おろしゃ会会報第5号その1 2001年12月8日




 
 

2000年7月14日 原潮巳氏の講演会後、ロゴスキー前にて
 


はじめに

 
 おろしゃ会は創立後一年余を経て、ついに大学公認のサークルとなった。学生たちは、立派な学生会館2階に私の研究室よりも広く快適な部室を確保した。(これからは、「愛知県立大学おろしゃ会」で郵便が届く。)部室の戸棚にはミハイロワ先生や平岩君の熱意で、各種ウオッカの空瓶(ミハイロワ先生のロシア土産の1本は中身あり)、ロシアのポップスなどのCD、絵本、パレフ塗りの工芸品などロシアの文物が結構たくさん収蔵され、壁面には写真や巨大なロシアの地図が張られている。部室開きの時には、フランス学科の小柳公代先生も差し入れをもって駆けつけてくださった。ありがたいことである。夏休みには、ミハイロワ先生企画のツアーでおろしゃ会のメンバー三人(森田・日高・平岩)が初めてロシアの地を踏んだ。夏休みが終わって彼らから感想を聞くと、皆、異口同音に素晴らしかったと興奮未ださめやらぬ面持ちを見せながら語った。彼らの文章を是非読んでいただきたい。
 私はと言えば、今年はついにロシアの地を踏めなかった。予定では、夏休みに長縄さんをはじめとするロシア思想史研究会の面々と中国東北地方(旧満州)を訪ね、黒河からブラゴヴェシチェンスクに入る筈であった。しかしビザの不備でロシアを目前にして泣く泣く退却せざるを得なかった。黒龍江(アムール河)遊覧船上から指呼の間にブラゴヴェシチェンスクを眺め、川べりで遊ぶロシアの子供たちや行き交うロシア船の船員に手を振ったりした。下船の時、右手人差し指に疼痛を感じた。見ると蜂が喰らい付いているではないか。即座に「これはロシアの蜂に違いない!」と思った。右手の腫れ具合が「ロシア腫れ」とでも言いたいほど、酷いからである。これは誠に理不尽な感覚なのだが、ロシアに行けなかったという無念さにふさわしい確かな感覚に思われた。やけになって黒河の料理店で不味くて高いオロス料理を食べ、娜塔沙(ナターシャ)というクラブでオロス美人の踊りを見た。

黒龍江の船上からブラゴヴェシチェンスクを望む。中央の建物はプーチンの極東訪問のために新築されたホテル


2000年度「おろしゃ会」の亀のごとき歩みをご紹介したい。

  4月 ロシア語初級選択者は、昨年よりさらに増え、15人となる。
 

ロシア語を選択した動機を聞いてみると、司馬遼太郎の『ロシアについて』を読んで興味をもった/BSでロシアのニュース番組を見てやってみたいと思った/ドストエフスキーを原語で読んでみたいと思った/ロシアのスケート選手やトランペット奏者に引かれた/文字が面白い/希少価値がある、など各人それぞれの動機である(残念ながら入学式で配った「おろしゃ会案内」のビラを見たからという回答はなかった)が、皆とても熱心である。授業の始まる10分前には教室に来ている学生が多く、頼もしい。ロシア関係の映画が封切られると早速「オネーギンの恋文を見てきた」とか「シベリアの理髪師を見ましたか」などとメールをくれる学生もいる。1年生の前期試験でНесколько слов о  себе という課題に答えて、
Я люблю читать.Я  хочу читать<Идиот>   Ф.М. Достоевского
по-русски,  но еще неумею  читать. Я  буду   изучать  русский
язык  усердно!と書いた学生がいた。表現が素朴であるがゆえに刺激的で、教師冥利に尽きる答案だと感動した。
5月 おろしゃ会第4回遠足、犬山リトルワールドでロシアのサーカスを見る(平岩君の記事参照)。
7月 おろしゃ会第3回講演会と「ロシア料理の夕べ」。

フランス革命記念日の7月14日、「マルセル・プルーストとロシア・バレエ」と題するフランス学科原 潮巳先生の講演会開催(原先生の論文は次号に掲載)。その後、夕刻より名古屋駅前のロゴスキーで「ロシア料理の夕べ」を催す。原先生、小柳先生、田辺先生や学生たちのほか、名古屋在住の篤志家・外科医の加藤先生ご夫妻の紹介でドミトリー・トローシキン(名古屋大学大学院)、南保さんという青年、早稲田でのロシア語の恩師・安井亮平先生ご長男のご出席を得た(加藤先生と安井先生は、東海高校の同級生で、私にとっても先輩に当たる)。さらにマリオ・アソシエに就職した初代会長各務さんも駆けつけてくれ、大いに盛り上がった会となった。

ロゴスキーの一角で


8月 ミハイロワ先生のロシア・ツアー(森田さん、日高さん、平岩君の記事参照)。
9月 東海豪雨の当日、白河ホールでロシア音楽祭、ミハイロワ先生、加藤、日高さん参加。バラライカ奏者クレパロフ父子などと旧交を温める。大阪領事館のセルゲイ・ツアリョーフ、ロシアに帰国。
10月 部室開き(高木さんの記事参照)。ガウハル・ハルバエワ、ウズベキスタンより再来日。名古屋大学大学院に入学。

部室に小柳先生を迎えて

11月 モンゴル教育視察団によるロシア語授業参観。ゲル組み立て作業に多数のおろしゃ会会員参加(NSさんの記事と写真参照。)

 23日、平岩君と田辺先生、京都に第5回遠足の下見に出かける。
12月 第5回遠足、大津と京都見学予定。
 遅々としたまさに亀のごとき歩みではあるが、この会は、ともかくも歩んでいると思いたい。緩慢な前進であるがゆえに、「道草」という大切な文化を保持できているのではないか。
平岩君はモスクワ滞在中に私の畏友・天理大学の阪本先生のお世話になったという。食事や観劇に連れて行ってもらったらしい。おまけに彼は阪本さんに巻頭論文まで書いて頂くという「道草」ゆえの快挙をなしとげた。快挙といえば、新潟大学の中澤さんのロシアにおける学位取得である。若い人々へのメッセージとして「学位取得記」を書いていただいた。学生諸君の熟読を期待したい。「外国人に対するロシア語教育」に関する論文で「学位」を取得したユーラにも登場願った。彼の論文の翻訳は、単位互換制度を利用して県大に来ている県立芸大の江頭さんにお願いした。
「道草の達人」と言えば、わがスヴェトラーナ・ミハイロワ先生をおいてほかにあるまい。先生の「道草」は、いかにもロシア人らしいスケールの大きさだ。1ヶ月余りのロシア滞在中に、映画監督アレクサンドル・アダバシヤンにインタヴューをしたり、法華経露訳をなしとげ今は病床に臥すイグナトーヴィチ先生を見舞ったりと「道草」のスケールは「物差しで計りもならず」だ。先生のインタヴュー記事は、平岩君が翻訳してくれた。身びいきかも知れないが、学部2年生としては、上出来の訳だと思っている。
「道草」をすれば、悲しいことにも出会う。ミハイロワ先生と交友のあったミルヴィス先生がご逝去になられたという。ミハイロワ先生、芸大の教え子二人の「追悼の記」を本号に掲載し、謹んで哀悼の意を表したい。
最後に、日本人の中にもロシア人に劣らない「道草の達人」がいることを紹介しておきたい。井生 明君である。彼は、早稲田の98年卒業生で在学中、早稲田とモスクワ大学間の留学制度を利用して1年間ロシア留学をした。しかし、モスクワ大学にじっとしていることはなかった。留学期間中イラクに旅をし、ロシアのイスラム教のことを調べるといっていたのに、知らぬ間に今度はトゥバに飛んでチベット仏教のことを調べていた。巻末の紀行文は彼の卒業論文である。井生君は帰国後も肉体労働をしながら、資金を蓄えては、世界中を駆け回っている。日本では仲間と日本トゥバ協会を設立し、何回もトゥバからホーミー(歌手というのか奏者というのか?)を招き、この秋も演奏会で通訳を務める予定だ。彼に刺激を受け、私も昨年、ペテルブルクに仏教寺院を訪ね、ロシアにおける仏教に関心をもつようになった。教え子から教えられる、これまた教師冥利に尽きることである。
(加藤史朗)

 
 
 

ボーロフスク散歩
 

  阪本 秀昭(天理大学ロシア学科教授)

 
 編集の平岩君とモスクワで知り合った。彼の求めに応じて短文を草した。
 今年7月下旬から9月下旬にかけてロシア・東欧への短期留学の機会を得た私は、2ヶ月近くのモスクワ滞在中にフィールド・ワークの実施を思い立ち、結局プレオブラジェンスコエ墓地とロゴジスコエ墓地の古儀式派教会を始めとする教会見学をすることにした。双方の教会を三度ずつ訪問することになったのであるが、一番最後にロゴジスコエのポクロフ教会(ベロクリニツキー派)を訪れた9月2日に、ほとんど偶然にエリセイ・エリセーエフ氏と知り合った。同氏は沿海地方の古儀式派教会共同体信徒大会評議会書記で、ウラジヴォストークから一年の予定でモスクワに上京し、ロゴジスコエの教会で全ロシア古儀式派教会信徒大会組識委員会の広報・出版活動に携わっている若いジャーナリストである。彼はまたシベリアや極東地方で数次にわたって開催されている古儀式派に関する国際会議の組識者の一人でもある。この会議にはわが国から中村喜和先生も参加し、サハリンの古儀式派について報告を行なったりしている(1994年9月)。エリセーエフ氏の働く事務室に通された私は、さっそく彼から今後の国際的共同研究への参加、情報交換についての打診をうけた。私はできる限りの協力を申し出るとともに、彼から分離派関係の多数の出版物も受け取った。思わぬ事態への急展開であったが、これはそもそも私の目指していた方向でもあったので、私にとっては願ったりかなったりの出来事であった。さて、当日私はモスクワ州の南西に位置するカルーガ州にあるボーロフスクにある古儀式派博物館の話題を持ちだし、同館訪問の希望を述べたところ、エリセーエフ氏は同行を申し出てくれた。まことに有り難い話であった。
 約束の9月10日に私は、同氏とモスクワ市内の地下鉄の駅で落ち合い、キエフ駅から郊外列車にのってボーロフスクに向った。エリセーエフ氏は12歳の娘アレクサンドラを連れてきた。同氏の奥さんは仕事のためモスクワから幼い息子を連れてウラジヴォストークに帰ったところであった。さて、2時間ほどしてから、バラバーノフという駅で列車を降り、バスに乗り換えて約30分でボーロフスクの町に着いた。美しい松林の点在するなだらかな起伏の丘に位置する古い町である。人口約1万5千。この町に14の教会と一つの修道院があるという。革命前には住民の大部分が古儀式派信徒であった。私はエリセーエフ氏に案内されて町の中心部の一角にある博物館に入った。小さな建物で、カルーガ州歴史・地方誌博物館ボーロフスク支部という看板がかかっている。この中に古儀式派歴史・文化博物館がある。というより当博物館の中の一つのコーナーが古儀式派の数珠やイコン、聖典等の展示に利用されており、館員のヴィクトル・オーシポフ氏やその奥さん達が中心となって、「古儀式派歴史文化博物館」を組織しているようである。私は同氏やその家族にも紹介され、楽しい歓談の時を持った。オーシポフ氏は、『古儀式派―歴史、文化、現代』という学術雑誌の編集者も務めていて、私にも寄稿を求めてきた。同誌はほぼ年に一度の割合で出版され、発行部数は1,000部、現在第7号まで出されている。古儀式派の歴史や現代社会における古儀式派の研究に新風をもたらしている。同氏はまた「古儀式派:歴史、文化、現代」という学術会議の主催者の一人でもあり、分離派の研究の活性化に一役買っている人物である。たくましいあごひげを蓄えた、精力的な研究者である。博物館の見物を済ませてから私たちは、すぐ近くのモローゾヴァ貴族夫人とその妹のウルソヴァ公爵夫人の墓地に立ち寄った。モローゾヴァ夫人は画家スーリコフの有名な絵によって広く知られている17世紀後半の人物で、古儀式派の信仰に好意を寄せていたことからツァーリに疎まれ、やがて逮捕されてこのボーロフスクの古い遺跡の跡地に送られてきたのであった。彼女とその妹はこの地の牢に閉じ込められ、やがて餓死したと伝えられる。実は私は、彼女らの緊縛と死去の地がここであることを知らず、あらためてこの町の悲劇的な歴史に胸を打たれたのである。墓地は今では大きな建物の下にあり、建物の近くに慎ましい十字架の記念碑が建てられているにすぎない。しかし現在、この記念碑の近くに夫人を記念する聖堂を建てることが計画されており、私はオーシポフ氏からその設計プランを見せてもらった。すんなりと背の高い美しい建物である。これを欧米に居住する古儀式派の信徒らの援助によって建設するのだという。エリセーエフ氏が仲間の人と建築予定地で設計に関する論議に花を咲かせている間、私は彼らから少し離れて見晴らしのよい場所に移動し、眼下を流れるプロトヴァ河の美しい水辺と対岸の林の中に点在する民家を眺めながら、しばらく時の経つのを忘れていた。
       ヴィクトル・オーシポフ氏とともに。            モローゾフ夫人とウルソヴァ夫人の記念碑
     古儀式派歴史文化博物館の一角
           
 立ち去り難い気持ちを押さえながら、次に私たちはこの町の唯一の「生きている」古儀式派教会である聖母進堂祭教会に向かうことにした。町を貫く本街道からややそれた緑陰濃い台地に位置する同教会は、やはりベロクリニツキー派に属し、1990年に再興された。1992年5月に貴重なイコン32枚が盗難に遭うという被害を被りながらも、地元の信者の熱意に支えられて、今日まで修復工事を継続している。私は主任司祭のアルテモン・シェンドリガイロフ氏に紹介された。ちょうど日曜日の昼のお祈りの時間帯で、女性信者が3人ばかり祈祷の準備をしているところであったが、司祭は私たちを修理中の堂内に案内してくれ、修復状況を詳しく説明してくれた。小さな町であるが、古儀式派の教会がこうして力強く復活している様子に私は頼もしい思いがした。進堂祭教会に別れを告げ、次に私たちが向ったのは、古儀式派信徒団に形式上は返還されたが、いまだ何の手もつけられず、むしろもとのままの車庫か何かに使われている風情の無残な姿をさらしている教会であった。今世紀初頭の宗教が自由化された時代に建てられた新しい教会であるという。社会主義国家によって接収され、宗教とは関係のない用途に供されていたこのような教会は数が知れない。そのうち一部分だけが今日復興を遂げつつあるのである。
 最後に私たちが訪れたのは、ボーロフスクの町で最も大きな寺院であるパフヌーチエフ・ボーロフスキー修道院である。この修道院は歴代のロシア皇帝が参詣した15世紀以来の古刹であるが、それを有名にしているのは、古儀式派の祖とされるアヴァクームがその地階の牢獄に閉じ込められた古事に由来するものである。アヴァクームはメゼンスクからモスクワに連れ帰られ、さらにボーロフスクに流され、修道院の牢に入れられた。1666年から翌年にかけてのことである。社会主義時代はアヴァクームが繋がれていた地下牢を見学することが出来た。当時は牢獄は博物館の一部とされ、オーシポフ氏の奥さんがそこで働いていたという。しかし建物がロシア正教会に返還された今では、見学はかなわない。正教修道院が古儀式派の宣伝をするわけにはいかないということであろう。皮肉な話である。案内のエリセーエフ氏はそれを非常に残念がっていた。ところで同修道院はその名の通り聖パフヌーチイによって建立されたが、本堂には彼の遺骸が残されている。古儀式派のエリセーエフ氏はその遺骸に娘さんとともに深々と額ずいていた。正教内に分派が派生する以前の聖人に対しては、たとえ現在では正教の修道院に納められている遺骸であっても、古儀式派信徒は恭しく接するのである。
 修道院はプロタヴァ河と濠に囲まれた高台に立ち、要塞のような堅固な外壁が周囲を取り囲んでいる。草原の緑と松林、水辺の光景が白壁の修道院の大きな建物と程よく調和し、忘れ難い印象を残した。心地よい疲れを感じながら、私たちは帰りのバスの通る街道まで林の中の小道をたどっていった。けなげにも長距離を苦もなく歩き通したアレクサンドラと私はすっかり仲良しになっていた。
         聖母進堂祭教会遠景               エリセイ・エクセーエフ氏とアレクサンドラ
                                    背景はパフヌーチエフ・ポーロフスキー修道院
        

ロシア学位取得の記
 
 

                      中澤 敦夫(新潟大学人文学部助教授)


 この10月にペテルブルグの「ロシア文学研究所」(通称プーシキンスキイ・ドーム)で文献学カンディダ
タート(кандидат филологических наук)の学位を取ってきた。学位取得そのもの
は私事に属するが、日本ではロシアで学位を取るということがあまり知られていないこと、その過程で実感した
ロシアの学問伝統の重さについて語っておきたいこと、また、将来ロシアで学位取得を目指そうという若い研究
者にとって多少は参考になるかもしれないなどと思い、その経緯を次に述べてみたい。
 ロシアには学位が二段階あり、最初はカンディダート、次がドクトルとなっている。ドクトルは文字どおり
では「博士」学位だが、ロシア人であれ外国人であれこれをいきなり取ることはできず、これを請求するため
には、カンディダートになっていなければならない。カンディダートはロシア語では「候補」の意味で、つま
りは、ドクトルの候補者、あるいはドクトル請求有資格者ということになる。ただし、カンディダートの学位
は国際的には Ph.D.と同等であり、これは日本では「博士」と同等だから、ちょっとややこしい。そんな
わけで、ロシアの多くの研究者は海外では実力はあるにもかかわらず大っぴらに「博士(Doctor)」を名乗れず、
不満が出ているようだ。ロシア人も海外に出て仕事をすることが普通になりつつある現在、学位を一本化する
とか、ドクトル学位を取りやすくするなどの動きもあると聞いている。
 さて、そのようなカンディダート学位を取ったのは、ロシア文学研究の老舗である「ロシア文学研究所」の
中の「中世ロシア文学セクション」である。ここは、一年ほど前に亡くなったドミートリイ・リハチョフ氏が
40年近く部長を務めてきた研究部門で、研究スタッフを10人前後抱えている。それ以外に、常時3〜4人
のアスピラント(大学院生)がいる。アスピラントは、ロシア全国の大学から選抜された優秀な研究者の卵で、
彼らにテーマを与えて4〜5年かけて鍛錬し、カンディダート論文を書かせた後、全国の大学や研究機関・博
物館などに送り出している。研究所では、最近は外国からのアスピラントも増えてきたと聞いた。
 このように、本来はアスピラント課程を修了して初めて、カンディダート学位は取ることができるので、私
のケースはいささか例外になる。では、なぜそれが可能になったかというと、話は、私が国際交流基金の補助
金を得て1年間の研修をおこなった1996年〜1997年にまでさかのぼる。
 大学から研修の許可が下りたとき、私は友人でセクションの研究員をしているサーシャにEメールを送り、
この機会に、写本をつかったロシア中世文学作品のテキスト学研究をやりたいこと、1年という短期間で基本
的資料の収集が可能な小さな作品を対象にしたいこと、この要望にそって適当な作品を選んでほしいこと、同
時に研究の指導教官になってほしいことなどを依頼した。こうして、サーシャから提案があったのが「スウェ
ーデン王マグヌスの遺書」という活字にすると3頁足らずの、15世紀に成立した、スウェーデンの王様の名で
書かれた偽文書の研究だった。
 日本の慣行からすると、自分自身の内的な関心抜きで指導教官に選んでもらった文学作品を研究するなど、
なにかいかがわしく見えるかもしれない。だが、私の依頼は自分なりに明確な見通しを持ってのものだった。
それは、実地に写本を読み分析する「テキスト学」の研究はこの機会にしかできないこと、現存する作品の写
本をすべて検討することを要求するこの研究の方法からして、短期間で収集可能な作品を研究対象に選ばねば
ならないが、日本では確かな判断が難しいこと、さらに、この「テキスト学」研究をこの機会に徹底的にやっ
ておけば、自分の中世ロシア文献学の研究者としての幅が広がるに違いないという確信だった。
 これについては説明が要るだろう。上に触れたリハチョフ氏には『テキスト学』(текстология)
と題する著書があり、これは中世ロシアの文献作品のテキストの成立とその伝播、別の言葉で言えば、テキス
トの歴史を総合的に研究する方法を記した本である。ここには、写本の探索の仕方から始まり、写本テキスト
の比較の方法、ジャンル別の研究方法、テキスト校訂と公刊の原則など、実際の研究に必要な方法が実に詳細
記されている。加えて、この方法を用いて、主にリハチョフ氏の弟子たちが行った作品研究が単行本や論文と
してかなりの点数が公刊されている。私は『テキスト学』を読んで、これを忠実に実行していったら自分にも
できないことはないぞと思い、弟子たちのいくつかの研究を読んで、ああ、このように展開していけばいいん
だと納得して、それならと、自分で取り組んでみたくなったわけである。
 こうして、客員研究員(стажер)の資格で研究所の中世文学セクションにお世話になりながら、『テキ
スト学』の指針に従って、写本を尋ねてのペテルブルグ、モスクワ、ノヴゴロド、キエフ、イギリスなどの文
書館行脚が始まった。そこで文書館での実際の作業を経験し、そこのスタッフや同業の研究者たちと出会い、
写本について学んでいくうちに、なるほど、リハチョフ氏が、若い研究者にテキスト学の研究を課している意
味が実感として分かるようになってきた。つまり、文書館に足を運び、苦心して写本を探しだし、あちこちひ
っくり返してはその内容を記述し、写本の透かし模様を眺めながらテキストの年代決定を自分で行い、他のテ
キストとの異読を探して比較するなどという実に細かい作業をしていく中で、「文献学」の出発点であるモノ
としてのテキストに対する感覚が養われてくるのだ。そうすると、普段は刊本で活字のテキストを読んでいて
も、もとの状態はどうであったかが気になってくる。テキストやその背後にある中世ロシアの文化に対する想
像力の射程距離が格段に長くなるのである。
 こうして、テキスト学は一面で文献学の修業の場であることを身をもって知ることになった。その意味では
何を研究の対象にするかは二の次とも言え、初学者が自分の興味だけにしたがってやみくもに選ぶより、広い
見通しを持った指導教官が選んだほうが、研究の効率からみても、修業の効果からみてもよいというのも道理
だろう。ただ、与えられたテーマにせよ、自分の力で探っていくうちに、新たに興味をもつことは当然ある。
私の場合、中世のノヴゴロド文化の特異性、ノヴゴロド史の面白さに惹かれ、それが、これからの研究にもつ
ながっている。

 ところで、こうして手探りで写本を読んでいるときには、これで学位を取るなど考えてもいなかった。研究
をとりまとめてロシア語でモノグラフを書き、それを専門書としてロシアで出版したいというのがぼんやりと
した希望だった。そのような、専門家以外は関心をもたれないが堅実なテキスト学の作品研究はこれまでも幾
つも出ており、それなら自分でもできそうだと思ったわけである。
 学位の話が出たのは、日本に戻って1年ほどかけて作品のテキスト研究と作者、成立年代、ジャンルに関す
る考察をひとまずまとめ、これについて指導教官のアドバイスを受けるためにペテルブルグを訪問したときだ
った。私の原稿を読んだサーシャから、これならカンディダートを取れる、日本でこれでドクターを請求する
予定がないのなら、学位請求論文として仕上げてみたらどうかとの話があった。この提案は私にとってはたい
へん有り難かった。なによりも、日本で書き慣れぬロシア語でいつ終わるかもしれぬモノグラフを書いている
と、刺激がないために目標がぼやけるのを感じていた時期だけに、研究を完成させる大きな動機付けになると
考えたからだ。それから、リハチョフ氏がある論文の中で、カンディダート論文が研究者の一生の仕事の中に
占める特別な意義について書いているのを読んでいたこともあった。
 それから一年半ほどは、学位取得という一つの目標に向けて研究を方向付け、諸手続きをととのえる期間に
なった。注釈、文献リスト、写本リストなどを完備して学位論文の形式にモノグラフを仕上げることはもとよ
り、外国語(私の場合はロシア語)、哲学(かつてはマルクス主義哲学、ソ連共産党史だったもの)、専門
(私の場合はロシア文学)の三つの試験を受けて合格しなければならなかった。これは、サーシャの手助けで
設定してもらい、二度にわたってペテルブルグに足を運び、にわか勉強の詰め込みをやってなんとかクリアし
た。最大の難関が、所属機関(私の場合はロシア文学研究所)で行われる学位論文の予備審査(предза-
щита)で、ここで論文が本審査(защита)に推薦するに足る水準かどうかが審議される。ロシア文学研
究所の中世文学セクションは権威があるので審査も厳しく、推薦を保留される例も少なくないと聞いて緊張した。リハチョフ学派(残念ながら氏はちょうどこの六カ月前に亡くなっていた)のテキスト学の方法を使ったこと、
未研究の作品について初めて作者や成立年代を考証したことを力説したこともあって、結果は、幾つかの審査員
の指摘、コメントを考慮して論文を手直しするという条件で推薦された。すぐに本審査の日程が決められ、論文
概要(афтореферат)の作成に入った。
 6カ月後に行われた本審査はセレモニー的な色彩が強かった。規定によって正規の審査員(оппонент)
が二名決められ、そのうち一人は研究対象「スウェーデン王マグヌスの遺書」について研究論文もあるデンマ
ーク人の歴史家ジョン・リンド氏に頼んで、コペンハーゲンから来てもらった。審査員には事前に送っておい
た学位論文について論評(отзыв)を準備してもらい、それを壇上で読み上げ、私がそれに答える(これも
基本的には事前に準備する)の繰り返しで、最後に、研究所の理事による評決で学位授与が決まった。
 このような手続きは日本の学位授与に比べるとずいぶん大げさで形式的に見えるが、これは研究者にとって
の学位の持つ重みの違いによるだろう。ソビエト時代から研究者は学位の有無・種類によって職場、職種が分
けられ、給料の額まで異なるので、学位取得は個人的にも重要な事柄なのである。
 私の場合は、自分が目指した研究の方向性、指導教官の大きな努力(本来は私がするべき細かい手続きまで
代行してもらい、さらに、例外的ケースであることによる小さなトラブルの解決にもあたってくれた)、それ
にロシア文学研究所中世文学セクションのスタッフが外国人の私が彼らの学風に倣って仕事をすることを歓
迎してくれたことなどが幸いにも重なって、はじめて学位取得が可能になったと言えるだろう。
 その意味では私の事例はそのままでは参考にならないにしても、私は若いロシア研究者に、是非ロシアで学
位を目指すことをお勧めしたい。ロシアでの長期滞在を覚悟し、慣れないロシア語で書くもどかしさに耐え、
諸事に先が見えない中で研究を続けていかなければならないが、その努力によって、資格としての学位の他に、
研究者としての確かな自信と展望が得られるに違いない。そのためには、専攻に合った研究・教育機関、誠意
をもって指導してくれる指導教官を探さねばならないが、その探求がすでに学位への道の第一歩なのである。

 最後に、審査後の学位取得のお祝いの宴(これも本審査の際に欠かせない儀式!)のときに、研究所付属の
古文書館(Древлехранилище)館長のブダラーギン氏が献呈してくれた詩の一節をご紹介したい。
 

Ты древнерусскую словесность
Постиг в японском "далеке" ...
За твой успех, за твою известность
Как не попробовать "сакэ"!


 最後の "сакэ" はこの時、日本から持参してきた3升ほどの日本酒のことである。


                 審査後のバンケットでの挨拶(右側奥から三人目が筆者)


С.А.Михайлова:
Мои неожиданные встречи


Беседа с Александром Артемьевичем АДАБАШЬЯНОМ (16-08-2000)
Это не было специальное задуманное интервью. Саша говорил об огромной разнице между городом и провинцией. Стоит отъехать от Москвы км на 300 и ничего нет, натуральное хозяйство. Поэтому и строят деревни как в Питере ? корейская...
Мне хотелось бы просто сидеть и слушать его, но как-то само собой один вопрос возникал за другим.
----- Саша , над чем ты сейчас работаешь?-----
―Три Проекта во Франции и все на разных стадиях. Первый ? это оригинальный сценарий, будет сниматься весной, называется ?Час, которого не было?. Второй ? экранизация Диккенса ?Домби и сын?, а третий ? экранизация Макина ?Ортэ ? дети Амура? про жителей реки Амур. Есть еще в работе один цеарий ? Андрея Доброва ?Проезд Серова?. В стадии подготовки есть проект ОРТ, художественным руководителем я являюсь ?Книга о церкви?. Это будет рассуждение о сущности православия: как войти в церковь, как перекреститься. О ритуалах ? венчании, похоронах, вобщем о порядке ритуалов как основе христианства. Это будет иллюстрироваться русской классикой, произведениями живописи. Есть идея сделать такой сериал о мусульманстве (почему надо мыть нои и т.д.), а также о католической конфессии. Интересно было бы и о буддизме. 
-----Много работы, прямо как японец работаешь. Как все успеваешь?-----
Нет, я делаю перерывы. Отвлекаюсь на приятное. Например, оформил интерьер ресторана.Это небольшой дом напротив Хаммеровского Центра по ул1905 г.Ресторан называется ?Обломов?, он втиснулся между двумя другими ресторанами ?Шинок? и ?Мао?. Меня попросил сделать это Антон Табаков. Там хорошая кухня. Ее особеннось в том, что каждый день готовят только два блюда: суп и второе. Но к этому имеется море закусок и выпивки.
 -----Что такое для тебя творчество ?-----
Обычная поденная работа. Счастье, когда получается. Сначала ? пустота, мыслей нет. Чтобы написать ? надо писать. На пять дней поеду в Прибалтику, ничего не буду делать, как растение или овощ. Переключение деятельности ? вещь необходимая. Скоро будет Совещание по кино на?Три Т?.
-----А что это означает ?? Три Т??-------
Это название объединения ? товарищество, творчество, труд. Невозможно ждать вдохновения. Но это категория, о которой могут рассуждать.
----Саша, ты часто работаешь с иностранцами,часто и подолгу живешь в Европе. Тебе это травится,не трудно? Как ты преодолеваешь языковый барьер?-----
Я бы сказал, что иностранцам нравится работать с русскими. Например, одному итальянцу с севера нравятся русские раскованные мозги. 
----А как в Европе относятся к Востоку?------
В Европе ? мода на Китай, Восток. 
----А как в отношениик Японии?-----
КЯпонии, особенно во Франции ? отношение натороженное.
----Почему?-----
Изза богатства, экспансии. Японцы все скупают: магазины, фирмы. Только в центре Парижа 78 японских ресторанов. А потом культура их непонятна. Трудно получить гражданство, даже если родился в Японии...
----А что ты можешь сказать о России?----
Умиление в Европе перед Россией прошло, так как Россия не кинулась к ним.

-----Саша, ты любишь Чехова?----

О, да ! Он очень разный ? Чехов. Почему Чехов называет свои пьесы фарсом-комедией, а ставятся они как драмы? Чехов ? для всех разный, у него нет 100% положительных или отрицательных.

Три сестры ? милейшие, но беспомощные существа. Чехов ? самый играемый драматург. ?Три сестры?, ?Вишневый сад? - современные пьесы о современной интеллигенции. Он обожает прошлое,боиться будущего и ненавидит настоящее.

-----Саша, какого ты мнения о Путине?----

Мне он непонятен. Тут много вопросов ? Чечня, Косово.

-----А что есть для тебя кино?-----

Киносредство самовыражения. Техника роли не играет. Живопись Возрождения конкурентоспособна и сейчас.

----Какие события в мире тебя волнуют как художника?---

То,что происходит в мире ? по- итальянски это ?виоленце?,можно назвать эпидемией насилия.Об этом же говорил в ?Войне и мире? Толстой. Я служил в Армии ? в ракетных войсках стратегического назначения, знаю, что это такое.

Во время нашего разговора постоянно раздавались телефонные звонки, Саша что-то уточнял, с кем-то договаривался встретиться, кому-то отказывал.

----Саша, а ты не думаешь, что настоящий пик насилия ? и в жизни и в кино, должна сменить доброта, любовь?-----

Не думаю. Искусство не воспитывает, это продукт, который жаждет общество. А бороться с этим ? дело личной гигиены. Я держусь как можно дальше, никуда не вхожу, власти не жажду.

----Есть ли у тебя идеи, мечты, которые тебе хотелось бы когда-нибудь осуществить?------

Нет, глобально ? нет. Я нахожусь в культурной ауре Толстого, Чехова. Я ? христианин, но считаю разницу между церковью и религией колоссальной.. В церкви появилось много светского.

Мы еще долго могли бы беседовать. И нам не прескучило бы. Многое еще хотелось бы спросить у Саши Адабашьяна, с которым мы подолгу не видимся, но когда встречаемся, то почему-то совсем не чувствуем никакого временного перерыва и дистанции, не начинаем вспоминать, что было, а говорим вот так ? както приятно, раскованно. Думаю, что встреться мы опять лет этак через десять, мы точно также сразу друг друга узнаем, без глупых сомнений. На удачу при мне оказался фотоаппарат!Я вышла на Новый Арбат и тут же проявила фотографию, вот она:

 

 
私の思いがけない出会い

―― 映画監督アレクサンドル・アダバシヤンとの対談 ――

        スヴェタラーナ・ミハイロワ

                          (愛知県立大学外国語学部講師)

あらかじめ言っておきますが、このインタビューは特別に考案されたものではありませんでした。サーシャ(アレクサンドル、以後、А)はまず、都市と田舎の間にある大きな差異について話してくれました。モスクワから300キロ郊外に行けば、そこには何もなく、自然の営みしか残されていない。だからモスクワ郊外にも、例の「朝鮮の村」が作られたペテルブルクと同じような、無秩序な土地開発がなされているといいます。

  私はただ座って話を聞いていればよかったのですが、質問が次から次へと浮かんできてしまいました。
(補足説明:サーシャは、有名なロシアのマルチ・タレントともいうべき芸術家で画家・シナリオライター・映画監督・舞台監督・俳優として活躍しています。特にミハルコフ監督と一緒に長い間、映画の共同制作をしてきました。チェーホフの作品に基づいた『機械仕掛けのピアノ』は、日本でも有名です。内緒の話ですが、「なぜ最近はミハルコフと一緒に仕事をしないのですか」という私の問いに答えて、サーシャはこう言いました。「最近の彼は事務所になってしまったからです。スヴェトラーナ」
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―――――サーシャ、あなたは現在どのような仕事に取り組んでいますか。

А フランスでの3つの企画です。それぞれ異なった段階にあるのですが、1つ目は来春撮影する予定の『無かった時間』というオリジナル脚本。2つ目がディケンスの『ドンビー父子』の映画化。3つ目はマキン原作『オルテ―アムールの子供たち』で、これはアムール川に暮らす住民について書かれたものです。それとアンドレイ・ドブロフ作『セローフ通り』のシナリオもあります。

ОРТのまだ準備段階の企画ですが、『教会の本』という作品では私が芸術指導をします。この作品はロシア正教の本質に踏み込むものになりそうです。どのように教会に入り、どのように十字を切ればよいのか。結婚や葬儀の中で共通な、キリスト教の原理ともいえる儀式上の規範について取り扱おうと考えています。それには、ロシアの古典文学や絵画を挙げて説明することになるでしょう。またイスラム信仰についてこのようなシリーズを作る考えもありますし、カトリックの告解にも興味がある。仏教を取り上げると面白いかもしれません。

―――――仕事が多くて、まるで日本人のように働いている。全てをこなす時間はあるのでしょうか。

А いいえ、息抜きはちゃんとします。自分が楽しいと思うことへの寄り道です。以前、レストランのインテリアを手がけたことがあります。1905年通り沿いのハメロフスキー・ツェントル(ハマー・センター)の向かいにある、それほど大きくない建物です。「オブロモフ」という名のレストランで、2つのレストラン「シノック」「マオ」の間に位置しています。アントン・タバコフ氏に依頼され、この仕事を引き受けました。ここの料理は美味しいんですよ。「オブロモフ」の特徴は、スープとメインディッシュの2皿しか出さないことにあります。もっとも、これには前菜と飲み物が山ほど付きますが。

―――――あなたにとって、創作とは何ですか。

А ありふれた日常の仕事です。上手く行ったときは幸せな気分になります。最初は空っぽで、特に考えといったものはない。だから作品を完成させようと思えば、まずは書いてみることです。ときには5日間ほどバルト海沿岸に出かけて、草木や野菜のように何もしないこともあります。創作活動には気分転換が不可欠なのです。近いうちに、スリーТプロダクションズで映画の打ち合わせがあります。

―――――「スリーТ」とはどういう意味なのでしょうか。

А これは、仲間<товарищество>・創造<творчество>・作品<труд>という3要素の結合を表しています。インスピレーションばかりに頼るのは不可能ですが、この概念は考えて然るべきです。

―――――外国人と一緒に仕事をし、ヨーロッパで長く生活することは大変ではありませんか。「ことばの壁」をどのように克服してきたのでしょうか。

А 言っておきますが、外国人はロシア人と仕事をするのを好んでいます。北部出身のあるイタリア人にはロシア人の「大らかな」思考が気に入っているようです。

―――――ヨーロッパでの極東に対する考えにはどのようなものがありますか。

А ヨーロッパでは中国、極東アジアがブームです。

―――――日本に対してはどうですか。

А 日本へは、特にフランスで一種の警戒論というべきものがあります。

―――――それはなぜでしょう。

А 豊かさ、経済的支配の拡大からです。日本人は店・会社といった全てを買収してしまう。パリ中心街だけでも7、8件の日本人経営レストランがあります。ところが、日本文化はヨーロッパ人には分かりにくい。日本で外国人の子供が生まれても市民権が得られないという話を聞いたことがあります。

―――――ロシアについて言及していただけますか。

А ヨーロッパで、ロシア文化に対する憧れは過ぎ去ってしまいました。ロシアがヨーロッパに付いてこなかったからでしょう。

―――――ところでサーシャ、チェーホフは好きですか。

А もちろん。多様な側面を持ち合わせた人物、それがチェーホフです。彼は自分の戯曲をコメディーと称したけれども、それらは質の高いドラマに仕立て上げられたでしょう。彼の受けとめ方は人それぞれで、100%の肯定も否定もありません。三人姉妹は愛くるしいけれども、無力な存在でした。チェーホフは最も人気のある劇作家といえます。『三人姉妹』や『桜の園』は現代インテリゲンツィヤについての、現代戯曲なのです。彼は過去を熱愛し、未来を恐れ、現在を嫌っていた。

―――――プーチン大統領のことをどう思いますか。

А 私には判断しかねます。そこにはチェチェンやコソボといった難題が山積みとなっているのです。

―――――あなたにとっての映画とは、一体何でしょうか。

А 映画は自己表現をするための手段です。技術は問題ではありません。今日でも絵画芸術の復興には目まぐるしいものがあります。

―――――芸術家として、世界で起こっている心配な出来事はありますか。

А 今世界にある風潮は、イタリア語でいう<violenze>、すなわち暴力の蔓延というべきものです。『戦争と平和』の中でトルストイもこれについて触れています。私も兵役で戦略ミサイル軍にいたことがあるので、それがどういうものなのか理解はできます。

(このインタビュー中にもひっきりなしに電話が鳴っていて、サーシャは内容を確かめては誰かと会うことを約束したり、断ったりしていました。)

―――――実生活でも映画の中でも、現在の暴力全盛には愛や善が取って代わるべきだとは思わないのですか。

А 思いません。芸術は教育的な意味を持つものではなく、社会が渇望しているものに過ぎないのです。一方で、それと葛藤するかどうかは個人的な問題です。これからも私は「どこへも入らず、いかなる権威も欲しない」というスタンスを維持していくつもりです。

―――――いつか実現させたいと思う夢はありますか。

А グローバルな夢はありません。自分はトルストイやチェーホフの文化的影響下にいます。私はクリスチャンですが、教会とそれ以外の莫大な数の宗教との相違は認める立場です。世俗的なものの多くは、教会の中に見えてくるのですよ。

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私たちにはまだ談話を続けることができたでしょう。退屈することなどあり得なかったのです。サーシャにもっと質問をしたいのですが、いつか彼と再会したとしても、恐らく長い時間の空白を感じることもなく、楽しく大らかに会話をすることができるに違いありません。それが10年後であっても、疑念を持たずにすぐ解り合えるのだと思います。インタビュー当日、幸いにも私の手元にカメラがありました。さっそく新アルバート通りへ行き、フィルムを現像に出しました。下の写真がそれです。

(翻訳文責:平岩貴比古)


 
Матрешка

Клочков Ю.Б.

В России уже давно сложились традиции производства изделий русского народного творчества: художественная резьба, роспись по дереву, производство изделий из глины, стекла, фарфора, металла. В наши дни эти традиции продолжают развивать мастера и художники народных промыслов.

Среди изделий русского народного творчества замечательное место занимает деревянная игрушка Матр?шка. Что такое Матр?шка? Это полая внутри деревянная ярко разрисованная кукла в виде полуовальной формы, в которую вставляются другие такие же куклы только меньшего размера.

Знаете ли Вы, откуда появилась эта самобытная русская кукла? И кто ее автор? Много легенд ходит о происхождении матр?шки, но вот, по утверждению сотрудников института игрушки, эта деревянная фигурка появилась в 1890-м году в экспериментальной мастерской по изготовлению игрушек для детей в усадьбе Абрамцево в Подмосковье. Праобразом для матр?шки стала японская игрушка ”Cемь счастливых богов”. Самый большой Дзюро, следом Ходжей, Дайкоку, Эбису, Бисямон, Фукуракудзу, Дэнтэн. 

Владелица абрамцевской усадьбы Маман привезла эту типичную японскую игрушку в мастерскую с японского острова Хонсю. И мастер по изготовлению детских игрушек Зв?здочкин вручную выточил одну фигурку. А художник Малютин расписал белую болванку в истинно крестьянском духе. И появилась в России новая игрушка. Назвали ее Матр?ной, а ласкательно Матр?шкой.

Деревянная игрушка оказалась настолько выразительной и так образно воплотила черты русского национального характера, что стала традиционным русским сувениром. Матр?шки стали производиться в разных местах, их продавали как в России, так и за границей. В отчетах московского губернского ведомства 90-х годов прошлого века о большом спросе на игрушку за рубежом говорилось: ”На весенней лейпцигской ярмарке в тысячи экземплярах шли деревянные складные куклы матр?шки, расписанные в русском стиле. И далее, заказы на эти игрушкиматр?шкивыполнены в 14-ти государствах”.

Велико дело традиции, она жива. Не исчезают во времени истоки и навыки народных умельцев. Умения и мастерство передаются от старших к младшим. В Японии на острове Хонсю до сих пор сохранились древние народные промыслы. Как 300 лет назад предки Акио Тадзавы из местечка Хаконэ точили деревянные игрушки, так и сегодня глава семьи продолжает семейную традицию и вытачивает игрушку ”Семь счастливых богов”. А родные помогают ему и расписывают игрушки.

В России уже минуло 110 лет, как делают матр?шки. В современных промыслах изготовлением матр?шек занимаются мастера Московской, Кировской, Нижегородской областей. Мастера обладают виртуозным умением вытачивать из дерева куклы, которые могут помещаться до 40 50 штук одна в другой.

Матр?шки существенно различаются по рисунку и краскам. Так, матр?шкам, производимым в Нижегородской области в местечке Семеново, свойственна праздничность наряда, создаваемого ярким и пышным узором цветочного букета. Еще более наряднее по цвету матр?шки, которые делают в районе Полхов Майдан в этой же области. А матр?шкам, производимым в городе Сегиев Посад в Московской области присуща скромность и строгость ”одежды”. 

Матр?шка является хорошим подарком. В России матр?шки используются в качестве украшений в доме, они могут быть также хорошей игрушкой для детей.

5-2につづく

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