「おろしゃ会」会報第4号その2

 

目次(各項目をクリックしてください)

 

「おろしゃ」本に未来はあるか?. 1南里 功(成文社). 1

スターリン全集雑感. 4稲葉 陽. 4

Письмо из Москвы モスクワ便り. 6

初級ロシア語を学習していて. 8

ガルシンの赤. 8

共産主義について考える. 9

「始業」論文を書いて. 12

私の名古屋ロシア物語/田邊三千広. 14

私とおろしゃ会. 16原 豊美(愛知県立大学文学部社会福祉学科4年/おろしゃ会会長). 16

Росная Россия( 露の国・ロシア ). 17平岩 貴比古(愛知県立大学文学部・日本文化学科2年/おろしゃ会企画・会計)  17

「おろしゃ会」副会長を去るにあたって−そして、続・樺太(サハリン)考. 19/渡辺俊一

豊橋ハリストス正教会を訪問して. 23

日露仏対照現語学. 24講演記録. 24林 迪義(愛知県立大学外国語学部フランス科) 24

第3回エクスクールシヤ. 34

あとがき. 38

 


「おろしゃ」本に未来はあるか?

                           南里 功(成文社)


■出版業界のいま

  昨年末に、書籍訪問販売会社のほるぷと取次店の柳原書店が倒産した。クリスマス倒産と称された事件が業界に与えた衝撃は、業界草分けの販売会社と並んで、戦後になって初めて取次店がつぶれてしまったということだった。かの取次は、トーハン、日販の二大取次とは比べようもない規模だったが、関西の老舗で、人文、社会科学書に強い取次として知られていた。年が明けても事態はますます悪しき状況にあり、一月末には関西の駸々堂グループが倒産。書店チェーン展開に加え、出版も行なっていた。昨年には福岡を中心にチェーン展開していた積文館も倒産しており、関西や福岡を知っている人には、ある種の感慨があったに違いない。
 そして、二月になって、さらに衝撃的なニュースが。日販が遠からずつぶれるであろう、と。すでにその悪しきうわさは業界で取り沙汰されていたものの、それを出版物で扱うことはタブーだった。そのことを、取次を介さない雑誌がすっぱ抜き、周知のことになってしまった。あわてた日販は急きょ記者会見を開いて、リストラ策を発表したのだが……。一連の経緯は朝日新聞で報じられたので、ご存知の方も多いだろう。書店がつぶれ、出版社がつぶれ、いよいよ取次までもがつぶれていくという崩壊のシナリオが確実に進展している感じである。
 実感からいくと、一九九七年くらいから「どうも本が動かんなぁ」と感じていた。もちろんそれは景気の悪さに起因しているのだが、当時、かなりの出版社が以前にも増して本を出し続けることで、事態を乗り切ろうとした。委託販売では、仮払いという旧態然としたシステムがあり、昔からの出版社は委託品の何十パーセントかを仮払いしてもらえるというものである。新規出版社にとってはじつにケシカラン制度なのだが、その恩恵を受けようと本を出し続けた少なからぬ出版社が、結果として寿命を縮めることになった。返品率五十パーセントに達する月もあるという状況のなかで、そんなシステムがまかり通るはずがないのである。
 委託販売とそれに付随して慣行的に出来上がっていたシステムが崩れつつある。いまの景気が市場規模の縮小を求め、それにともなう新しいシステムを要求しているのである。日本の出版流通の特徴である再販制度(再販売価格維持制度)もその例外ではなく、すでに価格割れした書籍を新刊書店頭で見た人も多いことだろう。インターネット上では、ある出版社が「五冊購入したら、一冊タダ」と謳っていて、見た瞬間に笑ってしまったが、なにやら考えさせるものがあった。新たなシステムが模索され、それに応じた大小さまざまな動きが展開しているのである。

■ロシア関連書籍の行方

 さて、そんななかでの、ロシア、おろしゃ、である。
 書店頭を見ると、その関連書籍は少ない。東京の十大書店と呼ばれるなかの一つの書店を回ったときに、その売場の担当者から言われたことがある。「その関連書籍の棚はこれだけなの。これだけの棚に旧刊も新刊も並べなきゃいけないわけ。おたくの本を何冊も並べるスペースがないことは分かるでしょ」。そして、それは確かにもっともだったのである。また、別の書店の店員さんから言われたこと――「ロシアはねぇ、まず北方領土を返さないといけないんですよ。それからなんですよ」。真面目な顔をして言われるので、こちらとしてはどう対応をしていいか分からない。「それからなんですよ」と言われると、「はぁ」とでも言うしかなく二の句はつげなくなるのである。
 書店の売場スペースは、如実に社会を反映している。それだけ、ロシアに関心がなかったり、さらに言えば遠ざけようとする潜在的な雰囲気があるのだと言える。本の市場規模そのものの縮小が求められるなか、ロシア関連書籍の売場スペースがより狭められることは致し方ないことと言えようか。もちろん、そのスペースに並べられることのみが本の生きる道ではない。市場規模の回復が望めず、再販制度が無くなることをも考えると、別な販路が求められるだろうし、そこでのみ扱われる「名著」もまた出てくるだろう。が、限られたスペースを多少とも広げ、さらに賑せたいと思うのは、ロシアに関わる書籍を扱っているものとしての人情である。
 日本人がロシアを受容する度合いは、ロシア本体のぶれの大きさと同様、ときとともにおおいに違っているように思う。自らの経験を遡ってみるだけでも、学生時代に起きたアフガニスタン侵攻、ポーランドの連帯封じに始まって、ゴルバチョフの登場とペレストロイカ、八月クーデター、ソ連邦崩壊と目紛しく、周りの人びとが寄せる関心にも感情的な起伏が大きかった。今後もそのことは変わらないように思うが、せめて伝わってくる情報に自分なりの脈絡がつけられるような、そのように導いてくれるような書籍は店頭にあって欲しいものである。
 「おろしゃ会」はまさにそのような橋渡しの役割を任じておられていて頼もしく、会の活動や会報の発行に敬意を表さざるを得ない。弱小出版社である成文社の使命もまた、その辺にあると思ってはいるのだが……。

成文社のホームページへ


スターリン全集雑感

 

稲葉 陽



 昭和18年、戦争の真っ最中、私の旧制中学4年生の頃、『国体の本義』『臣民の道』という小冊子がありまして、どこの出版か忘れましたが、学校で強制的に読まされました。
 『国体の本義』は、日本の国体は、上に万世一系の天皇を頂く、神聖にして崇高、世界に比類なきものであることを説き、
 『臣民の道』は、此の国体を命がけで守ることが日本人の義務であり、且つ喜びであると説いていました。
 私はしかし一向に納得できませんで、心の中では、「冗談じゃないや。万世一系が何で神聖で崇高なんだ。どうして命がけで守る値打ちがあるんだ。」と思ってましたが、そんなことを口にしようものなら、えらい目にあわされることが分かってましたから、大いに納得したふりをしてました。
 昭和19年に旧制高校に入ってしばらくして、ヒトラーの『マインカムプ』(『我が闘争』)を読む機会がありました。強い迫力を感じましたが、思想の根本に身勝手とひとりよがりがあるという感じを拭い切れず、これにも納得しかねました。
 或るとき一人の教授から、「マインカムプでヒトラーは日本人を役に立たない民族の部類に入れてるんだが、日本語版ではそのくだりは削除してあるんだよ」と聞かされて、ヒトラーの思い上がりもさることながら、削除する方の卑屈さは何てことだと憤慨したことを覚えています。

 戦争が終わって情報が一方的ではなくなり、隠されていた事実や曲げられていた歴史が次第に明らかになり、諸々納得できなかったことに解が得られるようになりました。
 昭和20年代の終わりは、「もはや戦後ではない」と言われ始めた時期でしたが、ソ連については相変わらず鉄のカーテンの隙間から垣間見るほかない状況が続いていました。
「スターリンはどういう人物だったのだろう。
 レーニンの後継者として、新しい原理のもとに一国社会主義の基礎を固め、成長発展させた指導力は並大抵のものではない筈だ。優れた体系化の能力と、戦車のような馬力と、持って生まれたカリスマ性が相またなければ、こんな大きな仕事は出来ない筈だ。ルーズベルトもチャーチルも傑物には違いないが、彼等は従来体制の延長上での傑物であって、体制そのものを変えるような、いわば次元転換が出来るような能力の持ち主ではない。
 それ程すぐれた指導者だのに、血の粛清とやらでやたらと人を殺したというのはどういうことなのだ。所詮彼は狂暴な独裁者であり、権力主義者だったに過ぎなかったのか。革命を成就するには戦いが避けられないことは分かるけれど、あそこ迄人を殺さなければならなかったのか。一体何が本当のことだったのか、スターリンのイメージが分裂して噛み合わないではないか。」
 こんな疑問を抱えてましたとき、たまたまスターリン全集が目にとまりましたので、「スターリンが何を考えていたのか直に知ることが出来そうだが、私の月給の割には高い本だな。そこがちょいと唸るとこだけれど、まあ社会科学の勉強と思って、此の際奮発するか」ということで買い揃えた次第です。

 読んでみて革命への情熱、緻密な理論構成、鋭い考察などに驚きましたが、粛清については当然のことながら何も分かりませんでした。ただレーニンもそうだったようですが、反対者には強烈に厳しかったことは、随所に窺われました。
 粛清を含めてスターリン時代の問題点にソ連内でメスが入れられたのは、昭和31年のフルシチョフのスターリン批判以降でしたが、どうやら過ちも桁違いに大きい指導者だったように思います。
 先日、加藤先生から頂いたメールの一節に、スターリンはヒトラーよりも大きな痕跡を世界に残したと考えていますとありましたが、私も全く同感です。スターリンはヒトラーとは違った次元で、より強く世界を揺さぶったと思います。
 とりとめない感想で恐縮ですが、お送りした全集が先生の御研究と、おろしゃ会の発展に、幾分でもお役に立つことを祈っております。

加藤の研究室に置かれた稲葉氏寄贈のスターリン全集




Письмо из Москвы モスクワ便り

粟生田明子(あおうだあきこ 早稲田卒業生)


加藤先生

日本も寒くなっていると思いますが、お変わりございませんか。モスクワは12月に入っても気温はプラスのまま、雪もすっかり融けてなくなってしまいました。その後、すっかり御無沙汰してしまい、失礼申し上げました。「おろしゃ会」のお便り、主人と共に嬉しく拝見しております。いつも本当にありがとうございます。こちらは、秋口からキルギスタンの事件のため、主人がのべ2か月余りもモスクワを留守にしたり、娘と私が相次いでひどい風邪をひいたりとあまり楽しくないことが続いてしまいました。でも、おかげさまで今は家族みな元気です。娘の高熱がどうしても下がらなかったとき、ロシアの救急医を呼んだら、娘を裸にして、体中にウオッカを塗りたくって、その後パタパタあおぐという処置をしてくれました。どうなることかと思って見ていましたが、それを2回ほどくり返したら、熱が2〜3度も、さーっと下がりました。これにはまったくびっくりするやら、感心するやら。(ウォッカをきらしてはいけないな、と思いました。)この一件は、将来、娘が酒飲みになったときの、良い言い訳になりますね!主人は12/19の選挙に向けて連日大忙し。その後も2000年問題への対応などで、気が抜けないようです。(もしもガスや電気が止まってしまたら、わが家では、ペチカ付きのダーチャに避難する予定です。どうなりますことやら・・・)加藤先生の御健康とますますの御活躍、そして「おろしゃ会」の発展を、モスクワからお祈りしております。
(注 ご主人の粟生田修彦氏はNHKモスクワ支局勤務)

 


初級ロシア語を学習していて

榊原賢二郎(麻布高校1年)


ロシア語を始めた理由は、当時担任であった加藤先生が校内でロシア語講座を始められたからというある意味単純な理由からでした。その頃英語には少しふれていましたが、その他の言語についての知識は皆無で、ロシア語を習うというのはある種面白半分という面が強かったです。習い始めると、英語や日本語と全く違い、これが一言語なのかと最初は当惑しました。例えば文字は英語などのアルファベットと全く違う上に、三十三文字もあり覚えるのに苦労しました。名詞の格変化も英語や日本語にあまり無い考え方です。学習していくほどに日本語や英語との違いを感じざるを得ませんでした。もう、ロシア語を習い始めて三年になりますがなかなか物になりません。しかしロシア語を学んで私は言語に興味を持ちました。最初、ロシア語は僕にとって「変な言語」でしたが、ロシア語の学習を通して言語を学ぶ事自体、好奇心の対象となりました。ロシア語は難しいけれども学習するのになかなか面白い言語だというのが、ロシア語の初歩を学んでいての感想です。
 
 



ガルシンの赤

柳 忠宏(早稲田大学 教育学部4年)


 「最近の大学生はあまり本を読まない」という声を以前からよく聞きます。
 実は私も書生の身分でありながら、あまり本は読みません。本を広げるとすぐに心地良い眠気が襲ってくる。さっと流し読みして筆者が何でこんな事を書いているのかが分かれば、さっと本を閉じてしまうのです。
 今回加藤先生のお奨めで、ガルシンの「赤い花」を読むことにしました。これは熟読することができました。
・・・10日間不眠の主人公が療養所へ送られてくる物語です。
その男は庭園で美しい「赤い花」を目にする。
彼はその「赤い花」全てを刈り取ろうと決心するが看守に止められる。
夜、病棟を抜け出した彼は、花壇に侵入し全ての「赤い花」を刈り取り、究極の至高体験の後死んでしまう・・・・。

 ゲーテは臨終の際に「もっと多くの光を!」と述べたそうですが、ガルシンにとっての「赤い花」は正にそれと同次元のように思えます。又、プーシキンやチャイコフスキーのように自分の周りに「死」を隣り合わせることで究極の爆進力を得ていたのかもしれません。
まるで処刑の直前に偉大な精神の集中力を得た囚人や「葉隠れ」に傾倒した三島由紀夫のように。

「赤い花」はガルシンにとって「光」なのか「死」なのであるかは読者それぞれでありましょう。
 ガルシン・・・私はまた一人、価値ある作家に出会うことができました。
「四日間」「アッタレーア・プリンケプス」等々、彼に今熱中しています。

 ただあまりに熱中しすぎて私自身が精神的な熱病に冒されてしまったようです。
不眠です。どうやら私にとって現時点で必要なのは「赤い葡萄酒」のようです。


共産主義について考える

増田 暁(早稲田大学教育学部卒)


 はじめまして。早稲田大学で加藤先生に卒業論文の指導をいただいている増田と申します。おろしゃ会会報、拝読させていただいてます。
 会報に寄せる皆様の真摯な姿勢には、ただただ感服するばかりです。それに対し、自分が今ある姿に対し思いを巡らせずにはいられず、自らの考えを整理する意味でも、すこし筆を執らせていただきました。
 私がロシア史をやるきっかけになりましたのは、浅薄な意味では、東西文明の十字路、ビザンツ文明を受け継ぐロシアの文化を研究してみたい、というのがありました。しかし、心の奥底では、ロシア共産主義の意味、ソ連邦はなぜ崩壊したのか?の謎を、漠然とではありますが、解明してみたいという心があったのだと感じています。
 それは、両親が労働組合運動を行っていて、幼い頃から社会主義について聞きかじっていた要因が強いのでしょう。しかし、成長した私は、その両親の思想に対して反発していました。

 私たちが現在暮らしている日本は、資本主義経済の国です。それは、自由競争において強いものが勝つ、という弱肉強食の国でもあります。強いものが勝つ、それのどこがいけないのでしょうか。自由競争の上、能力に秀でたものが権力を握ることができる。常にだれにもチャンスが与えられている。すばらしい社会ではないか、そう考えていました。
 しかし、初歩の段階ではありますが、社会に向けての道を歩み始めたとき、自分の考えが、迫害されたことのない、弱い立場に立ったことのないものの浅はかな考えであることを思い知らされるに至りました。アルバイトとしてではありますが、会社に属し、金銭を受け取る
関係になりましたが、そこにあるのは、最終的には搾取するものと、搾取されるものの関係に他ならないのです。被雇用者がどう権利を主張しようとも、絶対的な権力を有する会社には逆らうことが出来ないのです。

 人間生活において、なにを勝利とするかは多大な議論を残すところですが、仮に金銭の取得量を生活する上の安息の目安とした場合、この学歴社会においては、機会は確かに一見平等に与えられているかもしれません。しかし、先日おきました文京区の幼女殺害事件にしろ、大学進学にあたり、塾、予備校などの余剰投資なくしては有名大学、有名な会社に入ることもままならない現実を見るにつけ、本当に平等なのか、と思いたくなります。早稲田大学においてさえ、学生の半数以上が東京近郊在住者であるところにも表れているように感じます(一般的に、都内に家庭を持つ世帯は、地方在住の世帯よりも収入が大きいと私は考えます)。結局のところ、現在強い権力を持つものは、その後においても強い権力を持ちえるのではないかと。

 少し話が脱線しましたが、現在の日本社会を見るにつけ、平等とは何なのか、と改めて思わざるをえません。上記のような所得の差があるにせよ、現在の日本は一応平等のように思われます。しかし、そこには競争原理が存在し、私有の原則が存在します。他者より秀でていたい、他人より良いものを持っていたい。この人間心理が存在する以上、平等な社会とは存在するのでしょうか?

 かつて私が高校生の時、「共産主義とは実現可能なのか?」と親に問いました。
「資本主義社会が限界に達したとき、それは必然として表れるよ」
「しかし、競争原理が人間の心の中に在る以上、競争のまったく無い社会なんてあり得ないじゃないか」
「共産主義は競争のない社会ではない。人間の能力に差が在る以上、差は存在する。そこでは、お互いはお互いを補い合うんだ」
「だけど、そこまで人間は他人のことを考えるなんて出来ないよ」
「いや、人間は変わっていく。人間が成長していく過程に共産主義があるんだから」
「人間は変われない。無理だよ。現在に至るまでの長い歴史が証明しているじゃないか」
「いや、長い歴史の中で、少しずつ変わっているじゃないか。現在の状況が、封建制のそれと同じだと思うかい?」

 これに対しては、ただただ沈黙するのみでした。果たして、人間は変わっていくことが出来るのでしょうか?
 この問いに対する答えは、未だ出せずにいます。人間は変わることが出来るのか? 現段階における私の答えは「No」です。しかし、現在の日本経済は、もはや破綻目前です。国債は、国民一人あたり540万円の負担に達しています。今後の社会がどうなっていくか、
誰にも予想できません。もしかしたら、革命的出来事が生じ、人間は変わらざるをえなくなっていくのかもしれません。
 私は、『資本論』さえ読了しておらず、共産主義がどういうものか想像だにできません。しかし、この激動の社会の中で、自分が歩むべき道を見失わないよう、進んでいかなくてはなりません。流れ移る社会のなかで、時代の潮流に遅れないよう自分は変わり続けていくことが出来るのか? そんな自問自答を繰り返しながら、進んで行きたいと考えています。

 まとまりのない文章でしたが、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
                              1999年12月28日

 


「始業」論文を書いて

 

金澤圭介(早稲田大学教育学部卒/郁文館高校地歴科講師)


 
  僕が卒論のテーマとして選んだのは、19世紀のロシアにおいて、経済上のナショナリズムがどのような過程を経て宗教的・民族的な優越感に力強く支えられたのか、といったことでした。具体的には、次のように要約できます。コンスタンティノープル獲得という目的は、当初ロシア帝国の利権を確保するために生まれたはずでありながら、ロマン主義の影響によってロシアの「価値」を見出したロシアの知識人は、この都市を異教徒から取り戻すことこそロシアの栄光を復活させることになると考え、スラヴの連帯という思想とも絡み合いつつ、1877年の露土戦争において熱狂的な愛国主義が一つのピークを迎えた、と。(もっとも、とくにスラヴ連帯の思想についてはディヤコフ氏の本を読んでいなかったのでとても拙いものになりましたが。)結局こうした声も、露土戦争の敗北という結果を受けて挫折し、一時ほとんど消滅したようです。
 こうしてみると、上述した一連の思想や世論の流れというのは、夢見がちなところを大人にガツンと叩かれるという、誰もが持っている経験にも似ている気がします。つまり、ロマン主義の思想によって自意識にプライドが与えられ、そこから理想を描いていたところ、敗戦という現実にぶつかり意気消沈するといった具合に。
 ところで、振り返って自分を見ると、民族としてのプライドというか、日本人の誇りのような意識がほとんどないのに気付きます。この春、僕は台湾と沖縄を旅行してきましたのですが、台湾は総統選真っ最中の時期で、台湾出身の陳水扁を支持するパレードで4時間歩いたという人に出会いました。また沖縄では首里城を復元するために必要な資料が県外、国外に散逸していたため、それらを検討するのに想像を絶する苦労があったということを知りました。こうした人々が現実にいる一方で、自分は同様の意識を持っていないということに、どこか引け目を感じさえします。
 先生は卒論面接の際、正しくも「これでは卒業論文でなく始業論文だ」とおっしゃっていましたが、まさしくその通り、卒論がこれからの自分の勉強についてのたたき台になったような気がします。自分がどのような結論を得るのかはさっぱりわかりませんが、少なくとも方向性を得ることはできたんじゃないかと、今では思っています。

おろしゃ会の皆様、はじめまして。
 この春早稲田大学教育学部を卒業した金澤と申します。加藤先生に卒業論文の指導をしていただいた関係で、この場に登場させていただくことになりました。皆様にお会いできる機会は少ないかと思いますが、よろしくお願いいたします。

ロシア料理屋チャイカにおける「謝恩会」の後で、左から金沢・柴田・増田・柳の各君





私の名古屋ロシア物語

                      田辺三千広

(名古屋明徳短期大学/おろしゃ会顧問)


 平成5年4月に、名古屋明徳短期大学国際文化科(愛知県東海市)に就職したことが、私の名古屋ロシア物語の始まりです。明徳短大では、ゼミ(ロシア・キリスト教文化)、西洋史、西洋文化論を中心に担当してきました。自分の専門である「ロシア中世史」そのものを授業で試せるという点では、とてもよい働き場所です。
 知人の紹介で、名古屋到着直後から、中京大と愛知大で非常勤講師をすることになりました。しかし、これはあまり嬉しい話しではありませんでした。なぜなら、担当科目が、私の得意でない「ロシア語」であったからです。中京大のほうは二年後に失礼しました。愛知大は、三年でクビになりました。私の名誉(?)のために一言。私の不出来も手伝って、愛知大の「ロシア語」の講座がなくなってしまったとは言うものの、名古屋におけるロシア語熱の低下が大きな原因だと思います。とにかく、今は、「ロシア語」の授業を担当しなくて良くなり、ほっとしています。これで本務校の「短大の危機」が克服されれば、桜満開といったところです。
 大学院の学生の頃から、女子の短大に就職するのが夢でした。その夢は、長年苦労して待った甲斐もあり、運良くかなえられました。しかし、就職と同時に、「少子化」、「バブルの破裂」などの世間の荒波にもまれるという悲劇に見舞われています。そのためかどうかは分かりませんが、とにかく、大学は雑務が多いところだと気がつきました。私のかつての恩師は、私たちが学生の頃、「研究者になったら、必ず、1年に1本以上の論文を書くこと」と、厳しく戒められました。44歳で就職するまでの悲惨な浪人時代、3年に1本が私のペースでした。やっと念願がかない、恩師の教えにしたがって、1年に1本論文を書くぞと張り切って名古屋に乗り込んできましたが、なかなか結果が出ません。書けない原因は、もちろん自分の無能さにあるのですが、それ以外にも授業や会議が邪魔し過ぎです。
 そうはいっても、同じように忙しい思いをしている他大学の同僚の多くは、精力的に論文を書いて活躍しています。彼らの働きを見ていると、かなりあせりますが、自分の才能は限られているからと観念し、自分のペースで、分に応じた仕事をしようと今は「仙人」の心境です。
 研究に割く時間を得るために、学生に対する教育に割く時間を授業以外は減らそう、いや、なくそうかとも悩んでいました。授業に出かけ、終わると研究室に戻り、部屋の扉を閉めて、ひたすら研究に没頭してはとも思いました(研究室の扉は開け放し、時には、学生の談話室代わりに使われることもある)。学生と授業以外の接触は止めたほうが身のためではないかとも考えました。しかし、この考えは間違いであると悟らせてくれたのは、『おろしや会』を設立した加藤さんでした。東京から、強い援軍がやって来たという感じです。彼は、私がもぐりで出席していた、早大の山本俊朗先生のゼミでの先輩です。われわれの良きアドバイザーでありました。その加藤さんが、東京での高給の職場を捨て、この名古屋に来られ、心強くなりました。なぜなら、彼は、教師の鑑みたいな人だからです。その証拠は県大に代わって来たと同時に、この「おろしや会」を創ったことです。自分の研究だけでなく、学生への教育活動に対する情熱のほとばしりが、この会を生んだのだと確信しました。私の「名古屋ロシア歴」にこの会での活動が加わることは、光栄です。この会を盛りたて、協力することで、自信をなくしかけていた自分の教育観もいっそう改善されることと思います。
 
 

田辺三千広のホームページへ
 


私とおろしゃ会

原 豊美(愛知県立大学文学部社会福祉学科4年/おろしゃ会会長)



  「おろしゃ会」が結成されて早くも1年が過ぎた。何か楽しくロシアに触れることはできないか、という軽い気持ちで始めたもので、最初は4人だったこの「おろしゃ会」もたった1年で定期的な会報の発行・遠足まで行うような本格的なサークルになりつつある。これも加藤先生のご尽力のたまものだと思う。
 さて、私がロシア語を履修しようと思ったきっかけは、今まではもっともらしい理由をつけて満足していたが、本当は実に些細なことからである。
私は通学の大半を電車の中で過ごしている。電車の中には様々な吊り広告があるが、比較的数が多いのは英会話学校と旅行会社である。その中で特に私がよく目にするのは、英会話学校の広告だった(とくに英会話を習いたいというのはさらさらないのだが)。英会話学校といっても最近は英語だけでなく、フランス語・ドイツ語・スペイン語・イタリア語など各国の言語を広く学べるようになった。中国語・韓国語もある。そういった広告を眺めているうちに私はあることに気付いた。ロシア語はどの広告を見てもないのである。豊橋中日文化センターの講座を見ても、外国語講座は中国語・韓国語・フランス語・ドイツ語・スペイン語・イタリア語の各講座はあっても、ロシア語講座はないのである。「これだ!」当時の私はピンときた。せっかくの大学生活、他の人があまり触れることがないことをしてみたら気持ちいいんじゃないか。ぜひロシア語を履修してみよう、と。
この些細なきっかけが私がロシア語に興味を持つきっかけとなった。「なーんだ、不純。」と思われるかもしれないが、私の場合、こうしたあてにならないきっかけが長続きすることがよくある。あのきっかけから3年間、自分でもよく、ロシア語だけはがんばったし、長続きしていると感心している。おそらく、自分の専門科目よりも時間と労力を費やしてきたんじゃないだろうか。
そんな私が4月から4年生になる。もうこのロシア語:専門科目=3:2という力配分からロシア語:専門科目=2:3という配分に変化させなければならない。私の本分は社会福祉であってロシア語ではない。しかし、せっかく3年間ロシア語に力を注いできたのだから、卒論ではなにかロシアと絡めることはできないかと目下、思案中である。
3月8日は豊橋ハリトス正教会への遠足ということでとても楽しみにしている。遠足といっても私にとってはどちらかというとお出かけといった近さにあるようだ。豊橋に教会があるのは知っていたが、ロシア正教の教会だとは知らなかった。試しにバイトの同僚数人に聞いてみたが教会は知っていても何の教会か知っている人はいなかった(残念)。身近なところをもっと探ってみると意外なところでロシアに辿り着くことがあるかもしれない。
あと残り1年となった学生生活の中で、今以上にロシアに接することができるのはもうないのかもしれない。しかし私の中では3年間ロシア語を続けてきたこと、おろしゃ会のなかで活動できたことは大きな誇りとなっている。
 
 


Росная Россия 露の国・ロシア

平岩 貴比古(愛知県立大学文学部・日本文化学科2年/おろしゃ会企画・会計)


クイックボルシチ

NHK教育テレビに「きょうの料理」という番組があるが、その中で「20分で晩ごはん」というのを時々放送している。文字通り20分で夕食を、しかも3〜4品も作ってしまおうという企画である。一切作り置きは使わず、ストップウォッチで制限時間を厳守させる始末で、非常に面白い。
先日の放送を見ていたら、このコーナーの献立が何とロシア(正確に言うとウクライナ)の代表料理・ボルシチだった。短時間で作るため、その名も「クイックボルシチ」である。名前が違うので何か材料が違うのかといえば、別に何も違わない。ただ早く作るだけである。赤ビートの「赤さ」にはさすがに驚いたが、これなら自分にも作れそうだ思った。ちなみにボルシチは私の好物の一つである。もっとも、こだわるロシア人にこのレシピを見せれば、きっと「邪道だ」と言って怒られるのだろう。

江戸っ子ロシア

自分はまだロシア語学習中の身である。ところで、後期のロシア語初級の講義で「過去形」によって命令文を作ることを学んだ。動詞を過去形に活用させると、命令文にできる場合があるのだ。例えば「パショール!(=行け!)」という文は、動詞「パイチー(=行く)」を過去形にしてできている。命令の意を含んだ過去形ということに関連して、私は日本の江戸ことばにおける一用例を連想した。「行った、行った!」という言葉である。面白いことに、この日本語もロシア語と同く過去形によって命令体が成立しているのだ。
スラブ諸語と日本語は言語体系が異なるため、もちろんこれは偶然の一致に過ぎない。しかし、学術的根拠を欠くとはいえ、日露文化の意外な共通点を表しているものとしては大変興味深いものであるともいえる。「パショール!」という言葉を翻訳するときには、われわれ日本人には「行った、行った!」のほうが腑に落ちるのだ。

地球の歩き方

 図書館へ足を運ぶと、誰しも必ずといってよいほど「今月の新刊図書」はチェックしてしまうものだ。今年のはじめ、名古屋市立図書館の新刊の中に『地球の歩き方・シベリア編』(ダイヤモンド社)が入っているのを見つけたので、早速それを借りることにした。私は旅行ガイド読むと、頭の中で「擬似旅行」をしてしまう。雪深い白樺林のグラビア写真に見とれ、シベリア鉄道に思いを馳せながら、ロシアより暖かい名古屋の冬の一日を過ごした。これ一冊を読んだお陰で私はすっかりシベリアに心を惹かれてしまい、いつか現地に赴いて、中央アジア系の旧ソ連人と間違えられるほど達者なロシア語を話すことができたらと、いささか野心を抱いた。今はただ学ぶのみである。
 そして、この書籍の貸出しを継続しようと名古屋市立図書館に行ったときのこと。次の貸出し予約がなければ継続して借りることができるのだが、ロシアの旅行ガイドに予約など入っているわけがない。男性の司書が私に向かって言ったのだった。「シベリアは誰も呼んでいないようだね。」 結局のところ継続貸出しは受けられたのだが、嬉しくもあり悲しくもあった。
 


「おろしゃ会」副会長を去るにあたって
−そして、続・樺太(サハリン)考

 

愛知県立大学大学院 (国際文化)修了 渡辺俊一(おろしゃ会前副会長)


 
 一昨年の末、修士論文のテーマを「アメリカにおける日系人差別」、「アイヌ」、「樺太」と迷っていた頃、アイヌにせよ樺太にせよ「ロシア」が関わってくるので、大学にロシア関係の先生がいるのかと探っていくうち、「文化人類学」の教授より新しい先生が来ていると聞き、早速連絡をとった。電話口から聞こえる声は元気で、妙にはりきっていて、明るい印象であった。その人こそ「おろしゃ会」の発起人・加藤史朗先生であった。年が明け、4月初めに学生食堂でスベトラーナさんと「おろしゃ会」のチラシを配っている加藤先生に声をかけられ、「おろしゃ会」と私の付き合いが始まった。
正直いって、これまでの私のロシア観は最悪であった。幕末から日本の北方領土−樺太、千島(アイヌ語でクリル)列島、カムチャツカ(アイヌ語・カムサッケが語源)南部を侵略し日本人を追い出してきた歴史があり、さらに私を含め日本人のロシア観を決定的に悪くしたのが、第二次大戦末期から戦後しばらく続いたソ連軍による満州、樺太の日本人、とりわけ非戦闘員への残虐行為であった。これは、ドイツ戦線における赤軍によるナチスへの報復行為を、そのまま極東にも及ぼしたものである。独ソ不可侵条約を破られ、ロシア深く侵攻され多くの犠牲者がでたヨーロッパ戦線と一緒にされてはかなわない。1941年12月、レニングラードをドイツ軍に包囲され、モスクワが見える位置まで侵攻され、ソ連がもはや風前の灯火となった時、ドイツ外相リッペントロップは再三にわたって日本に参戦を要求した。だが日本政府は日ソ中立条約をたてにそれを断り、そのお陰で極東からシベリア軍団が馳せ参じ、ドイツ軍は形勢を逆転され、ソ連は救われたのである。第二次大戦の間、ソ連領土を1インチも侵略しなかった日本に対するソ連の苛酷な仕打ちは、日本人の心に消し難いトラウマを植え付けたのである。これは、ロシア人が悪いというよりスターリン個人(彼は日露戦争の報復と述べている)及びソ連共産党による戦争犯罪であった。
日露戦争後、多くのロシア兵捕虜は四国松山(私の故郷の近く)に収容され、四国の人々の暖かいもてなしを受けている。その厚遇は前線で戦っていたロシア兵にも知れ渡り、日露戦争末期には多くのロシア兵が「マツヤマ」と叫んで投降した。第二次大戦でロシアは日本に対し、恩を仇で返す行為を行ったのである。第二次大戦後、国際法上、ただちに満州、樺太、千島の日本兵捕虜を帰国させる義務があったのだが、スターリンは北海道北部の占領をトルーマンに拒否された腹いせに、60万の罪のない日本軍将兵を極寒のシベリアで強制労働させ、そのうち6万人を死亡させている。20世紀半ばに起こったこのようなソ連による野蛮な行為は許されるべきではない。しかし、なぜかソ連代表は東京裁判において、被告席ではなく検事席にいたのである。
私自身ソ連の残虐性は引揚者から直接聞いており、最近までソ連及びロシアに対してアレルギーないし偏見を持っていた。それが「おろしゃ会」の活動を通じ、ロシア人個人と接触するうち、いつのまにか「偏見」が溶解するのを感じた。これこそ「おろしゃ会」の目的であり偉大な存在意義であると思う。日露の歴史を振り返ると、我国固有の領土に侵攻した恥ずべき歴史をロシアが持っているのは厳然たる事実であるにしても、18世紀に来日したラックスマンや19世紀半ばのプチャーチンらの丁重で礼儀正しい態度に好感を持った日本人は多かったし、威圧的態度であったアメリカのペリー提督よりもロシアに期待する空気もかつては存在したのである。そしてなにより日露は17世紀から隣国であり、太平洋を隔てたアメリカよりも、将来的には緊密な関係を持つようになる可能性が大である。ただし、1945年8月18日(ソ連がわが占守島に侵攻)までは、占守(シュムシュ)島からアリューシャン列島(アメリカ領)のアッツ島までは遠くはなく、日米も隣国であった。実際1930年代リンドバーグ夫妻がアラスカ〜アリューシャン〜千島(ウルップ島)を経て北海道から霞ケ浦まで来ている。これはアメリカから日本に至る最短コースであった。かつて北千島の占守島に住んでいた郡司成忠氏一家のエピソードとして、幼い娘がカムチャツカ半島南端のロパトカ岬を指さし、「父ちゃん、アメリカが見えるよ」といった時、父が「あそこに見えるのはロシアでアメリカはもうちょっと先だよ」と答えたというものがあるが、そのことは、日米が近かったことを表している。
日露は確かに隣国だが、もっと近くするため樺太(サハリン)の南部を返還してほしい。これこそ日本人のロシアに対するトラウマを治癒する特効薬である。樺太は新石器時代から縄文人(のちの樺太アイヌ)が住んでいた証拠(遺跡)があり、ロシアが本格的に囚人を入れ始めたのは1856年クリミア戦争の後からである。1855年に日露修好条約を結び、樺太の国境は画定せず、「是まで仕切り通り」つまり日本の樺太における実効支配地域が認められており、その北域はアイヌ系日本人の北限北緯50度ないし、1808年松田伝十郎が地形を見定め、日清の国境とした北緯52度であった。プチャーチンも「樺太において日本人が住んでいるところ及び、幕府が調査したところはロシア領とは思っていない」といっている。そのため、幕府は北樺太へのロシア人進出にもいちいち抗議していたのである。尚、この条約をもって樺太(サハリン)が日露雑居となったとする誤った歴史解釈があるが、この条約締結時点でロシア人のサハリン居住者は1人もいなかったことを強調しておきたい。日露雑居が始まったのは1858年アムール以北を清国から奪ったムラヴィヨフが、樺太もサハリン・ウラ・アンガ・ハタ(満州のツングース系の民族が使っていた言葉で黒竜河口の山という樺太の呼び方)という言い方から勝手にロシア領として軍隊を派遣して、哨所をつくり軍事的圧迫を加え南下していった結果であった。それゆえ、明治初年の樺太はロシアの軍人と日本の役人、商人、漁師、の雑居であった。幕府が樺太防衛のため、東北諸藩のサムライたちを非常な困難(寒さや食料不足からくる壊血病)の下でも派遣していたのであるが、明治政府は、無用な衝突を避けるため樺太に軍隊を派遣していなかったため、早晩ロシアに追い出されるのは明らかだった。彼我の軍事力の差は圧倒的であった。1875年の北千島との交換条約が不平等条約であったことは、レーニンも認めている。
従って1905年のポーツマス平和条約での南樺太取得は「返還」であるといえる。ロシア皇帝ニコライ二世は、駐露米大使マイヤーに「かつて日本領であったサガレン(樺太)を二分しその南部を日本帝国に譲渡することに異存はない」と述べている。また、明治天皇は「朕の御世に失った領土が朕の御世にかえった」と大変お喜びになったという。1925年の日ソ基本条約でもソ連は、ポーツマス条約の9条―北緯50度以南の樺太を日本に永遠に譲渡するという条項を認めている。ロシアはただちに樺太(サハリン)を返還すべきである。返還がロシアのプライドを傷付けるというなら、戦争で日本が取得したのではなかった北千島(クリル)を無条件で返還し、ロシアはクリルを取り戻すため南樺太と交換すれば良いのである。ロシアにとり、オホーツク海から太平洋に出る確実な海峡が必要であり、千島アイヌがいた北千島も本来日本領であったが、日本人にとり樺太の方がなじみ深いのである。かつては、樺太で隣り合って仲良く暮らしていたのである。返還後はアイヌ語やロシア語を第二公用語とすれば、いままで通りに暮らせるはずである。日本領に復帰すればサハリン住民ははるかに良い暮らしができるであろう。
最後に、とても有意義な活動のチャンスを与えてくれた加藤先生に感謝したいと思う。漫画『ガキデカ』の「こまわりくん」を連想させる、短躯ではあるがユーモラスでかわいい風貌の持主で、バイタリティーにあふれ、いつもロシアを愛してやまない人物である。(かなりせっかちではあるが)加藤先生の活動は将来の日露関係に必ずや貢献するであろう。次ぎに明徳短大の田辺先生は本当に面白く、その発言は少々危ないところもあるが、ユニークで飽きさせない真理をふくんでいる。酒がはいるともっと面白くなり、愛用の登山帽はハゲを隠すと同時にゲロをうけとめるためのものらしい。加藤・田辺の漫才コンビは絶妙であり、多くの会員を楽しませてくれた。現会長の原さんは古き良き日本女性を彷彿させる「おろしゃ会」のアイドルである。外見はブリヤート・モンゴル的である(セルゲー・ツァリョフの弁)。初代会長の各務さんは県大一の美人で「おろしゃ会」の華であった。企画・会計の平岩君はとても信頼のおける頑張り屋で、彼がいなければ遠足はとても実現できなかった。感謝のみ。その他、素晴らしいロシア語の先生やロシア人と出会った。皆さんに、どうもありがとう−スパシーバといいたい。ますますの日露関係の発展を祈って!  3月28日 小雨


豊橋ハリストス正教会を訪問して
 

石川久美子(名古屋明徳短期大学国際文化科2年)


 
  先日初めてこの遠足に参加したのですが、普通では見ることができない教会の中などを拝観でき、貴重な体験ができて参加してよかったと思いました。
 私は正教会のことは田邉先生の授業で教わったことぐらいしか知らないので、説明を聞かないとわからなかったのですが、先生達はロシアのことを専門に勉強されているだけのことはあって、説明なしでもそれぞれのイコンの意味などを知っていました。そういうことを事前に知っていると、その建物をより深く楽しめることができるので先生たちが少しうらやましかった。今回の遠足は自分が思っていた以上に得たものがあり、本当によかった。機会があったら次回も参加したい。

豊橋ハリストス正教会前で


おろしゃ会第2回講演会記録
1999年12月14日午後4時から6時
愛知県立大学H410教室


日露仏対照現語学

講演記録

林  迪義(愛知県立大学外国語学部フランス科)

 

講演中の林先生

 私が今日お話ししようと思っていますことは、ロシア、フランスについて何かまとまった情報を提供することではありません。私はロシアに1年なり2年なり生活したことはありません。1980年代、旧ソビエト連邦に二回旅行したことがありますが、いずれも旅行会社が用意したツアーで、一回目はモスクワ、レニングラード、キエフ、二度目はコーカサス(カフカス)地方にいきました。滞在した期間はあわせて四週間でしたので詳しい様子は分かりませんでした。ただ二つの旅行で経験したことは、いろいろな人に出会って、心を通わせることができたということです。それ以前にフランスに滞在した時にも同じことを経験しました。日本、ロシア、フランスは、それぞれに違いがありますが、人と知り合い、友達になりたいという願いはどこも同じでした。そういうわけで、人との出会いを中心にお話ししたいと思います。「日露仏対照現語学」という表題を見て、奇異に思われる方がいらっしゃるかも知れません。「現語学」の「現語」とは心を現す言葉という意味に解釈して下さい。

 私がロシアに旅行したのはどういう動機からかと言われれば、当時はソ連の時代でしたが、ソ連が好きだったからではなくて、ロシアが好きだったからです。それは子供の頃見た二つの映画が大きく影響しています。一つはウラル地方の民話をもとにした『石の花』という当時まだめずらしかったカラーフィルムです。若い職人が石の洞窟の中で花の彫刻を作りあげようとする物語で、幻想的な美しさに満ちた作品でした。同じ頃、『せむしの子馬』というカラーアニメを見ました。登場人物が移動する地域が広大で、ペルシアの物語の影響を受けていると思いますが、映像のすばらしさも圧倒的でした。夜の空から3頭の黒い馬が金色のたてがみを振りかざして舞い降りてくる場面などにとてつもなく感動したものです。ロシアが私を引きつけたものは一方では民衆の芸術であり、他方では広大な自然でした。しかし、青年期にフランスへの関心の方が大きくなって、大学は仏文科に進み、大学院を出てから、フランスに行きました。以下、順を追ってお話します。
今から26年前になります。1973年の夏、フランス語教員の研修でモンペリエの大学に行きました。日本の大学教員20名と一緒でした。モンペリエというのはマルセイユの西の方にある大きな町ですが、そこで初めてフランスの地中海地方がどういうところであるかを知りました。それは日本からはとても想像できないもので、空気は非常に乾燥していて、干渉を受けない太陽の光が差すように降り注ぐ。午後、部屋の外へ出るとあたりは目もくらむようです。花の色が輝くように鮮やかで、遠い景色が視界の彼方まで見える、すべてがはっきりしていて、曖昧さがない。そういう風土でありました。週末のバス・ツアーで闘牛場のあるニームやアルル、その他ローマ時代の古い遺跡などを見て回りましたが、この時の経験が2年後、学生を連れて南フランスに行くきっかけとなりました。
 1975年にふたたびフランスへ行くことになったのですが、この旅行は当初、学科の同僚が夏の語学研修に学生を連れていくために計画されていいました。ところが同僚が病気で入院してしまったので私が代りをつとめることになったのです。ピレネー山脈のふもとにあるポーという町で三週間の研修を受けてから地中海沿岸を回ってパリに戻るという約1月の滞在日程でした。ポーの町では日本の甲府市と姉妹都市の関係が結ばれたことから祝典の準備が進められていました。私はその手伝いを頼まれて、ポー市の役員と甲府市の使節団との仲介役となり、いくつかの行事に参加しました。夏期研修に来ていた連中とも、サイクリングに行ったり、晩にカフェーや場末の居酒屋へ行ったり、楽しい時を過ごしたものです。しかし、ポーでの滞在が無事にすんだのは、研修センターの主任看護婦とモロッコの教員グループのお陰でした。この年は年度始めから大学で年輩の同僚が亡くなるなど、いろいろあって、だいぶ消耗していたのです。日本を出発してからもよく眠れずにいて、どうにもやりきれず、ポーの研修センターの医務室に行って不調を訴えました。看護主任から精神安定剤を与えられ、その場で隔離室に行って休むように命じられました。誰もいない隔離室のベッドで横になっていますと、上の方から大きな歌声と手拍子が響いてきます。そのうち、どうにも我慢がならなくなって医務室の看護婦に禁止するように求めましたが、彼女は笑い顔で「私はポリスではない」と言います。そこで私はうるさい部屋まで行って、ドアを叩きました。中では五・六人の男が床に座って酒盛りの真っ最中でした。とたんに私は腕を取られて、床に座らされ、結局宴会の仲間にされてしまいました。それ以来、不眠症も消え去り、毎晩彼らと外出することになったのです。
 この二度目のフランス旅行の時にモスクワ空港を経由したことが再びロシアへの関心を引き起したことは確かです。しかしロシアに行こうと思った理由は、それとは別に、最初にフランスにいった時に日本とヨーロッパのあいだを10数時間で飛び越えてしまったことが納得できなかったからです。地理的・文化的差違の飛躍です。大陸を横断すれば10日余り、南満州鉄道を通ってハルピンから一旦アムール河にそってイルクーツクに出るという旅程を思い描いていました。子どもの頃、父からしばしば話を聞いていたせいです。ロシアに行くことは大陸の大きさを実感できるだけでなく、アジアとヨーロッパのあいだの文化的差違を段階的に確かめることができるように思っていたのです。 それから6年後、1981年の夏ですが、新潟からソ連の客船プリアムーリエに乗ってナホトカに向かいました。モスクワ、レニングラード、キエフを訪ねるツアーでした。前日の朝、名古屋を出て、新潟で一泊し、日本海を渡り、船の上で一泊、ナホトカに着いて半日過ごし、夜行列車で翌朝ハバロフスクに着く、そこでまた一泊して、飛行機でモスクワへ向かう行程です。モスクワ到着は名古屋を出てから4日後でした。ナホトカとハバロフスクに滞留したせいか、モスクワに着いた時にはさほど異国の感じはしませんでした。
 このツアーにはハバロフスクの姉妹都市である新潟の使節団が同行していまして、ハバロフスクでは歓迎式やレセプションに招待され、午後、学校見学やファッションショウまでありました。モスクワでも民族舞踊と魔術の公演などのもてなしを受けました。しかし、この旅行で興味深かったことは、同行した人たちが様々に個性的だったことです。新潟の年輩の婦人のなかにはホテルの売店にいくとき、白い割烹着を着て、ポケットにがま口を入れて来る人がいました。そうしないと買い物をする気分が出ないのだそうです。それを見ていい顔をしない紳士がおりました。この人は食事中うつむき加減で何かぼそぼそとものを言い、隣り近所から甲高い笑い声が響きますと渋い顔をして「ああいうのはヨーロッパではひんしゅくものですぞ」と仰る。ナホトカへ向かう船の中で知り合った坂田さんは70を過ぎていたろうと思いますが、至極元気で、青いゆかたを着てバーに来ていました。バーはダンスホールの一角にあって、坂田さんは隣りにいた私にグラスを勧めてきたのです。すでに大分入っていたらしく上機嫌でバーテンダーのロシア人女性の美しさを褒め称えておりましたが、次ぎに出会ったのはハバロフスクへ向かう列車の中で、坂田さんは食堂車からの帰りに自分の車室がどこだか、てんで分からず、よそのドアをあちこち叩いていましたので、添乗員に番号を聞いて送り届けたのでしたが、そのとき添乗員から聞いたのは、周りの人にかなり迷惑がられていて、グループから外せと言う声まで出ていたということでした。しかし、当人は平気なもので、モスクワの町では毛皮の帽子にルパシカを着て、杖をついて歩いていました。それが晩になると跳ねるように活発になるのです。この旅行は二週間で三つの都市を見て回るという忙しい日程でしたので、10年以上経った今、何を見たかすべてを憶えていませんが、サンクトペテルブルグだけは別格で、「全市が芸術品だ」といわれるほど完成した美しさを保持していたことは確かです。西洋の建築美術の粋を集めた都でしたが、それはロシアの中のヨーロッパでもあったのです。それ以後私の心はペテルブルグよりもずっと古いキエフ、そしてキエフよりもずっと南のコーカサスに傾いておりました。
 コーカサスを訪れたのは、2年後の1983年の夏でした。最初にアゼルバイジャンのバクーに行きましたが、驚いたのは油田地帯にあるこの町の貧しさです。建物は煤煙で汚れ、人々の服装は粗末で、年老いたお婆さんが大きなずだ袋を背負って歩いているという具合です。翌日の朝、町の市場に行きましたが、別に珍しい物もなくて、帰りかけますと、そばの青年に肩をたたかれました。指さす方を見ますと、果物屋の主人が自分たちの写真を撮ってくれと合図していました。一枚取りますと、隣のおばあさんの写真もと頼まれました。撮り終えると、果物屋の主人は葡萄を何房も包んでよこします。そのまま受け取れずに、たばこを置いていきましたが、善良な人たちでした。次ぎにアルメニアの首都エレバン、バスが近代的なホテルの前に着きましたが、部屋の支度はまだで、待つこと30分余り。ホテルの向かい側を見ますと、板塀が500メートルほど連なっています。その後ろには粗末なバラックの群が広がっているのです。私たちが待っていたあいだ、同室の柳生君、彼は若い左官職人でしたが、葡萄の房を手にさげてバラックの方に歩いていきます。遠慮なく木戸を開けて中に入っていきますので、何をしに行ったのかと思って私も後から木戸を開けてのぞいてみますと、黒っぽい服を着た若い娘さんが箒で地面をはいていました。目が合うとにっこり笑います。日本でしたら警戒心をもつでしょうが... 柳生君はそばの水道で葡萄を洗っていました。コーカサスの人々は屈託がなくて、山の方の観光地から帰るときに売店の売り子や作業員が私たちのバスに便乗してきて、親しくなったり、遺跡の修復工事の作業員からワインを振る舞われたり、ビアホールで隣の人たちから何杯もビールをご馳走になったりという具合でした。
 グルジアのトビリッシを最後に帰途に就いてモスクワに一泊しました。夕方、西郷幽泉さんという針の名医と外出しました。この人はトルストイのような立派なあごひげを生やして、いかにも東洋の医師という風貌をしていましたが、地元の人がベンチに腰掛けていると丁寧にお辞儀をして一緒に写真を取るというような、気さくな人でした。ホテルのドアマンにビアホールの場所を教えてもらって、それを目当てに出かけたのですが、ビアホールはビルの地下にありました。ドアーをあけると正面奥に窓口があって、そこで空のジョッキとつまみを受けとります。チーズ、ハム、えびの塩ゆでがありました。ビールは自動販売機で注ぎます。窓口で受け取ったジョッキは茶渋のような汚れがついているうえ、縁が欠けています。壁に沿ってしつらえたカウンターは木の板を張り合わせたもので、隙間に黒い垢がつまっています。山のようにたまったえびの殻をおばさんがかたづけていましたが、もっている布巾は黒々と汚れていました。近所にはえびを口に含んでは床にむかって殻を吐き出している人がいます。西郷さんは写真機を手にしていましたが、「こんなところで写真取ったら袋叩きに会うかな」とたじろいでいました。別に険悪であったわけではなくて、なりふりかまわないところだっただけです。たばこが切れていましたので近くの若い男女の所に行って一本求めました。1本取っても、もう1本取れと箱を上げます、3本目をとっても引っ込めない。しかたなくライターを相手の胸のポケットに差し入れて、ビアホールを出ました。そこからソビエツカヤ・プローシャッチという広場に出て噴水を見ているあいだに西郷さんを見失ってしまいました。近所には結婚式を終えたカップルを囲んで15・6人の人たちがいて、記念写真を撮っていました。見ると西郷さんが新郎新婦のすぐ隣に立っていたのです。
 コーカサスの旅では、行く先々でいろいろな人に出会って、歓びを交すことができました。西郷さんが「毎日が幸せで、幸せで」と言っていたとおり、日本に帰っても、しばらくの間は近所の人の誰彼に出会っても好意が湧いてくるというほどでした。一般に休暇で外国に旅行することは楽しいことで、グループで行けば、なおのこと楽しいことが増えるものです。ところが、外国に長いことひとりで滞在するとなると、これはまた別で、日常の現実から逃れることはできません。最後にフランスに行ってから20年経った1995年、今度は一年間パリにひとりで生活することになりました。愛知県立大学の国外研究員制度を利用して頂いた機会でした。 20年ぶりに訪れたパリは見るもの全てが新しく、壮大な宮殿や噴水、セーヌ河にかかる立派な橋、見事な装飾をもつ19世紀の住宅など、しばらくの間はそういうものに見ほれていました。しかし、美しい景観にかかわらず、パリの町には言いしれぬ寂しさが漂っていたのであります。繁華街にレストランに囲まれた広場があります。店の前に何列ものテーブルが並んでいて、夕方には満席の客でにぎわいます。ところが、そこに沸き立つ笑い声も、人を呼びあう声も聞こえません。人々はひそひそと語りあうようにして、テーブルごとに自分たちだけの空間を作っているのです。ある日本女性を市内に案内したとき、「こちらの若いカップルははしゃぐということがないですね。こうやって人々が街角の広場に集まっていても一体感というものがない」。そう感想をもらしていました。また、イタリア人の友人と大きな公園に行って、子供の遊び場の近くに休んでいたとき、 友人が、ふと気付いたように「あれだけ子どもが集まっていれば、はちきれるような歓声があがっているのが普通なのに」とつぶやいていたことがありました。確かに、ブランコや滑り台に群がっている子どもたちのあいだから、元気のいい歓声は聞こえませんでした。
 日本人の女性が言った一体感というのは、一つのキーワードです。フランス人がグループを好まないということはありません。自分たちの利害が一致する時にはデモ行進やストライキなど、容易に集団行動に出ますし、それに実に様々な趣味のグループが活動しています。人々の間の一体感というものは親密な、家族的な関係の中に生まれるものですが、それではフランス人が家族を形成する過程、つまり男女の関係はどうなっているのか、そう思って注意してみますと、統計調査では18歳から24歳までの若い人たちのあいだで結婚しない共同生活が一般化していると指摘されています。互いに家事に関わらずにいることが多く、時にはそれが40才くらいまで続いているということです。カップルが長続きしない、そして互いに相手を変えることができるようにしているということです。パリの小学校ではクラスの半数が片親だといわれています。小学校は保護者が子どもの送り迎えをしますが、学校の終わる時間に校門の前にいる男性の多さに驚きます。むろん共働きのせいもあるでしょうが、しかしパリでは中年男性の半数は独り者だと言われています。実際、公園のベンチや喫茶店に女性が一人で座っていると、交際を求められるということをよく聞きます。男女交際の斡旋広告が多く、地下鉄の通路にも結婚案内所の大きなポスターが貼られています。人々は連れ合いがいないまま年をとっていくことに不安を感じているにちがいありません。ラジオで人生相談の電話受付のことが報じられていましたが、相談員は年末に老人の自殺が増えるということを話していました。パリ在住の外国人は一様にフランス人の冷たさを口にします。しかし、フランス人は決して不親切ではありません。途上国から多数の移民を受け入れていますし、高い失業率にもかかわらず、彼らを排斥するような行動は報告されていません。他国への人道的支援も盛んで、阪神大震災の時にも見られたように「国境なき医師団」の活躍にはめざましいものがあります。
 もとより、人との接触が職場や団体、サークルなどに限られて、近所づきあいが少なくなり、家族の絆が弱まっているということはフランスだけのことではありません。日本でも、ロシアでも多かれ少なかれ進行している現象だと思います。フランスの社会では孤独を生み出す原因に個人の自由性が大きな比重を占めているとすれば、日本では個人が企業や学校など、共同体の中に取り込まれる傾向があります。学校に入るときには入学式で迎えられ、去るときには卒業式で見送られる。それが大学でも行われています。知らない者同士の集まりであっても一日行動を共にすれば一体感が湧いてくることも珍しくありません。一方、こうした個人と全体との調和とは別に、個人が集団に依存し、他人の評価で自分を考えるという傾向もあります。例えば、女子高校生が混んだ電車の中で老人に席を譲ろうとしたとき、何も言わないので、そばにいた青年がそこに腰を下ろしてしまった。一緒にいたお父さんがそれを見ていて、娘が席を空けたのは向こうの老人のためだと青年に注意した。後でお父さんが娘に「なぜお年寄りに一声かけなかったのか」と尋ねると、大勢の人の前で大きな声を出すのが恥ずかしかったから、それに自分がいいことをしているのを宣伝しているように見られるのもいやだったからだと答えたという話があります。老人に席を譲ったことを自慢したわけでもないのに周囲からそう見られていると思い込むのはどうしてか。それは不特定多数からどう思われるかということを初めから気にしているからでありましょう。そして、それは裏を返せば自分が他人からこう思われたいという願望があって、それが個人の行動を制約しているという事実です。そうなりますと、人に評価される部分にとらわれやすく、他者についてもまた、しばしば優劣の評価をしてしまうということになりがちです。あるがままの自分でいるということが困難であります。学業成績や資格でもって自分が評価されてきた、そのなかで、それに代わる価値観を見いだすことがむつかくなっているのかもしれません。

 「無為自然」ということを主張した老子は「人が気にすることをことごとく気にするなら、きりがない。人はみな誇らしげに何かを成しているが、私は一人隅にいて何もできない。ただ大自然に養われている」と言ましたが、『道徳経』のなかで、この章は「学を絶ちて憂いなし」という文言で始まっています。老子が「学」と言っているのは、「あれがいい、これがよくない」という評価にこだわることで、そういうこだわりを捨てて、心のわずらいをなくせと言っています。ふりかえって、ロシア旅行で知り合った新潟の坂田さんやモスクワのビアホールの人たち、コーカサスで出会った人々を思いますと、彼らはありのままでありました。生活は貧しくて着ているものも粗末でしたが、あくせくすることなく、おおらかでありました。また、人から白い目で見られていても、さして気にもとめず、自分が目立つとも思っていない、そういう人たちでした。
 パリに滞在していた期間の終わりに大学が夏休みに入りました。宿舎の友人たちは国に帰ってしまいましたが、いくつかの機会があって新しい知り合いができました。その中の若い男女二人が私が帰国した次の年に日本にやってきました。女の子の方は私の娘の下宿に泊まっていきました。夜を明かしておしゃべりをしたのが楽しかったらしく、私の娘にフランスに来るように言っていましたが、そのまま時がたってしまいました。いろいろな人と出会って、友情が結ばれるということは仕合わせです。加藤史朗先生と出会ったことから、ここでお話しすることができたことに感謝いたします。ご静聴ありがとうございました。

講演会での記念撮影




懇親会風景

   
  会友の衛藤恵成氏と各務さん、鈴木さん         ガウハルとミハイロワ先生       
 
 
 
 


3回エクスクールシヤ
2000年3月8日豊橋吉田城址・正教会・梅林)



 

 

                   豊橋城址にて
 
 
 
 

   

豊橋正教会前にて              田邊先生と平岩 いつものポーズ
 
 

鐘楼に上がり鐘の音を聞く(耳を塞いでいるのはオクサーナと渡邉)

梅園で団子をほうばる乙女たち(左から原・森田・鈴木・オクサーナ)
 


あとがき

 「はじめに」の中で、「走馬燈」のような一年と書いたが、おろしゃ会のメンバーの動静をお知らせしよう。もっとも、なかに自分はもうメンバーではないと考えている人がいたら、ご容赦願いたい。
 まず、初代会長の各務永都子さんはこの春、県大を卒業、JRホテル・アソシエで新人研修のシゴキを受けている。初志を貫徹し、名門ホテルへの就職が決まったわけだが、先日の電話では、研修はかなりチェジェロー(ハード)で、疲れてしまい休日もほとんど外出しないということだ。セルゲイ・ガルキンは桜美林大学へ、オクサーナ・ミハイロワは立命館大学へ進学した。二人はきっと日露間の「偉大な橋造り」になってくれるだろう。
東大の中村龍二は、昨秋以来、エカテリンブルグ大学に留学中、なんとチェスの勉強をしているとか。原稿依頼のメールに対し次のような返信が来た。
…私2月の終わりから3月の初めにかけてフランスの大会に出ており、その後塩見氏、松尾氏、田中優毅君をエカテリンブルグに招待して、ここの大会に参加していたもので暇が取れずおりました。申し訳ございません。
エカテリンブルグにもやっと春が訪れてきた感じで、昼間になると最近は雪が解けて町中洪水のようです。
それでも夜になるとまだまだ氷点下なので本当の春はまだまだ遠いかもしれません。
ロシアの生活も後半に入ってきて、現在自分を捉えている感情は焦りばかりです。なにをあせっているのかは自分でもよくわからないのですが、チェス、ロシア語、勉強などに関して思うようにいかない自分に対して苛立ってしまいます。自分のなまけ癖に原因がある事はわかってはいるのですが…。
「人生はうたかたの夢。焦らず楽しめ」とメールを送っておいた。
筑波大学大学院の小林由紀さんは外務省内の対露支援委員会に就職。東大大学院の乗松享平は修士論文に全力をあげている様子。副会長の渡辺俊一さんは、愛知県立大学大学院の修士課程を終え、故郷の宇和島に帰り、極東ロシアの研究を続ける予定。京都大学の研究生になるかもしれないとのこと。ガウハル・ハルバエワは、名古屋学院大学における一年間の留学生活を切り上げ、3月31日にウズベキスタンのタシケントへ帰った。10月に名古屋大学の研究生として再来日するとのこと。多士済々、それぞれ多彩な将来を切り開いていってくれるでしょう。どこかでまた接点があることを楽しみにしています。(加藤史朗)
 

おろしゃ会会報第4号
2000年4月8日発行
発行 愛知県立大学おろしゃ会 代表 原 豊美(文学部社会福祉学科4年)
発行責任者 加藤史朗(外国語学部共通課程)
住所 〒480-1198 愛知郡長久手町熊張 愛知県立大学
電話 0564−64-1111 内線2914 ファクス 0564−64-1107
 

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