(3) В.Э. Молодяков. Историософия и геополитика: Валерий Брюсов о Востоке // "Общественные науки и современность", 1994, 4.
(4) В. Брюсов. Собрание сочинений в 7 томах. Т. 1. М., 1973, с. 423.
(5) "Печать и революция", 1926, 7, с. 42
(6) П.Б. Струве. Наше "бездарное" время // "Полярная звезда", 1906, 14, с. 225.
(7) "Весы", 1904, 4, с. 73.
(8) Литературное наследство. Т. 85. Валерий Брюсов и его корреспонденты. М., 1976, с. 466.
(9) Там же, с. 276.
(10) "Весы", 1904, 10, с. 39.
(11) "Знамя", 1940, 3, с. 254-255.
(12) "Библиография", 1993, 3, с. 118-119. Публикация В.Э. Молодякова.
(13) Там же, с. 122.
(14) Там же.
(15) "Весы", 1905, 11.
(16) "Русская мысль", 1913, 12, с. 101.
(17) Брюсов В. Зеркало теней. Стихи 1909-1912 гг. М., 1912; запрещалось советской цензурой; перепечатано: "Наш современник", 1993, 3.
(18) "Русская мысль", 1913, 12, с. 104.
(19) Полностью: В. Брюсов. Собрание сочинений в 7 томах. Т. 2. М., 1973.

Молодяков Василий Элинархович, Токийский университет



  ワレーリー・ブリューソフの日本

(概要)

 

        ワシーリー・モロジャコフ(モスクワ大学歴史学博士)


 文学者として知られるブリューソフ(1873−1924)は、知識と関心の幅がたいへん広い人であったが、その独特の文化史観と政治思想はこれまで研究されてこなかった。彼の日本観を研究すれば、彼の思想と創作の多くの特徴を知ることができる。
 ブリューソフは、既に1893年に日本のことを詩に歌っている。1899−1900年には、「新モンゴル人」(日本人と中国人)がやがて襲来すると説く哲学者ウラジーミル・ソロヴィヨフの著作を読んで影響を受けた。
 日露戦争をブリューソフは、ヨーロッパとアジアという二つの文明の衝突とみなした。この時期の彼の詩には、太平洋における領土拡大はロシアの歴史的・地政学的使命であるとする見方が反映している。ブリューソフはこの戦争でのロシアの勝利を確信し、私信のなかでも戦争に関わる発言、反日的な発言を多くしているが、その同じ時期に彼は日本の伝統文化、とくに浮世絵を知る。彼は浮世絵をロシアでもっとも早くに評価した一人であった。自らが主宰する雑誌『天秤』で彼はこう述べている。世界におけるロシアとロシア文化の位置は、ロシアがアジアと太平洋の覇者となるか否かにかかっており、日本と日本文化へのわれわれの愛も、ロシアへの愛を前にしては輝きを失うしかないと。一方で彼は、自分の雑誌の装丁を日本風にし、そこに日本文化の記事を載せる。そして、ある手紙でこう釈明している。対日的な政治的灼熱のなかでこそ、わが雑誌は日本の絵画への崇拝の念を表明する必要があるのだと。
 ロシアの戦局が悪化してきたころ、ペテルブルグやモスクワでは日本展が開かれ、雑誌『天秤』も日本の浮世絵を多数掲載する。ブリューソフのような先見の明ある人々のおかげで、芸術家の国日本と兵士の国日本とを分けることがなされ、前者がロシアに紹介されたのである。逆説的だが、戦争のおかげで、ロシアにおける日本への関心がそれまでになく高まったわけである。
 しかし、戦争の進展とともにブリューソフは、黄色人種が世界にとって脅威になるという危機意識(「黄禍論」と呼ばれる)を強める。彼は、中国と日本への文明上の優位をヨーロッパは語れないと主張し、民族間の仮借なき抗争を歴史の法則と見なす。
 1905年のロシアの敗戦は、ロシア国内に革命の気運をもたらす。ブリューソフにもその気運が現れるが、それは社会主義者としての立場ではなく、政府に幻滅した帝国主義者の立場であった。旧世界の破壊において社会民主党と共闘はするが、彼らとともに新世界を建設することは拒絶するという姿勢を、彼は詩のなかで、あるいはレーニンを批判した論文のなかではっきりと表明している。
 ブリューソフの日本への関心は日露戦争後も消えることがなかった。1905−1908年の詩、1913年の論文などにも、日露戦争をとおして養われた、文明の衝突やロシアの運命に関する見方が表れている。汎モンゴル主義、汎イスラム主義の二つがヨーロッパにたいする二大対抗勢力であり、やがてそこにアフリカが加わる、と彼は予測したが、これはその後の歴史を言い当てている。
 1910年代に彼は『人類の夢』という詩集を計画し、そこに様々な時代の様々な民族の抒情詩の形式を反映させようと試みた。この企ては失敗したが、実現した一部だけを見てもたいへん興味深いものである。そのひとつは日本の短歌や俳句を模倣した連作である。彼の作品のなかで最良のものでもないし、評価は様々であろうが、ともかくこれは日本の伝統的な詩の精神で書かれたロシアで最初のオリジナルな詩なのである。百科全書的人間ブリューソフならではの仕事である。

〔概要作成者注記: ブリューソフはロシア象徴派の中心的人物で、著作には数多くの詩、評論のほか、長篇小説として『炎の天使』(16世紀ドイツを舞台に遍歴の青年と悪魔つきの女を描く。プロコフィエフがオペラにして有名)と『勝利の祭壇』(4世紀末のローマの政治的・宗教的混乱の中に生きる青年が主人公)、幻想的な短篇小説群(邦訳:『南十字星共和国』白水社)、戯曲などがある。

                        (概要作成: 郡 伸哉、 中京大学)


 ワシ−リー・モロジャコフ著『日本における保守革命』の書評(評者はモスクワ大学教授ボルジューゴフ)

『独立新聞』1999年12月2日書評欄より


 
 

4号つづき

おろしゃ会ホームページに戻る